アッピアノス『ローマ史』「サムニウム戦史」(断片)

1 ローマの将軍コルネリウスとコルウィヌス〔アウルス・コルネリウス・コッススとマルクス・ウァレリウス・コルウス。いずれも紀元前343年の執政官。〕、平民デキウス〔プブリウス・デキウス・ムス。後の紀元前340年の執政官。〕はサムニウム人を破ると、サムニウム人の来寇を防ぐためにカンパニアに見張り部隊を残した。この見張り部隊はカンパニア人といっしょに奢侈と豊かさを享受したために彼らの習慣へと堕落し、彼ら自身は非常に貧乏でローマでは厳しい借金を背負っていたものだからこの人たちの富を嫉妬し始めた。ついに彼らは自分たちをもてなしてくれた人たちを殺して財産を奪い、その妻たちと結婚しようと計った。新任の将軍で、サムニウム人に向けて進軍したマメルクス〔この反乱を受けて紀元前342年に独裁官になった前出のコルウスの下で騎兵長官として勤務し、翌紀元前341年に執政官になったたルキウス・アエミリウス・マメルキヌス・プリウェナス。〕がローマの見張り部隊の計画を知らなければ、この破廉恥な行いがことによるとすぐに実行に移されていただろう。自らの意図を隠すために彼は、長らく軍務を務めてくれたから除隊させるという口実で兵士の一部を武装解除して解散させた。彼はより非道な輩には重要任務を口実にしてローマに〔向かうよう〕命じ、彼らを密かに監視するよう命じた上で一人の軍団副官を彼らと一緒に送った。兵士の両集団は自分たちの計画が遺漏したのではないかと疑い、テラキナの町の近くでその軍団副官と別れた。彼らは田畑での刑罰に服していた者全員を解放し、できる限りの武装をさせておよそ二〇〇〇〇人の兵力でローマへと進軍した。
2 都へのおよそ一日の行軍で彼らは、アルバ山に野営していた彼らの近くに野営していたコルウィヌスと遭遇した。事の次第を調査する間は野営地で大人しくすべきで、この無法者どもに攻めかかるのは賢明ではないと彼は考えた。この兵たちは互いに私的に交わり、彼ら〔コルウィヌスの軍〕の中に親類と友人がいたので、見張り部隊は自分たちは罪を犯すつもりだったと呻き声を上げ涙を流しながら白状し、全ての発端は自分たちがローマで負っていた借金なのだと明言した。コルウィヌスはこれを理解すると多数の市民の流血の責任を負うのに尻込みし、彼らの借金を帳消しにするよう元老院に勧めた。自棄になって力の限り戦う兵に対しては大部隊を投入する必要が生じるはずだと言い、彼は戦争の困難さを誇張した。彼らの親戚であり彼らに劣らず借金で苦しんでいる自軍の忠誠がある程度薄れるのではないかと彼は恐れており、〔コルウィヌスの兵と反乱軍の兵との〕話し合いと相談の結果にも強い疑念を持っていた。彼が敗れることがあれば危険はますます増大していくだろうが、勝利しても、彼らの多くの親戚が巻き込まれるはずだからその勝利は国家にこの上ない悲嘆をもたらすと述べた。元老院は彼の議論で心動かされ、全ローマ人の借金帳消しと暴徒の免責を布告した。
ペイレスクより

執政官マンリウス・トルクァトゥス〔ティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥス。独裁官を二度、執政官を三度務めた。〕の武勇は以下のようなものだった。彼の父は非常に貧乏で、彼の世話をせずに奴隷と一緒に野良仕事をさせて奴隷と同じ食事を取らせるほどだった。数々の不行状の故に護民官ポンポニウス〔マルクス・ポンポニウス。紀元前362年の護民官。〕が息子への虐待を含む罪状でこの父を告発し、若い方のマンリウスは服の下に短剣を隠し持ちつつ、あたかも裁判に関する何か重要な話を持ち出すかのように護民官の家に赴き、私的に会いたいと求めた。これを認められると、彼が話そうとしたまさにその時に彼は扉を閉め、父への告発から手を引くと宣誓しなければすぐに殺してやると護民官を脅した。後者は宣誓して告発を取り下げ、人々に理由の説明をした。マンリウスはこの事件から大きな栄誉を手に入れ、この父にしてこの子ありと称えられた。
ペイレスクより

嘲りながら彼は彼〔前出の執政官の息子マンリウス。〕に一騎打ちを挑んだ。彼はしばしの間は自制していたが、挑発に耐えきれなくなると彼に向けて馬を駆った〔これは第二次ラティウム戦争(紀元前340-338年)における紀元前340年の出来事。敵を前にしてマンリウスは味方に抜け駆けを禁じたが、従軍していた息子がこれを破って敵と戦った。息子が手柄を立てたにもかかわらず、執政官は軍紀違反を犯したとして彼を処刑した。〕。
『スーダ辞典』より

1 サムニウム軍がフレゲラエ領を襲い略奪していた間にローマ軍はサムニウム人とダウニア人に属する八一の村を占領し、二一〇〇〇人を殺し、フレゲラエ地方から彼らを退かせた。サムニウム人は再びローマへと使節団を送り、戦争の責任者として処刑した人たちの遺体と備蓄倉庫から引き出した黄金を持参してきた。したがって元老院は彼らが完全に粉砕されたと考え、激しく痛めつけられたこの民は〔ローマの〕イタリアでの覇権を認めるだろうと期待した。サムニウム人はそれ以外の条件は受け入れ、あるいは何らかの条件で議論することになればより良い条件を求め懇願したり、自分たちの諸都市に議題を問い合わせたりした。しかし覇権に関して彼らが言うには、彼らは自分たちの町を引き渡すつもりで来たのではなく友好を育むために来たのだからといい、その主題に耳を貸すことすらしなかった。このようにして彼らは黄金を捕虜を購うのに使い、怒りながら退去し、今後に覇権〔の獲得〕を試みようと決心した。そこでローマ人はサムニウム人からの使節団を今後は受け入れず、彼らが力ずくで平定されるまで徹底的に容赦なく戦うことを議決した。
2 間もなくサムニウム人に敗北したローマ人に軛門の下を通らせることで、神はこの高邁な精神を貶めた。将軍ポンティウスの下でサムニウム軍は隘路にローマ軍を封じ込めて飢餓で追い詰めたため、両執政官〔紀元前334年の執政官だったスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスとティトゥス・ウェトゥリウス・カルウィヌス。〕は彼に使者を送り、このような好機はそうそうないのでローマ軍からの感謝を受けるよう請い求めた。ローマ軍は武器と捕虜を引き渡す用意をする場合を除いてこれ以上使者を送る必要はない、と彼は答えた。そのために都市が占領されたかのような嘆きの声が起こり、両執政官はローマに相応しからぬ行動を躊躇ったためにさらに数日もぐずぐずしていた。しかし救出の手立てが見つからず飢えが厳しくなってくると、その隘路にいた五〇〇〇〇人の若い兵がを死なせるのは忍びなかったので彼らはポンティウスに降伏し、自分たちを殺すなり奴隷に売るなり身代金のために留め置くなりしても良いが、不運な人たちに恥の烙印を押すのは止めてほしいと懇願した。
3 老齢の父を乗り物に乗せてカウディウムまで連れてくるようポンティウスは手紙を書き、父と相談した。この老人は彼にこう言った。「倅や、大きな敵意を癒すのは度を超した寛大さか、度を超した厳しさしかないぞ。厳しさは恐怖を与え、寛大さは宥める。この最初の、それでいて最大の勝利を幸運の宝庫だと心せよ。彼ら全員を罰せず、恥辱を与えず、何の損失も与えず解放すれば、その恩の大きさはお前の利になるだろう。彼らは栄誉に関しては非常に敏感だとわしは聞き知っている。恩だけで打ち負かされれば、彼らは親切な振る舞いにおいてお前を上回ろうと躍起になるだろう。お前には永久的な和平を確固たるものとするために親切に振る舞う権限がある。お前がこれに不服ならば、知らせを持ち帰る者がいなくなるように彼らを一人残らず殺してしまえ。最初の方を選ぶのをわしとしては勧めるが、そうでなければ後の方が必要じゃ。ローマ人どもは恥をかかされれば必ず復讐してくるぞ。お前が最初に打撃を加えたところで、ここで一挙に五〇〇〇〇人の若者を殺すよりも重い打撃を彼らに加えられるなどということは断じてあり得ぬぞ」
4 彼がこう言うと、息子はこう答えた。「父上は両極端の方策を提案すると初めに宣った以上、正反対の二つの計画を提案したのを俺は訝しんではいない。だが俺にはあれほど多数の兵を殺すことはできない。神の報復と人間としての不名誉を俺は恐れているわけだよ。取り返しようのない悪事を働くことでこの二つの民族から相互の和解の全ての希望を取り去ることなど俺にはできない。彼らの解放には賛同できない。ローマ人が俺たちにこれほどの悪事を働いて俺たちの多くの平地と町を今日に至るまでに奪取したこの期に及んでこの捕虜を何もせずに帰すなどというのはできない相談だ。俺にはそんなことをするつもりはさらさらない。そんな理屈に合わない寛容は狂気の沙汰だ。今は俺にこの事情を無視させた上でこの問題を眺めてみてくれ。息子、父、兄弟をローマ人に殺され、財産と金を失ったサムニウム人は満足しないよ。勝者が傲慢なのは当たり前で、俺達の兵は利得に貪欲だ。俺がこの捕虜らを殺したり売り払ったりせず、さもなくば価値のある人のように無傷で解放する、こんなことに耐えられる者がいるというのか? そういうわけだから、一方は俺の力が及ばないから、他方は人道への罪を犯すことになるから、俺たちとしてはこの両極端を排したい。それでもなおローマ人の自負心をある程度へし折り、他の人たちからの譴責を回避するため、俺たちに常に向けられていた武器と金――それどころか彼らの金は俺たちから取得されたものだから――を取り上げることにしたい。それから俺は彼らが軛の下を安全且つ無事に通り抜けさせるつもりだが、これは彼らが他の人たちに常々してきた屈辱の証でもある。それから俺は両国民の間に和平を樹立し、全ての民がそれを承認するまで、彼らの騎士のうちで最も著名な人たちを式典のための人質に選ぶつもりだ。こうすれば俺は勝者と人道的な人間として相応しいことを行うことになると思われる。あれほどに立派な資質を持つとを主張するローマ人が他の民にしばしば押しつけてきたこれらの条件に、彼ら自身も甘んじるだろうと俺は考えてもいるよ」
5 ポンティウスがこう述べると老人は涙を流し、馬車に座り込んでカウディウムへと戻った。それからポンティウスはローマの使節団を呼び寄せ、フェティアレスの祭司が同行しているかと尋ねた〔「fetialesはローマの司祭団で、協定が締結された時にこれを裁可し、宣戦の前に敵に賠償を求めた」(N)。〕。軍は容赦のない徹底的な戦争を行おうとして進軍していたのでこの使節団はいなかった。したがって彼は使節たちに両執政官と他の軍幹部、〔軍の〕全員に以下のことを発表するよう指示した。「我々はローマ人との恒久的な友好を樹立していたが、それは諸君ら自身が我々の敵であるシディキニ族を助けたことで反故にされた。再び和平が締結された時、諸君らは我々の隣人であるネアポリス人に戦争を起こした。これらのことがイタリア全土の支配権を握るという諸君らの計画の一環だということを我々は見逃さなかった。初期の諸々の戦いで諸君らは我々の将軍の稚拙さの故に優位に立ったが、その際に諸君らは我々に温和な態度を示さなかった。我々の国土を荒らして町々と我々のものではない村々を占領するのに飽き足らず、諸君らはそれらに植民を行った。その上我々が諸君らに二度も使節団を送って多くの譲歩を行った時、諸君らは我らを軽々に扱い、まるで我々が協定を結ぼうとしている民ではなく被征服民であるかのように覇権を寄越して服従せよと要求した。それから諸君らは自らの以前の友人であり、諸君らの同胞市民であるサビニ人の末裔でもある我々に対して容赦のない徹底的な戦争を宣戦した。諸君らの金銭欲の深さのおかげで我々は諸君らとの協定を望めなくなった。しかし神の怒りを慮り、我々のかねてからの血縁と友情に思いを致し、もし諸君らが我々の全ての土地と砦を放棄して同地から植民者を引き上げさせ、サムニウム人に対して二度と戦争を起こさないと誓うのであれば、私は諸君の各人に軛の下を安全且つ無傷に、着の身着のままで通過することを許そう」
6 彼らは死よりも軛の下を通る方が不名誉だと考えていたので、これらの条項が野営地に伝えられると悲しみと嘆きの叫び声が起こった。その後、人質にされる騎士たちのことを聞くと、今一度長く嘆き悲しんだ。それでもなお彼らはこれらの条件を受諾する必要に迫られていた。したがって一方ではポンティウスが、他方では二人の執政官ポストゥミウスとウェトゥリウス、二人の財務官、四人の部隊指揮官、一二人の軍団副官といった生き残りの将校全員が宣誓した。宣誓がなされると、ポンティウスは渓谷から出る道を開き、二本の槍を地面に固定して上方に向けて交差させ、ローマ兵に一人ずつその下をくぐって通らせた。また彼は病人を運ぶための幾ばくかの荷駄運搬獣、ローマまでこれらを連れて行くまでに十分な食料を持たせた。軛の下での送り出しと彼らが呼ぶこの捕虜の去らせ方は敗者を嘲ることにしか役立つことはないと私には思われる。
7 この災難の知らせが都市〔ローマ〕に届くと、公式の服喪のような嘆きと悲しみが起こった。女たちはこのような不名誉な仕方で助かった者たちをまるで死者のように悼んだ。元老院議員たちは自分たちの紫の縞のついた下着を捨てた。祝祭、結婚、あらゆる祝い事は、この災難が挽回されるまでこの年を通じて禁じられた。帰還してきた兵の一部は恥じ入って原野に避難し、他の者たちは夜のうちに都市〔ローマ〕へとこっそり入った。両執政官は法に則って日中に入り、通常の記章を身につけたが、それ以後はその権力を行使しなかった。
『使節』より

デンタトゥスの勇気を讃えるために選り抜きの八〇〇人の若者の一団が何事にでも備えるために彼に続く習わしになった。これのおかげで元老院の会議で彼らは決まりが悪い思いをした〔第三次サムニウム戦争での勝利を祝う紀元前290年の凱旋式での出来事。〕。
『スーダ辞典』より

1 かつてケルト人の一派のセノネス族の大軍がローマ人と戦うエトルリア人を支援した。ローマ人はセノネス族の町々に使節団を送り、協定を結んでいるのにローマ人に対する戦闘に傭兵を提供するのはどういうわけだと苦情を申し立てた〔紀元前283年。〕。彼らはカドゥケウスを持って職務用の衣服を着ていたにもかかわらず、ブリトマリスは自分の父はエトルリアでの戦争中にローマ人に殺されたと訴えつつ彼らを惨殺して遺体をまき散らした。行軍中だった執政官コルネリウス〔紀元前283年の執政官プブリウス・コルネリウス・ドラベラ。〕はこの忌むべき行為を知ると、エトルリア人への遠征を切り上げてサビニ族の土地とピケヌムを通ってセノネス族の町々へと強行軍で急行し、火と剣でこれらを荒らした。彼は彼らの女子供を奴隷として売り払い、凄惨な拷問を受けて凱旋式で引きずり回されたブリトマリスの息子を除く成人男子全員を殺した。
2 エトルリアにいたセノネス族はこの厄災を知るとエトルリア人と合流してローマに向けて進軍した。様々な不運の後、これらのセノネス族は帰るべき故郷をなくして不運に取り乱したためにドミティウス〔グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス。ドラベラの同僚執政官。〕に襲いかかったが、彼によって大部分が壊滅させられた。生き残りは絶望のあまり自ら命を絶った。使節団への犯罪行為の故にセノネス族に対して加えられた罰はこのようなものだった。
『使節』より

1 コルネリウス〔直前に出てきた紀元前283年の執政官。〕はマグナ・グラエキアの沿岸を一〇隻の甲板付きの船で巡視していた。タラスにフィリカリスという名の大衆指導者がおり、これは低俗な暮らしぶりのためにタイスとあだ名された男だった。彼はラキニウム岬を超えて航行してはならないとローマ人がタラス人を拘束した昔の協定を彼らに思い起こさせた。感情に任せて彼はコルネリウスへの暴動を起こすよう彼らを説得し、彼の四隻の船を沈め、一隻を甲板に載っていた全員共々拿捕した。タラス人はギリシア人である自分たちよりもローマ人を贔屓しているとしてトゥリオイ人を非難し、ローマ人が境界を踏み越えているのは主に彼らのせいだと論じた。彼らは最も高貴なトゥリオイ市民たちを追い出してその都市を略奪し、協定の下で駐屯していたローマの守備隊を退去させた。
2 ローマ人はこれらの出来事を知るとタラスに使節を送り、ローマ人と良好な関係を続けたいのであれば戦争中でもないのに捕らえられたただの巡視員の釈放、追い出されたトゥリオイ市民の帰国、略奪された財産や失われた分の返還、そして最後にこれらの犯罪行為の下手人の引き渡しを要求した。タラス人は使節団が自分たちの委員会に出席することを渋々認めたが、彼らを受け入れた時にはギリシア語を完璧に話していなかったとして彼らを嘲り、彼らのトーガとトーガにあった紫の縞をからかった。〔「テクストのこの箇所は使節団の長だったポストゥミウスに向けられた嘲弄を記している」(N)。〕この見世物は見物人たちによって嘲笑と共に迎えられた。ポストゥミウスは自分の汚れた衣服を掴んでこう言った。「諸君はこの汚れを大量の血によって洗い流すおつもりのようだ――諸君はこういう冗談がお好きでしょうがね」タラス人たちが何の返答も寄越さないでいるとこの使節は出立した。ポストゥミウスはまさにその汚れた衣服を持ち帰ってローマ人に見せた。
3 激怒した人々は、サムニウム人との戦争を遂行していたアエミリウス〔紀元前281年の執政官ルキウス・アエミリウス・バルブラ。〕にすぐに作戦を切り上げてタラス人の領土に攻め込むように、そして最近の使節が提案したのと同じ条件を彼らに申し出るように、もし彼らが同意しなければ全軍でもって彼らとの戦争を遂行するよう指令を発した。彼はその通りの申し出を彼らに行った。この時は軍がいるのが分かったので彼らは嘲笑しなかった。彼らが疑念を持ちつつも議論すると意見は真っ二つに分かれたが、それもその中の一人がこう言うまでのことだった。「市民を差し出すのはすでに隷属した民のすることであり、同盟者もなしに戦うのはなおのこと危険だ。我らの自由を断固として守り対等の条件で戦おうと欲するならば、エペイロス王ピュロスを呼んでこの戦争の指導者に任命するのはどうか」。これは実行された。
『使節』より

 難破の後、エペイロス王ピュロスはタラスの港に到着した〔紀元前281年。〕。タラス人は、力尽くで市民のもとに宿泊しておおっぴらに彼らの妻子を虐待した王の将官たちから相当な迷惑を被った。その後ピュロスはどんちゃん騒ぎとその他戦時には相応しくない寄り合いや悦楽をやめさせて厳しい軍事訓練を市民に命じ、従わない者は死罪に処した。そこでタラス人は全く不慣れな訓練と命令が嫌になってまるで外国の政府であるかのようにその都市から逃げ、原野に逃げ込んだ。それから王は門を閉ざして見張りを配した。このようにしてタラス人は自らの愚かさを明らかに悟ることになった。
ペイレスクより

1 多少のローマ兵が敵に対するレギオン市の防衛と安全保障のためにそこに配置された。彼らと彼らの指揮官デキウスはそこの住民の幸運を嫉妬し、国の祝祭が開かれるのを眺めてこれを好機として彼らを殺戮し、その妻らを犯した。この犯罪行為について彼らはレギオン市がピュロスの守備隊に引き渡されそうになっていたという言い訳を弄した。そこで守備隊長から打って代わって最高権力者となったデキウスはマメルティニと同盟を結んだが、このマメルティニというのはシケリア海峡の他岸に住んでいて、少し前に自分たちの主人に対して似たような狼藉を働いていた。
2 眼病で苦しんでいたがレギオンの医者を信用していなかったデキウスは大分前にレギオンからメッサナに移住していたためにレギオン人だと忘れられていたある医者に手紙を送った。この医者はもし速やかな回復を臨むならば熱した薬を使うのがよいと彼を説き伏せた。焼けて腐食性の軟膏をデキウスの両目につけると、彼は自分がまた来るまで痛みを我慢するようデキウスに言った。それから医者は密かにメッサナに帰った。デキウスは長時間痛みに耐えた後に軟膏を洗い流し、自分が視力を失ったことに気付いた。
3 残余のレギオン人にその都市を返還させるためにローマ人によってファブリキウス〔ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌス。紀元前282、278年に執政官を務めた。〕が送られてきた。彼はこの反乱の罪があった守備隊をローマに送還した。彼らは公共広場で杖で打たれ、それから斬首され、遺体は埋葬されないままにされた。デキウスは厳重な監視下に置かれたため、視力を失って落胆していたこともあって自殺した。
ペイレスクより

1 ローマ人に勝利したエペイロス王ピュロスはこの激戦の後に兵力を回復させようと望み、そしてローマ人は協定締結に頗る乗り気になっていることだろうと予想したため、デモステネスと比べられるほどに雄弁で名高かったテッサリア人キネアスをその都市へと送った。元老院議事堂に招き入れられると、彼は様々な理由を挙げて、中でも都市に直接進軍せずに敗軍の野営地を攻めもしなかったという勝利の後の節度で王を絶賛した。タラス人を含むイタリアに住む他のギリシア人が自らの法の下で自由を維持し、ローマ人がルカニア人、サムニウム人、ダウニア人、そしてブルッティオイ人に戦争で取り上げた領土を返還するならば、という条件での和平、友好、そしてピュロスとの同盟をキネアスは申し入れた。彼らがこれらを実行するならばピュロスは身代金を受け取らずに捕虜を全員釈放するつもりである、と彼は述べた。
2 ピュロスの威信で非常に萎縮していたローマ人は自分たちが被った災難もあり、長らく躊躇っていた。ついに老齢から視力を失ったために盲の異名を持っていたアッピウス・クラウディウスが息子たちに自分を元老院議事堂へと連れて行くよう命じ、ここで彼はこう言った。「わしは視力をなくしたのを悲しんどったが、今では聾になっとらんのを残念に思うとるぞ。なにせ君らのこんな協議を見聞きするとは予想もしとらんかったからな。君らにこれを寄越してきた仁と彼をこちらに呼び寄せた人たちを敵から友人にし、ルカニア人とブルッティオイ人に君らの父祖が奪った財産を返してやるなどと、不運のせいで君らは急に我を忘れてしまったとでもいうのか? こういうことをするようではローマ人はマケドニア人の僕になってしまうのではないのか? 君らの中の一部の者が隷属と引き換えにこのような平和を持ち出すつもりになっているとはな!」似たような調子でアッピウスは他の多くの事柄を訴えて彼らの魂を奮起させた。〔そして以下のような決議を行った。〕もしピュロスがローマ人に和平と友好を求めるならば、彼はイタリアから軍を引いた上で使節を送るべきだ。彼が居座る限り友好も同盟もなく、彼をローマの問題における裁判官にも調停者にもするつもりはない。
3 元老院はキネアスに対してアッピウスの忠告通りの返答を寄越した。彼らはラエウィヌス〔プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス。紀元前280年の執政官で、同年のヘラクレイアの戦いでピュロスに敗れた。〕は新規の二個軍団を徴募すべしという布告を出し、死者の代わりになる義勇兵は誰であれ兵籍に名を記すべしと宣言した。未だその場にいて大衆が急いで入隊する様を見たキネアスは戻るとピュロスにこう報告したと言われる。「我らはヒュドラを相手に戦争をすることになるようです」。他の人が伝えるところでは、この言葉を言ったのはキネアスではなく、他の執政官コルンカニウス〔ティベリウス・コルンカニウス。紀元前280年の執政官。〕がエトルリアから来てラエウィヌスの軍と合流したために以前よりも強大になっていた新手のローマ軍を眺めた時のピュロスだともいう。ピュロスがローマに関してさらに質問した時、キネアスはそこは将軍たちの都市だと答えた。ピュロスがこれに驚くと、彼はそこは王たちの都市のように見えたと言って訂正した。元老院からは和平を期待できないと見て取ると、ピュロスは行く先々を徹底的に荒らしながらローマへと進軍した。彼がアナグニアの町あたりまで来ると、戦利品と多数の捕虜が軍の足手まといになっているのを見て取り、戦いを延期することに決めた。したがって彼は象部隊を先遣してカンパニアへと引き返し、越冬のために軍を町々に割り振った。
4 そこへとローマの使節団が来て捕虜の身請け、あるいはタラス人ないし彼らの他の同盟者との交換を申し出た。キネアスが提案した条項での和平を結ぶ用意が彼らにあるのであれば自分は無条件で捕虜を解放するつもりだが、戦争を続けるつもりであれば自分と戦うかくも大勢の勇士を引き渡すつもりはないと彼は答えた。そうでないのであれば自分は彼らを王として相応しい仕方で扱う、と。使節団長のファブリキウスがその都市〔ローマ〕で多大な影響力を持っていて、そしてまた彼が非常に貧乏な人だと分かると、もし停戦協定を実現させてくれるならば彼をエペイロスまで連れて行って高官に取り立て、自分の全財産を分け合いたいとピュロスは申し出た。そして協定を仕上げる人に与えるという口実で彼はその場にあった金を彼に受領するよう誘った。ファブリキウスは突然笑い出した。彼は公務については答えずにこう言った。「王よ、陛下であれ陛下のご友人であれ某の自主独立を奪うことはできませぬ。恐怖が伴うならば王たちの全ての富よりも、自分の財産の方が恵まれたものだと某は思うものであります」他の人たちはこの対話を別様に報告しており、ファブリキウスは「エペイロス人が某の気質を分け合って陛下より某を好まぬようご注意くだされ」と答えたという。
5 彼の答えがどのようなものであれ、ピュロスは彼の高邁な精神を賞賛した。それから彼は平和を手にするために他の計画を試みた。彼はサトゥルヌスの祭に出させるために見張りをつけることなく捕虜に帰国を許し、もしその都市が自分の出した協定を受諾するならば彼らは解放されるが、そうでなければ祭が終わると彼らは自分のもとへと帰ることとするという条件をつけた。捕虜たちは協定の受諾を元老院に熱烈に懇願し訴えたにもかかわらず、祭が終わると元老院は彼らに期日にピュロスのもとに引き返すよう命じ、その時以降居残る者は死罪に処すと宣言した。この命令を皆が守った。このようにしてピュロスは全ては武器での裁定にかかっていることを再び思い知った。
『使節』より

1 ローマでの苦境で苦しんでいた一方でピュロスはモロシア人の蜂起でも悩まされた〔紀元前278年。〕。また、折しもこの時にシケリアの王アガトクレスが死んだ。ピュロスは彼の娘のラネイアと結婚していたので、イタリアよりも興味を持ってシケリアを眺め始めた。それでもなお彼は自分に助けを求めてきた人たちを平和の段取りを何も整えることなく見捨てるに忍びなかった。〔ローマ側が〕彼から離反した裏切り者を送り返してきた機会を熱烈に掴み、彼は両執政官に対してこの行動への謝意を表し、一身の安全を守れたことへの感謝を伝えて返礼として捕虜を引き渡すべく再びキネアスをローマまで送り、できるならばどんな和平であれ和平を結ぶよう彼に指示した。人々は金と贈り物に目がなく、ローマ人のもとでは女たちが創成期から大きな影響力を持っていたことを知っていたので、キネアスは男と女のために大量の贈り物を持参してきた。
2 しかし彼らは互いに贈り物をしないよう戒め、男も女も何も受け取るつもりはないと答えた。彼らはキネアスに前と同じ答えを返した。もしピュロスがイタリアから撤退して贈り物を持たせずに彼らのもとに使節を送っていれば、彼らは全面的に適当な協定に同意していたことだろう〔、というのがローマ人の返答だった〕。しかし彼らは使節を豪勢にもてなし、タラス人と捕虜として留め置いていた彼のその他の同盟者全員を返礼としてピュロスのもとへと送り返した。そこでピュロスは、後ほどイタリアに戻ってくるつもりだと同盟者たちに約束して象と八〇〇〇騎の騎兵を連れてシケリアに渡った。カルタゴ人が彼をシケリアから追い落としたため、三年後に彼は帰ってきた。
『使節』より

1 ローマ人との戦いと休戦の後、ピュロスはイタリアに戻ってくるつもりだと約束してシケリアへと渡った。カルタゴ人によってシケリアから追い落とされ、兵の宿舎と物資、シケリア人に科した守備隊と貢納のためにシケリア人自身にとって嘆かわしいほどの重荷と化したために三年後に彼は戻ってきた。この取り立てで富を成すと彼は多数の商船と貨物船を伴った一一〇隻の甲板付きの船団を率いてレギオンへと航行した。しかしカルタゴ軍が彼に海上で攻撃をかけ、船団のうち七〇隻を沈めて一二隻を除く残の全船を動かなくした。これらの船を連れて逃げると彼は、そこの住民が憤慨から彼の守備隊とその隊長を処刑したイタリアのロクリス人への報復に取りかかった。彼が行った報復とは殺戮と略奪という惨たらしいもので、時宜を失した敬虔さは迷信も同然だと、そして働かずして富を得るのは良いやり方だと冗談めかして述べて彼はペルセポネの神殿の奉納品すら容赦しなかった。
2 戦利品を満載していたために嵐が彼を襲うと人員もろとも一部の船が沈み、他の船は岸へと流された。波が全ての聖なる文物をロクリスの浜まで無事打ち上げた。そういうわけで自らの不敬虔の結果をあまりにも遅く悟ったピュロスはペルセポネの神殿にこれらを返して多数の生贄でこの女神の怒りを静めようとした。生贄に凶兆が出たので彼はよりいっそう腹を立て、神殿の略奪を忠告、これに賛同、あるいは加担した者全員を処刑した。ピュロスはこのような散々な目に遭った。
ペイレスクより




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