戻る 『ソクラテスの弁明』 ・罪状に対する弁明 ソクラテスの罪状は(1)「彼は天上天下のことを追求し、弱論を強弁するなど、いらざるふるまいをなし、かつこの同じことを他人にも教えている」(19B)。そして(2)「青年に対して有害な影響を与え」(3)「国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモンのたぐいを祭る」(24B-C)という三つに大別される。 (1)まではソフィスト(知者)であるとの嫌疑であるが、「わたしはこの名前〔ソフィスト〕を得ているのは、とにかく、ある一つの知恵を持っているからだということには間違いないのです」(20D)というわけで、これにはいわゆる「無知の知」でもって自分はソフィストではないと反論する(21A-1D)。そしてこれを受けて(2)については、ソクラテスが知者を探して人に問答を仕掛けては相手の無知をさらけ出すのを見たり、真似をするのが楽しいから若者が彼の周りに寄ってきて、他方で人々は彼を憎悪して徒党を組んで中傷するというわけ(23C)。 (3)は「国家の認める神々」は別のもの(具体的には「日輪や月輪が神だと認めること)と、神の存在を認めない、という二つの主張に場合分けできるが、前者はアナクサゴラスの説、しかも「おりがあったら市場へ行って、せいぜい高くても一ドラクメも出せば買える」(26D)ような本に書いてあることだとしてソクラテスは反駁する。後者は、メレトスとの問答を通し、ダイモンは神の子であり、ソクラテスはダイモンを信じている、とすれば神の子たるダイモンを信じているのに神の存在をソクラテスは認めない、という自家撞着に陥る、故にソクラテスは神を信じている、という風に論する。 ・死についての論議 ソクラテスは自分は死を恐れてはいないと主張するが、その理屈は以下の通り。死よりも恥や正しい行いをできないことの方が恐るべきことであり、その際には「死も、他のいかなることも、勘定には入りません。それよりはむしろ、まず恥を知らなければならないのです」(28D)。また、「そしてほかにも、危険のそれぞれに応じて、あえて何でもおこない、何でも言うとなれば、死を免れる工夫はいくらでもあるのです。いや、むずかしいのは、そういうことではないでしょう。諸君、死を免れるということではないでしょう。むしろ、下劣を免れるほうが、ずっとむずかしい」(「弁明, 39A) だからこそ、放免されても彼は知を捜し求めることことは神への奉仕であるし、思慮は真実を気にかけて魂をできるだけ優れたものにすることであるが故に、今までの行いをやめるつもりはないと述べる。 最後の方では、死は善いものだとも述べる。もし全くの無になることだとすれば、それは夢すら見ないほどの熟睡のようなものであり、「それ以外の昼と夜」よりもその夜とを比較すれば、この夜よりも楽しく善い昼と夜はごく数えるほどしかないし(正直いって、この熟睡は幸せであるという理屈はよく分からない)、他の場所への旅立ちのようなものだとすれば、「それらの人たちと、かの世において、問答し、親しく交わり、吟味するということは、はかり知れない幸福となるでしょう」(41C)。そういうわけで、いずれの場合であろうと、死は善きものということになる。 『クリトン』 クリトンの説得 1. 友人を失うのみならず、友人よりも金銭を大事にしたという悪評を被る。 2. ソクラテス救出のために金を出す用意がある者はたくさんいる(シミアス、ケベスなど)。 3. ソクラテスがとどまるならば、それは彼その人を害し、破滅させようとしている者を助けることになる。 4. 子供を見捨てることになる。 ソクラテスの反論 全ての人の思惑が尊重さるべきではなくて、ある特定の人たちのそれこそ尊重さるべきものであるとすれば、その尊重しなければならない思惑は有用なもの即ち思慮のある人のそれで、有害なもの即ち思慮のない人のそれは尊重さるべきではない。賞賛と非難についても同様で、注意を払うべきは大多数の人間のそれではなく、一部の人(体育ならば体育家、医術ならば医者という風に)のそれである。というわけで、「ただ一人でも、もしだれかそれに通じている人があるなら、その人の思いなしにしたがい、この一人の人をそれ以外の人を全部あわせたよりももっと恐れ、その人のまえに恥じなければならない」、そしてさもなければ「われわれは、かのものを虐待し破滅させることになるだろう。かのものとは、正しきによって向上し、不正によって滅びるものだったのだ」(47d)(「かのもの」とは魂を指す)。だから、この魂が壊れてしまったならば、生き甲斐のある生き方はできない。「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだちうのだ」(48b)。 そしてこの「善く」は「美しく」とか「正しく」と同じであるという立論を受け、次いで脱獄が正しいかどうかの検討に入る。 クリトンの説得はいずれも多数者の考えるようなことであるため、ソクラテスはこれを退ける。「しかし、君の言おうとする、金銭のかかりとか、人人の思惑とか、子供の養育とかについて考えることは、これはクリトン、ほんとうのところ、かの多数者の考えることなのかもしれないね。彼らなら、すこしも知性を用いないで、軽々に人を殺しておいて、できればまた生きかえらせようとするかもしれないような連中なのだから、そんなことを考えてくれるかもしれない」(48c)。しかし、そんなことではなく、脱獄が正しいかどうかそのものが大事であるというわけ。 不正を行ってはならないという二つの推論。 1. いかなる場合においても不正を行ってはならない。故に、不正を受けようとも不正を行ってはならない。 2. 害悪を与えることはなすべきではない。害悪に対する仕返しに害悪を与えることは正しくない(つまり、不正である)。故に、害悪を与えることは、不正を働くということである。 翻ってみるに、件の脱獄は、国法とポリスに不正を働くことである。擬人化された国法曰く、「そのおまえがやりかけている所行というものは、わたしたち国法と国家共同体全体を、おまえの勝手で、一方的に破壊しようともくろんでいることになりはしないかね? それともおまえは、一国のうちにあって、いったん定められた判決が、すこしも効力をもたないで、個人の勝手によって無効にされ、めちゃくちゃにされるとしたならば、その国家は、転覆を免れて依然として存立することができると、おまえは思っているのか」(50b)。そしてまた、この国家においてソクラテスがは生まれ養育され教育され、これに従うことに同意して暮らしている以上、親から不正を受けたからといって楯突いたり仕返しをするのが正しくないのと同様に、国家や国法に楯突いたり仕返しをすることをするのは間違っている。「だから人は、これを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしているときには、父親がそうしているときよりも、もっとよく機嫌をとって、これに譲歩しなければならないのだ」(51b)。さらに、国法は国外退去を禁止していないし、国外追放を申し出ることもできた以上、国内にとどまるならば、その国法に同意していることになる。 つまるところ、「これに服従しない者は、三重の不正をおかしているのだ、と主張する。すなわち、生みの親たる私たちに服従しない点がそれであり、育ての親たる私たちに服従しない点もそれである。そのうえ、わたしたちに服従することを約束しておきながら服従もしないし、また、わたしたちのしていることに、なにか善くない点があるなら、そのことをわたしたちに説き聞かせることもしないからである。すなわち、わたしたちは、わたしたちの命ずることは何でもこれをなせと、乱暴な仕方で指令しているのではなくて、これを提示して、わたしたちを説得するか、そうでなければ、これをなせと、選択の余地を残して言っているのにそのどちらもしていないからである」(51e-51a)。 他方でソクラテスがテッタリアへの逃亡を選ぶならば、この行為によって逃亡先で国法の破壊者と見なされて疑いの目を向けられ、彼に下された判決が正しかったことの証左となってしまう。「なぜなら、いやしくも国法を破壊するような者なら、若い者や考えのない者を破滅に導くにきまっていると、たぶん考えられるだろうからね」(53c)。さらに、これで命を長らえれば、以後「人間にとって最大の価値をもつのは徳であり、なかでも正義であり、合法性であり、国法である」(53c)という主張を展開することなどできなくなってしまい、それができない人生はただご馳走を食べるだけの人生でしかなく、まるで食事のためにテッタリアまで逃げたということになる。 さらに、子供の世話についても、外国で「外国人に仕立てて、それの味をおぼえさせようとする」(54a)よりも、孤児としてであれソクラテスのために骨を折る人たちの世話を受けてアテナイで育つ方がよい。 読んだ上での所見 思慮のない人、つまり多数者の言うことを聞く必要がないのならば、その多数者が下した判決に従う必要もないのではないか? 『プロタゴラス』 ・徳は教えられうるのか? 有徳の士は我が子に徳を教えることができていない。徳とは教えられうるものであるのか(10)? これに対してプロタゴラスは徳は誰もが分け持っているし、誰もがそのように思っているものであり、そうでなければ国家は成り立たないとする。そして、そうでないのに自分は優れた笛吹きであると言う人は嘲笑されたり怒られたり、叱られたりするが、自分は不正な人間であることを自覚している者がそのことを正直に言えば、狂気の沙汰と見なされ、「これはつまり、人間はひとりの例外もなく、必ずや何らかのかたちでこの徳を分けもっているはずであり、そうでなければ人間の仲間には入らないと考えられているからにほかならない」(p. 48)(12)。 さらに、ある者が持っている欠点が生まれつきの欠点ならば、人は彼のこの欠点を是正したり教えたり懲らしめたりしないが、「心がけや、躾や、教えの結果として人間にそなわると考えられているような美点」(p. 49)を持たない者は怒られたり、懲らしめられたり、訓戒が向けられたりする(13)。これらが人は誰もが徳を持っていると考えている証拠である。 徳は教えられうるのかということについては、プロタゴラスは、子供の養育にあたっては習い事をはじめとして様々な配慮がなされている(15)、素質に応じて徳性の程度に差はあるものの、人間の社会で育てられた者のうちで最も不正な者であろうとも野蛮人よりは遙かに有徳である(16)。 ・徳の構造 正義、節制、敬虔といった徳があるが、徳とはある一つのものでありながら、それを構成する様々な部分として正義、節制、敬虔などがあるのか、それとも同一のものへの異なった名前にすぎないのか(18)? プロタゴラスは前者だと答える。しかし正義は「ある一つの何もの」ならば正義はそれ自体で正しい性格のもの、敬虔はそれ自体で敬虔な性格のものとなるが、それでは正義は敬虔ではない、つまり不敬虔な性格のもの、敬虔は正義ではない、つまり不正な性格のものということになる。これに対し、プロタゴラスは正義と敬虔は似たものであると言うが、この話は突き詰められずに尻切れトンボで終わる(19)。 無分別は知恵の反対、無分別は分別の反対であることを確認した後、一つのものにはただ一つしか反対のものはないという原理が導入される。しかし、両者は矛盾する。「そうすると、プロタゴラス、私たちはどちらの主張を取り消したらよいのでしょうか。一つのものにはただ一つしか反対のものがないという説のほうでしょうか。それとも、もうひとつの説、知恵と分別(節制)とはいずれも徳の部分をなすものでありながら、別個のものであり、そしてただ別個のものというだけでなく、ちょうどいろいろの顔の部分と同じように、それ自体としてみても、その機能からいっても、互いに似ても似つかぬものだという説のほうでしょうか」(p. 77-78)(20)。 その後、議論の進め方についてのゴタゴタとシモニデスの詩についての注解が29章まで続くが、省略する。 33章にて徳の構造についての議論が再開する。プロタゴラス曰く知恵、節制、勇気、正義、敬虔といった五つの徳は「徳の部分をなすものであり、そして、そのうちの四つは互いにかなり近しいものであるが、ただ勇気だけはそのどれとも非常に異なっている」(p. 125)。というのも、勇気はあるが、他四つの徳を持っていない人がいるから。しかし、勇気はものを怖がらないことである、ものを怖がらないのは知識を持っているからである、故に徳は知恵であるという風にソクラテスは述べるが、これに対してプロタゴラスは勇気はものを怖がらないことであるとしても、逆が必ずし成り立つわけではなく、ものを怖がらないことは必ずしも勇気ではないと反論する(34)。 38章までの快楽に負けることについての議論を踏まえ、それと同じ図式(自分から悪へ進む人はいない、悪へ進むのは無知の故である)によって勇気は他の四つの徳とは異質なものであるというプロタゴラスの説に対して検討が加えられる。勇気のある人は猛進する人であるというプロタゴラスの言葉を受け、勇気のある人が猛進するのは立派なことや快、つまり善であり、臆病な人や向こう見ずな人は愚かさの無知の故であり、つまるところ勇気とは「恐ろしいものと恐ろしくないものに関する知恵」ということになる。 ・快楽に負けることについて 快楽は善であり、不快は悪であることを踏まえた上で、善を知りつつ悪を行うということ、快楽に負けることはどういうことかが論じられる。ソクラテス流の誘導尋問で、快楽に負けることは目先の快楽を選ぶことであり、ある快楽が悪なのはそれによって奪われる快楽がより大きい場合であり、目先の快楽を長期的で総量のより大きい快楽や後になってからの快楽よりも選ぶことであるとすれば、それは「人間は善い事柄を知っていながら、その瞬間の快楽に打ち負かされて、それを行おうとしない」(p. 142)という主張が導かれる(34-36)。しかし、これでは善に打ち負かされて悪を為す、つまりより少ない善の代わりにより大きい悪を選ぶということになる。とすれば、それは快楽計算をする場合ということになり、悪を選ぶ人にかけているのは「計量術の一種としての知識」ということになる。以上より、快苦の選択で過つのは知識を欠いているが故、ということになり、快楽に負けるということの意味することは無知ということになる(37)。 ・最後のどんでん返し ソクラテスは徳は教えられえないとするが、彼の主張するように徳が知識であるならば、それは教えるものであるはずだし、プロタゴラスが言うように徳は知識とは別のものであるとすれば、それは教えられえないものである、と(40)。 『パイドロス』 ・恋をしていない者に身を委ねるべきという話 恋をしていない者に身を委ねるべき理由は概して「恋していない者の思慮ぶかさを讃え、恋している者の愚かさを避難する」(p. 35)というもの。 欲望は快楽への欲望と、最善のものを目指す欲望とがあり、これらはある時は和し、ある時は互いに争う。恋は美を目指す盲目的な欲望(p. 41-43)。 恋する人は自分より劣った者を心地よいと感じる。恋をする人は病んだ人であり、自分に逆らわないものを心地よく感じる。「恋する人間とは、次のような体質のものを追いかけるものだということがわかるだろう。すなわち、それは剛健な者ではなく、何か柔弱な者であり、明るい太陽の中ではぐくまれた者ではなく、うすぐらい蔭の下で養われた者であり、男らしい労苦と鍛錬に流す汗を知らずに、女々しい軟弱な生活になじんだ者であり、身にそなわる自然の美しさがないために、色をつけ飾りをこらして人工的に身を粧うものであり、そのほかすべてこれに準ずるような生活をしている者なのである」(p. 47)。そして、相手をそのように仕立てようとする。つまり、家族も友人もなく孤独で、物や家を持たない、貧乏な人間にしようとする。だから、立派な人間にならないようにと嫉妬深くなり、愛人は無知、孤独、財産を持たないなどの害悪を受けることになる。さらに快楽のために愛人にかしずき、猜疑して見張り、罵る。しかし恋が冷めれば理性が戻ってきて、冷たい態度をとるようになる。「しかも、恋のつづいている間は有害な人間であり、不愉快な男である彼は、やがて後になってその恋が冷めてからは、不実な人間となる」(p. 51)。 ・取り消しの詩その1:エロースの狂気 しかし以上のような話はエロースを悪く言う不敬虔な話であり、神や神にゆかりのあることが悪いものであるはずがないとして、ソクラテスはエロースに取り消しの詩を捧げて償いをすると宣言する。 ところで狂気には「人間的な病によって生じるもの」と神懸かりの狂気がある。後者には予言の霊感(アポロンの狂気)、秘儀の霊感(ディオニュソス)、詩的霊感(ムゥサ)、そして恋の狂気(エロース)があり、最後のものが最も善きものである。そしてソクラテスは占い術についての語源の話から「神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものである」(p. 64)と論じる。 ・取り消しの詩その2:ミュートス 魂は始源であり、自分で自分を動かすすものであるが故に不生不死なるものであり、翼を持った、御者と二頭立ての馬車のようなものである。 魂は馬車に乗った神々の天空の行進に従って空を飛び、神々は天球の外側まで飛んで「知識」、真実在(要するにイデアのことか)を観照して天球内側に戻ってくる。神々の行進についていくダイモーンのうちあるものは天球の外側まで飛べるが、あるものは悪い方の馬のためについていけず、他のものとの押し合いへし合いで羽を折られて地に落ちる。これらの魂は真実在を見た度合いに応じた様々なタイプの人間に生まれ変わり、その生き方に応じて転生を繰り返し、判定を受ける。もし善き生を繰り返せば再び翼が生え、神々の回遊に戻る。 人間の生では真実在は忘れられるが、かすかな記憶は残っている。思慮は視覚(「肉体を介してうけとる知覚の中で、いちばんするどい」(p. 84))によっては捉えられないが、視覚に訴えるような映像があれば、それへの恐ろしいほどの恋心を駆り立てる。そういうわけで、「美のみが、ただひとり美のみが、最もあきらかにその姿を顕し、最もつよく恋ごころをひくという、このさだめを分けあてられたのである」(p. 84)。恋がこのようなものである以上、恋人には回遊の時につき従っていた神に対するように振る舞い、恋人をその神に似た人にしようとする。 恋の仕方に関しては、良い方の馬と悪い方の馬のどちらが支配的であるかに応じたものになる。悪い馬の場合は放縦に引きずられて失敗するが、やがて改心して恥じ入り、放縦が多少和らいだような仕方になる。良い馬の場合、とりわけ良い馬同士の場合は「知を愛し求める生活」(p. 100)になる。名誉を求める人はこれらの中間であり、酒に酔っているときとか注意が散漫になった時には悪い馬が優位に立って事に及ぶ。しかしこれは精神の全体がよしと決めて行うことではないために少ない機会にすぎず、「たしかに、こういった二人の者もまた、先の二人ほどではなにしても、互いに愛情によって結ばれた友なのであって、恋のつづく間も、恋がさめてのちも、その親しいあいだがらのままで生を送るのである。……そして、その生涯を終えるにあたっては、翼なしに、しかし翼を生じようとする衝動をもちながら、肉体をはなれて行く」(p. 101)。 ・弁論術は識別の技術である パイドロス曰く、弁論術とは本当に正しい事柄ではなく、そのように思われるように語って説得する技術である。 ソクラテスはより敵対的にではあるがこれに同意するが、弁論術について悪く言い過ぎたと言って話を転じる。曰く、弁論術とは「言論による一種の魂の誘導」(p. 116-117)であり、反対のことを主張するにしても、あるいは法廷弁論や民会での演説などの個々の場合の全てに適されする一つの技術である。その内実はというと、事柄が互いに似ているのか否か、誰にも明らかなものとそうでないもの、その真実について識別する技術である。というのも説得やごまかしのためには話の推移を少しずつにして飛躍を小さくしたり、あるものと他のものとが類似している点をうまく利用しなければならず、そのためには上記のようなことをわきまえている必要があるから。そのようなわけで、リュシアスが誤った論を立てたのはその主題である恋が誰の目にも明らかなものではないためである。 ・ディアレクティケー ディアレクティケーは分割(「自然本来の文節にしたがって切り分ける」(p. 134)こと)と総合(多様にちらばっているものを綜観して、これをただ一つの本質的な相へとまとめること」(p. 133))であり、これこそが「言論の技術」である。パイドロスはソフィストたちの様々な話し方の技術がディアレクティケーを取り去った弁論術であると言うが、ソクラテスに言わせればこれらは予備的な事柄にすぎない。それは体を温めたり冷やしたり、嘔吐させたり下痢させたりといったことを心得ているが、これらの処置をどのような時、どのような人に、どの程度まで適用するのかを知らない者が人を医者にできると称したり、細かいことについての長い台詞、大きな事柄についての短い台詞、哀れっぽい台詞、威嚇的な台詞など色々な台詞の作り方を知っているだけの者がこういったことを教えれば人に悲劇(パイドロス曰く「そういったせりふを、相互の関係においても全体との関係においても、ぴったりと適合し組み立てたもの」(p. 142))の創作を授けることになると言っているようなものである。つまるところ、「ある人々は、ディアレクティケーの知識がないために、弁論術とはそもそも何であるかを定義することができず、そしてそのように弁論術の何たるかを知らないことの結果として、技術にはいる前に予備的に学んでおかなければならない事柄を心得ているだけで、弁論術そのものを発見したと思いこむものだ。そういう連中は、この予備的な事柄を他の人々に教えれば、それで自分たちは弁論術をすっかり完全に教えてしまったことになると信じていて、それらのひとつひとつを応用して説得力をもった話をすることや、全体を構成することはといえば、それはとるにたらぬ仕事で、彼らの弟子たち自身が、話をするときに自分の力で身につけるべきだと思っている」(p. 145)。 ・弁論術と医術の類比、弁論術はどんな知識であるか いずれも取り扱う対象、魂と身体の本性について分析し、その知識を持たねばならないという知識としては同じあり方をしている。それらの対象の本性についての知識とはつまり、それが単一のものかそれとも複数の種類を持つものか、どんな技能を持ち、どんな作用を受け、与えるのかについてのものである。 それゆえ、弁論術は話し方の種類と魂の種類と反応を分類し、それぞれの種類の魂がどんな話し方、どんな原因で説得されたりされなかったりするのかを教えるものでなければならない。しかしこれは並々ならぬ労苦を払って獲得される能力であり、テイシアスが説くような真実らしく見えるもの、即ち多数の人にそうだと思われるものを追求することとは違って「分別ある人はそれだけの労苦をはらう目的を、人間相手の話や行為におくべきではなく、すべてにつけてできるかぎり、神々のみこころにかなうことを語り、神々のみこころにかなう仕方で振る舞いうるようになることに、おかねばなりません」(p. 160)。 ・書かれた言葉は不完全 話すことについて語り終わった今、書くことについて、これが技術といえるのかがテウトの神話という形を取りつつ述べられる。曰く、文字を学ぶことはむしろ記憶力の訓練をなおざりにするために記憶の助けにはならず、想起の助けにしかならない。書かれた言葉は反応を返せず、反論もできない、話さなくてもよい人にも語りかけてしまう、父親の助けを必要とする「自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできない」(p. 166)。これに対し、話された言葉は正嫡の子で、語るべき人に語り、黙るべき人には黙り、反論するなどして自分を守る力を持っている「魂の中に知識とともに書き込まれる言葉」(p. 167)であり、書かれた言葉はこの影にすぎない。 言葉を書くことは慰み、言葉を話すことは真剣なこととして対比される。「文字という園に種をまいて、ものを書くのはーーもし書くとした場合のはなしだがーー、慰みのためにこそそうするのだろうと思われる。それは、『もの忘るいるよわいの至りしとき』にそなえて、自分自身のために、また、同じ足跡を追って探求の道を進むすべての人のために、覚え書きをたくわえるということなのだ。そして彼は、自分がその園にまいた種が柔らかく生長するのを眺めてよろこぶだろう。そして、ほかの人がほかの事柄を慰みの手段に用い、酒盛りや、他のそれに類したことによって自分自身をうるおしているときに、けだし彼は、そんなことの代わりに、ぼくが言うようなことを慰みの手段として、生をおくることだろう」(p. 169)。これに対し、「そういった正義その他に関する事柄が、真剣な熱意のもとにあつかわれるとしたら、もっともっと美しいことであろうと。それはほかでもない、ひとがふさわしい魂を相手に得て、ディアレクティケーの技術を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつけるときのことだ。その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけた人をもたすけるだけの力をもった言葉であり、また、実を結ばぬままに枯れてしまうことなく、ひとつの種子を含んでいて、その種子からは、また新なる言葉が新なる心の中に生まれ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ。そして、このような言葉を身につけている人は、人間の身に可能なかぎりの最大の幸福を、この言葉の力によってかちうるのである」(p. 170)。 リュシアスのようなロゴグラフォスにせよ、ホメロスのような詩人にせよ、ソロンのような立法者にせよ、書き物からつけられる肩書きではなく、「真剣な目的をもって当たる仕事」(p. 175)からつけられる名前で呼ばれるのがふさわしく、それは「愛知者」やこれに類するものである。 『エウテュデモス』 プロトレプティコス・ロゴス(説き勧める言論) 幸福には、富、健康、生まれの良さ、尊敬などの(一見して)善いものだけがあっても充分ではなく、それらはそれ自体として値打ちを持っていない。「もし愚昧がそれらの道案内をすれば、それらが、その悪くある案内者に随うことができればできるだけ、その反対のものどもよりもそれだけ大きな悪いものである。これに反して、もし思慮や知恵が道案内をすれば、それらはそれだけ大きな善いものである、しかしそのどちらも、それら自分らだけでは、何の値打ちもないものだ」(281D-E)。そして何よりもそれらを正しく用いて成功、狙ったものを得ることが必要となる。笛を吹くためには笛を吹く知識がいるように、成功、狙ったものを得ることは知恵を持っていることに依る。「それでは、知恵はどんな場合にも人間たちに成功を得させるものだ。何故かというと、知恵はどんな時でも何についても為損じるというようなことは決してなく、むしろそれは正しく行って、為当てるに違いないからだ。そうでなければ、実はもう知恵ではないだろうからな」(280A)。 『カイレポン』 ・カイレポンによるソクラテスの説の要約 人々は魂の世話(自分自身に限らず子供の魂についても同様)のことを配慮しておらず、「主役となって治めることになる魂のほうをないがしろにして、その下に治められることになる身体のほうに、まるっきり真剣になってしまっている」(407e)。だからそのような魂の使い方を知らぬ者は魂を下手に用いるくらいならば、舵取りをより巧い者に任せるかのように、自由民としてでなく「だれかに仕える者」(408a)として生きる方が良い。そしてこの舵取りの術とはソクラテス言うところの「国家指導の術」(ポリーティケー)、別の言い方では「裁判する術であり正義の技術」(408b)である。 ・カイレポンによる批判 ソクラテスの言うことは立派だが、さてその先からどうなるのか、つまり、「魂の善さ(徳)を目指す技術」とは何の技術であるのかに答えが与えられなければならない。つまり具体的にはどんな技術で何をどうすれば魂を善くできるのか、ということ。 技術にはその作物と教科がある(その技術によって生まれるものと、教えうる知識)以上、正義の技術にもこれがあるはずであるが、カイレポンが話を聞いたソクラテスの友人たちは、「ためになるもの」、「まさにあるべきもの」、「益」、「利」などと答えるが、それらはどの技術の作物(医術の作る健康など)も持ち合わせているものであり、正義の技術固有の作物ではない。それは親和、友愛だと言う者もいたが、有害な愛もあるために彼はそのようなものは偽りの友愛であり、「真実の友愛と親和は心を一つにすること」(409e)であると主張するに至る。しかし、「医術だって、また、どの技術だって、みな心を一つにすることの一種なのだ。そして、その一致が何を対象とするものなのかを言うことができるのだ。しかし、君が正義の術とか心を一つにすることとか言っているものは、どこへつながりをもつものなのか、まったく見当がつかず、それの作る物も、いったい何なのか、不明だ」(410a)ということになる。 以上より、カイレポンは正義の技術なるものは実践につながらない、と難じる。「あんたという人は、徳に意を用いよとすすめることにかけては、世にもすぐれた実践家だけれども、しかし二つのことのうちのもう一つのほうは、要するにそれだけしかできず、それ以上のことは何もない人なのだと見てとったからだ。こういうことは、ほかのどの技術にもありうることなんで、たとえば船の舵をとることは知らなくても、その舵取りの技術について、それが人間にとってどれだけ価値の多いものであるかというような、推賞の辞については、これをうんと勉強しておくというようなことがあるあるわけで、これはその他の技術についても同様なのだ。だから、ちょうどこれと同じ非難を、あんたの正義の技術についてもあびせる人が、たぶん、出てくるだろう。あんたは、正義というものを上手に礼賛しているけれども、しかしそれだからといって、正義の知識をちょっとでもよけいにもっているわけではない、とね」(410b-c)。二つのことというのは、徳の価値の推賞の文言とる方法で、ソクラテスはそのうち前者しか知らないというわけ。 思うに、この「何の技術で、何を生み出すのか」という批判は弁論術に対するソクラテス・プラトン陣営からの批判をそっくりそのまま哲学に向けたものになる。 『法律』 立法・政治の目的は勇敢で、慎みある(恐れるべきものを恐れること)人を作り上げることである。勇気や慎みを身につけさせたり、人をその点でテストするにあたってはそれらを実際に発揮するような場面に人を置くのが良く、酒宴は(スパルタやクレタでは良からぬものとされているが)適切に用いれば、慎みの訓練やテストの役に立つため、政治において有用である(B1)。 慎みとは快楽や恐怖に負けることで、逆に勇気は苦痛に負けないことである。スパルタとクレタは人を苦痛に負けないようにしようとするが、快楽に負けないことは(酒を禁じるなどして)なおざりにしている。 国家が滅ぶのは支配者の無知のためである。その無知(とりもなおさず最大の無知)とは、快苦の感じ方と理知的判断との不調和・不一致である(これは民衆と支配者との関係と類比的)。逆に言えば、両者の調和こそが知恵である(上巻, p. 185-186)。 専制(典型的にはペルシア。勝手気ままを許さない権威を特徴とする。)と民主制(典型的にはアテナイ。自由を特徴とする。)はそれが粋すぎて極端になれば災いをもたらす。スパルタが複数の政体を混ぜ合わせたように、極端に走らず適度を守るのが良い。 民衆は慎みを持ち、知者の支配を受けるべし。新たに立法をするにあたって最良の国家はあらゆる得を兼ね備えた僭主が支配する国家である。というのも、彼を導いて範を示させさえすれば、国家もその民衆も彼に倣うから。 優れている者が支配する者であるべきであり、同時に尊敬されるべきものである。魂こそ心的なものであり、最も尊敬されるべきものである。 犯罪の原因は(1)無知(最善ものもへの判断が失われていること)、(2)苦痛(激情(怒り)と恐怖を起こして犯罪の原因となる)、(3)快楽や欲望に分けられ、(1)はさらに(1-1)単なる無知、(1-2)「二重になっているもの」、即ち、知らないことを知っていると思い込むという無知に分けられる。(1-2)はさらに(1-2-1)強さと力(暴力)を伴ったもの、(1-2-2)弱い力しか伴わないものに分かれ、前者は重大な犯罪だが、後者は軽犯罪である(下巻, p. 187-190)。 ・神についての誤った三つの考え (1)神はいない。(2)神は板としても人間のことを気遣っていない。(3)神は犠牲や祈願によって機嫌を取ることができる。 「現代の知者たち」(ソフィスト、とりわけアナクサゴラスが想定されているらしい)は、太陽は星は神ではなくただの石や土であって、神的なものではなく、人間を配慮する能力を持たない、と論ずる(下巻, p. 248)。物事のうち最高最美のものは自然によって偶然作られたものであり、人工物はそれを加工したものに過ぎず、二次的で真実性も持たない。法律も後者の類いのものであり、これよりは「自然に従った正しい生活」(カリクラテスの正義論的なもの)の方が良いと論じられている。神々すら自然にではなく、法律(習慣)によって存在しており、正しいことも美しいことも法律週間の賜であると考えられる。 ・ソフィスト神学への反論:物質に対する魂の優越、神は存在し、人間を配慮していること 以上のような見解に対し、アテナイからの客人は、魂が物質に先行して存在しているとすれば技術や知性が自然に先行し、より優れたものということになる(法律は前者に属する)と論じる。 運動は10種類(一つの場所での回転運動、多くの場所を移動する運動(滑ると転がる)、分解、豪勢、増大、現象、消滅、生成の八つに加え、他のものを動かすが自分自身を動かすことのない運動、他のものも自分自身をも動かすことができる運動)に分類され、最期のものこそがあらゆる運動のうち最初のもの、全ての運動の動因である。このような運動をする動者こそ「生きている」と呼ぶべきもの、とりもなおさず「魂」である。このような動者はそれ以外のものに先行して存在し、それらの動因であり、最も優れており、魂(後世の人が言うところの世界霊魂)は天を統括している。そしてこのメモの前段落を前提とすれば、魂に関する諸性質は物的な諸性質に先行し、善悪、美醜、正と不正の原因は魂である(下巻, p. 279)。 回転運動は知性と似た質の運動であり(「『知性』も、一つの場所で動く運動も、その両方ともが、回転している球の運動に似ながら、同じ場所で、同じ中心をめぐって、同じものとの関係で、一つの理法と一つの規則に従って行なっている」(p. 284))、そのような運動をする物即ち惑星を動かす魂は神に他ならない。それ故、神は存在する。 神々は人間に無関心という主張への反論。無関心は知らないが故のことと、知ってはいても無頓着や安逸に基づいてなされるものとがあるが、神々は全知で善良であるためにいずれもありえない。「怠惰は臆病の子供であり、無頓着は怠惰と安逸の子供」(下巻, p. 295)であり、神が臆病なはずはない。神々は宇宙全体とその秩序を配慮しているのであって、その部分をではない。宇宙は全体としては最善であり、人がどんな目に遭ってどんな人になるかは各人の意志に責任があり、神は各人の有様、即ち宇宙全体を配慮して人を幸福にしたり不幸にしたりする。 神々は最高の守護者(番犬との類比)であるが故に買収されて不正を見逃すことはない。 デカルト『方法序説』 デカルトの研究方法を構成する四規則:明証性の規則(疑いの余地のないほど明晰且つ判明に精神に現れるもの以外は真として受け入れない)、分析の規則(難問をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること)、総合の規則(単純で認識しやすいものから複雑なものの認識へと進むここと)、枚挙の規則(完全な枚挙と全体にわたる見直しをして見落としがないと確信すること)(28-29) 線のメリット:複数の次元を等しく計量的に扱える(30〜31-1) 形而上学的確実性は、そうでないことがありうるそれ以外の確実性と区別される。形而上学的確実性は、完全な存在者たる神の存在→我々の観念は神に由来する→我々の観念のうち明晰判明なものは実在的且つ神に由来し、真でしかありえない。(53-55) バークリー『ハイラスとフィロナスの三つの対話』 可感的事物であり、直接的に知覚される文字は間接的に(文の内容である)神や美徳などの思念を心に「示唆」する(p. 28)。 物質の性質の間での区別である一次/二次性質の区別はバークリにとっては可感的性質内での区別として用いられている。物質自体に変化がなければその性質に変化はないという『対話』の前提、感覚の相対性の議論(あるものがAには青く見えてBには赤く見えることから、変化についての前提を踏まえれば色の観念は感覚する者の側にある)の応用(ある物の大きさはダニと人間では異なって見える)から二次性質のみならず一次性質も物体の側の性質ではなく心の中にあると論じられる。一次/二次性質のうち前者の存在だけが否定されるのは、それが強く快苦を持つからに過ぎない(p. 69)。 「類似性の原理」:観念や感覚に似ていないもの(とりもなおさず知覚されないもので、物質が念頭に置かれている)は観念や感覚に似ることはできない。つまり観念や感覚は物質的対象の写しや像ではあり得ない(p. 102)。 (バークリの取り上げる)マールブランシュの説は、魂も神はいずれも非物質的なものであり、魂は物質的なものとの結合できないが、神の実体との統一によって知覚できるようになり、そういった理由から神の本性は事物を心に開示する、あるいは再現する(p. 119)。しかしバークリは受動的で不活性なものである観念が神の本性や実体ではあり得ないし、マールブランシュの考えでは神が造った物質世界が余計なものということになってしまうと異を唱える(p. 120)。マールブランシュは物質主義者とみなされ、批判される。 疑問点:観念が心の中にしか存在できないのに私の心から独立して存在しているとはこれ如何に?(p. 120) 観念の存在論的身分とはいかなるものか? 物質は観念の原因ではない。物質は「普通の意味では延長し、固性があり、運動可能で、考えず、活動しない実体」(p. 125)であり、能動的ではないし考えるものでもない(だから思考の原因たりえない)。能動的なものは意志を持ったものであり、意志を持つ心のみが観念の原因たりうる(p. 129)。だから物質は観念の原因たりえない。これに対してハイラスが物質は神が観念を生み出す道具だと述べたのに対し、フィロナスは完全なる存在は何かを行うにあたり道具を必要としないし(道具を使うのは有限の能力しか持たない者であるから)、道具の使用は別の行為者(道具を作った者だろう)の規則によって行動者を制限することになるからして神にはそぐわないと反論する。 バークリの経験論的知識の正当化。バークリは、たとえば手袋の存在はこれを見て、触って、はめることがこの手袋の存在の十分な証拠になるのであり、知覚不可能なものの実在性を想定することが知覚可能なものの存在の証拠となることはないと論じる。訳注九七によれば、バークリは知覚不可能な物質を否定することで物質主義が陥ると考えられていた懐疑論を回避することができるが、信念の正当化については十分に議論していない。バークリにとって様々な事象は神が定める自然法則を形成しており、この自然法則への信頼感が帰納的知識に正当性を与えているとされる。 物質的実体を前提し、これと可感的な現れを区別することで事物の真の本性への無知へと導かれ、さらにそこから事物の存在への懐疑へと進むことで物質的実体の存在への懐疑、即ち懐疑論へと進む、というのが第三対話の冒頭にあるハイラスの懐疑論のあらすじ。 精神は不活性で受動的な観念しか知り得ないのになぜ神の存在を知りうるのか? 神についての思念は魂の能力を高めて不完全性を除去しようと反省することで得られ、反省と推論によって神の思念を得ることになる。観念の存在が何に依存しているかを考えることで神の存在が推理される(p. 162)。 精神は観念の持つような性質を持たず(つまり知覚の対象たりえない)、同じことは物質にも言える以上、一方を存在しないというのは不公正ではないかというハイラスの異論に対し、フィロナスが答えて言うに、物質の存在には矛盾が含まれているが、精神の存在はそうではなく整合的であり、前者が持たれず後者が持たれるのはそうだから。そして精神の観念は持たれないにしても、その思念は反省によって得られる。「私自身は観念ではなく、何か別のもの、つまり、知覚し、知り、意志し、観念に作用し、思考する能動的な原理である」(p. 166)。 あるものが存在すると思うのは、それを知覚しているからだという常識に訴えてフィロナスは存在するとは知覚されるということであるというテーゼを補強する(p. 167)。 罪とは理性は宗教の法則からの意志の内面的な逸脱であり(例えば合法的に犯罪者を死なせるのは罪深いこととは思われない)、罪は物理的な行動にあるのではない。だから神を罪の原因とみなすのは間違いである(p. 172-173)。 錯覚に対するバークリの見解は、誤っているのは感覚ではなく、知覚される観念と結合している観念についての推論であるというものであるが(p. 176-177)、バークリが自分の見解との整合性を主張している常識的な見解では感覚は誤りうるものであるため、この議論の他の論点との整合性は怪しいといわれる(訳注一一五参照)。 (視覚だったり触覚だったり)観念同士の結合を知ることが物事の本性を知ることであるという。これはつまり、たとえば金色であると視覚的に見える色が固い手触りと結合していることを知ることは金の本性についてより知ることになるということであろう。異なった状態で異なった現れをしたとしても、それは感覚の信用できなさを示すのではなく、新たな観念が既存の観念と結合されたのだとバークリは考えている(p. 191-193)。 他者と自分の観念の同一性の問題について、フィロナスは、持たれている観念は思念は変わらない(「もし、同じという言葉を通常の意味で取るならば、異なった人々が同じものを知覚できるのは確かであり、同じものや観念が違う心の中に存在できるのです」(p. 196)。)のに対し、言葉は恣意的なものであり、同一性の問題は統一性と多様性のどちらに重点を置き、同一であるかどうかについての言葉の上で違いを設けているに過ぎないと考える。 対象が「心の中に存在する」とはどういうことかというハイラスの反論に対し、フィロナスは、それは物体がある場所に存在しているというような意味で取られるべきではなく、心が対象を知覚・把握すること、外部からそれ(観念自身)とは違うものによって作用されるということだと答える(p. 203)。 通常は感官の対象は「物」と呼ばれており、これを「観念」と呼ぶかどうかは言葉の上の問題でしかない(p. 205)。 神は永遠に全てを知っている、観念(の原型)は神の心の中にあるとすれば創造はどうなる? バークリの考える創造とは事物が被造物に知覚されるよう命令するということである(p. 211)。 『奇跡論・迷信論・自殺論』 ・意志と自由と神の関係 「神性の領分は、なんらかの作用のなかに直接に出現するものではなく、時間の開始以来確立されているかの一般的で不変な諸法則によっていっさいの事物を統御するのである。あらゆる出来事は、ある意味では全能神の行為と宣言されてよいであろう。それらは、すべて神がその被造物に付与した諸力に由来しているからである。……情念が動くとき、判断が宣言するとき、四肢が従うとき、これらすべては神の作用であり、これらの生命的諸原理の上にも、非生命的諸原理の上にも、同じように神は宇宙の統御を樹立したのである」(「自殺について」, p. 71-72)。この段落の以下の文を読む限りでは、神の法則に従って被造物は動き(生命の場合は自発的に)、この被造物の動きは神の法則に抵触していないわけだから、自殺といえどもその例外ではなく適法というわけ。自由意志と神の法則は両立可能であるということが含意されているようだ。 『道徳原理の研究』 ・ざっくりとしたまとめ 正義という美徳の起源はその有用性(utility)にあり、有用だから褒めそやされる。仁愛も然り。 自然の資源が奪い合ったり所有権で区切ったりする必要がないほどに潤沢にある場合、逆に絶対的に不足している場合、いずれいおいても正義は生じないし、有用でもない。 顧慮に値しないほど弱い相手、つまり正義を認めても有用でない相手には正義は認められない。「我々の許可が、それによって彼等が所有物を保有する唯一の保有権であり、我々の同情と親切とが、それによって彼等が我々の無法な意志を制する唯一の抑制である。そして、自然においてそのように堅固に確立された権力の行使から何の不便も生じないのであるから、正義と所有権の制約は全く無用となり、そのように不平等な連合対においては決して存在しないであろう」(p. 28-29)。 所有権は民法に基づき、民法は社会的な利益に基づいている(p. 37)。 「社会の維持のための正義の必要性が、その美徳の唯一の基礎である。そしてこれ以上に高く評価される道徳的卓越性は存在しないのであるから、我々はこの有用性という事情が一般的に言って最も強い活力と、我々の感情に対する最も完全な支配力とを有すると結論してよいであろう。したがって、それは忠実、正義、誠実、高潔およびその他の尊敬すべき、そして有用な諸性質や諸原理の唯一の源泉であるのと同様に、人間性、仁愛、友情、公共的精神、およびこの種の美徳に帰属される価値のかなりの部分の源泉であるに違いない。何らかの原理が、一つの事例において偉大な勢力と活力とを有することが判明した場合には、あらゆる相似する事例において同様の活力をそれに帰属させることは、哲学の規則および常識の規則にさえ完全に一致する」(p. 46)。 道徳的善悪・好悪の起源。「社会的美徳は、自然的な美と愛すべき性質とを有することが承認されなければならない。そしてそれらが先ず初めに、あらゆる訓戒あるいは教育に先立って、無教育な人間に社会的美徳に対し敬意を払わせる、また彼等の愛情を引き寄せるのである。そして、これらの美徳の公共的公用性は、そこから美徳の価値が引き出される主たる事情であるから、美徳が促進しようとする目的は、とにもかくにも我々には快く、そして或る種の自然的愛情を把えるものでなければならないことになる」(p. 61)。 美徳への是認は純粋に利己的な動機から愛情なのかというと、そうではなく、ヒュームは美徳への是認を利己心、自愛に還元するのは誤っているとした。「有用性は快く、我々の是認を引きつける。これは日々の観察によって確認される事実の問題である。しかし有用であるとは何か。何のために有用であるのか。もちろん、或る人の利益のためにである。では、誰の利益であるのか。我々自身の利益のみではない。というのは、我々の是認は、しばしばそれ以上に及ぶからである。したがって、それは是認される性格または行為が役立つ人々の利益であるに相違ない。そしてこれらの人々は、いかに離れていても我々にとって全く無関係という訳ではない」(p. 65-66)。我々には自分には無関係な公共の利益を愛し、是認する共感的な感情があるわけである。だから「歴史書の精読は静かな楽しみであるように思われる。しかし我々の心臓が、歴史家によって記述される人々に呼応して鼓動するのでなければ、何の楽しみでもないであろう」(p. 72)。この共感的な感情は一般的な感情でもあり、「人々の性格に関して我々が冷静に判断をし、論述する場合には、これらの差別を一切無視し、我々の感情をいっそう公共的、社会的にする」(p. 79)ような一般的観点を持つ。 道徳的区別(善悪の区別)は有用・有害の区別と同じであること。「……それでもなお有用なものと有害なものとの間の選択、または区別はなされるに相違ない。さて、この区別は、あらゆる部分において、その基礎がしばしば論究され、そして失敗に終わることが多かった道徳的区別と同一である。同一の精神的資質は、あらゆる状況のもとで、道徳の感情と人間性のそれとに快い。同一の気質は、前者の感情と後者の感情のそれと高い程度に受容しうる。そして対象がより接近または結合することによって生ずる同一の変化は、前者および後者に生気を与えるのであるしたがって哲学のあらゆる規則によれば、これらの感情は、本来同一のものであると結論しなければならない。何故ならば、それらはここの事項において、最も微細な点に至るまで、同一の法則に支配され、また同一の対象によって動かされるからである」(p. 88)。 自分自身に有用な諸性質が賞賛されるのは、その性質とその賞賛によって利益を得られるのではないかという自愛からではなく、共感的な感情による。「……我々あるいは共同体には何の関係もなく、所有者の有効性にのみ資するような諸性質もなお敬意を払われる評価されるのであるから、我々は、どのような理説または体系によってこの感情を自愛から説明し、あるいはそれをあのお気に入りの根元から引き出すことができるであろうか。この際、他の人々の幸福と不幸は、我々にとって全く無関係な光景ではなく、前者の眺めは、その原因においても結果においても、太陽の光か、あるいはよく耕された平野の眺望のように(我々はこれ以上高い要求はしないが)、密やかな喜びと満足とを伝えるが、後者の外観は、垂れ込めた雲ある意は不毛の地の風景のように、想像力に憂鬱な湿気を与えるということは認めざるをえないように思われる。そしてこのことがひとたび容認されるならば、困難は過ぎ去り、その後は人間生活の諸現象に関する自然で無理のない解釈が、すべての思弁的研究者達の間に普及することを、我々は期待してよいであろう」(p. 98)。 美の起源。「効用性とその反対との観念は、何が美しいか、または醜いかを全面的には決定しないものの、明らかに是認あるいは嫌気のかなりの部分の源泉である」(p. 99)。 「高邁で野心的な人は、名誉と権威、名声と恩典とを求める。財産が主たる偶像であるようなところでは、腐敗、金銭づくの行動、強奪が広まるが、芸術、工業、商業、農業が栄える。前者の偏見は、軍事的美徳にとって好都合であるから、君主制に一層適合している。後者は産業を刺激する主要な拍車であるから、共和政治によりよく合致する。したがって我々は、これらの政治形態のおのおのが、それらの習慣の効用を変化させることによって、通常、人間の感情の上に、それに比例した効果を持つことを見いだすのである」(p. 105)。 共同体への善、所有者自身への善の他、「見る者の上に満足を拡散し、友情と尊敬を招き寄せるもう一組の諸心的性質」(p. 109)がある。「それを所有する当の人物にとっては、それの直接的感覚は快い。他の人々は伝染または自然敵同感によって、同じ気分に溶け込み、その感情に感染する。そして我々は、心地よいものは何であれ愛さずにはいられないので、そのように大きな満足を伝えてくれる人物に対しては、好意的な情動が起こるのである」(p. 109)。 まとめではないが、ちょっと気になったフレーズ。「それでもなお我々の心の決定を指導し、他のすべてのことが等しければ、人類に有用であり役立つものを、有害なもの、危険なものよりも冷静に選択させるに相違ない。したがって道徳的区別が直ちに生ずる。それは非難と是認との一般的感情、すなわちいかに微弱であっても、一方の対象に向かう傾向と、これに比例する他方の対象に対する嫌悪である」(p. 138)。 個人的視点と一般的視点。「人が他の人を彼の敵、彼の競争相手、彼の対抗者と称するときには、彼は自愛の言葉を語り、彼自身に特有な、そして彼の特殊的事情と状況から生ずる感情を表現するものと理解される。しかし彼が誰かに、邪悪なあるいは憎むべきあるいは堕落したという形容詞を与えるときには他の言葉を話しているのであり、彼の話を聞くすべての聴衆が彼と一致する筈であると期待する感情を表現している。したがって彼はこの場合、彼個人の特殊的な状況を離れて、彼と他の人々とに共通な視点を選択しているに相違ない。彼は人間的機構の或る普遍的原理を揺り動かし、全人類がそれに対し調和的に反響する琴線に触れているに相違ない」(p. 139)。ここでちょっと思ったこと。この一般的視点は美徳への賛辞が自愛に由来するという見解に対するヒュームの反対の現れの一つであろうが、一般的視点と有用性はどうもあまり合致しないように思われるわけだがどうだろうか。 理性は情念の奴隷たること。「しかし理性は、完全に助長され改良された場合には、諸性質や諸行為の有害または有用な傾向性を我々に教えるには十分であろうが、それだけではいかなる道徳的非難もしくは是認を産出するのにも十分ではない。効用性は或る目的への傾向性に過ぎない、そして我々がその目的に対して全く無関心であるならば、その手段に対しても、我々は同一の無関心を感ずるであろう。有害な傾向性よりも有用な傾向性を選択するために、ここで感情の表出が必要になる。……それ故にこの場合には、理性が諸行為のそれぞれの傾向性を我々に教え、人間性が有用かつ有益なものを選んで区別するのである」(p. 156-157)。 人間の科学の特質と自然さ。「この種の哲学の場合には、物理学の場合と事情は同じではない。自然における多くの仮説は、最初のが意見に反してはいたが、より精密な吟味によって、堅固で満足すべきであることが判明した。この種の実例は非常にしばしば起こることなので、機知に富む上に、賢明な或る哲学者(フォントネル氏)は、もし何らかの現象が産出される方法が一つ以上存在するならば、最も明白ではなく、また有りふれてもいない原因からそれが発生したという、一般的な推定が成立すると敢えて断定したのである。しかし我々の情念と人間の心の内的作用の起源に関するあらゆる研究においては、常にその反対の推定がなされる。いかなる現象の場合にも、挙げうる最も単純で最も明白な原因が、おそらくは真の原因である。哲学者が自己の体系を説明するに際して、何らかの非常に複雑な、また精巧な反省を用い、いかなる情念あるいは情動の産出にもそれらが本質的であると想定せざるをえないときには、我々はそのような虚偽の仮説を極度に警戒すべき理由を有するのである」(p. 173)。 仁愛を自愛に還元するよりは、仁愛そのものを認める方が理論の単純性では優れている(p. 173)。 倫理学における言葉上の問題。「かくして、もし我々がここで、心のあらゆる称賛に値する諸性質は、美徳あるいは道徳的属性と見なされるべきであることを主張するか、もしくは否定するとしたら、多くの人々は、我々が倫理学の最も深遠な思索の一つに入っていると想像するであろう。もっとも、そのとき、おそらく、論争の大部分は全く言葉上の問題であることが判明すると思われる」(p. 204)。日常生活における人々の心的諸性質への是認と譴責の感情はきわめて類似しており、古代の哲学者等は称賛に値する性質と美徳とを区別していないことがその例証になる。そしてこのことは自己評価においても変わらない(p. 192-193)。 善良な性質(社会的美徳)と、能力や才覚への扱いの違い。前者は欠ければ非難を受けるが、持っていても取り立てて賞賛されない。とはいえ、後者は「後者の美徳は一層稀少であり異例であるので、自負と自惚れとのより普通の対象であることが観察されて」おり、それの自慢に対しては自負や自惚れではないかという嫌疑、警戒心を持たれる。その一方で、尊敬と賞賛を受け、「人が世間において放つ異彩、交友の中で受ける歓迎、知人から払われる敬意、あらゆるこれらの利得は、彼の性格のどれか他の部分によると同様に、彼の良識や判断力によるのである。たとえ或る人が世界で最も善なる意図を持ち、あらゆる不正や暴力から最も遠くに離れていようとも、天分と知性の少なくとも適度の分け前がなければ、彼自身を大いに尊敬されるようにすることは、決してできないであろう」(p. 194)。「一方は愛すべきであり、他方は畏敬すべきである。我々は一方の性格には友人において出会いたいと願い、他方は、我々が自分自身の中にこれを熱望するであろう。……良識や天才は敬意や尊敬を生み、機知や洒落は愛や情緒を呼び起こすのである」(p. 195-196)。ヒュームによれば、後者の美徳が美徳であるのかについての論争があるそうだが(p. 195)、彼は「ところで美徳は、それ自身で称賛に値し、またそれなしには何者も賞賛されることをえないのであるが、それにもかかわらず、比較的多くの区分を有する」で始まるキケロの一節を引きながら、美徳の種類が違っているだけだとする。 『蜂の寓話』 「美徳の起源についての考察」要約 美徳は政治家たちが社会を確立するために彼らの支配する人々を「だれでもその欲望にふけるよりは克服する方が有益であり、使役とおもわれるものよりは公益に留意する方がずっとよいのだ」(p. 39)と信じさせるために作り上げたものである。そのために美徳を称揚して悪徳を非難し、そして自負心に訴えるべくそのような行動をとる者に追従の賞賛を行った。丁度躾のために子供がした下手な振る舞いを過度に誉めるように。つまるところ、「美徳とは追従が自負に生ませた政治的な申し子である」(p. 46)。 美徳と悪徳の識別の起源は宗教にはない。それというのも、キリスト教徒やユダヤ教徒以外の「ほかのあらゆる国民の偶像崇拝的な迷信や、彼らが絶対者についていだいていた哀れむべき観念は、人間を美徳へとかりたてることはできず、未開の無分別な群衆を畏敬させ喜ばす以外はなんの役にも立たなかった」(p. 44)し、古代エジプト人は「人間本性のもっとも深い神秘について、これまでのいかなる国民よりも精通していた」(p. 45)し、古代ギリシア人やローマ人は素晴らしい美徳を発揮していた。 ・放蕩の有益性 おそらく個人の悪徳が社会の利益になる、より限定的な言い方をするならば需要を喚起して経済を活性化させる典型的な場合。「強欲な者は自分にも利益をもたらさず、そのうえ相続人を除く世の中全体に損害をあたえるのに反して、放蕩する者は社会全体への天恵であり、自分のほかはだれをも傷つけないからである。なるほど、前者の大半が悪者であるのにたいして、後者はみな馬鹿者である。けれども、放蕩者は公共がとても喜ぶおいしいごちそうであり、ちょうどフランス人が修道士を女性のヤマウズラだと呼ぶのと同じように、社会のヤマシギだというのが正しいであろう」(p. 97)。 逆に倹約が広がることによって放蕩者の権力者による収奪を相殺できると言われるかもしれない、つまり放蕩-収奪のセットを倹約-非収奪にすることができるというわけ(p. 98-99)。こうなれば大国の多くの人々に職を行き渡らせることができなくなる、経済的に言えばものが売れない不況や緊縮財政と同じ結果を生む。 ・絵画は自然の模倣が故に判断は普遍性を持つ マンデヴィルは美醜や習慣についての人々の評価はその時々、場所場所で変わるものであるとしており(蓋しヘロドトス風に言えば「ノモスこそ万物の王である」ということだろうか。そして訳注によればこの手の懐疑説は当時はありふれたものだったらしい)、絵画の評価もまた様々な事情によって変わりうる。しかし、「以上にもかかわらず、わたくしは、絵画についてなされる判断は普遍的な確実性を得るようになるか、少なくともほかのほとんどいかなるものよりも変わりにくく、安定するようになるかもしれないことを喜んで認める。その理由は明らかである。いつも同じままの依拠しうる基準があるのだ。絵画は自然の模倣であり、いたるところで人間の眼前にある事物の模写である」(p. 299-300)。 ・情念の強調 そこはかとないヒュームらしさが見て取れる。 理性に対する優越:「この気高い人物に好戦的な素質なり荒々しい気質があったならば、人生のドラマにおいて別の役割を選び、まったく逆の信条を説いていたであろう。というのも、われわれはどちらなりと情念が引っ張っていると感じる方向にいつも理屈をおししすめ、そして自負心はあらゆる人間にたいしてそれぞれ違った見解をいだくように弁じ、各個人にその性向を正当づける論拠をつねにあたえてくれるあらである」(p. 305)。 徳を生むこと:シャフツベリー伯のいうような道徳は書斎や口先の中だけのもので実際の行動にはつながっていないとしたり、これを説いた次の段落で「人間が生まれつきもっている安楽や怠惰への愛や感覚的な快楽にふける傾向は、教訓によって矯正しうるものではない」(p. 305)と言うなどマンデヴィルはあまり徳育の実効性を信じていないようだ。一方で上記引用の次の文で「その強力な習癖や性向は、ただもっと激しい情念によって抑制しうるのみである。臆病者にたいして恐れが不条理であることを説いて立証しても、十フィートの背たけに伸びよと命じたところでそうはできないのとおなじく、彼は勇敢にならないであろう」(p. 306)という感じで情念を重要視している。 『蜂の寓話』 第一の対話 絵画で「表現されるべきものは自然のままではなくて、快い自然、麗しい自然〔「ラ・ベル・ナチュール」のルビ〕なのだ。悲惨で、粗野で、同情すべきで、下品であるような事物はみな、注意深く避けて見せないようにしなければならない。なぜなら、真に眼識のある人間にとって、それらは衝撃的でまったく不快な事物と同じくらい、気にさわるからなのさ」(p. 33)。 クレオメネスはマンデヴィルの「醜悪の体系」から離れたと称し、シャフツベリーの性善説的な見解を、有徳だとは見なされていないような卑しい人たちの(特に経済上の)活動は公共精神や慈悲心から導き出されたものだと主張することで茶化す(50頁前後)。美徳が存在し、それに導かれて行動する人間がいると説いていたはずのホレイショはこの挑発に乗って枢機卿たちの悪徳を述べ、人間の徳性を否定するようなことを言うことになった。結果、「君〔ホレイショ〕はもっと低い階級の人々はもちろん、もと高い階級の人々にもほとんど満足しておらず、しかも中流の人々をよりよく思うのは馬鹿げたことだと考えている。これは、ある計画の美点を養護すると同時に、それが一度も実行されなかったとか、ぜったいに実行できないなどということを自認するのと、違いがあるだろうか?」(p. 60) 「紳士の教育においては、名誉の意識と、どんな急場でも保たなければならない内的な意識とをつねに吹きこまれ、それを熱心にもちつづけるようにされるのだが、例の情念〔自負心〕の克服は一度として試みられも話されもしていないのだ」(p. 70)。 第二の対話 ・よこしまな動機に基づいて立派なことをするという話 自負心や栄誉欲から人は立派な性質に達する。「この情念は、たえず満足させてやるとそのほかすべての情念を支配することや、また求められるとどんなに困難なばあいでもそれらを例がいなく押さえつけることを、いつでもできるようにしてくれるだろうな」(p. 79)。 ホレイショの問い:なぜそんな人はめったに見られないのか? クレオメネスの答え:人は皆気質が違い、その気質も教育によって抑制されたり促進されたりして目立ち方が違う。さらに何によって栄誉を得ようとするかも人それぞれで違う。 名誉の意識は自負心を起源とする。そして「名誉ある人々がよくわきまえて自分たちにあたえ、十分に陶冶されると人間本性の尊厳に帰すべきものにほかなあないあの高い評価は、彼らの人格の基礎であり、あらゆる困難でのささえであって、それは社会にとりたいへん有益なのだ。同じく、よく思われたいという欲望や賞賛されたいという気持ちや栄誉欲でさえ、公共のためになるりっぱな性質なのだ」(p. 97)。 しかし、自負心は名誉心を生み出すとは限らない。自負心は情念であり、それ自体は不変だが、どの方向に作用するようになるかは後天的な影響によるものである。それゆえ、「まさにその情念が放蕩者やならず者に自分たちの悪徳を自慢させ、その厚かましさを誇らせるかもしれない」(p, 98)。 ・なぜ命を懸けて決闘をするのか? 決闘をする際には自負心が生み出す恥辱の恐れが死の恐怖を押さえつけるため、負ければ死ぬかもしれず、決闘が罪になる場合もあるにもかかわらず、名誉を知る人は決闘に臨む。他方で決闘や軍事交戦では死を恐れない人が病気や暴風の時には死を恐れるのは、後者の場合には名誉が関わらないから自負心は眠ったままになり、死への恐怖が抑制されないから。 第三の対話 去勢がカストラートのすばらしい声を保護するように、「奢侈は国家を繁栄させ、私悪は公益である」(p. 115)。いずれもそのような主張をする人は事実ではなく価値の観点から非難され、その非難の仕方にしても「彼を去勢の擁護者として世間に伝え、目的にかなう引用を彼からして公の汚名を彼に着せる努力」(p. 115)がなされる。 「第一に、大部分の人々が望み願っている国民の幸福とは、国富と国力、栄誉と世俗的な偉大さであり、国内では安楽に富裕に豪華に暮らすこと、国外では畏怖され機嫌をとられ尊敬されることだ。第二に、このような幸福は、強欲や乱費や自負心や野心やそのほかの悪徳がなければ、達成できないということだ。後者の点が矛盾ないように明確化されたので、問題は、それが正しいかどうかではなく、この幸福が可能なただ一つの仕方で得るに値するかどうか、国民の大半が悪徳でなければ味わえないようなものを希求するべきかどうか、なのさ」(p. 115-116)。 ・自負心を隠し、愛想良く行儀良くすることは現世における快をもたらす 「その最高の願望が安楽と奢侈であると思われる偉大な国民と繁栄する民族にあって上層部といえどもそういう技巧がないと、それだけの余裕があるわりには現世を享受できないだろうということだな。また世俗的な思慮分別を感覚的な耽溺と結びつけ、快楽をみがきあげることに主として腐心しようとする才能のある享楽的な人々ほど、そういう技巧を必要とする者はいないということさ」(p. 139)。 ・自己愛と自愛心 マンデヴィルは自己愛と自愛心とを区別し、自愛心は自己の保存のために必要なものを求めさせ、自己愛はとりもなおさず自負心であり、自分を心の価値よりも高く評価させ、人より優れていることを示そうとする。「自愛心はまずそういう動物に、暮らしに必要なものをすべてかき集めさせ、大気による危害に備えさせ、本人と子供たちの安全のためにあらゆることをさせるだろう。自己愛はその動物に、身ぶりや顔つきや声の調子によって、他人にたいする評価以上に自分を高く買っているのだと誇示する機会を、求めさせるだろう」(p. 144)。 ・高雅の起源 第一に、交際において相手が交際相手の自分よりもその相手自身を重んじていて、これが互いにそうだとすれば、二人とも不満になり、耐えきれなくなる。「未開人たちのあいだでは」起こるこうしたことが起こらないように自己愛の外面的な兆候は押さえつけられる。 第二に、「理解力の大きな分け前をあたえられ、極度に安楽を好み、またそれを得ることにも同じく熱心な人々にたいして、自己愛から生じるこの不都合が、人間的見地から多分およぼすだろう影響」(p. 149-150)である。要するに、自己愛を丸出しにすれば快が得られないということか。 第四の対話 ・人間が社会的動物であると呼ばれる理由 「第一に、人間はほかのどんな動物よりも、生まれつき社会を好み望むと考えられているからだ。第二に、人間の交わりは、恐らくはほかの動物がたとえそうしようと試みたばあいよりも、ずっとうまくいくことが明らかだからさ」(p. 191)。第一の理由はそう考えられているに過ぎないものであり、実際のところ社会を好み望むのは自分の境遇を良くしたいから。「人間を社会の一員になるよう促す動機のなかに、彼が生まれつきもっている交際への欲求があるということは、すすんで認める。しかし、彼はその分だけ有利であるようにと期待して、自分自身のためにそういう欲求をいだいているのであり、それによって自分のためにもくろむなんらかの利益がなければ、交際でもそのほかいかなるものであってもけっして望まないだろうな。僕が否定するのは、ほかの動物が同種族にたいしてもっている愛情よりもすぐれた、人間への愛情があるために、人間には生来そのような欲求が備わっているとすることなのさ」(p. 195)。 第五の対話 ・宗教の起源 宗教の起源は恐れであり、様々な災難から「ある目に見えない原因」があると思うようになる。「恐れという情念が、目に見えない力についてのあるぼんやりとした概念をいだく機会を、最初にあたえれくれる」(p. 219)。それから実戦と経験、知性の向上にともなって「そのぼんやりとした概念から無限で永遠の存在についての確かな知識へと、間違いなく導かれるだろう」(p. 219)。 自分が享受するのものへの感謝が宗教の起源にならないのはなぜか? その一つ目の理由は、人間は自然から手に入れるものを全て自分のものであり、自分の働きのおかげだと思うから。もう一つの理由は、災いが最初に注意を引き、「自己保存のためのありとあらゆる労苦のなかで、人間は自分にとって害になるものを避けることには専心するが、心地のよいことを享受するばあいには、彼の思考がゆるみ、注意がなくなる。彼は疑問を投げかけもせずに数かぎりない楽しみをつぎつぎにうのみにできるが、少しでも災いが感じられればそれを避けるために、それがどこから生じたのかを知りたがるようになる。……人間がひとたびそのような目に見えない敵を悟るとき、かりに敵を見つけだせたら喜んでなだめて友人にしようとするだろう、と考えるのは理にかなっている。同じく、こうするために彼はまわりのいたるところを探索し調査し観察し、そして地上でのいかなる探究もむだとわかって、目を天に向けるということは、ひじょうにありうる話だな」(p. 224)。 ・正邪の概念は後天的なものである 「あらゆる人間が生まれつきこの傲慢な精神をもっていて、僕たちにそれが直せるのはただ他人と交わり事実を経験することだけであり、それによって僕たちはそのように傲慢に振舞う権利がないのだと納得する……」(p. 235)。人間は本来的に「万事を自分だけのものにしようという優越心」を持ち、正邪の概念は後天的に得られる。というのも、「幼少期では前者がとても顕著であり、彼が教育をうけるまでは後者がまったくあらわれず、そして彼が未開のままでいればいるほど、彼の行為にたいするこの後者の影響はつねにそれだけ少ない」(p. 235)からであり、それゆえにクレオメネスは正邪の概念は習得されたものであると主張する。 ・社会の起源と神の摂理 「同じ人間と交わった子供たちは、たとえ未開人に育てられても統御できるものであり、したがって、すべてこういった子供たちが成年になったとき、彼らの親がいかに無知で無分別であったとしても、社会にふさわしい者となるだろう」(p. 244)。また、社会への第一段階は生存を脅かす野生動物から身を守るために協力しあわなければならないということである(p. 256)。 人間の生存を脅かし、社会の形成につながる野生動物の存在もまた、神の摂理であり、それぞれの種の構造の精巧さと過不足なさ、動物の生き死にによってある種が増えすぎたり減りすぎたりせず、サイクルが壊れないように自然のバランスが絶妙に成り立っている点に摂理がある。 たとえば、人間の生存を脅かすライオンは暑い気候の地方に、熊は寒い地方に住むが、人間はその中間の気候を好むので、これらの猛獣と鉢合わせすることが少なくすみ、ひいては滅ぼされることがない。あるいはホレイショが言うようにもしも人間が愛情や友情が本能的に人間に植え付けられていれば、「神が宇宙の事物を配列し処理してくださったときの案、つまり計画」(p. 267)にもとることになる。というのも、仮にそうであれば戦争(ここでは国家間の戦争だけでなく、国内の争いや個人的な殺害なども含む)はなくなるが、そうなれば地球は養いきれないほどの数の人間で埋め尽くされてしまう。 第六の対話 ・社会の第二段階:家族から集団への過程 「社会への第二段階は人々がお互いから感じとっている危険であり、それにたいしては、すべての人々が生まれつきもっている、あの堅固な自負心と野心との原理のおかげをうけているんだな。異なる家族はいっしょに住むように努め、共通の危険には喜んで行動をともにするかもしれないが、共通の敵と争う必要のないときにはみなほとんどお互いの役に立たない。そのような状態においては体力や敏捷さや勇気がもっとも大切な資質だろうし、また多くの家族がいっしょに長く住むとかならず、そのうちのいくつかの家族がいまのべた原理にかり立てられ、優越を求めて骨折るようになるだろう、ということを考えてみたまえ。そうすればこのことは争いを生むに違いなく、その際にいちばん力が弱くて臆病な者たちは身の安全のために、彼らが最大の評価をくだしている人間とつねに結びつくだろうさ」(p. 281)。これからさらに強い集団が弱い集団を飲み込むようになる。 このような弱肉強食の状態で真義を守ることについて宗教は力を持ち得なかった。「しかし宗教は彼らのあいだでなんら力をもちえなかっただろうし、それは教化された民族におけるばあいと同じであって、ここでは義務を強要して偽証を処罰する人間の力がないかぎり、天罰はまえにしか当てにならず、誓いそのものはほとんど役に立たないと考えられているのさ」(p. 283)。 ・社会の第三段階:文字の案出 禁令や処罰、法律を作って人々を統制しようにも、口述の伝承や証言の誤りがあれば、法律の執行はできない。それゆえ、文字が必要になってくる。「大勢の人々は統制がないと平和に暮らせないし、統制は法がないと存続できないし、法は書きしるされないと長いあいだにわたって効力をもてない」(p. 284)。 ・人間の穏和さや従順さは潜在的に備わっているが、その顕現は教化の結果である ホレイショはクレオメネスに対して法がなければ統制できないのは少数の悪人がいるからで、大勢の人は生まれつき従順で穏和なのではないかと反論する。これに対してクレオメネスは答える。「思考も言葉と同じことで、たとえ人間が両方とも達成する能力をほかの動物より生来もっていても教化されない状態がつづいて同じ人間のだれともけっして交わらないかぎり、こうした特質はほとんど人間にとって役に立たないことを、君は納得したと思っていた。どんな人々でも教化されなければ、ほうっておかれるあいだは他人のことを考えないで本性の衝動に従うだろうし、したがって善良であるように教わらない者はみな邪悪なのさ。……君がいわゆる生まれつきといっていることは明らかに人為的なもので、教育に属していて、どんなにすぐれた気質の馬でも統御なしには従順にも穏和にもならなかったのだな」(p. 284-2855)。 ・法は自負心を抑えるためにある 誰しも人より自分を高く評価するが、これが争いの元となる。これによって生じる争いと苦痛を防ぐためにある法はこの人間本性を反映している。「つまりい人間の世俗的な幸福のために考えだされたすべての規制や禁令は、そういう過失とか特性とぴったり合うように、そして僕がいったごとく、いたるところで人類にたいしてんべられたあと苦痛を取り除くように、できているという点だな。あらゆる国々のおもな法は同じ傾向をもっている。そして人々が生まれつきの免れないある弱点とか、欠陥とか、社会への不適合とかを示さないものは一つもない。しかもそれら法のすべては、万物を自分自身に集中するものと見なすよう人間を教え、手にいれられるものはなんでも請求するよう人間をそそのかす、あろ生得的な優越への本能をくじいて正す矯正法として、明らかに意図されている」(p. 286)。クレオメネスはこの例として十戒をあげる。十戒のうち偽証を禁じる第九戒は人間が自分の重要性を過大評価するという「優越への本能」を反映しており、盗み(第八戒)、姦淫(第七戒)、隣人のものを自分のものにすること(第十戒)は何であれ自分のものにしたがる傾向を反映している。ちなみに人間は偽証それ自体を志向するわけではないが、そういった不当な利益を得るためにこれをする。まとめるのは省略するが、残りの戒律も同様の機能を持っている。 ・世界の起源については何かを信じなければならないが、そのうちでキリスト教が最善である 「僕たちは人間の理解力がかぎられていると確信しており、またその理解力の範囲の狭さ、そのとてもかぎられている点こそがまさしく、洞察の力で僕たちの起源について考究しようとするのをはっきりと妨げているもので、ただ一つの原因だということも、ほんのわずかばかりの反省の助けにとっておそらく同じように確信できるだろう。その結果、僕たちにとりたいへん大きな関心事であるこの起源の真実性に達するためには、なにかを信じなければならないが、なにをまたはだれを信じるべきかが問題だ。……僕たちには発端があったに違いないのだから、あらゆる事物の原動力で立案者であった無限の創造的な力からその起源を引き出すことほど、良識のうえで道理にかなうもの、あるいは適切なものはない、とな」(p. 334-335)。信じるべきはキリスト教であり、それはモーセの十戒の持つ「人間本性にたいしてもっていた洞察のほかに、彼が無からの創造、宇宙をつくりあげたあの目に見えない力の単一性と、かぎりない偉大さを知っていたこと」(p. 335)のゆえである。 『世界の名著 (46) コント・スペンサー』 社会静学と社会動学 ・形而上学的哲学は過渡的なもので、神性の概念の代わりに実在の概念を説明に使い、前者や自然的原因の介入の度合いを少しずつ取り除く。政治的な役割は批判であり、建設的能力を持っていない(p. 317-319)。 ・神学的哲学と実証的哲学との対立点(p. 314)。本質的原因・絶対者の気まぐれな意志vs自然法則、想像優先vs理性優先、絶対的精神vs相対的精神 ・神学的哲学は耐用年数を過ぎている。社会の発展段階にはその段階にふさわしい哲学が必要。「確かにこれまで、神学的哲学には、その特徴的な自発性のゆえに、極めて強い根源的な影響力があることは認めてきた。しかし、この知的影響力を説明し、正当化する根本的理由の一つひとつは、そのまま、この力が必然的に一時的なものでしかあり得ないことを示しているのである。なぜならば、この理由というのも、神学的哲学が人類の原始状態に固有の欲求に自然とぴったり合っていることを、いろいろな点で示しているにすぎないが、このような欲求は、社会的発展が十分に進んだ時には同じものではあり得ないし、したがってまた、同一の哲学によっては満たされ得ないからである」(p. 309)。 ・神学的哲学の歴史的役割と利点(p. 296-309)。一、最初人間は自分のあり方からのアナロジーで自然を理解しようとしたこと。二、外界を自身では思い通りにできなかったがそれを望んでいた段階に、全能の神の持つ全能の支配力によって(多分自分ができないことをこなすヒーローを見るかのような感じで)満足を感じた。三、後になって理論の説明力が上がってきたが、最初はあらゆるものが神の起こす奇跡のようであり、これに与ろうとした。つまり、「このように、知的な見地からすれば、神学的哲学は人間の自然な研究方式と最初の研究の性質とに合致する唯一の哲学であり、道徳的に見ると、本来の極めて惨めな状況の真中にあった人間に向かって、思索的努力に約束された立派な報酬として外界に対する絶対的支配力という魅力的な希望を常に提示することにより、人間の活動的エネルギーを発達させた当初唯一の哲学であった」(p. 304-305)。四、人間に社会形成のために必要な共通思想を与えた。五、初めて知的階級つまり聖職者階級を形成した。 ・コントの歴史的寛容。「事実、自然を眺めていて、何か説明に苦しむようなことが起こるたびに、その事象を司る空想上の行為者の新しい意志を想定すればすむし、せいぜいのところ、手間をかけずに新しい行為者をあっさりと作り出せば足りる。今日から見れば、このような幼稚な思索は無意味に思えるかもしれない。しかし、どんな場所どんな時代でも、初めから存在する唯一の糧を人間の精神活動に与えることによって精神を最初の麻痺状態から救い出すことができたのは、この幼稚な思索の力によるものであった。このことは、どんな場合でも忘れてはならない」(p. 300)。 ・観察の理論負荷性への類似。ただし、コントの意図は観察の理論負荷性的なことを主張することではなく、どんな理論の構築にも前段階の理論があり、ひとっ飛びに精巧な理論を作ることができないということを述べることである。「……人間の精神というものは、何らかの予備的理論によってまず方向を与えられ、次に絶えずつき動かされない限りは、観察すら行い得ないものだからである。……すなわち、誰が何と言おうと、絶対的経験主義は全く不毛であるばかりでなく、人間の知性とは根本的に相容れないという事実である。明らかに、人間の知性は、その自然の努力を集成し刺激するため、どんな種類の作業においても何らかの理論を必要とする」(p. 298)。観察の理論負荷性と歴史性の関係を考えるのも面白そうである。 科学の起源 ・コントの科学には縦、つまり発展的・時間的な配列・前後関係がある(ある科学が別の科学の前段階となって後者を準備する)という説に対するスペンサーの批判。「人間は順を追って思考せざるを得ない。問題を分けて順々に考えるということは人間精神の法則である。それゆえ、自然は縦の系列をなしているに違いない。――それゆえ、科学は継起として分類できるに違いない。これが、この考えの起源であり、その真理の唯一の証人である。教育の計画や知識の体系を書物でまとめる場合、人間は何らかの順序を選ばなければならない。そして、最上の順序を研究するうちに、事実を真に象徴する順序の存在を自然に信じ込み、そうした順序の探索に熱中する。しかし、その場合、自然が著作の便宜を考えてくれることがあり得るかどうか、という先決問題はきれいに見落としてしまっている」(p. 359)。 ラッセル『外部世界はいかにして知られうるか』 第一講 最近の傾向 古典的伝統の哲学は思弁的アプリオリズムであり、論理的な可能性を現実態とみなしている。 論理学の役割の違い。「哲学のなかで果たす論理学の役割は、もう少しあとのところで明らかにするつもりではあるが、じつに重要である。けれども、その役割は、古典伝統派の哲学のなかで論理学が果たしているそれと同一のものとは考えられない。古典伝統派においては、論理学は、否定によって構成されるのである。そして、いろいろの可能性がちょっと見ると等しく存在しているように見える場合に、一つを除く他のすべての可能性を断罪するために論理学を用い、それから、その残された一つの可能性だけが現実世界に実現されているものと宣言する。こうして、具体的な経験にはほとんど、あるいはまったく照らしてみることなく、世界が論理学によって構成されるわけである。 哲学の真の役割というのは、私の考えでは、まさにこの逆なのである。論理学というものは、経験の問題に適用する場合は、構成的なものであるよりもむしろ分析的なものなのであり、ア・プリオリな問題を扱う場合は一見可能だと思われる可能性がじつは不可能なのだということよりも、これまで考えられなかった可能性がじつは可能なのだということのほうを、いっそう数多く明らかにするものなのである。こうして、論理学とは、世界がどういうものでありうるかについての想像力を解き放ってくれるものであると同時に、世界がどういうものであるかについて断定することを拒否するものなのである」(p. 91-92)。 「古典伝統派の哲学は、ギリシア人の理性への信仰と、中世人のこぢんまりとした宇宙への信仰という、はなはだ異なった両親から生まれて、最後に生き残った子どもである。戦争・虐殺・疫病のさなかで生き残ったスコラ哲学者たちにとっては、安泰と秩序ほど喜ばしく思われるものはなかった。こういった哲学者たちの夢見た理想においては、安泰と秩序こそが求められたのであって、たとえばトマス・アクィナスとかダンテの宇宙は、オランダ人の部屋みたいに小さくこざっぱりしている」(p. 94)。エレア派にみられるように、常識より思弁を優先し、真理は理性によって得られるという理性信仰、ウィリアム・ジェイムズ言うところの「閉ざされた宇宙」。 進化論哲学の反機械論的傾向と論理学の破棄。「しかしいまや、『柔軟な心の持ち主』たちは、生物学の影響の下に、機械論からのもっと徹底した解放が可能で、物理学の法則ばかりでなく、みたところ変わることがない論理学の全道具立てまでも、もっとも頑強な反対者でさえ賛成せずにはおかない論理学の定まった概念や一般的原則や推論もろともに、放棄してしまえると信じている」(p. 96)。例えば、ベルクソンによる直観の重視=ある種の神秘主義。即ちこれは科学的な態度・知性に対立するものであり、真理の獲得においても知性より直観の優位を説いている。「ベルクソン哲学の残りの部分は、直観によって得られる知識を、言葉という不完全な媒介を通して報告するとともに、科学や常識から引きだされるいっさいの見せかけの知識を、その報告にもとづいて完全に断罪することにある。このような手続きは、本能的な信念が争いあう場合、いずれかの側に味方するわけだから、一方の側の信念を他方の側の信念よりもずっと信用に足るものとして証明してみせないと、正当なものだとは認められない。ベルクソンは、二つの方法でこの手続きの正当化を試みる。第一に、知力とは生物としての成功をかちとるための一つのまぎれもなく実際的な知識なのだと説明することによって、第二に、動物本能の目ざましい離れわざのことを述べて、直観でなら理解できるのに、氏の理解する知力ではなんともとらえがたい世界の特性をあれこれと指摘するという方法で、それを試みるのである。知力とは生存競争の過程で発達してきた純粋に実際的な能力であって、正しい信念の源ではない……」(p. 106)。 重要な主題ではないが面白い話(p. 11-112)。事実に関する知識の拡大は包括的な知識体系が成立する可能性への不信(「中世の人たちが到達したとみずから信じたような、あらゆるものを包括する総合という理想は、実現可能と思われる限界からますます遠ざかっていく」(p. 111))、絶望と同時に、自然への人間の支配と発展についての楽観論の強化(「じっさい、自然の力に対する人間の支配は、未曾有の速度をもって強化されつつあって、将来においては、あらゆる安易な限界をこえて発展すると予想される」(p. 112))という二つの結果をもたらす。「こういうわけで、一般的な理論が絶望的であるというまさにそのことが、人間が実際になしうることには限りがあるのではないかという疑いのささやきをすべて沈黙させてしまうのである」(p. 112)。 第二講 哲学の基本としての論理学 抽象化の原理。「『抽象化なしにすませる原理』と呼んでもさしつかえないこの原理は、信じられないほどたくさんつまった形而上学のがらくたを整理してしまう原理であるが、数理論理学によって直接示唆されたのであって、数理論理学の助けなしには、証明することも、実際に用いることはほとんどできなかったであろう。……一群の対象がある種類の類似性を備えていて、その類似性が、これらの対象がある共通の性質をもっているということに原因があると思われる場合に、問題の原理によって、その群に属しているということと、その群のメンバーが共有していると考えられる性質を持つということが、あらゆる点で同じことになり、したがって共通の性質が実際に知られていなくても、その性質が互いに類似した対象からなる群れ、あるいは集合が、共通の性質――その存在は必ずしも仮定される必要はない――の代わりになるということが示される」(p. 125)。 論理形式と構成要素。命題の構成要素と区別される論理形式は「命題の構成要素の組み合わせかた」(p. 126)であり、これこそが哲学的論理学の対象である。「私たちは、文章に含まれている一つ一つの単語をことごとく理解していても、その文章を全体として理解できないということもある。たとえば、文章が長くいて複雑であると、こういうことが起こりがちである。このような場合には、私たちは構成要素を知っているのに形式については知らないのである。逆に、形式を知っていて構成要素を知らないということも可能である。たとえば私が、『ロレイリアスは毒人参を飲んだ』というと、諸君の中でロレイリアスについて聞いたことのない人々は、この文章の形式は理解できるが、その構成要素を知っているわけではない」(p. 126)。推論においては形式だけが重要で、構成要素が何であれ推論の結果は変わらない(p. 127)。つまり、推論は語の意味から独立している。 古い論理学の誤り、即ち関係を捉え損なったこと。主語-述語という形式に基づいた古い論理学では二項(そしてそれ以上)の関係を捉えきれない。主語-述語形式では、述語を主語に帰属させることになるが、この形式は命題の一般的形式としては「極度に普遍性を欠いているばかりでなく、この形式がきわめてふつうであるということさえいえない」(p. 128)。実際、この形式では主語が入れ替わっても関係は変わらない関係性は表現しきれない。「AはBより大きい」という命題は、「BはAより小さい」と同じことを述べているが、主語は変わっている。関係は一つの主語に帰属する性質ではない。 哲学者たちが抱いてきた常識世界に対する「敵意」。「大部分の哲学者たちは、科学と日常生活の世界を理解しようと望むよりは、むしろ感覚をこえて実在する世界をもり立てるために、科学と日常生活の世界を、実在しないといって断罪しようとした。感覚の世界が実在しないという信念は、ある種の気分――それは私の想像によると、単に生理学にもとづいているにすぎないが、同時に力強い説得力をもっている――のなかで、抵抗できないような力をもってあらわれる。こういった気分から生まれる確信は、大部分の神秘主義と形而上学の源泉である。……しかしながら、こういった教説には、その刻印が由来されていて、サンタヤナ氏の有益なことばを借りていうと、これらの教説は、科学と常識の世界に関して『敵意』をもちつづけたのであった」(p. 128-129)。 諸関係 対称的関係:aRb⊃bRa(ex.「aとbは兄弟か姉妹である」) 対称的でない関係:aRb∧〜bRa(ex.「aはbの兄弟である」(bはaの姉妹かもしれない)) 非対称的関係:aRb⊃〜bRa(ex.「aはbの父である」) 遷移的関係:(aRb∧bRc)⊃aRc(ex. 「後ろにある」、「より大きい」、「上にある」) 遷移的でない関係:〜((aRb∧bRc)⊃aRc) 非遷移的関係:(aRb∧bRc)⊃〜aRc(ex. 「父である」、「一年後である」) 第三講 外的世界はいかにして知られうるか 知識には二種類あり、(1)近くに直接与えられるもの、(2)(1)から派生する、あるいは推論されるものである。 また、心理的・論理的と原始的と派生的という性格がある。「心理学の立場に立つと、ある信念が、いくつかの他の信念、あるいは信念にもとづく主張とは単純にいいきれないような感覚にもとづくなんらかの事実によって引き起こされるとき、この信念は派生的であるということができる」(p. 151)(ラッセルは例として観念の連合を挙げている)、そして論理学の場合は演繹の結果であるということを示す(逆にそうでなければ「論理的に原始的である」となる)。例えば、人の表情からの感情の判断や自然の斉一性についての知識は心理的には派生的で、論理的には原始的な知識である。 「かたい」データと「やわらかい」データ。「『かたい』データとは、批判的な反省をうけてもそれに抗してそのまま残るところのデータのことである。これに対して『やわらかい』データとは、この手続きを施すと(批判的な反省を加えると)、私たちにとって多かれ少なかれ疑わしくなるデータのことである」(p. 153)。特にかたいものは「感覚にもとづく個々の事実と、論理学が与える一般的な真理」(p. 153)で、心理的には派生的で論理的には原始的な信念の大部分はやわらかいもの。 夢のような「感覚の幻想」は実在しない。これはそれ自体では感覚の対象のように「実在する」といえそうだが、「感覚の対象は、他の感覚の対象と、経験によって正常であると認められるような意味で結ばれているときに『実在する』といわれる」(p. 167)。 「もの」の構成。「すると、ものの瞬間的な外観に対して、常識でいう瞬間的な『もの』を定義することができる。近接する見通し〔パースペクティブ〕が似ていることによって、一つの見通しに含まれている多くの対象は、別の見通しに含まれている対象、すなわち似ている対象と相関させられる。ある見通しに含まれる一つの対象が与えられたとき、すべての見通しにおいて、その対象と相関させられる対象を全部集めて系を構成すると、この系は常識でいう瞬間的な『もの』と同じものであるとしてよい。したがって、ある『もの』の外観は、その瞬間においてその『もの』となっている多くの外観からなる系のメンバーである。ものの外観はいずれも実在するが、ものは単なる論理的構築物である」(p. 170-171)。ここでは抽象化の原理が用いられている。 線の構成。見通しの空間、即ち「個人的な空間は、互いの間の類似によって順序づけられる。たとえば、ペニー銅貨と呼ばれる円盤状の外観を含む一つの個人的な空間から出発するものと仮定しよう。さらにこの外観は、与えられた見通しにおいては、円形であって楕円形ではないとしよう。すると、大きさが少しずつ変わる一連の円形の外観を一つずつ含んでいる見通しの全系列を構成することができる。そのためには、ペニー銅貨のほうに向かって(ふつうの意味で)移動するか、あるいはそれから遠ざかりさえすればいい。ペニー銅貨がそこで円形に見える見通しは、見通し空間における直線上に横たわっているといわれる。そして、この直線上におけるこれらの見通しの順序は、円形の外観の大きさによって定まる順序になるだろう。さらに、これから述べることは注意しなければならないが、そこでペニー銅貨が大きく見える見通しは、そこでペニー銅貨が小さく見える見通しよりも、ペニー銅貨に近いと言われる」(p. 172)。このようにして見通しからなる直線が構成される。 空間の構成。上記のペニー銅貨が円形に見える見通しの直線に加え、「ペニー銅貨が直立した状態で眺められ、ある厚さをもった線のように見える見通しからなる直線を構成することができる。これら二つの直線は、見通し空間におけるある場所、つまりある見通しにおいて交わるであろうすると、その場所が『ペニー銅貨が存在する(見通し空間における)場所』として定義される」(p. 172-3)。この箇所の訳注によれば、「この定義が、知覚されない外観の存在という要請を除いては、かたいデータからまったく論理的に導かれていることに注意する必要がある。すなわち、『場所』も論理的に構成されるのである」(p. 173)。 第四講 物理学の世界と感覚の世界 形而上学的概念を使うことなく言語を解釈する。物資の概念は「ア・プリオリな信念」、「恒久的な実体」を使うことなく再構成され、それと大体同じ役割を果たす概念が構成できる。「たとえば、ものは徐々に、ときにはひじょうに早く変わるが、連続的な系列をなす中間の状態、あるいは少なくとも――量子論によっていわれる不連続性が最後的に正しいと証明されるならば――だいたい連続的な系列をなす中間の状態を通らないで変化するということはない、と私たちはいう。これは、なんらかの知覚される外観が与えられると、私たちが見守っているかぎり、多くの場合、与えられた外観と結びつけられている外観の連続的系列があって、与えられた外観が、感じられないほどの漸時的変化によって新しい外観――それは常識によって、同じものの異なった外観であると見なされている――に導かれるという意味である。こういうわけで、ものは、連続的に、またある因果律によって互いに結びつけられている外観のある系列である、と定義することができる」(p. 183-184)。これならば、たとえば、時間の経過によって色あせる壁紙を、ある色を持つ実体であると考える必要はなくなるし、「壁紙を、その外観からなる系列である、と定義することもできる。これらの外観は、私たちをして壁紙をある一つのもの、つまり、感覚の連続体と因果的に結びついているものと考えさせるにいたった動機と同じ動機によって、一つの系列にまとめられている。もっと一般的に、一つの『もの』は、外観から構成される系列、すなわちふつうならそのものの外観といえるものの系列である、と定義することもできよう。……このようにしても、あらゆることは以前と同じであろう。つまり、検証されることについては変わりはないが、恒久的実体の存在という不必要な形而上学的前提を避けることができるように、私たちの言語が解釈されるのである」(p. 184)。 では何故に「混沌としたデータからいくつかのデータを選びとり、それらが同じものの外観をつくしているというのであるか」(p. 185)。まず挙げられる基準は外観の間の「類似」であり(たとえば、さっき見た家の外観は今見ている家の外観と似ている)、次いで「連続性」である。しかし、中間的状態を常に見ているわけではなく、中間的状態は仮説に基づくものではあるものの、十分観察されていなかったり、運動が敏速である場合でも、連続であるという仮説と矛盾するものはないため、連続性は二つの外観が同じものの外観であると見なす必要条件であると認めることができる。しかし、十分条件ではなく、「もの」の定義を与えるためには連続性以上の何ものかが必要となる。それは物理学の法則である。「そして、いまでは、感覚データを系列にまとめ、各系列がある『もの』に属していると見なすと、物理学の法則に関しては、この系列がこのものに属していない系列とは一般に異なる行動を示すようにすることが経験上可能であるということが、物理学によって明らかにされてきた」(p. 187)。「私たちは、『もの』の定義の中に、――それが可能であるとして――そのものの観測されない外観の定義を含ませなければならない。すると、ものとは物理学の法則にしたがう外観の系列である、という定義を下すことができる。このような系列が存在するということは経験上の事実であるが、この事実によって物理学が検証されるのである」(p. 188)。 感覚はデータではない。視覚的空間や触覚的空間といったそれぞれの感覚の空間を相関させ、構成されたものである。 第五講 連続の理論 「連続」であるということ。「数学における連続とは、いくつかの項で構成される系列、すなわち、ある順序に配列されていて、任意の二つのうち、いずれか一方が他の項より前にくるということがいえるような系列にだけ適用できる性質である。……しかし、哲学上の目的のためには、連続に関して重要なことは、『コンパクトである』と呼ばれる、もっとも低い度合いの連続によって導入されている。いかなる二つの項も隣りあっているということがなく、任意の二つの項の間に必ずその系列に属する第三の項が存在するときに、その系列は『コンパクト』であるといわれる。……数学でいう空間と時間も、コンパクトであるという性質を備えている」(p. 208-209)。日本語では密集ということか。 運動の数学的説明の可能性。運動に関する知覚作用は生理学的に説明されることができる。「しかし生理学は、感覚に直接与えられる対象とは異なっている刺激とか感覚器官とか物理的運動について述べているので、物理学が真であると仮定していることになる。したがって、物理学による説明が可能であることを示すことはできるが、それが必然的であることを明らかにすることはできない」(p. 215)。その上で、感覚から物理学への推論の可能性についての心理学的な説明が必要になる。「これに対する回答は、第三講と第四講で暗示しておいた理由から、肯定的でなければならないと私は信ずる。しかしこの回答は、簡単でもなければ、容易でもありえない。大ざっぱにいえば、この回答は次のようになる。すなわち、物理学がもてあそぶ質点や点や瞬間は、それ自体経験に与えられたものではなく、おそらく実際に存在するものではなさそうであるが、知覚作用に与えられている材料と、さらに、それと構造上似ている他の個別者を素材にして、物理学において質点や点や瞬間に想定されているような数学的な性質をもつ論理的構成をつくりだすことは可能であるということである。これができると、物理学の命題はいずれも、ある種の辞書によって、知覚作用に与えられているような対象に関する命題に翻訳することができる」(p. 216)。「目に見える運動の場合には、各瞬間において、依然として知覚できるすべての位置にあるということができる。しかし、このような位置の集合は、瞬間から瞬間へと絶えず変化していて、ちょうどこの集合が単なる点であるかのように、まったく同じ数学的取扱いで処理することが可能なのである。すなわち、私たちがある現象の数学的説明が正しいと主張するとき、主として主張されていることは、なまの現象によって定義されている何かが数学の公式を満足しているということにつきるといってよい。そしてこの意味において、数学的運動理論は、知覚に与えられたデータにも、抽象的な物理学で想定されている粒子にも適用できるのである」(p. 218)。 二種類の知識、「熟知」と「それについての知識」。 熟知は感覚から導き出されるものであり、熟知には度合いはなく、熟知しているかしていないかのどちらかである。 「それについての知識」はいくつかの命題に関する知識であり、その構成要素の熟知は含意していない。「二つの色合いが異なっているということを知っていることは、こっらの色合いについての知識である。したがって、これら二つの色合いを熟知しているからといって、それらが異なっているという知識が必然的に得られるわけではない」(p. 220)。 論理的原子論の要請。感覚データは互いに独立した単位から構成されているという見解は、それを必然的に成り立たるような経験的な根拠はない。しかし、これは論理的原子論において要請される。「このような見解は、それが主張されるとするならば、経験にもとづく理由からではなく、論理的理由にもとづいて主張されなければならない。私は、この結論を得るには論理的理由だけで十分であると信ずる。論理的理由は、基本的には、複雑なものをその構成要素を仮定しないで説明することは不可能である、ということにもとづいている」(p. 220)。これによって、論理学に基づいた説明が感覚データに適用できるようになる。 第六講 歴史的に見た無限の問題 連続の難点は無限の難点である。「連続に関して想定されている難点はいずれも、連続的な系列には無限に多くの項が含まれていなければならないという事実に源を発しているのであって、実際は無限に関する難点なのである。したがって、無限を矛盾から解放すれば、同時に、科学で仮定されている連続も論理的に可能であるということを示したことになる」(p. 227)。 カントのアンチノミーの検討(p. 228-231)。(1)世界に始まりがあるのかについてのアンチノミーでは、カントは無限の系列は継起的な総合によって完成されることができない故に不可能であるとしているが、ラッセルによれば、無限は集合の性質であり、無限集合は要素を一つ一つ列挙せずとも性質を与えることで一挙に定まるので、「完成」とか「継起的総合」の必要はないし、それにまつわる問題も起こり得ない。(2)世界の複雑性についてのアンチノミー。その一方の命題においては、複雑なものが単純なものから成っているとすれば、複雑なものが位置を占めるところの「空間は単純な部分からではなく、いくつかの空間からなっている」ために、複雑なものが単純なものから構成されることはあり得ないとなっている。しかしラッセルは、空間が単純な部分からではなく空間から構成されていなければならないという理由をカントは与えておらず、さらにラッセルは幾何学では空間は点から構成されているが、点は単純である。ラッセルによれば、カントは、空間は無限に分割されることができ、そのいかなる段階でも空間は依然として空間であり、点にはならない、ということを前提していたためにアンチノミーの反定立は証明できないという。 無限に関する困難、無限数は不可能であるという信念の元。「ごまかしの困難」と「ほんとうの困難」。ごまかしの困難は、過去が無限であることの方が、未来が無限であることよりも難しいという主張であり、過去は完結しているが、無限は完結することができない、そして無限は終わらないものであるという考えがその理由となっている(p. 250)。ほんとうの困難は、数を考える際に「数えるという概念を多かれ少なかれ無意識のうちに用いることに原因がある」(p. 251)。 第七講 積極的無限論 数の定義は数え上げからなされるべきではない。「数えるということは、親しみぶかいものであるために、誤って単純であると考えられているが、実際はたいへん複雑な手続きであって、数えることによって到達できる数が、それに到達するために用いられる手続きとは独立したある意味を担っていなければ、無意味なのである。そして、このような方法で無限数に到達することは、まったく不可能である。この誤りは、雌牛を家畜商から買いうるものとして定義するのと同じ種類の誤りである。何人かの家畜商は知っているが、雌牛を見たことのない人にとっては、これはすばらしい定義であると思われるかもしれない。ところが旅行の途中、一群の野生の雌牛に出あうと、その人は、家畜商が売ることができないから、それはまったく雌牛ではないといいはらなければならないことになろう。同じようにして、無限数も、数えることによって到達できないから、まったく数ではないと宣言されたのであった」(p. 255)。さらに、数えるという行為には数が前提されている(p. 256)。 無限数の性質。(1)反射性。「一を加えても増加しないときに、その数は反射的であるといわれる」(p. 257)。ちなみに、カントールが示したように無限数には大小の概念を適用できるのである。ある無限が別の無限よりも大きいというのは不可能であるという「シンプリチオが直面した困難は、より大きい、あるいはより小さいという概念が適用できるならば、無限集合の部分は、その集合全体より少ない数の項を含んでいなければならないという、シンプリチオの信念に全面的にもとづいている」(p. 261)。 (2)非帰納性。ある性質が遺伝的であるということは、ジョーンズ姓を持つという性質が最初のジョーンズから子々孫々まで備わっているように、ある数に備わっている性質はその数より大きい数にも備わっているということになる(例えば、99より大きいという性質は、100以降の数においては遺伝的な性質であるといえる)。「同じようにして、〇がもっている遺伝適正質は、必ずすべての有限数に備わっていなければならない。これがいわゆる『数学的帰納法』の原理である。すべての有限数がある性質をもっているということを証明しようとするときにしばしば行われることは、まず〇がその性質をもっていることを証明し、次に、その性質が遺伝的である、すなわち歩かずがその性質を備えているならば、次の数もその性質を備えている、ということを証明することである。このような証明が『帰納的』と呼ばれているという事実にもとづいて、私は、この種類の証明が適用できる性質を『帰納的』と呼ぶことにする。したがって、数に関する帰納的性質は、遺伝的であると同時に、〇に備わっている性質である。……私たちは『帰納的』数を、すべての帰納的性質をもっている数として定義することができる。このような数は、いわゆる『自然』数、すなわち、ふつうの有限の正数と同じであろう。こういった数の全体に対して、数学的帰納法による証明が正しく適用できる。大ざっぱにいうことが許されるならば、これらの数は、〇から逐次一を加えることによって到達できる数、すなわち、数えることによって到達できるすべての数である」(p. 262-263)。一方で、無限数は非帰納的であり、数学的帰納法が通用しない。「数に備わっているもっと、おなじみぶかい性質の多く――それは、習慣によって人々が論理的に必然であると見なしてしまったものである――は、一歩一歩の方法によって証明されるにすぎないのであって、無限数については成り立たない。ところが、このような性質は数学的帰納法によって証明するのであるということと、この方法(数学的帰納法)がきわめて限られた適用範囲しかもっていない、ということが理解されるやいなや、考えられていた矛盾は、論理学にではなく、私たちの偏見と心の習慣に矛盾するにすぎないということがわかる」(p. 263-264)。 フレーゲのプラトニズム。「フレーゲは、さらに次のように述べている。『私は、さわることができるもの、空間的なもの、実際にあるものと、客観的なものを区別する。地軸や太陽系の質量の中心は客観的であるが、これらのものは地球それ自体のように実際にあるものと呼ばれるべきではない』(三五ページ)。続いてフレーゲは、数は空間的でも物的でも主観的でもなく、知覚されない客観的なものであると結論している。この結論は重要である。なぜならば、この結論は数学と論理学のあらゆる主題に適用されるからである。大部分の哲学者たちは、存在の世界は物的なものとその間にある心的なものでつきていると考えてきた。じっさい、何人かの哲学者たちは、数学の対象は明らかに主観的ではないから、物的で経験にもとづくものでなけれでならないと論じた。これに対して、別の哲学者たちは、数学の対象は明らかに物的なものではないから、主観的で心的でなければならないと論じた。いずれの側も、その否定したことに関しては正しく、積極的に主張したことに関しては誤っていた。これに対してフレーゲは、これらの否定を受け入れ、心的でも物的でもない論理学の世界を認めることによって、以上二つの主張とは異なる第三の主張を発見したという功績を担っている」(p. 267)。 数の定義。数は一般的項、すなわち集合の性質であり、個物の性質ではない。この数の定義では、集合の項(メンバー)を列挙する必要はないので、無限集合にも数を適用できる。さらに、集合の数については、「ある集合のすべての項(メンバー)ともう一つの集合のすべての項の間にイギリス人の夫とイギリス人の妻の場合のように、一対一の関係が成り立っている場合には、その集合に含まれる項の数は、もう一つの集合に含まれる項の数とか成らず同じである。しかし、このような関係が存在しない場合には、これら二つの集合の数は等しくない。これが、『二つの集合はいかなる場合に同じ数の項を含んでいるか?』という問題に対する回答である」(p. 269)。そして、ある集合の全ての項ともう一つの項の全ての項との間に一体一の関係が成り立つとき、二つの集合は「類似している」とする。これらの議論から、与えられた集合の数はその集合に類似している全ての集合の集合として定義される。「すなわち、『与えられた集合に含まれる項の数』は『与えられた集合に類似しているすべての集合の集合』の意味であると定義される」(p. 269)。 第八講 原因の概念とその自由意志の問題への応用 因果律がこれまで成り立ってきた(と考える)根拠は(ヒュームが喝破したような)習慣であり、これからも因果律が引き続き成り立つという証拠は帰納の原理である。因果推論を可能ならしめるのは因果律ではなく、帰納の原理である。将来に関する推論が正しいのであれば、いかなる原理によるのかという問いに対し、ラッセルが帰納の原理を挙げている。これはもし成り立つのであれば、経験によって証明・反駁されることのないア・プリオリな論理的法則でなければならず、帰納の原理からは以下の命題が導かれる。「多数の事例において、ある種類のものがある別の種類のものとある方法で結びつけられるならば、一つの種類のものがもう一つの種類のものといつでも同じように結びつけられるということは確からしい。そして、事例の数が多くなるにつれて、結びつけられるという確率は限りなく確実さに近づく」(p. 385)。これが認められるならば、過去についての事柄は観測されていない未来でも成り立つという推論が保証される。 因果性における目的論。因果律は伝統的にはある王様の下す厳命のように理解されていた。「そして原因は『能動的』で、結果は『受動的』であると考えられていた。このことから、『ほんとうの』原因は結果についてのある予言を含んでいなければならない、という考えに進むことは容易なことである。したがって、結果は原因が目指す『目的』となり、目的論が自然の説明にさいして因果関係にとって代わることになる。しかし、このような考えは、物理学に適用されると、単なる擬人化という迷信であるにすぎない。そして、こういった誤りに対する反動として、マッハその他の人たちは、純粋に『記述的』な物理学を主張してきたのであった。すなわち、物理学の目的は、『なぜ』ものごとが起きるのかということではなく、『どのようにして』ものごとが起きるのかということだけを私たちに教えることにある、とこの人たちはいうのである。そして、『なぜ』という質問が、それにしたがって現象が起こる一般的法則を探求するということをこえたあるものを問うという意図をもつならば、物理学ではこの質問に答えることはできないし、問われるべきでもないということは確かなことである。この意味において、記述的物理学は疑いもなく正しい。しかし、因果律を用いて、観測されたことから観測されないことへの推論を支えようとするさいみは、物理学は純粋に記述的であるというわけにはいかなくなる。そして、『原因』という伝統的な概念に含まれてはいるが、科学にとっても役に立つ部分を提供するのは、まさに因果律なのである。したがって、この原因という概念は、正統派形而上学で通常仮定されていることのほんの一部分をなしているにすぎないにしても、この概念のなかには、保存しなければならない何かが残っているといってよい」(p. 286-287)。 人間の行動は十分な数の先行条件から予測できるのか? ベルクソンの回答は否。曰く、心に関する事象は、必ず過去の事象を背負いこんでいるために、それ以前の事象とは異なったものでなければならない。例えば、詩を読むにあたっては何度も繰り返して読めば、以前に読んだ経験によって修正され、何もかもがそのまま繰り返されるわけではない。「因果性の原理は、ベルクソンによると、同じ原因は繰り返されると同じ結果を生み出す、という主張である。しかし、記憶があるために、この原理は心に関する事象には適用できないのだとベルクソンは論じている」(p. 292)。しかし、ラッセルによれば、「ベルクソンの論証には、どのような種類の行為が行われるか予測できないということを示すようなものは何も含まれていない。さらい、ベルクソンによる因果律の表現は適当ではない。因果律は、同じ原因が繰り返されると同じ結果が生ずるといっているだけではなく、むしろ、ある種類の原因とある種の結果の間には定まった関係があるということを主張しているのである。……落下に必要な時間を予見するために、物体を以前に観測されたのと同じ距離を落下させる必要はない」(p. 293)。さらにまた、原因と結果の関係は一対一のものである必要はなく、原因が複数あったり、連続的な過程であろうともよい。 原因と自由意志のアナロジー。物心・心身の相関性が想定されたとしても、自由意志の存在を否定するような議論は出てこない。「こういった結論が導かれるという信念は――私はそう思うのであるが――、一に原因が意志と同じものであって、さらに原因がその結果を、人間社会の権力者が一人の男にその男がむしろ望まないことをおしつけることができるのと同じような意志で強制するのである、という考えから起きているのである」。 因果律は意志にも適用されなければならないということにア・プリオリな確実性はなく、意志がどのくらい因果律に従うのかは経験に基づいて解決されるべき問題である(p. 294-295)。 結果は原因を強制的に押しつけるわけではない。「自由があるという感じは、いくつかの可能性のうちから好きなものを選ぶことができるという感じにすぎない」(p. 295-296)。過去は必然的な結果であるが、未来は見かけ上決定されていないように見えるが、「この点に関連して私たちが、原因と結果の間に感ずる違いは、過去のことは覚えているが、未来のことはたまたま記憶していないという事実にもとづく、単なる混乱にすぎない」(p. 296)。そうであるとすれば、自由意志は無知に基づくものであるということになるが、因果関係に関する完全な知識は過去も未来も包含しているはずせある。「仮に、未来のことを、過去のことを見るのと同じような方法で直接見ることができるとするならば、いかなる種類の自由意志がその後も残りうるであろうか? このような自由意志は、もしそれがあるとすると、決定論とは全く無関係であろう。すなわち、このような自由意志は、因果関係があまねく全面的に支配しているという見解とさえ矛盾しないであろう。それどころか、この種類の自由意志には、自由意志にふさわしいあらゆることが含まれているにちがいない。なぜならば、たんなる無知がなんらかのよいことの基本的な条件でありうると信ずることは不可能であるからである」(p. 297)。 人間の行動は願望の結果であるから、予見された意志が願望に反したものではありえない。記憶が過去を創り出すわけではないように、予見も未来を創り出さない。それゆえ、意志を予見することができるとしても、未来は決定されないし、未来においては自由でありうる。 エア『言語・真理・論理』 ・過去の哲学に対する態度 「何故なら、この言葉を我々が定義する時に当たってのすべての心づかいを以てしても、人々をして、我々が哲学的と呼ぶ活動と、彼等が哲学者と見なすように教えられてきた連中の形而上学的な活動とを混同することを、まぬがれさせはしないからである。……これに対して我々は『哲学の歴史』がほとんどすべて、形而上学の歴史だったというのは事実ではないと答えよう。哲学の歴史が何程か形而上学を含んでいることは、否定できない。しかし私は、普通偉大な哲学者だったと考えられている人々の大部分は、第一義的には形而上学者ではなくて、分析家だったことを示しうると思う」(『言語・真理・論理』, p. 38)。 ・現象主義 「物質的事物の存在を信ずる権利を人に与えるものは、単に、人がある感覚を持っているという事実だけなのである。というのは……《ものが存在する》ということは、《そのような感覚がえられる》ということと同じなのである」(『言語・真理・論理』, p. 36)。 「それどころか我々は、物質的事物を感覚−内容を用いて定義することが可能でなくてはならないことを知っている。というのは、如何なる物質的事物も、その存在が、最小程度においてでもとにかく検証されうるのは、ただまったく、あるいくつかの感覚−内容があらわれたことにのみよるのである。かくして我々は現象主義的な『知覚学説』が正しいか、あるいは他の種類の学説が正しいのかをたずねるべきではなくただ如何なる形の現象主義的な学説が正しいのかのみを問うべきであることを知る」(『言語・真理・論理』, p. 40-41)。 ・ヒュームが示したこと 「……彼は次の諸点を決定的に明らかにしたと私は思う。すなわち第一に、原因と結果との間の関係は論理的な性質のものではない。何故なら、因果的な結合を確言している命題はどれでも、自己矛盾なしに否定されることが出来るからであるということ。第二に、因果法則は、経験から分析的に引き出されたものではない、何故なら、それ等の法則は、如何なる有限個の経験命題からも演繹されないからであるということ。そして第三に、因果的結合を確言している命題を、特殊な個々の事件の間に成立する必然の関係をあらわす言葉に分析することはあやまりである。何故ならそのような関係の存在を確立するような傾向をほんの少しでも持つような経験を、考え出すことは不可能だからである、という諸点である」(『言語・真理・論理』, p. 42-43)。 ・真理とは何か 「すべてに場合においてその文章の分析は《「真理とは何であるか」という問は「『Pは真である』という文章の分析とは何であるか」という問に還元可能である》という我々の仮定を確証するであろう。……『実在的な性質』または『実在的な関係』としての真理の伝統的な概念は、哲学上のあやまりの大部分と同様、文章を正確に分析することが出来なかったため生じたのである。今我々が分析したばかりの二つの文章のように、その中では『真理』という言葉が何か実在的なものに対応しているようにみえる文章がある。このため思弁的哲学者はこの『何か』は何であるかと問うようになった。彼の問は正しいものではなかったのだから、当然彼は満足すべき回答は得られることが出来なかった。何故なら我々の分析が示したように『真理』という言葉はこの問が要求するような意味では何ものにも対応していないからである」(『言語・真理・論理』, p. 99-100)。 ・確からしさのプラグマティックな見解 「我々は今や、『我々が経験的命題の有効性をためす基準は何であるか』という我々のもともとの問題に答えるために必要とした知識を獲得したのである。その答は《我々は、経験的仮説の有効性を〈それがみたすようにもくろまれている機能を実際にみたしているかどうか〉をみることによりためすのである》というのである。そうして我々がみて来たように、経験的仮説の機能は我々に経験を予知することが出来るようにさせることである。したがって所与の命題が関係しているある観察が我々の期待にあうならば、その命題の真実性は強められる」(『言語・真理・論理』, p. 116)。 「ある命題の確からしさに言い及ぶ場合、我々はしばしばそう思われているように、その命題に内在する特性に言い及んでいるのでなければ、その命題と他の命題との間に成立つ論理的関係に言い及んでいるのでさえもない。大まかにいって、《観察が命題の確からしさを増す》という場合我々の意味しているすべてのことは、《それがその命題に対する我々の信頼を増す》ということなのであって、この場合に信頼は、《我々が実践において我々の感覚の予報としてそれにどの程度進んで頼ろうとするか》、《都合の悪い経験に面した場合、どの程度他の仮説に対して優先的にそれを守ろうとするか》によってはかられるのである」(『言語・真理・論理』, p. 117)。 ・倫理的記述 「我々は《今いわれている倫理的な陳述の非-倫理的な陳述への還元は、我々の現実の言語の規約に整合的である》ということを否定しているのである。いいかえれば我々は功利主義と主観主義とを、現存する倫理的な概念を新らしいものでおきかえようとする提議としてしりぞけるのではなく、我々の現在の倫理的な概念の分析としてしりぞけるのである」(『言語・真理・論理』, p. 127)。 Ayer, ‘Verification and Experience’(1936) まとめ 整合説に基づけば、プロトコル文は有名無実になり、ある文がプロトコル文であるか否か、ひいては文の真理性の基準は恣意的になる。 信頼の置ける観察者(当代の科学者)の報告という、カルナップによるプロトコル文の選定基準およびヘンペルによるその修正版が訴えているのは歴史的事実であり、根拠薄弱。 プロトコル文は事実や経験への言及を含まなければ、真理の基準にはならない。 完全な検証の不可能性が規約と恣意性を要請する。 カルナップは本来は観察内容を述べるものであるプロトコル文を「記号の特定の組み合わせのための構文論的指示子」として用いており、これが彼をして知識の基礎を構文論的に扱わせしめている。 命題についての予備的説明 命題の種類としては二つ、「他の命題の真偽を確かめることによってのみその真偽を決定される経験的命題と観察によって直接的に真偽が決定される」(p. 228)命題があるが、その後者は基本的命題、すなわち「審議の決定のために他の命題を待つ必要がないが、与えられた事実と直接突き合わされることができる命題」(p. 229)である。 整合説への批判その1、プロトコル文の有名無実化 命題の真偽の決定を事実に訴えるのではなく、他の命題との両立可能性に基づかせるないとすれば、嘘をついていたりや幻覚を見ている場合とどう見分けるのか。そしてさらに整合説ではプロトコル命題は特別な文ではなくなり、さらにいえば他の命題とプロトコル命題を区別する必要がなくなってしまう。「プロトコル命題とそれと両立しない非プロトコル命題に出会ったとしても、我々はプロトコル命題を受け入れて他方を排除することを強制されない。我々はいずれかの排除では対等の権利を持つ。しかしもしそうならば、我々はプロトコル命題の安定性を確保するためにそれらのために特別な形式を考案するよう悩む必要はない」(p. 230)。「なぜ彼〔ノイラート〕とヘンペルは、彼らがプロトコル命題とその他の命題に引くことができる唯一の区別は形の上での区別のみであるとする限り、プロトコル命題にかような注意を向けるのか、なるほど不思議に思えるだろう。彼らはプロトコル命題によって観察によって直接に検証される命題を意味しているのではないわけであり、それはこれが可能であると彼らが否定しているがゆえにである。彼らは純粋に、語の或る集まりへの構文論的指示子として『プロトコル』という語を使っている。しかしなぜ『観察』という語に特別な意味を結びつけるのか? 特定の型の文の構成してそれらに『プロトコル文』という称号を授けて権威付けすることに関しての間違いは存在しないが、それは恣意的で間違いやすいことだろう。それへの正当化は英語でBという文字で始まる文として今日表現されることができる全ての命題の一群の集まりを基礎的命題にしてそう呼ぶことを選ぶこと以上のものではない〔つまりこれと同じくらいに恣意的〕。もしノイラートとヘンペルがこのことを認めなければ、『プロトコル文』について書くにあたって彼らは経験との一致についての忘れられた基準を無意識に使っているというのがありうる。彼らは『プロトコル』という語は構文論的指示子以上のものではないと述べているにもかかわらず、単にそのようなものとしてそれを用いてはいない」(p. 231)。 整合説への批判その2、真理の基準が不明瞭 既存の体系と整合的ではない命題が現れれば、その命題は廃棄されうるだろうが、それは経済の原理(a principle of economy)によるものであり、体系への変化を最小限にしようというものである(p. 231)。 整合説へのプライスの反論。彼の反語。メンバーが相互に支え合っているある判断の体系の中の一つの判断を受け入れたとしても、「だがどうして我々はそれらのどれかを受け入れるべきなのか? なぜ全体を拒絶してはいけないのか?」(p. 232)と問う。エア曰く、「我々はその体系の成員であること以上に他の何らかの根拠から引き出されるような可能性をその少なくとも一つの要素に割り当てるというのでなければ、そのような判断の体系が何らかの可能性を持つことさえ考えられない、とさらに彼〔プライス〕は論じる。したがってその理論〔整合説〕を救う唯一の道は何らかの命題が本来的にありうるということを保つようにすることであると彼は主張しているのである」(p. 232)。しかし、エア曰く、「プライスの主張を受け入れた人たちに対して好意的に述べられたことのほとんどは、彼は『可能性』〔probability〕という語を馴染みのない意味で提示することを選んだということである」(p. 232)。プライスが前提としているのは「整合説のよく知られた見解」であり、これにおけるある命題の真理の基準はその命題が単一の体系に組み込まれるということであるが、「しかしそれは命題の外見上整合的な体系の拡大はその可能性を増すと考える何の根拠も我々に与えない。逆にむしろ我々はそれは可能性を減らすと考えるべきである」(p. 232)。 無矛盾な体系は唯一のものではなく、いくつもありうるものであり、整合性は真偽を区別する基準にはなり得ない。これに対し、エアはカルナップ("Erwiderung auf die Aufsatze von E.Zilsel und K. Duncker"において)の答えを引き、述べる。「我々は真なる体系は真なるプロトコル命題に基づくものであり、真なるプロトコル命題は主に我々の時代の科学者を含む信頼できる観察者によって生み出されると言うべきである。論理的には、それは我々の各々が表現するプロトコル命題はあまりにも多様であるため、科学の共通の体系や唯一の統一的体系をそれらに基づかせることができないような場合である。しかし実際のところは幸運にもそうではない。人々は折に触れて不便なプロトコル命題を生み出す。しかしごく少数であれば、それらは無視される。彼らは悪しき観察者や嘘つき、極端な場合には狂人であると言われる。……このようであるからして、その理論が現れれば、我々は考えられる限りの多くの科学の整合的な体系のうちからたった一つを真であると述べる時、我々はそのことに訴える」(p. 233)。しかし、なぜ「我々の時代の科学者」の観察を真理の基準にしなくてはならないのかという疑義をエアは述べ、この疑義にヘンペルは修正を加えることで答える。ヘンペルは「我々が真と呼ぶプロトコル文の体系は我々の文化的な集団の科学者によって実際に採用されているという歴史的事実によってのみ特徴づけられる」と言う代わりに、「以下のような文は『我々の科学において』採用されるプロトコル文によって十分に裏付けられる。『プロトコル文の想像しうる整合的な集合の中で、教えを受けた科学的観察者の非常に大部分によって採用されている実際に正確な一つのものがあり、同時にそれは我々が一般的に真であると呼ぶまさにこの集合である』」(p. 234)。「……引用された文を支持するプロトコル文が我々の科学において実際に採用されているとどうやって決定するのか? ……しかしこれは彼が排除しようとしている歴史的事実への言及を再生産している」(p. 234)。 整合説に対するエアの結論。「そこで、経験的命題についての、『事実』や『実在』あるいは『経験』への言及を含まないような真理性の基準を決定するための基準を定めようという試みは成功が証明されることはなかったと我々は結論するだろう」(p. 234)。 ポパー説にも恣意性が残る ポパーは「プロトコル文について」のカルナップと同様に基礎的命題の受け入れにおいては規約の役割を主張している。ポパーにとっての基本的命題は「特定の時空間的な点とその場所で起こるのが観察可能な出来事であると述べられる出来事を参照する」(p. 235)単称存在言明であり、そういった命題の検証についての見解は「基礎的命題は意志の行動、規約によって受け入れられる」(p. 235)。しかしエアはこれには恣意性が残っているとして批判する。 思うに完全な検証の不可能性が規約と恣意性を要請するのではないか? 「したがって実際には、私は限られた回数のテストのみ、ひょっとしたら僅か一度のテストを経た後で命題を受け入れ、そのテストはその命題が偽である可能性を未だに残している。しかしこれは命題の我々の受け入れは恣意的な決定の結果であると言うことではない。私はその命題を支持する何らかの根拠を集めてきたのであり、それが決定的な証拠ではないとしても、である」(p. 236)。 カルナップの規約主義への批判 カルナップはプロトコル命題という語に新たな意味を付け加えている。思うに、まるで観念という語に元からの観察された内容という意味に加え、思考の単位となるブロックとしての意味が持ち込まれたように。「カルナップがしたように、我々がどの命題をプロトコルとするのかということは規約の問題であると述べることによってこれを表現することは、馴染みのない意味を『プロトコル命題』という語に単純に与えることである。……正当ではないことはそれと、プロトコル命題は『直接的に与えられた経験を記述する』と言われる〔というプロトコル文についての〕彼の以前の用法を食い違いを無視することである。古い用法を放棄することで彼はぶつかるよう仕組まれている問題を偶然先送りにしたのである」(p. 236-237)。 カルナップは所与の要素とはどんな対象であるかという問題を、それは「プロトコル言明において現れるのはどんな種類の語であるのか」という問題を不正確に述べたものであるというように構文論的に扱い、「このようにして彼は直接的な経験の本性についての問題は言語的な性格のものであると考えた。そしてこれは彼に『いわゆる与えられたものや原初的所与の問題』の全てを、言語の形式についての我々の選択にのみ依存するものとして切り捨てさせた。しかしこれは我々がすでに披瀝したところのノイラートとヘンペルの跌を踏むことである。もし『プロトコル言明』という語が記号の特定の組み合わせのための構文論的指示子として単に用いられることになれば、それに我々がそれ〔構文論的指示子〕を適用させるところの文の我々の選択はなるほど規約の問題ということになる。そうなれば真理への参照の程度はBで始まる英語の全ての文に『基礎的』という指示子を適用すると決定すること以上ではない。……したがって彼の問い『プロトコル言明において現れるのはどんな種類の語であるのか』への我々の答えは、言語の形式の規約的選択には単純に依存しない。それは『与えられたものの要素、直接の経験の対象とは何であるのか?』という問いに我々が答えるような方法に基づいている。そしてこれは言語に関する問題ではなく、事実に関する問題である」(p. 237-238)。エアは基礎的命題の問題を規約で片づけるのではなく、やはり経験に触れなければならないと考えているようだ。ここらへんにエアとカルナップの経験主義者としての表層的な類似の下には異なったバックグラウンドがあり、エアは現象主義的なイギリス経験論、カルナップはカント主義的な考え……といえるのか今は分からないものの、この点における不一致は彼がとにかくエアとは異なった思想系統に属していることを示しているのかもしれない。 カルナップの誤りの理由はプロトコルという語の混乱した使用。「たとえば、混乱の源は『プロトコル』という語の使用である。それは純粋に形式的な指示子と事実の問題に向かう参照に関わるものの両方として解釈することは矛盾なくしてできない。しかし確かにカルナップがそれを解釈したのかというと、それはこの解釈であり、そのために彼は基礎的命題の本性は規約だけで決定できると考えるという過ちを犯すようになったのである。なるほど我々が『ヨ ロ コ ビ』という文字から成る言葉を喜びを指し示すのに用いるべきであるというのは規約の問題である。しかし『喜び』はプロトコルの語でと言うことに暗示されるところの、喜びは直接的に経験されるという命題は規約によってではなく、事実を参照することでその真偽を決定される。感覚の心理学は科学のア・プリオリな枝ではない」(p. 238)。 神についての言明も経験の内容でなければならない(p. 239)。基礎的命題は規約ではなく所与に基づく。「我々は基礎的命題の形式も妥当性も規約にのみ基づくわけではないと言うことを示そうとしてきた。直接に経験できるものを記述することがそれらの機能であるため、それらの形式は『所与』の一般的本性に、それらの妥当性は適当な特定の場合においてそれ〔一般敵本性〕との一致に依存するであろう」。 経験と命題の一致関係とは何ぞや 基礎的命題とそれらを検証する経験との間の一致とは何ぞや? この一致の関係とはどんなものなのか? それは絵と描かれるものとの関係なのか? 否。もし命題が絵だとしても、真なる絵と偽なる絵も同じく絵であり、「言い方を変えれば、我々は命題の形から、つまり絵を眺めるだけで、それが真なる状況を描いているのか否かを述べることはできない。……真なる絵は実在と一致する一方で偽なるものはそうではないと我々は言うべきではないのだろうか?」(p. 240)つまり、真偽の判定はできない。同じ難点は構造伝達説、つまり「この一致の関係は構造との同一性の一致であると言う人たち」(p. 240)の説にも成り立つ。エア曰く、彼らは命題は地図のようなものであると考えているわけだが、偽なる地図も地図であることに変わりはなく、判別がつかない。「その地図が実在と一致しているかどうかを見るだけで地図の真理性をテストできると言うことを我々は避けることができるだろうか? だがそれでは同意の思念が未だ不明瞭であり続けている」(p. 241)。言語を絵や地図になぞらえる説では言語による事実の表現を事実(の何かしらの特長)との類似によって説明しようと試みられているが、「『これは赤い』がこのものが赤いことを述べるために用いられることは、それ〔『これは赤い』という文〕が事実的なあるいは仮説的な赤いシミに対して構造にせよ内容にせよ何らかの類似関係を持っているということを含意しない」(p. 241)。 事実と言語の関係についてのあまりにも安直に見える、しかし常識的な答え 「しかし『私は怒っている』という言葉が私が怒っていると言うために使われるとすれば、私が怒っていることがそれらの言葉が表現する命題を検証するということに何ら神秘的なことはない。だが、いかにして私は自分が怒っていることを知るのか? 私がそう感じるからである。いかにして私は今大声がしていることを知るのか? 私がそれを聞くからである。いかにしてこれが赤いシミであることを私は知るのか? 私がそれを見るからである。この答えが満足できるものと考えられないのであれば、私は他にどんな答えが与えられうるのか分からない」。 基礎的命題は反駁不可能(incorrigible)であるというのはいかなることであるのかに関する諸説 プライス説。「それら〔基礎的命題〕を受け入れる我々の理由が我々の経験のうちに見いだされ、もし『これは赤い』という視覚的感覚与件を述べることが正当化されるのであれば、それはその人がそれを見るが故にそうなのである」(p. 242)。ユーオス説。否定や疑義を受けるものは「これは赤い」といったような基礎的命題そのものではなく、「私は何かしらの赤いものを三秒前に見ていた」というような、基礎的命題とは別物の命題であるが故に基礎的命題は反駁不可能である。しかし、エアはこれでは基礎的命題のみならず、直示的な命題の全てがこれに当てはまってしまうとして反論する。ムーア説。「基礎的命題は反駁不可能であると述べる人のうちある人たちは、我々は他の経験的命題について間違うことができるような仕方でそれらについて間違うことはできないということを心に抱いていると、ムーア教授は私に主張した。『私は痛い』とか『これは赤い』と私が言うならば、私が嘘をついていたり、言葉を間違って使っていることになるが、これは私は『痛い』や『赤い』として標準的に区分されていないようなものに区分しているのである。……もしムーアが正しいとすれば、『私はこれが赤いのか疑っている』とか『私は自分が痛がっているが、ただ単に私が『痛い』や『赤い』が言葉の正しい使われ方をしているのかを疑っているということを意味しているのでなければ、それは間違っているのかもしれないと考えている』と言うことは意味をなさないことになる。しかし私はこの点でムーアは正しいと今は信じている」(p. 243)。 Ayer, ‘Preface’ of “Logical Positivism”(1959) ・ヒュームは論理実証主義の先駆者? エアは「もし我々がそのリスト〔ウィーン学団が自分たちの先駆者として位置づけた人たちのリスト〕から同時代人を外すならば、全般的な見解においてウィーン学団と最も近しいのはヒュームとマッハである。現に今論理実証主義の特徴的な性格と考えられている学説がいかにすでにヒュームによって立てられていたか、あるいは少なくとも先取りされていたかは顕著なことである」(p. 4)とは言っているが、どうも得心できない。というのも、なるほどマニフェストではヒュームの名は上がっているが、少なくともカルナップに限って言えば、彼の著作を読んできた限りでは彼がヒュームの名を言及するのは極めてまれであり、言及するにしてもあまり重要な点でもないから。これはエア自身がヒュームの伝統の継承者だからなのか? ・ウィーン学団への敵対、いわゆるナチスの弾圧 「論理実証主義者はその弟子に殺されて当然だったということをほとんどほのめかしていた、政府公報でシュリックに寄せられた死亡記事の敵対的な調子は学団にすぐに降り懸かった苦難の前兆となった。第一次大戦の終わりに革命組織スパルタクス団のMunich政府に参加していたノイラートを除いてそのメンバーたちは政治活動を見せていなかったが、彼らの批判的で科学的な傾向はDolfussとSchuschniggの右派の聖職者政府、そしてなおさらナチスからの彼らへの疑いをもたらした。彼らの大部分は亡命を余儀なくされた」(p. 7)。 ・カントの形而上学批判と論理実証主義のそれとの対比 「私はヒュームを引用したが、人間の悟性は可能な経験の一線を越えようとすれば矛盾に陥って途方に暮れてしまうと主張したカントも引用しただろう。論理実証主義者の独自性は形而上学の不可能性を知られうる事柄の本性に基づいてではなく述べうることの本性に基づいて論じたことに存している。形而上学者に対する彼らの非難は彼が文字通り意味を持つべきならば言明が満たすべき規則を破っていることである」(p. 11)。 ・エアによる論理経験主義の史的発展の説明のまとめ ウィトゲンシュタインの論理原子論から検証原理が引き出され、有意味な命題は原子命題であるところの基礎言明(elementary statement)、つまり直接経験、観察の内容の記録、センス・データを表現したものであるとされた。しかし、その基礎命題は私秘的なものか公共的なものかで論議が生じ、後者に落ち着いた。 その一例がカルナップの現象主義から物理主義へのシフトであった。だが、「しかし彼はこの試み〔アウフバウでの現象主義的還元の試み〕は成功してないと後に認めた。これを行う正しさには問題があり続けていたものの、その立場〔基礎言明を物理的なものとすること〕はより簡単に物理的出来事の記述としての基礎言明を扱えるそれらは物理的対象のセンス・データへの還元の困難によっては少なくとも煩わされなかった」(p. 13)と述べているようにおそらくエアはカルナップの基礎言明の選択は何を還元の基礎に置くかという話ではなく、言語選択の問題であったことを十全に織り込んでいないようである。 基礎言明の私秘性については経験の内容とその構造を区別するという対処法もある(p. 18-19)。基礎言明が私のセンス・データに基づくものであれば、他者はそれを検証できず、他者への伝達もまたできなくなり、いわば「我々は全く別の世界に住んでいることになる」(p. 18)。だが、「しかし、検証されうるものは〔我々が用いる〕言葉が類似した構造を持つということである。……私は我々が同じ言葉を適用していること、色に応じた彼の対象へのクラス化は私のものと一致していることが観察できる。私が彼が痛いと言う時、彼は私が適当な記号として考えるものを提示していることを観察できる。そして伝達に必要なものはこれで全てである。問題は我々各々の世界の構造が彼が私に与える情報に頼ることができる程に私が十分に類似しているということである。この意味でのみ我々は共通の言語を持っていることになる。いわば、我々は我々の各々が自分の私秘的なやり方で描く同じカンバスを持っているのである」(p. 18-19)。とはいえ、この説には深刻な難点が存している。「構造のみを示す言明の例とはどのようなものか? そこにはロックの『一次性質』の響きがする。しかし対象の『幾何学的』性質、『形、延長、数と動き』を示す言明は、色と音を示すような内容についての語に翻訳されるべきである。もし私には私の隣人が私が色の語を使うことで用いるのと同じことを意味しているのかを知る術がないのであれば、彼が空間的関係や数量を示す言葉を使うことで同じことを意味していることを知る術も等しくないことになる。……振る舞いの上での見かけ上の調和が私に残された全てである。さらに、記述的言語の内部で伝達できるものとできないものとの間に線引きをしようつることは自壊的であるように見える」(p. 19)。 エアによれば、この構造伝達説(俺による仮の名称)の欠点こそがノイラートやカルナップを物理主義へと向かわせた。「彼らは基礎言明が科学の間主観的言明の基礎となるなるのであれば、それら自身が間主観的でなければならないと論じた。それらは伝達できない私秘的経験ではなく、物理的な出来事を示すべきである。より一般的には、表向きは経験、何かしらの『心的』な状態や過程を、自身であろうと他の誰かのものであろうと示す言明は全部『物理的言明』と同義であるべきであり、それというのいもこのようにしてのみ公共的に可知性であることができるからだ」(p. 20)。 ノイラートとカルナップの物理主義をシュリックは受け入れがたいものであると考えた。「彼は観察の報告をプロトコル言明がそうと考えられるように横柄な仕方で扱うことは、科学的仮説、実際に経験的言明なるものの全てを事実の統制の外に置くことになると論じた」(p. 20)。一方、彼らは言明は事実とは比較参照できず、言明が論理的関係を持つのは他の言明に対してだけであるとし、真理の整合説を採用した。しかし「カルナップ自身はタルスキにより意味論の重要性を納得させられた後、それを放棄した。というのも意味論は我々に文とそれらが指し示すのに用いられるものとの関係を指し示す方法を提供したからだ。タルスキの示すところでは、それは真理の対応説の十分な再定式化を提供する」(p, 20-21)。とはいえ、それでも物理主義を維持するカルナップに対し、エアは「他者の経験についての言明は彼らの露わな振る舞いについての言明とは論理的に同等ではなく、一方ある人自身の経験をなす言明はその人の身体の公共的に観察可能な条件についての言明と同等であることを維持することはラムゼイがするように、麻痺を装うことである。……しかし私はこの懸賞原理を『中立化する』試みはそれ自体相当な困難に出会うと認めてはいる」(p. 21)。要するに、基礎言明を物理的なものとすれば、他者と他者についての言明をうまく扱えなくなり、私秘的な経験とすれば、伝達ができなくなってしまうという問題が生じるというわけ。 しかしさらに問題はあり、全称命題や法則は検証できないということがそれであった。ポパーの反証主義はこれへの彼の見解の表明であた。しかし、ポパーの見解もまた難点を持ち、indefiniteな存在言明は反証できないというのがそれ。つまり、「雪男はいない」は雪男を見つけるだけでいいので原理的に反証できるが、「雪男はいる」は特定の時空間の範囲内ならいざしらずindefiniteならば原理的に反証できない。 それ故、決定的な検証も決定的な反証も意味の基準としては厳しすぎることが分かった。そこで彼らは確証の程度に代えたり、ある言明が「基礎言明でなければ、基礎言明がそれを支持〔support〕できるようなものであるべきである」(p. 14)といったより弱い基準に甘んじようとしたが、「支持する」や「確証」の概念は十全に定式化できなかった。 検証原理の身分についての反論、それこそ無意味であり、形而上学ではないのか、に対する答えは規約であるというものであった。エア自身は「私はそれは『意味』という語を実際に人々が用いるやり方についての経験的な仮説であろうが、しかしこの場合のそれは間違いであると考えており、それというのも形而上学的言明が有意味であると言うことは通常の用法に反していないからだ」(p. 15)という意見だった。他方で「ウィーン学団はこの難点に気付いていないようだった。しかし実際に彼らがやっていたことは検証原理を規約として採用することであったということは私には正当に明らかであった。彼らは、経験的に情報を持っていると考えられる言明によって実際に満たされる条件を述べる意味での通常の用法に合致する意味の定義を提出していた。ア・プリオリな言明への彼らの扱いはそのような言明が実際に作動する方法の説明を与えるべく意図されたものであった」。この際において彼らの仕事は記述的であり、それはそれら二種類の言明だけが真ないし偽として考えられ、真か偽をとりうる言明だけが文字通り有意味なものとして考えられるところの条件で規定することになった(p. 15)。エアは検証原理は記述としているが、これは、少なくともある時期以降のカルナップの工学的哲学観とは違うのではあるまいか。 ・構文論に入り込んだ意味論 エアはカルナップは『言語の論理的構文論』において意味論を紛れ込ませているとする。「経験表現〔experience-expression〕は構文論的用語ではない。ある表現を『経験表現』にするのは特定の形式を持つことではなく、それが経験を指し示すように使われるということである。しかしそこで何を経験として勘定するのかという問題は重要になってくる。それは恣意的決定によって解決されるものではない」(p. 26)。 ・クワインとグッドマンの存在論についての説明 「それらの哲学者たちは彼らが存在論と呼ぶものに関心を抱いており、その問題においてはある人の言語選択はどのようなものが存在するのかを言うのにどこまで彼を関わらせるのかというものであった。『存在すること』とは、クワイン曰く『変項の値となることである』。これはラッセルが世界の『家具』と呼ぶものの範囲は、それ〔家具〕を述語づけることを要求される述語の射程に依存するということを意味している。クワインとグッドマンは両者ともにこの家具を可能な限り厳しくして切り詰めようと望んだ。彼らが『抽象的存在者を避難した』のはただ単に自分たちがそれらなしでもどれほどうまくやっていけるかという論理的な才覚を行使しようとしたからではなく、彼らはそれらが存在すると自らを信じさせることができなかったからであった。同じ精神にあってグッドマンは現実的〔actual〕の逆のものとしての可能なもの、因果的と偶有的の区別、分析的言明と総合的言明の区別といった思念を使うことなくやっていった。『あなたはおそらく』彼曰く『そういった遠慮を非難し、私の哲学の中に天地に存在するもの以外の夢想的なものがあれば反発するだろう。むしろ私は私の哲学の中に天地に存在するもの意外に夢想的なものはあるべきではないと思っている』。しかし、彼の場合にせよクワインの場合にせよ、この厳しい節約の要求が何に基づいているのかは明らかではない。現にクワインは結局のところ何が存在するのかという問題はプラグマティックな理由によって解決させるべきであると認めた。かくして彼はカルナップに再合流したが、彼のプラグマティズムはあまり穏やかではない」(p. 26-27)。 ラムジー, 『ラムジー哲学論文集』 訳者あとがき 分析哲学へのラムジーの貢献 (1)タイプ理論の改変 (2)「真理の余剰説」 (3)ウィトゲンシュタインの転向への影響 (4)科学理論に関する「ラムジー文」にもとづく分析 (5)条件文の意味分析に関する「ラムジーのテスト」:「条件文“If..., then...”の意味を解釈する際に、これを真理関数的に解釈すると日常的な言語理解と違和感を生じるために、むしろこの結合子を確率論的に解釈しようとする、最近の理論において重視されるテストである。ラムジーは本書第七論文B「一般命題と因果性」のなかで、条件文の意味について論じ、ある条件文を受け入れるかいなかを決定するためには、認識者自身の知識のストックに前件を付け加え、そこから後件をいかなる度合いで信じることになるかを決定せよ、という考えを述べている。『ラムジーのテスト』とは、このような条件文受容に関するテストのことであり、この考えをもとにして、条件文を確率表現として解釈する現代の諸理論が展開されるようになったのである」(p. 390)。 IX 数学的論理(1926) ・タイプ理論から還元公理への道 タイプ理論はいわゆるラッセルのパラドクスを避けることができた。しかし、以下のようなーー【これについては今は知識不足で完全に理解することはできないが、ひとまず抜き書きしておく。これはPM計画遂行時に思い出され、理解し直さなければならない】ーー問題が生じる。 「このような理論は、我々が集合論の矛盾を容易に避けることを可能にしてくれるが、通常の重要な種類の数学的論証を無効にするという、不幸な結果をも伴っている。その論証とは、集合の上界(upper bound)の存在や、振幅単調列の極限の存在をそれによって根本的に確立する類の論証である。このような命題をデデキント切断の原理から演繹することは普通のことである。デデキント切断の原理とは、実数が完全に上集合(upper class)と下集合(lower class)に分割されるならば、上集合で最小であるか、下集合で最大であるよいな、分割数(dividing number)が存在しなければならないというものである。この原理は、今度は実数を有利数の切片(sections)と見なすことによって証明される。有利数の切片は、有利数の特殊な種類のクラスである。それゆえ、実数についての言明は、有利数のある種のクラスについての言明、すなわち、有利数のある種の特徴についての言明となり、問題にあっている特徴は、あるオーダーの特徴であるように限定されなければならなくなるのである。 さて、我々が実数の集合Eを持っていると仮定してみよう。これは有利数の持つ諸特徴のクラスとなる。Eの上界ξは、Eの成員の和集合である有利数切片として定義される。つまり、ξは、Eの成員の特徴となっている有利数のすべてを成員としている切片である。すなわち、Eの成員を与えている特徴のどれかを有しているという有利数のすべてを成員としている切片である。したがって、上界ξは、それを定義している特著が、Eの成員を定義している特徴よりも高いオーダーの特徴であるような切片である。ゆえに、もしすべての実数によって、あるオーダーの特徴によって定義されている有利数切片のすべてが意味されているならば、上界は一般に、それよりも高いオーダーの特徴によって定義される有利数切片であり、実数ではなくなってしまう。このことは通常理解されている解析学が誤った種類の論証に全面的に基づいている、ということを意味している。この種の論証は、他の領域で用いられると、自己矛盾的な結果に至るのである。 ホワイトヘッドとラッセルは、タイプ理論のこの不幸な結果を、還元公理(Axiom of Reducibility)を導入することによって避けようとした。還元公理は、高いオーダーの任意の特徴に対して、それと等値な最低のオーダーの特徴が存在する、ということを主張しているーーここで等値というのは、一方の特徴を有しているものはすべて他の特徴も有しており、よって両特徴は同一のクラスを定義する、という意味である。すると、高いオーダーの特徴によって定義される有利数クラスであることが判明した上界は、より低いオーダーの等値な特徴によっても定義され、実数となるであろう。しかし不幸なことに、この公理は明らかに自明なものではなく、それが真であると考えるいかなる理由も存在しない。仮に真であるとしても、それはいわば偶然の出来事にすぎず、他の原始的命題のような論理的真理ではないであろう」(p. 333-335)。 ・量化された命題に関する直観主義と形式主義の主張 ヴァイル:一般命題と存在命題は純正の命題ではない。「もし知識が宝物であるならば、存在命題とは宝物の存在を立証する書類であって、宝物の在処を伝える書類ではない。我々が『素数が存在する』と言うことができるのは、前もって『これは素数である』と言い、それがどの特定の数であるのかを忘れてしまったときか、あるいはそのことに注意しないことを選んだときだけである。それゆえ、『しかじかのものが存在する』と言うことは、それを実際に見出すための地図を我々が所有していない限り、決して合理的なことではないのである」(p. 338-339)。 ヒルベルトによれば、「一般命題と存在命題は、「理念的命題」(ideal proposition)であり、数学の様々な領域での仮想元素と同じ機能を、論理学において果たしているのである」(p. 342)。「50と100の間に素数が存在する」は純正の有限な命題であるが、「51は素数である、または、52は素数である、等々(無限に続く)」という無限の論理和のように見える。だが、「50よりも大きく、100よりも小さい素数が存在する」という「この無意味な形式を導入することによって、推論規則がきわめて単純化されるので、これを理念的なものと見なして保持しておく方が便利なのである」(p. 342)。 「我々が見たのは、これらの権威者の相違は大きいが、通常教えられている解析学は、真理の集まりと見なすことはできず、偽であるか、せいぜいのところ紙上の印を使って行われる無意味なゲームにすぎない、という点において彼らは一致しているということである」(p. 341)。 ヒルベルトの見解に対するラムジーの批判。(1)代数学の本質が一般的な主張をなすことにある以上、ヒルベルトの理論では初歩的算術のみが残るが、初歩的算術の言明は高等数学を用いることなしに証明できる。このため、理念的命題の用途が不明である(というか不要ないし余計?)。(2)理念的なものという概念が一派適地式の可能性を前提することなしにありうるのかが理解し難い。(3)数学を離れて知識一般ではヒルベルトの説明はもっともらしくない。「私は犬を飼っている」という事実についての知識を与える命題は、論理的記号体系では「犬であり、かつ、私によって飼われている、あるものが存在する」と書かれるが、ここで現れる「もの」は無限の領域を覆っており、この存在命題はそういう知識なのである。この命題はヒルベルト流には「ロルウは犬であり、私によって飼われている」という無限命題として現れるが、「しかし、あなたの知識の方は、この仕方ではおそらく説明できないのである。なぜなら、この存在命題は、この問題についてあなたが今までに知っていることのすべてと、今後知るであろうことのおそらくすべてを表現しているからである」(p. 344)。(3)「私は二匹の犬を飼っている」は「私の飼い犬であり、お互いに同一ではない、xとyが存在する」と書かれ、あらかじめ存在の観念を含んでいるし、「私の飼い犬である」といような特徴、より抽象的には「pであること」や「qであること」は一般的な特徴でる。「いくつなのか」という問への答えである基数を単なる紙上の印であるとまじめに考えることはできそうにないし、猫が二匹と犬が二匹で四匹、というように考える時には2+2=4はただの記号変形ではなく、意味を持っている。 対してラムジーは存在命題と一般命題をウィトゲンシュタインの原子的命題と真理可能性の理論、「すべての命題は原子的命題の真理可能性への同意と不同意を表現している、あるいは、すべての命題は我々の言う原子的命題の真理関数である」(p. 347)という理論で説明できるとしている。たとえば、「xは赤い」という(「これは赤い」という原子的命題の)命題関数については、この値の全てが真、あるいはこの値の少なくとも一つは真である、ということでそれぞれ一般命題と存在命題を主張できる。 ・無限公理 無限数の物が存在するという無限公理なくして「無限集合、無限列、微分計算、および解析学一般の理論が崩壊してしまう」(p. 353)が、これの妥当性には疑問がある。 ラムジーの考える取りうる道。(1)無限公理なしの数学の展開。これはブラウアーやヴァイルの方法に似たものかもしれない(p. 355)。(2)「ヒルベルトの一般的な方法を採用し、無限公理と等値なものを含む数学の公理系からは矛盾は演繹されえない、という彼の証明を使用する道である。……しかし、この議論はなお不完全である。なぜなら、この議論は、我々の体系の中で記号化可能な数にしか当てはまらないからである。そして、もしも我々が無限公理を否定しているならば、時間と空間は延長においても可分性においても有限であるから、紙の上に書くことができる印の数には上限が存在するであろう。その結果、数の中のある物は書き下すにはあまりにも大きすぎ、そうした数には証明が当てはまらなくなる」(p. 356)。 VII 法則と因果性 A 法則的普遍と事実的普遍 法則的普遍:例「そこにいるすべての人は眠っていた」(p. 208)。 事実的普遍:「この風船に水素ガスを充填し手を離したときはいつも、それは上昇した」(p. 208)。 ・普遍とは法則である ラムジーは普遍を以下のように分類する。 (1)自然の究極的な法則。少し話が飛ぶが、我々の知識を演繹的システムとみなせば、このシステムの一般的公理(選択は恣意的)は自然の根本的な法則となり、これほど恣意的ではないものが「一軍の根本的一般化とされ、このうちのあるものが公理として取られ、他のものは公理から演繹されるものということになる」(p. 210-211)。これらの根本的一般化が(1)と(2)の普遍であり、のうち公理が(1)を形成する。 「実際問題として、我々はすべてのことを知っているわけではない。しかし、我々が実際に知っているものを、我々は演繹的システムとして組織化する傾向にあり、その公理を我々は『法則』と呼ぶ」(p. 211)。さらに言えば(直後の論文「一般命題と因果性」p. 223)、我々が演繹的システムで公理として取るであろう命題からの帰結が因果法則である。 B 一般命題と因果性(1929) ・二種類の一般命題、連言と不定的仮定文、これらは別物 一般命題は二種類あり、一つは「連言」(ラムジーの「ケンブリッジのすべての人が投票した」だが、これは「全てのxについて、xはケンブリッジに住んでおり、かつ投票した」と分析できるということか)、もう一つは「不定的仮定文」(variable hypotheticals)である(例では「ヒ素は有毒である」、「すべての人間は必滅である」であり、前者は「全てのxについて、xがヒ素であるならば、xは有毒である」、「全てのxについて、xが人間であるならば、xは必滅である」と分析できようか)。これらは似て非なるものである。 相違点:(a)不定的仮定文(x).φxを連言として書くことは不可能。(b)(x).φxの連言としての性質は決して使われない。(c)「我々が知っていること、ないし、我々が欲していることを、(x).φxは常に越えている」(p. 215)。(d)これは(c)と似たことであるが、「我々の信念に関わりのある確実性のあり方とは、特定の事例の確実性であるか、特定の事例の有限集合の確実性であって、我々が決して行うことのない無限数の事例の確実性なのではない」(p. 216)。 類似点:(a)「(x).φxは、それより下位にあるすべての連言、すなわちここでは有限のすべての連言、を含んでいる、という点において連言に類似しており、一種の無限積のように見える」(p. 216)。(b)「何が(x).φxを真とするのであろうか、と問うとき、我々は不可避的に、それが真であるのは、すべてのxがφを有するときあつそのときに限る、と答えざるをえない。つまり、我々が(x).φxを心裏と虚偽という二つの場合を取りうる命題と見なすときは、我々はそれを連言とすることを余儀なくされ、記号体系の表現力の欠如のゆえに、我々には表現不可能な連言についての理論を採用することを余儀なくされるのである」(p. 216)。 ・不定的仮定文は判断ではなく、判断の規則である 不定的仮定文は連言ではない以上、これは命題ではないということになる。だとすれば、それはいかにして正しいとか間違っているといえるのか。「すべての人間は必滅である」と信じるということは、「一つは、そのように述べることであり、一つは、現れてくる任意のxについて、それが人間ならばそれは必滅である、と信じることである」(p. 220)。 「不定的仮定文ないし因果法則は、話者がそれとともに未来と出会うシステムを形成する。それゆえ、不定的仮定文は主観的なものではない。つまり、あなたと私がことなる不定的仮定文を表明しているとすれば、『私はグランチェスターに行った』、『私は行かなかった』と言い合っているときのように、我々はそれぞれ、お互いに擦れ合うだけの、自分自身についての何事かを言い合っているだけである、という意味での主観的なものではない。なぜなら、もしも我々が互いに異なるシステムとともに未来と出会うならば、たとえ現実に到来する未来が両方のシステムに一致するとしても、未来が一方のシステムに一致し他方のシステムには一致しないということが(論理的に)ありうるという限りで、つまり、我々が同一の物事を信じているのではないという限りで、我々は同意しないからである。(Aが確信しており、Bは疑っているときにも、彼らは論争することができる。) 不定的仮定文は判断ではなく、むしろ『もしも私がφに出会えば、それをψと見なすであろう』という判断の規則である。それは否定される(negated)ことはできず、ただそれを採用しない者とのあいだで異議を生じる(disagreed)のである」(p. 222)。 ・因果的一般化 ここから因果法則に話が移る。VIIAでは因果法則は「我々がすべてのことを知り、それらを可能な限り単純な形での演繹的システムとして組織化した場合に、我々が公理として取るであろう命題からの帰結のことである」(p. 223)とされていたが、(すべてのことを知ってそれを演繹的システムとして組織化することは不可能であるので)「因果的一般化とは、私が依然考えていたような単純な一般化ではなく、我々が信頼している一般化のことである」(p. 223)。 ・未知の因果法則が存在すると言うことはどういうことか 不定的仮定文、因果法則が正しい間違っているというのはどういうことであるかという話の続き。「数論における未知の真理は、すべての数について真である(未知の)命題として解釈することは不可能であり、証明された命題、ないし証明可能な命題として解釈することができるだけである。証明可能ということは、今度は、ある個数のステップにおいて証明可能ということを意味しており、有限主義の原理に立てば、その個数はある仕方で、例えば人間に可能な個数に、制限されていなければならない。『誰々が新しい定理を発見した』は、それゆえ、この人物はある制限を持った大きさの証明を構成した、ということを意味している。 未知の因果法則に目を向けた場合、右の解決が依存している証明の過程に因果法則の側で対応しているものは何であろうか。明らかに、因果法則の証拠を集めるという過程だけがそれに対応している。我々がそれを知らないにもかかわらず、ある未知の因果法則が存在する、と述べているときは、それらを知ったならばある不定的仮定文を主張することになるであろうような、ある限定された領域(選言)における単称的な諸事実が存在する、ということを意味していなければならない」(p. 225)。 ・原因からの結果への演繹と結果から原因への演繹の違いは何か? 因果法則に帰せられる重要性と客観性に話が移る。「未来は現在に負うている、より穏やかに言えば、未来は現在に影響されている、しかし過去はそうではない、ということは根本的な事実であるように思われる。……むしろ真実は、我々の現在のどの可能な意志作用も(我々にとっては)いかなる過去の事象とも無関係である、というものである。他人にとっては(あるいは、未来における我々にとっては)、それは過去の一つの記号として役立つが、今の我々にとっては、我々が行うことは未来の蓋然性にのみ影響をもつ。……さらにまた、我々が行為選択をめぐって熟慮しているという状況からも、原因と結果の一般的な差異が現れてくるように思われる。このような場合に我々は、個人的な関心を離れた知識ないし分類に従事しているのではなく(原因と結果はこれとは無縁である)、我々の可能な行為のさまざまな帰結を追跡することに従事しているのであり、我々は当然これを、時間上を前進する列において、結果から原因ではなく原因から結果へと進みながら行う」(p. 234)。 ・不定的仮定文の実在論 「不定的仮定文は他の命題と形式上の類似性を有しており、この類似性によって我々は不定的仮定文を、時には普遍についての事実であると考え、ときには無限連言と考える。この類似性は、無視することが困難であり、いろいろなタイプの精神に情緒的な満足感をもたらすことがわかっているのであるが、それは人を誤らせるものでしかない。『実在論(realism)』のこれらの二つの形態は共に、現実主義的精神(realistic spirit)によって拒絶されなければならない」(p.238)。 この「実在論」の理由は以下の通り。人類がイチゴは胃痛を起こすと信じて一度もイチゴを食べていなかったと仮定すれば、彼らはイチゴを食べても胃痛を起こさなかったであろうということは事実ではなく、実現しなかった条件文は事実ではない。だが、蓋しそう思いがちであり、これがラムジーの言う「情緒的な満足感」なのかもしれない。 事実なのは私はイチゴを食べたことがあり痛みを持ったことはなかったということである。「我々がこの種の言明〔不定的仮定文〕を有意味であると見なすのは、この言明ないしその否定が我々のシステムから演繹可能なときだけである」(p. 239)。 V 知識(1929) 知識の何たるか。「信念が知識であるのは、それが(一)真であり、(二)確実であり、(三)信頼できるプロセスによって得られた場合である」(p. 157)。 「信頼できるプロセス」とは? 「ある記憶は信頼できるプロセスによって得られた、と言うことができるだろうか。私が思うに、もしもそれが実際に起きたことと私のそれの記憶作用とのあいだを結ぶ因果的プロセスを意味するのであれば、そう言うことはおそらく可能である。それゆえ、信頼できるプロセスによって得られた信念とは、それ自身が多少とも信念ではないものによって原因づけられているか、あるいは、真なる信念を生むものとして多少とも信頼できるような随伴物を伴って生じたような信念のことである」(p. 157-158)。 補論・確率と部分的信念(1929) 雑多な内容がまるで箇条書きのように書かれている論文なので要点を抜き出し、要約ことは難しい。 理論についてのプラグマティックな見解。「ある理論とは、それがpとqとを含むものであれば、つねに『pかつq』をも含むような命題の集合のことであり、また、それが任意の命題pを含むならばそのすべての論理的帰結をも含むもののことである。こうした集合の意義がどこにあるかと言えば、それは、我々がそのような集合の一つを、自分が信じることの全体として採用することができる、という点にある。 ある確率の理論とは、様々な命題の組にたいして、確率計算に従うようなしかたで結びつけられた数の集合のことである。こうした集合の意義がどこにあるかと言えば、それは、この集合に依拠して整合的に行為することができる、という点にある」(p. 136)。 IV 確率と真理(1926) ・ケインズの理論のあらまし 「ケインズ氏は、我々がそれについて客観的な妥当性を要求するような蓋然的推論(probable inference)を行っている、という想定から出発する。我々は一つの命題に関する完全な信念から別の命題に関する部分的信念へと推論を進め、この過程が客観的に正しいものであると主張する。したがって、別の人が同じ条件下で異なった度合いの信念を抱くとすれば、その人は間違っているということになる。ケインズ氏はこのことを、前提と結論として理解される任意の二つの命題のあいだには、確率関係(probability relation)と呼ばれるある種の関係が、ただ一つだけ成立する、という想定によって説明する。したがって、ある所与の場合に、この関係がa度であるならば、我々は合理的であるなら、前提にたいする完全な信念から結論にたいする度合いaの信念へと進むべきなのである」(p. 80)。 ラムジーによるケインズの理論への補足。「確率関係の度とそれが正当化する信念の度合いとは同じである」(p. 80)というのは、確率関係と信念の度合いは一体一対応しているということである。 ・ケインズの理論へのコメント ケインズが述べているような確率関係なるものは本当に存在しているのか、ラムジーは、そんなものは知覚していない、人々が二つの所与の命題の間にどの確率関係が成り立っているのかについてほとんど何の合意に達することもないとして懐疑的。 また、ラムジーによれば、一方の命題が他方の命題にどのような確率を与えるかを考えるに当たり、これらの命題を注視してそれらの論理的関係を見極めるよりは、「確率の度合いを判断しようとする者は誰も、この確率によって関係し合っているとされる当の命題を注視しているだけではない、ということである。彼はつねに、なによりもまず自分の実際のまたは仮想上の信念の度合いを考慮するであろう」(p. 84)。 ・信念の計量、すなわち信念をどの程度信じるのが合理的かの計量で何が意味されているのか、その要件 第一の要件。「満足すべきシステムであれば、まず第一に、あらゆる信念について、ある特定の量のオーダーにおける一つの確定的な量または度を帰する必要がある。ある同一の信念と同一の度をもつ諸信念は、それら相互のあいだでも同一の度をもたねばならない、等々」(p. 90)。思うに、何をもって「等しい」や順序づけ(大小関係など)が特定できていなければいけないというわけ。 第二の要件。「我々はこれらの度にたいして知的に理解可能なしかたで数を帰さなければならない。我々はもちろん、完全な信念を1で表し、矛盾命題に対する完全な信念を0で表し、ある命題とその反対命題にたいする等分の信念を二分の一で表すということについて、用意に説明を加えることができる。しかし、三分の二の確実性の信念、とか、ある命題にたいする信念はその反対命題にたいする信念の二倍である、といったことで何が意味されているかについては、簡単には説明できない。これは我々の作業のより困難な部分であるが、この作業は絶対に必須のものであるというのも、我々は現に数的な確率を計算しているのであるが、もしもこれらが信念の度合いに対応するものであるならば、我々は信念の度合いに数を付値する何らかの確定的な方法を発見しなければならないからである」(p. 91)。例えば、物理学ならば「加算的な物理過程」によってそれがなされる。例えば、二つの長さのものを結合させてできたものの長さはそれらの長さの和であるという風に。このような基準がなければ、計量システムは(ラムジーは例として硬度に関するモースのスケールを挙げている)恣意的なものになってしまう。 まずその数の帰し方の候補として、ラムジーは感情の強度は、それらに数を帰するのが容易ではないために却下する。 ラムジーが採用するのは「事実と命題」でも述べたような信念の因果的性質である。「我々はしたがって第二の想定、すなわち、信念の度合いとはその信念のもつ因果的性質である、という想定のほうに導かれる。我々はこの因果的性質を漠然と、人がその信念にもとづいてどの程度まで行為する用意があるか、と言い表すことができよう」(p. 92)。 それから彼は信念の度合いの基礎的なシステムを描写するわけだが、その際に彼は人間の行動は「数学的期待値」と呼ばれるものに支配されているという想定をする。「すなわち、もしも彼が命題pについて疑わしく思っているなら、彼の考えでpであることがその実現のための必要十分条件になっていると思われるような善や悪は、彼の思慮のうちに同一の分数を掛けたかたちで表れる、ということである。この分数は『pにたいする彼の信念の度合い(degree of his belief in p)』と呼ばれる。我々はこのようにして、数学的期待値の使用を前提にしたしかたで信念の度合いを定義することができるのである。 この点は次のように言い換えることもできる。pにたいする彼の信念の度合いがm/nだとしてみよう。そうすると彼の行為は、それをn回繰り返した場合にpがm回真となり、それ以外では偽となるような、そういう行為となるように選択されるであろう」(p. 99)。 ・確率は信念間の整合性に関わる 確率についての重要ワードは「整合性」。「我々はそれゆえ、部分的信念の本性についての厳密な説明から、確率の法則とは整合性の法則であること、また、形式論理の部分的信念への拡張は整合性の論理の追求に他ならないこと、を教えられるのである。……それはただ、これらの法則〔整合性の法則〕にしたがう信念の集合を整合的なものとして、そうでないものと区別するだけなのである」(p. 111)。 ・信念の度合いと頻度は同じものの別々の側面である 「善が加算的なものであると想定すると、n分のmの度合いの信念とは、ある行為をn回繰り返したとするとそのうちm回当該の命題が真である場合に最良であるような、そういう行為へと導くような種類の命題である。これをもっと短く言うと、それは、そのうちのn分のmだけ当該の命題が真であり、その命題が表す事以外に関しては同一であるような、そういう数多くの仮想的な事態にたいしてもっとも適切である信念のことである、とも言えよう。我々が頻度の計算と整合的な部分的信念の計算とを結びつけることができるのは、部分的信念と頻度とのあいだにあるこのような結びつきによってである。そして、ある意味では、これら二つの解釈は、その奥にある同一の意味がもつ客観的な面と主観的な面に他ならない、とも言えるであろう」(p. 119)。 この考えの利点は、第一に、部分的信念が整合的であれば、これがなぜ計算の公理に従うものなのかを説明できること、第二に、「純粋な論理的な条件」(p. 120)ではない無差別の原理(the Principle of Indefference。例えば、壷から拾い上げられる黒玉と白玉は無差別に、ランダムで出る)をなしですませることである。つまり、無差別性を顧慮しなくても、整合性を満たせばいいということ。「これは単に確率を普通の形式論理に一致させるということであり、この普通の形式論理は前提を批判するということはせず、ただある結論だけがそれらの前提と整合的であるということを述べるだけなのである」(p. 120)。 ・人間の論理:合理的な度合いの信念のは? 「我々は自分の信念が単に他の信念と整合的であるばかりでなく、事実とも整合的であることを望む。とはいえ、整合的であることがつねに望ましいことであるかどうかでさえ、明瞭なことではない。決して正しいことがないよりは、ときには正しいときがあるほうが良い、ということもあるかもしれない。さらに。我々が整合的であろうと欲しても、ふねにそうなりうるとはかぎらない。……しかし人間的に言えば、それらについてもある度合いの信念を持つことが、帰納法その他の根拠からして正しい(right)、ということもありうるであろう。そうした信念の度合いを正当化しようと試みる論理は、形式論理に実際に逆らってでもその途を進もうとしているはずである。なぜなら、形式論理は形式的真理にたいして1の度合いの信念しか帰することがないからである。……すなわち、我々人間がいかにして思考すべきかを教えるところの人間の論理(human logic)、すなわち真理の論理(logic of truth)は、形式論理にたいして単に独立であるばかりではなく、ときには実際に両立不能な面をもつ、ということである」(p. 123)。 このように「人間がどのように信じるべきか、あるいは、どのように信じることが合理的か」(p. 126)を問題にする場合、合理的である(reasonable)の意味を問う必要があるが、(このメモでは端折るが)いくつかの意味がある。その意味のなかの最後のものでは合理的信念を、理想的な人間が似たような状況におかれた時に抱くであろう信念の度合いと考えるならば、この理想は「人間精神にとっては、一般的な意味でいかなる習慣を持つことが最良であるか」(p. 127)という漠然とした大きな問いに行き着く。 しかし範囲を信念形成の習慣に限定するならば、ある種類のキノコは黄色いという信念から、それが健康に悪いという信念に至るような習慣の場合、つまりその種のキノコを見た時にそれが健康に悪いという信念をどの程度抱くのが合理的であるか、最良であるかという例を取り上げる。これへの答えは、「黄色いキノコは健康に悪いという彼の信念の度合いが、実際に健康に悪いキノコの割合に等しいとき、その度合いは最良である、というものである」(p. 128)。 ・プラグマティックな帰納の擁護 ヒュームが述べたように、帰納が演繹や形式論理によって正当化されることはありえない。だが、「我々はみな帰納的な論証に確信を抱いており、我々のこの確信は、世界というものが帰納的推論が全体として真なる信念に導くようなしかたで構成されているゆえに、合理的なものである。我々はしたがって帰納法を信頼せざるをえないし、たとえそれを信頼しないことが可能であったとしても、なぜそうしなければならないか分からない。……我々はみな、帰納的推論を行わない者がいたとしたら、その者は不合理であるということに同意するであろう。問題はただ、そのことで何を意味しているかということである。私の考えでは、それは、彼がいかなるしかたであれ形式論理や形式的確率に背いているということではない。むしろそれは、彼が非常に有用な習慣を獲得していないということである。その習慣は、それなしでは真なる信念をもつことがずっとありそうもなくなるであろうという意味で、それなしでは彼がずっと損するであろうような、そういう習慣である。 これは一種のプラグマティズムである。我々は精神の習慣をそれがうまく機能するかどうかで評価する。つまり、それが導く諸々の信念がその大部分において真であるか、あるいは、別の習慣に比べてよりしばしば真なる信念に導くか、ということによって評価する。 帰納法はこうした有用な習慣の一つであり、したがってそれを採用することは合理的である。哲学にとって可能なことはただ、これを分析し、その有用性の程度を決定し、それが自然のいかなる性質に依存するものであるかを探ることである」(p. 131-132)。 III 事実と命題(1927) この論文の主題は「判断、信念、あるいは言明、という言葉で表されるものの論理的分析である」(p. 49)。 事実は精神的要素(「私の精神、あるいは私の精神的状態、あるいは私の精神のうちなる語またはイメージ」(p. 49))と客観的要素(「シーザーは暗殺された」という判断を例に取れば「シーザー、あるいはシーザーの暗殺、あるいはシーザーと暗殺、あるいはシーザーが暗殺されたという命題」(p. 49))の二つからなり、シーザーが暗殺されたと判断するという事実は、これら二つの何らかの関係からなる。 ・真理の余剰説 「真理については何ら独立した問題というものはなく、あるのはただ言語上の混乱だけである」(p. 55)。真理と虚偽はは命題に対して帰せられる性質であり、そのような命題は明治的に与えられる場合と記述によって与えられる場合とがある。前者の場合、「シーザーが暗殺されたのは真である」はシーザーが暗殺されたということ以上の意味を持たず、「シーザーが暗殺されたのは偽である」はシーザーは暗殺されなかったということ以上の意味を持たない。「これらの『真』や『偽』は、我々が強調やその他の文体上の理由、あるいは我々の議論のなかでその文が占める位置を示すために用いる語句である。したがって我々はこれらの代わりに、『彼が暗殺されたのは事実である』とか、『彼が暗殺されたというのは事実に反する』という言い方もできる」(p. 56)。 第二の命題が記述によって与えられる場合については(一見して)「真である」を消去できないような文を扱うことになる。「たとえば、私が『彼はいつも正しい』と言うとすると、私が意味していることは、彼が言明する命題は常に真である、ということであり、このことを『真である』という語を用いないで表す方法はないように思われるからである。しかしながら、もし我々がこの文を『すべてのpに関して、もしも彼がpを言明するなら、そのpは真である』のように置き換えるならば、その場合には、命題関数pは真である、は、ちょうどその値『シーザーが暗殺されたのは真である』が『シーザーは暗殺された』と等しいのと同様に、まさにpと等しい。我々は英語で語るに際して一つの文に同士をつける必要があることから、『は真である』と加えるのであるが、そのとき実は『p』がすでに一つの(不定的な)動詞を含んでいることを忘れているのである」。つまり、「すべてのpに関して、もしも彼がpを言明するなら、そのpは真である」は「すべてのpに関して、もしも彼がpを言明するなら、p」と書き換えられるというわけ。これはpがaRbでも同様。 ・確信と不信の違いは行動に対する因果的性質である 否定的言明において用いられる「でない」という語はコミュニケーション上の方便であり、肯定と否定に差異をもたらすものではない。「p」に対する不信は「非-p」の確信と「等値」(equivalent)である。この両者の等値性は、「これらのできごとがその原因と結果に関して多くの事柄を共有しているという、因果関係によって定義されるべき」(p. 63)である。「等値であるとは、いくつかの因果的性質を共有することである、と言って差し支えないであろう」(p. 63)。だから、pを信じるか否かというのは、そのような「態度」を表現するということである。つまり、確信あるいは不信を感じることから因果的に帰結する行動、あるいは予測を共有しているということか。 ・真理可能性を用いた態度の定義 信じられる命題が複数の場合には「pを信じるとかqを信じないといった完全に確定的な態度ばかりではなく、より不確定的な態度、たとえば、pまたはqは真である、と信じるがしかしどちらであるかは知らない、といった態度をも扱わなければならない」(p. 65)。 こういった場合の態度はそれが肯定または否定する諸原始命題の真理可能性を用いて定義できる。すなわち、「たとえば、問題の態度がn個の原子的命題からなるのであれば、その真偽に関して互いに排他的な二のn乗個の可能性があり、その特定の態度は、これらの可能性のうちのある部分集合を指定して、事実はこの集合のいずれかの可能性とは一致するが、残りの可能性には一致しないものである、という表明のかたちで与えられることになる。つまり、pまたはqであると信じることはp真q真、p偽q真、p真q偽、という可能性への同意と、p偽q偽という残りの可能性への不同意とを表すことなのである。……つまり、どの可能性が拒否され、どの可能性がいわば留め置かれているかに応じて、ある特定の因果的性質をもつことである。これは非常に雑な言い方をすれば、思考者は拒否した可能性を無視したしかたで行為するであろう、ということであるが、しかしこれをどう正確に説明したらよいか、私には分からない」(p. 6-665)。 ・一般命題の特徴は真理代入項を命題関数によって特定することである 一般命題に関するラムジーの見解。「一般命題における新規な点は、真理代入項を枚挙によってではなく、ひとつの命題関数によって特定するという点にあるにすぎない。つまり、一般命題は分子的命題同様に諸原子的命題の真理可能性との一致不一致を表すのであるが、それをもっと別の複雑なしかたで行うのである」(p. 70)。この見解の利点は(1)ウィトゲンシュタインの形式論理はトートロジーであるという説を支持できること、(2)「すべてのxについてfx」から「fa」を、あるいは「fa」から「fxであるようなあるxが存在する」を推論できるのかを唯一説明しうることにある。 反論。「一般的命題に関するこの見解によると、世界のうちに何が存在するかということは、本当は偶然的な事柄であるはずが、そうではなく、論理によって前提されている何事か、もしくはたかだか論理の命題にすぎない、とうことになるのではないか、という反論である。すなわち、たとえ私が世界のうちに存在するすべてのもののリストとして、『a』、『b』、…『z』をもっていたとしても、『すべてのxについてfx』は『fa.fb…fz』〔faからfzまでの連言〕と等値なのではなく、むしろ『fa.fb…fz、かつ、a、b、…zは全存在〔世界にある全ての存在者〕である』と等値ということにならないか、という反論である」(p. 72)。 回答。「しかし、私が思うに、彼らは数的同一性と差異性とは必然的関係であり、『fa』から『fxであるようなxが存在する』が必然的に帰結し、また、必然的真理から必然的に帰結するものも必然的である、ということを容認するであろう。そうであるとすれば、彼らの立場は維持できないことになる。というのも、仮にa、b、cが実際には全存在ではなく、dもまた存在しているとしてみよう。そうするとdがa、b、cと同一ではない、というのは必然的な事実である。それゆえ、a、b、cと同一ではないあるxが存在する、あるいは、a、b、cだけが世界のうちなる事物なのではない、ということは必然的である。したがって、たとえ彼らの考えに従っても、このことは偶然的ではなく必然的な真理ということになるからである」(p. 72)。 ・ラムジーの「プラグマティズム」 「私がプラグマティズムの神髄と考えるのは次のことである。すなわち、ある文の意味は、それを言明することが導くであろう行為に言及する形で定義されるべきであり、さらに曖昧な言い方になるが、その言明のありうべき原因と結果とによって定義されるべきである、ということである」(p. 73)。 II 普遍(1925) 論文の主題は個物と普遍の相違とは何か。 ・個物と普遍は名詞と述語に重なるのか:ラッセル説とジョンソン説 ラッセル説はタームを個物と、特質及び関係とに分け、ジョンソンは実体的なもの(名詞)と属性的なもの(形容詞)とに分け、それぞれの後者が普遍と呼ばれるものである。この点で彼らは一致しているが、ジョンソンは実体的なものは命題のうちで名詞としてしか機能せず、属性的なものは命題「時間にルーズであることはひとつの短所である」の場合のように名詞としても述語としても機能できるとする。 他方ラッセルは、属性記号は単独では不完全であり、それが述語となる命題において完全なものになるとする。「たとえば、彼によれば、赤さについての適切な記号は『赤い(red)』という語ではなくて、『xは赤い(x is red)』という関係であり、赤はこの関数のさまざまな値を通じてのみ一つの命題のうちに存在することができる。したがって、ラッセル氏によれば、『時間にルーズであることはひとつの短所である』が真に意味しているのは、『すべてのxにとって、xが時間にルーズであるなら、xは非難すべき者である』というようなことである、ということになろう。この場合、時間にルーズであるという属性は命題の主語ではなく、その命題のうちの『xは時間にルーズである』という形式をもった部分の述語としてのみ存在している」(p. 16-17)。 ・ラッセル説とジョンソン説の難点 ジョンソン説の難点、その一:二つのタームの関係あるいは結合は何によって成り立っているのか(両者を介在する第三の関係を導入すれば、無限背進に陥ってしまう)という問いに対しては、「特徴づけとカックプリングをおこなう紐帯」(p. 18)と答えられるだろうが、これ自体が不可思議である。 ジョンソン説の難点、その二:属性的なものには「being」(である)という補助詞が付くというような、それに独特の不完全性がつきまとうが、個物と普遍を十分に異なったものとしていない。 ラッセル説の難点:普遍がその他のもの以上に不完全であるというのはどの点に関してなのか? ・改めて問われるべきジョンソン・ラッセル両論の前提 「彼らはともに主語と述語のあいだの根本的な対立ということを前提にしており、もしもある命題が二つのタームに結びつけられたものであるならば、このうち一方は主語であり、もう一方は述語であるというしかたで、互いに異なったしかたで機能していると考えている」(p. 19)。実際、「ソクラテスは賢い」という命題をひっくり返して「賢い」という述語を主語にして「賢さはソクラテスの特徴である」と言うこともでき、これら二つの文は同じ意味であり、「これらの語のどちらが主語でどちらが述語であるかは、我々が自分の命題を表現するためにどの文を用いるかに依存しており、それはソクラテスや賢さの論理的本性には何の関係もなく、あくまで文法家にとっての問題である。……したがって、ある命題の主語と述語のあいだには何ら本質的な区別は存在せず、対象に関するいかなるクラス分けもそのような区別にもどついてはなしえないのである」(p. 20)。このように哲学者たちはあらゆる命題は主語-述語形式を持たねばならないというように惑わされてきたのであり、「個物と普遍というこの理論的区別全体が、単に言語の一特徴にすぎないものを実在の根本的特徴と取り違えることに起因している」(p. 20)。 ・主語と述語の区別はどこからくるのか この結論に至る細かい内容は端折るが、ラムジー曰く「ソクラテスが賢いか、プラトンが愚かであるかの、どちらかである」というようは命題には主語も述語もなく、そのような区別があるとすれば「それはこのような語を一つも含まず、あだ名前とおそらくはコプラのみを含むような文によって表現されるところの命題、すなわちラッセル氏のいう原子的命題(atomic proposition)においてであるということになるだろう」(p. 25)。 もし主語と述語の区別が文法的な区別でないならば、この区別は原子的な事実がそれらから成り立つところの対象の機能の仕方の違いに対応し、検討すべきは「ある原子的な事実がその構成要素から構成されるそのしかた」(p. 25)である。 これには三つの仕方がある。 (1)ジョンソン説:構成要素はコプラによって結合される。「それらの構成要素は、彼が『特徴づけの紐帯』と呼ぶところのものによって結びつけられている。このようなものの本性はかなり曖昧であるが、私が思うに、我々はそれを当該の事実の一構成要素ではなく、言語において『である』(is)というコプラによって表現されているもの、と考えることができよう」(p. 26)。 (2)ラッセル説:結合は普遍によってなされる。「あらゆる原子的な事実のうちにはそれ自身の本性上不完全かつ結合的な一要素が存在しなければならず、それが他の要素を束ねているのである。この構成要素が不変であり、その他は個物ということになろう」(p. 26)。 (3)ウィトゲンシュタイン説:結合がなされるのはコプラでも結合的要素によってでもなく「対象はーー彼が言うところのーー鎖の中のリンクのように、互いに結びつき合っているのである」(p. 26)。 ラッセル説の重要性。他二説は主語と述語の相違をドグマとして無視しているだけが、ラッセル説だけでその存在が認められ、説明がなされている。 ラッセル説の欠点:この説では、ラムジーの主張するところでは個物も不完全であるのに、どうして普遍だけが特別に不完全であるのかが理解しにくい。 普遍へ疑いこそ普遍は個物とは別のものであることの証左となる。「彼〔ラッセル〕の第二の議論は、だれでも個物と普遍の相違を感知できる、というものであろう。すなわち、唯名論が広く流布しているということは、普遍の実在性についてはつねに疑いの年があることを示しており、このことはおそらく普遍がじっさいに個物に比して自立性に欠け、自足性に欠けているという相違をもっている、ということに起因しているのであろう。そして、このことだけが、明らかに異なった対象に見えるところの個物と普遍とがまさに異なった対象であることを真に説明するものであって、それらが単に我々にたいして異なった関係にたっているとか、我々の言語にたいして異なった関係をもつといかいった以上のことを説明するものである、と彼は言うであろう」(p. 28)。 ラムジーの考えでは、その違いは命題関数において両者が与える集合の違いである。「我々は『ソクラテス』という表現を用いることによって、この表現が現れる全命題を一緒にする。すなわち、『ソクラテスは賢い』『ソクラテスは正しい』『ソクラテスは賢くないし正しくない』等、ソクラテスについてふつうに言う命題を一緒にする。これらの命題は『φソクラテス』と値として一括され、φはひとつの変項とされる」(p. 30)。他方、普遍(例えば「賢い」)の場合、「ソクラテスは賢い」や「プラトンは賢い」等、「xは賢い」の値となるような命題を一括するが、これだけではなく、ソクラテスの場合と同じように「ソクラテスもプラトンもどちらも賢くはない」のようにφを変項とする「φ賢い」の値となるような命題もある。「したがって、ソクラテスはただ一つの命題集合を与えるのにたいして、賢さは二つの集合を当たる。その一つはソクラテスの場合に類比的な、賢さが現れる全命題の集合であり、もう一つはもっと狭い『xは賢い』という形式の命題からなる集合である」(p. 31)。つまるところ、「ソクラテス」は命題関数(性質)φを変項とする「φソクラテス」を充足する命題の集合のみを与えるが、「賢い」の場合はソクラテスの場合と同様に「φ賢い」を充足する命題の集合に加え、個体xについて「xは賢い」を充足する命題の集合も与えるというわけ。 ・一次的な現れと二次的な現れ 「α」という記号を例とし、αxをaRxを意味するものと定義する。この場合、この不完全な記号「α」の与える命題集合の値域は「一方は、この定義が示すようなしかたで完全化することで得られるようなすべてのαxが構成する値域であり、他方は、αが現れるいっさいの命題で構成される一般的な値域、すなわち、右の値域に含まれる命題とαを含まない変項なしの命題との真理関数のすべてからなる値域である」(p. 34)。つまり、一方はαxのxを任意の項に置き換えた命題の値域(あるいは集合?)であり、他方はαxのみならずφ(α)や(x)αxなどおよそαの現れる命題の値域のことであろう。 ラムジーの結論としては「あらゆる不完全な記号は実際には属性であり、また、実体的なものとは、それに関して一次的、二次的現れの区別ができないためか、あるいはその区別が見過ごされているために、実体的なものに見えるということになる。……ここから結論されることは、不完全な記号に関する根本的な区別は、実体と属性の区別ではなくて一次的と二次的現れの区別である、ということである。また、実体的なものとは、我々がふつうそれについて一次的、二次的現れの区別をし損なうような、一つの論理的構成者である、ということである」(p. 35)。そしてまた、実体的であるかどうかは客観的な性質ではなく主観的な性質である。 ・数学者の無差別 数学的論理学は外延性という根本的な性格を持つ。「つまり、数学的論理の第一の関心は外延的なクラスと関係にあるということである。さて、どれであれ任意の命題を取り上げて、その中の一つの名前を変更に変えると、その結果えられる命題関数は一つのクラスを定義する。そしてそのクラスは、『φ』が不完全記号である場合とそれが名前である場合のような全く異なった二つの関数によっても、同じクラスであるだろう。したがって、数学的論理がクラスを定義する手段としての関数のにのみ関心を寄せるかぎりで、これらの関数のあいだに区別を立てる必要は認められない。……したがって、いくつかのφは不完全であって自立的ではなく、しかも無用の煩雑さを避けるためにφをすべて同じように扱うことにするなら、それらのいずれも非自立的なものにするのが唯一の解決策ということになるのである」(p. 39-40)。以上の議論はラッセルの記号を用いた表記法を正当化する議論であるが、同時に彼が名前であるような関数と不完全記号とを区別し損なっているという論駁にもなっている。そしてのように関数を一律に不完全なものとみなす扱い方が普遍の理論に混乱をもたらしている。だが、この区別は数学では重要でなくとも、哲学では重要なものである。 I 哲学(1929) まとめ ・哲学の仕事は定義ないし定義の仕方を与えることにある ・定義を与えられるべきは非意識的なものではなく、「私の考えること」である ・定義は常に途中から、仮説的に、そして自己意識性を忘れずに進められる ・定義における哲学の仕事の範囲 「哲学は定義にまつわる特殊な諸問題に係わるのではなく、それの一般的な問題に係わる。哲学は科学の個々の専門用語を定義しようとするのではなく、たとえば、そうした用語を定義するさいに生じてくる問題、あるいは物理的世界のタームと経験のタームとの関係に関して生じてくる問題などを解決しようとするのである」(p. 3-4)。 ・非自己意識的な哲学 たとえば「広がり」によって点の無限集合を意味すると言う場合、「我々は哲学においては、我々自身の思考を分析しているのであり、この我々の思考においては、広がりは点の無限集合によっては置き換えられようがない」(p. 6)のであり、「点の無限集合という考えは、我々が精神をその外から眺めて、それについて一つの理論を構築するときにはじめて登場するもの」(p. 7)である。要するにそういった概念は我々の思考そのものではなく、後付けの説明のようなものということか。 さらに、複雑な語の意味の問題においては「それらの問題をそこへと持ち込むべき、ある論理構造、あるいは論理体系を必要とする」(p. 8)が、これの適用によって問題になっている語の意味を手に入れようとするのは「非自己意識的に哲学をしていることになる。つまり、我々はもぱら事実のことを考えていて、事実についての我々の思考を考えてはおらず、自分が何を意味しているかについて、意味の本性に何ら言及することなく、決定を下しているのである」(p. 8)。蓋しカルナップの構成的体系などその最たるものだろう。だがラムジーによればこれは「誤った、袋小路に行き着いてしまう方法」(p. 8)である。 「我々の思考を明晰にしようとする過程の中で、我々は、その思考の意味を定義する、という通常の方法によっては解明ができないようなタームや文につきあたると思われる。たとえば、我々は不定的仮定文(variable hypothesticals)や理論語を定義することができない。しかし我々は、それらがどのように使用されるかを説明することはできる。この説明において我々は、自分が語っている対象についてだけではなく、我々自身の精神の状態についても吟味することを余儀なくされる」(p. 9)。 ・ラムジーの方法:我々は途中から、仮説的に考える 「……それ〔自己意識を無視した方法〕は、たとえば我々が時間や外的世界について何を語っているかを理解するためには、その意味をあらかじめ理解していなければならないと同時に、我々がその意味を理解するためには、時間について理解し、またおそらくはそれに含まれている外的世界についても理解していなければならないという、そうした状況に我々を陥れることになると思われる。したがって、我々はその哲学を一つのゴールに向かう順序だった進行過程のように進めることはできず、我々の問題を一括して引受けて、一つの同時的な解決へと飛躍しなければならない。我々はその解決を一種の仮説的性格のものとして手にすることになる。というのも、我々がそれを受け入れるのは直接的な論証の帰結としてではなく、それが我々のさまざまな要求を満たす唯一のもののように思われるからである。……そして右に述べたような理由からして、我々はこの推論を最終的決着へともたらすことができないのであるから、ちょうど科学者の通常の立場がそうであるように、一つずつ個別的に仮説の改良を行っていくことで満足しなければならないということになる」(p. 9-10)。 ・ラムジーの方法:自己意識の不可避性 「私は哲学においては、こうした自己意識性が、身長の例外的場合をのぞいて、不可避的にともなうものと考える。我々は自分が何を意味しているか明確に知らないゆえに、哲学への駆り立てられるのである。その問いはつねに『私はxで何を意味しているのか』である。そして我々がこの問いにたいして、意味とは何かということを反省せずに答えることができるのは、本当にまれにでしかない。しかし、この、意味そのものを問題にしなければならないという必要性は、単なる傷害なのではない。それは疑いもなく、審理への一つの本質的な手掛かりなのである」(p. 10)。 カルナップ, ‘科学の普遍言語としての物理言語’(1932) ・科学の統一性 科学の統一性は「すべての言明は同じ言語によって表現することができ、すべての事態は同じ性質のものであり、同じ方法で認識することができる」(p. 188)ということで、自然科学、精神科学、心理学の対象、方法はそれぞれ別個の種類のものであるという見解に対立する。なお、この引用文の前半は形式話法、後半は内容的話法に相当するだろう。 ・意味論の重要性はこの時点では認められていない 「なおその〔形成規則と変形規則の〕外に、その言語の文の『意味』を規定し、語の『意味』を示す必要があるのではなかろうか。そうではない。……なぜならば、『意味』の記述は翻訳によってか、あるいは定義によって行われるからである。翻訳とは他の言語への変形の規則のことである(たとえば"cheval"=「馬」)」(p. 192)。 ・もろもろの言語の規定 普遍言語。「或る言語が普遍言語とよばれるのは次の場合である、すなわち、〔カルナップがする上下段に分かれる書き方。形式的話法では。以下ではFと略す〕すべての文が園言語に翻訳できる場合。〔内容的話法では。以下N〕その言語が任意の状態のすべてを記述できる場合。 部分言語。次の場合には、それは部分言語と呼ばれる。経済学の言語は部分言語である。というのは、〔F〕たとえば、電磁場のベクトルに関する物理学の法則はその言語に翻訳できないからである。〔N〕たとえば或る領域内の電磁場の状態はその言語によって記述できないからである」(p. 194)。 プロトコル言語。プロトコル言明、即ち「それ自体は検証を必要とせず、科学のすべての他の言明の基礎として役立つ言明」を最小単位とし、これらが属す言語で、これもまた物理言語の部分言語。 間主観的な言語。。おのおのの人にとって有意味=「間主観的に有意味」な言明から成る言語。物理言語は間主観的言語である。 ・プロトコル言明とその他の言明との関係 検証はまずプロトコル言明ありきで始まるのではなく、「十分に包括的な単称言明の集合と自然法則とを合わせたものから、体系の言語の導出規則に従って、プロトコル言明が導出されるのである」。こうして導出されたプロトコル言明が実際にプロトコルに現れるか否かが確かめられることで単称言明の検証は行われる。なお、カルナップは科学の体系の確立には規約的要素が含まれるために「科学の体系の言明は、これによっては厳密な意味では『検証』されない」(p. 200)。 プロトコルでチェックされるのは体系内の言明の集合プラス導出規則から導き出されたプロトコル言明というわけだから、言明は単独で検証を受けるというクワインの批判は言われるほど正鵠を射ているわけではなさそうだ。カルナップはこの時点で確証可能性の導入以前に完全な検証の不可能性を論じていたことになろうか。 ・物理言語とプロトコル言明との関係 プロトコル言語が質的記述を用いる言語であり、日常言語でも質的記述が用いられるのに対し、物理言語は座標、状態量の値などについての量的記述を用いる言語である。 「物理的概念が抽象的で感覚的性質を持たない」(p. 205)ため、物理言語からプロトコル言語への翻訳では或る特定の(つまり具体的な)感覚領域から取られたプロトコル言語の語だけが対応させられるのではないし、そのような感覚領域にしか対応しない物理的状態量もない。ある感覚領域の質的記述もそれを物理量として捉えたり、装置(たとえば聴覚で感じられる空気振動を目盛りの形にする計器)を使うことでこれらが対応する物理的記述のクラスを定めることができる。それゆえ物理的記述は間感覚的(intersensual)である、つまり視覚的質の記述も聴覚的なそれも、これらに対応する物理的記述(のクラス)の形で表現できる。このような物理的記述のクラスを決定することは「物理学化」とカルナップは呼ぶ。 なお、これが可能になるのはプロトコルと経験内容がある規則性を持つという「いかなる意味においても論理的に必然的ではなく、経験的にのみある幸運な事情」(p. 208)に基づいている。 したがって物理言語は私秘的ではなく、間感覚的であり、そして「幸運な事情」にも助けられるおかげで間主観的であり、カルナップは物理言語以外にそのような言語がない以上、これのみが間主観的言語であると言う。 ・物理言語は普遍言語であり、個々の科学は物理言語によって表現可能 「科学は間主観的に妥当な言明の体系である。物理的言語が唯一の間主観的言語であるというわれわれの見解が正当であるならば、物理的言語が科学の言語であるということが、そこから帰結するのである」(p. 212)。「科学全体の言語でありうるためには、物理的言語は間主観的であるばかりではなく、また普遍言語でなければならない」(p. 212)。以下、化学、地質学、天文学等の無機的自然科学は異論の余地のないものとし、生物学、心理学、社会学が物理言語で表現できると説明される。 有機体の自称の説明は無機物の自然法則で十分かどうかについて、生気論者は否と言い、カルナップは肯定的な回答へと傾いてはいるものの、この時点での生物学研究の状況では十分な判断ができないとする。「物理的言語の普遍性のテーゼ」は生物学的法則の物理学的法則への還元ではなく、生物学的概念の物理学的概念への還元が問題になっている。生物学的記述は「科学的には常に或る近く可能な特徴、従って物理学化が可能な質的記述によって定義される。たとえば、『受精』は精子と卵子の結合として定義されてよいであろう。『精子』と『卵子』はしかじかの系統の、またかくかくの知覚可能な性質をもつ細胞として定義される。『結合』はしかじかの種類の、部分の空間的組み替えの過程として定義される、といったぐあいである」(p. 214)。それゆえ、単一の事象に関する単称言明は物理的言語への翻訳可能であり、「自然法則は一般的な式にほかならず、その助けをかりて単称言明が単称言明から導出されうる」(p. 215)ために生物学的法則も同様といえる。 心理学は今後さらに詳しく述べられるという予告の形で片づけられる。社会学は、プロトコル言明と導出関係にない議事概念についての言明が取り除かれた経験的社会学、すなわち「(人間または他の動物の)集団または固体の状態、出来事、行動様式、相互間の反応、環境に起こることへの反応を扱うもの」(p. 217)ならば、心理学的記述が使われるとしても、物理的言語の普遍性のテーゼがだと運ラバ物理学的記述と言明に翻訳可能である。 したがって、「科学のすべての言明は物理学的言明へ翻訳可能である」(p. 219)。 ・プロトコル言語は物理言語の部分言語である プロトコル言語は私秘的なのか? もしプロトコル言語がこれを発話する人にしか検証できず、その人にとってしか意味を持たない私秘的なものであるとすれば、全てのプロトコル言語は単に独り言として用いられるにすぎないものとなり、間主観的なプロトコル言語は存在しないことになる。 プロトコル言語と物理言語は導出の関係を持たねばならない。「ではあるが、プロトコル言明と単称の物理的言明の間には演繹的関係がなければならない。なぜならば、もし物理的言明からプロトコル言明に関してどんなことも推論できないとすれば、科学と経験の間にはどんな結びつきもないことになるであろうからである。その場合には、物理的言明は原理的に経験とつながりをもたず、全く宙に浮いていることになるであろう」(p. 223)。それゆえ、両言語・言明の間には導出の関係があるはずであり、そのような関係がある場合には一方(プロトコル言語)で記述される事態が他方(物理言語)の部分的事態であることになる。「従って、プロトコル言語と物理的言語が全く異なった事態に言及するという、われわれの(仮想的な)想定は、物理的記述が経験的に検証可能であるということと一致しえないのである」(p. 222-223)。 プロトコル言語、物理言語は何について語るのかという問題は形式的話法の適用、両者の演繹的な関係により、解消される(p. 223-224)。 ・プロトコル言語と物理言語の演繹関係はどのようなものか 身体の状態についての場合については、身体状態の記述(神経組織の状態、大脳皮質の状態など)から「(Sは)今赤(を見る)」といったようなプロトコル言明が導出可能である。あるいは、刺激に対する反応(例えば「君は今何を見るか」という発音を刺激とし、「赤」という発話が反応となる)によって特徴づけられる身体状態を「赤を見る」と表示することもできる。これにより、「身体Sは今赤を見ている」という物理的言明と「(Sは)今赤(を見る)」というプロトコル言明の間に相互の導出関係があることになり、両者は「翻訳可能」で「同じ内容」であるといえる。 ある人の身体の出来事の物理的記述をその人は「なるほど彼の運動、表情、そして身振り、神経組織や他の身体器官に起こること等が記述されてはいるが、しかし、彼の経験、知覚、思考、思考表象等はこの報告に欠けている」(p. 228)と言って自分の出来事の完全な記述だと認めない。仮に前段落のように「赤を見る」というような表現を物理言語の言明へと翻訳しても、その文が身体の物理的性質を意味している(しようとしている)のであって、本人が経験するものとは違うものを意味している(しようとしている)という「典型的な反論」が返ってくるであろう。しかしこれは文の論理的内容と表象内容との混同に基づくものである。表象内容が異なるからといって論理的内容が異なることにはならず、「二つの言明から同一の他の言明が導出可能であれば、もとの二つの言明は、われわれがどういう種類の表象をそれらに結びつけることを常とするかに関わりなく、同じ内容をもつのである」(p. 230)。 それゆえ、両言語は言葉遣いの上でのみ区別される同型言語であり、それれが同型であることの確認により、「プロトコル言語は物理的言語の部分言語にされるのである」(p. 227)。ひいては、これまでの内容をふまえるならば、物理言語は普遍言語であり、しかも唯一の普遍言語である。 カルナップ, ‘テスト可能性と意味’(1936) 15節でカルナップの言うところでは、これまでのカルナップやウィーン学団、実証主義者たちは還元可能性と定義可能性を区別しておらず、それゆえに「科学のあらゆる記述的用語は知覚語によって定義することができ、従って科学言語のあらゆる文は知覚についての文に翻訳することができると信じた」(p. 141)。だが、両者は別物である。 整理のために8節の内容を元に還元の何たるかをまとめる。 (R1) Q1⊃(Q2⊃Q3) (R1) Q4⊃(Q5⊃〜Q3) Q3が導入したい述語、Q1とQ4を実験条件、Q2とQ5を実験の結果とする。R1ではQ1とQ4からQ3が、R2ではQ2とQ5からQ3の否定が導出される。ここではQ3はQ1、Q2、Q4、Q5という四つの述語に還元されると言われる。R1とR2はそれぞれQ3、〜Q3に対する還元文、こういった一対の文(R1とR2との対)はQ3に対する還元対と呼ばれる。Q4とQ1、Q5と〜Q2が一致する場合、還元対はQ1⊃(Q2⊃Q3)とQ1⊃(〜Q2⊃Q3)になり、これらはただ一つの文Q1⊃(Q3≡Q2)によって置き換えることができる。このような文を両側的還元文と呼ぶ。 そして「『Q』に対する還元対が妥当であるならば、還元対の中に現れる他の四つの(あるいは二つの)述語に完全に還元可能である」(p. 120)。 15節に戻る。(1)「1925年5月6日午後4時に、私の部屋には丸い黒のテーブルがある」を(2a)「もしも5月に……誰かが私の部屋にいてかくかくの方向を見るならば、彼はかくかくの種類の視知覚を持つ」と翻訳されるとする。しかし、これは翻訳としては十分ではなく、一方が真であるのに他方が偽である場合も起こる。所定の時刻に観察者がいない場合、(1)は偽である。(2a)は(x)[(xは……私の部屋にいて……を見る)⊃(xは……を知覚する)]という全称含意文であり、これを(x)[P(x)⊃Q(x)]と略記すれば、これはさらに(x)[〜P(x)∨Q(x)]と変形できる。所定の時刻に観察者がいない場合、P(x)は偽であるため、(x)[〜P(x)∨Q(x)]、ひいては(2a)は真となる。 それゆえ、科学言語の用語の知覚語への翻訳は不可能である。そこでカルナップは用語の導入にあたっては定義だけでは十分ではなく、還元をも用いなければならないと言う。 なお、この論文でもあらゆる科学言語は物理言語に還元可能であるという形で修正されつつも、物理主義のテーゼは維持されている。つまり、物理言語による他の科学言語の用語の定義、物理言語から他の科学言語の用語への翻訳はできないが、還元はできる、というわけ。 カルナップ, ‘科学の統一の論理的基礎づけ’(1938) 科学の分類 (1)形式科学:「論理学と数学によって確定される分析的な言明」(p. 39)からなる。 (2)経験科学:「事実適任式の種々異なる分野で確定されるような言明」(p. 39)からなる。 (2-1)物理学:化学、鉱物学、天文学、地質学、気象学などを含む非生物学的分野の共通の名前。「物理学的用語」が使用される。 (2-2)「より広い意味での生物学」(p. 40):(2-1)以外の残りの部分全体。 (2-2-1)狭義の生物学:「普通生物学と呼ばれているものの大部分、つまり一般生物学、植物学及び動物学の大部分」(p. 41)。「生物学的用語」が使用される。 (2-2-2)心理学及び社会学。 (2-2-2-1)個々の有機体を圧か部分分野。心理学。 (2-2-2-2)有機体のグループを扱う部分分野。社会科学。 定義には二種類あり、「…のときそしてそのときにかぎる」、つまり「…≡…」という明示的定義と、「もし…ならば、…≡…」という条件的定義とがあり、後者によってしか還元言明(ある用語の適用条件を別の用語によって定式化する言明)は定式化できない(p. 43-44)。 物-言語:「前科学的なレベルで日常の言語において使用され、その適用のために科学的手続きが必要とされないような用語、及び、より狭い意味での科学的言語。この前科学的言語と物理言語との共通の部分であるような部分言語」(p. 45)。例えば、観察的な性質を指示する用語が物-言語に属する。「熱い」や「冷たい」は物-言語に属するが、その測定には技術的な道具の適用が要求されるために「温度」はそうではない。「重い」や「軽い」は属するが、「重量」はそうではない。他には「赤」、「青」、「大きい」、「小さい」、「厚い」、「薄い」等々。物-言語には傾性述語も含まれるが、カルナップはこれらは観察可能な物-述語に還元可能だと言う。 量的な弾性率が弾性に、温度が「熱い」、「冷たい」に、といったように、物理学の(とりわけ量的な)用語は物-言語の(とりわけ質的)述語に還元される。 狭義の生物学の用語も、還元が他の生物学的用語を中継して間接的にであっても、物-言語に還元可能である。 心理学について言えば、還元されるかどうかが問われるのは心理的な性質そのものではなく、心理学的用語である(p. 50-51)。振る舞いや反応は状態からの因果的な帰結である。心理学的用語の物-言語の用語への還元可能性についてカルナップは是と言う。 諸科学の法則の統一の可能性 物理学の法則と生物学のそれ、心理学の法則と社会学のそれといったような、諸科学の法則の統一の可能性は、結論から言えば、永遠に不可能と想定する理由はないが、目下のところ(カルナップの時代では)なされておらず、今後の研究の結果を待たなければならない。 Carnap, ‘Remarks on Induction and Truth’(1946) ・真理の概念について 三節のOn the Concept of Truthによれば、以下の通り。(1)「この容器の中の物質はアルコールである」と(2)「『この容器の中の物質はアルコールである』という文は真である」は事実的内容としては等しいことを述べているが、前者は対象言語、後者はメタ言語に属しているという違いがある。真である(true)はメタ言語に属する意味論的概念である、つまり文に対して適用されるものである。そして、(3)「Xは(目下の時において)この容器の中の物質はアルコールであるであることを知っている」と(4)「Xは『この容器の中の物質はアルコールである』という文が真であることを知っている」は同じ内容を示しているが、(2)と(4)は別内容である。真であることと、知識であることは別のことであり、「『〈知識〉と〈真理〉とを互いに結びつけること』……まさしくこの結びつけと同一視こそが私に全ての困難の源であると思われる」(p. 600)。 ・カルナップの自身がやっていることに対する自己認識 「帰納論理の仕事は『第一の重み』〔initial weight〕が与えられた証拠文のクラスに対する仮説の『導出での重み』を決定することである。……習慣的なより単純な形式は便利であり、多くの目的に対して十分であるこの点は論理的方法が科学者の実際の手続きから逸脱している多くの点のうちの一つである。単純化と図式化に基づいているためにそれらは逸脱しているに違いない。我々は図式化を厳に諦めるべきではなく、それは非常に有用であり必須である。しかし我々は我々がやっていることの何たるかを常に自覚すべきであろう」(p. 598)。 ・カルナップの述べるカウフマンの帰納論理に関する見解と自身の見解の相違 1. カウフマンは帰納推論における前提は単なる証拠ではなく確立された知識(enstablished knowledge)からのみ可能だと考えるが、カルナップは演繹推論そのものにおいては前提は真である必要はなく、その実際の運用(application)においてのみその推論の結論の妥当性が問題になるように、帰納推論においては推論そのものにおいては前提は確立された知識である必要はなく、確立された知識である必要があるのはその実際の運用においてである。 2. カウフマンは帰納推論においては前提された帰納の規則(presupposed rulels of induction)が必要だとしているが、カルナップは帰納推論においてはc*の定義さえあれば、何か帰納推論に特別な規則は必要ないとしている。「ここでのカウフマンの見解は『演繹推論とは対照的にそれ〔帰納推論〕は規則によって結びつけられる命題間の内的関係を表しているのではない』という信念に基づいている。しかし私にしてみれば帰納論理の基礎的な文は演繹論理の基礎的な文がそうであるのと同じ仕方で二つの文の間の純粋に論理的な関係を表している。演繹的関係は一方のレンジと他方のそれとの完全な含意を成しており、機能的関係は部分的な含意を成している」(p. 596)。 ・「確率1と確率2との私の区別は第二の概念は多くの現象(mass phenomena)ないし偶然のゲーム(game of chance)に適用される一方で第一のものは単独の出来事の確証の度合いであるということによって正確には特徴づけられない。実際のところ、確率1ないし確証の度合いは単独の出来事に限定される者ではなく、私の以前の論文〔「帰納論理について」〕で説明したように全ての形式の文に適用されるものである。……根本的な違いはむしろこのことである。つまり、『確率2』は経験的機能、つまり相対頻度を示し、『確率1』はその都度に頻度を指示したりしなかったりするような文同士の特定の論理的関係を示す」(p. 591. footnote 9)。 ・「フォン・ミーゼスはあらゆる(真な)文は論理的真(分析的、同語反復的)あるいは経験的真であるという私の以前の見解は確率1、あるいは与えられた証拠eに対する仮説hの確証度合い(例えば、"c=(h,e)=q")の価値について述べる章句における場合は今や放棄されたのではないかといぶかしんでいる。私はまだこの見解を維持している。帰納論理における言明を演繹論理におけるそれと区別するものは最初のものは確証度合いの概念を含んでいてこの概念の定義に基づいており、他方で後者はそれとは独立であるという事実のみである」(p. 591. footnote 9)。 Rudolf Carnap, ‘Applicaition of Inductive Logic’(1947) ・状態記述が満たすべき、侵害されれば自己矛盾になる要請(2節) 1. 論理的独立の要請。a. 原子文は互いに論理的に独立であるべきである。b. 個体変項は異なり、全く分離した個体を指示すべきである。c. 基礎的述語は互いに論理的に独立であるべきである。 2. 単純性の要請。 3. 完全性の要請。 ・帰納論理の十全性を計る「もっとも単純なアプローチ」は与えられた定義に基づいて計算されたc(h,e)の値を値の直観的な結論と比較すること(p. 145)。 ・投射可能性について さしあたりの規定。「以下が満たされるのならば、我々は性質Wは帰納的に投射可能であると呼ぶ。観察された標本のWの相対頻度が高くなればなるほど、この証拠によって観察されていない個体が性質Wを持つ確率が高くなる」(p. 146)。カルナップは彼の*cは確証の度合いの明示的な定義に基づいているので、投射可能な性質とそうでない性質とに分類して投射可能なものに帰納手続きを限定するする必要がなく、hとeの形式はLにおいて定まっており、WがLにおいて表現可能であれば(ただし場所的なものではなく質的なものであれば(次頁参照))、投射可能であるといえる(p. 146; ページの末尾にその例がある)。 Rudolf Carnap, ‘Reply to felix Kaufmann’(1948) ・再三再四述べられてきた真理と知識の区別 「したがって我々は一方の側での『真理』と他方での『真であると知られている』、『検証された』、『確立された』、『高度に確証された』、『主張できるものとして保証された』等々は区別されるべきであるという結論はそのままである。後者の語句によって様々に表現される概念とその類似物は真理であることを含意しているが、真理と同一視されてはならない」(p. 301)。前頁での「『この容器の中の物質はアルコールである』という文は真である」と「Xは『この容器の中の物質はアルコールである』という文が真であることを知っている」との違いであろう。カウフマンは「a)論理的含意、b)保証された主張可能性、そしてc)全体的な一貫性−あるいはそれらの項目のうち二つとのものであろうがである、これらを包含する真理の一般邸概念を適切に適用する領域はない」(p. 301)とカウフマンは言うが、カルナップの見解では真理は意味論的概念であり、「ある文の真理は単に事実は、誰かが知っていようといまいとその文において記述されるということを意味している。事実が記述されるかどうかを我々がどのようにして知るのか問題は別問題であり、この問題は確証の基準を述べることによって答えられるべきものである」(p. 302)。 ・真理の概念は必ずしも必要ではないが、便利である 「真理の概念の使用は演繹論理であろうと帰納論理であろうと、それら二つの領域の基礎的概念(論理的含意と確証の程度のそれぞれ)は真理を指示しなくとも定義できるために必要ではないということに私はカウフマンに同意する。……他方で、もし他の人が心理の概念の使用が便利だとみなすならば、それらを彼らに同じ禁欲的手続きに従うよう要求することを強いる理由であるようには見えない」(p. 302-303)。 Neurath, ‘Unified Science and Psychology’(1933) ・統一科学の何たるか 「統一科学は特定科学の全ての文、のみならず文についての全ての文、つまり手短に言えば『全ての合理的な文』〔all legitimate sentense〕を含む」(p. 2)。「統一科学の統一言語は正確な定式の総体ではなく、不正確な語ないし、より正確な語に置き換えられない『塊』を全て含める普遍的スラング〔universal slang〕の一種である」(p. 3)。 ・プロトコル文の何たるか 「科学の存在にあたっては、『真正の文』がどんなものなのかを我々が認識することが不可欠である。真正の文とは『ヨーロッパは雨が降っている』という形の文である。否定は『ヨーロッパでは雨が降っていない』となる。『全ての川は海へと注ぐ』と『我々が石を話せば、それは地面に落ちる』も真正の文である。……全ての真正の文は真正な文の集合の部分集合、つまり『プロトコル文』に還元でき、それらは『観察者』と『観察』といった語を含む文である。文の体系内では、プロトコル文はこれ以上進むことができない最終的な文である」(p. 2)。プロトコル文はプロトコルの保持者の名前と知覚的な語を含んでいなければならない(p. 3)。 プロトコル文の具体例。「オットーの午後3時17分のプロトコル:オットーの午後3時16分の言語化された思考:オットーに知覚された身長1.87メートルの男が午後3時15分に部屋にいた」(p. 2)。 ・統一科学が要る理由 「林でもうすぐ火事が起こる」という予測を導くためには、気象学や植物学の文、さらには「人間」〔man〕や「人間の振る舞い」〔human behaviour〕が作用する文も必要であり、人間の火事に対する反応や社会的組織が果たす役割などについての心理学や社会学についての文も必要となる。それらを組み合わせることで初めて「だから林でもうすぐ火事が起こる」という推論が可能となる(p. 3)。 ・科学のように心理学も哲学から手を切るべし 「ケプラーが彼の宇宙の法則を神の聖なる鍵盤、プラトンの完全な身体の理論、そして宇宙精神の理論から導出して数世紀が経過した。その鍵盤は神と宇宙精神ともども処分できるが、法則はそのままである。ケプラーの後継者たちはもはや新しい法則を打ち立てるための鍵盤を必要としていない。心理学者たちには未だにそのような鍵盤が必要なのか? 彼らは例えば『内在的目的論』の古い歌を、最早それを創造した神を認めていないにもかかわらず歌い続けるべきなのか? 科学は相次いで哲学から自らを切り離してきた。例えば精神物理学はカントの純粋経験の類推の胎児的な形で一時存在していた。哲学とへその緒でつながっている最後の科学は心理学である」(p. 10)。 ・行動論(behaviouristics) 行動主義のように「刺激」、「反射」、「生きた人間の行動」等々の用語を用いて研究を行うものであるが、ノイラートはワトソンなどの行動主義を「狭義の行動主義」、ノイラートがここで用いるものを「広義の行動主義」と呼び、行動学はその後者である。「行動に関わって物理主義の言語を使う者は『行動論者』〔behaviouristician〕と呼ばれ、他方で行動主義の支持者は『行動主義者』〔behaviourist〕と呼ばれる。行動論は、今日マルクシズムの枠内で体系的に存在しているが、まだ未発達の形である『社会的行動論』へと導く」(p. 13)。 ・統一科学が心理学にもたらす未来 言語が統一されるならば、行動主義者、ゲシュタルト心理学者、反射学者、個々の心理学者、そして精神分析学者は統一された共通の言語で各々の理論を理解し、成功の度合いを比較できるようになる(p. 22)。物理主義者により、心理学理論、社会学等々を物理主義的な用語に改革するのために特殊化した用語の辞典〔lexicon of specialized terminologies〕が作られるべきである(p. 22)。 Neurath, ‘Unified Science and Its Encyclopedia’(1937) ・日常言語と物理言語 「我々の運動の根本的テーゼは、物理学と、日常言語〔every-day language〕のなかの物理学と似た語句はすべての科学を構成するのに十分であるということである。物理主義として知られるこのテーゼは近年の特別な研究によって進歩的に裏付けられてきた」(p. 270)。 ・統一科学百科事典の計画 「この計画は二部で出版されることになり、一部では科学の基礎についての16から20のパンフレットを収めている。したがってそれらは科学の論理的分析、一般言語学、数学と論理学、経験主義的科学の科学的手続き、確率、物理学、宇宙論、生物学、行動の理論、社会科学、経験的価値論、科学の歴史、論理学の歴史、経験論の歴史、論理的経験論についての記事並びに文献一覧と各部の目次を収める。……百科事典の後の方の部ではその試みは個別科学で到達される結論の違いと同じままの視点が示され、様々に異なった意見と一緒にそれらの標準を説明する機会を人々に与えることが計画される。この百科事典に特有な狙いは我々の目下の知識と、その中で新しい考えが育ちつつあるところの様々な分野で目下見つけられている困難とのギャップを示すことになろう。ギャップと観点の衝突を示す準備をし、我々の知識の不完全性を強調するこのような百科事典は成長と発展の過程においてとりわけ人々のために計画されている。 共同研究者たちは互いに高度な連絡をとり続けるべきであり、それによってこの百科事典は一つの科学から別の科学へと橋を架けるのに役立つ計画されるが、意見の個人的表明を制限することはない」(p. 272-273)。 ・統一科学百科事典計画の端緒 「私の中心的な確信は、様々な科学の間の差異の仕上げは本質的な仕事ではなく、逆にたった一つの科学的な『文体』を使って全ての科学の説明を発展させることがとりわけ重要であるというものである。それはつまり、私は星と人間について同じ論理的技術と同じ科学的な冷静さでもって語る可能性を確信したのである。また私はそのように包括的な科学的見解は堅実で一般的な教育の重要な基礎としても役に立つと考えた。このようにして数人の友人と私自身は全ての種類の事物ーー星、石、植物、動物そして人間ーーを取り扱うおよそ100個のパンフレットのシリーズをこしらえるという構想を得た。包括的なアルファベット順の目次が決定されるべきであり、この全集は辞書と同じように使われることができる。この教育的計画はフィリップ・フランクとアインシュタインを含む多くの人たちに熱烈に迎えられた。後者は私にこのような見事に計画された全集はフランスの百科事典が18世紀フランスの知的グループに対してなしたのと同じ機能を今日において大衆に対して果たすだろうと書き送ってくれた。しかしこの計画にとって全ての文章は図解を伴うというのが本質である。この計画は実行されることはできず、我々の様々な議論とそのシリーズを始めるという計画は成功しなかった」(p. 273-274)。 ・普遍的スラング 「私の議論の傾向は私を物理主義の言語としての純化された日常言語(『普遍的スラング』)を強調するよう誘った。互いに並置された特別な『事物の世界』と特別な『思考の世界』を構成する様々な試みを退けることで我々は我々の科学的言語を統一し、『物理学的言語』と『現象的言語』という二つの言語の使用を排除し、物理主義の共通言語を作り上げる作業を前進させる立場に立つ」(p. 276)。 ・仮設的な進歩主義と百科事典主義 科学に絶対的な始点を設けて科学の言語を組み立てるのではなく、それを使いながら改良していくといういわゆるノイラートの船の考え方と百科事典との関係。「『統一科学』の理念では百科事典が我々の知識の『モデル』として考えられているという見解は自然で直接的な結論であろう。というのも我々は歴史的に与えられた科学を『実際の科学』と比較することはできないため、我々が科学的な仕事の中で成し遂げることの大部分は百科事典となるものであろうし、科学的経験論に関心を持った科学者たちによって共同的に構成されるであろう。このプログラムは『百科事典主義』〔Encyclopaedism〕と呼ばれるだろう」(p. 276-277)。 Neurath, ‘The Departmentalization of Unified Science’(1937) まとめ ・科学の統一は特定の教説を前提としない ・物理主義:科学は普遍的スラングで表現できる ・科学の統一と分類は一挙にではなく徐々になされる ・主題は科学の分類 「我々は一般的に採用された整合的な体系を形成するような科学の分類を持っていない。起こる問題というのは、科学の包括的な体系が統一科学の論理化〔logicalization〕を妨げないのかどうかである。 伝統的な体系の多くの区分けは例えば、『非生物学的科学』(『生物学的科学』に対立する)、『抽象的科学』(『具体的科学』に対立する)、『精神科学』(『自然科学』に対立する)。そういった分類によって多くの科学的決定の受け入れとそれらへの反対、例えばある教説への特定の科学的手続きの適用へのそれらを予想する」(p. 240-241)。 ・生物学的か非生物学的かを前提することなく、この区別とは中立的に対象を扱える 「ケプラーの法則は膨大な量の観察によく成り立ち、これは惑星が微生物から構成されていると判明しても変わらないだろう。ケプラーの考えは、生き物(天使)が惑星に命令をして文字通り天体の調和に則って動くというものだった。彼は音楽的な調子から構成されたメロディーと、プラトンの単純な幾何学的物体の体系に基づいた惑星の体系に基づいた『天体のメロディー』を証明しようとしていた。ケプラーの法則は、天文学者科学的な仕事の基準としてこれらの考えを使うのを停止しても変わらなかった。ケプラーの法則は天文学的な現象が生物学的か非生物学的かどうかの問題の点から『中立的』であった」(p. 242)。 ・普遍的スラングへの還元 天文学、生物学、メンデルの理論、紋章学、美術史などは「(危険な語は除外された)日常言語の通常の語と、これに追加された科学的語から構成される普遍的スラングの語」(p. 244)で述べられることができる。これがノイラートの物理主義の形。 例。「統一は伝統的で主要な区分で合体された学問を分離し、逆にもする。いわゆる社会科学の全ての学科は普遍的な社会学的語彙に基づいているというのは間違っているだろう。人間によってなされる生産は社会科学の枠組み内で論じられる。『人間』という語〔の使用〕は多くの二次的学科において内容を変えることなく避けられうるだろう。例えば言語学者は『子音の変化』を『特定の』社会学的ないし生物学的な語を使うことなく分析できる。子音は人間の舌を使うことなく蓄音機によって総合的に生成することができる」(p. 244)。 ・ピラミッド主義(Pyramidism)への反対 反論:百科全書主義での科学の分類は、形而上学的思弁とのつながりを持っている(ないしはこれに基づいている)のではないか? 「あたかも創造主が経験主義を案じているかのように、科学の少なからぬ分類と配列は形而上学の建築的構造からの派生物としてみなすことができる」(p. 245)。 ノイラートはこのような形而上学的な、「原初的な方向」(initial orientation)を持った分類を「ピラミッド主義」と呼び、彼の百科全書主義と対置する。ノイラートは少しずつ手直しをしつつ航海をしていくという立場に基づき、最初からあるものとしての分類を拒む。「百科全書主義は『ピラミッド主義』に基づいた先行者たちほど調和への配慮を示さない。……ある整合的な手続きと複雑なネットワークが徐々に創造され、そこには対照的にピラミッド的な勅令はない。科学のモザイク的なパターンは年月の過程の中でだんだんと繋がりを持つ特徴を示していくが、科学的態度が完全に妥当であり続けるならば、常に変化している」(p. 246)。 Neurath, ‘Encyclopaedism as a pedagogical aim: A danish approach’(1938) 内容としてはデンマークのヨルゲン・ヨルゲンセンによる統一科学の理念に基づいた科学教育の紹介。それ自体はさして興味がわかなかった。以下、デンマークの経験主義の伝統についての話。 「我々はデンマークの思想家たちの歴史に重要な多才さを、そして用心深い素面な判断と厳密な知的理説と結びついた或る冒険精神すら再三再四見て取る。全ての外国の知的影響はデンマークでは非常に強く加減されてきた。なんとドイツのシェリング主義の『変容』がデンマークで育まれたことか! 高名な物理学者ハンス・クリスティアン・エルステッドは非常に特徴的な現象である。このシェリングの影響を受けた多面的な人物は若い生徒として一年で美学的問題の賞を、続く年に医学の問題の賞をさらっていき、彼の博士論文の題名は『自然の形而上学の建築的構造』であった。彼は科学、文芸と政治学といった異なった分野で大きな成功を収めた。デンマークにただ一つの大学があったためにまったく精力的なこの思想家は拡大する影響力を行使する機会を得て、私にはこの包括的でロマンティックな科学者の感触がヨルゲンセンの反ロマンティックな包括的科学主義に反響していると思える。 エルステッドの『化学史の検討』は現代の論理的経験主義の肉の肉〔flesh of the flesh。よく分からない表現〕である。彼は、科学的な議論に統一性を与える諸要素は古風な神秘主義と現代科学に共通のものである事例を説明しており、ラヴォワジェの酸素の理論はシュタールのフロギストン理論と敵対するものではなくその継続であり、それは両理論が呼吸は燃焼であて我々は或る秩序の下に全ての物体をその可燃性に則って置くことができ、『還元』は『燃焼』への化学的な対立項であると述べているためであると彼は証明している。エルステッドの認めるところでは、フロギストンによって『記号』Xへなされた或る追加で人々は難儀をしたが、最も重要なことは経験的帰結をもった理論の論理的構造である。この知的環境が指導的な科学者を含んだ非常に多くの人へのヨルゲンセンの単純で厳しい抵抗を育んだ。『理論の実体視〔hypostatization〕は身の毛もよだつような物理的革新の問題であろうーーそれは理解にあたっては無価値である』。 ヨルゲンセンの知的環境のもう一つの要素はハラルド・ヘフディングである。彼のよく知られた包括的文化と有能な仕事は一つの方向以上に現代の科学的経験論を準備した。彼の反形而上学的心理学はデンマークのの学生と学者に影響を与えただけではなかった。ヴィンデルバントが現代哲学の手短な提示(『Kultur der Gegenwart』シリーズ、B. G. Teubner、ライプツィヒでの彼の論文を見よ)でエルンスト・マッハの『名前』を言及すらしていなかった時代にハラルド・ヘフディングはエルンスト・マッハの仕事を用心深く分析した。ある意味でこれはヘフディングの特徴であるのと同時に、非常に多くの哲学者と専門家が疑いながらあるいは敵対的に新しい相対論を論じていた時に一般的に我々の思考に対してアインシュタインの考えの重要性を記して広めたフィリップ・フランクとモーリッツ・シュリックの特徴でもある。このことは重要人物をいかにして区別するのかを知るにあたっての特別な才能を示している。ヘフディングは科学の統一運動でよく知られるエルンスト・マッハの文を引用した。『全ての科学は将来的には一体になるはずであるため、我々が物理学から心理学へと向かうならば、変えられてはならない基準点を見つけるのは大いに重要なことであろう』。 ヨルゲンセンとヘフディングのような我々の時代の他のデンマークの人たちがエルンスト・マッハの著作と非常に近しいことを見つけたことは『ウィーン学団』の成員にとって大いに喜ばしいことであった。ヨルゲンセンの授業はマッハの精神に満ち溢れているが、彼はアインシュタインの先駆者としてのマッハをして我々の時代の科学的思考全体の変化を助けしめた徹底的な科学的分析を扱った。そして最後に、しかし少なからず、ヨルゲンセンは多くの面で、物理学の成長のみならず科学全体の生き生きとした成長に大いに興味を持っていたニールス・ボーアによって直接影響を受けている。二度目の科学の統一のための国際会議は1936年にコペンハーゲンで開かれ、彼は目下の我々の言語よりも科学の未来においてより開放的な、より用心深い言語の可能性を論じた。彼は科学の統一の重要性をヨルゲンセンのように強調した。ボーアと彼の友人たちは古きデンマークの経験主義の伝統を引き継ぐ環境を形成した。(Niels Bohr, Analysis andSynthesis in Science; in: International Encyclopedia of Unified Science, Vol. 1, No. 1を見よ) ヨルゲンセンは強壮な経験主義者だが、理論構成の論理的枠組み内での推理の力もよく知っていた。我々はグレゴリウス・イテルソンの語に倣い、とりわけルイ・ルジエ〔Louis Rougier〕に批判された『ア・プリオリな合理主義』に対置される『経験的合理主義』と彼の立場を呼べるだろう。『経験的合理主義』という語は『論理的経験主義』という語と同義的に使われるであろう。ヨルゲンセンは全ての錯雑した最も重要な科学的理論は我々の日常の経験と言語から『始まり』、また我々は同じ助けを用いて全ての化学の理論的結果を『テストする』と強調する。ヨルゲンセンは彼の講義で科学の統一のプログラムを出しているだけでなく、この統一は実際のものであると示してもいる」(p. 490-492)。 Neurath, ‘After Six Years’(1945) ノイラートは科学的アプローチにおける立場は日常生活での立場の結果であり、両者は結びついていると考える。ノイラートは絶対主義に対して多元主義と相対主義を対置して後者の立場に立ち、一つのものを最善のものとして「決定」するのを避けるべきとする。「『多元主義』は何らかの場合には言明の組織化へと導き、『選択』と『決定』に多くの物のドアを開けておくものであろうし、それを我々の科学に関する友人たちの多くでさえ一義的な計算を使って扱おうとしている」(p. 80)。その観点から、ノイラートはカルナップの意味論研究に対して、E・ネーゲル、M・シュトラウスと共に彼は「アリストテレス敵絶対主義」を嗅ぎつけた。 ノイラートは「議論の伝達の適切な道具を人々に与えることで知的な総合を支援するか額の共通語としての普遍的用語(Universal Jargon)」(p. 81)を作り上げようとする。「共通の普遍的用語を持つということは同じ科学的法則が科学的研究の様々な分野で妥当になるべきだということを含意しない」(p. 81)。議論の共通の基礎として普遍的用語が必要なのであり、ノイラートは論理的経験主義の普遍的用語がそれであるべきだと考える。 「用語法的経験主義」(Terminological Empiricism):日常的な表現の選択は相互理解の基礎を形成する面で十分であるばかりか全ての我々の科学的企図の基礎としても十分であるため、普遍的用語を作り上げるのに適切であり、これは大量のプロトコル文から発するものである。形而上学的思弁は人間を分断し、我々の意見、科学での共同作業の基礎となる共通語を作るのを妨げる。 Schlick, ‘The Turning Point in Philosophy’(1930) (in “Logical Positivism”) ・過去との断絶を強調 哲学はこれまでにどれだけ進歩し、現今の哲学はどれだけの貢献をなしうるのかという問いを受け、以下のように述べられる。「しかし最も優れた思想家たちは先行する哲学の結果は古典的なモデルの結果を含め、揺るぐことはないとほとんど信じなかったということは正しい。これは基本的にあらゆる新しい体系は再び一から始まり、あらゆる思想家たちは彼自身の基礎を探して先行者の肩に乗ることを望まなかったという事実によって示される。デカルトは(故なきことではないが)全く新しい始点を作った」(p. 53-54)。だが、これは「哲学的見解の無政府状態」(p. 54)である。しかし、「我々は今や哲学の全く決定的な転換点におり、我々は諸体系の不毛な争いを集結させたと考えることにおいて客観的に正当化されている私は確信している。我々はすでに目下、私見では、原則におけるあらゆる争いを不要にする方法を有している。今必要なことはそれらの徹底的な適用である」(p. 54)。ご多分に漏れず、それはラッセルとフレーゲに始まる新しい論理学の応用である。 ・論理的形式 論考の香りが強い論理形式についての立論。「論理的なものはいくつかの意味においては純粋に形式的なものであるということは早くもそしてしばしば表現されてきた。しかしながら、純粋な形式の本性については実のところ明らかではない。それらの本性への鍵はあらゆる認知は表現ないし表象であるという事実に見て取れる。それ〔表現や表象〕において認識されるものは事実を表現している。これはなに頭の数のやり方、言語において、記号の恣意的な体系により起こる〔表現される〕ことが可能である。表象の可能な全ての様式――それらが別の仕方で実際に同じ知識を表現しているとすれば――共通な何かを持つ。そしてそれらに共通なるものとは論理的形式である。 かくして全ての知識はその形式のたまものである。その形式を通して既知の事実は表現される。しかし代わりにこの形式はそれ自身を表現しえない」(p.55)。 ・言語分析が知識論に取って代わる 知識論(the theory of knowledge)という伝統的な問題、人間の「知識の可能性」(capacity of knowledge)は「表現、表象の本性、つまり語の最も一般的な意味におけるあらゆる可能な『言語』についての考究」(p. 55)に取って代わられ、「『知識の妥当性と限界』についての問題は消失する」(p. 56)。「今まで考えられていたものは真正の問題ではなく、語の無意味な文である」(p. 56)。 ・検証 「そこにおいて解決への道が最終的に終わるところの検証の活動はつねに同じ種類であり、観察、直接的経験によって確証されるという事実の生成である。この仕方で、日々の生活や科学におけるあらゆる文の真理(あるいは誤謬)は決定される。観察と経験科学以外によって真理のテストと実証はできない。あらゆる科学(我々はこの語で指示するのは内容であり、それに至るにあたっての人間の取り決めではない)は認知の体系、ひいては真なる経験的な文の体系である。科学の全体は、日々の生活の言明を含めて、認知の体系である。そこに『哲学的』真理の領域はない。哲学は言明の体系ではなく、科学ではない」(p. 56)。 ・哲学とは活動である 「我々は哲学において認知の体系ではなく、活動の体系を見て取る」(p. 56)。哲学は活動であり、「哲学によって言明は解明され、科学によって検証される」(p. 56)。そして哲学観においてシュリックはウィトゲンシュタインの引き写しのように見える。 言明への意味の付与は言明によってはなされず、そのプロセスは終わりがない。「したがって意味の最終的付与は常に行動〔deed〕を通してなされる」(p. 57)。この段落においてシュリックの対応説の兆しが見える。 哲学の活動の成果は哲学という共通の母からの個別科学の解放であり、これによって根本的概念は明晰になり、諸科学は成功を収めた。「最終的に、よくできた科学のうちで根本的概念の真の意味を改めて反省することが突如必要になると、それによってそれらの意味のより深遠な明晰化が達成されており、これはひいては顕著な哲学的な事績である。全ての人は、例えば、時間と空間についての言明の意味の分析から始まったアインシュタインの仕事は実際のところは哲学的な業績である」(p. 58)。これこそが哲学の活動である。 シュリックは人生についても役に立つという。「それというのも、賢者は彼が蒙昧な大衆よりも言明の意味と人生の関係性、事実、欲望についての問いにより明確に指摘できるという事実のおかげで彼らよりも上手であるからである」(p. 58)。 そしてまた、シュリックは「哲学の尊厳」(p. 58)、「哲学は知識の究極的な支持を提供しなければならない」(p. 58)という本能、即ち哲学によって科学に確実な基礎を与えるという考えにも反対する。「そのメダルの裏面は哲学はア・プリオリで真なる公理を提供するというドグマ」(p. 58)である。「可能性や確実性の概念は哲学がそれから成り立つところの意味を付与する活動に単純に適用されない」(p. 58)。 ・形而上学者の過誤 形而上学者の誤りは「実際の意味と究極的な内容が言明において順に与えられ、ひいては認知において表現できる」(p. 57)と考えたことであり、それは語り得ぬことを語ることである。「形而上学者の試みは常に純粋な質(ものの『本質』)、ひいては語り得ぬ話を表現しようという馬鹿げた目的を目指していた。質は『語る』ことができない」(p. 57)。 感想 「erkenntnis」誌一号の巻頭論文ということで、全体的に細かい内容はなく、主要なトピックの大綱といった趣がする。 シュリック『科学としての倫理学』 第一章 倫理学は何を求めるか ・倫理学は善を認識・説明するものたるべし 倫理学とは善の認識、すなわち科学であって善を作り出すものではない。善は倫理学者によって想像されるものではなく、すでに事実として与えられているものである。工学がすでに与えられている光の説明・認識を求めるように、倫理学も善の説明・認識を求める。倫理学は事実的なものに関わり、これに説明(とりわけ因果的説明)を与える。 シュリックによれば、多くの倫理学者は自分たちの仕事は善の定義だと思っているが、すでに用いられている善の定義を求めることは言語学者の仕事であって倫理学にとっては善の説明・認識のための準備的作業にすぎない。 ・善には形式的特徴と実質的特徴があるが、後者が重要 善には形式的特徴と実質的特徴がある。善の形式的特徴とは、それが命令されるものとして現れるということである。これがカントにとっては命令者不在の定言命法であり、彼は善の概念が要求されたものであるという形式的特徴を持つということに尽きると考えたが、シュリックはこれを「倫理学的思惟の最悪の誤り」(p. 11)だと批判する。 これに対して実質的特徴は要求される内容のことで、シュリックは実質的特徴に善の特徴づけを求めるべきだと考えた。実質的特徴を求めるためにはすべての「善い」の事例に共通するものを探求すべきである。 ・規範学の何たるかと善の絶対的正当化はできないこと 諸規範(あるものが「善い」と呼ばれるためにしかじかの特徴を持っていなければならないという形式の規則。ただしこれは事実の再現にすぎない)を包含するより高次の規範を探求するのが規範学である。 諸規範が還元され、これ以上他の規範に還元され得ないような規範が「道徳原理」と呼ばれるが、これは一つだとは限らない。 低次の規範の高次の規範への還元は後者による前者の正当化でもあるが、道徳原理そのものは正当化できない。さらに低次の規範の高次の規範による正当化は仮言的な正当化であり、絶対的な正当化は望みえない。科学としての倫理学は規範の認識はできても規範の措定はなしえず、「善い」が何を意味するかは語りえても何を意味すべきかは語りえない。後者は検証不可能であるがゆえに無意味である。 事実学(規範論)としての倫理学と規範学としての倫理学の対比。「規範論は、『何が行為の基礎として実際に妥当するか』と問う。しかし認識する倫理学は、『なぜそれが行為の基準として妥当するのか』と問うのである」(p. 23)。蓋し記述と説明の違いに相当するものであろう。 ・シュリックのアプローチ 言うまでもなくシュリックは事実学としての倫理学の探求を行おうとしている。これにあたって彼は「いかなる動機が我々に道徳的規範を立てさせるか」という問いの代わりに「いったい我々はいかなる動機によって行為するか」というより一般的な問を立てる。というのも道徳的規範は行為を導き、動機として機能するものである以上、行為一般に説明がつけば、簡単にその特殊事例であるところの道徳的行為を説明して善を規定(定義)できるようになる。動機の発見を通して行為の原因、すなわちその法則性を問うことができる。 ・倫理学は心理学の一部となる シュリックのアプローチが動機の説明である以上、彼の問いは心理学的な問いである。「したがってまた道徳的行為の動機や合法則性の発見は、疑いもなく、まったく心理学的な仕事だからである。心的生活の法則についての経験科学だけがこの問題を解決しうる」(p. 26)。 第二章 人間はなぜ行為するか ・意志作用とは抵抗の克服に向けられた努力感である 行為と活動の区別。行為には意志作用が現れるのに対し、活動はそうではない。後者は無意識的なものを含み、その例として挙げられているピアノの演奏では次にどの指をどこに動かそうかと意識しなくてもできる。 では行為を活動から区別させるところの意志作用とはどんなものなのかというに、意志作用とは外的ないし内的阻止との対立を通して現れるものである。外的阻止とは外的な抵抗による活動の阻止、たとえば取っ手を押し下げてみても扉が開かないが如きものであり、内的阻止は内的な抵抗や葛藤による相克である。扉が開かない時に扉を開けようとガチャガチャやってみる時の「努力感」、活動が阻止された時にその抵抗の克服に向けられた努力こそが意志作用というわけ。 そういうわけで、意志は動機同士の争いに介入する基体ではなく、動機同士の争いと決定の過程全体が意志作用である。 ・動機づけをするのは快・不快であるという法則 その動機(あるいは表象)同士の争いで勝利を得たり敗北したりする動機の特徴とはどのようなものであるのかというに、勝つのはより快を伴うものであり、負けるのは不快なものである。これが「動機づけの法則」である。「動機の争いにおいては、最も快い、または最も不快の少ない方向に決断が下される」(p. 36)。 ここでシュリックは「快」を広い意味で用いている。「柔らかいビロードをなでるときと、『真夏の夜の夢』の上演に臨むときと、英雄的な行動に感嘆するときと、愛する人が接近して私が有頂天になっているとき」(p. 33)、いずれも快いものとひっくるめられている。しかも何が快く、不快であるかというのも状況によって左右されるもので、間違ったヴァイオリンの音調が面白いこともあるし、厭世論的哲学者は「私が言ったではないか」と勝ち誇りつつ世の中の不公平を喜ぶということもある。 ・反論その1:自己犠牲は動機づけの法則に反するのではないか? 反論:不快な方を選ぶという自己犠牲が動機づけの法則に反するのではないか。ひいては道徳的行為は快・不快に基づく行為とは別な行為なのではないか? シュリックの再反論:一見して犠牲と見える行為には、直接比べられるものに加えて付随的な影響を及ぼすものがある。例えば、いくつかのお菓子の中から兄弟のために大きいお菓子を残そうとして自分は小さいお菓子を取る子供の行為は一見して自己犠牲であり、小さいお菓子より大きいお菓子の方が快いが、この子供の意識には「満足した、または不満足な両親の表象、両親の賞賛の言葉または譴責の言葉、あるいは嬉しそうな、または失望した兄弟の表情」(p. 38)などが現れ、これらが作用して天秤を小さい方のお菓子に傾ける。 したがって自己犠牲は動機づけの法則の反証にはならないし、この法則によって説明がつく行為である。 ・快い表象は自分の状態についての表象である必要はない 殉教者は来世の褒賞への期待によって死を選ぶと主張されることがある。だが、人を行為へと動かす快い表象は自分の状態についての表象である必要はなく、殉教についてのこのような説明は妥当な場合があろうが、大抵は正しくない。意志の目的となるものは何かしら魅力的、魅惑的、明るい、崇高な点があるものであり、全面的に不快なものは(仮にそんなものがあるとすれば)意志の目的たりえない。 ・反論その2:「意志する」と「より好ましく思う」は同じことを語っており、動機づけの法則はトートロジーではないのか? シュリックの再反論:意志には必ず行動が伴うが、願望は必ずしもそうではないので、「意志する」と「より好ましく思う」は別のことである。それに、子供が小さいお菓子を選ぶ場合のように、両者が一致しないこともある。そいうわけで、動機づけの法則はトートロジーではなく、経験的事実である。 第三章 利己主義とは何か この章の主題は快を求めることは利己主義であり、利己主義は不道徳であるという見解の反駁。なお利己性と表現した方が自然な箇所は利己主義ではなく利己性と表現したい。 ・利己主義とは何ぞや?:ショーペンハウアー説の検討 ショーペンハウアーによれば、利己主義は悪意、同情と並んで人間の行為を導く三つの衝動の一つである。この説明では利己主義は自分の幸せを、悪意は他人の不幸を、同情は他人の幸せを目指すと言われる。だが、まず「自分の幸せ」というのが不明確であり、ことによると同情的な人にとっては他人の幸せが自分の幸せであるということがあるように、これら三者は重なることがあり、説明としては不十分。 ・利己主義とは衝動か? 利己主義は自分の幸せを目指す衝動と言うにしても、そもそも「衝動」とは何か? シュリックの考えるところでは、衝動とは人を行動へと「駆り立てる」ものではなく、「傾かせる」傾向性である。神経エネルギーの強さではなく、これを方向づけるものである。「したがって、人間がその傾向性から全く独立に行為することを要求するカントの定言命法は不可能なことを要求しているのである」(p. 54)。 利己主義が自分の幸せを目指す衝動だと言うにしても、幸せや富といった抽象的な対象は願望の対象となることはなく、願望が思い描く時に浮かぶのはそれを表現する個々のものであり、たとえば富を願望する時に心に浮かぶのは富という抽象的な対象ではなく大邸宅や庭園、ドル紙幣など富というクラスに属するものである。これを踏まえ、そのクラスに属するものへの願望には共通の原因があり、この原因こそが衝動である。 ・自分の幸せは表象できない 「自分の幸せ」とは自分の状態の一種であるが、自分の状態を表象することはできない。 理由その1:衝動とはその対象を指向するものであり、衝動の現出や説明にあたって自分の状態を思い浮かべるというのは必要なく、余計である。衝動は環境や対象があれば十分生じるものである。たとえばエロイカを聞きたいと思う時にはこれを鑑賞する自分の状態を思い浮かべないし、エロイカを聞きたいという衝動に鑑賞する自分の状態を導入する必要もない。 理由2:自分の状態の純粋な表象が現れるにしてもそのような場合は特異な場合であるのに対し、利己主義はありふれたものである。 以上の議論を踏まえるならば、自分の幸せへの衝動として利己主義を定義することはできないし、自分の状態への配慮は行為の動機たり得ない。 ・快への衝動なるものはない 快・不快は感じられるものであり、目指されるものとして表象されるのは付随的な知覚にすぎない。したがって快が表象を持たない以上は動機として現れるものではなく、快の衝動なるものはない。 したがって快への衝動なるものがない以上は利己主義は快への衝動ではなく、欲されるのは快を伴って表象されたものである。「したがって、利己主義は自分の幸せに向けられた衝動であるとか、『自分の幸せ』は単純に快と同一視できるというような見解は不可能である」(p. 62)。 ・利己主義として非難されているのは、その実「思いやりのなさ」である 利己主義という言葉で非難されているのは利己主義そのものというよりは、ある傾向性が満足される際の仕方や状況である。その非難の種は何かというに、社会衝動(「仲間の行動様式や状態の知覚または表象が直接快感または不快感をよびおこすことを本質とするような衝動」(p. 65))の不在ないし弱さ、つまり「思いやりのなさ」である。人を押し退けたり人の利害を無視したりしてまで満足を得ようとすることが利己主義という名で非難されていることである。 ではなぜエゴイストが道徳的に非難されるのか? もといなぜ利己主義的な行動は不快なのか? それは彼が他人に被害を与え、他人を犠牲にするからであり、人は自分が被害を受けることがなくとも社会衝動によって仲間の不利益に不快感を感じるからである。 ここでシュリックは一つの推測をする。すなわち「利己主義の道徳的評価の説明が、類比の仕方ですべての道徳的評価の説明に適用できる」(p. 67)。 第四章 道徳的であるとはどういうことか ・要求道徳と願望道徳 道徳には要求道徳と願望道徳という二種類がある。 要求道徳は自愛を抑え、他者への配慮を重んじる自己抑制と断念の倫理である。それが唱えられるのはキリスト教や近代の倫理学においてである。 願望道徳は願望の成就を目指す自己実現と肯定の倫理である。古代人によって唱えられた。 両者の違いの理由はどこにあるのかというと、願望道徳は一般的な善をまず思い浮かべて道徳的な善はこの中に含まれるものにすぎないと考えたのに対し(だから基本的には快楽説)、要求道徳は道徳的な善をスタート地点に置いた(ここから義務論が生じた)。 ・シュリックの基本テーゼ 「第一に、道徳的に是認されたものは実際に人間社会の喜びの増加を約束するということ、そして第二に、社会によって期待されるこの効果が、その是認の唯一の理由であるということである」(p. 73)。 ・功利主義批判 シュリックの快楽説(本人はそう呼んでいないが)と功利主義は異なったものである。前者は事実を言い表すものであるのに対し、後者は「各人が社会の幸福を端的に行為の最終目標として設定しなければならないという絶対的な要求」(p. 75)を含むという点に違いがある。 批判点は二つ。(1)ここの快楽は量的比較になじまないこと、(2)行為の結果(とりわけ未来の結果)を見通すことはできないにもかかわらず、これが道徳的価値の判断基準となっていること。 ・善とは社会にとって有用なものである 「道徳的に善い」ものとは福祉の増進及び有益であると社会によって考えられるものである。それというのも道徳的評価は社会的構造の変化に伴って変わるものであるから(例えば部族社会では道徳的な考慮がなされるのは部族内の人間だけなのに対し、近代ヨーロッパ人は(シュリックが述べる限りでは)全人類に広がる)。そういうわけで、社会こそが道徳的立法者ということになる。 現に道徳的命令の遵守は社会の福祉の増進になるようなことであるし、そうなるように期待されてもいる。実際、法案を提出してその正当化をしたり、法律を評価する時には社会の福祉の増進につながることが根拠にされており、「どの決定が道徳的であるか、あるいは最高の道徳的価値を有するか」は問題にされない。 なお、「善い」という語の意味をこのような意味とは異なったものと考える意見もあろうが、「平均的意見だけが問題となる」(p. 82)。 道徳的行動がもたらす快を良心によって説明することもできようが、わざわざ良心を持ち出さずとも心理学的説明だけで十分である。 第五章 絶対的価値は存在するか ・絶対的価値があることは検証不能である 快とは独立した(快が伴うとしてもそれはあくまで非本質的な仕方)絶対的価値はあるのか? そんなものがあるとすればその真理性を確認する方法が述べられなければ成らず、さもなくば無意味になる。 価値は快によって認知されはするが、快とは別のものであるという主張がなされるとすれば、この主張では検証可能な全ての帰結においてシュリック説と一致しているので、検証可能なことを越えたことについては無意味である。思うに、前半部分はシュリック説の述べることであるが、後半部分は無意味なことだというわけであろう。 よしんば快・不快の感情と関わりを持たない絶対的価値があるとしても、そんなものは行為に影響を与えることができず、我々には何の関わりもないものである(p. 100)。 ・価値の基準の設定は失敗する 絶対的価値に客観的な基準を与えようとすることは循環に陥る。何を価値あるものと見なすべきかの基準が与えられたとしても、その基準のなかですでに価値が現れている。つまるところ、価値を選択作用ではなく客観的事実の中から探すのが根本的な間違いである。 客観的基準に対して主観的基準に訴えるのも失敗する。物的対象を感覚的に知覚するように、価値を与件として認識する「価値体験」があり、この価値体験によって客観的価値の存在を保証しようという方法である(どうやらこれはブレンターノ派の考えらしい)。主観的であることを理由にして価値体験を拒む道が閉じられているのがミソ。なるほど知覚体験も価値体験と同じく主観的なものであるが、感覚は規則性を持ち法則に従うが、価値の方はそうではないので、知覚体験が物的対象の存在を担保するのと同じように価値体験が客観的価値の存在を担保するとは言い切れない。 ・価値判断は論理的・数学的命題が持つような普遍的妥当性を持たない 論理的命題の絶対的で端的に妥当し、思考や感情から独立しているという性質を価値についての命題もまた同じように持つという主張がなされる(ニコライ・ハルトマンの理論がそうらしい)。しかし、論理的命題の持つこういった性格はこれがトートロジーであるという事情によるのであり、この主張に基づくならば価値命題はいかなる認識藻事態も表さないことになってしまう。たとえば「もし価値Aが価値Bより大であるなら、価値Bは価値Aより小である」という命題は価値について何かを語っているのではなく単に二つの表現形式の同等性を示したにすぎない(p. 93)。 ・絶対的当為なるものはなく、定言命法は矛盾 そもそも命令は命令者と制裁との関係があってこそ定義されうるものであり、それらを欠いた定言命法はあたかも甥や姪との関係を抜きにしてそれ自体としての伯父があるというような矛盾である。 第六章 無価値の喜びや価値ある苦悩は存在するか この章の主題は快が無価値であることを否定する一方で、苦悩にも快が含まれることを示すこと。 ・主観とその感情との関係において与えられるという意味で価値は相対的である 前章で絶対的価値の存在を論駁した以上、「ある対象の価値についての言明の意味はこの対象またはその表象がある主観に快・不快の感情をあたえることにあるという命題が最終的に確認された」(p. 102)とのこと。蓋し絶対的価値がないとしても、価値は快であるという積極的な主張が言えるのかは疑問。 ・快楽説が不道徳だと考えられる諸理由とそれらへの反論 快楽説は不道徳だと考えられる理由その1:教育。教育(個々で「教育」は人間相互の感化を指すという広い意味で用いられる)はある衝動の阻止を主たる方法として用いるのが常であり、それ故に道徳は禁止的で、自然的快に対立するような性格を持つに至る。こう考えれば多くの倫理学者が自然と道徳を相対立するものとして考えたのも合点が行く。「私はこれが、多くの倫理学者において自然と道徳が相互に対立するものとして現れること、カントが自然的存在者としての人間を道徳的な理性的存在者としての人間から区別しなければならないと信じたこと、フィヒテにとって徳が『内外の自然の克服』にもかならないこと、ジェームスが道徳的行為を最大の抵抗の方向に向かってなされる行為と定義したこと(他方、自然は最小の抵抗の原理に従う)に対する、驚くほど単純でしかも正しい説明であると確信している」(p. 106)。 理由その2:不快であるはずの苦痛や苦悩(以下では苦悩で一括する)が価値あるものとみなされるという事実。しかしながら、苦悩それ自体はいろいろな要素から複雑に構成されたものであり、苦痛や苦悩が不快(なお快や不快は単純なもの)だからといって即座に苦悩がそれ自体で価値を持つとは言い切れない。 ・苦悩は快い表象と連合し、快は苦悩を経由する 苦悩は快い表象と連合している。それ自体で不快な状態は(1)強く心地よい調子の諸表象と結合することによって快を得て、(2)そのような諸表象は過去の喜ばしい体験や喜ばしいと想像される未来の状態と関連することで快い調子を得る。(2)は一般に「希望」と呼ばれるものであり、これは「最も幸福な感情の源泉」であり、希望なかりせば快は瞬間的なものしか残らない。 苦悩を経由した快は苦悩との格差によって快となる。一般的な「苦悩は喜びへの道を意味するときに価値がある」という考えをシュリックは「一般に喜びへの道は苦悩を通過している」という「それ程平凡ではない主張」への拡大する。病気がなければ健康の価値が分からず、冬の次に来るものでなければ春が賛美されないのは、健康や春のそれ自体の価値というよりは「生き生きとした感情が現れるためには何らかの交替が必要であるということだけである」(p. 114)。 ・苦悩の中にも快が含まれること 純粋に不快なものは滅多になく、大抵は苦悩の中にも快が含まれている。このことによって悲劇を見ることによる快が説明される。 強い喜びも強い悲しみも共通して涙を流させ、強い震撼を人に覚えさせる。この震撼自体が強度の喜びの源泉である。 第七章 人間はいつ責任があるか ・意志の自由に関する問題は疑似問題:「法則」にまつわる混同 意志の自由に関する問題は概念のいい加減な扱いに基づく疑似問題であり、「二三の分別のある人の努力によって、ずっと以前に片づけられている」、「哲学の最大の醜聞の一つ」(p. 122)であり、概念の分析によって解消できる。 「法則」という語にみられる混乱。「法則」には強制して本来意に添わないことをさせるものという(法律としての)意味と、事実としてどうなっているのかを記述するものと言う二つの意味がある。哲学者たちが意志の法則を前者と混同することで誤解が生じた。これが自由についての疑似問題が生ずるところの第一の混同。 法則に「必然性」という概念が適用されることで「のがれられない強制」という意味で用いられるようになる。さらに必然性が普遍的妥当性(これは自然法則の本質)と混同され、さらに強制の反対が自由と呼ばれていることから、自由は因果律からの除外や自然法則に従属しないことだと誤解されるに至る。 ・責任があるということは動機の作用点だということ それゆえ意志の自由の問題は決定論とは無関係な問題である。他方で自由とは強制の反対でしかなく、外的強制が課された場合のみ責任を免れたり減免されうる。 ならどういう場合に責任があったりなかったりするのか? 「責任の所在を問うということは、動機の正確な作用点を問うことである」(p. 130)。それゆえにその人が動機の作用点ではないために精神病者や脅迫を受けた人は責任と刑罰を逃れると見なされ、前者は刑罰よりも治療の対象と見なされるし、後者の場合は脅迫をした者が罪を負うべきとされる。他方で処罰は処罰された行為の反復を妨げるためのもの(改善)だったり、他の人が類似した行為をするのを妨げるためのもの(威嚇)だったりする。 ・責任感とは強制を感じないということ 責任を感じるということは外的強制によらずに自分の願望によって、自分の性格の法則性にもとづいて行為したと感じるということ。「こうして責任感は、私が自由に行為したということ、私自身の願望が動機であったということを前提している」(p. 132)。 因果性は責任や自由と対立するものだったり自由が因果性の欠如というわけでもなく、因果性を前提して初めて動機と責任について語りうる。因果性なかりせば行為の動機と原因を語り得ず、責任も消滅する。 第八章 どの道が価値あるものに通じるか ・道徳的喜びを自然的喜びに還元することがその説明 「自然的、要素的でもはや説明を要しないものと、自明であるようには見えず、哲学的驚異をよびおこすようなもの」という二種類の喜びがあり、美学や倫理学の主題は後者である。「認識とは、いつでも、説明すべきことを、もはや説明を要しないことに還元することである」(p. 138)ため、後者を前者に還元することが後者の説明になる。 ・倫理学は行為の相違に関わる ホッブズのように人間は利己的なのが自然であり、そこから国家や良心の成立を説くのは、現実の人間の生活環境と一致しない虚構から出発しているために「あまり価値がない」。 それに対し、社会的衝動は快不快の直接の源泉になり、身体的欲求がそうなのと同じように「自然的」である。さりとて探求の出発点として「社交衝動、母性本能、その他四つ五つの傾向性」(p. 141)を自然的衝動として導入することは、人間の行動の相違こそが倫理学者の関心の的であるため、これを説明できないために不満足な方法である。 むしろ悪人を善人に変えさせる変化の法則こそが重要であり、問われるべき問いは「この人が道徳法則の精神を感得するのに、あの人が感得しないのはなぜか」、「この人が善人であるのに、あの人が悪人であるのはなぜか」、「一方の人がもっており、他方の人がもっていないものは何であるのか」、ひいては「我々はいかにして彼に欠けているものをあたえうるか」、「道徳的行動への人間の素質は何によって増大または減少されるか」である。 ・人を道徳的にするのは行為の望ましさと快の一致 人間の傾向性を変化させるものは「暗示」(幼い頃からある行為を賞賛するのを聞かせることでその行為に快を覚えるようにすること、要するに刷り込みのこと)、賞罰とがある。これらは人間の外部から来るものであるのに対し、人間自身の行為に起因するものとがある。こちらは実際の結果として望ましい行為が快を、禁じられた行為が苦痛を生じるようにすることである。 望ましい行為が快となるには動機感情と成果感情が一致する必要がある。「動機感情」は行為を導くにあたって勝利した表象に付随する感情(この感情の持つ快は「動機の快」)で、「成果感情」は実現された一定の状態が呼び起こす(快の)感情(この快は「成果の快」)と言う。両者は必ずしも一致するものではないが、反復によってこの不一致は調整されて一致をみる。つまりいくら動機の快があったとしても、これが導く行動に成果の快が伴わないとすれば、その行為を繰り返すうちに動機の快もなくなり(そのまた逆も然り)、両者は同化する(「同化の原理」)。そのため、両快の不一致は持続性を持たない。 同化の原理のゆえに動機の快は成果の快によって持続的にあおることができることになるが、成果の快がなければ動機の快は持続しない。したがって「道徳的行動への人間の素質は何によって増大または減少されるか」という問いへの答えは道徳的行為への素質と幸福な結果をの一致であり、それによって道徳的素質は持続的なものになる。 ・幸福能力を快の尺度とすれば、利他的行為が幸福をもたらす 「幸福」とは「最も価値あるもの」、最大の快の状態である。さりとて幸福なるものは捉えどころがなく比較も容易ではないが、「幸福能力」に対する影響を考えることで快を比較することができる。たとえば、それを享受した後もその人を変えることがない快と、その享楽によってその反復やほかの喜びの享受が困難になるような快(たとえば麻薬や鈍化をもたらす享楽)があれば、どれほど強力であろうと後者は人生を全体として乏しくするものである。 そういうわけで幸福能力への影響に基づいて考えれば、最も幸福価値を持ち、幸福能力を減らさない(以下の場合はむしろ増すのだが)行為を導く傾向性とは社会的衝動である。「社会的衝動とは、それによって他人の愉快な状態ないし不愉快な状態の表象が、それ自身、快い体験または不快な体験となるような人間の素質である(このような衝動によって、たんなる他人の知覚、たんなる他人の現存でさえ快感をひきおこすのである」(p. 157-158)。 他人の喜びが自らの喜びになり、利他的行為によって社会から便宜を得ることができるため、社会的衝動においては動機の快と成果の快が一致を見る。その幸福感の最たるものは愛によるものである。 ・徳は幸福をもたらす 「最も高い快の可能性へと導く素質が同時に、有徳な行為の最も重要な部分を生みだす素質でもあるとすれば、このことは確かに、徳と幸福が同じ原因を有するということ、両者が互いに手をたずさえて行くはずだということを意味している」(p. 162)。つまり徳は幸福をもたらすというわけなのだろうが、このことはこれ以上理由付けをされているようには見えない一方でこれに対する反論への再反論をシュリックはしているので、多分帰謬法的なやり方で論証をしているのだろうか。 「正直者が不幸にうちひしがれて路傍に佇んでいるのに、悪漢が『金ぴかの大型馬車』を乗りまわしている」(p. 163)というように、徳は幸福のためにはならないどころか不幸をもたらすこともあり、逆に悪徳が幸福をもたらすいう主張が仮想敵にされる。これに対する反論は二つ。(1)この主張で「幸福」として前提されているのは富だが、シュリックによれば実際のところ大多数の人は富にそれほど大きな価値を見いだしてはおらず、愛に包まれていることや良い子供に恵まれていることをより高く評価しているし、こういったものに「悪漢」があずかる見込みはない、とのこと(ここが一番納得できない部分であるわけだが、蓋しシュリックは認知上の障害を軽視し、性善説的に過ぎる)。(2)徳があれば何でも得られるわけではなく、「あたえられた外的状況のもとで可能な最高の幸福に導く」(p. 163)にすぎず、偶然や運命の打撃の前では無力であることが見落とされている。さりとて、概して利他主義者のほうが利己主義者よりも幸福になっている。 ・道徳原理「幸福にそなえよ」 幸福は遠くからは認知できず、現存する時には突然姿を現すものであるために追求することはできない。なのでむしろ幸福能力を持てるように、心の感受性と純粋性を持つのが良い。すなわち「幸福にそなえよ」。シュリックは幸福能力を倫理学の中心に据えることを説く。 ・利他的傾向性の最高の段階では葛藤や断念は生じない 一見して利他的たらんとすることは個人の衝動の抑圧、断念と放棄の要求、苦痛であるかのようだが、そうではない。これは錯覚で、この制限はむしろ個人にとっては有益なものである。 とはいえ、利他的傾向を得るまでの過程は義務と良心による強制を伴うために不快なものであるが、道徳の最高の段階である「無邪気」に至れば(義務や良心と良からぬものの間の)葛藤も(道徳のために快を犠牲にするというような)断念も生じない。 ・利他的傾向性は秩序あるものである 利他的傾向性は柔弱さではない。柔弱さとは「何事にでも順応し、隣人のあらゆる願望を尊重し、あらゆる同情に屈服すること」(p. 171)である。これは容易に目前の衝動に屈服するということの一例であるのに対し、然るべき利他的傾向性はすべての行為に一貫性があり(これは気まぐれと対置される)、秩序ある調和的体系である。「しかし、堅固な秩序があれば、善良さから深い親切が生まれる。それは、あらゆる願いに耳をかしたり、あらゆる弱者を直ちに扶け起こしたりしないで、まず自力で立ちあがるように励ます。見通しのきく社会的傾向性は近視眼的なものの上に立ち、助けたり、妨げたりする。この傾向性はまとまって一つの調和的体系を成し、この体系があらゆる行動に、毅然たる性格を特徴づけるあの独特の平静さをあたえるのえある」(p. 172)。 ・義務の倫理学と親切の倫理学 「義務の倫理学」は自然すなわち快に対立し、道徳の基礎付けを目論むものであると規定される。これに対してシュリックは善であることが人生にとって自然的すなわち快いことであり、基礎づけを放棄して基礎については蓋然的なものに甘んじる「親切の倫理学」を規定する。親切の倫理学においては道徳的であれば万事快調というわけではなく、あらゆる場合に備えることは必ずしもできない。機関車に強い動力を備えさせようとすれば、ポイント切り替えの誤りが危険なものになるように。「たしかに論的には、道徳的命令の遵守が最高の可能な喜びに導かないような(たとえば、病人が死に近づいていて、幸福能力を維持することがもはや無意味であるような)場合がある(しかし極めて稀に)ということを我々は認めなければならない(経験的倫理学説がこれを認める勇気をもたなかったことを、我々は責めることができる)。しかし、このような極端な場合に道徳が無価値になるということは世界の不完全性の一つであり、我々は他の不完全生徒ともにそれを認めなければならない」(p. 174)。 Schlick, ‘Positivism and Realism’(1932) (in “Logical Positivism”) この論文のテーマは「実証主義」という語を明らかにすることで、その動機は「実証主義」という語において現れる混乱のために無用の論争が起こっているということ。 ・「実証主義」とは何か? 「実証主義者として形而上学の可能性を否定する見解」(p. 83)が「厳密な実証主義」として定義されるが、この定義には「形而上学」という言葉が出てくる。「形而上学」とは、「現象」(appearance)や「所与」を越え、それらに対するのとは別の仕方でアクセスされる「真の存在」や「実在それ自体」、「超越的な存在」についての理論である。 「つまるところ実証主義者の『所与』は形而上学者の『現象』であり、実証主義はそもそものところ超越的なものから離れたり、これを攻撃する形而上学の一つであると信じることになる……しかしこの信念は我々には危険な誤謬への道であるように見える」(p. 83-84)。「実証主義による形而上学の排除が超越的な実在の否定を示しているとすれば、実証主義者は実在を非超越的存在へと割り当てている世界においては最も自然的な結論であろう。とすれば、実証主義者の根本的な原理は『所与のみが実在的である』ということであろう」(p. 84)。しかし、これは「超越的なものが存在する」という矛盾する形而上学的言明と同程度に形而上学的ではなかろうか。 ・外的世界の実在について この実在についての問いは外的世界の存在についての問いへと転じ、実在論は外的世界の実在性を信じ、実証主義はそれを否定する。この外的世界についての問題は所与を意識の「内容」、つまりそれを与えられた主体に属するもの、心的性格を持つものと見なすか、意識の外の存在と見なすかという区別に由来する、内的と外的の区別によるものである。所与を内的なものと見なす見解はとりもなおさず観念論であり、「哲学者が自身に与えられたもののみについて語ることができると考えるならば、独我論的形而上学が我々の前に出てきて、多くの主観のうちに所与が配分されると考えるならば、バークリ的多様性の形而上学を持つことになる」(p. 85)。 実証主義をこの見解、つまり外的世界は存在するとする見解とみなすならば、それは、それも一つの形而上学であるところの実在論の焼き直しになり、「実証主義の反形而上学の態度」(p. 85)は見落とされる。つまり、実証主義はただ単に「真の存在」や「超越的な存在」に反対することに尽きるものであるということになる。しかし、シュリックは「実在論と実証主義は両立不能である」(p. 85)と言う。 ・検証方法としての意味 「一般に、いつ我々は問題の意味が我々にとって明らかであると確信するのだろうか? それは我々が肯定的に答えることができる条件ないし、場合によっては否定的に答えることができる条件を明らかに述べることができる時、そしてその時のみである。それらの条件を述べることによって、そしてそれのみによって問題の意味は定義される」(p. 86)。命題の意味は「もしその言明が真であるならば、存在するに違いない事実」(p. 86-87)であり、「それは一定の事態を表現する」(p. 87)。命題の意味を明らかにするのは語を継起的な定義によって変形し、もはや定義され得ない語に変形することでなされる。つまるところは還元。「その下で命題が真である条件についての言明はその意味についての言明と同じものであり、何ら異なったものではない」(p. 87)。他方で意味を持たない命題については「それが真であろうと偽であろうと世界が同じままな命題は世界について何も語らない。私はそれに意味を与えない」(p. 88)。 以上、語の意味は経験的・科学的方法によって確定され(p. 86)、命題の意味とはその真偽の条件であるという見解を、シュリックは抑制的な言い方ながらも実証主義と呼ぶ。「我々はそれが我々が実証主義のうちに見て取る多くのまことに保たれた定式の原動力となる力と本当の核心を構成すると現に見なす」(p. 87)。 意味を真理条件とする具体的な例。「しかし誰かがこう言うだろう。あらゆる電子のうちには原子が存在し、常に存在しているにもかかわらず、いかにしても何ら外的な影響をもたらさず、したがってその存在は自然的に明白ではなく、これは無意味な主張である、と。我々はこの仮説の提唱者にこう尋ねるべきであろう。あなたはその『原子』の存在によって本当のところ何を意味しているのか、と。そして彼は、私は電子に存在する何ものかを意味させている、としか答えられないだろう。さらに我々は問うべきである。その意味は何であるか? それが存在しない場合はどうなるのか? そして彼は、あらゆるものが前と同じようにきっちりとあり続けると答えるだろう。彼の主張によれば、電子の中の『何ものか』は影響を持たず、観察可能な変化が単純にないことになる。所与の領域はこのようにして影響を受けることはない」(p. 89)。文が示していることは真理条件、経験的内容に尽き、「もしそれはこれ以上の何ものかを含んでいるというならば、彼はこれ以上のものが何であるのかを言えなければならならず、これをするために彼は我々に、彼の言うことが間違っているならば、世界がどのように異なっているのか述べるべきである」(p. 90)。 ・検証は原理的に可能であればよい 意味を担保する検証可能性は原理的(in principle)なものであり、実際に可能ではない。そして原理的な可能性と、ひいては論理的可能性と実際の可能性、つまり経験的可能性との間の相違は程度問題ではなく、本質的な相違である(p. 89)。 ・検証は感覚を通してなされる 観察によって検証は、或る所与(data)、「感覚印象」(sense-impression)の発生への参照によってなされ、「物理学の言明の真偽は感覚印象(所与のクラスを構成する)の出現に全面的に依存している」(p. 90)。 ・検証の不完全性 完全な検証ができないこと(ここで「完全な検証」という語は使われていないが)。「厳密に言えば、物理的対象についての命題の意味は不確定的に無数の可能な検証のみに尽き、我々はこれから最終的な分析において命題は完全に真であることが示され得ないということを知る。現に、科学のほとんどの確実な命題でさえ仮説としてとらえられ、さらなる改良と改善に開かれ続けていることが一般的に認識される」(p. 91)。 ・経験内容の比較は行動主義的になされる 自他の経験を比較することはできず、自分が緑の紙を見て、他の人も緑の紙を見たと述べたとしても、このことから彼が同じ色を経験したことを導き出せないし、両者の同定もできない。私的言語は不可能。一方で、何かしらの経験内容についての文の比較や同定は検証可能な場合に限られる。「異なった個体が同じ経験を持つという言明は彼らの全ての主張内容(そしてもちろん彼らの残りの振る舞いの全て)が或る一致を示すという事実において単一の検証可能な意味を持つ。かくして言明はこれ以上のことを意味しないことになる。我々が我々は二つの体系秩序の類似に関わると言うときのみ、異なった仕方で同じことを表現する」(p. 93)。 自分の意識の所与の類似性は直接的経験によって検証される。しかし、自他の意識の所与の類似性については「新しい概念」で処理されるべきものであり、「それというのもそれが現れる言明はもはや古い仕方では検証できないからである。新しい定義は単純に、二人の個体の全ての適当な反応の類似である」(p. 94)。「同じ個体の経験の類似性」は「一つの場所での同時性」に、「異なった人の経験の類似性」は「異なった場所での同時性」になぞらえられ、おそらくそこで新たに導入されるのは関係性である。 シュリックの有意味性についての考えは概して行動主義的である。「そこで二人の人物の経験の類似性に関する言明は彼らの反応の一致以外に伝達可能な意味をもたないと認められるべきである」(p. 94)。「我々は命題の中には伝達されるもののみを理解し、もし検証可能である場合のみ、意味は伝達可能である」。 「xは実在的である」というような実在性についての文は「xは堅い」というような文と外見上は同じであるが、実在性対象に割り当てられる属性・述語ではない。それゆえにカントが取り上げたような神の存在証明の誤謬性は存在が述語として扱われることに由来する(p. 96)。 ・検証は直接的に対象を知覚する必要はない 「私は『これは一ドル紙幣である』と述べるように慣れているところの存在についての特定の触覚と視覚を得る。……アフリカにオカピがいるということはそのような動物がそこで観察されるという事実によってのみ決定可能である。しかし、その対象なり出来事『そのもの』が知覚される必要ではない。我々は、例えば、太陽系の外側の惑星の存在は大きな確実性と共に、望遠鏡の光の位置の直接的知覚からのものと同じように摂動の観察から導き出されると想像できる」(p. 96)。 ・過去の経験論者の見解の解釈 知覚に基づいた経験論者たちは物理的対象の存在を否定していないという解釈。「彼は物体の世界の実在性を否定したわけではなく、ただ単に我々がそれの実在性を帰するときに意味しているものの説明を試みただけである。知覚されない観念は神の心の中に存在すると述べた彼はそれによってそれらの存在を否定したのではなく、それを理解しようとしたのである」(p. 97)。ミルは「物体を『感覚の永遠の可能性』であると明言した時に物体の実在性を否定しようとしたのではなく、それを明晰にしようとしたのであり、私の見解では彼の表現法は不味い選択であった」(p. 97)。 ・存在と属性は別物 存在と属性は別物であり、現代論理学ではそれらを示すのに別の記号が使われている。そして検証原理をあわせて、例としてのデカルト批判。「我々はデカルトの『我在り』という言明――あるいはより誤解の少ない定式化『私の意識内容が存在する』――は単純に無意味であるという見解を得るに違いない。それは何も表現しておらず、何の知識も含んでいない。これは『意識内容』はこの文脈においては所与としては単純に名辞として現れているためである。……しかし私はどのようにしてそれの下で『私の意識内容が存在する』という命題が偽になる条件を述べられるだろうか? ……したがって私がその命題が真となる(そうしようとする!)条件を述べることができないということは明白である」(p. 98-99)。また、内的状態は振る舞いや表現によって検証可能である(p. 99)。 ・対応説 「実在的であるとは所与に対して一定の関係が成り立つということを常に意味する。……ここでまた、〔私がこの瞬間に痛みを経験しているか否かという〕問題は或る記述可能な属性を持つ経験が或る条件(実験的条件、注意の集中等)がある連言の中に現れることを確定することで答えられる。そういった記述的属性は、例えば、或る反応を生じさせる傾向などの或る他の条件が現れる経験に似ている」(p. 99)。 ・「外的世界」という語の分析 外的世界は日常的な用法と哲学の専門用語としての用法がある。前者については下の通り。「日常的な生の中にそれが現れる時は、ほとんどの場合は実際の事態において使われる表現であり、感覚的意味が語られうる。記憶、思考、夢、欲望、感情を含む『内的世界』とは反対に、外的世界は単純に山と木、動物と人の世界である」(p. 100)。 見られていない時の世界は存在するのか。「『見られていない時、夜にそこに城は存在しているのか?』我々は答える。『もちろんだ! それが今朝に建つのは不可能だろうし、さらに建物の状態はそれがつい昨日のものではなく、数百年経ち、ひいては我々が生まれる前のものであると示しているから』」(p. 100)。 形而上学的な意味における外的世界は経験的世界の「背後」(beyond)にあるものとされているが、「『背後』という語は経験的世界ができるのと同じ意味では『知られ』えないということを示している」(p. 102)。この現象の背後にある世界と経験的世界の区別は、知識は直接的なものでなければならないという見解に基づいているという。「知識は直観の一種であり、対象が感覚なり感情として知る人間に直接的に現れている時のみ完全である」(p. 102)。これはとりもなおさず知識と直接的な見知りないし経験との同一視である。しかし一方で科学者たちは電子の振る舞いを支配する法則を述べさえすれば、十分に完全な知識であると考えているとする(p. 102)。 ・物理的実在論者(physical realist)について 「物理的『実在論者』は外的世界についての我々の記述に一点を除いて完全に満足している。彼は我々はそれが実在であると十分だと認めたとは信じていない。それは、それが知り得ないからだったり、彼が『外的世界』は経験的世界から区別されると考える何かしらの理由からではなく、ただ単により高い実在がそれにはあるためである。これはしばしば彼の言語において示されている。『実在的』という語はしばしば『理念的』、『主観的』な意識内容と対照的な外的世界のためにとっておかれ、単なる『論理的』構成への反対において『実証主義者』はそういった論理的構成物に実在性を還元しようとするとして非難する」(p. 103)。 ・形而上学的な理論は感情の表現である 「検証可能な差違は超越的存在が対象に付随するのか否かで世界においては何がどうなるのか? 二つの答えがこの問いに対しては与えられる。最初のものはそれは非常に大きな違いをもたらすというものである。というのも『実在的』外的世界の存在を信じている科学者たちは、『記述的感覚』と彼ら自身が信じるものと非常に異なったものであると感じ、そしてそのように動いている。前者は星空を観察し、その眺めは後者〔記述的感覚〕とは全く異なった熱狂と畏敬の感情と共に、彼らに自身の取るに足らない本性、不可解な崇高さと世界の雄大さを意識させ、それというのも〔超越的存在を認めない者にとって〕最も離れた銀河系は単なる『彼自身の感覚印象の複合物』であるからだ。……さて、誰かがある科学者は実在の外的世界の存在を信じ、他の科学者はそうではないと述べることでこの違いを表現で主張するとしてみよう。それらの出来事においてこの言明の意味は我々が二人の人間の振る舞いの内に観察するもののみから成り立っている。つまり、『絶対的実在』や『超越的存在』や我々が使うのを選ぶような表現は、ここでは単純に、人間が世界を観察したり、世界についての言明を作る時や、哲学をする時に彼のうちに現れる或る感情の状態を意味している。現に、この場合、『独立した存在』、『超越的実在』等の語の使用は単なる感情の表現、話者の心理的態度の表現にすぎない(さらにこれは最終的な分析では全ての形而上学的命題において真である)」。 ・法則 「物理学の主題は感覚ではなく法則である。物体は『感覚の複合物』でしかないといういくらかの実証主義者によって用いられる定式化は排される。物体についての命題は法則に則った感覚の出現についての同等な命題へお変形可能であるというのだけが正しい」(p. 107)。 Schlick, ‘The Foundation of Knowledge’(1935) (in “Logical Positivism”) ・まとめ 整合説ではプロトコル文が有名無実化し、ある文がプロトコル文なのか否かは事実を参照することなく、恣意性に委ねられてしまう。 自分自身の主観的な経験に基づく言明そのものは知識の基礎になりえない。 「裏付け」という種類の文により、検証がなされる。 裏付けは「ここで今しかじかである」というような形を持ち、刹那的で、事実と比較され、直示的な文のこと。 知識の基礎にまつわる問題の背後にあるのは検証や認知における満足の妥当性への疑問である。 I プロトコル文とは何ぞや プロトコル文は改変も追加もできないような絶対的に単純な事実を表現する。これは主張(assertion)や知識から区別され、それらのみが不確実でありえ、他方でプロトコル文は「全ての知識の疑う余地のない始点」であり、実際に述べられたり書かれたりしていようといまいと違いはなく、いつでも復元可能である(p. 210)。 プロトコル文は知識の始まりと言われるが、それはどういう意味なのか? 時間的になのか、それとも論理的な意味でなのか? プロトコル文は話されたり書かれる必要がないという点からして時間的な始点ではない。「あらゆる出来事においてそれらは一定の論理的属性、構造、科学の体系における位置によって区別され、それらの属性を実際に特定する仕事に直面することになる」(p. 210)。 プロトコル文の出現の仕方。「語句や書かれた表現(それらは記号の物理的体系である)に翻訳される時のみ、判断の心理的行動は相互主観的に妥当な知識を定めるのに適当であるように見受けられるため、『プロトコル文』は話されたり書かれたり印刷された或る文であると考えられ、例えば音やプリンターのインクの或る複合した記号は、普通の省略形から十分な発言へと翻訳された時、以下のものに似たような意味を持つだろう。『N.N氏はしかじかの時にしかじかのものをしかじかの場所で観察した』(この見解はとりわけO・ノイラート〔「プロトコル文」〕によって採用された)。事実の問題としては、我々は我々の全知識に実際に到達する道を辿る時、我々は疑いなく常にこの同じ源へとたどり着くことになる。本の印刷された文、教師の口から発せられる言葉、我々自身の観察(後のものは我々がN.N自身である場合である)」(p. 211)。とはいえ、ここでのプロトコル文の形式は後になって撤回されるのであるが。 II 整合説の検討 「私は原初的な『事実』ではなく、原初的な文を捜し求めようとすることによって知識の基礎を狙おうとするのは方法における重大な改善であると考える。……にもかかわらず、それ〔プロトコル文〕とそれが記録するところの観察は『絶対的に』確実であると考えることは決してできない。それというのも誤謬の可能性は無数にあるからだ。N・Nは不意にあるいは意図的に観察された事実を正確に表現していないことをを記述するかもしれない。それを書き出したり印刷する際に誤謬が忍び込むかもしれない」(p. 212)。上述したようにプロトコル文の内容は確実だとしても、それを表現したり捉えたりする段階で誤謬が生まれるかもしれないということだろう。そのようなわけで、可謬性の故にプロトコル文もまた修正を受ける。プロトコル文は「原則的には明らかに科学の他の全ての文のものと同じ性格を持つことを意味する。それらは仮説であり、仮説以上のものではない」(p. 212)。そして他の仮説によって支えられ、あるいは少なくともそれらと矛盾しない限りで科学の体系の構成物において利用される。「したがって我々は常にプロトコル文を訂正の対象とする権利を有し、そういった訂正は、我々が或るプロトコル文を排除してそれらは何かしらの誤りの結果であると明言する時、実にしばしばなされる」(p. 213)。そしてその結果、プロトコル文と他の文との間の元々の区別は無意味になる。「したがって我々は、科学の何かしらの文は『プロトコル文』に勝手気ままに選んでそう呼ばれるようになり、どれが選ばれるのかは単純に利便性の問題である人々がいかにして考えるに至るのかを理解するに至る」(p. 213)。 整合説の帰結として、真理の基準は相対的なものになり、プロトコル文の地位は他の文と同等になる。「我々にとって知識の基礎の問題は真理の基準の問題以上のものではないことは自明である。確実なことであるが、最初の地点を『プロトコル文』という語でもって始める理由は、それによって他の全ての文の真理が計られるようになるような真理により、或る文を物差しにすることに役に立たせることである。しかし今し方述べられた観点によれば、この物差し、即ち物理学の全ての物差しはそれ自体が相対的であることを示してしまった。ならば一体真理の基準としては何が残るのか? その提案は全ての科学的主張は所定のプロトコル文と合致すべしというものではなく、むしろ全ての文は互いに合致すべしというものであれば、その結果、あらゆる単体の文は原則的に訂正可能であり、真理は『文の相互の合致』にのみ存すると考えられる」(p. 213-214)。 III とはいえ、この整合説の見解では、「真理は矛盾がないことから単純に成る」(p. 214)ということになる。 整合説への反論その1。「もし矛盾がないこと、他の言明との一致という概念の助けを得てそれらを記述するならば、後者〔「実質的」(material)真理、つまり総合的真理のこと〕は総合的言明、事実の問題についての主張であり、それらは『非常に特別な』言明、つまり『直接的観察の事実』をまさに表現する言明と矛盾しないと言うならば、そのようにしか言えない。真理の基準は何であれ文との両立可能性であることはありえず、一致には全く恣意的に選ばれていない或る特別な文が必要である。つまり、矛盾のなさという基準はそれ自体では実質的倫理には十分ではない。そしてこの両立可能性のためには『実在との一致』という古き良き表現――私は使用に当たってのあらゆる正当化があるものと考える――を使わない理由はない」(p. 215)。 整合説への反論その2。ただ単に文の体系における整合性のみを真理の基準とするのであれば、観察に触れない荒唐無稽な作り話でも真理であると言わなければならなくなる。「整合説によれば、観察の問題などなく、あるのは言明の両立可能性のみとなる」(p. 216)。さらに決定の基準もない。「もしも私がその中に互いに矛盾するものが見受けられる言明の集合を与えられたならば、私は幾通りものやり方で一貫性を確立することができるわけであり、例えば、ある折りに或る文を選び出して破棄してそれらを変えたり、他の折りには最初のものと矛盾する他の言明と同じことをしたりすることができる。かくして整合説は論理的に不可能であることが示される。それは真理の不明瞭ではない基準を与えそこなっているわけであり、それというのもそれによって私は互いに両立不可能であるような言明の一貫した多くの諸体系に至ることができるからだ」(p. 216)。 IV 「批判的検討の第二の点」。全ての言明が訂正可能なのか否か、覆されない言明があるのか否か。そして、この後者こそ、全ての知識の基礎を成す(以後これは基本的言明(basic statement)と呼ばれる)。 経済原理(「全ての矛盾から免れるために我々はその保持が言明の全体系の最小限の変更しか必要としないような言明を基本的言明として選ぶべきである」(p. 216))を基礎的言明とそうでないものを線引きする基準とするならば、科学の進歩によって新たに発見された基本的言明を支持してその時までの基本的言明は放棄されるということがありえることになる。これは純粋な形の整合説ではないが、この基準は相対的なものであるといえる。とはいえ、このような合目的性に則った基準に反対する。「したがって私はプロトコル言明の選択を決定する合目的的な根拠が存在するという上記のような相対的観点について仮定し、尋ねておいた。我々はこれを受け入れることができるのか? 私は今この問いに否定的に答える。実際、真正の基本的言明を区別するのは経済的合目的性ではなく、全く他の特徴である」(p. 217)。 シュリックは整合説は知識の正しさを多数派がそれを受け入れるかの問題にしているとして批判し、知識の信頼性は多数派の意見ではなく、事実によってもたらされるとする。俺としては、これは「ひいては」というような話であり、直接的に多数派の意見=真理とはならないように思える。ある体系の無矛盾性とその武井の支持者の数は全く別の話だから。「我々はあまねく認められているものを見知っている。しかしこれは我々がそういった事実に関する言明がそのように作られる傾向を持つ仕方についての正確な知識を持つ事実によって説明され、この仕方が我々の信頼を勝ち得る。……いずれにせよ我々はある言明が修正可能であるか取り消し可能であるかはその起源のみに基づかせるのであって、その維持が他の非常に多くの言明の修正、そしてひょっとしたら知識の全体系の再編を必要とするかではない」(p. 217)。 V 知覚を知識の基礎とすることは、一見して単純で明白だが、「内的感覚の証拠」、「独我論」、「現在の瞬間の独我論」、「自意識の確実性」といったような哲学的問題をもたらす。「デカルトのコギト・エルゴ・スムはこの道の先にある最も知られた目的地であり――実際にアウグスティヌスがすでに突き進んだ終着点である。そしてコギト・エルゴ・スムについて我々の目は今日十分に開かれている。それは疑似言明でしかなく、『cogitatio est』、即ち『意識の内容が存在する』という形で表現されるよって真正の言明にはならないということを我々は知っている [「実証主義と実在論」を参照。] 。それ自体何も表現しないこういった言明は何かしらのものの基礎として何の意味も持たない」(p. 218)。そもそも「ある人が『正しい』ものであるとみなす科学の体系のためにその人自身の言明が結局のところ唯一決定的な役割を果たす」というのは主観的な知覚を知識の基礎とする理論の「本質的な欠点」である(p. 219)。さらにこの欠点はプロトコル文も巻き添えにする。「私が呼んだ全ての本、私が話を聞いた全ての教師はそれら自身のうちでは完璧に合致しており、それらは互いに矛盾していないが、それらは私自身の観察言明の大部分と両立不可能である。……我々が批判してきた見解によれば、この場合に私は私自身の『プロトコル言明』を犠牲に捧げるべきということになるのであるが、それというのもそれらは相互に合致している他の言明の圧倒的多数と対立しており、それらが私自身の制限された断片的な経験に基づいて正されることを期待することは不可能であるからだ」(p. 219)。 VI まず「科学の出発点において当面ある」(p. 220)プロトコル文が与えられると、「それらから科学の諸言明の残りが徐々に、『帰納』と呼ばれる過程によって立ち上がり、それ〔多分科学の諸言明〕はプロトコル言明によって当座の一般化(仮説)を打ち立てるよう私が刺激されたり掻き立てられたりするもの以上のものではない……」(p. 220)。所定の条件の下にある、同じことを表現する観察言明が後に得られれば、仮説と矛盾する観察言明が得られない限り、裏付けられたと考えられ、そういった反例が現れない限りで「自然法則に正しく突き当たったと信じる」(p. 220)。そのようなわけで、「したがっていくらかの正当性をもって観察言明に全ての知識の究極的起源を見いだすことができる」(p. 221)。 「confirmation」(Konstatierung)の導入。「しかし今や二つ目の機能は直接知覚されたものについてのそれらの文に属すように見え、それらを『裏付け』〔confirmation〕として我々は呼び、それは仮説の証拠付け、それらの検証である」(p. 221)。 そこはかとなく漂うプラグマティズムの香り。予測された出来事が起こり、それが裏付けられたり観察されると、「満足の感じ」が得られ、「裏付けや観察の言明は我々がこの特定の満足感を得るや否やそれらの真の役目を果たす」(p. 222)。あるいは「元来認知は人生の営みにおける手段である」(p. 222)。 直接的に経験されたものについての裏付けや観察文は瞬間的である。「それらはいわば持続を持たず、その瞬間が過ぎ去れば、それらの場所で我々の自由になるのは碑文であり、記憶が後追いをし、それら〔記憶や碑文〕は仮説としての役割しか果たすことはなく、究極的な確実性を欠いていることを現に我々は見て取った。構築を始めようとする瞬間に過ぎ去っていくため、裏付けについての論理的に批判の余地のない体系を構築することはできない。もしそれらが認知過程の始点に立てば、〔瞬間的で捉えどころのないものである〕それらは論理的には何の役にも立たない。もしくは終点に立てば、それらは検証(ないしは反証)を完成品に持ってくることになり、それらの出現の瞬間にはそれらは義務をすでに果たしたことになる。論理的に何もそれらには依存しておらず、それらからはどんな結論も引き出せない。それらは完全な終点を成す」(p. 222)。カルナップの経験流、バークリの知覚に似ている。 知識の完全な基礎にまつわる問題の背後にあるのは満足の妥当性への問いである。「予測の裏付けによって科学のゴールは達成される。認知の喜びは検証の喜びであり、これによって勝ち誇った感じは正しく把握される。これこそ観察言明がもたらすものである。観察言明において科学はゴールへとたどり着き、観察言明はそのために存在する。知識の絶対に確実な基礎についての問題の背後に隠された問いはまさに検証がそれによって我々を満たすところのこの満足の妥当性の問いである。我々の予測は実際に真になるのか? 検証や反証のあらゆる個別事例において『裏付け』は充足の喜びか不満かによってイエスかノーの明確に答えを与える裏付けは終局的〔final〕である。終局性〔Finality〕は観察言明の機能を特徴づけるのに非常に適当な語である。それらは完全な終わりである。それらにおいて認知の仕事はこの点で果たされる。新たな仕事はそれらがそこで最高潮に達するところの快でもって始まり、それらが後に残す仮説はそれらには関わりを持たない。科学はそれら〔観察言明〕には頼っているのではなく、そこへと導き、それらは仮説が正しく導いたことを示す。それらは実際のところ完全な定点であり、この定点は我々にそこに至る喜びを与え、それはあたかも我々がそこに立つことができないかのようにである」(p. 222-223)。「知識の全ての光はそこからやってくる。哲学者が全ての知識の究極的な基礎を探す時に本当に探求しているのはこの光の源である」(p. 227)。 VII ここでシュリックは「絶対に確実」とはどういうことなのかという「前に延期した」問いを考える。そのためにまず、分析言明を取り上げる。「それら〔分析言明〕を真ならしめるものはそれらが正しく構築されたことそのことであり、つまり我々の恣意的に打ち立てられた定義との一致にある」(p. 223)。「意味を理解するということは問題の言葉の使い方を支配する規則を明らかにすることに他ならないが、言明を分析的なものにするのは明確にそれらの用法の規則である。もし私が語のある複合物が分析的な言明であるか否かを知らないならば、これは私はこの時に用法の規則を欠いているということを意味するにすぎず、かくして私はただ単に言明を理解していないことになる」(p. 224)。「それらの意味を理解することとそのア・プリオリな妥当性を述べることは分析的な言明においては一つのそして同一のプロセスである。対照的に、総合的な主張は、それらの意味を確実にしただけでは少なくとも私はその真偽を知ることにはならないという事実によって特徴づけられる。その真理は経験との比較によってのみ決定される。意味を把握するプロセスはここでは検証のプロセスとは完全に区別される」(p. 224)。対応説は活きている! 裏付けの特徴。直示性、現在性、具体性。上記引用の直後の段落の文。「これには例外が一つだけある。そして我々はかくして『裏付け』に立ち戻ることになる。それらは常に『ここで今しかじかである』という形であり、例えば『ここで二つの黒い点が一致する』、あるいは『ここで今黄色は青に接している』はたまた『ここで今、痛み』等々。それら全ての主張に共通することは、現在の身振りの意味を持つそれらには指示詞が現れるということである。つまりそれらの用法の規則はそれらが出現するところの文を作るにあたって何らかの経験が持たれていると定めているのであり、観察されるものに注意は向けられている。『ここ』、『今』、『このここ』〔this here〕といった語で参照されるものは語について一般的に定義されたことによっては伝達されることができないが、指さしや身振りを伴うことでのみできる。『このここ』は身振りとの繋がりにおいてのみ意味を持つ。したがってそういった観察言明の意味を理解するためには同時に身振りの動作を行い、実在へどうにかして向かうべきである。言い換えれば、私は事実とそれを比較する時にのみ『裏付け』の意味を理解でき、かくして全ての総合的言明の検証に必要なプロセスを実行するのである。他方で他の全ての総合的言明の場合には意味の決定はその言明が真理であることの決定とは分離し、区別されており、観察言明の場合には分析的言明の場合と同じようにそれらは一致している。……両者〔分析言明と裏付け〕は絶対的に妥当である。しかし、分析的、トートロジーの言明は無内容であり、観察言明は我々に実在についての真正な知識の満足を与える」(p. 225)。つまり、分析言明と観察言明は意味の理解と真理の確定が一致している。しかし、真理の確定法は前者がその形成規則への合致であるが、観察言明のそれは総合言明の場合と同じように事実との比較であり、この点では総合言明と一致している。 プロトコル言明と裏付けの違い。「もし私が『ここで今、青』という裏付けを行えば、これは『M.S氏は1934年4月9日にしかじかの時間としかじかの場所で青を知覚した』というプロトコル言明と同じものではない。後者の言明は仮説であり、不確実性によって常に特徴付けられている。後者の言明は『M.S氏は……(ここで時と場所が与えられる)裏付け〈ここで今、青〉という裏付けをもたらす』と等しい。そしてこの主張はその中に現れる裏付けと同一ではないことは明らかである。プロトコル言明においては常に知覚への言及が存在する(あるいはそれらは思考において加えられることになるー知覚をする観察者の同一性は科学的プロトコルにとって重要である)、その一方でそれらは裏付けにおいては言及されることは決してない」(p. 226)。 Schlick, ‘Fact and Proposition’(1935) ・命題と事実の断絶こそ疑わしい この論文の主旨は「知識の基礎」に対する反論に対し、「最も肝心な点、つまり『命題』と『実在』の関係」(p. 65)について論じること。基本的にシュリックは命題と事実は比較できるものであるという立場であるわけだが、ここでの「実在」は教会、木々、雲といったような経験的な対象であり、形而上学的な存在物ではない(p. 66)。 そもそも命題と事実は比較できるのかという問題について、シュリックは命題と事実はかけ離れたものであり、命題は命題としか比較できず、他の何者とも比較できないという性質は神秘的(mysterious)であり、「言明と事実の『断絶』は『強くなった形而上学の結果でしかない』(〔"Les economices scientifiques"〕p. 51)と我々は確信している」(p. 66)。つまり、この「断絶」こそ疑わしいというわけ。 ・照合は規則 「命題とは一体全体何なのか? 私の見解では、それは『それらに属する論理的規則を伴った』音や他の記号の連なり(「文」)であり、その論理的規則とは文がいかにして用いられるべきかの規定である。それらの規則は『直示的』定義で最高潮に達し、命題の『意味』を構築する。命題を検証するために私はそれらの規則が実際に従われているかどうかを確かめるべきであり、どうしてそれが不可能ということがあろうか? 我々の例〔「この大聖堂には二つの尖塔がある」という命題〕では大聖堂と本の中の文を見て『二つ』という記号は『尖塔』という記号と繋がりを持って用いられており、私は大聖堂の塔を数える規則を適用する時に同じ記号にたどり着くと述べることでなされる」(p. 67)。比較ないし照合は事実の構造と命題の構造が同じ構造を持っているということを示すということか。 ヘンペルが「経験的言明は『事実を表現する』と述べることは実質的話法の典型である」と述べていることはその通りであるが、しかしこれは誤謬に導くような実質的話法の不注意な使用ではなく、そのような心配はない。「私のベデカーの中である黒い印が、ある大聖堂は二つの尖塔を持つという事実を表現していると述べることは完全に適法な経験的主張である。このようにして、事実と命題は比較できるという私の見解を純粋に『形式的な』方法で表現するのは簡単である。記号を指示する語と他のものを指示する語は同じ文に現れるであろう」(p. 67)。 ・比較の可否は採用される規則の問題 命題と事実の比較は「事実の構造」に関わるものであるが、事実の構造は無意味であると言う人がいれば、彼はシュリックが用いているのとは異なった言葉の使用の規則を採用していることになる。「文はそれ自体で有意味だったり無意味なのではなく、その中に現れる言葉の用法がそれによって規定されるところの定義と規則においてのみである」(p. 68)。命題と事実が比較されえないということもまた、同様である。 実際問題、比較は実験科学者によって行われている。「ひょっとしたら命題と我々が呼ぶ事実が他の事実と比較されうるにもかかわらず、実際に科学においてそれはなされていないのではないかとあなたは言いたいのかもしれない。このことは科学の純粋に理論的な仕事、例えば自然法則を定式化して、『プロトコル言明』とも比較し、整合的な体系へとそれらを組み込み、帰結を計算する数学的物理学者では真であると私は考えている。彼の仕事は鉛筆と紙によってなされる。しかし私はそれは、観察を行って数学者の予測と――私はあなたの容赦を乞う――観察された事実を比較するのがその仕事である実験科学者にとっては真ではないとこの上なく強く主張する」(p. 68-69)。 ・比較が可能であるというのに反対する見解の心理的起源 「その主唱者たちは科学の内側に地歩を持つような理論指向の人たちである。科学は命題の体系であり、そして――それに気づくことなく――その思想家たちは科学を実在に代入しているのだ。彼らにとって事実は命題に定式化されて彼らのノートに落とし込まれるまでは認められない。しかし科学は世界ではない。言説の宇宙は宇宙の全てではない。それは典型的な合理主義的態度であり、それはここで最も微妙な区別の見せかけのうちに自らを示している。それは形而上学そのものと同じくらいに古く、我々はいにしえのパルメニデスのtauton desti noein te kai ouneken esti noema...という言葉からそれを知るだろう」(p. 69)。 Schlick, ‘Meaning and Verification’(1936) まとめ ・検証可能性は経験的可能性ではなく、論理的可能性。 ・経験は私秘的ではなく、中立的。 ・独我論は無意味。 I ・哲学的難問が生じる理由は言葉の不注意な使用にある 「これらの難問〔哲学的難問〕の源は我々の言葉を操り方を我々がしばしば知らないという事実に見いだされる。我々が我々の語の意義〔signification〕を成り立たせるであろう所定の論理的文法にまずもって同意せずして話したり書いたりする。我々は、ある文に現れる全ての語に慣れ親しんでいるならばその文(つまり、これは命題として理解せよ)の意味を知っているという考え違いを犯す。しかしこれでは不十分である。我々がそれによって我々の語が形成されてそれに適用されるところの日常生活の領域にとどまる限りにおいてそれは混乱や誤りへと導かないが、我々が新しい目的のためにその意義を用心深く設定せずして同じ語を用いながら抽象的な問題を考えようとする時には致命的になるだろう。というのもあらゆる語はそれがその中で設定されたところの所定の文脈内部でのみ所定の意義を持つものであり、他の文脈においては我々が新しい場合での語の用法についての新しい規則を提供しない限り意味を持たず、これは少なくとも原則的にはまったく恣意的になされるからだ」(p. 340)。 シュリックは「それがイングランドの空の三倍青い国に私を連れていってくれ!」という文を規則を無視した語の乱用によるナンセンスの例として挙げている。曰く、この文では「青い」が我々の言語の規則にもとる使われ方がされているからである。「色の数と名前の結合はそれ〔通常の言語の規則〕には現れない」(p. 341)。 文の意味を知るということはその用法、その真偽の条件を知ることである。「文の意味を述べることはその文がそれに乗っ取って使われる規則を述べることであり、これは検証(あるいは反証)されることができる方法を述べるのと同じことである。命題の意味はその検証方法である」(p. 341)。言葉の用法を定める規則をシュリックは(自覚的に)ウィトゲンシュタインに倣って「文法」と呼び、以下の議論は彼からの影響を受けたものだと言う。 ・定義は明示的定義にさかのぼる 「言葉の定義を理解するために我々はあらかじめ説明をする側の語の意義を知るべきであり、先行する知識抜きに動作しうる唯一の説明は明示的定義であることは明らかである。明示的定義への究極的な参照を抜きにして意味を理解する方法はなく、このことは明らかな意味において『経験』や『検証可能性』を意味すると我々は結論づける」(p. 342)。 II ・C・I・ルイスへの批判:理解可能性は一つだけ ルイスは「Experience and Meaning」(1934)においてシュリックの見解を検討・批判した。「ルイス教授は経験的意味要請は『提唱された何らかの概念や主張された命題は一定の指示を持っており、そのことは言葉と論理に関してのみならず、概念の適用可能性を決定したり命題の検証をならしめるところの経験的な品目を明示できるようなさらなる意味において理解可能なものとなるであろう』(前掲書, 125)ということを要求するものだと述べている。ここで、『……ような「さらなる」意味において』という語については、つまり理解可能性の二つ(あるいは三つ?)の意味の区別への正当性はないように私には見える。第一節での所見は、我々の見解では『言葉と論理に関する』理解は問題となっている命題が検証できる方法を知ること『から成り立つ』ということを示した」(p. 343-344)。シュリックの見解では言葉に関する理解(verbal understanding)はただ単に実際にその後がどう用いられているかを知ることではないし、論理的に理解可能(logically intelligible)は本来の命題の外面的な形式(たぶんここでは命題と文が区別されている)についての理解に尽きるものではなく、その文が真であるための条件(検証法)に関わる。 ・ルイスの批判:「今ここで困難」 ルイスが「今ここで困難」(here and now predicament)と呼ぶ困難。ルイス曰く、「決定的な検証のテストがなされない限りはいかなる主張も有意味ではないとしよう。そしていかなる検証も主観の現在の直接的経験を除いては起こらない。だとすればそこに意味が抱かれているところの経験で実際に現在あるものを除いて何も意味を持たない」(p. 345)。 シュリックの反論:検証可能性は今ここでという意味ではない。一つ目の前提(一文目)は検証が「できる」ならば、その主張は有意味であるということを述べており、検証可能であるというのはそれが現在ないし未来に実際にできる、ということを意味していない。二つ目の前提(二文目)は後述される「自己中心の困難」(egocentric predicament)に関連するものである。いずれにせよ、「『検証できる』は『今ここで検証できる』ということを意味してすらいない」(p. 345)。 ・知識が経験的か否かは無意味 文(あるいは知識)は直接的な所与(たとえば感覚与件)を意味している、あるいはそれから知られると言うのはナンセンスである。「もし『知識』という語がこの意味で捉えられるならば、『経験的知識は我々が実際に観察するものに制限されている』〔これはラッセルの主張〕という主張は単なるトートロジー以外の何者でもない」(p. 347)。それに科学や日常生活での「知識」という語の意義深い意味はラッセルが言うものとは異なっている。 III ・検証の経験的可能性 ルイスは「『可能な検証』と結びつきうる意義の広い範囲での全ての試験の無視はその考えを全体として曖昧なままにしている」(p. 347。原論文ではp. 137)、つまりは検証可能性は曖昧じゃないかと主張していることに対してシュリックは可能性を経験的可能性と論理的可能性に分けて検証可能性についての説明を試みる。 シュリックによれば、経験的可能性は自然法則と矛盾しないこと、自然法則との両立を意味する。しかし自然法則の完全で確実な知識は望み得ない以上、経験的可能性には程度が存する。「私はこの本を持ち上げられるだろうか? 確実にそうだ!―このテーブルは? できると思う!―このビリヤード台は? できるとは思わない!―この車は? 確実にできない!―これらの場合での答えは、過去に行われた実験の結果として『経験』によって与えられる。経験的可能性についての判断は経験に基づき、しばしばむしろ不正確なものであろう。可能性と不可能性の間のはっきりとした区切りはあるまい」(p. 348)。 ・意味は出来合いの文から発見されるものではなく、付与されるものである 検証可能性は経験的可能性ではなく、論理的可能性であるのを主張するに当たり、シュリックは以下の見解を論駁する。それは、文の意味は(まるで殻の中の実のように)その文に宿っていたり隠されていて、その意味は様々な方法で(殻を割って)発見されるものだ、というもの。しかし、シュリックによればそうではない「……命題は『出来合い』に与えられることはできず、意味は文の中に宿っていてそこで発見されるのではなく、文に付与されるべきものなのだ。そしてこれは1節で説明したように、我々の言語の論理的文法の規則を文に適用することによってなされる。これらの規則は『発見される』ことができる自然の事実ではなく、定義行動によって定められる規定である」(p. 348-349)。意味が定義によって与えられるものである以上、出来合いの文に元から意味が宿っているわけではないし、。「我々がある命題が『真』知ろうとする(これは科学者の関心事である)時には〔検証を許すところの〕経験的諸状況はまったくもって重要であるが、それらの状況は命題の『意味』(これは哲学者の関心事である)には影響を及ぼさない」(p. 349)。シュリックによれば、この点に関してはルイス(p. 142)も同意しているようである。以上から、検証可能性とは検証の論理的な可能性であるとシュリックは結論づける。 ・論理的可能性は規則への違反である 論理的に不可能なものは無意味である。シュリックによれば、(矛盾しない限り)あらゆる事実や過程は記述可能であり、この文は我々の言語の文法に規則に従っているものでもあり、とりもなおさず論理的に可能である。シュリックが挙げる一例では「「その婦人は緑に輝く真っ黒な色のドレスを着ている」、「その子供は裸だが、白く長い寝間着を着ている」「その鐘塔の高さは100フィートであり且つ150フィートである」など。逆に文法にもとる文は何の事実も記述することはできず、論理的に不可能なものを表しており、ひいては無意味である。「表現可能性と検証可能性は一つにして同一のものである」(p. 353)。シュリックによれば矛盾した文は無意味ということか!? 反心理主義:論理的不可能性は考えられないことではなく、定義と規則にもとるということである。以前の経験主義者(ミル、スペンサーが代表者)は論理的諸原理を思考を支配する心理的な法則と考え、その見解では論理的に不可能な文は考えられない(対応する思考内容や心像がない)ものだということになるが、シュリックによれば論理的不可能性はそういうものではない。論理的に不可能な文がそうなのは両立不可能な結合や使用、とりもなおさず規則にもとる結合や使用がなされてるからである。 文法は人為的なものである。「文法規則は自然のどこかで見つかるものではなく、原則的には人間が作るものであり、恣意的なものである。そういうわけであなたは文を検証する方法を『発見する』ことによってその文に意味を与えることはできず、如何様に『規定する』によって検証はおこわれる『べき』である」(p. 351)。 ・想定反論:経験的意味の要請と言いつつもそれ自体経験的ではないではないか 想定反論。シュリックが自らの見解を「経験的意味の要請」と呼びながらも意味と検証は経験的条件ではなく純粋に論理的な可能性に依存するのは矛盾ではないか、「もし意味が経験の問題であるならば、いかにして定義と論理の問題でありうるというのか?」(p. 353) シュリックの答え。「経験」という語には比較的新しい用法である「直接的所与」、「『経験豊富な旅人』〔experienced traveller〕と言う時の意味、つまり彼の行動にあたって精通しているだけでなく、どうやればそれから利益を得られるかを知っている人という意味」(p. 353)(こちらはヒュームやカントと同じ用法だという)という二つの意味があり、「経験」という語は反論では最初の意味、シュリックの見解において検証可能性が経験から独立だと言われる時には第二の意味で用いられている。それゆえ、シュリックによれば矛盾はない。「検証の可能性は何らかの『経験的真理』、自然法則あるいは他の真なる一般命題に依拠するのではなく、もっぱら我々の定義、我々の言語に定められ、時によって恣意的に我々が定めうる規則に依拠している」(p. 353)。そういうわけなので言語の規則は自然の斉一性をも前提するものではなく、経験と論理は対立するものではない。 IV 以下の節では個別の形而上学的問題に検証可能性の理論が適用される。 ・死後の生についての仮説は検証可能である ルイスからの引用。「不死性の仮説は明白な意味で検証不能である。……もし科学的に検証可能なものだけが意味を持つとすれば、この見解は適切にこのようなケースである。それは科学によって到底検証できそうになく、科学がもたらしうる観察も実験も、それを反証する消極的な結果もない」(p. 356-357。原論文ではp. 143)。 シュリックが応答するには、死後の生についての問いはその中に出てくる語を経験的に定義すれば形而上学的ではなく、ひいては検証可能である。 V ・経験の非一人称性 「原初的経験は完全に中立的であり、あるいはウィトゲンシュタインが折に触れて言うように直接的所与は『所有者を持たない』という事実に最も強い強調が置かれるべきである。元々の経験は『与えられた全ての経験の質や身分、特徴を持ち、それらは「一人称』的な形容詞によって指し示されるようなものである』(前掲書, p. 145)ということを真正の実証主義者たちは(マッハら共々)否定し、彼は『自己中心的困難』をおそらく深刻に取りえない。彼にとってこの困難は存在しない。原初的経験を一人称的な経験では『ない』と見ることは、哲学がその最も深い諸問題の明晰化を目指すべきであるところの最も重要な一歩の一つであるように私には見受けられる」(p. 359)。 ・心身問題の原因は「取り込み」である 全ての所与が「私の」身体に依存するという事実から(素朴な人たちが使わないような)「知覚」なる概念が生まれる。この概念は知覚する主観と知覚される客観の区別を含意し、身体も知覚を受ける側になる以上、主観は「自我」や「精神」、「意識」といった新たな主観に置き換えられる。「意識や精神を身体内(『頭の中』)に位置づけるという誤り、R・アヴェナリウスが『取り込み』〔introjection〕と呼ぶ誤りがいわゆる『心身問題』の困難の主な根元である。取り込みの誤りを避けることで我々は独我論へと通じる観念論的誤謬をも同時に避ける。取り込みが誤り『である』ことを示すのは簡単である。私が緑の草地を見る時、『緑』は私の意識の内容であると明言されるが、それは私の頭の中にはないのは確実である。私の頭骸の中には脳以外のものはなく、もし私の脳に緑色の場所が出現するなら、それは明らかに草地の緑ではなく、脳の緑である」(p. 360)。 ・経験の私秘性への批判、シュリックの理論は自己中心的困難にはあたらないこと 命題P:私は身体Mがけがをした時にのみ痛みを感じる。 命題Q:私は私の痛みだけを感じる。 仮にこの世界が他人の感情や痛みを私が感じるような世界(経験的には不可能だが、論理的には可能な世界)であると仮定し、命題Pが偽であるとすれば、Qには二通りの可能性がある。一つ目はQがPと同じ意味を持ち、Qもまた偽であり、これは他の真なる命題、 命題R:私は私の痛みと同様に他の誰かの痛みを感じることができる。 と取り替えられるべきである、という場合である。結論から言えば、この場合、独我論への魅力とそれを主張する口実は失われる。身体Mにはあらゆる所与がそれに依存するという特権はなくなって他人の身体Oも同じ権利を主張できることになる。外的世界の実在への哲学的懐疑は私の身体の知覚によってのみ外的世界は知られうると考えることから起こるものであるが、目下のような場合には他人も同権である以上、所与を「私のもの」と呼ぶことに正当性はなくなる。したがって、自己中心的困難は消滅する。 しかしこれは仮想の世界でのことではないかと言われるかもしれないが、「私は答えて言うが、二つの世界の間の相違は経験的な命題、すなわち我々の経験がそうである限り実際の世界で真であるところの命題Pだけであるという事実にのみ自分の議論を基づかせることを私は望む。それ〔命題Pの否定〕は既知の自然法則と両立不可能ではないように見えるし、それらの法則がPを偽とする可能性はゼロである」(p. 363)。 シュリックは私秘性の否定はP云々に基づくものではなく論理的に不可能だと言いたいのだと思うが、所与の私秘性の否定という結論が既知の事実に対する知識とPの否定からの結論だという可能性は捨てきれないように思え、今一つこの点が判然としない。 ・独我論はナンセンスである 第二の場合、すなわちPとQが違う意味を持つ場合。「私は自分自身の痛みだけを感じることができる」をより一般的にすれば「私は自分自身の意識の所与のみを感知できる」という意味で解釈する観念論者や独我論者にとってこれは必然的で自明な真理であり、いかなる経験もこれを反証できない。この解釈を前提とすれば、先の仮想の世界においては「私はOの痛みを感じる」、「私の痛みはOの身体にある」と言えることになる。とはいえ、シュリックはこの(観念論者の)文は偽ではありえないと言う。「想像上の新しい状況に我々の言語を採用するちょうど異なった方法であり、言語の規則は原則的に恣意的である。しかしもちろん我々の語のいくつかの使用法は実践的でうまく採用されるものとして自己を推奨するだろうし、他の使用法は間違いとして難じられるだろう」(p. 364)。 独我論者の場合、私が感じる痛みは「私の」痛みである以上、 命題:私は「私の」痛みのみを感じることが「できる」。 と言われるわけであるが、他の身体Oの痛みも「私の痛み」となる以上はここでの「私の」と「できる」はQの場合と同じ意味にはなっていない。独我論では「私の」に対して「あなたの」、「彼の」とは言い得ない。「ある馬が白く『ない』というのが論理的に可能でなければ白馬と言うのは意味をなさないのと同じように、ナンセンスを語ることなくして『彼』や『彼の』によって我々が『私』や『私の』という語を置き換えることができない限りはそれらの語に関する文は有意味にならない。しかしこういった交換は自己中心的困難や独我論的哲学を表現するようにみえる文では不可能である」(p. 365)。この「できる」は経験的不可能性でも論理的不可能性でもない。「私の」と「できる」は何も意味してない余計な語になっている。そして私が感じる痛みは私の痛みであるのはトリヴィアルであり、命題Tはトートロジーである。「言い換えれば、『私は他の誰かの痛みを感じることができる』は偽ではなく、『ナンセンス』(文法的に禁じられている)である。このトートロジーはこのナンセンスの否定であるためにそれ自体、何らかのことを主張していないが語の用法に関する規則をただ示しているという意味で意味を欠いている。……それ〔命題T〕はまったく何も述べておらず、世界についての解釈も世界についての意見も表現していない。それは風変わりな語り方、『私の』(あるいは『私の意識の内容』)という接頭辞を例外のないあらゆるものにくっつけるぎこちない言語を導入するにすぎない。独我論は、その開始点、自己中心的困難が無意味であるためにナンセンスである」(p. 364-365)。 ・「私の」と所有者は別の者に交換できてこそ有意味 「『所有者』という語の文法は『私の』という語のそれに似ており、ある物に対してその所有者を『変える』ことが論理的、つまり所有者と所有される対象の間の関係が経験的であって論理的でない(『外部的』であって『内部的』でない)のが可能な場合にのみ意味をなす。したがって『身体Mはこの痛みの所有者である』あるいは『その痛みは身体MとOによって所有されている』とも言える。第二の命題はひょっとしたら我々の現実世界で真理として主張されることは決してないかもしれないが(それが自然法則と両立不可能だと私は了解できないないものの)、両者は意味をなす。それらの意味は痛みと身体の特定の状態との或る依存関係、簡単にテストできるしかじかの関係の存在を表現しているものである」(p. 366)。 ・経験は所有者を持たない 「したがって我々が我々の身体を所与の所有者ないし担い手――これらはむしろ誤解した表現に見えるが――と呼ぶのを選ばない限り、我々は所与は担い手も『所有者も持たない』と言うべきであると我々は理解する。経験のこの中立性――観念論者によって主張される主観性に反対するものとしてのもの――は真の実証主義の最も根本的な要点である。『全ての経験は一人称の経験である』という文は、全ての所与は或る点において私の身体Mの神経系の状態に依存するという単純で経験的な事実を意味しているか、無意味であるかのどちらかである」(p. 367)。 ・外的世界の実在についての問いは無意味な問いである 人類がいなくとも外的世界は実在するか、より具体的には「全ての精神が宇宙から消滅すれば、星は従来の軌道通りに進む」と言えるのかは確かに検証不可能だが、これは経験的に検証できないだけであって論理的に不可能なのではない。「『精神』なき検証は、我々が主張した経験の『中立的』、非人称的性質のために論理的には可能である。基礎的経験、配列された所与の単なる存在は『主観』や『自我』、あるいは『私』や『精神』を前提としない」(p. 369)。そういったものに自然法則や世界の様態は依存していない。 星の軌道は火山が噴火しようとも、中国で政変が起ころうとも、いわんや人類が死滅しようとも変化を被らないし、この点で噴火も政変も死滅も違いはない。星の軌道、より一般的には外的世界の存在は人間の有無とは無関係なのだ。「私の死後も世界は存在するだろうか?」は「星の存在等は人類の生死に依存しているのか?」と解釈しない限りは無意味な問いである。 「市井の人がそう理解しているような、世界についてのナイーブな描写は完全に正しいものである。哲学的な大問題の解決はこの元々の世界観に立ち返ることに存しており、それらの難しい問題は誤った言語による世界の不十分な記述からのみ生ずるものなのだ」(p. 369)。 ポパー『推測と反駁』 序章 知識と無知の根源について 無知の策謀説:「無知を単なる知識の欠如と解釈するばかりではなく、何らかの有害な力の働き、すなわち、われわれの精神をゆがめ、毒して、知識に反抗する習性をうえつけるような、不純で悪しき諸結果の根源、と解釈する教説」(p. 4)。 認識論上のペシミズム(人間を愚行や邪悪から救済するためのは強い権威が必要)とオプティミズムはそれぞれ伝統主義と合理主義を対応する思想として持つ。 真理は自らを開示するという真理の自己開示説では、なぜ人は誤るのかを説明するために策謀説が唱えられるが、真理の自己開示説もそこから引き出された策謀説も神話である。 プラトンは真理の自己開示説と無知の策謀説の悪しき結果を体現する一例である。真理の自己開示説は明白な真理を見ない者は悪魔に取り憑かれていると信じる狂信者を生み出し、何が真理であるかを権威主義的に押しつけようとする。 デカルトもベーコンも認識論的にはオプティミストで、真理の自己開示説を認めていたが、誤謬を誤った偏見の悪しき力のせいにし、精神を偏見から清めることで真理が見いだせると考えた。彼らはアリストテレスやスコラ哲学の権威を攻撃したものの、従うべきものを一方は感覚、他方は知性という権威に置き換えただけだった。これは彼らが「われわれの知識が人間の――すべてあまりにも人間的な――知識であるということを、同時にそれらが必ずしも個人の気まぐれや恣意ではないことを示しながら、認める」(p. 26)という問題の解決に失敗したことを意味する。 ・意味と真理の類比に基づく本質主義 陳述の真理性はその起源に基づくという(ポパーが攻撃する)見解は意味と真理の類比に基づく「本質主義」のたまものである。この本質主義とは、「定義とは名辞の内在的な本質ないし本性を述べた陳述である。それは、同時に、語――本質を指示する名称――の意味を述べる」(p. 34)というもの。この本質主義に基づけば、起源が語の真の意味を確定できれば、同時に起源は語の真の定義をも確定できるということになり、事物の本質や本性を確定・記述し、ひいては論証や科学的知識の基礎を成す原理を確定できることになる。 ・あらゆる観察は理論を前提としているので観察には知識の正当化はできない 知識の正当化・根拠づけは観察に基づくという見解の批判。あらゆる観察は理論的知識を前提としていて、正当化に必要な知識は観察内容だけではない知識をも含む。「あらゆる証人は、その報告を行うに際して、常に人物、場所、事物、言語の用法、社会的慣例などに関する自分の知識を十分に用いなくてはならない」(p. 39)。そのため、根拠づけの無限後退が起こり、問いただすべきことが雪だるま式に増えてしまう。 また、観察による知識の根拠づけを目論む「観察主義者」には疑いを持たれた主張に対してはその出所を問うことで根拠づけやテストを行うという特徴がある、しかし、普通には主張の出所など問わずにテストが行われてその主張から独立した確証が得られさえすれば出所など問わずに受け入れているため、観察主義者は常識をあからさまに破っている(p. 40)。「一般に、われわれは、言明や情報の妥当性をテストするのに、その根拠や起源にまでさかのぼったりはしない。もっと直接的に、言明されている事柄――言明されている事実そのもの――を批判し、検討することによって、テストするのである」(p. 43)。 ・知識を根拠づける決定的な権威はなく、問いの立て方が間違っている 知識にはあらゆる種類の根源があるが、そのいずれも権威を持たない。知識を起源に遡って根拠づける哲学説(もちろん観察に訴える経験主義者を含む)の誤りは起源の問題と妥当性の問題を十分に区別していないということである。知識を根拠づけるものを求める問いは権威主義的な回答を要求する問いである。 伝統的な認識論における(それまでその問いの妥当性を疑問視されなかった)知識の起源の問い(「われわれの知識の最良の根源は何か――われわれを誤謬に導かず、疑いのあるときに訴えるべき最高の法廷としてわれわれが赴くことができ、かつ赴かねばらないような、最も信頼すべき根源は何なのか」(p. 44))は、「誰が支配すべきか」という伝統的な政治論の問いと類比的である。後者において用意されうる「最良の者」、「最高の賢者」、「人民」、「多数」といった解答はいずれも権威主義的な解答である(そして理想的な統治者など存在しない)というような点で両者は同じである。問いの立て方が間違っているのである。そうではなく、「悪しき統治者、無能な統治者(……)が社会にあまり損害を与えることができないようにするために、われわれはどのような政治制度を組織しうるか」(p. 44)であり、同様に認識論においても、「いかにしてわれわれは誤謬を検出し、除去することができるか」という問いに置き換えられるべきである。そしてこの問いへと答えは、他人と自分の理論や推量を批判することによってなしうる、というもので、「批判的合理主義」の態度である。 第一章 科学――推測と反駁 ・境界設定あれこれ 何にでも当てはまる理論は反証できない理論・疑似科学(マルクスの歴史理論、精神分析、アドラーの個人心理学)で、よい理論即ち科学的な理論は反証可能性を持つ。 ポパーは反証可能性を境界設定問題への答えとして提出したが、ウィーン学団からは有意味性の基準と誤解され、彼ら(というか論考)の見解では検証理論の考え方では有意味性、検証可能性、科学的正確が全て一致するものとなっていた。それどころかポパーにとって意味基準は疑似問題である。 ・法則を信ずるという我々の習慣は頻繁な反復の産物である、というヒュームの心理学の反駁と、それに代わる理論としての試行錯誤の理論 (a)反復から生ずる典型的な結果は意識的な期待へ法則への信念ではなく、無意識化や規則を忘れることである(例えばピアノの反復練習)。 (b)法則に対する信念は反復から生じるのではなく、反復に先立ってすでに始まっている。(c)法則に対する信念は世界に解釈・規則性を押しつけようとする性向あってのものであり、この性向は類似性に基づく反復に先んずる。反復によって解釈を説明しようとすれば無限後退に陥る。 ヒューム理論に代わってポパーは試行錯誤の理論を主張する。「すなわち、われわれは、反復が自分たちに規則性を印象づけたり押しつけたりするのを受動的に待っているのではなく、積極的に規則性を世界に押しつけようとするのだ、ということ。われわれは世界の中に類似性を発見しようとするし、世界を自分たちの発明した法則によって解釈しようとする。前提を待たずに、結論へと飛躍するのである。万一観察によってその結論が誤っていることが示されれば、それは後に放棄されなくてはならなくなるかもしれない。〔改行〕これは試行錯誤の理論――推測と反駁の理論――であった。……すなわち、科学的な理論は観察の要約ではなくして、発明であり――試練をうけるために大胆に提示された推測であって、観察と両立しなければ消去されるものなのである。そして、観察とは、偶然行われることなどほとんどなく、原則として理論を試そうという確たる意図を伴って遂行され、できれば決定的な反駁例を得るために行われるものなのである」(p. 78)。 ・観察には期待や問題意識が先行する 科学は観察から理論へ進むのではなく、観察には期待、関心、観点、問題(問題意識)が先行する。いっそう原始的な理論や神話に遡ることで「生得的な期待」(p. 82)(例えば、赤子は乳をもらい、保護され、愛されることを期待する)を見いだすことができる。こうした期待のうちで最も重要なのは規則性を見いだそうとする期待であり、これは心理的にも論理的にもア・プリオリである。しかしこの期待はア・プリオリに妥当するわけではなく、裏切られることもある。 独断的思考は規則性を見いだそうとする性向から生じ、期待が不適当な時でも期待にしがみつくものであるのに対し、批判的態度は期待や理論を修正し、時には放棄する。 ・「帰納に関する論理的な問題」 帰納法が科学者たちによって信じられているのは、帰納法が境界設定の基準だと信じられているから。ポパーによれば、境界設定の問題と帰納の問題は同一のものである。 「帰納に関する論理的な問題」は(a)法則の観察や実験による正当化は不可能であること、(b)法則は材料が乏しかろうともいつでもどこでも提案され用いられていること、(c)「経験主義の原理」(「科学においては観察と実験だけが、法則や理論を含む科学的言明の受容ないし排除を決定してよい」(p. 92))という三点が一見して互いに衝突するように見えるということにある。しかし、科学の法則や理論が断定的なものに過ぎない仮説だと認めれば、これらは衝突しない。 ・観察命題から理論への飛躍はいかにしてなされるのか? それは観察命題によってではなく、問題状況によってである。理論は(問題状況における)観察命題を説明するものであり、とりわけよい理論への飛躍は反証のテストによってなされる。 自然法則に対する信念の基盤は、それに対する批判が不成功に終わってきたということ以上のものではない。 ・科学は高い確率を目指すものではない 価額が高い確率を目指すというのは「検証主義に特有の拡張」で、科学者は高い確率ではなく説明を求める。説明能力の低い理論ほど言っている内容が少ないから確率が高くつまらない理論であり、高い理論ほど言っている内容が多いから確率が低く、興味深い理論である。ただ、理論を検証できない場合の「代償」としての確率の援用ならよく、帰納もある程度の効果を持つ。 第二章 哲学的諸問題の性格と科学におけるその根源 ・哲学的問題を疑似問題と解することの帰結 ラッセルは言明を(1)真なる言明、(2)偽なる言明、(3)無意味な言明に分け、この区別を論理的パラドクスの解消のために用いた。ウィトゲンシュタインはこれをさらに徹底させ、哲学的問題と言われているものは(1)純粋に論理的ないし数学的で、ひいては哲学的ではない問題、(2)事実に関し、経験科学に属する問題、(3)(1)と(2)の結びついたもの、(4)無意味な疑似問題に分けた。しかし、ポパー曰く、科学や数学の古典のうちで(4)やトートロジーを含まないものはないであろうし、「もしヴィトゲンシュタインのような人が解析学の開拓者たちに対して自己の武器を行使し、彼らの同時代の批判者たち(基本的には正しかったバークリーのような)の失敗した場面でそのナンセンスを消去するのに成功していたならば、思想史上最も魅力的で哲学的に重要な発展の一つを窒息させていたことであろう」(p. 116)。 ・純粋な哲学的問題などない まともな哲学の問題は哲学外の問題に基づいており(これがポパーの第一のテーゼ)、ウィトゲンシュタインの攻撃するような哲学を生み出してきたのは「一応の哲学の教授法」(p. 119)である(第二のテーゼ)。昔の偉大な哲学者の本を読み、自らをこれに適応させ、太刀打ちしようとするあまり奇妙な言語や難問に拘束されるのである。 ウィトゲンシュタインの批判は哲学外部の問題を忘れて純粋に哲学をしようとすることに対しては妥当だが(つまるところ純粋な哲学的問題などないというわけ)、非哲学的(例えば、科学的、数学的)要素を含んでいるとしても、哲学者が論じてきた問題や理論に密接に結びついているのであれば、「哲学的」と呼ぶのは正当である。 さりとて、ウィトゲンシュタインの見解は、まともな言明(問題)が事実に関するものと論理的・形式的なものに二分されるという見解に基づいているが、これはあまりにも単純である。 ・哲学的問題はあるという例その1:変化と幾何学をめぐる問題 哲学的問題は疑似問題であるという見解に対し、ポパーは哲学的問題は確かにあると主張する。例えば、プラトンの形相理論は哲学外の脈絡でしか理解できないもので、これはあらゆるものは本質的には数であるというピュタゴラス学派の理論と密接に結びついている。つまり、「換言すれば、『形相』は数または数のラティオなのである。他方、ものの形状のみならず、ハーモニーとか『直線性』とかの抽象的な性質もまた数である。かして、数こそあらゆるものの合理的本質なり、という一般理論に到達する」(p. 126)。 一-多 奇-偶 …… 静(存在)-動(生成) 決定-非決定 …… 直-曲 右-左 光-闇 善-悪 ピュタゴラス主義のこの「反対物の表」をプラトンはほとんど修正することなく受け入れており、そのうち不変の世界こそが真の世界だと彼は考えた。「実際多少大ざっぱに言って、反対物の表の『善』の側が一つの(不可視の)宇宙、高次の宇宙、あらゆるものの不変かつ決定的な『形相』の宇宙を構成しており、真にして確実な知識(エピステーメー=スキエンティア=サイエンス)はこの不変で決定した世界だけについて成り立つのに対し、われわれの生き死にする変化と流転の可視的世界、発生と破壊の世界、経験の世界は、その真なる世界の一種の反映ないし模像にすぎないのだ、という学説として記述されよう」(p. 127)。 デモクリトスの基本問題は、変化を合理的に理解するという問題であった。パルメニデスは、運動を合理的に理解することはできないために運動は不可能なものであって見かけ上のものでしかないと考えた。ポイントは、あるものXが変化しているとすると、変化の前も後も同じXであり続けなければならないが、変化を被ったものは同じXだとは言えないという矛盾である。これに対し、変化しないものは世界ではなく、原子であると考えて「デモクリトスはパルメニデス的な不可分の閉塞空間を縮小し」(p. 130-131)、変化を生成消滅によってではなく原子の再配列によって説明した。デモクリトスの意義は、「変化の基体としての実態に関するアリストテレスの理論は支配的になるが、それが不毛であることが判明して、変化はすべて運動によって説明されなくてはならないというデモクリトスの形而上学的理論が、われわれの時代に至るまで、物理学の中で暗黙裡に受け容れられた研究プログラムだった」(p. 131)。このように、哲学的問題の解決の努力は科学の役に立っていたわけである。 デモクリトスの理論は圧縮可能性、堅さや弾力の程度、希釈や凝縮、分離、燃焼など経験的に知られていた物質の諸性質を説明するための理論的枠組みを与えたのに加え、演繹的な理論や説明は経験と一致していなくてはならない(現象を救う」のでなくてはならない)という方法論上の原理の確立、理論は思弁的でも構わない(世界は論証的思惟によって理解されなければならないが故に経験世界とは異なっていてもよい)が、思弁的理論の受容・拒否を決定するのは経験主義的な「基準」でもよいということを示したという点で重要性を持つ。 「不合理なもの」、即ち比を出せない無理数はデモクリトスにもピュタゴラスにも知られていなかった。しかし両者の理論も「すべての測定が究極的には自然の単位を数えることであり、したがっていかなる測定も純粋な数に還元可能でなくてはならない、という学説に基礎づけられていた」(p. 134)ために無理数の存在は致命傷になった。現に無理数の存在はピュタゴラス派の方法、即ち「自然数に関する算術」によって宇宙論は幾何学を導き出そうとする望みを崩壊させた。 自然数に関する算術に基づいた自然理論の崩壊を受け、プラトンは幾何学の方法を発展させ、これを自然数に関する算術に代えようとした。例えば、プラトン体の発見、彼の学派から『原論』が生まれたこと(『原論』は純粋幾何の演習ではなく、「世界に関する理論のオルガノン」(p. 141)を意図したものだった)。プラトンは『ティマイオス』で二等辺直角三角形(1:1:√2)と半等辺直角三角形(1:2:√3)が物体を構成する基本粒子であると考えたが(ポパーは、プラトンがこの二つの三角形を選んだ理由は、彼があらゆる無理数は有理数に√2と√3の倍数を加えて得られると信じていたらだと推測する)、これは「種としての幾何学的な『形相』がピタゴラス派の算術的な形相数の世界へ取り入れられていることを意味している」(p. 144)。「かかる構成の動機が、不合理なものを世界の最終的な構成要素へと組み入れることによって原子論の危機を解消しようとする試みだったことは、ほとんど疑いない。いったんそういうことになれば、不合理な距離の存在といったことから生ずる困難は克服されてしまう」(p. 144)。 「プラトンの形相理論も物質理論も、幾何学が算術に先行していなくてはならぬことを無理数が要請している、というかれの認識に照らしてみれば、ともにそれぞれかれの先駆者であったピタゴラス学派およびデモクリトスの理論の再陳述であったことが確からしく思えるのである。かかる解説を奨励することによって、プラトンは、かつて構成された最も重要な、影響力の大きい演繹体系たるユークリッドの体系の展開に貢献した。幾何学を世界に関する理論として取り上げることによって、かれはアリスタルコス、ニュートン、アインシュタインに知性の道具箱を提供した。ギリシア原子論の惨禍は、かくして見事な成果へと転換されたのである。しかるに、プラトンの科学的な関心は一部忘れられている。かれの哲学的な問題を生み出した科学の問題状況もほとんど理解されていない」(p. 146)。 ・哲学的問題はあるという例その2:カントの純粋理性批判 ニュートンの天体力学は確実で真実、疑いえず、証明可能な知識だとカントの時代には見なされていたが(そしてカントもまたそう思っていた)、ヒュームによってカントはこの「独断のまどろみ」から覚まされた。あらゆるものが不確実だとすれば、なぜニュートンは真なる知識(エピステーメー)に到達できたのか、「いかにして純粋な自然科学は可能であるか」をカントは問うた。これに対する彼の答えはいわゆる「コペルニクス的転回」だが(我々は感覚所与の受動的な受容者ではなく、法則性を押しつける消化者である)、これはあまりにも多くを証明しようと目論むあまりあまりにも多くを証明しすぎており、純粋な自然科学は可能どころか必然になってしまい、なぜニュートン以外の人はこれを発見し得なかったのかという問題が出てきた。 これは「カントの考えの明らかにばかげた帰結」(p. 151)だが、カントの考えにも真理の一要素があり、彼の問題は「いかにして成功する推測が可能であるか」という形を取るべき問題であった。この問題へのポパーの答えは以下の通り。カントの言うとおり我々は感覚の受容的な受容者ではなくその能動的消化者ではあるが、時には意識的に自由に反応するものであり、説明に対する渇望、飽くことなき好奇心がある。そして試行錯誤によって説明をテストし、運が良ければ(大多数は失敗するが)「現象を救う」ような理論に行き当たることがある。 第三章 知識に関する三つの見解 ・道具主義 ガリレイの理論をベラルミノは「仮説」(あるいは計算の道具)に他ならないものと(もっとも彼はガリレイの理論が仮説である限りでは教えられることに反対しなかったのだが、ガリレイは自分の理論を世界の真なる記述と考えていた)、バークリーはニュートンの理論を「数学的仮説」(あるいは計算の道具)でしかないと主張した。これらベラルミノやバークリーが始めた物理学観、即ち「道具主義的見解」は今(ポパーの時代)では物理学の「公式見解」と呼んでもいいものになっている。この道具主義の勝利は、量子論の形式的体系を解釈する際に生じた困難に道具主義を用いて(「その場しのぎ」ではあったが)対処したことによってもたらされた。 道具主義に対抗してポパーは科学は知識を増やし、人間の自由を助長するものであり、既知のものを未知のもので説明しようとすることであり、単なる道具以上のものであると考える。道具主義、ポパーの見解、そして本質主義が表題にもなっている三つの見解である。 ・本質主義 ポパーが言うところの本質主義は、(1)「科学者は世界……の真なる理論は記述を見出すことを意図し、そしてこの理論や記述は観察可能な事実を説明するものでなければならない」(p. 164)、(2)「科学者はそのような理論の真理性を、あらゆる合理的な疑いをこえて、最終的に確立するという目標を達成できる」(p. 165)、(3)「最もすぐれた真に科学的な理論は、事物の『本質』ないし『本質的性質』――現象の背後に横たわる実在――を記述するものである」(p. 165)という三つの主張から構成される。 道具主義者は本質を発見することはできない(そもそも存在しないか、物自体的なものと考えるかのバリエーションはある)と考えて(3)、ひいては(2)を斥ける(科学が仮説ないし道具である以上はそれが真たりうるものではありえない)。 ポパーもまた(3)は斥けはするが、別の理由によってである。彼は隠されたもの(本質)はあり得ないという道具主義の見解に反対しはするが、隠されたものの否定はしない。そして、それにとって実りある問いの提起が妨げられるとして、科学は究極的説明(それ以上の説明の必要がない説明)を目指すものであるという主張には反対する。 ・理論は道具にあらず 道具主義を支持するバークリーの理論では、「引力」は観察できず、ニュートンの理論は記述的内容を持たず、ひいては無意味である。しかしこれでは潜在的傾向を表す語や表現も無意味になってしまう。 道具主義は抽象語や潜在的傾向語の記述的機能を否定するが、大部分の観察は多かれ少なかれ間接的で、あらゆる普遍語は潜在的傾向性を表している。ポパーによれば潜在的傾向とはある状況下でしかじかの振る舞いをすることであり、例えば、「こわれうる」が潜在的傾向性を表しているように「こわれている」もそうである。観察語と理論語の間には判然とした区別はなく、語が理論的であるかどうかは程度問題である。 道具(とりわけ「計算規則」としての理論、技術)と真正の理論は、後者に対しては反証によるテストが試みられるのに対して前者はそうではないという大きな違いがある。それゆえ理論を道具として解釈する見解は間違っている。確かに道具もテスト(例えば破壊テスト)を受けはするが、それは適用の限界内で使用するためであり、あるテストに受からなかったとしても、反証された理論のように、まるごと放棄されるわけではない。道具は反駁されないが、理論は反駁を受ける。 科学の進歩は反証の試みにとって得られるものであるため、「反証を無視した適用を強調する」」(p. 181)道具主義は本質主義と同じく蒙昧主義的である。 第三の見解、即ちポパーの見解では、科学理論は推測(検証はできないが、反証のテストには欠けられる)であり、実在の発見・説明を目指すものでもある。理論の推測的性格、即ち不確実性は、その理論が真で、実在的な事態を記述している「かもしれない」ということを否定しない。「理論がテスト可能ならば、それは、ある種の出来事が起こりえないということを含意し、したがって実在について何らかのことを主張しているのである」(p. 187) 第四章 合理的な伝統論に向けて ・合理主義的伝統 合理主義的伝統では決定論と「観察主義」が無批判に受け入れられている。前者については合理主義者は、非決定論は自由意志の教説、ひいては魂と神の恩寵に関する神学的議論へと巻き込むものであると信じているが、その心配はないし、その他の点についてもむしろ決定論は捨てられるべき理由を持つ。 社会科学の課題は行為の意図せざる(しばしば望まぬ)結末を知り、予知することである。その点に関して「社会の陰謀理論」(トロイア戦争が神々の陰謀だとホメロスが考えたのと同じように、何か良くないことが起こるのは特定の人や集団の陰謀によるものであるという考え。「それは、神を捨てるかわりに『神の地位にいるのは誰か』を問うことから生じる」(p. 199))は誤っており、むしろたいていの場合に物事がなぜ陰謀通りに進まず、思い通りにならないのかを説明することが問題である。 前科学的な神話に対する別の神話として(ギリシアの哲学者たちによって)科学は生じたが、ここには神話に対して批判的態度を取り、これを議論するという「新しい伝統」があった。この伝統の存在によって科学は神話から区別される。 ・科学を発展させるのは観察ではない 観察データの収集・蓄積は科学の発展をもたらす原因なのではなく、神話の真理性を探るために新しい観察が目論まれるので、むしろその結果である。「観察の機能は、理論を産みだすことではない。それが果たす役割は、理論をしりぞけたり、除去したり、批判することにある」(p. 207)。 ・規則性を与えることが伝統の演ずる役割である 規則性を与えること(規則性がなければ環境に対して合理的に反応することができず、不安と恐れを感じる)が(社会的)伝統の演ずる役割である。これは科学理論が混沌に秩序を与えて予測を可能なら閉めることに似ている。 ・一から合理的社会を作るのは無理 古い全てを一掃してから合理的社会を作りたがる社会改革家が多いが、その青写真にも古いものが含まれており、古いものに追っている部分がある。そのために一から合理的社会を作ることは不可能であり、既存のものを修正していくというのが合理的方法である。 ・伝統と制度の類似点と相違点 伝統と制度は大部分の点において似ているが、「制度よりも伝統の方が、多分、ここの人々やその高悪感情、希望、恐れと密接に結びついている」(p. 216)。両者の違いの一つは、制度が「社会制度の両面価値」を持つこと、即ち社会制度の実際の機能がある状況の下では「その一応のつまり『しかるべき』機能と、驚くほど相違してしまう、という事実」(p. 217)である(とどのつまり良かれと思ったことが裏目に出る、ということ)。他方、伝統は制度ほど道具的なところがないので両面的価値に影響されるところが少ない。むしろ「制度が長期にわたって『しかるべく』機能する場合には、それは主として、そのような伝統に依存しているのである」(p. 218)。 第五章 ソクラテス以前の哲学者たちへ帰れ ・思弁的理論は真理への接近に役立ち、観察経験は迷わせる 大地は水に浮かんでいて、地震は大地が水の動きによって揺り動かされているからだというタレスの理論、大地は何者にも支えられておらず全てのものから等距離であるが故に制止していてその形は太鼓に似ているというアナクシマンドロスの理論はいずれも観察に基礎を持たない思弁的理論であった。しかし前者は大地が支えられていることと自身を説明しようとするもので、後者はそれを批判・修正したものだった(大地を支えるもの、をさらに支えるもの、をさらに支えるもの……という風に無限後退に陥ることにアナクシマンドロスが気づいたからだとポパーは推測している)。他方でアナクシマンドロスに大地は球状だと考えるのを妨げさせたのは大地の表面が平らだという「観察経験」だった。「したがって、大地の形の正しい理論の近くまでかれを導いたのは、思弁的批判的な議論であり、タレスの理論を抽象的批判的に論じることだったのである。そして、かれを迷わせたのは観察経験だったのである」(p. 227)。 アナクシマンドロスの理論が示しているのは経験的なものよりも批判的・思弁的なものの方が真理への接近の役に立ったということで、他方で、理論の起源は帰納的操作だという「ベーコン主義者」の科学の定義に当てはまる例は少ない。 ソクラテス以前の哲学者たちの業績はアリスタルコス、ケプラー、ガリレイの理論などを可能ならしめ、前者の中には後者の業績が含まれている。アナクシマンドロスの理論が誤りだからといって、これが非科学的ということにはならないし、修正を示唆し、批判における刺激を与えるという点において誤った理論の方が役に立っている。 ・常識的だが革新性の乏しいアナクシメネス アナクシマンドロスは、世界はアペイロンから構成され、永遠なるものだと考えた。そして現実にある諸変化を温度の違い、温と冷、湿と乾の対立で説明しようとした。「熱と冷によって水蒸気と風が生じ、この水蒸気と風が、今後は、他のほとんどすべての変化を生じさせる、と考えられた」(p. 233)。 アナクシメネスはアナクシマンドロスの路線を踏襲しつつ変化を空気の濃厚化と希薄化の理論で説明し、「限界のないアペイロンという抽象的理論を、空気という、より抽象度が低くより常識的な理論で置き換えた」(p. 234)。「アナクシメネスは、折衷主義者であり、体系組織家、経験主義者、常識家である。三人の偉大なミレトス人のうちで、かれは、革新的な新しい観念の生産が最も少ない人であり、哲学的気質の最も少ない人である」(p. 234)。 ・ヘラクレイトス、パルメニデスを経て原子論者は科学的思考を支配した理論に到達した ヘラクレイトスは感覚で捉えられずとも万物は変化していると「思惟に、言葉に、議論に、理性に訴えかけることによって」(p. 236)論じた。感官では捉えられない変化の世界に我々が住んでいることを指摘することで彼は変化の問題と知識の問題を提示した。ヘラクレイトスが提示した変化の問題は、パルメニデスを世界は部分を持たない一であり、不変不動なるものであるという理論へと追いやった(変化は感覚的で見かけ上のものにすぎない)。パルメニデスに挑戦した「原子論者たちは、変化の理論――一九〇〇年まで科学的思考を支配した理論――に到達した。それは、すべての変化が、とくにすべての質的変化が、物質の不変の小部分による空間的運動によって――空虚を動く原子によって――説明されねばならない、とする理論である」(p. 239)。 ・ソクラテス以前の哲学者には批判的討論の伝統があった ソクラテス以前の哲学者たちには批判的討論の伝統があり(ただしピュタゴラス派は例外)、アナクシマンドロスがタレスにしたように師であろうとも容赦なく批判を行った(ポパーはタレスが弟子たちに積極的に批判をするよう鼓吹したと推測する)。「とにかく、イオニア学派は、続く世代の弟子たちが師を批判した最初の学派であった、という歴史的事実は存在する。哲学的批判というギリシア的伝統の主要な源がイオニアにあったということに、ほとんど疑問の余地はない。〔改行〕それは偉大な革新であった。それは、一つの学派的教説のみを許す独断的伝統の破壊を意味し、またその伝統のかわりに、批判的討論によって真理に近づこうとする複数の教説を認める伝統の導入を、意味した」(p. 248)。これは、理論は最終的なものではなく修正を免れず我々の知識は推測でしかなく、批判と批判的討論が真理に近づく唯一の手段であることの自覚を生じさせた。「こうして、それはまた、大胆な推測と自由な批判の伝統、合理的な意志科学的態度をうみだした伝統につらなり、科学に基礎をおく(もちろん、科学のみにではないが)唯一の文明、西欧文明をうみだした伝統につならるのである」(p. 249)。しかし、この伝統は「おそらく、アリストテレスのエピステーメー、確実な論証的知識の教説の出現(確かな真理と単なる推測というエレア派とヘラクレイトスの区別の発展)が原因」(p. 249)となって二、三世紀のうちに失われた。 第六章 マッハとアインシュタインの先駆者バークリー ・バークリーの21個のテーゼのあらまし 絶対空間・絶対時間という概念は経験的な意味を持たず、「重力」、「引力」などを原理ないし原因として導入することは「隠された性質」の導入に他ならない。重力や引力を用いたニュートンの理論から正しい結論が得られるのは、それが「数学的仮説」(計算の道具)だから。 物理学に因果的説明(隠された性質が原因となる)はありえないが、自然現象の規則性、即ち自然法則へと事物を還元する「記述的説明」こそが物理学において説明の名に値する。ニュートン理論のうち運動の法則の部分は真だが、絶対空間・絶対運動、重力、引力といった概念を含む部分は真ではなく、説明の道具としての有用性を有するのみである。数学的仮説は世界にその対応物が存在することを要求せず、実在世界の記述ではなく、複数(ことによると互いに矛盾する)数学的仮説さえあり得る。 バークリーによるニュートン理論の分析を通し、(a)具体的、個別的事物の観察、(b)自然法則、(c)数学的仮説、(d)本質主義的あるいは形而上学的な因果的説明(これは物理学において占めるべき場所を持たない)が区別される。(a)と(b)は観察に基づき、(c)は観察に基づかず、道具的意義を持つに過ぎない。(d)は「現象世界の背後にある本質の世界を構成するときはつねに、偽」(p. 284)。それゆえ、(c)は(d)として解釈される限りは偽である。 科学者の説明は事物の「理解」はできないが、予測や適用の役には立つ(規則性があるから)。 「バークリーのかみそり」:「もし、それらの説明が数学的内容、予測的内容をもっているならば、(その本質主義的解釈を除いたままで)数学的仮説として認めてよい。もしもそういった内容をもっていないなら、完全に締め出されることになろう。このかみそりは、オッカムのものよりもよく切れる。存在物は、知覚されるもの以外すべて締め出されるからである」(p. 285)。 ・バークリーとマッハの見解の類似点と相違点 以上のバークリーの見解はマッハのそれと非常に似ており、とりわけ両者は似たような仕方で絶対空間、絶対時間、絶対運動を批判した。マッハは『力学史』のなかで「〈絶対運動〉の観念が無意味であり、経験的内容をもたず、科学的に役に立たないという見解は、三〇年前にはきわめて奇妙なものと一般に感じられた。今日この見解は、多くの著名な研究者によって支持されている」(p. 287からの孫引き)と述べている。 両者は減少の背後にある原因を物理学は扱い得ないという点では一致していた。バークリーは実在的原因は精神的なもの、即ち神だと考えたのに対し、マッハは厚みのない現象が全てだと考えた。 バークリーの歴史的意義は本質主義的説明に反対したことであった。 第七章 カントの『純粋理性批判』と宇宙論 ・『純粋理性批判』は宇宙論の問題への解答 カントを『純粋理性批判』へと向かわせたのは宇宙論の問題、即ち世界に始まりがあるのか、世界は永遠なのかは、その肯定否定いずれにも証明を与えることができるという事態である。カントは時間空間という観念は全体としての宇宙には適用できず、観察の道具として用いられるべき枠組みであり、経験の内部でしか友好ではないと考えた。「したがって、時間空間は、経験に基づくのでなくて、経験において直観的に用いられ、経験に適切に適用されうる準拠の枠組みであると言えよう」(p. 299)。 カントは物理的事物の実在性を否定するという意味での観念論者ではなかったが(彼が否定したのは時間空間が経験的で実在的ということだけ)、誤解されてドイツ観念論の父のあがめられることになった。 ・倫理学におけるコペルニクス的転回 ニュートン理論の妥当性の考察を通じてカントは「知性は、その法則を自然から導きだすのではなくて、その法則を自然に課する」といういわゆるコペルニクス的転回に至った。カントは倫理学でもコペルニクス的転回に似たことを考えた。人間は自然法則の立法者であるように道徳の立法者でもあり、自律の原理、即ち道徳を選択し、その責任を負う自由な人間という観念がそれである。人間は生まれつき自由なのではなく、自由な決定への責任を担って生まれついたがために自由なのである。 第八章 科学と形而上学の身分について ・ニュートンの天体力学が観察結果から導かれたもの(帰納の結果)ではない三つの理由 (1)理論の性格と観察の性格との間の甚だしい隔たり。観察は常に不正確だが、理論は絶対的に正確な主張をする。正確さの低い言明から高い言明が導かれるのは信じがたい。観察は個々のもの、理論はあらゆる惑星運動・太陽系についてのものである。 (2)ニュートン力学が観察から引き出されたというのは歴史的にも誤りである。コペルニクスは地動説を新プラトン主義哲学から引き出したし(太陽の役割は善のイデアのそれであり、太陽にこのような思考の地位が与えられるのならば当然宇宙の中心に位置を占め、地球はその周りを回るものである)、ケプラーは円軌道を信じてティコ・ブラーエの観測結果にその確証を探したが反証が見つかったので、観察結果を上手く解釈できる理論を探した結果として楕円軌道説に行き着いた。 (3)ニュートン力学が観察から導かれることは論理的に不可能である。これは以下のように証明される。 @互いに無矛盾な過去の観察結果を述べる言明のクラスをKとする。未来の論理的に可能な観察結果を述べるある言明をBとする。ヒュームによればKにBを加えても矛盾は生じない。つまり「論理的に可能な未来の観察結果が過去の観察結果のクラスと矛盾することはありえない」(p. 316)。 Aとすれば、Kと、Kから導かれうる任意の言明からなるクラスという二つのクラスにBを加えても矛盾は生じないはずである(なお、このKの帰結のクラスがどうやらニュートンの理論を指していて、これが理論は観察から導かれるという仮定を反映しているものと思われる)。 BたとえばBが「明日日食が起こる」だとすれば、ニュートンの理論とKから明日日食が起こらないという帰結が出れば、両者は両立できない。しかしニュートンの理論と過去この観察結果から明日日食が起こるかどうかを述べる言明は論理的に導かれうる。したがってニュートンの理論は観察から導かれえない。 ・理論は単なる押しつけではなく、自由な創造物である カントはニュートンの理論が唯一の真なる天体力学体系だと考え、その(ア・プリオリな)真理性を解釈するために人間が自然に法則を押しつけると考えるに至ったが、ポパーは、アインシュタインによってニュートンの理論が可能な唯一の天体力学体系ではないことが示されたし、押しつけられた法則は必ずしも上手く自然現象を解釈できるわけではないとしてカントの理論に修正を加える。「この修正された見方では、理論がわれわれ自身の精神の自由な創造物として、ほとんど詩的な直観の結果として、自然の法則を直観的に理解しようとする試みの結果として、眺められている」(p. 320-321)。 ・哲学的理論は問題解決能力によって評価を受ける 論理的数学的理論とも経験的科学的理論とも違った哲学的理論は反駁不可能。ならば哲学的理論を合理的・批判的に吟味することはいかにして可能か? もし(哲学的理論に限らず)理論が他のものともいかなる関連をも持たない孤立した主張(「純粋な存在陳述」)だとすれば合理性云々については論議が及ばないが、問題解決に関しては合理性を論じることができる。 第九章 なぜ論理と算術の計算体系は実在に適用可能か ・推論規則は計算体系の定式とは区別されるべし 「推論規則」と「計算体系の定式」の相違点は、「(一)推論規則は、つねに陳述についての陳述、あるいは陳述のクラスについての陳述である(それらは『メタ言語的』である)。しかし、計算体系の定式はそうではない。(二)推論規則は、演繹可能性についての無条件的陳述である。しかし、対応する計算体系の定式は、『もし……ならば……』という条件的あるいは仮言的陳述であって、このような陳述は、演繹可能性や推論、あるいは前提や結論というものに言及していない。(三)推論規則は、変項に定項を代入すると、あること――その規則に『従っていること』――を、すなわちこの論証が正しいことを、主張する。しかし、対応する定式から代入によって得られるのは、論理的に自明なことがら、すなわち、『全てのテーブルはテーブルである』のような陳述――これは仮言的な形では、『もしそれがテーブルならば、それはテーブルである』となる――……なのである。(四)推論規則は、それに従って述べられる論証のなかで、前提として用いられることは『けっしてない』が、対応する定式はそのように用いられている。事実、論理の計算体系を構成する主要な動機の一つは、次のことなのである。つまり、『論理学者の仮言(ある推論規則に対応する自明の仮説的定式)を『前提として』用いれば、対応する規則なしですませられる、ということである。……言いかえると、論理の計算体系を構成するという方法は、非常に多くの推論規則を一つ(または二つ)の推論規則に、体系的に、還元する方法なのである。それ以外のすべての推論規則は、計算体系の定式にとって代わられることになる」(p. 342。なお、閉じ二重括弧は原文にもないので、引用間違いにあらず)。 ・「なぜ推論規則は実在に適用可能なのか?」に対するライルの答え 推論規則は(道交法が自動車や自転車の操作の手順に規則であるように)推論を行う際の手順の規則であり、「実在」(これを事物や事実とすれば)に「適用される」というよりはむしろ、その規則を守ること、合致した行為を行うことこそが推論規則を「適用する」ということである。「なぜ、『論理の規則は実在に適用可能なのか』という問いが、もし、『なぜ、論理の規則はこの世界の事物や事実に適合するのか』を意味すると誤って考えられるならば、答えは次のようになろう。つまり問い自身が、論理的規則は事実に適合しうるし、また適合していると仮定している。しかし、論理の規則について、それが『世界の事実に適合している』とか『世界の事実に適合していない』とか述べることは不可能なのである。これが不可能なことは、道路交通法の規則や将棋の規則について、そのようなことを述べることが不可能なのと同じである」(p. 344)。 つまるところライルはこの問いを疑似問題として片付けているが、ポパーはこれに納得しない。 ・常に真なる前提から真なる結論が得られるから論理の規則は守られる ポパーは「なぜ、論理の規則は実在に適用可能なのか」を「なぜ、論理の規則がよい、有用な、役立つ手順の規則なのか」の意味で解釈し(なぜならば守るという意味で適用するのはそれが有用だから)、論理の規則を守る時は常に真なる前提からは真なる結論が得られるからだと主張する。とすれば、先の問いは「推論の論理規則によって、前提が真ならば、つねに、真なる結論が導かれるという事実の説明は何か」に置き換えられなければならない。 この問いへの答えは、推論の規則はそれに対する反例がない時に限り「妥当的」と呼ばれるものだからで、「したがって、『よい』あるいは『妥当的な』推論規則は、反例を見出すことができないが故に、すなわち、事実の真なる記述から真なる記述を導き出す手続きの規則として頼ることができるが故に、有用なのである」(p. 347)。 論理計算体系は「直観的にやり方を知っている推論すべてが、その言語に関して形式化されるような……言語を構成したい」(p. 353)という理由で構成される。しかしあらゆる妥当な直観的推論を形式化できる言語はあり得ない。 ・なぜ論理計算体系は実在に適用可能なのかについてのポパーの見解 (a)規則としての計算体系は、ある事実を記述するために用いるという意図で考案された言語(意味論的体系)だから。 (b)これらの計算体系は、この目的に役立たないように考案することもできる。 (c)「計算体系が事実に適用されるかぎり、それは論理計算体系の性格を失い、経験的に反証されうる記述的理論になる。また、計算体系が記述的理論としてではなく、むしろ反証不可能なもの、すなわち、論理的に真なる定式の体系として扱われる限り、実在に適用されない」(p. 355)。 (b)に関しては、たとえばボールやワニには自然数の計算体系で数えられるが、実数のそれは距離や速度を測るのに用いられ、それらの計算体系は測定の枠組みを提供する。 (c)関しては、「2+2=4」は反証不能で実在について語らない、定義に基づく、論理的に自明な陳述の意味で適用されることがある。他方で「2+2=4」には物理的事実を記述するという適用のされ方もあり、この場合は反証可能である(こちらの意味の法が重要である)。 ・実在について話すこと 「われわれの陳述が実在的世界を扱ったものであるか否かに疑問があるときはいつも、経験的反証を受け入れるつもりがあるか否かをみずからに問うことによって、それを決定できると、わたくしは信じているからである。もしわれわれが(うさぎや水滴や速度によって提供されるような)反証事例に直面しても、主義として、その陳述を護ろうと決意するならば、われわれは実在について話をしているのではない。われわれは、反証を受け入れるつもりがあるときにのみ、実在について話をしているのである」(p. 358)。 我々は世界を記述することに関心を持つ限り、真なる記述と推論(真なる前提から真なる結論を導く操作)に関心を持つ。 通常の(目下の)言語が世界の記述の最良の手段と信じる理由はない。 物は論理的構成物だと信じながら事実については素朴実在論を採る哲学者がしばしばいる(個々ではウィトゲンシュタインが念頭に置かれている)。しかし事実は「言語と実在の共同産物」(p. 361)であり、生の事実なるものはない。 第一〇章 真理・合理性・科学的知識の成長 ・科学の進歩の基準は反証可能性の高さ 第一のテーゼは、我々は科学の「進歩の基準」を持っており、どんな科学理論が良いもので、別のものより優れているか(「相対的な可能的優秀性の基準」)を知っている、というもの。これはポパーにお決まりの経験的内容ないしテスト可能性の程度の高さのことである。 陳述の内容が増大するにつれて確率は低下する。陳述aよりもaとbの連言のほうが内容は増しているが、その真なる確率は減っている。それゆえ、知識の成長が理論内容の増大だとすれば、それは同時に理論の蓋然性の減少を意味する。とすれば、知識の成長を目指すことは低い蓋然性の理論を目指すことである。「したがって、可能的優秀性の基準とは、テスト可能性ないし非蓋然性である」(p. 370)。 科学を公理的演繹体系にすることは科学の目標ではなく、踏み石と見なすべき。それは直観的に見て取れない帰結を検討するなどのテスト、批判的検討の役に立つという程度の利点しかない。 科学は観察からではなく問題から出発し、科学的な知識に対する理論の永続的な寄与は、新しい問題を生じさせることである。 ・タルスキーの対応説 ポパーは真理を言明と事実(あるいはそれらの要素間の)一対一対応と捉える型の対応説(たとえばウィトゲンシュタイン、シュリック)には反対するが、タルスキーの新理論に基づいた事実との対応説を支持する。即ち、真理とはメタ言語的概念であり、真理について語るにはメタ言語を用いなければならない。例えば「陳述ないし主張『雪は白い』は、実際に雪が白いとき、かつそのときにかぎり、真である」は陳述とそれが言及する事実について語っている。 ・真理は主観的なものではなく客観的なものである 真理に関して整合説も証拠理論(「真である」とは真であると知られることである)も道具主義も真理を心的状態や信念などと捉えており、とりもなおさず主観主義的な立場である。「すなわち、真理とは、信じたり受容したりすることが、知識の起源や出所、信頼性、安定性、成功、確信の強さ、別のように考えることの不可能性、こういったことに関するある規則ないし基準にしたがって、正当化されるところのものである、というのである」(p. 380)。 これに対しポパーは、知られていようがいまいが真理は客観的にあるもので、真理にぶつかろうが我々にはそれが分からず、理論とは推測に過ぎないと言う。真理についての判定基準を我々は持たないが、「規制的原理」としての真理の概念に導かれている。つまり、真理は目指されるものである一方で、それから外れたとしても、「それから外れたもの」としての客観的真理の観念が、誤りや疑いという観念に含まれている。 求められる真理は「すべての真理」ではなく、問題に関係のある真理、興味がある真理である。ポパーは、大胆な推測によってのみそういう真理を発見できると考えており、大胆な推測によってこそ、それが偽であればその誤りから学ぶことができ、ひいては真理に近づけるのだ。 ・真理近似性 言明の真理近似性はその真内容(その言明の真なる論理的帰結の集合)の大きさと偽内容(その言明の偽なる論理的帰結の集合)の小ささによって定義される。二つの理論t1とt2の真内容と偽内容が比較可能だと仮定すれば、t2の真内容がt1のそれより大で、t2の偽内容がt1のそれより大でないとき、t2はt1より真理に近似的である、あるいは事実によく対応していると言える。 到達しがたい絶対的真理の観念よりも真理近似性方法が手近にあり、適用しやすく、より重要である(重要なことは複数の理論を比較できることである)。後に偽であることが分かったとしても、理論t1に真理近似性において取って代わったt2は真理に近づいたと言える。例えば、ニュートンの理論は反駁された後であろうとケプラーやガリレイのそれよりも優秀性では上である。 真理近似性は蓋然性と混同されるべきではないが、すでにクセノファネスの直後から混同されてきた。とりわけプラトン以来意味が明確でなくなり、可能的という意味合いを持つようになった(「付録 専門的事項に関する覚え書き」, p. 453)。 ・クワインの全体主義は必ずも成り立たない 理論の背景知識は一時的にせよ問題のないものとして受け入れられているが、批判に対して開かれている。さりとて我々は一から考えることはできない。 クワインの全体主義に対してポパーは、理論の大きな塊や理論全体を単位としてしかテストできない場合があるにしても、反駁された理論の中のどの仮説が反駁の責めを負うべきかを確定できる場合もあり、全体主義は行き過ぎだと言う。 ・新しい理論への三つの要請 新しい理論は古い理論が説明できた事実、できなかった事実、反証した事実を説明できることに加え、以下の三つの要請を満たすべきである。@単純性、A独立にテスト可能なこと(「それが説明すべく目論まれた被説明事項すべてを説明することのほかに、テスト可能な新しい帰結(望むらくは、新しい種類の帰結)をもたねばならない。それまで観察されなかった現象の予測をひきださねばならないのである。この要請がなければ、新しい理論は、その場しのぎのものになってしまうかもしれないのであるから、これは不可欠の要請と思われる(p. 410)。)、B新しい、厳しいテストに通ること。AとBの要請によってその場しのぎの理論は除くことができる。 理論の反駁に成功しつつ、抵抗に成功することがあってこそ、我々の経験的側面、合理性を保つことができる。 Bの要請は、(1)優れた理論は新しい予測に成功する、(2)あまり早く(驚くべき成功を収める前に)その理論が反駁されないこと、という二つの要請をその部分として持つ。(1)に対して、帰納主義的観点から、理論と証拠の論理的関係は、一方が他方に時間的に先行するかどうかは無関係であり、それ故(多分)この要請は理論の優秀性とは関係がない、そして(2)に関しては理論の本質的価値は反駁が遅れることに依存しない、という反論が出てくる。これに対するポパーの反論は、成功する新しい予測は、理論が前の理論よりも前進したものと見なされ、反駁に至る実験的吟味を行う価値ありと考えられるだけ興味深くなるものである(p. 420-2。あまり反論になっているとは思えないが)。さらに帰納主義者は、理論の価値が証拠との関係にあるという見解は理論を通してこそ観察や問いを発することを我々は学びうるということを見落としている(蓋し、帰納主義者は永遠の相から科学を眺めるのに対し、ポパーは科学を発展途上にある成長・進歩しつつあるものだと捉えているという違いがあろうか)。 ・「経験的」と「有意味」は同じ語と考えられるべきではない 「有限個の二行連句からなるラテン語の悲歌があって、それをある時と場所において適当な仕方で唱えるならば、ただちに悪魔が――すなわち、二つの小さな角と一つの分趾蹄をもつ人間のような生き物が――現れる」というような言明は実証主義者の見解では経験的だが偽なる言明になる。ポパーが言うに、この言明は非経験的で非科学的だが、この言明は無限宇宙においてはほとんど論理的に真(確率が限りなく1に近い)であり、反証も確率を高くすることもできないことが確率論的に帰結してしまう。このことから、「経験的な」と「適切に形成された」や「有意味な」を無批判に同じ語だと考えるべきではないとポパーは言う。 第一二章 言語と心身問題――相互作用主義の再説 この論文の目的は物理的決定論への反駁である。 ・ポパーは物心二言語論、行動主義を拒否する 物心二つのもの(entity)があるのではなく、一つのものについて別様に語る二つの言語があるだけであるという見解(中性的一元論に由来)、心身問題は行動に加えて心的状態があるかのごとく語ることから生ずるという見解をポパーは拒否する。 行動に加えて信念や意図があることを認めれば、心身問題はデカルト的なものとして現れ、否定すれば行動主義や物理主義のような見解に行き着く。心身問題の問いを無意味と考えるならば「事実はそれ〔歯痛があるかどうかのような内的状態についての言明〕を支持する証拠の全体である(またはそれに還元できる)という誤った実証主義的信念――つまり意味の実証可能性のドグマをとることになる」(p. 545-546)。 ・議論の際には他人の心を仮定せざるをえない カール・ビューラーが唱えた言語の三機能(表出的または徴候的機能、刺激的または信号的機能、叙述的機能)にポパーは論証的機能という第四の機能を加えた。「言語行動についての因果的物理主義的理論」(「行動主義のような哲学や、副現象説や二言語解決、物理主義、物質主義などのような物理的世界の因果的完全性または自立性を救済しようとする哲学」(p. 547))はより高次の機能(後の方にいくにつれてより高度。つまり叙述的機能と論証的機能が最も高度)をうまく扱うことができず、低次の機能の理論に留まるか、両者の違いを無視するか、高次のものを低次のものの特殊ケースに過ぎないと主張するかのいずれかである。 我々は低次の機能しか持たない機会と話したり議論したりしようとはせず、話したり議論する際には意図を仮定している。他人と他人の心について話す際には他人には意図、即ち心的状態があることを仮定せざるを得ない。 ・名付けは因果的に理解できない 名付けられる対象(の出現・知覚)を名付けの原因と、名付けをその対象の結果と見なす「名付けの因果理論」をポパーは批判する。曰く、名付けられる対象の出現ではなく、それに先立つ名付け親の状態こそが名付けの始まりである上、名付けの語の発音ではなく、これにも続く状態がある。それゆえ、対象の出現を名付けの原因、名付けを結果とするのは「解釈」にすぎず、客観的な物理的状況ではない(蓋し、好きなところで因果性の鎖を断ち切り、どこなりとも恣意的に原因、結果と解釈できるというわけ)。それゆえ、名づけの関係は(物理的)因果関係によって理解されず、たとえば「マイク」が(名付けられる)猫の名称であるという知識と、それを名称として用いようとするある種の意図を含まざるをえない。「名づけは、言葉の叙述的使用の最も単純なケースである。名称-関係のいかなる因果的理解も可能でないので、言語の叙述的ならびに論証的機能についてのいかなる因果的物理理論も可能ではない」(p. 552)。 第一四章 日常言語における自己言及と意味 嘘つきのパラドクスをもたらすような自己言及を無意味として規制する見解の反駁がこの論文の主題。 「今言っていることは無意味である」は真ならばそれが意味せんとしていること(つまりその文自体)を理解していることになり、偽ならば矛盾に陥るというパラドクスが提示される。「無意味の発言」を文法の規則に違反した表現やまずく構成された表現と解するならば、このパラドクスは解けない。理解できるということを有意味性の条件だと考えれば、このパラドクスは有意味だという形で決着がつく(、と論じられてはいるものの、いまひとつ理解できていない)。 さらに、自己言及はありふれた、そして理解できるものでもある。それゆえ、自己言及は常に無意味だという見解は間違っている。 パラドクスを避けるためには、それを避けてくよくよ悩まなければ日常言語の通常の使用と目的には十分である。 もし全ての自己言及を排除するという思い切った人工言語を作りでもすれば、ゲーデルの算術化の方法が使えなくなってしまう。 第一五章 弁証法とは何か ・弁証法における矛盾の許容は進歩をなくす 弁証法と試行錯誤の方法にはいくつもの類似点がある一方で、多くの相違点もある。 弁証法論者は弁証法における矛盾の豊かさ(この豊かさがジンテーゼを生み出す原動力となる)に訴えて矛盾を許容し、矛盾律を捨てた弁証法的論理学を生み出した。歴史理論であった弁証法は「論理学の理論であると同時に(これから見るように)世界の一般理論であろうとしたのである」(p. 585)。しかし矛盾の豊かさは矛盾を容認可能なものとするには及ばず、たしかに矛盾とその指摘は理論の変更を促しはするが、「批判、つまり矛盾の指摘がわれわれに理論を変更させ、それによって進歩を生じさせるのは、もっぱらわれわれのこの[矛盾を容認しないという(引用に際しての補記:このカッコは訳者による補記)]決意に発するのである」(p. 586)。矛盾を容認すれば、理論を変更すべき理由はなくなり(「なぜそれで悪いんだ」と開き直られる)、合理的批判、議論、知的進歩はなくなる。現に、矛盾する言明はどんな言明をも導出できる。 弁証法は恣意的で曖昧な表現によって論理学であると見せかけられているが、ポパーに言わせれば、進化論がそうであるように叙述的な理論である。「弁証法」という語は曖昧で誤解を招きがちなので、使わないに越したことはない。 ・ドイツ観念論はカントが反駁した形而上学を復活させた ドイツ観念論はカントに学びつつも彼が拒否した形而上学(知識の領域を超え、純粋理性のみを使って行われた思弁的推理)を別の形で復活させた。「科学はいかにして可能であるか」という問いに対してカントは「世界は精神に似ているから」つまり「精神が世界を消化する、または形作るから」だと答えたが、ヘーゲルはよりラディカルに「精神は世界であるからだ」、「理性的なものは現実的な者であるから」、「現実と理性は同一であるからだ」と答えた。「それは、純粋理性から世界についての理論を作り上げ、この理論が現実的世界の真の理論でなければならないと主張することを、哲学者に許した。したがってそれは、まさにカントが不可能だといったものを、可能にさせたのである。それゆえヘーゲルは、カントの形而上学反対論をなんとかして反駁すべく試みざるをえなくされた。ヘーゲルはこれを彼の弁証法の助けをかりておこなった」(p. 602)。 カントのアンチノミーは思弁的形而上学が矛盾する理論へと導くとして形而上学を攻撃したが、これに対してヘーゲルは、矛盾は思考と理性の発展において生じざるをえないものだから、矛盾など問題ではないと主張した。 ポパーによれば、ヘーゲル弁証法の主要な三要素は、(a)観との反合理主義に対する弁証法的反論(弁証法は矛盾律を免れるがゆえに矛盾を引き起こすからといってどうということはなく、弁証法論理学と(矛盾律を容認する)通常の論理学は違う)、(b)「理性」、「思考法則」等々の表現は多義性に基づいた論理学への弁証法の編入であり(「理性」はある種の精神的能力のみならず、理論、思考、観念等々をも意味すると考えることでこれら全てに弁証法を適用できると考えられた)、(c)ヘーゲルの汎論理主義(理性と現実が同一で、理性が弁証法的に発展するならば、現実もまた弁証法的に発展するはずで、世界は弁証法論理学の諸法則によって支配されている)と彼の同一性の哲学に基づく「全世界」への弁証法の適用である。 ・マルクスにより弁証法は観念論的基礎を失い、弁証法的唯物論となった マルクスにより弁証法は観念論的基礎を失い(思考の発展プロセスではなくなった)、物理的現実は弁証法的に発展するという弁証法的唯物論となった。マルクスは歴史的発展の法則は弁証法的であり、歴史学に限らず社会科学は発展を弁証法的に説明しなければならない、と考えた。 しかし弁証法は、予測が外れてもいくらでも解釈によってその図式に当てはめることができる。マルクスは、科学は究極的に確立された知識、「永遠の真理」ではなく、発展・進歩しつつあるものだという反ドグマ的態度を取っていたが、マルクス主義者たちはマルクス主義はその発展の最終・最高の段階だと考え(ヘーゲルも自分の哲学がそうだと考えていた)、マルクス主義や弁証法的唯物論への批判を許さず、弁証法は主として弁護のために用いられるようになった。「弁証法のおかげで反ドグマ的態度は消滅し、マルクス主義は、その弁証法を用いることによって、生じうるいかなる批判をも回避できるほど融通のきくドグマ主義としてみずからを確立した。こうしてマルクス主義は、わたくしが強化されたドグマ主義と呼んだものになった」(p. 617)。 第一六章 社会科学における予測と予言 歴史法則主義(「社会科学の課題は歴史的予言をおこなうことであり、歴史的予言は政治を合理的にやっていこうとすればどうしても必要なものである、という説」(p. 620)とりわけマルクス主義が標的とされる)においては社会科学の課題は科学的予測のように歴史の予測を行うことだと言われる。しかし、(1)歴史法則主義者はその歴史的予言を条件的な科学的予測から導き出していない。(2)長期的な予言が科学的な条件付き予測から導出できるのは予言が十分孤立した(つまり外部からの干渉を免れた)、定常的で回帰的(つまり何度も同じように繰り返される)な体系(たとえば太陽系)に対してのみである。歴史は(2)が可能な体系ではなく、「科学的予測」は条件的なものであるのに対して社会科学の予言は「無条件的予言」という別のものである。 予測ができないからといって社会科学は無用というわけではなく、社会科学には意図せぬ社会的反響効果を明らかにし、これによって行為のより賢明な選択を助けるという役割がある。 自然主義的革命は「神」を「自然」に置き換え、神の計画と判断が自然淘汰に取って代わられたように「神の全能と全知とは、自然の全能と科学の全知とにとってかわられた」(p. 638)。次いでヘーゲルとマルクスは自然の神性を歴史の神性に置き換え、「歴史の法則に、歴史の力、傾向、以降、計画に、歴史的決定論の全能と全知に達する。神に逆らう罪びとは『歴史の前進に空しく抵抗する不埒な輩』におきかえられる。そして神ではなくて歴史が(『民族』または『階級』の歴史が)我々の判定者であるとされる。この歴史の神格化こそ、わたくしが戦闘を挑んでいるものである。……すべての規範は結局のところ歴史的事実にほかならない(神においては規範と事実は一つのものである)という歴史法則主義的発見は、事実の――人間の生活と行動との既存の、または現実の事実(単に事実といわれるものを含めて、とわたくしは思うのだが)の――神格化へと、したがって民族と階級の世俗的宗教へと、実存主義、行動主義へと、導く。人間行動は言語的行動を含むものであるから、それはさらに言語の事実の神格化へと導く」(p. 638)。 第一七章 世論と自由主義的原理 世論の神話、即ち世論は賢明である、という神話はそうであるとは限らない。正しい考えの拒否・論争・承認という段階的プロセスへの楽観的でもある神話(世論の神話の変形で、真理の顕現という前提を持つ)は必ずしも実際に成り立つのではなく、不正に対する世論の「道徳的敏感さ」によって革命が喚起されることがしばしばあった。 第一八章 ユートピアと暴力 合理性は目的に対する手段に関して言いうるものであって目的自体の設定は必ずしも科学的に、あるいは議論に基づいて決定できるものではない、という理由によってユートピア主義が出現する。ここでは異なった意見は説得するか粉砕するかになり、暴力が生じやすくなる。ユートピア主義に対し、ポパーは抽象的な善や理想、幸福を目指すのではなく、具体的で除去が最も緊急な悪の除去に努めるべしと言う。何が対処すべき悪かどうかには比較的容易に意見の一致を見ることができるし、評価もできる。しかし理想的な善となると意見の一致も評価もそうはいかない。 第一九章 われわれの時代の歴史――一楽観主義者の見解 ・五つのテーゼ @様々な問題は人類が賢すぎ、邪悪すぎる(知性の発展に道徳の発展が追いついていない)からだからではなく、善良(籠絡されやすい)で愚かすぎるが故である。 A我々の社会(ポパーは西側自由社会を想定)は今までの社会のうちで最善の社会である。 B自由世界の民主的諸政府は攻撃戦争を行うのが不可能になった。 C道徳的・宗教的観念の力は物的資源の力と同様に重要である。 D真理は手に入れがたい(真理の自己顕現、少数の者だけが真理を手にしうるという主張から帰結する権威主義への反対)。 真理は隠れるものだとすれば、権威主義(少数の者だけが真理を手にしうる)が、顕現するとすれば合理主義(誰でも知ることができる)が帰結し、理性への悲観主義からは伝統主義が生じ、理性への楽観主義はポパーが採るものである。ポパーの唱える批判的アプローチはこれら二つの対に折り合いをつけるものである。「批判的合理主義者は、伝統の価値を正しく評価できる。それというのも、彼は真理の存在を信じているとはいえ、自分が真理を確実に所有しているとは信じないからである。かれは真理に向かってのあらゆる歩み、すべてのアプローチが価値あるものであり、実際はかり知れぬ価値のあるものだということを正しく評価できる。またかれは、われわれの伝統がこのような歩みを鼓舞するのにしばしば役立つこと、知的伝統がなければ個人は真理に向かって一歩だにほとんど前進できなかったということを、認めることができる」(p. 694)。 Stevenson, ‘The Emotive Meaning of Ethical Terms’(1937) まとめ ・「善」を「賛同」によって定義しようとする「関心の理論」は(1)異なる善の表明が互いに矛盾しない、(2)行為への磁力を持たない、(3)その証明が通常の証明の仕方とは違うために「善」に対する定義項としては不十分。 ・倫理的言明の用法は情報伝達以上に、人に影響力を及ぼそうとすることである。 ・「善」は動的用法では「我々はXを好む」。 ・倫理的言明における不一致は「信念の不一致」ではなく「関心の不一致」であるが、部分的にではあるが後者は前者に基づいており、説得によって前者を一致させることで後者の一致を見ることがある。 I 関心の理論(interest theory)。「『善』という言葉の意味はしばしば『賛同』、あるいはそれと似た心理学的態度によって定義されてきた。『善』は『私によって欲求される』という意味である(ホッブズ)、そして『善』は『大部分の人々によって賛同される』という意味である(結果的にヒューム)といったものが典型的な実例として挙げられるだろう。『関心』も『理論』も通常の大部分のやり方では用いられていないものの、R. B. ペリー氏に倣ってこの類の定義を『関心の理論』として指し示すのが便利であろう」(p. 265)。 しかし関心の理論は「最も生き生きとした〔vital〕善の意味を無視している」(p. 266)。そしてこれらは三つある。第一に、関心の理論では不一致は、たとえばホッブズの場合、「私はこれを望む」に対して「そうではない、というのも私は望んでいないから」となり、「発話の用法の基本的な混乱のみのために」(p. 266)これらは互いに矛盾しないことになる。逆に言えば、生き生きとした善の定義ではこれらが矛盾しなければいけない。第二に、「善」にはいわば磁力があり、「Xは『善い』と認める人はその事実それ自体により、そうでない場合に比べてそれを支持するような行動をしようというより強い傾向を持つ。これはヒューム型の定義が見落としていることである。それというのもヒュームによれば、あるものが『善い』と認めることは単にそれへの多数の支持があるということを認めるということになるためである。……この要請は発話者よりも他の人の関心によって『善』を定義しようとする試みを排除する」(p. 266)。第三に、「善」の定義は科学的方法のみによって検証されるものではない。「倫理学は心理学ではない」(p. 267)。「ホッブズの定義によれば、ある人は最終的には、彼が自身の欲求についての内省的誤謬をもたらさないと示すことで彼の倫理的判断を証明できる。ヒュームの定義によれば、投票によって倫理的判断を証明できる。経験的方法のこのような使い方は、多かれ少なかれ、証明として我々が普通に受け入れているものとは非常にかけ離れたものであり、それを含意する定義の完全な妥当性を反映しているように見受けられる」(p. 267)。 関心の理論、とりわけヒューム的な理論は民主主義的な理念を前提としている。「唱えられている『最終的な証拠』〔投票を指す〕の私の受け入れは私が民主主義的であることから単に帰結しないのだろうか? より貴族主義的な人々についてはどうだろうか? 彼ら〔貴族主義者〕は、ほとんどの人の同意は、彼らが彼らの同意の対象について全てを知っていたとしても、単純に何らかの善と関係を持っていないと言うにすぎないし、彼らは人々の関心の低劣な状態について少しばかりの所見を付け加えることだろう。それらの検討からは、我々が検討してきた定義は始めから民主主義的な理念を前提としていたということになる。それはを民主主義のプロパガンダを定義の外見で変装させているのである」(p. 267-268)。 関心の理論で暗示されているところの経験的方法は倫理的な問題では通用しない。それではムーアが述べているように、善の性質を把握できない(p. 268)。 II 倫理的言明の非記述的要素。「伝統的な関心の理論は倫理的言明は存在する関心の状態を『記述する』ものであり、それらは関心についての『情報を与える』とみなしている(より正確には倫理的判断は関心の状態が何であり、あるいは何であったのか、何であることになるのかを記述し、あるいはどんな関心の状態が特定の状況の下にあるであろうかを示すと言われる)。それらの〔把握における〕不完全な妥当性へと導くのは記述、情報のこの強調である。疑いなく、倫理的判断には何らかの記述的な要素が常に存在するが、それが全てではない。それらの大部分の用法は事実を示すことではなく、『影響力を作り出すことである』。人々の関心を単に記述する代わりに、それらはその影響力を変化させたり、強めたりする。それらは関心がすでに存在する状態よりもむしろある対象への関心を勧める」(p. 268-269)。 人に(自分自身の判断であれ、他人のものであれ)倫理的判断を伝えるのは、単に記述を知らせるためではなく、その相手を説得し、影響を与えるため。他者の同意や反対を述べるのはこの説得のための補助的手段としてである(p. 269)。 「私は倫理的用語を使っているのではなく、それらがどのように使われているのかを示しているのだ」(p. 270)。 説得の道具としての倫理的用語。「人々は或る傾向を促進するために互いに賛辞を送り合い、他の傾向を抑止しようとして謗り合う。……倫理的用語はそういった影響を容易ならしめる。説得における使用に適合するならば、それらは人の態度をこの、あるいはあの道へと導くための手段である。かくして、我々が一つの集団の道徳的な態度において、異なった諸集団に〔何を誉め、何を謗るかにおける〕より大きな類似性を見て取る理由はまさにこのことなのであり、倫理的判断はそれ自体を伝達する〔propagate〕」(p. 270)。 倫理的な文についての三つの問い。(1)倫理的な文はいかにして人に影響力を及ぼし、なぜ説得に向くのか? (2)この影響威力は倫理的用語の意味とどんな関わりを持つのか? (3)これらの考察は前述の三用件を満たす善の意味に導くのか? III 言語の使用には「記述的」な目的と「動的」なそれとがある。「一方で我々は信念を記録し、明らかにし、伝達するのに(文において)言葉を使う。他方で我々は我々の感情にはけ口を与え(感嘆詞)、あるいは気分を生み出すため(詩)、あるいは人々の行動や態度をかき立てるために(演説)言葉を使う」(p. 271)。言葉の動的用法と言葉の意味は峻別され、動的用法においては「命題的」な意味が含まれており、そしてまた動的用法の場合の言葉の意味は「傾向」(因果的性質、配置における性質(dispositional property))から構成される(ただし唯一の要素とは述べられていない)(p. 272)。 情緒的意味。「しかし上記で定義されたような意味において、ある種類の意味が存在し、それは動的用法と密接な関係を持つ。私は『情緒的意味』を指す(おおざっぱな意味ではオグデンとリチャーズによるものと似ている)。言葉の情緒的意味は言葉の傾向であり、それらの用法の歴史を通して立ち現れ、人々の肯定的反応を(結果として)生成する。それは言葉の周りを漂う感情の直接的な独自の雰囲気である。肯定的反応を作り出すそういった傾向は言葉を実にまとわりついている」(p. 273)。例えば、他意がなかろうと、「old maid」という呼び方を記述的に59歳のミス・ジョーンズにすれば、彼女はこの呼びかけを侮辱として捉えるが、同じ記述的用法で「elderly spinster」を使えば、そのような反応はもたらされない。これら二つの言葉は情緒的意味においてのみ異なっており、情緒的意味のために、ある言葉はある動的用法では適切になり、あるいはほかの仕方で使えば、聞く人に誤解を与える。なお、意味の種類(sort of meaning)と動的な目的(dynamic purpose)は同一ではなく、前者は後者よりもいっそう言葉にまとわりついている。「前者は後者を支援する。……我々は人々に定義された語は実際にそうであるよりも動的に使われることは少ないと考えるようにさせる」(p. 274)。 IV この節では情緒的意味についての考察が「善」の定義に適用される。「そこで大ざっぱに、『Xは善である』という文は『我々はXを好む』という意味である(『我々』には聞く人たちも含まれる)」(p. 274)。「我々はXを好む」は純粋に記述的に用いられるみならず、動的にも用いられる。「『我々』が聞く人を指す場合には、それは動的用法であるに違いなく、聞く人に言われていることを単に信じるというよりもむしろ、真実に『させる』ようにしむける説得がその本質である。そして『我々』が話す人を指す場合には、その文は話す人の関心についての信念を示す記述的用法のみならず、疑似感嘆文、つまりその関心への直接的な表現を与える動的機能を持っている」(p. 274)。 しかしスティーブンソン曰く、この定義では動的用法には触れていても、(善の)情緒的意味は顧慮されていないため、不十分である。「私がするつもりのことは、もちろん、情緒的意味が、『善』のそれのように、動的用法へと単に『導く』定義項を見いだすことである」(p. 275)。 人を動かすのは定言命法ではなく、説得である。「それというのも定言命法は聞く人の意識的結果に訴える。もちろん彼は試みることによってそうしようとは思えない。彼は説得によってそれをしたいと思うように導かれるだろう。そこで倫理的な文はそれが人により巧妙に、そしてより意識的ではない仕方で変化をなさしめることにおいて定言命法とは違っている」(p. 276)。 V 第一の制約。不一致。不一致(disagreement)には「信念の不一致」(disagreement in belief)と「関心の不一致」(disagreement in interest)といった種類があり、「信念の不一致はAがpを信じてBがそれを信じない時に起こる。関心の不一致はAがXに好意的な関心を持ち、Bがそれに非好意的な関心を持ち、いずれも他方の関心を変わらないままにすることに満足しない時に起こる」(p. 277)。倫理的な不一致は信念の不一致ではなく、関心の不一致である。「これは善い」と「そうでなく、これは悪い」と言う二人の人がいれば、彼らは互いに他方に対して影響を及ぼして感心の向きを変えようとする。伝統的な関心の理論では、倫理的判断は記述的なものとしてのみみなされ、不一致があるとすれば、それは信念の不一致のみであると考えられ、さらに情緒的意味を見逃していたため、倫理的な場面での不一致を理解し損なった。 第二の制約である磁力は、関心の理論では「善」の定義に話す人の関心を含めていなかったために見落とされた。第三の制約である経験的方法。経験的知識と倫理的判断との関係は関心の理論の提唱者の考えたものとは全く異なったものである。映画を見たい人と交響曲を聞きに行きたい人の対立から倫理的な判断の対立について類推するならば、彼らはそれらの娯楽の支持、その定言命法を支持するために「理由」を用いている。映画を見たい人はガルボのファンである他方の人に「でもガルボが『宝石』に出ることを君は知っているよね」と言い、交響曲を聞きたい人は「でもトスカニーニが全ベートーベンの題目の今夜のゲスト指揮者なんだよ」と理由を述べて相手を説得しようとする(p. 278)。この理由は経験的に打ち立てられるものである。「これから一般化すれば、関心の不一致は信念の不一致に基づいている」(p. 278)わけであり、信念の不一致を解消することである程度は解消される。しかし、倫理的判断の不一致は全面的に信念の不一致に基づいているわけではなく、経験的方法やそれに基づいた信念の一致は倫理的一致をもたらすのに十分というわけではない。例えば、Aは同情深い性格で、Bはそうではないとすれば、公的な施しについて論じ、施しの帰結の全てを見いだした時、Aはそれを善いと判断し、Bはそうだと判断しないというように彼らは不一致に至ることがある。「関心の不一致は限定された事実の知識から起こるのではなく、単にAの同情深さとBの冷淡さから起こる。あるいは、上記の議論において、Aが、貧しく働いておらず、Bが金持ちだったらと考えてみると言い。ここではもう一度、不一致は事実についての異なった知識のせいではないだろう。それは彼らの優勢な自己利害並びに、この人たちの異なった社会的地位のせいである」(p. 279)。 信念の不一致に基づかない倫理的不一致の解消の道。これには「なるほど、それはまさに私たちが持つ異なった気質の問題です」(p. 279)と言うのでは不十分であり、解消はAは貧しい人たちの惨状を述べるなどしてBに影響を与え、彼の気質を同情的なものに変えること、つまりは説得によってなされる。「それは説得的であって経験的だったり理性的ではない」(p. 279)。 VI 倫理の社会性と哲学者の特権的位置の否定。「私はもし『Xは善である』が本質的に説得のための媒介物であるとすれば、それは哲学者たちが他の人よりも一層、それをもたらすために呼ばれるような言明ほとんどない。倫理学が何かしらの倫理的語を述べる場合、それはむしろそれらの意味の説明であり、内省的な研究であることをやめることになる。倫理的言明は社会的な道具である。それらは我々が互いに自分自身を他の人の関心へと調整するような共同での企図において用いられる。哲学者はこれに参与するが、全ての人がするようにであって、その参与〔における哲学者の重み〕は大部分ではない」(p. 281)。 クワイン『論理的観点から』(1953) I. なにがあるのかについて 存在しないものについて語ることは、そのものがなければ無意味であり、そのものの存在を認めていることにならないか? マックス:認めていることになる。 ワイマン:存在と存立は別物。「現実化されない可能者をワイマンは認めるが、かれは『存在』という語を現実性だけに限定する」(p. 4)。 ・ワイマンへのクワインの批判 1. 可能的なものへの同一性の概念の適用が困難である。ある可能的なものと別の可能的なものの同一性は、あるいはそれらが別のものだとどのようにして言えるのか? 2. ワイマンは「ペガサスはあるのでなくてはならない、さもなければ、ペガサスがないと言うことさえ無意味となってしまう」(p. 6)という考えに囚われている。 3. 「バークレーカレッジの四角い丸屋根」は現実化されていない可能者ですらなく、ワイマンはこのようなものの領域すら認めなければならなくなる。(だがワイマンは矛盾する語句は無意味であると言うことでこの困難を避けようとするだろう) ・解決策 記述理論を用いて名詞を記述に翻訳すれば「特定の前もって指定された対象があること」(p. 10)を前提しなくてもよくなる。 フレーゲが区別したように、意味と名指しが別物であることから「単称名辞を含む言明の有意味性が、その単称名辞によって名指される存在者を前提するという幻想にまどわされる必要はもうないのである。単称名辞は、有意味であるためには、名指しを行う必要はない」(p. 12-13)。意味は名指されるものであるとか、心の中の観念であるとか、属性やクラスなどの普遍の意味は普遍者であるということは、「意味」の放棄によって回避できるし、それでもなお語や言明が有意味であることは扱えるし、「『有意』および『同義』という形容詞を、ある程度の明瞭さと厳密さを備えた形で説明する――私の考えでは、できれば、行動をもとにして――という問題は、それが重要であると同じだけ困難でもある。だが、意味と呼ばれる特殊で還元されえない中間的存在者が説明的価値をもつなどということが幻想にすぎないことはたしかである」(p. 17)。 ・存在するとは変項の値とみなされることである 「名前を使ってわれわれが言うことは何でも、名前をいっさい排除した言語のなかで言うことができる。存在者とされるということは、掛け値なしに言って、変項の値のみなされることである。伝統的文法のカテゴリーを用いて言い直せば、これは、ほぼ、あるということは代名詞の指示の範囲にあることであるとなる。……そして、われわれがある特定の存在論的前提をもっていると宣告されるための必要にして十分な条件は次のようなものである。すなわち、われわれが肯定する言明のいずれかひとつを真とするためには、我々の変項が及ぶ存在者のなかに、この前提されていると言われたものが入っていなければならないという意味である。 たとえば、白い犬がいるとわれわれが言うとき、われわれは、それによって、犬性や白さを存在者として認めることにコミットするわけではない。『白い犬がいる』は、犬であるなにかが白いということを言っている。そして、この言明が真であるたえには、『なにか』という束縛変項が及んでいるもののなかに白い犬がいなければならないが、犬性も白さもそこに含まれている必要はない」(p. 19)。 ・普遍論争と数学の基礎 普遍者の存在へのコミットメントでは、普遍論争における実在論、概念論、唯名論は論理主義、直観主義、形式主義という形で現れている。論理主義は「抽象的対象への束縛変項による指示を、それらの対象が知られているかどうか、特定可能かどうかにかかわらず、無差別に許す」(p. 21)。「概念論は、普遍者はあるが、それは心によって作られると主張する。直観主義は……抽象的対象への束縛変項による指示を、そうした存在者を前もって特定された構成要素から個別的に作り出されうる場合のみに許す」(p. 21)。「形式主義者は、無意味な記号の戯れとして古典数学を残す。この記号の戯れは、それでも、有用でありうる……また、数学者が、定理を紡ぎ出したり、相互の結果が一致することへの客観的基礎を見いだしたりすることに見事な成功を収めてきたことも、有意味性を含意するとは限らない。なぜならば、数学者のあいだでの一致の基礎として十分な物は、記号の操作を支配する規則にすぎないということもありうるからである」(p. 22)。 ・存在論へのコミットメントは科学理論の受け入れと同じである 「少なくとも合理的な考慮に従っている限り、われわれは、なまの経験の無秩序な断片をはめこみ配置できるもっとも単純な概念図式を採用する。もっとも広い意味での科学を包容する全体的概念図式が確定したならば、われわれの存在論は決定される。そして、この概念図式の任意の部分、たとえば、生物学的部分や物理学的部分をどのように構成するのが合理的であるかを決める考慮は、全体をどのように構成するのが合理的であるかを決める考慮と種類を異にするものではない。科学理論のある体型を採用することが言語の問題であるともし言ってよいならば、それと同程度に――しかし、決してそれを越えるわけではなく――ある存在論を採用することは言語の問題であると言ってよい」(p. 24)。 ・単純性の要求の結果としての物理主義 物理主義的な概念図式は「ばらばらの感覚的出来事を一緒にし、それらを同一の対象のさまざまな知覚とみなすことにより、われわれは、自身の意識の流れのもつ複雑さを、処理可能な概念的単純さにまで減少させるのである」(p. 25)。感覚をある一つの対象と結びつけるのも同じ単純性の要求の結果である。 物理的対象、クラスや属性、あるいは有理数なおみならず無理数からなる算術はこういった単純化のための神話であり、「この神話は、字義通りの真理(すなわち、有理数の算術よりも単純であるが、字義通りの真理をそのなかにばらばらな部分として含んでいる。同様に、物理主義の観点からは、物理的対象の概念図式は、便利な神話である。それは、字義通りの真理よりも単純であるが、字義通りの真理をそのなかにばらばらな部分として含んでいる」(p. 26)。 ・どの存在論を採用すべきか クワインの答えは「寛容と実験的精神」(p. 27)をもって(現象主義や物理主義など)各々の概念図式が、あるものが他のものに(完全に還元できないとしても)どの程度還元できるのか、数学ならプラトン主義的数学からどのようにして、どの程度まで独立となりうるのかを調べてみようというもの(p. 27-28)。 II. 経験主義のふたつのドグマ ・分析性と意味は対象と関係を持たない 分析性はカントによって意味によって真であると言われたが、意味と名指し、これと類比的に一般名辞の意味と外延は別物であることが顧慮されるべきである(たとえば前者の違いは「宵の明星」と「明けの明星」、後者の違いは「心臓を持つ動物」と「肝臓を持つ動物」で明らか)。 意味は対象から切り離されたものであり、「意味される存在者が必要であると思われてしまうのは、意味と指示の違いをよくわきまえないという、より前の段階で犯された誤りからくるのであろう。いったん意味の理論が指示の理論からはっきりと区分されるならば、意味の理論の主要課題が言語的形式の同義性と言明の分析性のふたつだけであることは容易に気付かれる」(p. 34-35)。 ・分析性の困難は同義性に基づく 分析的な言明は二種類に分けられる。分析的な言明には論理的に真である言明(「真であり、かつ、論理的小辞以外の構成要素をどのように再解釈しようとも真であり続ける言明」(p. 35)、たとえば「結婚していない男はだれも結婚していない」)と、同義性に基づく言明(「同義語を代入することによってそれを論理的真理に変えることができる」(p. 35)言明、たとえば「独身男はだれも結婚していない」)の二種類あり、後者は不明瞭である。分析性の主要な困難は第二のクラス、同義性の概念に依存しているものに存する。 状態記述では分析性を説明しきれない。「……そのうえで、ある言明が分析的であることは、それがあらゆる状態記述のもとで真となることとして説明される。これは、 ライプニッツの〈すべての可能世界で真〉を翻案したものである。だが、この形の分析性が所期の目的にかなうためには、『ジョンは独身男である』と『ジョンは結婚している』とは違って、その言語の原子言明がたがいに独立でなければならない。さもなければ、『ジョンは独身男である』と『ジョンは結婚している』の両方に真を指定する状態記述があることになり、その結果、この提案のもとでは、『独身男はだれも結婚していない』は、分析的ではなく、総合的となってしまう。つまり、状態記述による分析性の基準は、『独身男』と『結婚していない男』のような、論理外の理由で同義である語の対――つまり、分析的言明の〈第二のクラス〉を生み出すタイプの同義語の対――を含まない言語に対してのみ有効である。状態記述による分析性の基準は、せいぜいのところ、論理的真理の概念的再構成であって、分析性のそれではない」(p. 36-37)。 ・定義による同義性の説明は循環している 定義によって同義性を説明しようとするのはただの言い直しで、「以前からある同義性の関係を肯定する」(p. 38)こと、ただの報告だけでしかなく、以前からある同義性に依存している。 定義は(一)被定義項のより貧弱な記法への忠実なパラフレーズ、(二)被定義項の改良(たとえばカルナップ流の「解明」)、(三)被定義項への新たな意味の付与があるが、いずれにせよ「定義は、同義性を説明するものではなく、むしろ、それに依存しているのである」(p. 40)。 ・同義性は交換可能性か? 同義性は「真理値を変えることなき交換可能性」(p. 42)なのか? ここでの「同義性」は「認知的同義性」であり、「同義語を同義語で置き換えたときに分析的言明が論理的真理に変わるということが成り立ちさえすればよい」(p. 44)というものである。 これは一見して「必然的に」をつけることで分析性の説明になりそうであるが、「必然的に」はこの副詞を含む言語でのみ意味をなし、外延的言語では「真理値を変えることなき交換可能性は、求められているタイプの認知的同義性を保証しない」(p. 47)し、偶然の一致ではないという保証もない。つまり、外延的一致は分析性を背r津瞑する認知的動議性を与えることができない。 ・ここまでのまとめ 「最初、分析性は、意味というものから成る世界に訴えることによってもっとも自然に定義できるように思えた。検討の結果、意味に訴えることは、同義性あるいは定義に訴えることに席を譲った。しかし、定義は、鬼火のようにひとを惑わすものでしかないことがわかり、同義性は、分析性そのものに前もって訴えるときにのみ、もっともよく理解されることがわかった」(p. 49)。 ・意味論的規則に訴える 「日常言語において分析的言明を総合的言明から区別するのがむずかしいのは、日常言語が曖昧であることから来るのであって、明示的な〈意味論的規則〉を備えた精確な人工言語ではこの区別は明確であるとしばしば言われる。しかし、ここには混乱があることを、私は以下で示そう」(p. 49)。 仮に明示的な形で「言語L0において分析的」を規則で定めたとしても、ここでの「分析的」は理解されていない語である。「われわれはどのような表現がこの規則によって分析性を帰属されるかは理解する。しかし、この規則がそうした表現に帰属させるものが何であるかをわれわれは理解していないのである。要するに、『言明Sが言語L0において分析的であるのは……』という仕方で始まる規則をわれわれが理解できるためには、われわれは、それ以前に、一般的関係名辞『において分析的』を理解しているのでなくてはならないのである」(p. 50)。さらに、これで定まるのは「L0において分析的」であって、「分析的」や「において分析的」ではない。 意味論的規則の第二の形:「これこれの言明が分析的であると言うものではなく、これこれの言明が真である言明の一部であると言うだけのもの」(p. 51)。「そのうえで、分析性は次のように派生的に確定できる。ある言明が分析的であるのは、それが(単に真であるだけでなく)意味論的規則によって真であるときである」(p. 52)。 しかしこれは説明されていない「分析性」という語の代わりに説明されていない「意味論的規則」という句に句訴えているだけである。意味論的規則を他の言明から区別するのはそれが「意味論的規則」という見出しのもとに現れているという事実のみに存しており、だとすればこの見出しそのものは無意味である。そもそも特権的に「意味論的規則」とされるべき言明はない。「『公準』という語は、何らかの探求の行為と相対的にのみ意義を持つ。われわれがこの語を言明のある集合に適用するのは、そうした言明を、それから出発して、考慮に値すると考えられた何らかの一組の変換によって到達できる他の言明との感気で、われわれが考えている――それは、一年という期間にわたるかもしれないし、ある時点に限ってだけのことかもしれないが――というだけのことである」(p. 53)。公準と同じように意味論的規則もまたそうである。 ・第二のドグマ:還元主義 還元主義に基づき、「ふたつの言明が同義であるのは、それらが経験的検証あるいは反証に関して同様であるとき、かつ、そのときに限られる」(p. 53)という検証理論は一見して認知的同義性を与えるように見える。検証理論は直接的報告をする言明と経験との関係に依拠しているが、直接的経験についての言明から言明と世界についての言明への翻訳(これが可能であるとするのが根元的還元主義)はうまく行かなかったため、カルナップはこれを放棄した。 「しかし、還元主義のドグマは、より微妙かつ薄められた形で、経験主義者の思考に影響を与え続けている。次のような考えはまだ消え去っていない。すなわち、ここの言明、ここの総合的言明には、可能的な感覚的出来事から成る、ふたつのある決まった領域が対応しており、第一の領域に属する感覚的出来事のどれかが生ずれば、それは、等の言明が真である公算を高めるように働くが、他方、第二の領域に属する感覚的出来事の出現は、その公算を低めることになるという考えである」(p. 61)。しかし「外的世界についてのわれわれの言明は、ここ独立にではなく、ひとつの団体として、感覚的経験の裁きに直面するのである」(p. 61)。 二つのドグマは言明の真理性が言語と言語外の事実の両方に依拠している、ひいては言語的要因と事実的要因とを分離できるという考えに基づいている。「われわれが経験主義者であれば、事実的要因は、確証的経験の範囲と言うことに帰着する。言語的要因がすべてであるような極端な場合においては、真である言明は分析的である」(p. 62)。しかしこれまで見てきたように分析的言明と総合的言明の線引きは困難であり、クワインに言わせれば両要因について語ることはナンセンスである。「科学は、全体として見られたとき、言語と経験の両方に依存している。だが、この二元性は、個々別々に考えられた科学的言明においては有意味な仕方では見いだせないものなのである。……言明を単位とする場合であってもなお、われわれは格子を細かくしすぎているということである。経験的有意性の単位は、科学全体なのである」(p. 62-633)。 ・文化的措定物、ホーリズム ホメロスの神々も物理的対象も等しく「文化的措定物」であり、「経験主義者として、私は、科学という概念図式が、究極のところ、過去の経験をもとに未来の経験を予測するための道具であると考えることをやめはしない。物理的対象は、便利な仲介物としてこの場面に概念上導入されたものである――それも、経験から定義される者としてではなく、認識論的にはホメーロスの神々と比べられるような、還元されえない措定物として導入されるのである。……物理的対象の神話が多くの他の神話よりも認識論的に優れているのは、経験の流れのなかに扱いやすい構造を見いだす手だてとして、それが他の神話よりも効率がよいことがわかっているためである」(p. 66)。 体系は経験によって一律に決まるものではない。「数学、自然科学、人文科学を含む科学全体もまた、同様に、しかし、もっと極端に、経験によって一通りに決定されることはない。体系の縁は経験と合致している必要があるが、残りの部分は、精巧な神話や挙行をも含め得、法則の単純性をその目標とするのである」(p. 67)。 カルナップの外部問題と内部問題の区別は分析的/総合的の区別を前提としたものであるが、この区別を拒否するクワインは「存在論的問いは、自然科学の問いと同じ身分をもつ」(p. 67)として内部問題の決定についての問題を外部問題のそれのように扱う。「カルナップやルイスやその他の人々は、さまざまな言語形式や科学の枠組みのあいだでの選択の問題について、プラグマティックな立場を取っている。しかし、かれらのプラグマティズムは、分析的と総合的とのあいだにあると想定された境界のところで終わりを告げる。こうした境界を拒むことで、私はより徹底したプラグマティズムを指示する」(p. 68)。 III. 言語学における意味の問題 ・言語学において意味は不要である 辞書編纂者、言語学の意味論的部門が関わるのは意味ではなく同義性である。「辞書編纂者は、他の言語学者と同じく、言語的形式を研究するのである。かれがいわゆる形式言語学者と相違する点は、ただ、かれが、複数の言語的形式をかれ独自のやり方で相互に関連づける――すなわち、同義語どうしを関連づける――ことだけである。言語学の意味論的部門――とりわけ、辞書編纂――の特徴は、意味に訴えることにあるのではなく、同義性にかかわる点にあるということになる」(p. 73)。意味は指示でも心的対象でもなく、それどころか「意味」は使われなくても問題ない。 ・有意な言語形式の確定の基礎は音素 未知の言語における有意な記号列のクラスKの範囲を確定させるためには、Kに属する記号列の長さと同じく「厚みの次元」つまり「同じ任意の長さを持ち、音感上十分似通っているふたつの発話があったとき、それらが、Kのたがいに若干異なるふたつの要素の出現なのか、それとも、Kの同一の要素の互いに若干異なるふたつの出現なのか」(p. 75)も知られる必要がある。「厚みの問題とは、音感上の相違のうちで、どれが直接関連をもつものとされ、まあ、どれが取り上げる必要のない単なる発声やアクセントの癖とされるのかという問題である」(p. 75)。 厚みの問題は音素(phoneme)、――すなわち「単一の音のことであるが、それは、当の言語の目的にかなう限り最大限粗く区別される。微妙に異なるふたつの音は、何らかの発話において一方を他方に置き換えることによって、もおの発話の意味を変えることが可能であるのでなければ、同一の音素とみなされる」(p. 75)――の列挙分類により解決される。 「音素の一般的概念は、関係的一般名辞『xは言語Lの音素である』――『x』と『L』を変項とする――かまたは、『xは話者sの音素である』――『x』と『s』を変項とする――で与えられる。そこで、言語Lに関しての文法学者の仕事は、Lの音素のどの列がLにおいて有意であるかを見いだす仕事であると述べられる。このように、文法学者の目的を述べるには、われわれがそうなるだろうと認める用意があった『有意』だけでなく、『音素』もまた必要とされるのである」(p. 76-77)。 ・交換可能性 交換可能性という概念が意味を成すために答えられるべき問い:「(a)ふたつの形式が交換可能であるとされる文脈的位置がもしどれであってもよいのではないとすれば、それはどのような位置なのか。(b)形式が交換可能であるというのは、何を変えずに(salvo quo)なのか。ひとつの形式を他のもので置き換えることは、どのような文脈においても、なにかを変化させる――少なくとも形式そのものは変化する。(b)が訪ねているのは、こうした交換がどのような特徴を不変とすべきかである。(a)と(b)に対する答えが異なるごとに、それは、交換可能性の相異なる概念を与える。そのうちのあるものは文法的対応を定義するのに適切であり、また、おそらくは、別のものは同義性を定義するのに適切であろう」(p. 85)。 第2章(ドグマ論文)では(b)には「真理」で答えようとし、(a)については「〈単語〉についての選考する把握に訴えるという不十分な手段に頼った」(p. 85)。そして、外延的な言語では真理値を変えない交換可能性は同義性の条件としては弱すぎるし、循環を含むことがわかった。「そこで議論されていた同義性の問題が、辞書編纂者にとっての問題と同一であるかは明瞭ではない。なぜならば、そこでわれわれがかかわっていたのは〈認知的〉同義性であり、それは、辞書編纂者ならば自身の翻訳やパラフレーズにおいて保存したいと思うものの多くを切り捨てているからである。たしかし、辞書編纂者ですら、想像的連想や詩的価値においてはっきりと違う多くの形式を、同義であるとすることをためらわない。だが、かれの目的にとって最良の同義性の意味は、たぶん、先に考えたような認知的意味での同義性よりも狭いものであろう。……すなわち、辞書編纂者は(b)に対して真理をもって答えとすることはできない。彼が同義性において求める交換可能性は、同義語を代入したときに、真である言明は真であり続け、偽である言明は偽であり続けることを保証するだけのものであってはならない。それは、もとの言明が、全体としてともかく同義である言明に移ることを保証するものでなければならない」(85-86)。 ・同義性の問題は長い文節に関してアプローチされるべき 理由その一:「第一に、短い形式に対する同義性のための交換可能性という基準はどれも、明らかに、ひとつの言語内部の同義性にその範囲を限られる。……異なる言語のあいだでの同義性は、第一義的には、ここの言語に特殊な文脈から切り離して考察しうるほど長い、談話中の分節のあいだの関係でなければならない」(p. 86-87)。 理由その二:同音異義語、多義語を「言語形式の概念が同義性の概念に依存してしまう」(p. 87)ことを避けて扱うことができる。概念の切り分けへの依存ということか。 理由その三:小さな部分同士での同義性を気にすることなく「ある単語を説明する際、われわれは、きわめてしばしば、不十分であって部分的にしか同義でない表現と、何らかの注釈で満足しなければならない。たとえば、『腐ったaddld』という語を説明するのに、われわれは『悪くなったspoiled』と言い、『卵について言われる』と付け加える」(p. 87)。 ・辞書編纂者と文法学者の仕事の類比性 辞書編纂者の仕事は、「究極的には、ある第一義的な意味で同義でありうるだけ十分な長さを持つ記号列の、同義である対の目録を作ることにすぎない」(p. 88)。文法学者の仕事は、優位な記号列の列挙である。 しかしいずれも完全な目録を作ることができない以上、間接的になされる。文法学者の場合は「数え上げることができる原子的単位のクラスをひとつ固定し、ついで、それらを組み合わせて優位な記号列のすべてを得るための規則を提出することによって」(p. 88)行い、辞書編纂者も間接的に、「数え上げることができる短い言語的形式のクラスをひとつ固定し、ついで、こうした短い計式から複合される十分に長い形式すべてについて、本当の意味での同義的表現を構成する方法をできるだけ体系的に説明する」(p. 88)ことで行う。 ・言語と世界は分離できない カッシーラーやウォーフを引き合いに出しつつクワインが言うところでは、個々の言語間での同義性の定義にあたっては、話し手の主観的要素(「話者の知られていない過去から持ち込まれるもの」(p. 92))以上に、言語とそれ以外の世界が切り離されることはできず、そこに言語間での同義性の定義の困難の理由がある。 ・翻訳は部分から全体の推定である 辞書編纂にあたって「いくつかの語彙を獲得する際に当然とる方針は、結局のところ、相手の文化がわれわれの文化と重なっている部分を利用」(p. 93)し、そこから一連の手がかりや推量を用いて進んでゆく。それから対象言語の文を「短い構成要素に分解し、最初になされた文どうしの翻訳と両立する仕方で」(p. 94)試験的な翻訳をする。これに基づいてこうした要素の新しい結合の翻訳の仮説が立てられる。そして観察を続けて矛盾がないかを見張る。 しかし「最後見えられる辞書は、明らかに、ヘラクレスの背丈をその足だけから推測するような、部分から全体を推測することの一例である。だが、ひとつの違いがある。ヘラクレスをその足から再現しようとする場合、われわれには謝る危険があるが、われわれの誤りを誤りとする何ものかがあるという点に慰めを見いだすことができる。辞書の場合には、同義性の何らかの定義がない限り、われわれは課題そのものの定式をもたない。それらに照らして、辞書編纂者が正しいとか誤っているとするようなものを、われわれは何ももっていないのである」(p. 94)。 IV. 同一性・直示・物化 ・直示は同一性と時空間的広がりに基づく ヘラクレイトスの川が引き合いに出されつつ論じられるところでは、直示は同一性に基づいており、時間的及び空間的な広がりがあってはじめて瞬間的対象の諸サンプルは一つの対象にグループ化される。このようにしてn個の直示は一つの対象を指しているとみなされ、「その対象の範囲としてどれだけが意図されているのかを推測するに足りるだけの帰納的根拠を、聞き手に与えられるようになる(p. 102)。ある川を何度も「これはカイステル川だ」と指すことで、聞き手はそこで指されているのが水分子の集まりやそれらの瞬間的段階ではなく、川であると分かる。 ・個別名辞と一般名辞の直示的説明の類比性 「カイステル川」のような個別名辞の直示的説明と「赤」や「川」のような一般名辞のそれには類比性がある。「私が、赤が見える方向を指差して、『これは赤だ』と言い、このことをある時期にわたってさまざまな場所で繰り返すならば、私は、赤さという属性の意図された広がりを計るための帰納的根拠を提供することになる。違いは、ここで問題となっている広がりが概念的広がり、つまり、一般性であって、時空的広がりではないということだけであると思われる。……実際のところ、物理学によれば、原子以下のレベルを除いたすべての物理的対象は、空間的に離れた部分からできあがっている。それならば、『赤』を『カイステル』と同様に、空間と時間に広がっている単一の具体的対象を名指すとなぜ考えないのか」(p. 103)。 ・広がりを持つ対象の概念化は利便性のゆえである a(紀元前四〇〇年頃のリディアのカイステル川の瞬間的段階)、b(その二日後のカイステル側の瞬間的段階)等の瞬間的段階を川同族性ではなく、同一のカイステル川という単一の対象の一部であるとみなすのが便利なのは、「それによって関係づけられる対象を、たがいに区別されるべき複数のものであるとする必要」(p. 104)がなくなり、主題を形式的に単純化できるからである。「この手法は、オッカムの剃刀を局所的あるいは相対的な仕方で適用することである。すなわち、ある一連の話に現れる存在者が、a、bといった多数のものから、カイステル川というただひとつのものに還元されるからである。しかしながら、全体的あるいは絶対的な観点からすれば、この手法がオッカムの剃刀と正反対であることに注意されたい。なぜならば、a、bといった複数の存在者は存在領域から追い出されたわけではなく、ただ、カイステル川がそれに追加されただけだからである。カイステル川について区別せずに語るのではなく、a、bなどを区別して語らねばならない文脈が依然としてあるのである。それでも、カイステル川がわれわれの存在論への便利な追加物であるのは、それが経済性をもたらすような文脈のせいである」(p. 104-105)。 ・段階の和としての普遍者 川や水の瞬間的段階の和としてのカイステル川、赤いものの和としての赤、所定の人の和としての所得階層のような「具体者としての普遍者」という考えは、三角形や正方形の場合にはこれらを集めて合わせても大きな長方形や一つの大きな正方形になり(p. 108-109)、うまくいかない。「よって、具体者としての普遍者という理論は、赤の場合にはたまたまうまくいったのであるが、一般には失敗に終わる。普遍者一般が、存在者として、われわれの存在論に入り込んでくるのは、次のような仕方によってであると想像できる。最初に、われわれは、先に考察されたようなパターンに従って、時空的な広がり持つ具体的なものを導入するという習慣を形成する。赤は、カイステルやその他のものと一緒に、具体的な物として登場する。最後に、三角形や正方形やその他の普遍者が、赤やその同類との誤った類比をもとにして、すべりこむ」(p. 109)。「したがって、われわれは、ふたつの相異なるタイプの統合を認めることになる。つまり、具体的部分がひとつの具体的全体に統合されることと、具体的事例がひとつの抽象的普遍者に統合されることである。われわれは、『ある』のふたつの意味とのあいだの違いを認めることになる。すなわち、『これはカイステルである』と『これは正方形である』の違いである」(p. 110-111)。思うに、これはカルナップが『構築』で口を酸っぱくして言っていたクラスと全体の違いを思い出させる。 ・概念図式をまるごと問題にすることはできないが、一部ごとに改良することはできる 「われわれの科学のうちのどれだけが言語によって形作られ、どれだけが実在の反映であるか」という問いに答えるためには言語のみならず世界についても語らなければならないが、そのためには言語の概念図式を世界に押しつけざるをえないため、この問いに答えようとすれば窮地に追い込まれてしまう。蓋し、一見して分かるが、これは分析命題と総合命題の区別の拒否に呼応している。 我々は自身の概念図式から逃れることはできないという宿命論的結論に飛びつく必要はなく、「われわれは、概念図式を、その一部ごとに、少しずつ変えていくことができ、その間、我々を支える物は、発展して行く概念図式そのもの以外にはない。……われわれは、自身の概念図式、自身の哲学を、それに頼りながらも、少しずつ改良していくことができる。だが、われわれには、それから離れて、概念化されていない実在との客観的な比較を行うことはできない。よって、ある概念図式が実在の鏡として絶対的に正しいかどうかを探るということは、無意味であると私は考える。概念図式の根本的変化を評価するためのわれわれの基準は、実在との対応という実在論的基準ではなく、プラグマティックな基準でなければならない。概念は言語であり、概念と言語の目的は、コミュニケーションと予測における効率性である。これが、言語、科学、哲学の究極的な任務であって、この任務との関係で、概念図式は最終的な評価を受けるのである」(p. 117)。 VI. 論理学と普遍者の物化 ・述語と命題関数は何かの存在者を名指すのではない 述語「F」は属性やクラスの変項としてみなされることがあるが、クワインは「「さまざまな真である言明の形式を体現する図式もしくはダイアグラムにすぎないと考える」(p. 164)こともできるとする。「は質量をもつ」や「は延長をもつ」は何かの名前であると見なす必要はない。真理関数「p」は命題という抽象的存在者を名指すものとされてることがあり、フレーゲなどによって真理値を指すとされるという解釈もあるが、どちらも人工的中井しゃくであり、「命題というものをもし認めなければならないとすれば、フレーゲが指摘したように、それを、言明の意味とみなされるべきであって、言明によって名指されるものとみなされるべきではない」(p. 165)。 ・述語や真理関数は図式である しかし真理関数「p」や述語「F」は量化子に従属する束縛変項として用いられることはないため、何らかの存在者をその値としてとるものとみなす必要はない。これらは「ダミー[=文の形式を示すためだけの無意味な]の述語、文ダイアグラムのなかの空所以上のものとみなす必要はないのである」(p. 164)。これらやこれらを組み合わせてできた真理関数は「文ではなく、そこに描かれた形式をもつ現実の言明がすべて真であるような図式もしくはダイアグラムとみなされる。『p』や『q』といった図式文字は、複合的言明の構成要素となっている言明の代わりとして図式中に現れている。それは、ちょうど、『F』や『G』といった図式文字が、述語の代わりとして図式中に現れているのと同じである」(p. 165-166)。「『x』が数字の代わりをするように『p』が言明の代わりをするということ依然として正しい。しかし、束縛可能な『x』が数を値としてとるのに対して、束縛不可能な『p』はそもそも値をとらない」(p. 167)。 このように「p」や「F」を図式と見なすべきであるという主張は、図式文字を束縛変項と同化させることによって談話における存在論的コミットメントを謝ってとらえさせてしまうことにある。 (∃x)(xは犬である .xは白い) と言う時に「犬」や「白い」といった語を何かしらの対象の名前と解釈することは誤解を招きやすいが、この言明を(∃x)(Fx .Gx)という形式のものと考えて「F」と「G」を束縛可能なクラス変項と考えるときにはこのようなことがなされている。束縛できるクラス変項がほしければ(∃x)(x∈y .x∈z)という命じて貴兄式に切り替えることができる。 VIII. 指示と様相 ・指示的不透明性 代入可能性はあらゆる名辞について必ずしも成立しないが、これはそのような対象が純粋に指示的ではないことを示している。 例。「ジオルジオーネ=バルバレッリ」と「ジオルジオーネはその体格のゆえにそう呼ばれた」。「キケロ=タリ」と「『キケロ』は三文字から成る」。 言明の中で指示的に現れる名前は「……ことを知らない」や「……と信じている」といった文脈、及び「必然的に……」、「可能的に……」といった様相的文脈の中に埋め込んで作られるより長い文の中では指示的には現れない。これは「指示的に不透明」であると呼ばれる。 たとえば、「タリはカティリーネを告発した」は指示的に現れる。「タリがカティリーネを告発したことをフィリップは知らない」という真なる文に「キケロ=タリ」にもとづいた代入を施して「キケロがカティリーネを告発したことをフィリップは知らない」とすれば、この文は偽になる。したがってここでの「タリ」という名前の出現は純粋に指示的でないことがわかる。 様相的文脈の場合の例。「9は必然的に7よりも大きい」は真であるが、「9=惑星の数」に基づいてできた「惑星の数は必然的に7より大きい」は偽である。ここで「9」は必ずしも指示的ではない。 ・指示的に不透明な文脈の量化は不当である 単称名辞は記述によって書き換えられ、単称名辞によって名指される対象は量化の値として考えられる以上、指示的不透明性は単称名辞のみで起こる現象ではなく、量化と関連して現れもする。 名詞が非指示的に出現している場合についていえば、例えば「ジオルジオーネはその体格のゆえにそう呼ばれた」という指示的に不透明な文脈に存在的一般化(「ソクラテスは死すべき者である」から「(∃x)(xは死すべき者である)」を引き出す操作)を施せば、「(∃x)(xはその体格のゆえにそう呼ばれた)」、すなわち「何かはその体格のゆえにそう呼ばれた」が得られるが、「これは、明らかに無意味である。もはや『そう呼ばれた』が参照すべき名前がこの前にはないからである」(p. 227)。一方純粋に名辞の指示的な出現に存在的一般化が適用されるとすれば、正しい結論が得られる。例えば「(∃x)(xはその体格のゆえに『ジオルジオーネ』と呼ばれた)」、すなわち「何かはその体格のゆえに『ジオルジオーネ』と呼ばれた」である。 「……ことを知らない」や様相的文脈といった指示的に不透明な文脈の例。「タリがカティリーネを告発したことをフィリップは知らない」に存在的量化を適用すれば、「(∃x)(xがカティリーネを告発したことをフィリップは知らない)」すなわち「何かは、それがカティリーネを告発したことをフィリップが知らないようなものである」となる。「この対象、すなわち、カティリーネを告発したのだが、フィリップはその事実を知らないでいるような対象とは、何だろうか。タリ、すなわち、キケロだろうか。しかし、そう考えることは、(11)〔「キケロがカティリーネを告発したことをフィリップは知らない」〕が偽であるという事実と相反する」(p. 230)。その一方で、「(∃x)(xはカティリーネを告発した)ということをフィリップは知らない」という言明は偽であるが、元の文から存在的一般化によって引き出すことができる。したがって、「タリがカティリーネを告発したことをフィリップは知らない」の場合には存在的量化が許されないことになる。 様相的文脈の例。「9は必然的に7よりも大きい」から「(∃x)(x)は必然的に7よりも大きい」が得られる。この何者かは9、すなわち惑星の数であると考えるならば、「惑星の数は必然的に7より大きい」が偽であるという事実と相反する。「要するに、必然的に7よりも大きいと言うことは、数に帰される特徴ではなく、その数を指示する仕方によって決まるものである」(p. 231)。 以上の例から得られる結論はこうなる「変項の指示的に不透明な文脈に対して量化子を適用し、しかも、子自適に不透明な文脈の外側から量化子によってその変項を束縛しようとするならば、その結果得られるものは通常、(26)-(31)といったタイプであって、もともと意図されていなかった意味をもつか、もしくは、ナンセンスになってしまう。ひとことで言えば、指示的に不透明な文脈の内部への量化は一般的に正当なものとはなりえないのである」(p. 232-233)。 ・必然性が帰される相関とそうでない相関がある 「(∃x)(x)は必然的に7よりも大きい」に関して、7よりも大きい数xを定める条件は様々にあり、その中には次の例の前者のように「x>7」をその必然的帰結とするものもあれば、後者のようにそうでないものもある。 (32)x=√x+√x+√x≠√x (33)ちょうどx個の惑星が存在する 「必然性が帰されるのはただ、『x>7』とxを指定する仕方とのあいだの相関に対してなのであるーー(32)との関連では必然性が帰されるが、(33)との関係ではそうとならない」(p. 234)。 ・様相は分析性で説明できない 「9は必然的に7よりも大きい」に存在的一般化を適用することで生じるパラドキシカルな結論における問題の核心は必然的に同値でないような二つの条件のどちらによっても数xをただ一つに定めることができるという点にある。 この問題に対し、「こうした対象すべてを排除し、xをただひとつに定めるような条件はどれも相互に分析的に同値であるような対象xのみを残す」(p. 237-238)とすれば、様相的文脈での指示的不透明性は一掃され、様相的文脈の内部への量化が合法になる。「こうした例は、量化される変項の値が内包的対象に限定されるかぎりは、様相的文脈の内部への量化に反対する理由がないことを示唆している。この限定の意味するところは、ともかくこうしたたぐいの量化のためには、クラスを認めず、クラス概念もしくは属性だけを認めるということである。この場合、同一のクラスを決定するふたつの解放文であっても、たがいに分析的に同値でないかぎりは、異なる属性を決定すると考える。……こうした存在論の不利な点は、それが認める存在者の個体化の原理が常に、同義性もしくは分析性といったたぐいの概念に依存していることである」(p. 238)。 しかしクワインによればこれは不十分な解決法である。仮にxをただ一つに定めるような以下のような条件があるとする(Aは内包的対象、pは任意の真である文の代わり)。 A=(ιx)[p .(x=A)] pが表す文が分析的に真でない限り、この条件全体も分析的ではない。蓋し、このpには(32)も(33)も入りうるのである。したがって、「xをただひとつに定めるような条件はどれも相互に分析的に同値である」という要請はxを内包的対象とするだけでは守られる保証がない。 ・量化様相論理を守るにはアリストテレス的本質主義への回帰が必要となる 量化様相論理を維持するには「量化の変項の値がたがいに分析的に同値でない条件によって決定可能であろうとも、様相的文脈の内部への量化は意味をなすと論じるか、そう決めることえなくてはならない。唯一の希望は、(32)や(33)のような状況を受け入れ、かつ、それにもかかわらず、問題となっている対象xは必然的に7より大きいと言い張ることである。これが意味することは、xを特定するやり方のあるもの、たとえば(33)に対しては、差別的な態度をとり、別のやり方、たとえば(32)に対しては、それが対象の〈本質〉をよりよく示すもんとして特に目をかけることである。こうした観点からすれば、(32)からの帰結は、9である(かつまた、惑星の数でもある)対象について必然的に真であるとみなされうるが、(33)からの帰結のあるものはこの対象について偶然的にのみ真であるとみなされるのである。 様相的文脈の内部への量化に固執するならばアリストテレス的本質主義(三四頁参照)へのこうした回帰が必要となるということは明白である。対象は、どのような名前のもとであろうが、また、名前がなかろうが、それ自体で、ある特徴は必然的にもち、他の特徴は偶然的にもつとみなされねばならない」(p. 241-242)。 本質主義はカルナップやルイスの分析性に訴えて必然性の説明というアイディアと対立する。「分析性に訴えるならば、対象の本質的特徴と偶然的特徴の区別は、その対象がどのように特定されるかと相対的にのみ可能であって、絶対的にはできないと言うしかない」(p. 243)。 ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』 直示的定義を理解するためにはすでに何らかの言語ゲームに通じていなければならない(30と31節が実例) 46-50節では要素ないし標本はあるともあらぬとも言え、これらは叙述の道具であるという。これはカルナップの言う枠組みというものではないのか!? 正確さの単一の理想像などない。不正確であることは使用不能を意味しているのではない。しかじかのものの正確さを問うためにはまず目的を問題にする必要がある。88節。 知識、存在、対象、自我、命題、名などを用いてものの本質を把握しようとするならば、それらの日常言語における用法を問うべきである。116節他。 矛盾の解決は哲学の仕事ではなく、矛盾が解決される前の状態を展望できるようにすることが哲学の仕事である。125節。 セラーズ『経験論と心の哲学』 第一章 哲学と科学的人間像 哲学の仕事は「日常的人間像」と「科学的人間像」を一つのビジョンに融合させることである。日常的人間像とは、人間が自らを世界の内なる存在として自覚するに至った枠組みであり、これによって人間が人間となったところの枠組みである。しかし科学的人間像と日常的人間像の対立は反省と訓練を経た批判的な人間理解と、科学以前の批判を欠いた素朴な人間理解との対照ではない。 日常的人間像は「最初の人間像」とでもいったものを精錬(経験的な洗練とカテゴリー上の洗練)・精密化したもので、前者は「ジョン・スチュアート・ミルが定義した帰納的推論の規準のようなものにより、さらにこれを統計的推理の規準で補完したうえで、経験されたものとしての世界の諸内容を加えたり引いたりするものであるが、そのさい経験内容はこの枠組みによって経験され、かつ経験内容相互間に成り立つと信じられる相関関係から来るものである。したがって、私が日常的人間像と呼んでいる概念的枠組みは、適切な意味で、それ自体科学的な像であるといえる。訓練を経てかつ批判的であるばかりでなく、『帰納的相関』とでもいう項目にでももとめうるような相をもつ科学的方法を使用するものである。しかし、ひとつのタイプの科学的推理だけは、取り決めによち含まないものとする。それは近く不可能な存在物と、それらに関わる原理を要請することによって、知覚可能な事物の振る舞いを説明するタイプの推理である」(p, 12)。 日常的像の第一義的な対象は「人物」(person)であり、とりわけ「日常的」人間像へと洗練される前の「原初の」人間像においてはあらゆるものが人物であり、徐々に「人間ばなれ」していくのがその洗練の過程である(蓋し、基本的な認識上のカテゴリー・分類における基本的対象が人物ということであろうか)。三角形が平面図形の一つのあり方であり、女性が人物の一つのあり方であるように「原初の」人間像ではあるものがしかじかのものであることは、「人物である」の一つのあり方だった。即ち、人物が持つような性格を持ち、人物がするような行為を行う。 日常的/科学的像の対照的な点の一つは、知覚・内観可能なものに(認識の対象を?)限定しようということ(日常的像)と、知覚可能なもの同士の相関を説明するために知覚不可能な対象や出来事を要請・措定する考え方(科学的像)とのそれである。 ・日常的対象と科学的対象の関係 日常的対象と知覚不可能な粒子のシステムとの関係は、(1)同じものである、(2)実在するのは前者であり、後者は前者を表現する「抽象的」ないし「記号的」な表し方である、(3)前者は実在の「現象」であり、実在は後者によって構成される、という三つ(の考え方)がある。 (1)は、まずシステムがその部分の持たない特性を持ちうる(これは日常的対象が知覚可能なものから構成される、という主張を念頭に置いている)のは、梯子ではない木片から梯子ができている(木片はしかじかの形や大きさを持ち、これが一定の仕方で関係づけられることで梯子となる)ような仕方でのみ矛盾を含まないでいられる。「したがってシステムがその諸部分がもたない特徴をもつということに問題が生じないのは、これらの諸特性が、諸部分がしかじかの性質を有し、かつ、しかじかの仕方で関係づけられているということである、という場合である。だがピンク色の氷の立方体の場合はこのように扱えないことは明白であろう。粒子のなすあるシステムがピンク色の氷の立方体であることは、諸粒子がしかじかの知覚不可能な性質を有し、ほぼ立方体に近くなるように相互に関係づけられていることだ−−と言うのは、本当らしく思えない。……それは窮極的に等質的なものとしてわれわれに立ち現れている」(p. 47)。ここから以下の原理が示唆される。 「もしある対象が厳密な意味において諸対象から成るシステムであるなら、当の対象のすべての特性は、その構成要素がしかじかの性質をもち、しかじかの関係にあるという事実で成立しているのでなければならない あるいは、大まかに言って 諸対象のなすシステムのどの特性も、その構成要素の特性、構成要素間の関係で成立している」(p. 48)。 したがって(1)はありえない。 (3)は日常生活での常識的枠組みそのものに対する反論である。「物的対象は本当は知覚可能な性質をもたないという主張は、正しく理解するなら、ある種類のものについて真であると一般に信じられていることがじっさいには偽であるという主張とは類比的なものではない。……それはひとつの枠組みの内部での信念の否定ではなく、当の枠組みに対する疑問提起である」(p. 49)。だから多分、(3)はある枠組み内部のものを別の枠組み内部のものと関係続けていることになり、このように考えることでは両者の関係を云々言うことはできない。 ・二元論 「日常的世界の諸特徴で機械論的説明においてなんの役割も果たさないものは、デカルトと新自然学の解釈者たちによって知覚者の心へと追いやられた」(p. 52)。 「哲学者たちをして知覚可能な事物の実在性を否定させたのと同じ考察が、かれらを人間についての二元論的理論へと至らしめた。なぜならもし人間の身体が粒子のシステムであるなら、思考と感情が物理的粒子の複雑な相互作用として解釈できるのでないかぎり、身体は思考と感情の主体にはなりえない」(p. 53)。これによって人間を思考や感情を持つ主体として捉える日常的な枠組内の持つ記述と説明の力を失うことなく物理的粒子の複合体としての人間によって置き換えることができるようになった。 二元論では感覚や感情や概念的思考が物理的粒子の複雑な相互作用として解しうること、つまり人間は複雑な物理的システムと解しうるということを否定した。しかし、「椅子とはほんとうは知覚不可能な粒子のシステムで、これが日常的な枠組みにおいては『色のある固いもの』として『現われる』のだ……と言う用意があったけれども、人間それ自体が複雑な物理的システムであって、日常的像において人間というものがそうあるような種類のものとして『現われる』と言う覚悟はできていなかった」(p. 53)。 しかし二元論だと神経生理学的過程と概念的思考との関係については、後者に対応する脳状態はないと考えられる(現にデカルトはそう考えた)。 脳と感覚の関係についての難問から、この難問は科学的像を本気で受け取ったことから生じるものであって科学的像の要請する存在物は「記号的な道具」だという(2)の見解を受け入れたくなる誘惑が生じる。 ・思考の機能主義的理解 思想(概念的思考?)を脳過程と同一視する障害になるのは、概念的思考が質的なものとして我々に対して現れるという考えである。そうではなく、思想は「言語に類比的な『出来事』であってそれが言語において外的な表現を見出すのだと理解される」(p. 58)。思考の概念は言語との類比によって得られた概念である(p. 60)。むしろ思考はその演ずる役割として理解されるもので、思考とは言語活動との類比によって得られる概念である。チェスの駒の概念、駒の動きという概念が「われわれ自身がチェスを指すときにあらわれる駒とその動きに類比的なある役割を演じている諸項目及び変化の概念ということになろう。これら諸項目はなんらかの固有内在の性質(形、大きさなど)をもたねばならないが、これらの性質をわれわれは『われわれ自身のチェス盤上で起こる変化に構造上類似した一連の変化を可能ならしめるもの』というふうに考えているのである」(p. 61)。思考の場合も事情は同じであり、「言語において分が相互に関係しあい、かつ文が使用される文脈とも関係している仕方と類比的な関係をもったパターンのうちにあらわれうる項目」(p. 61)である。思考とはその演ずる役割によって理解され、思考とは言語活動との類比によって得られる概念である。これが機能主義の元祖。 概念的思考のように、感覚や感じは神経生理学的過程と同一視できそうなものだが、どういうわけかそうだとは思われにくい(概念的思考は言語活動と、感覚は原因に類比的であるという点において両者は類似しているにもかかわらず)。その理由は、感覚が「窮極的な等質性」を持つ(たとえば、色の広がり領域はどんなに分割してもその色の広がり領域である。。青い視界はどんなに細切れにしても青いままというわけ)のに対し、神経生理学的状態(たとえば一群のニューロンの状態)は細切れにしていけば単一のニューロンの状態に行き着くわけで、窮極的には非等質的である。つまり、48ページの原理は物理的粒子への感覚の還元不可能性において成り立たなくなる)。「知覚可能な諸性質のもつ『窮極的な等質性』は、とりわけ、物的対象の知覚的な諸性質を物理的粒子から成るシステムの複雑な諸特性と同一視することを妨げてきた」(p. 65)。 科学的像と日常的像(物理的粒子と日常的対象の知覚可能な性質、あるいは感覚皮質と意識されている感覚にも類比的)との関係は同一ではなく対応であるとする二元論的解決は不満足な解決である。日常的な世界をなす「現れ」を構成するために、そして色を持った対象が存在するように見えるのを説明するために感覚は不可欠である(感覚と物的対象は単なる対応であってノータッチというわけにはいかないということであろう)。「しかし科学的像は一つの完結した説明システムとして出てきているものであり、もしわれわれがここまで解釈を進めてきたように科学的世界像が解釈されるとすれば、感覚の説明は神経生理学の構成概念によることになろうが、これがいまの論証に従えば、この構成物は窮極的な等質性を含んではおらず、等質性の表れは日常的像において表現されねばならぬことになるのである」(p. 65)。こういうわけで、(a)神経生理学的な人間像は完結したものではなく、「窮極的な等質性を有しており、物理的粒子から成るシステムとしての視覚皮質の活動においてその存在がなんらかの仕方で感知されるような、新たな対象(「感覚野」)によって補完されねばならない」(p. 65)とするか、(b)「神経生理学的人間像は完結したものであり、感覚質のもつ窮極的な等質性は(それゆえ感覚質そのものも)、時空間的世界のうちには存在しないというきわめて根本的な意味において単なる現れにすぎないとするか」(o. 65)という二律背反に陥る。 ・人物に関わる諸カテゴリーは科学的像の基本的概念の語句によって再構成できない 一見して人物を科学的枠組みの中で捕らえ直すただ一つの仕方は、生化学の概念を原子以下の物理学によって再構成するのと類比的な仕方で、人物に関わる諸カテゴリーを科学的像の基本的概念の語句によって再構成することである。 お馴染みの反論は自由意志を盾に取る反論で、「『性格』あるいは『彼は他にしようと思えばできたはずだ』という事実、あるいは『彼の行動は予測可能だ』ということなどと考えるさいにわれわれが用いる概念は、科学的像において再構成するならば極度に複雑な定義を下された概念として現れることだろうから、われわれが塩化カルシウムの『本性』とか、『同一の初期条件が存在した場合、システムXは状態S二あることはできないであろう』とか……などと考えるときの諸概念とは混同されてはならないのである」(p. 68)。 これとは別にセラーズは(ここでは説明してくれないが)この再構成は原理的に不可能であると信じている。再構成ができないとすれば、(1)科学の対象としての人間を人物(「人物としての人間に関わる諸カテゴリーが存在する。人間は彼の欲求や衝動としばしば衝突する(倫理的・論理的等の)諸規準に直面し、これに従うことも従わないこともできる」(p. 67-68))としての人間存在の源泉としての精神と対置する二元論、(2)科学的対象のみを実在として認めるか、(3)科学的理論を計算上のもの・補助的なものとして扱うという非満足な三者択一を迫られる。 ・人物の科学的像への還元不可能な側面 人物の科学的像への還元不可能な側面であり、単にと人物を羽のない二足動物以上のものならしめているのは、以下のようなもの。何者にせよ、これを一箇の人間として認知することは、「権利と義務のネットワークの中に組み込まれた存在として考えること」(p. 70)であり、より基礎的には「われわれ」(英語のwe、one、仏語のon)の範囲に含むことができ、一つの共同体に属するものとして考えることである。さらに言えば、それは共同体の意図を共有することでもある。人物の概念的枠組みは、科学的像と調停されるべきものではなく、結合されるべきものである。 第二章 理論の言語 ・この論文の主題とそれに対するアプローチ法 理論的語句の意味や理論的存在物の実在に関する難問は、対応規則の身分と密接に結びついているので、対応規則の問題を解明すれば、自動的に前者の難問の解決できる、という見通し。 (a)解釈を与えられていない計算体系としての理論の語句や要請や定理、(b)観察の枠組みに属する語彙や帰納的にテスト可能な言明、(c)「対応規則」理論の三要素から成る図式は、理論的な議論領域と観察的なそれという存在論的な二元論を認めることを示唆している。 理論的対象の存在を認めるならば、理論的対象(分子の雲としての机)と観察的対象(目に見える机)とがどのようにして「一緒になって一つの宇宙に納まる」のかという難問に直面する。こと問いに答えるにあたってセラーズは、物理的事物の観察レベルが「絶対的」だと考えることを拒否する。ここから「レベルを分ける描写構図」(基本的な感覚内容のレベル-観察言語の枠組み-微視的物理学の理論の枠組み、といった風にレベルを分けること)からの解放を唱える。 セラーズの路線は、物理的事物の枠組みを基本的レベルへの理論と解さず、「ものものの理論がいくつかのレベルをなしているとする描写構図が持っている、人を誤りに導き、また事柄を歪曲するような本性を明るみに出すこと」(p. 104)である。 ・微視的理論は対象がなぜ法則に従うかを説明する 微視的理論は観察事実の帰納的一般化、即ち法則を説明するものであり、これが微視的理論が観察事実を説明する仕方である、という考えは前述の誤解に基づいている。しかし実際のところはそうではなく、理論は観察可能な事実が経験法則に従うのはなぜで、どの程度まで従うのかを説明することによって観察事実を説明する。理論の説明は法則の導出ではなく、法則に従うことを説明することである。「つまり、それら理論は、観察の枠組みの中でのさまざまな状況における各種の個々の対象の振る舞いが、それら対象が実際に振る舞っていることが帰納的に確立されているような様々な仕方での振る舞いであるのはなぜか、を説明するのである」(p. 108)。さらに、理論は法則に従わないケース、ランダムな成分をも説明することで例外をも説明するものである。「かくして微視的な理論は、ただ単に、なぜ観察される構成物が帰納的一般化に従うのかを説明するだけではない。微視的理論は、観察言語の枠組みに関するかぎりで言えば、観察される構成物の振る舞いのなかのランダムな成分とは何であるかを説明するし、そして、結局、この後者のことを為すことによってこそ、微視的な理論は科学的な説明にとって不可欠な要素としての性格を確立し、また(われわれが後に見るように)、本当に存在するものについての知識としての性格を確立するのである」(p. 110)。 ・対応規則は再定義である 観察的対象が理論的対象「である」とはどういうことなのか? この「である」は同一性を顕しているが、この同一性はどのように理解されるべきなのか? これらを問うことは対応規則とは何であるかを問うことである。 対応規則は観察的語句による理論的語句の部分的な定義ではなく、後者による前者の「再定義」である。「『再定義』の力は、観察を表す記号上の工夫が、理論的表現と統語的に交換可能なものによって理論的表現と関連づけられることを要求するだけでなく、観察を表す記号上の工夫のもっている知覚的または観察的な役割が理論的表現に与えられ、その結果、それら二つの表現が、相互の再調節によって同義となる、ということをも要求するのである」(p. 116)。この見解に基づけば、等値以上同一以下のものを表現しているという対応規則の特異な性格を説明できる。 第三章 経験論と心の哲学 ・感覚与件が受けてきた攻撃 大部分の哲学者たちは「所与性の枠組み」という仕方で所与について分析してきた。感覚与件は良く攻撃される所与だが、あくまで所与の一種に過ぎず、大部分の哲学者(セラーズによればカントとヘーゲルもその限り)はその枠組みを逃れていない。「『所与という考え全体』を今日攻撃している多くの人々……が本当に攻撃しているのは、感覚与件のみである。というのは、彼らは攻撃対象を他の項へ移しているからである。たとえば、物理的対象へ、または『所与』に特徴的な特性である〈見える〉(appearing)の関係へと移しているからである」(p. 122)。 ・感覚与件の何たるか、知識は感覚に還元できないこと 「xが感覚されるということは、その形式のゆえに、それが或る作用の対象であるということである」(p. 123)。感覚与件であるとは、感覚される項の関係的特性である。感覚与件説では、感覚されるのは特殊者(個別者)であって事実ではなく(セラーズは明言していないが、事実は知識(「知識とは何かがかくかくであるとか何かが何かと或る一定の関係にあるとかいう形式のものである」(p. 124)。)と同じ形式を持つと考えていると思われる)感覚が知識の基礎たり得ると言えるのかは怪しい。 しかし感覚与件説を採る人は、〈感覚する〉は〈知る〉であり、且つ感覚されるのは特殊者だと考えている。感覚すると知るは、たとえばあるものは「赤色である」として感覚される、赤いということを非推論的に知ることだと考えれば結合可能であり、感覚内容とは非推論的な知識ということになる。ある感覚内容が与えられているということがこの感覚内容についての事実に関する非推論的知識によって文脈的に定義されると考えるならば、ある感覚内容が一つの与件であるという事実はある人が非推論的知識を持っているということを論理的に含意する。このことが明確に自覚されず、感覚内容の所与性が感覚与件の枠組みの基本的あるいは原初的な概念だと考えるようになり(これが感覚与件説を採る人の大部分であるが)、「感覚与件と非推論的知識との間の論理的結合という、古典的な形態の感覚与件説がコミットしている結合を切断するようになるかもしれない(p. 128)。しかし、認識的な事実が非認識的な事実へと分析できるという考えは、セラーズの考えでは自然主義的誤謬と同種の「根本的な誤り」である。 ・感覚与件は無前提のものではない 感古典的な覚与件説では感覚内容の所与性が基本的なものだと考えられてきたが、それは感覚与件説では所与性は獲得されたものではなく、無前提のものだと考えられているためである。しかし古典的な感覚与件説は、 (A)「xは赤い感覚内容sを感覚する」は、「xはsが赤いことを非推論的に知っている」を厳密含意する。 (B)感覚内容を感覚する能力は獲得されたものではない。 (C)xはφであるという形式の事実を知る能力は獲得されたものである。 という不整合な三つの命題を含んでおり、どれかを放棄しても問題が生ずる。(A)の放棄からは感覚内容は非推論的な知識ではないということが帰結し、(B)の放棄を選べば感覚与件の概念と「感覚与件説を採る人々が常識において感覚与件に対応するとふつう考えている、感覚作用・感じ・残像・かゆみや痛み等々についてのわれわれの日常的な語りとの間の結びつき」を断ち切らざるを得なくなり、(C)の放棄は経験的伝統の持つ唯名論的傾向に違反することになる。 ・エアの「異端的な提案」とセラーズの「符牒」 感覚与件についての談話は日常的に用いられうるような感覚的な談話に対応する別の言語である、というのがエアの「異端的な提案」。「この提案の核心は、《空間・時間》における物理的対象についての、およびそれら物理的対象がもっており、そしてもっているように見える特性についてのふつうの人の言語に加えて、それ以上に記述的な談話の内容を増大させるようなものは、感覚与件の語彙には、含まれていない、ということである」(p. 137)。 エアの提案を検討するにあたってセラーズは、感覚与件文を「符牒」として捉える考えを利用する。ここで言う符牒とは「記号の体系であり、その記号の各々は一つの完全な文を表して」(p. 138)おり、(1)各符牒記号は一つの単位であり、一つの符牒記号の部分それ自体は符牒記号ではなく、(2)符牒記号の間で成立するような論理的関係は、完全に寄生的(それらが表す文の間の論理的関係からはもっぱら派生する)ようなものである。感覚与件文は符牒記号ないし信号と捉えることもできる。感覚与件文をこのような符牒として見なすならば、感覚与件「文」同士の論理的関係は見かけ上のもので、それが信号となる通常の用法の文の論理的関係と取り違えられたものである(通常の用法の文の論理的関係がまずあり、それらの信号となっている感覚与件文はそのおかげで(蓋し、それを反映し、写し取っている)論理的関係が成立しているだけ、ということだろうか)。だから、「性質」、「である」、「赤い」、「色」、「深紅色」、「未確定な」、「確定した」、「すべて」、「ある」、「存在する」等々の単語は感覚与件-語り(sense-datum talk)のなかで現れる場合には日常言語においてこれらに対応するものが持つ一人前の身分を持ってはおらず(これらは符牒記号の部分)、どの信号を他の記号と一緒に使うのが適切か否かを思い起こさせるための手がかりにすぎない。このように考えれば、感覚与件-語りは「xはSにφと見かけられる」や「xはφである」といった形式の事実を説明することも明晰にすることもなく、「余剰価値」を持たない。なぜ感覚与件-語りがこういった事実を明晰にしたり説明されるように見かけられるかというと、符牒の中に現れる単語を言葉と解さないことは「ほとんど超人的な努力を要する」ためである。つまり、「感覚与件信号を、それがあたかも一つの理論のなかの文であるかのように扱い、感覚与件-語りを、感覚与件文と日常の知覚-語りの文とを対応させることによって使用されるようになる一つの言語として、しきりに扱いたくなるだろう」(p. 143)。 しかし理論と符牒は似て非なるものであり、符牒が理論の力を持つことはない。理論も符牒も考案された体系であるという点では似ているが、理論の言語における論理的関係は自立性を持っているという点で本質的な違いがある。 感覚与件の言語が仮に符牒、すなわち記号法上の工夫だとすれば、それが持つ正味の価値は「見かけられる」、「見える」から物理的対象と知覚についての日常的談話の内部の論理的関係を解明でき、「〜と見かけられる」という形式の文から物理的対象と知覚者についての日常的談話を構成できるという点になければならない。しかし、これらの主張(おそらくはこれらの「正味の価値」内の主張)はセラーズは困難に陥るだろうと予告する。 ・「見える」は知識にとって基本的ではなく、いろいろな前提を有する 〈見える〉の理論とは、「xはSにφと見かけられるという形の事実は究極的かつ還元不可能であり、そして、感覚与件はそれを分析するためにも説明するためにも必要ではない」(p. 150)というもの。セラーズによれば、(おそらくは「見える」の理論の支持者によって)「赤である」は「赤いと見かけられる」によって分析されたり説明されると考えられがちであるが、そうではなく「赤である」の方が論理的に先立ち、単純な概念である。 〈〜と見かけられる〉と〈〜であると見ている〉(たとえば「xはジョーンズに緑と見かけられる」と「ジョーンズはxが緑であると見ている」)の相違は、「後者はジョーンズの経験に命題的主張を帰属させ、かつその主張を承認しているが、前者はその主張を帰属させているがそれを承認してはいない」(p. 158)。「注意したいのは、『承認すべきか否か』という問いが審理された場合、私は(『xは緑である』と言うのではなく)『私はxが緑であると見ている』としか言わないであろう、ということである。『私はxが緑であると見ている』は、いわば、『xは緑と見かけられるだけである』と同じ水準に属するのである」(p. 159)。蓋し、「赤いと見かけられる」によって「赤である」は説明・分析されない、ということの理由を示しているのであろうか。 緑と見かけられるという概念には緑であるという概念が前提されており、さらに後者は対象がどんな色を持つかを見分ける能力と「標準的状態」(「もし人が対象に目を向けることによって対象の色を確かめたいと思うならば、対象をどのような状況のもとに置くべきか」(p. 162)、「『標準的状態』とは事物がある通りに見かけられるような状態を意味する」(p. 162))を前提としている。したがって感覚内容は言われるほど基本的ではなく、多くの前提を持っている。 これは事実の論理的相互独立性を唱える論理的原子論と衝突し(たとえば「緑である」はこれ以上分析できない単位ではなく、標準状態や認識能力などを前提(依存)していることになるから)、概念の獲得には徐々に獲得する長い歴史と、その概念を要素とする全概念装置一式を持っている必要があるということになる(pp. 163-164)。 ・普遍についての古典的経験主義の問題意識:彼らは普遍に気づく能力は先天的なものだとみなした 「普遍についての現代の問題は、主として、個別的状況の、繰り返し現れうる確定的なものに気づくとはどういうことか、という問題でもある。ところが、他方では、ロックやバークリーや、それにヒュームも、抽象観念の問題を、繰り返し現れる未確定なものに気づくとはどういうことか、という問題と見なしたのである(p. 183)。(繰り返し現れる未確定なものは「感覚に繰り返し現れうる確定的なもの」(determinate sense repeatable)と対置される概念で、後者とは多分、度合いなどが確定したもののこと(たとえば漠然とした赤ではなくしかじかの濃さの赤))。例えば、ロックは「白の感覚を、特定の状況でそれに伴う他の感覚(や心像)の脈絡からそれが分離されるというだけの理由で、《白》の抽象概念(生起しているもの)――『《知性》における』《白》の思惟――となりうる部類のものと見なしている……言い換えれば、ロックにとって繰り返し現れうる確定的な《白さ》の(生起している)抽象観念とは、分離された白の心像以上のものではなく、後者はまた、(現代的な言い回しを使っていえば)『神経中枢において刺激されて生じる』という点でのみ白の感覚と異なるのである」(p. 183-184)。ロックにとってどのようにして感覚に繰り返し現れうる確定的なものに気づくかは問題ではなく、それには感覚や心像を持つだけで気づくことができる。彼にとっての抽象観念の問題とは、類的特性を考えうるようになるのはどのようにしてか、という問題であった。 ロックと同様の問題意識をバークリーも持っていた。「彼の問題は、しばしば解されているように、『われわれはどのようにして特殊者の気づきから繰り返し現れうるものの観念へと移行するのか』ではなく、むしろ『われわれは直接経験において絶対に特定的な感覚的性質に気づいていると認めた上で、どのようにしてわれわれは、それら性質に関する類を意識するようになるのか。そしてこの意識は何に存するのか』であった」(p. 185)。「ロックは、特定の類に属するがそれの主のいずれにも属することのないようなものの観念がありうるという見解にコミットしているが」(p. 185)、バークリーはその種に「凝縮された」ものとして類に属するものの観念を持ちうるのみだとする(例えば三角形という類に二等辺三角形という種が属しているとすれば、二等辺三角形でありながら三角形の類に属していないものはない)。 ロックとバークリーは「未確定なものについての生起している思惟」はなければならないと考えていたのに対し、ヒュームはそれを否定しており、この点に彼らの違いがある。とはいえ、セラーズが強調したい点は「彼らはみな、人間が或る確定的な部類に気づきうる生得の能力をもっていること――いや、ありていに言えば、われわれは感覚や心像をもつというだけでそれらに気づいていること――を当然のこととしている、ということである」(p. 188)。 ・ヒュームから心理的唯名論へ ヒュームの立場も、経験の初期的要素を、例えば赤の印象の代わりに赤の特殊者と特徴付け、「未確定なものだけではなく確定的なものをも考慮するように拡張」(p. 189)すると、「部類または繰り返し現れうるものの意識は全て、語(例えば『赤』)と、類似する特殊者のクラスとの〔内包的〕連関に依拠する、という見解」(p. 189)になる。その連関が心的気づきの媒介を受けていないものならば、心理的唯名論という見解になる。「それによれば、部類、類似、事実、等々の気づきのすべてが、要するに、抽象的存在物の気づきのすべてが――実際のところ、特殊者の気づきでさえも、そのすべてが――、言語に関わる事柄であることになる」(p. 190)。 ヒュームの見解を修正した心理的唯名論の長所の第一は、(1)「感覚に繰り返し現れうるものまたは感覚的事実に気づいているという純粋な出来事がある、と想定する誤りを避けており……これらで指示されうるいかなる出来事も、ライルの表現を用いれば、定言的-仮言的な雑種言明でなければならない、とくに、語-対象タイプと語-語タイプの連関による結合の現れであるようなものとしての言葉による出来事、でなければならない、という見解にコミットしている」(p. 190。後半はよく分からないので『心の概念』を読んだほうがいい)。第二は、「感覚や心像がいったん認識的対象という身分から解き放たれてしまうと、言語の世界との間を連関させる基本的な絆が語と、『直接経験』との間の絆でなければならない、と想定する主な理由は消えてしまうし、基本的な語-世界の連関が成立するのは、たとえば、『赤』と赤い物理的対象との間であって、『赤』と私的な赤い特殊者のクラスという想定上のものとの間ではない、ということを認める道が開かれる」(p. 190)。 心理的唯名論は一次的な意味では、言語の獲得に先立ち、言語からは独立した論理的空間への気づきがあることへの否定である(p. 193)。 ・観察の正しさは規則に従うことに基づいていない 所与の神話は一つの形として、事実に関する非推論的で他の知識を前提としないような知識があり、これがあらゆる事実主張についての最終審をなす、という形を取り、このような知識は究極的で、「権威」を持っている、というもの。こういった考えでは日常的な経験的言明は正しく為されていても真とは限らないが、観察報告は正しく為されることが真であるための必要十分条件であり、この点が分析的言明に似ていると考えられたため、「『これは緑である』という報告を『正しくなす』ことは、『「これは」、「緑」、「である」の使用規則に従う』ことである、と」(p. 202)推論されてきた。この見解では「報告」は行為の一環であり、このために「確認」もまた行為であり、「確認」の正しさは行為の正しさと類比的なものとして解釈されている。「すなわち、もし観察報告が行為として解されるならば、もし報告の正しさが行為の正しさとして解されるならば、そしてもし観察報告の権威が、報告を為すことはこの言い回しの適切な意味で『規則に従う』ことであるという事実として解されるならば、その場合、われわれは最も直截な形での所与性と向かい合うことになる。すなわち、《確認》の権威は、気づき……という非言語的な出来事に依拠しており、この非言語的な出来事は内在的な権威をもっており(それらの出来事は、いわば、『自己-保証的』であり)、適切に遂行された言語的な行為遂行(《確認》)がそれを『表現する』、と」(p. 204)。この自己-保証的な出来事に経験的知識は基づいている。 対し、セラーズの主張では、(観察内容を表現する)文トークンの権威は、その報告からその対象の現前が推論できるという事実からなるものでしかなく、報告の正しさは規則に適っていることに由来するのでもなく、報告が正しいものでありうるのはそれが言語共同体において是認され支持されるが合理的であるような一般的な行動様式の一例となるような場合である。 ・経験的知識の自立性という考えの放棄 「これは緑である」という報告をする人は、そのようにいうことができるための「標準状態」の概念を持っていることを前提としている。「言いかえれば、『これは緑である』という《確認》が『観察的知識を表現する』ためには、それは標準状態における緑の対象の現前の兆候またはしるしでなければならないだけではなく、その知覚者は、『これは緑である』のトークンが視知覚にとって標準状態である状態において緑の対象の現前の兆候である、ということを知っていなくてはならない」(p. 205-206)。つまりいかなる観察的知識も〈XはYの信頼できる兆候である〉という形の一般的事実が知られていることを前提としており、これはひいては経験的知識が「自分の足で立っている」という伝統的経験論の考えの放棄を意味している。 この見解が無限後退に陥ると思われるとすれば、それは〈知っている〉を状態の記述ではなく、正当化の論理的空間に置いているからである(p. 207)。 ・経験的知識の基礎は自己を訂正することにあり 所与の神話の核心は、観察の自己-保証的な権威が「言語の意味論的規則と一致」することで言語的行為に伝達されるということである(規則に従うことによって確認は観察の権威を受け取る資格を持てる)。セラーズが伝統的経験論の枠組みを斥けるからといって、経験的知識には基礎がないと言いたいわけではない。「明らかに、人間の知識が、或るレヴェルの諸命題――観察報告――に依拠し、それらは他の諸命題がそれらに依拠するのと同じ仕方では、他の諸命題に依拠しない、という描写像にはなにほどかの理がある」(p. 210)。経験的知識の合理性は、それが基礎を持っているからではなく、自己を訂正していくという点に存する。 科学的な描写像は、世界の常識的な描写像とは別の枠組みであり、「物理的対象には本当に色がない」というような前者における文言は、「物理的対象は色を持っている」という常識が科学によって偽とされたという主張として解釈されるならば不合理であり、後者の枠組みの拒否、別の枠組みの支持の表現として解釈されるべきである。 世界との「直示的な絆」を持つ語(の枠組み。この枠組みの信憑性は「直示的な手順」を含んでいるという事実によって保証されている)に対し、理論的対象についての枠組みは「計算上の工夫」でしかないという見解、「科学についての実証主義的な捉え方」(p. 216)は、所与の神話、理論的/非理論的談話の間の方法論的な区別を理論的/非理論的存在者の実質的な区別に物化してしまうこと、という二つの誤りに依拠している。 ・ライル言語を使った神話:意味論的語彙によって思惟について語れるようになる 概念への気づきに対する概念とそれを認識・識別する能力の先行性を突き詰めれば、「どのようにしてわれわれは『印象』または『感覚』という考えを持つようになりうるのか」、「何かが赤いと見えるという考えをもつようになりうるのか」という問いに直面する(要するに、概念への気づきに概念を持つことが先行するとすれば、その概念はどうやって獲得されたのかが問題になるということであろう)。これれとりもなおさず内的出来事が存在しうるかという問いである。内的出来事は私的性と間主観性を結びつけた出来事である。内的出来事は、ライルなどがその陳述はナンセンスであると考えたのに対してセラーズは間主観的に陳述できると言う。思惟は言語的な出来事でありながら内的出来事でもあるというのがセラーズの主張。 セラーズは、「ライル言語」を習得した我々の架空の祖先はどのような資源を加えられるならば、自分自身および他者を思惟し、観察し、感じや感覚作用を持つものとして認めるようになりうるのかという話を通して、我々はどのようにして内的出来事や直接経験について語ることを学ぶのかを明らかにする。ライル言語とは、空間のうちに位置づけられ時間を通じて持続する公的対象の公的な性質について語る記述的語彙を基本的なものとし、連言、宣言、否定、量化といった初歩的な論理的操作、仮定法条件文を扱うことができ、そのなかには日常的談話に典型的な比較的ゆるい論理的関係が存在するような言語である(p. 226)。 ライル言語に「意味論的な談話の資源」(要するに、意味する、真である、偽である、〜であることを述べているといった意味論的用語)を加えることで、思惟について語れるようになる。互いの言語的行動は、ライル言語使用者にとっては意味論的用語によって特徴付けられうる(カルナップなどは意味論的な資源は形式論理学の語彙から構成できると考えており、こう考えれば原理的にライル言語に含まれていることになるが、セラーズはこれを否定する。この論集の未収録の論文「真理と〈対応〉」および「経験論と抽象的存在物」(『ルドルフ・カルナップの哲学』収録)を参照。)。「というのは、思惟に特徴的なことは、それの指向性、支持性、または関わり性(aboutness)であり、明らかに、言語的表現の意味または志向についての意味論的な語りは、思惟が関わるものについての心的過程の(mentalistic)談話と同じ構造を持っているからである。それゆえ、思惟の指向性を辿れば、公然たる言語的行為遂行に対する意味論的カテゴリーの適用にまで至ることができる、となおさら想定したくなるし、そして、次のような修正されたライル的説明を提示したくなる。その説明によれば、いわゆる『思惟』についての語りは、公然たる言語的および非言語的行動についての仮言的で、定言的-仮言的な雑種的言明の略記法であって、しかも、これらの『出来事』の指向性についての語りも、それに応じて、言語的成分についての意味論的な語りに還元できるのである」(p. 229)。 しかし古典的な考えでは、意味論的用語で特徴付けられる公然たる言語的出来事とは別に志向性の語彙によって特徴付けられる内的出来事があるといわれ、これは前者は後者によって分析されるべきであるという含みを持っている。これに対し、以下でセラーズは、公然たる行動でもなければ言語的心象でもない内的出来事としての思惟という古典的な考えと、志向性のカテゴリーが公然たる言語的行為に帰属する意味論的カテゴリーであるという考えを一致させられるかどうかを検討する。 ・理論的/観察的談話の区別への批判 どうすればライル言語話者が内的出来事の存在を認めるようになるのかを検討するが、これにあたってセラーズは以下のような話をする。科学における観察的談話と理論的談話の理論があり、これは要請された理論的存在物と観察的存在物があって、対応規則がそれらの間を架橋し、相関させるという理論である(その代表者としてここではノーマン・キャンベル、カルナップ、ライヘンバッハ、ヘンペル、ブレイスウェイトなどが挙げられる)。しかし、この理論は(1)実際の科学者の理論構築は「観察的談話と望まれた仕方で相関しうるような解釈されていない計算体系を構築することによって展開されるのではなく、むしろ、モデルを見出そうと努めることによって、すなわち、周知の仕方で振る舞う周知の対象の領域を記述することによって」(p. 233)行っているのであって、つまり彼らは計算体系ではなくモデルを見出そうとしていることを見落としている。また、(2)科学が常識的な推論の洗練されたものであることが理論構築の記号論理学的な描写象によって曖昧にされている。 この点をセラーズが強調する理由は(後述されるらしいが)、理論的/観察的談話の区別は内的出来事に関わる諸概念の論理のうちに含まれているからというものである。 ・ライル言語への理論的談話の付加 ライル言語を豊富にする(ここでは内的出来事について語れるようになるということか)第二段階はこれに理論的談話を加えることである。理論的談話を加えるとはつまり、「観察可能な性質においては類似する事物がその因果的な性質において異なるのはなぜか、そして、因果的な性質において類似する事物がその観察的な性質において異なるのはなぜか、ということを説明するために、粗雑で概略的な、そして曖昧な理論を念入りに仕上げる」(p. 235)ことである。 さらにこの「〈新ライル的〉文化」に行動主義として知られる考えを導入する一人の天才が現れるとする。ここでセラーズは哲学的行動主義と方法論的行動主義という区別を設け、前者は心的過程の諸概念は公然たる行動を用いて分析可能だというテーゼで、後者は「心的過程の談話を発見法にのみ用いることを提案しているのであり、人間という有機体の観察可能な行動についての彼自身の科学的発見を展開する過程で、彼が用いる諸概念を『ゼロから』構築することを提案しているのである」(p. 237)。しかし、哲学的行動主義は他の科学(物理学でも化学でも)で類を見ないほどに制限的ではあるが、ここでの要求は行動主義的な概念の中には理論的概念として導入されるものがあるという考えと両立可能ではある。 理論的語句には(a)理論内での現象の説明における役割、(b)人間についての「全体的描写像」への当の理論の統合における役割とがあり、いずれも理論的語句の「意味」である。ある理論が他の異論に統合される度合いが少ないほどその理論の概念は「純粋な理論的概念」に近づく。こういった概念は、他の特殊理論の概念との関係に関する仮説とは区別される。 ライル言語話者の中に現れた行動主義者の先駆者ジョーンズは、公然たる発話は或る内的出来事(内的言論。ただし心像ではない)で始まる過程の到達点に過ぎないという理論を展開するとしよう。このジョーンズ理論は内的出来事に意味論的なカテゴリーの適用可能性を持ち込んでいる。「したがって、ジョーンズは、彼の仲間と同様に、公然たる発話があれまたはこれを『意味する』とか、あるいは、これまたはあれ『について』であると語ってきたように、彼は今や、これらの内的出来事がこれまたはあれを『意味する』とか、これまたはあれ『について』であると語ることになる」(p. 242)。ここから引き出されることは、(1)これた様々な仕方で展開されうる哲学的理論の萌芽であること、(2)ジョーンズの「思惟」は理論的なものであること(「彼が導入した思惟の枠組みは『観察されない』、『非経験的な』、『内的』出来事の枠組みである」(p. 243)。)、ただし(3)公然たる談話と内的談話の関係は有意的運動と意図および動機との関係として解釈されるべきではない。(4)「公然たる言語的出来事の意味論的な特徴付けが意味論的用語の一次的な用法であり、意味論的に特徴付けられた公然たる言語的出来事が、その理論の導入する内的出来事のモデルである」(p. 244)。(5)推論を行う出来事ないし思惟は内的出来事(同時に理論的出来事としても)として導入されているのであって直接経験としてではなく、これを直接経験と考えるのは哲学者だけである。 公然たる言語的行動が思惟の表現であるというジョーンズの理論から、この言語を(内的出来事の)自己記述に用いるということまではあと一歩である。ジョーンズが「ディックは『P』と思惟している」と言うにあたっての行動上の証拠と同じ証拠によって、ディックは「私は『P』と思惟している」と言うことができ、さらにディックを訓練することで公然たる行動を観察するまでもなく、その理論の言語を用いることで同じ事(内的出来事)を語ることができるようになる。こうして「純粋に理論的な使用をもつ言語として始まったものが報告的役割を獲得したのである」(p. 246)。 セラーズがライル言語の物語から引き出したことは、「思惟のような内的出来事に関わる諸概念は間主観的であり……これらの概念の報告的役割――われわれ各人が自分自身の思惟に対して特権的接近手段をもっているという事実――が、このような間主観的な身分に基づいて形成されており、そして、それを前提する、これらの概念の使用の一つの次元を構成する、ということである。私の神話は次のことを示している。すなわち、言語が本質的に間主観的な達成であり、間主観的な脈絡で学ばれるという事実……は、『内的出来事』の『私的性』と両立可能である」(p. 247)。 思惟の枠組みに属するところの内的出来事の中に知覚的出来事が含まれており、これをライル言語に取り込むことで(元々のライル言語にあった知覚的出来事についての唯一の概念は「何かが成立していると見かけられることを報告する」というモデルをもつ公然たる言語的報告の概念だけであり、ジョーンズが内的出来事を導入したことではじめて知覚的出来事の取り込みができるようになる)、見えるの言語での説明を構成できるようになる。ここでは22節への参照が指示されていて、そこでは〈この風船が膨らんだ〉という事実に対する二つの説明があり、「一つは(a)ボイル-シャールの法則を用いる説明であり、その法則は、気体の体積・圧力・温度という経験的概念を関係づける。もう一つは(b)気体の分子運動を持ちうる説明である。これと同様に、〈この対象はSに赤いと見かけられる〉という事実についても、二種類の説明があるのではないだろうか」(p. 169)とある。内的経験が、「見えるの理論」と、セラーズの説く心理学的唯名論の二通りの説明が与えられうるということを言っているのだろう。思惟が理論的存在物であるのと同様に、印象もまた理論的存在物として解釈されれば、その内容と説明力を説明できるらしい(p. 251-252)。 「思惟の枠組みに属する内的出来事のなかには、知覚、すなわち、〈そのテーブルが茶色であることを見る〉、〈そのピアノは調子が狂っている〉等々、がある」(p. 248)。ジョーンズはこの枠組みを導入し、これを(思惟の場合の同じように)彼の仲間に教えることで、この言語の報告的使用を行えるようにする。「つまり、彼は彼らを訓練して、その理論によれば、彼らが実際に赤い三角形の印象をもっている場合かつその場合にのみ、『私は赤い三角形の印象をもつ』と言うようにするのである」(p. 257)。印象の概念もまた、思惟と同じように間主観的でありながら私的なものである。この印象の言語は単なる符牒ではなく、一つの言語である。「……それは、《空間と時間》における公的な対象についての談話の枠組みに依拠しているが、自立的な論理的構造をもつ言語であり、あそこに赤くて三角形の物理的対象があると私に見かけられる、というような事実の単なる符牒ではなく、そのような事実についての説明を含む言語なのである。そして、次のことに注意しよう。すなわち、われらが『祖先』は印象に注目するようになったし、印象の言語は、そのような事物があるという発見を含んでいるが、印象の言語は、分子の言語が分子に前もって注目するということに合うように仕立てられていなかったように、これらの存在物に前もって注目するということに合うように仕立てられていなかった、ということである」(p. 258)。 フーコー『言葉と物』(1966) 序 ・エピステーメー エピステーメーとは何ぞや。文化が持つ「その自然発生的諸秩序のしたに、それ自身として秩序づけられるべき、ひとつの無言の秩序に属するおおくの物」(p. 19)、「秩序づけのコードとよびうるものの使用と、秩序についての反省とのあいだ」にある「秩序とその存在様態にかかわるむきだしの経験……以下の研究で分析しようとするのは、そうした経験にほかならない。十六世紀以来、われわれのそれのような文化のなかで、この経験がどのようなものとなりえたか、それを示そうというわけだ」(p. 20)。エピステーメーとは「いかなるところから出発して認識と理論が可能となったのか、どのような秩序の空間にしたがって知が構成されたか……どのような歴史的《ア・プリオリ》を下地とし、どのような実定性の本領内で、観念があらわれ、学問が形成され、経験が哲学として反省され、合理性が形成されるということが可能だったのか」(p. 20)という「認識論的な場」である。 エピステーメーの不連続性。ルネサンス時代、古典主義時代、そして近代のエピステーメーは一見して連続しているように見えるが、不連続なものである。「われわれがそれを下地として思考している秩序は、古典主義時代の人々の秩序とけっしておなじ存在様態を持つものではない。……考古学のレベルになってみれば、十八世紀と十九世紀の曲がり角で、実定的諸領域の体系は全体として大きく変わっているからだ。といっても、理性が進歩したのではない。ただ、物とそれらを類別して知にさしだす秩序との存在様態が、根本的に変質してしまったのである」(p. 22)。 第二章 世界という散文 ・16世紀末までは類似が知を構築していた 「十六世紀末までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役割を演じてきた。テクストの釈義や解釈の大半を方向づけていたのも類似なら、象徴のはたらきを組織化し、目に見える物、目に見えぬ物の認識を可能にし、それらを表象する技術の指針となっていたのもやはり類似である。……人生の劇場、あるいは世界の鏡であること、それがあらゆる言語の資格であり、言語がみずからの身分を告げ、語る権利を定式化する際のやり方だったのである」(p. 42)。 ・類似の四つの本質的な形象 @適合:「たがいに『適合する』物とは、たがいに接近し接触している物である。それらの縁は触れ合い、総べりはまじりあい、一方の端は他方のはじまりとなっている。したがって運動は一方から他方へと伝わり、影響は情念や特性も同様なのだ」(p. 42)。例えば、霊魂と肉体は、「神が霊魂を物質界のもっともふかい窪みにおくためには、罪が霊魂を鈍く重く地上的なものにしなければならなかった。……霊魂は肉体の運動を受け止め、肉体に同化し、他方『肉体は、霊魂の情念によって変質し腐敗するのである』」(p. 43)という仕方で適合する。「水のなかと地表には、天上の諸存在に対応して、それとおなじ数だけの存在があり、さらに、創造されらすべてのもののうちには、『〈実在〉と〈力〉と〈認識〉と〈愛〉を蒔く者』神のうちに、潜在的に含まれるのと同数の存在があるのだ。かくして、類似と空間との連鎖により、類似するものを隣接させ接近するものを同化させるこの適合の力により、世界は鎖状をなして広がることとなる」(p. 43-44)。 A競合:場所における隣接を越えて働く一種の適合。「人間の顔は遠くから空と競いあう。人間の知性が不完全ながら神の叡智を映しているように、二つの眼は、その限られたあかるさのうちに、太陽と月とが天空に広げる大いなる光明を反映している。口は、接吻と愛の言葉がそこを通るが故にウェヌスである。……この競合の関係によって、物は、宇宙の端から端へと、連鎖も近接関係もなしに模倣しあうことができる。……なぜなら競合とは、物のもって生まれた双子性ともいうべきもので、二つに折り曲げられた存在の両面が、直接向い合うことから生じるからである」(p. 44)。 B類比:「その力は絶大である。なぜなら、それが扱う相似は、物それ自体の可視的で全体的な相似ではなく、もっと微妙な、関係同士の類似でさしつかえないからだ。たとえば、星とそれが輝いている空との関係は、草と大地とのあいだにも、生物とそれが住んでいる地球とのあいだにも……皮膚のしみとそれがひそかにしるしづけている身体とのあいだにも、認められるであろう」(p. 46)。類比においては人間が「類比で飽和しており(いかなる類比関係もそこに一方の支点を見いだすことができる)、この点を通過すれば、関係は変質することなしに転倒する」(p. 46-47)ような「特権的な一点」となる。「人間は、動植物、大地、鉱物、鍾乳石、嵐と相応しているとおなじく、また天界とも相応しているのだ。……人間の顔とその身体との関係は、空のおもえとエーテルとの関係に等しく……その顔の七つの穴は、天なる七つの惑星とおなじ相をなしている……肉は土塊、骨は石、血管は大河である」(p. 47)。 C共感:「重いものを大地の重みのほうへ、軽いものを重さのないエーテルのほうへと惹きよせる。また、根を水のほうへと推しやり、ヒマワリの大きな黄色い花を太陽の歩みとともにめぐらせる。そればかりではない。目に見える外的な動きで物をたがいに惹きよせることにより、共感は密かに内的な動き――質の転移とそれら相互の交替――を誘発するのだ。火は熱く軽いがゆえに空中で上をむき、空気めざして焔はたゆみなく立ちのぼる……共感は《同一者》の協力かつ有無をいわさぬ懇請であって、そのおため類似の諸形式のひとつであることに甘んじない。それは《同化》し、物同士をあがいに同一のものとして混ぜあわせ、それらの個別性を消滅させる――つまり、それらをかつてあったところのものと無縁なものにする――危険な力をもつのである」(p. 48)。それゆえに共感は「物をたがいに孤立した状態に保持し、同一化を妨げる」(p. 49)反感によって補正される。フーコーのあげる植物同士や動物同士が憎み合うという例を見る限りでは反感は反発や敵対のようなものに思える。「物、獣、そして世界のあらゆる形象は、それらを分散させると同時に闘争へと惹きつけ、それらに殺害を犯させるとともにそれらを死の危険にさらす、こうした反感のはたらきによって、そのあるがままの姿を保ちつづけるのである」(p. 49)。共感と反感の「この均衡運動によって、物が成長し、発達し、混りあい、消滅し、死滅しながら、それでいて際限なく姿をあらわしてくることが背宇名されるであろう」(p. 49)。 ・類似に基づく知の帰結その1:過剰と貧困 16世紀のエピステーメーの帰結の「第一は、この知が過剰であると同時に絶対的に貧困なことだ。それは限界をもたぬがゆえに過剰である。……それゆえ、それぞれの類似は、他のすべての類似の集積を介してしか価値をもたず、もっともとるにたらぬ類似関係でさえ、それが正当なものと認められ、ついに確実なものとして現れるためには、世界全体が踏破されなければならない。したがってそれは、たがいに呼びあるもろもろの確認の無限の堆積によって進むことができ、またそうして進むべく定められた知なのである。……そこから、林立する知のあの巨大な円柱と、それらの単調さとが生まれてくる。記号とそれが示すものとのあいだに紐帯として類似(それは、標識にも内容にも同様に宿っている以上、第三の力であるとともに唯一の力でもある)をおくことによって、十六世紀の知は、つねにおなじものしか認識することができず、それも、際限のない行路のけっして到達されぬ果てにおいてしか認識できないという立場に、みずからをおとしいれたのであった」(p. 55)。 ・類似に基づく知の帰結その2:小宇宙と閉じた宇宙 16世紀の知において小宇宙は二つの機能を持った。一つは、「探求にたいして、それぞれの物が、より大きな尺度において、自分を映す鏡と自分を保証してくれる大宇宙を見いだすことを約束する。それはまた逆に、もっとも高い天球の可視的な秩序が、それよりは暗い大地の深層に反映しているにちがいないと断言する」(p. 56)。二つ目は、「それは、ひとつの大いなる世界が実哀史、その外周が創造されたあらゆる物の限界をなしていること、他方の極には一個の特権的被造物が実在し、それが、限定された規模において、天空、星辰、山岳、河川、そして嵐の、広大な秩序を再現していること、さらに、類似関係のはたらきがくりひろげられるのは、基本的構成要素をなすこの類比の、実際上の限界内だということを示している」(p. 56)。 ・自然も書物もテクストである以上、魔術と博識は同じ資格で知となる 自然も書物も同じく標識であり、解釈を受けるテクスト、記号であることから、魔術と博識は同じように認識の一つの形態である。ここで言われる魔術(自然魔術)は自然という記号に隠されたものを、自然を解釈することによって理解しようとするものであり、博識は古代から伝わるテクストを収集して解釈するものである。「標識と語のあいだには、観察と受容された権威、検証可能なものと伝承的なもの、といった相違があるわけではない。あらゆるところにただひとつの仕組み、記号と相似者のそれがあるにすぎない。だからこそ、自然と言葉は無限に交叉しあい、読むすべを心得る者にたいして、いわば唯一の膨大なテクストを形成するのである」(p. 59)。 ・言語は世界の秩序を反映する 「言語は、自然の可視的形象と秘教的言説における秘められた適合関係との中間にある。それは心ならずも細分され変質させられ、本来の透明さを失った自然である。……言語は、埋もれた啓示であると同時に、いやましていく光のなかですこしずつ本来の姿を回復する啓示でもあるのだ。〔段落変わる〕その本源的形態において、すなわちそれが神によって人間にあたえられたとき、言語は、物に類似しているがゆえに、物の絶対的に確実で透明な記号であった。名は、力が獅子の身体に、王者の威厳が鷲のまなざしに書き記されるように、あるいは、惑星の感応が人々の額に刻まれるように、相似という形態をとって、その指示するもののうえにおかれたのである」(p. 61)。たとえば、ヘブライ語では父母に対する慈しみを持つコウノトリは「善良な」、「慈悲ぶかい」、「憐憫の情をもつ」という意味であるように。 百科全書の企ては言語による世界の秩序の反映に由来する。百科全書の企ては「空間による語の連鎖と配置によって、世界の秩序そのものを再構成しようとするのである」(p. 63)。 ・話された言葉に対する書かれた言葉の優位とその二つの形態その1:観察と伝聞を区別しないこと ルネサンス期の言語と世界の密接な絡み合いは書かれた言葉の「絶対的特権」、話された言葉に対する優越を前提としていた。「声の音は、言語の一時的で心ともない翻訳にすぎない。神が世界のうちに残したのは書かれた言葉であり、アダムは最初の名を獣たちにあたえたとき、これらの可視的な無言の標識を読んだのにすぎない。〈律法〉は人間の記憶にではなく、〈石の板〉にゆだねられた。真実の〈言葉〉は、書物のなかにこそ求められなければならない」(p. 64)。 「書かれたもののこうした優越性こそ、十六世紀において、表面対立するにもかかわらず切りはなしえない、双子のように対をなす二つの形態の共存を説明してくれる。そのひとつは、見られるものと読まれるもの、観察されたものと人づてに伝えられたものとが区別されず、その結果、視線と言語とが無限に交錯する唯一の滑らかな連続面が構成されていたことであり、もうひとつは、逆に、どのような言語もただちに分裂し、はてしなくむしかえされる注釈によって二重化されていったことである」(p. 64)。 第一の形態の具体例。アルドロヴァンディとビュフォンの対立。ビュフォンにとってアルドロヴァンディの記述は観察と伝聞、その主題についての雑多な内容を区別せずに混ぜ合わせたものに見えるだろうが、「けれどもその理由は、先入見のない視線の正確さよりも先人の権威が好まれたからではなく、自然それ自体が、語の標識との、物語と文字との、言語と形態との、切れ目のない織物をなしているからである。……アルドロヴァンディは、ビュフォンよりより観察者であったわけでも悪い観察者であったわけでもない。ビュフォンにくらべて信じやすかったのでも、視線の正確さや物の合理生に執着しなかったのでもない。ただ、彼の視線は、ビュフォンとおなじ体系、《エピステーメー》のおなじ配置によって、物につながれてはいなかったのだ。アルドロヴァンディは、ことごとく書かれたものである自然を、細心に熟視していたのである」(p. 65)。 ・話された言葉に対する書かれた言葉の優位とその二つの形態その2:注釈の増殖 「してみれば、知ることとは言語を言語に関係づけることである。語と物との画一的な平原を復元することである。それはあらゆるものを語らせること、いいかえれば、あらゆる標識のうえに注釈という第二の言説を生じさせることにほかならない。地に固有なものは、見ることでも証明することでもなく、解釈することなのだ」(p. 65-66)。注釈の注釈、そのさらなる注釈、という風にこれがさらに延々と続くことで注釈は増殖する。 ・ルサネンス期から古典主義時代への以降と共に記号の類似は表象に解消される ルネサンス期の記号は「標識の形式的な領域、標識によってしるしづけられる内容、そして標識を指示される物とつなげる相似関係」(p. 67)、あるいは「書かれたもの、物の上に捺された刻印、世界に広がりそのもっとも消しがたい形象の一部をなす標識」(p. 68)という三つの要素から構成されていたが、この三元的形式は次の古典主義時代にはこの枠組みは二元的形式によって取って代わられる。 「これまで人は、実際のところ、記号が、それが記号であるところのものをまさしく指示していることを、いかにして認知しうるかと問うてきた。ところが十七世紀以後、記号がそれが記号であるところのものといかにしてつながりうるかが、問われるようになる。この問いにたいして、古典主義時代は、表象の分析によって答えるであろう。そして近代の思考は、意味と意味作用の分析によって答えるにちがいない。しかしい、まさにそのことによって、言語は、表象の特殊な場合(古典主義時代の人人にとって)、もしくは意味作用の特殊な場合(われわれ近代人にとって)以上のものではなくなるであろう。言語と世界との深い相互依存はここに崩壊する。……物と語はやがて切り離されるであろう。眼は見るため、そしてただ見るためだけのものとなり、耳はただ聞くためだけのものとなる。言説は、存在するところのものを語るのをたしかにその任務としはするが、その語るもの以上の何ものでもなくなるであろう。 これこそ文化の壮大な再組織であって、古典主義時代はその最初の段階、おそらくはもっとも重要な段階にほかならなかった。というのは、われわれがなおそのうちにとらえられている新たな配置について責任を負うのは古典主義時代であり――記号そのものの意味作用が〈類似者〉の至上性のうちに解消されているがゆえに実在せず、記号の謎めいて単調でかたくなな原初的存在が無限に散乱してきらめいていた、そのようなもうひとつの文化からわれわれを隔てるのもまたそれだからだ」(p. 68-69)。 第三章 表象すること ・類似の探求者としてのドン・キホーテ、だが類似と記号の結びつきはもはや失われている ドン・キホーテは「常軌を逸した人間ではなく、むしろ相似のあらゆる標識のまえで足をとめる巡礼」(p. 71)であり、彼はその記号に似たものでありたいと望んで騎士物語を模倣しようとする。「しかし、彼がそれらの記号に似たものでありたいと望むのは、彼がそれらを立証しなければならないからであり、読まれるものとしての記号が、もはや目に見える諸存在と類似していないからである。……テクストの証人であり、代理者であり、現実におけるその類比物であるドン・キホーテは、それらのテクストに自分を類似させることによって、それらが真実を語っていること、それがたしかに世界の語る言語であることを証明し、そのことの疑うべからざる標識をもたらさなければならない。書物の約束しているものを実現することが彼の義務なのである」(p. 71-72)。 「『ドン・キホーテ』は、ルネッサンス世界の陰画を描いている。書かれたものは、もはやそのまま世界という散文ではない。類似と記号とのあの古い和合は解消した。相似は人をあざむき、幻覚や錯乱に変わっていく。物は頑固にその皮肉な同一性をまもりつづける。それらはもはや、それらがあるところのものでしかない。語は、みずからをみたすべき内容も類似も失ってあてどなくさまよい、もはや物の標識となることもなく、書物のページのあいだで塵にまみれて眠るのである。……書かれたものと物とは、たがいにもう似ていない。ドン・キホーテは、この二つのもののあいだをあてどなくさまよいつづけるのだ」(p. 72-73)。 ・類似から同一性と相違性へと焦点が転換する:類似の担い手としての狂人と詩人 「相似と記号との関係がひとたび解かれるや、二つの経験が成立し、二人の人物が向かいあって登場することが可能となる。病人としてではなく、公認され保護される逸脱として、文化の不可欠な機能として理解された狂人が、西欧の経験のなかで、常人ばなれした類似を弄ぶ人間となる。バロック時代の小説や演劇に描かれ、十九世紀の精神医学にいたるまでしだいに制度化されていくこの人物は、まさに《類比》のなかに《疎外》された人間にほかならな。彼は〈同一者〉と〈他者〉との錯乱した使い手である。彼はある物をべつのものと思いこみ、人をたがいに取りちがえ、友人に見覚えがなく、他人に見覚えがある。……たえずしるしを解読するつもりでいるので、あらゆる価値、あらゆる関係を逆転させてしまう。……彼はあらゆるところに類似と類似を示すしるししか見ない。彼にとって、あらゆるしるしはたがいに類似したものであり、あらゆる類似はしるしとしての価値をもつのである」(p. 74)。 詩人もまた類似の担い手である。詩人は「名ざされ日常的に予見された相違のしたに、物相互の隠された近縁関係、錯乱した相違関係をふたたび発見」し、「言表することがあれほどに困難な〈同一者〉の〈至上性〉が、彼の言語においては、記号相互の区別を消し去るのだ」(p. 74)。 類似に代わって同一性と相違性が問題となってくる。「そしてその狂人と詩人のあいだに、いまやひとつの知の空間が開かれた。そこでは、西欧世界における本質的な断絶によって、もはや相似ではなく同一性と相違性とが問題になるであろう」(p. 75)。 ・もはや類似は錯誤の機会となった、例その1:ベーコン 「十七世紀初頭、ことの当非は別としてバロックと呼ばれる時代に、思考は類似関係の領域で活動するのをやめる。相似はもはや知の形式ではなく、むしろ錯誤の機会であり、混同の生じる不明分な地域の検討を怠るとき人が身をさらす危険なのだ」(p. 76)。 ベーコンの類似への経験的な批判。「それは経験的な批判であって、物同士の秩序関係や相等関係に関するものではなく、人間精神の様々なタイプと、それらが陥りやすい錯覚に関するものである。それは取りちがいの理論である」。類似による取り違いこそが四つのイドラである。「『人間精神は、本来、物のなかにある以上の秩序と類似を想定しがちである。自然は例外と相違にみちみちているのに、精神はいたるところに調和、合致、相似を見る……』……精神が性急さと本来の軽率さをつつしみ、『洞察力』を身につけ、自然に固有のものである相違性をついに知覚するにいたるならば、精神の慎重さだけでこうしたものは一掃することができるであろう」(p. 76-77)。 ・例その2:デカルト デカルトの批判。これは「知の基本的経験かつ本源的形態としての類似をしりぞけ、類似のうちに、同一性と相違性、計量と秩序の用語で分析すべき雑然たる混合物を摘発する、古典主義時代の思考なのだ。デカルトは、類似を忌避するといっても、合理的思考から比較という行為を排除しようというのでも、それを制限しようというのでもなく、逆にそれを普遍化し、そうすることをつうじて、それにもっとも純粋な形態をあたえようとする」(p. 77)。 比較には計算的比較と秩序の比較という二つのタイプがあり、「一方は、相等・不当の関係を設定するため対象を単位に分析し、他方は、見いだしうるかぎりでもっとも単純な要素を設定したうえで相違を可能なかぎりこまかい段階にしたがって配列する」(p. 78)。だが、数量の計量は秩序の設定に帰着する。「すべての計量(たがいの相等関係によるあらゆる種類の決定)を、単純なものから出発してさまざまな相違を複雑性の段階としてあらわす、ひとつの系列に帰着させること。類似者は、単位と相等・不等の関係とにしたがって分析されたのち、明白な同一性と相違性とにしたがって分析される。そしてその《相違性》とは、《推論》の秩序のなかで思考されるものなのである」(p. 79)。 ・十六世紀と十七世紀のエピステーメーの転換 エピステーメーの転換は以下のように特徴づけられる。(1)分析が類似に取って代わり、(2)認識は同一性と相違性に則ってものを「識別する」こととなり、(3)物語(イストワール)と学問、すなわち「直観とその連鎖によってわれわれのなしうる確実な諸判断」(p. 81)とが区別され、(4)言語は世界の形象、真理の標識であることをやめる。「語はそれが可能な場合に真理を表現することはできても、もはや真理の標識となる権利をもたない。言語は諸存在の場から退き、透明と中性の時代にはいていく」(p. 81)。 マテシスが古典主義時代のエピステーメーの特徴づける。「というのは、古典主義時代の《エピステーメー》にとって基本的な物は、機械論の成功や失敗、自然を数学化する権利や不可能性ではなく、十八世紀末まで恒常的で損なわれることなくつづく《マテシス》との関係だからだ。この関係は二つの本質的特徴を示す。第一の特徴は、諸存在相互の関係は秩序と計量の形態のもとに思考されるが、その際、計量の問題をつねに秩序の問題に帰着せしめうるという、あの基本的不均衡が付随することである。したがって、あらゆる認識と《マテシス》との関係は、計量不能の物同士のあいだにさえ、秩序ある継起関係を設定する可能性としてあたえられる。この意味において、《分析》はすみやかに普遍的方法としての価値をもつにいたるであろう。……それら〔マテシスによって出現した学問領域〕は一般的意味での《分析》に属しているが、それら固有の道具は《代数的方法》ではなく《記号の体系》である。このようにして、語と諸存在と必要の領域における秩序の学である、一般文法、博物学、富の分析があらわれた」(p. 82)。 解釈と秩序の類比性。「《秩序》とのこの関係〔「西欧文化の《エピステーメー》全体が当時秩序に関する普遍的学問とのあいだに維持した関係」(p. 82)〕は、古典主義時代にとって、ルネッサンス時代にとっての《解釈》との関係とおなじく本質的なものである。そして、十六世紀において、記号学と解釈学とを重ねあわせていた解釈が本質的に相似関係の認識であったように、記号による秩序づけは、あらゆる経験的な知を同一性と相違性の知として成立させるのだ」(p. 82)。 ・記号の三つの可変要素 (1)結合関係の起源:記号が自然的なものか、約束によるものか。 (2)結合関係のタイプ:「記号はそれが指示する総体に属するか(健康の一部であるよい顔色が健康を示すように)、それと切り離されているか(旧約聖書の象徴がキリストの化肉と贖罪を遠くから示す記号であるように)」(p. 83)。 (3)結合関係の確実性:恒常的である場合と単に蓋然的な場合。 「この三つの可変要素が、類似関係にかわって経験的認識領域における記号の有効性を規定するのである」(p. 83)。以下は記号の役割の変化の説明。 (1)「ところが十七世紀以後、記号の全領域は確実なものと蓋然的なものとに配分される。すなわち、未知の記号や無言の標識はもはやありえぬこととなるであろう。……記号はみずからを認知してくれる者の到来を無言のまま待つのではない。それは、認識という行為をへずにはけっして記号として成立しないのである。〔改行〕まさしくここで、知は《占卜》との古い類縁関係を断絶する。占卜は、みずからに先立つ記号をつねに前提していたので、認識は、発見されるか断定されるかひそかに伝承されるかした記号のなかの、大きく口をあけた空間に完全に宿っていた。《占卜》のつとめは、神によって世界のうちにあらかじめ配分された言語を拾いあげることであった。……だがいまでは、記号が記号としてはたらきはじめるのは認識の内部においてであり、記号はその確実性や蓋然性を認識から借りうける」(p. 84)。 (2)記号は分析の手段となる。記号が記号であるためは、その記号はそれのシニフィエであるところの物と同時に与えられなければならない。「しかし、知覚の一要素がその記号となるためには、それがこの知覚の一部をなすだけではじゅうぶんではない。それが要素として区別され、漠然と結びついていた全体的印象から取り出されることが必要である。したがって、全体的印象が分割され、それを合成しているあのおおくの錯綜した部分のひとつに注意が向けられて、この部分を全体から分離していなければならない。したがって記号の成立は、分析と不可分のものである。分析なしに記号が出現しえない以上、記号は分析の結果である。同時にまた、記号は、ひとたび規定され分離されると新たな印象にも適用される以上、分析の手段でもあり、その場合には新たな印象にたいしていわば格子の枠割を演じるのだ。精神が分析をおこなうがゆえに記号があらわれ、精神が記号を手にしているがゆえに分析は際限なくつづく」(p. 86)。 (3)自然的記号と人為的記号の関係の逆転。十六世紀には人為的記号は自然的記号にその基礎を持っていた。しかし、十七世紀以降は「自然的なものとしての記号は、物かた取りだされた一要素以上の何ものでもなく、認識によって記号として成立せしめられたものにすぎない。したがってそれは、強課された、融通のきかぬ、不便なものであり、精神はそれを自由に使いこなすことができない。反対に、約束ごとによる記号を設定する場合、いつでも単純で、記憶しやすく、無数の要素に適用でき、それ自体分割と合成が可能なように、それを選ぶことができるであろう(また実際そうしなければならない)」(p. 86-87)。「人間の設けた記号は、もっとも十全な機能をもつ記号である。こうした記号こそが人間と動物を区別し、想像力を意志的な記憶に、自然発生的注意力を反省に、本能を理性的認識に変えるのにほかならない。……自然的記号は、約束によるこのっゆな記号の未完成な素描、恣意的なものの設定によらねば完成しないかすかな下絵にすぎない」(p. 87)。 ・言語は記号を発見するものではなく、作るものに変わった 記号の恣意的体系によって物は単純な要素に分析されると共に、これらを組み合わせ、結合させるのであり、「それらをとおして自然は――起源にある印象に密着したレベルで、しかもそれらの印象のくみあわせのあらゆる可能な形態において――みずからがそうであるところの姿を示すのだ」(p. 87)。 「古典主義時代において、記号を用いることは、もはやそれ以前の世紀におけるように、永遠に語られ語りなおされる言説の原初的テクストを記号のしたに再発見しようとこころみることではなく、自然をみずからの空間のなかで展開させることを可能とする恣意的言語、自然の分析における最終的な項、そして自然の合成法則を、発見しようとつとめることである。知はもはや、古い〈言葉〉を、それがかくされているかもしれぬ未知の場所から掘りおこすのではない。知はいまやひとつの言語を創りださねばならないのであって、その言語はよくできたもの――すなわち、分析と組みあわせとをおこなう、まことの計算言語であることが必要なのだ」(p. 87-88)。このエピステーメーの配置の下にホッブズ、バークリー、ライプニッツ、コンディヤック、観念学派はいる。蓋然性、分析と結合、体系の正当化された恣意性(あるいは普遍的言語)がこの時代の新しい形象である。 ・記号が三元的なものから二元的なものとなり、表象の二重化が起こったこととその帰結 記号はルネサンス期には標識によって示されるもの、標識となるもの、後者のうちに前者の標識を認知するのを可能にするもの(つまり類似性)という三つの要素からできていたが、古典主義時代には記号は二元的なものとなる。すなわち、記号では表象するものとそれによって表象されるものというように表象の二重化が起こる。「『類似による思考』と同時に消滅したのはこの統一的な三元的体系であり、それは厳密に二元的な組織によっておきかえられたのだ」(p. 89)。 その帰結。(1)記号の範囲が表象作用(すなわち思考)の範囲と重なった。具体的な現れとしては、抽象観念は具体的知覚の記号であったり(コンディヤック)、一般観念は他の観念の記号として役立つ個別的観念(バークリー)だったり、想像されたものはそれが由来する知覚の記号であったりする(ヒューム、コンディヤック)と言われた。 (2)意味作用が消える。記号は直接的に対象を表象する以上、記号そのものの意味作用は問題になりえない。「それぞれの表象は、その透明性において、それが表象しているものの記号としてみずからを示す。それでいて――あるいはむしろ、まさにそのゆえに――意識のいかなる特異な活動もけっして意味作用を成立させることはできない。意味作用からしか記号というものを考えない今日のわれわれにとって、マルブランシュから〈観念学〉にいたる古典主義時代の哲学が徹頭徹尾記号の哲学であったことを承認するのが、その明白さにもかかわらずかくも困難だというのも、おそらく、表象に関する古典主義時代の思考が意味作用の分析を排除しているからであろう」(p. 91)。「ところで一方、意味作用を成立させる行為も、意識の内部における発生過程もないのである。それは、記号とその内容とのあいだに、いかなる中間的要素も不透明さもないということである。それゆえ記号は、その内容を支配しうる法則以外の法則を持たぬ。記号の分析は、そのまま、まったく正当なものとして、記号の語ろうとするものの解読なのだ」(p. 91)。 (3)記号の二元的理論と表象の理論の結合。「記号が能記と所記との純然たる結びつきであるならば……、いずれにしても、関係は表象の一般的な場の内部に設定されるほかない。すなわち、能記と所記が結ばれているのは、両者がともに表象されている(あるいは表象されていた、もしくは表象されるるかぎりにおいて、しかも、一方が現に他方を表象しているかぎりにおいてなのだ。したがって、記号に関する古典主義時代の理論が、それを哲学的に基礎づけ正当化するものとして、何らかの『観念学』、すなわち、単純な感覚から抽象的で複雑な観念にいたるすべての表象形態の一般的分析、を持ったもんは当然のことであった。また、一般記号学の企てにふたたび想到したとき、ソシュールが、記号について『心理主義的』とも見えかねぬ規定(概念と心像の結びつき)をあたえたのも当然のことである。じじつ、ソシュールは、古典主義時代において記号の二元的性格を思考するために必要だった条件を、この規定のうちに再発見したのである」(p. 92)。 ・17世紀には類似は認識の背景をなすもの、想像力によって現れるものとなった 「相似はといえば、いまや認識の領域のそとに転落するよりほかない。それは、もっとも粗雑な形態における経験的対象である。それが、類似性という不正確さにおいては消滅させられたうえで、知によって相等なり秩序なりの関係に変形されるのでなければ、もはや『それを哲学の一部をなすものと見なす』ことはできない。とはいえ、認識にとって、相似は欠くことのできぬ周縁である。なぜなら、二つの物の類似がすくなくとも両者を比較する機会を提供しなければ、両者のあいだに相等性も秩序関係も設定されえないからだ。ヒュームは同一性の関係を、反省を前提とする『哲学的』関係のうちに算えたが、類似関係は、彼にとって、自然的諸関係、すなわち、『おだやか』だが免れがたい力によってわれわれの精神を拘束する諸関係に属している」(p. 93)。「十六世紀において、類似が存在のそれ自身にたいする基本的関係であり、世界の二重化された相だったのにたいして、古典主義時代において、類似は、認識されるべきもの、認識それ自体からもっとも離れたものが姿をあらわす際の、もっとも単純な形態にほかならない。表象が認識されうるのは、すなわち、相似であるかもしれぬものと比較され、要素(他の表象と共通な要素)に分析され、部分的同一性を呈示しうる他の表象と組みあわされ、最後に秩序ある表のかたちに配分されうるのは、いずれも類似によってなのだ。 「さらに正確にいえば、類似は想像力の力によってしかあらわれず、また逆に、想像力は類似をささえとすることなくしては作用しない」(p. 94)。想像力は類似を見て取ることによってある印象から別の印象を想起させる。 ・想像力から観念の発生過程へ 「表象される物のなかには、類似の執拗なつぶやきがなければならないし、表象作用のなかには、想像力のつねに可能な重ねあわせがなければならない」(p. 94)という二重の必要条件は〈観念学〉において問題とされる。これから《想像力》の分析論と《自然》の分析が起こる。前者は「継起する表象の系列を、非顕在的だが同時的な比較の表に、いかにして換位しうるか……すなわち、印象、無意識的想起、想像力、記憶など、時間のなかにおける心像の力学ともいえる、あの無意識的基盤全体の分析である」(p. 94-95)。後者は「物の類似――秩序づけられ、同一の要素とあい異る要素とに分解され、その無秩序な相似が表のかたちに配分される以前に、物がもっていた類似――を説明する分析」であり、「物が部分的に重なりあい、混りあい、交錯しあった状態であたえられるのはなぜか、そこでは物の本質的秩序が混乱しているにもかかわらず、その秩序が、目ざとい記憶にとって、類似関係、漠然とした相似、暗示的機会の形で透視されるほど目につきやすいのはなぜかを問題にする」(p. 95)。 両者は「発生過程」という観念に統一を見る。「ところで、対立するこれら二つの契機(一方は、印象における自然の無秩序という消極的契機であり、他方は、これらの印象からの秩序の再構成という積極的契機である)は『発生過程』という観念のうちに統一を見いだすのだ」(p. 95)。 この二つの契機はそれぞれ別の帰結をもたらす。 「第一の場合には、消極的契機(無秩序の契機、漠然たる類似の契機)が想像力それ自体のせいにされ、想像力は単独で二重の機能をはたすものと見なされる。すなわち、想像力が表象を重ねあわせるだけで秩序を復元しうるとしても、それは、想像力が物の同一性と相違性を直接その分析的真実において知覚するのを妨げる、まさにそのおなじ程度においてなのだ。……じじつ、デカルト、マルブランシュ、スピノザは、想像力を、まさにそのような位置において、誤謬の場であると同時に数学的真理にさえ到達する能力として分析した」(p. 95)。 「ところで逆に、想像力の積極的契機を、混濁した類似や、相似の曖昧なつぶやきのせいにすることもできるであろう。自然は、それ自体の歴史や天変地異のゆえに、あるいはおそらくたんにその錯綜した多様性のゆえに、きわめて混乱した様相を呈しており、もはや表象行為にたいしてたがいに類似した物しか提供することができない。……コンディヤックとヒュームが類似と想像力との紐帯を求めたのは、その多様性にもかかわらず曖昧でいわれのない反復を示す自然のあの波だちのうちにであり、自然がいっさいの秩序に先だって自己に類似するという謎めいた事実のうちになのだ。……いずれにしても、第二のタイプの分析が、最初の人間(ルソー)、目ざめてゆく意識(コンディヤック)、あるいは他の世界からこの世界へ落ちてきた観察者(ヒューム)といった、神話的形態で展開されやすいことは理解されるだろう。このような発生論〔「ジュネーズ」のルビ〕は、正確に〈創世〉〔同じく「ジュネーズ」のルビ〕の神話にかかわるものとして機能したのである」(p. 95-96)。 つまり、第一のタイプの分析では想像力は無秩序や漠然とした類似を包含しつつも、秩序の再構成を行う能力と見なされ、第二のタイプの分析では無秩序や漠然とした類似が自然のせいにされ、秩序の再構成はこういったものから発生すると考えられる。挙げられている第一の例はデカルト、マルブランシュ、スピノザ、後者の例はコンディヤック、ヒューム、ルソー。 ・古典主義時代のエピステーメーはマテシス、タクシノミア、発生論を特徴とし、表象が知の中心となる 「古典主義時代の《エピステーメー》全体を可能にしているのは、何よりもまず、それと秩序の認識との関係である。単純な自然を秩序づけることが問題であるときには、人は〈代数学〉を普遍的方法とする《マテシス》に訴える。複雑な自然(経験においてあたえられうような表象一般)を秩序づけることが問題であるときには、《タクシノミア》を成立させる筆湯があり、そのためには記号の体系を設定しなければならない。記号と合成的自然の秩序との関係は、代数学と単純な自然との関係に等しい。しかし、経験的表象が単純な自然に分析されうるはずだというそのかぎりにおいて《タクシノミア》がすべて《マテシス》に帰着することは理解されよう。逆に明証性の知覚が表象一般の中での特殊な場合にすぎない以上、《マテシス》は《タクシノミア》の特殊な場合にすぎぬともいえる」(p. 97)。 タクシノミアから発生論へ。「《タクシノミア》は、さらに、物のある種の連続体(存在の非=不連続性または充満)と、存在しないものを出現させながら、まさにそのことによって連続体をあかるみに出すことを可能にする、想像力のある種の能力とを前提にしている。したがって、経験的秩序に関する学問の可能性は、認識についてのある種の分析を必要とする――すなわち、存在の隠された連続性(そしていわば混乱したかたちであらわれている連続性)が、不連続な表象の時間のなかでの結びつきをつうじて、いかにして再構成されうるのかを示す分析である。認識の起源を考察することの必然性が、古典主義時代をつうじてつねに明瞭な形であらわれるのはそのゆえである」(p. 97-98)。表の中の空欄、ミッシングリングに記号を与え、この空欄を充足させようとすること。その記号は特徴としての価値を持ち、それによって区別と分節化を行うことができるところのものでなければならない。 マテシス、タクシノミア、発生論を背景にして博物学、富の分析、一般文法は出現した。「《博物学》――すなわち、自然の連続性と錯綜状態を分節化する特徴の学――に出会うのはまさしくこの分野〔「同一性と相違性の表」〕においてである。《貨幣と価値の理論》――交換を可能にし人間のさまざまな必要や欲望のあいだに等価関係を設定せしめる記号についての学――に出会うのもまたこの分野においてにほかならぬ。最後に、《一般文法》――人間が個別的知覚を分類し思考の連続的運動を截断するために用いる記号についての学――もまたそこに宿っている。それらの相違にもかかわらず、これら三つの領域が古典主義時代において実在したのは、相等性の計算と表象の発生論とのあいだに、表の基本的空間が創設されたからにほかならない」(p. 98)。 マテシス、タクシノミア、発生論の三者の関係はというと、タクシノミアはマテシスに、発生論はタクシノミアの内部に宿る。 マテシス:相等性の学、主辞=属辞関係定立の学、《真理》の学。 タクシノミア:秩序の学、分節化と分類階級の学、《諸存在》に関する知。記号を空間的同時性において扱う。 発生論:記号を時間継起において扱う。 「いずれにしても、古典主義時代の《エピステーメー》は、そのもっとも一般的な配置において、《マテシス》、《タクシノミア》、《発生論的分析》の分節的体系として定義できるだろう。すべての学問は、たとえ遠いものにせよ、常に網羅的秩序づけの企てをいだいている。学問はまた、つねに、単一な諸要素とそれらの漸次的合成過程の発見をめざしている。そして、その中間地帯において、学問は表、すなわち、認識をそれ自身と同時的な体系として展開したものなのだ。十七世紀と十八世紀において、知の中心は《表》にほかならない」(p. 99-100)。 第四章 語ること ・古典主義時代の言語は即表象だったため、透明化した 「古典主義時代における言語の実在は、至上であると同時に、目だたないものである。 至上のものであるというのは、語が『思考を表象する』任務と能力をあたえられたからだ。……表象するとは、厳密な意味に理解されるべきであって、言語は、思考がみずからを表象するように思考を表象するのである。……古典主義時代においては、表象にあたえられないものは何ひとつとしてあたえられぬ。だが、まさにそのことによって、自己とのあいだに距離をおき、みずからを二重化し、自己の等価物である他の表象のうちにみずからを反映させる表象のはたらきによらなければ、いかなる記号も出現せず、いかなる言葉も言表されず、いかなる語も命題もけっしてどのような内容をも目指しはしないのである」(p. 102)。 言語の透明化。「そしてこのことによって、言語は目に見えぬもの、もしくはほとんど目に見えぬものとなる。いずれにしても、言語が表象にたいしてまったく透明になったため、言語の存在は問題とならなくなる。ルネッサンス時代は、言語がそこにあるという生の事実のまえで足をとめた。……言語の存在が、そのなかに読みとれるものやそれを鳴り響かせる言葉に、いわば無言のままかたくなに先行していたのである。十七世紀以後欠落するのは、このずっしりとして、そして人を当惑させずにはおかぬ、言語の実在にほかならない。それはもはや標識の謎のうちに秘められてあらわれはせず、まだ意味作用の理論のうちに展開されてあらわれるのでもない。極言すれば、古典主義時代の言語は実在しなかったと言えるかもしれない。……言語はもはや表象以外に場をもたず、表象のなかでしか、すなわち表象がしつらえる力をもつあの空洞の中でしか、価値をもたないのだ」(p. 103)。 ・言語記号をそれならしめ、その他の記号、表象から区別させるのは継起的順序 「《言説》とは、言語記号によって表象された表象そんものにほかならない。だがしかし、言語記号の特質とは何なのであろうか? 言語記号にたいして、他のあらゆる種類の記号よりもよく表象を表示し分析し再構成することを可能ならしめる、あの不思議な力とは何なのか? 記号のあらゆる体系のうちで、言語固有のものとな何であろうか?」(p. 106) 言語を言語ならしめるのはこれが集団的なものだったり個人的なものだったり、あるいは恣意的だったり自然的だったりすることではない。「むしろ、言語が表象を否応なく継起的順序(=秩序)にしたがって分析することからくるのである」(p. 106)。言語は思考を一気に表象するのではなく、順序に従って次第にしか発音・配置されない。「もし精神が観念を『知覚するがままに』発音する力をもっていたとすれば、精神が『それらをすべて同時に発音するであろう』〔コンディヤック『文法』〕ことは疑いない。けれども、まさしくそのことこそ不可能なことである。なぜなら、『思考は単一な操作である』のに、『言表することは継起的操作だ』〔アベ・シカール『一般文法要論』〕からだ。つまり、それは、さまざまな部分(または量)の同時的比較にたいして、段階を逐次的に追わなければならないというひとつの順序をおきかえるのだ。言語が思考の《分析》だというのは、こうした厳密な意味においてである。それはたんなる裁断ではなく、空間における順序の根本的創設にほかならない」(p. 107)。 ・一般文法は言語の順序の研究である 「〈一般文法〉とは、《表象されるべき同時的なものとの関係における、言語上の順序の研究である》。一般文法の固有の対象は思考でも言語でもなく、言語記号として理解された《言説》なのだ」(p. 107)。しかしこの順序は言語によってバラバラで、「自然発生的、非反省的で、いわば自然的」である。それゆえ言語は「学問の自然発生的形態、精神の未確認の論理ともいうべきものであると同時に、思考の最初の反省的分解であって、直接的なものとのもっとも原初的な断絶のひとつにほかならない。それは……かくも多様な選択の背後に表象の必然的で明証的な秩序を再発見するため、あらゆる哲学がふたたび問題にしなければならないものなのである」(p. 108)。 ・一般文法の三つの帰結 その1。言語の学が「《型》と《比喩》――すなわち、言語が言語記号のかたちで空間化される仕方――を扱う〈修辞学〉」(p. 108)と「分節化と順序――すんわち、表象の分析が継起的系列にしたがって配列される仕方――を扱う〈文法〉」(p. 108)とに分割される。 その2。言語と普遍の関係の帰結としての普遍言語と百科全書。(1)普遍言語。「他方、〈文法〉は、言語一般に関する反省として、言語と普遍性との関係あきらかにする。この関係は、〈普遍的言語〉の可能性を考慮するか、〈普遍的言説〉の可能性を考慮するかにしたがって、二つの形態をとりうる」(p. 108-109)。普遍的言説はここでしか出てこないのであまり重要ではない(あとよく分からない)ので書き落とすとして、より重要な方の普遍的言語というのはバベルの塔以前の言語のような、原初的で純粋な言語ではない。そうではなく、各々の表象に記号を割り当てることができ、表象の要素の合成・結合の仕方、表象間の区分と関係を示すことができ、「まさにその事実そのものによって、可能なかぎりのあらゆる秩序を通覧する力をもつであろう。〈特徴記述〉であると同時に〈結合法〉である〈普遍的言語〉は、太古の時代の秩序を再建するものではない。それは、考えうるかぎりのすべての秩序がそこにしかるべき場所を見いだすにちがいない、そのような記号、統辞法、文法を新たにつくりだすものなのだ」(p. 109)。(2)百科全書。「言語があらゆる表象を表象しうるかぎりにおいて、言語はとうぜん普遍的なものの宿る場である。みずからのもつ語のあいだに世界全体を収用しうるような言語がすくなくとも可能なものとして存在しなければならず、逆にまた、表象されうるものの全体としての世界は、その総体において、一個の〈百科事典〉となることができなければならない。そして、シャルル・ボネの壮大な夢は、ここで表象に結びつきこれに依存するものとしての言語のあり方と合致するわけだ。……それらが企図された経験的状況がいかなるものであれ、古典主義時代の《エピステーメー》におけるそれらの可能性の基礎をなすのは、言語の存在が表象におけるそのはたらきに完全に帰着するとすれば、逆に表象は、言語の媒介によってのみ普遍的なものと関係をもつという、まさにそのような事実にほかならない」(p. 110-111)。 その3。学問はよくできた言語とみなされた。「けれども言語は、認識であるにしても非反省的な認識にすぎない。それは外部から個人に押しつけられ、好むと好まざるとにかかわらず個人を、具体的あるいは抽象的な、正確なあるいは根拠の薄い、さまざまな概念のほうへと導いていく。これにたいして認識は、それぞれの語が吟味され、それぞれの関係が認識された、一個の言語ともいうべきものである。知るとは、正しく語ること、精神の確実な動きが指定するとおりに語ることであり、語るとは、もちあわせの手段が許す範囲で知ること、生れをおなじくす人人から強課されたモデルにもとづいて知ることなのだ。言語が磨かれぬままの学問であるのとおなじ程度に、学問はよくできた言語である。……こうして文法は、その本性そのものによって規制的となる。それは……語ることの根本的可能性を表象の順序づけに依拠せしめるからだ。やがてデステュット・ド・トラシは、十八世紀の最良の論理学書が文法家によって書かれたことに注目することとなるであろう。つまり、文法の規則は、審美的ではなく分析的なものだったのである」(p. 111-112)。 ・一般文法がとる四つの方向:動詞、分節化、指示、転移の各理論 一般文法は比較文法でなければ、全ての言語に共通する文法的法則を研究するものでもない。一般文法は言説の表象的機能を研究するものであり、表象を分節化するものとして個々の言語を扱う。「言説が自己の各部分を連結する仕方が、表象がみずからの各要素を連結する仕方と同様である以上、一般文法は、他の語との関係における語の表象機能を研究しなければならない」(p. 116-117)ため、(1)「語と語とを結びつける紐帯の分析(命題の理論、とりわけ動詞の理論)」(p. 117)、(2)「語の種類のタイプとそれら相互の区別や、それらが表象を裁断する仕方の分析(分節化の理論)」(p. 117)、(3)語が指示をする仕方を「まず語の原初的価値において(期限と語根の理論)」(p. 117)研究し、(4)語の変位、意味拡張、再組織の能力(修辞的空間と転移の理論)を研究するものとなる。 ・動詞の理論:「ある」は表象機能を持つ 「存在を指示する何らかの仕方がなければ、言語はない。けれども、言語がなければ、言語の一部にすぎぬ《ある》という動詞もない。この単純な一語は、存在が言語のなかに表象されたものである。だがそれはまた、言語の表象的存在――すなわち、みずからの語っているものを肯定することを言語にたいして可能ならしめることによって、言語を真偽の判断を受けうるものにしているところのもの――なのだ。……記号によって示されるものの存在へ向かって記号の体系をまたぎ越えるこの一語の独異な力により、言語は徹頭徹尾《言説》となるのにほかならない」(p. 120)。 ポール・ロワイヤルの文法家たちは《ある》(エートル)という動詞の意味は肯定することだと考えたが、これは存在を指示するという「特権」が何から成立しているのかを明らかにしてはいない。対し、コンディヤックは、動詞は実在のみならず死滅をも肯定できるとし、「動詞が肯定する唯一のものは、たとえば緑色と樹木、人間と実在または死といった、二つの表象の共存にほかならない」(p. 121)(あるいは結びつけること)と考えた。「こうしたわけで、すべての言語をその指示する表象に関係づけるのが、《ある》という動詞の本質的機能だということになろう。……十八世紀末のある文法家は、言語を一枚の絵に見たてて、名詞を物の形、形容詞を色、動詞を形や色がその上にあらわれる画布そのものと規定している。この画布は、語のあざやかな色彩や模様にまったく覆われて目に見えないが、言語にその絵画を展開する場所を提供するわけだ。動詞が指示するのは、結局のところ、言語の表象的性格、言語が思考のうちに場所を占めるという事実、記号の限界を超え、記号を真実のうちに基礎づける唯一の語も、けっして表象それ自体にしか到達しないという事実、にほかならない」(p. 121)。 ・語源を辿ることは言語の歴史を辿ることではない 古典主義時代に語根の分析がなされたが、ここでは言語の歴史が考えられているのではない。「だが実際には、語根の分析は、言語をその誕生と変化の場であるような歴史のなかにふたたび位置づけるものではない。それはむしろ、歴史というものを、表象と語の同時的裁断をつぎつぎとたどることに還元してしまう。古典主義時代において、言語は、ある時点において思考は反省の一定の様態を可能にする歴史の断片ではない。それは分析のための空間であって、この空間のなかで、人間の時間と知が巡歴の航路を展開する。そして、言語が語根の理論によって歴史的存在となった――あるいはふたたびなった――のではないという証拠は、十八世紀における語根研究のあり方のうちに容易に見いだされるであろう。すなわち、そこで導きの糸となっていたのは、語の外形上の変化の研究ではなく、意味の恒常性だったのである」(p. 135-36)。 ・古典主義時代には〈名〉が言語の中心を占め、言説はそれに基づいていた 「名ざすとは、ある表象の言語表象をあたえるのとまったく同時に、この最初の表象を一般的表のなかに位置づけることである。古典主義時代の言語理論のすべては、この特権的で中心的な存在のまわりに組織される。表象が命題のなかにあらわされうるのはまさにこの存在による以上、言語のすべての機能はこの存在のなかで交叉するわけだ。したがってまた、言説が認識とおなじ様態で文節化されるのも、またこの存在によってにほかならない。しかし、すべての名が正確であり、名の基礎となる分析が完全に反省的であり、言語が『よくできた』ものであるならば、真である判断を表明するのに何らの困難もないはずだし、たとえ誤謬が生じたとしても、それは代数計算の場合と同様に明白で発見しやすいものに違いない。……古典主義時代の言語経験のすべては、まさしくそこで結ばれあっている。すなわち、学問であると同時に規則であり、語の研究であると同時に、語を組みたて、利用し、その表象的機能を改良するための規則でもある、文法的分析の可逆的性格。ホッブズから〈観念学〉にいたる哲学の基礎をなす唯名論(この唯名論は、言語にたいする批判や、マルブランシュ、バークリー、コンディヤック、ヒュームにみられる、一般的で抽象的な語にたいするあの不信と切り離せない)」(p. 143-144)。 第五章 分類すること ・生命に関する学問の出現 17、18世紀に生命に関する学問が展開された。その原因と動機として、顕微鏡の発明による観察の技術的改良による観察の役割の重要視、物理的科学を手本にして(デカルトの機械論がやがて障害になったとはいえ当初はそれを促進した)生物の法則が探られるようになったこと、農業にたいする経済的関心と土地への投資の始まり、異国の動植物への好奇心の目覚めなどが歴史家たちによってあげられる。そして生命に関する学問の形態においては、神が自然を支配するという神学と自然の自律性を規定しようとする学問、「天文学、力学、光学のかつての優位にあまりにも執着している学問と、生命の領域にあるかもしれぬ還元不能で特異なもののに気づきかけているもうひとつの学問」(p. 148)(後者はしばしば生気論の形をとった)、自然の不動性と「生命の偉大な創造力、つきることのない変形能力、可遡性、そしてそれによって生命がわれわれ人間をも含めその生みだしたすべてを何物にも支配されぬ時間のうちに包みこむあの偏倚といった対立の形をとった。 今日では当たり前の生物学というものは十八世紀には存在しなかった。「そして、生物学が知られていなかったことには、きわめて単純な理由があったのを理解しない。それはすなわち、生命それ自体が実在しなかったということだ。実在していたのは生物だけであり、それも、《博物学》という知の格子をとおして姿を見せるものにすぎなかったのである」(p. 150)。 ・博物学の出現は、自然をその豊かさのゆえに計量できなくなったからではなく、記述が自然を対象とするものになったため 博物学の出現を可能ならしめたのは、「世界全体を直線運動の法則で律することがついに不可能だとわかり、動植物の複雑性が延長をもつ実体の単純な形式にじゅうぶんな抵抗を示したあとでは、自然の不思議な豊かさがあきらかになるのは当然のことであった」(p. 151)にもかかわらず、デカルト的機械論の没落によるものではない。両者は時期を同じくしており、同じエピステーメーに基づいたものだった。「博物学が出現するためには、自然が厚みを増し、晦冥なものとなり、おびただしい数の機構を露呈して、ついには、計量することも計算することも説明することもできず、ただ描写と記述のみが可能な記述対象〔イストワールのルビ〕としての厚みをもつにいたるという、そのようなことが必要ではなかった。必要だったのは――まったく逆に――〈記述〉〔イストワールのルビ〕がもっぱら〈自然を対象とする〉〔ナチュレルのルビ〕ものになることであった」(p. 151)。 それまでの記述は、その対象にまつわるあらゆることを「観察」、「記録」、「お伽話」にかかわらず(そもそもそのような区別は存在しなかった)記述することであった。「ある生物の記述とは、それと世界のあいだに張りめぐらされた意味論的網目全体の内部における、その生物の姿をそのまま描きだすことだったのである」(p. 152)。 アルドロヴァンディの雑多ともいえる研究対象の動物についての記述に対し、ヨンストンスは(いずれもアルドロヴァンディの区分に含まれるものだが)「馬の章を、名称、解剖学上の諸部分、生息状態、年齢、生殖、鳴き声、運動、共感と反感、利用法、薬剤としての用途など、十二の項目」(p. 152)に区分しており、両者の本質的相違はこの《欠如》のうちにある。この欠如のうちに一体となっていた語と動物のつがなりがほどかれ、その隔たりには名指し、言い、見る可能性が出現する。 リンネは動物に関する章は名称、理論、属、種、属性、利用法、そして〈文献〉という順序に従うべしと言うが、「時とともに物のうえに堆積したあらゆる言語は、言説が自らを物語り、種々の発見、伝承、信仰、詩的な彩りを伝えるような補遺的部分として、すべて最後に押しやられる。そして、言語に関するこの言語に先だって、物自体が、それ固有の特徴において、ただし、最初から名によって截断された実在性の内部において、その姿を見せるのにほかならない」(p. 153)。 ・博物学は限定された可視的なもの、すなわち《構造》に関わる 「しかし、博物学になすべき仕事があるのは、物と言語とが切り離されているからにほかならない。したがって博物学は、この隔たりを短縮し、言語を視線にもっとも近いところまで、見られたものを語にもっとも近いところまで、導かなければならない。博物学とは、まさに可視的なものに名をあたえる作業なのだ。そこから、その外見上の素朴さ、遠くから見れば愚直ともいえるほど単純で、物の自明性そのものに規定された、あの足どりが生じる」(p. 155)。 博物学の観察対象は局限された可視的なものである。「十七世紀以来、観察というものは、ある種のものを体系的に除外することを条件とする感覚的認識となったのだ」(p. 155)。伝聞、味や風味、触覚可視的なものは「だれにも容認されるような判明な要素への分析を許さない」(p. 155)ために排除され、「明証性と延長の感覚であり、したがって、万人に容認されるように、対象を《各部分がたがいに他の部分の外部にある》ように分析する感覚にほかならぬ視覚に、ほとんど独占的な特権があたえられる」(p. 156)。可視的なものならば何でもよいわけではなく、色彩は排除される。「物それ自体にむけられた注意ぶかい歓迎ぶりというよりは、このような制限された可視性の場こそ、博物学の成立条件、そして、線、表面、形態、凹凸という濾過された対象が出現しうるための条件を、遙かに強く規定するものなのである」(p. 156)。 博物学で観察の対象となるのは四つの要素である。「したがって、観察するとは、見るだけで満足すること、体系的にわずかな物しか見ないこと、表象のやや混乱した豊かさのうちで、分析されうるもの、万人に認められうるもの、だれにでも理解できる名をもちうるものだけを見ること、である」(p. 157)。その観察される要素は何かというと、「記述すべき要素の形態、その数、それらが空間内に配分される際の相互関係、そして各要素の相対的な大きさ」(p. 157)、あるいはリンネの言い方では数、形、比率、位置である。これらの要素は植物の五つの部分(根、茎、葉、花、果実)にも適用でき、これによって誰もで同じように文節化し、記述できる。「可視的なもののこの基本的分節化において、言語の物との最初の対置は、どのような不確実性をも排除する仕方で成り立つのだ」(p. 158)。 「ある器官なり任意の要素なりの指標としてそれらを限定するこの四つの値を、〈植物学者〉たちはその器官あるいは要素の《構造》と呼ぶ。『植物の各部分の構造とは、その部分の本体を形成する諸要素の構成と結合様式のことである』。……構造は、可視的なものを制限し濾過して、それを言語で書き写すことを可能にする。構造のおかげで、動植物の可視性は、それを記録する言説のなかに完全に移行するのだ」(p. 158)。雑然とした表象の構造による分析はとりもなおさず言語における分節化に相当する。 ・博物学のエピステーメーとの関わり (1)構造を通した博物学のマテシスとの結びつき。構造による分節化、「構造は、可視的なものの場全体を、そのあらゆる値が量的にとは岩沼でもすくなくとも完全に明晰でつねに有限な記述によって決定されうる、そうした可変要素その一体系に帰着させる」(p. 159)ことによって博物学はマテシスと結びつく。「したがって、自然の諸存在のあいだに、同一性の体系と相違性の秩序を設定することが可能となろう。アダンソンは、〈植物学〉がいつの日か厳密に数学的な学問として扱えるようになり、たとえば『マツムシソウ科とスイカズラ科の境界線をなすものっとも明瞭な点を求めよ』とか、キョウチクトウ科とルリヂシャ科のちょうど中間を占める基地の植物属(自然のものでも人工のものでもよい)を求めよととかいうふうに、代数学や幾何学の場合のような問題を出すことが許されるだろうと考えていた。地球の表面に増殖した無数の生物は、構造の力によって、記述的言語の継起性のうちにも、秩序に関する一般的学問たる《マテシス》の場にも、同時にとり入れうるものとなるであろう。そしてかくも複雑なこの本質的関係は、《記述された可視物》という、外見上の素朴さのうちに成立するわけだ」(p. 160)。 (2)植物学の優位。目に見えない器官が多くある動物に比べて植物はこの認識的な様態に遙かに適合するため、植物学が動物学に対して優位を得た。「十七、十八世紀において植物に関心が寄せられたから、分類の方法が検討されたのではない。可視性の分類空間においてしか知ることも語ることもできなかったからこそ、植物についての認識が動物についてのそれにたいして優位に立たざるをえなかったのだ」(p. 160)。 (3)植物園や標本陳列館はこのエピステーメーの制度における現れであり、「つまりそれらは、解剖学的なものや機能を隠し、有機体を隠蔽することによって、種々の形態の可視的名凹凸と諸要素、分散様態、大きさを、真実を待ちうけている目のまえに出現させるのだ。植物園と標本陳列館は、構造のための書物であり、特徴が組みあわされ類別が展開される空間である。十八世紀末のある日、キュヴィエはパリの自然博物館のガラス容器をすべて持ちさり、それらを壊して、古典主義時代における動物の可視性の偉大なたくわえすべてを解剖することになろう」(p. 161)。これは博物学的な《記述》の終焉を告げ、「分類に解剖を、構造に有機体を、可視的特徴に内的従属関係を、表に系列をおきかえることによって、やがて新たに《歴史》の名でよばれることとなる空間の厚い堆積全体を、白地に黒く刻まれていた動植物の古い平面的世界に投げ込むことを可能にする、そうした何ものかの発端なのである」(p. 161)。 ・特徴の二つの規定方法、特徴とは「関与的同一性および相違性の場として選ばれた構造」である 特徴の二つの比較方法、方法と体系。博物学では自然の諸存在をそれらを相互に比較、区別できる同一性と相違性の体系のうちに位置づけなければならないが、記述されうる特質を全部勘定しようとすれば、博物学は途方もない仕事になる。そのため、この困難を回避するための比較の二つのタイプの方法がある。「ひとつは、類似点があきらかにきわめておおいため、相違性の完全な列挙にさして時間がかからぬような、経験的に成立した群の内部で全面的比較をおこなうことであって、そうすれば、同一性と区別とを順次設定していくことができるであろう。もうひとつは、有限個の、それもかなり限られた数の特質を選び、その恒常性や変化をすべての個体において研究することである。この第二の方式が〈体系〉、第一の方式が〈方法〉と呼ばれたものにほかならない」(p. 162)。両者の対立を人々は「自然というものの固定的で明快な概念と、自然の示す近縁関係にたいする繊細で直接的な知覚との対立、自然の不変性の観念と、たがいに通じあい、混ざりあい、おそらくは変移しあうおびただしい存在のひしめきあう連続体の観念との対立……というふうに考えている。だが、問題の本質は、自然にたいする二つの根本的直観の葛藤のうちにあるのではない。それはむしろ、博物学を言語として成立させる二つの仕方の間での選択をこの点において可能かつ不可欠なものとした、必然性の網目のなかにあるのだ」(p. 162-163)。いずれも同一性と相違性によって分類を行い、表を作るにあたってのやり方である。 〈体系〉において《特徴》は選ばれた要素に関してのみ規定される。「関与的同一性および相違性の場として選ばれた構造、それが《特徴》と呼ばれるものである。リンネによれば、特徴は『最初の種の生殖器官のきわめて綿密な記述』からつくられる。『同じ属のほかのすべての種が最初の種に比較され、一致しない指標はすべて排除される。そして、この作業のあとで、特徴が得られるのである』」(p. 163)。(ある意味で恣意的な)特徴に応じた分類を通してそれぞれの群は名付けられる。 ・博物学は自然の連続性を要請する 共通の名を与えるということ(すなわち分類)は新たな個体や種との出会いにあたって破綻しない保証はないし、特徴が標識として機能するとは断言できないし、「いかに単純なものであれ特徴があらわれるためには、最初に考案した構造の要素のすくなくともひとつが他の構造のうちにも反映されなければならない」(p. 169)。これは言語における普通名詞(一般名詞のこと)の可能性と同じ問題であり、言語の場合は想像力が類似を見いだし、見いだされた類似から普通名詞を得られるが、「よくできあ言語である博物学にとっては、想像力にもとづくこうした類比は保証となりえない。経験における反復の必然性についてヒュームは根元的懐疑を抱いたが、あらゆる種類の言語と同じくこの懐疑に脅かされている博物学も、それを回避する手段を見いださなければなるまい。つまり、自然には連続性があると考えなければならないのである」(p. 169)。 〈体系〉においては「連続性とは、特徴によって明瞭に区別できるさまざまな領域が隙間なく配列されたものにすぎず、特徴として選ばれた構造がすべての種に関してとりうる値が、連続的で漸次的な変化を示せばよい。この原理からすれば、これらすべての値に対応するものとして、たとえまだ知られていないにせよ、何らかの生物が現実に存在することとなろう」(p. 169)。この範疇は「自然のこの《切れ目のない》連続面のうえに《明瞭に区別されるものとして》実在する、さまざまの領域に対応し」、これによって「個体より広いが個体と同じ実在性をもつ領界となるであろう」(p. 169)。 方法では自然の連続性はより積極的な要請となっており、「自然の全体はいわば大きな織物を形成し、そこでは諸存在が次々に類似を示すばかりでなく、隣接する個体同士は限りなく類似したものでなければならない。それゆえ、個体の微細な相違性はなく、より大きな範疇を示す切断をおこなおうとすれば、それはつねに実在に対応しないものとなるであろう。すべてが溶けあったこの連続性においては、あらゆる一般姓は名ばかりのものにすぎない」(p. 170)。 「十八世紀における博物学のいずれの流派にとっても、自然の連続性は不可欠の要件である。つまり、自然のなかに何らかの順序を立て、明瞭な区別によって指定される実在的範疇であれ、我々の想像力によって切りとられるにすぎぬ便宜的範疇であれ、ともかくそこに一般的範疇を発見しようとすれば、かならず自然の連続性を想定してかからなければならない。この連続性のみが自然の反復性を保証し、したがって、構造の特徴への変換を保証するのである」(p. 170)。 ・擬=進化論(1):18世紀における種の変移の理論は進化論的な思考によるものではない 「それぞれの仕方で分類学的連続性を描きだすこれらの空間的布置」(p. 173)とは別に時間的な線もまた博物学の前提として存しており、「自然全体は、その具体的形態と固有の厚みにおいて、《タクシノミア》の連続面と大変動の線とのあいだに宿っている」(p. 173)。それゆえ(詳しくはこの後に出てくるが)「自然の諸存在を永続的な表のうちに分類することで満足する『不変論』と、自然の太古からの歴史とその連続性をつらぬく諸存在の深い推力とを信ずる一種の『進化論』を、基本的選択において対立する二つの異なる所説として対置することが、いかに表面的であるかわかるであろう。種や属の空隙のない網目の堅固さと、それをかき乱した一連の出来事とは、いずれも、しかもおなじレベルにおいて、古典主義時代に博物学のような知を可能ならしめた認識論的台座の一部をなしている。それらがいかなる学問よりも古く基本的な哲学的選択にもとづいていると考え、この理由からそれらを自然についての根本的に相反する二つの知覚の仕方だと信じてはならない。それらは、古典主義時代の自然に関する知を規定する考古学的網目の、二つの同時的要請なのだ。けれどもこの二つの要請は相補的なものであり、したがってたがいに還元不能である」(p. 173)。 しかしこの進化論のように見えるものにおける時間は進化論のそれとは異なっており、「なぜなら、時間は、その内部的組織における生物の発展原理とはけっして考えられず、それらが生息する外的空間に起こりうる変動としてしか知覚されなかったからだ」(p. 173-174)。このことは畸型と化石の扱われ方において示されている。 擬=進化論の例その1:ボネの理論。ラマルク以前の古典主義時代にも一見して進化論的な思考があり、キュヴィエによる反撃を受けたと言われるかもしれない。たしかに生命の形態は固定したものではないという考えがボネ、モーペルテュイ、ディドロ、ロビネ、ブノワ・ド・マイエによって表明されてきたが、これらは今日進化論として理解されている思考とは別のものである。「じじす、それらは、継起的出来事の系列との関連において同一性および相違性の表を問題にするものである」(p. 174)。ボネの理論は「諸存在の連続性とその表状の分布のなかに、継起の系列を組みこむことである」(p. 174)。個々の種が変容するのではなく、自然の全体がごっそりまとまって変移し、程度の差はあれど不完全である自然の諸存在は神の完璧性へ向けて進んでいく。「それらはまた、さまざまな種のあいだにある関係がこの『進化』によって変化しないことをも含意する。だから、ひとつの種が向上してそのすぐ上位の種が以前にもっていた複雑性に到達したとしても、それでも上位の種に追いついたことにはならない。なぜなら、その種もまたおなじ大きな運動によってはこばれており、やはり同等の比率で完成化されれいるにちがいないからだ。『……人間は、その卓越した能力にさらにふさわしいすみかに移り、われわれの惑星の動物たちのあいだで占めていた最高の地位を猿や象に譲るであろう。……牡蠣やポリプは、最上位の種にたいして、鳥類や四足獣がいま人間にたいして占めている場所を占めるであろう。』このような『進化論』は、ある存在の他の存在からの出現を理解するためのものではなく、じつは、連続性の原理と諸存在が切れ目のない連続面を形成するという法則とを、一般化するためのやり方にほかならない。容易にわかることだが、このような体系を、生物不変の古いドグマを動揺させはじめた進化論と見なすことはできない。それは、時間をも包含した《タクシノミア》であり、一般化された分類にほかならない」(p. 174-175)。 擬=進化論の例その2:表の時間における展開。「時間は、完成度を示す有限または無限の線上で分類の表全体を形成することとなる仕切りのひとつひとつを、順次に出現させるのに役立つのだ。時間は生物の可変要素に、ついぎつぎとあらゆる可能な値をとらせていく」(p. 176)。さらにこの理論では、生物は環境の影響を受けて変化すると考えられている。「ブノワ・ド・マイエの指摘によれば、魚に鰭があるように鳥に翼があるのは、鳥が、太古の水の引いた時代に干あがった鯛、永遠に大気をすみかとするにいたった海豚だからだ。……ここでは、進化論のある種の形態におけると同様、生物の生息状況の変化が新たな種の出現を惹起するように見える。けれども、空気、水、気候、大地の動物におよぼす作用の様態は、ある機能とそれを遂行する器官に環境がおよぼす作用の様態とは性質を異にする。外的な要素は、《特徴》を出現させるための機会としてしか介入しない。そして、《特徴》の出現は、たとえ時間継起のうえでは地球上に起こった特定の出来事によって条件づけられていようとも、生物のありうべきすべての形態を規定する可変要素の一般的な表によりア・プリオリに可能とされているのだ。十八世紀の擬=進化論は、ダーウィンの場合のような特徴の自然発生的変異と同様、ラマルクによって記述されることとなる環境の積極的作用をも予告するかに見える。だがそれは、現在から過去をふりかえるときの錯覚にすぎない。じじつ、この思考形態にとって、時間における継起の列は、予定された可変要素がそれに沿ってつぎつぎと可能なすべての値をとっていく線でしかありえない」(p. 176)。 ・擬=進化論(2):擬=進化論における種の変異の捉え方 擬=進化論において種の変異についての捉え方には(1)生物自身が形態を変えるための能力を持っているか、(2)先行する種よりも複雑で完成化された最終的な主を目指しているか、という二つの形態がある。 (1)としてモーペルテュイの無限錯誤の説があり、「それによれば、博物学によって設定されうる種の表は、自然のなかで恒常的なひとつの均衡によって、徐々に成立したものだという」(p. 177)。均衡は連続性を保証する記憶と逸脱への傾向の間に存しており、「もっとも活動力に乏しい粒子は、たがいに引きよせあって鉱物を形成し、もとも活動力に富むものは、より複雑な動物の身体をつくりだす。引力と偶然から生じたこれらの形態は、存続することができなければ消滅する。存続するものは新たな個体を生みだし、親である二つのものの特徴はこの新たな個体の記憶によって保存される。このようにしておなじことがくりかえされるうち、粒子の逸脱――これも偶然である――が新たな種を生みだし、その新しい種もまた記憶の頑強な力によって存続させられるのである。『偏位がくりかえされた結果、動物の無限の多様性が生じたのにちがいない。』かくして生物は、継起する変異によって、われわれの知っているすべての特徴を獲得していき、生物の形成している整合的で堅固な連続面は、生物を時間の次元において見る場合、はるかに緻密で目のつんだもうひとつの連続体――すなわち、忘れさられ、もしくは流産した無数の小さな相違性で織りなされた連続体――の残した断片的結果にすぎぬこととなろう。われわれの見ることのできる種、われわれの分析にたいしてあたえられる種が、明瞭な輪郭を見せているその背景では、無数の畸型がたえずあらわれ、きらめき、深淵に呑みこまれ、またときとしては存続したのである。そして、基本的な点は、自然は連続体でありうるかぎりにおいてしか歴史をもたぬということだ。自然が継起の形をとってあらわれのは、それが可能なかぎりのあらゆる特徴(すべての可変要素のそれぞれの値)を順次獲得するからである」(p. 177)。 (2)、例に挙げられているロビネの説では記憶の代わりに投企が連続性を保証する。自然は複雑な存在を目指して単純な要素を配合・合成しながら進む。「かくて自然の連続性全体は、いかなる歴史よりも深く埋没した絶対的に古い原型と、すくなくとも地球上においては人間という存在において観察されるような、このモデルの極度に複雑化したものとのあいだに宿るわけだ。この両極端のあいだに複雑さと組みあわせとの可能なかぎりの段階がすべて位置している。それはあたかも、つぎつぎとおこなわれた無数のこころみともいうべきものであって、そのうちあるものは恒常的な種として生き残り、他のものは深淵へと呑みこまれてしまったのである」(p. 178)。畸型は別に特殊な自然ではなく、可能性の試行の一つであるというわけ。「それらは、異った現象を示すとはいえ、他のものとおなじく原型の自然な変態の結果であり、隣接した諸形態間の橋わたしをするものである。それらは、先行する組みあわせによってもたらされるとともに、後続する組みあわせを準備し整える。つまりそれらは、物の秩序を乱すどころか、かえってこの秩序に寄与しているのだ」(p. 178。ロビネの『存在の諸形態の自然な漸次的推移に関する哲学的考察』の孫引き)。「モーペルテュイとおなじくロビネにおいても、継起と歴史は、自然がみずからにとって可能な無数の変異の横糸を端から端までたどっていくための手段にすぎない。すなわち、時間あるいは持続が環境の多様性をつうじて生物の連続性と種の形成を保証するのではなく、可能なかぎりのあらゆる変異という連続的基盤のうえに時間がひとつの道筋を描きだし、その道筋に沿って、気候と地理とが、存続すべく運命づけられた特権的地域だけを選びとるのである。連続体は、そこで生命という同一の原理がさまざまな環境と闘うような、そうしたひとつの基本的歴史の航跡ではない。なぜなら連続体は時間に先行するからである。それは時間の条件なのだ。そして、この連続体との関係において、歴史は消極的な役割しか演ずることができない。歴史のおこなうことといえば、選びとって存続させるか、顧みず消滅させるか、そのどちらかにすぎないのである」(p. 178)。 ・擬=進化論(3):畸型と化石は相違性と同一性の過去への投射である 畸型。自然が有限の時間の中で全ての種の可能性をすでに踏破したことにするためには、(今の種は変異の可能性の一部でしかない以上は)今はなき畸型の存在が必要となる。 化石。「このような歴史の途上においては、連続性を示す印がもはや類似関係の次元に属するものだけになるということだ。この歴史が環境と有機体とのあいだのいかなる関係によっても規定されない以上、生命の諸形態はそこで可能なかぎりのあらゆる変態をとげ、踏破された道程の標識として相似という目じるししかあとに残さぬであろう」(p. 179)。その目じるしこそが化石というわけ。 「自然のもつ連続性の力から出発して、畸型は相違性を出現させる。……一方、化石は、自然がおこなってきたあらゆる逸脱をつうじて、類似関係を存続させる者である。それは同一性のかすかな近似的形態として機能し、時間によるつぶれのなかに擬=特徴ともいうべきものを示すもだ。つまり、畸型と化石は、《タクシノミア》にたいして構造、ついで特徴を規定する、あの相違性と同一性とが、後方へ投射されたものにほかならない。畸型と化石は、表と連続体のあいだにあって、分析がやがて同一性として規定するであろうものがまだもの言わぬ類似にすぎず、分析が指定しうる恒常的相似としてやがて規定するであろうものがまだ気ままな偶然的変異にすぎぬような、陰翳にとんだ、流動的な、揺れうごく地域を形成している」(p. 180)。 ・十八世紀まで「生命」という概念はなかった 古典主義時代、十八世紀まではただ生物があるのみで、生命はなかった。 事情その1:生命はそれ自体特別な概念ではなかった。「生物は、世界のあらゆる物の系列のなかで、ひとつの分類階級、というよりむしろいつくかの分類階級を形成している。そして、生命について語ることができるとしても、それはただ、諸存在の普遍的分布のなかでのひとつの特徴――分類的意味における――としてににすぎない」(p. 183)。自然物は鉱物、植物、動物に分類されるが、どこからどこまでを生命の領域に含めるかの基準はどこにでも置くことができると考えられていた以上、「「生命は、それを越えれば知のまったく新しい形態が必要とされるような、はっきりとした境界を構成しはしない。それは分類上の一範疇にすぎず、他のあらゆる範疇とおなじように、選ばれた基準に依存するのである」(p. 184)。「博物学者は、構造化された可視的なものをとりあげ、特徴となる名称をあたえる人間であって、生命を扱う人間ではないのである」(p. 184)。 事情その2:博物学は言語の構成である。博物学は「想像力の盲目的類似をとおして日常の言語を可能ならしめていたものを発見すために」(p. 184)日常言語を解体・批判し、完璧な言語に作り直そうとする(思うにカルナップの構成や解明に通ずるものがある)。博物学は「完全に言語の空間に宿っているものである」(p. 184)。とどのつまりは生命とはノータッチなルートで博物学は進められたということか。 近代に至ると生命は分類上の概念ではなくなり、「他のものと同等の認識対象となり、この資格においてつねに一般的批判の管轄下におかれるということである。けれどもそれは、生命がこの批判的審判権に抵抗し、それをみずからのものとし、それを、みずからの名において、あらゆる可能な認識にたいして逆に行使するということでもある。したがって、十九世紀全般にわたり、カントからディルタイおよびベルグソンにいたるまで、批判的思考と生命の哲学とは、たがいに相手の主張をとりあげてはこれに異議を唱えるという、そうした関係におかれることとなろう」(p. 185-186)。 ・古典主義時代における「批判」 上述の博物学による言語批判と同じタイプの批判が哲学者による言語批判でも行われていた。「じじつ、自然を認識するとは、言語から出発してまことの言語を構成することであり、このまことの言語とは、一般に言語というものがいかなる条件で可能となるか、それがいかなる範囲で有効性の領域をもちうるかを、あきらかにするものにほかならない。批判の問題は十八世紀にもたしかに実在した。だがそれは、ある限定された知の形態に結びつくものにすぎなかった。そうした理由から、それは、自立性と根元的問いかけとしての価値を獲得するにいたらず、類似性、想像力、自然と人間の本性、一般的抽象概念の価値など、一言でいえば、相似関係の知覚と概念の有効性との関係が問題となる。そうした一領域をたえず彷徨しつづけていた。古典主義時代においては――ロック、リンネ、ビュフォン、ヒュームが証拠だてているように――批判の問題は類似性の基盤と種属の実在の問題だったのである」(p. 184-185)。カントを機に批判の問題は類似性の基盤と種属の実在に限られないものとなっていくが、これについては後述されるはず。なお、ここでフーコーが言う「批判」は「批判哲学」での「批判」の意味でのそれであろうか。 第六章 交換すること ・古典主義時代には「経済学」はなく、あったのは「富の分析」だった 「古典主義時代には、生命も、生命の学問も、また文献学もなかった。博物学、一般文法があっただけだ。同様に、経済学もなかった。なぜなら知の秩序のなかに生産というものが実在しないからである」(p., 187)。経済学の涼気の代わりにあったのは「価値、価格、商業、流通、収益、利子の概念をそれぞれ部分的対象として包含し宿らせる、きわめて重層化された領域」(p. 187)、すなわち《富》の領域であり、これに対するアプローチとして富の分析があっただけだった。 富の分析はこの時代のエピステーメーに則って存在した以上、「おぼつかぬ模索によって形成されつつあった経済学という、後世の眼から見た統一性しか認めないような、回顧的な読み方は慎まなくてはならない」(p. 187)。このような解釈は以下のようなものである。「このようにして、経済学の本質的テーマが沈黙のうちに断片的に準備されたところへ、生産の分析に関する新たな解釈がおこなわれ、アダム・スミスが分業発達の過程を、リカードが資本の演ずる役割を、J=B・セーが市場経済のいくつかの基本的法則を、それぞれあきらかにした。そして、それ以来経済学は、固有の対象と内的整合性をもって実在するようになったと、ふつう考えられている」(p. 188)。しかし実際はそうではなく、富の分析の諸テーマは古典主義時代のエピステーメーに基づくものである以上、博物学の一見して生物学的な諸テーマは博物学の領域への依拠なくして理解できないように、「貨幣、物価、価値、商業の分析を結びつけている必然的関係は、それらの同時性の場である富の領域をあきらかにすることなくしては理解できないであろう」(p. 189)。 ・十六世紀までの貨幣は富の標識でしかなかった 貨幣は価値の標識だった。「十六世紀における経済的思考は、ほとんど物価の問題と貨幣の材料となる物質の問題に限られている。物価の問題は、商品の騰貴が絶対的性格をもつか、相対的性格をもつか、あいつぐ平価切り下げやアメリカ大陸からの金属の大量流入が物価にいかなる影響をおよぼしたか、という点に関係している。貨幣の材料となる物質の問題は、原基となる金属の性質、利用される種々の金属のあいだの値打の関係、貨幣の重量とその名目的価値とのあいだのひずみの問題である。けれども、これら二系統の問題はたがいにむすびついていた。なぜなら金属はそれ自身として富であるかぎりにおいてしか、記号、それも富の尺度となる記号とは見なされなかったからだ。金属が記号でありえたのは、それが実在的な標識だからであった。語がその語るものと同一の実在性をもち生物の標識が目に見える積極的標識として生物の身体に刻みつけられていたのとまったく同様に、富を示し、その尺度となる記号は、それ自体、富の実在的標識をともなっていなければならなかった。価格を語ることができるためには記号はそれ自体貴重でなければならなかったし、稀少で、有用で、所有欲をそそるものでなければならなかった。さらに、こうしたすべての性質は、記号のかする標識が万人に読みとれるまことの外徴となるために、安定したものでなければならなかった。ここから物価の問題と貨幣の本性との相関関係が生じ、それがコペルニクスからボダン、ダヴァンザッティにいたるまで、富に関するすべての反省の特権的対象を構成するわけだ」(p. 189-190)。 貨幣が価値の尺度であり、交換の代替物であったために平価を上げ下げが問題となった。「貨幣のもつ物質的実在性のうちには、商品の共通の尺度と交換機構における代替物という、その二つの機能が混在している」(p. 190)。貨幣の価値は含有される金属の量によって決定されるべき(つまり金属塊としての貨幣の価値が交換や他のものの価値を計るための価値と同じになること)であると考えられていたために、十六世紀には貨幣の改鋳が何度も行われて平価の切り下げと切り下げが論争の的となった。「人々は貨幣という記号を尺度としての正確さに引きもどそうとつとめた。鋳貨のもつ名目的価値は、そこに含まれる、原基として選ばれた金属の量に合致しなければならない。そうすれば、貨幣は尺度としての価値以外のものを意味しなくなるであろう。こうした意味で、『いくつかの苦情の摘要あるいは略説』の匿名の著者は、『現在通用しているすべての貨幣の流通をある時期にさし止める』ことを要求する。なぜなら、名目的価値の『釣り上げ』が、久しい以前から貨幣の尺度としての機能を損なっているからだ。すでに貨幣化されている鋳貨は、『それに含まれる金属の評価』にもとづいてのみ承認されるべきであろう」(p. 190-191)。 ・貨幣が価値の標識になるのは類似のエピステーメーによる 貨幣という標識は「恒常的尺度である金属の量を示す(マレストロワはそう解釈した)と同時に、金属という、量や価値の変化しうる商品をも示しているのだ(これがボダンの読み方である)」(p. 192-193)という二面性をもつが、これは記号と類似の関係と同じである。すなわち、記号は類似によって構成され、類似の認知のためには記号が必要であるのと同じように、貨幣が交換の尺度となるためには一定量の金属に基づかなければならず、その金属自体は他の商品の秩序の中での自らの価値が規定されていなければならない。「必要の体系における交換が認識の体系における相似に照応することを容認するならば、ルネッサンスをつうじて、自然に関する知と貨幣に関する反省あるいは実践が、いずれも《エピステーメー》のまったく同一の布置によって規制されていることが理解されるであろう」(p. 193)。 さらに小宇宙と大宇宙との類似の場合のように、金属にも相似が見いだされる。「交換における記号は、欲望をみたすものであるがゆえに、金属の暗い、危険な、呪われた輝きにもとづく。この輝きは両義的なものである。なぜならそれは、夜の果てで歌う星の輝きを地の底において再現しているからだ。すなわちそれは、幸福の逆転された約束としてそこにあり、金属が星辰に似ている以上、これらすべtの危険な宝物についての知は、同時に世界についての知なのである。……つまり、金属と星とが密かな類縁関係によって呼応し類似しているのと同様に、いかにして記号の宇宙論が、価値と貨幣に関する反省に究極的な裏づけと基礎をあたえ、金属に関する理論的・実際的な思弁を可能にし、欲望にたいする約束と認識にたいする約束とを通じあわせていたかが理解されるのである」(p. 194)。 ・重商主義が貨幣の特質を交換機能に還元した ルネサンス時代には貴金属はそれ自体が富の標識であったがゆえにそれ自体で《値打》を持ち、値打の《尺度》となり、他のあらゆる値打があるものと《交換》できるとみなされていたが、十七世紀になるとこれら三つの特性は交換機能に基づくものと考えられるようになる。「尺度としての適当性と、値打を受けとる能力とは、いまやいずれも、交換の《機能》から派生する《性質》という様相をおびるのである」(p. 195)。 この転換は重商主義と呼ばれる「反省と実践の総体」(p. 196)によって行われた。重商主義は富と貨幣を混同したものだと思われがちだが、「『重商主義』が富と貨幣のあいだに設けたのは、おおかれすくなかれ漠然とした同一性ではなく、貨幣を富を表象し分析するための道具となし、逆に富を貨幣に表象される内容とする、熟慮された連接関係だったのである。相似と標識との古い円環状の布置が解体され、表象と記号との二つの相関的連続面に沿って展開されたのと同様に、重商主義の時代になると、『貴重なもの』の円環が破れ、富は必要と欲望の対象として展開される」(p. 196)。 あらゆる富が《貨幣》となることができたがゆえに流通の場に置かれえたのは、自然のあらゆる存在が《特徴づけうる》ものであってそれゆえに博物学の枠組みに収まることができた、あらゆる個体が《名ざしうる》ものがったがゆえに《分節化された言語》のうちに取り入れられることができたのは、あらゆる表象が《記号によって示されうる》もので《同一性と相違性の体系》の中で《認識》できたのと同様のことである(p. 196)。 金属はそれ自体で価値があるから貨幣になるのではないこと。重商主義で富と呼ばれるのは欲望の対象となり、「必要、有用、楽しみ、稀少性」を備えたものである。しかるに貨幣となる金属にはそういった性質が乏しい(有用性は「家庭での用途にあてるかぎり」乏しく、稀少性にしてもこの用途を越えて豊富である)。なのに金属を求めて鉱山を掘ったり戦争をしたりするのは「金銀貨の製造が、これらの金属に、それら自身のもたぬ有用性と稀少性をあたえたからにちがいあるまい。『貨幣が価値あるものとみなされるのは、その材料となる物質のゆえではなく、君主の象徴または標識であるその形態のゆえである。』〔シビヨン・ド・グラモン〕金が貴重なのはそれが貨幣だからで、その逆ではない。このことによって、十六世紀においてかくも厳密に定められていた関係は転倒され、貨幣は(そしてその材料となる金属も)その純然たる記号としての機能からその価値を受けとることとなる」(p. 196-197)。それまでは金属はそれ自体で貴重で価値があるから貨幣になれるとみなされていたが、ここに至って貨幣になれるから貴重というように金属の貨幣たる意味が転倒される。 したがってこの帰結として、(1)物の価値は金属ではなく有用、楽しみ、稀少性に依拠するものとなり、金属は物の価値を表象するだけのものとなる。「それはちょうど、名が、心像や観念を表象しはするが、それを構成するわけではないものおなじである」(p. 197)。(2)そしてなぜ金属が記号となる機能を得るのかというと、「硬く、永続性があり、変質しないうえ、微少な粒に分けることができ、重量が増してもかさばらず、運ぶのも穴をあけるのも容易である。こうしたことすべえが、金銀を、他のあらゆる富を表象し、分析によってそれらを厳密に比較するための、特権的な道具とするのだ」(p. 197)。 ・貨幣記号説も貨幣商品説も同じ布置に基づく 十七世紀末から翌世紀のはじめにかけてヨーロッパではデフレーションが起こり、十八世紀最初の15年間に度重なる平価切り下げが行われた。この出来事に際して貨幣記号説も貨幣商品説との間で論争が起こったが、「対立は表面的であって、それが必然的なのは、ただ特定の一点でのみ選択を不可欠なものとする唯一の配置ゆえ」(p. 202)であったという。その唯一の配置とは、貨幣を担保として規定するというものである。 では担保としての貨幣の保証力はどこから来るのか、「価値のない記号か、他のすべてと同様の商品かというジレンマを、それはいかにして逃れうるのだろうか?」(p. 203)この点において、貨幣商品説とジョン・ローをはじめとする貨幣記号説は対立する。両者はそれぞれ「貨幣に担保としての有効性を与える取引が、貨幣の材料である物質の商品としての価値によって保証されると考え……反対に、貨幣の外部にあるとはいえ、集団的同意もしくは君主の意志によって貨幣に結びつけられている、他の何らかの商品によって保証されると考える」(p. 203-204)。後者の道を選んだローは土地を抵当とする紙幣を流通させようとしたが、この事業は失敗した。一七二六年には貨幣の材料に保証力を求めた金属貨幣が定められ、その際に「テュルゴは、ローが『貨幣は君主の検印によって信用される記号的な富にすぎぬ』と信じたことを批判して、次のように述べるのだ。『この検印は、貨幣の重量と純分を証明するためのものにすぎない。……金銭が他の商品の記号ではなく、それらの共通の尺度であるのは、商品としての資格においてである。……金が値打あるものとされるのは、それが稀少だからであり、それが同時に商品としても尺度としても用いられるのは悪いことであるどころか、この二つの用途こそ金の値打をささえているものなのだ。』」(p. 204) しかし彼らの対立は「保証となるものと保証されているものの距離にかかわるにすぎない。……だが、いずれの場合にも、貨幣は、種々の富にたいする一定の《比率》と、それらを《流通》させる一定の能力とによって、ものの価格を決定することを可能にするのだ」(p. 204)。 ・貨幣、名詞、種類の対応 「同一の金属塊が、時とともに、またそれを受けとる個人に応じて、いくつもの等価物(品物、労働、一枡の麦、所得の一部)を表象することができるのは、普通名詞がいくつものものを表象する力をもち、分類学における特徴が、いくつもの個体、いくつもの種、いくつもの属を表象する力をもつのと同様である。ところで、特徴が、より単純になることによってのみより一般的な範疇に対応するのにたいして、貨幣は、よりすみやかに流通することによってのみより多数の富を表象する。特徴の外延は、そおの特徴のもつ種の数(したがって、その特徴が表のなかで占める空間)によって規定され、流通の速度は、出発点にもどるまでに通過する所有者の数によって規定される(だからこそ、収穫物の代価としての農業への支払いが基点として選ばれるのだ」(p. 206)。 ・対立する重農主義と効用主義は同じ条件で思考している 予備的補記:効用主義は価値の発生は効用に基づくという考えで、ある物を欲しがる人がいれば、その物を持つがそれを必要としない者にとって富となる。重農主義は農業生産を国富の唯一の源泉と見なす考え。 効用主義と重農主義は同じ理論的要素を持ち、これらを逆からたどっている。「つまり、あらゆる富は土地から生じ、物の価値は交換と関係があり、貨幣は流通状態にある富の表象として価値をもつ、すなわち、流通は可能なかぎり単純かつ完全でなければならぬ、とされているのだ。けれども、こうした理論的線分の向きが、〈重農主義者〉と『効用主義者』では逆であって、配置のそうした相違の結果として、一方にとってプラスの役割を演ずるものが、他方にとってはマイナスとなる」(p. 211)。 効用主義:有用性を持つ物同士の交換→より多くの必要を満たすための加工や運搬は価値を増加させる→この増加した価値のおかげで労働者への報酬支払いが可能に。ただしこの流れでは自然の多産性に限界があることが前提とされる。 重農主義:土地からの生産物の変形・加工には報酬を与えなければならない→その分土地の財は減少する。「価値は消費がおこなわれるところにしか生じないのだ。だから、価値が出現するためには、自然が際限のない多産性を賦与されていなければならない」(p. 222)。 重農主義者は土地所有者を、効用主義者は商人や企業家を代表しているが、彼らの利害関係から理論の選択を説明できようが、その説明を可能ならしめた条件は別のレベルに存する。「研究の二つの形態と二つのレベルが、入念に区別されなければなるまい。そのひとつは、十八世紀においてだれが〈重農主義者〉であったか、だれが〈反重農主義者〉であったか、いかなる利害関係が問題だったか、権力を目指す闘争はいかなる経過で展開したか、そうしたことを知るための所説の調査となろう。もうひとつは、登場人物や彼らの経歴を考慮することなく、『重農主義的』知および『効用主義的』知が整合的かつ同時的な形態で思考され得た、そもそもの条件をあきらかにするものだ。第一の分析は学説論の次元に属し、知の考古学が容認し実践しうるのは、この第二の分析のみなのである」(p. 222)。 ・三部門の照応その1:主辞=属辞関係定立と分節化とのつながり 主辞=属辞関係定立 (経)交換体系への品物の導入=他の物の価値との関係(等しさ)による結合 (文)動詞による命題の出現 分節化への移行 (経)「尊重価値が評価価値となるとき、すなわち、それがあらゆる可能な交換によって構成される体系の内部において規定され制限されるとき、それぞれの価値は他のすべての価値によって措定され截断される」(p. 223)。体系に組み込まれることによる分節化。 (文)命題中の動詞以外の要素に認められた分節化 「交換体系において、すなわち、富の各部分に、他の諸部分の記号となったり、逆にそれらを自らの記号としたりすることを可能にする仕組みにおいて、価値は《動詞》であるとともに《名詞》であり、結合力であるとともに分析の原理であり、主辞=属辞関係定立であるとともに截断である。したがって《価値》は、富の分析において、博物学における《構造》と正確におなじ地位を占めるのであって、《構造》と同様に、記号との記号、表象とべつの表象とのあいだに主辞=属辞関係を定立することを可能ならしめる原理と、諸表象の総体を合成する要素やそれらを分析する記号を分節化することをかのうならしめる機能とを、ただひとつの操作のうちに結合するわけだ」(p. 223) ・三部門の照応その2:指示と転移とのつながり 指示 (経)貨幣と商業の理論による任意の物質(おそらくは貴金属を指す)が別の物と関係づけられて記号をなす機能を帯びるのかの説明(しかじかの量の貴金属が別の物の価値を表象する、つまり交換レートとなることか)。 (文)「語根や動作による言語の分析」(p. 224)。 (博)特徴が自然の諸存在において占める位置を指定する(富と現状の交換体系におけるその物の位置・価値を指定するのと同じ関係)。 転移 (経)「同一の貨幣要素がどうして異った量の富の記号でありうるのか、この要素がみずからの表象すべき価値との関係において変位し、広がり、あるいは収縮するのはなぜか」(p. 224)の説明。要するに通貨レートの高低、インフレとデフレのことだろう。 (文)「譬喩や意味の変位」(p. 224) ・富の秩序と自然の諸存在の秩序は記号の秩序が不完全なままにしておいた関係を完全にする 三つの領域は同じ様態を持つ。富の秩序、自然の諸存在の秩序、そして記号の秩序は主辞=属辞関係定立、分節化、転移、指示という四つの機能(この順で四角形につなげられる)を持つという点において同一様態を持ち、これこそが古典主義時代の知の成立条件であった。すなわち、「第一に、古典主義時代の経験にとって、自然界の秩序と富の秩序とは、語によって顕示される諸表象の秩序と同一の存在様態を持つということ。第二に、物の秩序をあきらかにするという点で、語は充分に特権的な記号体系を形成しており、博物学はできのよいものとなった場合にのみ、そして貨幣はよく調整された場合にのみ、言語と似た機能をはたしうるということだ。……すなわちそれ〔記号〕は、物の秩序を成立させ、それを明瞭なかたちで顕示するのである」(p. 224-225)。 言語はその不完全さ故に四角形が完成する。自然発生的な言語はそれぞれの国民の風土、生活条件、経験など様々な条件によって多様性を許し、転移を生じさせる。この転移における名の截断における分析は不完全で不正確であり、重複が多く見られ、「人々は同一の表象にたいして、さまざまな語を用いたり異った命題を立てたりするであろう。彼らの反省は誤謬をまぬがれるのだ。こうして、指示と転移のあいだに無数の変位がはさまり、分節化と主辞=属辞関係定立のあいだには無数の誤謬が増殖することとなる」(p. 225)。それゆえにこそ、それが同時に結合法でもある完全な言語が構想されたわけだ。 富の秩序と自然の諸存在の秩序は主辞=属辞関係定立と転移の移行を許さず、四角形の二辺は空いたままである。「博物学の領域においては、構造が直接的可視性においてあたえられる以上、分節化と主辞=属辞関係定立のあいだに誤りはありえない。同様にまた、特徴が体系の首尾一貫性あるいは方法の正確性にもとづいて設定される以上、想像力による変位、いつわりの類似、不適当な隣接関係のはいりこむ余地もなく、したがって正しく指示された自然物がみずからのものでない空間におかれることはありえまい。言語においては開かれたままであり、本質的に未完成にとどまらざるをえない技術の企てを言語の限界に生じさせるものが、博物学においては、構造と特徴によって理論的に閉ざされているのである。富の領域においても、価値が尊重価値から評価価値へと自動的に変化し、貨幣がその量の増減によって価格の変動を招きながら常にこの変動を制限しているうという事実が、主辞=属辞関係定立と分節化との、指示と転移との、関係を調整している。言語においては開いたままである線分間の空隙が、ここでは価値と価格によって実際的に閉ざされているのだ」(p. 226)。つまり言語においては流動的になっている結合法はこの二つの領域ではそれぞれ構造と特徴、価値と貨幣によって担保され、安定化し、主辞=属辞関係定立と転移が結びつかなくなっているということか。 ・古典主義時代の知の様態の解体と近代の知の成立 古典主義時代に成立していた主辞=属辞関係定立と分節化、指示と転移の結びつきは近代に解体・分離され、形式と意味(「形式的命題学と形式的存在論」)の関係が問題にされるようになる。「古典主義時代の思考の本質的問題は、《名》と《秩序》との関係のうちに宿っていた。すなわち、同時に《分類法》でもあるような《名称体系》を発見すること、あるいは存在の連続性にたいして透明であるような記号体系を設定することが問題であった。ところが、近代的思考が基本的に問題とするのは、真であるものがもつ形式および存在がもつ形式にたいして、意味というものがいかなる関係にあるかである」(p. 229)。 表象からの解放。古典主義時代においては表象が言語、自然の諸個体、必要の存在様態を律しており、「表象の分析は、すべての経験的領域にとって決定的価値をもつ」(p. 230)。タクシノミアは表象によって開かれる空間内で展開される。「古典主義時代の思考――そして、一般文法、博物学、富に関する学問を可能ならしめたあの《エピステーメー》――の終焉は、表象の後退、というよりはむしろ、言語、生物、必要の、表象からの解放と位置するであろう。そのとき、語りつづける民衆の晦冥だが執拗な精神、生命の激しさとその不断の努力、必要のもつひそかな力が、表象の存在様態から逃れでるであろう。そして表象は、意志の形而上学的裏面としてあらわれる自由、欲望、意志の強大な推力によって、裏うちされ、制限され、縁どられ、おそらくはまどわされ、いずれにせよ外部から支配されることとなろう。意志あるいは力に似た何ものかが、近代の経験の中に出現しようとしている」(p. 230)。 第七章 表象の限界 ・分析の場が秩序から歴史に移る 歴史を場として分析が展開され、物は歴史的なものとして認識の空間に現れるようになる。組織体の間の中退は同一の要素の共有ではなく、「両者の内部における諸要素の関係の同一性……それら諸要素が全体として保証する機能の同一性」(p. 238)となり、「これら組織体同士が類比関係の特殊な濃密さによって隣接しあうことがあるとして、それは、両者が何らかの分類空間のなかで近接した場所を占めるからではなく、両者が継起的生成過程のなかで、同時もしくは相前後して形成されたからにほかならない。古典主義時代の思考においては、時間継起の列は、まえもって存在する、より基本的な表の空間を巡歴するにすぎず、時間継起のあらゆる可能性はこの表のなかにあらかじめ提示されていたのにたいしえ、いまや、同時的類似関係、空間のなかで同時に観察される類似関係は、類比から類比へと進む継起がその途上に残していく形態の、凝固したものにすぎぬとされるのである」(p. 238)。「それゆえ、経験的諸領域のこの空間を組織化する原理として、《類比》と《継起》とが出現することとなる」(p. 238)。「十九世紀以後、たがいに区別される組織体同士を結びつける類比関係は、〈歴史〉によって、時間的系列のなかに展開されるであろう。そしてこの〈歴史〉が、その固有の法則を、生産の分析、有機的存在の分析、さらに言語群の分析にたいして、しだいに強課していく」(p. 238)。 「あれほどおおくの実証科学の成立、文学の出現、哲学による哲学自身の生成の考察、知であると同時に経験性の存在様態でもある歴史の登場は、いずれもひとつの深い断絶のしるしにほかならない」(p. 241)。 ・スミスの革新性その1:労働は交換の絶対的尺度 アダム・スミス以前の状況では「けれども、物の値打のうちに刻みこまれた労働量は、計量のためのたんなる道具以上の何ものでもなく、この道具は、相対的であると同時に他の尺度に換算できるものであった。……古典主義時代全般をつうじて、等価性の尺度をなすのは必要であり、交換価値の絶対的基準となるのは使用価値である。食物こそ値打の尺度であって、それが農業生産、麦、そして土地に、だれしもが認めた特権をあたえていたのにほかならない」(p. 242)。 スミスの新しさは経済学的概念としての労働を発明したり、この概念に新たな役割を演じさせたわけでもない。彼は価値の分析において労働を他のものに還元不能な絶対的な計量単位とした。「富は、その現実における生産に要した労働単位数に応じて分解されるであろう。さまざまな富は、依然として表象的要素として機能しているが、それらが最終的に表象するのは、もはや欲望の対象ではなく、労働にほかならない」(p. 242-243)。 国あるいや時期、労働者の数によって、労働が高価になったり報酬が低くなったりするが、「このような事情の違いによって変化するのは、一日の労働で獲得できる食物の量であって……労働それ自体、すなわち仕事に要した時間、労力、疲労は、いずれの場合にも同一である(p. 243)。逆に分業によってより多くの生産ができるようになれば、「おなじ労働単位(賃金労働者の一日の仕事)に対応する製品の量が増加したのだ。……労働が物との関係において減少したのではない。物のほうが労働単位との関係においていわば縮小したのである」(p. 244)。事情の違いで変わるのは労働と食物の交換レートであって、労働の量そのものは変わらず、同一というわけ。 ・スミスの革新性その2:価値の尺度は時間と労力 古典主義時代においては価値の尺度は必要性であり、必要を感ずるが故に交換が起こると考えられていた。しかしスミスは「交換の動機と交換されうるものの尺度とを、また、交換されるものの性質とそのものの分解を可能にする単位とを、それぞれ区別するのである」(p. 244)。古典主義時代の思考では交換の動機と価値の尺度(なぜ交換されるのか? 必要だからだ! 価値は何によって計られる? 必要によってだ!)、交換されるものの性質とそのものの分解を可能にする単位(交換におけ価値という性質は必要性に基づき、交換の分析も必要性によって行われる)はいずれも必要性だったが、スミスはこれらを区別した。「人々は必要を感ずればこそ、交換、それもまさしく必要とする品物の交換をおこなうのだが、交換の場の秩序、その階層的秩序、そこにあらわれる相違関係は、問題の品物に注がれた労働の単位数によって決定される。……人間はまさに自分にとって『不可欠、便利、快適』であるものを交換するのだとしても、経済学者にとっては、物の形態で流通しているのは一定量の労働なのだ。もはや必要の対象がたがいに表象しあうのではなく、変形され、隠され、忘れられた、時間と労力があるにすぎない」(p. 244)。 ・表象から人間へのシフト 交換は人間の有限性によって支配され、表象ではないものによって分析される。「つまり彼は、労働というもの、すなわち、労力と時間、一人の人間の人生を截断するとともに摩滅させるあの一日の仕事というものを、明るみにだすのである。欲望の対象の等価性は、もはや他の品物や他の欲望を介してではなく、それらとは根本的に異質なものを通じて決定される。富に秩序があり、これであれを買うことができ、金が銀の二倍の価値をもつのは、もはや、たがいに比較しうる欲望を人々がもつからではない。彼らがその身体をつうじておなじ飢えを感ずるからでも、彼らすべての心がおなじ魅惑のとりことなるからでもない。それは、彼らがみな、時間、労力、疲労、さらに窮極においては死そのものの、支配下におかれているからなのだ。人々は必要や欲望を感ずればこそ交換をおこなうのにちがいない。だが、彼らが交換をおこない、それらの交換を《秩序づける》ことが《できる》のは、彼らが時間と大きな外的宿命の支配下にあるからにほかならない」(p. 245)。 古典主義時代の富に関する反省は「観念学――すなわち表象の分析――の内部に宿っていたが、いまやそれは、いわば間接的に、いずれも観念の分解形式や分解法則ではとらえられぬ、二つの領域に依拠することとなる。すなわちそれは、一方において、人間の本質(人間の有限性、人間と時間との関係、死の切迫)と、人間がそこに自己の直接的必要の対象を認めることができないにもかかわらず日々の時間と労力を投入する対象という、この両者を問題とする人間学をはやくも指向すると同時に、他方においては、もはや富の交換(そしてその基礎をなす表象の働き)ではなく、現実における富の生産、すなわち労働と資本の形態を対象とするような、そうした経済学の可能性を、まだ空虚なものだとはいえ指示すのである」(p. 245)。 ・特徴は構造ではなく、組織に基づくようになる 特徴が分類を可能ならしめるという点ではそのままだったが、特徴はもはや可視的構造の比較によって決定される物ではなくなり、四つの仕方で現れる組織に基づいて決定されるものとなる。 (1)特徴間の階層的秩序。特徴は一次的で本質的な特徴(どの種にもそのいずれかが当てはまり、適用できる特徴)、二次的で亜定常的な特徴(ある種には当てはまるが、別の種には当てはまらない特徴)、三次的で半=定常的な特徴(ある時は当てはまるが、またある時は当てはまらない)に分けられる。二次的、三次的特徴は一次的特徴を基盤として表れ、区別を細分化する。「特徴がもはや、可視的構造から直接に、しかもその特徴自体の有無のみを基準として、抽出されるのではないことはあきらかであろう。特徴は、いまや生物の本質的機能の実在と、記述の次元のみに属するのではない、重要度の関係とにもとづくものとなったのである」(p. 247)。 (2)特徴は機能(とりわけ重要な機能)を表す。「機能によって本質的に律せられ決定されている複雑な階層的組織の一端が、可視的な面に露出したものにほかならぬ。ある特徴が重要であるのは、観察されるさまざまな構造のうちにそれが頻繁にあらわれるからではない。逆に、それが機能のうえで重要であればこそ、それはしばしば観察されるのだ」(p. 248)。 (3)特徴は内部組織の表れ。たとえば蹄の配置が「動物の移動の様態や運動上の可能性……さらにこれらの様態が、栄養摂取の形態や消化系統の諸器官と相関関係をもつ」(p. 248)とシュトールが考えたように、表面に表れた特徴は内側に隠された器官の機能を表出していると考えられた。「こうしたわけで、分類することは、もはや、可視的なものの一要素に他のすべての要素を表象させることによって、可視的なものをそれ自体に依拠させることではない。それは、分析をくるりと回転させるようにして、まず可視的なものをいわばその深い理由に関係づけるように不可視的なものに関係づけ、ついでこの隠された建築物から、それを示すものとして身体の表面にあたえられている顕在的なしるしへとふたたび上昇することなのだ」(p. 249)。 (4)名称体系と分類が重ならなくなること。古典主義時代には「名の問題と種属の問題とは同型であった」(p. 250)が、特徴が内的組織の表れと見なされてこれが分類で役割を果たすようになった以上、可視的特徴に基づいた区別(ひいては博物学的な分類)は名付けとは同一の操作によって行われるものではなくなった。以後の分類は内的器官とその機能に基づいて行われる一方で依然として名づけは「個体の可視的特徴から出発して、その属名と種名が占める正確な仕切りに到達する」(p. 250)ものであり続ける。両者が重なり合うことはなくなり、「奥行きの方向においてはひとつの機能を指し示し、表面においてはひとつの名を見いだすことを可能にしている」(p. 250)顕在的な特徴におて垂直に交わることとなる。この区別は生物学とタクシノミアの優位を崩壊させるものであり、これを初めて明らかにしたのはラマルクだった。 言語と自然の分離。「こうして、名と種属、指示と分類、言語と自然は、もはや当然のこととして交差しあうものではなくなる。語の秩序と諸存在の秩序とは、もはや人為的に定められた一本の線で交わるにすぎない。この両者の古い依存関係の絆こそ、古典主義時代における博物学を基礎づけ、構造から特徴まで、表象から名まで、そして可視的な個体から抽象的な種属まで、一挙に導いていくものだったが、その絆が今やほどけはじめる。人々は、語以外の空間に《場》をもつ物について語りはじめるのだ」(p. 250)。 ・組織という概念によって生物と非生物がはっきりと分けられた 労働という概念がそうだったように、組織という概念は古典主義時代にすでに存在していた。しかしあくまで「より単純な素材からなる複雑な個体のある種の構成様式を規定するのに用いられていた」のであり、「十八世紀末にいたるまで、自然の秩序を基礎づけるためにも、その空間を規定するためにも、この空間の諸形象を劃定するためにも、けっして用いられることがなかった」(p. 251)。組織がそういった特徴付けに用いられるようになったのは、ジュシユー、ヴィック・ダジール、ラマルクの仕事を通じてである。この変動の重要な帰結は、有機的なものと無機的なもの、生物と非生物とを組織によってはっきり区別したことである。さらに、生物とは成長と生殖を行いつつ何かを生み出すものである一方、無機的なものは成長も生殖も行わない。「それは、生命のはずれにある生気なく不毛なもの――すなわち死――にほかならない。それが生命のなかに混在するとしても、それは、生命のなかにあって生命を破壊し殺そうとするものとしてなのだ」(p. 252)。生命と死の基本的対立はこうして出現した。 ・言語を支配し、比較を許すものが表象ではなく文法となる 古典主義時代においては言語の語の意味は原初における指示作用のうちにあるとされ、「すべての言語は、いかに複雑なものであろうと、太古の叫びによって決定的に定められた範囲のなかに位置していたのだ。他の言語との横の類似関係――似た音がおなじような意味をあらわすという――が指摘され蒐集されたとしても、それは、それぞれの言語と、これらの深い、埋もれた、ほとんど無言と化した価値とのあいだの、垂直方向の関係を裏づけるためにすぎなかった」(p. 253)。そこでの分析を支配する原理は、「すなわち、原初的な共通の言語があって、それが語根の最初の分配を定めたという原理と、言語そのものとは無縁な一連の歴史的出来事(異民族の侵入、移住、認識の進歩、政治的自由や隷属など)が、言語を外側から押しまげ、摩滅させ、精錬し、柔軟にし、その諸形態を多様にし、あるいは混ぜあわせたという原理である」(p. 254)。しかし十八世紀の最後の二五年間は原初の言語に遡ることなく言語同士の類似の程度・濃度などが考えられ、言語間の比較が行われるようになった。 言語間の比較を通して屈折がクローズアップされた。ただし労働や組織のように、すでに知られてはいたし、表象的価値の故に分析の対象となったにすぎなかったが。しかし、クルドゥーやウィリアム・ジョーンズの研究によってサンスクリット語、ラテン語、ギリシア語における《ある》(エートル)という動詞の活用変化の比較で、それらの言語の屈折は正確に対応していたこと、ひいては変化しているのは語根のほうであって屈折のほうが恒常的だということが発見された。「しかし、この活用の比較において問題となっていたのは、もはや原初の音節と最初の意味との結びつきではなく、語幹の変容と文法的機能とのあいだのさらに複雑な関係である。すなわち、二つの異なる言語において、形態上の変化の一定の系列と、文法的機能、統辞法的価値、意味上の変化のこれまた一定の系列とのあいだに、ひとつの恒常的関係が発見されたのだ」(p. 255)。 結果、これまで重要視されていた意味や表象の上では副次的な価値しか持たないが、形態では「堅固で恒常的な、ほとんど不易ともいえる総体を構成しており、その総体の至上の法則は、表象的語根をも否応なしに支配して、この語根そのものを変容させるにいたる」(p. 255)要素が出現した。それこそは純粋に文法的なものであり、言語は最早表象と(思考の結合の順序に配列された)音だけからなるものではなくなり、「体系としてのまとまりをもつ形態上の要素から構成されており、それが、音、音綴、語根に、表象の体制とは異なった体制を課するのである」(p. 256)。言語を支配するものが表象から、表象によっては還元できない要素(労働や組織が表象に還元できないのと同じように)、すなわち文法ないしは言語内のメカニズムに変わったというわけ。「言語が変様をとげるのは、ただ観念、物、認識、感情が変化したときのみであり、しかもその変様は、こうしたものの変化に正確に比例すると考えられていたのだ。だがいまや、諸言語の内部にはひとつの『メカニズム』があって、それが各言語の個別性ばかりか、他の言語との類似をも決定することとなる。同一性と相違性の担い手、隣接関係のしるし、近縁関係の標識として、この『メカニズム』こそが歴史をささえるものとなる。この『メカニズム』をとおして、歴史性は言語そのものの厚みのなかにはいりこむことができるのだ」(p. 256)。 ・表象に還元できない諸概念の出現は表象が力を失ったことを示す 労働、組織、屈折体系といった表象に還元できない諸概念の出現は単なる進歩やロマン主義による影響などではなく、もっと深層的なものである。「すなわち、表象が、その諸要素のあいだに成り立ちうる結合を、表象それ自体から出発して、表象固有の展開において、表象を二重化する仕組みによって、基礎づける力を喪失したのである。いかなる結合も、いかなる分解も、同一性と相違性へのいかなる分析も、もはや表象相互の結合を正当化することはできない。秩序も、それが空間化される場である表も、それによって規定される隣接関係も、その表面のさまざまな点のあいだでの可能な巡歴としての継起関係も、もはや表象同士、あるいは各表象の要素同士を結合する力をもたない。この結合の条件は、以後、表象の外部、その直接的可視性の彼方、表象それ自体よりも深く厚みのある一種の背後の世界に宿るのだ。……かつてはみずからにかかわる諸表象を同一の形式にしたがって分布させる恒常性にほかならなかった物は、いまやみずからに巻きつき、固有の嵩をもち、われわれの表象の《外部》に自己の《内的》空間を規定するのだ」(p. 259)。組織の場合が一番分かりやすいが、表面的で可視的な特徴が果たしていた役割が内部にあって厚みを持つ組織に移った。組織にせよ文法にせよ労働にせよ、余所のものである表象に訴えることなくその物固有の概念によって結合を担保できるようになった。 ・観念学と批判哲学は古典主義時代と近代それぞれのエピステーメーの現れである 古典主義時代から近代への転換ははっきりした転換ではない。スミスやジュシユー、ジョーンズらによって表象に依拠しない概念が用いられるようになったとしても、このことは彼らが表象を捨てたということではなく、「ただ、分析可能で、恒常的で、しかるべき根拠をもつような結合関係の一形態を、そこに設定するためにすぎなかった。同一性と相違性の一般的秩序を見いだすことが、あいかわらず問題だったのである」(p. 260)。ただ表象に訴えることなく、表象を迂回して分析をするための出発点が定まったにすぎない。エピステーメーははっきりと転換したのではなく、いわば過渡期のように当初は共存していたというわけ。 その共存を観念学と批判哲学の共存が反映している。観念学は「観念、観念を語によって表現する仕方、推論において観念相互を結合する仕方、を対象とするまさにそのかぎりにおいて、それは可能なかぎりのあらゆる学問の〈文法〉および〈論理学〉としての価値をもつ。〈観念学〉は、表象の基礎、限界、根拠を問うものではない。それは、表象一般の領域を巡歴し、そこにあらわれ必然的継起を見さだめ、そこに生じる結合関係を規定し、この領域を支配しうる合成と分解の諸法則をあきらかにする。それは、すべての知が表象の空間に宿るものと考え、この空間を巡歴することによって、それを組織する法則に関する知を定式化する」(p. 260)。 一方で批判哲学は表象を表象外の条件から論じる。カントの問題は観念学と同じく表象の相互関係を論じるものであるが、彼はこの関係を表象のレベルではなく、それを一般的に可能ならしめる条件、「普遍的に有効な形式を規定する条件」を設定する。「問題をこのような方向に向けることによって、カントは、表象および表象のうちにあたえられるものを迂回し、いかなるものであれ表象というものがあたえられる際の、その前提となるものに直接訴えかける。……表象内容にもとづいておこなわれうるのは、経験判断あるいは経験的確認のみである。それ以外のあらゆる結合関係は、普遍的であろうとするかぎり、あらゆる経験の彼方、すなわち、その結合関係を可能ならしめるア・プリオリのなかに基礎をもたなければならない」(p. 261-262)。両哲学の違いは表象機能を表象の内に認めるか、外に認めるかである。 観念学が古典主義時代の最後の哲学だったのに対し、批判哲学は近代の始まりの哲学だった。観念学は「表象の外部で構成され再構成されつつあったまさにそのものを、表象の形態のうちに取りもどそうとしていたのだ。このような奪回作業は、個別的であると同時に普遍的な発生過程という、なかば神話的な形態でしかおこなわれえなかった。すなわち、孤立した、空虚で抽象的なひとつの意識が、もっともとるにたらぬ表象から出発して、表象可能なあらゆるものの壮大な表を徐々に展開すると考えられたのである」(p. 262)。他方批判哲学は「表象の権利上の限界から出発して表象に問いかけ……いまや、表象の空間の基礎、起源、限界が問題とされるわけだ」(p. 262)。 観念学は形而上学に落し、批判哲学が生命、意志、言葉の哲学への道を開いた。「まさしくこのことによって、古典主義時代の思考が創設し、〈観念学〉が言説的で科学的な仕方で一歩一歩と巡歴しようとしたあの表象の無限の場は、ひとつの形而上学、それも、みずからの限界を心得ず、迷蒙な独断論にとじこもり、みずからの権利の問題をけっしてあきらかにしたことのない、ひとつの形而上学としてあらわれるのである。……だが、同時に〈批判哲学〉は、表象の由来と起源をなすすべてのものに表象の外部で問いかけることを意図するような、もうひとつの形而上学の可能性を開くものでもあった。それは、十九世紀が批判哲学の開いた道に今や展開しようとしている、〈生命〉、〈意志〉、〈言葉〉の哲学を可能としたのである」(p. 262)。 ・転換の帰結その1:主体と客体という二つの側からの分析の出現 同一性と相違性の表という古典主義時代の場の解体は二つの思考形態を生んだ。一方は先験的主体の分析であり、「表象相互の関係の条件を、表象一般を可能ならしめるものの側に求め、そうすることで、経験にはけっしてあたえられぬが(主体は経験的なものではないのだから)他方では有限である(知的直観というものはないのだから)主体が、客体=xとの関係において経験一般のあらゆる形式的条件を決定する先験的な場をあらわにする」(p. 263)。他方は表象の成立条件を客体の存在に求めるものである。物の価値、生命の組織、諸言語の文法構造と歴史的類縁関係は表象の外にある労働の力、誠意名の力、語る能力に由来するとされる。「このように、先験的反省においては、経験に与えられる客体の可能性の条件が経験それ自体の可能性の条件と同一視されるのにたいして、この第二の思考形態においては、経験の可能性の条件が、客体とその実在の可能性のうちに求められる」(p. 264)。 ・転換の帰結その2:批判哲学・実証主義・客体の形而上学という三角形 「こうして、労働、生命、言語は、生産の法則、生物、言語の諸形態を客体の側において認識することを可能ならしめる『先験的なもの』として出現する。それらは、その存在においては認識の外にあるが、まさにそのことによって認識の条件をなしているのだ」(p. 264)。これらは客体の側にあってア・ポステリオリな真理の領域を可能ならしめるものである。この先験的なものについての図式によって客体の形而上学と実証主義の出現と両者が(そして批判哲学とも)同じ考古学的地盤を持つことが説明される。 前者は「先験的主観のレベルで解明されうるような認識の条件の分析には背を向けて、表象の領域があらかじめ制限されているかぎりにおいてのみ可能となる、客体の側にある先験的なもの(神の〈言葉〉、〈意志〉、〈生命〉)を出発点として展開する」(p. 264)。いわゆる生の哲学がこの典型であろうか。他方、実証主義では「経験にはさまざまな現象のひとつの層があたえられるが、それらの現象の合理性と連鎖は客体の側にあるひとつの解明不能な基礎にもとづいており、われわれが認識しうるのは、実体ではなくて現象、本質ではなくて法則、存在ではなくて存在の規則性だとされるのである」(p. 264)。 両者は対立しつつも相補的である。「客体の側にある『根底』あるいは『先験的なもの』に関する形而上学は、実証的認識(とりわけ生物学、経済学、文献学のもたらす)の財宝を奪おうとし、逆に実証主義は、認識しえぬ根底と認識しうるものの合理性との分割のうちに、みずからを正当化する根拠を見いだすのだ。批判哲学=実証主義=客体の形而上学という三角形は、十九世紀初頭からベルグソンにいたる、ヨーロッパの思考の基本的構成要素なのである」(p. 265)。 ・近代のエピステーメーの諸帰結:認識論的な場の再建としての数学化・形式化 古典主義時代では「質的なものに関する学問は、同一性と相違性にもとづく表象の分析と、永続的な表への表象の秩序づけとによって、当然のこととして普遍的《マテシス》の場に位置せしめられていた」のであり、この「《マテシス》および秩序に関する普遍的学問」(p. 265)が解体したことで認識論的な場の解体が起こった。この解体によって「《ア・プリオリ》な諸科学、形式的で純粋な諸科学、数学と論理学に属する演繹的な諸科学の場」と「《ア・ポステリオリ》な諸科学、演繹的な形式を狭い局部において断片的にしか用いない経験的な諸科学の領域」とが分離して別個のものと認められた。思うに、表象が結合と分析の力を失ってその力が表象外のもとに求められるようになることにより、同一性の相違性による表象の分析にもとづいた表を作るという普遍化・統一化が放棄され、ア・プリオリなものとア・ポステリオリなものという区別が出現したことで、形式科学と経験科学とが分離されたということか。 解体された認識論的な場の統一性の再建への配慮として知の数学化・形式化、すなわち「数学を出発点とした知の諸領域の分類、もっとも複雑で正確さを欠く領域にまで漸進的に赴くための階層的秩序の設定、帰納の経験的方法に関する反省、この方法を哲学的に基礎づけるおともに形式的観点から正当化しようとする努力、経済学、生物学、そして最後には言語学そのものの領域までをも純粋化、形式化、そしておそらくは数学化しようとするこころみ、諸科学に関する近代の反省を特徴づけるこれらいくつかの努力」(p. 266)が起こった。 これと同時に数学化・形式化に抵抗してこれらの不可能性の主張、「その不可能性は、生命のもつ還元不能な特異性……もしくは、あらゆる方法論的還元に抵抗する人文諸科学の独異な性格」(p. 266)も唱えられた。数学化・形式化とこれへの反対の同時出現は「十八世紀末ごろ表象の空間から総合の可能性を分離した、あの深い出来事の痕跡」(p. 266)である。 《マテシス》の統一性が「分析の純粋な諸形態と総合諸法則」の分離、さらに「総合の基礎を求める際、先験的主観と客体の存在様態」の分離によって解体されたのを受けて「基礎づけ」と「解明」という二つの普遍性再建の試みが生まれた。「第一の形の哲学は、先験的領域の全体を思考の純粋で普遍的で空虚な法則から発生論的に演繹した、フィヒテの企てによってはじめて明瞭な姿をあらわし、これによって開かれた探求の場において、先験的なものに関するあらゆる反省を形式主義による分析に帰着させるか、もしくは先験的主観のうちにあらゆる形式主義の可能性の地盤を発見することが試みられる。第二の哲学的展望が最初にあらわれるのは、ヘーゲルの現象学において、経験的領域の全体が、自己にたいして精神――すなわち、経験的であると同時に先験的な場――として現れる一個の意識の内部に奪還されたときにほかならない」(p. 267)。これらの試みはデカルトやライプニッツの企てに呼応するかに見えるが、同じ形態、狙い、基礎を持つものではないという。 哲学史的にはデカルトは基礎付け主義の親玉のようにみられがちだが、必ずしもそうではないのかも。 第八章 労働、生命、言語 ・生産活動が表象に還元できない「あらゆる価値の源泉」となった スミスは生産活動としての労働と売買しうる商品としての労働を同一視し、いかなる労働も一定量の商品を表象し、商品も一定の労働を表象していると考えていた(言ってみれば、両者とも表象の枠内で同格のものとして機能していていて、それゆえに価値を決定できた)。しかしリカードは両者を区別し、生産活動としての労働あってこそ価値が生じるものであり、生産活動こそが(表象機能に還元されえない)「あらゆる価値の源泉」だと考えた。現に物の価値はその生産に捧げられる労働量とともに増大する。「価値は記号であることを止め、生産物となる」(p. 273)。 それゆえ、古典主義時代の富の分析にとって取引と交換が(価値の分析なり労働の分析なりの)基礎となっていてスミスもまたこの限界内にいたものだが、リカード以後は交換の可能性は労働に基づき、生産の理論が流通の理論に先行することとなった。 ・流通の理論に対する生産の理論の先行の三つの結果 その1:経済への歴史性の導入。リカード以前は経済上の動きは「諸価値がたがいに他を表象しうる、表の空間」(p. 374)に基づいて説明されていた。たとえば、物価高騰が表象する諸要素(たとえば流通する品物の量)が表象される諸要素(貨幣量)より早く膨張する時に起こるとか、表象手段(市場にある品物)が表象すべき物(労働)との関係において減少する時に減少するときに起こる、と。これらはあくまで表象するものとされるものとの相互関係であり、因果的時系列ではなかった。しかしリカード以降は生産活動は成果を生み、この成果が新たな労働のための経費(資本)となる。こうして経済に連続する歴史的時間が導入された。 その2:経済学が人間学に基づくものとなること。古典主義時代において稀少性は必要との関係において規定され、必要の増大と共に稀少性も増大すると考えられていた(稀少性が必要を表象するということか?)。しかしリカード以降、欠乏、すなわち生命を支えるために必要なものの欠如が死をもたらすがゆえに生産活動をしなければならず、人間が増えるにつれて必要な労働の量が増していったということによって稀少性が分析されるようになった。典型例としては、人間が少ない頃は豊かな土地だけを耕していれば必要なものを賄えたが、人間が増えてくるとそれでは足りなくなってより多くの労働を投入してあまり豊かでない土地を耕したり開墾をしなければ必要なものを生産できなくなった。「経済学がその原理を見いだすのは、もはや表象の働きのなかにではなく、生命が死と直結するこの危険きわまりない地域の側においてである」(p. 276)。それゆえ、経済学は人間学に基づくものとなる。 その3:歴史の停止。必要なものの生産のためにより多くの資源が必要になるのにつれて生産経費、農作物価格が騰貴し、利潤は低下していく。新たな労働者を雇うだけの利潤がなくなれば、労働人口も停滞する。それゆえに亜棚年を開墾する必要はなくなり、歴史は漸進的に不活発になり、ついには停止する。 このような停止のシナリオがリカードが直接述べたものなのか、それともフーコーが考えたものなのかは知らないが、フーコーによれば、停止の帰結は二種類あるという。すなわち、一つは歴史がそれを目指して歩んできた安定状態に達すること、もう一つは「〈歴史〉が、それまでみずからがたえずそうであったものを自分で抹殺してはじめて固定状態が得られ、そのような転換点に到達」(p. 279)すること、である。前者は、(すでに述べたことと似たようなことだが)生産経費(生産に必要な労働量)が生産量の増大を上回ってこれ以上賄える労働量がなると、労働は必要に一致し、養えない人口の超過分は死滅して超過分の労働がされなくなり、「〈歴史〉は、人間の有限性を、それがついにその純粋さのうちにあらわれるあの限界点まで運んできたこととなるのだ。〈歴史〉はもはや、〈歴史〉から逃れることを人間に可能にする周縁も、みずからの将来を整えるためになすべき努力も、未来の人間にたいして開かれた新しい土地も、持たない」(p. 279)。マルクスによって代表される他方の帰結、むしろ解決では、労働者が賃金として受け取る以上のものを生産するよう強い、資本の蓄積と企業の成長、労働に対する報酬が切り下げられて失業が増大し、彼らの欠乏を増大する。このプロセスを可能ならしめるのが歴史であり、このような「〈歴史〉の抹殺、あるいはすくなくとも、その逆転」(p. 280)を通して新しい一つの時間が始まる。 ・リカードもマルクスも同じ認識論的配置の上に立つ その相違性にもかかわらずリカードもマルクスも同じ認識論的配置の上に立つものであり、「マルクス主義が経済にかかわる『ブルジョワ』理論に対立し、その対立のなかで、『ブルジョワ』理論に対抗して〈歴史〉の根本的転換を企てたとしても、そうした葛藤と投企は、すべての〈歴史〉の奪取ではなく、十九世紀ブルジョワ経済学と革命的経済学とをおなじ様態にもとづいて同時に規制してきた、考古学全体によって性格に位置づけられうる出来事を、その成立条件としているのである」(p. 281)。 では両者が拠って立つところの認識論的配置はどんなものかというと、「経済の歴史性(生産諸形態との関係における)、人間の実存の有限性(稀少性と労働との関係における)、〈歴史〉の終焉の期日」(p. 281)という三者が同時に現れるものであり、このような認識論的配置こそが十九世紀の始めに成立したものである。これを終わらせたのがニーチェらしいのだが、目下の節ではその内実はよく分からない。 ・キュヴィエの革新:器官を機能に基づいて秩序づける 古典主義時代の分析では、器官は構造と機能(その演じる役割)から出発して理解され、そしてそれらが互いに別々でありながらも互いに重なり合うような仕方で理解されていた。しかしキュヴィエは器官の配置を機能に従属させ、機能と関係づけられ、機能によって説明されるべきものと考えた。古典主義時代にもこの器官はしかじかの機能を持つということは知られていたが、機能に基づいた器官を秩序づけはなされなかった。 そういうわけで機能への器官の依拠は、「共存関係」、「階層的秩序」という現れを持つ。「共存関係」とは「ひとつの器官、もしくは一系統の器官は、一定の性質および形態とをもつべつの一器官、もしくはべつの一系統の器官がやはりそこに存在しないかぎり、生物のなかには存在しえぬという事実を指示するものである」(p. 285)。具体的にはどういうことかというと、歯の形が他の消化系統の形態に呼応して同時に変化し、四肢の形態(引き裂く爪があるのか、蹄か)に応じて消化器官も変化する。「動物は食物を摂取しなければ《ならない》のであるから、獲物の性質とその捕獲の様態とは、咀嚼や消化の機能と無縁ではありえない」(p. 285)。 階層的秩序とは、より重要で基本的な器官や機能によって重要度で劣る器官の様態が決定され、諸機能についての表は重要度の階層的ピラミッドをなすということ。それゆえ、より重要な機能に関して動物の種は類似し、従属的な周辺部では柔軟になり、多様性を持つことになる。「いいかえれば、その生命に本質的なものの側で一般化され、より付属的なものの側で個別化される」(p. 287)。だからより一般的な分類群を求めるならば目に見えない器官と機能に目を向け、個別性をはっきりさせる場合には目に見える表層に目を向けるべきということになる。「多様性は目に見えるが統一性は隠されているのだ」(p. 287)。 ・生命の出現、タクシノミアの消滅 古典主義時代には可視的特徴による分類によって自然が理解され、生命は分類上の境界線だったり截断の結果として現れるものでしかなかった。ところがキュヴィエ以降、分類と生命の主従関係が逆転し、生命あるものが分類され、分類は生物の一特徴にすぎなくなる。こうして「自然に関する一般的学問の地盤と基礎としての、秩序の研究」(p. 288)、一般的タクシノミアが消滅した。 ・生命は非連続的なものになった 相違性は連鎖させるものではなく、孤立させるものになる。相違性はもはや自然の連続性と種の表が生じさせ、表の隙間と隔たりを埋めるような「連鎖」を作り出するものではなくなった。キュヴィエ以後、「相違性は、諸存在の隙間に宿ってそれらを結びつけるのではなく、有機体がそれ自身と『一体をなし』生命のなかに自身を維持できるように、有機体との関係において機能するのにほかならない」(p. 292)。相違性は生命をそれ自体で完結したもののにして孤立させ、自然は非連続的なものとなった。 この不連続性は生活条件によって説明される。生物は特徴の組み合わせではなく、一つの組織体と考えられる。たとえば反芻動物が齧歯類と区別されるのは後者とは違う歯列、消化器官、指と爪の配置を持っているからであり、ひいては同じ性質の栄養物を消化する必要がないという点にある。 ・進化論を準備したのはラマルクではなくキュヴィエである 進化論への道を予示するのはラマルクの理論ではなくキュヴィエの不変論である。ラマルクの理論は「存在論的連続性から出発することによってしか種の変異を考えようとしなかった」(p. 295)、古典主義時代の博物学的な思考形態にもとづくものであり、自然の連続性を前提としていた。他方キュヴィエは組織への生活条件の影響を思考し、自然の非連続性を導入し、これによって生命の歴史性が導入された。 生物学におけるキュヴィエの立ち位置は経済学におけるリカードのそれと同じであり、キュヴィエの不変論とリカードのペシミズムも「歴史性がはじめて西欧の知のなかに露出したとき、その歴史性を考察する最初のやり方だったわけである」(p. 296)。 ・語は表象能力ではなく文法組織の一部であることでものを語れるようになる 特徴と組織体との関係が語と文法的総体との間にも成り立つ。特徴は自前の表象能力を失い、特徴が何かを表象できるようになるのは機能との結びつきによるものとされたように、語が表象能力を持つのは「ただ、語の形態そのものにおいて、語の組みたてる音において、語のはたす文法的機能にしたがい語の蒙る文法的変化において、そして最後に、時間をつらぬいて語を従属させてきた歴史的変化において、語が、おなじ言語の他のすべての要素を類似した仕方で支配している、いくつかの厳密な法則にしたがうからにほかならない」(p. 301)。 ・文献学の出現 文献学の出現とボップをはじめとする言語学者の仕事の革新性は目立たないものではあったが、経済学におけるリカード、生物学におけるキュヴィエのそれに類比的である。 では文献学の出現はどういう様相を呈していたのかというと、まず(1)表象から内部組織へ、(2)言語が音声学的要素の総体として扱われるようになり、(3)言語は人間の意志に基づくものと考えられるようになり、(4)言語間の近親関係が外在的理由ではなく内在的な理由で説明されるようになった。 (1)十八世紀まで言語は表象の分析がより的確かより繊細かによって優劣や重要度の違いがつけられていたが、文献学の出現とともに言語はその内部で語を繋ぎ合わせる仕方、すなわち文法的構成の規則性によって規定・区別・種類分けされるようになった。 (2)語と音節の変形が「あの疑わしい近接関係と、発音や聴取のなかでおこりうる混乱とによってのみ、誘発され、あるいは決定されたもの」(p. 306)だったのが、それ自体で変形の法則を持つものと考えられるようになった。そしてまた「一般文法にとって、言語は口あるいは唇の?音が《文字》となったとき誕生するものだったが、いまや、そうした?音が分節化され、たがいに区別される《音韻》の一系列に分けられるとき、言語であるということが認められる」(p. 306)。書かれた言葉に対する話された言葉の優先。 (3)言語は人間の意志に基づくものとなる。動詞は名詞から派生したものではなくなく、動詞の語根は行為や過程や欲望や意志を指示するものとなった。ひいては言語は「他の表象を截断し組み立てなおす力をもつ、表象のひとつの体系」であるのをやめて行為や状態や意志を指示するもであり、意志と力から生じたものである。「名詞は表象の複雑な表を截断するのではなく、行為の過程を截断し静止させ凝固させるものにすぎない。言語は、知覚される物の側ではなく、活動する主体の側に『根をもつ』わけだ」(p. 310)。ここから二つの帰結がでてきた。まず、言語の表現機能は、言語が物を模倣してなぞるからではなく、言語が話す人の意志を顕示して翻訳するからである。第二に、言語が歴史性を持つ条件、言語の変動は一部の階級や上方のグループではなく、下、つまり民衆から生まれる。言語の認識的側面より活動としての側面や人間の自由との結びつきが重視される。 (4)古典主義時代には言語間の比較は表象の分節化、分解・合成の仕方を考えることで行われ、言語間の類似は派生関係や集団同士の交流で説明されていた。しかし、ボップ以後は文法体系の研究(語幹の変容、屈折体系、屈折語尾系列の研究)で事足りるようになり、言語体系において内在的に理由が与えられた。二つの言語の文法を比較することでそれらのいずれが他方から発展・派生したものなのか、共通の言語から生まれてどこで分岐したのかを決定することができるようになったというわけだ。 ・言語学における歴史性の導入 生物学が自然のなめらかな連続性とそれの表現である時間継起的系列と表象の法則から手を切り、生物の生活条件の分析を通して歴史性を獲得したように、言語もまた自らに固有の法則性のもとで歴史性を獲得する(正直言ってフーコーの説明からはどういうわけで言語に歴史性が導入されるのかはよく分からない)。 ・言語即認識ではなくなり、言語は客体と化す 古典主義時代においては言語=認識=言説であり、言語は世界を表象する際の秩序を与えるものだった。十九世紀から言語は固有の法則と歴史性を獲得し、認識される客体となった。 言語の非認識化と客体化は三つの様態(あるいは「代償」)を持つ。(1)言語の純化・形式化、(2)形式化と解釈が分析の主たる形態となること、(3)文学の出現。 (1)言語を純化させ、磨き上げ、認識をそのまま反映する鏡にすること。既成の言語の独異性を避けつつ、思考の普遍的含意を維持した代数論理学の要求。 (2)言語が厚み(学問の対象としての独自の領分だろう)を得たことによる釈義の復活。「展開された表面的言説から生のままの存在における言語を白日のもおにさらすこと」(p. 319)。「『資本論』第一巻は、『価値』の釈義であり、ニーチェのすべては、ギリシャ語の数語の釈義であり、フロイトは、われわれの見かけの言説、われわれの幻覚、われわれの夢、われわれの身体を同時にささえかつ穿つ、あらゆるあの無言の文の釈義である」(p. 319)。 (3)それまでも文学と呼ばれるものもあったが、「書くという純粋行為に完全に依拠する、近よりがたい独立した形態のもとに再構成された」(p. 321)。フーコーの文言は奥歯にものが詰まったような言い方でよく分からない。 第九章 人間とその分身 ・古典主義時代における人間の不在 生命の力、労働の多産性、言語の歴史的厚みがそうだったように古典主義時代には《人間》というものは存在せず、それだけで孤立して探求の対象になることはなかった。「古典主義時代の《エピステーメー》は、人間という固有で特異な領域をいかなる仕方においても孤立させないような、おおくの線にしたがって分節化されていた」(p. 328)。 古典主義時代、人間が位置を占めるはずの場所には言説の力が位置を占めていた。物を名指し、切断し、組み合わせ、結びつけてはほどき、諸存在を秩序づけるのは言語の持つ力だと考えられていた。 ・人間の出現と人間の有限性 人間が動物の間にあるのが見受けられ、話すのが人間であり、生産においては生産の原理と方法が人間であるというように、生命、生産、言語を通して人間が浮かび上がる。それと同時に「人間に接近することができるのは、人間の用いる語や人間という有機体や人間のこしらえる品物をつうじてにすぎぬのであって」(p. 333)、それらが人間を先取しており(多分お釈迦様の手の上というような意味で)、ここに人間の有限性がある。 ・実証主義と終末論は経験的でありながら先験的な存在としての人間の出現の結果である 「われわれの近代性の発端は、人々が人間の研究に客観的諸方法を適用しようと欲したときではなく、《人間》とよばれる経験的=先験的二重体がつくりだされた日に位置づけられるからである」(p. 338)。そこから二種類の分析が生まれ、一方は認識のメカニズム、「人間認識の《自然》」を研究するものであり、他方は認識があらかじめ持つ歴史的・社会的・経済的諸条件を持つものとみなして経験的知を規制する「人間認識の《歴史》」を研究するものである。 人間認識の自然から実証主義が、人間認識の歴史から終末論が出てくること。実証主義と終末論は同じ布置にありはするものの、客体の側にある真実の分割の結果であり、真実についての言説の両義性にもとづく。「一方は、この真実の言説が、その発生過程をそれがみずから自然と歴史のなかにあとづけていく、あの経験的真実のうちに、みずからの基礎とモデルを見いだす場合であり、こうして実証主義的タイプの分析が生まれる(客体の真実がその形成を記述する言説の真実を規制するわけだ)他方は、真実の言説が、その自然と歴史をそれがみずから規定する、あの真実を先どりし、あらかじめそれを素描し、とおくから助長する場合であり、こうして終末論的タイプの分析が生まれる(哲学的言説の真実が、形成されつつある真実を構成するわけだ)。……みずから経験的であると同時に批判的であろうとする言説は、ひとつながりに実証主義的であり終末論的であることしかできない」(p. 340)。前者の代表はコント、後者はマルクスである。この二つの分析は同じ布置にある。 体験の分析は実証主義と終末論への異議申し立て。還元(実証主義)でもなく約束(終末論)でもなく、人間を経験的でありながら先験的なものとしての分析を果たそうとするのは「体験の分析」である。「じじつ、体験という物は空間であると同時に、そこであらゆる経験的諸内容が経験にあたえられるとともに、それはまたあらゆる経験的内容一般を可能にし、それらの本源的根づきを指示する、起源にある形式である。……体験の分析は、自然に関する認識のありうべき客体性を、肉体をとおして素描される、起源にある経験と連接し、文化に関するありうべき歴史を、体験された経験のなかで隠されるとともに示される、意味論的厚みと連接しようと求めるわけだ」(p. 341)。 しかし、実証主義と終末論に対する真の異議申し立ては「まことに人間は実存するのか」という問いかけである。「もし人間が実存しないとすれば世界と思考と真実がどのようなものとなりうるだろうかと、たと一瞬たりとも想像してみるのは、逆説をもてあそぶことと思われるかもしれない。つまりわれわれは、最近あらわれたばかりの人間というものの明白さによってすっかり盲目にされてしまっているので、世界とその秩序と人々が実在し、人間が実存しなかった、それでもそれほど遠くない時代を、もはや思い出のなかにとどめてさえいないのだ」(p. 342)。実証主義も終末論も人間の実存を自明のこととしている、というわけだろう。人間の実存は自明でない。 ・思考しえないものを思考する羽目になった デカルトのコギトの問題は誤りや錯覚を含めた思考を説明して明らかにし、誤りや錯覚から身を守る方法を与えることだった。他方近代のコギトの問題は思考と思考されえぬ・思考ならざるもの(多分典型的には無意識)との距離を測り、両者の距離やつながりを活気づけること(今一つ分からない)。それ故に「我思う」は「我あり」の明証性につながらない。 結果、「コギトというデカルト的テーマと、カントがヒュームの批判から引きだした先験的モチーフとをたがいに合体させたかのように見える」(p. 345)現象学が出現した。もう一つの結果は、人間と同時に思考されえぬもの・無意識(いわば人間の影)の双子的出現。 第十章 人文諸科学 ・人文諸科学は演繹的諸科学と経験的諸科学と哲学的反省の隙間に見いだされる 数学と物理学即ち「演繹的諸科学」、「不連続的だがたがいに類似した諸要素を関係づけ、それらの要素間に因果関係と構造上の恒常的要素を設定しうる諸科学」(p. 368)即ち「経験的諸科学」、そして「哲学的反省」。人文諸科学はこれら三つの次元の隙間、あるいはそれらによって規定された立体的空間の内部(これら三つの次元を頂点とした図形のによって区切られる空間ということか)において見いだされる。「人文諸科学を位置づけることをかくも困難にし、認識論的領域におけるその位置関係をぬきさしならぬも心もとなさをあたえ、人文諸科学を危険であると同時に危険に瀕したものとしてあらわすのは、おそらくは三つの次元をもつ空間における、この浮雲のような分布にほかなるまい」(p. 369)。人文諸科学が「危険」であるというのは、三つの次元が自らの領分から人文諸科学の領域に逸脱すると心理主義、社会学主義、人間学主義に陥りかねないということを言っている。逆に、人文諸科学は数学的形式化、経験諸科学から借用したモデルや概念の使用、哲学的な反省へと向かうこともある(これがフーコーの言う人文諸科学が「危険に瀕したもの」ということか?)。「『人文諸科学』の困難、その心もとなさ、科学としてのその不確実正、哲学とのその危険な親密さ、地の他の分野に対する充分規定されぬその依拠、つねに二次的で派生的なその性格、しかも普遍的なものに対するその野望、こうしたものを説明するのは……人文諸科学がおかれている認識論的布置の複雑さであり、人文諸科学にその空間をあたえる三つの次元にたいする人文諸科学の恒常的関係なのだ」(p. 369)。 ・人文諸科学の実定性と他の二つの科学との関係 人文諸科学は数学との関係においてその実定性が規定されがちで、人文諸科学の数学化、数学に還元されえるものの領域の区別が問題になったりする。しかし人文諸科学の実定性は数学との関係において成立するものではない。人文諸科学が数学に対して持つ関係は他の経験諸科学が数学に対して持つ関係と同じであるし、人文諸科学の出現は「人間に関するものの領域への数学のとつぜんの進出ではなく、むしろそれ以上に、いわば《マテシス》の後退」(p. 370)による。 数学と人文諸科学との関係は他の二つの次元と人文諸科学との関係に比べて希薄である。人間は生命、労働、言語を通じて浮かび上がるものであるが、生物学や経済学や言語学が即ち人文科学なのではない。人文科学が相手取る人間とは、これら三つの領域における表象が終わるところにあるものである。「人間諸科学の対象は、この生物的働きの作用もしくは結果ではなく、生物学的働き固有の存在そのものがおわるところ……ともかくも諸表象が解放されところ――に、はじまるのである」(p. 373)。 ・生物学、経済学、言語学からモデルを借用していることが人文科学の方法がバラバラな理由 人文諸科学の領域は生物学と関係から規定される「心理学的領域」、経済学との関係から規定される「社会学的領域」が起こり、言語学ないし文献学との関係からは「文学と神話についての研究、口頭のあらゆる顕示と書かれたあらゆる資料との分析、つまり、文化あるいは個人がみずからについて残すことのできる言葉の痕跡の分析」(p. 377)が出現する。 「発生論的分析か構造的分析か、説明か理解か、『隠れているもの』への依拠か読むことのレベルにおける解読の維持か」(p. 377)といった人文諸科学における議論は、人文科学の対象の複雑さのせいではなく、生物学、経済学、言語学からそれぞれ三つのモデルを借用していることが原因である。それぞれ《機能》と《規範》(心理学的領域)、《葛藤》と《規則》(社会学的領域)、《意味作用》と《体系》(つまり記号の《体系》)(文学と神話の研究)という対概念で人間を説明しようとするが、それぞれの対概念はその領域だけでしか使えないものではなく、他の領域でも用いることができる。さらに複数のモデルの会わせ技もなされる。「このようにして、すべての人文諸科学は交錯しあい、つねにたがいに解釈しあうことができ、それらの境は消滅し、中間的で折衷的な諸専門学が無際限に増加し、人文諸科学固有の対象はついに解消するにいたりさえするのだ」(p. 379)。 ・人文諸科学のモデルの変遷 十九世紀以来の人文諸科学は生物学的モデル(人間、霊魂、集団、社会を「機能」によって分析する。時代的にはロマン主義時代)、経済学的モデル(「人間とその活動すべてが葛藤の場所」(p. 381))、最後に文献学的(隠された意味の発見)・言語学的(意味する体系を構造化して明らかにする)モデルの統治を受けてきた。同時にこの変遷では機能・葛藤・意味作用の後退とそれらのそれぞれと対をなす規範・規則・体系の重要性が浮かび上がってきた。(機能に関して)正常なものと病理的なもと、理解しうるものと伝達しえぬもの、意味をもつものと無意味のものという分割による分析から規範・規則・体系による分析へと移行した(p. 381-382)。 規範・規則・体系という範疇は「経験的諸領域が表象に、しかも意識に現前しない形態のもとで、あたえられうる際のやり方を規定する……規範も、規則も、体系も、日常的経験にはあたえられない。それらは、日常的経験をつらにき、部分的諸意識をひきおこし、しかも、反省的知によってのみ、完全にあきらかにされうる」(p. 384)。それゆえに人文諸科学では意識性と無意識性が目立ってくる。 ・人間は固有の歴史を持たない 人間には固有の歴史はなく、人間の歴史性は生命、労働、言語といったものの歴史に解消される。十九世紀始めに出現した人間は「非歴史化」されている。「人間が〈歴史〉の主体として成立するのは、諸存在の歴史、物の歴史、語の歴史の重ねあわせによってにすぎない。人間はそれらの純粋な出来事に従属させられるわけである」(p. 391)。 ・精神分析の特権性は直接に無意識を相手取ることにある 精神分析と文化人類学は「人間についてのあらゆる認識の境に、この二つが、諸経験と諸概念の汲みつくしえぬ宝庫を……まぎれもなく形成する」(p. 395)ために特権的位置を占める。 「あらゆる人文科学が、意識の分析のおこなわれるのにしたがい、後ずさりするように無意識的なものも解明されることを期待しつつ、背を向けてしか無意識的なものに赴こうとはしないのにたいして、精神分析は、はじめからまっすぐそれに向い……焦点をあわせるものにほかならない」(p. 396)。他の人文諸科学は表象されうるものの空間にとどまりつつ無意識的なものを後ろ向きに目指すが、精神分析は直接に無意識的なものに進んで無意識的なものにも体系、規則、規範があことを示す。これら三つの形象を通じて人間の有限性と経験的=先験的《二重性》の形象となる〈死〉、思考の中心で常に《思考されぬ》ままとそまっている〈欲望〉がむき出しになる。 ・文化人類学 文化人類学は「さまざまな出来事の継起というよりはむしろ構造上の不変式を(体系的選択と同時に資料の欠如という理由から)研究するものである。それは、われわれがわれわれ固有の文化それ自体の内部で反省してみようとこころみる際依拠する、長い『時間継起の』言説を中断し、他の文化的諸形態のなかに共時的相関関係を浮かびあがらせるのだ」(p. 398-399)。ヨーロッパ的思考と他の文化との関係において文化人類学は成り立つ。 文化人類学は生命、必要と労働、言語の形態を可能にする体系がどうやって作られるのかを示す。 フーコーが述べる文化人類学と歴史性の関係はよく分からない。 ・精神分析と文化人類学の特異性 精神分析と文化人類学は「人文諸科学の全領域を通覧し、その全表層にわたってそれを活気づけ、あらゆるところにみずからの概念を広め、あらゆる場所にみずからの解読の諸方法と諸解釈を提示することができる。いかなる人文科学も、この二つを免れ、この二つが発見しえたものから完全に自立し、どのようなやり方にせよ、この二つにたしかに依存しないと確信することはできない」(p. 401)点で特異な人文科学である。 他方で精神分析と文化人類学は人間固有のものに関わるのではなく、人間外部の書限界を構成する物を対象とし、人間をなしですますことさえできる。これらは人間を解消し、人間の実定性を醸成するものへと遡っていく。 ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』(1979/1989) ・時間的非対称性と死が持つ悪の本質 死が悪であるのは、死によって失われる生きられたはずの時間、可能性を奪うから。だから生まれる前を恐れることはない。しかし、「死を可能性の剥奪と見なす分析によっては、死が悪であることの説明から何か本質的なものが欠落してしまうのではないかと、私は感じている。……将来の見通しとしての永遠の無には、可能性の否定という観点からの分析ではとらえられない何かがある」(p. 16)。 ・信念と行為を支えるもの 「信念と行為においてわれわれを支えているものは、理由や正当化ではなく、もっと根本的な何かである――というのも、理由が尽き果てたことを納得した後でさえ、われわれはこれまでと同様にやっていくからである。もしわれわれが理由に完全な信頼を寄せようと努め、それを強力に推し進めたならば、われわれの人生や信念は崩壊してしまうだろう――それは、世界や人生を自明視する惰性的な力が、何かのしかたで失われたときに実際に起こりうる、狂気の一形態である。もしわれわれがそうした惰性的な力を手放してしまったならば、理性の力によってそれを取り戻すことは不可能であろう」(p. 33-34)。この段落の一つ目の文にヒュームの理性による無力と気晴らしの力について述べる一節が注として付されている。 ・発展と歴史性に関する倫理学と科学のアナロジー 「どんな時代でも、陳腐になってしまった倫理的事象には、それ以前の時代には画期的な発見であったかもしれない諸理念が含まれている。これは、自由、平等、民主主義といった近代的諸概念に関して妥当することであり、またわれわれは、現代のわれわれには全く知られていないだろうが、二百年もすればおそらく一般的な道徳的感性となるであろうものを生み出しうる倫理的論争のまっただ中にいるのである。……われわれが、一つの種として、生物学的源泉をもつかもしれない特定の原始的な直観や反省から出発している、ということは前提されている。しかし、われわれはまた、太古の昔から、こうした前反省的な諸反応を評価したり、体系化したり、拡張したり、場合によっては拒絶したりすることを可能にする、批判的能力を持っていた。われわれは、触覚や視覚によって大きさや重さを見積もる代わりに、測定機器を発明した。また、数量を当て推量する代わりに、数学的推理を発展させた。われわれは感覚に直接由来する物理的世界という考え方に固執する代わりに、絶えず前進的に問いを発し続け、その問いへの回答として、現象から次第にかけ離れていく、物理的実在という像をうみ出す方法を発展させてきたのである。われわれが、一つの種として、数や世界に関するいくつかの前反省的な直観的信念を持たなかったならば、これらのうちのいずれも成しえなかったであろう。……進歩を動機づけてきたのは、さらに発見すべきことが常に存在するという考えと、われわれの現時点での直観あるいは理解は、その時代としては賞賛すべきものであっても、永遠に続く発展プロセスにおける一つの段階にすぎないという考えであった。 この考え方を倫理学に適用する際に、われわれは、倫理学は信念のみならず、行為も統制するように意図されている、という違いを考慮に入れなければならない。……倫理学は、世界がいかにあるかに関する前反省的な考え方から出発するのではなく、何をすべきか、いかに生きるべきか、他者をいかに扱うべきか、に関する前反省的な考え方から出発する。そしてその進歩は、こうした衝動が、吟味や成文化や異論や批判などにさらされることによって、成し遂げられるのである。……そして、より以前の時代の進歩は、それ以降の時代の人々による社会化の一部となり、今度は彼らの中の誰かが前進させる番に回りうるのだ」(p. 224-227)。 ・物理主義的還元の困難 「われわれはここで、心理的なものを物理的なものに還元する際の一般的な困難に直面しているように見える。他の領域では、事物の本性をより正確に知ることを求めて、客観性の増大する方向へ移動することである。それは、探求対象へ向かうに際して、個人的なあるいは種に固有の視点への依存度を減らすことによって実現される。われわれは、もはや対象が我々の感覚器官に与える印象によってではなく、対象の与えるより一般的な効果や、人間の感覚器官以外のものが発見できるような性質によって、その対象を記述するのである。特殊人間的な視点への依存度が減るにつれて、我々の記述は客観性を増す。……経験それ自体は、しかし、このパターンに当てはまるとは思えない。外見から実在への移行という考えは、ここでは意味を失うように思われる。体験の場合に、同じ現象のより客観的な理解を求めて、それへ向かう最初の主観的な視点をすて、より客観的な別の視点をとる、といったパターンに相当するものは、いったい何だろうか。……体験の主観的な性格は一つの視点からしか従前に把握されない以上、客観性の増す方向への移行――すなわち、特殊な視点への結びつきが減る方向への移行――は、現象の本性へ近づくことにはならず、むしろそこから遠ざかることになるのである。……還元は、還元されるべきものから種に固有の視点が排除される場合にしか、成功しないのである」(p. 271-273)。 ・そもそも物理主義は何を言いたいのかが不分明 「何はともあれ、物理主義の意味は十分に明快であって、それは要するに、心の状態は身体の状態であり、心的事象は物理的事象である、という主張なのだ、と言われるかもしれない。なるほどわれわれにはどの物理的事象が心的事象なのかはまだわからないが、それは仮説の理解を妨げはしない、と。何が『である』という語よりも明快であり得ようか、というわけである。 しかしながら、私の信ずるところでは、まさにこの『である』という語の見かけ上の軽快さこそが曲者なのである。通常、XはYであると言われる場合、われわれはそれがどのようにして真理であるとされるのかを知っている。だが、それは概念的・理論的な背景のおかげなのであって、『である』だけでことがむすわけではないのだ。われわれは『X』と『Y』の両者が提示作用を行うしかたとそれによって提示される対象の種類を知っており、また、二つの指示経路がどのようにして単一の事物――それが物、人、過程、事象、等の何であろうと――へ収束しうるのかに関しても、大体のところは知っている。しかし、同定される二つの項がまったく異種のものである場合、そのような条件がどのようにして整えられるのかは、必ずしもはっきりしているとは言えない。……その理論的な枠組みを欠くところでは、同定には神秘的な外見がまとわりつくことになろう。…… 現代における物理主義の身分は、かりにソクラテス以前の哲学者が物質はエネルギーであると主張したとすれば、その主張が持っていたであろう身分に類似している。われわれは、物理主義がどのようにして真理でありうるのかに関して、見当をつけることもできない。心的事象は物理的事象であるという仮説を理解するためには、『である』という語の理解以上のものが必要なのだが、心的述語と物理的述語がどうして同じ事物を指示しうるのかについての説明はなく、他の分野における理論的同一性とのアナロジーによる説明は成功していない」(p. 274-275)。 ・心と脳の関係はなぜ偶然的に見えるのか? それは別の想像力によってそれぞれを想像するから。「物理的な性質は知覚的に想像され、心的な性質は共感的に想像される以上、われわれがどのような体験も脳状態と結びつくことなしに生起するのを想像しうることは明らかであり、逆もまた真である。脳の状態と心の状態との関係は、それぞれを想像する際の想像力の型がまったく独立したものであるために、たとえ必然的な関係であるとしても、偶然的な関係に見えるであろう」(p. 281-282)。 ・物心の相関関係と必然性 物理的状態Pと心的状態Mとの間に随伴があるという「相関関係という見方においては、MがPによって因果的に説明されるにはそれで十分であるはずだが、因果作用というより強力な見方に立てば、それでは不十分なのである。より強力な見方は、Pがなんらかの仕方でMを必然化することを要求する。しかし、このような複雑な水準では、いかなる必然的結合も発見されえない。……物理的有機体において心的状態がどのようにして必然的に現れるか、を説明することへの要求は、心的状態と物理的な脳状態の間の斉一的な相関関係を発見することによっては、満たされえない。もっとも、心理-物理的法則は伝統的にこのように理解されてきたのではあるが。そうではなく、システムの心的諸属性がそこから必然的に出て来るような、構成要素の内在的な諸属性が発見されなければならない。これは達成不可能であるかもしれない。しかし、もし心的現象に因果的説明があるならば、そうした内在的諸属性が存在しなければならないのだ。そして、それらは物理的なものではないだろう」(p. 291-293)。 ・汎心論のための四つの前提 1. 物質的合成:有機体は物質から合成され、「物質以外のいかなる構成要素も必要とされ」ない(p. 284)。 2. 非還元主義:有機体の心的諸状態は物理的属性のみによってその存在は必然化されない。 3. 実在論:「心的諸状態はその有機体の属性である」(p. 284)。 4. 非創発:「複雑なシステムのもつすべての属性――他のものとの関係は除く――は、システムの構成要素の諸属性と、それらがそのように結合している場合に及ぼしあう影響とから派生する」(p. 284-285)。 汎心論は以上四つの前提から帰結するが、「この議論の諸前提のどれか一つでも否定されることによって回避されうる」(p. 302)。1の否定は二元論に帰着する。というのも、おそらく、1の否定はつまるところ、有機体の構成要素に心的なものを認めることであるから。こうなれば、物心の因果関係を説明しなければならなくなる。さらに、「(a)心身の結合は純粋な相関関係であり、必然的ではない。(b)身体な、魂における心的影響と身体へと魂の影響とを必然化するような諸属性を持っている。(c)魂は身体から影響を及ぼされうるような属性を持ち、身体は逆に魂から影響を及ぼされうるような属性を持っている」(p. 302)ことになる。(a)の場合、「物心の相関関係と必然性」のメモで述べたような問題が起こり、(b)の場合、身体は非物質的諸属性を持つことになり(そして多分これは二元論に抵触する)、(c)の場合、魂は物質的諸属性を持っていることになる(多分、これもまた(b)と同様二元論に抵触する)。 2の否定は還元によって心身問題の消滅を志向するものであるが、「その種の還元主義はどれも、それ自体としての説得力をもつものではない」(p. 303)。もっともネーゲル自身は明らかに反還元主義者ではあるが。 3の否定については「心的状態とは?」のメモを参照。 4の否定は「複雑な有機体的状態を心的状態と結合させる還元不可能な偶然的法則が存在するということの容認を含んでいる」(p. 303)。この点についてはよく分からなかったので、気になればp. 289-293を読み返してもいい。 ・心的状態とは? 「私は心的状態について選択可能な三つの解釈への不満を述べた。それは身体の状態であるという解釈、それは魂の状態であるという解釈、それの本質に関して語りうることはそれの帰属の基準あるいは条件を与えることだけであるという解釈、の三つである」(p. 301)。一つ目の解釈は主観的なものは客観的アプローチでは捉えられないということ(p. 293-295)、二つ目の解釈は魂があるとしても「それが観点を持ちうるのはいかにしてかということを理解することにも、まったく同じ程度の困難があるから」(p. 296)不満が残り、三つ目の解釈は、正直よく理解できなかった(p. 296-300)。それはともかくp. 301に戻れば、「しかし、何が残されているだろうか。もし心的状態が世界内の何ものかの実在的状態であるならば、もしそれが生き物の身体の中で起こっていることに依存しているならば、もしそれが刺激や行動と密接に結びついているならば、そしてもし生き物が身体プラス他の何ものかから構成されてはいないのならば、経験は有機体の状態以外の何でありうるだろうか。われわれが心的状態に関する広義の実在論を受け入れるならば、汎心論を擁護する議論の前提を形成する、より特殊な意味での〈実在論〉を避けることは、きわめて困難である」(p. 301-302)。この〈実在論〉とは「心的諸状態はその有機体の属性である」(p. 284)ということ。 ・主観的観点と客観的観点のギャップ 「実在性を認めるに先立って、どんなものに対しても客観的説明を求めようとする傾向が存在する。だが多くの場合、より主観的な観点に現れてくるものは、そのような仕方では説明されえない。それゆえ、世界の客観的なとらえ方は不完全であるのか、あるいは主観的な観点が拒絶されるべき幻想を含むのか、いずれかなのである」(p. 306)。これらの対立する観点は異質な観点ではなく程度の差であり、「存在するのは二極性なのである」(p. 320)。 例1. 人生の無意味さについては、主観的観点からすれば「生とは内側から生きられるものであり、意義に関する議論が意義を持つのは、それが内側から立てられうる場合だけである。それゆえ、私の人生の外側から見て私の人生に重要性がないということは、重要性のないことがらなのである」(p. 307)。となる一方で、客観的観点、つまり「人間のもつ特殊なあるいは一般的な目的から離れて人生を考察する立場から……人々は自分がまったく重要性をもたなくなるような広大な観点をも受け入れることができるにも関わらず、行為において自分の人生に大いなる重要性を認めているように見える」(p. 307)。例えば、自分の行為は100万年後には全く無意味であろうし、このことは「自分がまったく重要性をもたなくなるような広大な観点」つまり客観的観点からは見て取ることができる。 例2. 自由意志の問題において、客観的観点で「ある行為が他の出来事と因果的に結びついた出来事と見なされるとき、その画像の中には誰かがそれをするということの余地が残らない」(p. 308)。しかし、これでは「行為者が行為の源泉としての自分自身についてもつ観念」(p. 310)を捉えられないし、行為主体への行為の帰属もまたできなくなる。 例3. 人格とその同一性。「この問題は、時点において分離された二つの経験的なエピソードが単一の人格に属するとされるとき、そのために不可欠な条件の探求という形で提出されることが多い」(p. 311)。しかし、ここではこの時点を越えた人格に、何がその経験、「不可欠な条件」を帰属させるのか、帰属されるところの自我の同一性は手つかずになっている。おそらくネーゲルが言いたいことは、「しかじかの条件が満たされれば人格は同一だ」とは言われるが、条件や経験が帰属させられる前の人格はどうなっているのか、つまりどうやって条件や経験は帰属させられるのか、帰属させられる前は同一と言えるのか、ということだろうか。この解釈の根拠としては以下の二つが挙げられる。「物理的であれ心的であれ、人格が世界内の存在者として見られている場合には、真の問題は存在しないように思われる。そのような存在者は、時間を通して持続しかつ変化するが、人格とはその存在者が記述される際に使わざるをえない表現なのである」(p. 312)。「あらゆる外的条件から全く独立に、『この自我と同じ自我』について語ることには、意味がないのかもしれない。しかし、人格の同一性の問題を引き起こすのは、やはり人格という内的な観念である。時間を通して持続する世界内にある一種の事物として、人格をとられようとする試みは、いずれにせよこの障害に突き当たることになる」(p. 313)。とはいえ、以上の解釈にはあまり自信がないので、気になった時に調べてみてもいい。 例4. 心身問題。これについては他のところでも読んだし一応のメモも取っているので、示唆的なフレーズを引用するに留める。「自由意志の問題を設定する際に、決定論が外在性と客観性の代理をつとめたのと同様、心身問題を設定するに際しては、物理的なものが客観的なものの代理をつとめることになる」(p. 314)。「同時に、人格が(それに関するすべてのものとともに)客観的実在の一部でなければならないと言う考え方は、強い訴える力をもち続けている。客観性が実在性と結びつくのは自然である。どのようなものも、実在的なものとして性格づけられるためには、客観的世界の内に位置づけられねばならない、と感じること、そして、そのものは――物理的であろうとあるまいと――非人格的かつ外的に見られうるある性格を、その本性として持っていなければならない、と感じること、これは容易なことなのである」(p. 315)。 例5. 倫理的なもので、功利主義などの帰結主義的見解と義務論のような行為者中心的見解との間の対立。前者は「為すべき正しいことは、可能な限り自分を永遠の相の下で最前の事態を実現するための手段とすることなのである」(p. 318)とするが、後者においてはそうではなく、「何を為すべきかの決定において何が最善の結果をもたらすかを考えるための場所ははっきりしておらず、それは行為者中心的な選択とその根拠の分析によって確定されなければならない」(p. 318)。 「したがって本当の問題は、世界を見る二つの見方の、行為に関する相対的優先にある。一方には、決定は究極的には外的な観点――当人が他の人々の中の一人の人物としての意味しかもたない観点――から吟味されるべきだとする立場がある。その場合、問題は『何が最善〔の結果をもたらす〕か? 私の力の範囲内にある諸行為内のどれを選べば、自分の立場から事態を非個人的に考慮した場合、最大の善をなしうることになるのか?』ということになる。この観点はより包括的であることによって優先権を主張する。……他方には次のような立場がある。行為者は彼の置かれている場所から自分の人生を生きるのだから、たとえ彼が自分の状況の非個人的な見解を手に入れようと努めたとしても、そのような超然とした態度から得られるどのような洞察も、決定や行為に影響を与えうる以前に、個人的な見方の一部になっている必要がある、とする立場である。……人生とはつねに特定の個人の人生で当て、永遠の相の下にそれを生きることはできないからである」(p. 319)。この対立の根はどこにあるのかというと、「この対立は、二つの観点のそれぞれが他方を包含することによって優越性を主張するのだから、決着がつかないようにみえる。非個人的な観点は、個人や彼の個人的な見方を含んだ世界を包含している。他方、個人的な観点は、非個人的な反省の表明を個人の全体的な世界観の一部としか見ないのである」(p. 319)。 ・客観的な観点の極はどこでもない場所からの眺めである 「客観的観点をとろうと試みることは、世界の中のある場所からではなく、特定のどこでもない場所から、特定のいかなる生活形式でもないものから、世界を眺めることなのである。その目的は、事物をわれわれにそう見えさせている前反省的な外見の諸特徴を値引きし、そのことによって事物の真のあり方の理解へと到達することである。われわれは、すべての事物は何らかの観点にとってではなく、それ自体において何かでなければならない、という仮定の重圧の下で、主観的なものから離れていくのである」(p. 321-322)。「それゆえ、科学的測定はわれわれと世界の間に、それと世界との相互作用が人間的な感覚を共有しない生物によっても看取可能であるような器械を介在させるのである。客観性は、個人的な観点から離脱するだけではなく、可能な限り、特殊人間的な観点から、あるいは哺乳類的観点からさえも離脱することを、要求する。すなわち、人間が自分の位置や形態に特有のものへの依存度を減じてゆくとき、なおもある見方を保持しうるとすれば、その見方は実在により忠実であろう、と考えるわけである。……ものごとの真の姿は、ここから見える姿ではありりえないのと同様に、また人間に自然に見えてくる姿でもありえないのだ」(p. 323-324)。 ・主観的観点と客観的観点との困難を回避する方法 「もし、すべての実在するものは客観的に記述されなければならない、と主張するのであれば」(p. 326)とりうる道は還元、排除、併合の三つがある。「還元」は「客観的な解釈の下に収容することによって、可能な限り現象を救おうと試みること」(p. 326)であり(心を行動に還元する行動主義がこの典型であろう)、「排除」は「還元に信憑性がないようにみえるような場合には、主観的な観点の救出を幻想であるとして……退けること」(p. 326)である(おそらくこのやり方の典型は論理経験主義の検証理論であろう)。三つ目の併合は「この扱いにくい要素を包含する目的のために、客観的実在の新しい要素を考案すること」(p. 326)である(蓋し、バークリが誰も知覚していない時のものの実在性を担保するために神の知覚を持ち出した、というのがこの例だろうか)。 以上は客観寄りの解決策だが、「これらの不十分な措置にかわる唯一のとりうる道は、飽くことなき客観性への欲求に抵抗し、次のように考えるのをやめる道、すなわち、世界とその中でのわれわれの立場の理解が前進してゆくのは、その立場から離脱することによってであり、その立場から見えるもののすべてを単一の寄り包括的な概念構成の下へ包摂することによってである、と考えるのをやめる道である。……おそらく、実在性は客観的実在性と同一視されるべきではないのである。問題は、原理的に包含不可能な主観的要素を包含していないからといって、客観性の欠陥を指摘することではなく、なぜ客観性が理解の包括的な理想として不十分なのかを説明することである」(p. 328)。 ・主観的観点と客観的観点との間に困難が生じるのか 「問題が起こるのは、同じ個人が両方の観点を持つからである」(p. 323)。 「問題が起こるのは、客観的な見方が、それでは説明のできない、主観的に現れる何かに出会うときである。そのとき、客観的な見方の包括性要求は脅威にさらされることになる。包括不可能な要素は、事実であっても価値であってもよい。人格の同一性や心身関係の問題が起こるのは、主観的に明らかな自己に関する諸事実が、人がより客観的な観点に上昇するにつれて、消滅するように思われるからである。……」(p., 325)。 「……自由意志、人格の同一性、行為者中心的な道徳性、心身関係といった哲学的諸問題……これらの諸問題は、それが存在すること事態が主観的観点に依存しており、主観的観点を離れては論じようがない」(p. 330)。 哲学的認識のために (1988) 1章 本書のテーマは、哲学はいかにして認識たりうるのかを示すこと。 同じ「認識」ではあっても哲学は科学ではない。科学は要素を計算に用いる「現象の抽象的モデル」を構成しようとするが、これは哲学の仕事ではない。 芸術は「感覚的支えから分離不可能な創造」を目指す一方で哲学本来の企ては「言語を用いて諸概念を直接的に生み出す」ことであり(数学の場合のように、抽象的な概念)、哲学は芸術ではない。 哲学には進歩と言えそうな面は乏しいが、科学的認識、科学の成果の取り込みが哲学的進歩に関わる(思うに科学の進歩の成果を取り込み、哲学の仕事に活かす、ということであろうか)。 第2章 哲学的認識の特徴を検討するにあたりまず「認識とは何か?」という問に認識の多様な様態を分析することで答えを与えるが、まず認識の模範としての感覚的認識を検討する。そのために経験主義を検討する。その際の指針は26-3-6〜l2となる。 ラッセルの場合。超越論的なる者の追放、すなわち「感覚的質であるものをモデルにして、認識の最終的内容の本性を認識し限定すること、可能的な形式内容の観念にまったく意味を認めないこと」28-2。このために心理的な感覚意識から感覚所与の客観的内容(センシビリア)を区別し、この内容をラッセルは「特殊」と称する。しかしこれは客観的内容でありながら言語的記号の知覚的代替物であるため、特殊でありながら普遍であるのではないかという危惧がある。 さらに感覚物を内容として特徴づけるならば、知覚から科学へ移行するためには「特殊」の質を全体へと移行、つまり一般化する必要が、ひいては帰納の原理を導入する必要がある。「経験主義の〜見られる」31-3-1。そして「また経験主義運動は〜達成される」32-1-1〜2。つまるところラッセルの経験主義は「超越論的と考えられそうな活動をすべて論理の地平に移すものである」34-1 カルナップは超越論的なものを論理と、さらには経験的内容を持たない空虚なもの、ある程度恣意的なものとみなす点でラッセルよりラディカルである。 ラッセルでは論理は存在論的節約の原理による制限を受ける。また彼は論理学と心理学とを区別しつつも「記述の完全さ〜ないからである」39-l1-l5〜l3。 ラッセル哲学についてのまとめが52-3。 論理と宇宙の秩序とは相関物ではないという経験主義の性格は「形式内容」は認識に含まれないともいえ、ここから「言語は形式全体の唯一の保管者である」ことが帰結する(54|)。ここから2つの帰結がもたらされる。一つは形式の明確化のためには形式的言語や概念文字の確立こそ哲学の本質的任務だという考え。第二の帰結は、「言語的命題の純粋形式はトートロジーにすぎない…これを逃れるためには、経験主義は形式内容という概念を密かに導入する妥協を何らかの形で受け入れねばならない」。カルナップの帰納論理の企てはこの一例で、帰納的世速の合理化を独自の規則として含む言語を彼は構成しようとし、現に大数の法則が帰納論理の定理から導き出された。つまり予測的認識の公理が文法規則として言語の中に組み込まれ、論理がトートロジー以上の形式内容を含むようにされた。 この章の結論69-2。 第4章 この章の目的は質的認識の正当性、質的認識と量的認識は存在論的ではなく認識論的な区別ということを示すこと。 質的認識は差異の観念の指示、形の概念の指示という2つの意味がある。 第5章 科学を可能ならしめ、科学を統一せしめるのは対象の単一性ではなく、モデルにより科学的認識は対象の顕著な諸側面を明らかにする。 疑似科学であるイデオロギーは神話を作り、科学はモデルを作る。体験を解釈しつつも概念化しないという点で擬似哲学である。 第6章 哲学的概念はメタ概念であり、これは自然的概念の意味作用の発見を通して、つまりそれらを統合する組織の構築を通じて、自然的概念について語らんとする言語に支えを提供するという働きを持つ。 哲学的概念が指示するのは経験内の分割された個々の対象ではなく、経験全体である。哲学の操作分節は科学的思考のように判明な対象ではなく、「実態」「偶有性」「存在」「実存」「概念」「直観」がそうであるように体験の全体を相関項とし、体験の統一性を明らかにすることを働きとする。これが哲学的概念を特徴づける「対象のない概念」という館考えである。 第7章 哲学は記号体系がどの点で、またいかにして経験であるとともに経験を表象(現実の象形と代理)するかを説明することに専ら関わる。 第8章 哲学的論証ではその中の分析的な装置とレトリック的な装置(分析論とレトリック)は分離できない。レトリックは「効果を目的とする言説の組織化」(234)であり、直接的な効果と間接的な効果のそれぞれを実現する2つの様態がある。直接的な効果はたとえば言説の意味を受け手に理解させること、間接的な効果は情緒的性格であれ認識の喚起、連想による思考の方向づけなど「受け手の中に一定の傾向を生み出し、これによってもう一つの効果の発生を援護ないし誘発する」(234)。後者の例としては、(1)「言語的状況の構造化」、即ち対話(篇)を用い〕中心的人物たちの各立場の心理的展開によって、次元の異なる哲学的思考の働きそのものを形づくること」(236)、(2)「意味の単位の構造化」、たとえばウィトゲンシュタインがしたように類似という隠喩の機能により「類似と差異によってわれわれの言語の諸関係に光を投じ」ること、(3)「コード操作」ないし日常言語のトーンの変調で想像力を刺激して普通とは「違ったやり方、すなわち、反省的で注意深い精神の眼で、事物を互いに比較しつつ知覚する」(240)。 第10章 哲学における原理的言明はシステムにおいては文法、規則としての機能を有する。哲学的原理は科学における組織化に関わるカテゴリーや原理の構築を方向づけるという仕方で科学に介入できる。内容を触発するのではなく、有効な定式化を触発する。 Stein, ‘Was Carnap entirely wrong, after all?’(1992) この論文の主題は(1)クワインの批判の妥当性の検証、(2)カルナップの立場の弱点と強み、(3)カルナップの哲学の性格について(p. 275)。 ・二つのドグマ クワインは二つドグマは「個別の文の真理における言語的要素と事実的要素」の見かけ上の区別という一つの値を持つと述べている。ところで彼は「Carnap and Logical Truth」(Philosophy of Rudolf Carnap所収)の中で「すでに基礎的論理学の明白性(あるいは潜在的な明白性)は基礎的論理における真理の言語的理論に対して何らかの『経験的意味』の割り当てにあたって乗り越えられない障害を提示するように見られうる」(p. 389)と述べている。スタインはこの「経験的意味」はクワインの還元主義のドグマの排除にあたってどのように理解すべきかという問いを提起する。この語は事実の問題(matter of fact)についてのクワインの考えによって答えられるものであり、ギブソンによればこの語をクワインは認識論的というよりもむしろ自然主義的、物理主義的な意味合いで用いており、さらに探求の存在論的な段階に属しているという。存在論、つまり何があるのかは真理の問題である。「ギブソンの議論の脈絡は、事実の問題などない――そしてギブソンはクワインの物理主義の見解の下での『非物理的な事実の問題』を述べている――というクワインの理論を意味の同一性の主張へと翻訳することにある。つまり、彼が『論理的真理の言語的理論』(しかしカルナップは『意味に基づく真理』の問題と呼ぶのを好んでいる)と呼ぶものは物理的世界について何らかのことを述べるものとして解釈されえないというのがクワインの要点だと思われる。〔改行〕クワインの意図することがこの通りだとすれば、彼がそのことを性格に述べていないことは確実である。なるほど彼の『乗り越えられない障害』は経験に基づき非物理的な意味のカルナップの理論への割り当てである。それは確実に存在論的関心というよりはむしろ方法論的な関心を主張している」(p. 276)。 ・存在論 1951年のシカゴ大学での哲学科の分会でクワインが読み上げた論文(一部が「On Carnap's View on Ontology」に含まれる)では、クワイン言うところの「カテゴリー的問題」と「サブクラスの問題」との間の区別(スタインの見るところこれは内部/外部問題の区別だった)は根拠がなく不必要なものだと論じられた。この時、分析的と総合的の区別は最早カルナップの哲学には扶養だと考えたクワインはこれによってカルナップを説得したいと望んでいた。ここでの話は「カテゴリー的問題」と「サブクラスの問題」との間の区別までだが、クワインの述べるこの区別の否定は分析的と総合的の区別の否定へと続くものであったが、このさらなる展開は「二つのドグマ」論文まで差し控えられた。 1951年にスタインが目撃したカルナップの話の中で、カルナップは(事実に関する命題と分析的命題の)連続性は認めつつも言語構成の重要性は譲らなかった。「クワインと私には確かに違いがあるが、それは事実の問題についてのものでなければ認知的内容の問題でもなく、むしろ以下のような科学にとって最も実りある方針についての我々それぞれの判断についてだ。クワインは科学的思考と日常生活の間の――科学的言語と日常的談話の言語の間の――連続性に強い印象を受けている。私はその連続性には賛同するし、それどころか明晰性と実り豊かさにおける非常に重要な利益はそういった形式的に構成された言語の導入から得られるはずだ。この違いは意見の違いではなく、それは(私の言い回しでは)認知的内容の問題に関係していないという事実にもかかわらず、一種の合理的解決に原則的に必須なものである。私の見解では、両プログラム――形式化された言語に関わる私のもの、言語のより流動的で日常的な用法についてのクワインのもの――は追求されて然るべきである。そして私は、言ってみればもしクワインと私が200年ほど生きていれば、我々の時の最後には二つのプログラムがより成功することを証明したことについて合意することがあり得ると考えている」(p. 279)。 「カルナップ哲学の適切な判定(assessment)は、まず彼のプログラムの全般的な性質を理解することを要求している。そこからそのプログラム内部での特定の提案、より一般的なアウトラインの評価(evaluation)の問題が起こる」(p. 279-280)。「プログラムの全般的な性質」の理解とは(あまり理解できている自信はないが)、要するにそれが「解明」であることを理解することだろう。次が「評価」の問題。その「評価」とはその概念が枠組み内部で果たす役割についてのもの、うまく解明できているかどうかの話。カルナップの外部問題と内部問題の区別は、「一般的に解明のプロセスへの明らかな効用を持つ」(p. 280)。解明項は形式化された談話、即ち「枠組み」に属する者であるのに対し、被解明項は枠組みの外の談話に属する。「したがって被解明項に対する解明項の関係についての『何らかの』問題は『外部問題』である。とりわけこれはその解明項が十分であるかどうか、すなわちその解明項が何らかの適切な意味、枠組み内部で(言ってみれば)被解明項によって『前体系的に』果たされている機能を完全に表現しているかかという問題において成り立つ」(p. 280)。 ・「分析性」の被解明項が自然言語にあるかと、道具としての有用性如何という二つの問いがカルナップとクワイン両者がそれぞれの立場から区別されなかったこと 経験的意味論への関心の下でクワインは自然言語には「分析性」の被解明項となるような前体系的な概念はないと論じた。カルナップは『ルドルフ・カルナップの哲学』での応答において「自然言語に関しての内包的概念の経験的規準は与えうる」としてこの挑戦を受けたが、スタインが言うにはここでは二つの別の問いが区別されないままになっている。一つはそういった概念が日常言語に埋め込まれているのか、ひいては「解明にあたっての被解明項としての役割を果たす『意味に基づいた真理』の『日常的』概念」(p. 282)があるのかという問い、もう一つはそういった概念は理論家のテクニカルな道具立ての一部として有用に導入されうるのかどうかという問いである。これらへの問いへの答えはクワインとカルナップの立場の間で一般的な違いを生み出すわけではないが、スタインが言うにはカルナップはクワインの挑戦を受けるにあたってこの二つの問いの違いを十分に明らかにし損なっており、彼の科学的/哲学的解明のプログラムは自然言語についての問いとから独立している。とはいえこれは分析性と総合性についてのカルナップの区別が正しいと言うことではない。 ・意味公準の目的 カルナップが「意味公準」を書いたのはクワインによる自然言語における同義性への攻撃に触発されたものだと考えられており、この中でカルナップは論理的真理と分析的真理(あるいは「意味に基づいた真理」)を区別した。後者のほうがより広い概念で、前者は後者に包含される。また、この論文内でカルナップは解明は自然言語ではなく意味論的言語体系を対象するものであって自然言語における概念の解明とは全く異なった性格を持つと述べている。これに対してクワインは「カルナップと論理的真理」の中で意味公準というラベルの意味は明らかではないと述べているが、より以前の「二つのドグマ」では「彼〔カルナップ〕の状態記述を備えた単純化されたモデル言語は第一に分析性の問題を一般的に狙っている、確率と帰納の明晰化という他の目的を狙っている」と述べている。思うに、ここでクワインはカルナップの主題が自然言語ではないということを理解している節がある。 晩年のカルナップは初期に持っていた「全ての科学にとって十分な単一の永遠的な言語の構成の希望」を放棄した。『世界の論理的構成』の中での代替できる基礎を持つ代替できる言語についての探求、代替性への開放性は『論理的構文論』では言語の論理的・数学的強さへの開放性と並んで「寛容の原理」の形で公式のものとなった。 「言語的ないし理論的枠組みは世界にとっての可能性の独特な集合を予期させる。事実上、代替的な枠組みは可能性の代替的な観念の決定権を持つものである。この可能性の集合は言語的存在者、すなわち最大限の強さの諸文(論理的な矛盾を除く)である『状態記述』の外観を取ってカルナップの初期の意味論に関する仕事で現れる。ケメニーの影響下で、そして彼の論理的可能性の発展しつつある理論にとっての特別な関心により、カルナップはこの形式的な観念を、可能な状態の『存在論的』観念と我々が適切に呼んでいるもので置き換えた。この観念の用語では、ある文の意味論的内容はまさに両立可能(そこでは真であろう)な可能な状態の集合、むしろその論理的強さとして目下の集合によって特徴付けられることができる。このような「可能なもの」(the possible)の観念をクワインは受け入れないであろうが、もしも彼がこれに賛同すれば「クワインを悩まさせてきたであろう点に対する愉快な適用」(p. 286)となる。クワインはシルプ編の『W・V・クワインの哲学』でパトナムが提出した「意味の一般的観念のクワインによる却下に触れつつ、いかにしてクワインは(たとえば)意味が存在するかどうかにする『事態の事実』〔fact of matter〕はないと整合的に考えられるのかと尋ねた」の挑戦を受けた。しかしクワインは「すでに述べたとおり、意味〔この語は複数形〕の存在は同義性以上の問題を提示せず、これら〔意味の存在の問題と同義性の問題〕は等値のクラスにとして受け取られることができる。同義性の一般的な意味を作ることを私は絶望視しているので、ひょっとしたらパトナムは私がこの事態の事実を作らずそうしない点で正しいと正しく考えているのかも知れない」(原文ではp. 430)とあしらった。そしてクワインはこう続ける。「かつてドレーベンが私に関係しているがより挑戦的な質問をしてきた。それは数学的な事態はいないのか?というものだ。カルナップとは違って私にとって数学は世界についての我々の体系に必須である。その経験的な支持は実在的だが離れており、数学が道具として役立つ経験的に支持された自然科学によって媒介されている。この点に関して私は数学に事態の事実を認めるに違いない。しかしドレーベンが尋ねるに、どうやってこれは微少な状態の分布に関わっているのか? 代々の素数は微視的状態の分布とどんな関係があるのか?〔改行〕『最大の素数がある』というL-偽な前件を持つ事実に背かない仮定文がここにあり、これからは帰結としてどんなことでも無意味に導出されるとカルナップは述べてきた。その方法は私には慣れ親しんだものだが、多いに怪しい前件を持つ内包的な仮定文のうまい処理はないと私はまだ抵抗できる。事態の事実について私の提案した規準はむしろ具体的な状況を目指しており、我々がどんどん動くほど次第に薄くなる。かくして明らかにその結果は、事実的なものと数学的なものはカルナップ同様私にとっても別々のものだが、私にとってはカルナップとは違ってその分離は原理の問題ではなく事実の問題である、ということである」。スタインは事実的なものと数学的なものの分離が「原理の問題ではなく事実の問題」だというのには疑義を呈している。 ・語用論がカルナップに触れられなかったわけはその役割の限定性にある スタインが引くギブソンの言によれば、意味論は「方法論」や「認識論」ではなく「存在論」に関わる。確かにカルナップの言語理論の三区分のうち構文論は言語的存在(だけ)に関わり、意味論は言語的存在とそれが支持するものとの関係に関わり、語用論は「とりわけ言語の条件と使用の様式を含む、言語の全ての側面に関わり」(p. 287)、一見して方法論と認識論が語用論に含まれるように見える。しかし、意味論がもっぱら存在論に関わり語用論が方法論や認識論に関わっていたというのは以下の二つの理由から曖昧である。まず、語用論には体系的な基礎になるような中心的概念がなく、カルナップは「後者〔語用論の中心概念?〕を日常言語の用法の好み〔idiosyncrasies〕のようなものに関わると考えていた」(p. 287)。第二に、カルナップは「ある理論の経験的解釈はその言語の『経験的』部分の『意味論』を特定することで常に達成されることができる、と考えていた。結局、『経験的内容』の分析のこの根本的問題においては語用論の役割は言語内部でその『経験的部分』を分けるという単一の機能に制限されることだろう」(p. 288)。 しかし同時にカルナップにとって語用論は代替的な枠組みの検査や評価に関わっているようで、モリスへの返答では「とりわけ概念枠組みに関する多くの問題は哲学の最も重要な問題に属している。ここで私は、枠組みの受け入れや変化に関しての理論的研究と、実践的検討と決定の両方のこと、とりわけ全ての知識の表現に基本的なカテゴリー的概念を含む最も一般的な枠組みのことを考えている」(引用元はp. 862)と述べている。 「私はこのように言うことでこれをまとめたい、すなわちクワインにとって存在論に関わること――『事態の事実』に関するものを意味するという意味において――と認識論に関わることの区別は、カルナップにとっては枠組みの意味論と枠組みの語用論の区別として表現される、と」(p. 288)。 スタインの考えるところ、クワインは「可能な状態」(possible state)がその記述に様相を含んでいるとしてこれに異議を唱えるだろうが、スタインはクワインの見解を可能な状態抜きで物理学と両立させるやるのだろうかという疑義を挟む。「物理的体系の全ての状態の空間の概念は古典物理学の多くに、そして量子物理学の全てにおいて中心的であるが、『全ての状態』は無論全ての可能な状態を意味している」(p. 288-289)。「ここでの彼らの間の相違点は、カルナップは新しい(alternative)枠組みを、新しい理論のために、可能なものの範囲の新しい存在論と新しい概念と共に考えるつもりだった一方で、クワインは存在論的な相対性を主張しつつ、にもかかわらず我々は競合する理論のどれかの範囲内で発言を行うことしかできないと考えている――つまり我々は一種の中立的な土台として役立つことができるような、意味論的そして語用論的な議論それ自体についての『枠組み』を見出すことができない」(p. 289)。クワインはギブソンへの応答の中で「我々がその中でやっていっているどんな枠組みであれ、我々にとって当座は真と見なされており、より指示の広い枠組みはない」と述べ、さらに我々の体系と宇宙人の言葉とを引き合いに出して「我々の体系は我々の光りの下では真である一方で、他方は我々の用語では意味を持つことすらない」と述べている。彼はある枠組みの範囲内でしかものを言うことができない、ある枠組みを前提とせざるを得ないと考えている。 競合する体系の経験的内容の問題、それらの体系の「経験的等値性」の判断の問題は第二のドグマ、検証原理に関わる。クワインは「自然化された認識論」の中で「認識論は常に証拠の中心にあり続け、意味は常に検証の中心にあり続けており、証拠とは検証である」と述べるなど意味を検証と同一視することを排除してはおらず、彼が(ホーリズムのもとで)反対したのは文の経験的意味というものがあるという見解である。 他方カルナップは言語の経験的内容はその観察的部分として特に区別される言語のなかの一部分言語に基づいており、言語の残りの部分は観察的サブ言語(observation sublanguage)にとの論理的関係の用語で分析できるという見解を放棄しなかった。スタインは「我々は、基本的物理学が組み入れられている理論的部分と観察的部分の間のうまく定義された論理的関係を持つ言語を全く持たない」(p. 290)としてこの見解は有効ではない(not work)と主張する。それというのも、演繹は観察から行われるものではなく、理論的に特徴付けられた状況(situation)の数学的構造の中で「図式的観察者」(多分思考実験の同情人物のようなもの)のポジションを図式的に表現し、そのような観察者が持つであろう観察について何らかの推論を行うものだからである。「例えば、通常の古典的天文学理論では、いわば、地球を含む惑星をあるときには小さな粒として、あるときには広がりを持つ物体として表現するだろうし、地球上の特定の緯度経度にいる図式的観察者を設定してその位置から検討下にあるいくつかの天体への角度を計算することで、観察者が互いに対応する角度を成す線上にある物体を見るであろうと推論することだろう。さがこれは決して観察の演繹ではない」(p. 290)。 スタインが改訂した理論では、枠組みの経験への適用の問題は語用論の問題となり、「我々が今知っていたり発展するかもしれないようなものとしての理論的物理学のための枠組みについて考えられるであろう可能性は理論それ自体の一般的な諸原理――つまり『分析的』と呼ぶのをはばかられるような諸原理によって縛られる」(p. 291)。純粋に認知的なも斧や理論的なものと実践的なものとの区別が幾分かぼやけることを含むことから、カルナップの見解のこのような発展をスタインは「弁証法的な」方向と呼ぶ。 ・カルナップとクワインの奇妙な対比 クワインは分を判定する法廷を持った還元主義に反対して「信念の蜘蛛の巣」でお馴染みの認識論的ホーリズムを主張し、形式化された言語の構成の場合ですら「立法的な」力を否定し、言語はその用法が想像されるや否や自然的に発展するに違いないと考えており、クワインの見解は科学の発展に開かれたものである。クワインの認識論的自然主義はカルナップの堅苦しい形式的構成と固定した規則への依拠と対照的に一新された緩やかな流儀としてより好意的に記述される。 スタインはこれは奇妙だと言う。(よく分からないのでとりあえず訳す)クワインに彼自身のアプローチを激励したのはカルナップ自身であり、「論点(issue)は事態の事実があることだということを否定した一方で、彼が『正しくて』カルナップが『間違っていた』と――多くの哲学者を納得させた――主張し続けたのはホーリストのクワインである。さらにもし我々が事態の事実などないと認めれば、論点そのものの性質と問題になっていることのより明確な表現法を持っていたのはカルナップである。それは枠組みの選択に関する外部問題であり、代替物の『有用性』――全ての我々の理論的知識、我々が実践的/理論的な狙いの的を射ることができるような最も明確な理解から影響を受けつつ――の検討によって決定されるべきことである。」(p. 292-293)。 『ルドルフ・カルナップの哲学』でのファイグルの論文に対してカルナップは「全ての主要な点」では同意すると述べつつ、「いくつかの修正」を主張した。スタインは、これは興味深い点であるが、あまり注目されていないと言う。ファイグルが述べた諸テーゼのうち「最初のテーゼが帰着するところは、全ての文が間主観的に確証できるような言語は『私にとって有意味』――ひいては『知る主観』にとって有意味であるようなあらゆることを表現するのに十分である、ということである。これは明らかに、長らく一つの基礎的な――ひょっとしたら当の基礎的な〔the basic〕カルナップの経験主義の教義の定式化である。第二のテーゼは、有機物、人間、人間社会に適用されるものを含む全ての自然法則は『物理法則、即ち非有機的なプロセスの表現に必要な法則』の論理的帰結であると主張する」(p. 293)(「これは、自然の『連続性』、『より高い』レベルで起こるどんな機能やプロセスも根本的あるいは基本的なレベルに根付いているという見解を主張している」(p. 294)。)。しかしこのこと自体がカルナップの言いたいことではなく、彼は「それらのテーゼはしっかりと打ち立てられた知識を表現しているのではなく、むしろ包括的な推定的仮説を表現している」と述べており、物理主義はさらなる発展を見るであろう仮説であると考えており、「経験主義者にして(ひょっとしたら)還元主義者のカルナップは最後にはドグマ主義者ではなかった――しかし情熱に燃えた1930年代はそうだったのかもれてないが」(p. 294)。 Alan. W. Richardson, ‘Science as Will and Representation’(2000) ・発見の文脈と正当化の文脈 「その区別は、それらの見解によれば、論理的経験主義者は正当化に関わっているために――形式論理学の道具立てを利用していて――形式的であると同時に論理的経験主義者たちにとっては規範的であると見えるために崩れる。しかし科学においてア・プリオリと規範的観点を用いることは尤もなことではない。さらに、発見の文脈が正当化の文脈になるような場を正確に見つけることは単純に困難である」(p. 155)。「1930年代以降のライヘンバッハとカルナップとしては、科学の論理学は歴史的に与えられた科学の価値評価に関わる予備的分野ではなく、むしろこれまでの混乱した認識論的問題を明晰化することに関わっている。……さて、論理的経験主義の発展において文脈の区別は科学哲学と科学に関する他の全ての関心との境界設定基準として働いてきたというのが真相であろう。……例えば、その分野〔哲学〕は認識論がそこから始まるような事実としての知識の『社会学的』事実によって始まるにもかかわらず、ライヘンバッハがその区別を『心理学』から哲学を峻別するのに用いていたことは興味深い」(p. 155)。 ・科学における意志的な要素と信念に関する要素という二つの区別 「『……しかし真理の観念によって支配されず、意志的な決定が原因となって全体系を作るにあたって大きな影響を及ぼすが、真理の性格には触れず、哲学の探究者たちによってあまり知られていなかったような知識の要素が存在する。したがって意志的決定の観点は知識の体系を含んでおり、それは認識論の批判的〔critical〕作業の一つの必須の部分である』。上記の最後の文はライヘンバッハの言い回しにおける『批判的』の特徴について何かしらのことを示している。認識論の批判的作業のその部分をなすのは意志的決定の価値判断ではない。むしろそれは科学の信念に関する〔doxastic〕要素とその仕事に属する意志的要素との区別の輪郭をなしている。この意味において批判的であるということは規範的ということ――科学者の行動について口出しをする余地を見出そうとすること――よりもむしろ説明に関すること――知識についての活動の本性を明らかに理解する余地を見出すことである。……これはライヘンバッハとカルナップが若い頃に吸収した新カント的な伝統における認識批判〔Erkenntniskritik〕と密接に関わっている」(p. 156)。 ・ライヘンバッハの規約に対する態度 「まず、彼はラディカルな規約主義の主張を否定しようと苦心しており、ポワンカレに荷担していた。第二に、科学におけるすべての決定は規約に関する決定ではない」(p. 157)。 ・意志決定の問題の社会学への委譲 「まだ一つさらに論じられるべき主題が残っているだろう。それは科学哲学における意志と決定についての基礎的な想念の正当性である。カルナップの理論的/実践的の区別は実践的決定の嘆願に関わっているものと同じくらいに実践的決定とは何なのかを理解するために機能する十分な事柄の欠けた決定についての発動機として見ることができる」。カルナップの意志決定についての立論は不十分なものだというわけ。「この問題を脱する一つの方法は分割においては後者の側にある知識によって科学的な領域と哲学的な領域の裂け目を判然と主張することである。しかしこれはカルナップとノイラートにとっては受け入れ難いものであるように見える。脱するもう一つの道は意志と決定は人間科学の範囲にある科学的想念であり、それゆえに科学的決定は例えば、科学の社会学の領域であると主張することであろう。そこには論理経験主義者たちにとて十分適当な意味があり、決定の科学的決定は実際のところ、社会科学のうちで探求されるであろう科学をなす」(p. 159-160)。 |