アッピアノス『ローマ史』「シケリアと他の島々について」(断片)

 ローマ人とカルタゴ人はいずれも手元不如意だった。ローマ人は税の払底のために最早艦船を建造できなかったが、それでもなお歩兵を徴募してアフリカとシケリアへと毎年送っており、その一方でカルタゴ人はラゴスの息子プトレマイオスの息子であるエジプト王プトレマイオス〔2世〕に使節団を送って二〇〇〇タラントンの借金を申し込んだ。彼はローマともカルタゴとも友好関係にあり、彼らの和平を模索した。これを実現することができなかったために彼はこう述べた。「敵に対抗して友を支えるのは当然だが、友に対抗してするのはその限りではない」〔「シュヴァイグハウザーが言うには、この使節についての他の言及は我々に伝わる古代の書物に見つからない」(N)。〕
コンスタンティノス7世『使節について』

1 カルタゴ人は陸と、彼らが遙かに優位だと思っていた海のそれぞれで同時に二つの災厄に見舞われ、すでに資金、艦船、人員が不足していたので、彼らはルタティウスに休戦を求めて休戦すると、条件を限定した上で協定を交渉すべくローマへと使節を送った。彼らは捕虜になっていた執政官のアティリウス・レグルスを同国人に向けて協定への合意を訴えさせるために使節と一緒に送った。捕虜としてフェニキア風の衣服を着た彼が元老院議事堂へと来て、カルタゴの使節たちが引き下がると、彼は元老院にカルタゴの絶望的な内情を暴露した。断固として戦争に邁進するか、より満足のいく和平の条件を主張するべきだと彼は勧めた。彼がカルタゴへと自発的に帰った後、このためにカルタゴ人は側板に鉄の釘を打ち付けて座れずに立つ体勢を取らざるを得ない箱の中に彼を閉じ込めて処刑した。にもかかわらずローマ人にとってより満足のいく和平が締結された。
2 その条件とは以下のようなものであった。カルタゴ人が抱えている全てのローマ人の捕虜と脱走兵は引き渡されなければならない。シケリアと隣接する諸々の小島はローマ人に引き渡されなければならない。カルタゴ人はシュラクサイやそこの支配者ヒエロンに戦争を仕掛けてはならず、イタリアのどの地方からも傭兵を徴募してはならない。カルタゴ人はローマ人に二〇〇〇エウボイア・タラントンの賠償金を毎年ローマに払えるだけ二〇年間の分割払いで支払わなければならない。エウボイア・タラントンは七〇〇〇アレクサンドレイア・ドラクマに等しい。このようにして二四年間続き、ローマ人が七〇〇隻、カルタゴ人が五〇〇隻の艦船を失ったシケリアの領有をめぐるローマ人とカルタゴ人の最初の戦争は終わった。このようにしてその全てをカルタゴ人が握っていたシケリアの主要な部分はローマ人の手に落ちた。後者はシケリア人から貢納を取り立て、彼らの町に所定の海軍の負担を割り当て、彼らを統治する法務官を毎年送った。他方でシュラクサイ人の支配者でこの戦争で彼らに協力していたヒエロンは彼らの友人にして同盟者と宣言された。
3 この戦争が終わるとガリア人傭兵がシケリアでの勤務への未払い給与を、ハミルカルが彼らに与えると約束した贈与共々カルタゴ人に要求した。カルタゴの従属民だったにもかかわらずアフリカ人兵士もシケリアでの勤務を盾にとって同じ要求をし、彼らはカルタゴ人が衰弱して意気を失っていたのを見て取ると、いっそう横柄にこれを行った。また、彼らのうち三〇〇〇人をローマ側に脱走したとしてカルタゴ人が磔刑に処したために彼らは憤慨してもいた。カルタゴ人がガリア兵とアフリカ兵双方の要求を拒絶すると、彼らは一致団結してトゥニス市、そしてまたカルタゴに次いで最も大きな都市のウティカを陥れた。そこから始めて彼らはアフリカの残りを離反させ、一部のヌミディア人も味方に引き入れ、おびただしい数の逃亡奴隷を戦陣に受け入れ、方々でカルタゴ人の財産を分捕った。四方八方で敵に追い詰められたカルタゴ人はアフリカ人から助けてくれるようローマ人に求めた。ローマ人は彼らに兵力を送らなかったが、イタリアとシケリアから物資を取り寄せること、そしてこの戦争のためだけにイタリアで傭兵を募ることを許した。また彼らは、可能ならば和平の手はずを整えるべくアフリカに代理人を送ったが、彼らは手ぶらで戻ってきた。カルタゴ人はこの戦争を精力的に実施した。
『使節について』

 ヒポクラテスとエピキュデスの二兄弟はシュラクサイ人の将軍だった。彼らは長らくローマ人に対して憤慨しており、同国人たちを戦争へと煽り立てることができなかった間はシュラクサイ人といくつかの係争を抱えていたレオンティノイ人のもとに行っていた。ヒエロンがシケリア全土をローマ人との同盟に含み入れるものとしていたにもかかわらず、彼らはローマ人と個別の同盟を更新したとして自分たちの同国人を非難した。レオンティノイ人はこれによって大いに扇動された。ヒポクラテスとエピキュデスの首を持参する者には同じ重さの黄金を授けるとシュラクサイ人は宣言した。しかしレオンティノイ人はヒポクラテスを自分たちの将軍に選んだ。
ペーレスクの手稿より

 ローマのマルケルス将軍に対し、彼の容赦なさのために長らく敵意を持っていたシケリア人は、彼が裏切りによってシュラクサイに入城したためになおいっそう悪感情を募らせていた。このために彼らはヒポクラテスと合流し、自分たちは誰も他の人たちを措いて和平を結ばないと宣誓し、物資と二〇〇〇〇人の歩兵と五〇〇〇騎の騎兵の軍を彼に送った。
ペーレスクの手稿より

 マルケルスは宣誓をしない限りは誰も彼を信用しないほど評判の悪い人物であり、このためにタウロメニオン人が彼に投降した時に彼は、彼らの都市に守備隊を置かず住民を兵士として使うことを要求しないという協定を結んでこれを宣誓で裏付けた。
ペーレスクの手稿より

1 クレタ島は初めからポントス王ミトリダテスに好意を持っていると見られており、彼がローマ人と戦争した時に彼らは彼に傭兵を提供していたと言われていた。また彼らはミトリダテスの覚えをめでたくするために海に蔓延る海賊を奨励しており、マルクス・アントニウスに追跡されていた海賊を公然と助けたとも信じられていた。アントニウスがこの件について代表団を彼らのもとへと送ると、彼らはこれを軽んじて侮蔑的な返答を返した。アントニウスは直ちに彼らに対して戦争を起こし、彼は何の成果も上げなかったにもかかわらずその仕事ぶりのためにクレティクスの呼び名を得た。彼は後にアクティオンでオクタウィウス・カエサルと戦ったマルクス・アントニウスの父だった。こういった理由からローマ人がクレタ人に宣戦すると、後者はローマに和平を結ぶべく使節団を送った。ローマ人はアントニウスとの戦争の責任者だったラステネスの引き渡し、全ての海賊船と彼らの手元にいたローマ人捕虜の全員と三〇〇人の人質の差し出し、四〇〇タラントンの銀を支払うよう彼らに命じた。
2 クレタ人がこれらの条件を受け入れないでいると、メテルスが彼らに対する将軍に選出された。彼はキュドニアでラステネスに勝利した。後者はクノッソスへと逃げ、パナレスは自らの身の安全と引き換えにキュドニアをメテルスに差し出した。メテルスがクノッソスを包囲していた間、ラステネスは同地の金がたんまりあった自らの家に火を放ち、そこから逃げた。それからクレタ人は海賊とミトリダテスに対する戦争に従事していた大ポンペイウスに、もし彼が来てくれるならば自分たちは彼に投降するつもりだという旨の手紙を送った。この時の彼は他のことで忙しかったので、彼は投降を申し出た人たちとの戦争を続けるのはよくないとしてメテルスにその島から撤退するよう命じ、後ほどその島の投降を受け入れるために来るつもりだと述べた。メテルスはこの命令を一顧だにせず、パナレスと結んだ同条件でラステネスとの協定が成立して島が屈服するまで戦争に邁進した。メテルスは凱旋式と、実際にこの島を服属させたためにアントニウスよりも正当なクレティクスの呼び名で称えられた。
『使節について』

美男を意味するプルケルとあだ名された貴族のクロディウスはカエサルの妻と懇ろになっていた。まだ髭がなかった彼は頭から足まで女物の服を身につけ、女だけが参加を許されていた〔ボナ・デアの〕秘儀が催されていた夜に女としてカエサル家に入れるようにした。迷子になった彼は彼の声色で他の女たちに気付かれたために強引に出て行った〔「これはその結果と当時の社会の腐敗の提示という二つの点からローマ史における重要な出来事の一つだった。クロディウスのボナ・デア(善なる女神)の祭への出席は最も悪質な冒涜行為で、宗教はローマ人の法と人生の基礎を成していたために犯人は罰せられるに違いなかった。キケロとホルテンシウスの両名が起訴に参加した。彼の裁判にあたり起訴状が元老院の前に提出された。五六人の陪審員が法務官によって任命される運びとなった。護民官フフィウスは彼らをくじ引きで選ぶことを提案した。事実については議論の余地がなかったので、唯一の問題はクロディウスが出頭するかどうかであり、フフィウスが起訴状への拒否権を発動させて完全に手続きを止める権限を持っていたという事実のためにホルテンシウスはフフィウスの修正案を飲まざるを得なくなった。自信を持っていたホルテンシウスは、自分は鉛の剣でクロディウスの喉元を切り裂くことだってできるとうそぶいた。陪審員たちはくじ引きで選ばれた。彼らはクラッススが出した金で買収されていた。三一人が無罪に、二五人が有罪に投票した。一部始終はキケロのアッティクス宛書簡で記述されている(I. 14, 16)。曰く「次に政治動向の現状と、私自身の現状についてお訊ねのことについて。国家のあの体制ーー君は私の思慮のおかげで確立したと言ってくれ、私は深慮のおかげと考えているあの体制ーー、全ての人々の一致団結と、私の執政官職権の権威によって確立し、根を降ろしたように思われていたあの体制は、いずれかの神が我々に思いを致してでもくださらないかぎり、まさにこの一つの裁判によって、手のうちから滑り落ちてしまったものと考えていただきたい。もっとも、たかが三十人ばかりの、しかもローマ市民の中でもとりわけ軽薄で役立たずの連中が、はした金をもらって神の法も人の法も全て滅ぼしてしまうなどということが、人間のみならず獣までもが起こったと知っている出来事を、タルナとかプラウトゥスとかスポンギアとかその他同じ類の(節操のない)連中が決して起こらなかったと決定してしまうということが、そんなことが裁判と呼べればの話だが」〔『キケロー選集13』(岩波書店)より〕。クロディウス裁判で実際に被害を受けた唯一の人はキケロその人だった。以下の『内乱史』2巻14節および15節を見よ。]
ペーレスクの手稿より




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