アフリカヌスはオリゲネスへユダヤ教の文献に含まれておらず、語法が真正のヘブライ様式に矛盾しているということを(他の理由のうちとりわけ)理由として「スザンナ」〔『ダニエル書』の一篇〕の信頼性に反論する手紙も書いている。オリゲネスはその反論に応答して論駁した。 アフリカヌスはアリステイデスにも手紙を書いており、その中で本当のところマタイ書とルカ書の我々の救済者の系図には一般に考えられているような違いは何もないと説明した。 アポロニオスはブラフマン人と著者が呼ぶインド人のもとを訪れて神についての多くの知識を彼らから学んだと著者は我々に述べている。彼はギュムノイ人と彼が呼ぶアイティオピアの賢者たちのところも訪れたが、それは彼らが生涯裸で過ごして一番辛い天候でも服を着なかったからだ。しかしインドの賢者たちは太陽の光のより近くで暮らしているおかげで時間の上で古く、彼らの知性がより純粋でより鋭く、そのために彼らのほうが遙かにアイティオピアの賢者よりも優っていると彼は明言している。 しかしアポロニオスは伝説が彼に帰しているような驚異を起こしたと彼は主張しておらず、彼がピュタゴラスの儀礼と学説の両方についての講義で示したような哲学的で節度のある人生を辿ったということで彼を賞賛するにとどめている。そうなるように彼自身が望んだことなのだが、彼の死に方は状況がはっきりしていなくて様々な説明がなされている。それというのも賢者は他人から自らの生を隠し続けるべきであり、あるいはそうできなければ少なくとも死を隠し続けるべきだと生前の彼は常々言っていたからだ。彼の埋葬場所は分かっていない。 アポロニオスは富を甚だ蔑んでいて兄弟と他の人に全財産を渡し、権勢を持った人〔あるいは「多くの手段を持った人」(N)〕が彼こそが相応しいと述べ立てても彼らからお金を受け取るよう説得されることはついぞなかったとフィロストラトスは述べている。アポロニオスはかなり前からエフェソスでの飢饉を予言してそれが起こる前に防いだと彼は主張している。かつて彼は一頭のライオンを見て、これはエジプト人の王アマシスの魂であり、アマシスが生前に犯した罪への罰としてその獣の体に入っているのだと言い放った。また彼は高級娼婦を装ってメニッポス〔リュキアの人。ルキアヌスの時代に生きたキュニコス派哲学者かもしれない(N)。〕を誘惑したエンプサを暴いた。投獄されていた時に彼は一見して死んでいたローマ人の少女を生き返らせ、足枷から解放された。ドミティアヌスを前に彼は弁明し、ドミティアヌスの後継者ネルウァを称えた。その後に彼は宮廷から姿を消し、七日分の旅程で離れていたにもかかわらず大分前からではなく数ヶ月前に取り計らった通りデメトリオス〔スニオン出身のキュニコス派哲学者で、カリグラ、ネロ、ウェスパシアヌスの時代にローマで教育活動をした。アテナイでアポロニオスと会ったと言われているが、彼の哲学的見解はアポロニオスの見解とは対立していたと考えられるのでその交友についての説明は多分本当のことではない。皇帝と権勢家たちを攻撃する自由のためにデメトリオスはローマを去ったのであろう(N)。〕とダミス〔ニネヴェの人で、アポロニオスの弟子にして同伴者。フィロストラトスの物語の根拠をなしたアポロニオスの伝記の著者として名高く、皇后ユリア・ドムナに草稿を手渡し、彼女はフィロストラトスにその編集を命じたと言われる(N)。〕に合流した。フィロストラトスのアポロニオスに関する作り話は以上のようなものである。しかし彼は、もし通常アポロニオスに帰されているような奇跡のうちのあるものを成し遂げたのならば彼が奇跡を起こす人であることになるということは否定しているが、それらは彼の哲学と彼の生き方の純粋さの結果であると主張している。逆に彼は魔術師と呪術師の敵対者で、魔術の寄与者ではないことは確実である。 彼がインド人について述べることの全ては馬鹿馬鹿しく信じ難い文言の塊である。彼らは雨水と葡萄酒で満たされた壷を持っていて、日照りの時にそこから水をその地方に撒いて再び湿気から水を取り出すことができ、雨が降った後、その樽の中に彼らは風と雨の交互の供給を操る術を持っていると彼は主張している。彼は馬鹿馬鹿しさと非常識さでは同等の似たような話を述べていて、それらの八巻本は多くの研究と仕事が失われている。 彼はイェルサレム陥落には多くの印と前兆が先立ったと述べている。生け贄にするために導かれていた雌牛が子羊を生んだ。神殿が光って「我らをここから去らせよ」と告げる声がした。二〇人を使ってかろうじて開けられる神殿の門の数々がひとりでに開いた。夜に鎧を着込んだ兵隊が現れた。アナニアスの息子のイエススという名の男は六年と三ヶ月間まるで霊感を受けたかのように「なんたること、イェルサレムに災いあれ!」という言葉を絶えず繰り返していた。このために鞭打ちの刑に処されると、彼は答えを寄越さずに同じ言葉を繰り返した。彼は市の占領に立ち会い、「なんたること、この都市に災いあれ!」と泣き叫びつつ敵の兵器の石で打たれて霊を失った。 以上がその都市の陥落を予言する予兆だったわけであるが、外敵と並んで内部での騒乱がその都市を転覆させた。熱心党とシカリ派に党派が分裂して彼らは互いに争ったため、状況は一般人によって気違いじみて情け容赦のない仕方で真っ二つに分かれた。その都市は飢餓で悲惨なほどの被害を受けたため、住民はありとあらゆる退っ引きならない行為へと追いやられ、ある女性は我が息子の肉を食らいすらした。飢餓の次には疫病が起こり、神の怒りの賜物であることの明らかな証拠であり、その都市が占領されて完全に破壊されたのは主の宣言と脅しの成就である。 以上が作品全体の分け方である。内戦についての説明はまずマリウスとスラの戦争、次いでポンペイウスとユリウス・カエサルの戦争、彼らの争いが荒事の形を取るようになった後に運命がカエサルに好意を示してポンペイウスが破れて敗走するまでを収めている。次はユリウス・カエサルの暗殺者に対するアントニウスとアウグストゥスとしても知られているオクタウィウス・カエサル両名の処置を述べており、この時に多くの卓越したローマ人が裁判抜きで殺された。ついにアントニウスとアウグストゥスの全てを賭けた戦いで恐るべき殺し合いが起こり、そのなかでアウグストゥスの勝利が宣言された。同盟者に見捨てられたアントニウスはエジプトに追い詰められて自害した。『内乱記』の最後の巻ではエジプトがローマ人の勢力下に収まった顛末とアウグストゥスがローマの単独支配者になった顛末が述べられている。 この歴史書はカピュスの息子アンキセスの息子で、トロイア戦争の時代に生きたアエネアスで始まる。トロイア陥落の後にアエネアスは逃げ、幾多の放浪の後にイタリア岸のラウレントゥムと呼ばれる土地に上陸し、そこに彼の陣が敷かれ、その岸は彼にちなんでトロイアと呼ばれている。マルスの息子で当時はイタリア原住民の支配者だったファウヌスは娘のラウィニアをアエネアスに娶らせて全周四〇〇スタディオンの土地を彼に与え、アエネアスはここに土地を建設して妻ラウィニアにちなんでラウィニウムと呼んだ。三年後にファウヌスが死に、血縁の権利によって王位を継承したアエネアスは義父ラティヌス・ファウヌスにちなんで原住民にラティウム人という名を与えた。さらに三年後にアエネアスはテュレニアのルトゥリ人との戦いで戦死し、王は以前にラウィニアをルトゥリ人と婚約させていた。彼の跡はアエネアスとプリアモスの娘でトロイアにいた時の妻だったクレウサの息子で、アスカニウスとあだ名されたエウリュレオンが継いだ。しかし他の人たちによれば彼の跡を継いだアスカニウスはラウィニアとの間の息子だという。アスカニウスはラウィニウムからの入植者によってアルバ市を建設した後に四年で死に、シルウィウス〔アエネアスとラウィニアの息子〕が王になった。このシルウィウスの息子はアエネアス・シルウィウスと言われており、アエネアス・ラティヌス・シルウィウスの息子である〔分かりにくい書き方だが、要するにシルウィウスの息子がアエネアス・シルウィウスで、アエネアス・シルウィウスの息子がアエネアス・ラティヌス・シルウィウス〕。彼の子孫はカピュス〔アエネアス・ラティヌス・シルウィウスの孫〕、カペトゥス〔カピュスの息子〕、ティベリヌス〔カペトゥスの息子〕、そしてアグリッパ〔ティベリヌスの息子〕であり、〔アグリッパは〕息子のアウェンティヌスを残して雷に打たれて死んだロムルスの父だと言われており、アウェンティヌスは息子をプロカスと名付けた。これら全員がシルウィウスとあだ名されたと言われている。プロカスには年長の方がヌミトル、年少の方がアムリウスという二人の子供がいた。年長の方が父の死に際して王位を継承し、年少の方は暴力と犯罪行為によって王位を奪取し、兄の息子エゲストゥスを殺して〔ヌミトルの〕娘のレアを巫女にしたため、彼女には子供ができなかった。しかしヌミトルの穏やかさと優しさは生命に対する陰謀から彼を守った。シルウィア〔ヌミトルの娘〕は誓いを破って〔マルスによって〕妊娠し、罰を下すためにアムリウスに捕らえられ、彼女の二人の息子は近くにあったティベル川に投げ込むために牧人らに渡された。ロムルスとロムスというその子らはアエネアスの母系の子孫であり、彼らの父の名は知られていない〔ある写本は「彼らは自分たちの知らない父親を嫌い、むしろアエネアスの末裔であることを誇っていた」と続ける(N)。〕。 すでに述べたようにこの歴史書はアエネアスと彼の子孫についての手短な説明から始まるが、市の建設者ロムルスの時代からはアウグストゥスの治世まで出来事を詳述しており、そしてあちこち行った末にトラヤヌスの時代まで下る。 アッピアノスの生まれはアレクサンドレイアで、最初にローマの支持者となり、それから後に皇帝たちの下でプロクラトルの地位に出世した〔他のテクストでは「彼は皇帝の諸事案の管理に相応しい人と考えられていた」と書かれる(N)。〕。彼の文体はそっけなく余分なものがなく、歴史家として彼の能力、軍事の見事な権威に関しては信頼できる。彼が紹介する演説は落ち込んだ時の兵士たちを鼓舞し、頭に血が上りすぎた時には押さえ、情動や感情を表現してありのままに述べ示するよう見事に計算されていた。彼はトラヤヌスとハドリアヌスの治世下に人生の盛りにあった。 「若クセノフォン」と呼ばれ、哲学者でありエピクテトスの弟子の一人であるアリアノスはハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、そしてマルクス・アントニヌスの治世の間に活躍した。優れた学識を持っていたために彼は様々な国の仕事を委ねられ、最終的には執政官職まで昇進した。また彼は他の著作、我々の手にある八巻の師エピクテトスの解説、一二巻のエピクテトスの対話篇の著者でもある。彼の文体は簡潔で、彼はクセノフォンの真正の模倣者である。 彼は他の著作の著者でもあると言われているが、それらは私の手にはない。彼に修辞技術と能力が欠けていたわけではないことは確実である。 彼は最初のペルシア王キュロスをその生まれ、教育、成人期、無味乾燥な治世を記述することで彼の歴史書を始め、クセルクセスの治世――彼のアテナイ人に対する遠征と続く撤退――まで下っている。クセルクセスはキュロスから三代目で、最初はカンビュセス、二人目はダレイオスである。マゴス僧のスメルディスは自分のものではない王位を狡猾に僭称した僭主だったので彼らのうちには勘定されていない。ダレイオスの跡は息子のクセルクセスが継ぎ、彼の治世はまだ当分終わりはしないものの彼でもって歴史は完結する。ディオドロス・シクロスの証拠によれば、ヘロドトス自身はこの時期に人生の盛りにあった。〔オリュンピアでのギリシア人の総会で(N)〕彼の著作が読み上げられた時、父と一緒に朗読の現場にいた非常に年若かったトゥキュディデスは涙が溢れたと言われている。そこでヘロドトスは「おお、オロロスよ! 君の息子はなんとまあ学習熱心なことではないか!」と強い調子で言った〔オロロスはトゥキュディデスの父の名前〕。 アイスキネスは「十人」のアッティカ雄弁家の一人だった。彼は使節任務の処置を誤ったとしてデモステネスによって弾劾されたが、アイスキネスが以前にしていた役職にあった民衆指導者のエウブロスがデモステネスに対立して彼の味方になり、デモステネスが演説を終わらせる前に陪審を立ち上がらせたために有罪判決を受けなかった。それからクテシフォンがデモステネスのためにした動議を違法だとしてアイスキネスが攻撃すると、彼自身が罰金刑の判決を受けてしまったために彼は訴状を立証できなければ罰金を支払い、そうならなければ国を去るという具合になり、その準備をした。フィリッポスの息子で、アジア遠征中だったアレクサンドロスのもとに逃げ込もうとして彼はまずアジアへと向かったが、彼の死と彼の後継者たちの内紛を聞くとロドスへと航海し、若者に修辞学を教えつつそこにしばしの間留まった。彼を賞賛する人たちがどいうわけでこれほど偉大な弁論家がデモステネスに破れたのかを理解するのに途方に暮れると、彼は「君たちは野獣――デモステネスを指す――〔の雄叫び〕を聞けばびっくりしないのか」と答えた。彼は想像上の事柄についての演説と「朗読」と呼ばれるものを余技で作った最初の人だと言われている。年を取ると彼はサモスへと去り、そこで死んだ。彼は卑賤な生まれで、彼の父はアトロメトス、母は女司祭のグラウコテアだった。彼にはアフォベトスとフィロカレスという二人の兄弟がいた。最初、大声の持ち主だったために彼は三文役者になり、次に評議会の書記官になり、その後すぐに公式の〔議決内容の〕読み上げ係になった。彼はアテナイでは親フィリッポス派に属し、そのためにデモステネスの政敵だった。彼はプラトンの講義を聴講し、アンタルキダス〔この名で知られる唯一の人物はスパルタの政治家だが、彼は修辞学者や教師として知られているわけではなく、アイスキネスの師というのはあまりありえそうにない。スーダ辞典はアイスキネスはゴルギアスの弟子であったエライアのアルキダマスの弟子だったと述べている(N)。〕の弟子でもあったと言われており、〔アイスキネスの〕陳述は彼の言葉遣いの荘重さと工夫における威厳によって支えられている。ティマルコス弾劾演説を見たソフィストのディオニュシオスは「未だかつて私は官職にある時の市民をおおっぴらに後ろ指したり彼に嫌がらせをしたこともなかった」という冒頭を呼んだ後、「もしあなたがたくさん人を後ろ指したり嫌がらせをしていれば、こんな風な演説をもっと我々に残してくれたんでしょうがね」と言ったと伝えられており、この弁論家の様式を彼はいたく喜んでいた。 彼の言葉遣いは自然で即席のものであるように見え、天賦の才ほどには著者の技術は賞賛を呼び起こすものではない。彼の機敏さと能力の十分な証拠が彼の演説に見い出せる。言葉の選び方で彼は単純さと明確さを目指しており、掉尾文の構成ではイソクラテスほど弱々しくなく、リュシアスほど切り詰められて簡潔ではない一方で、彼は韻文と勢いではデモステネスに劣らない。彼が作り上げた思考と演説の形は美的な言葉遣いを使っているという印象は与えないが、主題の必要事項に合致している。かくして彼の文体は直接的で率直で、公私の会話の話し方を採用したもののように見える。それというのも彼は証明と論証を絶えず用いるということはせず、過度に入念でもないからだ。 リュサニアスの息子でソクラティコスと呼ばれたアイスキネスもフリュニコスとその他の人たちによって偉大な演説家の一人であり、彼の模範的なアッティカ調の演説はその最高の代表者たちに次ぐと考えられている。 以前はマッサゲタイ人と、ペルシア人からはケルミキオネス人と呼ばれており、タナイス川以東に住んでいたトルコ人がこの時にユスティヌス帝へと贈り物と共に使者を送ってきてアヴァール族を受け入れないようにと求めてきた。ユスティヌスは贈り物を受領して友好的に使節をもてなして彼らを返した。それからアヴァール族がユスティヌスへと接近してきてパンノニアに住む許可を求めて平和条約の締結を望むと、彼はトルコ人と交わした約定のためにこれらを拒んだ。 ユスティニアヌスの治世下に一人のペルシア人がビュザンティオンを訪れ、これまでローマ人には知られていなかった蚕の養殖技術について皇帝に説明した。このセレス人の地からやってきたペルシア人は蚕の卵を中が空の杖の中に隠してビュザンティオンまで運んできた。初春に卵は桑の葉がある所に置かれ、その芋虫は孵化するとこれを食べ、やがて糸を紡いで蛾になった。ユスティヌス王はその後トルコ人にどのようにしてその芋虫を育てて絹を産するのかを見せて大いに驚かせ、その時以来彼らは以前はペルシア人が占めていたものの、セレス人のところに市場と港を持つようになった。エフタル人の王で、民族の名前にその名が由来するところのエフタラヌスはペロゼスとペルシア軍を破って彼らを領地から追い出して領有権を得て、すぐ後にあべこべに自らがトルコ人に破れて領地を奪われた。ユスティヌスによってトルコ人の許へと遣わされてきた大使ゼマルクスは豪奢な宴で彼らにもてなされ、ありとあらゆる親切を受けて帰国した。その結果、ホスローはローマ人と友好関係にあった(以前はマクロビイ人と、その時代はホメリテス族と呼ばれていた)アイティオピア人に向けて進軍した。ペルシアの将軍ミラネスの補佐を受けて彼はホメリテス族の王サナトゥルケスを捕らえて都市を略奪して住民を奴隷にした。著者はアルメニア人がスレナスからとりわけ宗教問題においてどれほど酷い扱いを受け、ヴァルダネス(彼の兄弟のマヌエルはスレナスに殺されていた)とバルドゥスなる者との陰謀に加わってスレナスを殺し、ペルシア人に反旗を翻してローマ人につき、彼らが暮らしていたドゥビオスの町を放棄してローマ領へと渡ったのかについても述べている。これはペルシア人がローマ人との協定を破棄した主因であった。すぐ後にイベリア人も反乱を起こして彼らの王グルゲネス共々ローマに寝返った。その時にはティフィリスがイベリアの首都であった。 ユスティヌス帝の従兄弟で東方の司令官に任命されていたマルキアヌスがユスティヌス治世の八年目〔572年〕にホスローに向けて送られた。アルメニアの将軍ヨハネスとペルシアの司令官ミラネス(彼はバラマアネスとも呼ばれる)は彼らに対抗すべく軍を集めた。アルメニア人にはコルキス人、アバスギア人、そしてアラニ族の王サロエスが、ミラネスにはサビロイ人、ダガネス族、そしてディルミニ族(多分ディリムニタイ族と同一)の諸部族が味方した。マルキアヌスはミラネスをニシビスで破ってこれを敗走させ、一二〇〇人のペルシア人が殺されて七〇人が捕らえられた一方で、ローマ軍の損害は僅か七人であった。またマルキアヌスはニシビスの包囲にかかった。これを聞くとホスローは四〇〇〇〇騎の騎兵と一〇万人以上の歩兵を連れて出陣し、ローマ軍を攻撃すべく救援へと急いだ。一方マルキアヌスは帝位を狙った廉で皇帝に弾劾されていた。ユスティヌスは罪状の真相について説得されて彼を指揮権から解任し、代わりにツィルスとあだ名されていたユスティニアヌスの息子テオドロスを任命した。これがたたってローマ軍は包囲を解き、ホスローはダラスを包囲して落とした。 一巻目で彼はヨハネスがコンスタンティノープル総主教であった時にティベリウス帝によってなされたマウリキウスを後継者とする宣言の説明をしている。ティベリウスは、マウリキウスと皇帝の宮廷の人々に対し、代弁することを任せられた財務官ヨハネスの口を通してマウリキウスに良き忠告を与えた。ティベリウスはマウリキウスと娘を婚約させ、そう宣言した次の日に死んだ。臨終の際に彼は幻視を見て「おおティベリウスよ、さればこそ三位一体の神は汝に言わん。不敬虔な暴君の時代は汝の治世の間には来らぬ」と言う声を聞いた。この言葉は非難の対象となったフォカスの非敬虔な圧制の治世の悲劇について述べたものであった。マウリキウスはシルミウムの包囲に取りかかって間もないアヴァール族と平和を維持し、衣服と年貢金として金貨八〇〇〇〇枚を夷狄に毎年支払うことに同意した。その協定は二年間守られたが、金貨二〇〇〇〇枚をさらに要求した夷狄の貪欲のために破棄された。これは休戦の破綻をもたらした。シンギドゥム、アウグスタ、ウィミナキウムが夷狄に落とされてアンキアロスが包囲された。ローマからアヴァール族のカガンの許へと使節として送られていたエルピディウスとコメンティオルスは、コメンティオルスが夷狄に対して余りにもざっくばらんに話したために侮辱的に扱われた。翌年にエルピディウスは追加の金貨二〇〇〇〇枚の支払いを申し出るために再びカガンの許へと送られ、アヴァール族の代表者タルギティウスと共に協定を締結すべくビュザンティオンへと戻ってきた。夷狄がローマ領を大いに略奪した後、タルギティウスは六ヶ月間カルキス島へと流された。コメンティオルスはその後スラヴ族に対する〔軍の〕指揮を委ねられ、大出世した。カガンは魔術師ブコロブラスに関わる問題を盾にとって再び協定を破り、ローマ人の多くの都市を破壊した。 ニュンフィウス川でのローマ軍とペルシア軍の戦い、マウリキウスとティベリウスの娘コンスタンティアとの結婚が次に述べられた。マウリキウスの治世の始めに起こった広場での火災。パウリヌスの処刑と殉教者グリュケリアのたらいの奇跡〔「この殉教者の骨から滴り落ちた神聖な軟膏ないし油はその中に滴っていたたらいがヘラクレイアの司教によって他のものに取り替えられた時に流れるのをやめた」(N)〕。皇帝が寛大な傾向を示した時に総主教ヨハネスが使徒の言葉を述べつつ、魔術師は火に投ぜられるだろうと主張した顛末。その犯罪行為に参加したパウリヌスと彼の息子が処刑された顛末。アフモンとアクバスの両砦での事件。ローマ軍とペルシア軍の会戦、ヨハネスが夷狄の姦計にいかにして破れたか。マウリキウスの治世の始めに起こった大地震と彼の執政官職の説明。皇帝の姉妹の夫フィリピクスの東方司令官への任命と彼の思い切った業績。その際に軍が水不足から大損害を被ったメディアからのローマ軍の撤退。いかにしてフィリピクスがアルザネネ地方を彼の軍の略奪に委ねることになったのかとローマ軍の武勇。ペルシア軍によるマルテュロポリス一帯の荒廃と彼らの最初と二度目のローマ人への使節派遣。第一巻の内容は以上のようなものである。 第二巻はイザラ山、ペルシアの司令官カルダリガン〔「固有名ではなく、おそらくペルシアの官位名」(N)〕の横暴、フィリピクス指揮下のローマ軍とカルダリガン指揮下のペルシア軍のアルザモンでの戦い、フィリピクスが「人の手によって作られていない」画像を持って野営地を通って進んで軍を聖別し、ローマ軍が栄光ある勝利を得たか、そして件の画像がアミダの司教シメオンに全くもって正当な礼と共に送られてきたのかの顛末について述べている。夷狄の領土はローマ軍の略奪を受け、カルダリガンはダラスへと逃げたが、住民は彼が敗れていたために彼の受け入れを拒んだ。四分の一のパルティア軍団(シュリアもベロエアに駐屯していたためにこう呼ばれていた)に属するあるローマ兵が傷を受けて死に瀕しているところで野営地へと運ばれてきたかの顛末。ローマ軍のアザルネネ遠征とその指揮官のマルタスとイオビオス(ヨウィウス)のフィリピクスの許への脱走。ローマ軍を騙すためにカルダリガンによって集められた私兵。フィリピクスによって偵察遠征に送られていたヘラクリウス(後の皇帝の父)の驚くべき逃亡。ペルシア人ザベルタス、そしてローマ軍によるコルマロンの包囲の放棄。フィリピクスによる向こう見ずで無謀な戦いと続いて起こったローマ軍の混乱。フィリピクスが病に倒れて指揮権はヘラクリウスに引き継がれた。ローマの代理司令官は南のペルシア軍に攻撃を仕掛け、春の頭にローマ軍はペルシア領に攻め込んだ。コメンティオルス〔とその軍〕がマルティヌスとカストゥスを部下として連れてアヴァール族に向けて送られ、敵に対して名を上げた。カストゥスは捕虜になった。トラキアの歩兵指揮官アンシムトはトラキアにはびこっていたアヴァール族に捕らえられた。コメンティオルスは敵への攻撃を躊躇し、軍議で賛否を論じた。敵の将兵のうちに広がってもいた誤った警報のためにコメンティオルスのカガンへの攻撃計画は頓挫した。狩りをしていた時に敵に捕られたブサスという名の兵士が農夫に運命を委ねられ、攻城兵器の作り方を夷狄に教えた顛末。成功に終わったカガンによるベロエアとディオクレティアノポリスの包囲。マウリキウス帝は夷狄の略奪によってヨーロッパにもたらされた災難のためにビュザンティウムの群衆に嘲られた。マウリキウスによってトラキアでの指揮を委ねられたミュスタコンとあだ名されたヨハネスは、第二位の指揮権を持ったドロクトンと共に、ハドリアノポリスがアヴァール軍によって包囲されていた時に彼らを攻めて市を救った。ヘラクリウスがペルシアのある砦を攻めた。サピルの並外れた勇気によって落とされたベイウダエスの砦。フィリピクスの帝都への帰還。 第三巻はフィリピクスに代わる東方の指揮へのプリスクスの任命でもって始まる。後者はプリスクスを嫉妬して皇帝に軍への配給の削減を通知するよう説き伏せた。プリスクスは野営地に近づくと、軍に挨拶をするためには通例のように馬から降りなかった。この侮辱と配給の削減は兵士の暴動を誘発した。それからプリスクスは「人の手で作られていない」画像をエリフレダスに与えてこれを見せることで落ち着けようとしたが、彼らはこれに石を投げつけた。プリスクスはコンスタンティナへと逃げ込んでゲルマヌスが彼の意に反して司令官に選任された。それらの邪魔が起こっていた間、ペルシア軍はローマ人を大いに悩ませた。したがって皇帝はプリスクスを指揮権から解いてフィリピクスを再任させた。しかし軍は彼に対しても暴動を起こした。コンスタンティナはペルシア軍の包囲を受け、ゲルマヌスに救われた。マルテュロポリスでの戦いでローマ軍はペルシア軍に対して見事な勝利を得て、彼らの将軍マルザスと三〇〇〇人が殺され、一〇〇〇人が捕虜になった。アリストブロスが労をとったおかげで軍は皇帝と和解した。ギリゲルドン砦でのローマ人捕虜の勇敢さ。アンティオキア総主教グレゴリウスはフィリピクスと軍との友好関係を再建した。マルテュロポリスはシッタスの裏切りのせいでペルシア軍に落とされた。フィリピクスはペルシア軍と戦う指揮権をコメンティオルスに取って代わられた。ゲタイ族ないしスラヴ人がトラキアの境界を略奪した。ローマはロンゴバルド人に対して武器を取った。リビュア〔アフリカ属州〕がマウリシイ族〔ムーア人〕に破れた。コメンティオルスの指揮下でローマ軍はニシビス近くのシサルバヌムでペルシア軍と戦った。ローマ軍は非常に勇戦して勝利した。ヘラクリウスがその戦いで大いに目立った。ペルシア軍の司令官フラアテスは殺されて多くの戦利品が敵から得られた。バラムによるトルコ人に対する勝利、彼はホルミスダス〔四世〕王のために大量の、そして価値のある戦利品を確保した。それからバラムはスアニアに対して剣を向けた。ローマ軍はロマヌス指揮下でバラムと彼の軍を攻め、彼を手酷く破った。そのためにホルミスダスは女人の服を送ってバラムを嘲弄した。バラムはホルミスダスにコスロエスの息子ではなく娘に宛てた手紙を出して嘲弄への意趣返しをした。シュンバティウスによって煽られたアルメニア軍は彼らの指揮官ヨハネスを殺してペルシア人の方へと奔る準備をした。コメンティオルスが皇帝によって送られてくると、騒擾を鎮めてシュンバティウスをビュザンティオンへと移送した。彼は野獣へと投ぜられるべしという判決を下されたが、彼の生命は皇帝の慈悲のおかげで助けられた。ホルミスダスはバラムに向けてサラメスを送り出した。バラムはサラメスを破ってこれを象に踏み殺させ、王に対する反逆を公にした。バラムは反乱を企てる前は大きな権勢を持っており、そのために王に次ぐ地位にあるものと思われており、ローマ人がクロパラテスと呼ぶ官職を持っていた。話はより前の時代の出来事へと移り、ユスティヌスとティベリウスの治世に起こったこと、ペルシア王ホルミスダスの残虐性、そしてその一族の起源についての短い説明が与えられる。第三巻の内容は以上のようなものである。 第四巻はペルシア人の内戦の拡大とバラムが支配している間の勝利と成功を述べる。フェロカネスの殺害。ザデスプラス〔ザデスプラテスとも(N)〕が敵に寝返った。ビンドエスに王位を追われたホルミスダスは鎖に繋がれながら自分の主張を弁明することを許された。その後ビンドエスは返答をし、ホルミスダスの息子と王妃は彼の眼前で斬殺されて処刑された。彼自身は目を潰され、その後に彼の跡を継ぐよう選ばれた息子コスロエスの命令で死ぬことになった。バラムの苛政。ペルシア王コスロエスはキルケシウムへと逃亡し、そこで彼はマウリキウス帝に手紙と使者を送った。バラムがペルシア人〔の支持〕によって王になろうと企んだが、自分を選ぶよう彼らを説得できず、自分で即位した顛末。皇帝はコスロエスをヒエラポリスへと移動させ、彼の地位に相応しい敬意を払った。コスロエスがローマ人と同盟する前にバラムとコスロエスの間で起こった出来事。バラムによってマウリキウスに送られた使節団は退去させられ、コスロエスからの使節団は迎えられた。皇帝はメリテネ主教とアンティオキア主教グレゴリウスをコスロエスに送った。ザメルデス、ゾアナンベス及びその他の者たちの裏切りによるバラムの殺害。バラムに対する陰謀に参加していたビンドエスがペルシアへと逃げる。マルテュロポリスがコスロエスによってローマ人に返還された。裏切り者シッタスの焼死。メリテネの回復に際しての同地の主教ドメティアヌスによる祝いの演説。四巻の内容は以上のようなものである。 第五巻はペルシア人の王コスロエスが落胆して心臓を病み、殉教者セルギウスの神殿、夷狄の残りの崇敬の対象に言伝を送り、不運からの脱出法を祈願して宝石のついた黄金の十字架を贈ることを約束した顛末を述べている。ブリスカメスの先導でロサスによって裏切られて殺されたザデスプラスのこととコスロエスに都合の良い他の出来事。コスロエスはマウリキウス帝による借金への保証を与え、コメンティオルスが指揮権から解任されることを要求する使節を送った。彼の代わりのナルセスの任命と僭称者バラムに対するローマ人との同盟。マウリキウスからコスロエスへと贈られた王らしい贈り物。ダラスの鍵のペルシアの使節ドルブザス〔またはドラブザス(N)〕による皇帝への引き渡し。ローマ人がバラムに対抗してコスロエスと同盟を結ぶよう説くメリテネ主教ドメティアヌスの演説。ローマ人とペルシア人の激突の前のコスロエスの成功の数々。いかにしてコスロエスがビンドエスの援助によって王位と王の宝物を取り戻したか。アルメニアと東方でのローマの軍勢らの合体、バラムとの会戦、ローマ軍の見事な勝利。ナルセスが指揮を執ったこの戦いで額に十字架の印を付けたいくらかのトルコ人が捕らえられ、彼らは自分たちは以前に疫病の猛威から逃れるためにそこに来たと明言した。ペルシア人ゴリンドゥクと彼の厳しい禁欲人生。支配地へのコスロエスの帰還。コスロエスから殉教者セルギウスへと贈られた贈り物。聖者へのキリスト教徒であった妻シレムが妊娠できるようにとの彼の祈願。祈願はうまくいったため、彼はその殉教者の神殿に価値ある贈り物をした。コスロエスは反乱に加わった者皆を滅ぼし、王に対して手を上げたとしてビンドエスを処刑した。ローマ人は暴君に対して反旗を翻すことになるだろうとコスロエスは予言した。カルケドン主教プロブスの使節、神の母の画像、そしてその使節に起こったこと。ヨーロッパのアンキアロスへの皇帝の滞在、そこで彼は萌芽的な前兆に見舞われた。彼の宮殿への帰還とザラブザスの使節の到来。第五巻は以上のような内容である。 第六巻は市〔コンスタンティノープル〕を発ったマウリキウスが海で暴風に襲われた顛末を述べている。ヘラクレイアでの滞在中に手と目と眉、ないし瞼を持たず、魚の尾が股についた異形の赤子が生まれた。その化け物の破滅。琴を持ってきた三人のスラヴ人が大洋の境界からカガンのもとへと送られてきたと言い、マウリキウスの前にやってきた。フランク族の王テオドリックによってボッススとベットスが使節としてマウリキウスのもとへと送られ、金子を見返りとした同盟を申し込んだ。その申し出は拒否された。群の中の一頭の大きな雄鹿が怪我をして林へと逃げ、一人の護衛と一人のゲピタエ人に追われた顛末。黄金の装飾品のために前者が後者により騙されて殺され、かなりした後に有罪を言い渡されて焼き殺された顛末。アヴァール族のローマ人に対する遠征、シンギドゥムの包囲、ヨーロッパ軍の司令官へのプリスクスの任命。ドリジペラにある殉教者アレクサンデルの教会はカガンによって火を放たれた。ローマ軍はカガンによってツルルムに封じ込められた。マウリキウスは賢明にもカガンを欺いて包囲を解かしめた。アヴァール族からローマ人への使節、アルダガスト〔アヴァール族の支配下にあったスロヴェニア人の首長(N)〕の敗北。トリブヌスのアレクサンデルとローマ軍の勇気、スロヴェニア人の殺戮、そして彼らのローマ軍への反撃。都市の女王で生まれた四つの足、〔一つの頭の他に〕他に二つの頭を持ったを持つ怪物について。プリスクスはスロヴェニア人から分捕った戦利品をペルシア兵と分け合わなかったために指揮権を剥奪され、ヨーロッパ軍の指揮権はペトルスが引き継いだ。プリスクスからカガンへと使節として送られたテオドルスの学識と抜け目のなさ。第六巻の内容は以上のようなものであった。 第七巻は兵士の騒動と、すなわち以前ゲタエ人と呼ばれていたスラヴ人に対する彼らの勇気を述べている。ペトルスとトラキアのアセムス市の市民に起こったこと。スロヴェニアの司令官ピリガストゥスが殺された顛末。水不足での大変な苦しみをものともしないローマ軍の勇気。スロヴェニア軍に破れたペトルスがプリスクスに取って代わられた顛末。コンスタンティノポリス総主教、断食者ヨハネスの死。マウリキウスが彼に貸した金について、そのために彼が負債を持っていたこと。真に敬虔な皇帝が総主教の残したボロボロの衣服へ払った大変な敬意。マウルシイ人のカルタゴ遠征、それがゲンナディウスの勇気によって待ったをかけられた顛末。数日間見られた隕石について。トルコ人の内戦。彼らの制度、作法、習慣についての説明。トルコ人のカガンがエフタル人のエトナルコス〔スロヴェニア人とその他の部族の君主や首長に与えられた称号(N)。〕を殺し、その人たちを奴隷にし、三〇万人のオゴール人とコルキス人を殺したこと。彼が彼に反旗を翻したトゥルムを殺し、マウリキウス帝に勝利を知らせる手紙を送った顛末。彼はアヴァール族をも隷属させた。タウガストの住民〔拓跋氏を指す〕とムルキ族が破れたアヴァール人と共に逃げ込んできたこと。ユスティニアヌスの治世以来その多くがヨーロッパに住んでおり、アヴァール族と自称していたウアール族とフン族について。トルコ人の帝国は地震と疫病から解放された。金山とタウガスト市のこと。蚕とその育て方、クブダの広大な絹工業。白いインド人のこと。シンギドゥムの住民の奴隷化に関するカガンのプリスクスとの会談。プリスクスの応答、彼がその都市を救った顛末。ダルマティアでの夷狄の略奪、プリスクスが彼らに差し向けたグンドゥイスの大勝利。マウリキウスの治世一九年目にある僧が彼とその子供たちの死を予言した。抜き身の剣を持って広場から宮殿の玄関へと走ってくると、彼はマウリキウスと彼の子供たちは剣で殺されるだろうと明言した。ヘロディアヌスという人物も何が起こるのかを予言した。ローマ軍陣営での飢餓。カガンが驚くべき人間性でもって、敵対行為の五日間の中断を認め、その間邪魔を恐れることなく夷狄から物資の補給を受けた顛末。プリスクスがそのお返しに香料を送った顛末。カガンのモエシア進撃。モエシアでのコメンティオルスとの戦い、コメンティオルスの裏切りでローマ軍は夷狄に斬殺された。ドリジペラへのコメンティオルスの逃走、しかしそこの住民は彼を逃亡者として受け入れることを拒否し、彼は〔コンスタンティノープルの〕長城へと向かった。夷狄は執拗な追撃でまずドリジペラを占領し、殉教者アレクサンデルの教会を焼き、彼の遺骸を墓から引きずり出して侮辱した。しかし神の正義が彼の侮辱者に下され、カガンの七人の息子が横痃で一日のうちに死んだ。それらの混乱の間コメンティオルスはコンスタンティノープルに居住し、その間に夷狄は長城まで近づいた。ビュザンティウムの住民は警戒のためにヨーロッパを放棄してアジアに渡ることすら考慮した。しかし皇帝はハルマトンを使節としてカガンに送り、ハルマトンは二〇〇〇〇枚の金貨を加えた豪勢な贈り物を出し、苦労しつつ和平を説得して「神はカガンとマウリキウス、アヴァール族とローマ人の間柄を判断する」と宣言した。人間の形をした化け物がナイルの水中で見られ、様々な意見がその川で起こったことについて生まれた。テオヒュラクトスはクニドスのアガタルキデスに賛同している。彼は、アエティオピア地方では夏至から秋分まで激しく長続きする豪雨が降り、水が水源からしか供給されないためにそこでは川が冬に縮まり、夏にはアエティオピアからの雨水で広がるのが当たり前であると言っている。第七巻の内容は以上のようなものである。 第八巻は、コスロエスがローマ人に服属するサラセン人の襲撃の結果、条約を破棄しようと望んだが、使節として送られていたゲオルギウスにそうしないよう説得された次第について述べている。しかしコスロエスが自分は条約を皇帝のためではなくゲオルギウスのために破棄せずに守ると宣言したため、ゲオルギウスは皇帝の不興を買った。コメンティオルスに対する裏切りの非難、兵士と彼の和解と皇帝による司令官への再任命。プリスクスとコメンティオルスが指揮したアヴァール族とローマ軍の戦い。後者は戦いに加わらないための逃げ口上を述べたが、軍はプリスクス指揮下で最も見事に振る舞って四〇〇〇人を殺した。二度目の戦いでアヴァール軍は九〇〇〇人を、三度目の戦いで一五〇〇〇人を失った。四度目の戦いでローマ軍は見事な勝利を得て三〇〇〇〇人のアヴァール族とゲピタエ族が殺された。五度目にして最後の戦いでアヴァール軍は完敗し、アヴァール人三〇〇〇人が四〇〇〇人の他の夷狄、二二〇〇人の他の部族、八〇〇〇人のスラヴ人ともども捕らえられた。カガンは皇帝に捕虜のアヴァール人を返還するよう狡猾に説き伏せた。コメンティオルスの落胆、フィリッポポリスへの途上で彼の不用心のために多くの兵士が凍死した。ペトルスが再び皇帝によってヨーロッパの指揮権を委ねた。マウリキウスの息子テオドシウスとゲルマヌスの娘との結婚。女王たる都市での飢餓、デモスの無軌道な行い、その間皇帝は聖務、典礼、同日の兵士の処罰と帰還に意を向けていた。ペトルスはマウリキウスから金に糸目をつけずにトラキア軍をイストロス川の対岸で食い止めるよう命じられ、神の声がペトルスに聞こえた。ローマ軍で暴動が起こってマウリキウスに対して立ち上がり、兵士によってフォカスが総督に宣言された。ペトルスの逃走。皇帝は暴動を知った。デモスたちはデモス長のセルギウスとコスマスに促されて最初に情勢に口を出し、それは緑組一五〇〇人と青組九〇〇人にのぼった。マウリキウスはデモスの成員に給付金を与え、反乱を起こした兵士たちに使節を送り、彼らはその受け入れを拒んだ。ビュザンティウムは防衛体制に入った。軍はテオドシウスに言伝を送って彼ないし彼の義父が皇帝に宣言されるよう要求した。マウリキウスはこれを聞くと反乱の原因はゲルマヌスなのではないかと疑い、彼の命を脅かした。ゲルマヌスは義理の息子テオドシウスからの警告を受け、キュロスが建てた神の母の教会に逃げ込んだ。皇帝の息子たちの教育役の宦官ステファノスはゲルマヌスに教会を去るよう促す手紙を出したが、この任務は失敗した。テオドシウスは義父への通報のために父から鞭打たれた。ゲルマヌスは神の母の教会から聖ソフィア教会へと移り、再び召還を受けると、忠実に尽くしてきた家来のアンドレアスによって教会を離れるのを妨げられた。市内の騒擾とパトリキウスのコンスタンティノス・ラルデュス邸の焼き討ち。マウリキウスの困惑、嵐で妨げられた逃走。テオドシウスのコスロエスへの派遣団。彼の父が仕組んだ、彼の帰還の印になるはずの指輪を見せながらのニカイアからの出発。市の住民とその中のヘブドミテスなる者が僭帝の側についた。ゲルマヌスが自らを皇帝と宣言する無駄な試みがなされ、青組が彼を支持したという理由で緑組は支持を拒んだ。フォカスはヘブドモンの聖ヨハネス教会で皇帝に即位し、その時キュリアクスが帝都の総主教であった。フォカスの宮殿入りと彼の妻レオンティアのアウグスタへの即位。行列の時の宮殿の周りでのデモス長たちの言い争い。嘲弄されたことによるアレクサンデルによる青のデモス長コスマスの襲撃。マウリキウスはまだ死んでいないという助言が僭帝に皇帝の殺害を決意させた。マウリキウスの子供たちはエウトロピウス港で彼の眼前で殺された。マウリキウスの哲学的忍従とリリウスによる彼の殺害。マウリキウスの遺言状はヘラクリウス治世の間に見つかった。皇帝と彼の息子たちの遺体は海に投げ捨てられた。マウリキウスへの追悼演説。兵士たちはマウリキウスに対する罪を神意の判断で罰せられ、反乱に荷担した者のうち誰一人としてそれからそう長くは生きられなかった。ある者は病で、他の者は天からの火で、またある者は剣で一人残らず滅ぼされた。ヘラクリウスはペルシア人の王ラザテス〔正確には彼はペルシアの王ではなく将軍で、六二七年のニネヴェの戦いでヘラクリウスと戦って敗死した〕に対する戦争を宣言することを決意して軍を集めた時、僭帝を支持した者は二人しか残っていなかったことに気付いた。ローマ人がペルシア人に対して優勢を示し始めた後、叛徒が生き残っている限り勝利は常に敵にもたらされた。マウリキウスの息子テオドシウスはペトルス、コメンティオルス、そしてコンスタンティヌス・ラルデュス共々フォカスの命でアレクサンデルに殺された。テオドシウスが殺されていないという誤った報告。アレクサンドリアのテュカエウムと呼ばれる地区の像たちがそれらの場所から一斉に動いてビュザンティウムで起こったことを夕食から家に戻る最中だったある写学生に告げた顛末。マウリキウスは彼の臣下に租税の三つ目の部分を免除して送水路の修理のために三〇タラントンをビュザンティウムの人たちに与えたと言った。彼の学者と学生に対する気前のよい振る舞い。殉教者エウフェミアの流血に関連して起こった奇妙な出来事。マウリキウスは最初は信じることなくその奇跡を試し、それを確信した。フォカスがマウリキウスの妻をその娘ともどもある私邸で射殺した顛末。ペルシア王コスロエスへの失敗した使節派遣。マウリキウスの仇討ちが真摯な義務だと称したコスロエスによって破棄されたペルシアとの条約。使節として派遣されたリリウスは任務を果たすことなく戻った。マウリキウスに対する陰謀をフォカスと共に企んだアレクサンデルが、実際はテオドシウスを殺していたのだが彼の命を助けたという嫌疑で殺害されたこと。この歴史書はここで終わる。 その文体は言葉の意味にせよ構成にせよ、全般的な配列にせよとりわけ明晰で簡素であり、自然な印象を与える。自然的な愛嬌に満ちた〔彼の著作での〕言葉使いは過度の気取りによる形式のわざとらしい変化では特徴付けられるものではない。彼の計画によれば彼は文体を教会の歴史のために採用した最良のものに保った。 彼はイオニア方言で書いている。彼が生の歴史的事実を述べる際の過度の簡潔さは賞賛の余地も模倣の余地も残していない。彼は自らの人種や家族については何も述べず、まるでホメロスのように自らについて語ることに関しては沈黙を守っている。しかし、彼はシケリアへの亡命期間に作品を書いたようである。述べるべきであった自身の人種や家族について何も述べていない一方で、彼は自身の亡命に言及し、精神の下劣さを示している。その歴史書の編集に際して多くの著者たちを参考にしたという彼の自慢の種は些末なことを捨てることができない性分と誇示への子供じみた愛好を示している。彼は以下のように述べている。彼の歴史書の最初の一巻目はそのうち三一冊は著者の名を挙げている五七〇冊から編集したものであり、二巻目は二〇八冊で著者の名を挙げているのは二五冊、三巻目は六〇〇冊で著者の名を挙げているのは二六冊、四巻目は八五〇冊で著者の名を挙げているのは三六冊、五巻目は二〇〇冊で著者の名を挙げているのは二六冊である。ケファリオンの歴史書は以上のようなものである。 彼の文体は簡潔で上品で、けばけばしいが明敏な言語で、きちんと整った構成である。彼はとりわけ語の選択に用心している。彼の表現様式ははっきりしていて勢いがあり、演説の技法によって読者を魅了するが、あたかも技法を使っていないかのように、出来事が明瞭に述べられるのを妨げないし、それどころかより明瞭にしている。また彼は真実に厳しく忠実であることを意図していると明言している。 この著作は六部に分かれる。第一部はトロイア戦争に先立つ出来事の話を、第二部はトロイアの占領からローマの建設までの出来事を、第三部はローマの建設から第六八オリュンピア会期〔紀元前508-505年〕に執政官の任命が君主制を終わらせた時までの出来事を、第四部はユリウス・カエサルが単独の皇帝になって執政官が廃止された第一八二オリュンピア会期〔紀元前52-49年〕までの執政官の政権の出来事を、第五部はユリウス・カエサル支配下からビュザンティウムの栄光が最高潮に達した第二七七オリュンピア会期の始まり〔コンスタンティヌスによるビュザンティウムへの遷都〕までに起こった出来事を収めている。第六部はビュザンティウムがコンスタンティヌス帝のために幸運をもたらした時をもって始まり、なぜだかは私は知らないが、慈悲深さと穏和さで多くの先任者たちより勝っていると著者が賞賛しているアナスタシウスの死まで下る。彼の死はインディクティオの一一年目に起こり、その時にはマグヌスが単独執政官であった。この歴史書が収める期間は一九〇年間である。 同じ著者が書いたユスティヌス帝治世下での出来事を収めた他の本も読んだ。それはアナスタシウスの死に際してユスティヌスが彼の跡を継ぐべく選ばれ、ユスティヌスの跡をユスティニアヌスが襲った顛末、後者の治世の初期に起こった様々な出来事を述べている。著者は彼の息子ヨハネスの死のためにこれ以上書けなくなり、彼への深い影響のために研究や文筆業に専心できなくなった。 彼はビテュニアのアスカニアと呼ばれる湖でその一部が囲まれたニカイアで生まれた。彼の文体は、大きな出来事への意識を反映してもったいぶった大げさなものである。彼の言葉遣いは古風な構成で、言葉は述べられる出来事の重要性を踏まえたものである。彼の同時代〔についての記述〕は長々しい挿入語句と時宜を得ない倒置で満たされている。その調子と突然の中断は用心深く行われているため、概して明瞭さのおかげで気軽な読者からは知られていない。トゥキュディデスの文体に倣ってはいるが、演説はより明瞭で見事である。他のほとんどの箇所でもトゥキュディデスが彼の見本になっている。 | |