『言語の論理的構文論』

・選択の原理
「PSII21はより(あらゆるタイプに)一般化されたツェルメロの『選択の原理』(ラッセルの多元化公理に対応する)である。それはこういうことである。『もしMが(第三ないし第四のレベルの)集合であり、Mの要素であるところの諸集合は空ではなく互いに排他的であるならば、少なくともMにおける一つの選択的集合H、つまりMの要素であるところのあらゆる集合と一つの要素を明確に共有する集合Hが存在する』」(p. 93)。PSII21においては、Mがp1に、選択的集合Hがp2、「Mの要素であるところのあらゆる集合と一つの要素を明確に共有する集合H」がp4に相当する。

・選択の原理の証明における自己言及の問題と同原理の採用は便利さの問題であること
「以上の証明においては〔証明されるものであるところの〕選択の原理それ自体が用いられている。しかしこの原理は対象言語の文としてではなく、『我々が構文論的研究において用いている構文論言語の文として』ここに現れていることは明記されるべきである。……目下の場合の状況は以下のようなものである。もし構文論言語Sにおいて我々が我々の提案にあたって或る文、つまりSにおいて、対象言語IIの文S1へと翻訳可能(通常の翻訳)な特定の文を持っているならば、我々は我々のS(ここで我々は厳密に決定された語言語を用いてはいない)において、IIの或る一つの文S1は分析的であるという証明を行うことができる。それ故に我々の証明は如何様にしても循環的なものではないということになる。……定理1と定理2の証明はあたかもそれらによって帰納の原理と選択の原理が実質的に真であることが証明されたかのように解釈されるべきではない。それらは我々の『分析的』の定義がこの点において有効であるように意図されていることにおいて有効であること、つまり分析的という文の性格は実質的解釈において論理的に妥当であると考えられるということを示したにすぎない。
 選択の原理が科学の言語の全て(全ての構文論的研究も含む)において論理的に妥当なものとして容認されるべきか否かという問題はここでは決定されない。選択されるべき言語形式についての全ての問題がそうであるように(cf. 寛容の原理、§17と§18)、それは選択の問題である。選択の原理の構文論的性質についての我々の目下の知識の見地では、その容認は好都合なものとして考えられるべきである。それの容認によって数学的計算の構造がかなり明らかに単純化されるという事実がそれを物語っている」(p. 123)。

・分析性と非確定性
変数の変項は枚挙によって排除できるが、「しかし、述語ないし関数の変項は類比的にうまくいうことはなく、これはゲーデルによって指摘された事実である。例えば、S1はM(F)(つまり、『Mは全ての属性にとって真である』)としてみよう。今、S1から我々はM(P1)、M(P2)等々の文を引き出し、このことがFをIIにおいて定義可能な問題になっている各々のタイプの述語へと置き換えることによってS1から結果するならば、今度は、それら全ての文は真であるにもかかわらず、MがIIにおいて定義されることができない述語の性質にとって成り立たない限りにおいてM(F)は偽であるということになるだろう。ゲーデルの研究の結果、例えば、あらゆる算術大系において定義できない数的性質、別の言い方では定義できない実数がある、ということは確実である(定理60d. 1, p. 221を見よ)。もし我々がその文を〔妥当だと〕呼ぶならば、それは明らかに古典的数学の妥当性概念とは整合的ではない。一つの実数がこの属性を持たないと述べられることが可能な時(確実に、目下の言語体系においてのみならず、より豊かな体系でも)、『全ての実数は属性Mを持つ』は分析的な文〔ということになる〕。代わりに我々は、IIにおいて可能な定義の限定された領域とは無関係にMがあらゆる数的属性において成り立つ場合のみM(F)は分析的と呼ばれるというというゲーデルの提案と『分析的』の定義に倣うことにしよう」(p. 106-107)。
 つまり、枚挙によって全ての場合を網羅することでこの属性は分析的に真だとすることは確定的な場合にしかできない。
関数Fが自由変項としてのみ現れる文S1について、「『分析的』の定義が案出されれば、『F』のあらゆる値に基づいた値づけ〔evaluation〕によってS1から生じるあらゆる文が分析的であるならばそしてその場合のみ、S1は分析的と呼ばれうることになるだろう。そして生じる文のうち少なくとも一つが矛盾的な文である時、S1は矛盾的と呼ばれることになるだろう」(p. 107)。

・自己記述についての論議
「我々は厳密に決定された構文論を持たない語言語〔word-language〕において『分析的』の定義を定式化した。目下、以下のような疑問が提示される。1. この定義は厳密に定式化された構文論言語S1へと翻訳できるのか? 2. 言語IIそれ自体はこの目的〔分析性の定義〕のための構文論言語として用いることができるのか? 後に我々は、いかなる(無矛盾な)言語Sであろうと『Sにおける分析的』の定義はSそれ自体を構文論言語として定式化することはできないことを示すつもりである(定理60c.1)。そこで二つ目の問いはネガティブに答えられるに違いない。他方、一つ目の問いは、S1はこの提案にあって、とりわけIIに現れない特定のタイプの変項pとfにおいて十分な手段を持っていると提示された肯定でもって答えられる。
 もし我々が言語II全体ではなく、単一の同心的な領域(88頁を見よ)を対象言語とするならば、我々の構文論言語にあって我々はIIの領域の外側へ行く必要はなくなる。概念『IIにおいて分析的』は構文論言語としてのIInそれ自体の何かしらのnのためには定義可能ではないが、より拡張的な領域IIn+m(ひょっとしたらつねにIIn+1において)においては常に可能である、ということは真である。そこで(様々なnのための)『IIにおいて分析的』という概念のうち一つのもののあらゆる定義と、IIの特定の文に関して『IIにおいて分析的』のあらゆる基準は、IIを構文論言語として定式化可能である」(p. 113)。
 要するにIIを概念『IIにおいて分析的』の定義のための構文論言語として用いて定義することはできないが、その部分言語IInに対してIIを構文論言語として用いて『IIにおいて分析的』を定義することはできるというわけ。
 次の段落では、(これは一例であるが)II1における1pの『IIにおいて分析的』の定義において含まれる「1p1のあらゆる値にとって」を記号言語(symbolic language)Sにおいてどう定式化するかの指針が述べられている。これを単に「Sにおいて定義可能なところの全ての構文論的属性にとって」に言い換えるのは不十分である。あらゆる言語にはそれ自体の中で定義できない数的属性、構文論的属性があるので、文「S1はII1において分析的である」は構文論言語Sの中では真(分析的)だとしても、より豊かな構文論言語S′においては偽(矛盾的)であること、つまりSにおいては定義できる構文論的属性がS′においては定義できない構文論的属性となることが起こりうる。
「したがって定義はSにおいて定義可能な構文論的属性に局限されるべきではなく、何であれ全ての構文論的属性へと言及すべきである。しかし我々はこのようにいてイデアのプラトン的絶対主義、つまり全ての属性の全体は非可算的であり、定義によって語り尽くされることはなく、それはそれ自身で自活していて、全ての構成と定義から独立であるという見解へと至るのであろうか? 我々の観点からは、この形而上学的見解――たとえばラムゼイによって維持されているようなもの――はきっぱりと排除される。属性はそれ自体で存在するのか否かだとか、属性は定義にとって創造されるものなのか否かといった形而上学的な問いと我々は全く無関係である。むしろ関わるのは以下のような問いである。『全ての属性にとって』(『構文論言語Sにおいて定義可能な全ての属性にとって』ではなく、『何であれ全ての属性にとって』として解釈されたし)は記号的構文論言語Sにおいて定式化できるのか? その定式化は肯定的に答えられるであろう」(p. 114)。
 なお、「我々はすでに言語Iの構文論をその言語自身の中で定式化した。同様に『言語IIの構文論はIIそれ自身の中で定式化でき』、言語IIにおいて不確定的な構文論的概念も定義できるので、より広い範囲でさえできる」(p. 130)とあるので、言語の構文論をその言語自身を使って定式化することと、その言語における分析性をその言語自身を使って定義することとは別のことであることを気に留めておくべき。

・言語の無矛盾性と証明できない文
 ある言語が無矛盾であることは、その内部では証明できない文が存在するということであり(そもそもある文が矛盾的であるということは、それからあらゆる文を導き出すことができるということである。§36の定理1も参照)、そのような文こそが分析的(定理6)でありながら証明不可能(定理2)であり、決定不可能(irresoluble)な文(定理4)である。
「定理7〔大まかで一般的に言えばIIにはその内部では証明できない文があること〕はIIの無矛盾性の証明は全く不可能であるということを意味しない。現に我々はすでにそういった証明を示してきた。その定理はむしろこの証明はIIよりも豊かな言語において定式化された構文論の資源によってのみ可能であるということを意味している。我々が以前に述べた証明は『(IIにおける)分析的』という語を非常に本質的に用いているが、この語は(後に見るように)言語IIにおいて定式化されたいかなる構文論でも定義されえない」(p. 133-134)。

・ラッセルのパラドクスをめぐるラッセルとフレーゲについてのカルナップの論評
 ラッセルのパラドクスに対し、ラッセル・フレーゲともに対応策を練り、前者はタイプ理論、後者は「全ての文関数の、それらの項の種類に基づいて編成されるレベルと種類への〔ラッセルのものと〕類似した分類」(p. 138)を行った。しかし、カルナップによれば、フレーゲはいくつかの過ちを犯した。
 その第一のものは全ての表現は真偽いずれかの値を持つとしたことであり、「このために彼は不適切な項が述語に帰属させられる表現を偽に数えることを強いられた」(p. 138)。つまり、「自身を成員としない集合」だとか「自身を述語づけることができない述語」など「不適切な項が述語に帰属させられる表現」を適法な表現として認めなければならなくなった。対し、ラッセルは真偽に加えて無意味という三つ組の分類を導入したため(カルナップによればラッセルがこの分類をした最初の人であるとのこと)、この分類ならばもはやそれら「不適切な項が述語に帰属させられる表現」は構文論にもとるものということで、体系内に構成されることはなくなる。つまり、パラドクスの元となる表現を、フレーゲはタイプと種類の分類のみで回避しようとしたが、ラッセルはそういった表現をタイプ理論と、真・偽・無意味の三分法という二重の対策でシャットアウトしようとしたというわけ。
「フレーゲは彼が実に正確に明瞭に構成した述語のタイプの分類を、述語に対応するクラスへと適用せず、その代わりにクラス――そして同様に多項の表現――を、問題になっているクラスを定義する文関数のレベルと種類からまったく独立な個体(対象)として単純に見なすという二つ目の過ちを犯した」(p. 138)。彼は、対象の名詞はそれ自体で意味を持っているが、関数の名詞は他の記号をあてはめることで完全な意味を持つようになると考えて対象の名詞と関数の名詞を区別していたため、彼は手続きを変えなかった。
 カルナップはさらに進んで「クラス」を使うのをやめてこれを「属性」に置き換えてしまえと主張し、ラッセルも両者の同一性について論じたが、ラッセルはそれを認めなかった「全ての問題は外延性の理論の問題と関連している」(p. 139)。つまり、クラスは外延に、属性は内包に対応していて、両者を同一と見なす(そして一方を他方に還元する)か、それとも別のものと見なすかということだろう。

・何があるのか
「ここ〔座標言語〕ではそれらの文〔無限公理と(∃x)(x=x)〕はそれぞれ、あらゆる地点においてそれにすぐに継起する地点が存在する、少なくとも一つの地点が存在するということを意味しているにすぎない。しかしそれらの地点に見られる対象が存在するかどうかは述べられていない。事情がそうであるのか否か〔何かしらの対象が存在するという、総合的な話〕は座標言語においては、一方では、問題になっている地点にfu0が通常の領域に属するような値を持つという事実によって、他方ではただ単にトリヴィアルに退化した値をそれらが持つという事実によって表現される。しかしこれは総合的な文によってではなく分析的な文によって述べられる。……それは対象の存在の問題ではなく(述語によって表現される)『属性なりクラスの存在』であるならば、それは〔総合的な問題とは〕全く別の問題である。(∃F)(F=F)(一つの属性(あるいはクラス)が存在する)と(∃F)(Leer(F))(空の属性(あるいはクラス)が存在する)のような文は空領域を含むあらゆる可能な領域〔状態記述なり可能世界のようなものか?〕において真である。それらは存在の説のない前述の体系において分析的で論理的に証明可能でもある」(p. 141)。
 つまり、ここで存在が述べられているのは座標であって、経験的なことがら、つまり対象云々ではない。

・指示子と指示された対象の区別
 指示子(designation)とこれによって指示された対象の区別(signifiantとsignifieの区別に相当しようか)をきちんと区別することをカルナップは力説する。それらが「パリという語」と「パリという都市」のような場合は分かりやすいが、それが「アラビア数字の3は数字である」のように、「文が表現に関わるならば、文の主語の位置を占めるのはこの表現の指示子であって−つまり構文論言語における構文論的指示子−表現それ自体ではない」(p. 154)(この文はまるごとイタリック体!)し、「この区別を疎かにすれば曖昧さや誤りがいとも簡単に引き起こされる」(p. 154)。

・indefiniteな語は無意味なのか
「非確定的な語の決定方法の欠如は多くの論理学者たちにそれらの語をまるごと、無意味であるとして排除させてきた(例えばポワンカレ、ブラウワー、ウィトゲンシュタイン、そしてカウフマン)」(p. 161)。しかしカルナップはある非確定的な語を使った文の真偽についての問いに対して、それに答えを探す方法はなくとも、答えを発見する形、つまり「答えが見つかったと我々が言うことができる条件」(ibid)は存在するとして、非確定的な語の決定方法の欠如は「その問題の排除の説得的な理由には見えない」(ibid)として反対する。
 並びにimpredicative(非可述的)(実質的話法では、それ自体が属する全体の助けを借りて定義されると、形式的話法では、a1が属するところの値の範囲にある変項を伴った無限定(unrestricted)な量化子がその定義において現れるところの記号a1(p. 163))な語は、全ての場合をテストし尽くさずとも、その文自体が証明できればresolubleであり、故に無意味ではない。
 むしろカルナップはindefinite、impredicativeな語の許容可能性(admissibility)についての問題は、「不確定(あるいは非可述的な)記号は許容可能であるか?」と組み立てられるべきではなく、「ここでの『許容できる』とはどのような意味であるのか?」、あるいは「特定の言語を我々はどのように構成するのか? この種の記号を我々は許容するつもりなのか? そして両者の手続きの帰結は何であるのか?」(p. 164)であり、とどのつまりは「言語形式の選択の問題」である。

構文論における不確定的な語(§45)
「もし我々が構文論の形式化における言語(例えば我々も形式的構成物における言語I)において確定的言語を使うならば、確定的な構文論的語のみが定義されることになる。変形の構文論のいくつかの重要な語は、しかしながら、(概して)不確定であり、例えば、『導出可能』、『証明可能』、そしてなおのこと『分析的』、『矛盾的』、『総合的』、『帰結』、『内容』もそうなる。もしそれらの語も導入したいと欲するならば、我々は(言語IIのように)不確定的な構文論言語を使うことになる」(p. 165-166)。

・P-規則を基礎文とするならば
L-規則とP-規則という「この区別が、基礎文と関係付けれるならば、論理的文と記述的文との区別に一致しなくなる。基礎文としてのSlは常にL-規則であるが、基礎文としてのSdはP-規則である必要がない」。基礎文S1を、記述的な述語Qを用いたQ(3)⊃(〜Q(3)⊃Q(5))とするならば、S1は形式的に真となってしまう。「この例は我々はAdの一般的な交換可能性をL-規則の確定的な特徴としなければならないということを明らかにする」(p. 180-181)。

・L-/P-言語は論理的/記述的言語とは別物
L-/P-言語:L-規則のみを含む。/そうではない。
論理的/記述的言語:al〔論理表現〕のみを含む。/そうではない。
「定理51.1. あらゆる論理的言語はL-言語である。逆は必ずしも真ではない。
 L-言語とP-言語の区別は論理的言語と記述的言語の区別と混同されるべきではない。後者は記号的器具〔symbolic apparatus〕に(とはいえ、正しくは、変形規則において現れる記号的器具の属性に)依存しており、前者は変形規則の種類に依存している。例えば、言語IとIIは記述的言語ではあるが(それらは未決定な、つまり総合的な文の出現によって示されるようにad〔記述的表現〕を含んでいる)、それらはL-言語である」。 記述的な表現が含まれていようとも帰結がL-規則のみに基づいているならば、L-言語であると言える。以下は上記引用の続き。
「それらにおけるあらゆる帰結関係はL-帰結であり、分析的文のみがそれらにおいては妥当である。似たように、SのL-部分言語とSの論理的部分言語との間の区別も明記されるべきである。例えば、Sが(IとIIのように)記述的なL-言語であるならば、SのL-部分言語はSそれ自体であるが、Sの論理的部分言語は本来的な部分言語である」(p. 181-182)。

・形式的に確定されるものとしての分析性の先駆者
「『分析的』と『矛盾的』という語は純粋に形式的なものであり、分析的な文は無内容であるという見解はWeyl [Kntinuum]pp.2, 10において提示された。彼は論理的に矛盾する判断は『その実質的な内容とは独立に、その論理的構造に基づいて真ではないと認められる』、『それらの形式的な(論理的な)構造(そして実質的内容を持たない)判断を我々は(論理的に)自明〔self-evident〕と呼ぶ』と述べている。後にウィトゲンシュタインは同様の見解を彼の哲学全体の基礎とした。……ウィトゲンシュタインは続ける。『そしてまた非論理的な文の真偽はその文単独からは認識され得ないということは重要な事実である』。この言明は、言語構造における規約的要素を残さないウィトゲンシュタインの完全主義的な言語についての考えを示し、それは正しくない」(p. 186)。ウィトゲンシュタインの影響ばかりが取りざたされるが、ウェイルという先駆者がいたようである。



簡易用語集
autonymous
「与えられた対象の名前が任意に選ばれるならば、その物、物自身をある名詞として、あるいは物の種類、この種類の物をある名詞として見なすことはまったく可能である。我々は、たとえば、『マッチ』という語の代わりに、マッチが常に紙の上に置かれるべきであるという規則を採用することができる。しかし、指示子それ自身として使われているのが言語外の対象よりも言語表現であることはしょっちゅうある。我々はこのように使われる表現をautonymousと呼ぶ。この場合、表現はいくつかの場所ではそれ自身の指示子として、他の場所では何か他のものの指示子として使われる……『我々はxの代わりにa+3を代用し、それはa+3が素数である場合にである』ここでは表現'a+3'は最初の場合はautonymousに、二つ目の場合は非autonymousに、つまり(実質的話法では)ある数の指示子として使われている」(p. 156)。ある表現がautonymousならばinverted commaで挟まれる。

bound/free
A2(S)という形の部分文をA1が持ち、A2が量化変項としてz1を持つ量化子である時、変項z1はA1の特定の部分に拘束されている(bound)と呼ばれる。たとえば、A2を∃x、Sをf(x, y)、z1をx、したがってA1が(∃x)f(x, y)である場合、xは特定の位置に拘束されている、となる。freeは変項z1が文の特定の位置に拘束されていない場合を指す。

demonstrable
「S1が前提の無連続(null series)から、ひいてはあらゆる文から導出可能な時、S1は証明可能と呼ばれる」(p. 28)。

definite/indefinite
「言語IとIIの記号が定義されない定項、あるいは無限定の量化子が現れる定義の鎖の定義された記号である時、我々はそれを確定的と、そうでなければ不確定的と呼ぶことにしよう。
 それの中に出てくる全ての定項が確定的であり、その中の全ての変項が限定的に〔limitedly〕拘束されている時、その表現は確定的と、そうでなければ不確定的と呼ばれる。
 全ての確定的な表現は閉じている。言語Iの表現の場合、『確定的』と『閉じている』という概念は同一であり、似たようにして『不確定』と『開いている』も同一である。Iにおいては全ての定項と全ての閉じた表現は確定的なので、我々はIを『確定的言語』と呼ぶ」(p. 45)。

記述的/論理的表現 (in General Syntax, §50)
K1を、言語Sの全ての表現のクラスKiの積とする。
Kiは以下の条件を満たす。
(1)「もしA1がKiに属するならば、A1は空ではなく、その全てがKiに属してそれらのうち一つがA1であるところの部分的な諸表現へと再分割できる文が存在する」。つまりA1が現れる文が存在する。
(2)「Kiの中の諸表現へと再分割できるあらゆる文は決定的〔determinate〕である」。つまり、分析的であるか、矛盾的である。「Kiの中の諸表現へと再分割できる」という文言は「Kiの中の諸表現”のみ”へと再分割できる」という意味であろうか?
(3)「Kiの諸表現は可能な限り小さい、つまり、Kiのいくつかの表現へと再分割できるような表現はKiに属さない」。つまりKiの中の表現は再分割できない、最小単位である。
(4)「Kiは可能な限り包括的である、つまり、(1)と(2)の両者を満たすようなクラスの部分クラスでは適当なもの〔a proper〕ではない」。
それがKiの諸表現へと再分割可能であるならば、その表現は論理的(Al)であり、そうでなければ記述的(Ad)である。言語は論理的表現alのみを含むならば論理的であり、そうでなければ記述的である。

d-method/c-method
「我々はそれ自身は不確定的であるにもかかわらず、確定的な規則に基づいた妥当性の基準を作り上げてきた。数学のために論理的基礎を造り上げようとする全ての現代の体系(たとえば、フレーゲ、ペアノ、ホワイトヘッドとラッセル、ヒルベルトその他の体系)で用いられてきたのはこの類の方法であった。我々はそれを『導出の方法』〔method of derivation〕ないし『d-方法』と示そう。それはすでに言語IIにおいて定式化されてきたような基礎文と推論規則の設定から成っている。……一時はそれはこの種の導出の方法の助けを借りて古典数学のための完全な妥当性の基準を構成することが可能だと考えられていた。つまりは、全ての妥当な数学的定理は特定の現存する体系においてすでに証明可能であり、隙間が発見されても、いずれにせよ将来的には体系はさらなる適当な基礎文と推論規則の追加を求められてある種の完全なものへと変形されることができると信じられていた。しかし今やゲーデルがそれ以前の全ての体系は一般的に全て不完全であることを示してしまった。導出の方法が規定したあらゆる豊かな体系において、体系内の記号から成るものであろうと、体系の方法に則って決定可能〔resoluble〕ではない−−つまりその中で証明可能でも反証可能でもないような文が構成されることができる」(p. 99-100)。
「我々の〔妥当の〕基準に完全性をもたらすため、したがって我々は基準それ自身のみならず演繹の個別的手順でも確定性を放棄せざるを得ない。……不確定的な個別的手順に依存し、それにおいては前提の数は確定的である必要がない演繹の方法を、我々は『帰結の方法』〔method of consequence〕ないし『c-方法』と呼ぶ。この種の方法の場合、我々は文ではなく、不確定でもあろう文の集合を扱う」(p. 100)。consequenceの導入は34fでなされる。
 c-termsはd-termsを拡張したものであり、ある文S1が「証明可能」ならばそれは「分析的」ということに、ある文S1がある文の集合から「導出可能」ならばK1の「帰結」ということになるが、逆は成り立たない(p. 124)。
 分析的だが、証明可能ではない文としては〜BewStazII(r,subst[...])」(rは文xの連続数(^SN^sentence x)の証明の連続・連続数(^SSN^proof)であるを意味しており、これの否定ということはつまり文xの証明は(その言語内には)ない、即ちxは証明不可能ということを示している)がある(詳しくは§36を参照)。正直よく理解できなかったので、理解したければ§35と36を読んでみること。

derivable
「Snが前提S1…Smがある導出の最後の文であるならば、SnはS1…Smから導出可能と呼ばれる」(p. 28)。

equipollent/symonymous
「それらの各々が他方の帰結である時、そしてその時のみ、二つの文は明白にequipollentである」(p. 42)。「A1に現れる各々の文S1が、A1をA2に置き換えた時にS1から生じる文S2に対してequipollentである時(例えば、ただ単に真理値が等しいということではない)、二つの表現A1とA2はsymonymousと呼ばれる」(p. 42)。「二つの対象-(あるいは数-)指示子〔designation〕A1とA2がsymonymousになるためには、A1=A2は真であるのみならず、分析的でもあるべきである」(p. 120)。このsymonymousはいわゆる「同じ意味を持つ」(p. 42)に相当する。

explicit/regressive definition
「明示的定義は一文から、逆行的定義は二文から成る。いずれの文もZ1=Z2、S1≡S2という形を持つであろう。表現Z1(あるいはS1)は被定義項〔definiendum〕と呼ばれ、定義される記号を含む。Z2(あるいはS2)は定義項〔definiens〕と呼ばれる。明示的定義においては、定義される記号は被定義項にしか現れず、他方で逆行的定義においては二つ目の文の定義項にも現れる」(p. 23)。『意味論序説』に見られるの例(p. 40)として意味論体系S3における文の回帰的定義を記す。「S3における表現AkがS3における文(S)である=df Akがつぎの形式のうちの一つを有する。a. pr(in); b. 〜(Si); c. (Si)∨(Sj)」。なおinは個体定項。

initial operator
S1においてそれ〔語頭量化子となる量化子〕の前に量化子が現れないか一つしか現れず、それ〔語頭量化子となる量化子〕の被量化項〔operand〕がS1の末尾に展開している時、S1の語頭量化子(initial operator)と呼ぶ(p. 104)。

K-operator
(Kx)Z1(S1)は、S1が真でZ(を含む)数以下の最も小さい数、あるいは0、を意味する。たとえば、Gr(a,b)が「aはbより大きい」の時、(Kx)9(Gr(x,7))は8を意味する。

open/closed
A1においてfreeな変項が出てくるならば、A1はopen、そうでなければclosed。

primitive sentencesとrules of inference
「技術的単純性のため、通例は推論規則の全体系は定式化されず、少数のもののみが定式化され、残りのものの代わりに証明可能な特定の文、いわゆる基礎文を定める。規則と基礎文の選択は、計算の定まった実質的解釈が前もってなされる時でさえ、たいがい恣意的である。……我々もまた推論規則(つまり『直接的に導出可能』の定義)を定めて基礎文は我々の対象言語のためと定めておく」(p. 29)。

reduction(§34b)
「還元により、IIのあらゆる文は或る(通常はより単純な)標準的な形へと一義的に変形される。還元の規則RR1-9は以下のように理解されるべきである。問題になっている何かしらの文へと、適用が可能なそれらの規則のうち最初のものが常に適用されるべきである。したがって、規則の順序は(とりわけRR9eの場合)考慮に入れられなければならない」(p. 102)。「ある文は、どの還元の規則も適用できない場合、『還元された』と呼ばれる。文S1への規則の適用は有限数の手順によって常に究極的な形、つまり還元された文へと導く。これを我々はS1のreductumと呼び、その構文論的な指示記号は^R^Sである」(p. 105)。reducta(p. 111に初出)はreductumの複数形。

sentential framework(Ag)/sententical function(Sfu)
Agの例: P(3,―)∨Q(―), Q(―)
Sfuの例:P(3,x)∨Q(x), Q(x)

substituton-places(置き換え場)
「A2においてV1が自由に現れる場所はA2におけるV1の『置き換え場』と呼ばれる」(p. 192)。

substituton-value(置き換え値)
「〔量化子〕Op1がOpV1であるとしよう。すると、Dp1と相関する基本的〔principal〕表現のクラスがあれば、我々はこれをOp1と関係を持つ〔変項〕V1の置き換え値と呼ぶ。このクラスはV1と同義〔synonymous〕ではない表現を少なくとも一つ含む」(p. 191)。例えば、a、b、cを要素とするクラスがあり、このクラスが∀x(f(x))の∀xと「相関する」(より具体的にはxと置き換え可能であるとか)とすれば、このクラスはxの置き換え値となるということか。

term-number/series-number
 項数(term-number)についての説明は以下の通り。「我々は'zei'の値を異なった記号(symbol-designs)と、部分的には恣意的に、部分的には或る規則に則って相関づけることにしよう。それらの値は記号の『項数』と呼ばれる。例えば、我々は項数15を同一性の記号と調和させる〔co-ordinate〕。これは、同一性の記号が場所aに現れるという事実を表現したい時に我々は(Id(a)の代わりに)'zei(a)=15'と書くということを意味する。……pは2以上の全ての素数に広がるとしよう。条件:zの項数はpということになり(つまり2以上の素数)、定義されたzzの項数はp^2になり(つまり2以上のいくつかの素数の二乗)、定義されないprの項数はp^3になり、定義されたprのそれはp^4、定義されないfuのそれはp^5(そしてとりわけ'zei'の項数は3^5、つまり243になる)、そして定義されたfuはp^6になる」(p. 55)。これ以外の記号の項数は以下の通り。
0(),=Kζπφ
4610121415182021222426303334
 要するに、多分、各々の記号に割り当てられた数のことであろう。「例えば、列3、15、4は'x=0'に対応する」(p. 56)。
 連続数(series-number)については以下の通り。「我々はそれによってあらゆる項数の連なりへと一つの規則を定め、一つの数−我々はそれを連なりの連続数と呼ぶ−が特別に相関関係を持つことになろう。このようにして我々はもはや数の連なりではなく、単一の数のみを扱うことになる。その規則は以下のように表現される。p^k1・p^k2・…・pn^knは、k1,k2,……knといったnの項数から成る連なりの連続数と見なされ、そこではpi(i=1からn)は大きさの順序においてi番目の素数となる。[例:3、15、4の連なり、そしてそれによる'x=0'は連続数2^3・3^15・5^4を持つ]」(p. 56)。
X=0
記号に固有の項数3154
順序に応じた素数235
この表現の連続数 2^3・3^15・5^4
 TNとSNはそれぞれ「term-number of」、「series-number of」の省略形で、記号の左肩につけ、^SN^S1という風に表現する。例えば、「^TN^negative symbol」は21となる。
 この「算術化」(arithmetization)が何の役に立つのかというと、それは以下の通り。「算術化の方法が採用されなければ、或る難点が構文論の正確な定式化において出現する。例えば、『S1は証明不可能である』という構文論的な文を考えてみる。これは『S1を最後の文とする文の連なりは証明ではない』ということを意味する。もし構文論が算術化されず、代わりに以前に主張したようにprv('Var'等)の助けによって構成されるとすれば、我々はそれを物理的対象の或る連なり、つまり書かれた記号の連なりについての理論として解釈するだろう。その種の構文論においては、表現すべきことは確実に可能であり、それは『S1には書かれた実際の証明が存在しない』ということだが、しかしS1の証明不可能性についての文はなおさら意味を持っている。つまり『S1の証明は〈可能〉でない』。算術化されていない構文論(物理的に解釈されるか否かとは関係ない)において可能性についてのそういった文を表現するためには、構文論は要素の可能な配列についての(経験的なものではなく分析的な)理論、つまり純粋な組み合わせの分析によって補われるべきであろう。しかしながら、それは非算術的形式のこの類の新しい組み合わせ的な分析を構成する代わりに、すでにそれ自身のうちに組み合わせ的な分析の全体(有限のものであろうと可算的なものであろうと要素の数であろうと)を含んでいる自然数の算術を用いることは遙かに単純であることを証明する。これが『構文論の算術化の最大の重要性』である。算術化された構文論においては、問題になっている文は以下のようになる。『S1が最後の文である証明の連続・連続数であるところの数は存在しない』。最後の数として与えられた連続数を持つ証明の連続・連続数であるものから成り立つ数の属性の算術的定義を組み立てることが可能であることを我々は見て取るだろう。とすれば我々の文は以下のような形を持つことになろう。『所定の算術的性質を持つ数は存在しない』。これは純粋に算術的な文である。算術化によって我々は、新しく複雑な補助的方法を使うことなく、(導出可能と証明可能といった)決定的な可能性に関わる構文論的概念を表現することさえ可能になる」(p. 57-58)。
 つまり算術化によって文S1のトークンに言及するのではなく、そしてトークンを越えて文のタイプそのもの(これはここでは連続数となる)の可能性如何について(複雑な道具立てを使わずに)表現することができる。証明や導出の可能・不可能という属性を、より単純に、扱うものを数だけに限定し、ある属性を持つ数の有無によって表現できる。
『S1の証明は〈可能〉でない』
「S1を最後の文とする文の連なりは証明ではない」

「S1が最後の文である証明の連続・連続数であるところの数は存在しない」

type
要するに項数のこと。「( )」は関数に対して適用され、type (t1:t2)なんかの「:」の左辺(関数の変数)と右辺はそれぞれ=で結ばれる左辺と右辺のtypeを示す。
typeが属す表現
type 0 ……数表現
type n ……n項をもつArg
type (t1) ……その変数がn項のPr
type (t1:t2)……Fu1(Arg1)=Arg2のFu1
type t2 ……Fu1(Arg1)
以下当該箇所の引用。「あらゆるZは(そしてひいてはzzも)type0に属す。n項のArgがtype t1,t2…tnを持つならば、我々はtype t1,t2…tnをそのArgに割り当てる。……もしArg1が文Pr1(Arg1)においてtype t1に属するならば、我々はtype(t1)をPr1に割り当てる。もし文Fu1(Arg1)=Arg2においてArg1がtype t1に、arg2がtype t2に属すならば、我々はtype (t1:t2)をFu1に、type t2を表現Fu1(Arg1)に割り当てる」(p. 85)。

resoluble/irresoluble
「S1が証明可能であるか反証可能である時、S1は決定可能と、そうでなければ決定不能と呼ばれる」(p. 94)。

・dc間の概念の対応(p. 101)
d-termsc-terms
derivableconsequence
demonstrableanalytic
refutablecontradictory
resolubleL-determinate
irresolublesynthetic

・メモにあたっての記号の代用の取り決め
ゴチック文字はラテン文字で代用。
右下の文字(たとえばn)はそのままPnと表記する。
右肩の文字(たとえばn)は~nによって代用させ、P~nと表記する。n+1のように二文字以上の場合は特に指示をしない限りは「n+1」がひとまとまりで右肩にあるものとする。 左肩の文字は^によって挟む。たとえば、1が左肩の文字だとすれば、^1^Pという風に表記する。



・略記記号
Arg 「Iにおける『n項の論理項』(Arg~n)の再帰的定義。Arg~1はZ、Arg~n+1はArg^n、Zという形を持つ」(p. 26)。
f 因数変数(fuctor variable)
Grgl 等しいあるいはより大きいの意(p. 59)。
Grgl(x,y)≡(∃u)x(x=sum(y,u))
xまでにおいて、yとuの和がxであるようなuが存在する。つまりx≧yを意味する。
N ゼロ等式(zero-equation)、つまり"0=0"
po, potpot(x,y)は「xのy乗」の意。poとpotは同義。
prod つまりは積。prod(2,3)=6。
reihe 「reihe(s)はsを唯一の項数とする連なりの連続数(2^s)で、reihe2(s,t)は項数がaとtである連なりの連続数(2^s・3t)」(p. 60)。
reihe(s)=pot(2,x)
reihe2(s,t)=prod(reihe(s),pot(3,t))
reihe3(s,t,u)=prod(reihe2(s,t),pot(5,u))
S+ nu(=0,zero symbol)あるいは一つ以上の|がついた0(ex. 0~|| =2)
sa 文記号(sentence symbol)
str(n) str(0)=reihe(4)
str(n|)=zus[str(n),reihe(14)]
reihe(4)は4を項数とする連続数2~4を指しているが、str(0)の'0'は項数4が対応する記号(なお、'|'の対応数は14)。つまり、str(n)のnは、連続数2^xにおいてxを項数とする(数とは限らない)記号を指し、str(n)はnの連続数を指す。
subst subst(x,s,y)=sb(anzfrei(s,x),x,s,y)
xが表現「A1;y,A2;s,z1」の連続数ならば、 subst(x,s,y)は表現
A1(z1
A2
)
の連続数である。
verkn 関数記号(function symbol)
Z 数表現(numerical expression)。(z)Z(S)のように量化子と関数との間に位置を取る場合、Zは「Zまで」(up to Z)という意味になる。だからたとえば、(x)5(Red(x))は「5までの全ての場所は赤い」となる(p. 27)。
z 数変項(numerical variable)
zus zus(x,y)は、xとyという二つの下位の連なりの連続数から合成される連なりの連続数(p. 61)。
zus3(x,y,z)=zus(zus(x,y),z)
zus4(z,y,z,u)=zus(zus3(x,y,z),u)
zz 数(numerical)
()(S1) 「v1、v2…vnが見かけ上S1における自由変項ならば、()(S1)は(v1)(v2)…(vn)(S1)という閉じた文を意味する」(p. 94)。




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