アッピアノス『ローマ史』「ハンニバル戦争」

1巻
1 この巻で示すことは、ハンニバルがローマ人になし、彼らに被害を与えたこと、彼が彼らと戦争を続けた一六年間、ヒスパニアからイタリアへの彼の最初の進軍から彼が自身の都市が危機に陥ったカルタゴ人によって呼び戻され、次いでローマ人に撃退された顛末である。ハンニバルの侵攻の真の理由が何であるかは、公式の口実と同様、私のヒスパニア史で非常に明らかに示しておいたので、復習としてここでこれから述べることにしよう。
2 バルカとあだ名され、このハンニバルの父であったハミルカルはカルタゴ人がローマ人とシケリア島の所有を巡って戦っていた時のこの島のカルタゴ軍の司令官であった。敵対者たちによって統率のまずさの廉で告発され、有罪判決を恐れた彼は裁判の結論が出るより前に自分がヌミディア人と対決するための将軍に選ばれるよう手はずを整えた。この戦争で有用さとを証明して略奪と気前の良い褒美で軍の行為を確保すると、彼は海峡を越えてヒスパニアへと渡ってカルタゴの権限なしでガデスへと遠征した。そこから彼は大衆の支持を得て、ひいては可能であれば、シケリアでの彼の指揮の追及をかわしたためにカルタゴへと大量の戦利品を送った。そこから彼は大衆の支持を得て、可能であればシケリアでの彼の指揮の追及をかわすためにカルタゴへと大量の戦利品を送った。広大な領地と莫大な栄光を得ると彼はカルタゴ人にヒスパニア全土を領するという欲望を吹き込み、それは簡単な仕事だと彼らに説き伏せた。かくしてサグントゥム人とヒスパニアに住んでいた他のギリシア人はローマ人に助けを求め、その地の所有におけるカルタゴ領との境界が定められ、即ち彼らはイベロス川を渡ってはならないこととなり、この発効のための協定がローマ人とカルタゴ人との間で結ばれた〔紀元前229年〕。この後、ハミルカルはカルタゴ領ヒスパニアの問題を解決しようとしていた時に戦死し、彼の義理の息子ハスドルバルが将軍として彼の後を継いだ。後者は狩りの最中に彼に主を殺された奴隷によって殺された。
3 彼らの後にこのハンニバルが軍によってヒスパニアの三代目司令官に選ばれ、それは彼が戦争への天性の才覚と愛好を持っていると見られていたためであった〔紀元前220年〕。彼はハミルカルの息子でハスドルバルの妻の兄弟であり、早くから父と義兄と一緒に〔軍隊で〕過ごしていた非常に年若い男であった。カルタゴ人たちは彼の将軍選出を承認した。私がその歴史を書こうとしているところのハンニバルはこのようにしてヒスパニア人に対するカルタゴ軍の司令官になった。ハミルカルとハスドルバルのカルタゴ内の敵たちはその若さの故にハンニバルを侮ってこれらの人たちの友人たちを引き続き迫害した。後者はこの迫害は元々自分に向けられていたものであり、彼は自国の恐怖〔、つまりハンニバルへの、あるいは彼を必要とせざるを得ないような状況〕が自らの安全を確保することになると信じ、大戦争への着手を考え始めた。実際そうなったが、ローマ人とカルタゴ人の間の戦争はひとたび始まれば長期化するだろうし、破れ去ったとしてもその試みは彼その人に偉大な栄光をもたらすだろうと信じたため――また彼は少年の頃に、自分はローマの終生の敵となることを父に祭壇で誓わされたとも言われている――彼は協定を破棄してイベルス川を渡ることを決意した。その口実として彼はある人にサグントゥム人への告発を行わせた〔紀元前219年〕。カルタゴに向けてこれらの告発を続け、密かにヒスパニア人に反乱を起こすよう焚き付けたとしてローマ人を難じることで彼はカルタゴから彼が適当と考える措置を講じる許可を得た。かくして彼はイベルス川を渡って住民ともどもサグントゥム市を壊滅させた。かくしてシケリアでの戦争の後にローマ人とカルタゴ人との間で交わされた協定は破棄されることとなった。
4 ハンニバルその人と彼につき従うその他のカルタゴ人およびローマ人の将軍たちがヒスパニアでしたことを私はヒスパニア史の中で述べておいた。ケルティベリア人、アフリカ人及びその他の人種から大軍を集めてヒスパニアでの指揮権を弟ハスドルバルに委ねると、ハンニバルは九〇〇〇〇人の歩兵と一二〇〇〇騎の騎兵、そして三七頭の象を連れて今日ではガリア人と呼ばれているケルト人の国へとピュレネ山脈を抜けて侵入した。彼はある者は金で、またある者は説得で宥め、他の者は武力で打破しつつガリア人の地方を踏破した。アルプスに来ると、そこは群を抜いて険しかったためにそこを抜けたり越えたりする道がないことを見て取た時、それにもかかわらず彼は敢然と前進して夥しい被害を出した。雪と氷が全面に立ち塞がっていたため、彼は木々を切り倒して焼き、水と酢で灰を冷やすことで岩を脆くして彼は鉄の鎚で砕き、未だにその山脈を抜けるのに使われているハンニバルの峠と呼ばれる道を開いた。糧食がなくなり始めた時にも彼は猛進し、彼がイタリアに現れるまでローマ人は気付かなかった。ヒスパニアを発ってからほぼ六ヶ月、多大な犠牲を出した後に彼は山脈から平地へと降り立った。

2巻
5 小休止の後に彼はガリア人の都市タウラシアを攻め落とし、残りのガリア人に恐怖を巻き起こすために捕虜を殺した。次いで今日ではパドゥス川と呼ばれており、そこではローマ軍がボイイ族と呼ばれるガリア人の部族と戦争中だったエリダノス川へと進むと、彼は野営地を設営した。ローマの執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオはその当時ヒスパニアのカルタゴ人たちを侮っていた。ハンニバルのイタリア侵攻を知ると、彼は兄弟のグナエウス・コルネリウス・スキピオにヒスパニア情勢を委ねてエトルリアへと航行した。集められる限りの同盟軍を連れてそこへと向かうと、彼はハンニバルよりも先にパドゥス川に着いた。一人の執政官がその場にいる時には指揮権を持てなかったマンリウスとアティリウス〔法務官のルキウス・マンリウス・ウルソとガイウス・アティリウス・セラヌス(N)〕をボイイ族との戦争を指揮させるべくローマへと帰した彼は、彼らの兵力を引き継いでハンニバルとの戦いに臨んだ。小競り合いと騎兵戦の後、ローマ軍はアフリカ軍に包囲されて野営地へと逃げ帰った。次の夜に彼らはパドゥス川を渡って架かっていた橋を落とし、強固に要塞化された場所だったプラケンティアへと逃げ込んだ。にもかかわらずハンニバルは新たな橋を作って川を渡った。
6 一つまた一つと、アルペスの彼の行く道に続いたそれらの偉業はキサルピナのガリア人の間で無敵の司令官、運命に最も愛された男としてのハンニバルの名声を高めた。簡単に騙されるこの夷狄たちの賞賛を増すために彼はその時々で用心深く準備された計略を使い、頻繁に衣服と髪型を変えた。ガリア人は人々の真っ直中を進む老人、それから若者、そして再び中年男の彼を見ると、仰天して彼が神の資質を分け持っているのではないかと考えた。その時シケリアにいた他方の執政官センプロニウスは事の次第を知ると軍を乗船させ、スキピオの救援に来て彼から四〇スタディオンの距離のところに野営した。翌日に彼らは戦いのためのあらゆる準備を行った。トレビア川が対決する軍を分かち、これをローマ軍は冬の冷たい霧雨が降る夜明けに胸元までつかりながら渡った。ハンニバルは軍に第二刻まで休むのを許し、それから出撃した。
7 双方での戦いの命令は以下のようなものであった。ローマ騎兵は歩兵を守るために両翼に配置された。……〔欠損〕……ハンニバルはローマ騎兵の正面に象部隊を、軍団兵に対する形で歩兵部隊を並べ、騎兵には彼が信号を出すまで象の背後で大人しくしているよう命じた。戦いが行われると、ローマ軍の馬は象の見かけと臭いに怯えて算を乱して逃げ出した。歩兵部隊は大きな被害を受け、寒さと濡れた服、睡眠不足で衰弱してはいたものの、果敢にこれらの獣と戦って怪我を負わせ、膝腱を切って敵の歩兵部隊を後退させつつあった。ハンニバルはこれを見て取ると、ローマ軍の翼を攻撃するよう騎兵に信号を出した。ローマ軍騎兵は丁度象への恐怖で散り散りになっていたため、歩兵部隊は無防備状態で残されて苦境に陥った。包囲されるのではないかと恐れたために彼らは自軍の野営地へと算を乱して逃げ出した。多くの歩兵が敵騎兵によって切り殺され、川が雪解け水で増水していてたために歩いて渡れず、その深さと鎧の重さのために泳げなかったために急流で死んだ。彼らの再集結を試みたスキピオは負傷して瀕死の状態になり、四苦八苦して救出されてクレモナに運ばれた。ハンニバルが包囲したプラケンティアの近くには小さな兵器庫があり、そこで彼は四〇〇人の兵を捕らえて自らも負傷した。そこでカルタゴ軍全員が越冬地に向かい、クレモナとプラケンティアのスキピオは、ハンニバルはパドゥス川へと向かった。
8 その都市のローマ人はパドゥス川での三度目――というのも実際に彼らはハンニバル到来以前にボイイ族に破れていた――の敗北を知ると新たな市民軍を徴募し、すでにパドゥス川にいた軍と併せて一三個軍団を数えるまでになり、彼らは同盟者たちから二倍の兵力を呼び寄せた。この時の軍団は五〇〇〇人の歩兵と三〇〇騎の騎兵から構成されていた。その一部を彼らはヒスパニア、そこでも戦争状態だったサルディニア、シキリアへと送った。軍の過半数はスキピオとセンプロニウスの後を襲って執政官となったグナエウス・セルウィリウスとガイウス・フラミニウスの指揮下でハンニバルに向けて送られた。セルウィリウスはパドゥス川へと急行し、そこでスキピオから指揮権を受け取った。後者は前執政官に選出されるとヒスパニアへと航行した。フラミニウスは三〇〇〇〇人の歩兵と三〇〇〇騎の騎兵でアペンヌス山脈以内の、これだけが本来的にイタリアと呼ばれていたところのイタリアを守った。アペンヌス山脈はアルペス山脈の中央から海まで広がっている。アペンヌス山脈の右側の地方がイタリア本土である。アドリア海へと延びる他方の側も、エトルリアが今日イタリアと呼ばれているのと同じように今日イタリアと呼ばれているが、アドリア海沿いに住んでいるのはギリシア由来の人たちで、残りの住人はガリア人で占められており、彼らはローマを攻撃して焼き討ちした前時代の人たちと同じ人たちである。カミルスが彼らを撃退してアペンヌス山脈へと追撃すると、私の私見では、彼らはその山脈を踏破して以前の所に留まる代わりにアドリア海の近くに住み着いた。こういうわけでこの地方は未だにガリアのイタリアと呼ばれているわけである。
9 したがってローマ人はこの時には多くの戦線に大軍を分割することになった。この事実を知るとハンニバルは初春に密かに動き出し、エトルリアを破壊してローマへと前進した。手元に戦えるほどの戦力がなかったために市民たちは彼が近づくと大いに警戒した。にもかかわらず、貴族の一人〔ガイウス・〕ケンテニウスが一市民であったにもかかわらず目下正規の将官がいなかったために残されていた八〇〇〇人の司令官に任命され、ローマへ続く最短進路の狭い道を占拠するべくプレイスティナ沼地へ向けてウンブリアへと送られた。その一方で三〇〇〇〇人の兵と共にイタリア内陸部を守っていたフラミニウスはハンニバルの動きの速さを知ると、休む暇を与えることなく大急ぎで彼のところへと急行した。民衆のそよ風で権力の座へと吹き上げられていたおかげで市の無事を案じており、そして戦争に未経験だったために彼はハンニバルと戦うべく急いだ。
10 彼の軽率さと未経験をよく知っていた後者は進み、〔トラシメヌス〕湖前の山裾に陣取って軽装兵と騎兵を渓谷に隠した。フラミニウスは早朝に敵の野営地を見つけると、辛い進軍から軍を休ませて野営地に防備を施すのに少しの時間を使い、夜警と骨の折れる仕事で彼らはまだ疲労していたものの、その後直ちに戦いへと向かった。山と湖と敵の間に差し掛かると、待ち伏せ部隊が突然あちこちから現れたために彼は命を落とし、二〇〇〇〇人が彼共々殺された。残りの一〇〇〇〇人は天然の要害となっていた村に逃げ込んだ。ハンニバルの副官で戦争で非常に大きな名声を得ていたマハルバルは、彼らを簡単に捕らえることができないし、捨て鉢の兵と戦うのは賢明ではないと考えると、どこへなり好きなところに行ってもよいと合意して武器を置くよう説き伏せた。彼らがこの合意と応じると、彼は彼らを武装を解かせてハンニバルのところへと連れていった。後者はマハルバルには自らの同意抜きでこのような協定を結ぶ権限があることを否定したものの、ローマ人の同盟者は彼らの町の支持を得るために親切に扱って身代金抜きで帰国させた。彼はローマ人全員を捕虜のまま留め置いた。彼は彼のもとで働いていたガリア人に儲けの希望によって自分を慕わせるために戦利品を与え、それから前進した。この知らせが届くと、パドゥス川あたりにいた執政官セルウィリウスはエトルリアへと四〇〇〇〇人の兵を連れて進軍した。ケンテニウスは八〇〇〇人でもって前述の隘路をすでに占拠していた。




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