『世界の論理的構造』

Preface to the Second Edition
第一部 導入:この研究の対象と計画
 A章 対象
 B章 この研究の計画
第二部 予備的議論
 A章 科学的言明の形式
 B章 対象型とそれらの関係の概観
第三部 構成的体系の形式的問題
 A章 上昇形式
 B章 体系形式
 C章 基礎
 D章 基礎的形式
 E章 構成的体系の表現形式
第四部 構成的体系の概略
 A章 低次のレベル:自己心理的対象
 B章 中間のレベル:物理的対象
 C章 高次のレベル:他者心理的対象と文化的対象
第五部 構成理論に基づく哲学的諸問題の明晰化
 A章 本質についての諸問題
 B章 応用:他者心理的なものについての知識
 C章 実在についての構成的あるいは経験的問題
 D章 実在についての形而上学的問題
 E章 科学の狙いと限界

哲学における疑似問題
 I. 認識論の狙い
  A章 認識論的分析の意味
  B章 応用:他者心理的なものについての知識
 II. 知識の理論からの疑似問題の排除
  A章 意味の基準
  B章 実在論論争への応用

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Preface to the Second Edition
・合理的再構成の何たるか
「主要な問題は直接的に与えられたものを参照する概念を基礎として知識の全ての領域の概念の合理的再構成の可能性に関するものである。ここで合理的再構成によって意味されているものは古い概念に対する新しい定義の探求である。通常、古い概念はきちんと考えられた定式化の方法によって生まれたものではなく、だいたいのところ反省されず自然発生的な発展の産物である。新しい定義は明晰性と正確さにおいて古い定義を上回っており、何よりも、概念の体系的構造に適合することになるだろう。こういった今日では『解明』と頻繁に呼ばれるところの概念の明晰化は未だに哲学の最も重要な仕事の一つであり、とりわけ人間の思考の主たるカテゴリーに関するならばなおのことそうであるように私には見受けられる」(p. v)。

・定義をめぐるカルナップの考えの変化(p. viii-ix)
 当初、つまり『構築』の時点ではより高次の概念の低次の概念への還元は、「非定義項xは定義項yである」というような形の明示的定義の形でできるとカルナップは考えていたが、彼は後にその考えを放棄し、公準(postulate)、つまり「しかじかのものをなになにとする」(例えば「四つ足の生き物を哺乳類とする」)という概念を導入する方法の必要性を認めた。「物の概念の自己心理的概念への還元可能性についての実証主義的理論は妥当なままであるが、前者は後者によて定義されることが可能であるという主張は今では放棄され、物についての全ての言明は感覚与件についての言明へと翻訳されうるという主張もまた放棄された。類比的な考えは科学的概念の物概念への還元可能性についての物理主義的理論と他者心理的概念の物概念への還元可能性にも当てはまる。それらの変化は[Test.]〔「テスト可能性と意味」〕§15において説明された。その論文で私はいわゆる還元文を傾向の概念〔dispositional concepts〕にとりわけ適当な概念導入にあたってのより自由な形式を主張した。
 後に私は科学においてすでに、とりわけ理論物理学において用いられている方法、つまり理論的公準と対応規則による『理論的概念』の導入を考え、それらの概念の論理的、そして方法論的性格を研究した(cf. [Theor.]〔"Theoretische Begriffe der Wissenschaft; eine logische und methodologische Untersuchung"英訳はMinesota Studies in Philosophy, vol. 1にある〕)。対応規則が理論的概念を観察語と結びつける。したがって理論的概念は翻訳されるが、この翻訳は常に不完全なものである。ここでは理論的な語と明示的に定義された語のと間には本質的な違いがある。理論物理学と科学の進歩した他の分野の概念はこのようにすればもっともうまく把握される。目下のところ〔1961年〕私は同じことは科学的心理学や日常的な暮らしで出てくる他者心理学的対象を参照する全ての概念にも成り立つと考えるようになっている」(p. viii-ix)。

・外延の放棄
『構築』でカルナップは「全ての言明は外延的である」という理論に基づき、「外延の方法」(extensional methos)(§43-45)を用いていた。しかし後にこれを「あらゆる非外延的な言明は、それと論理的に等しい外延的な言語での言明に翻訳できる」(p. ix)という主張に弱め、このテーゼはこれまで知られている全ての非外延的な文に成り立ったが、証明はできず、推測としかいえなかった。そもそもの話として、「与えられた概念Aを概念Bによって再構成するにあたってBがAと同じ外延を持つというので十分な印象を受けるかもしれない。実はより強い要請がなされなければならず、AとBの外延の共通は偶然的なものではなく、必然的、つまり論理的規則ないし自然法則に基づいてそうでなければならない(私の論文[Goodman]も参照)。この条件はこの本では言及されていない。しかし、私の意図は同じ外延を持つことが(彼は通常の感覚を持ち、環境は『特に不都合』ではないと規定される)誰かしらの人に成り立ち、ここでは同じ外延を持つことは彼の観察の偶然的な選択と世界中での彼の放浪の過程とは独立しているという仕方で再構成を定式化することだった」(p. ix)。



第一部 導入:この研究の対象と計画
A章 対象 5
○基礎的用語その一
・構成的体系:「対象ないし概念の認識論的・論理的体系」(p. 5)。
・還元と構成:「ある対象についての全ての言明が他の対象についての文に変形されうるならば、その対象(ないし概念)は一つないしそれ以上の他の対象に『還元可能』と言われる」(p. 6)。構成は還元の逆の手続きで、「aをbとcに還元する」はそれを逆転させれば、「bとcからaを構成する」となる。この二つの手続きは「個別の場合についていかにしてaについての言明がb、cについての言明を生成するために変形されるべきかを示す一般規則を生み出すことを意味している。この翻訳の規則を我々は『構成規則』ないし『構成的定義』と呼ぶ」(p. 6)。
・公理化:「ある理論がその中の全ての文が公理によって形成された基礎を持つ演繹的体系の形で整えられ、その基礎が基本的概念によって形成される構成的体系の形で理論内の全ての概念が整えられる時、その理論は『公理化されている』〔axiomatized〕」(p. 7)。

・知識の間主観性
「全ての知識の主観的起源が経験の内容とそれらの繋がりにあったとしても、構成的体系が示すように、概念的に把握されることができて全ての観察者にとって同一な間主観的で客観的世界へと進むことは可能である」(p. 7)。

・全体と複合物の違い
「例えば『状態』という対象は心理学的過程からこの構成的体系で構成されるべきであるが、決して心理学的過程の合計として考えられるべきではない。我々は『全体』と『論理的複合物』〔logical complex〕とを区別すべきである。全体は要素から成り、要素が全体の部分である。独立した論理的複合物は要素とはこのような関係を持たず、むしろ論理的複合物についての全ての文がそれの要素についての文へと変形されうるという事実として特徴付けられる。
例。対象の斉一性と、異なった構成物の複数性の類比が総合的幾何学〔synthetic geometry〕において見受けられる。総合的幾何学は点、直線、面及びそれらの要素から始まり、高次の構成物はそれらの要素の複合物として構成される」(p. 9)。

・概念と対象
 概念と対象は同じものであり、「話の二つの異なった解釈の仕方」(p. 10)である。「概念と対象を扱い、なおも同じ物について述べているそれら二つの平行的な言語は実際に実在論の言語と観念論の言語である。新カント主義のマールブルク学派な教えるように対象を『創造する』と考えるのか、それとも実在論が主張するようにそれらは『ただ単に把握される』と考えるのか? 構成理論は中立的な言語を使って対象は『創造される』のでも『把握される』のでもなく、『構成される』とする。私は『構成する』とはつねに完全に中立的な意味で意味されるという文句をはじめから強調したい。構成理論の観点からすれば『創造』と『把握』の論争は不毛な言語についての論争である」(p. 10)。
 構文論でも試みられていたような、カルナップの中立的言語に基づいた哲学的論争の解消というライトモチーフ。


B章 この研究の計画 11
○基礎的用語、その二
対象形式(object form):「構成された対象の対象形式によって意味されるものは、基礎的対象から構成された対象へと導く構成的段階の連なりである」(p. 12)。
体系形式(system form):「『体系形式』によって意味されるものは、全体としての体系の形式であり、つまり体系の中の様々な段階での配列とそれらの段階によって構成され対象の配列である。様々な論理的そして事実的に可能な体系形式から、我々は対象の他のものへの認識論的関係を最も良く表現する一つを選ぶだろう」(p. 12)。

・体系がそれによって構成される四つの言語
1. 「体系の適当な言語であるところの記号論理学の言語」(p. 13)。
2. 1の「語言語(word language)での構成的定義の意訳」(p. 13)。
3. 「実在論言語における出来事の状態を指し示す言明への各々の定義の変形」(p. 13)。
4. 「直観への助けとして役立つあるフィクションに基づいた操作規則への各々の定義の変形(『虚構的な構成的操作の言語』)」(p. 13)。

・統一科学の萌芽
「構成的体系の可能性の帰結:全ての概念は一つの構造の要素であり、ただ一つ科学のみが存在する」(p. 15)。



第二部 予備的議論
A章 科学的言明の形式 19
基本テーゼ:「科学は対象の構造的属性の定義のみを取り扱うものである」(p. 19)。

・対象記述の二つのタイプ
属性記述:「与えられた領域の個別の対象が持つ属性を指し示す」(p. 19)。
関係記述:「個別のものとしての対象についての主張をするのではなく、それらの対象の間に成り立つ関係を指し示す」(p. 19)。構成的体系の始点となる記述であり、統一科学の基礎となる。それぞれの科学の理論のゴールは純粋な関係記述になることである(p. 19)。

・構造記述の何たるか
「関係記述とは異なり、それら〔構造記述〕には、言及されていない範囲の個々の要素の属性は残っておらず、添え等の要素間に成り立つ関係そのものすら述べない。構造記述では、たとえば形式的属性の全体のいったような、関係の構造のみが指し示される。……関係の形式的属性によって我々はその間でそれが成り立つところの関係と対象の型の意味を参照することなく定式化あれうるようなものを意味している。関係の形式的属性は記号論理学の記号、例えば記号論理学の基礎をなす数少ない基本的な記号の助けによって独占的に定義されることができる」(p. 21)。
 カルナップの挙げる形式的属性の例の一部。ある関係がその逆のものと同一のものとされるならば、対照的(例えば同時性)、そうでなければ非対照的(兄弟)、非対照性のなかでも逆が成り立たないものは反対象的(親子)となる。ある関係がその場面において同じことの場合に成り立つならば、反射的(同時性)、そうでなければ非反射的(教師)、対象間の同一性が成り立たないならば、反反射的と呼ばれる(父)。その関係が一つのものだけでなく次のメンバーにも成り立つならば、推移的と呼ばれ(祖先)、そうでなければ非推移的(友人)、非推移的関係が次のメンバーにも成り立たないならば、それは反推移的(父)と呼ばれる。

・関係記述と構造記述
 個々の対象の属性の記述は関係記述に解消されることができるが、構造記述はより高レベルの形式化と非物体化がなされているので、関係記述は構造記述に解消することはできない。例えば、矢印図で、両側へと矢尻が延びる対照的な関係の構造が与えられたとして、この構造だけではこの関係が表現しているのが、見知りの関係の下にある人なのか、それとも電話の直通の関係下にある町なのか等々、確定できない。

・数学のみならず経験科学もまた構造記述である
「したがって我々のテーゼ、即ち科学的言明は構造的属性のみに関わり、科学的言明は要素とそれらの形式の関係の何たるかを述べないという主張になる。余談ながら、これは逆説的な主張に見える。ホワイトヘッドとラッセルは記号論理学から数学の理論を導出することで、数学(つまり算術と解析学だけでなく、幾何学も)が構造言明のみに関わるという厳密な証明を行った。しかしながら、経験科学は全く異なった種類の者であるように見える。経験科学では〔ある言明が〕人や村について語るものであるかどうかを知らなければならない。このことは決定的な点である。『経験科学は様々な存在者を区別する立ち位置にいるに違いない』。まずもって、ほとんどこれは他の存在者を利用する確定記述を通して行われている。しかし究極的には確定記述は構造記述のみの助けによって実行される。我々は後にこの議論を詳述するつもりである」(p. 23)。

・科学的言明は構造記述で表現可能
 (距離によって特定できないように)歪んだ線路の地図と町の名前の一覧のみから、交差点を手がかりとして個々の町を特定できるという、地図の例を受け、与えられた領域内の諸関係の構造についての記述のみに基づき、個々の対象の確定記述を与えることができることが示された。そこから以下のような結果が得られる。「純粋な構造言明による確定記述は科学的差別がそれが完全に可能であるのと同じ程度に一般的に〔科学的差別の表現が〕可能である。そのような記述がうまくいかないのは、科学的方法によってそれらの対象が全く区別できない場合においてのみである」(p. 27)。そして、経験科学との関係では以下のように言える。「構造的確定記述の方法により、一意的な記号を経験的対象に割り当て、それらを概念的分析の遡上に上げることができるようになる」(p. 27-28)。さらに踏み込んだ、そして明確な言い方では「各々の科学的言明は原則的に科学的な各々の構造言明に変形可能であり、ひいては科学的な各々の構造言明である」(p. 29)。

・陰伏的定義について
 公理により、しかじかのものをこれこれのものとするという陰伏的定義は準類に論理的な手続きを通して行われるものであり、そこで定義されているのは対象や概念ではなく、それらのクラス、ないしは「不確定な対象」(indefinite object)、「非本来的な概念」(improper concept)である(p. 28)。
 他方、構造的確定記述は、(1)経験的で論理の外にある領域のただ一つの対象を特徴付け、(2)その記述が妥当であるためにはただ整合的であるだけではなく、少なくとも、そしてせいぜい一つのそういった対象が存在するという要請を満たさなければならず、(3)そしてそういった言明は必ずしも分析的(「定義する言明から演繹できる」)ではなく、総合的な場合もあるといった点において陰伏的定義と相違する。


B章 対象型とそれらの関係の概観 31
・用語の説明
表現関係(expression relation):人の「内部で起こっていること」は声、表情、身振りなどを通して理解され、前者のような心理的過程は後者のような物理的過程から引き出される。この両者の関係が表現関係である(p. 33)。後者が前者を表現するということであろう。
指示関係(designation relation):「この関係は例えば「ローマ」という記号とローマという都市のように、指示する物理的対象と、それらが指示するものとの間に成り立つ。
この二つの関係は別物であるが、話された言葉と心理的内容の場合のように、同時に成り立つこともある。

・心身の関係
相関問題:「対象の対の間にはどんな関係が成り立っているのか? より性格には、問題の関係の相関性の一般的法則とはどのようなものなのか?」(p. 34)
本質問題と本質的関係:その相互関係に繋がりをもたらしているのは何なのか、という問題。「この問いは関係する対象の公正を尋ねているのではなく、関係そのものの『本質』を尋ねている」(p. 35)。本質的関係は、ただ要素が相互関係を持っているだけの関係ではなく、関係の要素が本質的に、あるいは実在的に、現実的に繋がっているような関係のこと(p. 35)。
前者は科学の、後者は形而上学の領域である。心理的プロセスと物理的プロセスの間の関係に関する答えとしての相互影響仮説(hypothesis of mutual influence)、平行論(parallelism)、同一論(identity theory)は心身の本質問題に係わり、「不合理な道に立ち止まっている」(p. 38)。これに対し、「ひとたび対象の構成的形式と対象型が分かって構成的体系でのそれらの論理的位置が知られ、さらに上記の関係のうち一つのものの相関問題が解決されれば、その関係について述べることができるあらゆる(合理的)科学を我々は見つけたことだろう」(p. 38-39)。外延主義っぽい。

・文化的対象
 文化的対象は物理的・心理的対象とは異なった自立的型である。「文化的対象は主観的な領域であり、それを「もたらす者」(bearer)は常にある集団の中の人であるという点では心理的対象と共通点を持っている。しかし心理的対象とは対照的にもたらす人が変わり、もたらす主体が滅んで他のものが取って代わろうとも、状態ないし習慣は持続する。さらに、文化的対象は心理的(それに劣らず物理的)対象から構成されてはいない。それらは完全に異なった対象型であり、文化的対象は物理的そして心理的対象ではなく(後に29節で説明される意味において)他の対象領域に属している」(p. 39)。
 構成的理論での文化的対象の扱い。「知識の対象の全領域の統一性の主張は一つにして同一の基礎を始点とした全ての対象の導出(構成)を指しており、様々な対象の領域は異なった構成的レベルと形式があるということとは別のことを意味している」(p. 39-40)。また、心理的・物理的な対象の場合と同じように、文化科学は個別科学の一つであって文化的対象の関係問題を問い、その本質問題は心理学の領分となる(p. 41)。

・文化的対象とその他の対象の関係のうちで重要なもの
明示関係(manifestation relation):「ある時間の間に存在する文化的対象はこの期間の間の全ての時点において現実的〔actual〕(つまり明示されている)ではない。その中でそれ〔文化的対象が〕現れるないし「明示する」ところの心理的過程を、我々はその(心理的)明示と呼ぼう。文化的対象の(心理的)明示の、対象それ自体への関係を、我々は明示関係(より正確には心理的・文化的ないし、より簡潔には心理的明示関係)と呼ぼう」(p. 40)。例えば、ある人が帽子を上げる決定(心理的過程)と帽子を上げる習慣(文化的対象)を明示しているといえる。
文書化(documentations)「我々はその中で文化的生がいわば固定化される永続的な物理的対象を文化的対象の文書化と呼ぶ。それは文化の産物、物化、文書化である」(p. 40)。例えば、建築物、絵画、像などはある芸術様式の文書化である。

・文化科学の仕事
「文化科学の仕事は明示と文書化の関係の相関性の問題を扱うことである。それらの科学はここの文化的対象があからさまになって自らを明示する(物理的ないし心理的な意味の)行動がどのようなものなのかを確かめるべきである。それらの仕方において文化科学は、いわば、文化的対象の全ての名前の定義を形成するのである」(p. 41)。

・自立的対象型、対象領域
ある対象型が「自立的」であるとは異なった「対象領域」に属するということである(p. 41)。



第三部 構成的体系の形式的問題
A章 上昇形式 47
・構成体系の構築において出会う四つの問題
(1)基礎の問題:「一つの基礎が選ばれるべきであり、他の全てのものがその上にある最も低いレベルが見つけられる」(p. 47)。
(2)上昇形式の問題:「我々はそれを通して我々が一つのレベルから次のレベルへと上昇するところの繰り返し起こる形式を決定しなければならない」(p. 47)。
(3)対象型の問題:「我々は様々な方の対象がいかにして上昇形式の適用の繰り返しによって構成されるのかを調べなければならない」(p. 47)。
(4)体系の問題:「四つ目の問題は対象が他の階層に分かれた配列から結果するものとしての体系全体の形式に関わる」(p. 47)。
 これらの問題は互いに複雑に結びついている。

・疑似対象
 記号は独立した意味を持つものと他の記号とのつながりにおいてのみ意味を持つものとがある。前者は命題を指示する記号、即ち文であり、後者はそれ自身が文ではなく、記号、文の中に文の部分として出てくる記号、即ち固有名である。固有名ではない(と同時に文でもない)記号は「不完全記号」(incomplete symbols)と呼ばれる。
 不完全記号はあたかも固有名のように「非本来的な用法」で使われており、その指示対象は「犬」(a dog, dogs)のようないわゆる「一般的対象」であるが、実のところはフィクションである。このフィクションの利用は有用性の故に行われている。このフィクション、即ち不完全記号が示すのは疑似対象(quasi object)である(p. 48-49)。例えば、クラスは不完全記号の一つであるが、
 例。「ファイドーは犬である」は独立した意味を持った文であり、「…は犬である」は不完全記号であり、…の部分には固有名(ファイドー)が入る。他方、「犬はほ乳類である」は「犬」という不完全記号について述べており、これが示すのは疑似対象である。
「「犬⊂哺乳類」という〔疑似対象が現れる〕文の形式は、対象の記号を含んでおらず、クラスの記号しか含んでいないために、主語の位置に固有名のみが現れる文、つまり変項xがある上記の文へとへ変形できるという事実によってのみ正当化されうる」(p. 50)。

・命題関数
 一つの項の場所のみを持つ命題関数は「性質」ないし「性質概念」(property concept)と呼ばれ、この関数を満たす全ての対象は性質を「持つ」(have)ないしその(性質)概念の「下にある」(fall under)と呼ばれる。二つ以上の項の場所を持つ命題関数は「関係」ないし「関係概念」(relation concept)と呼ばれ、この関数を満たす二対ないし三つ組等々についてその関係は「それらに成り立つ」(hold for them)ないし、それらの間に「得る」(obtain)、あるいは対象は互いに「この関係にある」(stand in this relation)と呼ばれる。

同種性
対象の同種性:「その二つの対象の名詞が許容可能な項であるような何らかの命題関数に項の場所があるならば、二つの対象(そしてこれは疑似対象も含む)は同種(isogenous)と呼ばれる。……二つの対象が同種でなければ、それらは異種(allogenous)と称される」(p. 51)。
クラスの同種性:「対象の領域によって我々は与えられた対象と同種であるような全ての対象のクラスを意味する。(同種性は推移的で、対象領域は相互排除的である。)与えられた対象型のあらゆる対象がもう一つの対象型のあらゆる対象と同種であるならば、我々はそれらの対象型自体が『同種』と呼ぶ。それ相応に、我々は『異種』な対象型についても語る」(p. 52)。

・純粋な対象型と不純なそれ
「その全ての対象が互いに同種であるならば、我々はその対象型を純粋(pure)であると呼ぶ。他の全ての方は不純(impure)である」p. 52)。

・語の曖昧さのパターン
「もし我々が二つの対象が同種であるか否かを調べたいと思えば、そしてそれらの対象についての言明が語言語で表現されているならば、我々は究極的には、語の連なりが有意味な文であるのか否かを確かめるべきである。このテストはしばしば言語の曖昧さの特別な種類のために全くもって錯雑としたものになる」(p. 52)。
 その曖昧さのパターンは三つある。一つ目のパターンは日常生活で出会うものであり、「コック」や「春」といった語の曖昧さであり、二つ目のものは科学や哲学に関わっているときに遭遇するものであり、「表象」、「価値」、「客観」、「イデア」などの語についてのものである。
 三つ目のものこそここで重要なものであり、「領域の混乱」(confusion of sheres)である。たとえば、「感謝している」(thankful)という語は文字通りの意味ならば曖昧なところがない。「しかし、我々は彼が感謝しているところの人物について述べる〔これが文字通りの意味〕だけでなく、彼の正確、外見、文章、人々についても述べる。これら五つの対象はいずれも別の領域に属している。このことは異なった領域そのものに属する対象の性質は別の領域に属するというタイプ理論から帰結する。したがって「感謝している」には五つの概念があり、それらは異なった領域に属しており、矛盾を導く混乱が生じる。しかし一般的に言って、正確にはそれらの対象が異なった領域にあるという事実は五つの概念が意味するものの誤解から我々を避けさせているため、我々が不当な混乱を引き出すような危険はない。……この曖昧さは概念間のよりきちんとした区別、すなわち認識論的ないし形而上学的な問題にとって重要であるような区別がなされる場合にのみなされるべきである場合にのみ特記されるべきである。異なった領域の概念間の区別の無視を、我々は『領域の混乱』と呼ぶ」(p. 53)。いわゆるカテゴリー・ミステイクみたいなもの?

・タイプ理論の拡大適用
「しかしラッセルはこの理論を形式的・論理的構造のみに適用し、具体的概念の体系(より正確には、変項と論理定項のみにであって、非論理的定〔nonlogical〕項)には適用しなかった。我々の対象領域は超論理的〔extralogical〕概念に適用されるラッセルの『タイプ』である。したがって様々な対象の間に区別をもうけて先ほどの例で『感謝している』の五つの概念があると主張することの正当化はタイプ理論から導き出され、たとえそれらの例が語言語の形で与えられているためにそう説得的には思えなかったとしてもである」(p. 53-54)。

・同種性のテストの例
 石と同種な対象を調べたいならば、「その石は赤い」、「その石は5キログラムである」、「その石はスイスにある」といった石についての有意味な文(真偽は問わない)の「石」の箇所にその調べたい対象を代入して有意味であるかどうかを調べればよい。例えば、石(the stone、これはdefiniteでparticular)とアルミニウム(aluminium、冠詞がついていないことに注意)が同種であるかを調べたいとすれば、一見してそれらは同種のように見えるし、「その石は硬い」や「その石は赤い」といった文は(前者は真で後者は偽ではあるものの)アルミニウムの場合にも有意味だが、「その石はスイスにある」は無意味である。そのため、石とアルミニウムは異なった領域にあることになる。「このことは問題のより詳細な検討と、もの〔a thing〕と関係を持つ『赤い』と『硬い』といった性質は物質〔substance〕と関係を持つ『赤い』と『硬い』といった性質と同じものではないという認識へと導く」(p. 55)。

○外延に関する諸概念
・完全に含意している(universally imply):「二つの命題関数が互いに、最初のものを満たすあらゆる対象(もしくは二対、三つ組等々)が二つ目の命題関数も満たすのであれば、我々は最初のものは二つ目のものを完全に含意していると言う」(p. 56)。例えば、「……は人間である」は「……は動物である」を完全に含意していると言えようか。
・共外延的(coextensive):二つの命題関数が互いを完全に含意しているならば、それは共外延的といい、それらは同じ項(argument)で満たされる。
・外延的手続き(extensional procedure):「もし我々が共外延的な命題関数に同じ記号を割り当ててその時からその新しい記号だけを使うならば、共外延的な命題関数の間のそれ以外の全ての差異は無視され、それらが一致する要素だけを表現することになる。このような手続きを我々は外延的手続きと呼ぶ」(p. 56)。
外延記号(extension symbol):(ある命題関数と)共外延的な全ての命題関数にとって同じ記号。外延記号は独立した意味を持つ記号ではなく、有用性の故にあたかも対象―この疑似対象こそ「外延」である―を指し示しているかのように使われる不完全記号である。外延記号を含む文が外延記号を含まない文に変形できる場合にのみ用いられ、外延記号の場所には共外延的な命題関数のうちの一つが代入されうる(おそらくクラスと固有名の関係と類比的に考えられよう)。
 外延記号のうち、「⊂」は二つの外延記号の間に現れる時、それらの外延記号に対応する命題関数の間に完全含意が成り立つことを示す。「a⊂b」は「(外延であるところの)aは(同じく外延である)bに含まれている」の意である。この関係は「包含」(inclusion)ないし「包括」(subsumption)と呼ぶ。
 さらに、「外延の記号」(symbol for extension)として、x^y^(...x...y)(エディタの都合で表現できなかったが、x^の^は本来ならxの真上に来る)が導入され、カッコで囲まれた記号は命題関数を、x^とy^は変項を指す(p. 57)。(正直言って説明が簡素すぎていまいち分からない)

・クラスについてあれこれ
「クラス」の導入:「一つだけの項の場所を持った命題関数の外延、つまり性質の外延はクラスと呼ばれる。したがって共外延的な性質は同じクラスを持つことになる。与えられた命題関数を満たす対象oは対応する、aと呼ばれるクラスの要素〔element〕と呼ばれる。(記号ではo∈a);oはクラスaに『属する』(『含まれる』ではない!)。もしクラスaがクラスbに包含されるならば(前述の包括の意味で)、aはbのサブクラスと呼ばれる(記号:a⊂b)」(p. 57)。
用語。二つのクラスの交差(intersection:a∩b)にはaとbの両方の要素であるところの全ての対象が属する。連合(union)には、二つのクラスのいずれか一つの要素であるところの対象が属する。
 クラスは疑似対象であり、独立した意味を持たない。一つ一つ枚挙することなく与えられた命題関数を満たす対象についての文を作るのに役立つのみである。「したがってクラスの記号は、いわば、それらの対象、即ちそのクラスの要素が共通に持つものを表現している」(p. 57)。
 クラスは全体にあらず。「我々は、クラスはそれらの要素と関係を持つところの疑似対象であり、〔クラスと要素は〕異なった領域に属するという事実を強調しなければならない。クラスはしばしばクラスの要素がそれを構成するところの全体〔whole〕と混合されることがあるためにこのことは重要である。しかし、全体はその部分と関係を持つ疑似対象ではなく、それらの部分と同種である。我々はクラスと全体の違いについて、そして要素はクラスとは異なった領域にあるという事実について後により徹底的に議論するつもりである(§37)」(p. 58)。

○関係外延の用語
・関係外延(relation extension):「いくつかの項の場所を持つ命題関数の外延は関係外延と呼ばれる」(p. 59)。
・秩序を持った対(ordered pair):「与えられた命題関数、ひいてはそれと共外延的な全ての命題関数を満たす対象x、yの対(三つ組、四つ組等々にも同様に成り立つ)は、命題関数に対応する関係外延(xQy、ここではQは関係外延を指す)の秩序を持った対(もしくは三つ組等々)と呼ばれる」(p. 59)。
・範囲(domain)と逆範囲(converse domain):「関係外延Qの可能な指示項〔referents〕のクラスはQの『範囲』と呼ばれる(記号ではD`Q)。関係項〔relatum/relata〕の可能なクラスは『逆範囲』と呼ばれる(cD`Q〔cDの記号は本では逆さにしたDだったが、表現できないためにcDで代用する〕)」(p. 59)。例えば、「xはyより大きい」という命題関数の場合、x(referents)の可能な指示対象がこの命題関数の関係外延の範囲であり、yのそれが逆範囲になる。
・同類(homogeneous):「範囲と反範囲が互いに同種であるならば、その関係外延は同類と呼ばれる」(p. 60)。
・フィールド(field):同類の関係外延において、範囲と反範囲の連合があれば、それはQのフィールド(C`Q)と呼ばれる。(sphereとの重複を避けるためにfieldはそのまま記す)
・逆(converse):「全てのQの対に双方向で成り立つ関係外延はQの逆(Q^〔エディタの表現能力の限界故の記号表現。正しい表記は60ページを参照〕)と呼ばれる。つまり、xQyに対するyQxのこと。
・関係積(relation product):「aPbとbQcが成り立つならば、aとcに対する関係外延が存在し、これはPとQの関係積(P|Q)と呼ばれる」(p. 60)。記号論理での表記ならばaPb∧bQc、これの外延ということか。
・関係の累乗(powers of relations):R^2はR|Rを、R^3はR^2|R(以下同様)を意味する。Rp0は累乗の連合(union of the powers)(つまり(R|R)∪(R|R)のこと)、R^0はRのフィールドの同一のもの(identity in the field of R)を意味する。(正直このくだりはよく分からない)
・一対多/多対一/一対一(one-many/many-one/one-one):「関係外延は、各々の関係項に対して一つだけの指示項があるならば、一対多と呼ばれ、各々の指示項に対して一つだけの関係項があるなば、多対一と呼ばれる。両方の条件が満たされるならば、一対一と呼ばれる」(p. 60)。
・相関物(correlator):「二つの関係外延PとQそれぞれの要素の間に一対一対応が成立し、ひいてはPの各々の対にQの対が対応し、逆もまた然りであるならば、関係外延Rは二つの関係外延PとQの間の相関物と呼ばれる」(p. 60)。
・同型(isomorphic):「このような相関物がふたの関係外延PとQに対して存在するならば、PとQは同型ないし同構造〔same structure〕と呼ばれる。これは我々の矢印図の助けを借りた構造的同等性の前述の図形的定義に対応する。今や我々は関係外延Pの構造ないし関係数の正確な定義を与えられるようになった。それはPと同型である関係外延のクラスである」(p. 60)。

・還元
還元の定義:「その書かれた表現で超論理的〔exlogical〕な記号として“a”、“b”…のみが現れ、論理定項(§107)と一般的変項もまた現れるならば、命題や命題関数はa、bの対象…について排他的である〔exclusively about objects a, b...〕。対象a、b、c…(ここではb、c、……はないだろう)について排他的である各々の命題関数についてb、c、……について排他的な共外延的な命題関数が存在するならば、aはb、c、……に『還元可能』であると言われる。したがって我々は、『ある対象は、それについての全ての文が他の対象のみについて語る文へと翻訳できるならば、他の対象へと“還元可能”である』というより簡潔だが正確さでは劣る言い方もできる」(p. 60)。例えば、「xは素数である」は「xは余りが1であるかx自体のみであるような自然数である」と共外延的であり、素数という対象は自然数、1、余りへと還元できることになる。

・複合物と全体
「ある対象が他のものに論理的に還元可能であるならば、我々はそれを論理的複合物、あるいは手短に言えばその要素と呼ぶところの他の対象の複合物と呼ぶ。上述のこと(§§33、34)に従えば、クラスと関係外延は複合物の例である。
 ある対象が他の対象に対して延長的仲介物、すなわち空間や時間、に関係を持つ部分であるような関係を持つならば、我々は最初の対象を延長的全体、あるいは手短に言えば他の対象の全体と呼ぶ。全体は部分から成る」(p. 62)。
「構成的体系の全ての対象は体系の基礎的対象の複合物である」(p. 62)。

・クラスは要素から構成されていない
「『犬』という全体の部分としての器官や細胞や原子を思い描くことができる。他方、その犬の器官のクラス、細胞のクラス、原子のクラスは三つの異なったクラスであり、互いに異なった要素を持つ。それらのクラスは異なった根本物であり、ひいては同一ではない。それら全ての異なったクラスは犬であるところの全体に対応している。それらのクラスは互いに同一ではないため、犬であるところの全体と同一でもない」(p. 63-64)。一つの全体には様々なクラスが対応するが、各々のクラスはせいぜい一つの全体に対応するだけである。「クラスは全体が部分から成るような仕方で要素から成っているわけではない。クラスはその要素と関係を持つところの疑似対象である」(p. 63)。
 全体は部分と同種だが、クラスは要素とは異なった領域にある。煉瓦のクラスと煉瓦の全体としての壁の違いを例に取るならば、「xは焼いた粘土である」や「xは長方形である」、「xは一色である」、「xは(空間的に)小さい」などの項xは真偽は別として煉瓦と壁のいずれでも満たされるが、煉瓦のクラスによっては満たされない。「xは基数100である」や「xは一般的な煉瓦のクラスのサブクラスである」の場合、事情は逆である(p. 64-65)。

・使用による定義
構成、つまり定義の仕方には明示的定義と「使用による定義」(definition in use)の二つがある。後者は以下のようなもの。「したがって我々はその中に新しい対象の名前が現れるような文の形式への変形操作を一般的に決定するような翻訳規則を持つべきである。明示的定義とは対照的に、新しい記号のこのような導入は、新しい記号そのものー全く、それ自体で意味を持たないようなものーではなく、完全文におけるその用法のみを説明するために使用による定義(definitio in usu)と呼ばれる」(p. 66)。明示的定義で構成される対象はそれを用いてその対象が構成されるところの前の対象と同種であり、「したがって新しい構成的レベルへの上昇は常に使用による定義によってなされる」(p. 67)。
「同じ意味を持つ」(same meaning)は共外延的であることを意味する。「したがって、新しい記号の助けによって表現される命題関数は、単一で、決定的な、以前に導入された命題関数fと関わりを持たないが、fと共外延的な全ての命題関数とは関わりを持つ。言い換えれば新しい命題関数はfの外延と関わりを持っている。したがって我々は新しい命題関数を純粋に外延的に解釈できる。我々は新しい記号を外延的記号として導入する」(p. 67)。

・構成的レベル
「もし何らかの種類の構成的体系において我々が基礎的な対象の何らかの集合から進んで何らかの順序でクラスと関係の構成を適用することで、さらなる対象領域の一歩一歩の構成を行えば、専攻する領域に関係する疑似対象の領域を成すところのそのような領域は構成的レベルと呼ばれる」(p. 69-70)。

・一見して矛盾する、対象領域の統一性と独立した対象型の複数性の調和
あらゆる対象は基礎的な対象から構成され、対象についての文は基礎的対象についての文に変形されうるという点において「文の論理的『意味』に関する限り、科学が関わる対象の領域はただ一つである」(p. 70)。他方、科学における文のほとんどは構成された対象についてのものであって基礎的対象についてのものではなく、構成された対象は異なった構成的レベルに属し、互いに異種的である。「文の論理的『形式』に関する限り、かくして科学は多くの自立的な対象型に関わっている」(p. 70)。

○外延の方法について
・外延の方法と外延性のテーゼ
 外延の方法は、外延性のテーゼ、すなわち「ある概念についてのあらゆる文において、この概念は外延的に受け取られる(正確には、つまるところ、その外延(クラスや関係外延)によって表現されるであろう)。より正確には、ある命題関数についてのあらゆる文において、後者〔命題関数〕は外延記号に置き換えられるであろう」(p. 72)に基づいている。

・文の外延性/内包性の定義
「ある文は、外延文(クラスや関係(外延)の文)へと変形されうるならば、外延的と呼ばれる。そうでなければ、内包的と呼ばれる。我々が真理値を変えることなく命題関数fを共外延的な命題関数によって置き換えることができるということはfについての文の外延性の必要十分条件である。外延性のテーゼはある命題関数についての全ての文は外延的である(つまり内包的な文はない)と述べているのである」(p. 73)。
 例えば、「xは人間である」と「xは理性的動物である」は置き換え可能で、共外延的であるため、外延的である。他方、「私は『xは人間である』はあまねく『xは理性的動物である』を含意していると信じている」という文では、「xは人間である」をこれと共外延的な他の文の置き換えることはできない。故に、「私は……を信じている」という文は非外延的、つまり内包的な文であるように見える(p. 74)。

・三種類の文
 まず、(1)「記号そのもの」、(2)記号が表現する(express)「意味」(sense)(3)記号が指し示す(designate)指示対象(nominatum)が区別され、それぞれ“7”、〈7〉、[7]と表記される。
 それらの定義:「したがって、我々は以下の定義を与える。『記号そのもの』によって我々は書かれた(あるいは言語的等々)形〔figure〕を意味し、VII、5+2は記号そのものに関する限り互いに異なったものである。ここでは、用語法では“7”、“VII”そして“5+2”は異なった対象である。記号の『意味』によって我々は内包的対象、つまり表象、思考内容等々、記号が呼び起こすところの共通のものを意味する。7とVIIは同じ意味を持つ、つまり数の七が表象や思考の内容である限りである。5+2は異なった意味を持つ。ここでは、〈7〉は〈VII〉と同じものであるが、〈5+2〉は異なった意味を持つ。同様に、〈宵の明星〉は〈der Abendstern〉と同じ意味であるが、〈明けの明星〉は異なったものであり、〈スコット〉は〈ウェイバリーの筆者〉とは異なったものである。記号の『指示対象』によって我々はそれが指示する対象を意味する。7、VIIそして5+2は同じ指示対象、つまり数の七を持つ(フレーゲ [Grundges] I, p. ixが示すように、算術的等しさは論理的同一性である)。[7]、[VII]、そして[5+2]は同じものであり、さらに[明けの明星]と[宵の明星]は同一であり、[スコット]と[ウェイバリーの筆者]も同様である」(p. 75-76)。
まとめればこうなる。
記号:“7”≠“VII”≠“5+2”
意味:〈7〉=〈VII〉≠〈5+2〉
指示対象:[7]=[VII]=[5+2]
 フレーゲによれば、文の場合、文の意味はそれが表現する思考内容、指示対象は真理値となる(p. 76)。

外延性のテーゼの正当化
 1. xは人間である、2. x homo est、xは理性的動物である、という三つの共外延的な文についていえば、それらはいずれも同じ指示対象を持っている。逆にこの三つの文は、「『xは人間である』は七語から成る」という記号文(sign statement)は2と3に置き換えることはできないため、別の記号である。意味に関して言えば、例えば、信念文の場合では、1と2は同じ意味であるが、3はそうではない。
 故に、指示対象文(nominatum statement)は外延的な文、意味文(sense statement)は内包的な文ということになる。さらに言えば、〈xは人間である〉は[xは人間である]と同じものではない以上、両者は同じものに関する文ではない(p. 77)。ひいては、外延文と内包文の区別は、それらが同じものを扱っているわけではない以上、不当である。前者は命題関数そのもの、後者はそれとは違ったものに関する文である。 「外延性のテーゼは妥当である。命題関数についての内包的な文はなく、それは現に命題関数についての文ではなく、それらの意味についての文として捉えられるべきものである」(p. 77)。



B章 体系形式 78
・外延と還元の関係がつながる
「構成的体系の順序は、対象aはそれに先行するところの対象b、c…に基づいて構成されることができるという事実によって決定される。言い換えれば、対象aはb、c…に還元可能でなければならない(つまり、aについての命題関数はb、c…についての共外延的な命題関数へと変形可能えなければならない)」(p. 78)。

還元可能性の事実的基準
 これまで述べられてきたのは論理的な関係における還元可能性についてであったが、全ての科学の対象を構成的体系に順序づけるためには事実的な関係の還元可能性についての基準が必要。「したがって我々はそれ〔基準?〕を『構成的言語』での形式的論理的なものから、事実の言語ないし実在論的言語へと翻訳する」(p. 79)。
「還元可能性の事実的基準」:「対象a、b、c…と関係を持つどんな事態〔state of affairs〕であれ、それが対象b、c…のみに依存するという必要十分条件が示されるならば、対象aは『対象b、c…に還元できる』と呼ぶ」(p. 80)。事態についていえば、個別の事態は文によって示され、一般的な事態は命題関数によって示される。

基礎的事態と根本的命題関数
 還元可能性の事実的基準においては「どんな事態であれ」とあったが、基礎的事態(basic state of affairs)というものがあり、他の事態はこれとの関わりにおいてのみ現れている。これに対応するように、あらゆる対象にはは根本的命題関数(fundamental propositional function)があり、その対象についての全ての文はこれの助けによって表現される。「ある性質概念では、基礎的事態はこの性質の出現であり(根本的命題関数は『xは性質…を持つ』ないし『xは…である』)、関係概念では、基礎的事態はこの関係が成り立っているという事実である(根本的命題関数は『xはyと…という関係にある』)」(p. 81)。当該性質概念が成り立つクラス記号をcとし、関係概念をQとすれば、「x∈c」、「xQy」となる。

・指針とは何ぞや
「先の考察によれば、対象の還元可能性の証拠はその対象についての基礎的事態の必要十分条件の決定に基づくべきである。そのような条件はあらゆる基礎的事態について成り立つことができるのかどうかという問題が立ち現れる。この問題を解決するため、我々は『科学的指針』〔scientific indicator〕の概念を導入する。事態の指針はその事態の十分条件であるが、ありとあらゆる十分条件が指針と呼ばれるわけではない。我々は『指針』という語を事態の同定に通常用いられる(つまり事態の前に通常認識される)条件のみに用いることにしたい」(p. 82)。
例。空気圧が高ければ、高圧計の値ば高くなる。逆も然りである。二つ目の場合の条件のみが指針と呼ばれる。

・感入は指針で置き換えられる
多くの場合、科学における決定は指針のような合理的基準ではなく、感入(empathy)によって行われている。それでもなお感入的な決定は科学的決定と考えられるが、そのことは錯雑していようとも、感入を必要としない指針を生成することが可能である、あるいはこのような指針を探す仕事は科学的な仕事として認められていて原則的に可能と考えられているという事実によって担保されている。「したがって我々は、原則的に全ての科学的事態には指針があると述べる。……したがってあらゆる科学的対象の構成は基礎的事態の指針の生成によって成し遂げられることがでいる」(p. 83)。後の解明や検証理論に繋がりそうな考え。

・論理的値と認識的値
 文の構成的変形(要するに定義)によって論理的値は変わらないが、認識的値は変わらないとは限らない。「構成的方法の本質的な特徴はこうである。対象の名辞、文、そして命題関数に関しては、論理的な値に独占的に関わるのであって、認識的なそれではなく、純粋に論理的なものに関わるのであって、心理的なものにではない」(p. 84)。
論理的値と認識的値についての明瞭な説明はないものの、みたところ、論理的値は真理値に、認識的値は意味の等しさに対応しているようだ。

・定義は置き換えの規則である
 定義とはある記号(被定義項)を別の記号(定義項)に置き換えることであり、代入ないし置き換えの規則(a rule of substitution or replacement)である。
論理的翻訳(logical translation):論理的値を変えない翻訳、置き換え(認識的値は無関係)
意味の翻訳(translation of sanse):論理的値に加えて認識的値、すなわち文の意味も変えない、より包括的な置き換え

・指針への反論:異心理学的対象は指針に解消できるのか
反論:異心理学的対象は物理的指針、他者の動きの表現と身体の反応、言語的発言に基づいて構成されるが、異心理学的対象は指針とは異なった何ものかであり、指針の役割のみを持っているわけではない(p. 85-86)。要するに、異心理学的対象のうには外的な振る舞いのみではなく、内的な何ものかも含まれているのではないか、「他者の身体の物理的振る舞いは怒りそのものではなく、怒りの指針にすぎない」(p. 86)というわけ。
応答:心理学の内部でのFについての文が同じ論理的値を持つKについての文に変形されたとしても、両者は同一ではなく、同じ意味であることにはならない(p. 86)。要するに、あくまで定義の上の話であって、実際に心理的なものが物理的な振る舞いと同じものであるとは言っていないということか。

問い:いかにして異なった対象型がより高次のものが常に低次のものから常に構成されうるような体系へと導入できるのか?
回答:還元・定義によって。対象型は互いに還元可能であり、その還元は基礎的事態の必要十分条件を指針によって明らかにすることで可能になる。思うに、これは心理的な対象の型であるところの怒りを指針によってその必要十分条件を炙り出し、その指針と条件を利用して身体的反応に還元するという感じであろうか。

・認識的一次性(epistemic primacy)
「ある対象(あるいは対象型)は、我々が認識的に二次的と呼ぶ他のものとの関係で認識的に一次的と呼ばれるのは、二次的なものが最初のものを介して認識され、ひいてはその認識のためには第一のものの認識を前提とするときである。幸運なことに、認識的一次性の表現に必要とされる構成の過程は、指針はその対象に対して認識的に一時的であるために指針の方法が適用される時にも保たれる」(p. 88-89)。

・文化的対象は心理的対象に還元される
 文化的対象は感入を通して認識されるが、そのような直観的プロセスは文書(物理的対象)、表明(心理的対象)なくしてはできない。「我々の考察は、全ての文化的対象は直接的であれ他の文化的対象を媒介としてであれその表明と文書に還元可能であると示す」(p. 90)。その文書もまた表明の助けを不可欠とするため、「以上のことから文化的対象がそれに還元可能であるような対象の領域は狭まることが引き出される:あらゆる文化的対象はその表明、つまり心理的対象へと還元可能である」(p. 90)。
 しかし逆に心理的対象を文化的対象に還元することはできない。それというのも、表明は指針、つまり認識を介在する対象の役を果たし、文化的対象に対して心理的対象は認識的に一次的であるから(p. 91)。
 文化的対象から心理的対象へのの還元・それらの文の変形はされても、文化的対象の文は心理的対象の文とは意味において同じではない。変わらないのはあくまで論理的値であり、認識的値はその限りではない(p. 92)。

・物心の相互の還元は可能
「もし物理的対象が感覚的質、ひいては心理的対象に還元できないならば、このことは物理的対象の感覚可能な指針はないということを意味する。物理的対象についての文は空にぶら下がることになる。科学では少なくとも、その余地はない。したがって全ての物理的対象は心理的対象に還元可能である」(p. 92)。

・心身問題は翻訳規則の問題
「心身の関係(cf. §21)の相互関係の問題はこれまで解決されてこなかったため、科学の目下の状態は我々が翻訳の一般的規則を示せるほどではない。しかし、我々の目下の目的は、この規則の論理的存在(つまり、この種の相互関係が成り立つという事実)は我々をして『原則的に全ての心理的対象は物理的対象に還元可能である』という結論を導出せしめる」(p. 92)。

・報告関係(reporting relation)
報告関係は表現関係に含まれる。それは、発言、筆記、ないし他の記号を与える存在並びに心理学的過程の本性を示すような身体的な動きと、心理的過程の間の関係。他者心理学的過程の指針として機能する。例えば、「私は良い天気で嬉しい」という文と良い天気についての喜びとの関係(p. 93)。
 報告関係により、心理的対象についての文はその指針についての文に変形される。それ故、心理的対象は表現の動き、すなわち物理的対象に還元される(p. 93)。

・対象間の認識的一次性とその順序
 他者の心理的過程は表現的な動き、即ち物理的対象を介して認識され、自らの心理的過程は物理的対象の介在を必要とせずに、直接的に認識される。すると、認識的一次性でいえば、自己心理的対象が一次的、他者心理的対象が二次的となり、他者心理的対象は物理的対象から、物理的対象は自己心理的対象から構成され、認識的一次性もそれに応じて自己心理学的、物理的、他者心理学的、文化的対象という準順になる(p. 94)。


C章 基礎 98
・構成においては関係が対象に先行する
「我々は、後に説明されるように、構成的体系の始めにおいては、クラスではなく、関係外延、基礎的関係を置くことで進めることにする。それらと基礎的要素ではないものは、体系の定義されない基礎的対象(基礎的概念)を形成し、体系の他の全ての対象はそれらから構成される。構成に関する限り、基礎的関係は、それらの関係の成員であるところの基礎的要素に先行する。一般的に言えば、構成理論は個別の対象を二次的で、それらがその中で成り立つところの関係のネットワークに相対的なものと考えられる」(p. 98-99)。

○自己心理的対象を基礎に選ぶ
・自己心理的対象を基礎に選ぶ理由
その1:論理的順序だけでなく、認識的順序(一次性)にかなったものであるため
その2:一般的な心理学的対象を基礎としても認識的順序にかなうことができるが、自己心理的対象を基礎とすれば、全ての対象をより少ないものから構成できる

・独我論的であることについての留意
自己心理的な基礎は独我論的だが、知覚、錯覚、夢といった区別を許すような実在的・非実在的という区別とは無関係であり、実在的・非実在的という区別はより進んだ構成段階で現れる(p. 101)。

・経験流の何たるか
「自己心理的領域の中では、基礎は未だより正確に境界づけられるべきである。『心理的』という語ひょっとしてら無意識の出来事の把握として考えられるかもしれないが、この基礎は、全ての経験はそれに属し、いかようにしても我々は今であろうと後であろうとそれらについて内するような(広い意味での)意識的な現れのみから構成されている。したがって我々は『経験流』〔stream of experience〕と呼ぶことにしたい。この基礎は所与とも述べることができるが、こんことは所与が与えられる誰かないし何かについては前提されないということを分かっておかなければならない。『所与』という表現は『自己心理的』と『経験流』といった表現に対して中立性である程度勝っている。厳密に言えば、『自己心理的』と『経験流』という表現は§75でp自己心理的pとp経験流pとして導入される記号で書かれるべきである」(p. 102)。

・他の対象が構成されてはじめて基礎的要素は〜的対象と呼ばれうる
1、2、3という数字からまず0、それから次々と負の数、有理数、実数、復素数と構成していき、そして最後にはじめて開始地点の数は原初的要素としての正の整数と言われる。構成の開始地点ではその要素を「実数」、「正の」、「整数」と言うのは無意味であり、他の領域との境界を示して初めて意味をなす。これと同じように、我々の構成的体系の基礎的要素の『自己心理的』、即ち『心理的』であり且つ『私のもの』という特徴は、非心理的なものと『あなた』の領域が構成されてはじめて意味を持つ。……体系の形成の前では基礎はいかなる体系形式でも『中立的』であり、それ自体として心理的とも物理的でもない。『自己中心性は基礎的要素、所与の元からある性質ではない』。経験は自己中心的であると言うことは『私の』経験から構成されるような他の経験を述べるまでは意味をなさない」(p. 104-105)。

・自己心理的基礎の主観性についての疑問とそれへの応答
反論:自己心理的基礎は恣意的で主体によって異なる以上、その体系は客観性を担保できないのではないか。
応答:科学の文が関わるところの構造的性質は全ての経験流に類比的であり、つまり誰の経験流にも共通のものである。故に自己心理的基礎に基づく体系といえど誰の自己心理的基礎であろうとも共通のものを相手取っており、客観性を担保できる(p. 107)。

・基礎的経験は分析できないが、疑似分析はできる
問:構成的体系の基礎的要素であるところの基礎的経験は上昇形式による総合はできても分析できないものである以上、(上昇形式によって)根本的要素(fundamental element)にはたどり着けないのではないか?  補記:分析の何たるか。「本来的な分析の場合、我々は性質を持たない点にも分析不能な単位ではなく、いくつかの構成要素(ないし特徴)を持った対象に関わる。分析は最初は未知だが他の所与、つまり対リストからのそれらの構成要素の導出から成る」(p. 112)。
答:「我々は基礎的経験は分析不能であるという事実から引き出されるこの困難を、総合ではあるものの基礎的要素から基礎的要素の構成要素の形式的な代替物の役を果たすような対象へと導くような構成的手続きを導入することで克服する。我々はそれらを、その構成要素に成り立つ全ての主張が、類比的形式においてそれにも成り立つために形式的代替物と呼ぶ。我々はこの手続きを疑似分析と呼ぶ(それはフレーゲ・ラッセルの『抽象の原理』に由来する。§73の末尾の所見も参照)」(p. 110)。
 分析不能な単位のものについての文ではそれに属するような特徴を割り当てることができないために属性記述はできないため、関係記述という形で与えられ、とりわけ「対リスト」(pair list)という外延を持つ関係外延の形を持つことになる。

・類似円(similarity circle)
「したがって『類似円』を我々は以下の二つの性質を持つ基礎的経験のクラスとして理解する。そのクラスの何らかの二つの基礎的経験は互いに部分類似している(Ps)。もしある基礎的経験がそのクラスの全ての基礎的経験と部分類似しているならば、その基礎経験自体はそのクラスに属する」(p. 129)。

・疑似分析の具体例
要素から構成されていない全体としての和音があり、その和音はピアノのc、e、gの三つの鍵盤を叩いた時に聞こえるものとする。この和音はcを含む全ての和音、eを含む全ての和音、gを含む全ての和音と類似している。「さて我々はそれぞれの和音に対し、その和音が疑似要素としてそれに属するところの類似円を割り当てる。和音c-e-g〔c、 e、gの三つを含む最初に導入された和音〕は類似円c、eそしてg〔c、e、gのそれぞれに関して類似する和音を要素とするクラス〕の要素であるため、我々は疑似構成要素としてのそれら三つのクラス、つまりc、e、gをそれ〔和音c-e-g〕に割り当てる。……我々は和音c-e-gは、正確に言えば、三つの部分から構成されておらず、訓練された耳でできる三分割は和音c-e-gが三つの和音クラスに属しているおかげであるということを以前に見てきた。今や三分割のこの印象は直観的になされた疑似分析の結果であることが分かる。……ここで我々は一般的に和音を構成する調子と呼ぶものを和音クラス(つまり和音のクラス)と同定した以上、クラスの特徴は疑似対象であることを思い出すことが重要である(§37)」(p. 115)。

カント的な総合
「したがって二つの全く異なり、頻繁に敵対する哲学的立場は双方が構成的体系の必要な基礎の発見において長所を持っている。実証主義は認識の唯一の材料は経験的に与えられた消化されていないものであると強調する。ここで我々は構成的体系の基礎的要素を探すべきである。超越論観念論、とりわけ新カント学派(リッカート、カッシーラー、バウフ)はそれらの要素では十分ではないと正しく強調した。順序の概念、つまり我々の基礎的関係が追加されなければならない」(p. 122)。

・p-記号とc-記号
「心理学の言語」における経験や関係に言及する時は「p質p」というようにpで挟み、このような表現をp-記号と呼ぶ。そして構成的体系に関する概念は「c質c」というようにcで挟み、これをc-記号と呼ぶ。以下例。 「我々がp経験の構成要素pについて述べる時、p構成要素pという表現によって我々は一般的に理解される存在物を意味しているので、これは分析できない単位としてのc基礎的経験cの想念とは矛盾しない。……c感覚質cないしc質cという表現はc質クラスcが構成されたり、少なくともそれらの構成の型が示された時、それらのクラスを指すのに使われるであろう。他方でp感覚質pないしp質pといった表現はこの言葉で一般的に指し示されるものを意味するであろう。構成されたc質cが既知のp質p、たとえばp感覚質pを表現できるという本性を実際に持っているかどうかという問題を扱えるようにするためにこの区別は必要である。……p基礎的経験pは知られてるp心理学の全体的対象p、p意識の過程pである。c基礎的経験cは性質を持たない、点のような、関係の項である。p基礎的経験pはp構成要素p、例えばp感覚質pを持っている。c基礎的経験cは、それらが用よとして以下のクラスに属するところのc疑似構成要素c、例えばc感覚質cないしc質クラスcを持っている」(p. 123)。

○基礎的関係のリスト
・その1、部分同一(Part Identity)
「したがって我々は以下のような関係を考える。すなわち、pそれぞれ全ての特徴を持つ、つまり狭義の質、激しさ、感覚野での場所で対応するところの場所記号において一致し、問題の感覚様相がそれらの特徴を持つようになるようなaとbについて、xにおいてaという経験の構成要素が、yにおいてbという経験の構成要素が現れる場合に限り、二つの基礎的経験x、yの間に成り立つp。したがって二つの色感覚はもしそれらが色合い、彩度、明るさ、そして場所記号(つまり視覚野内での場所で)、同様に二つの(単純な)調子はピッチと大きさで一致するならば、〔上記のような関係に〕互いに一致する。先ほど論じたp経験要素における二つの基礎的経験の一致pの関係は部分同一の一種であり、我々は手短にそれを『p部分同一p』と呼ぶ。構成的体系の記号論理学の定式化では、我々はこの関係に記号『Pi』を割り当て、かくして『xPiy』はc基礎的経験(つまり構成的体系の要素)xとyは部分同一であるc。そしてこれはp基礎的経験xとyは部分同一であるp(前に示して意味で)」(p. 125)。

・その2、部分類似(Part Similarity)
「p感覚様相の感覚質、つまり質の充実性(例えば色の充実度、調子の程度)、激しさの程度、そして感覚野(例えば視覚野、触覚野)pの度合いはp部分同一の関係を元に認識されることはできないp(つまり、それらはc部分同一cから構成され得ない)。それらの順序はp近接関係pに基づいており、後者はp部分同一pから導出されない。pほとんど同じ色合いの二つの色感覚は、部分同一と相対的に、二つの全く異なった色感覚、いやむしろ一つの色感覚と調子感覚がそうであるのと互いに同じ関係を持つp〔つまり部分同一は成り立たないということか〕。したがって我々がc部分同一cを基礎的関係としてすでに導入しているならば、p二つの構成要素の何かしらの特徴に関しての二つの基礎的経験のおおよその一致pをそれ自身基礎的関係として導入するか、それからこの関係が導出可能な他の基礎的関係を導出するべきであろう。我々はこの関係をp部分類似pと呼び、記号論理的な操作のためにPsという記号をこの外延に割り当てる。p二つの基礎的経験xの経験要素(例えば感覚)aとyの経験要素bがそれらの特徴(狭義の質、激しさ、場所記号)においておおよそないし完璧に一致する場合に限り、xとyは『部分類似』と呼ばれるp」(p. 126-127)。

・その3、類似の想起(Recllection of Similarity)
「pもし二つの基礎的経験xとyが部分類似であると認識されているならば、これら二つの前者、つまりxの記憶の面影は〔元のxと〕比較されるに違いないp。このp想起の過程pは対照的ではなく、xの出現はyのそれとな異なっている。したがって、pこの認識の結果pはc部分類似cの対照的な関係外延を通してよりも、非対照的な関係を通してより正確に表される。われわれはこの非対照的な関係を基礎的関係として導入し、それをc類似の想起cと呼んで記号Rsを割り当てる。“x Rs y”ないし“xとyの間に成り立つ類似の想起”は、pxとyは、xの記憶の面影とyの比較を通して部分類似として認識される基礎的関係にあるpを意味する。我々はこれをより手短に『p基礎的経験xとyは類似の想起によって結合しているp』と表現できる」(p. 127)。

・基礎的関係間の導出の関係
 PsはRsから導出(厳密ではない形の構成)される。「c二つの基礎的経験xとy、yとxの間に類似の想起(Rs)の関係が成り立つならば、xとyは部分類似(Ps)であると呼ばれるc」(p. 128)。しかし逆方向に、PsからのPsの導出はできない。「その方向の違いは時間順序の構成においては重要である。我々は後に新しい基礎的関係を導入することなくRsから時間順序を導出するつもりである。我々がPsではなくRsを基礎的関係に選んだ主たる理由はこれである」(p. 128)。
 PiはPsから導出されるが、直接的にはできず、「類似円」と「質クラス」をPsから導出し、これらを用いることで可能になる(p. 129)。即ち、「二つの基礎的経験は、もしそれら二つが属する質クラスがあるとすれば、部分同一(Pi)と呼ばれる……我々は今し方〔§81〕類似円から質クラスを導出し、代わりにその類似円は部分類似から導出されているので、望まれていたPsからPiの導出は達成されたことになる。したがってさらなる導出に重要な関係Piは基礎的関係として導入されるべきではないということになる」(p. 133)。

・本質的/偶然的部分的一致(essential/accidental overlap)
「もし二つの類似円が部分的に重なる二つの質領域に対応し、無論それらの質領域は同じ質様相に属すならば、それらの類似円は対応した部分的一致を示し、これを我々は本質的部分一致と呼ぶ。他方、もし二つの類似円が互いに排他的な質領域に対応するならば、にもかかわらず、それぞれの基礎的経験は様々な質の点に対応するためにそれらは共通の基礎的経験を持っている。この『偶然的』部分一致は異なった感覚様相の類似円の間で生じる」(p. 130-131)。
 それはつまりこういうことだろうか。色という質領域の彩度という質様相における(基礎的経験がその成員となるところの)類似円が二つあり、それらが部分的に一致する―その一致というものが成員たる基礎的経験が同じであということなのか、それともその一致部分の基礎的経験のp要素pが同じということなのか明らかにした方がいいかもしれない―というのが本質的部分一致。二つの類似円が、例えば色の彩度と音の高さにおける類似円だが、共通の経験をその成員として持つというのならば、偶然的一致、ということか。

・質クラスの説明
 読んでもよく分からなかったので、理解に苦しんだ箇所に自分の理解を挟みつつ、訳してみる(p. 131-132)。「クラスa、bが視覚についての二つの類似円だとしよう。五つの次元ではなく三つの次元の配列のみを扱うため、視野の二つの個別の場所に話を限定することにする。それらの視野の場所の各々に対応する色具合の三つの次元を、我々は単純性のために、持続的ではなく、個々のものである(つまり、有限の個々の点から構成される)とみなすことにする」。場所p1とp2に三つの視覚的な様相があるとする。「二つの視野の場所に最初のものとして対応する色具合、そして二つ目の色具合について述べてみる。類似円aは一つ目の色具合の五つの有限の点に対応する全ての基礎的経験を含み、それら五つの点はその色具合に互いに類縁的であり、それらは青い色合いの範囲の中にあるものとする。同様の仕方で、bは二つ目の色具合の五つの赤の色合いの類似円とする」。視野の中の五つの点はそれぞれが青い(赤い)色合いの範囲に含まれる類縁的な色の程度に対応する色を持ち、それら五つの点についての基礎経験を成員とするのが類似円a(b)である。「もしある基礎的経験において、青い色合いの一つが最初の視覚野の場所に見つかるとすれば、それは元々、赤い色合いの一つが二つ目の視野の場所に見つかるであろう場合ではないだろう。にもかかわらず、これはある場合に起こるが、その場合は青か、そうでなければ赤い色合いがそれらの視野の場所に出現するような全ての場合の小さな欠片を形成するのみであろう。これが意味するのは、類似円a並びにbに属する何らかの基礎的経験があるであろうということである。それらが基礎的経験x、y、zであると考えてみよう。ここで我々はaとbの間の偶然的部分一致に関心を向けることにする。aとbは異なった色の度合い、さらには色の度合い内部での異なった色の範囲に属しているため、それ〔aとbの部分一致〕はこの場合では本質的部分一致である。xはaの五つの質の点のうち一つに対応している。この地点qに対応する基礎的経験のクラスを思い出してみよう。yが同じもの〔五つの質の点の中の一つ〕に、zがaの異なった点に対応するものとする。クラスqは視覚の感覚質、つまりある視野の場所のある青い色合いを表しており、それというのもこの感覚質はqの要素の共通属性であるから。このようなクラスを我々は質クラスと呼ぶ。今や、xとyしかbに属さず、qの他の要素はbに属さないため、それ以外のq類似円aの質クラスqは類似円bによって解体される。aとbの偶然的部分一致によって切り取られるqの部分がqそのものとの関係でここでは唯一の非常に小さいものである」。
質クラスの定義「基礎的経験のクラスcはcのかなりの部分を含む何らかの類似円に完全に含まれ、cに属さないあらゆる基礎的経験xについて、cを含むがxはそれに属さないような類似円が(少なくとも)一つは存在するならば、cはc質クラスcと呼ばれる……我々はc質クラスcはp感覚質p(広義では感情の質なども含む)の構成的表現であることをすでに見てきた。したがって我々はある時はそれらを手短に『質』と呼ぶ」(p. 132-133)。


D章 基礎的形式 137
・感覚クラス
 質の類似。「二つの質は、その一つ目がその中で出現するあらゆる基礎的経験が二つ目がその中で出現するあらゆる基礎的経験と部分類似している場合に限り、類似している。したがって我々は以下のように定義する。二つの質aとbは、aのあらゆる基礎的経験がbのあらゆる要素に部分類似しているならば、類似している(a Sim b)と呼ばれる」(p. 138)。
 感覚クラスの導入。「その連続の各々の質が連続の次の質に類似している(例えば、二つの音調の間に我々はSimの対の連鎖を形成することができるが、音調と香りの間ではそうではない)ような二つの質の間に質の連続が存在する場合に限り、二つの質は同じ感覚様相に属する。もし我々が単一にして同じ感覚様相の質によって形成されるようなクラスを感覚クラスと呼ぶならば、感覚クラスは各々のSim連鎖の連関の関係に基づいた疑似分析によって形成される(感覚クラスの構成:§115)」(p. 138-139)。感覚クラスは質クラスから分割されたものである。

・次元数(dimension number)
「なるほど我々はこの順序〔各々の感覚クラス内の質の順序〕を決定する類縁関係としてSimを見ることができる。与えられた領域に類縁関係が存在するならば、その領域の次元数(Dn)がこれによって決定される(当面我々は定義には関わらないことにする)。したがってあらゆる感覚クラスはSimに対してあるDnを持つ。我々は音調感覚の感覚クラスはDn 2、視覚の感覚クラスはDn 5、色覚の感覚クラスはDn 5を持つと上述した(§80)。肌の感覚には、場所記号が二つの次元において順序づけ可能である。さらにそれらの質は激しさを通し、ひょっとしてこれと質の連続〔series〕を通しても区別可能であるため、それらの各々(触覚、温かさの感覚、冷たさの感覚、痛覚)のDnは3ないし4である。感情の領域も含めて他の感覚のDnは、あるものは2、他のものは3である」(p. 139)。また、視覚はDn 5を持つという点で幾分か特殊であるため、その構成的定義は「Simに関する質の順序がDn 5を持つような感覚クラスは視覚と呼ばれる」(p. 139)とされる。

・時間の順序
 Rsは時間的関係を含む以上、xRsyから、xはyよりも前であるという結論が得られ、さらに対の時間的な推移性も得られる。しかしこれだけでは絶え間ない時間的連続を構成することはできず、物理的対象の構成の後に出てくる物理的過程の規則性(rgularity)の助けを要する。

・「色同一」、「場所同一」、「場所同一の導出」
 色同一と場所同一。「例えば、視覚の二つの質、a、bが『色型』〔color type〕(つまり、色合い、彩度、そして明るさ)において互いに類似していてそれらが二つの近い視覚の場所、つまりは『場所』に属してもいて、二つの他の質c、dが同じ場所に属していて色型で大まかに一致していることによって互いに類似しているならば、両対〔aとb、cとdの対〕は区別なく『Sim-対』と呼ばれ、Simに関する振る舞いに基づいて区別することはできない。我々は(色型を参照することなく)二つの質を、それらが場所記号で一致するならば(つまりそれらが同じ場所ならば)、場所同一〔place idenrical〕と呼ぶ。したがって我々はもし二つの質が色型で一致するならば、(場所を参照することなく)色同一〔color identical〕と呼ぶ。
 場所同一の導出(derivation of place identity: Plid)。「それは(異なった)場所同一的な質は同じ基礎的経験において同時に現れることができないという事情に主に基づいている。この事実はづでにすることができる導出を通して表現されうる。それというのも、構成理論の言語では、それは、そこでは質クラスのある対は共通要素としていかなる基礎的経験も持たず、それは互いに排他的な質クラスである(Exclという関係)事実に対応するからだ。しかしExclはPlidの必要条件でしかなく、十分条件ではない。異なった場所に属して一つの経験に共に現れることが決してない視覚的質の対が存在するであろう。したがって我々は単純にExclを通してPlidを定義することはできない。他方、我々は全てのPlidの対はExclの対のなかに見られると確信している」(p. 141-142)。

・類縁的場所
「視野の場所を示す場所クラスの導入はそれ自体で視野の空間的秩序へと導かない。これは場所の間の関係から結果するが、それは今簡単に導出される。
 二つの場所は、そのうち一つの質が他方の質に類似しているならば、類縁的場所(Proxpl)と呼ばれる(構成は§117)。……Proxplは視野の空間的秩序については根本的な関係である。したがって、例えば、視野は二つの次元であるという言明はProxplの形式的性質についての文である」。

・色同一(color identity)と類縁色(proximate colors)
色同一:「s、t、uが三つの隣接する場所で質aがsに、質bがtに属し、aとbが異なった色型(この語は色合い、再度、明るさの次元をなす)を持つならば、その両者〔aとb〕はuの同じ質に類似することはない。他方、もしaとbがuの同じ質に類似しているならば、aとbは同じ色型を持ち、逆も然りである。もしそれらが同じ色型を持つならば、uの類似した質もまたその色型を持つことになる。したがってaとbのこの振る舞いは『類縁的場所における色同一』の定義に用いることができる。質aとbの間に『類縁的場所における色同一』の関係を隣のものに対して持つ各々の質の連鎖が存在するならば、『類縁的場所における色同一』はaとbの間に成り立つ」(p. 144)。
類縁色:「類縁的場所の関係と類比的に、もし二つの色fとgが、fの質がgの質に類似しているような種類のものであれば、我々はここでその二つの色fとgを類縁色と定義する」(p. 144)。

・視野の秩序と色の秩序の与えられた導出への反論
「示された導出を通し、我々は視覚的な質の五次元の類似円(つまり類似性 [Sim]に基づく秩序)の(視野の)場所の二次元の順序と色の三次元の順序へと分割を行った。この分割は、場所同一と色同一という二つの関係は、様々な色同一的な質は異なった場所同一的な質にではなく、同じ基礎的経験に現れうるところの、互いに形式的に異なっているという事実のために可能であった。同じ場所の二つの異なった色の間の関係と異なった場所の二つの同一の色の関係は単に形式的に異なっているのではなく、質ないし本質の違いであるとはこれに反論できよう。……しかし我々がさらに基礎的関係を導入しようとも、場所同一と色同一の違いは所与に属するものではなく、導出されたものであり、それは基礎的経験それ自体の対の間の違いではなく、質の対の間の違いである。……しかしにもかかわらず、それら〔色と場所記号〕の役割は、知識の構成にあって、全く異なっている。これら二つの決定項〔determination〕の一方、場所記号は『個体化の原理』〔principle of individuation〕の基礎としての役割を果たす。それは空間秩序が究極的にはそれに基づくところの場所の予備的な秩序付けを決定する。この機能は決定項のうちのただ人湯によって満たされるということは厳密に、我々街路同一から分離したことによる場所同一の形式的性質、つまり非自己同一的〔違った場所の色が同じであることはあるが、場所はそこを占めるのがただ一つだけということか〕、場所同一的質が同じ経験に現れることができないことのおかげである。したがって我々が行った二つの秩序の分離は形式的だが、非本質的ではない差異、つまり実在の認識における二つの決定項の役割が基づくところの性質の差異に基づいており、それは秩序づけ(場所記号)の役割と秩序づけられるもの(色)の役割の違いである」(p. 145-146)。
 カルナップが抗弁したいのは要するに、場所同一と色同一は(あるものの大きさと色が無関係であるように)互いに無関係な関係であり、それが形式的に異なっているということだろう。カテゴリーの臭いのする話に見える。

・感覚(sensation)
「上記で我々は基礎的経験の構成要素を疑似要素として表現する基礎的経験のクラスとして質クラスを構成した。もし二つの経験が同じ質クラスに属するならば、それら二つの経験はある構成要素において合致すると我々は述べる。もし我々が二つの基礎的経験の二つの似た構成要素を区別したければ、質に関してそれらを特徴づけるだけでは十分ではなく、加えてそれらの構成要素が属する基礎的経験を同定しなければならない。そのように特徴づけられた構成要素のみが本来的な意味において個別的で、厳密に独自の構成要素である。その質(つまり、質クラスにおいて示されること)に関してのみ特徴づけられた構成要素とは対照的に、我々はそれ〔質に関して特徴づけられただけでなく、それの属する基礎的経験の同定もできた構成要素〕を『感覚』と呼びたい。……したがって、我々は基礎的経験と、その経験が属するところの質クラスから成り立つ秩序づけられた対として感覚を定義する。(p質は経験の構成要素でありp、c経験は質の要素であるc)。経験の構成要素の同時性は感覚に関するものである。基礎的経験(つまり対の関係項)が同一であるならば、二つの感覚は『同時的』と呼ばれる」(p. 148)。また、構成体系では、感覚から質が構成されるのではなく、質から感覚が構成される。


E章 構成的体系の表現形式 152
・虚構的な構成操作の言語(language of fictitious constructive operations)の何たるか
 この言語では構成は構成的な操作のための規則としてみなされる。「それの主たる目的は構成の形式的な正しさの直観的認識を促すこと(各々の構成的定義が操作的、曖昧ではないか、空ではなく、そして純粋に外延的であるかのテスト)にある」(p. 153)。
「ここでは、構成的定義は(一つ目〔記号論理学の記号言語〕と二つ目〔語言語〕の言語でのような)命名の活動とも(三つ目の言語〔実在論的言語〕でのような)見知った〔familiar〕対象の記述とみなされず、構成的手続きの操作規則とみなされる」(p. 156-157)。

・記号の導入と説明(p. 155)
1. クラスに関する記号
α∩β:交差(intersection)
α∪β:連合(union)
α⊂β:包含
αーβ:剰余(remainder)
αExβ:αとβは共通の要素を持たない
∃!α:αは空ではない
[x]ないしι`x:唯一の要素がxであるクラス。もしμがクラスのクラスであれば、s`μはμ(のメンバーであるところの)諸クラスの連合。
Nc`α:クラスαが基数を持つ。

2. 関係に関する記号
ただしαやβはクラスである。

Rx:Rにおけるxの指示項。
R∠α:その逆範囲がαに拘束されているならば、Rから結果する関係(∠は正しくは「∠」を右90度傾けたもの)(要するに、Rの関係項をαに固定したものか)
R∇α:そのフィールドがαに拘束されているならば、Rから結果する関係(∇は正しくは上辺のない台形を右90度に倒したような形(p. 155))
α↑β:αのあらゆる要素とβのあらゆる要素との間に成り立つ関係
x↓y:as、sym、refl、それぞれ非対照的、対照的、そしえ推移的関係のクラスの唯一の対がx、yであるような関係

3. 疑似分析に関する記号
Simil`R:Rに基づく類似円のクラス
Abstr`R:Rに基づく抽象クラスのクラス

4. 場所のクラス
Dnp (n,α,x,U):クラスαが、要素である変項xにおいて、隣接関係Uに関して次元数nを持つ
Vicin`Q:(類縁)関係Qによって決定される隣接関係
n Dnhomvic Q:QのフィールドがVicin`Qに関して同種の次元数nを持つ

・操作の手続きのアウトライン
「対象の認識の合理的再構成としての構成の目的を心にとどめることで、適切な虚構が選ばれる。再構成は対象の組成の形式的構造を反映すべきである。そこで、我々は手始めに、認識の生の素材とこの素材への我々の活動との間の当面の分離を導入する。その後、我々は所与の継続性〔retainability〕の虚構(§101)を導入する。取って代わるフィクションとして、我々は与えられた対象Aに、構成されるべき個別の対象(§102)に対応するある図式(『考案リスト』)の構成にAがそれによって至るところの一歩一歩進む操作の規則を付与する作業を行うと想定する。もしある構成的定義が何らかの操作規則に翻訳されるならば、その構成は構成理論がその構成に要求するように純粋に外延的であると我々は確信できる。……『構成的体系そのものはそれらの虚構には全く関係しない』ということが強調されるべきであり、それらの虚構は四つ目の言語としか関係しておらず、その目的は純粋に教訓的、つまり、見取り図を与えるということである」(p. 157)。

・分離の虚構、いくつかの想定
分離の虚構:抽象により、純粋に与えられたものと総合的な複合物が分離される。
 想定:ある主体Aはいかにして対象が所与から形成されるかについての操作規則を与えられるべきものとする。
所与の継続性の虚構:虚構的な分離の適用のためには、経験された所与が忘れられない、つまりAは生(き)の所与の記憶を保持し続けるという想定が必要となる。そうでなければ、彼は生の一つ目部分で得た所与を、生の二つ目の部分で総合する際にそのための材料がなくなってしまうから。そのため、継続性(retainability)の虚構が、たとえ実際の生では忘却が起こるとしても、要請される。

・基礎的関係リストに関する想定
 構成理論では、性質記述ではなく、基礎的経験の対リストが最初の材料となっていたが、「構成的操作の言語では、この想定は、Aが彼の人生の最初の区分において持つ基礎的経験について、Aはこれらの基礎的経験の個々の性質ではなく、基礎的経験に基づく対リストのみを保持したり記録したりすると言うことで表現される。つまり、Aは問題の基礎的関係がその間に成り立つところの基礎的経験の数の対として『各々の基礎的関係の目録リスト〔inventory list〕』を保持する」(p. 160)。
想定:「……Aは全ての実在を知らないものの、我々はAに手続きの規則を与えるべきであるためにそれは我々には知られている。我々はAの経験の本性については知らないにもかかわらず、どんな構成的段階が各々のレベルに適当であり、そのレベルの各々がどんな存在物を導くのかを知っているということがこの知識のみを基礎としている。したがって、この強行の目的のためには、我々は基礎的(諸)関係の意味を知っていてそれ故にそれ(ら)から初めて我々はAを我々の心中にある存在物へと導くことができると想定する。他方、我々はAの(諸)基礎的関係のリストは知らない。このフィクションは個々の主体とは独立した操作的規則として構成を定式化することへと我々の焦点を合わせる。他方、Aは彼の関係の(諸)リストのみを知っていて、基礎的(諸)関係の意味については知らない」(p. 161)。

・操作の手順
「したがって構成的操作の言語への各々の構成の翻訳は規則の形を取る。Aはこの規則を生成するために、基礎的(諸)関係の目録リストから始めることで、一歩一歩、各々の構成された対象の目録リストを用いる。対象がクラスとして構成されるならば、目録リストはクラスの要素を述べることになり、関係外延の場合には、成員の対を述べる。Aは全ての構成された対象を提供し、それらは個別のものであるが、恣意的でトークンであり、たとえば、数であるため、それらはさらなるリストにおいて言及されうる。各々の新しい目録リストの定式化の後、Aは補足的な記入〔supplimental entries〕を生成すべきである。つまり、各々の対象について、最終的な段階で直接的に与えられる目録リストに加え、Aは対象記述も生成し、対象記述は補足的記入を通して後の構成から絶えず拡大される。あるクラスの目録リストの補足的記入は各々の要素の対象記述に、この要素がこのクラスに属するという情報をくっるけることから成り立っている。我々は疑似分析との関連においてこの例を論じてきており、そこではあるクラスは疑似構成要素としてそれらの要素に割り当てられる。関係の目録リストの補足的記入は以下のように成り立つ。その成員各々の対象記述において、他の成員に対してこの関係(外延)が成り立ち、他の成員に対してはそれへのこの関係(外延)が成り立つ。したがって、構成的手続きの言語における対象の目録リストと対象記述は、実在論的言語において確定記述と対象の特徴付けと呼ばれるものに対応する。確定記述はこの対象が性格に現前しているという決定における必要十分な特徴だけを与える。特徴付けは対象のさらなる全ての既知の性質と関係を述べる」(p. 161-162)。



第四部 構成的体系の概略
A章 低次のレベル:自己心理的対象 175
・分析的/経験的定理
 構成的体系の言明ないし定理は分析的定理と経験的定理に分けられ、前者は定義そのものから演繹され、基礎的関係へと変形され、トートロジーが帰結する。後者は経験を通してのみ裏付けられることができるような構成された対象同士の関係を述べるものであり、基礎的関係の経験的で形式的な性質を述べる文へと変形される。「実在論的言語で表現するならば、分析的定理は概念についての同語反復の文であり(トートロジーは数学的定理の場合のように、変形の後にのみ現れるものであるため、これらの文は必然的にトリヴィアルではない)、経験的定理は経験的に裏付けられた事態を表現する」(p. 176)。

・感覚に関しての、分割クラスの二つの型
「以前の考察(§93〔p. 148-149〕)に則り、我々は経験の個別的な構成要素と一般的な構成要素とを(qualと対照的なsenとして)区別すべきである。基礎的経験の構成要素を含むクラスをそ〔の基礎的経験〕の『分割クラス』〔division class〕であると示す。したがって我々はdiv1とdiv2によって示すところの分割クラスの二つの型を区別すべきである。
 構成:Div1=df Abstr'Simul
 パラフレーズ:Simul〔同時性〕に基づく抽象クラスは『第一の型の分割クラス』と呼ばれる。したがって基礎的経験の感覚のクラスはこのようなクラスである。
 実在論的な事態:ある与えられた感覚と同時的である(経験の個別的構成要素の一般的な意味における)感覚は同じ経験の感覚である。
 〔Div2の構成は省略〕
 パラフレーズ:基礎的経験xがそれに属するところの感覚の諸クラスのうちのクラスλは第二の型のxの分割クラス(λ=Div2`x)と呼ばれ、このようなクラスは第二の型の分割クラスと呼ばれる」(p. 184)。

・科学の概念の翻訳のための二つのテーゼ
 テーゼ1「構成的理論は『各々の科学的概念は基礎的(諸)関係のみによって表現することのできるクラスや関係外延である』というテーゼを含む」(p. 188)。そしてカルナップは以下で感覚(sense=Abstr'Sim)を類似性の記憶のみによって表現してそれを例証する。
 テーゼ2「……各々の科学的な文は、最終的な分析においては、基礎的(諸)関係についての文である。より正確には、各々の文は、(論理定項並びに)基礎的(諸)関係のみを含む他の文へと変形でき、そこでは論理的値は(認識的値とは別に)保持される」(p. 187)。

・対象の導出関係はその対象の基礎的関係からの導出の仕方を示す
「さて、項性的体型のあらゆる対象は、唯一の非論理定項として基礎的関係を含む表現によって表される(§119)。我々は基礎的関係の記号“Rs”を変項、例えばRで置き換えることでこの表現の論理的形式を得る。この表現のRとの関係はその対象が基礎的関係からいかにして導出されるのかを表現する関係でもあるので、その関係を我々は問題の対象の導出関係と呼ぶ。
 もし問題の対象がクラス、例えばcとして体系内で構成させるとすれば、Rsのみを含むcの表現があることになる。我々はこの表現をφ(Rs)と略記し、したがってc=φ(Rs)となる。とすればその論理的形式はφ(R)になる。そこでcの導出関係はφ(R)とRの間の関係である。……
 その対象が関係外延、例えばGとして構成されるとすれば、表現ψ(Rs)があり、ひいてはG=ψ(Rs)である。この場合、Gの導出関係は、Q^^R^^{Q=ψ(R)}である〔エディタの表現上、^^は本文ではQ、Rそれぞれの上に^が乗っているものである〕。
 導出関係のために与えられた表現の両者において、非論理定項は現れない。ここで我々は『何らかの対象の導出関係は純粋な論理定項である』と分かる」(p. 189)。

・構成的概念から経験的概念への置き換え
「公理的体系(例えば幾何学的体系)は最初から純粋に論理的な体系として構成されることができ、ひいては公理的体系の基本的概念を経験的概念で置き換えることで経験的理論(例えば物理的幾何学)に変形されるということは、公理の理論と類似した事実である。正確に類比的な仕方では、『構成的体系は純粋に論理的な体系として最初から定式化されることができ』、そこでは各々の構成は対応する導出関係によって置き換えられる。(体系の唯一の基礎的概念としての)経験的概念Rsの変項Rへの置き換えにより、この純粋に論理的な体系は経験的概念の実際の構成的体系に変形されることができる」(p. 189-190)。


B章 中間のレベル:物理的対象 191
・基礎的概念
世界点(world point):n次元の実数空間の点。色が割り当てられる。「各々の世界点のn数は順序づけられた集合を形成する。それらの数はその座標と呼ばれる。最初の数は時間座標、他のn-1個の数は空間座標と呼ばれる。同じ時間座標の世界点は『同時的』(絶対的時間体系)と呼ばれる。その全てが互いに同時的(つまりtが定数である交差点)な世界点のクラスは『空間クラス』と呼ばれる」(p. 194)。 物理的空間:構造に関わる形式的性質のみを持った構造的な空間。
視点(points of view):世界点の突き出た連なり。「n-1の空間座標の各々が一つの値を持ち、時間座標の持続的な関数であるような、持続的な曲線を成す」(p. 195)。要するに、pv1(x,y,z,t1)、pv2(x,y,z,t2)、pv3(x,y,z,t3)……の連なりのことであろう。
視線(lines of view):「与えられた視点から進み出て、時間の負の向きで角γを成すような直線」(p. 195-196)。
世界線(world line):「世界線は持続的な曲線ないし曲がった線分であり、正確には一つの世界線は与えられた間隔内の時間座標の各々の値に属し、世界線は、一つのすでに見られたかまだ見られていない色点のいずれかである」(p. 196)。

・私の身体の要件
「以下の条件リストを満たす視覚的事物Bがある。以下の要件、それどころかそれらのうち適当な一部は『私の身体』とそれの構成的確定記述であり、これは呼ばれる視覚的事物である。
1. Bの状態のそれぞれは対応する視点に非常に近い。
2. Bは、他の全ての視覚的事物のように、一つの視点から見られた時には開かれた面〔区切り、終わりないし端がない面ということ?〕を形成する。しかし他の全ての視覚的事物とは対照的に、Bのあらゆる全体的な状態も開かれた面を形成する。
3. もう一つの視覚的事物ないしBの他の部分の世界線と接触の上で触覚的質と呼ばれるもう一つの質が問題の経験において同時に起こるような仕方で、Bの世界線ないしそれらの結びつけられた区間は特定の感覚クラスの質(ないし質のクラス)と相関させられている。このように構成される感覚クラスは触覚と呼ばれる。
4. 同様にBのある動きがもう一つの感覚クラスの質と相関させられている。このように記述される感覚クラスは運動感覚〔kinesthetic sense〕である。
5. Bに基づき、後に残りの感覚クラスの構成的記述が与えられることが可能になる」(p. 199-200)。
 以上は実在論的言語では以下のように表現される。
「1. 私の身体は常に私の目の近くにある。
2. 身体の表面は同時に決して見られ得ない。したがって一度に見られる身体の表面の部分は閉じた表面ではありえない。しかしいくつかの事物の場合、表面全体は見ることができ、したがって可視的な表面は閉じた表面である。他方、私の身体の場合、可視的な表面ですら開かれた表面であり、それはその表面の部分は、たとえば、目と背中は見ることができないためである。
3. 私の身体の表面の場所は、肌の対応する一部が他の事物ないし私の身体の他の部分と触れるならば、我々がある質の触覚を経験するような仕方で触覚の質(ないし場所記号)に対応している。
4. 運動的感覚の質は私の身体の運動のある型に対応している。
5. 他の感覚は一定の仕方で私の身体のある部分、つまり感覚器官と結合される」(p. 200)。

・意志と感情はクラスである
「我々が上で与えた(§85)感覚の諸クラスの構成の説明に則り、もし感覚と感情とは別物でそれらに還元できない心理的対象(例えば意志)があるとすれば、そういった各々の様々な型は一つの感覚クラスを成す。それらのさらなる感覚クラス(例えば意志は、特別な存在物の種類として存在するとすれば、それらは動作の感覚と相関させられることができよう)の確定記述はそれらを他の感覚諸クラスと相関させたり、身体のプロセスと相関させられる(例えば感情と表現動作の相関)ことで与えられることができるだろう」(p. 202)。

・無意識の対象
 無意識の対象は意識の対象(「秩序づけられた基礎的経験そのものと構成要素、そしてそれらから構成されるより複雑な存在物」(p. 203))から、見られた色地点に基づいて見られていない色地点が構成されるのと類比的に構成される。
 無意識の対象を構成する目的。「無意識の対象は以下のような目的を持っている。それらの助けによって我々は意識的なものの副次的領域よりも徹底的な出来事の規則性が成り立つ領域として自己心理的対象の領域を構成できる。……しかし心理的対象の領域、すなわち物理的世界、とりわけ物理的な科学の世界から区別されるところのそれには顕著な特徴がある。前者の場合では徹底的な規則性が完全に、それどころか暫近的類似においてすら得られることはない。ある出来事(つまり知覚)は常に自然発生的に起こって先行する出来事の結果ではない」(p. 203)。

・自己は自己心理状態のクラス
「我々は『物理的事物』とそれらの『状態』について話している。似たようにして個々の時間点に対応する自己心理的存在物ー(疑似)構成要素を持った基礎的経験、あるいは潜在意識的な存在物に補われた経験、あるいは潜在意志的な存在物単体ーを永続する持ち主の、心理的事物の『状態』として眺めるのが習慣的である。この認知的総合の類推から物理的事物の類推で、我々が『心理的事物』と一般的には呼ばず、『自己ないし私の心』と呼ばれるこの持ち主は『自己心理的状態のクラス』として構成されるに違いない。このクラスはその要素の総和ではなく(§37)、我々がそれによってその要素が共通して持つ者についての文を作ることができるような疑似対象であることはこれと関連して心に留めておくのがとりわけ重要である」(p. 205)。

・知覚的世界vs物理的世界
 科学においては知覚的世界は物理的世界に道を譲る。「個々で我々は程度の違いにのみ関わっているということは、科学的発展の過程では味八色の質は最終的にはもはや割り当てられなくなり、同じことは触覚と視覚の感覚の質につてすら最終的には成り立つという事実によって明らかになる。覚感様相の質が主観ごとに多様であり、そのために割り当ては画一的で一貫した方法でなされることができないという知見の必要な結果がこの排除である。言い換えれば、知覚的世界の概念的定式化(そしてひいてはそれに続く構成も)は一時的な妥当性を持つのみである。知識(と構成)の前進において知覚的世界は厳密で曖昧さがないが、質から完全に解放された物理学の世界に道を譲らなければならない」(p. 207)。
 物理的世界のメリット:規則性の担保。物理的世界では「物理的状態量〔physical-state magnitude〕が四次元数の空間の点に割り当てられる。この構成は『数学的に表現できる法則』を通して決定される領域の定式化を目的としている。それらは我々がある要素をそれらを決定する他の要素から『計算』できるようになるために数学的に表現できるようになっている。その上、物理学の世界の構成の必要性は、知覚的世界ではなし(cf. §132、結論)にこの世界だけが一義的、一貫した仕方で間主観的になれる(§146-149)という事情に基づいている」。物理学の自然法則のような規則性は知覚的世界の領域には成り立たず、物理的世界において成り立つものであり、知覚的世界の規則性は物理学の法則よりも格段に複雑である。

・類比による感覚的世界の補完:因果性の公準、実体の公準
 ここでの話はいわゆる自然の斉一性のこと。「二つの時空間の区域の過半の部分に対して感覚質の割り当てが完全ないし非常に近似的に同一的になされ、その一方の時空間の区域の残りの区画が、問題の感覚質のどれも他方の対応する区画の点に割り当てられないような点への割り当てを示しているとしてみよう」(p. 208)。つまり、例えば、区域Aは一面の赤である一方で、区域Bはその過半が赤であるが、その一部の区画の色が青であるような場合。「残りの区画が時間的感覚ないし空間的感覚の過半の区域の部分である。二つの場合があることで、類推による割り当ての構成手続きの適用は二つの場合に全く異なっているであろう。最初の場合、手続きの意味は以下のように(実在論的言語では)直観的に定式化されることができる。既知の過程の時間的に大きな一部が等しいか類似した仕方で繰り返される一方で時間の残りの間に観察されないままであるとすれば、我々は(もし反対する理由がなければ)観察がされていない間、二つ目の過程は最初の過程に類比的な仕方で持続している、あるいはより簡潔には過程は相互の類比に服している」(p. 208)。これがここでの「因果性の公準」で、見ていない間にも運動は同じようであること、あるいはその規則性に関する斉一性。
「二つ目の場合、つまり空間方法での補完の場合、手続きの意味は(実在論的言語では)以下のように定式化される。先に知覚された事物の空間的部分が同じかあるいは類似した仕方で再び知覚される一方で、残りの空間的区画が知覚されないままであるば、我々は(反対する理由がなければ)観察されていない空間的部分は最初の事物の対応する部分に類比的な事物の部分を含む。あるいは手短には事物は相互の類比の対象である」。これが「実体の公準」。見ていない間にも事物は同じようであることに関する斉一性。
「因果性と実体の二つのカテゴリーは異なった座標への同じ類比の構成の適用である」(p. 209)。

・物理質的相関(physicoqualitative correlation)
「物理的世界の構成は、それが導く規則性とは別に、物理的世界と知覚的世界の間に成りたつ特別な関係によって本質的に決定される。この関係を我々は『物理質的相関』と呼びたい。手始めに、物理学の世界点は知覚的世界の世界点と一対一関係にある。(にもかかわらず、物理的世界の計量〔metric〕は知覚的世界のそれとは別物である。例えば、一般相対性理論に必須である非ユークリッド計量がそれであろう。)それから質と状態量の間の一対多関係が存在し、それは何らかの(純粋に数的な)構造の物理状態量の隣接する物理的点への割り当てがあるならば、この構造と相関する質が、相関させられた知覚的世界の世界点に常に割り当てられるか、あるいは少なくとも矛盾なしに割り当てられるような仕方でである。しかし、逆方向で、その相関は独特ではない。質の知覚的世界の世界点への割り当ては状態量の構造が物理的世界の対応する物理的世界点に近隣に割り当てられるべきどうかかを決定しない。この質の割り当てはこの構造が属するべきクラスを決定するのみである。物理質相関が知覚的世界と一般的に結びついた印象から自由にはなり得ないことは明らかである」(p. 210-211)。

・生物学的対象の構成
 有機体は物理学に基づいて構成される。「有機体は、それらと共に起こる出来事の特別な性質、あるいはそれらの出来事に基づいて構成されるべきある『能力』、例えば代謝、出産、を通して特徴づけられる。この点ではより詳細にそれらを同定する議論をする必要はない。唯一重要なことは、それらは物理的性質、例えば物理学の世界の構成後に構成されることができるようなものであるということである。その本質的性質と関係と有機体に特有の出来事を備えた有機体は『生物学的対象』と呼ばれる。」
 人間と他者の構成。「『私の身体』、つまり我々がまず視覚的対象として構成して(§129)次にさらなる割り当てによって知覚的世界に位置づけられる事物は、有機体に属することを経験的に示すことができる。人間〔men〕のクラスは、私の身体がそれに属するような、有機体の生物学的な分類のクラスとして構成される。このクラスの構成的確定記述はその要素が大きさ、特徴、運動、その他の出来事において私の身体と一致する程度を示すことで与えられる。『私の身体』と呼ばれるものの外に、このクラスに属する(物理的事物としての)『他者の身体』がある」(p. 212)。

・心理的対象と物理的対象の架橋、表現関係、心理物理的関係
 表現関係:「私の身体のある認識できる物理的出来事と同時的に頻繁に起こる自己心理的出来事のクラスに、我々は『表現』としてのそれらの物理的でき五とのクラスを相関させる」(p. 212)。
 心理物理的関係(psychophysical relation):「他者心理的なものの構成は、表現関係の代わりに心理物理的関係(§§19、21)に基づくことができるが、それはもしこの関係がいくらかでもより知られている場合に限る。この場合、その関係は以下のようにして構成されるべきである。私の中枢神経体系のある物理的出来事と頻繁に同時的に起こる自己心理的出来事のクラスに、それらの物理的出来事のクラスは『心理物理的に』相関させられる」(p. 212-213)。


C章 高次のレベル:他者心理的対象と文化的対象 214
・他者心理的なものの構成
 他の人の物理的出来事に基づき、表現関係を用い、心理的出来事をその人に割り当て、これが他者心理的なもの。ここで重要なのは、他者心理的なものの構成は他者の心ではなく身体に割り当てられ、他者の心はもっと後に構成される。また、他者の他者心理的な出来事はその人にとっては自己心理的な出来事である(p. 215)。
 他者の経験の構成。「他者の経験の連なりの全体は私自身の経験とそれらの構成要素の再配列のみから成り立つ。我々は私自身の経験のどれとも対応しない他の人の経験を構成できるが、他者のそのような経験の構成は私自身の経験の構成要素として現れるということは明記すべきであり、それというのも(構成的言語では)基礎的経験を除いて割り当てられるべきものはなく、それから構成されるもの、つまりそれらの疑似構成要素(要素等を含む広義のもの)である。(実在論的言語では)私は他の人の表現的出来事を観察する際には種類において私に知られていないものをそれらから引き出せない」(p. 215-216)。
 他人の心の構成。すでに述べたように、自己心理的なものの完全な領域を形成するために私の経験や意識的な出来事は無意識的な出来事で補われるべきであるが、これと同様に他者の心理的状態の完全な領域に至るために他者の場合も同様に無意識的な出来事で補われるべきである。「したがって構成された『他者の心理的状態』は、クラスとして受け取られるならば、『私の心』と類比的に『他者の心』と呼べるだろう。他者心理的なものの一般的領域はすでに構成された物理学の世界の物理的事物として出現する(つまり身体)全ての他の人の全ての心理的出来事を包含する」(p. 216)。身体なき他者心理的現象はありえず、他者心理的なものは身体を媒介してのみ構成されるのであり、そうでなければ「原則的に認識不可で科学的言明の対象にはなりえない」(p. 216)。

・記号生成(sign production)、他者心理的なものは発言によって表現される
 記号生成。「物理的事物として考えられるならば、他の人は知識の増加、ひいては構成的体系の完成のために特に重要である表現的出来事以外にはある物理的表出〔manifestation〕を表す。それらは記号を与える表出であり、とりわけ話されたり書かれた言葉であり、我々はそれらを記号生成と呼ぶ。それらは構成的体系の拡大、ほとんど全ての種類の多数の構成可能な対象の増加を可能ならしめる」(p. 217)。
 他者心理的なものは発言によって表現される。「手始めに、〔記号生成と表現的動作、それらと指示されたり表現されるものの間の〕依存は、他者心理的現象ほ全ての把握は記号生成や表現的動作の媒介に依存しているという事実になり立っている。さらに、把握可能で把握される内容の本性全体は媒介する発言の本性に依存している。言い換えれば、他者心理的なものは(直観的にであろうと)(表現動作や記号生成の)発言の意味として把握される。発言の意味は発言の物理的性質の独特な関数である(……)。構成はこの関数を述べるので、認知プロセスの過程は構成によって誤解されることはない(……)。……構成そのものは全く何のプロセスも示さないが、上述の論理関数のみを示す」(p. 221)。

・他者の世界は私の経験に基づく構成的体系の枝である
 他者Mの世界は私の基礎経験に基づき、後者と類比的に構成され、構成体系の枝である。Mの経験は表現関係と報告関係を通して構成されるものであり、私に与えられる基礎経験よりも数や多様性では劣る。「この不完全性にもかかわらず、我々は構成的体系のはじめから基礎的経験に適用してきたのと同じ構成的形式をそれらにも適用できる。より正確には、基礎的関係Rsによって以前に進められた構成的段階は今や類比的に、Mの諸経験で成り立つところのRsMでも進められる。したがって、我々はすでに使える構成的定義をRsをRsMんい置き換え、定義された記号(例えば、colorM、qualMなど)へと(Mを示す)適切な下文字付きの文字をつけることで変形することで新たな構成的定義を定式化する。したがって我々は『Mの対象』、そしてこれから『Mの世界』を構成する。
 ここでもなお我々は自己心理的基礎を放棄することはない。『Mの対象』の全ては未だ一つの構成的体系の対象であり、したがって元をただせばその体系の基礎的対象、つまり基礎的経験(私の経験!)の間になり立つ関係に遡る。しかしながらその中でMの構成的体系について語りうるようなある意味があり、これによって高次のレベルが分岐するような『the』(あるいは『私の』構成的対象のある枝を意味するにすぎない」(p. 223)。
「SM〔Mの全体としての構成体系。Mは小さい文字で、Sの右下に来る〕はS〔(私の)全体としての構成体系〕内部の部分体系でしかない。Mの世界は私の世界内部で構成される。それはMによって形成されるものと考えられるべきではなく、Mに関して私によって形成されるものである」(p. 224)。

・間主観的なもの
間主観的対応「一対一対応がSにおける物理学の時空間的世界とSMにおけるそれとの間に以下のようにして成り立つ。SMの物理的諸世界点に関して成り立つ時空間的関係もまたSの対応する諸世界点について成り立つ。同じことは質的関係(つまり、割り当てに基づいて成り立つ関係)にも真である。後に説明する理由により、我々はこの対応を『間主観的対応』と呼びたい。a類比的な構成によってSの対象Oと対応するSMの対象を、我々はOMと呼ぶ。今や我々は記号OMを、対象Oに間主観的に対応するSMの対象に割り当てる。SとSMの二つの間主観的に対応する対象は(実在論的言語では)それが私と他の人により、(私が知る限りで)Mによって認識されるものとして認識されるならば、『同じ』対象を表する」(p. 224-225)。
 間主観的に伝達可能(intersubjectively communicable):「それら〔SとSMの間主観的に対応する対象〕は実質的性質と呼ばれることができるであろう性質において一致している。このように一致する性質とそういった性質についての文を我々は間主観的に伝達可能(より正確には、『SとSMの間で間主観的に伝達可能』)と呼びたい。他方、Sのみに、あるいはSMのみに属する性質と、それらについての文を、我々はそれぞれSにおいて主観的、あるいはSMにおいて主観的と呼ぶ。間主観的に伝達可能な文は、例えば、二つの質の類似性についての文、さらには色、大きさ等々の与えられた対象についての文、そしてまた与えられた時に与えられた人の感情についての文を含むことを見て取るのはたやすい。さらに、構成的形式についてのある文、例えばある対象があるクラスないし関係、そして類似したものとして構成されるべきかどうかについての文は、間主観的に伝達可能である。しかしSの、あるいはSMの対象の構成の形式についての大部分の文はそれぞれSにおいて、あるいはSMにおいて主観的として記述されるべきである……さて、人物Mについて述べられたあらゆる事柄は残りの『他者』、故に例えばN、P等々についても成り立つ。ここで、SとSNの体系の、そしてまたSとSPとの間、等々には一対一の間主観的一致がある。……さて、もしSMとS、またSとSNの間に一対一対応がなり立つならば、SMとSNの間に一対一対応が存在し、この対応は前の対応と同じ性質を持つ。したがって一般的な一対一対応がそれら全ての体系の間に存在するということは、とりもなおさず私自身を含む全ての人(つまり私に知られ通常の人)の全ての世界の間にも一対一対応が存在するということである。そこで、我々は『間主観的対応』によって、もはや二つの与えられた体系の間の対応ではなく、この一般的対応を意味することにしたい。また、類比的な仕方で、我々は『間主観的に伝達可能な性質』と『間主観的に伝達可能な文』によって今からは、それらの対象は外の体系の間主観的に対応する対象によって置き換えられる時に継続して成り立つようなものを意味したい。何らかの体系の与えられた対象と間主観的に対応するような様々な体系の全ての対象のクラスを、我々は『間主観的対象』と呼ぶ。さらに、その要素の間主観的に伝達可能な性質に基づいて保持するそのようなクラスの性質を、我々は『間主観的性質』と呼び、間主観的対象の間主観的性質についての文を、我々は『間主観的文』と呼ぶ。……我々は例から、間主観的対象は間主観的対応の抽象クラス(§73)であることが容易に見て取ることができる。それらの対象の世界を我々は『間主観的世界』と呼ぶ。個々の体系の間主観的に対応する対象に基づいた間主観的対象の構成の指示された(疑似分析)手続きを、我々は『間主観化』〔intersubjectivizing〕と呼ぶ」(p. 228)。

・パースペクティブと身体
「mb(私の身体)とmb^M(Mの観点からの私の身体)はなるほどいずれも物理的事物であるが、mbM(M自身によってみられる限りのMの身体)とは違ってmb~Mはmbの構成への類比から構成されるものではなく、それというのも我々は『私の身体』としてSにおいてmbを構成する一方でmb~Mは『他者の身体』の形式においてSMにおいて構成されるものであるからである。二つ目の違いは逆方向である。M(私に見られたMの身体)とMM(M自身に見られたMの身体)はなるほどいずれも物理提示物であるが、別々に構成される。Mとの類比において構成されるようなSMの対象はない(そこでMMとして指示される対象はない)。(mb~Mの構成形式は似ているが、正確にMの構成形式と類比的なのではない)SにおけるMは『他者の身体』として構成される一方で、SMにおけるMMは『私の身体』として構成される(Mm=mbM)」(p. 225)。

・科学の世界としての間主観的世界
「間主観的世界(上で与えられた構成の意味で)は科学の実際の対象領域を形成する。しかし科学は間主観的言明のみならず、間主観的言明に対応するか間主観的言明に変形されうるような非間主観的言明も含む。この変形は科学の仕事の一つであり、科学は排他的に間主観的な言明の提供を行うことをその狙いとする。……科学のこの特徴は間主観邸に伝達可能ではない全ての文、つまり主観的な文を科学の領域から根本的に排除することではない。そのような文はその文の主人〔発言者〕に言及するような再定式化を通して科学的に言い表される」(p. 230)。

・文化的対象の構成
 基本的な文化的対象(primary cultural object):基本的な文化的対象はそれを基礎としてその他の文化的対象が構成される対象である。「全ての基本的な文化的対象はすでに示されたような仕方で表明に基づいて構成される。様々な文化的領分のどのような対象が『基本的な』文化的対象として構成されるべきかを研究するのは文化的科学の論理学の仕事である。……残りの文化的対象は基本的な文化的対象に基づいて構成されるが、心理的、時折物理的対も用いられる」(p. 231)。
 例。国家の構成。「対象『国家』は多分以下のような形で構成されうるであろう。人々の関係的構造は、表明、つまりそれらの人々の心理的な振る舞いとそういった振る舞いへの配列、とりわけいくらかの人たちの一部が他の人の意志に働きかけるような配列を通し、しかじかの仕方で、特徴づけられるならば、『国家』と呼ばれる」(p. 231-232)。
 集団はクラスではなく関係外延として構成される。「社会的集団ないし組織は、他のもののうちで最も重要な高次の文化的対象である。その社会的集団の成員の配列順序は集団の特徴に属するため、その構造(たとえば民族、家族、会合、国家等々)はクラスとしてではなく、関係外延として構成されるに違いない。集団を暮らすとして構成することが許容可能ではないということは、二つの異なった集団の成員が同一である可能性から引き出される」(p. 232)。

・心理的対象からの文化的対象の構成は心理化ではない
 文化的対象は心理的対象から構成されるわけであるが、これは心理化(psychologize)ではないという反論。「構成はが新しい論理的レベルの形成へと導くならば(文化的対象の場合であり、とりわけ文化的対象の高次のレベルでは非常に示される)、こうして構成された対象は異なったあり方をしている。あるいはより正確にはそれらは異なった対象領域(§§29, 41f)。したがって我々の文化的対象の構成の仕方は心理主義ではない(§56も参照)」(p. 232-233)。

・価値の領域
 価値(カルナップの挙げる種類の型では、倫理的価値、美的価値、宗教的価値、生物学的価値等)は「知覚経験」(より正確には感覚質)から物理的事物が構成されるのと類比的な仕方で、価値経験(value experience)から構成される。「例えば、倫理的価値の構成のために、我々は(他の経験のうちで)良心の経験、義務や責任の経験等を考えるべきである。美的価値のために、我々は(美的)快の経験、芸術品の鑑賞での他の態度の経験、美的想像の経験等を取り上げる。様々な価値型の価値経験の個別の本性は価値の現象学によって研究される。我々はこの主題の詳細にはここでは関わらない」(p. 233)。
 価値経験なるものがよく分からない。新カント主義の用語か?



第五部 構成理論に基づく哲学的諸問題の明晰化
A章 本質についての諸問題 247
・個物概念と一般的概念の違い
 最初の方に犬を例にとって述べられているように、一般的概念のみならず個物概念もクラスないし関係外延であるという点では同じである。「いわゆる個別的対象はいかなる意味でも一般的対象よりも論理的に単純でも斉一的でもないということは特に記されるべきである」(p. 250)。
 ではなぜ種としての犬や茶色の感覚質などは一般的と呼ばれ、犬のルクスや世界点、経験は個物と、あるいはそれぞれ「単なる概念」と「対象」と呼ばれるのか? 個々の対象は特定の時空間的な秩序に結びつけられ、時空間の領域が割り当てられているているが、一般的概念は時空間の秩序に結びつけられず、その他の秩序に結びつけられている。例えば茶色は色立体の点に属し、種としての犬は動物学的な立体(zoological solid)、すなわち動物種の体系の点を割り当てられている。「したがって、個別的対象と一般的対象(ないし概念)の違いは時空間的秩序とその他の秩序の区別に基づいている」(p. 248)。

・同一性
 同一性にまつわる問題が起こるのはある対象が「A氏の誕生日」や「1832年5月22日」のように複数の名前を持つ場合である。これらは同じ指示対象(nominatum)を持つが、意味は異なっている。「置き換え可能性は同じ指示対象の基準である。二つの指示記号〔designations〕は、各々の指示記号の一つの置き換えが他のものへの置き換えでも同じなままであるような真の文になる命題関数ならば、同義〔synonymous〕と言われる。これは論理的同一性の定義である」(p. 251)。
 異なったものの同定に関しては二つの接近法ないし話法が用いられている。第一の接近法で我々は同一性ではなく様々な他の関係に関わっており、同一性を拡張している。第二の接近法で我々は類似性にではなく厳密な意味での同一性に関わっており、個別の対象の間の同一性ではなくクラスや関係外延といった、対象がその代表であるところの高次のレベルの対象に関わっている(p. 252)。(1)「Aの公共交通機関システムはBのそれと同じ鉄道を持つ」、(2)「今日、私は昨日と同じ、つまり6時12分の電車で家に帰った」、(3)「これは10番線の走るのに用いられているのと同じ電車である」、(4)「私はあなたが走るのを見た電車に座っていた」という四つの例文があげられている。第一の接近法でいえば(1)は構造と外見の類似、(2)日の同じ時間ないし時間予定での同じ地点、(3)「genidentity」(§128)つまり様々な事物状態(thing-states)と一つの対象との連結、(4)事物状態の間主観的対応ということになる。第二の接近法では電車は高次のレベルの対象の代表と捉えられており、先の例文の同一性は以下のようにみなされる。(1)電車のクラスとしての製造パターン、(2)毎日午後6時12分の電車の電車の走行のクラスとしての配列(3)状態のクラスとしての物理的事物「電車」(4)間主観的対応のある対象のクラスとしての間主観的相性「電車」。

・構成的本質と形而上学的本質
「もし我々が対象の『構成的本質』を問うならば、我々はこの対象の体系内での構成的文脈、とりわけこの対象がいかにして基礎的対象から導出されうるのかを知ろうとしていることになる。他方、誰かが対象の『形而上学的本質』を問うならば、彼は問題の対象がそれ自体で何なのかを知ろうとしていることになる。このような問いは、対象がある構成的形式として存在するのみならず、『対象自体』としても存在するということを前提としており、これが形而上学に属するものとしてその質問を特徴づけている。このことはしばしば見落とされ、かくしてこれと同じ質問が時折形而上学ではない科学に現れ、そこではそういった問いは正当性も意味も持たない」(p. 256)。
「厳密に言えば、問いは『この対象記号の指示対象は何なのか?』ではなく、『この対象が現れうるどの文が真なのか?』である。『我々は記号の指示対象、それどころか対象記号についてではなく、文の真偽についてのみ曖昧さのない調査ができる。』したがって対象の本質の指示ないし、これと同じことにいきつくもの、対象の記号の指示対象についての指示は、この対象の記号が現れることができるような文の真理の基準の指示を成り立たせる。そのような基準は様々に異なった仕方で定式化されうるのであり、そこでその様々な仕方は問題になっている本質記述の各々の特徴を示す。ある対象の構成的本質はが示されるべきであるならば、基準は対象の構成図式で成り立ち、それは我々にその対象の記号が現れるあらゆる文を低次の構成レベルの対象についての文、最終的には基礎的(諸)関係のみについての文への段階的な翻訳を可能ならしめすような変換規則である」(p. 256-257)。
 対象それ自の本質-指示対象そのもの、構成的形式-文という類比ができており、対象はそれ自体で孤立して扱うことはできないというわけか。

・物心二元論
 物理的や心理的などの対象型の違いは基礎的経験の秩序付けの違いであり、空に散らばる星で正座を作るようなものである。物理的なものと心理的なものは「世界の二つの原理ないし側面としてみなされる」(p. 259)。
 物心二元論の切り分け方は絶対的なものではない。「二元論についての古い形而上学的問題は、科学がまず二つの対象型、より正確には構成的形式の独立性を認めているため、物理的なものと心理的なものに限定されている。他方、他の対象型(とりわけ文化的対象、生物学的対象、そして価値)は、それらの身分の物理的対象と心理的対象との等しさは目下未だ議論されているもかかわらず(cf. §25のさらなる対象型の例)、独立したものと認識されていた。……したがって、最後の分析では、二元論は二つの重要なものへの恣意的な限定であるが、根本的に支配的な対象領域ではないということになる。世界の根本的な組成についての理論としてそれを維持できないことは確実であるが、世界に側面ないし実体の無限定な数を認める多元論に道を譲るべきである。しかしそれは基礎的(諸)関係に基づいた要素の秩序付けの可能な形式の数の無限定性でしかない。結果としては同じままであり、認識可能な世界では、なるほど(もし完全に秩序づけされうるならば、何らかの領域において)秩序付けの形式の数は無限定であるが、秩序付けされうる要素の斉一的な型でしかない」(p. 259-260)。
 以上の議論にカルナップへの新カント主義の影響を見て取れるのではなかろうか。「ナトルプの見解では、これは我々のものに関係がある考えであり、この物心二元論の排除はカントに遡るという。ナトルプ[Psychol]. 148曰く、『カントによれば『もの』、つまり内的と外的な感覚は一つにして同一のものであり、『形式』、つまり秩序づけの仕方を通してのみ区別される』」(p. 260)。

・因果性
「知覚的世界をかなりの程度に補う、そしてそれなくしてこの領域の大部分の構成が可能にならないようなこの領域の構成を補う知覚的世界の法則」(p. 263)。これはとりもなおさず因果性であり、カルナップによる規定は以下の通り。「『質が(四次元の)区域の世界点へとしかじかの仕方で割り当てられるならば、しかじかの種類の質が、その場所が最初の区域の場所にしかじかの関係を持つような他の区域の世界点に対して割り当てられ、あるいは割り当てられるべきである』。もしが含意を通して結合しているような二つの区域が同時ならば、我々は『状態法則』に関わっていることになり、それらの一方が次にくるならば『過程法則』にである。もし二つの四次元の区域が類縁的であるならば、我々は『類縁法則』を持つことになる。状態法則の場合、我々は空間的類縁性を持ち、過程法則の場合、時間的類縁を持つ。後者の場合(時間的類縁を持った過程法則)、その法則は因果法則と呼ばれる。時間的な類縁性がある、つまり他方の次にきてそれらの間が独立である二つの四次元区域で、我々は先のものを後の方の原因と、一方この後の方の区域は先の方の結果と呼ばれる」(p. 264)。かなりヒューム的な理論。
 科学では、因果性は関数のある種の依存性でしかないが、これが「真の」関係、「本質的な関係」、「生成する」、「生み出す」あるいは」もたらす」といったものであるという風にさらに押し進められることがあり、「この場合には物理学は関数の依存性の探求に甘んじず、なによりも『真の原因』を確かめるべきだ」(p. 265)という見解が物理学者や認識論者にすら生まれる。 「もし我々が知覚的世界ではなく、物理学の純粋に質的な世界、徹頭徹尾物理学が関わっている世界を考えるならば、この見解にある誤りはより明らかになる。物理学の世界では、原因と結果の関係が互いに成り立つような出来事については語ることすらない。『原因』と『結果』という概念は知覚的世界の内部でのみ有意味であり、したがってそれらはこの世界内部での概念定式に結びつく印象に感染される。実際、物理学の世界の過程の法則、つまり物理学の因果性は出来事の間の依存性ではなく、状態と、状態量の割り当てと関係するある限定する値(つまり状態量の時間的な区別できる商)との依存性と述べられる」(p. 264)。


C章 実在についての構成的あるいは経験的問題 273
・経験的実在(empirical reality)、実在的と非実在的
 経験的実在とは、「経験科学において現れる実在の概念」(p. 273)であり、物理的対象、とりわけ物理的物体(physical bodies)について述べる。「それらの物体は関連づけられた世界線の束に位置を占めて物理学の時空間的世界の全てを包含する四次元的体系(§136)の中に位置づけられる物理的点のクラスとして構成されるならば、『実在的』と呼ばれる。他方、それ自体で取り上げられ、実在する物理的物体と同じないし似た組成を持つ、つまり物理的割り当てを持った世界点の四次元秩序にあるが、一なるものの部分でなく、包括的でもなく、物理学の世界の四次元体系にもないような事物は、似た組成を持つために『物理的』と呼ばれるが、体系の全体に属さないために非実在的物理的事物と呼ばれる。非実在的な物理的事物の構成は様々に異なった仕方で起こる。一般的に言って、実在的なものを含む物理的事物の構成は、実在的か非実在的かについては最初は開かれている。この決定がなされるのはその後、体系の全体にそれらを位置づける可能性にかかっている。これは物理学の世界の前段階である知覚の世界ですでに成り立つ」(p. 273-274)。
 非実在的なものの例。視覚的知覚から構成されるものとしては夢、幻覚、催眠暗示、他の人の主張に基づくものとしては嘘、虚構なるもの、過ち等々。

・実在的/非実在的な心理的・文化的対象
 実在的/非実在的心理的対象。「もしある対象が、それ自体で取り上げられて内的構造に則って自己心理的と通常呼ばれる出来事ないし状態の組成を持つような仕方で構成され〔constituted〕、いずれにせよこの対象は私自身の経験、他の人の主張あるいは自由な刺激に基づいていているならば、『心理的』と呼ばれる。加えてもしそれが結合されていて時間的に秩序づけられた自己心理的対象の体系内部に場所を占めることができるならば、それは『実在的な自己心理的対象』と呼ばれる。もしある〔心理的〕対象が、他者心理的なものに本来的な構成的形式二則り、ちょうど議論された意味で実在的な物理的対象であるところの他の人に割り当てられることがでいるならば、我々はそれを『実在的な他者心理的対象』と呼ぶ。それらの仕方で置かれることができないならば、それは『非実在的な心理的対象』と呼ばれる」(p. 275)。
実在的/非実在的な文化的対象。「それ自体で取り上げられ、我々が文化的と呼ぶ対象の組成を持つような仕方で構成される対象は、各々の場合に実在的であろうがなかろうが『文化的対象』と呼ばれる。もしその表明が実在的な心理的対象に属するならば、その文化的対象は実在的と呼ばれ、そうでなければ非実在的と呼ばれる」(p. 275)。

実在型の対象(real-typical object)
 実在的か非実在的かのいずれかである対象と、その区別が適用できない対象との区別はより複雑なものであり、前者のような対象は実在型の対象と呼ばれる(p. 276)。この区別はこの概念を「経験的客観性」と呼ぶ引用されているクリスティアンセンの「我々が実在的であるか否かを問えるような対象の本性とはなんであるべきか?」という問いの形で明確になるはず。ここでは個別事例が述べられるだけで一般的定義はなされず、「実在型の概念の恣意的で偶発的な線引き」(p. 279)の形で示されるのみである。


D章 実在についての形而上学的問題 281
・二つの実在概念
 構成的ないし経験的実在:「ある対象が経験的科学の通例的な用法で実在的と呼ばれるためには、構成的(経験的に裏付けられうる)条件が満たされるべきである」(p. 281)。
 形而上学的実在:独特な意味の実在概念であり、「最も一般的に、それは『認識する意識からの独立』として特徴づけられる」(p. 281)。

・実在論、観念論、現象論における実在
「これらの学派はそれらは実在を第二の意味で様々な程度(経験的に実在的なものの領域内)で対象領域へと帰している事実によって互いから区別される。『実在論』は構成された物理的対象と他者心理的対象は実在的であるとしている。主観的『観念論』は他者心理的対象は実在的だが物理的対象はそうではないとしている。より過激な形態の『独我論』は他者心理的対象の実在すら否定する。(客観的観念論は実在を我々の体系内部では構成されない超個人的なもの〔superindividual〕、絶対的な主観に実在性を帰しており、ここでは我々は目下の脈絡でこの学派を検討すべきではあるまい。)『現象論』は実在的な事物は自己心理的なものの領域の外に存在するという点では実在論に一致するが、他方で物理的なものにこの実在性を否定することで観念論と一致する。現象論によれば、実在性は、その現れが物理的対象であるところの認識できない『物自体』に帰属する」(p. 282)。

・形而上学的実在の概念は経験的な構成的体系では構成されえない
 経験的な観点からは、変化を作ろうという意志の行動がその対象に変化をもたらさないならば、その対象は「私の経験から独立」と呼ばれる。だが、実在論と観念論によって意味される実在概念はいずれも「私の経験から独立」とは合致しない。それというのも、手身近にある物理的物体は意志の適当な行動で変化を被るため、実在論での実在は否定され、実在論の立場とは相容れない。他方、我々の技術的射程の外にある物理的事物、たとえば月のクレーターは構成理論での定義では実在するということになるので、観念論での実在概念とは相容れない(p. 283)。
 つまり経験的なものにしかタッチしない構成的体系では「認識する意識からの独立」という意味での実在は構成できないというわけ。

・構成理論は実在論、観念論、現象論と矛盾しない
 構成理論と実在論は以下の点で一致する。1.経験的に実在的な対象は同じ対象型の非実在の対象(夢、幻覚等)から明らかに区別できる。2.それらにおける実在的な対象は間主観化でき、他者のものである構成的体系に位置づけることができる。3.実在的な対象は表象されていな時でも存在し続けるという意味で、認識されるということから独立している。4.実在的な対象は私のしかるべき運動と物理的因果性の連鎖が結合しない限り、変化しないという意味で私(の意志)から独立である。5.実在的な対象は予測を可能ならしめるそれ自身の規則性で律されている。それ故に両者は矛盾しない(p. 284-285)。
 構成理論と観念論の諸形態との一致。「構成理論と主観的観念論は、認識対象についての文の全ては原則的に所与の構造的性質についての文へと変形されうるという主張において互いに一致する(……)。構成理論は所与は私の経験であるという考えでは独我論と一致する。構成理論は認識の全ての対象は構成される(観念論の言語では『思考において創造される』)という考えでは超越論的観念論と一致する。事実、構成された対象は特定の仕方で生み出される論理的形式でのみ概念的知識の対象である」(p. 285)。
 構成理論は、「物自体」の存在の主張は別として、現象論とも一致する。

・一致を見ないのは形而上学の領域である
 三つの学派が互いと構成理論と共通して一致する点。「つまるところ全ての知識は、互いに関係して結合されて総合されるところの私の諸経験から由来する。したがってまず私の意識の様々なものへ、次いで物理的対象へ、さらに後者の助けを得て他の主観の意識の現象、つまり他者心理的なものへと、他者心理的なものを媒介として文化的対象へと導く論理的な前進がある」(p. 286)。
 それら三つの学派が互いに食い違う点は第二の実在に関わる点、つまり形而上学に属する概念においてである。「いわゆる実在論、観念論、そして現象論といったいわゆる認識論の学派は認識論の領域では一致する。構成理論はそれらに共通する中立的基礎を表現する。それらは形而上学の領域でのみ、つまり(もしそれらが思考の認識論的学派を意味するのならば)適切な境界の違反のために食い違う」(p. 286)。

・実在論的言語の使用と実在論の主張は別のことである
「しかし我々はここである種類の言語の使用とあるテーゼの主張とを明らかに区別しなければならない。物理学の実在論的傾向はそもそも実在論的言語の使用を示している。これは実践的で正当化可能なことである(cf. §52)。他方、明らかなテーゼとしての実在論はこれの向こうへとむかい、許容できないし、『客観主義』〔objectivism〕になる限りで正しいに違いなく、〔客観主義というのは対象は〕(自然法則において含意文として表現される)規則的な結合は客観的で個々の意志とは独立である。他方、『実在的』という性質の何らかの実体(物体、エネルギー、電磁場等何であれ)への帰属は経験から導出され得ず、形而上学的である」(p. 287)。


E章 科学の狙いと限界 288
・科学の狙いと構成の関係
 科学の狙いは認識対象についての新なる文の発見と秩序化にある。その第一段階として対象についての文を作るためには対象を構成できなければならない以上、「構成的体系の形成は科学の第一の狙いである」(p. 288)。第二段階として、対象の非構成的な性質と関係の研究が来る。「第一の狙いは規約を通して、しかし第二のそれは経験を通して到達される。(構成理論の見解では、認識には規約的なものと経験的なものという二つより他の要素はない。したがって総合的ア・プリオリはない。)」(p. 289)。
 検証。対象についての文は基礎的対象から構成されてはじめて意味を持つ。「それというのも対象の構成様式は――それについての文の基礎的対象についての、つまり基礎的経験の間の関係についての文への翻訳規則として――そのような文へ検証可能な意味を与えるのであり、それというのも検証は経験に基づいたテストを意味する」(p. 289)。

・科学的知識の限界
「我々が科学的知識には限界がないと言う時に意味しているのは『その答えが科学によって原則的に与えられないような問いはない』ということである」(p. 290)。問いは真偽を決定できるべきであるが、意味を持たない言葉の使用、あるいは意味を持つが不適当なしかたで用いられるならば、意味を失う。「自然言語における疑似文の認識における困難は、我々が以前に論じた(§30)与えられた語言語における『領域の混乱』の問題に関わっている」(p. 291)。つまりは、経験的に意味を持つ仕方で言葉を使って組み立てられた問いは(現在の技術的問題はさておき)原則的に答えを与えうるが、不適切な仕方で組み立てられた場合、真偽を確定できず、答えを与えることができない。

・信仰と知識
「したがって、例えば、ある啓示、あるいはある人の主張における信仰は、さらなる研究を通して知識へと導くことができ、この場合信仰は真であるのと同じ意味を持つ。他方、信仰によって概念的に定式化されえない何物かとしての人の内面的態度が意味されるのであれば、我々は理論の領域の内部にすらおらず、この態度の結果は知識と呼ばれえない。それは直観と似ている」(p. 293)。

・構成理論は合理主義なのか? 科学と人生の問題
 蓋し、カルナップがここで述べている「合理主義」(rationalism)は今日的には科学主義と呼ばれるものに近い。「提示された立場、つまり、(合理的)科学は何らかの対象を相手取るだけでなく、限界をも持たないし、原則的に答えられない問いとも決して遭遇しないという立場は時折『合理主義』と呼ばれる」(p. 296)。
 科学は人生の問題にはノータッチである。「しかしながら、『合理主義』という語は今日では大部分の場合、ひょっとするとこの場合には現代的な意味で、つまり非合理主義に対立するものとして用いられている。しかしこの場合ですら我々はそれを構成理論に適用したいとは思わない。全く、その語が意味しているのは、我々と同様に『知識』の分野内部で指導的役割を理性(つまり概念化の理解)に与えようという立場ではなく、全体としての『人生』に関してそのような地位を理性に与えよういう説得に適用されるものである。しかしそのような傾向は構成理論一般にも、概念的知識は限界を持たないという考えにも見られない。科学では原則的に解決できない問いはないと誇るテーゼは、全ての問いが答えられてもなお人生が我々に投げかける問いは決して解かれえないという卑下した見解と見事に一致する」(p. 296-297)。
「別の提示の仕方では、『知り得ぬもの』〔Ignorabimus〕は我々になく、にもかかわらず解くことのできない人生の謎は恐らくある。これは矛盾ではない。『知り得ぬもの』では、原則的に答えを見つけることができない問いはないということを意味するつもりである。『しかし“人生の謎”は問いではなく、実践的状況である。』『死の謎』は仲間の死による衝撃や自らの死への恐怖から成っている。誰かが自らを騙して時折彼らはこの問いを問いの形で述べることで定式化したと信じたとしても、死について尋ねられうるような問いとそれは関係ない。原則的に、それらの問い〔死について尋ねられうるような問い〕は(今日は非常に小さな程度だとしても)生物学によって答えることができるが、それらの答えは、死の謎の定式化としてそれらをみなす自己欺瞞を示す悲しみに暮れた人には何の助けにもならない。むしろその謎はこの人生の状況の『乗り越え』、衝撃の克服、ことによるとその人の後の人生を実りあるものとさえするという仕事を成す。全ての問いは答えうるという我々のテーゼはなるほどこの克服の仕事とは繋がりを持たないが、この繋がりはあまりにも離れているためにこのテーゼは原則的に常にこのような圧迫を乗り越えることができるかどうかについて何の主張もしないのである」(p. 297)。



哲学における疑似問題
I. 認識論の狙い
A章 認識論的分析の意味 305
・認識論的分析の何たるか
 認識論的分析とは「経験内容の分析、より正確には経験の理論的内容の分析」(p. 308)、平たく言えば還元のこと。「ここでは、ある内容は他のものに『還元される』、あるいは『認識論的に分析される』。また論理学は(文で表現される)ある命題の妥当性の他の命題の前提された妥当性からの派出(『推論』)を教える。論理的な派生は概念の再編を通して起こり、派生した命題において新しい概念は現れないであろうというのが〔認識論的分析との〕違いである。他方、認識論的派出の特徴は、分析される認識、つまり、正当化され導出されるべき文は前提に現れない概念を含む。認識内容の分析のために、認識論は様々な区分(自然科学と文化科学)における(経験的)科学の対象(概念)を研究しなければならない。それは与え等得た対象の認識が他のどの対象に『還元される』のかを裏付けなければならない。ここで、対象の『分析』は『高次』の対象が『低次』の対象に還元されるという試みである。もはや還元されない対象は『(認識論的に)根本的』と呼ばれる」(p. 306)。

・充分要素と可欠要素(sufficient/dispensable constituent)、経験の理論的内容の論理的分割
「ある経験の要素b(例えば鍵の視覚的現れ)が要素a(触覚的形状)に対して可欠的と言うのは、bは私の先行知識共々aにすでに含まれない情報を私に与えないと言うことである」(p. 310)。挙げられている例では、すでにしばしば見た鍵を、その時は視覚的形状の表象を得ることなく、触るだけでこれが自分の家の鍵であると認識する場合、触覚的形状さえあれば充分であり、視覚的形状はこれが自分の家の鍵の認識にあたって余分で必要ではない。この場合、触覚的形状が充分要素、視覚的な表象が可欠要素となる。
 aと先行知識からbを推論することが「合理的再構成」である(p. 310)。

・経験内容の核(nucleus)と二次的部分(secondary part)
「もし要素aとbが『(認識論的)核』並びに『二次的部分』呼ばれるならば、手始めにbはaに対して可欠要素である。これに加えて―そしてこれが『認識論的』分割とここで我々が呼ぶ理由なのだが―bは知識的にaへと『還元される』に違いない、つまりbの認識はaの認識に『依存しており』、aは『認識的に先行』〔epistemically primary〕する」(p. 313)。
 両者を分け、両者を関係づける基準は二つあり、一つは核による二次的部分の正当化可能性であり、もう一つは二次的部分が間違っていても核で得られる知識が損なわれないことである。


B章 応用:他者心理的なものについての知識 316
「他者心理的出来事のあらゆる具体的認識の認識論的核は物理的現象の知覚から成り、あるいは換言すれば、他者心理的なものは物理的なものの(認識論的に)二次的な部分である」(p. 316)。そしてまた、物理的対象は充分要素、他者心理的対象は可欠要素でもある。基本的な論点としては他者心理的対象は物理的対象に還元されるということであり、詳細に関しては基本的に『構築』ですでに述べられたことの繰り返しなので端折る。


II. 知識の理論からの疑似問題の排除
A章 意味の基準 325
・事実的表象と対象表象
「もしその表象の内容が事実であるもの、つまり起こるか起こらないかする、ひいてはその表象の内容に対して是か否を言うことができる何物かを意味するならば、我々はそれを『事実的』表象と呼ぶ。他の全ての表象は『対象表象』と呼ばれる。例えば、もし私がこの人はあるの環境にいるという表象を持ち、私がこの人はこの環境に今いると信じているならば、その表象は事実的であり、それは真であろうと偽であろうともである。他方、もし私がその環境にある人のことを考えるだけであり、場所や時間についての信念を持っていなければ、私は対象表象を持っていることになる。しかし、場所や時間の何らかの確定のない人の単純な表象は、それらの性質が例えば、この人はしかじかの色の紙を持つというように現前していると主張されるならば、事実的でありうる。ここでは、表象が事実的であるかただの対象表象であるかは、その人の意図に本質的に依存している。第一の場合に経験は特定の事実が存在するということの肯定なり否定なりの判断の行動を含んでいる。……事実的表象は文の内容を形成し、他方対象表象はそれができない。対象表象の内容の言語的表現は(形容詞、同格等々を伴うであろう)名詞である」(p. 329)。要するに、文の形で表現できるような表象と、そうでないものとの違いであろう。

・随伴表象(accompanying representation)
 随伴表象は文に付随することがあり、文の、あるいは文に感じる「音楽的調子や幸せな感じ」(p. 330)、あるいは「このベンチは小さい」という文を聞いたときに思い浮かべた緑色のベンチの、文には含まれてないはずの緑色である。そして時にこの随伴表象のおかげで疑似文、すなわち記号の無意味な集まりが生まれる。「随伴表象は、文の内容になることができないため、真と偽の彼方にある」(p. 330)。
 しかし随伴表象には悪いことばかりではなく、「2足す2は4に等しい」という文で足し算の演繹を分かりやすくしたり、図で幾何学の内容を理解しやすくできるというようなメリットもある。


B章 実在論論争への応用 332
 両論の対立の争点になっていることは疑似問題であり、無意味であるというのがそのあらまし。

・実在論と観念論それぞれのテーゼ
「実在論のテーゼによって我々は以下の二つのテーゼを意味する。1. 我々を取り巻く知覚された物理的事物は我々の知覚の内容であるだけでなく、それに加えてそれ自体で存在する(『外的世界の実在』)。2. 他の人の身体は私の身体の反応に類似した知覚的な反応を示すだけでなく、それに加えて他の人は意識を持つ(『他者心理的なものの実在』)。観念論のテーゼはそれらに対応する否定と同一である(しかしそれらの二つ目は観念論の過激な立場、即ち独我論でのみ維持される)。1. 外的世界はそれ自体実在的ではなく、その知覚ないし表象でしかない(『外的世界の非実在』)。2. 私自身の意識の過程のみが実在的であり、いわゆる他者の意識的過程は構成物、あるいはただの虚構である(『他者心理的なものの非実在』)」(p. 332)。しかし、それらは意味を欠いているため、肯定も否定もできない。これらのテーゼは実験によってテストされえないし、それらの争点は事実的内容ではない。




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