プラトン『ソクラテスの弁明』
プラトン『クリトン』
プラトン『プロタゴラス』
プラトン『エウテュデモス』
プラトン『カイレポン』
ヒューム『奇跡論・迷信論・自殺論』
ヒューム『道徳原理の研究』
マンデヴィル『蜂の寓話』
『世界の名著 (46) コント・スペンサー』
エア『言語・真理・論理』
Ayer, ‘Verification and Experience’(1936)
Ayer, ‘Preface’ of “Logical Positivism”(1959)
カルナップ, ‘テスト可能性と意味’(1936)
Carnap, ‘On the Application of Inductive Logic’(1947)
Neurath, ‘Unified Science and Psychology’(1933)
Neurath, ‘Unified Science and Its Encyclopedia’(1937)
Neurath, ‘The Departmentalization of Unified Science’(1937)
Schlick, ‘The Turning Point in Philosophy’(1930)
Schlick, ‘Positivism and Realism’(1932)
Schlick, ‘The Foundation of Knowledge’(1934)
Schlick, ‘Fact and Proposition’(1935)
Stevenson, ‘The Emotive Meaning of Ethical Terms’(1937)
Richardson, ‘Science as Will and Representation’(2000)


戻る


『ソクラテスの弁明』
・罪状に対する弁明
 ソクラテスの罪状は(1)「彼は天上天下のことを追求し、弱論を強弁するなど、いらざるふるまいをなし、かつこの同じことを他人にも教えている」(19B)。そして(2)「青年に対して有害な影響を与え」(3)「国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモンのたぐいを祭る」(24B-C)という三つに大別される。
 (1)まではソフィスト(知者)であるとの嫌疑であるが、「わたしはこの名前〔ソフィスト〕を得ているのは、とにかく、ある一つの知恵を持っているからだということには間違いないのです」(20D)というわけで、これにはいわゆる「無知の知」でもって自分はソフィストではないと反論する(21A-1D)。そしてこれを受けて(2)については、ソクラテスが知者を探して人に問答を仕掛けては相手の無知をさらけ出すのを見たり、真似をするのが楽しいから若者が彼の周りに寄ってきて、他方で人々は彼を憎悪して徒党を組んで中傷するというわけ(23C)。
 (3)は「国家の認める神々」は別のもの(具体的には「日輪や月輪が神だと認めること)と、神の存在を認めない、という二つの主張に場合分けできるが、前者はアナクサゴラスの説、しかも「おりがあったら市場へ行って、せいぜい高くても一ドラクメも出せば買える」(26D)ような本に書いてあることだとしてソクラテスは反駁する。後者は、メレトスとの問答を通し、ダイモンは神の子であり、ソクラテスはダイモンを信じている、とすれば神の子たるダイモンを信じているのに神の存在をソクラテスは認めない、という自家撞着に陥る、故にソクラテスは神を信じている、という風に論する。

・死についての論議
 ソクラテスは自分は死を恐れてはいないと主張するが、その理屈は以下の通り。死よりも恥や正しい行いをできないことの方が恐るべきことであり、その際には「死も、他のいかなることも、勘定には入りません。それよりはむしろ、まず恥を知らなければならないのです」(28D)。また、「そしてほかにも、危険のそれぞれに応じて、あえて何でもおこない、何でも言うとなれば、死を免れる工夫はいくらでもあるのです。いや、むずかしいのは、そういうことではないでしょう。諸君、死を免れるということではないでしょう。むしろ、下劣を免れるほうが、ずっとむずかしい」(「弁明, 39A)
 だからこそ、放免されても彼は知を捜し求めることことは神への奉仕であるし、思慮は真実を気にかけて魂をできるだけ優れたものにすることであるが故に、今までの行いをやめるつもりはないと述べる。
 最後の方では、死は善いものだとも述べる。もし全くの無になることだとすれば、それは夢すら見ないほどの熟睡のようなものであり、「それ以外の昼と夜」よりもその夜とを比較すれば、この夜よりも楽しく善い昼と夜はごく数えるほどしかないし(正直いって、この熟睡は幸せであるという理屈はよく分からない)、他の場所への旅立ちのようなものだとすれば、「それらの人たちと、かの世において、問答し、親しく交わり、吟味するということは、はかり知れない幸福となるでしょう」(41C)。そういうわけで、いずれの場合であろうと、死は善きものということになる。



『クリトン』
クリトンの説得
1. 友人を失うのみならず、友人よりも金銭を大事にしたという悪評を被る。
2. ソクラテス救出のために金を出す用意がある者はたくさんいる(シミアス、ケベスなど)。
3. ソクラテスがとどまるならば、それは彼その人を害し、破滅させようとしている者を助けることになる。
4. 子供を見捨てることになる。

ソクラテスの反論
 全ての人の思惑が尊重さるべきではなくて、ある特定の人たちのそれこそ尊重さるべきものであるとすれば、その尊重しなければならない思惑は有用なもの即ち思慮のある人のそれで、有害なもの即ち思慮のない人のそれは尊重さるべきではない。賞賛と非難についても同様で、注意を払うべきは大多数の人間のそれではなく、一部の人(体育ならば体育家、医術ならば医者という風に)のそれである。というわけで、「ただ一人でも、もしだれかそれに通じている人があるなら、その人の思いなしにしたがい、この一人の人をそれ以外の人を全部あわせたよりももっと恐れ、その人のまえに恥じなければならない」、そしてさもなければ「われわれは、かのものを虐待し破滅させることになるだろう。かのものとは、正しきによって向上し、不正によって滅びるものだったのだ」(47d)(「かのもの」とは魂を指す)。だから、この魂が壊れてしまったならば、生き甲斐のある生き方はできない。「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだちうのだ」(48b)。
 そしてこの「善く」は「美しく」とか「正しく」と同じであるという立論を受け、次いで脱獄が正しいかどうかの検討に入る。
 クリトンの説得はいずれも多数者の考えるようなことであるため、ソクラテスはこれを退ける。「しかし、君の言おうとする、金銭のかかりとか、人人の思惑とか、子供の養育とかについて考えることは、これはクリトン、ほんとうのところ、かの多数者の考えることなのかもしれないね。彼らなら、すこしも知性を用いないで、軽々に人を殺しておいて、できればまた生きかえらせようとするかもしれないような連中なのだから、そんなことを考えてくれるかもしれない」(48c)。しかし、そんなことではなく、脱獄が正しいかどうかそのものが大事であるというわけ。
 不正を行ってはならないという二つの推論。
1. いかなる場合においても不正を行ってはならない。故に、不正を受けようとも不正を行ってはならない。
2. 害悪を与えることはなすべきではない。害悪に対する仕返しに害悪を与えることは正しくない(つまり、不正である)。故に、害悪を与えることは、不正を働くということである。
 翻ってみるに、件の脱獄は、国法とポリスに不正を働くことである。擬人化された国法曰く、「そのおまえがやりかけている所行というものは、わたしたち国法と国家共同体全体を、おまえの勝手で、一方的に破壊しようともくろんでいることになりはしないかね? それともおまえは、一国のうちにあって、いったん定められた判決が、すこしも効力をもたないで、個人の勝手によって無効にされ、めちゃくちゃにされるとしたならば、その国家は、転覆を免れて依然として存立することができると、おまえは思っているのか」(50b)。そしてまた、この国家においてソクラテスがは生まれ養育され教育され、これに従うことに同意して暮らしている以上、親から不正を受けたからといって楯突いたり仕返しをするのが正しくないのと同様に、国家や国法に楯突いたり仕返しをすることをするのは間違っている。「だから人は、これを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしているときには、父親がそうしているときよりも、もっとよく機嫌をとって、これに譲歩しなければならないのだ」(51b)。さらに、国法は国外退去を禁止していないし、国外追放を申し出ることもできた以上、国内にとどまるならば、その国法に同意していることになる。
 つまるところ、「これに服従しない者は、三重の不正をおかしているのだ、と主張する。すなわち、生みの親たる私たちに服従しない点がそれであり、育ての親たる私たちに服従しない点もそれである。そのうえ、わたしたちに服従することを約束しておきながら服従もしないし、また、わたしたちのしていることに、なにか善くない点があるなら、そのことをわたしたちに説き聞かせることもしないからである。すなわち、わたしたちは、わたしたちの命ずることは何でもこれをなせと、乱暴な仕方で指令しているのではなくて、これを提示して、わたしたちを説得するか、そうでなければ、これをなせと、選択の余地を残して言っているのにそのどちらもしていないからである」(51e-51a)。
 他方でソクラテスがテッタリアへの逃亡を選ぶならば、この行為によって逃亡先で国法の破壊者と見なされて疑いの目を向けられ、彼に下された判決が正しかったことの証左となってしまう。「なぜなら、いやしくも国法を破壊するような者なら、若い者や考えのない者を破滅に導くにきまっていると、たぶん考えられるだろうからね」(53c)。さらに、これで命を長らえれば、以後「人間にとって最大の価値をもつのは徳であり、なかでも正義であり、合法性であり、国法である」(53c)という主張を展開することなどできなくなってしまい、それができない人生はただご馳走を食べるだけの人生でしかなく、まるで食事のためにテッタリアまで逃げたということになる。
 さらに、子供の世話についても、外国で「外国人に仕立てて、それの味をおぼえさせようとする」(54a)よりも、孤児としてであれソクラテスのために骨を折る人たちの世話を受けてアテナイで育つ方がよい。

読んだ上での所見
思慮のない人、つまり多数者の言うことを聞く必要がないのならば、その多数者が下した判決に従う必要もないのではないか?



『プロタゴラス』
・徳は教えられうるのか?
 有徳の士は我が子に徳を教えることができていない。徳とは教えられうるものであるのか(10)?
 これに対してプロタゴラスは徳は誰もが分け持っているし、誰もがそのように思っているものであり、そうでなければ国家は成り立たないとする。そして、そうでないのに自分は優れた笛吹きであると言う人は嘲笑されたり怒られたり、叱られたりするが、自分は不正な人間であることを自覚している者がそのことを正直に言えば、狂気の沙汰と見なされ、「これはつまり、人間はひとりの例外もなく、必ずや何らかのかたちでこの徳を分けもっているはずであり、そうでなければ人間の仲間には入らないと考えられているからにほかならない」(p. 48)(12)。
 さらに、ある者が持っている欠点が生まれつきの欠点ならば、人は彼のこの欠点を是正したり教えたり懲らしめたりしないが、「心がけや、躾や、教えの結果として人間にそなわると考えられているような美点」(p. 49)を持たない者は怒られたり、懲らしめられたり、訓戒が向けられたりする(13)。これらが人は誰もが徳を持っていると考えている証拠である。
 徳は教えられうるのかということについては、プロタゴラスは、子供の養育にあたっては習い事をはじめとして様々な配慮がなされている(15)、素質に応じて徳性の程度に差はあるものの、人間の社会で育てられた者のうちで最も不正な者であろうとも野蛮人よりは遙かに有徳である(16)。

・徳の構造
 正義、節制、敬虔といった徳があるが、徳とはある一つのものでありながら、それを構成する様々な部分として正義、節制、敬虔などがあるのか、それとも同一のものへの異なった名前にすぎないのか(18)?
 プロタゴラスは前者だと答える。しかし正義は「ある一つの何もの」ならば正義はそれ自体で正しい性格のもの、敬虔はそれ自体で敬虔な性格のものとなるが、それでは正義は敬虔ではない、つまり不敬虔な性格のもの、敬虔は正義ではない、つまり不正な性格のものということになる。これに対し、プロタゴラスは正義と敬虔は似たものであると言うが、この話は突き詰められずに尻切れトンボで終わる(19)。
 無分別は知恵の反対、無分別は分別の反対であることを確認した後、一つのものにはただ一つしか反対のものはないという原理が導入される。しかし、両者は矛盾する。「そうすると、プロタゴラス、私たちはどちらの主張を取り消したらよいのでしょうか。一つのものにはただ一つしか反対のものがないという説のほうでしょうか。それとも、もうひとつの説、知恵と分別(節制)とはいずれも徳の部分をなすものでありながら、別個のものであり、そしてただ別個のものというだけでなく、ちょうどいろいろの顔の部分と同じように、それ自体としてみても、その機能からいっても、互いに似ても似つかぬものだという説のほうでしょうか」(p. 77-78)(20)。
 その後、議論の進め方についてのゴタゴタとシモニデスの詩についての注解が29章まで続くが、省略する。
 33章にて徳の構造についての議論が再開する。プロタゴラス曰く知恵、節制、勇気、正義、敬虔といった五つの徳は「徳の部分をなすものであり、そして、そのうちの四つは互いにかなり近しいものであるが、ただ勇気だけはそのどれとも非常に異なっている」(p. 125)。というのも、勇気はあるが、他四つの徳を持っていない人がいるから。しかし、勇気はものを怖がらないことである、ものを怖がらないのは知識を持っているからである、故に徳は知恵であるという風にソクラテスは述べるが、これに対してプロタゴラスは勇気はものを怖がらないことであるとしても、逆が必ずし成り立つわけではなく、ものを怖がらないことは必ずしも勇気ではないと反論する(34)。
 38章までの快楽に負けることについての議論を踏まえ、それと同じ図式(自分から悪へ進む人はいない、悪へ進むのは無知の故である)によって勇気は他の四つの徳とは異質なものであるというプロタゴラスの説に対して検討が加えられる。勇気のある人は猛進する人であるというプロタゴラスの言葉を受け、勇気のある人が猛進するのは立派なことや快、つまり善であり、臆病な人や向こう見ずな人は愚かさの無知の故であり、つまるところ勇気とは「恐ろしいものと恐ろしくないものに関する知恵」ということになる。

・快楽に負けることについて
 快楽は善であり、不快は悪であることを踏まえた上で、善を知りつつ悪を行うということ、快楽に負けることはどういうことかが論じられる。ソクラテス流の誘導尋問で、快楽に負けることは目先の快楽を選ぶことであり、ある快楽が悪なのはそれによって奪われる快楽がより大きい場合であり、目先の快楽を長期的で総量のより大きい快楽や後になってからの快楽よりも選ぶことであるとすれば、それは「人間は善い事柄を知っていながら、その瞬間の快楽に打ち負かされて、それを行おうとしない」(p. 142)という主張が導かれる(34-36)。しかし、これでは善に打ち負かされて悪を為す、つまりより少ない善の代わりにより大きい悪を選ぶということになる。とすれば、それは快楽計算をする場合ということになり、悪を選ぶ人にかけているのは「計量術の一種としての知識」ということになる。以上より、快苦の選択で過つのは知識を欠いているが故、ということになり、快楽に負けるということの意味することは無知ということになる(37)。

・最後のどんでん返し
 ソクラテスは徳は教えられえないとするが、彼の主張するように徳が知識であるならば、それは教えるものであるはずだし、プロタゴラスが言うように徳は知識とは別のものであるとすれば、それは教えられえないものである、と(40)。



『エウテュデモス』
プロトレプティコス・ロゴス(説き勧める言論)
幸福には、富、健康、生まれの良さ、尊敬などの(一見して)善いものだけがあっても充分ではなく、それらはそれ自体として値打ちを持っていない。「もし愚昧がそれらの道案内をすれば、それらが、その悪くある案内者に随うことができればできるだけ、その反対のものどもよりもそれだけ大きな悪いものである。これに反して、もし思慮や知恵が道案内をすれば、それらはそれだけ大きな善いものである、しかしそのどちらも、それら自分らだけでは、何の値打ちもないものだ」(281D-E)。そして何よりもそれらを正しく用いて成功、狙ったものを得ることが必要となる。笛を吹くためには笛を吹く知識がいるように、成功、狙ったものを得ることは知恵を持っていることに依る。「それでは、知恵はどんな場合にも人間たちに成功を得させるものだ。何故かというと、知恵はどんな時でも何についても為損じるというようなことは決してなく、むしろそれは正しく行って、為当てるに違いないからだ。そうでなければ、実はもう知恵ではないだろうからな」(280A)。



『カイレポン』
・カイレポンによるソクラテスの説の要約
 人々は魂の世話(自分自身に限らず子供の魂についても同様)のことを配慮しておらず、「主役となって治めることになる魂のほうをないがしろにして、その下に治められることになる身体のほうに、まるっきり真剣になってしまっている」(407e)。だからそのような魂の使い方を知らぬ者は魂を下手に用いるくらいならば、舵取りをより巧い者に任せるかのように、自由民としてでなく「だれかに仕える者」(408a)として生きる方が良い。そしてこの舵取りの術とはソクラテス言うところの「国家指導の術」(ポリーティケー)、別の言い方では「裁判する術であり正義の技術」(408b)である。

・カイレポンによる批判
 ソクラテスの言うことは立派だが、さてその先からどうなるのか、つまり、「魂の善さ(徳)を目指す技術」とは何の技術であるのかに答えが与えられなければならない。つまり具体的にはどんな技術で何をどうすれば魂を善くできるのか、ということ。
 技術にはその作物と教科がある(その技術によって生まれるものと、教えうる知識)以上、正義の技術にもこれがあるはずであるが、カイレポンが話を聞いたソクラテスの友人たちは、「ためになるもの」、「まさにあるべきもの」、「益」、「利」などと答えるが、それらはどの技術の作物(医術の作る健康など)も持ち合わせているものであり、正義の技術固有の作物ではない。それは親和、友愛だと言う者もいたが、有害な愛もあるために彼はそのようなものは偽りの友愛であり、「真実の友愛と親和は心を一つにすること」(409e)であると主張するに至る。しかし、「医術だって、また、どの技術だって、みな心を一つにすることの一種なのだ。そして、その一致が何を対象とするものなのかを言うことができるのだ。しかし、君が正義の術とか心を一つにすることとか言っているものは、どこへつながりをもつものなのか、まったく見当がつかず、それの作る物も、いったい何なのか、不明だ」(410a)ということになる。
 以上より、カイレポンは正義の技術なるものは実践につながらない、と難じる。「あんたという人は、徳に意を用いよとすすめることにかけては、世にもすぐれた実践家だけれども、しかし二つのことのうちのもう一つのほうは、要するにそれだけしかできず、それ以上のことは何もない人なのだと見てとったからだ。こういうことは、ほかのどの技術にもありうることなんで、たとえば船の舵をとることは知らなくても、その舵取りの技術について、それが人間にとってどれだけ価値の多いものであるかというような、推賞の辞については、これをうんと勉強しておくというようなことがあるあるわけで、これはその他の技術についても同様なのだ。だから、ちょうどこれと同じ非難を、あんたの正義の技術についてもあびせる人が、たぶん、出てくるだろう。あんたは、正義というものを上手に礼賛しているけれども、しかしそれだからといって、正義の知識をちょっとでもよけいにもっているわけではない、とね」(410b-c)。二つのことというのは、徳の価値の推賞の文言とる方法で、ソクラテスはそのうち前者しか知らないというわけ。
 思うに、この「何の技術で、何を生み出すのか」という批判は弁論術に対するソクラテス・プラトン陣営からの批判をそっくりそのまま哲学に向けたものになる。



『奇跡論・迷信論・自殺論』
・意志と自由と神の関係
「神性の領分は、なんらかの作用のなかに直接に出現するものではなく、時間の開始以来確立されているかの一般的で不変な諸法則によっていっさいの事物を統御するのである。あらゆる出来事は、ある意味では全能神の行為と宣言されてよいであろう。それらは、すべて神がその被造物に付与した諸力に由来しているからである。……情念が動くとき、判断が宣言するとき、四肢が従うとき、これらすべては神の作用であり、これらの生命的諸原理の上にも、非生命的諸原理の上にも、同じように神は宇宙の統御を樹立したのである」(「自殺について」, p. 71-72)。この段落の以下の文を読む限りでは、神の法則に従って被造物は動き(生命の場合は自発的に)、この被造物の動きは神の法則に抵触していないわけだから、自殺といえどもその例外ではなく適法というわけ。自由意志と神の法則は両立可能であるということが含意されているようだ。



『道徳原理の研究』
・ざっくりとしたまとめ
 正義という美徳の起源はその有用性(utility)にあり、有用だから褒めそやされる。仁愛も然り。
 自然の資源が奪い合ったり所有権で区切ったりする必要がないほどに潤沢にある場合、逆に絶対的に不足している場合、いずれいおいても正義は生じないし、有用でもない。
 顧慮に値しないほど弱い相手、つまり正義を認めても有用でない相手には正義は認められない。「我々の許可が、それによって彼等が所有物を保有する唯一の保有権であり、我々の同情と親切とが、それによって彼等が我々の無法な意志を制する唯一の抑制である。そして、自然においてそのように堅固に確立された権力の行使から何の不便も生じないのであるから、正義と所有権の制約は全く無用となり、そのように不平等な連合対においては決して存在しないであろう」(p. 28-29)。
 所有権は民法に基づき、民法は社会的な利益に基づいている(p. 37)。
「社会の維持のための正義の必要性が、その美徳の唯一の基礎である。そしてこれ以上に高く評価される道徳的卓越性は存在しないのであるから、我々はこの有用性という事情が一般的に言って最も強い活力と、我々の感情に対する最も完全な支配力とを有すると結論してよいであろう。したがって、それは忠実、正義、誠実、高潔およびその他の尊敬すべき、そして有用な諸性質や諸原理の唯一の源泉であるのと同様に、人間性、仁愛、友情、公共的精神、およびこの種の美徳に帰属される価値のかなりの部分の源泉であるに違いない。何らかの原理が、一つの事例において偉大な勢力と活力とを有することが判明した場合には、あらゆる相似する事例において同様の活力をそれに帰属させることは、哲学の規則および常識の規則にさえ完全に一致する」(p. 46)。
 道徳的善悪・好悪の起源。「社会的美徳は、自然的な美と愛すべき性質とを有することが承認されなければならない。そしてそれらが先ず初めに、あらゆる訓戒あるいは教育に先立って、無教育な人間に社会的美徳に対し敬意を払わせる、また彼等の愛情を引き寄せるのである。そして、これらの美徳の公共的公用性は、そこから美徳の価値が引き出される主たる事情であるから、美徳が促進しようとする目的は、とにもかくにも我々には快く、そして或る種の自然的愛情を把えるものでなければならないことになる」(p. 61)。
 美徳への是認は純粋に利己的な動機から愛情なのかというと、そうではなく、ヒュームは美徳への是認を利己心、自愛に還元するのは誤っているとした。「有用性は快く、我々の是認を引きつける。これは日々の観察によって確認される事実の問題である。しかし有用であるとは何か。何のために有用であるのか。もちろん、或る人の利益のためにである。では、誰の利益であるのか。我々自身の利益のみではない。というのは、我々の是認は、しばしばそれ以上に及ぶからである。したがって、それは是認される性格または行為が役立つ人々の利益であるに相違ない。そしてこれらの人々は、いかに離れていても我々にとって全く無関係という訳ではない」(p. 65-66)。我々には自分には無関係な公共の利益を愛し、是認する共感的な感情があるわけである。だから「歴史書の精読は静かな楽しみであるように思われる。しかし我々の心臓が、歴史家によって記述される人々に呼応して鼓動するのでなければ、何の楽しみでもないであろう」(p. 72)。この共感的な感情は一般的な感情でもあり、「人々の性格に関して我々が冷静に判断をし、論述する場合には、これらの差別を一切無視し、我々の感情をいっそう公共的、社会的にする」(p. 79)ような一般的観点を持つ。
 道徳的区別(善悪の区別)は有用・有害の区別と同じであること。「……それでもなお有用なものと有害なものとの間の選択、または区別はなされるに相違ない。さて、この区別は、あらゆる部分において、その基礎がしばしば論究され、そして失敗に終わることが多かった道徳的区別と同一である。同一の精神的資質は、あらゆる状況のもとで、道徳の感情と人間性のそれとに快い。同一の気質は、前者の感情と後者の感情のそれと高い程度に受容しうる。そして対象がより接近または結合することによって生ずる同一の変化は、前者および後者に生気を与えるのであるしたがって哲学のあらゆる規則によれば、これらの感情は、本来同一のものであると結論しなければならない。何故ならば、それらはここの事項において、最も微細な点に至るまで、同一の法則に支配され、また同一の対象によって動かされるからである」(p. 88)。
 自分自身に有用な諸性質が賞賛されるのは、その性質とその賞賛によって利益を得られるのではないかという自愛からではなく、共感的な感情による。「……我々あるいは共同体には何の関係もなく、所有者の有効性にのみ資するような諸性質もなお敬意を払われる評価されるのであるから、我々は、どのような理説または体系によってこの感情を自愛から説明し、あるいはそれをあのお気に入りの根元から引き出すことができるであろうか。この際、他の人々の幸福と不幸は、我々にとって全く無関係な光景ではなく、前者の眺めは、その原因においても結果においても、太陽の光か、あるいはよく耕された平野の眺望のように(我々はこれ以上高い要求はしないが)、密やかな喜びと満足とを伝えるが、後者の外観は、垂れ込めた雲ある意は不毛の地の風景のように、想像力に憂鬱な湿気を与えるということは認めざるをえないように思われる。そしてこのことがひとたび容認されるならば、困難は過ぎ去り、その後は人間生活の諸現象に関する自然で無理のない解釈が、すべての思弁的研究者達の間に普及することを、我々は期待してよいであろう」(p. 98)。
 美の起源。「効用性とその反対との観念は、何が美しいか、または醜いかを全面的には決定しないものの、明らかに是認あるいは嫌気のかなりの部分の源泉である」(p. 99)。
「高邁で野心的な人は、名誉と権威、名声と恩典とを求める。財産が主たる偶像であるようなところでは、腐敗、金銭づくの行動、強奪が広まるが、芸術、工業、商業、農業が栄える。前者の偏見は、軍事的美徳にとって好都合であるから、君主制に一層適合している。後者は産業を刺激する主要な拍車であるから、共和政治によりよく合致する。したがって我々は、これらの政治形態のおのおのが、それらの習慣の効用を変化させることによって、通常、人間の感情の上に、それに比例した効果を持つことを見いだすのである」(p. 105)。
 共同体への善、所有者自身への善の他、「見る者の上に満足を拡散し、友情と尊敬を招き寄せるもう一組の諸心的性質」(p. 109)がある。「それを所有する当の人物にとっては、それの直接的感覚は快い。他の人々は伝染または自然敵同感によって、同じ気分に溶け込み、その感情に感染する。そして我々は、心地よいものは何であれ愛さずにはいられないので、そのように大きな満足を伝えてくれる人物に対しては、好意的な情動が起こるのである」(p. 109)。
 まとめではないが、ちょっと気になったフレーズ。「それでもなお我々の心の決定を指導し、他のすべてのことが等しければ、人類に有用であり役立つものを、有害なもの、危険なものよりも冷静に選択させるに相違ない。したがって道徳的区別が直ちに生ずる。それは非難と是認との一般的感情、すなわちいかに微弱であっても、一方の対象に向かう傾向と、これに比例する他方の対象に対する嫌悪である」(p. 138)。
 個人的視点と一般的視点。「人が他の人を彼の敵、彼の競争相手、彼の対抗者と称するときには、彼は自愛の言葉を語り、彼自身に特有な、そして彼の特殊的事情と状況から生ずる感情を表現するものと理解される。しかし彼が誰かに、邪悪なあるいは憎むべきあるいは堕落したという形容詞を与えるときには他の言葉を話しているのであり、彼の話を聞くすべての聴衆が彼と一致する筈であると期待する感情を表現している。したがって彼はこの場合、彼個人の特殊的な状況を離れて、彼と他の人々とに共通な視点を選択しているに相違ない。彼は人間的機構の或る普遍的原理を揺り動かし、全人類がそれに対し調和的に反響する琴線に触れているに相違ない」(p. 139)。ここでちょっと思ったこと。この一般的視点は美徳への賛辞が自愛に由来するという見解に対するヒュームの反対の現れの一つであろうが、一般的視点と有用性はどうもあまり合致しないように思われるわけだがどうだろうか。
 理性は情念の奴隷たること。「しかし理性は、完全に助長され改良された場合には、諸性質や諸行為の有害または有用な傾向性を我々に教えるには十分であろうが、それだけではいかなる道徳的非難もしくは是認を産出するのにも十分ではない。効用性は或る目的への傾向性に過ぎない、そして我々がその目的に対して全く無関心であるならば、その手段に対しても、我々は同一の無関心を感ずるであろう。有害な傾向性よりも有用な傾向性を選択するために、ここで感情の表出が必要になる。……それ故にこの場合には、理性が諸行為のそれぞれの傾向性を我々に教え、人間性が有用かつ有益なものを選んで区別するのである」(p. 156-157)。
 人間の科学の特質と自然さ。「この種の哲学の場合には、物理学の場合と事情は同じではない。自然における多くの仮説は、最初のが意見に反してはいたが、より精密な吟味によって、堅固で満足すべきであることが判明した。この種の実例は非常にしばしば起こることなので、機知に富む上に、賢明な或る哲学者(フォントネル氏)は、もし何らかの現象が産出される方法が一つ以上存在するならば、最も明白ではなく、また有りふれてもいない原因からそれが発生したという、一般的な推定が成立すると敢えて断定したのである。しかし我々の情念と人間の心の内的作用の起源に関するあらゆる研究においては、常にその反対の推定がなされる。いかなる現象の場合にも、挙げうる最も単純で最も明白な原因が、おそらくは真の原因である。哲学者が自己の体系を説明するに際して、何らかの非常に複雑な、また精巧な反省を用い、いかなる情念あるいは情動の産出にもそれらが本質的であると想定せざるをえないときには、我々はそのような虚偽の仮説を極度に警戒すべき理由を有するのである」(p. 173)。
 仁愛を自愛に還元するよりは、仁愛そのものを認める方が理論の単純性では優れている(p. 173)。
 倫理学における言葉上の問題。「かくして、もし我々がここで、心のあらゆる称賛に値する諸性質は、美徳あるいは道徳的属性と見なされるべきであることを主張するか、もしくは否定するとしたら、多くの人々は、我々が倫理学の最も深遠な思索の一つに入っていると想像するであろう。もっとも、そのとき、おそらく、論争の大部分は全く言葉上の問題であることが判明すると思われる」(p. 204)。日常生活における人々の心的諸性質への是認と譴責の感情はきわめて類似しており、古代の哲学者等は称賛に値する性質と美徳とを区別していないことがその例証になる。そしてこのことは自己評価においても変わらない(p. 192-193)。
 善良な性質(社会的美徳)と、能力や才覚への扱いの違い。前者は欠ければ非難を受けるが、持っていても取り立てて賞賛されない。とはいえ、後者は「後者の美徳は一層稀少であり異例であるので、自負と自惚れとのより普通の対象であることが観察されて」おり、それの自慢に対しては自負や自惚れではないかという嫌疑、警戒心を持たれる。その一方で、尊敬と賞賛を受け、「人が世間において放つ異彩、交友の中で受ける歓迎、知人から払われる敬意、あらゆるこれらの利得は、彼の性格のどれか他の部分によると同様に、彼の良識や判断力によるのである。たとえ或る人が世界で最も善なる意図を持ち、あらゆる不正や暴力から最も遠くに離れていようとも、天分と知性の少なくとも適度の分け前がなければ、彼自身を大いに尊敬されるようにすることは、決してできないであろう」(p. 194)。「一方は愛すべきであり、他方は畏敬すべきである。我々は一方の性格には友人において出会いたいと願い、他方は、我々が自分自身の中にこれを熱望するであろう。……良識や天才は敬意や尊敬を生み、機知や洒落は愛や情緒を呼び起こすのである」(p. 195-196)。ヒュームによれば、後者の美徳が美徳であるのかについての論争があるそうだが(p. 195)、彼は「ところで美徳は、それ自身で称賛に値し、またそれなしには何者も賞賛されることをえないのであるが、それにもかかわらず、比較的多くの区分を有する」で始まるキケロの一節を引きながら、美徳の種類が違っているだけだとする。



『蜂の寓話』
「美徳の起源についての考察」要約
 美徳は政治家たちが社会を確立するために彼らの支配する人々を「だれでもその欲望にふけるよりは克服する方が有益であり、使役とおもわれるものよりは公益に留意する方がずっとよいのだ」(p. 39)と信じさせるために作り上げたものである。そのために美徳を称揚して悪徳を非難し、そして自負心に訴えるべくそのような行動をとる者に追従の賞賛を行った。丁度躾のために子供がした下手な振る舞いを過度に誉めるように。つまるところ、「美徳とは追従が自負に生ませた政治的な申し子である」(p. 46)。
 美徳と悪徳の識別の起源は宗教にはない。それというのも、キリスト教徒やユダヤ教徒以外の「ほかのあらゆる国民の偶像崇拝的な迷信や、彼らが絶対者についていだいていた哀れむべき観念は、人間を美徳へとかりたてることはできず、未開の無分別な群衆を畏敬させ喜ばす以外はなんの役にも立たなかった」(p. 44)し、古代エジプト人は「人間本性のもっとも深い神秘について、これまでのいかなる国民よりも精通していた」(p. 45)し、古代ギリシア人やローマ人は素晴らしい美徳を発揮していた。

・放蕩の有益性
 おそらく個人の悪徳が社会の利益になる、より限定的な言い方をするならば需要を喚起して経済を活性化させる典型的な場合。「強欲な者は自分にも利益をもたらさず、そのうえ相続人を除く世の中全体に損害をあたえるのに反して、放蕩する者は社会全体への天恵であり、自分のほかはだれをも傷つけないからである。なるほど、前者の大半が悪者であるのにたいして、後者はみな馬鹿者である。けれども、放蕩者は公共がとても喜ぶおいしいごちそうであり、ちょうどフランス人が修道士を女性のヤマウズラだと呼ぶのと同じように、社会のヤマシギだというのが正しいであろう」(p. 97)。
 逆に倹約が広がることによって放蕩者の権力者による収奪を相殺できると言われるかもしれない、つまり放蕩-収奪のセットを倹約-非収奪にすることができるというわけ(p. 98-99)。こうなれば大国の多くの人々に職を行き渡らせることができなくなる、経済的に言えばものが売れない不況や緊縮財政と同じ結果を生む。

・絵画は自然の模倣が故に判断は普遍性を持つ
マンデヴィルは美醜や習慣についての人々の評価はその時々、場所場所で変わるものであるとしており(蓋しヘロドトス風に言えば「ノモスこそ万物の王である」ということだろうか。そして訳注によればこの手の懐疑説は当時はありふれたものだったらしい)、絵画の評価もまた様々な事情によって変わりうる。しかし、「以上にもかかわらず、わたくしは、絵画についてなされる判断は普遍的な確実性を得るようになるか、少なくともほかのほとんどいかなるものよりも変わりにくく、安定するようになるかもしれないことを喜んで認める。その理由は明らかである。いつも同じままの依拠しうる基準があるのだ。絵画は自然の模倣であり、いたるところで人間の眼前にある事物の模写である」(p. 299-300)。

・情念の強調
そこはかとないヒュームらしさが見て取れる。
理性に対する優越:「この気高い人物に好戦的な素質なり荒々しい気質があったならば、人生のドラマにおいて別の役割を選び、まったく逆の信条を説いていたであろう。というのも、われわれはどちらなりと情念が引っ張っていると感じる方向にいつも理屈をおししすめ、そして自負心はあらゆる人間にたいしてそれぞれ違った見解をいだくように弁じ、各個人にその性向を正当づける論拠をつねにあたえてくれるあらである」(p. 305)。
徳を生むこと:シャフツベリー伯のいうような道徳は書斎や口先の中だけのもので実際の行動にはつながっていないとしたり、これを説いた次の段落で「人間が生まれつきもっている安楽や怠惰への愛や感覚的な快楽にふける傾向は、教訓によって矯正しうるものではない」(p. 305)と言うなどマンデヴィルはあまり徳育の実効性を信じていないようだ。一方で上記引用の次の文で「その強力な習癖や性向は、ただもっと激しい情念によって抑制しうるのみである。臆病者にたいして恐れが不条理であることを説いて立証しても、十フィートの背たけに伸びよと命じたところでそうはできないのとおなじく、彼は勇敢にならないであろう」(p. 306)という感じで情念を重要視している。



『世界の名著 (46) コント・スペンサー』
社会静学と社会動学
・形而上学的哲学は過渡的なもので、神性の概念の代わりに実在の概念を説明に使い、前者や自然的原因の介入の度合いを少しずつ取り除く。政治的な役割は批判であり、建設的能力を持っていない(p. 317-319)。

・神学的哲学と実証的哲学との対立点(p. 314)。本質的原因・絶対者の気まぐれな意志vs自然法則、想像優先vs理性優先、絶対的精神vs相対的精神

・神学的哲学は耐用年数を過ぎている。社会の発展段階にはその段階にふさわしい哲学が必要。「確かにこれまで、神学的哲学には、その特徴的な自発性のゆえに、極めて強い根源的な影響力があることは認めてきた。しかし、この知的影響力を説明し、正当化する根本的理由の一つひとつは、そのまま、この力が必然的に一時的なものでしかあり得ないことを示しているのである。なぜならば、この理由というのも、神学的哲学が人類の原始状態に固有の欲求に自然とぴったり合っていることを、いろいろな点で示しているにすぎないが、このような欲求は、社会的発展が十分に進んだ時には同じものではあり得ないし、したがってまた、同一の哲学によっては満たされ得ないからである」(p. 309)。

・神学的哲学の歴史的役割と利点(p. 296-309)。一、最初人間は自分のあり方からのアナロジーで自然を理解しようとしたこと。二、外界を自身では思い通りにできなかったがそれを望んでいた段階に、全能の神の持つ全能の支配力によって(多分自分ができないことをこなすヒーローを見るかのような感じで)満足を感じた。三、後になって理論の説明力が上がってきたが、最初はあらゆるものが神の起こす奇跡のようであり、これに与ろうとした。つまり、「このように、知的な見地からすれば、神学的哲学は人間の自然な研究方式と最初の研究の性質とに合致する唯一の哲学であり、道徳的に見ると、本来の極めて惨めな状況の真中にあった人間に向かって、思索的努力に約束された立派な報酬として外界に対する絶対的支配力という魅力的な希望を常に提示することにより、人間の活動的エネルギーを発達させた当初唯一の哲学であった」(p. 304-305)。四、人間に社会形成のために必要な共通思想を与えた。五、初めて知的階級つまり聖職者階級を形成した。

・コントの歴史的寛容。「事実、自然を眺めていて、何か説明に苦しむようなことが起こるたびに、その事象を司る空想上の行為者の新しい意志を想定すればすむし、せいぜいのところ、手間をかけずに新しい行為者をあっさりと作り出せば足りる。今日から見れば、このような幼稚な思索は無意味に思えるかもしれない。しかし、どんな場所どんな時代でも、初めから存在する唯一の糧を人間の精神活動に与えることによって精神を最初の麻痺状態から救い出すことができたのは、この幼稚な思索の力によるものであった。このことは、どんな場合でも忘れてはならない」(p. 300)。

・観察の理論負荷性への類似。ただし、コントの意図は観察の理論負荷性的なことを主張することではなく、どんな理論の構築にも前段階の理論があり、ひとっ飛びに精巧な理論を作ることができないということを述べることである。「……人間の精神というものは、何らかの予備的理論によってまず方向を与えられ、次に絶えずつき動かされない限りは、観察すら行い得ないものだからである。……すなわち、誰が何と言おうと、絶対的経験主義は全く不毛であるばかりでなく、人間の知性とは根本的に相容れないという事実である。明らかに、人間の知性は、その自然の努力を集成し刺激するため、どんな種類の作業においても何らかの理論を必要とする」(p. 298)。観察の理論負荷性と歴史性の関係を考えるのも面白そうである。

科学の起源
・コントの科学には縦、つまり発展的・時間的な配列・前後関係がある(ある科学が別の科学の前段階となって後者を準備する)という説に対するスペンサーの批判。「人間は順を追って思考せざるを得ない。問題を分けて順々に考えるということは人間精神の法則である。それゆえ、自然は縦の系列をなしているに違いない。−−それゆえ、科学は継起として分類できるに違いない。これが、この考えの起源であり、その真理の唯一の証人である。教育の計画や知識の体系を書物でまとめる場合、人間は何らかの順序を選ばなければならない。そして、最上の順序を研究するうちに、事実を真に象徴する順序の存在を自然に信じ込み、そうした順序の探索に熱中する。しかし、その場合、自然が著作の便宜を考えてくれることがあり得るかどうか、という先決問題はきれいに見落としてしまっている」(p. 359)。


エア『言語・真理・論理』
・過去の哲学に対する態度
「何故なら、この言葉を我々が定義する時に当たってのすべての心づかいを以てしても、人々をして、我々が哲学的と呼ぶ活動と、彼等が哲学者と見なすように教えられてきた連中の形而上学的な活動とを混同することを、まぬがれさせはしないからである。……これに対して我々は『哲学の歴史』がほとんどすべて、形而上学の歴史だったというのは事実ではないと答えよう。哲学の歴史が何程か形而上学を含んでいることは、否定できない。しかし私は、普通偉大な哲学者だったと考えられている人々の大部分は、第一義的には形而上学者ではなくて、分析家だったことを示しうると思う」(『言語・真理・論理』, p. 38)。

・現象主義
「物質的事物の存在を信ずる権利を人に与えるものは、単に、人がある感覚を持っているという事実だけなのである。というのは……《ものが存在する》ということは、《そのような感覚がえられる》ということと同じなのである」(『言語・真理・論理』, p. 36)。
「それどころか我々は、物質的事物を感覚−内容を用いて定義することが可能でなくてはならないことを知っている。というのは、如何なる物質的事物も、その存在が、最小程度においてでもとにかく検証されうるのは、ただまったく、あるいくつかの感覚−内容があらわれたことにのみよるのである。かくして我々は現象主義的な『知覚学説』が正しいか、あるいは他の種類の学説が正しいのかをたずねるべきではなくただ如何なる形の現象主義的な学説が正しいのかのみを問うべきであることを知る」(『言語・真理・論理』, p. 40-41)。

・ヒュームが示したこと
「……彼は次の諸点を決定的に明らかにしたと私は思う。すなわち第一に、原因と結果との間の関係は論理的な性質のものではない。何故なら、因果的な結合を確言している命題はどれでも、自己矛盾なしに否定されることが出来るからであるということ。第二に、因果法則は、経験から分析的に引き出されたものではない、何故なら、それ等の法則は、如何なる有限個の経験命題からも演繹されないからであるということ。そして第三に、因果的結合を確言している命題を、特殊な個々の事件の間に成立する必然の関係をあらわす言葉に分析することはあやまりである。何故ならそのような関係の存在を確立するような傾向をほんの少しでも持つような経験を、考え出すことは不可能だからである、という諸点である」(『言語・真理・論理』, p. 42-43)。

・真理とは何か
「すべてに場合においてその文章の分析は《「真理とは何であるか」という問は「『Pは真である』という文章の分析とは何であるか」という問に還元可能である》という我々の仮定を確証するであろう。……『実在的な性質』または『実在的な関係』としての真理の伝統的な概念は、哲学上のあやまりの大部分と同様、文章を正確に分析することが出来なかったため生じたのである。今我々が分析したばかりの二つの文章のように、その中では『真理』という言葉が何か実在的なものに対応しているようにみえる文章がある。このため思弁的哲学者はこの『何か』は何であるかと問うようになった。彼の問は正しいものではなかったのだから、当然彼は満足すべき回答は得られることが出来なかった。何故なら我々の分析が示したように『真理』という言葉はこの問が要求するような意味では何ものにも対応していないからである」(『言語・真理・論理』, p. 99-100)。

・確からしさのプラグマティックな見解
「我々は今や、『我々が経験的命題の有効性をためす基準は何であるか』という我々のもともとの問題に答えるために必要とした知識を獲得したのである。その答は《我々は、経験的仮説の有効性を〈それがみたすようにもくろまれている機能を実際にみたしているかどうか〉をみることによりためすのである》というのである。そうして我々がみて来たように、経験的仮説の機能は我々に経験を予知することが出来るようにさせることである。したがって所与の命題が関係しているある観察が我々の期待にあうならば、その命題の真実性は強められる」(『言語・真理・論理』, p. 116)。
「ある命題の確からしさに言い及ぶ場合、我々はしばしばそう思われているように、その命題に内在する特性に言い及んでいるのでなければ、その命題と他の命題との間に成立つ論理的関係に言い及んでいるのでさえもない。大まかにいって、《観察が命題の確からしさを増す》という場合我々の意味しているすべてのことは、《それがその命題に対する我々の信頼を増す》ということなのであって、この場合に信頼は、《我々が実践において我々の感覚の予報としてそれにどの程度進んで頼ろうとするか》、《都合の悪い経験に面した場合、どの程度他の仮説に対して優先的にそれを守ろうとするか》によってはかられるのである」(『言語・真理・論理』, p. 117)。

・倫理的記述
「我々は《今いわれている倫理的な陳述の非-倫理的な陳述への還元は、我々の現実の言語の規約に整合的である》ということを否定しているのである。いいかえれば我々は功利主義と主観主義とを、現存する倫理的な概念を新らしいものでおきかえようとする提議としてしりぞけるのではなく、我々の現在の倫理的な概念の分析としてしりぞけるのである」(『言語・真理・論理』, p. 127)。



Ayer, ‘Verification and Experience’(1936)
まとめ
整合説に基づけば、プロトコル文は有名無実になり、ある文がプロトコル文であるか否か、ひいては文の真理性の基準は恣意的になる。
信頼の置ける観察者(当代の科学者)の報告という、カルナップによるプロトコル文の選定基準およびヘンペルによるその修正版が訴えているのは歴史的事実であり、根拠薄弱。
プロトコル文は事実や経験への言及を含まなければ、真理の基準にはならない。
完全な検証の不可能性が規約と恣意性を要請する。
カルナップは本来は観察内容を述べるものであるプロトコル文を「記号の特定の組み合わせのための構文論的指示子」として用いており、これが彼をして知識の基礎を構文論的に扱わせしめている。

命題についての予備的説明
 命題の種類としては二つ、「他の命題の真偽を確かめることによってのみその真偽を決定される経験的命題と観察によって直接的に真偽が決定される」(p. 228)命題があるが、その後者は基本的命題、すなわち「審議の決定のために他の命題を待つ必要がないが、与えられた事実と直接突き合わされることができる命題」(p. 229)である。

整合説への批判その1、プロトコル文の有名無実化
 命題の真偽の決定を事実に訴えるのではなく、他の命題との両立可能性に基づかせるないとすれば、嘘をついていたりや幻覚を見ている場合とどう見分けるのか。そしてさらに整合説ではプロトコル命題は特別な文ではなくなり、さらにいえば他の命題とプロトコル命題を区別する必要がなくなってしまう。「プロトコル命題とそれと両立しない非プロトコル命題に出会ったとしても、我々はプロトコル命題を受け入れて他方を排除することを強制されない。我々はいずれかの排除では対等の権利を持つ。しかしもしそうならば、我々はプロトコル命題の安定性を確保するためにそれらのために特別な形式を考案するよう悩む必要はない」(p. 230)。「なぜ彼〔ノイラート〕とヘンペルは、彼らがプロトコル命題とその他の命題に引くことができる唯一の区別は形の上での区別のみであるとする限り、プロトコル命題にかような注意を向けるのか、なるほど不思議に思えるだろう。彼らはプロトコル命題によって観察によって直接に検証される命題を意味しているのではないわけであり、それはこれが可能であると彼らが否定しているがゆえにである。彼らは純粋に、語の或る集まりへの構文論的指示子として『プロトコル』という語を使っている。しかしなぜ『観察』という語に特別な意味を結びつけるのか? 特定の型の文の構成してそれらに『プロトコル文』という称号を授けて権威付けすることに関しての間違いは存在しないが、それは恣意的で間違いやすいことだろう。それへの正当化は英語でBという文字で始まる文として今日表現されることができる全ての命題の一群の集まりを基礎的命題にしてそう呼ぶことを選ぶこと以上のものではない〔つまりこれと同じくらいに恣意的〕。もしノイラートとヘンペルがこのことを認めなければ、『プロトコル文』について書くにあたって彼らは経験との一致についての忘れられた基準を無意識に使っているというのがありうる。彼らは『プロトコル』という語は構文論的指示子以上のものではないと述べているにもかかわらず、単にそのようなものとしてそれを用いてはいない」(p. 231)。

整合説への批判その2、真理の基準が不明瞭
 既存の体系と整合的ではない命題が現れれば、その命題は廃棄されうるだろうが、それは経済の原理(a principle of economy)によるものであり、体系への変化を最小限にしようというものである(p. 231)。
 整合説へのプライスの反論。彼の反語。メンバーが相互に支え合っているある判断の体系の中の一つの判断を受け入れたとしても、「だがどうして我々はそれらのどれかを受け入れるべきなのか? なぜ全体を拒絶してはいけないのか?」(p. 232)と問う。エア曰く、「我々はその体系の成員であること以上に他の何らかの根拠から引き出されるような可能性をその少なくとも一つの要素に割り当てるというのでなければ、そのような判断の体系が何らかの可能性を持つことさえ考えられない、とさらに彼〔プライス〕は論じる。したがってその理論〔整合説〕を救う唯一の道は何らかの命題が本来的にありうるということを保つようにすることであると彼は主張しているのである」(p. 232)。しかし、エア曰く、「プライスの主張を受け入れた人たちに対して好意的に述べられたことのほとんどは、彼は『可能性』〔probability〕という語を馴染みのない意味で提示することを選んだということである」(p. 232)。プライスが前提としているのは「整合説のよく知られた見解」であり、これにおけるある命題の真理の基準はその命題が単一の体系に組み込まれるということであるが、「しかしそれは命題の外見上整合的な体系の拡大はその可能性を増すと考える何の根拠も我々に与えない。逆にむしろ我々はそれは可能性を減らすと考えるべきである」(p. 232)。
 無矛盾な体系は唯一のものではなく、いくつもありうるものであり、整合性は真偽を区別する基準にはなり得ない。これに対し、エアはカルナップ("Erwiderung auf die Aufsatze von E.Zilsel und K. Duncker"において)の答えを引き、述べる。「我々は真なる体系は真なるプロトコル命題に基づくものであり、真なるプロトコル命題は主に我々の時代の科学者を含む信頼できる観察者によって生み出されると言うべきである。論理的には、それは我々の各々が表現するプロトコル命題はあまりにも多様であるため、科学の共通の体系や唯一の統一的体系をそれらに基づかせることができないような場合である。しかし実際のところは幸運にもそうではない。人々は折に触れて不便なプロトコル命題を生み出す。しかしごく少数であれば、それらは無視される。彼らは悪しき観察者や嘘つき、極端な場合には狂人であると言われる。……このようであるからして、その理論が現れれば、我々は考えられる限りの多くの科学の整合的な体系のうちからたった一つを真であると述べる時、我々はそのことに訴える」(p. 233)。しかし、なぜ「我々の時代の科学者」の観察を真理の基準にしなくてはならないのかという疑義をエアは述べ、この疑義にヘンペルは修正を加えることで答える。ヘンペルは「我々が真と呼ぶプロトコル文の体系は我々の文化的な集団の科学者によって実際に採用されているという歴史的事実によってのみ特徴づけられる」と言う代わりに、「以下のような文は『我々の科学において』採用されるプロトコル文によって十分に裏付けられる。『プロトコル文の想像しうる整合的な集合の中で、教えを受けた科学的観察者の非常に大部分によって採用されている実際に正確な一つのものがあり、同時にそれは我々が一般的に真であると呼ぶまさにこの集合である』」(p. 234)。「……引用された文を支持するプロトコル文が我々の科学において実際に採用されているとどうやって決定するのか? ……しかしこれは彼が排除しようとしている歴史的事実への言及を再生産している」(p. 234)。
 整合説に対するエアの結論。「そこで、経験的命題についての、『事実』や『実在』あるいは『経験』への言及を含まないような真理性の基準を決定するための基準を定めようという試みは成功が証明されることはなかったと我々は結論するだろう」(p. 234)。

ポパー説にも恣意性が残る
 ポパーは「プロトコル文について」のカルナップと同様に基礎的命題の受け入れにおいては規約の役割を主張している。ポパーにとっての基本的命題は「特定の時空間的な点とその場所で起こるのが観察可能な出来事であると述べられる出来事を参照する」(p. 235)単称存在言明であり、そういった命題の検証についての見解は「基礎的命題は意志の行動、規約によって受け入れられる」(p. 235)。しかしエアはこれには恣意性が残っているとして批判する。
 思うに完全な検証の不可能性が規約と恣意性を要請するのではないか? 「したがって実際には、私は限られた回数のテストのみ、ひょっとしたら僅か一度のテストを経た後で命題を受け入れ、そのテストはその命題が偽である可能性を未だに残している。しかしこれは命題の我々の受け入れは恣意的な決定の結果であると言うことではない。私はその命題を支持する何らかの根拠を集めてきたのであり、それが決定的な証拠ではないとしても、である」(p. 236)。

カルナップの規約主義への批判
カルナップはプロトコル命題という語に新たな意味を付け加えている。思うに、まるで観念という語に元からの観察された内容という意味に加え、思考の単位となるブロックとしての意味が持ち込まれたように。「カルナップがしたように、我々がどの命題をプロトコルとするのかということは規約の問題であると述べることによってこれを表現することは、馴染みのない意味を『プロトコル命題』という語に単純に与えることである。……正当ではないことはそれと、プロトコル命題は『直接的に与えられた経験を記述する』と言われる〔というプロトコル文についての〕彼の以前の用法を食い違いを無視することである。古い用法を放棄することで彼はぶつかるよう仕組まれている問題を偶然先送りにしたのである」(p. 236-237)。
 カルナップは所与の要素とはどんな対象であるかという問題を、それは「プロトコル言明において現れるのはどんな種類の語であるのか」という問題を不正確に述べたものであるというように構文論的に扱い、「このようにして彼は直接的な経験の本性についての問題は言語的な性格のものであると考えた。そしてこれは彼に『いわゆる与えられたものや原初的所与の問題』の全てを、言語の形式についての我々の選択にのみ依存するものとして切り捨てさせた。しかしこれは我々がすでに披瀝したところのノイラートとヘンペルの跌を踏むことである。もし『プロトコル言明』という語が記号の特定の組み合わせのための構文論的指示子として単に用いられることになれば、それに我々がそれ〔構文論的指示子〕を適用させるところの文の我々の選択はなるほど規約の問題ということになる。そうなれば真理への参照の程度はBで始まる英語の全ての文に『基礎的』という指示子を適用すると決定すること以上ではない。……したがって彼の問い『プロトコル言明において現れるのはどんな種類の語であるのか』への我々の答えは、言語の形式の規約的選択には単純に依存しない。それは『与えられたものの要素、直接の経験の対象とは何であるのか?』という問いに我々が答えるような方法に基づいている。そしてこれは言語に関する問題ではなく、事実に関する問題である」(p. 237-238)。エアは基礎的命題の問題を規約で片づけるのではなく、やはり経験に触れなければならないと考えているようだ。ここらへんにエアとカルナップの経験主義者としての表層的な類似の下には異なったバックグラウンドがあり、エアは現象主義的なイギリス経験論、カルナップはカント主義的な考え……といえるのか今は分からないものの、この点における不一致は彼がとにかくエアとは異なった思想系統に属していることを示しているのかもしれない。
 カルナップの誤りの理由はプロトコルという語の混乱した使用。「たとえば、混乱の源は『プロトコル』という語の使用である。それは純粋に形式的な指示子と事実の問題に向かう参照に関わるものの両方として解釈することは矛盾なくしてできない。しかし確かにカルナップがそれを解釈したのかというと、それはこの解釈であり、そのために彼は基礎的命題の本性は規約だけで決定できると考えるという過ちを犯すようになったのである。なるほど我々が『ヨ ロ コ ビ』という文字から成る言葉を喜びを指し示すのに用いるべきであるというのは規約の問題である。しかし『喜び』はプロトコルの語でと言うことに暗示されるところの、喜びは直接的に経験されるという命題は規約によってではなく、事実を参照することでその真偽を決定される。感覚の心理学は科学のア・プリオリな枝ではない」(p. 238)。

 神についての言明も経験の内容でなければならない(p. 239)。基礎的命題は規約ではなく所与に基づく。「我々は基礎的命題の形式も妥当性も規約にのみ基づくわけではないと言うことを示そうとしてきた。直接に経験できるものを記述することがそれらの機能であるため、それらの形式は『所与』の一般的本性に、それらの妥当性は適当な特定の場合においてそれ〔一般敵本性〕との一致に依存するであろう」。

経験と命題の一致関係とは何ぞや
 基礎的命題とそれらを検証する経験との間の一致とは何ぞや? この一致の関係とはどんなものなのか? それは絵と描かれるものとの関係なのか? 否。もし命題が絵だとしても、真なる絵と偽なる絵も同じく絵であり、「言い方を変えれば、我々は命題の形から、つまり絵を眺めるだけで、それが真なる状況を描いているのか否かを述べることはできない。……真なる絵は実在と一致する一方で偽なるものはそうではないと我々は言うべきではないのだろうか?」(p. 240)つまり、真偽の判定はできない。同じ難点は構造伝達説、つまり「この一致の関係は構造との同一性の一致であると言う人たち」(p. 240)の説にも成り立つ。エア曰く、彼らは命題は地図のようなものであると考えているわけだが、偽なる地図も地図であることに変わりはなく、判別がつかない。「その地図が実在と一致しているかどうかを見るだけで地図の真理性をテストできると言うことを我々は避けることができるだろうか? だがそれでは同意の思念が未だ不明瞭であり続けている」(p. 241)。言語を絵や地図になぞらえる説では言語による事実の表現を事実(の何かしらの特長)との類似によって説明しようと試みられているが、「『これは赤い』がこのものが赤いことを述べるために用いられることは、それ〔『これは赤い』という文〕が事実的なあるいは仮説的な赤いシミに対して構造にせよ内容にせよ何らかの類似関係を持っているということを含意しない」(p. 241)。

事実と言語の関係についてのあまりにも安直に見える、しかし常識的な答え
「しかし『私は怒っている』という言葉が私が怒っていると言うために使われるとすれば、私が怒っていることがそれらの言葉が表現する命題を検証するということに何ら神秘的なことはない。だが、いかにして私は自分が怒っていることを知るのか? 私がそう感じるからである。いかにして私は今大声がしていることを知るのか? 私がそれを聞くからである。いかにしてこれが赤いシミであることを私は知るのか? 私がそれを見るからである。この答えが満足できるものと考えられないのであれば、私は他にどんな答えが与えられうるのか分からない」。

基礎的命題は反駁不可能(incorrigible)であるというのはいかなることであるのかに関する諸説
 プライス説。「それら〔基礎的命題〕を受け入れる我々の理由が我々の経験のうちに見いだされ、もし『これは赤い』という視覚的感覚与件を述べることが正当化されるのであれば、それはその人がそれを見るが故にそうなのである」(p. 242)。ユーオス説。否定や疑義を受けるものは「これは赤い」といったような基礎的命題そのものではなく、「私は何かしらの赤いものを三秒前に見ていた」というような、基礎的命題とは別物の命題であるが故に基礎的命題は反駁不可能である。しかし、エアはこれでは基礎的命題のみならず、直示的な命題の全てがこれに当てはまってしまうとして反論する。ムーア説。「基礎的命題は反駁不可能であると述べる人のうちある人たちは、我々は他の経験的命題について間違うことができるような仕方でそれらについて間違うことはできないということを心に抱いていると、ムーア教授は私に主張した。『私は痛い』とか『これは赤い』と私が言うならば、私が嘘をついていたり、言葉を間違って使っていることになるが、これは私は『痛い』や『赤い』として標準的に区分されていないようなものに区分しているのである。……もしムーアが正しいとすれば、『私はこれが赤いのか疑っている』とか『私は自分が痛がっているが、ただ単に私が『痛い』や『赤い』が言葉の正しい使われ方をしているのかを疑っているということを意味しているのでなければ、それは間違っているのかもしれないと考えている』と言うことは意味をなさないことになる。しかし私はこの点でムーアは正しいと今は信じている」(p. 243)。


Ayer, ‘Preface’ of “Logical Positivism”(1959)
・ヒュームは論理実証主義の先駆者?
エアは「もし我々がそのリスト〔ウィーン学団が自分たちの先駆者として位置づけた人たちのリスト〕から同時代人を外すならば、全般的な見解においてウィーン学団と最も近しいのはヒュームとマッハである。現に今論理実証主義の特徴的な性格と考えられている学説がいかにすでにヒュームによって立てられていたか、あるいは少なくとも先取りされていたかは顕著なことである」(p. 4)とは言っているが、どうも得心できない。というのも、なるほどマニフェストではヒュームの名は上がっているが、少なくともカルナップに限って言えば、彼の著作を読んできた限りでは彼がヒュームの名を言及するのは極めてまれであり、言及するにしてもあまり重要な点でもないから。これはエア自身がヒュームの伝統の継承者だからなのか?

・ウィーン学団への敵対、いわゆるナチスの弾圧
「論理実証主義者はその弟子に殺されて当然だったということをほとんどほのめかしていた、政府公報でシュリックに寄せられた死亡記事の敵対的な調子は学団にすぐに降り懸かった苦難の前兆となった。第一次大戦の終わりに革命組織スパルタクス団のMunich政府に参加していたノイラートを除いてそのメンバーたちは政治活動を見せていなかったが、彼らの批判的で科学的な傾向はDolfussとSchuschniggの右派の聖職者政府、そしてなおさらナチスからの彼らへの疑いをもたらした。彼らの大部分は亡命を余儀なくされた」(p. 7)。

・カントの形而上学批判と論理実証主義のそれとの対比
「私はヒュームを引用したが、人間の悟性は可能な経験の一線を越えようとすれば矛盾に陥って途方に暮れてしまうと主張したカントも引用しただろう。論理実証主義者の独自性は形而上学の不可能性を知られうる事柄の本性に基づいてではなく述べうることの本性に基づいて論じたことに存している。形而上学者に対する彼らの非難は彼が文字通り意味を持つべきならば言明が満たすべき規則を破っていることである」(p. 11)。

・エアによる論理経験主義の史的発展の説明のまとめ
 ウィトゲンシュタインの論理原子論から検証原理が引き出され、有意味な命題は原子命題であるところの基礎言明(elementary statement)、つまり直接経験、観察の内容の記録、センス・データを表現したものであるとされた。しかし、その基礎命題は私秘的なものか公共的なものかで論議が生じ、後者に落ち着いた。
 その一例がカルナップの現象主義から物理主義へのシフトであった。だが、「しかし彼はこの試み〔アウフバウでの現象主義的還元の試み〕は成功してないと後に認めた。これを行う正しさには問題があり続けていたものの、その立場〔基礎言明を物理的なものとすること〕はより簡単に物理的出来事の記述としての基礎言明を扱えるそれらは物理的対象のセンス・データへの還元の困難によっては少なくとも煩わされなかった」(p. 13)と述べているようにおそらくエアはカルナップの基礎言明の選択は何を還元の基礎に置くかという話ではなく、言語選択の問題であったことを十全に織り込んでいないようである。
 基礎言明の私秘性については経験の内容とその構造を区別するという対処法もある(p. 18-19)。基礎言明が私のセンス・データに基づくものであれば、他者はそれを検証できず、他者への伝達もまたできなくなり、いわば「我々は全く別の世界に住んでいることになる」(p. 18)。だが、「しかし、検証されうるものは〔我々が用いる〕言葉が類似した構造を持つということである。……私は我々が同じ言葉を適用していること、色に応じた彼の対象へのクラス化は私のものと一致していることが観察できる。私が彼が痛いと言う時、彼は私が適当な記号として考えるものを提示していることを観察できる。そして伝達に必要なものはこれで全てである。問題は我々各々の世界の構造が彼が私に与える情報に頼ることができる程に私が十分に類似しているということである。この意味でのみ我々は共通の言語を持っていることになる。いわば、我々は我々の各々が自分の私秘的なやり方で描く同じカンバスを持っているのである」(p. 18-19)。とはいえ、この説には深刻な難点が存している。「構造のみを示す言明の例とはどのようなものか? そこにはロックの『一次性質』の響きがする。しかし対象の『幾何学的』性質、『形、延長、数と動き』を示す言明は、色と音を示すような内容についての語に翻訳されるべきである。もし私には私の隣人が私が色の語を使うことで用いるのと同じことを意味しているのかを知る術がないのであれば、彼が空間的関係や数量を示す言葉を使うことで同じことを意味していることを知る術も等しくないことになる。……振る舞いの上での見かけ上の調和が私に残された全てである。さらに、記述的言語の内部で伝達できるものとできないものとの間に線引きをしようつることは自壊的であるように見える」(p. 19)。
 エアによれば、この構造伝達説(俺による仮の名称)の欠点こそがノイラートやカルナップを物理主義へと向かわせた。「彼らは基礎言明が科学の間主観的言明の基礎となるなるのであれば、それら自身が間主観的でなければならないと論じた。それらは伝達できない私秘的経験ではなく、物理的な出来事を示すべきである。より一般的には、表向きは経験、何かしらの『心的』な状態や過程を、自身であろうと他の誰かのものであろうと示す言明は全部『物理的言明』と同義であるべきであり、それというのいもこのようにしてのみ公共的に可知性であることができるからだ」(p. 20)。
 ノイラートとカルナップの物理主義をシュリックは受け入れがたいものであると考えた。「彼は観察の報告をプロトコル言明がそうと考えられるように横柄な仕方で扱うことは、科学的仮説、実際に経験的言明なるものの全てを事実の統制の外に置くことになると論じた」(p. 20)。一方、彼らは言明は事実とは比較参照できず、言明が論理的関係を持つのは他の言明に対してだけであるとし、真理の整合説を採用した。しかし「カルナップ自身はタルスキにより意味論の重要性を納得させられた後、それを放棄した。というのも意味論は我々に文とそれらが指し示すのに用いられるものとの関係を指し示す方法を提供したからだ。タルスキの示すところでは、それは真理の対応説の十分な再定式化を提供する」(p, 20-21)。とはいえ、それでも物理主義を維持するカルナップに対し、エアは「他者の経験についての言明は彼らの露わな振る舞いについての言明とは論理的に同等ではなく、一方ある人自身の経験をなす言明はその人の身体の公共的に観察可能な条件についての言明と同等であることを維持することはラムゼイがするように、麻痺を装うことである。……しかし私はこの懸賞原理を『中立化する』試みはそれ自体相当な困難に出会うと認めてはいる」(p. 21)。要するに、基礎言明を物理的なものとすれば、他者と他者についての言明をうまく扱えなくなり、私秘的な経験とすれば、伝達ができなくなってしまうという問題が生じるというわけ。
 しかしさらに問題はあり、全称命題や法則は検証できないということがそれであった。ポパーの反証主義はこれへの彼の見解の表明であた。しかし、ポパーの見解もまた難点を持ち、indefiniteな存在言明は反証できないというのがそれ。つまり、「雪男はいない」は雪男を見つけるだけでいいので原理的に反証できるが、「雪男はいる」は特定の時空間の範囲内ならいざしらずindefiniteならば原理的に反証できない。
 それ故、決定的な検証も決定的な反証も意味の基準としては厳しすぎることが分かった。そこで彼らは確証の程度に代えたり、ある言明が「基礎言明でなければ、基礎言明がそれを支持〔support〕できるようなものであるべきである」(p. 14)といったより弱い基準に甘んじようとしたが、「支持する」や「確証」の概念は十全に定式化できなかった。
 検証原理の身分についての反論、それこそ無意味であり、形而上学ではないのか、に対する答えは規約であるというものであった。エア自身は「私はそれは『意味』という語を実際に人々が用いるやり方についての経験的な仮説であろうが、しかしこの場合のそれは間違いであると考えており、それというのも形而上学的言明が有意味であると言うことは通常の用法に反していないからだ」(p. 15)という意見だった。他方で「ウィーン学団はこの難点に気付いていないようだった。しかし実際に彼らがやっていたことは検証原理を規約として採用することであったということは私には正当に明らかであった。彼らは、経験的に情報を持っていると考えられる言明によって実際に満たされる条件を述べる意味での通常の用法に合致する意味の定義を提出していた。ア・プリオリな言明への彼らの扱いはそのような言明が実際に作動する方法の説明を与えるべく意図されたものであった」。この際において彼らの仕事は記述的であり、それはそれら二種類の言明だけが真ないし偽として考えられ、真か偽をとりうる言明だけが文字通り有意味なものとして考えられるところの条件で規定することになった(p. 15)。エアは検証原理は記述としているが、これは、少なくともある時期以降のカルナップの工学的哲学観とは違うのではあるまいか。

・構文論に入り込んだ意味論
エアはカルナップは『言語の論理的構文論』において意味論を紛れ込ませているとする。「経験表現〔experience-expression〕は構文論的用語ではない。ある表現を『経験表現』にするのは特定の形式を持つことではなく、それが経験を指し示すように使われるということである。しかしそこで何を経験として勘定するのかという問題は重要になってくる。それは恣意的決定によって解決されるものではない」(p. 26)。

・クワインとグッドマンの存在論についての説明
「それらの哲学者たちは彼らが存在論と呼ぶものに関心を抱いており、その問題においてはある人の言語選択はどのようなものが存在するのかを言うのにどこまで彼を関わらせるのかというものであった。『存在すること』とは、クワイン曰く『変項の値となることである』。これはラッセルが世界の『家具』と呼ぶものの範囲は、それ〔家具〕を述語づけることを要求される述語の射程に依存するということを意味している。クワインとグッドマンは両者ともにこの家具を可能な限り厳しくして切り詰めようと望んだ。彼らが『抽象的存在者を避難した』のはただ単に自分たちがそれらなしでもどれほどうまくやっていけるかという論理的な才覚を行使しようとしたからではなく、彼らはそれらが存在すると自らを信じさせることができなかったからであった。同じ精神にあってグッドマンは現実的〔actual〕の逆のものとしての可能なもの、因果的と偶有的の区別、分析的言明と総合的言明の区別といった思念を使うことなくやっていった。『あなたはおそらく』彼曰く『そういった遠慮を非難し、私の哲学の中に天地に存在するもの以外の夢想的なものがあれば反発するだろう。むしろ私は私の哲学の中に天地に存在するもの意外に夢想的なものはあるべきではないと思っている』。しかし、彼の場合にせよクワインの場合にせよ、この厳しい節約の要求が何に基づいているのかは明らかではない。現にクワインは結局のところ何が存在するのかという問題はプラグマティックな理由によって解決させるべきであると認めた。かくして彼はカルナップに再合流したが、彼のプラグマティズムはあまり穏やかではない」(p. 26-27)。


カルナップ, ‘テスト可能性と意味’(1936)
 15節でカルナップの言うところでは、これまでのカルナップやウィーン学団、実証主義者たちは還元可能性と定義可能性を区別しておらず、それゆえに「科学のあらゆる記述的用語は知覚語によって定義することができ、従って科学言語のあらゆる文は知覚についての文に翻訳することができると信じた」(p. 141)。だが、両者は別物である。  整理のために8節の内容を元に還元の何たるかをまとめる。
(R1) Q1⊃(Q2⊃Q3)
(R1) Q4⊃(Q5⊃〜Q3)
Q3が導入したい述語、Q1とQ4を実験条件、Q2とQ5を実験の結果とする。R1ではQ1とQ4からQ3が、R2ではQ2とQ5からQ3の否定が導出される。ここではQ3はQ1、Q2、Q4、Q5という四つの述語に還元されると言われる。R1とR2はそれぞれQ3、〜Q3に対する還元文、こういった一対の文(R1とR2との対)はQ3に対する還元対と呼ばれる。Q4とQ1、Q5と〜Q2が一致する場合、還元対はQ1⊃(Q2⊃Q3)とQ1⊃(〜Q2⊃Q3)になり、これらはただ一つの文Q1⊃(Q3≡Q2)によって置き換えることができる。このような文を両側的還元文と呼ぶ。
 そして「『Q』に対する還元対が妥当であるならば、還元対の中に現れる他の四つの(あるいは二つの)述語に完全に還元可能である」(p. 120)。

 15節に戻る。(1)「1925年5月6日午後4時に、私の部屋には丸い黒のテーブルがある」を(2a)「もしも5月に……誰かが私の部屋にいてかくかくの方向を見るならば、彼はかくかくの種類の視知覚を持つ」と翻訳されるとする。しかし、これは翻訳としては十分ではなく、一方が真であるのに他方が偽である場合も起こる。所定の時刻に観察者がいない場合、(1)は偽である。(2a)は(x)[(xは……私の部屋にいて……を見る)⊃(xは……を知覚する)]という全称含意文であり、これを(x)[P(x)⊃Q(x)]と略記すれば、これはさらに(x)[〜P(x)∨Q(x)]と変形できる。所定の時刻に観察者がいない場合、P(x)は偽であるため、(x)[〜P(x)∨Q(x)]、ひいては(2a)は真となる。
 それゆえ、科学言語の用語の知覚語への翻訳は不可能である。そこでカルナップは用語の導入にあたっては定義だけでは十分ではなく、還元をも用いなければならないと言う。
 なお、この論文でもあらゆる科学言語は物理言語に還元可能であるという形で修正されつつも、物理主義のテーゼは維持されている。つまり、物理言語による他の科学言語の用語の定義、物理言語から他の科学言語の用語への翻訳はできないが、還元はできる、というわけ。


Rudolf Carnap, ‘Applicaition of Inductive Logic’(1947)
・状態記述が満たすべき、侵害されれば自己矛盾になる要請(2節)
1. 論理的独立の要請。a. 原子文は互いに論理的に独立であるべきである。b. 個体変項は異なり、全く分離した個体を指示すべきである。c. 基礎的述語は互いに論理的に独立であるべきである。
2. 単純性の要請。
3. 完全性の要請。

・帰納論理の十全性を計る「もっとも単純なアプローチ」は与えられた定義に基づいて計算されたc(h,e)の値を値の直観的な結論と比較すること(p. 145)。

・投射可能性について
さしあたりの規定。「以下が満たされるのならば、我々は性質Wは帰納的に投射可能であると呼ぶ。観察された標本のWの相対頻度が高くなればなるほど、この証拠によって観察されていない個体が性質Wを持つ確率が高くなる」(p. 146)。カルナップは彼の*cは確証の度合いの明示的な定義に基づいているので、投射可能な性質とそうでない性質とに分類して投射可能なものに帰納手続きを限定するする必要がなく、hとeの形式はLにおいて定まっており、WがLにおいて表現可能であれば(ただし場所的なものではなく質的なものであれば(次頁参照))、投射可能であるといえる(p. 146; ページの末尾にその例がある)。



Neurath, ‘Unified Science and Psychology’(1933)
・統一科学の何たるか
「統一科学は特定科学の全ての文、のみならず文についての全ての文、つまり手短に言えば『全ての合理的な文』〔all legitimate sentense〕を含む」(p. 2)。「統一科学の統一言語は正確な定式の総体ではなく、不正確な語ないし、より正確な語に置き換えられない『塊』を全て含める普遍的スラング〔universal slang〕の一種である」(p. 3)。

・プロトコル文の何たるか
「科学の存在にあたっては、『真正の文』がどんなものなのかを我々が認識することが不可欠である。真正の文とは『ヨーロッパは雨が降っている』という形の文である。否定は『ヨーロッパでは雨が降っていない』となる。『全ての川は海へと注ぐ』と『我々が石を話せば、それは地面に落ちる』も真正の文である。……全ての真正の文は真正な文の集合の部分集合、つまり『プロトコル文』に還元でき、それらは『観察者』と『観察』といった語を含む文である。文の体系内では、プロトコル文はこれ以上進むことができない最終的な文である」(p. 2)。プロトコル文はプロトコルの保持者の名前と知覚的な語を含んでいなければならない(p. 3)。
 プロトコル文の具体例。「オットーの午後3時17分のプロトコル:オットーの午後3時16分の言語化された思考:オットーに知覚された身長1.87メートルの男が午後3時15分に部屋にいた」(p. 2)。

・統一科学が要る理由
「林でもうすぐ火事が起こる」という予測を導くためには、気象学や植物学の文、さらには「人間」〔man〕や「人間の振る舞い」〔human behaviour〕が作用する文も必要であり、人間の火事に対する反応や社会的組織が果たす役割などについての心理学や社会学についての文も必要となる。それらを組み合わせることで初めて「だから林でもうすぐ火事が起こる」という推論が可能となる(p. 3)。

・科学のように心理学も哲学から手を切るべし
「ケプラーが彼の宇宙の法則を神の聖なる鍵盤、プラトンの完全な身体の理論、そして宇宙精神の理論から導出して数世紀が経過した。その鍵盤は神と宇宙精神ともども処分できるが、法則はそのままである。ケプラーの後継者たちはもはや新しい法則を打ち立てるための鍵盤を必要としていない。心理学者たちには未だにそのような鍵盤が必要なのか? 彼らは例えば『内在的目的論』の古い歌を、最早それを創造した神を認めていないにもかかわらず歌い続けるべきなのか? 科学は相次いで哲学から自らを切り離してきた。例えば精神物理学はカントの純粋経験の類推の胎児的な形で一時存在していた。哲学とへその緒でつながっている最後の科学は心理学である」(p. 10)。

・行動論(behaviouristics)
行動主義のように「刺激」、「反射」、「生きた人間の行動」等々の用語を用いて研究を行うものであるが、ノイラートはワトソンなどの行動主義を「狭義の行動主義」、ノイラートがここで用いるものを「広義の行動主義」と呼び、行動学はその後者である。「行動に関わって物理主義の言語を使う者は『行動論者』〔behaviouristician〕と呼ばれ、他方で行動主義の支持者は『行動主義者』〔behaviourist〕と呼ばれる。行動論は、今日マルクシズムの枠内で体系的に存在しているが、まだ未発達の形である『社会的行動論』へと導く」(p. 13)。

・統一科学が心理学にもたらす未来
 言語が統一されるならば、行動主義者、ゲシュタルト心理学者、反射学者、個々の心理学者、そして精神分析学者は統一された共通の言語で各々の理論を理解し、成功の度合いを比較できるようになる(p. 22)。物理主義者により、心理学理論、社会学等々を物理主義的な用語に改革するのために特殊化した用語の辞典〔lexicon of specialized terminologies〕が作られるべきである(p. 22)。



Neurath, ‘Unified Science and Its Encyclopedia’(1937)
・日常言語と物理言語
「我々の運動の根本的テーゼは、物理学と、日常言語〔every-day language〕のなかの物理学と似た語句はすべての科学を構成するのに十分であるということである。物理主義として知られるこのテーゼは近年の特別な研究によって進歩的に裏付けられてきた」(p. 270)。

・統一科学百科事典の計画
「この計画は二部で出版されることになり、一部では科学の基礎についての16から20のパンフレットを収めている。したがってそれらは科学の論理的分析、一般言語学、数学と論理学、経験主義的科学の科学的手続き、確率、物理学、宇宙論、生物学、行動の理論、社会科学、経験的価値論、科学の歴史、論理学の歴史、経験論の歴史、論理的経験論についての記事並びに文献一覧と各部の目次を収める。……百科事典の後の方の部ではその試みは個別科学で到達される結論の違いと同じままの視点が示され、様々に異なった意見と一緒にそれらの標準を説明する機会を人々に与えることが計画される。この百科事典に特有な狙いは我々の目下の知識と、その中で新しい考えが育ちつつあるところの様々な分野で目下見つけられている困難とのギャップを示すことになろう。ギャップと観点の衝突を示す準備をし、我々の知識の不完全性を強調するこのような百科事典は成長と発展の過程においてとりわけ人々のために計画されている。
 共同研究者たちは互いに高度な連絡をとり続けるべきであり、それによってこの百科事典は一つの科学から別の科学へと橋を架けるのに役立つ計画されるが、意見の個人的表明を制限することはない」(p. 272-273)。

・統一科学百科事典計画の端緒
「私の中心的な確信は、様々な科学の間の差異の仕上げは本質的な仕事ではなく、逆にたった一つの科学的な『文体』を使って全ての科学の説明を発展させることがとりわけ重要であるというものである。それはつまり、私は星と人間について同じ論理的技術と同じ科学的な冷静さでもって語る可能性を確信したのである。また私はそのように包括的な科学的見解は堅実で一般的な教育の重要な基礎としても役に立つと考えた。このようにして数人の友人と私自身は全ての種類の事物ーー星、石、植物、動物そして人間ーーを取り扱うおよそ100個のパンフレットのシリーズをこしらえるという構想を得た。包括的なアルファベット順の目次が決定されるべきであり、この全集は辞書と同じように使われることができる。この教育的計画はフィリップ・フランクとアインシュタインを含む多くの人たちに熱烈に迎えられた。後者は私にこのような見事に計画された全集はフランスの百科事典が18世紀フランスの知的グループに対してなしたのと同じ機能を今日において大衆に対して果たすだろうと書き送ってくれた。しかしこの計画にとって全ての文章は図解を伴うというのが本質である。この計画は実行されることはできず、我々の様々な議論とそのシリーズを始めるという計画は成功しなかった」(p. 273-274)。

・普遍的スラング
「私の議論の傾向は私を物理主義の言語としての純化された日常言語(『普遍的スラング』)を強調するよう誘った。互いに並置された特別な『事物の世界』と特別な『思考の世界』を構成する様々な試みを退けることで我々は我々の科学的言語を統一し、『物理学的言語』と『現象的言語』という二つの言語の使用を排除し、物理主義の共通言語を作り上げる作業を前進させる立場に立つ」(p. 276)。

・仮設的な進歩主義と百科事典主義
 科学に絶対的な始点を設けて科学の言語を組み立てるのではなく、それを使いながら改良していくといういわゆるノイラートの船の考え方と百科事典との関係。「『統一科学』の理念では百科事典が我々の知識の『モデル』として考えられているという見解は自然で直接的な結論であろう。というのも我々は歴史的に与えられた科学を『実際の科学』と比較することはできないため、我々が科学的な仕事の中で成し遂げることの大部分は百科事典となるものであろうし、科学的経験論に関心を持った科学者たちによって共同的に構成されるであろう。このプログラムは『百科事典主義』〔Encyclopaedism〕と呼ばれるだろう」(p. 276-277)。



Neurath, ‘The Departmentalization of Unified Science’(1937)
まとめ
・科学の統一は特定の教説を前提としない
・物理主義:科学は普遍的スラングで表現できる
・科学の統一と分類は一挙にではなく徐々になされる

・主題は科学の分類
「我々は一般的に採用された整合的な体系を形成するような科学の分類を持っていない。起こる問題というのは、科学の包括的な体系が統一科学の論理化〔logicalization〕を妨げないのかどうかである。
 伝統的な体系の多くの区分けは例えば、『非生物学的科学』(『生物学的科学』に対立する)、『抽象的科学』(『具体的科学』に対立する)、『精神科学』(『自然科学』に対立する)。そういった分類によって多くの科学的決定の受け入れとそれらへの反対、例えばある教説への特定の科学的手続きの適用へのそれらを予想する」(p. 240-241)。

・生物学的か非生物学的かを前提することなく、この区別とは中立的に対象を扱える
「ケプラーの法則は膨大な量の観察によく成り立ち、これは惑星が微生物から構成されていると判明しても変わらないだろう。ケプラーの考えは、生き物(天使)が惑星に命令をして文字通り天体の調和に則って動くというものだった。彼は音楽的な調子から構成されたメロディーと、プラトンの単純な幾何学的物体の体系に基づいた惑星の体系に基づいた『天体のメロディー』を証明しようとしていた。ケプラーの法則は、天文学者科学的な仕事の基準としてこれらの考えを使うのを停止しても変わらなかった。ケプラーの法則は天文学的な現象が生物学的か非生物学的かどうかの問題の点から『中立的』であった」(p. 242)。

・普遍的スラングへの還元
 天文学、生物学、メンデルの理論、紋章学、美術史などは「(危険な語は除外された)日常言語の通常の語と、これに追加された科学的語から構成される普遍的スラングの語」(p. 244)で述べられることができる。これがノイラートの物理主義の形。
 例。「統一は伝統的で主要な区分で合体された学問を分離し、逆にもする。いわゆる社会科学の全ての学科は普遍的な社会学的語彙に基づいているというのは間違っているだろう。人間によってなされる生産は社会科学の枠組み内で論じられる。『人間』という語〔の使用〕は多くの二次的学科において内容を変えることなく避けられうるだろう。例えば言語学者は『子音の変化』を『特定の』社会学的ないし生物学的な語を使うことなく分析できる。子音は人間の舌を使うことなく蓄音機によって総合的に生成することができる」(p. 244)。

・ピラミッド主義(Pyramidism)への反対
反論:百科全書主義での科学の分類は、形而上学的思弁とのつながりを持っている(ないしはこれに基づいている)のではないか? 「あたかも創造主が経験主義を案じているかのように、科学の少なからぬ分類と配列は形而上学の建築的構造からの派生物としてみなすことができる」(p. 245)。
 ノイラートはこのような形而上学的な、「原初的な方向」(initial orientation)を持った分類を「ピラミッド主義」と呼び、彼の百科全書主義と対置する。ノイラートは少しずつ手直しをしつつ航海をしていくという立場に基づき、最初からあるものとしての分類を拒む。「百科全書主義は『ピラミッド主義』に基づいた先行者たちほど調和への配慮を示さない。……ある整合的な手続きと複雑なネットワークが徐々に創造され、そこには対照的にピラミッド的な勅令はない。科学のモザイク的なパターンは年月の過程の中でだんだんと繋がりを持つ特徴を示していくが、科学的態度が完全に妥当であり続けるならば、常に変化している」(p. 246)。



Schlick, ‘The Turning Point in Philosophy’(1930) (in “Logical Positivism”)
・過去との断絶を強調
哲学はこれまでにどれだけ進歩し、現今の哲学はどれだけの貢献をなしうるのかという問いを受け、以下のように述べられる。「しかし最も優れた思想家たちは先行する哲学の結果は古典的なモデルの結果を含め、揺るぐことはないとほとんど信じなかったということは正しい。これは基本的にあらゆる新しい体系は再び一から始まり、あらゆる思想家たちは彼自身の基礎を探して先行者の肩に乗ることを望まなかったという事実によって示される。デカルトは(故なきことではないが)全く新しい始点を作った」(p. 53-54)。だが、これは「哲学的見解の無政府状態」(p. 54)である。しかし、「我々は今や哲学の全く決定的な転換点におり、我々は諸体系の不毛な争いを集結させたと考えることにおいて客観的に正当化されている私は確信している。我々はすでに目下、私見では、原則におけるあらゆる争いを不要にする方法を有している。今必要なことはそれらの徹底的な適用である」(p. 54)。ご多分に漏れず、それはラッセルとフレーゲに始まる新しい論理学の応用である。

・論理的形式
論考の香りが強い論理形式についての立論。「論理的なものはいくつかの意味においては純粋に形式的なものであるということは早くもそしてしばしば表現されてきた。しかしながら、純粋な形式の本性については実のところ明らかではない。それらの本性への鍵はあらゆる認知は表現ないし表象であるという事実に見て取れる。それ〔表現や表象〕において認識されるものは事実を表現している。これはなに頭の数のやり方、言語において、記号の恣意的な体系により起こる〔表現される〕ことが可能である。表象の可能な全ての様式−−それらが別の仕方で実際に同じ知識を表現しているとすれば−−共通な何かを持つ。そしてそれらに共通なるものとは論理的形式である。
 かくして全ての知識はその形式のたまものである。その形式を通して既知の事実は表現される。しかし代わりにこの形式はそれ自身を表現しえない」(p.55)。

・言語分析が知識論に取って代わる
知識論(the theory of knowledge)という伝統的な問題、人間の「知識の可能性」(capacity of knowledge)は「表現、表象の本性、つまり語の最も一般的な意味におけるあらゆる可能な『言語』についての考究」(p. 55)に取って代わられ、「『知識の妥当性と限界』についての問題は消失する」(p. 56)。「今まで考えられていたものは真正の問題ではなく、語の無意味な文である」(p. 56)。

・検証
「そこにおいて解決への道が最終的に終わるところの検証の活動はつねに同じ種類であり、観察、直接的経験によって確証されるという事実の生成である。この仕方で、日々の生活や科学におけるあらゆる文の真理(あるいは誤謬)は決定される。観察と経験科学以外によって真理のテストと実証はできない。あらゆる科学(我々はこの語で指示するのは内容であり、それに至るにあたっての人間の取り決めではない)は認知の体系、ひいては真なる経験的な文の体系である。科学の全体は、日々の生活の言明を含めて、認知の体系である。そこに『哲学的』真理の領域はない。哲学は言明の体系ではなく、科学ではない」(p. 56)。

・哲学とは活動である
「我々は哲学において認知の体系ではなく、活動の体系を見て取る」(p. 56)。哲学は活動であり、「哲学によって言明は解明され、科学によって検証される」(p. 56)。そして哲学観においてシュリックはウィトゲンシュタインの引き写しのように見える。
 言明への意味の付与は言明によってはなされず、そのプロセスは終わりがない。「したがって意味の最終的付与は常に行動〔deed〕を通してなされる」(p. 57)。この段落においてシュリックの対応説の兆しが見える。
 哲学の活動の成果は哲学という共通の母からの個別科学の解放であり、これによって根本的概念は明晰になり、諸科学は成功を収めた。「最終的に、よくできた科学のうちで根本的概念の真の意味を改めて反省することが突如必要になると、それによってそれらの意味のより深遠な明晰化が達成されており、これはひいては顕著な哲学的な事績である。全ての人は、例えば、時間と空間についての言明の意味の分析から始まったアインシュタインの仕事は実際のところは哲学的な業績である」(p. 58)。これこそが哲学の活動である。
 シュリックは人生についても役に立つという。「それというのも、賢者は彼が蒙昧な大衆よりも言明の意味と人生の関係性、事実、欲望についての問いにより明確に指摘できるという事実のおかげで彼らよりも上手であるからである」(p. 58)。
 そしてまた、シュリックは「哲学の尊厳」(p. 58)、「哲学は知識の究極的な支持を提供しなければならない」(p. 58)という本能、即ち哲学によって科学に確実な基礎を与えるという考えにも反対する。「そのメダルの裏面は哲学はア・プリオリで真なる公理を提供するというドグマ」(p. 58)である。「可能性や確実性の概念は哲学がそれから成り立つところの意味を付与する活動に単純に適用されない」(p. 58)。

・形而上学者の過誤
 形而上学者の誤りは「実際の意味と究極的な内容が言明において順に与えられ、ひいては認知において表現できる」(p. 57)と考えたことであり、それは語り得ぬことを語ることである。「形而上学者の試みは常に純粋な質(ものの『本質』)、ひいては語り得ぬ話を表現しようという馬鹿げた目的を目指していた。質は『語る』ことができない」(p. 57)。

感想
「erkenntnis」誌一号の巻頭論文ということで、全体的に細かい内容はなく、主要なトピックの大綱といった趣がする。



Schlick, ‘Positivism and Realism’(1932) (in “Logical Positivism”)
 この論文のテーマは「実証主義」という語を明らかにすることで、その動機は「実証主義」という語において現れる混乱のために無用の論争が起こっているということ。

・「実証主義」とは何か?
「実証主義者として形而上学の可能性を否定する見解」(p. 83)が「厳密な実証主義」として定義されるが、この定義には「形而上学」という言葉が出てくる。「形而上学」とは、「現象」(appearance)や「所与」を越え、それらに対するのとは別の仕方でアクセスされる「真の存在」や「実在それ自体」、「超越的な存在」についての理論である。
「つまるところ実証主義者の『所与』は形而上学者の『現象』であり、実証主義はそもそものところ超越的なものから離れたり、これを攻撃する形而上学の一つであると信じることになる……しかしこの信念は我々には危険な誤謬への道であるように見える」(p. 83-84)。「実証主義による形而上学の排除が超越的な実在の否定を示しているとすれば、実証主義者は実在を非超越的存在へと割り当てている世界においては最も自然的な結論であろう。とすれば、実証主義者の根本的な原理は『所与のみが実在的である』ということであろう」(p. 84)。しかし、これは「超越的なものが存在する」という矛盾する形而上学的言明と同程度に形而上学的ではなかろうか。

・外的世界の実在について
 この実在についての問いは外的世界の存在についての問いへと転じ、実在論は外的世界の実在性を信じ、実証主義はそれを否定する。この外的世界についての問題は所与を意識の「内容」、つまりそれを与えられた主体に属するもの、心的性格を持つものと見なすか、意識の外の存在と見なすかという区別に由来する、内的と外的の区別によるものである。所与を内的なものと見なす見解はとりもなおさず観念論であり、「哲学者が自身に与えられたもののみについて語ることができると考えるならば、独我論的形而上学が我々の前に出てきて、多くの主観のうちに所与が配分されると考えるならば、バークリ的多様性の形而上学を持つことになる」(p. 85)。
 実証主義をこの見解、つまり外的世界は存在するとする見解とみなすならば、それは、それも一つの形而上学であるところの実在論の焼き直しになり、「実証主義の反形而上学の態度」(p. 85)は見落とされる。つまり、実証主義はただ単に「真の存在」や「超越的な存在」に反対することに尽きるものであるということになる。しかし、シュリックは「実在論と実証主義は両立不能である」(p. 85)と言う。

・検証方法としての意味
「一般に、いつ我々は問題の意味が我々にとって明らかであると確信するのだろうか? それは我々が肯定的に答えることができる条件ないし、場合によっては否定的に答えることができる条件を明らかに述べることができる時、そしてその時のみである。それらの条件を述べることによって、そしてそれのみによって問題の意味は定義される」(p. 86)。命題の意味は「もしその言明が真であるならば、存在するに違いない事実」(p. 86-87)であり、「それは一定の事態を表現する」(p. 87)。命題の意味を明らかにするのは語を継起的な定義によって変形し、もはや定義され得ない語に変形することでなされる。つまるところは還元。「その下で命題が真である条件についての言明はその意味についての言明と同じものであり、何ら異なったものではない」(p. 87)。他方で意味を持たない命題については「それが真であろうと偽であろうと世界が同じままな命題は世界について何も語らない。私はそれに意味を与えない」(p. 88)。
 以上、語の意味は経験的・科学的方法によって確定され(p. 86)、命題の意味とはその真偽の条件であるという見解を、シュリックは抑制的な言い方ながらも実証主義と呼ぶ。「我々はそれが我々が実証主義のうちに見て取る多くのまことに保たれた定式の原動力となる力と本当の核心を構成すると現に見なす」(p. 87)。
 意味を真理条件とする具体的な例。「しかし誰かがこう言うだろう。あらゆる電子のうちには原子が存在し、常に存在しているにもかかわらず、いかにしても何ら外的な影響をもたらさず、したがってその存在は自然的に明白ではなく、これは無意味な主張である、と。我々はこの仮説の提唱者にこう尋ねるべきであろう。あなたはその『原子』の存在によって本当のところ何を意味しているのか、と。そして彼は、私は電子に存在する何ものかを意味させている、としか答えられないだろう。さらに我々は問うべきである。その意味は何であるか? それが存在しない場合はどうなるのか? そして彼は、あらゆるものが前と同じようにきっちりとあり続けると答えるだろう。彼の主張によれば、電子の中の『何ものか』は影響を持たず、観察可能な変化が単純にないことになる。所与の領域はこのようにして影響を受けることはない」(p. 89)。文が示していることは真理条件、経験的内容に尽き、「もしそれはこれ以上の何ものかを含んでいるというならば、彼はこれ以上のものが何であるのかを言えなければならならず、これをするために彼は我々に、彼の言うことが間違っているならば、世界がどのように異なっているのか述べるべきである」(p. 90)。

・検証は原理的に可能であればよい
 意味を担保する検証可能性は原理的(in principle)なものであり、実際に可能ではない。そして原理的な可能性と、ひいては論理的可能性と実際の可能性、つまり経験的可能性との間の相違は程度問題ではなく、本質的な相違である(p. 89)。

・検証は感覚を通してなされる
 観察によって検証は、或る所与(data)、「感覚印象」(sense-impression)の発生への参照によってなされ、「物理学の言明の真偽は感覚印象(所与のクラスを構成する)の出現に全面的に依存している」(p. 90)。

・検証の不完全性
 完全な検証ができないこと(ここで「完全な検証」という語は使われていないが)。「厳密に言えば、物理的対象についての命題の意味は不確定的に無数の可能な検証のみに尽き、我々はこれから最終的な分析において命題は完全に真であることが示され得ないということを知る。現に、科学のほとんどの確実な命題でさえ仮説としてとらえられ、さらなる改良と改善に開かれ続けていることが一般的に認識される」(p. 91)。

・経験内容の比較は行動主義的になされる
 自他の経験を比較することはできず、自分が緑の紙を見て、他の人も緑の紙を見たと述べたとしても、このことから彼が同じ色を経験したことを導き出せないし、両者の同定もできない。私的言語は不可能。一方で、何かしらの経験内容についての文の比較や同定は検証可能な場合に限られる。「異なった個体が同じ経験を持つという言明は彼らの全ての主張内容(そしてもちろん彼らの残りの振る舞いの全て)が或る一致を示すという事実において単一の検証可能な意味を持つ。かくして言明はこれ以上のことを意味しないことになる。我々が我々は二つの体系秩序の類似に関わると言うときのみ、異なった仕方で同じことを表現する」(p. 93)。
 自分の意識の所与の類似性は直接的経験によって検証される。しかし、自他の意識の所与の類似性については「新しい概念」で処理されるべきものであり、「それというのもそれが現れる言明はもはや古い仕方では検証できないからである。新しい定義は単純に、二人の個体の全ての適当な反応の類似である」(p. 94)。「同じ個体の経験の類似性」は「一つの場所での同時性」に、「異なった人の経験の類似性」は「異なった場所での同時性」になぞらえられ、おそらくそこで新たに導入されるのは関係性である。
 シュリックの有意味性についての考えは概して行動主義的である。「そこで二人の人物の経験の類似性に関する言明は彼らの反応の一致以外に伝達可能な意味をもたないと認められるべきである」(p. 94)。「我々は命題の中には伝達されるもののみを理解し、もし検証可能である場合のみ、意味は伝達可能である」。
「xは実在的である」というような実在性についての文は「xは堅い」というような文と外見上は同じであるが、実在性対象に割り当てられる属性・述語ではない。それゆえにカントが取り上げたような神の存在証明の誤謬性は存在が述語として扱われることに由来する(p. 96)。

・検証は直接的に対象を知覚する必要はない
「私は『これは一ドル紙幣である』と述べるように慣れているところの存在についての特定の触覚と視覚を得る。……アフリカにオカピがいるということはそのような動物がそこで観察されるという事実によってのみ決定可能である。しかし、その対象なり出来事『そのもの』が知覚される必要ではない。我々は、例えば、太陽系の外側の惑星の存在は大きな確実性と共に、望遠鏡の光の位置の直接的知覚からのものと同じように摂動の観察から導き出されると想像できる」(p. 96)。

・過去の経験論者の見解の解釈
 知覚に基づいた経験論者たちは物理的対象の存在を否定していないという解釈。「彼は物体の世界の実在性を否定したわけではなく、ただ単に我々がそれの実在性を帰するときに意味しているものの説明を試みただけである。知覚されない観念は神の心の中に存在すると述べた彼はそれによってそれらの存在を否定したのではなく、それを理解しようとしたのである」(p. 97)。ミルは「物体を『感覚の永遠の可能性』であると明言した時に物体の実在性を否定しようとしたのではなく、それを明晰にしようとしたのであり、私の見解では彼の表現法は不味い選択であった」(p. 97)。

・存在と属性は別物
 存在と属性は別物であり、現代論理学ではそれらを示すのに別の記号が使われている。そして検証原理をあわせて、例としてのデカルト批判。「我々はデカルトの『我在り』という言明――あるいはより誤解の少ない定式化『私の意識内容が存在する』――は単純に無意味であるという見解を得るに違いない。それは何も表現しておらず、何の知識も含んでいない。これは『意識内容』はこの文脈においては所与としては単純に名辞として現れているためである。……しかし私はどのようにしてそれの下で『私の意識内容が存在する』という命題が偽になる条件を述べられるだろうか? ……したがって私がその命題が真となる(そうしようとする!)条件を述べることができないということは明白である」(p. 98-99)。また、内的状態は振る舞いや表現によって検証可能である(p. 99)。

・対応説
「実在的であるとは所与に対して一定の関係が成り立つということを常に意味する。……ここでまた、〔私がこの瞬間に痛みを経験しているか否かという〕問題は或る記述可能な属性を持つ経験が或る条件(実験的条件、注意の集中等)がある連言の中に現れることを確定することで答えられる。そういった記述的属性は、例えば、或る反応を生じさせる傾向などの或る他の条件が現れる経験に似ている」(p. 99)。

・「外的世界」という語の分析
 外的世界は日常的な用法と哲学の専門用語としての用法がある。前者については下の通り。「日常的な生の中にそれが現れる時は、ほとんどの場合は実際の事態において使われる表現であり、感覚的意味が語られうる。記憶、思考、夢、欲望、感情を含む『内的世界』とは反対に、外的世界は単純に山と木、動物と人の世界である」(p. 100)。
 見られていない時の世界は存在するのか。「『見られていない時、夜にそこに城は存在しているのか?』我々は答える。『もちろんだ! それが今朝に建つのは不可能だろうし、さらに建物の状態はそれがつい昨日のものではなく、数百年経ち、ひいては我々が生まれる前のものであると示しているから』」(p. 100)。
 形而上学的な意味における外的世界は経験的世界の「背後」(beyond)にあるものとされているが、「『背後』という語は経験的世界ができるのと同じ意味では『知られ』えないということを示している」(p. 102)。この現象の背後にある世界と経験的世界の区別は、知識は直接的なものでなければならないという見解に基づいているという。「知識は直観の一種であり、対象が感覚なり感情として知る人間に直接的に現れている時のみ完全である」(p. 102)。これはとりもなおさず知識と直接的な見知りないし経験との同一視である。しかし一方で科学者たちは電子の振る舞いを支配する法則を述べさえすれば、十分に完全な知識であると考えているとする(p. 102)。

・物理的実在論者(physical realist)について
「物理的『実在論者』は外的世界についての我々の記述に一点を除いて完全に満足している。彼は我々はそれが実在であると十分だと認めたとは信じていない。それは、それが知り得ないからだったり、彼が『外的世界』は経験的世界から区別されると考える何かしらの理由からではなく、ただ単により高い実在がそれにはあるためである。これはしばしば彼の言語において示されている。『実在的』という語はしばしば『理念的』、『主観的』な意識内容と対照的な外的世界のためにとっておかれ、単なる『論理的』構成への反対において『実証主義者』はそういった論理的構成物に実在性を還元しようとするとして非難する」(p. 103)。

・形而上学的な理論は感情の表現である
「検証可能な差違は超越的存在が対象に付随するのか否かで世界においては何がどうなるのか? 二つの答えがこの問いに対しては与えられる。最初のものはそれは非常に大きな違いをもたらすというものである。というのも『実在的』外的世界の存在を信じている科学者たちは、『記述的感覚』と彼ら自身が信じるものと非常に異なったものであると感じ、そしてそのように動いている。前者は星空を観察し、その眺めは後者〔記述的感覚〕とは全く異なった熱狂と畏敬の感情と共に、彼らに自身の取るに足らない本性、不可解な崇高さと世界の雄大さを意識させ、それというのも〔超越的存在を認めない者にとって〕最も離れた銀河系は単なる『彼自身の感覚印象の複合物』であるからだ。……さて、誰かがある科学者は実在の外的世界の存在を信じ、他の科学者はそうではないと述べることでこの違いを表現で主張するとしてみよう。それらの出来事においてこの言明の意味は我々が二人の人間の振る舞いの内に観察するもののみから成り立っている。つまり、『絶対的実在』や『超越的存在』や我々が使うのを選ぶような表現は、ここでは単純に、人間が世界を観察したり、世界についての言明を作る時や、哲学をする時に彼のうちに現れる或る感情の状態を意味している。現に、この場合、『独立した存在』、『超越的実在』等の語の使用は単なる感情の表現、話者の心理的態度の表現にすぎない(さらにこれは最終的な分析では全ての形而上学的命題において真である)」。

・法則
「物理学の主題は感覚ではなく法則である。物体は『感覚の複合物』でしかないといういくらかの実証主義者によって用いられる定式化は排される。物体についての命題は法則に則った感覚の出現についての同等な命題へお変形可能であるというのだけが正しい」(p. 107)。



Schlick, ‘The Foundation of Knowledge’(1935) (in “Logical Positivism”)
・まとめ
整合説ではプロトコル文が有名無実化し、ある文がプロトコル文なのか否かは事実を参照することなく、恣意性に委ねられてしまう。
自分自身の主観的な経験に基づく言明そのものは知識の基礎になりえない。
「裏付け」という種類の文により、検証がなされる。
裏付けは「ここで今しかじかである」というような形を持ち、刹那的で、事実と比較され、直示的な文のこと。
知識の基礎にまつわる問題の背後にあるのは検証や認知における満足の妥当性への疑問である。

I
プロトコル文とは何ぞや
 プロトコル文は改変も追加もできないような絶対的に単純な事実を表現する。これは主張(assertion)や知識から区別され、それらのみが不確実でありえ、他方でプロトコル文は「全ての知識の疑う余地のない始点」であり、実際に述べられたり書かれたりしていようといまいと違いはなく、いつでも復元可能である(p. 210)。
 プロトコル文は知識の始まりと言われるが、それはどういう意味なのか? 時間的になのか、それとも論理的な意味でなのか? プロトコル文は話されたり書かれる必要がないという点からして時間的な始点ではない。「あらゆる出来事においてそれらは一定の論理的属性、構造、科学の体系における位置によって区別され、それらの属性を実際に特定する仕事に直面することになる」(p. 210)。
 プロトコル文の出現の仕方。「語句や書かれた表現(それらは記号の物理的体系である)に翻訳される時のみ、判断の心理的行動は相互主観的に妥当な知識を定めるのに適当であるように見受けられるため、『プロトコル文』は話されたり書かれたり印刷された或る文であると考えられ、例えば音やプリンターのインクの或る複合した記号は、普通の省略形から十分な発言へと翻訳された時、以下のものに似たような意味を持つだろう。『N.N氏はしかじかの時にしかじかのものをしかじかの場所で観察した』(この見解はとりわけO・ノイラート〔「プロトコル文」〕によって採用された)。事実の問題としては、我々は我々の全知識に実際に到達する道を辿る時、我々は疑いなく常にこの同じ源へとたどり着くことになる。本の印刷された文、教師の口から発せられる言葉、我々自身の観察(後のものは我々がN.N自身である場合である)」(p. 211)。とはいえ、ここでのプロトコル文の形式は後になって撤回されるのであるが。

II
整合説の検討
「私は原初的な『事実』ではなく、原初的な文を捜し求めようとすることによって知識の基礎を狙おうとするのは方法における重大な改善であると考える。……にもかかわらず、それ〔プロトコル文〕とそれが記録するところの観察は『絶対的に』確実であると考えることは決してできない。それというのも誤謬の可能性は無数にあるからだ。N・Nは不意にあるいは意図的に観察された事実を正確に表現していないことをを記述するかもしれない。それを書き出したり印刷する際に誤謬が忍び込むかもしれない」(p. 212)。上述したようにプロトコル文の内容は確実だとしても、それを表現したり捉えたりする段階で誤謬が生まれるかもしれないということだろう。そのようなわけで、可謬性の故にプロトコル文もまた修正を受ける。プロトコル文は「原則的には明らかに科学の他の全ての文のものと同じ性格を持つことを意味する。それらは仮説であり、仮説以上のものではない」(p. 212)。そして他の仮説によって支えられ、あるいは少なくともそれらと矛盾しない限りで科学の体系の構成物において利用される。「したがって我々は常にプロトコル文を訂正の対象とする権利を有し、そういった訂正は、我々が或るプロトコル文を排除してそれらは何かしらの誤りの結果であると明言する時、実にしばしばなされる」(p. 213)。そしてその結果、プロトコル文と他の文との間の元々の区別は無意味になる。「したがって我々は、科学の何かしらの文は『プロトコル文』に勝手気ままに選んでそう呼ばれるようになり、どれが選ばれるのかは単純に利便性の問題である人々がいかにして考えるに至るのかを理解するに至る」(p. 213)。
 整合説の帰結として、真理の基準は相対的なものになり、プロトコル文の地位は他の文と同等になる。「我々にとって知識の基礎の問題は真理の基準の問題以上のものではないことは自明である。確実なことであるが、最初の地点を『プロトコル文』という語でもって始める理由は、それによって他の全ての文の真理が計られるようになるような真理により、或る文を物差しにすることに役に立たせることである。しかし今し方述べられた観点によれば、この物差し、即ち物理学の全ての物差しはそれ自体が相対的であることを示してしまった。ならば一体真理の基準としては何が残るのか? その提案は全ての科学的主張は所定のプロトコル文と合致すべしというものではなく、むしろ全ての文は互いに合致すべしというものであれば、その結果、あらゆる単体の文は原則的に訂正可能であり、真理は『文の相互の合致』にのみ存すると考えられる」(p. 213-214)。

III
 とはいえ、この整合説の見解では、「真理は矛盾がないことから単純に成る」(p. 214)ということになる。
 整合説への反論その1。「もし矛盾がないこと、他の言明との一致という概念の助けを得てそれらを記述するならば、後者〔「実質的」(material)真理、つまり総合的真理のこと〕は総合的言明、事実の問題についての主張であり、それらは『非常に特別な』言明、つまり『直接的観察の事実』をまさに表現する言明と矛盾しないと言うならば、そのようにしか言えない。真理の基準は何であれ文との両立可能性であることはありえず、一致には全く恣意的に選ばれていない或る特別な文が必要である。つまり、矛盾のなさという基準はそれ自体では実質的倫理には十分ではない。そしてこの両立可能性のためには『実在との一致』という古き良き表現――私は使用に当たってのあらゆる正当化があるものと考える――を使わない理由はない」(p. 215)。
 整合説への反論その2。ただ単に文の体系における整合性のみを真理の基準とするのであれば、観察に触れない荒唐無稽な作り話でも真理であると言わなければならなくなる。「整合説によれば、観察の問題などなく、あるのは言明の両立可能性のみとなる」(p. 216)。さらに決定の基準もない。「もしも私がその中に互いに矛盾するものが見受けられる言明の集合を与えられたならば、私は幾通りものやり方で一貫性を確立することができるわけであり、例えば、ある折りに或る文を選び出して破棄してそれらを変えたり、他の折りには最初のものと矛盾する他の言明と同じことをしたりすることができる。かくして整合説は論理的に不可能であることが示される。それは真理の不明瞭ではない基準を与えそこなっているわけであり、それというのもそれによって私は互いに両立不可能であるような言明の一貫した多くの諸体系に至ることができるからだ」(p. 216)。

IV
「批判的検討の第二の点」。全ての言明が訂正可能なのか否か、覆されない言明があるのか否か。そして、この後者こそ、全ての知識の基礎を成す(以後これは基本的言明(basic statement)と呼ばれる)。
 経済原理(「全ての矛盾から免れるために我々はその保持が言明の全体系の最小限の変更しか必要としないような言明を基本的言明として選ぶべきである」(p. 216))を基礎的言明とそうでないものを線引きする基準とするならば、科学の進歩によって新たに発見された基本的言明を支持してその時までの基本的言明は放棄されるということがありえることになる。これは純粋な形の整合説ではないが、この基準は相対的なものであるといえる。とはいえ、このような合目的性に則った基準に反対する。「したがって私はプロトコル言明の選択を決定する合目的的な根拠が存在するという上記のような相対的観点について仮定し、尋ねておいた。我々はこれを受け入れることができるのか? 私は今この問いに否定的に答える。実際、真正の基本的言明を区別するのは経済的合目的性ではなく、全く他の特徴である」(p. 217)。
 シュリックは整合説は知識の正しさを多数派がそれを受け入れるかの問題にしているとして批判し、知識の信頼性は多数派の意見ではなく、事実によってもたらされるとする。俺としては、これは「ひいては」というような話であり、直接的に多数派の意見=真理とはならないように思える。ある体系の無矛盾性とその武井の支持者の数は全く別の話だから。「我々はあまねく認められているものを見知っている。しかしこれは我々がそういった事実に関する言明がそのように作られる傾向を持つ仕方についての正確な知識を持つ事実によって説明され、この仕方が我々の信頼を勝ち得る。……いずれにせよ我々はある言明が修正可能であるか取り消し可能であるかはその起源のみに基づかせるのであって、その維持が他の非常に多くの言明の修正、そしてひょっとしたら知識の全体系の再編を必要とするかではない」(p. 217)。

V
 知覚を知識の基礎とすることは、一見して単純で明白だが、「内的感覚の証拠」、「独我論」、「現在の瞬間の独我論」、「自意識の確実性」といったような哲学的問題をもたらす。「デカルトのコギト・エルゴ・スムはこの道の先にある最も知られた目的地であり――実際にアウグスティヌスがすでに突き進んだ終着点である。そしてコギト・エルゴ・スムについて我々の目は今日十分に開かれている。それは疑似言明でしかなく、『cogitatio est』、即ち『意識の内容が存在する』という形で表現されるよって真正の言明にはならないということを我々は知っている [「実証主義と実在論」を参照。] 。それ自体何も表現しないこういった言明は何かしらのものの基礎として何の意味も持たない」(p. 218)。そもそも「ある人が『正しい』ものであるとみなす科学の体系のためにその人自身の言明が結局のところ唯一決定的な役割を果たす」というのは主観的な知覚を知識の基礎とする理論の「本質的な欠点」である(p. 219)。さらにこの欠点はプロトコル文も巻き添えにする。「私が呼んだ全ての本、私が話を聞いた全ての教師はそれら自身のうちでは完璧に合致しており、それらは互いに矛盾していないが、それらは私自身の観察言明の大部分と両立不可能である。……我々が批判してきた見解によれば、この場合に私は私自身の『プロトコル言明』を犠牲に捧げるべきということになるのであるが、それというのもそれらは相互に合致している他の言明の圧倒的多数と対立しており、それらが私自身の制限された断片的な経験に基づいて正されることを期待することは不可能であるからだ」(p. 219)。

VI
 まず「科学の出発点において当面ある」(p. 220)プロトコル文が与えられると、「それらから科学の諸言明の残りが徐々に、『帰納』と呼ばれる過程によって立ち上がり、それ〔多分科学の諸言明〕はプロトコル言明によって当座の一般化(仮説)を打ち立てるよう私が刺激されたり掻き立てられたりするもの以上のものではない……」(p. 220)。所定の条件の下にある、同じことを表現する観察言明が後に得られれば、仮説と矛盾する観察言明が得られない限り、裏付けられたと考えられ、そういった反例が現れない限りで「自然法則に正しく突き当たったと信じる」(p. 220)。そのようなわけで、「したがっていくらかの正当性をもって観察言明に全ての知識の究極的起源を見いだすことができる」(p. 221)。
「confirmation」(Konstatierung)の導入。「しかし今や二つ目の機能は直接知覚されたものについてのそれらの文に属すように見え、それらを『裏付け』〔confirmation〕として我々は呼び、それは仮説の証拠付け、それらの検証である」(p. 221)。
 そこはかとなく漂うプラグマティズムの香り。予測された出来事が起こり、それが裏付けられたり観察されると、「満足の感じ」が得られ、「裏付けや観察の言明は我々がこの特定の満足感を得るや否やそれらの真の役目を果たす」(p. 222)。あるいは「元来認知は人生の営みにおける手段である」(p. 222)。
 直接的に経験されたものについての裏付けや観察文は瞬間的である。「それらはいわば持続を持たず、その瞬間が過ぎ去れば、それらの場所で我々の自由になるのは碑文であり、記憶が後追いをし、それら〔記憶や碑文〕は仮説としての役割しか果たすことはなく、究極的な確実性を欠いていることを現に我々は見て取った。構築を始めようとする瞬間に過ぎ去っていくため、裏付けについての論理的に批判の余地のない体系を構築することはできない。もしそれらが認知過程の始点に立てば、〔瞬間的で捉えどころのないものである〕それらは論理的には何の役にも立たない。もしくは終点に立てば、それらは検証(ないしは反証)を完成品に持ってくることになり、それらの出現の瞬間にはそれらは義務をすでに果たしたことになる。論理的に何もそれらには依存しておらず、それらからはどんな結論も引き出せない。それらは完全な終点を成す」(p. 222)。カルナップの経験流、バークリの知覚に似ている。
 知識の完全な基礎にまつわる問題の背後にあるのは満足の妥当性への問いである。「予測の裏付けによって科学のゴールは達成される。認知の喜びは検証の喜びであり、これによって勝ち誇った感じは正しく把握される。これこそ観察言明がもたらすものである。観察言明において科学はゴールへとたどり着き、観察言明はそのために存在する。知識の絶対に確実な基礎についての問題の背後に隠された問いはまさに検証がそれによって我々を満たすところのこの満足の妥当性の問いである。我々の予測は実際に真になるのか? 検証や反証のあらゆる個別事例において『裏付け』は充足の喜びか不満かによってイエスかノーの明確に答えを与える裏付けは終局的〔final〕である。終局性〔Finality〕は観察言明の機能を特徴づけるのに非常に適当な語である。それらは完全な終わりである。それらにおいて認知の仕事はこの点で果たされる。新たな仕事はそれらがそこで最高潮に達するところの快でもって始まり、それらが後に残す仮説はそれらには関わりを持たない。科学はそれら〔観察言明〕には頼っているのではなく、そこへと導き、それらは仮説が正しく導いたことを示す。それらは実際のところ完全な定点であり、この定点は我々にそこに至る喜びを与え、それはあたかも我々がそこに立つことができないかのようにである」(p. 222-223)。「知識の全ての光はそこからやってくる。哲学者が全ての知識の究極的な基礎を探す時に本当に探求しているのはこの光の源である」(p. 227)。

VII
 ここでシュリックは「絶対に確実」とはどういうことなのかという「前に延期した」問いを考える。そのためにまず、分析言明を取り上げる。「それら〔分析言明〕を真ならしめるものはそれらが正しく構築されたことそのことであり、つまり我々の恣意的に打ち立てられた定義との一致にある」(p. 223)。「意味を理解するということは問題の言葉の使い方を支配する規則を明らかにすることに他ならないが、言明を分析的なものにするのは明確にそれらの用法の規則である。もし私が語のある複合物が分析的な言明であるか否かを知らないならば、これは私はこの時に用法の規則を欠いているということを意味するにすぎず、かくして私はただ単に言明を理解していないことになる」(p. 224)。「それらの意味を理解することとそのア・プリオリな妥当性を述べることは分析的な言明においては一つのそして同一のプロセスである。対照的に、総合的な主張は、それらの意味を確実にしただけでは少なくとも私はその真偽を知ることにはならないという事実によって特徴づけられる。その真理は経験との比較によってのみ決定される。意味を把握するプロセスはここでは検証のプロセスとは完全に区別される」(p. 224)。対応説は活きている!
 裏付けの特徴。直示性、現在性、具体性。上記引用の直後の段落の文。「これには例外が一つだけある。そして我々はかくして『裏付け』に立ち戻ることになる。それらは常に『ここで今しかじかである』という形であり、例えば『ここで二つの黒い点が一致する』、あるいは『ここで今黄色は青に接している』はたまた『ここで今、痛み』等々。それら全ての主張に共通することは、現在の身振りの意味を持つそれらには指示詞が現れるということである。つまりそれらの用法の規則はそれらが出現するところの文を作るにあたって何らかの経験が持たれていると定めているのであり、観察されるものに注意は向けられている。『ここ』、『今』、『このここ』〔this here〕といった語で参照されるものは語について一般的に定義されたことによっては伝達されることができないが、指さしや身振りを伴うことでのみできる。『このここ』は身振りとの繋がりにおいてのみ意味を持つ。したがってそういった観察言明の意味を理解するためには同時に身振りの動作を行い、実在へどうにかして向かうべきである。言い換えれば、私は事実とそれを比較する時にのみ『裏付け』の意味を理解でき、かくして全ての総合的言明の検証に必要なプロセスを実行するのである。他方で他の全ての総合的言明の場合には意味の決定はその言明が真理であることの決定とは分離し、区別されており、観察言明の場合には分析的言明の場合と同じようにそれらは一致している。……両者〔分析言明と裏付け〕は絶対的に妥当である。しかし、分析的、トートロジーの言明は無内容であり、観察言明は我々に実在についての真正な知識の満足を与える」(p. 225)。つまり、分析言明と観察言明は意味の理解と真理の確定が一致している。しかし、真理の確定法は前者がその形成規則への合致であるが、観察言明のそれは総合言明の場合と同じように事実との比較であり、この点では総合言明と一致している。
 プロトコル言明と裏付けの違い。「もし私が『ここで今、青』という裏付けを行えば、これは『M.S氏は1934年4月9日にしかじかの時間としかじかの場所で青を知覚した』というプロトコル言明と同じものではない。後者の言明は仮説であり、不確実性によって常に特徴付けられている。後者の言明は『M.S氏は……(ここで時と場所が与えられる)裏付け〈ここで今、青〉という裏付けをもたらす』と等しい。そしてこの主張はその中に現れる裏付けと同一ではないことは明らかである。プロトコル言明においては常に知覚への言及が存在する(あるいはそれらは思考において加えられることになるー知覚をする観察者の同一性は科学的プロトコルにとって重要である)、その一方でそれらは裏付けにおいては言及されることは決してない」(p. 226)。


Schlick, ‘Fact and Proposition’(1935)
・命題と事実の断絶こそ疑わしい
 この論文の主旨は「知識の基礎」に対する反論に対し、「最も肝心な点、つまり『命題』と『実在』の関係」(p. 65)について論じること。基本的にシュリックは命題と事実は比較できるものであるという立場であるわけだが、ここでの「実在」は教会、木々、雲といったような経験的な対象であり、形而上学的な存在物ではない(p. 66)。
 そもそも命題と事実は比較できるのかという問題について、シュリックは命題と事実はかけ離れたものであり、命題は命題としか比較できず、他の何者とも比較できないという性質は神秘的(mysterious)であり、「言明と事実の『断絶』は『強くなった形而上学の結果でしかない』(〔"Les economices scientifiques"〕p. 51)と我々は確信している」(p. 66)。つまり、この「断絶」こそ疑わしいというわけ。

・照合は規則
「命題とは一体全体何なのか? 私の見解では、それは『それらに属する論理的規則を伴った』音や他の記号の連なり(「文」)であり、その論理的規則とは文がいかにして用いられるべきかの規定である。それらの規則は『直示的』定義で最高潮に達し、命題の『意味』を構築する。命題を検証するために私はそれらの規則が実際に従われているかどうかを確かめるべきであり、どうしてそれが不可能ということがあろうか? 我々の例〔「この大聖堂には二つの尖塔がある」という命題〕では大聖堂と本の中の文を見て『二つ』という記号は『尖塔』という記号と繋がりを持って用いられており、私は大聖堂の塔を数える規則を適用する時に同じ記号にたどり着くと述べることでなされる」(p. 67)。比較ないし照合は事実の構造と命題の構造が同じ構造を持っているということを示すということか。
 ヘンペルが「経験的言明は『事実を表現する』と述べることは実質的話法の典型である」と述べていることはその通りであるが、しかしこれは誤謬に導くような実質的話法の不注意な使用ではなく、そのような心配はない。「私のベデカーの中である黒い印が、ある大聖堂は二つの尖塔を持つという事実を表現していると述べることは完全に適法な経験的主張である。このようにして、事実と命題は比較できるという私の見解を純粋に『形式的な』方法で表現するのは簡単である。記号を指示する語と他のものを指示する語は同じ文に現れるであろう」(p. 67)。

・比較の可否は採用される規則の問題
 命題と事実の比較は「事実の構造」に関わるものであるが、事実の構造は無意味であると言う人がいれば、彼はシュリックが用いているのとは異なった言葉の使用の規則を採用していることになる。「文はそれ自体で有意味だったり無意味なのではなく、その中に現れる言葉の用法がそれによって規定されるところの定義と規則においてのみである」(p. 68)。命題と事実が比較されえないということもまた、同様である。
 実際問題、比較は実験科学者によって行われている。「ひょっとしたら命題と我々が呼ぶ事実が他の事実と比較されうるにもかかわらず、実際に科学においてそれはなされていないのではないかとあなたは言いたいのかもしれない。このことは科学の純粋に理論的な仕事、例えば自然法則を定式化して、『プロトコル言明』とも比較し、整合的な体系へとそれらを組み込み、帰結を計算する数学的物理学者では真であると私は考えている。彼の仕事は鉛筆と紙によってなされる。しかし私はそれは、観察を行って数学者の予測と――私はあなたの容赦を乞う――観察された事実を比較するのがその仕事である実験科学者にとっては真ではないとこの上なく強く主張する」(p. 68-69)。

・比較が可能であるというのに反対する見解の心理的起源
「その主唱者たちは科学の内側に地歩を持つような理論指向の人たちである。科学は命題の体系であり、そして――それに気づくことなく――その思想家たちは科学を実在に代入しているのだ。彼らにとって事実は命題に定式化されて彼らのノートに落とし込まれるまでは認められない。しかし科学は世界ではない。言説の宇宙は宇宙の全てではない。それは典型的な合理主義的態度であり、それはここで最も微妙な区別の見せかけのうちに自らを示している。それは形而上学そのものと同じくらいに古く、我々はいにしえのパルメニデスのtauton desti noein te kai ouneken esti noema...という言葉からそれを知るだろう」(p. 69)。



Stevenson, ‘The Emotive Meaning of Ethical Terms’(1937)
まとめ
・「善」を「賛同」によって定義しようとする「関心の理論」は(1)異なる善の表明が互いに矛盾しない、(2)行為への磁力を持たない、(3)その証明が通常の証明の仕方とは違うために「善」に対する定義項としては不十分。
・倫理的言明の用法は情報伝達以上に、人に影響力を及ぼそうとすることである。 ・「善」は動的用法では「我々はXを好む」。
・倫理的言明における不一致は「信念の不一致」ではなく「関心の不一致」であるが、部分的にではあるが後者は前者に基づいており、説得によって前者を一致させることで後者の一致を見ることがある。

I
 関心の理論(interest theory)。「『善』という言葉の意味はしばしば『賛同』、あるいはそれと似た心理学的態度によって定義されてきた。『善』は『私によって欲求される』という意味である(ホッブズ)、そして『善』は『大部分の人々によって賛同される』という意味である(結果的にヒューム)といったものが典型的な実例として挙げられるだろう。『関心』も『理論』も通常の大部分のやり方では用いられていないものの、R. B. ペリー氏に倣ってこの類の定義を『関心の理論』として指し示すのが便利であろう」(p. 265)。
 しかし関心の理論は「最も生き生きとした〔vital〕善の意味を無視している」(p. 266)。そしてこれらは三つある。第一に、関心の理論では不一致は、たとえばホッブズの場合、「私はこれを望む」に対して「そうではない、というのも私は望んでいないから」となり、「発話の用法の基本的な混乱のみのために」(p. 266)これらは互いに矛盾しないことになる。逆に言えば、生き生きとした善の定義ではこれらが矛盾しなければいけない。第二に、「善」にはいわば磁力があり、「Xは『善い』と認める人はその事実それ自体により、そうでない場合に比べてそれを支持するような行動をしようというより強い傾向を持つ。これはヒューム型の定義が見落としていることである。それというのもヒュームによれば、あるものが『善い』と認めることは単にそれへの多数の支持があるということを認めるということになるためである。……この要請は発話者よりも他の人の関心によって『善』を定義しようとする試みを排除する」(p. 266)。第三に、「善」の定義は科学的方法のみによって検証されるものではない。「倫理学は心理学ではない」(p. 267)。「ホッブズの定義によれば、ある人は最終的には、彼が自身の欲求についての内省的誤謬をもたらさないと示すことで彼の倫理的判断を証明できる。ヒュームの定義によれば、投票によって倫理的判断を証明できる。経験的方法のこのような使い方は、多かれ少なかれ、証明として我々が普通に受け入れているものとは非常にかけ離れたものであり、それを含意する定義の完全な妥当性を反映しているように見受けられる」(p. 267)。
 関心の理論、とりわけヒューム的な理論は民主主義的な理念を前提としている。「唱えられている『最終的な証拠』〔投票を指す〕の私の受け入れは私が民主主義的であることから単に帰結しないのだろうか? より貴族主義的な人々についてはどうだろうか? 彼ら〔貴族主義者〕は、ほとんどの人の同意は、彼らが彼らの同意の対象について全てを知っていたとしても、単純に何らかの善と関係を持っていないと言うにすぎないし、彼らは人々の関心の低劣な状態について少しばかりの所見を付け加えることだろう。それらの検討からは、我々が検討してきた定義は始めから民主主義的な理念を前提としていたということになる。それはを民主主義のプロパガンダを定義の外見で変装させているのである」(p. 267-268)。
 関心の理論で暗示されているところの経験的方法は倫理的な問題では通用しない。それではムーアが述べているように、善の性質を把握できない(p. 268)。

II
 倫理的言明の非記述的要素。「伝統的な関心の理論は倫理的言明は存在する関心の状態を『記述する』ものであり、それらは関心についての『情報を与える』とみなしている(より正確には倫理的判断は関心の状態が何であり、あるいは何であったのか、何であることになるのかを記述し、あるいはどんな関心の状態が特定の状況の下にあるであろうかを示すと言われる)。それらの〔把握における〕不完全な妥当性へと導くのは記述、情報のこの強調である。疑いなく、倫理的判断には何らかの記述的な要素が常に存在するが、それが全てではない。それらの大部分の用法は事実を示すことではなく、『影響力を作り出すことである』。人々の関心を単に記述する代わりに、それらはその影響力を変化させたり、強めたりする。それらは関心がすでに存在する状態よりもむしろある対象への関心を勧める」(p. 268-269)。
 人に(自分自身の判断であれ、他人のものであれ)倫理的判断を伝えるのは、単に記述を知らせるためではなく、その相手を説得し、影響を与えるため。他者の同意や反対を述べるのはこの説得のための補助的手段としてである(p. 269)。
「私は倫理的用語を使っているのではなく、それらがどのように使われているのかを示しているのだ」(p. 270)。
 説得の道具としての倫理的用語。「人々は或る傾向を促進するために互いに賛辞を送り合い、他の傾向を抑止しようとして謗り合う。……倫理的用語はそういった影響を容易ならしめる。説得における使用に適合するならば、それらは人の態度をこの、あるいはあの道へと導くための手段である。かくして、我々が一つの集団の道徳的な態度において、異なった諸集団に〔何を誉め、何を謗るかにおける〕より大きな類似性を見て取る理由はまさにこのことなのであり、倫理的判断はそれ自体を伝達する〔propagate〕」(p. 270)。
 倫理的な文についての三つの問い。(1)倫理的な文はいかにして人に影響力を及ぼし、なぜ説得に向くのか? (2)この影響威力は倫理的用語の意味とどんな関わりを持つのか? (3)これらの考察は前述の三用件を満たす善の意味に導くのか?

III
 言語の使用には「記述的」な目的と「動的」なそれとがある。「一方で我々は信念を記録し、明らかにし、伝達するのに(文において)言葉を使う。他方で我々は我々の感情にはけ口を与え(感嘆詞)、あるいは気分を生み出すため(詩)、あるいは人々の行動や態度をかき立てるために(演説)言葉を使う」(p. 271)。言葉の動的用法と言葉の意味は峻別され、動的用法においては「命題的」な意味が含まれており、そしてまた動的用法の場合の言葉の意味は「傾向」(因果的性質、配置における性質(dispositional property))から構成される(ただし唯一の要素とは述べられていない)(p. 272)。
 情緒的意味。「しかし上記で定義されたような意味において、ある種類の意味が存在し、それは動的用法と密接な関係を持つ。私は『情緒的意味』を指す(おおざっぱな意味ではオグデンとリチャーズによるものと似ている)。言葉の情緒的意味は言葉の傾向であり、それらの用法の歴史を通して立ち現れ、人々の肯定的反応を(結果として)生成する。それは言葉の周りを漂う感情の直接的な独自の雰囲気である。肯定的反応を作り出すそういった傾向は言葉を実にまとわりついている」(p. 273)。例えば、他意がなかろうと、「old maid」という呼び方を記述的に59歳のミス・ジョーンズにすれば、彼女はこの呼びかけを侮辱として捉えるが、同じ記述的用法で「elderly spinster」を使えば、そのような反応はもたらされない。これら二つの言葉は情緒的意味においてのみ異なっており、情緒的意味のために、ある言葉はある動的用法では適切になり、あるいはほかの仕方で使えば、聞く人に誤解を与える。なお、意味の種類(sort of meaning)と動的な目的(dynamic purpose)は同一ではなく、前者は後者よりもいっそう言葉にまとわりついている。「前者は後者を支援する。……我々は人々に定義された語は実際にそうであるよりも動的に使われることは少ないと考えるようにさせる」(p. 274)。

IV
 この節では情緒的意味についての考察が「善」の定義に適用される。「そこで大ざっぱに、『Xは善である』という文は『我々はXを好む』という意味である(『我々』には聞く人たちも含まれる)」(p. 274)。「我々はXを好む」は純粋に記述的に用いられるみならず、動的にも用いられる。「『我々』が聞く人を指す場合には、それは動的用法であるに違いなく、聞く人に言われていることを単に信じるというよりもむしろ、真実に『させる』ようにしむける説得がその本質である。そして『我々』が話す人を指す場合には、その文は話す人の関心についての信念を示す記述的用法のみならず、疑似感嘆文、つまりその関心への直接的な表現を与える動的機能を持っている」(p. 274)。
 しかしスティーブンソン曰く、この定義では動的用法には触れていても、(善の)情緒的意味は顧慮されていないため、不十分である。「私がするつもりのことは、もちろん、情緒的意味が、『善』のそれのように、動的用法へと単に『導く』定義項を見いだすことである」(p. 275)。
 人を動かすのは定言命法ではなく、説得である。「それというのも定言命法は聞く人の意識的結果に訴える。もちろん彼は試みることによってそうしようとは思えない。彼は説得によってそれをしたいと思うように導かれるだろう。そこで倫理的な文はそれが人により巧妙に、そしてより意識的ではない仕方で変化をなさしめることにおいて定言命法とは違っている」(p. 276)。

V
 第一の制約。不一致。不一致(disagreement)には「信念の不一致」(disagreement in belief)と「関心の不一致」(disagreement in interest)といった種類があり、「信念の不一致はAがpを信じてBがそれを信じない時に起こる。関心の不一致はAがXに好意的な関心を持ち、Bがそれに非好意的な関心を持ち、いずれも他方の関心を変わらないままにすることに満足しない時に起こる」(p. 277)。倫理的な不一致は信念の不一致ではなく、関心の不一致である。「これは善い」と「そうでなく、これは悪い」と言う二人の人がいれば、彼らは互いに他方に対して影響を及ぼして感心の向きを変えようとする。伝統的な関心の理論では、倫理的判断は記述的なものとしてのみみなされ、不一致があるとすれば、それは信念の不一致のみであると考えられ、さらに情緒的意味を見逃していたため、倫理的な場面での不一致を理解し損なった。
 第二の制約である磁力は、関心の理論では「善」の定義に話す人の関心を含めていなかったために見落とされた。第三の制約である経験的方法。経験的知識と倫理的判断との関係は関心の理論の提唱者の考えたものとは全く異なったものである。映画を見たい人と交響曲を聞きに行きたい人の対立から倫理的な判断の対立について類推するならば、彼らはそれらの娯楽の支持、その定言命法を支持するために「理由」を用いている。映画を見たい人はガルボのファンである他方の人に「でもガルボが『宝石』に出ることを君は知っているよね」と言い、交響曲を聞きたい人は「でもトスカニーニが全ベートーベンの題目の今夜のゲスト指揮者なんだよ」と理由を述べて相手を説得しようとする(p. 278)。この理由は経験的に打ち立てられるものである。「これから一般化すれば、関心の不一致は信念の不一致に基づいている」(p. 278)わけであり、信念の不一致を解消することである程度は解消される。しかし、倫理的判断の不一致は全面的に信念の不一致に基づいているわけではなく、経験的方法やそれに基づいた信念の一致は倫理的一致をもたらすのに十分というわけではない。例えば、Aは同情深い性格で、Bはそうではないとすれば、公的な施しについて論じ、施しの帰結の全てを見いだした時、Aはそれを善いと判断し、Bはそうだと判断しないというように彼らは不一致に至ることがある。「関心の不一致は限定された事実の知識から起こるのではなく、単にAの同情深さとBの冷淡さから起こる。あるいは、上記の議論において、Aが、貧しく働いておらず、Bが金持ちだったらと考えてみると言い。ここではもう一度、不一致は事実についての異なった知識のせいではないだろう。それは彼らの優勢な自己利害並びに、この人たちの異なった社会的地位のせいである」(p. 279)。
 信念の不一致に基づかない倫理的不一致の解消の道。これには「なるほど、それはまさに私たちが持つ異なった気質の問題です」(p. 279)と言うのでは不十分であり、解消はAは貧しい人たちの惨状を述べるなどしてBに影響を与え、彼の気質を同情的なものに変えること、つまりは説得によってなされる。「それは説得的であって経験的だったり理性的ではない」(p. 279)。

VI
 倫理の社会性と哲学者の特権的位置の否定。「私はもし『Xは善である』が本質的に説得のための媒介物であるとすれば、それは哲学者たちが他の人よりも一層、それをもたらすために呼ばれるような言明ほとんどない。倫理学が何かしらの倫理的語を述べる場合、それはむしろそれらの意味の説明であり、内省的な研究であることをやめることになる。倫理的言明は社会的な道具である。それらは我々が互いに自分自身を他の人の関心へと調整するような共同での企図において用いられる。哲学者はこれに参与するが、全ての人がするようにであって、その参与〔における哲学者の重み〕は大部分ではない」(p. 281)。



Alan. W. Richardson, ‘Science as Will and Representation’(2000)
・発見の文脈と正当化の文脈
「その区別は、それらの見解によれば、論理的経験主義者は正当化に関わっているために――形式論理学の道具立てを利用していて――形式的であると同時に論理的経験主義者たちにとっては規範的であると見えるために崩れる。しかし科学においてア・プリオリと規範的観点を用いることは尤もなことではない。さらに、発見の文脈が正当化の文脈になるような場を正確に見つけることは単純に困難である」(p. 155)。「1930年代以降のライヘンバッハとカルナップとしては、科学の論理学は歴史的に与えられた科学の価値評価に関わる予備的分野ではなく、むしろこれまでの混乱した認識論的問題を明晰化することに関わっている。……さて、論理的経験主義の発展において文脈の区別は科学哲学と科学に関する他の全ての関心との境界設定基準として働いてきたというのが真相であろう。……例えば、その分野〔哲学〕は認識論がそこから始まるような事実としての知識の『社会学的』事実によって始まるにもかかわらず、ライヘンバッハがその区別を『心理学』から哲学を峻別するのに用いていたことは興味深い」(p. 155)。

・科学における意志的な要素と信念に関する要素という二つの区別
「『……しかし真理の観念によって支配されず、意志的な決定が原因となって全体系を作るにあたって大きな影響を及ぼすが、真理の性格には触れず、哲学の探究者たちによってあまり知られていなかったような知識の要素が存在する。したがって意志的決定の観点は知識の体系を含んでおり、それは認識論の批判的〔critical〕作業の一つの必須の部分である』。上記の最後の文はライヘンバッハの言い回しにおける『批判的』の特徴について何かしらのことを示している。認識論の批判的作業のその部分をなすのは意志的決定の価値判断ではない。むしろそれは科学の信念に関する〔doxastic〕要素とその仕事に属する意志的要素との区別の輪郭をなしている。この意味において批判的であるということは規範的ということ――科学者の行動について口出しをする余地を見出そうとすること――よりもむしろ説明に関すること――知識についての活動の本性を明らかに理解する余地を見出すことである。……これはライヘンバッハとカルナップが若い頃に吸収した新カント的な伝統における認識批判〔Erkenntniskritik〕と密接に関わっている」(p. 156)。

・ライヘンバッハの規約に対する態度
「まず、彼はラディカルな規約主義の主張を否定しようと苦心しており、ポワンカレに荷担していた。第二に、科学におけるすべての決定は規約に関する決定ではない」(p. 157)。

・意志決定の問題の社会学への委譲
「まだ一つさらに論じられるべき主題が残っているだろう。それは科学哲学における意志と決定についての基礎的な想念の正当性である。カルナップの理論的/実践的の区別は実践的決定の嘆願に関わっているものと同じくらいに実践的決定とは何なのかを理解するために機能する十分な事柄の欠けた決定についての発動機として見ることができる」。カルナップの意志決定についての立論は不十分なものだというわけ。「この問題を脱する一つの方法は分割においては後者の側にある知識によって科学的な領域と哲学的な領域の裂け目を判然と主張することである。しかしこれはカルナップとノイラートにとっては受け入れ難いものであるように見える。脱するもう一つの道は意志と決定は人間科学の範囲にある科学的想念であり、それゆえに科学的決定は例えば、科学の社会学の領域であると主張することであろう。そこには論理経験主義者たちにとて十分適当な意味があり、決定の科学的決定は実際のところ、社会科学のうちで探求されるであろう科学をなす」(p. 159-160)。




戻る