アッピアノス『ローマ史』「ハンニバル戦争」

1巻
1 この巻で示すことは、ハンニバルがローマ人になし、彼らに被害を与えたこと、彼が彼らと戦争を続けた一六年間、ヒスパニアからイタリアへの彼の最初の進軍から彼が自身の都市が危機に陥ったカルタゴ人によって呼び戻され、次いでローマ人に撃退された顛末である。ハンニバルの侵攻の真の理由が何であるかは、公式の口実と同様、私のヒスパニア史で非常に明らかに示しておいたので、復習としてここでこれから述べることにしよう。
2 バルカとあだ名され、このハンニバルの父であったハミルカルはカルタゴ人がローマ人とシケリア島の所有を巡って戦っていた時のこの島のカルタゴ軍の司令官であった。敵対者たちによって統率のまずさの廉で告発され、有罪判決を恐れた彼は裁判の結論が出るより前に自分がヌミディア人と対決するための将軍に選ばれるよう手はずを整えた。この戦争で有用さとを証明して略奪と気前の良い褒美で軍の行為を確保すると、彼は海峡を越えてヒスパニアへと渡ってカルタゴの権限なしでガデスへと遠征した。そこから彼はカルタゴへと大量の戦利品を送ったが、これは大衆の支持を得ると同時に、可能であればシケリアでの彼の指揮の追及をかわすためだった。広大な領地と莫大な栄光を得ると彼はカルタゴ人にヒスパニア全土を領するという欲望を吹き込み、それは簡単な仕事だと彼らに説き伏せた。かくしてサグントゥム人とヒスパニアに住んでいた他のギリシア人はローマ人に助けを求め、その地の所有におけるカルタゴ領との境界が定められ、即ち彼らはイベロス川を渡ってはならないこととなり、この発効のための協定がローマ人とカルタゴ人との間で結ばれた〔紀元前229年〕。この後、ハミルカルはカルタゴ領ヒスパニアの問題を解決しようとしていた時に戦死し、彼の義理の息子ハスドルバルが将軍として彼の後を継いだ。後者は狩りの最中に彼に主を殺された奴隷によって殺された。
3 彼らの後にこのハンニバルが軍によってヒスパニアの三代目司令官に選ばれ、それは彼が戦争への天性の才覚と愛好を持っていると見られていたためであった〔紀元前220年〕。彼はハミルカルの息子でハスドルバルの妻の兄弟であり、早くから父と義兄と一緒に〔軍隊で〕過ごしていた非常に年若い男であった。カルタゴ人たちは彼の将軍選出を承認した。私がその歴史を書こうとしているところのハンニバルはこのようにしてヒスパニア人に対するカルタゴ軍の司令官になった。ハミルカルとハスドルバルのカルタゴ内の敵たちはその若さの故にハンニバルを侮ってこれらの人たちの友人たちを引き続き迫害した。後者はこの迫害は元々自分に向けられていたものであり、彼は自国の恐怖〔、つまりハンニバルへの、あるいは彼を必要とせざるを得ないような状況〕が自らの安全を確保することになると信じ、大戦争への着手を考え始めた。実際そうなったが、ローマ人とカルタゴ人の間の戦争はひとたび始まれば長期化するだろうし、破れ去ったとしてもその試みは彼その人に偉大な栄光をもたらすだろうと信じたため――また彼は少年の頃に、自分はローマの終生の敵となることを父に祭壇で誓わされたとも言われている――彼は協定を破棄してイベルス川を渡ることを決意した。その口実として彼はある人にサグントゥム人への告発を行わせた〔紀元前219年〕。カルタゴに向けてこれらの告発を続け、密かにヒスパニア人に反乱を起こすよう焚き付けたとしてローマ人を難じることで彼はカルタゴから彼が適当と考える措置を講じる許可を得た。かくして彼はイベルス川を渡って住民ともどもサグントゥム市を壊滅させた。かくしてシケリアでの戦争の後にローマ人とカルタゴ人との間で交わされた協定は破棄されることとなった。
4 ハンニバルその人と彼につき従うその他のカルタゴ人およびローマ人の将軍たちがヒスパニアでしたことを私はヒスパニア史の中で述べておいた。ケルティベリア人、アフリカ人及びその他の人種から大軍を集めてヒスパニアでの指揮権を弟ハスドルバルに委ねると、ハンニバルは九〇〇〇〇人の歩兵と一二〇〇〇騎の騎兵、そして三七頭の象を連れて今日ではガリア人と呼ばれているケルト人の国へとピュレネ山脈を抜けて侵入した。彼はある者は金で、またある者は説得で宥め、他の者は武力で打破しつつガリア人の地方を踏破した。アルプスに来ると、そこは群を抜いて険しかったためにそこを抜けたり越えたりする道がないことを見て取た時、それにもかかわらず彼は敢然と前進して夥しい被害を出した。雪と氷が全面に立ち塞がっていたため、彼は木々を切り倒して焼き、水と酢で灰を冷やすことで岩を脆くして彼は鉄の鎚で砕き、未だにその山脈を抜けるのに使われているハンニバルの峠と呼ばれる道を開いた。糧食がなくなり始めた時にも彼は猛進し、彼がイタリアに現れるまでローマ人は気付かなかった。ヒスパニアを発ってからほぼ六ヶ月、多大な犠牲を出した後に彼は山脈から平地へと降り立った。

2巻
5 小休止の後に彼はガリア人の都市タウラシアを攻め落とし、残りのガリア人に恐怖を巻き起こすために捕虜を殺した。次いで今日ではパドゥス川と呼ばれており、そこではローマ軍がボイイ族と呼ばれるガリア人の部族と戦争中だったエリダノス川へと進むと、彼は野営地を設営した。ローマの執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオはその当時ヒスパニアのカルタゴ人たちを侮っていた。ハンニバルのイタリア侵攻を知ると、彼は兄弟のグナエウス・コルネリウス・スキピオにヒスパニア情勢を委ねてエトルリアへと航行した。集められる限りの同盟軍を連れてそこへと向かうと、彼はハンニバルよりも先にパドゥス川に着いた。一人の執政官がその場にいる時には指揮権を持てなかったマンリウスとアティリウス〔法務官のルキウス・マンリウス・ウルソとガイウス・アティリウス・セラヌス(N)〕をボイイ族との戦争を指揮させるべくローマへと帰した彼は、彼らの兵力を引き継いでハンニバルとの戦いに臨んだ。小競り合いと騎兵戦の後、ローマ軍はアフリカ軍に包囲されて野営地へと逃げ帰った。次の夜に彼らはパドゥス川を渡って架かっていた橋を落とし、強固に要塞化された場所だったプラケンティアへと逃げ込んだ。にもかかわらずハンニバルは新たな橋を作って川を渡った。
6 一つまた一つと、アルペスの彼の行く道に続いたそれらの偉業はキサルピナのガリア人の間で無敵の司令官、運命に最も愛された男としてのハンニバルの名声を高めた。簡単に騙されるこの夷狄たちの賞賛を増すために彼はその時々で用心深く準備された計略を使い、頻繁に衣服と髪型を変えた。ガリア人は人々の真っ直中を進む老人、それから若者、そして再び中年男の彼を見ると、仰天して彼が神の資質を分け持っているのではないかと考えた。その時シケリアにいた他方の執政官センプロニウスは事の次第を知ると軍を乗船させ、スキピオの救援に来て彼から四〇スタディオンの距離のところに野営した。翌日に彼らは戦いのためのあらゆる準備を行った。トレビア川が対決する軍を分かち、これをローマ軍は冬の冷たい霧雨が降る夜明けに胸元までつかりながら渡った。ハンニバルは軍に第二刻まで休むのを許し、それから出撃した。
7 双方での戦いの命令は以下のようなものであった。ローマ騎兵は歩兵を守るために両翼に配置された。……〔欠損〕……ハンニバルはローマ騎兵の正面に象部隊を、軍団兵に対する形で歩兵部隊を並べ、騎兵には彼が信号を出すまで象の背後で大人しくしているよう命じた。戦いが行われると、ローマ軍の馬は象の見かけと臭いに怯えて算を乱して逃げ出した。歩兵部隊は大きな被害を受け、寒さと濡れた服、睡眠不足で衰弱してはいたものの、果敢にこれらの獣と戦って怪我を負わせ、膝腱を切って敵の歩兵部隊を後退させつつあった。ハンニバルはこれを見て取ると、ローマ軍の翼を攻撃するよう騎兵に信号を出した。ローマ軍騎兵は丁度象への恐怖で散り散りになっていたため、歩兵部隊は無防備状態で残されて苦境に陥った。包囲されるのではないかと恐れたために彼らは自軍の野営地へと算を乱して逃げ出した。多くの歩兵が敵騎兵によって切り殺され、川が雪解け水で増水していてたために歩いて渡れず、その深さと鎧の重さのために泳げなかったために急流で死んだ。彼らの再集結を試みたスキピオは負傷して瀕死の状態になり、四苦八苦して救出されてクレモナに運ばれた。ハンニバルが包囲したプラケンティアの近くには小さな兵器庫があり、そこで彼は四〇〇人の兵を捕らえて自らも負傷した。そこでカルタゴ軍全員が越冬地に向かい、クレモナとプラケンティアのスキピオは、ハンニバルはパドゥス川へと向かった。
8 その都市のローマ人はパドゥス川での三度目――というのも実際に彼らはハンニバル到来以前にボイイ族に破れていた――の敗北を知ると新たな市民軍を徴募し、すでにパドゥス川にいた軍と併せて一三個軍団を数えるまでになり、彼らは同盟者たちから二倍の兵力を呼び寄せた。この時の軍団は五〇〇〇人の歩兵と三〇〇騎の騎兵から構成されていた。その一部を彼らはヒスパニア、そこでも戦争状態だったサルディニア、シキリアへと送った。軍の過半数はスキピオとセンプロニウスの後を襲って執政官となったグナエウス・セルウィリウスとガイウス・フラミニウスの指揮下でハンニバルに向けて送られた。セルウィリウスはパドゥス川へと急行し、そこでスキピオから指揮権を受け取った。後者は前執政官に選出されるとヒスパニアへと航行した。フラミニウスは三〇〇〇〇人の歩兵と三〇〇〇騎の騎兵でアペンヌス山脈以内の、これだけが本来的にイタリアと呼ばれていたところのイタリアを守った。アペンヌス山脈はアルペス山脈の中央から海まで広がっている。アペンヌス山脈の右側の地方がイタリア本土である。アドリア海へと延びる他方の側も、エトルリアが今日イタリアと呼ばれているのと同じように今日イタリアと呼ばれているが、アドリア海沿いに住んでいるのはギリシア由来の人たちで、残りの住人はガリア人で占められており、彼らはローマを攻撃して焼き討ちした前時代の人たちと同じ人たちである。カミルスが彼らを撃退してアペンヌス山脈へと追撃すると、私の私見では、彼らはその山脈を踏破して以前の所に留まる代わりにアドリア海の近くに住み着いた。こういうわけでこの地方は未だにガリアのイタリアと呼ばれているわけである。
9 したがってローマ人はこの時には多くの戦線に大軍を分割することになった。この事実を知るとハンニバルは初春に密かに動き出し、エトルリアを破壊してローマへと前進した。手元に戦えるほどの戦力がなかったために市民たちは彼が近づくと大いに警戒した。にもかかわらず、貴族の一人〔ガイウス・〕ケンテニウスが一市民であったにもかかわらず目下正規の将官がいなかったために残されていた八〇〇〇人の司令官に任命され、ローマへ続く最短進路の狭い道を占拠するべくプレイスティナ沼地へ向けてウンブリアへと送られた。その一方で三〇〇〇〇人の兵と共にイタリア内陸部を守っていたフラミニウスはハンニバルの動きの速さを知ると、休む暇を与えることなく大急ぎで彼のところへと急行した。民衆のそよ風で権力の座へと吹き上げられていたおかげで市の無事を案じており、そして戦争に未経験だったために彼はハンニバルと戦うべく急いだ。
10 彼の軽率さと未経験をよく知っていた後者は進み、〔トラシメヌス〕湖前の山裾に陣取って軽装兵と騎兵を渓谷に隠した。フラミニウスは早朝に敵の野営地を見つけると、辛い進軍から軍を休ませて野営地に防備を施すのに少しの時間を使い、夜警と骨の折れる仕事で彼らはまだ疲労していたものの、その後直ちに戦いへと向かった。山と湖と敵の間に差し掛かると、待ち伏せ部隊が突然あちこちから現れたために彼は命を落とし、二〇〇〇〇人が彼共々殺された。残りの一〇〇〇〇人は天然の要害となっていた村に逃げ込んだ。ハンニバルの副官で戦争で非常に大きな名声を得ていたマハルバルは、彼らを簡単に捕らえることができないし、捨て鉢の兵と戦うのは賢明ではないと考えると、どこへなり好きなところに行ってもよいと合意して武器を置くよう説き伏せた。彼らがこの合意と応じると、彼は彼らを武装を解かせてハンニバルのところへと連れていった。後者はマハルバルには自らの同意抜きでこのような協定を結ぶ権限があることを否定したものの、ローマ人の同盟者は彼らの町の支持を得るために親切に扱って身代金抜きで帰国させた。彼はローマ人全員を捕虜のまま留め置いた。彼は彼のもとで働いていたガリア人に儲けの希望によって自分を慕わせるために戦利品を与え、それから前進した。この知らせが届くと、パドゥス川あたりにいた執政官セルウィリウスはエトルリアへと四〇〇〇〇人の兵を連れて進軍した。ケンテニウスは八〇〇〇人でもって前述の隘路をすでに占拠していた。
11 ハンニバルはプレイスティナ沼地とそこに多い被さる山のこと、そしてケンテニウスがそれらの間で峠を守っていることを知ると、案内人たちに迂回路があるかどうか尋ねた。そのような道はなく、その地方全域が凸凹して険しいと彼らは答えたものの、彼はマハルバルの指揮下に軽装兵の一隊をこの地域を調べて夜のうちに山を抜ける道を探すべく放った。彼らが目的地〔山を越えた道〕に到着したと判断するとハンニバルはケンテニウスに正面攻撃をかけた。戦いが展開するうちにマハルバルが鬨の声を上げながら頂上から勢い良く突っ込んでくるのが見えた。したがって包囲されたローマ軍は敗走し、大殺戮が起こって三〇〇〇人が殺されて八〇〇人が捕虜になった。残余の者は這々の体で逃げた。この知らせが〔ローマ〕市に来ると、彼らはハンニバルがすぐに自分たちのもとに向けて進撃してくるのではないかと恐怖した。彼らは城壁の上に石を集め、老人は武装した。武器を欲した彼らは神殿から以前の戦争の戦利品としてぶら下げられていた武器を持ち出し、大難の時の慣例としての独裁官にファビウス・マクシムスを選出した。

3巻
12 しかし神の摂理はハンニバルをアドリア海沿岸地方へと転じさせ、そこで彼は沿岸地帯を荒らし回って大量の戦利品を集めた。執政官セルウィリウスは彼に併走して進軍し、ハンニバルから一日分の進軍距離にあったアリミヌムに来た。未だローマに友好的だったガリア人を鼓舞するためにセルウィリウスはそこに軍を留めた。独裁官ファビウス・マクシムスはそこに到着すると、独裁官が選ばれた後には最早執政官でも将軍でもなくったセルウィリウスをローマに送り返した。ファビウスは接近してハンニバルの後をつけたが、しばしば挑戦を受けても交戦しなかった。彼は敵の動向を注意深く監視し続け、彼に近づいては町の包囲の邪魔をした。その地方が荒らし尽くされた後、ハンニバルは物資に事欠き始めた。かくして彼は毎日軍を出動させて戦いを挑みつつ、再びそこを縦断した。騎兵長官ミヌキウス・ルフスが彼のやり方に反対し、ローマの友人たちにファビウスは臆病だから尻込みしているのだという手紙を書いていたにもかかわらず、ファビウスは戦おうとはしなかった。ファビウスが犠牲を捧げるためにローマに行く機会を得ると、軍の指揮権はミヌキウスのものになり、彼はハンニバルと多少戦っては自分が戦いに最適任だと考えてより大胆になり、勝利を求めていないとファビウスを弾劾する手紙を元老院に書いた。そしてファビウスが陣営に帰った時、元老院は彼の騎兵長官が彼と同等の指揮権を分け持つべしと票決した。
13 したがって彼らは軍を分割して各々近くに陣取った。ファビウスが時間経過によってハンニバルを消耗させようとしていた一方でミヌキウスは決戦へと逸るといった風に各々は自分の意見を持った。間もなくミヌキウスが戦端を開き、ファビウスは自分の軍を手元に置きつつ事の次第を眺めた。かくして彼は打ち負かされたミヌキウスを救い出してハンニバルの兵の追撃を退けた〔紀元前217年秋のゲロニウムの戦い〕。したがってファビウスはその嘲弄を恨むことなくミヌキウスを大難から助け出すことになった。ミヌキウスは自身の経験不足を認めると指揮権を手放し、技量のある隊長が戦うべき唯一の時は必要な時だと信じていたファビウスに自分の取り分の軍を譲った。この格率は後にアウグストゥスの精神をしばしば我に返らせたもので、彼は戦うのではゆっくりで、勇気よりむしろ技術による勝利を好んでいた。ハンニバルは間もなく物資に事欠くことになるだろうとよく分かっていたファビウスはハンニバルの監視を以前通りに続けて彼が地方を荒らすのを妨害し、全軍での会戦はせずに落伍者を切り伏せた。
14 今やローマ軍はハンニバルが気付いていない隘路に近づきつつあった。ファビウスはそこの占領のために四〇〇〇人の兵を送り、軍の残りは彼が強力な丘に陣を敷いていた〔隘路の〕他方の端に留まらせた。自分がファビウスと守りを固められた峠の間に入り込んでしまったことに気付くと、ハンニバルはその周りの地域が全て凸凹で険しくなっていて逃げ道がなかったためにこれまで以上に慌てた。地形の険しさのために彼がファビウスやその道を守る部隊を負かすことは望むべくもなかった。この窮地にあって彼は、新たなこの危機に新たな騒動を加えるのを恐れて五〇〇〇人の捕虜を殺した。それから彼は野営地に数多くいた牛全ての角に松明を縛り付け、夜が来ると松明に火を灯し、野営地の全ての火を消して沈黙を保つよう厳命した。それから彼が若者のうち最も勇敢な者たちにファビウスと峠の間の険しい場所へと牛を追い立てるよう命じた。追い立てる者たちに急き立てられ、松明で焼かれた牛たちは山の方へと猛然と走り、倒れても起き上がって再び走った。
15 どちらの側にいたローマ軍もハンニバルの野営地が静かで暗くなっていて多くの様々な明かりが山の方にいるのを見ると、夜だったために何が起こったのかはっきりと分からなかった。なるほどファビウスはハンニバルの計略を疑ったが、暗闇のためにその場所に軍を留めていようとは確信していなかった。しかし峠に陣取っていた者たちは窮地にあってハンニバルが崖をよじ登って逃げ出そうとしているのだと想像したが、これはまさにハンニバルが思うつぼだった。かくして彼らは苦境にあるハンニバルを捕捉すべく、明かりが見えた場所へと急行した。後者は道が放棄されたのを見て取ると、行動を隠すために死人のような沈黙を守って明かりをつけず、それでいて飛ぶような早さで離脱した。峠と強化された場所を奪取すると彼はラッパで信号を出し、野営地の軍は叫んで彼に答えてすぐに灯を点した。それからローマ軍は自分たちが騙されたことを悟った。残りのハンニバル軍と牛を追い立てた者たちは今や何も恐れることなく峠を進み、彼ら全員を連れ出すや彼は去っていった。したがってハンニバルは予期せぬ成功を得て軍を危機から救い出すことになったわけだ。そこから彼はアプリアの都市で、物資をしっかり蓄えていたゲロニアへと進んだ。この町を彼は占領し、ここからほくほく顔で越冬に向かった。
16 ファビウスはこれ以前通り同じ方策を続けつつ〔ハンニバルを〕追ってゲロニアから一〇スタディオン離れ、アウフィドゥス川がその間を流れる場所に陣を張った。ローマ人が独裁官の任期として定めた六ヶ月間が今や満了し、セルウィリウスとアティリウス〔紀元前217年の執政官、グナエウス・セルウィリウス・ゲミヌスとマルクス・アティリウス・レグルス。〕の両執政官が着任して陣営へとやってきて、ファビウスはローマへと帰った。冬の間にハンニバルとローマ軍との間に頻繁な小競り合いが起こり、後者がおおむね成功を得て優勢を示した。ハンニバルは戦争の間ずっと有頂天な様子でカルタゴ人に戦争の顛末についての手紙を書いていたが、今は多くの兵を失って孤立無援だったので兵士と資金を送るよう訴えた。しかし彼のやることなすこと全てを嫉妬していた彼の敵対者たちは、勝利した将軍たちは金を求めるのではなく人々に送るものである以上はハンニバルが勝利していると言っているのにどういうわけで援助を求める羽目になったのかを自分たちは理解できないと答えた。カルタゴ人は彼らの主張に与して兵士も金も送らなかった。ハンニバルはこの近視眼的な施策を嘆き、ヒスパニアにいる弟のハスドルバルに夏の初めに集められる限りの金と兵を連れてイタリアに攻め込み、〔おそらくイタリア〕全土が荒れ果てたローマ人を挟み撃ちで消耗させるために他のところは荒らすよう述べる手紙を書いた。ハンニバルの事の次第は以上のようなものであった。
17 フラミニヌスとケンテニウスの災難の大きさで落ち込んだローマ人はこのような度重なる驚くべき敗北は彼らの権威が無価値になることに繋がるものであり、彼らの領土内での戦争は黙って見過ごされるべきではないと考え、そしてハンニバルへの憤慨から彼との戦いに投入すべく都市〔ローマ〕で新たな四個軍団を徴兵し、同盟軍を方々からアプリアへと急行させた。イリュリア人との戦争で軍事的な名声を博していたルキウス・アエミリウスと常々大げさな約束で民衆の支持を得ていた大衆指導者のテレンティウス・ウァロを彼らは執政官に選出した〔紀元前216年〕。両執政官を送り出す時に彼らは市を発つ両執政官に会戦で戦争を終わらせ、徴兵と租税、そして原野の破壊による飢餓と無為によってぐずぐずと市を疲弊させないよう要請した。両執政官はアプリアで軍の指揮を引き継ぐとほぼ七〇〇〇〇人の歩兵と六〇〇〇騎の騎兵を有することになり、彼らはカンナエと呼ばれる村の近くに野営した。ハンニバルの野営地は目と鼻の先だった。ハンニバルは常々戦う用意ができていて無為に過ごすことに我慢がならなかったがとりわけ今はそうであり、物資が尽きれば困ったことになるというのが彼が絶えず戦いを挑んだ理由だった。また彼は、給料を受け取っていない傭兵軍が自分を見捨てたり、食料を探すためにその地方に散るのではないかと恐れてもいた。このために彼は毎日敵に挑戦した。
18 両執政官の意見は正反対だった。アエミリウスは、ハンニバルは物資の欠乏のために長くは持ち堪えられない以上、戦争に練達していた将軍と勝ち癖のついた軍と戦闘するよりは時間稼ぎによって彼を疲弊させるのが最善だと考えた。しかし大衆指導者らしくウァロは会戦によって速やかに決着をつけることを問題にすべきであり、人々が出発時にしたように自分の同僚を非難し続けた。去年の執政官でまだそこにいたセルウィリウスはただ一人アエミリウスの意見を支持した。元老院議員の全員と軍内での官職を担ったいわゆる騎士と呼ばれる人たちがウァロに賛同した。彼らが未だ議論をしていた一方でハンニバルは木と燃料を集める分遣隊をいくつか出しては負けるふりをさせ、最終時刻頃に退却するかのように動いて軍の本隊の方に来させた。ウァロはこれを見ると、この敗走でハンニバルを追撃しようと考えて軍を出撃させた。ここでアエミリウスはその動きを禁じることすらしたが、ウァロがこれに従わなかったため、ローマの習いに則ってアエミリウスは一人でお告げを仰ぎ、まさに動き始めようとしていたウァロにこの日は厄日だという言伝を送った。そこで後者は敢えてお告げを無視しようとは思わず戻ったが、全軍の見ている前で髪を引きちぎり、同僚の嫉妬のせいで勝利が自分からひったくられたと叫んだ。全軍の群がっていた者たちが彼と怒りを共にした。

4巻
19 計画が失敗するとハンニバルは退却すると見せかけて野営地へと戻ったが、これはウァロにハンニバルのあらゆる行動は疑うべきものであることを教えなかった。武装した状態で司令部に急いでやってくると、彼は元老院議員、百人隊長、そして軍団幕僚の前で、アエミリウスは怯懦で二の足を踏んだかウァロその人への嫉妬に動かされたかしたために市から確実な勝利をかすめ取るべく徴を露わにしたのだと訴えた。したがって彼が憤激を吐き出していた間、天幕の周りにいた兵士たちは彼の発言を聞いてアエミリウスへの非難に与した。にもかかわらず後者は中にいた人たちに良き忠告を続けたが、それも無駄だった。セルウィリウス一人を除く他の全員がウァロの側に立つと彼は折れ、翌日に自ら指揮官として軍を戦闘隊形で出撃させたわけであるが、それはウァロがその肩書きを彼に譲ったからだった。その動きを察知したハンニバルが陣を発たなかったのは戦いの準備が全くできていなかったからだった。翌日に両軍が開けた原野に来た。ローマ軍は〔前衛、中衛、後衛の〕それぞれが中央に歩兵部隊を置いて両翼に軽装兵と騎兵を配した間隔の小さい三隊列で布陣した。アエミリウスが中央を、セルウィリウスが左翼を、そしてウァロが右翼を指揮した。各々が必要があれば救援に赴けるようにと一〇〇〇騎の選り抜きの騎兵を手元に置いていた。ローマ軍の配置は以上のようなものだった。
20 その地方では東から突風が正午頃に吹き始めることをハンニバルは予め知っていた。そのために彼は追い風を受けられる場所を選んだ。それから谷が切り立って木の茂った丘に一部の騎兵と軽装兵を伏せ、戦いが始まって風が吹くと敵に襲いかかるよう命令を与えた。腰巻きにかけた長剣に加えて服の下に短剣を忍ばせていたケルティベリア兵五〇〇人も彼らと一緒に配置された。彼らは彼が合図を出すまでは用いられなかった。彼は全軍を三隊に分け、敵の翼を包囲できるようにするために可能な限り長い距離に騎兵隊を延ばした。彼は右翼の指揮を弟のマゴに、左翼を従兄弟のハンノに任せ、経験豊富な指揮官としてのアエミリウスの名声のために中央は自らが受け持った。彼は二〇〇〇騎の選り抜きの騎兵を、マハルバルは一〇〇〇騎の騎兵を手元に置き、マハルバルは周りを動き回って軍の部署のどこであれ危険と見るや援護するようにとの命令を受けていた。これらの配置で彼は四時間ほど時間を遅らせたため、すぐに追い風が吹いたことだろう。  双方の全軍が準備万端になると司令官らは隊列を行ったり来たりしながら兵士たちを激励した。ローマ兵は彼らの父祖と妻子のことを思い出して先の敗北の不名誉を雪ぐよう説かれた。生存の最後の希望はこの一戦にかかっていると彼らは諭された。ハンニバルは兵たちに同じ敵に対する先の偉業と勝利の数々を思い出させ、敗者に今負けるのは恥だと言った。ラッパが吹き鳴らされると歩兵たちは雄叫びを上げ、弓兵と投石兵と軽装兵が前進して戦いの口火を切った。彼らの後にレギオーが歩を進めた。今や凄まじい殺し合いと大会戦が始まり、双方が勇気を競った。やがてハンニバルは騎兵隊に敵の両翼を包囲せよとの信号を出した。ローマ騎兵は数では劣っていたものの彼らに向けて前進して危機的なまでに隊列を薄く延ばしたものの勇戦し、とりわけ目覚ましかったのは海に面した左翼の部隊の勇戦ぶりだった。この時にハンニバルとマハルバルは、敵を怯えさせようと考え、手元に置いていた騎兵隊に夷狄らしい雄叫びを上げさせながらローマ騎兵に向けて率いていった。だがローマ騎兵は怯むことなく恐れもせずにその打撃を迎え撃った。
22 ハンニバルは彼の機動が頓挫したのを理解すると、五〇〇人のケルティベリア兵に向けて信号を出した。逃亡兵のような格好で盾、槍、そして剣を手にした彼らは自軍の戦列を突っ切ってローマ軍の方へと向かってきた。彼らを指揮していていたセルウィリウスはすぐさま彼らの武器を取り上げさせ、彼らをトゥニカ一丁だと思って後方に置いたわけであるが、それというのも彼は敵の眼前で逃亡兵を鎖に繋ぐのは最善だとは考えていなかったし、彼はトゥニカだけしか目に入らなかったこの兵たちを疑いもしなかった上、戦いもたけなわで相談する時間もなかったからだ。さていくつかのアフリカ人中隊が大声を上げながら山々の方へと逃げるふりをした。これは峡谷で追撃者に攻撃をかける秘密の合図だった。軽装兵と騎兵が一目散に待ち伏せ地点に入り込んで身を曝すと同時に目もくらむような強風が吹いて塵がローマ兵の目に入り、敵が見えなくなった。ローマ軍の矢玉の勢いが向かい風で減殺された一方で、敵の矢玉の勢いが増加して狙いは確実になった。ローマ軍は敵の武器を見て避けることも自分の武器で敵をよく狙うこともできなくなったために互いに向けてよろめき、すぐに様々な種類の混乱状態に陥った。
23 この重大時に五〇〇人のケルティベリア兵は予想通りの好機が到来したことに気付くと胸元から短剣を抜き、彼らの真正面にいた者をまず殺し、次いで死者から剣、盾、槍をひったくって全面に向けて猛攻撃を仕掛け、手当たり次第無差別に投擲兵器を投げつけると、全軍の後方にいた限りの者を皆殺しにした。今やローマ軍は正面からは敵に攻められ、横っ腹で待ち伏せ攻撃を受け、隊列の真っ直中では敵によって殺戮されるという具合で重大かつ多様な苦境に陥った。前面の敵の重圧のため、そして下手人はローマ軍の盾を分捕っていたために彼らを見分けることが容易ではなかったために彼らは後者に向き合うことができなかった。ほぼ全員が塵で苦しんで何が起こっているのかを把握しにくくなっていた。しかし、混乱と恐慌状態の場合によくあることながら彼らは自分たちの状況を実状以上に悪いものと見なしており、待ち伏せ部隊は恐るべきものでその数は五〇〇を上回るものと思ってた。つまるところ、彼らは全軍が敵の騎兵と逃亡兵に取り囲まれていると想像してしまっていたのだ。かくして彼らは回れ右して慌てふためきながら逃げだすこととなり、ウァロその人が指揮する右翼が退却の口火を切って左翼がこれに続いたが、指揮官のセルウィリウスはアエミリウスの救援へと赴いた。騎兵と歩兵のうち最も勇敢な兵たちが彼らの周りに集結し、その数はおよそ一〇〇〇〇人を数えた。
24 ハンニバルの騎兵によって包囲されていたにもかかわらず、将軍たちと馬を持っていた他の者全員は馬を下りて徒歩で戦った。彼らは激怒しながら敵に突撃して多くの見事な働きをし、軍隊経験の果実をやけくその勢いで振るった。しかし彼らは四方八方から攻められ、ハンニバルはあちこちを駆け回っては兵士たちを激励して勝利を完全なものとするよう説き、敵の本隊を散り散りにした暁には残りの小勢には勝てなくなるぞと彼らを難じて咎めた。アエミリウスとセルウィリウスが生き残っている限りローマ軍は多くの傷を与え受けつつも踏み留まっていたが、彼らの将軍たちが倒れると敵の真っ直中をこの上なく勇敢に突破し、方々へと逃げた。ある者は他の者が先に逃げ込んだ二つの野営地に逃げ込んだ。そこにはほぼ一五〇〇〇人がおり、ハンニバルはこれを真っ先に包囲した。およそ二〇〇〇人の他の者はカンナエに逃げ込み、ここもハンニバルの包囲するところとなった。僅かな者だけがカヌシウムに逃げおおせた。残りの者は林を抜けて集団ごとに散り散りになった。
25 カンナエにおけるハンニバルとローマ軍の戦いの結果は以上のようなもので、この戦いは日中の第二刻に始まって夕方の二刻のうちに終わり、そのたった数刻の間に五〇〇〇〇人の兵が殺されて多くの捕虜を出したためにこれはローマ人には未だ災難として有名である。臨戦した多くの元老院議員が軍団副官と百人隊長、二人の最良の将軍ともども命を落とした。災難の原因となった最も価値のない者〔ウァロ〕が真っ先に逃げて無事逃げおおせた。ローマ人はイタリアでのハンニバルとの二年間の戦争で今や〔両者を併せて〕およそ一〇万人の自軍と同盟軍を失う羽目になった。
26 ハンニバルは一日で四つの計略、すなわち風の力、ケルティベリア兵の偽装投降、偽装退却、そして峡谷での待ち伏せを駆使することでこの貴重で見事な勝利を得た。戦いの直後、彼は死体を眺めに向かった。友人たちのうち最も勇敢な者たちが死者の真ん中で横たわっているのを見ると、彼はこんな勝利はもうたくさんだと言って声を上げて泣いた。エペイロス王ピュロスも似たような被害を受けつつもイタリアでローマ軍に勝利した時に以上のと同じ声を上げたと言われている。戦いから逃げた者の一部とより大きい方の野営地に逃げ込んで夜にプブリウス・センプロニウス〔・トゥディタヌス〕を彼らの将軍とした者たちは、疲れ果てていて眠りを欲していたハンニバルの監視網を強行突破してある峠にやってきた。およそ一〇〇〇〇人にのぼったこの兵たちは夜中にカヌシウムへの道を進んだ。しかしより小さい方の野営地の五〇〇〇人は翌日にハンニバルに捕捉された。ウァロは軍の残りを集めて彼らの弱りきった精神を元気づけよう試み、そして軍団副官の一人であったスキピオの指揮下に彼らを置いて自らはローマへと急いだ。

5巻
27 その災難が市に知らされると、街路は近親を嘆いてその名を呼び、間もなく敵の手に落ちるであろう自らの運命を悲しむ人で黒山の人だかりになった。女たちは子供を連れて寺院に赴き、市の災難がいつか終わることを祈った。行政官たちは犠牲で神々に祈願し、もし自分たちに何か原因があって怒っているのならすでに訪れた罰で満足したはずだと祈った。元老院は、目下の情勢についての神託を求め、諸々の出来事の話を書いた人物と同じ人物であるクイントゥス・ファビウス〔・ピクトル。ローマの歴史を書いた〕をデルフォイの神殿に送った。彼らは主人の同意の下で八〇〇〇人の奴隷を解放し、市内のあらゆる人に武器と投擲兵器を作る仕事をするよう命じた。また彼らは徴兵を行い、許された限りで同盟国からすら徴兵した。また彼らはシケリアに航行するはずだったクラウディウス・マルケルス〔当時は法務官〕の目的地を変更してハンニバルと戦わせるべく送り出した。マルケルスは彼の同僚のフリウス〔プブリウス・フリウス・フィルス〕に艦隊を提供してその一部をシケリアへと送り、一方自らは併せて歩兵一〇〇〇〇人と騎兵二〇〇〇騎を数えた解放された奴隷と市民と同盟諸国から集められた限りの他の者たちを連れ、ハンニバルの次の行き先を探るべくテアヌムへと進撃した。
28 ハンニバルは市民が金で彼らを購うかどうかを見るために捕虜たちに彼ら自身のためにローマに伝令を送ることを許した。三人が彼らによって選ばれてグナエウス・センプロニウスがその長となり、ハンニバルは彼らに自分のもとに戻ってくるという誓いを強制した。元老院議事堂に詰めかけた捕虜の近親たちは、自分たちには自腹を切って各々の友人を請け戻す用意があると明言し、元老院にその許しを求め、人々は祈り、涙を浮かべながら彼らに与した。元老院議員の一部〔身請け賛成派〕は、これほど大きな災難の後にまだいくらでもいる男の喪失に市を晒したり、奴隷を解放しつつ自由民を軽んじるのは賢明ではないと考えた。他の者たち〔反対派〕は、哀れまれて逃げることに男たちを慣れさせるのは相応しからぬことであり、近親が逃亡を哀れんだとしてもなお目下の場合、むしろ彼らには勝つか死ぬかを教えるべきだと考えた。多くの先例が双方で提示された末、かくも大くの危機が未だ障害となっている目下に行われる寛容は未来に禍根を残す一方で峻厳さは苦痛を伴いはするものの後の公益につながるとの見解から、捕虜は近親によって身代金で身請けされるべきではないとの最終決断を元老院は下し、なるほどまさにこの時の彼らの行動の甚だしい大胆さはハンニバルの度肝を抜いたものだ。したがってセンプロニウスと彼に同行した二人の捕虜はハンニバルのもとへと戻った。怒った後者は捕虜の一部を売り払って他の捕虜は殺し、彼らの死体で橋を架けて川を渡った。彼の手中にいた元老院議員と他の秀でた捕虜たちを彼は互いに、父を息子と、兄を弟と戦わせてアフリカ人の見せ物にした。彼は侮蔑的で残忍な行為を見逃さなかった。
29 次にハンニバルはローマの同盟諸国の領土へと軍を転じてこれを荒らし、ペティリアを包囲した。少数であったにもかかわらずそこの住民は女すら戦いに投入して彼に対して勇敢な出撃を行い、尊い多くの大胆な行いを為した。彼らは彼の攻城兵器を次から次へと焼き払い、この敢行で女たちは男に劣らず賢明だった。しかし続く攻撃で彼らの数が減り、彼らは飢餓で苦しみ始めた。ハンニバルはこれを知ると彼らの周りに包囲壁を建て、ハンノを包囲の遂行のために残した。苦痛が増してくると彼らはまず壁の外側へと戦えない者全員を押し出して生きるよりは死ぬ方が良かろうと思いながらハンノが彼らを殺す様を情けも感じずに眺めた。このために残った者はもはやこれまでとなった時には敵に向けて出撃し、餓死しかけで完全に疲弊しつつも多くの勇敢な華々しい偉業を成し遂げた後、戻る場所を持たぬ彼らはアフリカ兵に皆殺しにされた。かくしてハンノはその町を手中に収めた。しかしそれでも走るだけの体力があった少数の者は逃げ延びた。この彷徨者たちをローマ人は注意深く集めてその数はおよそ八〇〇人にのぼり、彼らへの優しい感情と彼らの際だった忠誠への賞賛に動かされて戦後に彼らを自国に再配置した。
30 傭兵としてハンニバルのもとで働いていたケルティベリア人騎兵が際立って優秀な戦士であることが看取されたためにローマの将軍たちは自腹を切って同数のケルティベリア兵を町々から得て、他のケルティベリア兵に対抗させるためにイタリアへと送った。ハンニバルの近くに陣を張ると彼らは同郷人と混じり合ってこれを味方に引き入れた。したがって彼らの多くがローマ人の側に寝返って他の者は脱走することになった一方で、残りの者は最早ハンニバルから信用されなくなって彼らとハンニバルは互いを疑いの目で見た。ハンニバルの状況はこのような状況から落ち目になり始めた。
31 ダウニアにアルゴス人ディオメデスが建設したと言われるアルピと呼ばれる都市がある。ここにディオメデスの子孫と言われ、非常に移り気な性格でまったく祖先に相応しからぬダシウスなる者がおり、カンナエでのローマ軍の恐るべき敗北の後に彼は人々をカルタゴ側に引き入れていた。しかし今やハンニバルの勢力が衰え始めると、彼は密かにローマに向かって元老院へと招き入れられると、自分は市をローマ人への忠誠へと立ち返らせ、ひいては過ちを償う用意があると言った。ローマ人は危うく彼を殺しそうになりながらも彼を市から追い出した。それから彼らとハンニバル両者を等しく恐れたために彼はその地方を渡り歩く放浪者となった。ハンニバルは彼の妻子を生きたまま焼き殺した。アルピは一部の市民の裏切りによってファビウス・マクシムスの手に落ち、彼はそこを夜に占領してそこで見つけたカルタゴ人を皆殺しにすると、その都市にローマの守備隊を置いた。

6巻
32 ローマの守備隊が置かれていたタレントゥムは以下のようにしてコノネウスによって裏切られた〔紀元前212年〕。彼には狩りをする習慣があっていつも守備隊長のリウィウスに猟果を持っていっていたためにリウィウスとは非常に親しくなっていた。戦争がその地方で猛威を振るうようになる彼は夜のうちに狩りをして獲物を持って帰る必要があると言った。このために夜間には彼のために門が開け放たれていた。彼は自分が兵士の一隊を率いることでハンニバルと合意し、その一部を町の近くの藪に隠し、他の兵はそれほど遠くない距離を彼に続いて進み、彼と一緒に行く兵たちは音を立ててはならず、表面上は狩りの格好をしつつ胸甲と抜き身の剣を下につけるよう命じた。彼は彼ら〔カルタゴ兵〕の先頭で野猪を竿で担ぎながら夜にやってきた。見張りたちがいつも通り門を開けると、彼と一緒にきた男たちは門番らを即座に殺した。後ろにいた者たちが突如他の見張りめがけて突進し、藪から出てきた兵たちが招き入れられ、それぞれの門がハンニバルに開け放たれた。すぐに中に入ると後者は町の残りの地区を瞬く間に制圧し、タレントゥム人を宥めるとローマの守備隊が籠もる砦の包囲に取りかかった。このようにしてタレントゥムはコノネウスに裏切られて引き渡された。
33 砦に籠もったローマ軍は数にしておよそ五〇〇人、タレントゥム人の一部が彼らの援軍に回った。メタポントゥムの守備隊司令官は軍勢の半分を連れて彼らに合流し〔ようとして出撃し〕、ハンニバルを城壁から簡単に退けられるだろうと期待して豊富な投擲兵器と攻城兵器を運んだ。しかしハンニバルもこれらの物品の蓄えを豊富に持っていた。したがって彼は塔、カタパルト、亀〔覆いをつけた移動式の小屋〕を投入し、これらによって城壁の一部を揺るがし、縄をつけた鉤で胸壁を押し、防護施設を丸裸にした。守備隊は攻城兵器に向けて投石してその多くを破壊して結んだ縄のついた鉤を脇によけ、頻繁且つ唐突な出撃を行って包囲軍を混乱に陥れて多くの敵を殺しては戻っていった。ある日に彼らが風が強いことに気付くと、ローマ軍の一部が松明、亜麻布、松脂を攻城兵器に投げつける間に他の部隊が火矢を放って火をつけた。ハンニバルは計画を放棄し、作業ができなかった海側を除いた市の周りに壁を巡らした。それから包囲をハンノに任せるとアプリアに向かった。
34 タレントゥムの港は北方を睥睨して海に漕ぎ出す者のために狭い一本の水路を通る入り口を形成していた。今その水路はローマの守備隊が扼する橋で閉じられており、これによって彼らには海から物資が補給され、タレントゥム人は物資の補給が妨げられていた〔船が湾内に閉じ込められたために海路での輸送ができなくなったため〕。このために後者は欠乏で苦しみ始め、戻ってきたハンニバルは港から発して市の真ん中を通って南側の海へと走る公道を掘削することでもう一つの道〔船をいったん陸揚げして外洋に移動させるための道〕を作ることを主張した。これが行われると彼らは潤沢に物資を獲得できるようになり、彼らは三段櫂船で船を持たぬローマの守備隊の心胆を寒からしめ、特に波が穏やかな時には城壁に近づくことすらあえて行い、彼らから物資輸送船を遮断した。今度はローマ軍が欠乏で苦しむ番になった。トゥリイの人々が夜のうちに穀物を乗せた船を三段櫂船船団の護送下に数隻送ると、タレントゥム人及び同盟者のカルタゴ人は順風に恵まれたためにそれらを罠にかけて穀物と乗員もろとも全部を拿捕した。トゥリイ人は捕虜の解放を交渉するために多数の使者を送り、タレントゥム人は交渉人をハンニバルの側につかせ、それから彼は持っていた捕虜を全員解放した。彼らは帰国すると、近親たち〔つまり同胞としての市民たち〕を強いてハンノに門を開かせた。したがってトゥリイ人はタレントゥムのローマ軍を救援しようと試みた際に予期せずしてカルタゴ勢力の手に落ちることとなった。トゥリイのローマ軍守備隊は海路でブルンドゥシウムへと密かに逃げた。
35 そこの守備隊司令官がタレントゥムに軍の半分を遣っていたメタポントゥム人は数が僅かだった残りの部隊を殺し、ハンニバルに投降した。メタポントゥムとタレントゥムの中間に位置するヘラクレアは好みというよりはむしろ恐怖につき動かされてそれらに倣った。したがってハンニバルの状況は再び隆盛の様を呈し始めた。翌年〔紀元前212年〕にルカニア人の一部がローマに反旗を翻し、前執政官の〔ティベリウス・〕センプロニウス・グラックスが彼らに向けて進軍した。ローマ人への忠誠を守り続けていてグラックスの友人にして賓客〔ギリシア語ではxenosだが、ギリシア文化圏におけるクセノスというよりはラテン語のクリエンテスを指すものであろうか〕だったが今は裏切り者になっていたフラウィウスなるルカニア人は、ルカニアの将軍たちは後悔していてローマへの忠誠に立ち戻りたがっていると言い、彼らと会談するために或る場所に来るようグラックスを説き伏せた。彼はこれを疑いもせずに三〇人の騎兵を連れてその場所へと向かい、待ち伏せしていたヌミディア人の大部隊に包囲されたことを悟った彼はその中にフラウィウスの姿を見て取ったが、フラウィウスも待ち伏せ部隊に加わった。グラックスは裏切りに気付くと仲間と共に馬で踊りかかり、多くの見事な勇敢な行動を為した後に三人を除いた他の全員と一緒に殺された。ハンニバルはローマの前執政官を生け捕りにしようと最善を尽くしたのだが、ハンニバルに捕まったのは彼らだけだった。ハンニバルはグラックスを卑劣な罠に陥れたにもかかわらず最後の戦いでの武勇を讃えて葬儀を挙げ、遺骨をローマに送り届けさせた。この後、彼はアプリアで夏を過ごして大量の穀物を集めた。
36 ローマ人はカプア人攻撃を決意し、ハンニバルは夜間にカプアへと入らせるべくハンノを歩兵一〇〇〇と同数の騎兵をつけて送った。彼はローマ人に知られることなくこれを行った。夜明けにローマ軍は城壁によりたくさんの兵がいるのを見て事の次第を知った。かくして彼らは市から引き返し、カプア人と他のカンパニアの住民の穀物を大急ぎで刈り取り始めた。カンパニア人がこの被害を悲しむと、ハンニバルは自分はアプリアに豊富な穀物を有していると言い、彼らが手紙を書けば望む限りの穀物をもらえるようにするようにと命令した。したがって彼らは荷駄獣と男だけでなく女子供も穀物の荷物を運ぶために送り出した。ハンニバルがアプリアからカンパニアに司令部を移し、ベネウェントゥム人の地方の近くにあるカロラ川の近くに野営していたためにカプア人は道中の危険を恐れていなかったが、彼らの唯一の懸念はベネウェントゥム人が未だにローマの同盟者だということだった。ハンニバルがそこにいた間、彼らは全ての敵を見くびっていた。
37 しかし、ハンニバルがハンノによってルカニアに呼ばれてベネウェントゥム近くの野営地に少数の見張りと一緒に荷物の大部分を残して行ってしまうという事件が起こった。そこで指揮権を持っていたローマの二人の執政官――〔クイントゥス・〕フルウィウス・フラックスとアッピウス・クラウディウス〔・プルケル〕――のうち一人がこれを知ると、穀物を運んでいたカンパニア人に襲いかかり、攻撃に対する準備ができていなかった彼らの多くを殺し、穀物をベネウェントゥム人に与えた。彼はハンニバルの野営地も襲って彼の荷物を略奪し、ハンニバルがまだルカニアにいたうちにカプアを囲む壁の線を設えた。それから両執政官はこの外側にもう一つ壁を建設し、両者の間に野営地を設営した。彼らは一方はカプア人を封鎖して他のものは外部の敵に対するような胸壁も建てたというわけだ。それはより小さい都市を囲む大きな都市の呈を示した。封鎖壁とカプアの間はおよそ二スタディオンで、それに対処する多くの試みがなされて遭遇戦が起こって連日多くの小競り合いが起こり、最も勇敢な者たちが絶えず互いに挑みかかったためにそれはあたかも壁に囲まれた劇場のようだった。名をタウレウスというカプア人がローマ人クラウディウス・アセルスと一騎打ちをし、逃げようとして退却したタウレウスをアセルスはカプアの城壁まで追った。後者は馬を御することができずに全速力で門を通ってカプアの中へと突っ込み、市の全域を疾駆して反対側の門から飛び出してローマ人らを喜ばせ、かくして驚くような仕方で助かった。
38 ハンニバルは自分をルカニアへと出馬させた仕事を片づけると、これほど大きく、ローマの支配の下では重要都市だった都市を守るのは大事だと考えてカプアへと戻った〔紀元前211年〕。したがって彼は封鎖壁に攻撃をかけたがそれも無駄で、市内に兵士や物資を入れる方法を考え出すこともできず、何人たりとも蟻も這い出る隙間もないほどの包囲のおかげで彼と連絡することができなかったため、ローマ人もまた飢餓で追いつめられていたことを知り、カプアからローマの将軍たちを引き離そうと望んでいたか、カプアの解放より重要なことをいたいと望み、彼は全軍を連れてローマへと進撃した。多くの敵対する人々が住む地方をこの上なく敏速に動いたためにある者は彼を阻止できなかった一方で他の者は戦いの危険を冒そうとはしなかったため、彼はローマから二、三〇スタディオンのアニオ川沿いに野営するに至った。
39 その都市はかつてない驚愕に襲われた。戦力をカンパニアに遣ってしまったので彼らには適当な戦力がなく、今や敵知らずの勇気と幸運に恵まれた将軍に率いられた強力で敵対的な軍勢が突如として彼らの前に現れた。にもかかわらず目下の危機にあって武器を取ることのできた者は門に駆けつけ、老人は城壁に上り、女子供は石と投擲兵器を運んだ一方、市外にいた者は大急ぎで市に集まってきた。鳴き声と悲鳴と祈りがこだまし、方々からの互いに向けた激励でその場は満たされた。ある者たちは飛び出してアニオ川に架かる橋を切り落とした。ローマ人はかつてアエクイ族の小さい町を要塞化し、彼らの母都市にちなんてアルバと呼び慣わしていた。そこの住民は時が流れるにつれ、発音のいい加減さないし言語の崩れのせいかアルバ人との区別のためにアルベ人と呼ばれるようになった〔なお、母都市の方の「アルバ」はラティウム地方の古都市アルバ・ロンガ、「アルベ」は今日のマッサ・ダルベ〕。アルベ人二〇〇〇人が危険を分かちあうべくローマへと急行した。到着するや否や彼らは武装して門の見張りについた。多くの植民地の中でもこの小さな町が示したその熱意たるや小都市プラタイアがマラトンのアテナイ人の援軍にやってきて危険を分かち合った時のようであった。
40 ローマの将軍の一人、アッピウスは独力でカプアを占領できると信じてその地に留まり続けた。もう一人の将軍、フルウィウス・フラックスは間を流れるアニオ川を挟んでハンニバルに対陣した。橋が破壊されていてフルウィウスが対岸を占拠しているのを見て取ると、ハンニバルは水源から回り込もうと決意した。フルウィウスは彼と平行して対岸を進んだ。ここで再びハンニバルは彼の常套手段ながら策を弄した。彼はヌミディア騎兵の一部を後に残し、彼らは両軍の本隊が去るとすぐにアニオ川を渡ってローマ市そのものに肉薄するまでローマ領を略奪してローマを仰天させ、彼らはハンニバルの命令通り彼と再合流した。後者〔ハンニバル〕はローマの街道が長く敷かれてなかった水源に回り込むと、三人の護衛を連れて夜陰に乗じて市の偵察に向かい、そこには兵力がなく混乱が広がっている様を観察したと言われている。にもかかわらず彼はカプアへと戻ったわけであるが、それは他の場合と同じように神意がこの時に彼を転じせしめたからか、彼がその都市の勇気と幸運に威圧されてしまったためか、はたまた攻撃を訴えた者に対し、カルタゴ人が自分から指揮権を取り上げない限りは戦争を終わらせるつもりはないと彼が言ったためである。いずれにせよフルウィウス軍は彼に歯が立たなかった。フルウィウスは彼が退くとその後を追い、彼の徴発を邪魔して罠にはまらないように用心するのが関の山だった。

7巻
41 ある月のない夜のこと、ハンニバルはフルウィウスが黄昏時に門の場所の空間に濠を掘って城壁の代わりに土を盛っていただけで野営地の正面に城壁を巡らすのを怠っていたのを見て取ると、密かに騎兵の一隊をフルウィウスの野営地を見下ろせる防備が施された丘へと送り出し、ローマ軍が丘が占領されていないと信じるようになるまではじっとしているよう命じた。それから彼はインド人〔出身地に限らず象使いを指す名称〕に象に乗って彼らができるやり方で開けた場所を通って地面の杭を越えてフルウィウスの野営地を突破するよう命じた。彼は多くのラッパ手と角笛手に短い距離を取ってそれに続くよう命じた。濠の中に入ると彼らの一部は周りを回って騒動を起こして数が多いように思わせ、他の者はラテン語を喋ってローマの将軍フルウィウスが野営地を撤収して隣にある丘を押さえるよう命令したと述べ立てるよう命じられた。以上がハンニバルの計略で、当初は全てが彼の思惑通りになった。象が野営地に突入して見張りを踏み潰し、ラッパ手が命ぜられた通りにした。予期せぬ喧噪がローマ兵の耳をつんざき、彼らは幾分か恐ろしい夜の闇の中で寝床から飛び起きた。丘に逃げ込めとのラテン語で下された命令を聞くと彼らはその方角へと急いだ。
42 常に策略に目を光らせてハンニバルのやることなすこと全てを疑ってかかっていたフルウィウスは自らの知恵か神の与えた直観に導かれたか、はたまた何人かの捕虜から知ったかしたおかげでその道を突っ込んでくる者に待ったをかけ、彼らに命令を下したのはローマの将軍ではなく待ち伏せ個所へと彼らを誘導しようとしているハンニバだと言わせるために即座に軍団副官たちを丘へ続く道に配置した。それから彼は外部からの新手の攻撃を食い止めるために土塁に強力な監視隊を配し、他の部隊を連れて危機はなく象に踏みつぶされたのは僅かだと叫びながら野営地を素早く駆け抜けた。灯りが点されて方々で篝火が灯された。次いで攻撃部隊の少なさが明らかになるとローマ軍は彼らを完全に侮って恐怖が怒りへと転じ、彼らが小勢で軽装だったために易々と殺戮した。象は方向を転じる余地がないために天幕と小屋の真っ直中で立ち往生し、場所の狭さと体の大きさのために矢の格好の的になった。苦しみ敵に近づくこともままならぬまま象たちは乗り手を降り下ろして怒り狂い荒々しい雄叫びをあげながら彼らを踏み潰し、野営地から逃げ去った。かくしてフルウィウス・フラックスはその沈着さと技量によってこの予期せぬ待ち伏せを失敗させてハンニバルに土をつけ、ハンニバルの計略を常々恐れていた軍を救った。
43 計画が失敗すると、ハンニバルは軍をルカニアへと移動させて越冬地に向かい、ここでこの獰猛な戦士は慣れない贅沢と愛の喜びに身を任せた。この時から少しずつ彼の運命は変転していった。フルウィウスはカプアの同僚のもとへと戻って両者は包囲を絞め上げ、ハンニバルが大人しくしている冬のうちにその都市を落とそうと急いだ。カプア人は物資が尽きてどこからも何も得られなくなると、カルタゴの守備隊ともう一人のハンノとボスタルというその二人の指揮官共々ローマの将軍たちに降伏した。ローマ人は守備隊をその都市に置いてそこで見つけた逃亡兵全員の両手を切り落とした。彼らはカルタゴ人貴族らをローマへと送って残りの者は奴隷として売り払った。カプア人のうち市の寝返りの首謀者らを彼らは殺した。他の者はその土地から追い出した。カプア近辺の全域は肥沃な平野だった。ひとたびカプアがローマ人の手に戻るとイタリアのカルタゴ軍の持っていた主要な優位が失われた〔紀元前211年〕。
44 イタリアの一地方だったブルッティウムのティシアという町――カルタゴ軍の守備隊が置かれていた――に一人の男がいて略奪を働いてはその戦利品を守備隊指揮官と分け合うのを常としており、こうやって後者に取り入って指揮権をほとんど共有するまでになっていた。この男は祖国に対する守備隊の横柄な振る舞いに腹を立てていた。したがってローマの将軍と合意の宣誓を交わして毎日僅かな兵を捕虜として運び入れえ砦に寝泊まりさせ、ここに戦利品と見せかけた武器も運び入れた。十分な数の兵を招き入れると彼は彼らを解き放って武装させ、その後にローマ軍から別の守備隊を入れた〔紀元前210年〕。しかしハンニバルが間もなくそこを通りかかるのに怯えた守備隊はレギウムへと逃亡し、ティシアの住民はハンニバルに投降し、彼は裏切りの罪がある者たちを焼き殺してその町に守備隊を置いた。
45 アプリアでのカルタゴの属国だったサラピアには生まれと富と勢力で秀でた二人の男がいたが、長らく互いに敵対していた。そのうち一人、ダシウスという名の男はカルタゴ人に、他方のブラティウスはローマ人に味方した。ハンニバルの状況が盛りにあった間はブラティウスは大人しくしていたが、ローマ人が以前の優勢を回復し始めると、もしローマ人が力づくでその都市を落とせば何か取り返しのつかない被害を被ってしまうのではないかと危惧して彼は彼らの国のために自らの政敵との申し合わせを試みた。ダシウスは彼に賛同したふりをしてハンニバルに事の次第を伝えた。ハンニバルは彼らの間の裁判に加わり、ダシウスが告発をしてブラティウスが弁明をして告発者の個人的な反目のために自分は中傷されていると述べた。こういう敵は己の私怨のおかげで信用されないものだと予期していたために彼は敵を前にして言葉遣いが大胆になった。ハンニバルは告発を完全に拒んだり〔ブラティウスにとって〕私的な敵であるところの告発者をあまり信用しすぎるのは賢明ではないと考えたため、あたかも自分で事を考えるつもりであるかのように彼らを解散させた。彼らが非常に狭い道を通って出ていこうとするとブラティウスはダシウスに「良き紳士たる君には自分の国を救うつもりはないのか?」と小声で言った。後者はすぐに大声で答えたため、それはハンニバルの知るところとなった。
46 それから狡猾な敵が自分に陰謀を練ったのだと痛ましい調子でブラティウスは信憑性たっぷりに叫んだ。彼は言った。「もし以前の計画〔ダシウスとブラティウスの手打ち〕について何かあれば、この目下の計画〔ダシウスの裏切り〕は私を全ての疑惑から解放してくれるだろうよ。その問題に関して敵を一番信用した者としては、もし彼が前にこれほど無思慮だったとしても、今となっては危機と試練の下に未だありながら自らに対する訴状を否定しつつ、まさにその問題に関してでっち上げの告発をした者に再度同じことを、とりわけ多くの人が彼の言葉を聞くことができて彼に対する原告が彼に対する告発をすでに改めて立っている裁判所であえて述べるつもりだ。原告が突如親しげになって良く扱ってくれると考えようとも、いったいどういうわけで事が起こった後の国を救うにあたって彼は私と協力できるというわけだ? なぜ私が何も与えることができぬ者に助けを求めるべきだというのだ?」彼は何が起こるかを見越し、より一層ダシウスが信じられなくなるようにするため、そしてハンニバルに以前の訴状を不審に思わせるためにブラティウスはそれらのことをダシウスに再び故意に囁いたと私は考えている。ブラティウスは無罪を言い渡された後も彼の敵対者に転向を説得するのを差し控えなかったが、それは彼が今や全く信用ならない人物として彼を軽蔑していたからだ。かくしてダシウスは再び彼と合意したふりをして反乱計画を知ろうとした。ブラティウスは躊躇せずに答えた。「私はその司令官が私の親友であるローマ軍の陣地にひとっ走りして軍を貰ってこっちに連れてくるつもりだ。君はここでじっとして市の動向を見張っていてくれ」
47 こう話し終えるとすぐに彼は彼が名を上げた野営地ではなくより短い旅程のローマへとダシウスの知らぬ間に駆け去り、自分の息子を人質として元老院に預けて一〇〇〇騎の騎兵を求め、どんな結果が起こるのかを予測した上で彼らを連れて大急ぎ戻った。ダシウスはそれから数日間は敵を見つけられなかったので、ブラティウスが今やダシウスを信頼して彼らが同意した仕事に着手したものと考えた。実際にブラティウスがより遠い野営地に向かったと思い込むと彼は自分がブラティウスより先に戻れるはずだと疑わずにハンニバルのもとに走った。彼はハンニバルに言った。「今、市内に敵軍を入れようと動いておりますブラティウスめを私はあなた様に引き渡してご覧に入れましょうぞ」事の次第を暴露して軍勢を受け取ると、彼はブラティウスがすでにどこか近くにいようとは想像もせず町へと急行した。しかし後者はすでに市内におり、小勢だったカルタゴ軍守備隊を殺して誰か来ようとも防いでやろうと用心していた。また、彼はダシウスがそこから戻ってくると予測された門以外の入り口を閉ざしてもいた。彼は疑われないようにするためにそちら側の城壁から見張りを下ろしたが、内側の地べたには壕を横切る形で〔門と平行に、門から続く道を塞ぐ形で〕掘ったため、攻撃軍には町全体を抜ける道がなかった。ダシウスは門が開いているのを見ると自分が敵の機先を制したのだと思って嬉しがり、喜び勇んで町に入った。ブラティウスは門を閉ざし、狭い場所で押し合いへし合いをして壕を抜ける道もなかった彼とその仲間を殺した。城壁を越えて逃げ延びた者は僅かだった。かくしてブラティウスは知恵比べの三回戦目にしてダシウスを破った。

8巻
48 その間、ローマの執政官フルウィウス〔グナエウス・フルウィウス・ケントゥマルス。彼は紀元前211年の執政官で、この戦いが起こった翌210年に前執政官として軍を指揮していた。〕がヘルドニアを包囲し、ハンニバルは篝火を点けずに厳に静粛にするよう命令してある夜にひっそりと彼に接近した。靄の立ちこめた早朝に彼は騎兵の一隊をローマ軍陣営攻撃のために送り出した。後者は寝台から飛び起きたところだったが、どこからともなく現れた敵は小勢だと信じたために大胆になれたので多少は混乱しつつもこれを撃退した。偵察すると同時に市内の人々を激励するために歩兵の一隊を連れて町の向かい側へと迂回していたところだったハンニバルは偶然かはたまた計画のゆえか彼の迂回路上にいたローマ軍に襲いかかり、これを包囲した。挟み撃ちになった彼らは困惑して折り重なって倒れた。執政官フルウィウスその人を含むおよそ八〇〇〇人のローマ兵が殺された。生き残りは野営地の前の要塞の内側に逃げ込み、勇戦してこれを守り抜いてハンニバルに野営地を占領させなかった。
49 この後、ローマ軍は離反したアプリア人の地方を、ハンニバルの方はカンパニア人のうちアテラ人を除くローマへの忠誠に立ち返った全ての地方を荒らした。後者〔アテラ人〕がブルッティウム、ルカニア、アプリアで行われている戦争の被害を受けないようにするために彼は彼らをトゥリイに移住させた。ローマ人はヌケリアの亡命者をアテラに住まわせ、それから彼らはアウロニアを落としてブルッティウム人の領地を荒らし尽くした。また、彼らはカルタロが指揮を執るタレントゥムを陸海から包囲した。後者の手元には僅かなカルタゴ兵しかいなかったために彼はブルッティウム人に軍役を果たさせた。ブルッティウム人部隊の隊長はその兄弟がローマ軍で軍務に就いていたある女に恋をし、後者〔彼女の兄弟〕はこの隊長が自分の指揮下にあった城壁の一部をローマ軍に引き渡してローマ軍はその正面に攻城兵器を向けるように姉妹を通じて手はずを整えた。このようにしてローマ軍は陸海両方における戦争にうってつけの立地であるところのタレントゥムを取り戻した〔紀元前209年〕。
50 ハンニバルがタレントゥム救出のために急行していた時に陥落の報が彼に届いた。彼は大変落ち込みつつもトゥリイに転進し、そこからさらにウェヌシアへと進んだ。そこにはシケリアを征服してただ今五回目の執政官職に就いていたクラウディウス・マルケルスとティトゥス・クリスピヌス〔ティトゥス・クインクティウス・クリスピヌス〕が彼に対して陣取っていたが、ハンニバルに会戦を挑もうとはしなかった。しかしマルケルスはヌミディア人の一隊が略奪に向かったことを聞き知ると敵は僅かだと考え、三〇〇騎の騎兵を連れて自信満々で攻撃に向かった。絶望的な危機にあろうと戦いでは大胆な勇者だった彼は自ら攻撃をかけた。突如アフリカ勢の大部隊が飛び出してきて方々から彼を攻めた。後衛にいたローマ兵は早々に逃げ出したが、彼らが自分の後に続いてくるはずだと考えていたマルケルスは一本の矢で貫かれて殺されるまで勇敢に戦った。ハンニバルは彼の遺体の前に立ってその胸が傷だらけなのを見ると、彼を一人の戦士として讃えはしたが将軍としては批判を加えた。ハンニバルはマルケルスから指輪を抜き取って並外れた栄誉でもって火葬し、遺骨をローマ軍の陣営にいた彼の息子に送り届けさせた。
51 サラピア人に憤慨していたハンニバルはマルケルスの死が広く死られるより前に一人のローマ人逃亡兵をマルケルスの指輪の認印で封をした手紙を持たせて彼らに送り、マルケルスの軍がそちらに向かっているところなのでマルケルスはこの軍を迎え入れるべく門を開けておくよう命ずるとその手紙で述べた。しかし市民たちはクリスピヌスが一帯の町全てに送っていたハンニバルが指輪を手に入れたと告げる手紙を少し前に受け取っていた。かくして彼らはそこに滞在することで事の次第がハンニバルに気付かれないようにするために彼の使者を帰し、命令された通りにすると約束した。それから彼らは武装して城壁に陣取ると計略の結果が出るのを待った。ハンニバルがローマの武器で武装させたヌミディア兵を連れてやってくると、サラピア人はマルケルスを喜んで迎え入れるかのように落とし門を上げた。簡単に倒せるだろうと考えられた程度の数〔が入ってきたこと〕を認識すると彼らは落とし門を下ろして入ってきた兵を皆殺しにした。まだ城壁の外側に立っていた兵に彼らは上から矢玉を放って怪我だらけにした。その都市に対する二度目の策略が失敗した今、ハンニバルは撤退した。
52 その一方で彼の弟のハスドルバルがケルティベリアで徴募した軍を率いてイタリアに進軍していた。ガリア人から友好的に受け入れられたために彼はハンニバルが切り開いた道を通ってアルペス山脈を越え、かつてハンニバルが六ヶ月かけた道を二ヶ月で踏破した。彼は四八〇〇〇人の歩兵と八〇〇〇騎の騎兵と一五頭の象を連れてエトルリアに出てきた。彼は兄に自分の到来を知らせる手紙を送った。それらの手紙はローマ軍に奪取されたため、執政官のサリナトルとネロは彼の軍勢の数を知った。彼らはそれぞれの軍を合体させて彼に向けて動き、セナの町に近い場所で彼に対して着陣した。まだ戦うつもりはない彼は兄との合流を急ごうとして立ち去り、歩いて渡れない川に沿って夜に沼地と水のよどんだ土地を進軍して道に迷った。夜明けにローマ軍は眠りこけていた彼らに追いつき、集結して戦闘隊形を組みかけていた彼らの大部分を幹部もろとも殺した。ハスドルバルその人も彼らと共に殺された。彼らの多くは捕虜になった。この増援を自軍に受け取っていればハンニバルが負けることは決してなかったはずだったため、このようにしてイタリアは大変な恐怖から解放された。
53 〔この勝利はカンナエの戦いから〕そう遠からぬうちに起こり、他の面でも大体同等のものだったので、この勝利は神がカンナエでの惨事への補償としてローマ人に与えたものだ私には思われる。いずれの場合にも指揮を執った将軍が命を落とし、殺された多くの兵も捕らえられた多くの捕虜もいずれの場合にもほぼ同じくらいだった。また双方は他方の野営地と夥しい荷物を鹵獲した。したがってローマは幸運と不運を代わる代わる味わうこととなった。殺戮を逃げ延びたケルティベリア兵のある者は自国へ、またある者はハンニバルのもとへ向かった。
54 ハンニバルは弟とこれほどの大軍を失ったことで非常に落ち込み、道すがらありとあらゆるものを無差別に完全に破壊した。イタリアでローマ軍と戦い続けた一四年間の不屈の苦労によって得た全てを奪われた彼はブルッティウムへと撤退し、そこの住民だけが彼に残された唯一の同盟者だった。ここで彼はカルタゴからの新手の軍勢を待ってじっとした。彼らは物資と兵士と金を載せた一〇〇隻の商船を彼に送っていたが、漕ぎ手の人力が十分ではなかったために風でサルディニアに流された。サルディニア担当の法務官は軍船でこれを攻撃し、二〇隻を沈めて六〇隻を拿捕した。残りはカルタゴに逃げた。したがって一層の苦境に陥ったハンニバルはカルタゴからの助けを絶望視した。ガリアとリグリアで傭兵を集めていたマゴ〔ハンニバルの弟。ハンニバルに付き従ってイタリアに攻め込み、カンナエの大勝の後にこれを報告する使者としてカルタゴに送られる。紀元前215年にカルタゴ政府によってヒスパニアに送られて次兄ハスドルバルと共にローマ軍と戦い、紀元前208年にハスドルバルがヒスパニアを去ると総司令官としてローマ軍と戦う。紀元前206年にカルタゴ本国からヒスパニアを去ってハンニバルを支援せよとの命を受け、バレアレス諸島を経て北イタリアのリグリアに上陸する。紀元前203年に長兄ともども本国への帰還を命じられた。〕も助けを寄越さずに事の成り行きを見守っていた。そこに長くはいられないと気付いたハンニバルは今や当のブルッティウム人が早晩彼から離れるだろうと思って見くびり、彼らに税を課した。彼らが反乱を計画しないようにと彼は彼らの町々の要塞を平地にならした。彼はブルッティウムの多くの人に対して略奪を働き、財産を没収するために彼らを告発した。以上が彼の状況である。

9巻
55 この時のローマの執政官はリキニウス・クラッスス〔紀元前205年の執政官のプブリウス・リキニウス・クラッスス。〕とヒスパニアの征服者プブリウス・スキピオだった。クラッススはアプリアでハンニバルに対する戦争を行ったが、スキピオはローマ軍をアフリカに送って戸口に迫った危機をアフリカ側に移す場合を除いてハンニバルとカルタゴ軍をイタリアから出してはならないと人々に忠告した。これを頑固にごり押しし、躊躇っていた人たちを説き伏せた彼は自らアフリカ担当将軍に選出してもらってシケリアへと航行した。そこで彼は軍を集めて鍛えると、ハンニバルの守備隊が置かれていたイタリアのロクリに突如向かった。守備隊を殺戮してプレミニウスに町の指揮権を委ねると、彼はアフリカ目指して抜錨した。プレミニウスはロクリ人にありとあらゆる無道、放縦、そして残忍行為を加え、プロセルピナ神殿の略奪でその総仕上げをした。このためにローマ人は彼とその悪事の仲間を投獄して殺し、彼らが残した財産をロクリ人に渡してその女神の宝物庫に奉納した。見つけることができた略奪品の全部を彼らはこの女神に返し、見つけられなかった分は国庫から補った。
56 同じ頃にクラッススはブルッティウムの大都市コンセンティアと他の六つの町をハンニバルから離反させた。ユピテルによってある恐ろしく不思議な出来事がローマで起こると十人委員会はシビュラの書に伺いをたて、神々の母〔キュベレ〕がフリュギア人によって崇拝されていたフリュギアのペシノスに間もなく天から何かが降ってきて、それはローマに運ばれなくてはならぬと述べた。遠からぬうちにそれが落ちてきて、〔その落ちてきた〕女神の像がローマに運ばれるという知らせが届き、それが到着した日は今日に至るまで神々の母の神聖日であり続けている。それを運んだ船がティベル川のぬかるみに沈むと、姦通に手を染めていない女に引かれた時にのみ動くと予言者が宣言するまではどうやっても動かすことができなかったと言われている。その罪状で告発されていたが裁判がまだだった――放蕩のためにそれを疑われていた――クラウディア・クインティアが自分の無実の証人になってくれるよう神々に熱烈に呼びかけ、腰ひもを船にくくりつけると女神が後に続いて進んだ。かくしてクラウディアは以前の悪評から打って変わって最高の評判を獲得した。もっとも、クラウディアのこの出来事の前にローマ人はシビュラの書によって彼らの中でも最良の人たちをフリュギアから件の画像を運ぶために送るようにと注意されていたのだが。ヒスパニアで将軍を勤めてそこで命を落としたグナエウス・スキピオの息子で、スキピオ・アフリカヌスの甥のスキピオ・ナシカがその最良の人であると判断された。このようにしてその女神が最良の男女によってローマへともたらされたというわけである。
57 カルタゴ人がアフリカでスキピオによって立て続けに痛めつけられると、それを報告されたブルッティウム人はハンニバルに反旗を翻し、一部は守備隊を殺戮して他の者は守備隊を追い出した。どちらのこともできなかった者たちは、自分たちの行動〔ハンニバルに味方したこと〕は必要に迫られたがゆえであることとローマ人への好意を説明すべくローマに密使を送った。ハンニバルがペテリア人を追い出してブルッティウム人にペテリアを与えていたので、その時はペテリア人に占拠されていなかったその町へと彼は軍を連れてやってきた。彼はローマに使節を送ったとして後者〔ブルッティウム人〕を非難した。彼らがそれを否定すると彼は信じたふりをしたが、彼が言うには疑惑の理由をなくすために主要な市民たちをヌミディア人部隊に引き渡させ、このヌミディア人部隊は彼らには別々に見張るようにと命令されていた。また、彼は人々を武装解除させて奴隷を武装させ、彼らを市の見張りとして配置した。彼は訪れた他の諸都市にも同じことをした。彼はトゥリイのとりわけカルタゴに友好的だった市民三〇〇〇人とその他五〇〇人を国から去らせ、残った財産を戦利品として兵士に与えた。彼はその都市に強力な守備隊を残すと、彼の作戦にうってつけの地勢だと見たクロトンにこの三五〇〇人を住まわせ、倉庫及び他の町に対する作戦司令部を設置した。
58 スキピオのおかげで危機に陥っていたカルタゴ人が、祖国へと来てこれを助けるようにと彼を召し、猶予はないことを提督ハスドルバルを遣って伝えると、ハンニバルは経験を積み重ねた将軍に対するカルタゴ人の不実で恩知らずな態度を嘆き悲しんだ。その上、彼はヒスパニアで彼自身によって始められたこの大戦争の原因に彼自身が関わっていることを懸念してもいた。にもかかわらず彼は従う必要があると認識し、したがってイタリアが豊富に供する木材で艦隊を建造した。諸都市は今もまだ外国勢力としての彼と同盟していたにもかかわらず、彼はそれら全てを略奪し、軍を豊かにすることでカルタゴの中傷者に対して我が身を保全した。しかし真義への違反を恥じた彼は守備隊を検査するふりをして提督ハスドルバルを送り出した。後者はそれぞれの都市に入ると住民に彼らと彼らの奴隷が運べるだけのものを持ち出して立ち去るよう命じた。それから彼は残ったものを略奪した。都市の一部はハスドルバルが来る前に事の成り行きを察知したために守備隊を攻撃し、場所によって勝ったり負けたりした。人妻の強姦と処女の拉致、普通なら都市が占領された時に起こるような全ての惨事を伴った無差別虐殺が起こった。
59 ハンニバル自身は彼の軍内のイタリア人がきわめてよく訓練された兵士であることを知っていたために気前の良い約束でもってアフリカに同行するよう説得を試みた。自国に対して罪があった者は喜んで国を捨てて彼につき従った。それほど悪事を働いていなかった者は躊躇した。彼はあたかも彼らに何らかのことを言うつもりか、あるいは彼らの奉仕に褒美を出すか、はたまた将来に関する何らかの訓示をするかのように残留を決めた者を集めると、彼らを軍で出し抜けに包囲し、兵士たちにその中から奴隷にしたい者を選び取るよう命じた。かくして一部の者は選んだ。他の者はあまたの戦闘での戦友を奴隷にするのを恥じた。ローマ人がこの優秀な兵士たちの部隊を使えないようにするためにハンニバルは残った者全員を射殺させた。彼は彼らと一緒にアフリカに連れていけなかった四〇〇〇頭の馬と多くの荷物運搬用の獣も殺した。
60 そうして彼は陸に少数の守備隊を残し、軍を乗船させて風を待った。それにペタリア人とイタリア人が襲い掛かって一部を殺し、それから去った。ハンニバルはイタリアを一六年間続けて破壊して住民に数えきれないほどの被害を与えてからアフリカへと渡ったわけであり、ローマを幾度も絶体絶命の状況に陥れ、自身の従属者と同盟者に対しては敵にするかのように屈辱的な扱いを加えた。彼が彼らを利用するのは一時のことでしかなく、それも善意からではなく必要からのことであったので、今や彼らは彼に対してそれ以上の奉仕をしなくなったために彼は彼らを軽んじて敵とみなすに至った。
61 ハンニバルがイタリアを去ると元老院は彼の側に立った全てのイタリア人を許し、最も熱心に最後まで彼に味方し続けたブルッティウム人を除いて全面的な恩赦を票決した。彼らはブルッティウム人からかなりの土地、そしてまたハンニバルが持ち去っていなかった武器があればその武器を取り上げた。また、彼らはもはや自由民ではなくなって以後軍を徴募することを禁じられ、政権と地域の公役を視察する執政官と法務官から召使いとして見なされるよう要求された。ハンニバルのイタリア侵攻の結末は以上のようなものである。




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