プセロス『年代記』5巻

1 私が直近の巻で何度か触れていた彼の甥が彼の帝位を継いだ。事実、ミカエルの死が近いとヨハネスと彼の兄弟たちが知り、彼の回復の見込みはもうないと本当に理解すると、彼らは皇帝の命令だと装って彼の甥を宮殿に来させるよう命じた。彼らがこのようなことをしたのは統治権を掌握できなくなるのを恐れ、帝国が他の家系の手に移らないようにするためだった。彼らは先の皇帝の死の先手を打つことすらして――私がすでに示したように――君主が死ぬために宮殿を出ると別の君主が彼の座についた。
2 先帝には三人の兄弟がいた。当時はそのうちオルファノトロフォス・ヨハネスが専ら政権の重責を担っていた。彼は他の兄弟よりもこの弟を気に入っており、ミカエルが死んでもすぐに彼のもとを離れることはなく、あたかも彼がまだ生きているかのように三日間遺体のそばにいた。一方で他の二人の存命中の兄弟は副帝である甥に宮殿まで付き添った。これは一面では彼を守って世話するためで、また一面では自分たちへのより大きな賞賛を勝ち得るためだった。ヨハネスの知力は彼らのものよりも広く深く、継承でも国家に関する事柄の面でも、彼の助けなしに規模の大きな政策を練り上げるのは彼らの能力を超えていた。このようなわけで彼らの活動は協力とうわべ上の親しさを示す程度のものとなった。ヨハネスはというと、悲しみでいっぱいだったためか、あるいはむしろミカエルの皇帝宣言がさらに遅れれば彼らの全ての希望が完全に台無しになるのではないかという見通しを立てて段々と不安になり、宮殿へと戻った。
3 私は彼の帰還を自ら目撃し、実際に何が起こったのかをこの目で見てきたので、今その話を書くことにしたい。その場面をしっかりと述べることにしよう。ヨハネスが宮殿の玄関口の敷居をまたいだことを兄弟たちが知ると、あたかも神ご自身に会うかのように彼に近づいた。かねてより儀式は準備されており、彼らは彼の周りに集まって彼に口づけを山ほど浴びせかけ、すぐに彼の体の様々なありとあらゆる箇所が口づけを受けた。あたかも彼に触れれば何か徳が手に入るかのように、彼の甥さえもたれかかろうと彼に右手を伸ばした。ごますりのおねだりに満足するとヨハネスはこれ以上騒がず彼の大計画の最初の一歩を踏み出した。皇后抜きに何もしてはならぬ、そして彼らの高貴な地位と将来の基礎を彼女に置け、彼女を味方にできそうだと見受けられることは何であれ行えと彼は彼らに説いた。
4 こうして彼らはすぐさま闘争のために一致団結した。理屈の弩砲で彼らは彼女の精神を包囲し、易々と攻め落とした。彼らは彼女にミカエルの養子縁組を思い出させ、母にして女主人の保護下にこの若者を置き、彼を彼女の足下に跪かせた。彼らは彼女にその時に適当なありとあらゆるごますりのお題目を山のように積み上げることで、自分たちの甥は名目上は皇帝でしかないと、そして称号はさておき彼女が血統の権利によって相続した権力を保有できるだろうと彼女に確信させた。もし彼女がそれを望めば、自ら国家を統治することもできるが、そうでなければ彼に命令して彼女の言いつけ通りにする奴隷のような皇帝として彼を使うことができる。彼らは厳粛な宣誓をし、聖遺物にかけて忠誠を誓った。そうして彼らは最初の一撃で彼女を自分たちの虜とした。自分が孤立無援であることに打ちひしがれて彼らの魔術にかかり、あるいはむしろ私はこう言いたいが、彼らの術策に引っかかって彼らの計略に絡め取られて、彼らの望みに転向させられてしまった彼女に実際のところ他に何ができたというのであろうか?

ミカエルの皇帝即位
5 そうして彼女は彼らに政権を委ね、彼女の決定を待ちに待ってハラハラしていたその当時の帝都に対して平和を守るよう訴えることで鎮めた。次いで副帝の即位の儀式が完了した。行列、教会への入場、総主教の祝福、戴冠とこういった折に慣例的に行われる他の全ての儀礼がこれに続いた。いずれにせよ、初日には皇帝は言葉の上であれ行動においてであれ自分の本来の立場を忘れていなかった。「女帝」、「我が女主君」、「私は彼女のしもべ」、そして「彼女の決定は何であれ行う」といった言葉を絶えず口にしていた。

6 同様のおべっかを使って彼は女帝に劣らずヨハネスをも魅了した。彼はヨハネスを「我が主君」と呼び、自分の近くに彼が座るための玉座を与えた。彼は何か話そうと望んだ時にはまずヨハネスから同意の証を得ようとし、自分は職人の手で作られた道具のようなものであり、旋律は竪琴のものではなく、これを調和させて竪琴を奏じる者のものだと言っていた。したがって皆がその男〔ヨハネス〕の知恵に驚かされ、〔意のままになる皇帝としてミカエル5世を即位させるという〕ヨハネスの計画の成功ぶりに驚嘆した。今やその男の不実さは他の人たちからは見えなくなっていたが、彼の伯父は彼〔皇帝〕の人当たりの良さは言葉の上ほど深いものではなく、彼の心の冷淡さは内奥に隠され、覆いを掛けられていたのだとよくわきまえていた。彼がヨハネスの計画を黙認すればするほどヨハネスは彼の動機に疑いを持った。彼は若い皇帝の心の空洞の深さを推し量ったが、何をどうしたものか、どうやれば彼から簡単に権力を取り上られるのか分からず、一度は確実にうまくいくと確信できた時があったものの、その時にこの希望は頓挫させられた。しかし当面のところ彼は平静を保ったが、それは決して自分が計画を放棄したからではなく、相手が主導権を握って彼を先に中傷してくるかどうかを見極めるためだった。事実、ミカエルは統治の開始時にヨハネスの面前で常々見せていた度を超した謙遜の態度を少しずつ変え始めた。時折彼は皇帝としての行動に際してヨハネスの意見を待たなくなり、わざと彼と対立してヨハネスが許容できないことが分かっていた人たちと話をした。

7 彼には伯父との反目を助長するコンスタンティノスという同盟者がおり、このコンスタンティノスは伯父でありヨハネスの兄弟で、長らくヨハネスを妬んでいた。この理由は兄弟の中でヨハネスだけが政権の実権を握り、親族ではなく主人のようだったからだ。先の皇帝がその男を一家の最年長者としてだけでなくこの上なく理知的で、公務上の義務の遂行における真面目さを徹底的に証明していた人だとして非常に気に入っていたためにその当時は彼〔コンスタンティノス〕は彼〔ヨハネス〕への憎悪をおおっぴらにすることはできなかった。他方で彼〔ミカエル4世〕は残りの家族を忌み嫌っていたが、それは彼らが中庸を愛さず帝国の統治に有用な貢献を何もしていなかったためだった。したがって皇帝が兄弟たちに腹を立てると、ヨハネスが彼らのために取りなしをしてもう一度彼らを善意をもって見るように彼を説得するのが常態化していた。それから当然ながらヨハネスの評判に対する兄弟たちの嫉妬、そしてコンスタンティノスがとりわけ抱いていた悔しさにもかかわらず、彼に立ち向かったり彼と反目するために何かしらのことをするというのは彼らにはできなかった。

8 しかし彼らの兄弟のミカエルが死んで帝位が甥に受け継がれた後のコンスタンティノスはオルファノトロフォスを攻撃するにあたり非常に好都合な立ち位置にいた。それというのも彼は新皇帝がまだ副帝だったうちに慎重に育て、思う存分彼自身の財産を利用するのを許していたからだ。コンスタンティノスの金はそのようなことに使われ、この若者は彼の財産を自分が自由にできるよう定められた家財の類だと見なしていた。このようにしてコンスタンティノスは確実に彼の支持を取り付け、その一方で運命は明らかに彼の試みに微笑み、彼は将来を見据えて友情を手に入れようとし続けた。彼らは秘密を共通した。彼〔ヨハネス〕の側も彼らに対して謀をめぐらしていることを知っていたので、彼らはヨハネスに対する作戦では一緒に立ち上がった。彼の思い通りになっていれば、彼らの計画は頓挫して家族の他の一員が帝位に座っていたことだろう。したがってこういった状況下では副帝がコンスタンティノスをノビリッシモスの称号へと昇進させ、すぐに彼自身が正帝に戴冠されるだろうと予想された。コンスタンティノスは彼と懇意になり、ミカエルの即位よりも前に示していた忠誠への報償をたっぷりと受け取った。

9 この段階で私は皇帝の精神の概略についての予備的な説明としてしばし余談を挟みたい。こうしておけば私が後ほど彼の行動を述べる際、私の読者はおそらく困惑の念から解放されるだろう。それらの行動の中の計画性の欠如とある種の見当違い、彼の人生の複雑な運命の発端を成す諸々の資質を見て取るならば、驚くようなことはあるまい。現にこの男の際立った資質は非常に多様な主題への関心と、ある主題から別の主題へと移るずば抜けた器用さだった。第二の特質はこの男の心と舌の食い違いであり、彼は考えることと全く別のことを口にしていた。人々はしばしば彼の怒りを買い、かと思えばいつものもてなし以上の歓迎さえ受けていたであろうが、その一方で彼は心から彼らに関心を持って真摯な愛情の念をもって彼らのことを考えていたのだと彼らはこの上なく真剣に納得していた。前夜の夕食で彼と卓を囲んで彼と同じ杯で酒を飲んだ人たちが翌朝の夜明けに彼によってこの上なく恐るべき拷問を経験するよう運命づけられていた実例はいくつかあった。彼との家族関係を示す名前――私はそれ以上に進み、実際の関係であるとさえ言いたい――は全く何の意味もなかった。波が押し寄せてこの輩、全ての親類知己を一挙に飲み込んだとしても彼は何も気にしなかったことだろう。彼は彼らに気を許していなかったが、そうして至極当然だった統治の問題に関して気を許さなかっただけではなく、彼は彼らに生活の必需品を惜しんで少ししか与えなかった。権力を分け合うにしても、こういった全く取るに足らない輩と分け合うか、全く誰とも分け合わないかだった。事実、それだけではなく彼は不可思議なことにすら嫉妬の念を感じており、あらゆる状況下での全ての人への彼の嫌悪と疑いは非常に大きなものだったように私には見えた。これほどまでに運命が逆境になればなるだけ縮こまり、行動にせよ言葉にせよ、精神がいっそう卑しくなるような者はいなかった。。それでも運命は少ししか好転せず、すぐに彼は追従の仮面を脱ぎ捨てた。偽りの見かけは脇へと追いやられ、すぐに彼は勇気に満たされた。恐るべき行動がなされ、他の行動は将来のために取っておかれた。その男は自らの怒りと気まぐれさの奴隷であり、何かしらの偶然の出来事で憎悪と怒りをかき立てられた。こうして密かに家族全員への憎悪の炎が彼の心中で密かに燃えていたが、彼らの排除は別の問題だった。当面のところ彼はそれを試みなかったが、それは彼がまだ伯父を恐れていてからで、彼はヨハネスがまだ一族全員の父の地位にあったことを知っていたのだ。

10 この治世についての話を始めるにあたり中断をした以上、私は改めて元の話に戻ることにしたい。さて、コンスタンティヌスはノビリッシモスになると、兄に感じていた畏敬の念を振り払った。彼の以前の尊敬の態度は忘れ去られ、彼の物言いは大胆になり、彼はヨハネスの政策をいっそう無鉄砲に攻撃した。いくつかの機会に彼はヨハネスの意向に服従しているとして皇帝を非難し、この若者を相当に混乱させた。ミカエルの平静さが突然に四散した理由は他にもあり、彼を反抗させた影響は他にもあったが、コンスタンティノスの妨害は火に新たな油を注ぎ、皇帝はヨハネスをほぼ全てのことに関して軽んじ始めた。彼が家族に振るっていた地位と最高位が失われる見込みがあることはオルファノトロフォスには取り立てて不愉快だったが、帝位をすでに継承した人を退位させるのは簡単な問題ではなく、彼は事を思い通りにするために新たな施策を採用した。私自身は当時起こったことを目撃し、彼が考えを改めたのだと推測していたが、ほとんどの人たちはそのことを知らなかった。私の見解では、彼の野心は甥たちの一人に政権を移すことであり、それはマギストロスの称号を持っていたコンスタンティノスという人だった。彼の計画は皇帝その人を攻撃することではなく、このコンスタンティノスに彼に取って代わる機会を与えることだった。後に、甥が捕まって扇動の罪状で法廷に立つことになるのを恐れ、そして彼自身が破滅を免れ得なかったり同時に残りの家族に破滅が降りかかるだろうと案じたため、彼は将来がそうなる可能性を取り除こうと決意した。重要なことは、今は計画に従って動くべきであるということだった。彼は皇帝と彼の親戚たちとの和解を達成することにした。彼は彼らにある特権を認めるよう、そして後に他の特権も約束をするよう彼を説き伏せた。人間が人生で通常遭遇するような厄介な出来事に彼らが備えられるようにと、彼は特に念押しした。当面、皇帝は彼の諸々の要望を認め、ヨハネスが将来の保証を確固たるものとできるようにするために彼の約束を文書で承認した。しかしながら、それらの約束が文書になるや否やヨハネスは、自分の甥の誰かが皇帝に対する反逆の陰謀の廉で有罪になれば自分は罰されず有罪にもならず、そして裁判も免除される特権を伯父によって認められるものとするという自分のための秘密条項を加えた。

11 この条項を加えると彼は好機を待ち、ミカエルが若干の書類にあまり関心を持っていないことを知ると、この文書を彼に渡して署名されようとした。皇帝は大まかにそれを読んで自筆で承認した。当然ながらヨハネスは有頂天になった。それは大勝利であり、彼の密かな野心の実現はあと一歩というところまで来た。彼がその計画を試す準備ができたことは疑いようがなかった。実際、これらの出来事の詳細な検討で明らかになることだろうが、これは彼の苦難の始まりだった。というのもオルファノトロフォスが主導権を握る前に、一面では虫の知らせから、他面ではどんなことが起こるのかについての見解を話した廷臣たちの発言から皇帝は進行中のことに疑いを持った。彼らは彼のヨハネスへの従属は耐えがたいものだとハッキリさせた。今や二つの代替案があり、これらは天地をひっくり返すようなものであり、即ち皇帝の権威を無傷のままにするに違いないものか、さもなくば国家と共に滅ぶかだった。

12 この最終提案はすぐに実行された。ミカエルはヨハネスに相応しい栄誉を授けるのをやめただけでなく、政策上の問題で彼と仲違いさえした。彼らが会議をすることは希だったり長い間隔を置くようになり、彼らが会すると明らかに意見を異にした。彼らが共に夕食を取ったある折、コンスタンティノスはある事柄へと話題を移した。両者〔ヨハネスとコンスタンティノス〕がその主題について意見を表明したのを聞くと、彼はその問題についての皇帝の所見を賞賛し、「見事な判定、まこと皇帝に相応しいものだ」と褒めそやしたが、兄の意見を「小狡い陰謀の類」だとして退けた。彼は徐々にこの態度を明らかにしだし、すぐに大規模な攻撃を開始した。彼は過去のヨハネスの横柄さを思い出し、今や悪意と欺瞞を露わにした。オルファノトロフォスは辛抱強くそういった攻撃を聞くことがてんでできず、すぐに立ち上がって出て行った。彼は住居のいつもの場所にではなく、帝都から離れたある場所へと自ら退去した。彼が想像するところでは、この転居で皇帝は彼が戻ってくるよう祈り懇願するよう強いられるはずだった。彼はすぐに宮殿に戻ってくるつもりだった。彼が去ると、彼の身辺警護隊は後を追い、ヨハネスへの思い遣りや友情からではなく、大多数の場合のように、彼が自分の古巣に早晩戻ってくるだろうと信じて先に彼の好意を確実なものとしようとした元老院議員の大集団も彼と共に去った。彼らの都からの出発は彼らの奉仕を彼に念押しするかのような壮観だったことだろう。

13 ヨハネスの離脱でミカエルが大喜びしたことは疑いないが、これとて帝都の人々の過半数が退くオルファノトロフォスに同行して群がった時に彼の中に生じた耐え難いほどの嫌疑で埋め合わせることができなかった。彼は革命の可能性を恐れた。かくしてきわめて巧妙に、少なからぬ悪意をもって彼はヨハネスに手紙を書いた。その中で彼は度を超して居丈高に相手を酷く叱りつけ、おそらくは政権に関わる内密の話をするために彼を呼んだ。ヨハネスはすぐに戻ってきた。手紙の調子からして皇帝が自分を迎えに来てくれるだろうと彼は思っていた。彼は自身の高い地位に相応しい物言いで口をきいてもらえるのを期待して、彼が向けられるのに慣れきっていた敬意をもって扱った。実際には全く違ったことが起きた。劇場での演技が行われていた時、皇帝は伯父を待って会うことをせずにいつもより早く演芸から離れた。彼はヨハネスにこれ以上何の言伝も残さなかった。何が起こったのかを知ると、彼は自分が以前よりもいっそう蔑まれているのだと考え、皇帝は彼を遠ざけた。こうしてたいそう立腹しながら彼は手ぶらで元来た場所へと戻った。皇帝の意図は今や疑いようがなかった。彼がヨハネスを敵として扱ったことは彼の行動からしてヨハネスには明らかだった。友情の絆は今や完全に破壊され、互いの失脚を企んだ。とりわけヨハネスは陰謀にのめり込み――彼は一般市民だった以上は不利な立場にいたからだ――相手側のことを知らず、自分が逮捕の瀬戸際にいたわけでもないのに皇帝を攻撃する方法と手段について企み事をした。他方でミカエルは帝国の最高支配者だったので優越した立場にいたわけだから、それを存分に活用した。彼がヨハネスを嫌っていることは秘密でも何でもなかった。演技の時は終わった。彼は船に乗って自分のもとに弁明のために来いと自分の敵に対して単純に命令した。彼は自分が皇帝を非常に軽く扱っている理由と、自分が相手側に従うのを拒否している理由を説明するつもりだった。

14 このようにしてヨハネスは出航した。その間に皇帝は宮殿のうってつけの高い場所から海を眺め、伯父を連れて行く船が大港湾に碇を下ろしかけると、立ち寄ろうとていた舵手たちに信号を出して引き返させた。実際のところ、この信号は予め取り決められていたものだった。すでに船出していて一隻目に続いていた二隻目の三段櫂船は、ヨハネスの船が合図を受けると、乗船していた彼を連れ出し、遠く離れた追放先へと連行していった〔「この孤児の保護者はモノバタイの修道院に追放された。ケドレノス(749D, p. 535)は異なった説明をしている。彼によれば、ヨハネスはミカエル戴冠の前にゾエによって追放されていた」(N)。〕。ミカエルがまず副帝に、それから正帝になれたのはこの男の骨折りの賜物だったのに、彼が以前にヨハネスに感じていた尊敬の念は今や、恥ずかしさで頬を赤めることもなく伯父への罰に賛同するほどに小さくなってしまった。事実、彼は有罪判決を受けた海賊しか行かないような場所に彼を追放したのだ。後に彼の怒りが幾分和らいだ時に少しは好意を向けておけば良かったと彼が思ったことを付け加えておくのが良かろう。こうしてヨハネスは、皇帝の復讐心を満足させるためではなく、交代で不運を拝む運命にあったために去ったわけであるが、神意の命ずるところで彼に降りかかった運命は――私は穏やかな言い回しで言いたいが――彼につかの間の安らぎも与えなかった。運命が彼の目を処刑人の手に引き渡して〔「ヨハネスはミカエル4世治下に自身の投獄を決して許さなかった総主教ミカエル・ケルラリオスの命で獄の中で目を潰された。その年代は1043年である」(N)。〕恐るべき早さでこの上なく激烈な死をもたらす〔「ヨハネスを処刑したのはコンスタンティノス10世モノマコスで、ミテュレネに彼を追放した後のことだった」(N)。〕まで悪に悪が続いた。

15 ずる賢いミカエルは今や帝国の単独支配権を己の双肩に担うこととなった。彼の意向は穏やかだったどころではなく、間逆の政策を進めることに最初の努力をしたからだ。全ては彼の望みに従わなければならなくなった。政府高官たちはいかなる友情も示されることなく扱われた。皇帝の彼らへの敵意は彼の表情と彼の態度全体から明らかだった。事実、彼の横柄な物言いと振る舞いは彼らを怯えさせた。彼の野心の中心はただ一つ、彼の支配域を彼の本物の「従属物」にすることだった。高官の大部分は慣習的な特権を剥奪され、人々は自由を取り戻し、それから彼は数の少ない貴族よりは数が多い人々の支持を得ることにした〔「この批判にもかかわらず、ミカエルがいずれも貴族だったゲオルギオス・マニアケスとコンスタンティノス・ダラッセノスを復帰させたことは想起されなければならない。将来の総主教コンスタンティノス・レイクデスもまたこの治世時に昇進した。ビザンツの歴史家ミカエル・アッタレイアテスはミカエル5世についてはプセロスとは全く異なった評価をしている(cf. G. Schlumberger, L'epopee byzantine, III, p. 383)」(N)。〕。彼の親衛隊については、彼は新手の兵士、即ち彼が少し前に購入した若いスキュティア人たちで隊員の定員を満たした。彼らの全員が宦官だった。彼らは彼が自分たちに何を要求していたのかを分かっており、彼の欲求に奉仕するのにうってつけの連中だった。現に彼らが高位に昇進できたのは彼のおかげだったので、彼は彼らの忠誠を問題にしなかった。彼らはその一部を実際に護衛の任に就かせた一方、他の者たちは彼が望む通りに他の様々な仕事をした。




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