11巻→ディオドロス『歴史叢書』12巻→13巻

この巻のあらまし
1 人生で見舞われる事柄の無常さについて考えるのをやめた時に人は困惑を感じるということ、これは全く妥当である。というのも我々が良いと考えるものは決して人間に混じりっけなしの形で与えられるものとは見えず、何かしらの利益が混ざることもなく完全な形で悪いものもないからである。我々が過去の出来事、とりわけ際だって重要な出来事に思いを致すならばこの証拠は得られるだろう。例えば、ペルシア人の王クセルクセスのギリシア人に対する遠征は彼の軍勢の強大さのために、ギリシア人が突入したこの戦争は彼らの奴隷化に決定的であるかのようで、アジアのギリシア諸都市はすでに隷属化しており、ギリシアの人たちも似た運命を辿ると誰もが思ったがゆえに彼らに最大の恐怖を引き起こした。しかし戦争は予想に反して驚くべき終わりを迎え、ギリシアの人々は恐れていた危機から解放されただけでなく大きな栄光をも手にし、ヘラスのあらゆる都市は全ての人がその運命の完全な逆転への驚嘆で満たされたほどの非常な繁栄を享受した。それからの五〇年間、ギリシア人はその繁栄を大いに進歩させた。その年月、例えば、多くの芸術が興隆して彫刻家ペイディアスを含む我々が記録した最も偉大な芸術家たちがその時代に活躍した。文芸でも似たように大きな進歩があり、哲学と弁論術は全てのギリシア人のもとで、とりわけアテナイ人のもとで非常に栄誉ある地位を得た。というのも哲学者としてはソクラテスとプラトンとアリストテレス、弁論家としてはペリクレスとイソクラテスと彼の弟子たちがおり、同様に将軍としての実力で名声を勝ち得たミルティアデス、テミストクレス、アリステイデス、キモン、ミュロニデス及び彼らに勝るとも劣らぬ他の人たちについては以下で長く書くつもりである。
2 第一の地位を占めたのはアテナイ人であり、彼らは名声と勇気で群を抜いていたために彼らの名は人の住む世界のほとんど全域で知られた。というのも彼らはラケダイモン人やペロポネソス人の助けを借りることなく彼ら自身の資源でもってペルシアの大軍に陸と海で勝利し、遍く広がるペルシア人の名高い覇権を打破して彼らにアジアの全ての都市を解放する条約の条項を強いたことで覇権を増進していったからだ。しかしそれらの事柄について我々はこの巻と前巻という二つの巻で詳細で適切な簡潔さでもって説明しており、我々はまずここでその時点を論じた後に順序通り次の出来事へと向かうことにしよう。前巻を我々はクセルクセスの遠征で初め、キモン指揮下でのアテナイ人のキュプロス遠征までの歴史を提示した(1)。この巻を我々はアテナイ人のキュプロス遠征でもって始め、アテナイ人が票決した対シュラクサイ人の戦争まで続けることにしよう(2)

キモンのキュプロス遠征
3 エウテュデモスがアテナイでアルコンだった時(3)、ローマ人はルキウス・クインクティウス・キンキナトゥスとマルクス・ファビウス・ウィブラヌスを執政官に選出した(4)。この年、エジプト人のためにペルシア人との戦争をし、プロソピティス島として知られる島で全艦隊を失っていたアテナイ人は少し後に小アジアのギリシア人のためにペルシア人との戦争を決定した。二〇〇隻の三段櫂船の艦隊を設えた彼らはミルティアデスの息子キモンを将軍に選出してペルシア人との戦争をするためにキュプロス島へと向かうよう命じた。そしてキモンは素晴らしい乗組員と十分な物資を供給された艦隊を率いてキュプロスへと航行した。その時のペルシア軍の将軍はアルタバゾスとメガビュゾスであった。最高指揮権を有していたアルタバゾスはキュプロスに三〇〇隻の三段櫂船と共におり、メガビュゾスは三〇万人の陸軍と共にキリキアに野営していた。キモンはキュプロスに到着して海の支配者となるとキティオンとマリオンを包囲し、敗者を人道的に扱った。しかしこの後、キリキアとフェニキアからの三段櫂船が島へとやってくると、キモンはそれらに向けて出航して戦いを強い、多くの船を沈めて一〇〇隻を乗組員共々拿捕し、残りをフェニキアあたりまで追撃した。ペルシア艦隊は残余の船を連れてメガビュゾスが陸軍を連れて野営していた地方の岸に避難しようとした。そしてアテナイ軍は航行して兵を上陸させて戦い、その過程でもう一人の将軍アナクシクラテスが勇戦してその生を英雄的に終えた。しかし残りの者は戦いで勝利し、多くの敵を殺した後に船へと戻った。この後アテナイ軍はキュプロスへと再び戻った。
 その戦争の一年目の出来事は以上のようなものであった。
4 ペディエオスがアテナイでアルコンだった時(5)、ローマ人はマルクス・ウァレリウス・ラクトゥカとスプリウス・ウェルギニウス・トリストゥスを執政官に選出した(6)。この年にアテナイ軍の将軍キモンは海を支配下に置いていたためにキュプロス島の諸都市を制圧した。ペルシアの守備隊の大部隊がサラミスにいてその都市には投擲兵器とありとあらゆる武器、穀物と他のあらゆる種類の物資の蓄えが豊富にあったため、彼は包囲戦をするのが好都合だと結論した。というのも、そうすればアテナイ軍が海を支配している以上はペルシア軍がサラミス救援に向かえずに同盟者を見捨てれば軽蔑を招くことになるため、キモンは自分がキュプロス全域の支配者となるだけでなくペルシア軍を撃破するためにはこれが最も簡単な方法であり、つまるところキュプロス全域が武器によって制圧されればこれが戦争全体の決着をつけることになると推論していたからだ。実際に事態はそのように進展した。アテナイ軍はサラミスの包囲を始めて毎日攻撃をかけたが、市内の兵士は投擲兵器と物資が供給されていたために城壁で包囲軍を易々と食い止めた。しかしアルタクセルクセス王はキュプロスで彼の軍勢が被った逆転を知ると、友人たちに戦争について諮ってギリシア人と講和するのが利になると結論した。したがって彼はキュプロスの将軍と太守たちにギリシア人と協定を結ぶことを許すという旨の手紙を送った。したがってアルタバゾスとメガビュゾスは和解について話し合う使節団をアテナイに送った。アテナイ人はそれに賛同してヒッポニコスの息子カリアスを団長とした全権代表団を送った。アテナイ人とその同盟国はペルシア人と概ね以下のような条件の講和条約を結んだ。全てのギリシア人の都市は自身が制定した法律の下で暮らす。ペルシア人の太守は三日の旅程の海域までは近づいてはならず、いかなるペルシアの軍船もパセリスないしキュアネイア岩壁(7)以内へは航行してはならない。もしその条件が王とその将軍たちによって遵守されるならば、アテナイ人は王が支配者となっている領域へは兵を送らない」。条約が厳かに締結された後、アテナイ人は輝かしい勝利を得て注目に値する講和条項を締結し、キュプロスから軍を撤退させた。そしてキモンはキュプロス滞在中に病死した。

第一次ペロポネソス戦争
5 ピリスコスがアテナイでアルコンだった時(8)、ローマ人はティトゥス・ロミリウス・ウァティカヌスとガイウス・ウェトゥリウス・キコリウスを執政官に選出した(9)。エリス人が八三期目のオリュンピア紀を祝い、ヒメラのクリソンがスタディオン走で優勝した。この年にメガラ人がアテナイ人に反旗を翻し、ラケダイモン人に同盟を結ぶための使節団を派遣した。これに怒ったアテナイ人はメガラ人の領土に兵を送って彼らの財産を略奪して大量の戦利品を得た。そしてメガラ人がその都市から領地を守るべく出撃してくると、戦いが起こってアテナイ軍が勝利して彼らを城壁まで追撃した。
6 ティマルキデスがアテナイでアルコンだった時(10)、ローマ人はスプリウス・タルペイウスとアウルス・アステリウス・フォンティニウスを執政官に選出した(11)。この年にラケダイモン軍がアッティカに攻め込んで郊外の大部分を荒らし、アテナイのいくつかの要塞を包囲した後にペロポネソス半島へと撤退した。そしてアテナイの将軍トルミデスがカイロネイアを奪取した。ボイオティア人が軍を集めてトルミデスの部隊に待ち伏せ攻撃を仕掛けると、コロネイアで激しい戦いが起こってトルミデスが戦死し、残りのアテナイ軍の一部は殺されて他の者は生け捕りにされた。かくも大きな災難の結果、アテナイ人は捕らえられた市民を取り戻すためにボイオティア中の都市に各々が作った法律の下で暮らすことを承認せざるを得なくなった。
7 カリマコスがアテナイでアルコンだった時(12)、ローマではセクストゥス・クインクティウス〔と〕…〔欠損〕…トリゲミヌスが執政官に選出された(13)。この年にボイオティアのコロネイアでの敗北によってアテナイ人がギリシアで力を落としていたため、多くの都市が彼らに反旗を翻した。エウボイア島の住民がその反乱を指導したため、将軍に選出されたペリクレスは強力な軍勢を率いてエウボイアへと遠征し、ヘスティアイア市を強襲で落として住民を故郷の都市から追い出した。そして彼は他の諸都市を威嚇してアテナイ人への服従へと立ち返らせた。
 カリアスとカレスが和平の交渉をして批准し、三〇年期限の休戦が成った(14)

シュラクサイとアクラガスの戦争
8 シケリアではシュラクサイ人とアクラガス人の間で以下のような理由で戦争が勃発した。シュラクサイ人はシケロイ人の支配者ドゥケティオスを破り、彼が嘆願者となった時には彼を全ての罪科から放免し、コリントス人の都市に居を構えさせた。しかしドゥケティオスはコリントスでは少しの間しか過ごさず、約束を破って神々が自分にシケリアのカレ・アクテ、即ち「美岸」(15)に都市を建設すべきだという返答を神託が寄越したということを口実として大勢の植民団と一緒に島へと航行していった。いくらかのシケロイ人もその中に含まれており、ヘルビタの支配者アルコニデスもその中にいた。それから彼はカレ・アクテへの植民に勤しんだ。しかしアクラガス人は一面ではシュラクサイ人の嫉妬、また他面ではシュラクサイ人が共通の敵だったはずのドゥケティオスを手放したことへの非難のため、彼らに諮ることなく勝手な行動をとってシュラクサイ人に宣戦した。シケリアの諸都市は分裂し、その一部はアクラガス人に味方して戦ったため、双方で大軍が動員された。ヒメラ川で野戦が起こると諸都市は大変な奮闘ぶりを示し、続いて起こった戦いでシュラクサイ人が勝利して一〇〇〇人以上のアクラガス人を殺した。戦いの後、アクラガス人は条約の条件を論じるために使節を送り、シュラクサイ人は和平を締結した。

トゥリオイ建設の顛末
9 シケリアでの情勢は以上のようなものであった。イタリアではトゥリオイ市が以下のような理由で建設された(16)。以前の時代にギリシア人がイタリアにシュバリスを建設すると、その都市は土地の肥沃さのために急成長を遂げた。その都市はクラティス川と〔都市の名前が〕その名にちなんだシュバリス川という二つの川の間にあったため、広大で肥沃な郊外の土地を耕作したその住民は非常に豊かになった。そして彼らは多くの同盟者に市民権を承認し続けたため、イタリアの住民のうちで第一の地位の人々として考えられるまで拡大した。現に彼らは三〇万人という群を抜いた人口を有することになった。
 ある時、シュバリスの人々にはテリュスという名の指導者がおり、彼は最も影響力のある人たちを弾劾して五〇〇人の最も裕福なシュバリス人を追放して土地を没収するようシュバリス人を説得した(17)。亡命者たちがクロトンに行ってアゴラの祭壇に逃げ込むと、テリュスは亡命者たちを連れてくるか戦争を覚悟するよう命じる使節団をクロトン人に向けて派遣した。民会が開かれて嘆願者をシュバリス人に引き渡すか、優勢な敵と戦争をするかという問題について審議がなされ、審議会と人々は途方に暮れた。まず大衆の感情は戦争への恐怖から嘆願者を縛り首にする方へと傾いていたが、この後に哲学者ピュタゴラスが嘆願者の無事を守るべきだと助言すると、彼らは意見を変えて嘆願者の身の安全のために戦争を受け入れた。シュバリス人が三〇万人の軍勢でもって彼らに向けて進軍してくると、クロトン人は陸上選手のミロン指揮下の一〇万人の軍勢で彼らに立ち向かい、彼はその身体の強壮さのために一番槍をとって敵を敗走させた。オリュンピアで六回優勝して身体の強壮さとこれに相応しい勇気を持っていたこの男はオリュンピアの冠を着けて獅子の皮に棍棒というヘラクレス風の身なりで戦いへと向かったと言われている。彼は同胞市民から勝利の立役者として賞賛を勝ち得た。
10 クロトン人は怒りのあまり捕虜を取らずに敗走の過程で手に落ちた者を皆殺しにしたため、大勢のシュバリス人が死んだ。彼らはシュバリス市を略奪して完全に破壊した。四八年後(18)にテッサリア人がその都市に移住してきたが、少しして我々が目下述べている時代にクロトン人によって追い出された。少し後にランポンとクセノクリトスが建設者となってその都市は他の場所へと移されて他の名を得た。その建設の状況は以下のようなものであった。
 故郷の都市から再び追い出されたシュバリス人はギリシアのラケダイモン人とアテナイ人に使節を送って帰還の手助けと植民への参加を求めた。その時のラケダイモン人は彼らの言うことには耳を貸さなかったが、アテナイ人はその事業への参加を約束し、一〇隻の三段櫂船に人員を乗り込ませてランポンとクセノクリトスの指導の下でシュバリス人のところへと送った。さらに彼らはペロポネソス半島のいくつかの都市に宛てて加わりたいと望む者は誰であれ植民に加わるよう依頼する手紙を送った。多くの人がその申し出を受け入れ、彼らは以下のようなものがある場所に都市を建設すべきであるというアポロンからの神託の返答を受け取った。
程良く飲める水、しかれど計り得ぬ糧。
 彼らはイタリアに投錨してシュバリスに到着すると、神が植民を命じた場所を探した。シュバリスからそう遠くない所でトゥリアと呼ばれ、メディムノスと呼ばれる地方原産の青銅の管がある温泉を見つけてこここそが神が指し示した場所だと信じた彼らはその周りに城壁を巡らして都市を建設し、その温泉にちなんでトゥリオンと名付けた。彼らはその都市を四つの通りによって縦に分け、最初のものをヘラクレイアと、二つ目をアプロディシアと、三つ目をオリュンピアスと、四つ目をディオニュシアスと名付け、三つの通りによって横に分け、一つ目をヘロア、二つ目をトゥリア、最後のものをトゥリナと名付けた。三つの通りによって形成されたそれらの地区には建物が林立し、その都市の建築は見事なものであった。

カロンダスの立法
11 トゥリオイ人は短期間しか平和に暮らすことができず大した理由もなく深刻な内戦に陥った。一見して旧シュバリス人は最も重要な官職を自分たちに、下位の官職を後になって市民として登録された市民に割り当てており、彼らは自分たちの妻もまた神々に犠牲を捧げる際には市民のうちで優先権を持ち、後発市民の妻はその次だと考えていた。さらに市の近くの土地を自分たちに、遠くにある土地を新参者たちに割り当てていた。上述のような原因から分裂が起こり、後発で名簿に追加されていた市民は多数派で力を持っていたため、元のシュバリス人をほとんど皆殺しにして市の植民地化を自分たちで実施した。郊外は広大で肥沃だったために彼らはギリシア出身の大勢の人に植民団になるようにと手紙を送り、彼らに市の一部を割り当てて対等な取り分の土地を与えた。市内で暮らし続けていた人は早々莫大な財産を手に入れ、クロトン人と友好関係を樹立して立派な仕方で国を管理した。民主制府を樹立すると、彼らは〔住民を〕一〇の部族に分けてそれを構成する人たちの民族にちなんで名前を割り当てた。ペロポネソスから集まった人たちから成り立っていた三つの部族を彼らはアルカディア族、アカイア族、そしてエリス族と名付け、ペロポネソスの外側で暮らしていた人たちのうちから集まってきた同数の部族にはボイオティア族、アンピクテュオニア族、ドーリア族と名付け、その他の人々から構成されていた残りの四部族をイオニア族、アテナイ族、エウボイア族、そして島嶼族と名付けた。また彼らは各々の市民から学識を賞賛されていた最良の人を立法者に選んだわけであるが、それがカロンダスだった。全ての人々の法律を検討した後、彼は最良の原則を選び出して自作の法律に組み込んだ。彼は自身が発見した多くの原則も用いた。我々の読者の啓発のためにこれについて述べることは我々の目的とは無関係ではあるまい。
12 手始めに彼は、子供の頭越しに継母に家を与える〔再婚〕者には祖国の事柄に関する議論への参加を禁じるという罰を与えた。それというのも我が子の事でこれほどの悪事を企む者は同様に祖国に対しても悪しき助言者になるだろうと彼は信じていたからだ。最初の結婚で幸運だった者はその良い巡り合わせに満足する一方で、初婚で不運だった者は二度目の結婚でも同じことになる思慮のない人間だと思われるからだ、と彼は言った。虚偽告訴罪にあたると判明した者は、悪事のために最高の報償を得たということを同胞市民に示すため、彼が行くところならばどこであれギョリュウの花冠を被せられるべきであると彼は宣言した。その結果、この罪状を言い渡された人のうちで或る者はその大変な不名誉に耐えることができずに自ら命を絶った。このようなことが起こると、虚偽告訴に手を染めていた者は誰であれ市から追放され、政府はこの悪からの解放されて素晴らしい生を送った。
 カロンダスは他の全ての立法者によって見過ごされてきた悪しき人間関係についての特有の法律を起草しもした。彼は良き人々の人柄はある場合には悪しき人たちとの見知りや親睦のために悪へと逸れ、悪が有害な病気のように人生を覆い尽くして最も正しい人の魂を汚染するのは当然だとみなしていた。それというのも悪しきことへの道は下り坂に傾いているために容易にそこへと落ち込むことになるからで、このために良き人柄の多くの人が偽りの快楽によって罠に落ち、非常に悪い習慣へと座礁することになるのである。したがってこの堕落の元を絶とうとしてこの立法者は無節操な人との友情と野放図な親睦を禁じ、悪しき繋がりを取り締まる法律を施行し、このような仕方で過ちを犯す人々がその道へと向かうのを厳罰によって防いだ。
 カロンダスは今まさに述べた法律よりも遥かに優れ、彼の時代以前の立法者たちによって見過ごされてきたもう一つの法律も起草した。彼は市民の息子全員は読み書きを学び、この都市は教師に給与を与えるべしという法律を定めた。というのも彼は自らの資質で報酬を得る手段を持たない者は最も高貴な娯楽から疎外されることになると考えたからだ。
13 事実、この立法者が読み書きを他のあらゆる学習に優先させたのは至極尤もな理由によってであった。それというのもそれらによって投票、学問、契約、誓約、そして人生に通常に最も資する他の全ての事柄など、人生の大部分の事柄を最も有用に決定できるからだ。まったくどのような人が文字の知識への相応しいだけの賞賛を行えるというのだろうか? そういった知識によってのみ死者は生者に記憶され、空間に広く分布している人たちは書かれた文字による伝達によって遠く離れたところにいる人とあたかもすぐ側にいるかのように対話するのである。そして国々や王たちとの間の戦時の誓約の場合、協定の順守への最も堅固な保証は文書の誤ることのない性格によってもたらされる。概して言えば、賢者と神々の神託、そしてまた哲学と全ての学知の最も賢明な言葉を保存し、絶えず来るべき時のために次の世代に渡すのは文書のみである。したがって自然が人生の原因である一方で、良き生の原因は読み書きに基づいた教育であるというのは真実である。そしてカロンダスは読み書きのできない者は多くの利点から疎外されていると信じ、立法によってこの悪を矯正して読み書きに国家への関心と支出を振り分けるべきだと判断した。そして彼以前の立法者は市民個人は国費で医師によって病の診察を受けるべきであり、その時に人の体は治療されるのが適当だと判断していた一方で、彼は教育をされていないことによって苦しむ魂に治療を施したということでそれらの立法者よりも優れている。他方で我々の祈ることは医者にかからなくてすむようにということであり、我々はあらゆる時を知識の教師と一緒に過ごすということが精神の欲求である。
14 上述のそれら両方の事柄に対しては多くの詩人たちが詩の中に証言を生み出してきた。悪しき交際に関する法律〔の証言〕は以下のようなものである(19)
卑劣漢との会話に喜びを覚える者を
私は決して彼の種族を尋ねることなく知る
人は自らと似た者をまさに好むもの。
継母について彼が宣した法律は以下の通り(20)
立法者カロンダス、かくの如く述べり
法典は多くのことを語るが、このことは
他の全てに優る。
我が子に二人目の母を押しつける者は
彼の国の民から尊重されるに少しも値しない
彼がもたらしたものは害毒なり
それは余所の源から自らの事柄へと。
彼曰く、お前が幸福なのは
最初に結婚した時だ、お前が寡婦の時は慎め
お前の運が悪ければ、それは狂人のなすこと
二人目の妻を得ようとするのは確かにそうなのだ。
 なるほど、それというのも同じことを二度間違う者は馬鹿としか考えようがないからだ。喜劇作家ピレモンは繰り返し航海する男を案内する時、その法を推奨した後に言っている(21)
私には驚くべきことだ、もはやある男が
海に出なくなったのに、彼が二回出るというのなら。 。
 似たように、ある人が結婚するならばそれは驚くべきことではないが、二度目の結婚であればそうではないと言われるだろう。それというのも女よりも海に二度身を晒すほうがましだからだ。なるほど、子供と父の家内でのこの上なくそして最も悲惨な争いは継母に由来し、この事実は舞台での悲劇の場面で描写される多くの無法行為の原因だからだ。
15 カロンダスは賞賛に値する法をもう一つ書いており、それは孤児の保育に関するものであった。表面上これにはさして珍しい内容や称賛に値する内容も含まれていないように見えるが、よくよく吟味してみると熱心な研鑽のみならず顧慮への高邁な主張も示していることが分かる。それというのも彼の法は、孤児の財産は父方の次に近い親族に管理されるべきであり、孤児は母方の親族に扶養されるべきであると定めるものであったからだ。一見してこの法に賢明で際だったようなことは見て取られないが、深く調べてみると称賛に値するのが正当だと分かってくる。なぜ彼が孤児の財産をある群の人たちに委ねて他の群に彼らの養育を任せたのかという理由を追及すれば、この立法者が非凡な才覚を示したということが分かる。それはつまりこういうことだ。こうすれば孤児の遺産を分け持っていないために母方の親族は孤児の命を狙わないだろうし、父方の親族はその子の世話を任されていないために命を奪おうと企む機会がなくなる。さらに彼らが財産を受け継ぐにしても、孤児が病気やその他何らかの出来事で死ねば、彼らは運命の行いにその基礎が置かれた物は自分たちのものになると信じて非常に用心して財産を管理することになるだろうから。
16 戦争で持ち場を離れたり祖国防衛の際に完全武装で参上することを拒んだ者に対する法もカロンダスは書いた。他の立法者たちはそういった者には死罪を定めているが、カロンダスは女物の服を着てアゴラに三日間座るべしと命じた。この法は他の人たちの法よりも人道的であるだけでなく、それがもたらす不名誉の甚だしさのために臆病に由来する似たような心根の他の者をひっそりと抑止する。それというのも祖国でこれほど酷い不面目を経験するよりは死ぬほうがましだからだ。その上、彼は不名誉によってもたらされた罰のために罪人が行状を改めて勇敢でより大胆な振る舞いで以前の恥を雪ごうと望むだろうと信じ、彼らを排除するのではなく、戦時緊急事態に対処するために取っておいた。
 この立法者はそれらの法の厳しさのために自分が作った諸法を遵守した。彼は、間違って考案された法であろうともありとあらゆる状況の下で服従すべきだと命じていたが、必要な場合の訂正は許していた。それというのも彼は、ある人〔の言い分〕が一人の立法者によって覆されるべきだということが全く正しいとしても、私的な立場の人によって退けられるのは、仮にそれが一般的利害に資することであっても、全く不合理であるという立場をとっていたからだ。これが特に意味しているのは、法廷に出頭して法の文言の代わりに法の乱用を行うことで、いんちきと狡猾な企みをする人たちが巧みな詭弁によって最高権力を破壊するのを防ぐことであった。その結果、法を乱用した者の罰を下そうとする陪審員の前で話をしたある人たちに彼はこう言ったと伝わる。「あなたたちが救うべきは法か一人の人間のいずれかだ」
17 しかし伝わるところでは、カロンダスの立法のうちで最も驚くべきものは法の改正に関するものである。大概の国家では、法を改正しようと試み続ける多くの人たちが絶えず法の既存の内実を毀損して大衆を内戦へと扇動しようとしているのを見て取った彼は実に独特な法を書いた。つまり、何らかの法の改正を提案する者は改正の提案をする時には首吊りをするかのように首に縄をかけ、人々が法律の改正の決定に至るまでその場に留まり、もし民会が改正された法に賛同すれば、提議者は縄から自由になり、改正の提案が実行に至らなければ、縄が引かれてその人はその場で死ぬべしと彼は命じたのである。変法についての立法はこのようなものであったため、後の立法者たちは恐怖に拘束されて何人たりとも変法について語ろうとしなかった。その後の全ての時代の歴史書には改正を提案したトゥリオイ人は三人しか記録されておらず、彼らは改正の提案が急を要する状況が起こったために現れた人たちだった。
 そういうわけで、他の人の目を潰した者は自分の目を一つ潰すべきで、目が一つしかない人はその目を潰されて視力の全てを失うべしという法があったが、その法は〔両目が見える〕犯罪者は報いでたった一つの目を失うことで〔片目しか見えない人の場合〕より少ない罰を受けることになるとの非難を受けた。それというのも仲間の市民を盲目にした者が法定の罰だけを受けるのであれば、その者は〔被害者と〕同じ損害を受けるということにはならないからだ。したがってある隻眼の人が心を強く痛め、自分が被った損失の事案を敢えて民会で取り上げ、これと同時に同胞市民に向かって我が身の不幸を苦々しく嘆いて法の改正への賛同を主張した。そしてついに首に縄をかけながら提案を通して現行の法を無効にし、賛同を受けた改正を行って絞首による死を免れた。
18 妻が夫と離婚して好きな男と結婚する権利を与えていた二つ目の法も改正された。年を重ねて自分よりも若い妻を娶ってその妻に捨てられたある人は、夫のもとを去った妻は彼女が選ぶ者ならば誰とでも結婚できるが、その男は前夫より若くてはならないと、そして同様に妻を離縁した男は離縁した妻よりも若い女と結婚してはならないという追加規定によって法を改めることをトゥリオイ人に提案した。その年輩の男は彼の提案を通過させて以前の法を無効にし、彼を脅かす縄の危険からも解放された。かくして若い夫と暮らすことを妨げられた彼の妻は自分が捨てた男と再び結婚した。
 改められた三つ目の法は女相続人についてのものであり、この法はソロンの立法でも見受けられるものである。最も血縁の近い親戚が女相続人の結婚相手に指名されなければならず、同様に女相続人は最も血縁の近い親戚の結婚相手に指名されて彼は彼女と結婚しなければならない、あるいは女相続人が貧乏ならば、〔最も血縁の近い親戚は〕一文無しの彼女の持参金として五〇〇ドラクマを提供しなければならない、とカロンダスは命じた。女相続人で、良い生まれだが寄る辺が全くなく、貧乏のおかげで夫を見つけることができないある孤児が人々に対してどれほど自分が孤立無援で軽視されているかを涙ながらに説明して助けを求めた。そして彼女は、一番近い親族は五〇〇ドラクマを払う代わりに彼に指定された女相続人と結婚する必要があると定める法の改正の概略を述べた。人々は彼女に憐憫の情を抱いて法の改正を議決し、かくしてこの孤児は自分を脅かす縄の危機から開放され、他方で裕福な最も近い親戚はこの寄る辺ない女相続人を持参金なしで娶ることになった。
19 カロンダスの死は彼に降り懸かった特異で予期せぬ事柄と結びつけられて言い伝えられている。彼は盗賊に備えて短剣を持ってある国へと向かい、帰りにある集会が開会されて庶民たちが騒いでいたところにその議題に興味を持って近づいた。しかし彼はすでに何人たりとも武器を携えて集会に入ってはならぬという法律を作っており、彼は自分が短剣を懐に持っていたことを忘れていたため、自分を告発する好機を敵対者に与えてしまった。そしてその一人が「あなたは自分自身の法律に反したというわけです」と言うと、彼は「否、ゼウスに誓い、私はそれを是認しない」と答え、短剣を取り出して自害した。しかし幾人かの歴史家たちはこの行いをシュラクサイの立法者ディオクレスに帰している。
 しかしここで我々は立法家カロンダスについては十分長く論じたし、立法家ザレウコスについても、これら二人の人物は人生で似た原則に従っていたのみならず、近くの都市の生まれであるために手短に述べておきたい。

ザレウコスの立法
20 さて、ザレウコスはイタリアのロクリス人として生まれた貴族で、受けた教育のために称賛を受けており、哲学者ピュタゴラスの弟子であった。彼は生まれた都市で高い支持を受けて立法家に選ばれて全く新しい法体系を書くのに従事し、その書き出しは天の神々に関することであった。立法全体への序論の冒頭で彼は何よりも始めにその都市の住民が、神々が存在すること、彼らの心が天とその秩序だった計画と配列を見渡せば創造は偶然の結果でなければ人の手によるものでもないことを判断するだろうし、彼らは神々を人の生における貴く良き全てのものの原因として崇めるべきであり、そして神々は悪人からの犠牲や高価な贈り物を喜ばず、良き人の正しく栄誉ある行いを喜ぶものであるからして人々は魂をありとあらゆる悪から遠ざけて純粋さを保つべきである、という信条を持つ必要があると宣言した。崇敬と正義についての序論に市民たちを招き入れた後に彼は、同胞市民を一人たりとも和解の余地のない敵と考えてはならず、争うにしても彼らは再び和合と友情に至るという考えを持つべきであり、そうでないような行動を取る者は同胞市民によって野蛮で未開な魂を持つと考えられるべきである、というさらなる命令を付け加えた。政務官たちは強情で横柄になってはならず、敵意や友情で判断をしてはならないと彼から説かれた。彼のいくつかの布告のうち彼自身の考案で加えられたものは一つで、それにはずば抜けて偉大な知恵が示されていた。
21 例を挙げれば、どの土地でも我が儘な妻が罰金を支払うことを求められていなかった一方で、ザレウコスは工夫された刑罰でもって彼女らの身持ちの悪い振る舞いをやめさせた。即ち、彼は以下のような法律を作った。自由民の生まれの女は酒を飲んでいない限りは一人以上の女奴隷を同行させてはならない。姦通を企む女でなければ夜の間にその都市を離れてはならない。娼婦でない限りは黄金の宝石や紫の縁の服を着てはならない。そして夫は売春や姦通好きでない限りは金がちりばめられた指輪やミレトス風の外套を着てはならない。したがってそれらの罪を含む恥ずべきものを排除することによって彼は易々と有害な奢侈とでたらめな生き方から人々を遠ざけた。それというのも不面目な放蕩を認めることで同胞市民の嘲笑を招こうと望む者はいなかったからだ。彼は他にも多くの優れた法を書いたが、それらは争いの元になる接触とその他の関係に関する法であった。しかしそれらを説明するのは長々とした仕事ではないが、我々の歴史についての計画から離れて話の本筋から脱線するような説明をすることになってしまう。
ギリシア人の諸々の紛争
22 リュシマキデスがアテナイでアルコンだった時(22)、ローマ人はティトゥス・メネニウスとプブリウス・セスティウス・カピトリヌスを執政官に選出した(23)。この年に内戦の脅威となる危機から解放されつつあったシュバリス人はトライス川沿いに居を定めた。ここに彼らはしばし留まったが後にブレッティオイ人に追い出されて滅ぼされた。ギリシアではアテナイ人がエウボイア島の支配権を握ってヘスティアイア人を彼らの都市から追い出すと、ペリクレスを指導者として自国の市民のうちから一〇〇〇人の植民団をそこへ送り込み、都市と郊外の土地を分配した。

ローマでの十二表法の成立
23 プラクシテレスがアテナイでアルコンだった時(24)、八四期目のオリュンピア紀が祝われてヒメラのクリトンがスタディオン競争で優勝し、ローマでは以下の十名が法律を立案するために選出された(25)。プブリウス・クロディウス・レギラヌス、ティトゥス・ミヌキウス、スプリウス・ウェトゥリウス、ガイウス・ユリウス、ガイウス・スルピキウス、プブリウス・セスティウス、ロムルス、スプリウス・ポストゥミウス・カルウィヌス。この人たちが法律を作り上げた。この年にトゥリオイ人とタラス人が耐えざる戦争に手を染めて陸と海から互いの領地を荒らした。彼らは多くの小戦闘と小競り合いをしたが、語るに値するようなことは成さなかった。
24 リュサニアスがアテナイでアルコンだった時(26)、ローマ人はアッピウス・クロディウス、マルクス・コルネリウス、ルキウス・ミヌキウス、ガイウス・セルギウス、クイントゥス・プブリウス、マニウス・ラブレイウス、そしてスプリウス・ウェトゥリウスの十名を再び立法者に選出した(27)。しかしその人たちは法の成文化を完了することができなかった。そのうち一人(28)は一文無しだが良い家柄のある乙女(29)に恋い焦がれ、まず金によってその少女を誘惑しようとした。彼女が彼と交渉を持たないでいると、彼は彼女を奴隷にするよう命じて彼女の家に代理人を送った。その代理人は彼女を彼自身の奴隷だと宣言し、権限を使って政務官の前へと彼女を連れていき、その法廷でアッピウスが彼女を奴隷だと訴えた。政務官たちはこの訴えに耳を傾けて彼女を彼に引き渡し、代理人は彼自身の奴隷として彼女を連れていった。
 その場面に居合わせて受けた不正を激しく難じたその乙女の父は、彼の言うことに耳を傾けられなかったため、通りがかった肉屋の店先にあった刃物を引ったくり、娘にきたる狼藉を経験させまいとしてこれで打って殺した。それから彼は都市の外へと飛び出し、いわゆるアルギドゥス山にその時野営していた軍の方へと向かった。そこで彼は一般兵の前で自分の境遇を話し、涙ながらに自分に降り懸かった不幸を告発して彼らの慈悲と大きな同情を完璧に買った。全軍がこの不幸な人を助けようと争い、夜の間に完全武装でローマへと突入した。そこで彼らはアウェンティヌスとして知られる丘を占拠した。
25 なされた悪事への兵士たちの憎悪がその日のうちに知れ渡ると、十人の立法者たちは同僚の政務官を助けるべく集結し、武器を試すことで問題を解決することを企図して若者の部隊を集めた。今や大きな反目心が国家の大きな脅威となったため、尊敬すべき市民のほとんどは危機の大きさを予想した。彼らは合意に至るべく両派の間で使節として活動して大変な熱意でもって内紛を止めようとし、そして祖国を深刻な苦しみへと投げ込まないよう懇願した。ついに皆がそれに靡き、以下のような相互の合意に至った。国家の諸官のうちで最高権限を行使する一〇人の軍務官が選出され、彼らは市民の自由の擁護者として活動するべきこと(30)。そして毎年の執政官のうち一人は貴族から、もう一人は例外なく平民から輩出され、人々は平民のうちから両執政官を選ぶ権限すら持つべきこと。彼らはこれを貴族の権勢を弱めることを望んで行ったわけだが、それというのも貴族は父祖から受け継いだ高貴な生まれと大きな名声の双方のため、ある人の言うところでは国家の主であったからだ。さらに合意では、軍務官たちはその任の年を果たし終えた時には同数の後任軍務官を見つけなければならず、これができなければ生きながら焼き殺されるべしと規定された。また軍務官が彼らの同僚内で合意に至らなかった場合、仲裁を行う軍務官の意向が妨げられてはならない。ローマの内紛の結果は以上のようなものとなったことが我々には見て取れる。
26 ディピリオスがアテナイでアルコンだった時(31)、ローマ人はマルクス・ホラティウスとルキウス・ウァレリウス・トゥルピヌスを執政官に選出した(32)。ローマではこの年、両執政官が内紛のおかげで終わらずに残っていた立法をを完遂した。即ち、いわゆる十二表法のうち十条がすでに書かれており、両執政官は残りの二つをその法典に書き加えた。立法が完遂した後、両執政官はその法を十二枚の青銅の板に刻み込んで元老院議事堂前の演壇に取り付けた。書き上げられたこの法は簡潔で要領を得た言葉で書かれていたために我々の時代に至るまで長らく人々の称賛を浴びた。
 我々が述べたような出来事が起こっていた間、人の住む世界の多くの国は平穏で、事実上その全てが平和状態であった。ペルシア人はギリシア人と〔二つの〕協定を結び、一つはアテナイ人とその同盟諸国とのもので、これによってアジアのギリシア諸都市は彼ら自身の固有の法の下で暮らすこととされた。もう一つの、そしてその後に締結された協定はラケダイモン人とのものであり、その中にはアジアのギリシア諸都市はペルシア人に服属するという明らかに矛盾する条項が組み込まれていた。同様に、アテナイ人とラケダイモン人は三〇年の休戦協定を結んでいたためにギリシア人は互いに平和な状態にあった。シケリアも同様に平和であり、カルタゴ人はゲロンと協定を結び、シケリアのギリシア諸都市は自発的にシュラクサイ人の覇権を認め、アクラガス人はヒメラ川での敗北の後にシュラクサイ人と協定を結んだ。イタリアとケルティケ、並びにイベリアと人の住む世界の他全ての人々も平穏であった。かくして語るに値する軍事衝突はこの時期にはなされずに単一の平和が広がり、祭での集まり、神々への生贄の祭事、そして他のありとあらゆる豊かな生活に伴うものが人類の間に普く広がった。

サモス戦争
27 ティモクレスがアテナイでアルコンだった時(33)、ローマ人はラル・ヘルミニウスとティトゥス・ステルティニウス・ストルクトルを執政官に選出した(34)。この年にサモス人はプリエネをめぐる争論からミレトス人と戦争をし、アテナイ人がミレトス人に好意的であるのを見て取るとアテナイ人から離反した。そこでアテナイ人はペリクレスを将軍に選出してサモス人に向けて四〇隻の艦隊と共に派遣した。サモスに向けて航行したペリクレスはその都市に突入して制圧し、民主政を樹立した。彼はサモス人から八〇タラントンを徴発してこれと同数の若者を人質にして連行し、レムノス人のところに留め置いた。それから数日のうちに全てを終わらせた後、彼はアテナイへと戻った。
 しかし一方の党派は民主政を好んで他方は貴族政を望んだためにサモスで内紛が起こり、その都市は完全に混乱状態に陥った。民主政の敵対者たちはアジアへと渡ってペルシアの太守ピッストネスからの助力を得るべくサルデイスへと向かった。ピッストネスは島の主になれるだろうと期待して七〇〇の兵を彼らに与え、そのサモス人たちは受け取った兵を連れて夜にサモスへと航行し、市民からの助力を得て市内へと気付かれることなく忍び込み、難なく島を制圧して敵対者たちをその都市から追い出した。それからレムノスからこっそり人質を連れ出してサモスの安全に関するあらゆることをした後、彼らはアテナイ人を敵とすることを公式に宣言した。アテナイ人はペリクレスを再び将軍に選んで六〇隻の艦隊と共にサモスへと送った。かくしてペリクレスはサモスの三段櫂船七〇隻と海戦を行ってこれを破り、それからキオス人とミュティレネ人から二五隻の艦隊を呼び寄せると、彼らと共にサモス市を包囲した。しかし数日後、ペルシア人がサモス人救援のために派遣してきたフェニキア艦隊と対決すべくペリクレスは包囲続行のために軍の一部を残し、海に漕ぎ出した。
28 サモス人はペリクレスの出発のために残された艦隊に攻撃をかける好機が到来したと信じるとこれに向かって出航して戦いで破ると、自慢して思い上がるようになった。しかしペリクレスは自軍の敗報を受けるやすぐに戻り、敵艦隊を一撃でもって完全に撃滅しようと望んで堂々たる艦隊を集めた。アテナイ人は速やかに六〇隻の、キオス人とミュティレネ人は三〇隻の三段櫂船を急派し、この大兵力でもってペリクレスは陸海から包囲を再開して続けざまに攻撃をかけた。彼らは攻城兵器を作りもしたが、全ての人の中で最初にこのことをしたたため、クラゾメナイのアルテモンが作ったそれらを「雄羊」と「亀」と呼ぶようになった。熱心に包囲を行って攻城兵器で城壁を崩したことで彼はサモスを手中に収めた。反乱の首謀者を罰した後に彼はサモス人への罰を二〇〇タラントンに定めて彼らからその都市の包囲にかかった金額を徴発した。また彼は彼らから船を取り上げて城壁を破壊し、それから民主政を復活させて帰国した。
 アテナイ人とラケダイモン人に関しては、彼らの間の三〇年の休戦はこの時までは揺るがなかった。
 この年の出来事は以上である。

シュラクサイによるシケロイ人制圧
29 ミュリキデスがアテナイでアルコンだった時(35)、ローマ人はルキウス・ユリウスとマルクス・ゲガニウスを執政官に選出し(36)、エリス人は八五期目のオリュンピア紀を祝ってスタディオン走でヒメラのクリソンが二度目の優勝をした。シケリアではこの年、シケロイ人の諸都市の以前の指導者ドゥケティオスがカラクタ人の故郷の都市を建設し、そこに多くの植民を行ってシケロイ人の支配権を主張したが、病が彼の試みを中断させ、彼は生を終えることになった。シュラクサイ人はいわゆるトリナキエを除くシケロイ人の全ての都市を服属させ、同地に向けて軍を送ることを決定した。それというのも彼らはトリナキエ人が同族であるシケロイ人の覇権を握るのではないかとひどく恐れていたからだ。シケロイ人の諸都市のうちで常に主要な地位を占めていたためにこの都市には多くの偉人がいた。それというのもそこは男らしい精神に計り知れないほどの誇りを持っていた軍事指導者で溢れていたからだ。したがってシュラクサイ人は彼らの全軍と同盟諸国の軍が集結した後にそこへ向けて進撃した。他の都市がシュラクサイ人に服従していたためにトリナキエ人には同盟者がいなかったにもかかわらず、彼らは強烈な抵抗をした。彼らは自分たちが直面した危機に見事に持ち堪えて多くの者を殺し、彼らの全員が英雄的に戦いながら生を終えた。似たようにして大部分の老人すら都市の陥落の際に彼らが受けるであろう侮蔑に耐えられずに命をなげうった。そしてシュラクサイ人は未だかつて膝を屈したことのない人たちを見事な戦いぶりで征服した後、住民を奴隷として売り払って完全に都市を破壊し、神々への感謝の印として選び抜かれた戦利品をデルポイへと送った。

「コリントス戦争」勃発
30 グラウキデスがアテナイでアルコンだった時(37)、ローマ人はティトゥス・クインクティウスとアグリッパ・フリウスを執政官に選出した(38)。この年にシュラクサイ人は我々が述べたような成功のゆえに一〇〇隻の三段櫂船を建造して騎兵の数を倍にするまでになった。また彼らは歩兵部隊も発展させ、彼らに服属するシケロイ人に重税をかけて財政的な準備をした。彼らはこれを少しずつ全てのシケロイ人を服属させるという意図の下に行った。
 それらの出来事が起こっていた間、ギリシアではいわゆるコリントス戦争が以下のような原因で始まった(39)。アドリア海沿いに住んでおり、ケルキュラ人とコリントス人の植民地であったエピダムノスの人たちの間で内戦が起こった。成功を得た党派は多くの敵対者を追放したが、追放者たちは一カ所に集まってイリュリア人と手を結び、エピダムノスに向けて彼らと共に航行した。大軍で出撃した夷狄は郊外を占領してその都市の包囲に取りかかり、戦いで彼らに歯が立たなかったエピダムノス人はケルキュラ人に親類であることを根拠として救援を求めるべくケルキュラへと使節団を派遣した。ケルキュラ人が彼らの要望に耳を傾けないでいると、彼らはコリントス人に同盟を求めるべく使節を送ってコリントスこそ自分たちの唯一の母都市であると明言し、同時に植民も求めた。そしてコリントス人は一面ではエピダムノス人への慈悲から、一面ではコリントスからの植民者のうちで唯一通例の生贄の獣を母都市へと送ってこないケルキュラ人への憎悪からエピダムノス人救援を決定した。したがって彼らはエピダムノスに植民団とその都市の守備隊としては十分な数の兵の両方を送った。これにケルキュラ人は腹を立てて一人の将軍の指揮の下にある五〇隻の三段櫂船の艦隊を送った。彼はその都市へと航行して追放者の受け入れを命じ、他方で彼らはコリントスからの守備隊に向けて使節団を派遣し、植民地の起源の問題が戦争によってではなく調停者の法廷で解決されるよう要求した。コリントス人がこの申し出に返答をよこさないでいると、双方は戦争を決意して大海軍を準備して同盟軍を集め始めた。かくして所謂コリントス戦争が我々が述べたような理由で勃発した。
 ローマ人はウォルスキ人と戦争をしたが、当初起こったのは小競り合いと重要ではない戦いだけだったが、後に大会戦で彼らを破って敵の過半数を殺した。
31 テオドロスがアテナイでアルコンだった時(40)、ローマ人はマルクス・ゲヌキウスとアグリッパ・クルティウス・キロを執政官に選出した(41)。イタリアではこの年にカンパニア人の国が形成され、その名は彼らの周囲の平野の豊かさからつけられた(42)
 アジアでは、その王たちがアルカイアナクティダイ朝として知られる、キンメリアのボスポロスの王朝が四二年間支配するようになった。そして〔アルカイアナクティダイ朝から〕王権を受け継いだスパルタコスは七年間君臨した。
 ギリシアではケルキュラ人と戦争状態にあったコリントス人は海軍の準備をした後に海戦の準備をした。その時コリントス人は七〇隻の見事に武装した船で敵に向かって漕ぎ出した。しかし八〇隻の三段櫂船で彼らに対峙したケルキュラ人が勝利を得てエピダムノスを降伏に追い込み、コリントス人を除く全ての捕虜を殺してコリントス人捕虜は鎖に繋いで収監した。その海戦の後、コリントス軍は意気消沈してペロポネソス半島まで退却し、今やこの海域の主となったケルキュラ人はコリントス人の同盟国まで頻繁に降りてきては土地を荒らした。
32 その年が終わった時のアテナイのアルコンはエウテュメネスであり(43)、ローマでは執政官の代わりにアウルス・センプロニウス、ルキウス・アティリウス、そしてティトゥス・クインクティウスの三人が軍務官に選出された(44)。海戦で敗北を被ったコリントス人は更なる大艦隊の建造を決定した。したがって大量の木材を入手して他の諸都市から船大工を雇い入れると、多大な熱意でもって三段櫂船を建造してありとあらゆる投擲兵器を製造した。概して言えば、彼らは戦争に必要な全ての装備、とりわけ竜骨から建造した三段櫂船を準備し、損傷した船を修繕し、同盟諸国からさらに他の船を徴発しつつあった。ケルキュラ人がそれに劣らぬ熱意で同じことを進めていたため、その戦争が激しさを大いに増すであろうことは明らかであった。
 それらの出来事が起こっていた間、アテナイ人は市民と近隣の守備隊の中から植民者を選んでアンピポリスの植民地を建設した。
33 リュシマコスがアテナイでアルコンだった時(45)、ローマ人はティトゥス・クインクティウスとマルクス・ゲガニウス・マケリヌスを執政官に選出し(46)、エリス人が八六期目のオリュンピア紀を祝い、テッサリアのテオポンポスがスタディオン走で優勝した。この年にケルキュラ人は自分たちに向けて準備されている軍備が大規模であることを知ると、アテナイ人に援助を求める使節団を派遣した。コリントス人が同じことをしたために民会が召集され、アテナイ人は使節の言うことを聞いた後にケルキュラ人との同盟締結を票決した。したがって彼らはすぐに一〇隻の完全武装の三段櫂船を送り、必要なものがあれば今後送ると約束した。コリントス人はアテナイ人との同盟締結に失敗した後に九〇隻の三段櫂船に人員を乗り込ませ、同盟諸国から追加で六〇隻を受け入れた。したがって一五〇隻の完全武装の三段櫂船でもって最も熟練の将軍たちを選んだ後、彼らはすぐに戦って決着をつけるべくケルキュラに向けて出航した。ケルキュラ人は敵艦隊がそう遠からぬ所にいるのを知ると、アテナイ船を含む一二〇隻の三段櫂船でもって出航した。激しい戦いが起こって最初はコリントス軍が優位に立ったが、後にアテナイ軍が二度目の同盟(47)に則って送った二〇隻の追加の船でもって戦場にやってくると、ケルキュラ軍が勝利した。翌日にケルキュラ軍が全軍で戦うべく出航すると、コリントス軍は出撃しなかった。
34 アンティオキデスがアテナイでアルコンだった時(48)、ローマ人はマルクス・ファビウスとポストゥムス・アエブティウス・ウレクスを執政官に選出した(49)。この年にアテナイ人がケルキュラ人に味方して戦って海戦の勝利の立役者となったためにコリントス人は彼らに憤慨した。したがってアテナイ人への報復に熱意を燃やした彼らは自らの植民地の一つであったポテイダイア市をアテナイ人から離反するよう扇動した。アテナイ人と不仲であったマケドニア人の王ペルディッカスも同様に、すでにアテナイ人から離反していたカルキディケ人に沿岸の彼らの諸都市を放棄してオリュントスとして知られる一つの都市を形成するよう説き伏せた。アテナイ人はポテイダイア人の反乱を知ると、叛徒の領地を荒らしてその都市を略奪するよう命じて三〇隻の船団を急派した。アテナイの人々の命を受けた遠征軍はマケドニアに上陸し、ポテイダイア包囲に取りかかった。そこでコリントス軍が二〇〇〇人の兵でもって籠城軍の救援にやってきて、アテナイ人も二〇〇〇人を送った。パレネ近くの地峡で起こった戦いでアテナイ軍が勝利して敵兵三〇〇人を殺し、ポテイダイア人は完全に包囲された。それらの出来事が起こっていた間、アテナイ人はプロポンティスに都市を建設し、アスタコスと名付けた。
 イタリアではローマ人がアルデアに植民団を送ってその土地を分配した。

トゥリオイの建設者をめぐる争いとその解決
35 クラテスがアテナイでアルコンだった時(50)、ローマ人はクイントゥス・フリウス・フススとマニウス・パピリウス・クラッススを執政官に選出した(51)。この年にイタリアでは、多くの都市から集まってできていたトゥリオイ市の住民が、トゥリオイ人はどの都市からの植民者であると言うべきで、どの人がこの都市の建設者と呼ばれるのが正しいのかという問題をめぐって諸派に分かれた。その事情は以下のようなものであった。アテナイ人は植民者の多数派はアテナイから来た以上、彼らこそがここの植民者であると主張した。さらにペロポネソス半島の諸都市は、トゥリオイの建設にあたって彼らの国民から少なからぬ人が加わっており、その都市の植民活動は彼らのおかげであると主張した。同様に多くの有能な人たちが植民地の建設に加わって多大な貢献をしたため、各々一人一人がこの栄誉を我がものにしようと躍起になったためにこのような論争が生じた。最終的にトゥリオイの人たちは誰を彼らの都市の建設者と呼ぶべきかを尋ねるべくデルポイに代表団を送り、神は自分が建設者と見なされるべきであると応答した。論争がこのようにして集結した後、彼らはアポロンをトゥリオイの建設者と宣言し、今や人々は内紛から解放されて以前の和合へと立ち返った。
 ギリシアでは、ラケダイモン人の王アルキダモスが四二年間の治世の後に死に、王位を継いだアギスは二五年間王であった。

メトン周期
36 アプセウデスがアテナイでアルコンだった時(52)、ローマ人はティトゥス・メネニウスとプロクルス・ゲガニウス・マケリヌスを執政官に選出した(53)
。この年にボスポロスの王スパルタコスが七年間統治した後に死に、王位を継いだセレウコスは四〇年の間王だった。
 アテナイではパウサニアスの息子で、星の研究で名声を勝ち得ていたメトンがいわゆる一九年周期を公刊し、彼はその始まりをアテナイのスキロポリオン月の一三日目に定めた。この年数で星は天空の同じ場所に戻り、大年と呼ばれる周期を決めている。したがってそれは幾人かの人たちによってメトン年と呼ばれている。この人は公刊したこの予測において驚くべき幸運に恵まれていたことを我々は看取できる。それというのも星はその動きを完遂し、彼の考えた通りの結果をもたらすからだ。したがって今日に至るまで多くのギリシア人は一九年周期を使っており、真実を誤魔化されることがない。
 イタリアではタラス人がいわゆるシリスの住民を彼らの故郷の都市から退去させ、彼らに自分たち市民からの植民地を加えて都市を建設し、ヘラクレイアと名付けた。

ペロポネソス戦争勃発
37 ピュトドロスがアテナイでアルコンだった時(54)、ローマ人はティトゥス・クインクティウスとニットゥス・メネニウスを執政官に選出し(55)、エリス人は八七期目のオリュンピア紀を祝い、アンブラキアのソプロンがスタディオン走で優勝した。ローマではこの年にスプリウス・マエリウスが独裁権力との抗争の最中に殺された。ポテイダイアあたりで際だった勝利を得ていたアテナイ人は野戦で倒れた将軍カリアスに代わる二人目の将軍としてポルミオンを送った。軍の指揮権を引き継いだ後、ポルミオンはポテイダイア人の都市の包囲に取りかかって絶え間ない攻撃を仕掛けたが、防衛軍は頑強に抵抗して包囲は長引いた。
 アテナイ人トゥキュディデスは彼の歴史書をこの年から初め、ペロポネソス戦争と呼ばれるアテナイ人とラケダイモン人との戦争について説明した。この戦争は二七年間に及んだが、トゥキュディデスは八巻本、あるいは他の人が区分するところでは九巻本で二二年間を記述した。
38 エウテュデモスがアテナイでアルコンだった時(56)、ローマ人は執政官の代わりにマンリウス・アエミリアヌス・マメルクス、ガイウス・ユリウス、そしてルキウス・クインティウスの三人を軍務官に選出した(57)。この年にアテナイ人とペロポネソス人との間でいわゆるペロポネソス戦争が始まり、これは歴史が記録するの戦争のうちで最長のものとなった。我々は歴史記述の計画にあたってまず戦争の原因から始めるのが必要であり適切である。
 アテナイ人がまだ海上の覇権を得ようと努力していた時、共同事業として集められてデロスに置かれ、およそ八〇〇〇タラントンに上った基金を彼らはアテナイに移してペリクレスの監理下に置いた(58)。この男は生まれ、声望、そして演説家としての能力で同胞市民を遙かに凌駕していた。しかし、しばし後に彼はこの多額の金を自分の目的のために費やすようになり、働いた悪事の説明を求められると自分が委ねられた金の状況について説明ができなかった。彼がその問題に悩んでいた間、彼の甥で孤児であり、ペリクレス家で育てられていたアルキビアデスが、まだ少年だったにもかかわらずその金の用途を説明する術を彼に示した。おじが悩む様を見た彼は心配の種を尋ねた。ペリクレスが「わしは金の用途の説明を問われとってな、市民らに会計の説明ができるような手だてを探しているんじゃよ」と言うと、アルキビアデスは「おじ上は会計の説明をする手だてではなく、説明しないための手だてを探したほうがいいですよ」と答えた。かくしてペリクレスは少年の答えを容れると、アテナイ人を大戦争に巻き込む手だてを熟慮し続け、その都市に混乱と目くらましと恐怖をもたらすことで金の正確な会計説明から逃れようと考えた。たまたまこれに都合の良い事件が彼に起こったが、それは以下のような原因であった。
39 アテナイの像(59)はペイディアスの作品であり、クサンティッポスの息子ペリクレスがその〔制作〕事業の監督に任命されていた。しかしある時にペリクレスの敵対者に説き伏せられたペイディアスの助手たちは神々の祭壇に嘆願者として座った。その驚くべき行動の説明を求められると、監督だったペリクレスの黙過と手助けによって多額の神聖な金子をペイディアスが受領したことを自分たちは示すと明言した。したがって民会がその事件を検討すべく招集されると、ペリクレスの敵対者たちはペイディアスを逮捕するよう人々を説き伏せて神聖な財物を盗んだ張本人であるペリクレスの責任を追及した。その上、彼らはペリクレスの師のソフィストであるアナクサゴラスに対しても神々に対する不敬虔の廉ででっち上げの告訴を行い、嫉妬心のおかげで彼らはその男の名声並びに優秀さを傷付けようという熱意を抱いたためにペリクレスは彼らの告発の悪意ある非難に巻き込まれた。
 しかし戦争の作戦行動の間の大衆は緊急の必要性のために高貴な人たちを尊重していたのに対し、平時はすることがなくて嫉妬深かったために全く同じ人たちに対してでっち上げの告発を続けていたことを知ったペリクレスは、自分の将軍としての有能さと技量を必要とすれば都市は自分に対して述べ立てられた告発に耳を貸さなくなって彼がその基金にしたことの説明を注意深く精査する余暇も時間もなくなるであろうために、大戦争に巻き込むことが彼自身にとって有用であろうという結論に至った。
 今やアテナイ人がメガラ人をアテナイ人の市場と港の両方から締め出すことを票決すると、メガラ人はスパルタ人に助けを求めた。そしてラケダイモン人はメガラ人に味方し、ほとんど公然と〔ペロポネソス〕同盟の総会の決議に則って使節団を派遣し、アテナイ人にメガラ人に対する措置の取り消しを指示し、もし彼らが従わなければ同盟諸国の軍勢でもって彼らに戦争を仕掛けると脅した。民会がその問題を検討すべく集まると、演説の技術で同輩の市民よりはるかに秀でていたペリクレスは、ラケダイモン人の要求に従うことは自分たちの利害に相反して隷属化への第一歩になると言い、彼らにその措置を撤回しないよう説き伏せた。こうして自分たちが郊外から市内へと財産を運び込んで海上の支配によってスパルタ人と戦って決着をつけるべきだと彼は勧めた。
40 戦争について述べるにあたってペリクレスはよく考え抜かれた言葉で彼の方針を擁護した後、まずアテナイが持つ同盟者の多さと海軍力の優勢、それからデロス島からアテナイへと移され、実際のところは租税から諸都市の共通の用に供するための基金として集められていた多額の資金を列挙した。この共同基金一〇〇〇〇タラントンから四〇〇〇タラントンがプロピュライア門の建設とポテイダイア包囲のために投じられていた。同盟諸国の租税からの毎年の収入は四六〇タラントンにもなった。これに加えて彼は宗教上の行進に使われていた杯とメディア人から分捕った戦利品は五〇〇タラントンの値になると明言し、様々な神域の大量の奉納品とアテナ像の装飾の五〇タラントンの黄金は取り外しができるように作られているという事実を挙げ、差し迫って必要になれば彼らはそれら全てを神々から借用して平和が到来した時にまた戻せばよいし、長きにわたった平和のために市民の生活の仕方もまた繁栄へと大躍進してきたことを示した。
 それらの財源に加えて同盟者と守備隊を度外視すればこの都市は一二〇〇〇人の重装歩兵と守備隊、一七〇〇〇人以上にもなる在留外国人と三〇〇隻の三段櫂船を使用できるとペリクレスは指摘した。彼はラケダイモン人は資金が欠乏しており、海軍力においてもアテナイ人に及ばないことも指摘した。それらの事実を列挙して市民たちを戦争へと駆り立てた後、彼はラケダイモン人のことなど歯牙にもかけないよう人々を説き伏せた。その弁論家としての大きな才能のために「オリュンピア人」と呼ばれていた彼は難なくこれを成し遂げた。古喜劇の詩人でペリクレスの時代に生きていたアリストパネスさえこれを賞賛している(60)
汝ら百姓どもよ、哀れな者どもよ、
お前たちが知りたいのなら、
さあ聞き、解せよ、
なぜ平和の女神がこの土地を去ったのかを。
ペイディアスが災難の始まりとなり、
悲嘆と恥辱へと向かい、
ペリクレスが次に来て、
責任をともにするのを恐れ、
彼のメガラについての決議により
小さな口火を点し、
かくもいっそう辛い煙が立ち上り、
その間に彼は戦火を広め、
ヘラスのあらゆる目から、
あらゆる地で涙を流させた。
 そして別の個所で再び〔アリストパネスは述べる〕(61)
オリュンポスの神ペリクレスが
閃光を発し、雷鳴を轟かせ、ヘラス全体を混ぜ繰り返し
 そして詩人エウポリスはこう書いた(62)
彼は唇に残った説得を口にしようぞ。
彼がもたらすのはこのような魅惑。
全ての弁士のうちでただ一人の者が
彼の聴き手に針を残した。
41 さて、ペロポネソス戦争の原因は概して私が述べたようなものであり、これはエポロスが記録した。指導的な国々がこのようにして戦争に巻き込まれると、ラケダイモン人はペロポネソス人たちと会議してアテナイ人との戦争を票決し、ペルシア人の王に使節団を派遣して同盟を求める一方でシケリアとイタリアの同盟諸国とも使節団によって協定を結んで二〇〇隻の三段櫂船で支援するよう説き伏せた。ラケダイモン人自身はというと、ペロポネソス人と共に陸軍の準備を行い、戦争における他の全ての準備をして戦いの口火を切った。ボイオティアのプラタイア人の都市は独立国家であり、アテナイ人と同盟を結んでいた。しかしその独立を破壊しようと望んだある市民たちが、もし自分たちの試みを助けるために兵を送ってくれるならばテーバイ人によって形成されている連邦(63)の加盟国にプラタイアを加えてそこを彼らに明け渡すと約束してボイオティア人と談判した。したがってボイオティア人が夜に三〇〇人の選り抜きの兵を派遣すると、裏切り者たちは彼らを城壁の中へと招き入れて彼らをその都市の主とした。プラタイア人はアテナイ人との同盟を維持しようと望んでいたため、テーバイの全軍が現れたとまず考えてその都市を獲得した者と交渉を始め、休戦に応じるよう求めた。しかし夜が明けてテーバイ兵の数が少ないと見てとると、集結して一丸となって自由のために激しく戦った。街路で戦いが起こり、最初はテーバイ軍がその勇気のために優勢に立って多くの敵を殺したが、奴隷と子供たちが家から瓦を浴びせて彼らを負傷させると敗走に転じた。そしてその一部はその都市から無事逃げたが、家に逃げ込んだ者は投降を余儀なくされた。戦いの生き残りからその試みの結果を知るや否や、テーバイ軍は全軍で大急ぎで前進してきた。郊外に住んでいたプラタイア人は攻撃を予期していなかったために無防備であったため、その多くが殺されて少なからぬ者が生け捕りにされ、その土地の全域は騒乱と略奪の巷と化した。
42 プラタイア人はテーバイ軍にプラタイア領から去って捕虜を返還することを要求する使節団を派遣した。これが同意されると、テーバイ軍は捕虜を取り戻して分捕った戦利品を返還し、テーバイへと帰っていった。プラタイア人はアテナイ人に救援を求める使節団を送り、その一方で彼ら自身は市内へと財産の大部分を集めた。アテナイ人はプラタイアで何が起こったのかを知るとすぐに大軍を送った。彼らは急いでテーバイ軍よりも前に到着して郊外から残りの財産を市内へと集め、次いで女子供と庶民の両方を集めてアテナイへと送った。
 ラケダイモン人はアテナイ人が休戦協定を破ったと結論してラケダイモンと残りのペロポネソス人の双方から強力な軍勢を集めた。この時は中立を維持していたアルゴス人を除いた全てのペロポネソス人がラケダイモン人の同盟者であり、ペロポネソス半島の外側の人々ではメガラ人、アンブラキア人、レウカス島民、ポキス人、ボイオティア人、そしてロクリス人、エウボイア島に面する人々(64)の大部分と残りのアンピサ人であった。アテナイ人はアジア沿岸の人々、つまりカリア人、ドリス人、イオニア人とヘレスポントスの人々、メロス島とテラ島の住民を除いた全ての島嶼の人々を同盟者としており、カルキディケ人とポテイダイア人を除くトラキアの住民、さらにはナウパクトスに住むメッセニア人とケルキュラ人もそうであった。彼らのうちキオス人、レスボス人とケルキュラ人は船舶を提供し、残りの全ては歩兵を供出した。双方の同盟者は我々が以上に列挙したようなものであった。
 軍務のために強力な軍を集めた後、ラケダイモン人は彼らの王アルキダモスの手にその指揮権を与えた。彼は軍と共にアッティカへと攻め込んで要塞化された諸地点を繰り返し攻撃し、郊外の大部分を荒した。アテナイ人が郊外への襲撃に激怒して敵に戦いを挑もうと望むと、将軍であり国家の全ての指導権を握っていたペリクレスは、自分は戦いの危険を冒すことなくラケダイモン人をアッティカから追い出すと約束して若者に動かないよう求めた。そこで一〇〇隻の三段櫂船を設えて強力な部隊を乗せると彼はカルキノスを他の数名と共に将軍に任命してペロポネソス半島へと送った。この部隊はペロポネソスの広大な沿岸領土を荒していくつかの砦を占領することによってラケダイモン人を恐怖させた。したがって彼らは速やかにアッティカから陸軍を呼び戻してペロポネソス人の安全のために大くの処置を講じた。このようにしてアテナイは敵から解放され、ペリクレスは同法市民の間で将軍の責務を果たしたと、そしてラケダイモン人と戦えるだけの有能な人物として賞賛を受けた。

ペロポネソス戦争二年目
43 アポロドロスがアテナイでアルコンだった時(65)、ローマ人はマルクス・ゲガニウスとルキウス・セルギウスを執政官に選出した(66)。この年にアテナイ人の将軍はペロポネソス人の領土を略奪し、絶えず要塞を包囲した。ケルキュラから来た五〇隻の三段櫂船が彼らの指揮下に加えられると、彼はペロポネソス人の領土の全域をさらに略奪し、とりわけアクテと呼ばれる沿岸部を荒らし回って畑の建物に火を放った。この後、ラコニアのメトネへと航行すると、彼は郊外を荒らして諸都市を繰り返し攻撃した。そこでまだ年若かったがすでに体力と勇気で秀でていたスパルタ人ブラシダスはメトネが攻撃による占領の危機に瀕しているのを見て取ると、散らばっていた重装歩兵部隊を一部のスパルタ人を連れて大胆に襲ってその多くを殺してその砦に入った。続いて起こった包囲戦でブラシダスが勇戦したため、アテナイ軍は砦を奪取することができないと見て艦隊へと撤退し、メトネを個人的な武勇で救ったブラシダスはスパルタ人から賞賛を受けた。ブラシダスはこの大胆さのために異常に自慢して続く多くの機会に向こう見ずに戦っては勇気の名声を得た。そしてアテナイ軍はエリスへと航行すると郊外を略奪してエリス人の砦ペイアの包囲に取り掛かった。防戦に立ったエリス人を彼らは戦いで破って多くの敵を殺し、ペイアを強襲によって落とした。しかしこの後、エリス人が大挙して戦いを挑むとアテナイ軍は船へと撃退され、それからケパレニアへと去ってその島の住民を同盟者とし、次いでアテナイへと帰った。
44 それらの出来事の後、アテナイ人はクレオポンポスを将軍に選出し、エウボイア島を警戒しつつロクリス人と戦争をするよう命じて彼を三〇隻の艦隊と共に海へと送り出した。出航すると彼はロクリス沿岸を荒らしてトロニオン市を包囲して落とし、彼に立ち向かってきたロクリス軍をアロペ市近郊の戦いで破った。これに続いて彼はロクリスから少し離れたところにあったアタランテ島として知られる島に、その地方の住民に対する軍事行動のためにロクリスの境界に要塞を立てた。またアテナイ人はラケダイモン人に協力した廉でアイギナ人を非難して彼らを彼らの国から追い出し、植民団を送ってアイギナ市とその領域の土地を分配した。アテナイ人も一度はメッセネを追い出された人たちのためにナウパクトスを家として与えていたため、難民となったアイギナ人にラケダイモン人は住居としてテュレアイと呼ばれる地を与えた。またアテナイ人はメガラ人との戦争を行わせるためにペリクレスを派遣した。彼はその領地を荒らして財産を台無しにし、大量の戦利品を持ってアテナイへと帰国した。
45 ラケダイモン人はペロポネソス軍と他の同盟軍と共に二度目のアッティカ侵攻を行った。彼らは郊外を通って進軍し、果樹園を伐採して畑の建物を焼き払い、テトラポリスとして知られる地域を除いてほとんどの土地を荒らし尽くした。彼らの先祖が一時そこに住んで基地とし、エウリュステウスを破った折(67)に〔この地からペロポネソス半島へと〕向かったためにこの地域を彼らは容赦した。というのも彼らは先祖の恩人がその見返りとして恩恵への返礼を子孫から受けるのだけが唯一妥当だと考えていたからだ。アテナイ人は自分たちが疫病によって引き起こされた危機に直面していたことを自覚しており、敢えて彼らに野戦を挑もうとはせずに城壁の中に閉じこもっていた。ありとあらゆる非常に多くの人がこぞって市内へと流入したため、人口稠密な場所での吐息と窮屈な居住地のために彼らが病魔の犠牲となるのは当然のことであった。したがって彼らは敵を領地から追い出すことが出来なかったため、ペリクレスを将軍に任命して再びペロポネソス半島に向けて大艦隊を派遣した。彼は沿岸地域の大部分を荒らして一部の都市を略奪し、ラケダイモン軍がアッティカを撤退するように仕向けた。この後アテナイ人は今や郊外の樹木が切り倒されて疫病が多くの人命を奪い去ったために失望に陥り、ペリクレスこそが目下の戦争の惨状の責任者だと思って彼に憤慨した。したがって彼を将軍職から解任し、些末な理由で告訴して八〇タラントンもの罰金を科した。この後、彼らはラケダイモン人に使節団を派遣して戦争を終わらせるよう求めた。しかし誰も彼らの言うことに耳を貸さないでいると、彼らは再びペリクレスを将軍に選出することを余儀なくされた。
 この年の出来事は以上のようなものであった。

ペロポネソス戦争三年目
46 エパメイノンがアテナイでアルコンだった時(68)、ローマ人はルキウス・パピリウスとアウルス・コルネリウス・マケリヌスを執政官に選出した(69)。アテナイではこの年にペリクレス将軍が死んだわけであるが、その人は生まれと富のみならず雄弁さと将軍としての技量で同輩の市民より遙かに勝っていた。
 アテナイの人々はアテナイの栄光のためにポテイダイアを強襲によって落とそうと望んだため、以前ペリクレスが指揮していた軍と共にハグノンを将軍としてそこへ送った。彼はポテイダイアに全遠征軍を連れて到着して包囲のための全ての準備を行った。というのも彼はすでにあらゆる包囲戦に用いる兵器、大量の武器、投擲兵器、そして全軍に十分行き渡るだけの豊富な穀物を用意していたからだ。ハグノンは連日の絶えざる攻撃に時を費やしたが、力攻めでは都市は落ちなかった。籠城側は占領の恐怖に駆り立てられ、城壁の高さによる優位を頼んで激しく抵抗し、港から攻撃をかけてはアテナイ軍に対して優位に立ち、その一方で包囲軍は疫病でたくさんの人が倒れて軍中に落胆が広がっていた。アテナイ人が包囲戦に一〇〇〇タラントン以上を費やしていたこと、最初にラケダイモン人の側についたポテイダイア人への彼らの憤慨を知ると、ハグノンは包囲を解くことを恐れた。したがって彼は包囲を続行し、兵士たちに死力を尽くさせ、その市に対する決着は力によってつけるよう強いるべきであると感じた。しかし多くのアテナイ市民が攻撃の際に殺されて疫病の被害で死んでいったため、彼は包囲の続行のために軍の一部を残し、一〇〇〇人以上の兵士を失った末にアテナイへと帰航した。ハグノンが撤退した後、ポテイダイア人は穀物の蓄えが完全に底を尽いて市内の人々は戦意を失ったため、条件付き降伏について論じるために包囲軍に使者を送った。それは熱烈に受け入れられて以下の条件で休戦が同意された。それは、全てのポテイダイア人は、男は一着、女は二着の服を除いて何も持たずに市から退去すべし、というものであった。この休戦が同意されると、全てのポテイダイア人は休戦条件に従って妻子と共に故郷を離れて母国であったトラキアのカルキディケ人のところへと行った。そしてアテナイ人は一〇〇〇人ほどの市民を植民団としてポテイダイアへと送り込み、市とその領地を彼らに分配した。
47 アテナイ人はポルミオンを将軍に選出して二〇隻の三段櫂船と共に海へと送った。彼はペロポネソス半島を周航してナウパクトスに投錨し、クリサ湾を支配してラケダイモン軍の航行を妨げた(70)。ラケダイモン人はアルキダモス王指揮の下で強力な軍を送り出し、彼はボイオティアへと進軍してプラタイアの前面までやってきた。彼はプラタイア人に領地を荒らすと脅してアテナイ人に反乱を起こすよう呼びかけ、彼らがそれに耳を貸さなかったために領地を荒らして彼らのあらゆる財産を台無しにした。この後、彼は生活必需品の欠乏によってプラタイア人を条件付き降伏へと追い込もうと望んで市を囲む壁を建設した。同時にラケダイモン軍は城壁を粉砕しつつ絶えず攻撃を続けるための兵器を運び続けた。しかし攻撃によってその都市を落とすことはできないことを悟ると、彼らは市の前に十分な守備隊を残してペロポネソス半島へと帰国した。
 アテナイ人はクセノポンとパノマコスを将軍に任命して一〇〇〇人の兵と共にトラキアへと送った。この軍はボッティケ領のスパルトロスに到着すると、土地を荒らして穀物の初穂を刈り取った。しかしオリュントス軍がボッティケ人の救援のためにやってきて戦いで彼らを破った。アテナイ軍は両将軍と兵の大部分を殺された。このことが起こっていた一方、ラケダイモン人はアンブラキア人の要望に応えてアカルナニア遠征を行った。彼らの指揮官クネモスは同盟諸国からの一〇〇〇人の歩兵と少数の船舶を率いてアカルナニアに侵入し、ストラトスとして知られる都市の近くに陣を張った。しかしアカルナニア人は軍を集めて待ち伏せを仕掛け、多くの敵兵を殺してクネモスをオイニアダイとして知られる都市まで退かせた。
48 同じ時期にアテナイの将軍ポルミオンは二〇隻の三段櫂船でラケダイモンの軍船四七隻に襲いかかった。この戦いで彼は敵の旗艦を沈めて残りの船の多くを行動不能にし、一二隻を乗組員もろとも拿捕して残りを陸まで追撃した。ラケダイモン軍は予期せぬ敗北を喫した後に安全を求めて残りの船でアカイアのパトライへと逃げた。この海戦はリオンと呼ばれる地の沖合で起こった。アテナイ軍は戦勝記念碑を建てて海峡でポセイドンに一隻の船を奉納し、次いで同盟国であったナウパクトス市へと戻った。ラケダイモン人はパトライへと他の艦隊を送った。その船団は戦いを生き延びてリオンに集結していた三段櫂船と合流し、ペロポネソスの陸軍の大部隊も同じ場所に来て艦隊の近くに野営した。そして勝ち得た勝利で得意になっていたポルミオンは数の上で圧倒されていたにもかかわらず敢えて敵艦隊を攻撃した。彼は船をいくらか失ったものの、敵船の一部を沈めたため、彼の勝利ははっきりしなかった。この後アテナイ人が二〇隻の〔増援の〕三段櫂船を派遣すると、ラケダイモン軍は戦いを挑もうとせず、怯えながらコリントスを離れた。
 この年の出来事は以上のようなものであった。

ペロポネソス戦争四年目
49 ディオティモスがアテナイでアルコンだった時(71)、ローマ人はガイウス・ユリウスとプロクルス・ウェルギニウス・トリコストゥスを執政官に選出し(72)、エリス人は八八期目のオリュンピア紀を祝い、シケリアのメッセネのシュンマコスがスタディオン走で優勝した。この年にラケダイモンの提督で、コリントスで無為に過ごしていたクネモスはペイライエウスを奪取しようと決めた。彼はその港のどの船も軍務のために水上に浮かんでおらず〔陸に揚げられており〕、港を守る部隊は留守であるとの知らせを受けていた。というのも彼の知る限りでアテナイ人はよもや敵にはこの場所を奪取するだけの度胸があるなどとは夢にも思っていなかったためにそこの防備を疎かにしていたからだ。したがってクネモスはメガラ沿岸に停めていた四〇隻の三段櫂船を進水させ、夜にサラミスへと航行して出し抜けにサラミスのブドリオンと呼ばれる砦を襲撃し、三隻の船を曳航して島の全域を荒らし回った。サラミス人が松明の明かりでアッティカの住民に信号を出すと、アテナイ人はペイライエウスが占領されたと思って同地の救援のために非常に狼狽しつつも殺到した。しかし事の次第を知ると、彼らはすぐさま相当数の軍船に人員を乗り込ませてサラミスへと航行した。ペロポネソス軍は主たる目的〔が果たせそうになくなったこと〕に失望し、サラミスを去って帰国した。アテナイ人は敵の撤退後にサラミスをより厳重に守るようになって相当数の守備隊を残し、随所に帆桁と十分な守備兵を配置してペイライエウスの防衛を強化した。
50 同時期にトラキア人の王シタルケスは、小さな国土の王権を継承したにもかかわらず、彼自身の勇気と知恵によって支配域を大いに拡大し、公正に臣下を統治して戦場では勇敢な一戦士と巧みな将軍の役を果たし、さらに歳入についてしっかり配慮していた。ついに彼は彼以前のトラキアのどの王よりも広大な領域を支配するほどの権勢を得た。彼の王国の海岸線はアブデラ人の領地からイストロス川あたりまで延び、海から内陸地へと向かえばその距離は日中の徒歩の旅では一三日を要するほど大きかった。彼はかくも広大な領域を支配したために毎年の歳入は一〇〇〇タラントン以上になり、この時代に我々が以下で述べるつもりの戦争を彼がした時にはトラキアから歩兵一二万人と騎兵一四〇〇〇騎以上をかき集めた。しかしこの戦争に関して我々はその話の内容を読者に明らかにするためにその原因から話し始めるべきであろう。
 当時シタルケスはアテナイ人との友好条約を結んでいたため、トラキアでの戦争で彼らを支援することに賛同した。したがって彼はアテナイ人を助けることでカルキディケ人を服属させることを望み、大軍の準備をした。同時に彼はマケドニア人の王ペルディッカスと悪関係にあったため、ピリッポスの息子アミュンタスを帰国させてマケドニアの王位に据えようとした。我々がすでに述べたような二つの理由から彼はかように立派な軍を起こすことになった。遠征のための全ての準備が終わると、彼は全軍を率いてトラキアを通過し、マケドニアに攻め込んだ。マケドニア人はその軍の規模の大きさに意気阻喪したために彼に手向かおうとはせず、穀物と運べるだけの全財産を最も強力な砦へと退避させ、そこで大人しくしていた。トラキア軍はアミュンタスを王位につけた後、手始めに和平交渉と使節によって諸都市を味方に付けようとしたが、誰も耳を貸さないでいると、最初の砦に攻撃をかけて攻め落とした。この後いくつかの都市と砦は恐怖のために彼らに降伏した。全マケドニアを略奪して大量の戦利品を奪った後、トラキア軍はカルキディケのギリシア諸都市へと方向を転じた。
51 シタルケスがそれらの作戦に従事していた間、テッサリア人、アカイア人、マグネシア人およびマケドニアとテルモピュライの間に住んでいた全ての他のギリシア人は集まって会議を開き、連合して大軍を起こした。というのも、彼らはトラキア人とその雲霞の如き大軍が彼らの領地を侵し、彼らの故郷が失われる危険に瀕することを心配していたからである。カルキディケ人も同じく準備をしたため、シタルケスはギリシア人が強力な軍を召集しているのを知って自軍が冬による困難に苦しんでいるのに気付くと、ペルディッカスと折り合いをつけ、婚姻によって彼との連携を決定してトラキアへと軍を引いた。
52 それらの出来事が起こっていた一方で、ラケダイモン人はペロポネソスの同盟国〔から軍〕を集めて彼らの王アルキダモスの指揮下でアッティカへと侵攻し、初物の穀物を破壊して田園地帯を荒らし、帰国した。アテナイ人は敢えて出撃して侵略者と戦おうとはせず、また疫病と物資の不足で苦しんでいたために、未来の希望の見通しは暗かった。
 この年の出来事は以上のようなものであった。

ペロポネソス戦争五年目
53 エウクレイデスがアテナイでアルコンだった時(73)、ローマ人は執政官の代わりに三人の軍務官、マルクス・マニウス、クィントゥス・スルピキウス・プラエテクスタトゥス、そしてセルウィウス・コルネリウス・コッススを選んだ(74)。この年にシケリアでは、カルキスからの植民者だったが、アテナイ人の血を引いていたレオンティノイ人がシュラクサイ人からの攻撃を受けていた。シュラクサイ人が勢力において勝っていたため、戦争で追い詰められて都市の陥落の危機に晒された彼らは、即座に援軍を送って都市を脅かす危機から救ってくれるようアテナイ人に頼むためにアテナイに使節を派遣した。使節の主席は弁論術において当代の全ての人に勝っていた修辞学者のゴルギアスであった。彼は修辞学の規則を考案した最初の人であり、ソフィストによって考案された知識において他の全ての人を遥かに凌いでおり、弟子から一〇〇ムナの謝礼金を受け取っていた。さて、アテナイに到着して民会で人々に紹介された時、ゴルギアスは彼らに向けて同盟に関する議題を述べ、彼の演説の真新しさによって天性賢く論証を好んでいたアテナイ人は驚嘆で満たされた。というのも彼は対句、同数ないし均整の取れた節、ないしは似た末尾を有した文といったような幾分独特な方法と注意深く工夫された〔文の〕間隔の構造を用いた最初の人であり、その勧告は魅力的であったためにその時の全ての人は熱狂的にこれを受け入れた。しかし、これはあまりにも頻繁で冗長になされているので、今では不自然で、嘲笑されるべきものと見られている。最終的に彼はアテナイ人にレオンティノイ人との同盟を結ばせるのに成功し、修辞技術をアテナイで賞賛された後にレオンティノイへと戻っていった。
54 その頃アテナイ人は、シケリアの豊かさのためにその島を垂涎しており、ゴルギアスの提案を喜んで受け入れてレオンティノイに同盟軍を送ることを票決し、彼らの親戚(75)の必要事と求めを口実としてそれを行ったが、その一方で実際のところは島の支配権を得ようとの熱意を抱いてもいた。現に近年、コリントス人とケルキュラ人が戦争状態に突入して双方がアテナイ人を同盟国にしようとしたところ、ケルキュラはシケリアへの海路に都合の良い地点に位置していたために民会はケルキュラ人との同盟を選んでいた。というのも、一般的に言ってアテナイ人は制海権を掌握して偉大な諸事績を成し遂げ、多くの同盟国の助けを享受して強力な軍事力を有していたのみならず、一〇〇〇〇タラントン以上にもなるギリシア人同盟国の基金をデロスからアテナイへと移していたので、多額の資金を有してもいた。また、彼らには実地の統率力の試練に耐えた偉大な将軍たちの働きもまたあった。全てのそれらの長所により、彼らはラケダイモン人を破るのみならず、全ギリシアに覇を唱えた後にシケリアを手中に収めることを望んでいた。
 以上がアテナイ人がレオンティノイ人を助けた理由であり、彼らはラケスとカロイアデスを将軍とした二〇隻の艦隊をシケリアに送った。レギオンへと航行した彼らはそこでレギオン人と他のカルキス人の植民者からの二〇隻の船団を戦力に加えた。レギオンに基地を築いた彼らは手始めにリパラ人の島を荒らした。というのも彼らはシュラクサイ人の同盟者だったからだ。この後、彼らはロクリスへと航行してそこでロクリス人の船五隻を拿捕し、次いでミュライの砦の包囲に取り掛かった。近隣のシケリアのギリシア人たちがミュライ人を助けに来た時に戦いが起こり、アテナイ軍が勝利して一〇〇〇人以上を殺傷し、六〇〇人を下らない捕虜を得た。それからすぐに彼らは砦を占領した。
 それらの出来事が起こっていた間、この上なく精力的に戦争を推し進めようと決意していたアテナイの人々が送った四〇隻の船団が到着した。指揮官はエウリュメドンとソポクレスだった。全ての三段櫂船が一箇所に集まると、八〇隻からなる相当強力な艦隊になった。しかし戦争が長引いたためにレオンティノイ人はシュラクサイ人との交渉に入って条約を交わした。したがってアテナイの三段櫂船は帰国し、シュラクサイ人はレオンティノイ人を完全な市民権をもったシュラクサイ人にし、その都市をシュラクサイ人の砦にした。
 この時のシケリアの情勢は以上のようなものであった。
55 ギリシアではレスボス人がアテナイ人に反旗を翻した。それというのもレスボス人がレスボス島の諸都市をミュティレネ人の都市に併合しようと望んだ時にアテナイ人がこれを妨げていたこともあってレスボス人はアテナイ人に反感を抱いていたからだ。したがってレスボス人はペロポネソス人に使節を送り、彼らとの同盟を締結した後にスパルタ人に制海権を奪取するよう試みるよう勧め、この計画のために戦争で使う多くの三段櫂船を提供すると約束した。ラケダイモン人はこの申し出を喜んで受け入れた一方で三段櫂船の建造で手一杯になり、アテナイ人は直ちに兵士が乗り込んだ四〇隻の船を用意してクレイニッピデスを指揮官に選び、その軍をレスボスへと送ることによってその成就を妨げた。彼は同盟国から援軍を集めてミュティレネに投錨した。続いて起こった海戦でミュティレネ人は敗れて都市を囲まれた。一方ラケダイモン人はミュティレネ人に救援を送ることを評決して既に強力な艦隊を建造していたが、アテナイ人はレスボス島に重装歩兵一〇〇〇と共に増援の船団を送ることによっこれに先んじた。その司令官、エピクレロスの息子パケスはミュティレネに到着すると、既にいた軍を引き継いで都市の周りに壁を建設し、陸のみならず海からも絶え間なく攻撃を浴びせ続けた。
 ラケダイモン人はアルキダス指揮下の三段櫂船四五隻をミュティレネへと送り、そしてまた以前にも行ったようにアッティカに侵入して田園地帯を荒らすと、本国に戻った。食糧不足と戦争、そして仲違いで追い詰められたミュティレネ人は、正式に都市を包囲軍に明け渡した。アテナイで人々がミュティレネ人の処遇を話し合っていると、大衆指導者で残忍で乱暴な性格の男であったクレオンが若者以上のミュティレネ人の男子全員を殺して女子供は奴隷に売るべきだと主張し、人々を駆り立てた。最終的にアテナイ人はクレオンの提案に説得されてそのように議決し、ミュティレネへと民会で定められた処置を将軍に知らせる使者が送られた。丁度パケスが布告を読み終わった時、最初のとは反対の二つ目の布告が到着した。アテナイ人の心変わりを知ったパケスは喜び、ミュティレネ人を集会に集めて最大の恐怖からの解放と同様に〔戦争の〕責任からの解放を宣言した。アテナイ人はミュティレネの城壁を壊し、メテュムナ人の領地を除くレスボス島全域を〔アテナイ人自身で〕分配した。
 かくしてアテナイ人に対するレスボス人の反乱は終わった。
56 およそ同じ頃にプラタイアを包囲していたラケダイモン軍はその都市の周りに壁を築いて多数の兵士でそれを警備し続けた。包囲が長引いてもアテナイ軍が未だに助けに来なかったため、包囲された側は食料が不足したのみならず攻撃で多くの仲間の市民が失われていた。したがって彼らが途方に暮れてどうすれば身を守れるかを話し合った時、大多数は動くべきではないと主張したが、数にしておよそ二〇〇人の残りの者は夜陰に乗じて警備を突破してアテナイに行こうと決めた。そして、待ちに待った月の出ていない夜に彼らはプラタイア人の残りの者に〔その都市を〕取り囲んでいる壁の一方に攻撃を仕掛けるよう説得した。次いで彼ら自身は梯を用意し、敵が壁の〔攻撃された側に〕対する部署の守備に殺到するとプラタイア軍は梯をかけ、壁に上って守備兵を殺した後にアテナイへと逃げ去った。次にラケダイモン軍はその都市からの脱出に激怒し、プラタイア人のその都市に攻撃を仕掛けて強襲によって包囲された側をねじ伏せようといきり立った。狼狽したプラタイア人は敵に使節を送って彼ら自身とその都市を引き渡した。ラケダイモン軍の指揮官たちはプラタイア人を一人ずつ呼び出してラケダイモン人のために行った善行を問い質し、各々が彼らに親切な行いはしなかったと告白すると、スパルタ人に何か損害を与えたか否かをさらに問うた。誰もそうだと否定できなかったため、彼らは全員に死を宣告した。したがって彼らはまだ残っていた者を皆殺しにして市を徹底的に破壊し、その領地を貸し出した。非常に忠実にアテナイとの同盟を守ったプラタイア人は最も悲劇的な運命の理不尽な犠牲者となったのである。
57 それらの出来事が起こっていた間、ケルキュラでは激しい内紛と争いが感情を理由として起こった。エピダムノスをめぐる戦いで多くのケルキュラ人が捕虜になって抑留所に投げ込まれ、それらの者たちはコリントス人に、もしも自分たちを解放してくれるならばケルキュラを彼らの手に渡すと約束した。コリントス人は喜んでその提案に賛同し、身代金を支払う風に装い、ケルキュラ人はクセノスたちによって提供された何タラントンもの金で保釈された。約束に忠実なケルキュラ人たちは故郷に戻ってくるや否や常日頃民衆の指導者であり、人々の中の第一人者として行動していた者たちを逮捕して処刑した。また、彼らは民主制を終わらせたが、この少し後にアテナイ人が民主派を助けに来て、自由を回復したケルキュラ人は樹立された政府に対する反乱の責任者に罰を与えた。通常の刑罰を恐れた彼らは神々の祭壇へと避難して人々と神々への嘆願者となった。そしてケルキュラ人は神々への畏敬から彼らに罰を免除したが、その都市から追放した。しかし追放者たちは二度目の革命を計画して島の要害に防備を施し、ケルキュラ人を悩まし続けた。
 かくして、この年の出来事は以上のようなものあった。

ペロポネソス戦争六年目
58 アテナイでエウテュネスがアルコンだった時(76)、ローマ人は執政官の代わりに三人の軍務官、マルクス・ファビウス、マルクス・ファリニウス、そしてルキウス・セルウィリウスを選出した(77)。この年に疫病が小康状態だったアテナイ人は同様の不運に再び遭った。彼らは病によって兵士で歩兵四〇〇〇人と騎兵四〇〇騎以上、残り人口の自由人と奴隷で一〇〇〇〇人以上を失い、大打撃を受けた。歴史はこの疫病の悪影響の原因を定めようとするものであるため、その事柄を説明する義務がある。
 前の冬の豪雨の結果、地面は水浸しになって多くの低地地域に大量の水がき、浅い水溜りになってよどんだ水が溜まって湿地帯のようになった。その水が夏に温められて腐ると、濃い悪臭のする蒸気が出てきて周りの空気を汚染し、悪疫性のある湿地が出現した。病気は手に入る食べ物にも悪い性質をもたらした。その年の収穫物は水気が多く品質が損なわれた。そして病気の三つ目の原因は、通常は夏の熱のほとんどを冷やすエテシアの風が不足したことであると示されている。熱が度を越して空気が酷く暑くなり、住民の体を冷やすものは何もなかったために憔悴した。したがってその時広まった全ての病気は熱を伴っており、その原因は過度の熱さだった。そして病人が体を冷やそうと渇望したために池と泉に飛び込んだ最たる理由がこれだった。しかし、病気が重篤だったため、アテナイ人は彼らの不運を神のせいにした。したがって、ある神託に従ってアポロンに捧げられ、ある人の考えるところでは死者の埋葬のために穢れていたデロス島を清めた。したがってデロス島の全ての墓を掘り返した彼らはデロス島の近くにあるレネイア島に遺骸を移した、と伝わる。また、彼らは誕生も埋葬もデロス島では許されないという法を通過させた。さらに彼らは以前に催されていたが、長い間祝われてはいなかった祝祭の寄り合い、デリア祭を祝った。
59 アテナイ人がその事柄で忙しかった間、ラケダイモン人はアッティカに再び侵攻しようとしてペロポネソス軍を引き連れてイストモスに野営した。しかし大地震が起こり、彼らは迷信的な恐怖でいっぱいになって故郷へと戻った。ギリシアの大部分で感じられたその地震で沿岸のいくつかの都市は氾濫によって海に押し流されて破壊され、一方ロクリスでは陸の半島状の切れ端が引き裂かれてアタランテとして知られる島ができた。
 それらの出来事が起こっていた間、ラケダイモン人はトラキスに殖民してそこを以下のような理由でヘラクレイアと改称した。トラキス人は長年隣国のオイタイア人と戦争状態にあり、多くの市民を失っていた。その都市は放棄されたため、彼らはトラキスの植民者のラケダイモン人がそこの守りを担うのが良いと考えた。そしてラケダイモン人は、親切と、祖先であり古にトラキスを母国としたヘラクレスのために、大きな都市をそこに作ることを決めた。したがってラケダイモン人とペロポネソス人は四〇〇〇人の入植者と、植民への参加を希望して承諾された他のギリシア人を送った。後者は六〇〇〇人を下らない数だった。その結果、彼らはトラキスに一〇〇〇〇人の住民がいる都市を作って土地を割り当てて、ヘラクレイア市と名付けた。

ペロポネソス戦争七年目
60 ストラトクレスがアテナイでアルコンだった時(78)、ローマでは三人の軍務官、ルキウス・フリウス、スプリウス・ピナリウス、そしてガイウス・メテルスが執政官の代わりに選出された(79)。この年にアテナイ人はデモステネスを将軍に選んで三〇隻の船団と十分な数の兵士の部隊と共に送り出した。彼はケルキュラ人から自軍に一五隻の船を、ケパレニア人、アカルナニア人、そしてナウパクトスのメッセニア人から兵士を加えてレウカス島へと航行した。レウカス人の領地を荒らした後、彼はアイトリアへと航行して多くの村々を略奪した。しかしアイトリア人は彼に対抗するために集まり、戦いが起こってアテナイ軍が破れ、それからアテナイ軍はナウパクトスへと撤退した。アイトリア軍は勝利で得意になり、ラケダイモン兵三〇〇〇人を加えた後、その時はメッセニア人が住んでいたナウパクトスへと進撃したが撃退された。この後、彼らはモリュクリアと呼ばれる都市へと進撃してそれを占領した。しかしアテナイの将軍デモステネスはアイトリア人が包囲によってナウパクトスも奪取しないかと心配し、アカルナニアから一〇〇〇の重装歩兵を呼び寄せてナウパクトスまで送った。そしてデモステネスはアカルナニアに滞在していた間、そこに野営していたほぼ全軍の一〇〇〇人のアンブラキア軍を戦いで殺し、そのほぼ全軍を粉砕した。アンブラキアの男たちが彼に対して一挙に向ってくると、再びデモステネスがその多くを殺したために彼らの都市はほとんど無人になった。そこでデモステネスは都市には防衛する者がいないので簡単に征服できるだろうと期待し、アンブラキアを攻め落とせるだろうと信じた。しかしアカルナニア人は、もしアテナイ人がその都市の主になれば、アンブラキア人より対処し難い手強い隣人となるのではないかと恐れ、彼に従うのを拒否した。したがって敵側に回ったためにアカルナニア人はアンブラキア人と協定を結んで一〇〇年の和平を締結し、その一方でアカルナニア人によって窮地に置き去りにされたデモステネスはアテナイへと一二隻の船で帰った。大災厄を経験したアンブラキア人はアテナイ人の怖さを悟ったため、ラケダイモン人の駐屯軍を呼び寄せた。
61 今やデモステネスはペロポネソスへの脅威とするためにピュロスの砦の防備を固めようとしてピュロスへと遠征した。というのもそこはメッセニアに位置し、スパルタから四〇〇スタディオンの距離にある非常に強力な場所だったからだ。彼はその時に多数の船と十分な数の兵士を有していたため、一二日間ピュロスで城壁を作った。ピュロスが要塞化されたことを知ると、ラケダイモン人は歩兵と船の大戦力を集めた。したがって、ピュロスへと航行すると、彼らは完全武装の三段櫂船の四五隻の艦隊だけでなく、一二〇〇〇人の陸軍で進軍してきた。というのも、彼らはアッティカを防衛するだけの勇気を持たぬ一方でペロポネソス半島を荒らしはする男たちがペロポネソスで守りを固めて砦に居座るというのは自分たちにしてみれば不名誉なことだと考えたからだ。さてトラシュメデス指揮下のその部隊はピュロスの隣に野営した。その部隊は熱心にありとあらゆる危険に耐え、強襲によってピュロスを落とそうとしたため、ラケダイモン人は〔港に〕入ろうとする敵の試みを防ぐのに用いようとして船主を港の入り口に向けて船を配置して歩兵で絶え間なく城壁を攻撃し、あらゆる可能な限りの対抗心を示し、驚くほどの勇気を競った。また、港へと長く伸び、風から港を守っていたスパクテリア島と呼ばれた島へと彼らは最良のラケダイモン兵と同盟軍をそこへ輸送した。その場所は特に包囲の遂行に有利だったため、彼らはアテナイ人が彼らより先に島を支配するのを未然に防ごうとしてこれを行った。砦の前で毎日戦い、高い城壁のために多くの負傷者を出したにもかかわらず、ラケダイモン軍は勢いを緩めず激しく戦った。その結果、防備を固められていた場所に殺到したために彼らの多くが殺されて少なからぬ負傷者を出した。前もって天然の要害であり、多くの投擲兵器と十分な量の必要物資を貯蔵していた場所を保持していたアテナイ軍は意気揚々と彼らの持ち場を守り続けていた。もし計画が成功すれば、ペロポネソスへと全ての戦争を移し、敵の領地を少しずつ荒らすことができるようになると彼らは期待していた。
62 双方共に包囲戦で最高の気力を発揮し、城壁を攻めたスパルタ軍の多くが勇敢な行いへの驚嘆すべき対象であったが、中でも最大の賞賛を勝ち得たのはブラシダスだった。三段櫂船の船長たちが海岸の凸凹した地形のために陸まで船を向かわせる勇気を持てないでいると、自身が三段櫂船の指揮官だったブラシダスは舵手に声を荒げて呼びかけ、船から手を離さずに陸まで全速で三段櫂船を漕げと命じた。これは不名誉であり、スパルタ人たる者命を惜しまず勝利のために戦い、さらに船など手放し、アテナイ人がラコニアの土を握る光景を我慢するのかと彼は叫んだ。最終的に彼は無理矢理にも舵手に舟を漕がせるのに成功し、その三段櫂船が海岸にぶつかると、ブラシダスは舷門に立って彼の方に集まってきた大勢のアテナイ軍と戦った。手始めに彼は彼に向ってきた多くの敵を殺したが、しばらくして多数の矢玉を浴びたために部隊の正面は多くの負傷者を出した。結局、彼は傷口から多くの血を失って意識を失ったため、船と盾から腕を離して海へと滑り落ちて敵の手に落ちた。この後、多くの敵の死体の山を築いたブラシダスは〔敵の〕船から部下によって半死半生の状態で運び出された。盾を失った他の多くの兵士の場合は死を以って罰せられていたが、彼は勇気において他の全ての兵士より遙かに優っていたのでまさにこれを理由として栄誉を勝ち得た。
 さてピュロスへの断続的な攻撃を続けて多くの兵士を失っていたにもかかわらず、ラケダイモン人は激しい戦いを続けていた。そしてある者は運命の女神の奇妙な捻くれ具合と、そのピュロスで起こるよう彼女が指図したことの異様な性格に驚くだろう。アテナイ軍はラコニアの土の上で防衛してスパルタ人に対して勝利を得ていた一方でラケダイモン軍は自らの土地を敵地とし、海を自らの基地としながら敵を攻撃することになった。そしてこのようにして陸の支配者だった者は海を支配し、当初は海を握っていた者は彼らが握った陸で攻撃を撃退することとなった。
63 包囲が長引いたため、アテナイ軍が艦隊の勝利の後に陸への食糧輸送を妨害し、島にいた〔ラケダイモンの〕兵士は餓死の危機に陥った。したがってラケダイモン軍は島に兵士が取り残されるのを恐れ、アテナイに戦争の終結を話し合うための使節を送った。同意には至らず、ラケダイモン人は兵士の交換、つまりアテナイ人に今捕虜としている兵士と同数の兵士を戻すよう求めたが、これさえもアテナイ人は同意しなかった。その後、使節はアテナイで以下のように率直な物言いをした。アテナイ人が捕虜交換を行うのを嫌がれば、彼らはラケダイモン人が彼らより優っていることを認めることになる、と。一方アテナイ軍はスパクテリア島のスパルタ軍の強靱な肉体を物資の欠乏によってすり減らし、公式の降伏を受け入れていた。投降した者は一二〇人がスパルタ人で一八〇人がその同盟者だった。そこで、これが起こった時にはクレオンが将軍の職にあったので、彼らは大衆指導者クレオンによってアテナイへと鎖に繋がれて連行された。人々はラケダイモン人が戦争の終結に前向きであるならば彼らを抑留したままにし、戦争を続けることを決めようものなら捕虜は皆殺しにすると票決した。この後、彼らはナウパクトスに住んでいたメッセニア人から選り抜きの部隊を送り、他の同盟軍からの十分な軍と合体させてピュロスへの駐留に回した。というのも彼らは、基地としては強力な場所から作戦行動を行えるようになればメッセニア人はスパルタ人への憎悪から最高の熱意で略奪によってラコニアを攻め立てるだろうと信じたからだ。
 この年のピュロス周囲の出来事は以上のようなものであった。
64 ペルシア人の王アルタクセルクセス〔一世〕が五〇年君臨した後に死に、クセルクセス〔二世〕が王位を継承して一年間統治した。
 イタリアでは、アエクィ人がローマ人に反乱を起こし、続いて起こった戦争ではアウルス・ポストゥミウスが独裁官になってルキウス・ユリウスが騎兵長官になった。そしてローマ軍は反乱軍の領地へと強力な大軍勢で進撃して手始めにその領土を荒らし、後にアエクィ人が彼らに接近してくると戦いが起こってローマ軍が勝利し、多くの敵を殺して少なからぬ捕虜を得て、多くの戦利品を獲得した。戦いの後、反乱軍は敗北のために戦意を失い、ローマ人に服従した。ローマ人の考えたところでは、戦いを見事に進めたためにポストゥミウスは慣例に則って凱旋式で祝った。そしてポストゥミウスは、伝わるところでは、珍妙で信じがたくさえあることを行った。戦いで彼の息子が熱中のあまり父が割り当てた持ち場から飛び出ため、父は古い規律を守り、持ち場を離れた者として息子を処刑した。

ペロポネソス戦争八年目
65 この年の終わりにアテナイではアルコンがイサルコスで(80)、ローマではティトゥス・クィンクティウスとガイウス・ユリウスが執政官に選ばれ(81)、エリス人が八九期目のオリュンピア紀を祝い、シュンマコスがスタディオン走で二回目の優勝を果たした。この年にアテナイ人はニケラトスの子ニキアスを将軍に選び、彼に六〇隻の三段櫂船と三〇〇〇人の重装歩兵を与えてラケダイモン人の同盟国を略奪するよう命じた。彼はまずメロス島へと航行し、その領土を荒らして何日もの間その都市を包囲した。それというのも、メロスはスパルタの植民地だったため、キュクラデス諸島の中でラケダイモンと同盟を結んでいた唯一の島だったからだ。しかしメロス人が勇敢に防戦したためにニキアスはその都市を落とすことができず、次いでボイオティアのオロポスへと航行した。そこに船を残した彼は重装歩兵を連れてタナグラ人の領地へと進撃し、そこでカリアスの子ヒッポニコス率いる他のアテナイ軍と合流した。二つの軍が合体すると、将軍たちは前進して土地を略奪した。そしてテーバイ軍が救援にやってくるとアテナイ軍は戦いを挑み、大打撃を与えて勝利した。
 戦いの後、ヒッポニコスと共にいた兵士はアテナイへと戻ったが、ニキアスは船に戻ってロクリス沿岸に沿って航行して沿岸地域を荒らし回り、同盟国から四〇隻の三段櫂船を加えた結果、彼は全部で一〇〇隻の船団を有するまでになった。彼は少なからぬ数の兵士を徴募して強力な軍隊を集めた後にコリントスへと航行した。そこで彼は兵士を上陸させ、コリントス人が彼らに対して軍を差し向けると、アテナイ軍は二度の戦いで勝利して多くの敵を殺して戦勝記念碑を立てた。そこでは八人のアテナイ人と三〇〇人以上のコリントス人が戦死した。ニキアスはクロンミュオンへと航行してその領地を荒らし、砦を奪取した。次いですぐに彼はそこを発ってメトネ近くに砦を築き、その場所を防衛して近隣の地域を荒らすという二重の目的のために守備隊を残した。そしてニキアスは沿岸を略奪してアテナイへと戻った。
 それらの出来事の後、アテナイ人は六〇隻の艦隊と二〇〇〇人の重装歩兵をキュテラ島へと送り、その遠征はニキアスと他の将軍たちの指揮下で行われた。ニキアスは島を攻撃して都市に猛攻をかけ、公式の降伏を受け入れた。そして守備隊を島に残した彼はペロポネソスへと航行して沿岸の領土を荒らした。ラコニアとアルゴリスの境界にあったテュレアイを彼は包囲によって落とし、住民を奴隷にしてそこを灰燼に帰した。そしてその都市に住んでいたアイギナ人を守備隊長のスパルタ人タンタロスもろとも捕虜にしてアテナイに送った。そしてアテナイ人はタンタロスに足枷をはめて他の捕虜、アイギナ人と一緒に監視下に置いた。
66 それらの出来事が起こっていた間、メガラ人は一方ではアテナイ人との戦争のために、もう一方では亡命者たち(82)のために苦しめられているということを見て取った。そして代表者たちが亡命者と意見交換をしていた間、亡命者たちに敵意を抱いていた市民たちはアテナイの将軍たちに接触してその都市を彼らに明け渡すことを申し出た。将軍のヒッポクラテスとデモステネスはこの裏切りに乗って夜のうちに六〇〇人の兵士をその都市へと送り、陰謀者たちは城壁の中でアテナイ軍を迎えた。裏切りが市中に知れ渡ると多くの人々は党派に分裂し、ある人たちはアテナイ人に、またある人たちはラケダイモン人に味方して戦った。ある者は先手を打ち、望む者はアテナイ人とメガラ人に味方して武器を取ろることができるという声明を発表した。したがって、ラケダイモン軍はメガラ人に見捨てられると思い、ラケダイモンの長城守備隊はメガラの港であったニサイアで安全を確保した。そこで早速アテナイ軍はニサイアの周りに掘割を掘って包囲下に置き、アテナイから熟練の労働者を連れてきて城壁をその周りに築かせた。そしてペロポネソス軍は強襲で落とされて殺されるのではないかと恐れ、アテナイ軍にニサイアを引き渡した。
 この時のメガラ人の情勢は以上のようなものであった。
67 ブラシダスはラケダイモンと他のペロポネソス諸国からの十分な軍を引き連れてメガラへと向った。そしてアテナイ軍に恐慌状態に陥れてニサイアから追い出し、次いでメガラ人の都市を解放してラケダイモン人の同盟国に戻した。この後、彼はテッサリアを通って軍を移動させてマケドニアのディオンにやってきた。そこから彼はアカントスへと進み、カルキディケ人と目的を共にした。彼がやってきた最初の都市はアカントス人の都市で、一部の都市を脅迫し、もう一部の都市には好意的な説得をすることで彼はアテナイ人からの離反を〔カルキディケ諸都市に〕説いた。そして後に彼は他の多くのトラキアの人々も誘い、ラケダイモン人との同盟を結ばせた。この後、ブラシダスは戦争をより精力的に遂行しようと望み、ラケダイモンから兵士を呼び寄せて強力な軍を集めた。そしてスパルタ人はヘロットのうち最も影響力のある者を破滅させようと望んだ。彼らは戦いでその多くを亡き者にしようとして最も気概のあるヘロット一〇〇〇人を彼のもとに送った。彼らはもう一つの暴力的で残酷な行為を行い、ヘロットの誇りをくじかせようと考えた。彼らはスパルタに貢献をしたヘロットは名乗りを上げよと、そして彼らの主張を受け入れて解放することを約束するという公布を出した。そして二〇〇〇人が名乗りを上げると、次いでスパルタ人は各々の家庭ごとにそれらのヘロットを殺せと最も影響力のある市民に命じた。それというのもヘロットが敵と結託してスパルタに困難をもたらす好機を掴むのではないかと彼らは深く心配していたからだ。にもかかわらず、ブラシダスは一〇〇〇人のヘロットと同盟国から徴兵された部隊と合流し、満足のいく軍が集まった。
68 ブラシダスは自分の兵士の数を頼んでアンピポリスとして知られる都市へと軍を進めた。この都市は以前にミレトスのアリスタゴラスが、ペルシア人の王ダレイオスのもとから逃げた時に植民市として建設したものである。彼の死後、植民者たちはエドノイ人と呼ばれるトラキア人に追い出され、それから三二年後にアテナイ人が一〇〇〇〇人の殖民団をその地に送った。似たようにしてその入植者たちはトラキア人によってドラベスコスで完敗し、二年後に再びアテナイ人はハグノン指導の下で都市を復活させた。その都市は多くの人の争奪の的になり、ブラシダスはそこを征服しようと熱望した。したがって彼は強力な軍を率いてそこへと向かってある橋の近くに野営し、手始めにその都市の郊外を奪取して翌日にアンピポリス人に恐怖を与え、望む者は財産を持って都市を去るという条件で公式の降伏を受け入れた。
 この後すぐブラシダスは多くの近隣諸都市を味方につけ、そのうち最も重要だったのはタソス人の植民市であるオイシュメとガレプソス、エドノイ人の小都市ミュルキノスであった。また彼はストリュモン川で多くの三段櫂船を建造しようとしつつラケダイモン人と残りの同盟国から兵を集めた。また彼は一揃いの鎧を数多く作り上げ、それを武器を持っていない若者に配布し、投擲兵器と穀物、そしてあらゆるものを集めた。全ての準備が完了すると、彼はアンピポリスから軍を率いて出発し、アクテに来て野営した。この地方には五つの都市があり、そのいくつかはギリシア人のものでアンドロス島からの植民市で、他はビサルテス族由来の夷狄のものであった。それらの都市を手中に収めた後、ブラシダスはカルキディケ人の植民市だったがアテナイに加担していたトロネ市へと軍を率いていった。都市を裏切る準備をしていた者たちがいたおかげでブラシダスは夜のうちに迎え入れられ、戦わずしてトロネを手中に収めた。
 この年の進展は幸運の絶頂にあったブラシダスによってもたらされた。
69 それらの出来事が起こっていた一方で、ボイオティアのデリオンで以下のような理由でアテナイ軍とボイオティア軍との間で会戦が起こった。既存の政体に苛ついていたボイオティア人たちは諸都市に民主制を樹立しようと熱望し、アテナイの将軍ヒッポクラテスとデモステネスに方策を話してボイオティアの諸都市を彼らの手中に収めさせると約束した。アテナイ人が喜んでこの申し出を受け入れて攻撃の取り決めをすると、将軍たちは軍を分割した。デモステネスは軍の過半数を率いてボイオティアに侵攻したが、ボイオティア人が既にその裏切りを知っていたのを見て取ると、何もせずに引き返した。ヒッポクラテスはデリオンへ向けてアテナイの市民軍を率いていき、その地を奪取してボイオティア軍が接近する前にそこに壁を建設した。その町はオロポスとボイオティアの境界の近くにあった。ボイオティア軍を指揮していたパゴンダスはボイオティアの全都市から兵を呼び寄せて大軍を率いてデリオンに到来し、彼は二〇〇〇〇人以上の歩兵と一〇〇〇騎の騎兵を率いていた。ボイオティア軍の数の優位にもかかわらずアテナイ軍は敵に対してはあまり準備ができていなかった。彼らはおっとり刀で都市を出たために準備不足だった。
70 両軍は高邁な精神で戦いへと進み、軍は以下のように配置された。ボイオティア軍ではテーバイ軍が右翼を、オルコメノス軍が左翼を占め、中央の戦列は他のボイオティア軍から構成された。全軍の第一陣は彼らが「戦車乗りと従卒」(83)と呼んだ三〇〇人の選り抜きの部隊から形成されていた。アテナイ軍は自軍が整列し終えないうちに敵との戦いに入った。激しい戦いが起こって当初はアテナイ騎兵が素晴らしい戦いぶりを示して前面の敵を敗走させた。しかし後になって歩兵の戦闘が始まると、〔左翼以外の〕残りのアテナイ軍は他のボイオティア軍を圧倒して多くの敵を殺してある程度の距離を追撃していたにもかかわらず、テーバイ軍の正面にいたアテナイ軍は圧倒されて敗走した。しかし身体の壮健さで優位だったテーバイ軍は追撃から戻り、追撃中のアテナイ軍に襲い掛かってこれを敗走させた。そして目覚ましい勝利を得たために彼らは大いに勇名を馳せた。アテナイ軍の一部はオロポスに、他はデリオンに逃げ込んだ。ある者は海にあったアテナイ船へと向かった。さらに他の者は運に導かれるまま途上バラバラになった。夜になった時にはボイオティア軍の死者は五〇〇人にも満たず、アテナイ軍の死者はその数倍だった。しかしながら、もし夜に妨げられなければ、アテナイ軍のほとんどが倒れていたであろう。というのも追撃軍の攻撃はこのために止み、逃亡者たちは安全を得たからである。戦利品による収入でテーバイ人はアゴラに巨大な柱廊を作ったのみならずいくつもの青銅の像でそれらを飾り、剥ぎ取った戦利品の鎧から手に入れた青銅で神殿とアゴラの柱廊を覆えたほどに多くの者が殺された。さらにこの金で彼らはデリア祭と呼ばれる祝祭も創始した。
 戦いの後、ボイオティア軍はデリオンに攻撃を仕掛けてその地を落とした。デリオンの守備隊はその多くが見事に戦って戦死し、二〇〇人が捕虜になった。残りは船まで無事逃げおおせてアッティカへと他の避難者と共に輸送された。かくしてボイオティア人に対する陰謀を企てたアテナイ人は上述のような災難にあったのである。
71 アジアではクセルクセス〔二世〕王が一年、あるいはいくつかの記録では二ヵ月の在位の後に死に、その兄弟のソグディアノスが王位を継承して七ヵ月間支配した。彼はダレイオス〔二世〕によって殺され、ダレイオスは一九年間君臨した。
 歴史家のシュラクサイのアンティオコスはこの年でシカノス人の王コラロスの時代から始めた九巻の『シケリア史』を終えた。

ペロポネソス戦争九年目
72 アメイニアスがアテナイでアルコンだった時(83)、ローマ人はガイウス・パピリウスとルキウス・ユリウスを執政官に選出した(84)。この年にスキオネ人はデリオンでの敗北のためにアテナイ人を軽んじるようになってラケダイモン側に寝返り、トラキアのラケダイモン軍を指揮していたブラシダスに都市を明け渡した。
 アテナイ人がレスボス島でミュティレネを奪取した後、虜囚を逃れた多数の亡命者たちはレスボス島に帰ろうとしばしの間試みており、彼らはこの時にアンタンドロスに集まってそこを成功裏に奪取し、ここを基地としてミュティレネを占拠していたアテナイ人との戦争に踏み切った。この事態に憤慨したアテナイの人々は将軍としてアリステイデスとシュンマコスを軍と共に送った。彼らはレスボス島にやってきて絶え間ない攻撃でアンタンドロスを落とし、亡命者のある者は殺され、他はその都市から追い出された。そして彼らはその地を守備するために駐留軍を残してレスボス島から去った。この後、将軍ラマコスは一〇隻の三段櫂船と共にポントスへと航行してカレス川(85)沿いにあるヘラクレイアに投錨したが、全ての同盟船を失った。というのも大雨が降って川が荒れ狂い、彼の艦隊は岩だらけの場所に流されて岸で粉々になったからだ。
 アテナイ人はラケダイモン人と双方がその時支配していた土地の所有権を保持し続けるという条件で一年間の休戦条約を締結した。彼らは多くの話し合いをして互いの警戒を解いて敵対心を捨てるという意見にまとまった。そしてラケダイモン人はスパクテリアで捕虜になった市民の返還を熱心に求めた。以上のような条件の休戦条約が締結されると、彼らは他の全ての問題にも完全な同意に達したが、スキオネに関してだけは別だった。かくして激しい論争が起こり、彼らは休戦条約を破棄してスキオネをめぐって互いに戦争を続けた。
 この時にメンデ市もまたラケダイモン人に寝返り、スキオネ問題をより厄介なものとした。かくしてブラシダスは女子供と値打ちのある財産のほとんど全てをメンデとスキオネから移転させて強力な守備隊でそれらの都市を保護した。その後、これに憤慨したアテナイ人はその都市を落とした暁には若者以上の全てのスキオネ人を剣で殺すことを票決し、五〇隻の三段櫂船からなる海軍を、ニキアスとニコストラトスにその指揮権を与えて差し向けた。彼らはまずメンデまで航行して裏切り者の強力を得てそこを征服した。次いでスキオネの周りに城壁を建造して包囲に取り掛かり、絶えず攻撃を続けた。しかし数において強力で、十分に投擲兵器と食料及び他の物資が供給されていたスキオネの守備隊は高所を頼んでアテナイ軍に多くの負傷者を出させ、難なく撃退した。
 この年の出来事は以上のようなものであった。

ペロポネソス戦争一〇年目
73 その翌年はアルカイオスがアテナイでアルコンであり(86)、ローマではオピテル・ルクレティウスとルキウス・セルギウス・フィデニアテスが執政官だった(87)。この年にアテナイ人は密かにラケダイモン人と同盟を結んだとしてデロス人を告発し、彼らを島から追放してその都市を我がものとした。追放されたデロス人のために太守のパルニアケスはアドラミュティオン市を住処として与えた。
 アテナイ人は民衆派の指導者クレオンを将軍に選出し、強力な歩兵部隊を与えてトラキア地方へと送った。彼はスキオネへと航行してその都市を包囲していた軍から兵力を補充し、そしてそこを発ってトロネに寄港した。駆けつけるにしてもブラシダスはその地方からは遠くにおり、トロネに残されていた兵士は戦いに耐えるほど強力ではないとクレオンは承知していた。トロネの近くに野営してその都市を陸海から包囲した後、彼は強襲によってそこを落として女子供を奴隷に売ったが、捕虜にした守備兵は足枷をはめてアテナイへと送った。次いで、その都市に十分な守備隊を残した彼は軍を連れてそこを発ってトラキアのストリュモン川に到達した。彼はアンピポリスからおよそ三〇スタディオンの距離にあったエイオン市の近くに野営し、その町を攻撃して成功裏に落とした。
74 クレオンはブラシダスとその軍がアンピポリス市にいることを知ると、陣営を畳んで彼に向けて進軍した。敵の接近を聞くとブラシダスは軍を戦闘隊形にしてアテナイ軍と戦うべく進んだ。激しい戦いが起こり、両軍とも雄々しく戦い、最初戦況は拮抗していたが、後になって双方の指揮官が戦いの決着を自らの手でつけるべく奮闘したために多くの重要人物が死に、将軍たちは戦いの真っ只中に飛び込んでこれ以上ないほどに勝利を競った。素晴らしい戦いぶりを見せて多くの敵兵を殺した後にブラシダスは英雄的な最期を遂げた。そしてクレオンもまた同様の勇気を見せつけて戦いに倒れ、両軍は指揮官を失ったために混乱に陥ったが、最終的にラケダイモン軍が勝利して戦勝記念碑を立てた。アテナイ軍は休戦の下で死者を回収して埋葬し、アテナイへと去った。しかし戦場からある兵士たちがラケダイモン人のもとに到着してブラシダスの勝利とその死の知らせを持って帰り、戦いの顛末を知らされたブラシダスの母は戦いでブラシダス自身はどのようだったのかを尋ねた。そして全てのラケダイモン人のうちで息子が最高の者であったと言われると、その戦死した男の母は言った。「倅のブラシダスは勇敢な男でしたし、まだ他の多くの人より地位が低かったのです」この受け答えが町中に広まると、彼女は息子の名声によって国家に多大な評判をもたらしたため、監督官たちは公的な栄誉をその女性に与えた。
 上述の戦いの後、アテナイ人が五〇年の休戦条約を以下のような条件でラケダイモン人と締結した。双方の捕虜は返還され、双方は戦争の過程で獲得した諸都市を返還する、というものである。したがって一〇年間続いたペロポネソス戦争は以上で述べたような形で終結した。

ペロポネソス戦争一一年目
75 アリスティオンがアテナイでアルコンだった時(88)、ローマ人はティトゥス・クィンクティウスとアウルス・コルネリウス・コッススを執政官に選出した(89)。この年にペロポネソス戦争が丁度終結していたにもかかわらず、以下のような理由でギリシアは再び騒動と戦乱で満たされた。アテナイ人とラケダイモン人は講和条約を締結して同盟諸国共々敵意を捨てたにもかかわらず、同盟諸都市との協議抜きでその停戦協定を締結した。この行いによって〔アテナイとラケダイモンが〕残りのギリシア人の隷属を目的として内密の目的のための同盟を締結したのではないかと彼ら〔同盟諸都市〕は疑念を抱いた。その結果、最も重要な諸都市は相互に使節を交換して政策の統一とアテナイ人とラケダイモン人に対する同盟についての会談を続けた。この試みでの指導的な国は四つの最も有力な国、アルゴス、テーバイ、コリントス、そしてエリスであった。
 アテナイとラケダイモンが残りのギリシアに対する共通の計画を持っていたのではないかと疑われるのには正当な理由があった。二国が締結した協定には一つの条項、つまりアテナイ人とラケダイモン人は両国が最良だと考える限りで合意内容を加えたり減らしたりする権利を有していたからだ。さらにアテナイ人は同市の有利になるようなことについて協議する権限を持った一〇人を布告によって置いた。ラケダイモン人も全く同じことをしたため、二国の利己的な野心は全ての人の知るところとなった。多くの都市が全面的な自由への呼びかけに応え、アテナイ人は彼らがデリオンで喫した敗北のために軽蔑されてラケダイモン人はスパクテリア島での市民の捕縛によって名声を落としていたため、多くの都市が集まってアルゴス人の都市を本陣として選んだ。この都市は過去の事績のために高い地位にあり、現にヘラクレイダイの帰還まで全ての重要な王はアルゴリスから輩出されていた。さらにその都市は長らく平和を享受していたために最大規模の歳入と資金だけでなく兵士の備えがあった。アルゴス人は全ての主導権は彼らの手の内にあると信じると、最も頑健な身体を持つと同時に最も富を持つ一〇〇〇〇人の若い市民を選び出し、国家への他のあらゆる奉仕から彼らを解放して公費で食事を提供し、彼らに絶え間ない訓練を積ませた。したがってその若者たちは彼らのために注がれた経費と絶え間ない訓練によってすぐに戦争での働きのために鍛え上げられた競技選手の肉体を作り上げた。
76 ラケダイモン人はペロポネソス半島が自分たちに対して団結しているのを見て取ると差し迫った戦争の大きさを予想し、主導的地位を確保するためにあらゆる努力を始めた。そしてブラシダスと共にトラキアで働いていた全てのヘロット一〇〇〇人に手始めに自由が与えられた。次いで、スパクテリア島で捕虜になり、スパルタの栄光に泥を塗った廉で名誉を剥奪されていたスパルタ人の名誉が回復された。また、同様の政策を遂行するため 、戦争の過程で獲得される賞賛と栄誉を用い、戦いで彼らがすでに示した勇敢な行動で上回るよう促した。そして同盟諸国にはより公正に振舞い、彼らにとって最も都合が悪い事柄を親切な仕方で調停した。逆にアテナイ人は離脱を企んでいる者を恐怖で押さえつけようとし、全ての人にスキオネの住民に与えた罰を見せて実例を示した。包囲戦の後、彼らは若者以上の男を全員処刑して女子供を奴隷として売り払い、プラタイア人はアテナイ人〔との同盟への忠誠〕のために生まれ故郷を追い出されていたため、彼らの住処とするためにその島を与えた。
 この年にイタリアではカンパニア人がキュメに強力な軍で進撃し、キュメ人を戦いで破って敵軍の大部分を壊滅させた。そして包囲に取り掛かり、彼らは幾度もの攻撃をその都市にかけて強襲によって落とした。次いで彼らはその都市を略奪して捕らえた捕虜を奴隷に売り、充分な数の同胞市民を選んでそこに住まわせた。

ペロポネソス戦争一二年目
77 アステュピロスがアテナイでアルコンだった時(90)、ローマ人はルキウス・クィンクティウスとアウルス・センプロニウスを執政官に選び(91)、エリス人は九〇期目のオリュンピア紀を祝い、その中でシュラクサイのヒュペルビオスがスタディオン走で優勝した。この年にアテナイ人はある神託に従ってデロス人に島を返還し、アドラミュティオンに住んでいたデロス人は生まれ故郷に帰ってきた。アテナイ人がピュロス市をラケダイモン人に返還しなかったため、両都市は再び互いに争い、敵意を持つようになった。これがアルゴス人の民会の知るところとなると、民会はアルゴス人との友好条約をまとめるようアテナイ人を説得した。そして争いが起こったためにラケダイモン人はコリントス人にその国々との同盟を破棄してラケダイモン人と同盟するよう説得した。主導権がないままに動乱が起こったため、ペロポネソス半島の至る所は上述のようになった。
 外地ではアエニアニア人、ドロペス人、そしてマリス人はそれを知ると、トラキスのヘラクレイアに向けて大兵力で進撃した。ヘラクレイア人は彼らと対決するために打って出て大規模な戦いが起こり、ヘラクレイアの人々は敗れた。彼らは多数の兵士を失って城壁に逃げ込むとボイオティア人に救援を求める使者を送った。テーバイ人は一〇〇〇人の選り抜きの重装歩兵を救援に派遣してその援軍によって敵を防いだ。
 それらの出来事が起こっていた間、オリュントス人はアテナイの守備隊がいたメキュベルナ市に対して軍を送り、守備隊を追い出してその都市を奪取した。

ペロポネソス戦争一三年目
78 アテナイでアルキアスがアルコンだった時(92)、ローマ人はルキウス・パピリウス・ムギラヌスとガイウス・セルウィリウス・ストルクトゥスを執政官に選出した(93)。この年にアルゴス人はアポロン・ピュタイオスに犠牲を捧げなかったとしてラケダイモン人(94)を訴え、宣戦した。そしてまさにその時にアテナイの将軍アルキビアデスが軍を率いてアルゴリスに入った。その軍を加えてアルゴス人はラケダイモン人の同盟国だったトロイゼンへ向けて進撃し、その領土を略奪して農業小屋を焼き討ちした後、本国へと帰った。ラケダイモン人はトロイゼン人に対するこの無法な行いに憤慨し、アルゴス人に対する戦争を決定した。したがって彼らは軍を集めて彼らの王アギスの指揮下に置いた。この軍を率いてアギスはアルゴス人に向けて進撃して彼らの領地を荒らし、その都市の近辺まで軍を率いて行き、敵に戦いを挑んだ。エリス人からの兵士三〇〇〇人とマンティネイア人からのほぼ同数の兵士を軍に加えたアルゴス人はその都市から打って出た。戦いがまさに起ころうとした時、将軍たちは互いに交渉を行って四ヶ月の間敵対行為を停止することで同意した。しかし両軍が何もせずに彼らの母国へ帰ると、双方の都市は停戦に同意した将軍たちに怒った。したがってアルゴス人は指揮官たちに石を投げて彼らを死によって脅し始めた。そして助命の懇願によってしぶしぶ命だけは助けたが、彼らの財産は没収されて家は徹底的に破壊された。ラケダイモン人はアギスを罰することにしたが、彼が手柄によって過ちの償いをすると約束すると、彼らはしぶしぶ彼を放免して将来のために最も賢い者を十人選び出して彼の顧問に任命し、彼らの意見を聞くことなしに何もしないよう彼に命じた。
79 この後、アテナイ人はアルゴスへと海路で一〇〇〇人の選り抜きの重装歩兵と二〇〇騎の騎兵をラケスとニコストラトス指揮の下で送った。そしてアルキビアデスもまた、彼のエリス人とマンティネイア人との友好関係のために自腹を切ってこれに参加した。そして彼ら全員が会議に集まると、休戦条約を留意しつつも戦争を起こすことを決めた。したがって各々の将軍たちは兵士を〔戦いへと〕駆り立て、彼らが皆熱烈に応じるとその都市の外側に野営した。今や彼らはまずアルカディアでオルコメノスと戦うことで一致した。そしてアルカディアへと進撃した彼らはその都市の包囲に取り掛かってその城壁を毎日攻撃した。その都市を占領した後に彼らはテゲアの近くで野営し、そこも攻囲することを決めた。しかしテゲア人が即急な救援をラケダイモン人に求めると、ひとたびマンティネイアが攻撃を受ければ敵はテゲアの包囲を解くだろうとスパルタ人は信じ、全軍と同盟軍を集めてマンティネイアへと向った。マンティネイア人は同盟軍を集めて一斉に出陣し、ラケダイモン軍に対陣した。激しい戦いが続いて起こり、戦いの訓練を受けていたアルゴス人の精兵一〇〇〇人は最初に敵を敗走させ、追撃で多くを殺傷した。しかしラケダイモン軍は他の箇所の軍を敗走させて多数を殺傷した後にアルゴス軍の方へと旋回し、数的優位を頼んで彼らを包囲して粉砕しようとした。今やアルゴス軍の精兵は数において遥かに劣っていたにもかかわらず、その偉大な勇気において勝った。ラケダイモン人の王は戦いつつ、断固として遭遇した危機に耐えた。彼は市民たちとの約束を果たして輝かしい行いによって以前の不名誉な行いを払拭しようと燃えていたが、彼はその目的をやり遂げることを許されなかった。アギスの顧問の一人でスパルタで高い評価を受けていたスパルタ人パラクスは、彼にその精兵たちに逃げ道を残し、生命についてのあらゆる望みを捨てた兵士に対して危険を犯さず、運命に見捨てられた者の勇敢さを考慮するよう指示した。最近与えられた指揮権〔の制限〕のために、王はパラクスが忠告した通りに逃げ道を残さざるを得なかった。そうして一〇〇〇人は上述のような仕方で通り抜けることができて安全に道を抜け、そしてラケダイモン人は大きな勝利を得て、戦勝記念碑を立てて本国に帰った。

ペロポネソス戦争一四年目
80 この年が終わった時、アテナイではアンティポンがアルコンで(95)、ローマでは執政官の代任にガイウス・フリウス、ティトゥス・クィンクティウス、マルクス・ポストゥミウス、そしてアウルス・コルネリウスといった四人の軍務官が選ばれた(96)。この年にアルゴス人とラケダイモン人は相互の交渉の後、講和して同盟を結んだ。したがってマンティネイア人はアルゴス人の救援を失ったためにラケダイモン人に服属せざるを得なくなった。そしてほぼ同時にアルゴス人の都市では全市民の総意で選ばれた一〇〇〇人が民主制の解体とその人数での貴族制の樹立を決定した。そして彼らは自らのために多くのことを行い、手始めに彼らは富と勇敢な偉業によって優れた地位を得ていたために慣例的に人々の指導者だった人々を逮捕して処刑し、次いで残りの市民に恐怖政治を布き、法律を廃止して彼らの手で国家運営を行うようにした。彼らは八ヶ月の間統治を続け、人々が彼らに対して一致団結したために打倒された。そして彼らは処刑され、人々は民主制に戻った。
 ギリシアでは他の出来事も起こった。ポキス人もまたロクリス人と論議し、合戦での勇気によってその問題を解決した。勝利はポキス人のものになり、彼らは一〇〇〇人以上のロクリス人を殺した。
 ニキアス指揮下のアテナイ軍はキュテラとニサイアという二都市を占領し、メロスを包囲して若者のうち男を皆殺しにし、女子供を奴隷として売り払った。
 以上がこの年のギリシア人の出来事である。イタリアではフィデナエ人のもとに使節がローマ人の都市から来た時、フィデナエ人は彼らを瑣末な理由で殺した。その行いに憤慨したローマ人は戦争を起こすことを票決し、アニウス・アエミリウスを独裁官に、習慣に従って彼と共にアウルス・コルネリウスを騎兵長官に任命した。アエミリウスは戦争のあらゆる準備を行った後にフィデナエ人に向けて進軍した。フィデナエ人がローマ軍と対陣すると、長時間続いた激しい戦いが起こった。双方大損害を被り、戦いは決定的にならなかった。

ペロポネソス戦争一五年目
81 エウペモスがアテナイでアルコンだった時(97)、ローマでは執政官相当の地位の軍務官にルキウス・フリウス、ルキウス・クィンクティウスそしてアウルス・センプロニウスが選出された(98)。この年にラケダイモン軍とその同盟軍がアルゴリスと戦ってヒュシアイの砦を占領して住民を殺戮し、砦を灰燼に帰した。彼らはアルゴス人が海まで伸びる長城の建設を完了したと聞き知るとそこへと進撃して完成していた城壁を破壊し、それから帰国した。アテナイ人はアルキビアデスを将軍に選出してアルゴス人が〔民主〕政府を樹立するのを援助するために彼の指揮下に二〇隻の船団を与えた。というのも多くの人が未だ貴族制に執着していたために政情はまだ安定していなかったからだ。かくしてアルキビアデスはアルゴス人の都市に到着して民主制の支持者と会談すると、ラケダイモン派の最も強力な支持者だと思われていた人たちを選んでその都市を退去させ、堅固な基礎の下での民主政府の樹立を支援してアテナイへと帰国した。
 この年の終わりにラケダイモン軍はアルゴリスに強力な軍でもって侵攻し、その地方の大部分を荒らした後、オルネアイにアルゴスからの亡命者を住まわせた。彼らはこの場所に防備を施してアルゴリスに対する砦とし、強力な守備隊をそこに残してアルゴス人を悩ませるよう命じた。しかしラケダイモン軍がアルゴリスから撤退すると、アテナイ人はアルゴス人に四〇隻の三段櫂船と一二〇〇人の重装歩兵からなる援軍を送った。そこでアルゴス軍はアテナイ軍と共にオルネアイへと進撃してその都市を攻め落とし、守備隊と同盟軍を処刑して他の者をオルネアイから追放した。
 ペロポネソス戦争の一五年目の出来事は以上のようなものであった。

ペロポネソス戦争一六年目
82 戦争の一六年目にはアリムネストスがアテナイでアルコンで(99)、ローマでは執政官の代わりに四人の軍務官、ティトゥス・クラウディウス、スプリウス・ナウティウス、ルキウス・センティウス、そしてセクストゥス・ユリウスが選出された(100)。この年にエリス人によって九一期目のオリュンピア紀が祝われ、アクラガスのエクサイネトスがスタディオン走で優勝した。ビュザンティオン人とカルケドン人はトラキア人と共にビテュニアに対して大軍で以って戦争を起こし、その土地を略奪して多くの小さい入植地を包囲して落とし、残忍行為を働いた。彼らの獲得した多くの捕虜に関しては、男と女子供の両方が全員剣の露と消えた。
 同時にシケリアではエゲスタ人とセリヌス人との間で、一つの川がそれらの都市の係争地を分けていた領土の問題から戦争が起こった。セリヌス人はその川を渡り、最初は力づくで河畔の土地を占拠したが、後になって被害を受けた勢力の権利を完全に無視して隣接した土地の大部分を切り取った。エゲスタの人々は怒り、まず言葉で他の都市の領地へ不法侵入すべきではないと説得しようと試みた。これには誰も耳を貸さないでいると、彼らは領地に居座っていた者に対して軍を差し向けて土地からその全員を追い出し、土地を占拠した。両都市間の争いが激化すると、両勢力は兵士を集めて軍事力によって決着をつけようとした。かくして、両軍が対陣すると、激しい戦いが起こってセリヌス軍が勝利し、少なからぬエゲスタ人を殺した。エゲスタ人は気落ちして戦いを挑むだけの戦力を失ったため、まずアクラガス人とシュラクサイ人と同盟しようとした。これに失敗すると、彼らはカルタゴに助けを求める使節を送った。カルタゴ人が彼らの言い分を聞かなかったので彼らは海の彼方に同盟者を求めたのであるが、やがて彼らに追い風となる機会がやってきた。
83 さて、レオンティノイ人はシュラクサイ人によって都市と領地を離れることを余儀なくされ、流浪の身で暮らすことになり、彼らはすぐに親戚であったアテナイ人を同盟者としようと決めた。彼らがその問題についてエゲスタ人と会談して合意に至ると、二市は共同でアテナイに酷遇の犠牲になった都市の救援に来るよう求め、シケリア情勢に秩序を打ち立てるにあたってアテナイ人を支えることを約束する使節を派遣した。さて、アテナイに使節たちが到着し、レオンティノイ人が血縁と以前の同盟関係を強調し、エゲスタ人が戦争のために多額の資金を提供して対シュラクサイ人の同盟国として戦いもすることを約束すると、アテナイ人は最も高名な人々を送り、その島についてエゲスタ人から聴取することを票決した。エゲスタに彼らが到着すると、エゲスタ人は彼らに見栄を張るために市民や外国人から借りた多額の金を見せつけた。そして使節が帰ってエゲスタ人の富を報告すると、民会がその件を検討するために召集された。シケリアへの遠征軍派遣の提案がなされると、ニケラトスの子ニキアス、この公正さのために同胞市民から尊敬を向けられていた人はシケリア遠征に反対して〔以下のように〕忠告した。彼が明言するところでは、アテナイ人はラケダイモン人とも同時に戦っているのだから海を越えて大軍を送れるような立場にはないと述べた。アテナイ人がギリシアでの覇権を確保できなくなれば、いかにして彼らが人が住む世界の大きな島を服属させたいと望むことができるというのか? そして彼は続けて言った。最も広大な帝国を持ちシケリアを獲得せんと幾度も戦争を行っているカルタゴ人でさえその島を服従させることができておらず、その軍事力がカルタゴ人に到底及ばないアテナイ人が槍によって勝利して島々のうちで最も強力なその島を獲得することができるはずがない、と。
84 ニキアスが人々を前にこのこととその提案へのその他の適切な憂慮を述べると、反対意見の主だった支持者であり最も際立ったアテナイ人であったアルキビアデスは人々を戦争へと説得した。この男は市民のうちで最も優れた雄弁家で、その高貴な生まれ、富、そして将軍としての実力が広く知られていた。そして〔アルキビアデスに説得されて〕すぐに人々は同盟諸国から三〇隻を得て自国で一〇〇隻を艤装し、強力な艦隊を準備した。そしてそれらの船団を戦争に有用なあらゆる装備で満たすと、彼らは五〇〇〇人の重装歩兵を入隊させてアルキビアデス、ニキアス、そしてラマコスという三人の将軍を選び、遠征の任につかせた。
 このようにしてアテナイ人はこの事案にかかずらうことになった。我々としては、目下アテナイ人とシュラクサイ人の戦争の始まったところに至ったわけだが、私がこの巻の初めに述べた計画に則って次巻に続きの出来事を割り当てるつもりである。




(1)紀元前480/451年。
(2)紀元前450/416年。
(3)紀元前450/449年。
(4)紀元前457年。ただしリウィウス(3. 30)はこの年の執政官はクイントゥス・ミヌキウスとマルクス・ホラティウス・プルウィルスとしている。
(5)紀元前449/448年。
(6)紀元前456年。
(7)ビュザンティオンにある黒海への入り口。
(8)紀元前448/447年。
(9)紀元前455年。
(10)紀元前447/446年。
(11)紀元前454年。
(12)紀元前446/445年。
(13)紀元前453年。
(14)アテナイとスパルタの間で。
(15)シケリアの北岸(N)。
(16)実際の建設はディオドロスが述べた年より後の紀元前444年らしい(N)。
(17)紀元前511年。
(18)紀元前453年。
(19)「エウリピデス『ポイニクス』(frag. 182, Nauck)。より完全な形の文言はアイスキネスによって『ティマルコス』(152)に引かれている。この詩行はメナンドロスにも帰されており、コック(Menander, frag. 414)〔邦訳者の捕捉。これ及び下記の二つの詩文はテオドール・コック(1820-1901)の編纂した『Comicorum atticorum fragmenta』(アッティカ喜劇断片集)所収のものである。〕はエウリピデスから引かれたのであろうと考えている」。
(20)「不明の喜劇詩人から(frag. Adesp. 110, Kock)」。
(21)frag. 183(Kock)。
(22)紀元前445/444年。
(23)紀元前452年。
(24)紀元前444/443年。
(25)いわゆる十人委員会。紀元前451年。
(26)紀元前443/442年。
(27)紀元前450年。
(28)アッピウス・クロディウス(より一般的な綴りはクラウディウス)。
(29)名前はウェルギニア。
(30)紀元前466年(11巻68章)ですでに軍務官は存在していることをディオドロスは失念しているが、ここでの決定は貴族が最初に軍務官とその権限を法として認めたことを指すのかもしれない(N)。
(31)紀元前442/441年
(32)紀元前449年
(33)紀元前441/440年。
(34)紀元前448年。
(35)紀元前440/439年。
(36)紀元前447年。
(37)紀元前439/438年。
(38)紀元前446年。
(39)正しくは紀元前435年(N)。
(40)紀元前438/437年。
(41)紀元前445年。
(42)カンパニアは平野を意味するラテン語のカンプスに由来しているのかもしれない(N)。
(43)紀元前437/436年。
(44)紀元前444年。
(45)紀元前436/435年。
(46)紀元前443年。
(47)これは「必要なものがあれば今後送る」ことが実際に民会で票決されたことを示す(N)。
(48)紀元前435/434年。
(49)紀元前442年。
(50)紀元前434/433年。
(51)紀元前441年。
(52)紀元前433/432年。
(53)紀元前440年。
(54)紀元前432/431年。
(55)紀元前439年。
(56)紀元前431/430年。
(57)紀元前438年。
(58)紀元前454年。
(59)パルテノン神殿のもの。
(60)『平和』, 603-606, 609-611。「英訳はディオドロスのギリシア語の受容されているテクストとは異なっている箇所、失われた詩行のためにロウブ古典叢書のロジャーズの訳とはいささか変わっている」(N)。ここでの訳は引用されている英訳をそのまま訳した。
(61)『アカルナイの人々』, 531-532(『ギリシア喜劇全集1』(岩波書店)から長音を省略しつつ引用)。
(62)「Frag. 94, 115-7(Kock)。エウポリスはアリストパネスの同時代人で、最も優れた古典喜劇作家の一人である」(N)。
(63)テーバイを盟主とするボイオティア同盟。紀元前447年のコロネイアの戦いでアテナイを破ってアテナイの中央ギリシアでの支配が終焉した後、この同盟は復活していた(N)。
(64)エウボイア島の対岸のギリシア本土のロクリス・オプンティアの人々を指す(N)。
(65)紀元前430/429年。
(66)紀元前437年。
(67)神話時代にミュケナイ王エウリュステウスが、ヘラクレスの子供たちがミュケナイの王位を奪うのではないかと恐れて彼らを追った時、アテナイは彼らを保護し、彼らと共にエウリュステウスと戦ってこれを破った故事を指す。
(68)紀元前429/428年。
(69)紀元前436年。
(70)コリントスは陸軍国であったスパルタにとって貴重な強力な海軍を持った同盟国であった(N)。コリントスはコリントス湾の最奥にあったため、ナウパクトスを基地とすればコリントスが外洋に出ようとするのを妨害できた。
(71)紀元前428/427年。
(72)紀元前435年。
(73)紀元前427/426年。
(74)紀元前434年。しかしリウィウスは4巻23章でこの年は軍務官ではなく前年に執政官だったガイウス・ユリウスとルキウス・ウェルギニウスが再び執政官に就任したとしている。
(75)つまりレオンティノイ人。
(76)紀元前426/425年。
(77)年代的には紀元前433年と思われるが、リウィウスが4巻25章で述べる顔ぶれ(マルクス・ファビウス・ウィブラヌス、マルクス・フォリウス、ルキウス・セルギウス・フィデナス)とは全く違う。
(78)紀元前425/424年。
(79)紀元前432年。
(80)紀元前424/423年。
(81)紀元前431年。
(82)民主派に追放された寡頭派。
(83)「この名前はおそらく、馬を提供するローマの『騎士』がそうだったように、元々は戦時に自前の戦車を提供した富裕層に由来している」(N)。
(83)紀元前423/422年。
(84)紀元前430年。
(85)正しくはリュコス川(N)。
(86)紀元前422/421年。
(87)紀元前429年。
(88)紀元前421/420年。
(89)紀元前428年。
(90)紀元前420/419年。
(91)リウィウスはこの両執政官に対応する年を述べていない(リウィウス, IV. 30)。リウィウスは紀元前425年の軍務官としてアウルス・センプロニウス・アトラティヌス、ルキウス・クインクティウス・キンキナトゥス、ルキウス・フリウス・メドゥリヌス、ルキウス・ホラティウス・バルバトゥスを述べており(リウィウス, IV. 35)、二人ではあるが名前が符合している(ディオドロスでは12巻81章)。ディオドロスは誤ってこの年代にアウルス・センプロニウスとルキウス・クィンクティウスを入れてしまったのかもしれない。
(92)紀元前419/418年。
(93)紀元前427年。
(94)トゥキュディデスによればラケダイモン人ではなくエピダウロス人。ディオドロスは「ラケダイモン人」という語を広い意味で用いており、スパルタの同盟者を指すのにも使っている(N)。
(95)紀元前418/417年。
(96)紀元前426年。
(97)紀元前417/416年。
(98)紀元前425年。
(99)紀元前416/415年。
(100)紀元前424年。




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