プラトン『ソクラテスの弁明』
プラトン『クリトン』
プラトン『プロタゴラス』
プラトン『エウテュデモス』
プラトン『カイレポン』
ヒューム『奇跡論・迷信論・自殺論』
ヒューム『道徳原理の研究』
マンデヴィル『蜂の寓話』
『世界の名著 (46) コント・スペンサー』
エア『言語・真理・論理』
カルナップ「On the Application of Inductive Logic」
リチャードソン「Science as Will and Representation」

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『ソクラテスの弁明』
・罪状に対する弁明
 ソクラテスの罪状は(1)「彼は天上天下のことを追求し、弱論を強弁するなど、いらざるふるまいをなし、かつこの同じことを他人にも教えている」(19B)。そして(2)「青年に対して有害な影響を与え」(3)「国家の認める神々を認めず、別の新しいダイモンのたぐいを祭る」(24B-C)という三つに大別される。
 (1)まではソフィスト(知者)であるとの嫌疑であるが、「わたしはこの名前〔ソフィスト〕を得ているのは、とにかく、ある一つの知恵を持っているからだということには間違いないのです」(20D)というわけで、これにはいわゆる「無知の知」でもって自分はソフィストではないと反論する(21A-1D)。そしてこれを受けて(2)については、ソクラテスが知者を探して人に問答を仕掛けては相手の無知をさらけ出すのを見たり、真似をするのが楽しいから若者が彼の周りに寄ってきて、他方で人々は彼を憎悪して徒党を組んで中傷するというわけ(23C)。
 (3)は「国家の認める神々」は別のもの(具体的には「日輪や月輪が神だと認めること)と、神の存在を認めない、という二つの主張に場合分けできるが、前者はアナクサゴラスの説、しかも「おりがあったら市場へ行って、せいぜい高くても一ドラクメも出せば買える」(26D)ような本に書いてあることだとしてソクラテスは反駁する。後者は、メレトスとの問答を通し、ダイモンは神の子であり、ソクラテスはダイモンを信じている、とすれば神の子たるダイモンを信じているのに神の存在をソクラテスは認めない、という自家撞着に陥る、故にソクラテスは神を信じている、という風に論する。

・死についての論議
 ソクラテスは自分は死を恐れてはいないと主張するが、その理屈は以下の通り。死よりも恥や正しい行いをできないことの方が恐るべきことであり、その際には「死も、他のいかなることも、勘定には入りません。それよりはむしろ、まず恥を知らなければならないのです」(28D)。また、「そしてほかにも、危険のそれぞれに応じて、あえて何でもおこない、何でも言うとなれば、死を免れる工夫はいくらでもあるのです。いや、むずかしいのは、そういうことではないでしょう。諸君、死を免れるということではないでしょう。むしろ、下劣を免れるほうが、ずっとむずかしい」(「弁明, 39A)
 だからこそ、放免されても彼は知を捜し求めることことは神への奉仕であるし、思慮は真実を気にかけて魂をできるだけ優れたものにすることであるが故に、今までの行いをやめるつもりはないと述べる。
 最後の方では、死は善いものだとも述べる。もし全くの無になることだとすれば、それは夢すら見ないほどの熟睡のようなものであり、「それ以外の昼と夜」よりもその夜とを比較すれば、この夜よりも楽しく善い昼と夜はごく数えるほどしかないし(正直いって、この熟睡は幸せであるという理屈はよく分からない)、他の場所への旅立ちのようなものだとすれば、「それらの人たちと、かの世において、問答し、親しく交わり、吟味するということは、はかり知れない幸福となるでしょう」(41C)。そういうわけで、いずれの場合であろうと、死は善きものということになる。



『クリトン』
クリトンの説得
1. 友人を失うのみならず、友人よりも金銭を大事にしたという悪評を被る。
2. ソクラテス救出のために金を出す用意がある者はたくさんいる(シミアス、ケベスなど)。
3. ソクラテスがとどまるならば、それは彼その人を害し、破滅させようとしている者を助けることになる。
4. 子供を見捨てることになる。

ソクラテスの反論
 全ての人の思惑が尊重さるべきではなくて、ある特定の人たちのそれこそ尊重さるべきものであるとすれば、その尊重しなければならない思惑は有用なもの即ち思慮のある人のそれで、有害なもの即ち思慮のない人のそれは尊重さるべきではない。賞賛と非難についても同様で、注意を払うべきは大多数の人間のそれではなく、一部の人(体育ならば体育家、医術ならば医者という風に)のそれである。というわけで、「ただ一人でも、もしだれかそれに通じている人があるなら、その人の思いなしにしたがい、この一人の人をそれ以外の人を全部あわせたよりももっと恐れ、その人のまえに恥じなければならない」、そしてさもなければ「われわれは、かのものを虐待し破滅させることになるだろう。かのものとは、正しきによって向上し、不正によって滅びるものだったのだ」(47d)(「かのもの」とは魂を指す)。だから、この魂が壊れてしまったならば、生き甲斐のある生き方はできない。「それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということなのだちうのだ」(48b)。
 そしてこの「善く」は「美しく」とか「正しく」と同じであるという立論を受け、次いで脱獄が正しいかどうかの検討に入る。
 クリトンの説得はいずれも多数者の考えるようなことであるため、ソクラテスはこれを退ける。「しかし、君の言おうとする、金銭のかかりとか、人人の思惑とか、子供の養育とかについて考えることは、これはクリトン、ほんとうのところ、かの多数者の考えることなのかもしれないね。彼らなら、すこしも知性を用いないで、軽々に人を殺しておいて、できればまた生きかえらせようとするかもしれないような連中なのだから、そんなことを考えてくれるかもしれない」(48c)。しかし、そんなことではなく、脱獄が正しいかどうかそのものが大事であるというわけ。
 不正を行ってはならないという二つの推論。
1. いかなる場合においても不正を行ってはならない。故に、不正を受けようとも不正を行ってはならない。
2. 害悪を与えることはなすべきではない。害悪に対する仕返しに害悪を与えることは正しくない(つまり、不正である)。故に、害悪を与えることは、不正を働くということである。
 翻ってみるに、件の脱獄は、国法とポリスに不正を働くことである。擬人化された国法曰く、「そのおまえがやりかけている所行というものは、わたしたち国法と国家共同体全体を、おまえの勝手で、一方的に破壊しようともくろんでいることになりはしないかね? それともおまえは、一国のうちにあって、いったん定められた判決が、すこしも効力をもたないで、個人の勝手によって無効にされ、めちゃくちゃにされるとしたならば、その国家は、転覆を免れて依然として存立することができると、おまえは思っているのか」(50b)。そしてまた、この国家においてソクラテスがは生まれ養育され教育され、これに従うことに同意して暮らしている以上、親から不正を受けたからといって楯突いたり仕返しをするのが正しくないのと同様に、国家や国法に楯突いたり仕返しをすることをするのは間違っている。「だから人は、これを畏敬して、祖国が機嫌を悪くしているときには、父親がそうしているときよりも、もっとよく機嫌をとって、これに譲歩しなければならないのだ」(51b)。さらに、国法は国外退去を禁止していないし、国外追放を申し出ることもできた以上、国内にとどまるならば、その国法に同意していることになる。
 つまるところ、「これに服従しない者は、三重の不正をおかしているのだ、と主張する。すなわち、生みの親たる私たちに服従しない点がそれであり、育ての親たる私たちに服従しない点もそれである。そのうえ、わたしたちに服従することを約束しておきながら服従もしないし、また、わたしたちのしていることに、なにか善くない点があるなら、そのことをわたしたちに説き聞かせることもしないからである。すなわち、わたしたちは、わたしたちの命ずることは何でもこれをなせと、乱暴な仕方で指令しているのではなくて、これを提示して、わたしたちを説得するか、そうでなければ、これをなせと、選択の余地を残して言っているのにそのどちらもしていないからである」(51e-51a)。
 他方でソクラテスがテッタリアへの逃亡を選ぶならば、この行為によって逃亡先で国法の破壊者と見なされて疑いの目を向けられ、彼に下された判決が正しかったことの証左となってしまう。「なぜなら、いやしくも国法を破壊するような者なら、若い者や考えのない者を破滅に導くにきまっていると、たぶん考えられるだろうからね」(53c)。さらに、これで命を長らえれば、以後「人間にとって最大の価値をもつのは徳であり、なかでも正義であり、合法性であり、国法である」(53c)という主張を展開することなどできなくなってしまい、それができない人生はただご馳走を食べるだけの人生でしかなく、まるで食事のためにテッタリアまで逃げたということになる。
 さらに、子供の世話についても、外国で「外国人に仕立てて、それの味をおぼえさせようとする」(54a)よりも、孤児としてであれソクラテスのために骨を折る人たちの世話を受けてアテナイで育つ方がよい。

読んだ上での所見
思慮のない人、つまり多数者の言うことを聞く必要がないのならば、その多数者が下した判決に従う必要もないのではないか?



『プロタゴラス』
・徳は教えられうるのか?
 有徳の士は我が子に徳を教えることができていない。徳とは教えられうるものであるのか(10)?
 これに対してプロタゴラスは徳は誰もが分け持っているし、誰もがそのように思っているものであり、そうでなければ国家は成り立たないとする。そして、そうでないのに自分は優れた笛吹きであると言う人は嘲笑されたり怒られたり、叱られたりするが、自分は不正な人間であることを自覚している者がそのことを正直に言えば、狂気の沙汰と見なされ、「これはつまり、人間はひとりの例外もなく、必ずや何らかのかたちでこの徳を分けもっているはずであり、そうでなければ人間の仲間には入らないと考えられているからにほかならない」(p. 48)(12)。
 さらに、ある者が持っている欠点が生まれつきの欠点ならば、人は彼のこの欠点を是正したり教えたり懲らしめたりしないが、「心がけや、躾や、教えの結果として人間にそなわると考えられているような美点」(p. 49)を持たない者は怒られたり、懲らしめられたり、訓戒が向けられたりする(13)。これらが人は誰もが徳を持っていると考えている証拠である。
 徳は教えられうるのかということについては、プロタゴラスは、子供の養育にあたっては習い事をはじめとして様々な配慮がなされている(15)、素質に応じて徳性の程度に差はあるものの、人間の社会で育てられた者のうちで最も不正な者であろうとも野蛮人よりは遙かに有徳である(16)。

・徳の構造
 正義、節制、敬虔といった徳があるが、徳とはある一つのものでありながら、それを構成する様々な部分として正義、節制、敬虔などがあるのか、それとも同一のものへの異なった名前にすぎないのか(18)?
 プロタゴラスは前者だと答える。しかし正義は「ある一つの何もの」ならば正義はそれ自体で正しい性格のもの、敬虔はそれ自体で敬虔な性格のものとなるが、それでは正義は敬虔ではない、つまり不敬虔な性格のもの、敬虔は正義ではない、つまり不正な性格のものということになる。これに対し、プロタゴラスは正義と敬虔は似たものであると言うが、この話は突き詰められずに尻切れトンボで終わる(19)。
 無分別は知恵の反対、無分別は分別の反対であることを確認した後、一つのものにはただ一つしか反対のものはないという原理が導入される。しかし、両者は矛盾する。「そうすると、プロタゴラス、私たちはどちらの主張を取り消したらよいのでしょうか。一つのものにはただ一つしか反対のものがないという説のほうでしょうか。それとも、もうひとつの説、知恵と分別(節制)とはいずれも徳の部分をなすものでありながら、別個のものであり、そしてただ別個のものというだけでなく、ちょうどいろいろの顔の部分と同じように、それ自体としてみても、その機能からいっても、互いに似ても似つかぬものだという説のほうでしょうか」(p. 77-78)(20)。
 その後、議論の進め方についてのゴタゴタとシモニデスの詩についての注解が29章まで続くが、省略する。
 33章にて徳の構造についての議論が再開する。プロタゴラス曰く知恵、節制、勇気、正義、敬虔といった五つの徳は「徳の部分をなすものであり、そして、そのうちの四つは互いにかなり近しいものであるが、ただ勇気だけはそのどれとも非常に異なっている」(p. 125)。というのも、勇気はあるが、他四つの徳を持っていない人がいるから。しかし、勇気はものを怖がらないことである、ものを怖がらないのは知識を持っているからである、故に徳は知恵であるという風にソクラテスは述べるが、これに対してプロタゴラスは勇気はものを怖がらないことであるとしても、逆が必ずし成り立つわけではなく、ものを怖がらないことは必ずしも勇気ではないと反論する(34)。
 38章までの快楽に負けることについての議論を踏まえ、それと同じ図式(自分から悪へ進む人はいない、悪へ進むのは無知の故である)によって勇気は他の四つの徳とは異質なものであるというプロタゴラスの説に対して検討が加えられる。勇気のある人は猛進する人であるというプロタゴラスの言葉を受け、勇気のある人が猛進するのは立派なことや快、つまり善であり、臆病な人や向こう見ずな人は愚かさの無知の故であり、つまるところ勇気とは「恐ろしいものと恐ろしくないものに関する知恵」ということになる。

・快楽に負けることについて
 快楽は善であり、不快は悪であることを踏まえた上で、善を知りつつ悪を行うということ、快楽に負けることはどういうことかが論じられる。ソクラテス流の誘導尋問で、快楽に負けることは目先の快楽を選ぶことであり、ある快楽が悪なのはそれによって奪われる快楽がより大きい場合であり、目先の快楽を長期的で総量のより大きい快楽や後になってからの快楽よりも選ぶことであるとすれば、それは「人間は善い事柄を知っていながら、その瞬間の快楽に打ち負かされて、それを行おうとしない」(p. 142)という主張が導かれる(34-36)。しかし、これでは善に打ち負かされて悪を為す、つまりより少ない善の代わりにより大きい悪を選ぶということになる。とすれば、それは快楽計算をする場合ということになり、悪を選ぶ人にかけているのは「計量術の一種としての知識」ということになる。以上より、快苦の選択で過つのは知識を欠いているが故、ということになり、快楽に負けるということの意味することは無知ということになる(37)。

・最後のどんでん返し
 ソクラテスは徳は教えられえないとするが、彼の主張するように徳が知識であるならば、それは教えるものであるはずだし、プロタゴラスが言うように徳は知識とは別のものであるとすれば、それは教えられえないものである、と(40)。



『エウテュデモス』
プロトレプティコス・ロゴス(説き勧める言論)
幸福には、富、健康、生まれの良さ、尊敬などの(一見して)善いものだけがあっても充分ではなく、それらはそれ自体として値打ちを持っていない。「もし愚昧がそれらの道案内をすれば、それらが、その悪くある案内者に随うことができればできるだけ、その反対のものどもよりもそれだけ大きな悪いものである。これに反して、もし思慮や知恵が道案内をすれば、それらはそれだけ大きな善いものである、しかしそのどちらも、それら自分らだけでは、何の値打ちもないものだ」(281D-E)。そして何よりもそれらを正しく用いて成功、狙ったものを得ることが必要となる。笛を吹くためには笛を吹く知識がいるように、成功、狙ったものを得ることは知恵を持っていることに依る。「それでは、知恵はどんな場合にも人間たちに成功を得させるものだ。何故かというと、知恵はどんな時でも何についても為損じるというようなことは決してなく、むしろそれは正しく行って、為当てるに違いないからだ。そうでなければ、実はもう知恵ではないだろうからな」(280A)。



『カイレポン』
・カイレポンによるソクラテスの説の要約
 人々は魂の世話(自分自身に限らず子供の魂についても同様)のことを配慮しておらず、「主役となって治めることになる魂のほうをないがしろにして、その下に治められることになる身体のほうに、まるっきり真剣になってしまっている」(407e)。だからそのような魂の使い方を知らぬ者は魂を下手に用いるくらいならば、舵取りをより巧い者に任せるかのように、自由民としてでなく「だれかに仕える者」(408a)として生きる方が良い。そしてこの舵取りの術とはソクラテス言うところの「国家指導の術」(ポリーティケー)、別の言い方では「裁判する術であり正義の技術」(408b)である。

・カイレポンによる批判
 ソクラテスの言うことは立派だが、さてその先からどうなるのか、つまり、「魂の善さ(徳)を目指す技術」とは何の技術であるのかに答えが与えられなければならない。つまり具体的にはどんな技術で何をどうすれば魂を善くできるのか、ということ。
 技術にはその作物と教科がある(その技術によって生まれるものと、教えうる知識)以上、正義の技術にもこれがあるはずであるが、カイレポンが話を聞いたソクラテスの友人たちは、「ためになるもの」、「まさにあるべきもの」、「益」、「利」などと答えるが、それらはどの技術の作物(医術の作る健康など)も持ち合わせているものであり、正義の技術固有の作物ではない。それは親和、友愛だと言う者もいたが、有害な愛もあるために彼はそのようなものは偽りの友愛であり、「真実の友愛と親和は心を一つにすること」(409e)であると主張するに至る。しかし、「医術だって、また、どの技術だって、みな心を一つにすることの一種なのだ。そして、その一致が何を対象とするものなのかを言うことができるのだ。しかし、君が正義の術とか心を一つにすることとか言っているものは、どこへつながりをもつものなのか、まったく見当がつかず、それの作る物も、いったい何なのか、不明だ」(410a)ということになる。
 以上より、カイレポンは正義の技術なるものは実践につながらない、と難じる。「あんたという人は、徳に意を用いよとすすめることにかけては、世にもすぐれた実践家だけれども、しかし二つのことのうちのもう一つのほうは、要するにそれだけしかできず、それ以上のことは何もない人なのだと見てとったからだ。こういうことは、ほかのどの技術にもありうることなんで、たとえば船の舵をとることは知らなくても、その舵取りの技術について、それが人間にとってどれだけ価値の多いものであるかというような、推賞の辞については、これをうんと勉強しておくというようなことがあるあるわけで、これはその他の技術についても同様なのだ。だから、ちょうどこれと同じ非難を、あんたの正義の技術についてもあびせる人が、たぶん、出てくるだろう。あんたは、正義というものを上手に礼賛しているけれども、しかしそれだからといって、正義の知識をちょっとでもよけいにもっているわけではない、とね」(410b-c)。二つのことというのは、徳の価値の推賞の文言とる方法で、ソクラテスはそのうち前者しか知らないというわけ。
 思うに、この「何の技術で、何を生み出すのか」という批判は弁論術に対するソクラテス・プラトン陣営からの批判をそっくりそのまま哲学に向けたものになる。



『奇跡論・迷信論・自殺論』
・意志と自由と神の関係
「神性の領分は、なんらかの作用のなかに直接に出現するものではなく、時間の開始以来確立されているかの一般的で不変な諸法則によっていっさいの事物を統御するのである。あらゆる出来事は、ある意味では全能神の行為と宣言されてよいであろう。それらは、すべて神がその被造物に付与した諸力に由来しているからである。……情念が動くとき、判断が宣言するとき、四肢が従うとき、これらすべては神の作用であり、これらの生命的諸原理の上にも、非生命的諸原理の上にも、同じように神は宇宙の統御を樹立したのである」(「自殺について」, p. 71-72)。この段落の以下の文を読む限りでは、神の法則に従って被造物は動き(生命の場合は自発的に)、この被造物の動きは神の法則に抵触していないわけだから、自殺といえどもその例外ではなく適法というわけ。自由意志と神の法則は両立可能であるということが含意されているようだ。



『道徳原理の研究』
・ざっくりとしたまとめ
 正義という美徳の起源はその有用性(utility)にあり、有用だから褒めそやされる。仁愛も然り。
 自然の資源が奪い合ったり所有権で区切ったりする必要がないほどに潤沢にある場合、逆に絶対的に不足している場合、いずれいおいても正義は生じないし、有用でもない。
 顧慮に値しないほど弱い相手、つまり正義を認めても有用でない相手には正義は認められない。「我々の許可が、それによって彼等が所有物を保有する唯一の保有権であり、我々の同情と親切とが、それによって彼等が我々の無法な意志を制する唯一の抑制である。そして、自然においてそのように堅固に確立された権力の行使から何の不便も生じないのであるから、正義と所有権の制約は全く無用となり、そのように不平等な連合対においては決して存在しないであろう」(p. 28-29)。
 所有権は民法に基づき、民法は社会的な利益に基づいている(p. 37)。
「社会の維持のための正義の必要性が、その美徳の唯一の基礎である。そしてこれ以上に高く評価される道徳的卓越性は存在しないのであるから、我々はこの有用性という事情が一般的に言って最も強い活力と、我々の感情に対する最も完全な支配力とを有すると結論してよいであろう。したがって、それは忠実、正義、誠実、高潔およびその他の尊敬すべき、そして有用な諸性質や諸原理の唯一の源泉であるのと同様に、人間性、仁愛、友情、公共的精神、およびこの種の美徳に帰属される価値のかなりの部分の源泉であるに違いない。何らかの原理が、一つの事例において偉大な勢力と活力とを有することが判明した場合には、あらゆる相似する事例において同様の活力をそれに帰属させることは、哲学の規則および常識の規則にさえ完全に一致する」(p. 46)。
 道徳的善悪・好悪の起源。「社会的美徳は、自然的な美と愛すべき性質とを有することが承認されなければならない。そしてそれらが先ず初めに、あらゆる訓戒あるいは教育に先立って、無教育な人間に社会的美徳に対し敬意を払わせる、また彼等の愛情を引き寄せるのである。そして、これらの美徳の公共的公用性は、そこから美徳の価値が引き出される主たる事情であるから、美徳が促進しようとする目的は、とにもかくにも我々には快く、そして或る種の自然的愛情を把えるものでなければならないことになる」(p. 61)。
 美徳への是認は純粋に利己的な動機から愛情なのかというと、そうではなく、ヒュームは美徳への是認を利己心、自愛に還元するのは誤っているとした。「有用性は快く、我々の是認を引きつける。これは日々の観察によって確認される事実の問題である。しかし有用であるとは何か。何のために有用であるのか。もちろん、或る人の利益のためにである。では、誰の利益であるのか。我々自身の利益のみではない。というのは、我々の是認は、しばしばそれ以上に及ぶからである。したがって、それは是認される性格または行為が役立つ人々の利益であるに相違ない。そしてこれらの人々は、いかに離れていても我々にとって全く無関係という訳ではない」(p. 65-66)。我々には自分には無関係な公共の利益を愛し、是認する共感的な感情があるわけである。だから「歴史書の精読は静かな楽しみであるように思われる。しかし我々の心臓が、歴史家によって記述される人々に呼応して鼓動するのでなければ、何の楽しみでもないであろう」(p. 72)。この共感的な感情は一般的な感情でもあり、「人々の性格に関して我々が冷静に判断をし、論述する場合には、これらの差別を一切無視し、我々の感情をいっそう公共的、社会的にする」(p. 79)ような一般的観点を持つ。
 道徳的区別(善悪の区別)は有用・有害の区別と同じであること。「……それでもなお有用なものと有害なものとの間の選択、または区別はなされるに相違ない。さて、この区別は、あらゆる部分において、その基礎がしばしば論究され、そして失敗に終わることが多かった道徳的区別と同一である。同一の精神的資質は、あらゆる状況のもとで、道徳の感情と人間性のそれとに快い。同一の気質は、前者の感情と後者の感情のそれと高い程度に受容しうる。そして対象がより接近または結合することによって生ずる同一の変化は、前者および後者に生気を与えるのであるしたがって哲学のあらゆる規則によれば、これらの感情は、本来同一のものであると結論しなければならない。何故ならば、それらはここの事項において、最も微細な点に至るまで、同一の法則に支配され、また同一の対象によって動かされるからである」(p. 88)。
 自分自身に有用な諸性質が賞賛されるのは、その性質とその賞賛によって利益を得られるのではないかという自愛からではなく、共感的な感情による。「……我々あるいは共同体には何の関係もなく、所有者の有効性にのみ資するような諸性質もなお敬意を払われる評価されるのであるから、我々は、どのような理説または体系によってこの感情を自愛から説明し、あるいはそれをあのお気に入りの根元から引き出すことができるであろうか。この際、他の人々の幸福と不幸は、我々にとって全く無関係な光景ではなく、前者の眺めは、その原因においても結果においても、太陽の光か、あるいはよく耕された平野の眺望のように(我々はこれ以上高い要求はしないが)、密やかな喜びと満足とを伝えるが、後者の外観は、垂れ込めた雲ある意は不毛の地の風景のように、想像力に憂鬱な湿気を与えるということは認めざるをえないように思われる。そしてこのことがひとたび容認されるならば、困難は過ぎ去り、その後は人間生活の諸現象に関する自然で無理のない解釈が、すべての思弁的研究者達の間に普及することを、我々は期待してよいであろう」(p. 98)。
 美の起源。「効用性とその反対との観念は、何が美しいか、または醜いかを全面的には決定しないものの、明らかに是認あるいは嫌気のかなりの部分の源泉である」(p. 99)。
「高邁で野心的な人は、名誉と権威、名声と恩典とを求める。財産が主たる偶像であるようなところでは、腐敗、金銭づくの行動、強奪が広まるが、芸術、工業、商業、農業が栄える。前者の偏見は、軍事的美徳にとって好都合であるから、君主制に一層適合している。後者は産業を刺激する主要な拍車であるから、共和政治によりよく合致する。したがって我々は、これらの政治形態のおのおのが、それらの習慣の効用を変化させることによって、通常、人間の感情の上に、それに比例した効果を持つことを見いだすのである」(p. 105)。
 共同体への善、所有者自身への善の他、「見る者の上に満足を拡散し、友情と尊敬を招き寄せるもう一組の諸心的性質」(p. 109)がある。「それを所有する当の人物にとっては、それの直接的感覚は快い。他の人々は伝染または自然敵同感によって、同じ気分に溶け込み、その感情に感染する。そして我々は、心地よいものは何であれ愛さずにはいられないので、そのように大きな満足を伝えてくれる人物に対しては、好意的な情動が起こるのである」(p. 109)。
 まとめではないが、ちょっと気になったフレーズ。「それでもなお我々の心の決定を指導し、他のすべてのことが等しければ、人類に有用であり役立つものを、有害なもの、危険なものよりも冷静に選択させるに相違ない。したがって道徳的区別が直ちに生ずる。それは非難と是認との一般的感情、すなわちいかに微弱であっても、一方の対象に向かう傾向と、これに比例する他方の対象に対する嫌悪である」(p. 138)。
 個人的視点と一般的視点。「人が他の人を彼の敵、彼の競争相手、彼の対抗者と称するときには、彼は自愛の言葉を語り、彼自身に特有な、そして彼の特殊的事情と状況から生ずる感情を表現するものと理解される。しかし彼が誰かに、邪悪なあるいは憎むべきあるいは堕落したという形容詞を与えるときには他の言葉を話しているのであり、彼の話を聞くすべての聴衆が彼と一致する筈であると期待する感情を表現している。したがって彼はこの場合、彼個人の特殊的な状況を離れて、彼と他の人々とに共通な視点を選択しているに相違ない。彼は人間的機構の或る普遍的原理を揺り動かし、全人類がそれに対し調和的に反響する琴線に触れているに相違ない」(p. 139)。ここでちょっと思ったこと。この一般的視点は美徳への賛辞が自愛に由来するという見解に対するヒュームの反対の現れの一つであろうが、一般的視点と有用性はどうもあまり合致しないように思われるわけだがどうだろうか。
 理性は情念の奴隷たること。「しかし理性は、完全に助長され改良された場合には、諸性質や諸行為の有害または有用な傾向性を我々に教えるには十分であろうが、それだけではいかなる道徳的非難もしくは是認を産出するのにも十分ではない。効用性は或る目的への傾向性に過ぎない、そして我々がその目的に対して全く無関心であるならば、その手段に対しても、我々は同一の無関心を感ずるであろう。有害な傾向性よりも有用な傾向性を選択するために、ここで感情の表出が必要になる。……それ故にこの場合には、理性が諸行為のそれぞれの傾向性を我々に教え、人間性が有用かつ有益なものを選んで区別するのである」(p. 156-157)。
 人間の科学の特質と自然さ。「この種の哲学の場合には、物理学の場合と事情は同じではない。自然における多くの仮説は、最初のが意見に反してはいたが、より精密な吟味によって、堅固で満足すべきであることが判明した。この種の実例は非常にしばしば起こることなので、機知に富む上に、賢明な或る哲学者(フォントネル氏)は、もし何らかの現象が産出される方法が一つ以上存在するならば、最も明白ではなく、また有りふれてもいない原因からそれが発生したという、一般的な推定が成立すると敢えて断定したのである。しかし我々の情念と人間の心の内的作用の起源に関するあらゆる研究においては、常にその反対の推定がなされる。いかなる現象の場合にも、挙げうる最も単純で最も明白な原因が、おそらくは真の原因である。哲学者が自己の体系を説明するに際して、何らかの非常に複雑な、また精巧な反省を用い、いかなる情念あるいは情動の産出にもそれらが本質的であると想定せざるをえないときには、我々はそのような虚偽の仮説を極度に警戒すべき理由を有するのである」(p. 173)。
 仁愛を自愛に還元するよりは、仁愛そのものを認める方が理論の単純性では優れている(p. 173)。
 倫理学における言葉上の問題。「かくして、もし我々がここで、心のあらゆる称賛に値する諸性質は、美徳あるいは道徳的属性と見なされるべきであることを主張するか、もしくは否定するとしたら、多くの人々は、我々が倫理学の最も深遠な思索の一つに入っていると想像するであろう。もっとも、そのとき、おそらく、論争の大部分は全く言葉上の問題であることが判明すると思われる」(p. 204)。日常生活における人々の心的諸性質への是認と譴責の感情はきわめて類似しており、古代の哲学者等は称賛に値する性質と美徳とを区別していないことがその例証になる。そしてこのことは自己評価においても変わらない(p. 192-193)。
 善良な性質(社会的美徳)と、能力や才覚への扱いの違い。前者は欠ければ非難を受けるが、持っていても取り立てて賞賛されない。とはいえ、後者は「後者の美徳は一層稀少であり異例であるので、自負と自惚れとのより普通の対象であることが観察されて」おり、それの自慢に対しては自負や自惚れではないかという嫌疑、警戒心を持たれる。その一方で、尊敬と賞賛を受け、「人が世間において放つ異彩、交友の中で受ける歓迎、知人から払われる敬意、あらゆるこれらの利得は、彼の性格のどれか他の部分によると同様に、彼の良識や判断力によるのである。たとえ或る人が世界で最も善なる意図を持ち、あらゆる不正や暴力から最も遠くに離れていようとも、天分と知性の少なくとも適度の分け前がなければ、彼自身を大いに尊敬されるようにすることは、決してできないであろう」(p. 194)。「一方は愛すべきであり、他方は畏敬すべきである。我々は一方の性格には友人において出会いたいと願い、他方は、我々が自分自身の中にこれを熱望するであろう。……良識や天才は敬意や尊敬を生み、機知や洒落は愛や情緒を呼び起こすのである」(p. 195-196)。ヒュームによれば、後者の美徳が美徳であるのかについての論争があるそうだが(p. 195)、彼は「ところで美徳は、それ自身で称賛に値し、またそれなしには何者も賞賛されることをえないのであるが、それにもかかわらず、比較的多くの区分を有する」で始まるキケロの一節を引きながら、美徳の種類が違っているだけだとする。



『蜂の寓話』
「美徳の起源についての考察」要約
 美徳は政治家たちが社会を確立するために彼らの支配する人々を「だれでもその欲望にふけるよりは克服する方が有益であり、使役とおもわれるものよりは公益に留意する方がずっとよいのだ」(p. 39)と信じさせるために作り上げたものである。そのために美徳を称揚して悪徳を非難し、そして自負心に訴えるべくそのような行動をとる者に追従の賞賛を行った。丁度躾のために子供がした下手な振る舞いを過度に誉めるように。つまるところ、「美徳とは追従が自負に生ませた政治的な申し子である」(p. 46)。
 美徳と悪徳の識別の起源は宗教にはない。それというのも、キリスト教徒やユダヤ教徒以外の「ほかのあらゆる国民の偶像崇拝的な迷信や、彼らが絶対者についていだいていた哀れむべき観念は、人間を美徳へとかりたてることはできず、未開の無分別な群衆を畏敬させ喜ばす以外はなんの役にも立たなかった」(p. 44)し、古代エジプト人は「人間本性のもっとも深い神秘について、これまでのいかなる国民よりも精通していた」(p. 45)し、古代ギリシア人やローマ人は素晴らしい美徳を発揮していた。

・放蕩の有益性
 おそらく個人の悪徳が社会の利益になる、より限定的な言い方をするならば需要を喚起して経済を活性化させる典型的な場合。「強欲な者は自分にも利益をもたらさず、そのうえ相続人を除く世の中全体に損害をあたえるのに反して、放蕩する者は社会全体への天恵であり、自分のほかはだれをも傷つけないからである。なるほど、前者の大半が悪者であるのにたいして、後者はみな馬鹿者である。けれども、放蕩者は公共がとても喜ぶおいしいごちそうであり、ちょうどフランス人が修道士を女性のヤマウズラだと呼ぶのと同じように、社会のヤマシギだというのが正しいであろう」(p. 97)。
 逆に倹約が広がることによって放蕩者の権力者による収奪を相殺できると言われるかもしれない、つまり放蕩-収奪のセットを倹約-非収奪にすることができるというわけ(p. 98-99)。こうなれば大国の多くの人々に職を行き渡らせることができなくなる、経済的に言えばものが売れない不況や緊縮財政と同じ結果を生む。

・絵画は自然の模倣が故に判断は普遍性を持つ
マンデヴィルは美醜や習慣についての人々の評価はその時々、場所場所で変わるものであるとしており(蓋しヘロドトス風に言えば「ノモスこそ万物の王である」ということだろうか。そして訳注によればこの手の懐疑説は当時はありふれたものだったらしい)、絵画の評価もまた様々な事情によって変わりうる。しかし、「以上にもかかわらず、わたくしは、絵画についてなされる判断は普遍的な確実性を得るようになるか、少なくともほかのほとんどいかなるものよりも変わりにくく、安定するようになるかもしれないことを喜んで認める。その理由は明らかである。いつも同じままの依拠しうる基準があるのだ。絵画は自然の模倣であり、いたるところで人間の眼前にある事物の模写である」(p. 299-300)。

・情念の強調
そこはかとないヒュームらしさが見て取れる。
理性に対する優越:「この気高い人物に好戦的な素質なり荒々しい気質があったならば、人生のドラマにおいて別の役割を選び、まったく逆の信条を説いていたであろう。というのも、われわれはどちらなりと情念が引っ張っていると感じる方向にいつも理屈をおししすめ、そして自負心はあらゆる人間にたいしてそれぞれ違った見解をいだくように弁じ、各個人にその性向を正当づける論拠をつねにあたえてくれるあらである」(p. 305)。
徳を生むこと:シャフツベリー伯のいうような道徳は書斎や口先の中だけのもので実際の行動にはつながっていないとしたり、これを説いた次の段落で「人間が生まれつきもっている安楽や怠惰への愛や感覚的な快楽にふける傾向は、教訓によって矯正しうるものではない」(p. 305)と言うなどマンデヴィルはあまり徳育の実効性を信じていないようだ。一方で上記引用の次の文で「その強力な習癖や性向は、ただもっと激しい情念によって抑制しうるのみである。臆病者にたいして恐れが不条理であることを説いて立証しても、十フィートの背たけに伸びよと命じたところでそうはできないのとおなじく、彼は勇敢にならないであろう」(p. 306)という感じで情念を重要視している。



『世界の名著 (46) コント・スペンサー』
社会静学と社会動学
・形而上学的哲学は過渡的なもので、神性の概念の代わりに実在の概念を説明に使い、前者や自然的原因の介入の度合いを少しずつ取り除く。政治的な役割は批判であり、建設的能力を持っていない(p. 317-319)。

・神学的哲学と実証的哲学との対立点(p. 314)。本質的原因・絶対者の気まぐれな意志vs自然法則、想像優先vs理性優先、絶対的精神vs相対的精神

・神学的哲学は耐用年数を過ぎている。社会の発展段階にはその段階にふさわしい哲学が必要。「確かにこれまで、神学的哲学には、その特徴的な自発性のゆえに、極めて強い根源的な影響力があることは認めてきた。しかし、この知的影響力を説明し、正当化する根本的理由の一つひとつは、そのまま、この力が必然的に一時的なものでしかあり得ないことを示しているのである。なぜならば、この理由というのも、神学的哲学が人類の原始状態に固有の欲求に自然とぴったり合っていることを、いろいろな点で示しているにすぎないが、このような欲求は、社会的発展が十分に進んだ時には同じものではあり得ないし、したがってまた、同一の哲学によっては満たされ得ないからである」(p. 309)。

・神学的哲学の歴史的役割と利点(p. 296-309)。一、最初人間は自分のあり方からのアナロジーで自然を理解しようとしたこと。二、外界を自身では思い通りにできなかったがそれを望んでいた段階に、全能の神の持つ全能の支配力によって(多分自分ができないことをこなすヒーローを見るかのような感じで)満足を感じた。三、後になって理論の説明力が上がってきたが、最初はあらゆるものが神の起こす奇跡のようであり、これに与ろうとした。つまり、「このように、知的な見地からすれば、神学的哲学は人間の自然な研究方式と最初の研究の性質とに合致する唯一の哲学であり、道徳的に見ると、本来の極めて惨めな状況の真中にあった人間に向かって、思索的努力に約束された立派な報酬として外界に対する絶対的支配力という魅力的な希望を常に提示することにより、人間の活動的エネルギーを発達させた当初唯一の哲学であった」(p. 304-305)。四、人間に社会形成のために必要な共通思想を与えた。五、初めて知的階級つまり聖職者階級を形成した。

・コントの歴史的寛容。「事実、自然を眺めていて、何か説明に苦しむようなことが起こるたびに、その事象を司る空想上の行為者の新しい意志を想定すればすむし、せいぜいのところ、手間をかけずに新しい行為者をあっさりと作り出せば足りる。今日から見れば、このような幼稚な思索は無意味に思えるかもしれない。しかし、どんな場所どんな時代でも、初めから存在する唯一の糧を人間の精神活動に与えることによって精神を最初の麻痺状態から救い出すことができたのは、この幼稚な思索の力によるものであった。このことは、どんな場合でも忘れてはならない」(p. 300)。

・観察の理論負荷性への類似。ただし、コントの意図は観察の理論負荷性的なことを主張することではなく、どんな理論の構築にも前段階の理論があり、ひとっ飛びに精巧な理論を作ることができないということを述べることである。「……人間の精神というものは、何らかの予備的理論によってまず方向を与えられ、次に絶えずつき動かされない限りは、観察すら行い得ないものだからである。……すなわち、誰が何と言おうと、絶対的経験主義は全く不毛であるばかりでなく、人間の知性とは根本的に相容れないという事実である。明らかに、人間の知性は、その自然の努力を集成し刺激するため、どんな種類の作業においても何らかの理論を必要とする」(p. 298)。観察の理論負荷性と歴史性の関係を考えるのも面白そうである。

科学の起源
・コントの科学には縦、つまり発展的・時間的な配列・前後関係がある(ある科学が別の科学の前段階となって後者を準備する)という説に対するスペンサーの批判。「人間は順を追って思考せざるを得ない。問題を分けて順々に考えるということは人間精神の法則である。それゆえ、自然は縦の系列をなしているに違いない。−−それゆえ、科学は継起として分類できるに違いない。これが、この考えの起源であり、その真理の唯一の証人である。教育の計画や知識の体系を書物でまとめる場合、人間は何らかの順序を選ばなければならない。そして、最上の順序を研究するうちに、事実を真に象徴する順序の存在を自然に信じ込み、そうした順序の探索に熱中する。しかし、その場合、自然が著作の便宜を考えてくれることがあり得るかどうか、という先決問題はきれいに見落としてしまっている」(p. 359)。


エア『言語・真理・論理』
・過去の哲学に対する態度
「何故なら、この言葉を我々が定義する時に当たってのすべての心づかいを以てしても、人々をして、我々が哲学的と呼ぶ活動と、彼等が哲学者と見なすように教えられてきた連中の形而上学的な活動とを混同することを、まぬがれさせはしないからである。……これに対して我々は『哲学の歴史』がほとんどすべて、形而上学の歴史だったというのは事実ではないと答えよう。哲学の歴史が何程か形而上学を含んでいることは、否定できない。しかし私は、普通偉大な哲学者だったと考えられている人々の大部分は、第一義的には形而上学者ではなくて、分析家だったことを示しうると思う」(『言語・真理・論理』, p. 38)。

・現象主義
「物質的事物の存在を信ずる権利を人に与えるものは、単に、人がある感覚を持っているという事実だけなのである。というのは……《ものが存在する》ということは、《そのような感覚がえられる》ということと同じなのである」(『言語・真理・論理』, p. 36)。
「それどころか我々は、物質的事物を感覚−内容を用いて定義することが可能でなくてはならないことを知っている。というのは、如何なる物質的事物も、その存在が、最小程度においてでもとにかく検証されうるのは、ただまったく、あるいくつかの感覚−内容があらわれたことにのみよるのである。かくして我々は現象主義的な『知覚学説』が正しいか、あるいは他の種類の学説が正しいのかをたずねるべきではなくただ如何なる形の現象主義的な学説が正しいのかのみを問うべきであることを知る」(『言語・真理・論理』, p. 40-41)。

・ヒュームが示したこと
「……彼は次の諸点を決定的に明らかにしたと私は思う。すなわち第一に、原因と結果との間の関係は論理的な性質のものではない。何故なら、因果的な結合を確言している命題はどれでも、自己矛盾なしに否定されることが出来るからであるということ。第二に、因果法則は、経験から分析的に引き出されたものではない、何故なら、それ等の法則は、如何なる有限個の経験命題からも演繹されないからであるということ。そして第三に、因果的結合を確言している命題を、特殊な個々の事件の間に成立する必然の関係をあらわす言葉に分析することはあやまりである。何故ならそのような関係の存在を確立するような傾向をほんの少しでも持つような経験を、考え出すことは不可能だからである、という諸点である」(『言語・真理・論理』, p. 42-43)。

・真理とは何か
「すべてに場合においてその文章の分析は《「真理とは何であるか」という問は「『Pは真である』という文章の分析とは何であるか」という問に還元可能である》という我々の仮定を確証するであろう。……『実在的な性質』または『実在的な関係』としての真理の伝統的な概念は、哲学上のあやまりの大部分と同様、文章を正確に分析することが出来なかったため生じたのである。今我々が分析したばかりの二つの文章のように、その中では『真理』という言葉が何か実在的なものに対応しているようにみえる文章がある。このため思弁的哲学者はこの『何か』は何であるかと問うようになった。彼の問は正しいものではなかったのだから、当然彼は満足すべき回答は得られることが出来なかった。何故なら我々の分析が示したように『真理』という言葉はこの問が要求するような意味では何ものにも対応していないからである」(『言語・真理・論理』, p. 99-100)。

・確からしさのプラグマティックな見解
「我々は今や、『我々が経験的命題の有効性をためす基準は何であるか』という我々のもともとの問題に答えるために必要とした知識を獲得したのである。その答は《我々は、経験的仮説の有効性を〈それがみたすようにもくろまれている機能を実際にみたしているかどうか〉をみることによりためすのである》というのである。そうして我々がみて来たように、経験的仮説の機能は我々に経験を予知することが出来るようにさせることである。したがって所与の命題が関係しているある観察が我々の期待にあうならば、その命題の真実性は強められる」(『言語・真理・論理』, p. 116)。
「ある命題の確からしさに言い及ぶ場合、我々はしばしばそう思われているように、その命題に内在する特性に言い及んでいるのでなければ、その命題と他の命題との間に成立つ論理的関係に言い及んでいるのでさえもない。大まかにいって、《観察が命題の確からしさを増す》という場合我々の意味しているすべてのことは、《それがその命題に対する我々の信頼を増す》ということなのであって、この場合に信頼は、《我々が実践において我々の感覚の予報としてそれにどの程度進んで頼ろうとするか》、《都合の悪い経験に面した場合、どの程度他の仮説に対して優先的にそれを守ろうとするか》によってはかられるのである」(『言語・真理・論理』, p. 117)。

・倫理的記述
「我々は《今いわれている倫理的な陳述の非-倫理的な陳述への還元は、我々の現実の言語の規約に整合的である》ということを否定しているのである。いいかえれば我々は功利主義と主観主義とを、現存する倫理的な概念を新らしいものでおきかえようとする提議としてしりぞけるのではなく、我々の現在の倫理的な概念の分析としてしりぞけるのである」(『言語・真理・論理』, p. 127)。



ルドルフ・カルナップ「Applicaition of Inductive Logic」(1947年)
・状態記述が満たすべき、侵害されれば自己矛盾になる要請(2節)
1. 論理的独立の要請。a. 原子文は互いに論理的に独立であるべきである。b. 個体変項は異なり、全く分離した個体を指示すべきである。c. 基礎的述語は互いに論理的に独立であるべきである。
2. 単純性の要請。
3. 完全性の要請。

・帰納論理の十全性を計る「もっとも単純なアプローチ」は与えられた定義に基づいて計算されたc(h,e)の値を値の直観的な結論と比較すること(p. 145)。

・投射可能性について
さしあたりの規定。「以下が満たされるのならば、我々は性質Wは帰納的に投射可能であると呼ぶ。観察された標本のWの相対頻度が高くなればなるほど、この証拠によって観察されていない個体が性質Wを持つ確率が高くなる」(p. 146)。カルナップは彼の*cは確証の度合いの明示的な定義に基づいているので、投射可能な性質とそうでない性質とに分類して投射可能なものに帰納手続きを限定するする必要がなく、hとeの形式はLにおいて定まっており、WがLにおいて表現可能であれば(ただし場所的なものではなく質的なものであれば(次頁参照))、投射可能であるといえる(p. 146; ページの末尾にその例がある)。



アラン・W・リチャードソン「Science as Will and Representation」(2000年)
・発見の文脈と正当化の文脈
「その区別は、それらの見解によれば、論理的経験主義者は正当化に関わっているために――形式論理学の道具立てを利用していて――形式的であると同時に論理的経験主義者たちにとっては規範的であると見えるために崩れる。しかし科学においてア・プリオリと規範的観点を用いることは尤もなことではない。さらに、発見の文脈が正当化の文脈になるような場を正確に見つけることは単純に困難である」(Science as Will and Representation, p. 155)。「1930年代以降のライヘンバッハとカルナップとしては、科学の論理学は歴史的に与えられた科学の価値評価に関わる予備的分野ではなく、むしろこれまでの混乱した認識論的問題を明晰化することに関わっている。……さて、論理的経験主義の発展において文脈の区別は科学哲学と科学に関する他の全ての関心との境界設定基準として働いてきたというのが真相であろう。……例えば、その分野〔哲学〕は認識論がそこから始まるような事実としての知識の『社会学的』事実によって始まるにもかかわらず、ライヘンバッハがその区別を『心理学』から哲学を峻別するのに用いていたことは興味深い」(Science as Will and Representation, p. 155)。

・科学における意志的な要素と信念に関する要素という二つの区別
「『……しかし真理の観念によって支配されず、意志的な決定が原因となって全体系を作るにあたって大きな影響を及ぼすが、真理の性格には触れず、哲学の探究者たちによってあまり知られていなかったような知識の要素が存在する。したがって意志的決定の観点は知識の体系を含んでおり、それは認識論の批判的〔critical〕作業の一つの必須の部分である』。上記の最後の文はライヘンバッハの言い回しにおける『批判的』の特徴について何かしらのことを示している。認識論の批判的作業のその部分をなすのは意志的決定の価値判断ではない。むしろそれは科学の信念に関する〔doxastic〕要素とその仕事に属する意志的要素との区別の輪郭をなしている。この意味において批判的であるということは規範的ということ――科学者の行動について口出しをする余地を見出そうとすること――よりもむしろ説明に関すること――知識についての活動の本性を明らかに理解する余地を見出すことである。……これはライヘンバッハとカルナップが若い頃に吸収した新カント的な伝統における認識批判〔Erkenntniskritik〕と密接に関わっている」(Science as Will and Representation, p. 156)。

・ライヘンバッハの規約に対する態度
「まず、彼はラディカルな規約主義の主張を否定しようと苦心しており、ポワンカレに荷担していた。第二に、科学におけるすべての決定は規約に関する決定ではない」(Science as Will and Representation, p. 157)。

・意志決定の問題の社会学への委譲
「まだ一つさらに論じられるべき主題が残っているだろう。それは科学哲学における意志と決定についての基礎的な想念の正当性である。カルナップの理論的/実践的の区別は実践的決定の嘆願に関わっているものと同じくらいに実践的決定とは何なのかを理解するために機能する十分な事柄の欠けた決定についての発動機として見ることができる」。カルナップの意志決定についての立論は不十分なものだというわけ。「この問題を脱する一つの方法は分割においては後者の側にある知識によって科学的な領域と哲学的な領域の裂け目を判然と主張することである。しかしこれはカルナップとノイラートにとっては受け入れ難いものであるように見える。脱するもう一つの道は意志と決定は人間科学の範囲にある科学的想念であり、それゆえに科学的決定は例えば、科学の社会学の領域であると主張することであろう。そこには論理経験主義者たちにとて十分適当な意味があり、決定の科学的決定は実際のところ、社会科学のうちで探求されるであろう科学をなす」(Science as Will and Representation, p. 159-160)。





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