アッピアノス『ローマ史』「ハンニバル戦争」

1巻
1 この巻で示すことは、ハンニバルがローマ人になし、彼らに被害を与えたこと、彼が彼らと戦争を続けた一六年間、ヒスパニアからイタリアへの彼の最初の進軍から彼が自身の都市が危機に陥ったカルタゴ人によって呼び戻され、次いでローマ人に撃退された顛末である。ハンニバルの侵攻の真の理由が何であるかは、公式の口実と同様、私のヒスパニア史で非常に明らかに示しておいたので、復習としてここでこれから述べることにしよう。
2 バルカとあだ名され、このハンニバルの父であったハミルカルはカルタゴ人がローマ人とシケリア島の所有を巡って戦っていた時のこの島のカルタゴ軍の司令官であった。敵対者たちによって統率のまずさの廉で告発され、有罪判決を恐れた彼は裁判の結論が出るより前に自分がヌミディア人と対決するための将軍に選ばれるよう手はずを整えた。この戦争で有用さとを証明して略奪と気前の良い褒美で軍の行為を確保すると、彼は海峡を越えてヒスパニアへと渡ってカルタゴの権限なしでガデスへと遠征した。そこから彼は大衆の支持を得て、ひいては可能であれば、シケリアでの彼の指揮の追及をかわしたためにカルタゴへと大量の戦利品を送った。そこから彼は大衆の支持を得て、可能であればシケリアでの彼の指揮の追及をかわすためにカルタゴへと大量の戦利品を送った。広大な領地と莫大な栄光を得ると彼はカルタゴ人にヒスパニア全土を領するという欲望を吹き込み、それは簡単な仕事だと彼らに説き伏せた。かくしてサグントゥム人とヒスパニアに住んでいた他のギリシア人はローマ人に助けを求め、その地の所有におけるカルタゴ領との境界が定められ、即ち彼らはイベロス川を渡ってはならないこととなり、この発効のための協定がローマ人とカルタゴ人との間で結ばれた〔紀元前229年〕。この後、ハミルカルはカルタゴ領ヒスパニアの問題を解決しようとしていた時に戦死し、彼の義理の息子ハスドルバルが将軍として彼の後を継いだ。後者は狩りの最中に彼に主を殺された奴隷によって殺された。
3 彼らの後にこのハンニバルが軍によってヒスパニアの三代目司令官に選ばれ、それは彼が戦争への天性の才覚と愛好を持っていると見られていたためであった〔紀元前220年〕。彼はハミルカルの息子でハスドルバルの妻の兄弟であり、早くから父と義兄と一緒に〔軍隊で〕過ごしていた非常に年若い男であった。カルタゴ人たちは彼の将軍選出を承認した。私がその歴史を書こうとしているところのハンニバルはこのようにしてヒスパニア人に対するカルタゴ軍の司令官になった。ハミルカルとハスドルバルのカルタゴ内の敵たちはその若さの故にハンニバルを侮ってこれらの人たちの友人たちを引き続き迫害した。後者はこの迫害は元々自分に向けられていたものであり、彼は自国の恐怖〔、つまりハンニバルへの、あるいは彼を必要とせざるを得ないような状況〕が自らの安全を確保することになると信じ、大戦争への着手を考え始めた。実際そうなったが、ローマ人とカルタゴ人の間の戦争はひとたび始まれば長期化するだろうし、破れ去ったとしてもその試みは彼その人に偉大な栄光をもたらすだろうと信じたため――また彼は少年の頃に、自分はローマの終生の敵となることを父に祭壇で誓わされたとも言われている――彼は協定を破棄してイベルス川を渡ることを決意した。その口実として彼はある人にサグントゥム人への告発を行わせた〔紀元前219年〕。カルタゴに向けてこれらの告発を続け、密かにヒスパニア人に反乱を起こすよう焚き付けたとしてローマ人を難じることで彼はカルタゴから彼が適当と考える措置を講じる許可を得た。かくして彼はイベルス川を渡って住民ともどもサグントゥム市を壊滅させた。かくしてシケリアでの戦争の後にローマ人とカルタゴ人との間で交わされた協定は破棄されることとなった。
4 ハンニバルその人と彼につき従うその他のカルタゴ人およびローマ人の将軍たちがヒスパニアでしたことを私はヒスパニア史の中で述べておいた。ケルティベリア人、アフリカ人及びその他の人種から大軍を集めてヒスパニアでの指揮権を弟ハスドルバルに委ねると、ハンニバルは九〇〇〇〇人の歩兵と一二〇〇〇騎の騎兵、そして三七頭の象を連れて今日ではガリア人と呼ばれているケルト人の国へとピュレネ山脈を抜けて侵入した。彼はある者は金で、またある者は説得で宥め、他の者は武力で打破しつつガリア人の地方を踏破した。アルプスに来ると、そこは群を抜いて険しかったためにそこを抜けたり越えたりする道がないことを見て取た時、それにもかかわらず彼は敢然と前進して夥しい被害を出した。雪と氷が全面に立ち塞がっていたため、彼は木々を切り倒して焼き、水と酢で灰を冷やすことで岩を脆くして彼は鉄の鎚で砕き、未だにその山脈を抜けるのに使われているハンニバルの峠と呼ばれる道を開いた。糧食がなくなり始めた時にも彼は猛進し、彼がイタリアに現れるまでローマ人は気付かなかった。ヒスパニアを発ってからほぼ六ヶ月、多大な犠牲を出した後に彼は山脈から平地へと降り立った。

2巻
5 小休止の後に彼はガリア人の都市タウラシアを攻め落とし、残りのガリア人に恐怖を巻き起こすために捕虜を殺した。次いで今日ではパドゥス川と呼ばれており、そこではローマ軍がボイイ族と呼ばれるガリア人の部族と戦争中だったエリダノス川へと進むと、彼は野営地を設営した。ローマの執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオはその当時ヒスパニアのカルタゴ人たちを侮っていた。ハンニバルのイタリア侵攻を知ると、彼は兄弟のグナエウス・コルネリウス・スキピオにヒスパニア情勢を委ねてエトルリアへと航行した。集められる限りの同盟軍を連れてそこへと向かうと、彼はハンニバルよりも先にパドゥス川に着いた。一人の執政官がその場にいる時には指揮権を持てなかったマンリウスとアティリウス〔法務官のルキウス・マンリウス・ウルソとガイウス・アティリウス・セラヌス(N)〕をボイイ族との戦争を指揮させるべくローマへと帰した彼は、彼らの兵力を引き継いでハンニバルとの戦いに臨んだ。小競り合いと騎兵戦の後、ローマ軍はアフリカ軍に包囲されて野営地へと逃げ帰った。次の夜に彼らはパドゥス川を渡って架かっていた橋を落とし、強固に要塞化された場所だったプラケンティアへと逃げ込んだ。にもかかわらずハンニバルは新たな橋を作って川を渡った。
6 一つまた一つと、アルペスの彼の行く道に続いたそれらの偉業はキサルピナのガリア人の間で無敵の司令官、運命に最も愛された男としてのハンニバルの名声を高めた。簡単に騙されるこの夷狄たちの賞賛を増すために彼はその時々で用心深く準備された計略を使い、頻繁に衣服と髪型を変えた。ガリア人は人々の真っ直中を進む老人、それから若者、そして再び中年男の彼を見ると、仰天して彼が神の資質を分け持っているのではないかと考えた。その時シケリアにいた他方の執政官センプロニウスは事の次第を知ると軍を乗船させ、スキピオの救援に来て彼から四〇スタディオンの距離のところに野営した。翌日に彼らは戦いのためのあらゆる準備を行った。トレビア川が対決する軍を分かち、これをローマ軍は冬の冷たい霧雨が降る夜明けに胸元までつかりながら渡った。ハンニバルは軍に第二刻まで休むのを許し、それから出撃した。
7 双方での戦いの命令は以下のようなものであった。ローマ騎兵は歩兵を守るために両翼に配置された。……〔欠損〕……ハンニバルはローマ騎兵の正面に象部隊を、軍団兵に対する形で歩兵部隊を並べ、騎兵には彼が信号を出すまで象の背後で大人しくしているよう命じた。戦いが行われると、ローマ軍の馬は象の見かけと臭いに怯えて算を乱して逃げ出した。歩兵部隊は大きな被害を受け、寒さと濡れた服、睡眠不足で衰弱してはいたものの、果敢にこれらの獣と戦って怪我を負わせ、膝腱を切って敵の歩兵部隊を後退させつつあった。ハンニバルはこれを見て取ると、ローマ軍の翼を攻撃するよう騎兵に信号を出した。ローマ軍騎兵は丁度象への恐怖で散り散りになっていたため、歩兵部隊は無防備状態で残されて苦境に陥った。包囲されるのではないかと恐れたために彼らは自軍の野営地へと算を乱して逃げ出した。多くの歩兵が敵騎兵によって切り殺され、川が雪解け水で増水していてたために歩いて渡れず、その深さと鎧の重さのために泳げなかったために急流で死んだ。彼らの再集結を試みたスキピオは負傷して瀕死の状態になり、四苦八苦して救出されてクレモナに運ばれた。ハンニバルが包囲したプラケンティアの近くには小さな兵器庫があり、そこで彼は四〇〇人の兵を捕らえて自らも負傷した。そこでカルタゴ軍全員が越冬地に向かい、クレモナとプラケンティアのスキピオは、ハンニバルはパドゥス川へと向かった。
8 その都市のローマ人はパドゥス川での三度目――というのも実際に彼らはハンニバル到来以前にボイイ族に破れていた――の敗北を知ると新たな市民軍を徴募し、すでにパドゥス川にいた軍と併せて一三個軍団を数えるまでになり、彼らは同盟者たちから二倍の兵力を呼び寄せた。この時の軍団は五〇〇〇人の歩兵と三〇〇騎の騎兵から構成されていた。その一部を彼らはヒスパニア、そこでも戦争状態だったサルディニア、シキリアへと送った。軍の過半数はスキピオとセンプロニウスの後を襲って執政官となったグナエウス・セルウィリウスとガイウス・フラミニウスの指揮下でハンニバルに向けて送られた。セルウィリウスはパドゥス川へと急行し、そこでスキピオから指揮権を受け取った。後者は前執政官に選出されるとヒスパニアへと航行した。フラミニウスは三〇〇〇〇人の歩兵と三〇〇〇騎の騎兵でアペンヌス山脈以内の、これだけが本来的にイタリアと呼ばれていたところのイタリアを守った。アペンヌス山脈はアルペス山脈の中央から海まで広がっている。アペンヌス山脈の右側の地方がイタリア本土である。アドリア海へと延びる他方の側も、エトルリアが今日イタリアと呼ばれているのと同じように今日イタリアと呼ばれているが、アドリア海沿いに住んでいるのはギリシア由来の人たちで、残りの住人はガリア人で占められており、彼らはローマを攻撃して焼き討ちした前時代の人たちと同じ人たちである。カミルスが彼らを撃退してアペンヌス山脈へと追撃すると、私の私見では、彼らはその山脈を踏破して以前の所に留まる代わりにアドリア海の近くに住み着いた。こういうわけでこの地方は未だにガリアのイタリアと呼ばれているわけである。
9 したがってローマ人はこの時には多くの戦線に大軍を分割することになった。この事実を知るとハンニバルは初春に密かに動き出し、エトルリアを破壊してローマへと前進した。手元に戦えるほどの戦力がなかったために市民たちは彼が近づくと大いに警戒した。にもかかわらず、貴族の一人〔ガイウス・〕ケンテニウスが一市民であったにもかかわらず目下正規の将官がいなかったために残されていた八〇〇〇人の司令官に任命され、ローマへ続く最短進路の狭い道を占拠するべくプレイスティナ沼地へ向けてウンブリアへと送られた。その一方で三〇〇〇〇人の兵と共にイタリア内陸部を守っていたフラミニウスはハンニバルの動きの速さを知ると、休む暇を与えることなく大急ぎで彼のところへと急行した。民衆のそよ風で権力の座へと吹き上げられていたおかげで市の無事を案じており、そして戦争に未経験だったために彼はハンニバルと戦うべく急いだ。
10 彼の軽率さと未経験をよく知っていた後者は進み、〔トラシメヌス〕湖前の山裾に陣取って軽装兵と騎兵を渓谷に隠した。フラミニウスは早朝に敵の野営地を見つけると、辛い進軍から軍を休ませて野営地に防備を施すのに少しの時間を使い、夜警と骨の折れる仕事で彼らはまだ疲労していたものの、その後直ちに戦いへと向かった。山と湖と敵の間に差し掛かると、待ち伏せ部隊が突然あちこちから現れたために彼は命を落とし、二〇〇〇〇人が彼共々殺された。残りの一〇〇〇〇人は天然の要害となっていた村に逃げ込んだ。ハンニバルの副官で戦争で非常に大きな名声を得ていたマハルバルは、彼らを簡単に捕らえることができないし、捨て鉢の兵と戦うのは賢明ではないと考えると、どこへなり好きなところに行ってもよいと合意して武器を置くよう説き伏せた。彼らがこの合意と応じると、彼は彼らを武装を解かせてハンニバルのところへと連れていった。後者はマハルバルには自らの同意抜きでこのような協定を結ぶ権限があることを否定したものの、ローマ人の同盟者は彼らの町の支持を得るために親切に扱って身代金抜きで帰国させた。彼はローマ人全員を捕虜のまま留め置いた。彼は彼のもとで働いていたガリア人に儲けの希望によって自分を慕わせるために戦利品を与え、それから前進した。この知らせが届くと、パドゥス川あたりにいた執政官セルウィリウスはエトルリアへと四〇〇〇〇人の兵を連れて進軍した。ケンテニウスは八〇〇〇人でもって前述の隘路をすでに占拠していた。 11 ハンニバルはプレイスティナ沼地とそこに多い被さる山のこと、そしてケンテニウスがそれらの間で峠を守っていることを知ると、案内人たちに迂回路があるかどうか尋ねた。そのような道はなく、その地方全域が凸凹して険しいと彼らは答えたものの、彼はマハルバルの指揮下に軽装兵の一隊をこの地域を調べて夜のうちに山を抜ける道を探すべく放った。彼らが目的地〔山を越えた道〕に到着したと判断するとハンニバルはケンテニウスに正面攻撃をかけた。戦いが展開するうちにマハルバルが鬨の声を上げながら頂上から勢い良く突っ込んでくるのが見えた。したがって包囲されたローマ軍は敗走し、大殺戮が起こって三〇〇〇人が殺されて八〇〇人が捕虜になった。残余の者は這々の体で逃げた。この知らせが〔ローマ〕市に来ると、彼らはハンニバルがすぐに自分たちのもとに向けて進撃してくるのではないかと恐怖した。彼らは城壁の上に石を集め、老人は武装した。武器を欲した彼らは神殿から以前の戦争の戦利品としてぶら下げられていた武器を持ち出し、大難の時の慣例としての独裁官にファビウス・マクシムスを選出した。

3巻
12 しかし神の摂理はハンニバルをアドリア海沿岸地方へと転じさせ、そこで彼は沿岸地帯を荒らし回って大量の戦利品を集めた。執政官セルウィリウスは彼に併走して進軍し、ハンニバルから一日分の進軍距離にあったアリミヌムに来た。未だローマに友好的だったガリア人を鼓舞するためにセルウィリウスはそこに軍を留めた。独裁官ファビウス・マクシムスはそこに到着すると、独裁官が選ばれた後には最早執政官でも将軍でもなくったセルウィリウスをローマに送り返した。ファビウスは接近してハンニバルの後をつけたが、しばしば挑戦を受けても交戦しなかった。彼は敵の動向を注意深く監視し続け、彼に近づいては町の包囲の邪魔をした。その地方が荒らし尽くされた後、ハンニバルは物資に事欠き始めた。かくして彼は毎日軍を出動させて戦いを挑みつつ、再びそこを縦断した。騎兵長官ミヌキウス・ルフスが彼のやり方に反対し、ローマの友人たちにファビウスは臆病だから尻込みしているのだという手紙を書いていたにもかかわらず、ファビウスは戦おうとはしなかった。ファビウスが犠牲を捧げるためにローマに行く機会を得ると、軍の指揮権はミヌキウスのものになり、彼はハンニバルと多少戦っては自分が戦いに最適任だと考えてより大胆になり、勝利を求めていないとファビウスを弾劾する手紙を元老院に書いた。そしてファビウスが陣営に帰った時、元老院は彼の騎兵長官が彼と同等の指揮権を分け持つべしと票決した。
13 したがって彼らは軍を分割して各々近くに陣取った。ファビウスが時間経過によってハンニバルを消耗させようとしていた一方でミヌキウスは決戦へと逸るといった風に各々は自分の意見を持った。間もなくミヌキウスが戦端を開き、ファビウスは自分の軍を手元に置きつつ事の次第を眺めた。かくして彼は打ち負かされたミヌキウスを救い出してハンニバルの兵の追撃を退けた〔紀元前217年秋のゲロニウムの戦い〕。したがってファビウスはその嘲弄を恨むことなくミヌキウスを大難から助け出すことになった。ミヌキウスは自身の経験不足を認めると指揮権を手放し、技量のある隊長が戦うべき唯一の時は必要な時だと信じていたファビウスに自分の取り分の軍を譲った。この格率は後にアウグストゥスの精神をしばしば我に返らせたもので、彼は戦うのではゆっくりで、勇気よりむしろ技術による勝利を好んでいた。ハンニバルは間もなく物資に事欠くことになるだろうとよく分かっていたファビウスはハンニバルの監視を以前通りに続けて彼が地方を荒らすのを妨害し、全軍での会戦はせずに落伍者を切り伏せた。
14 今やローマ軍はハンニバルが気付いていない隘路に近づきつつあった。ファビウスはそこの占領のために四〇〇〇人の兵を送り、軍の残りは彼が強力な丘に陣を敷いていた〔隘路の〕他方の端に留まらせた。自分がファビウスと守りを固められた峠の間に入り込んでしまったことに気付くと、ハンニバルはその周りの地域が全て凸凹で険しくなっていて逃げ道がなかったためにこれまで以上に慌てた。地形の険しさのために彼がファビウスやその道を守る部隊を負かすことは望むべくもなかった。この窮地にあって彼は、新たなこの危機に新たな騒動を加えるのを恐れて五〇〇〇人の捕虜を殺した。それから彼は野営地に数多くいた牛全ての角に松明を縛り付け、夜が来ると松明に火を灯し、野営地の全ての火を消して沈黙を保つよう厳命した。それから彼が若者のうち最も勇敢な者たちにファビウスと峠の間の険しい場所へと牛を追い立てるよう命じた。追い立てる者たちに急き立てられ、松明で焼かれた牛たちは山の方へと猛然と走り、倒れても起き上がって再び走った。
15 どちらの側にいたローマ軍もハンニバルの野営地が静かで暗くなっていて多くの様々な明かりが山の方にいるのを見ると、夜だったために何が起こったのかはっきりと分からなかった。なるほどファビウスはハンニバルの計略を疑ったが、暗闇のためにその場所に軍を留めていようとは確信していなかった。しかし峠に陣取っていた者たちは窮地にあってハンニバルが崖をよじ登って逃げ出そうとしているのだと想像したが、これはまさにハンニバルが思うつぼだった。かくして彼らは苦境にあるハンニバルを捕捉すべく、明かりが見えた場所へと急行した。後者は道が放棄されたのを見て取ると、行動を隠すために死人のような沈黙を守って明かりをつけず、それでいて飛ぶような早さで離脱した。峠と強化された場所を奪取すると彼はラッパで信号を出し、野営地の軍は叫んで彼に答えてすぐに灯を点した。それからローマ軍は自分たちが騙されたことを悟った。残りのハンニバル軍と牛を追い立てた者たちは今や何も恐れることなく峠を進み、彼ら全員を連れ出すや彼は去っていった。したがってハンニバルは予期せぬ成功を得て軍を危機から救い出すことになったわけだ。そこから彼はアプリアの都市で、物資をしっかり蓄えていたゲロニアへと進んだ。この町を彼は占領し、ここからほくほく顔で越冬に向かった。
16 ファビウスはこれ以前通り同じ方策を続けつつ〔ハンニバルを〕追ってゲロニアから一〇スタディオン離れ、アウフィドゥス川がその間を流れる場所に陣を張った。ローマ人が独裁官の任期として定めた六ヶ月間が今や満了し、セルウィリウスとアティリウス〔紀元前217年の執政官、グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスとマルクス・アティリウス・レグルス。〕の両執政官が着任して陣営へとやってきて、ファビウスはローマへと帰った。冬の間にハンニバルとローマ軍との間に頻繁な小競り合いが起こり、後者がおおむね成功を得て優勢を示した。ハンニバルは戦争の間ずっと有頂天な様子でカルタゴ人に戦争の顛末についての手紙を書いていたが、今は多くの兵を失って孤立無援だったので兵士と資金を送るよう訴えた。しかし彼のやることなすこと全てを嫉妬していた彼の敵対者たちは、勝利した将軍たちは金を求めるのではなく人々に送るものである以上はハンニバルが勝利していると言っているのにどういうわけで援助を求める羽目になったのかを自分たちは理解できないと答えた。カルタゴ人は彼らの主張に与して兵士も金も送らなかった。ハンニバルはこの近視眼的な施策を嘆き、ヒスパニアにいる弟のハスドルバルに夏の初めに集められる限りの金と兵を連れてイタリアに攻め込み、〔おそらくイタリア〕全土が荒れ果てたローマ人を挟み撃ちで消耗させるために他のところは荒らすよう述べる手紙を書いた。ハンニバルの事の次第は以上のようなものであった。
17 フラミニヌスとケンテニウスの災難の大きさで落ち込んだローマ人はこのような度重なる驚くべき敗北は彼らの権威が無価値になることに繋がるものであり、彼らの領土内での戦争は黙って見過ごされるべきではないと考え、そしてハンニバルへの憤慨から彼との戦いに投入すべく都市〔ローマ〕で新たな四個軍団を徴兵し、同盟軍を方々からアプリアへと急行させた。イリュリア人との戦争で軍事的な名声を博していたルキウス・アエミリウスと常々大げさな約束で民衆の支持を得ていた大衆指導者のテレンティウス・ウァロを彼らは執政官に選出した〔紀元前216年〕。両執政官を送り出す時に彼らは市を発つ両執政官に会戦で戦争を終わらせ、徴兵と租税、そして原野の破壊による飢餓と無為によってぐずぐずと市を疲弊させないよう要請した。両執政官はアプリアで軍の指揮を引き継ぐとほぼ七〇〇〇〇人の歩兵と六〇〇〇騎の騎兵を有することになり、彼らはカンナエと呼ばれる村の近くに野営した。ハンニバルの野営地は目と鼻の先だった。ハンニバルは常々戦う用意ができていて無為に過ごすことに我慢がならなかったがとりわけ今はそうであり、物資が尽きれば困ったことになるというのが彼が絶えず戦いを挑んだ理由だった。また彼は、給料を受け取っていない傭兵軍が自分を見捨てたり、食料を探すためにその地方に散るのではないかと恐れてもいた。このために彼は毎日敵に挑戦した。
18 両執政官の意見は正反対だった。アエミリウスは、ハンニバルは物資の欠乏のために長くは持ち堪えられない以上、戦争に練達していた将軍と勝ち癖のついた軍と戦闘するよりは時間稼ぎによって彼を疲弊させるのが最善だと考えた。しかし大衆指導者らしくウァロは会戦によって速やかに決着をつけることを問題にすべきであり、人々が出発時にしたように自分の同僚を非難し続けた。去年の執政官でまだそこにいたセルウィリウスはただ一人アエミリウスの意見を支持した。元老院議員の全員と軍内での官職を担ったいわゆる騎士と呼ばれる人たちがウァロに賛同した。彼らが未だ議論をしていた一方でハンニバルは木と燃料を集める分遣隊をいくつか出しては負けるふりをさせ、最終時刻頃に退却するかのように動いて軍の本隊の方に来させた。ウァロはこれを見ると、この敗走でハンニバルを追撃しようと考えて軍を出撃させた。ここでアエミリウスはその動きを禁じることすらしたが、ウァロがこれに従わなかったため、ローマの習いに則ってアエミリウスは一人でお告げを仰ぎ、まさに動き始めようとしていたウァロにこの日は厄日だという言伝を送った。そこで後者は敢えてお告げを無視しようとは思わず戻ったが、全軍の見ている前で髪を引きちぎり、同僚の嫉妬のせいで勝利が自分からひったくられたと叫んだ。全軍の群がっていた者たちが彼と怒りを共にした。

4巻
19 計画が失敗するとハンニバルは退却すると見せかけて野営地へと戻ったが、これはウァロにハンニバルのあらゆる行動は疑うべきものであることを教えなかった。武装した状態で司令部に急いでやってくると、彼は元老院議員、百人隊長、そして軍団幕僚の前で、アエミリウスは怯懦で二の足を踏んだかウァロその人への嫉妬に動かされたかしたために市から確実な勝利をかすめ取るべく徴を露わにしたのだと訴えた。したがって彼が憤激を吐き出していた間、天幕の周りにいた兵士たちは彼の発言を聞いてアエミリウスへの非難に与した。にもかかわらず後者は中にいた人たちに良き忠告を続けたが、それも無駄だった。セルウィリウス一人を除く他の全員がウァロの側に立つと彼は折れ、翌日に自ら指揮官として軍を戦闘隊形で出撃させたわけであるが、それはウァロがその肩書きを彼に譲ったからだった。その動きを察知したハンニバルが陣を発たなかったのは戦いの準備が全くできていなかったからだった。翌日に両軍が開けた原野に来た。ローマ軍は〔前衛、中衛、後衛の〕それぞれが中央に歩兵部隊を置いて両翼に軽装兵と騎兵を配した間隔の小さい三隊列で布陣した。アエミリウスが中央を、セルウィリウスが左翼を、そしてウァロが右翼を指揮した。各々が必要があれば救援に赴けるようにと一〇〇〇騎の選り抜きの騎兵を手元に置いていた。ローマ軍の配置は以上のようなものだった。
20 その地方では東から突風が正午頃に吹き始めることをハンニバルは予め知っていた。そのために彼は追い風を受けられる場所を選んだ。それから谷が切り立って木の茂った丘に一部の騎兵と軽装兵を伏せ、戦いが始まって風が吹くと敵に襲いかかるよう命令を与えた。腰巻きにかけた長剣に加えて服の下に短剣を忍ばせていたケルティベリア兵五〇〇人も彼らと一緒に配置された。彼らは彼が合図を出すまでは用いられなかった。彼は全軍を三隊に分け、敵の翼を包囲できるようにするために可能な限り長い距離に騎兵隊を延ばした。彼は右翼の指揮を弟のマゴに、左翼を従兄弟のハンノに任せ、経験豊富な指揮官としてのアエミリウスの名声のために中央は自らが受け持った。彼は二〇〇〇騎の選り抜きの騎兵を、マハルバルは一〇〇〇騎の騎兵を手元に置き、マハルバルは周りを動き回って軍の部署のどこであれ危険と見るや援護するようにとの命令を受けていた。これらの配置で彼は四時間ほど時間を遅らせたため、すぐに追い風が吹いたことだろう。  双方の全軍が準備万端になると司令官らは隊列を行ったり来たりしながら兵士たちを激励した。ローマ兵は彼らの父祖と妻子のことを思い出して先の敗北の不名誉を雪ぐよう説かれた。生存の最後の希望はこの一戦にかかっていると彼らは諭された。ハンニバルは兵たちに同じ敵に対する先の偉業と勝利の数々を思い出させ、敗者に今負けるのは恥だと言った。ラッパが吹き鳴らされると歩兵たちは雄叫びを上げ、弓兵と投石兵と軽装兵が前進して戦いの口火を切った。彼らの後にレギオーが歩を進めた。今や凄まじい殺し合いと大会戦が始まり、双方が勇気を競った。やがてハンニバルは騎兵隊に敵の両翼を包囲せよとの信号を出した。ローマ騎兵は数では劣っていたものの彼らに向けて前進して危機的なまでに隊列を薄く延ばしたものの勇戦し、とりわけ目覚ましかったのは海に面した左翼の部隊の勇戦ぶりだった。この時にハンニバルとマハルバルは、敵を怯えさせようと考え、手元に置いていた騎兵隊に夷狄らしい雄叫びを上げさせながらローマ騎兵に向けて率いていった。だがローマ騎兵は怯むことなく恐れもせずにその打撃を迎え撃った。
22 ハンニバルは彼の機動が頓挫したのを理解すると、五〇〇人のケルティベリア兵に向けて信号を出した。逃亡兵のような格好で盾、槍、そして剣を手にした彼らは自軍の戦列を突っ切ってローマ軍の方へと向かってきた。彼らを指揮していていたセルウィリウスはすぐさま彼らの武器を取り上げさせ、彼らをトゥニカ一丁だと思って後方に置いたわけであるが、それというのも彼は敵の眼前で逃亡兵を鎖に繋ぐのは最善だとは考えていなかったし、彼はトゥニカだけしか目に入らなかったこの兵たちを疑いもしなかった上、戦いもたけなわで相談する時間もなかったからだ。さていくつかのアフリカ人中隊が大声を上げながら山々の方へと逃げるふりをした。これは峡谷で追撃者に攻撃をかける秘密の合図だった。軽装兵と騎兵が一目散に待ち伏せ地点に入り込んで身を曝すと同時に目もくらむような強風が吹いて塵がローマ兵の目に入り、敵が見えなくなった。ローマ軍の矢玉の勢いが向かい風で減殺された一方で、敵の矢玉の勢いが増加して狙いは確実になった。ローマ軍は敵の武器を見て避けることも自分の武器で敵をよく狙うこともできなくなったために互いに向けてよろめき、すぐに様々な種類の混乱状態に陥った。
23 この重大時に五〇〇人のケルティベリア兵は予想通りの好機が到来したことに気付くと胸元から短剣を抜き、彼らの真正面にいた者をまず殺し、次いで死者から剣、盾、槍をひったくって全面に向けて猛攻撃を仕掛け、手当たり次第無差別に投擲兵器を投げつけると、全軍の後方にいた限りの者を皆殺しにした。今やローマ軍は正面からは敵に攻められ、横っ腹で待ち伏せ攻撃を受け、隊列の真っ直中では敵によって殺戮されるという具合で重大かつ多様な苦境に陥った。前面の敵の重圧のため、そして下手人はローマ軍の盾を分捕っていたために彼らを見分けることが容易ではなかったために彼らは後者に向き合うことができなかった。ほぼ全員が塵で苦しんで何が起こっているのかを把握しにくくなっていた。しかし、混乱と恐慌状態の場合によくあることながら彼らは自分たちの状況を実状以上に悪いものと見なしており、待ち伏せ部隊は恐るべきものでその数は五〇〇を上回るものと思ってた。つまるところ、彼らは全軍が敵の騎兵と逃亡兵に取り囲まれていると想像してしまっていたのだ。かくして彼らは回れ右して慌てふためきながら逃げだすこととなり、ウァロその人が指揮する右翼が退却の口火を切って左翼がこれに続いたが、指揮官のセルウィリウスはアエミリウスの救援へと赴いた。騎兵と歩兵のうち最も勇敢な兵たちが彼らの周りに集結し、その数はおよそ一〇〇〇〇人を数えた。
24 ハンニバルの騎兵によって包囲されていたにもかかわらず、将軍たちと馬を持っていた他の者全員は馬を下りて徒歩で戦った。彼らは激怒しながら敵に突撃して多くの見事な働きをし、軍隊経験の果実をやけくその勢いで振るった。しかし彼らは四方八方から攻められ、ハンニバルはあちこちを駆け回っては兵士たちを激励して勝利を完全なものとするよう説き、敵の本隊を散り散りにした暁には残りの小勢には勝てなくなるぞと彼らを難じて咎めた。アエミリウスとセルウィリウスが生き残っている限りローマ軍は多くの傷を与え受けつつも踏み留まっていたが、彼らの将軍たちが倒れると敵の真っ直中をこの上なく勇敢に突破し、方々へと逃げた。ある者は他の者が先に逃げ込んだ二つの野営地に逃げ込んだ。そこにはほぼ一五〇〇〇人がおり、ハンニバルはこれを真っ先に包囲した。およそ二〇〇〇人の他の者はカンナエに逃げ込み、ここもハンニバルの包囲するところとなった。僅かな者だけがカヌシウムに逃げおおせた。残りの者は林を抜けて集団ごとに散り散りになった。
25 カンナエにおけるハンニバルとローマ軍の戦いの結果は以上のようなもので、この戦いは日中の第二刻に始まって夕方の二刻のうちに終わり、そのたった数刻の間に五〇〇〇〇人の兵が殺されて多くの捕虜を出したためにこれはローマ人には未だ災難として有名である。臨戦した多くの元老院議員が軍団副官と百人隊長、二人の最良の将軍ともども命を落とした。災難の原因となった最も価値のない者〔ウァロ〕が真っ先に逃げて無事逃げおおせた。ローマ人はイタリアでのハンニバルとの二年間の戦争で今や〔両者を併せて〕およそ一〇万人の自軍と同盟軍を失う羽目になった。
26 ハンニバルは一日で四つの計略、すなわち風の力、ケルティベリア兵の偽装投降、偽装退却、そして峡谷での待ち伏せを駆使することでこの貴重で見事な勝利を得た。戦いの直後、彼は死体を眺めに向かった。友人たちのうち最も勇敢な者たちが死者の真ん中で横たわっているのを見ると、彼はこんな勝利はもうたくさんだと言って声を上げて泣いた。エペイロス王ピュロスも似たような被害を受けつつもイタリアでローマ軍に勝利した時に以上のと同じ声を上げたと言われている。戦いから逃げた者の一部とより大きい方の野営地に逃げ込んで夜にプブリウス・センプロニウス〔・トゥディタヌス〕を彼らの将軍とした者たちは、疲れ果てていて眠りを欲していたハンニバルの監視網を強行突破してある峠にやってきた。およそ一〇〇〇〇人にのぼったこの兵たちは夜中にカヌシウムへの道を進んだ。しかしより小さい方の野営地の五〇〇〇人は翌日にハンニバルに捕捉された。ウァロは軍の残りを集めて彼らの弱りきった精神を元気づけよう試み、そして軍団副官の一人であったスキピオの指揮下に彼らを置いて自らはローマへと急いだ。

5巻
27 その災難が市に知らされると、街路は近親を嘆いてその名を呼び、間もなく敵の手に落ちるであろう自らの運命を悲しむ人で黒山の人だかりになった。女たちは子供を連れて寺院に赴き、市の災難がいつか終わることを祈った。行政官たちは犠牲で神々に祈願し、もし自分たちに何か原因があって怒っているのならすでに訪れた罰で満足したはずだと祈った。元老院は、目下の情勢についての神託を求め、諸々の出来事の話を書いた人物と同じ人物であるクイントゥス・ファビウス〔・ピクトル。ローマの歴史を書いた〕をデルフォイの神殿に送った。彼らは主人の同意の下で八〇〇〇人の奴隷を解放し、市内のあらゆる人に武器と投擲兵器を作る仕事をするよう命じた。また彼らは徴兵を行い、許された限りで同盟国からすら徴兵した。また彼らはシケリアに航行するはずだったクラウディウス・マルケルス〔当時は法務官〕の目的地を変更してハンニバルと戦わせるべく送り出した。マルケルスは彼の同僚のフリウス〔プブリウス・フリウス・フィルス〕に艦隊を提供してその一部をシケリアへと送り、一方自らは併せて歩兵一〇〇〇〇人と騎兵二〇〇〇騎を数えた解放された奴隷と市民と同盟諸国から集められた限りの他の者たちを連れ、ハンニバルの次の行き先を探るべくテアヌムへと進撃した。
28 ハンニバルは市民が金で彼らを購うかどうかを見るために捕虜たちに彼ら自身のためにローマに伝令を送ることを許した。三人が彼らによって選ばれてグナエウス・センプロニウスがその長となり、ハンニバルは彼らに自分のもとに戻ってくるという誓いを強制した。元老院議事堂に詰めかけた捕虜の近親たちは、自分たちには自腹を切って各々の友人を請け戻す用意があると明言し、元老院にその許しを求め、人々は祈り、涙を浮かべながら彼らに与した。元老院議員の一部〔身請け賛成派〕は、これほど大きな災難の後にまだいくらでもいる男の喪失に市を晒したり、奴隷を解放しつつ自由民を軽んじるのは賢明ではないと考えた。他の者たち〔反対派〕は、哀れまれて逃げることに男たちを慣れさせるのは相応しからぬことであり、近親が逃亡を哀れんだとしてもなお目下の場合、むしろ彼らには勝つか死ぬかを教えるべきだと考えた。多くの先例が双方で提示された末、かくも大くの危機が未だ障害となっている目下に行われる寛容は未来に禍根を残す一方で峻厳さは苦痛を伴いはするものの後の公益につながるとの見解から、捕虜は近親によって身代金で身請けされるべきではないとの最終決断を元老院は下し、なるほどまさにこの時の彼らの行動の甚だしい大胆さはハンニバルの度肝を抜いたものだ。したがってセンプロニウスと彼に同行した二人の捕虜はハンニバルのもとへと戻った。怒った後者は捕虜の一部を売り払って他の捕虜は殺し、彼らの死体で橋を架けて川を渡った。彼の手中にいた元老院議員と他の秀でた捕虜たちを彼は互いに、父を息子と、兄を弟と戦わせてアフリカ人の見せ物にした。彼は侮蔑的で残忍な行為を見逃さなかった。
29 次にハンニバルはローマの同盟諸国の領土へと軍を転じてこれを荒らし、ペティリアを包囲した。少数であったにもかかわらずそこの住民は女すら戦いに投入して彼に対して勇敢な出撃を行い、尊い多くの大胆な行いを為した。彼らは彼の攻城兵器を次から次へと焼き払い、この敢行で女たちは男に劣らず賢明だった。しかし続く攻撃で彼らの数が減り、彼らは飢餓で苦しみ始めた。ハンニバルはこれを知ると彼らの周りに包囲壁を建て、ハンノを包囲の遂行のために残した。苦痛が増してくると彼らはまず壁の外側へと戦えない者全員を押し出して生きるよりは死ぬ方が良かろうと思いながらハンノが彼らを殺す様を情けも感じずに眺めた。このために残った者はもはやこれまでとなった時には敵に向けて出撃し、餓死しかけで完全に疲弊しつつも多くの勇敢な華々しい偉業を成し遂げた後、戻る場所を持たぬ彼らはアフリカ兵に皆殺しにされた。かくしてハンノはその町を手中に収めた。しかしそれでも走るだけの体力があった少数の者は逃げ延びた。この彷徨者たちをローマ人は注意深く集めてその数はおよそ八〇〇人にのぼり、彼らへの優しい感情と彼らの際だった忠誠への賞賛に動かされて戦後に彼らを自国に再配置した。
30 傭兵としてハンニバルのもとで働いていたケルティベリア人騎兵が際立って優秀な戦士であることが看取されたためにローマの将軍たちは自腹を切って同数のケルティベリア兵を町々から得て、他のケルティベリア兵に対抗させるためにイタリアへと送った。ハンニバルの近くに陣を張ると彼らは同郷人と混じり合ってこれを味方に引き入れた。したがって彼らの多くがローマ人の側に寝返って他の者は脱走することになった一方で、残りの者は最早ハンニバルから信用されなくなって彼らとハンニバルは互いを疑いの目で見た。ハンニバルの状況はこのような状況から落ち目になり始めた。




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