ポリュビオス『歴史』
ピーター・ブラウン『古代末期の世界』
ヨハネス・スキュリツェス『歴史概観』
小林功『生まれてくる文明と対峙すること』
『ビザンツ 驚くべき中世帝国』
『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』
『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』
『ビザンツとブルガリア』
根津由喜夫「十世紀小アジア貴族の世界」
根津由喜夫「11世紀ビザンツ属州貴族と地域社会」
『世界歴史大系ドイツ史1』
『中世教皇史』
『十二世紀のルネサンス』
『イスラームから見た世界史』
『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』
『スペインの歴史』
『神聖ローマ帝国―ドイツ王が支配した帝国―』
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ポリュビオス『歴史』
ポリュビオスの述べるハンニバル戦争の原因
発端:「すでに決定していた計画を初めて実行に移すとき、その最初の行動」(III. 6)
原因:「決定や決断に先行してそれらを導き出すもの、すなわち心の動きや状態、およびそれらについての考察」(III. 6)
例. マケドニアのペルシア遠征の発端はアレクサンドロスのアジア渡航、原因はキュロスやアゲシラオスの遠征でペルシア人が見せた惰弱さ、これらからフィリッポスが引き出したペルシアの弱さと自軍の強さ、勝利への報償の大きさ(III. 6)。
第一の原因はハミルカルの怨念(最後まで陣地を守り抜いた彼には負けたという意識はなく、カルタゴ艦隊の敗北のおかげで渋々休戦を受け入れたにすぎない)、第二はサルディニアの喪失(この件についてはカルタゴの主張の方が正当であったにもかかわらず、その時に戦争を避けるためにはサルディニアを譲渡するしかなかった)、第三はハミルカルによるイベリア掌握の成功(人的資源の確保)(III. 9-10)。 サグントゥムへの攻撃はこの場合発端にすぎない。

ラケダイモンの国制の欠陥
「ところがその後、破れて逃げ帰ったペルシア人との間でアンタルキダスによる和約を結び、ギリシア人の諸都市を裏切って売り渡してしまった。ギリシアに覇を唱えるための資金を手に入れようとしたのだが、しかしこの出来事によって、この国の法律にひとつの欠陥があることが露見したのである。
 つまりラケダイモンという国は、隣人の領土か、あるいはせいぜいペロポンネソス域内の支配を目指しているうちは、ラコニア地方からもたらされる収益と資産だけで足りていて、必要な物資はすぐに手に入ったし、遠征先からの帰国も本国からの物資補給も短時間で可能だった。ところが海上に艦隊を送り出したり、ペロポンネソス域外に陸軍を遠征させたりするようになると、リュクルゴスの法律にしたがって鉄の貨幣を使ったり、その年の収穫物で物資の不足を補ったりするだけでは、もはや必要をまかないきれないことが明白になった。新たな展開のために、共通の貨幣と域外からの物資調達が不可欠の条件となったのである。そこでリュクルゴスの法律を守っていては、ギリシアの覇権はおろかいかなる勢力獲得もおぼつかないと悟ったラケダイモン人は、やむなくペルシア人の戸口に物乞いに出かけたり、島々の住民の貢税を課したり、ギリシア全土から献金を要求したりし始めたのである」(6. 49)。
「さて何のためにこんな話を持ち出したかというと、事実そのものによって次のことを明らかにしたかったからだ。つまりリュクルゴスの定めた法律というのは、故国の安全を保障し独立を守るためには申し分のない出来映えであり、したがってそのようなことを国制の目的と見なす人にとっては、ラケダイモンの政治制度と法体系にもましてすばらしいものは現在と過去を通じてどこにもないと認めなければならない。しかしそれよりももっと多くを望む人がいるなら、そして広域に覇を唱え、多くの国に支配と権力を及ぼし、世界中から伏して仰ぎ見られることを、もっとも美しくもっとも尊い行為考える人がいるなら、その人から見てラケダイモン人の国制には足りないところがあり、それと比べてローマ人の国制は数段優れていて、より大きな力を発揮する仕組みを備えていることも、やはり認めないわけにはいかない」(6. 50)。



ピーター・ブラウン『古代末期の世界』
古代世界の終焉:地中海に代わってペルシャ湾が繁栄を謳歌するようになる(p. 14)。
3世紀には首都の元老院議員に代わる新しい支配層が出現した。それはたたき上げの軍人であり、地方出身の秀才で、彼らを古い支配層に接ぎ木して支配層として受け入れられる資格を与えたのは古典教養だった。
4・5世紀に地方の「ローマ化」が進み、下層民までが「ローマ人意識」を持つようになった。ローマ市そのものへの意識も変わり、ローマ人が忠誠を誓うのはローマの元老院にではなく、皇帝に対してであった(p. 34-36)。
東西格差:西部は農業しか産業がない後進地域で、富は2、3の大地主によって独占され、農民は重税に耐えられずに農奴化された。一方で東部では商業が栄えて農民は農作物を売ることができ、重税を逃れるために農奴になって大地主の世話にならずにすんだ。小さいながらも活気あふれる年が地中海周辺に登場し、ローカルな有力者が影響力を振るったのは都市とその周辺部に限られ、数家族の大地主が富を独占するようにはならなかった。
「新しい風潮」(p. 44-47):個人の内面世界を重視する考え方が生まれ、内面世界外的世界とは無関係に存在するものとされ、伝統的に大切にされてきたものがどうでも良くなった。そして個人の内面世界が独自性を主張するためには孤独な個人を支えてくれる「大文字で書かれた単数形の神」が必要になってきた。人々は世界の大きな変化に際して「大きな存在」に頼ろうとした。「ところが『新しい風潮』は、自分を巨大な力によって生かされていると考えているような、それまで存在しなかった新しい種類の人間を生み出していた」(p. 46)。キリスト教徒であれ異教徒であれ自分を神の「召使い」とみなしてその指示に従って行動した。
「『この世』に絶望し、生きることに意味を見いだせなくなった古代末期の知識人を救ったのが新しいプラトン主義であり、それを引き継いだのがキリスト教であった」(p. 71)。自己と外的世界との隔絶、魂の肉体との結びつきとその堕落という問題に対し、古代末期の知識人は古典古代の伝統に解決を求めた。プロティノスは目に見える世界と見えない世界とのつながり(物質櫂を全否定したグノーシス主義はそれを断ち切った)を目に見える世界を手がかりにしてそれを生み出した唯一真の存在と目に見えない世界とを観想で見ることができる考えた。「無限の広がりをもつ底なしの宇宙のなかで、自分の居場所を探し求めた新プラトン主義の哲学者たちは、目に見える世界と神との繋がりを強調した」(p. 70)。そして彼は肉体を持つことは罪ではなく、肉体は魂の素晴らしさを表現するための道具であり、だからこそ肉体は大切にして鍛え上げなければならない一方で、禁欲は求められなかった。こうした新プラトン主義の考え方はキリスト教の教父たちに受け継がれ、彼らは神と人間を分けて考えるのではなく「混ぜ合わせ」、イエスは神でもあり人間でもあると主張した。
アレイオス派:エウセビウスのような伝統的な教養を身につけた司教たちは、イエスと神の関係を哲学的に分かりやすく説明したアレイオスの支持者だった。コンスタンティウス2世がアレイオスを支持したのはエジプトの聖職者たちの狂信的な雰囲気を代表するアタナシオスを嫌っていたから。アレイオスのイエスは神と人間を仲介する存在にすぎず、それは皇帝に対する地方総督の関係に似ていたために当時の人たちにとっては分かりやすかった。
ユスティニアヌスのイタリアへの影響:ユスティニアヌスの征服によってローマのセナトル貴族の「リベルタス」(特権)が司教たちに受け継がれた。シャルルマーニュのローマ帝国のモデルは「アウグストゥスの帝国」ではなく「ユスティニアヌスの帝国」だった。
単性論の動機:イエスが人間としての弱さを完全に克服して神と同じになったのであれば、普通の人間でも神になれるということになる(聖人がその実例)。「教皇レオ一世のようにイエスの人間的な弱さを強調する者が現れると、彼らはショックを受けることになった。約束されていたはずの救済が怪しくなってくるからである。人間の弱さが克服不可能だとしたら、それは神の無限の力に汚点を残すことを意味した」(p. 140-141)。
古典教養より速記、古代世界の終焉:セナトル貴族は司教に鞍替えしたため、司教たちは異教的な古典教養にも寛容だった。しかし忙しい司教たちは自由な時間に政治から一歩引いて古典教養を身につける古代人の理想的な生活はできず、速記の勉強をする必要に迫られて古典教養を身につける時間が持てなかった。こうして地中海西部では古代世界が自然消滅していった。
都市の支配者は総督から司教に変わる、市民の消滅:6世紀中頃から都市での徴税や蛮族との交渉を司教が担うになった。イスラム支配下で新しい型のキリスト教が登場し、国家への帰属ではなく信仰が問題になるようになり、アレクサンドリア総主教ヨハネス・エレエモンは「神の法」で信者同士の争いを裁いた(これはカーディーの原型)。「イスラム教徒の到来で、近東とローマ帝国を結んでいた最後の絆が断たれることになった。イスラム帝国には、もはや古代的な意味での『市民』は存在しなかった。『国家』に変わって『信仰共同体』が登場してきたのである」(p. 183-184)。
ムハンマドはベドウィンの生き方を変えた:仲間の前では恥をさらすことを恐れ、賞賛を求め、度量の広さを誇示して勇敢な行為を心がけ、恥をかかされれば報復を忘れず、義務の遂行には厳格であるというベドウィンの「恥の文化」をムハンマドは変えた。イスラム教の考え方は徹底した個人主義であり、各人は最後の審判では一人でアッラーと向き合う。「イスラム教徒にとって『顔』が立つ、立たないといったことは意味がなくなり、アッラーが自分にくだす審判だけが問題であった。仲間のまえで『恥』をさらすことはさして問題ではなくなり、『最後の審判』で明らかになる罪だけが問題になった」(p. 187)。ムハンマドの指導の下で殺人が頻発した荒っぽい生き方がなくなり、平和が実現し、メディナの住民は「アッラーが遣わしてくれた使徒のおかげで平和が実現した」と喜んだ。イスラム教の下でベドウィンは部族単位の生き方を捨て、イスラム教としてまとまった。


ヨハネス・スキュリツェス『歴史概観』
クルクアス家についての抜粋
・ヨハネス(1)
・920年「パトリキオスのテオヒュラクトス、皇帝の教育係テオドロス、そしてその兄弟シュメオンはロマノスに対する敵対行動を仕組んたとの嫌疑で都から追放されてオプシキオン・テマに住むよう命じられた。彼らを突然逮捕することで彼らの追放の命令を実行し、船で対岸まで運んだのは巡視隊長官ヨハネス・クルクアスであった」(IX. 14; p. 204)。
922年「皇帝に対する今一つの謀反が地方長官であったパトリキオスのバルダス・ボイラスの扇動でカルディアで起こった。反乱の指導者はハドリアノス・カルドスとアルメニア人タツァテスといういずれも非常に金持ちの男たちだった。彼らはパイペルテと呼ばれる砦を占領してそこで皇帝に対抗するための軍備を行ったが、スコライ司令官ヨハネス・クルクアスが突如現れて(彼はカイサレイアにいた)集まっていた者を四散させた。彼は重要人物のほとんどの目をつぶし、逮捕して財産を没収したが、貧乏で重要ではない者についてはどこへなり好きな所へ行くよう命じて釈放した。タツァテスただ一人が高い丘の上に立てられた砦に陣取っていた。司令官の害を及ぼすつもりはないという手紙を受け取ると、彼は首都へと赴いてそこで革紐持ちの称号で讃えられてマグナウラ宮殿に拘留された。しかし彼は脱出を試みて両目を失った。(皇帝の寵を得ていた)バルダス・ボイラスについては、頭を剃って修道僧にされ、そう悪い扱いは受けなかった」(X. 9; p. 210-211)。「ヨハネスは922年6月にポトス・アルギュロスの後を襲い〔スコライ司令官になり〕、944年秋まで22年間その地位にあった。彼はロマノス(皇帝は陸戦には不慣れであり、自ら陸軍を率いたことはなかった)の最良の武官の一人であった。……ヨハネスの兄弟テオフィロスは偉大な名声を得たもう一人の司令官であった」(訳注35)。
931年秋「スコライ司令官の将軍ヨハネス・クルクアスはシュリアを荒らして全ての抵抗を一掃した。彼は夷狄の多くの砦、要塞と諸都市を手に入れ、それから名高いメリテネへと向かって包囲し、住民を彼と協定を結ぶことを考えさせるほどの苦境に陥れた。かくしてアムルの子孫でメリテネのアミールのアポカプスが守備隊長のアポサラトと共に彼のところへとやってきた。司令官は彼らを懇ろに迎え入れて賓客として皇帝の許へと送った。彼らは彼と会談して平和条約を結び、それからローマ人の友であり同盟者という称号に喜びながら故郷へと戻り、ローマのために同胞民族と戦う用意をした」。「ブルガリアの危機が和らいで東方に援軍を送ることができるようになったために926年6、7月に最初の遠征が行われたが、メリテネ周辺を荒らすのが関の山でその町を落とすまではいかなかった。931年秋になってようやくヨハネス・クルクアスがメリテネ地方の主たる地域に和平を押しつけるのに成功した」(訳注68)。
934年「しかしアポカプスとアポサラトが死ぬと、この平和条約は破棄されたため、上述の司令官はメリアスと彼のアルメニア兵を連れて彼らとの戦端を開いた。最初に彼らは攻撃をかけ、平地に陣取るほど剛胆だった者たちを城壁の中へと押し返した。それから彼らは都市を包囲して厳しく絞め上げ、そこを占領して軍政の下に置いた〔934年5月19日〕。彼らは周囲の領地の全てを平らげてローマ人の支配の下へと置いた。皇帝はメリテネと近隣の人が住む全ての地域を「教区」へと編成し、それによって国庫へと莫大な貢納を納めた」(X. 19; p. 216-217)。
941年。オレーグとイーゴリ率いるロシア艦隊がコンスタンティノープルに攻め込んできたが、プロトヴェスティアリオスのテオファネスがこれを海で破った。「生き残ったロシア人は東岸〔小アジア沿岸〕に渡ってきて、ソグラと呼ばれる土地に転進してきた。〔ニケフォロス・〕フォカスの息子でパトリキオスのバルダスが騎兵と選り抜きの兵を連れて巡回していたため、彼は食料調達に送り出されていた [ロシア兵の] 大部隊と遭遇するとこれを破って殺した。そしてスコライ司令官のクルクアスはすぐに軍を連れて到着すると、散り散りになってあちこちをさまよっていたロシア兵をすぐさま発見し、痛撃を与えた」(X. 31; p. 221)。
944年。「皇帝はプロトヴェスティアリオス〔テオファネス〕を暖かく迎え入れて寝室管理官に昇進させることで彼を讃えた。ロマノス帝が司令官〔クルクアス〕の娘エウフロシュネと自らの孫で、自分の末子コンスタンティノスの息子ロマノスを結婚させようと望んだため、他の皇帝たちの間でヨハネス・クルクアスに対する憎悪が生まれた。彼が22年と7ヶ月の間続けて働いてシリアの全域を実質的に征服して服属させた後、 [皇帝は] 止むを得ずに司令官をその指揮権から解任した。彼の素晴らしい偉業について知りたいと思う者は大剣持で判事であったマヌエルなる者が編んだ著作にあたるべきであろう。彼はその8巻本にこの男の勇敢な偉業の全てについて書いた。軍事において彼がどのような人物であったのかはそれから知ることができよう。そして彼の兄弟で、後に帝位に上ったヨハネスの祖父であるテオフィロスもまた司令官の地位にあった時にメソポタミアのサラセン人の町々を似たように扱い、ハガルの息子たちを服属、隷属させた。そしてヨハネスの息子、パトリキオスのロマノスは司令官になった時に多くの要塞を奪取して大量の戦利品によってローマ人の国庫を潤すのに功があった。ヨハネスが解任された後、皇帝の親族でパンテリオスと呼ばれたロマノスがスコライ司令官に任命された」(X. 32; p. 222)。

・ヨハネス(1)の息子ロマノス(1)
「ニケフォロスによって我々が説明したようにして魅了された後、ブリンガスは彼を本国へと招き入れた。後に彼はそれについて考え直して網の中の獲物になってしまい、自分は何と馬鹿なことをしでかしたのだとで自分自身に対して憤慨した。かくして彼はその事柄についての彼の不安を取り除こうと策謀を考えるようになった。彼が考えつくことができた最も効果的な方策は行動においては精力的でフォカスその人に次いでローマの指揮官のうちで最も優れており、当時はアナトリコン・テマの長官だった司令官ヨハネス・ツィミスケスと東方で勤務していたもう一人の有能な将軍ロマノス・クルクアスに手紙を書くことであった。彼はフォカス打倒のために友情の約束、栄誉と贈り物と共に彼らに手紙を送った。手紙が書かれてこの要旨は以下のようなものであった。もし [決起] が起こってフォカスを取り除いて彼の頭を剃って修道士にするなり他の仕方で [彼を排除する] ならば〔注12. 「ロマノスはヨハネス・ツィミスケスの第一の従兄弟で、重要なテマ、彼はヨハネスの次の位階にあって次のストラテゴスになったようであるため、恐らくアルメニアコン・テマのストラテゴスであった。〕、ヨハネスは東方のスコライ司令官の総司令権に任命され、ロマノスは西方の司令官になる。問題の人物らに手紙が届くや否や彼らはそれらをフォカスに読ませて(彼らは彼に対して非常に忠実だった)不確実ではない仕方で対処したり何か立派で大胆な策略を練るよう求めた。彼らは彼がぐずぐずすればその手で彼を殺すと脅した。生命の危機に怯えたために彼は6月2日、インディクティオの同年に彼らに彼を皇帝として宣言することを許し、そして現に彼はツィミスケスが集めた全東方軍によってローマ人の皇帝として承認された」(XIII. 6)。

・ロマノス(1)の息子ヨハネス(2)
ドロストロン包囲にて「スキュタイ人は市内では飢餓と戦い、外では攻城兵器によってひどく痛めつけられており、とりわけロマノス・クルクアスの息子で、マギストロスのヨハネスが守る区画では投石機が中の者に少なからぬ損害を与えていた。そのためいスキュタイ人は最も英雄的な重装備の兵を選んで彼らに軽装備の歩兵を混ぜて無力化できるかどうかを調べるために装置へと送った。クルクアスはこれに感づいて彼と共にいた兵士のうちで最も強い兵士たちを連れて救援へと急いだ。彼はスキュタイ人の真っ直中で矢玉で馬を殺されて彼も倒れ、斬殺された。ローマ軍は突撃をかけてロシア軍と戦い、兵器が傷つくのを防ぎ、スキュタイ人を撃退して市内に押し込んだ」(XV. 14; p. 289)。「助祭レオンはクルクアス(ヨハネス・ツィミスケスの最初の甥)の死に様に異なった記述をしている。彼は無分別な防戦の理由は酩酊であり、クルクアスは鍍金が施された鎧を着ていたために皇帝と間違えられたと述べている。レオンは彼の悲惨な最期は懐を満たすためにブルガール人の教会を略奪した罰であると主張してもいる」(訳注65)。

・ロマノス(2) 「ロマノス・スクレロスの息子でパトリキオスのバシレイオスがマギストロスのブルガール人プルシアノスと戦って互いに指し違えるのではないかというほどに対立するようになった。コンスタンティノスはこの争いに皇帝権力に対する侵犯であるという判決を下して一方をオクセイア島へ、他方をプラテアへと追放した。少し後に彼は逃亡を企んだとしてバシレイオスの目を潰した。プルシアノスは同じ運命をたどりかけたが、解放された。彼はプルシアノスの姉妹と結婚していたロマノス・クルクアスも目を潰した」(XVII. 1. 372)。

・コンスタンティノス8世の粛清
「皇帝の姉妹の夫で、コンスタンティノスによって目を潰されていた人物であったマギストロスのバシレイオス・スクレロスは落ち着きがなく気まぐれな心根の持ち主であった。彼はロマノスによってマギストロスに昇進されられていてそこから多くの利益も得ていたにもかかわらず、彼に対して陰謀を練った。しかしこれは明るみに出て彼は妻共々市から追放された」(XIII. 15; p. 366)。

「コンスタンティノス8世によって将軍ニケフォロス・コムネノスが謀反の疑いをかけられて目を潰された。「そして彼はパトリキオスのバルダス(マギストロスのバルダス・フォカスの孫)及び幾人かの他の人たちと共に憤ると、密通者の一人を通して言い張って彼〔皇帝〕は自らに対する謀反の罪状をでっち上げ、即座に彼と共に悪態をついていた人たちもろとも彼の目を潰した」(XVII. 1. 372)。訳注8「コンスタンティノスはフォカス家の最後の者影響力を殺ぐという仕事を完遂させた。アンティオキアのヤーファは、フォカスとクシフィアスの共謀者は虜囚の身から解放され、それからフォカスの息子の一人の周りで陰謀が企まれ、これを皇帝が打倒したという異なった話を述べている」。

・ロマノス・スクレロス
「彼はマギストロスの顕官職に妹側の義理の兄弟で、我々がすでに述べたように [コンスタンティノスが] 目を潰していたロマノス・スクレロスを登位させ、長らく追放されて自発的にストゥディオス修道院での修道院生活を送っていたニケフォロス・クシフィアスを久方ぶりに受け入れた」(XVIII. 1. 375)。

ゲオルギオス・マニアケス
バシレイオスの死に伴ってサラセン人が対立行動を起こし、1029年10月31日(アラブ側の史料では7月15日)にシリアでアンティオキアの司令官ミカエル・スポンデュレスがミルダース朝(the Mirdassides)のアレッポの君侯に敗北する。
ロマノス自ら率いる遠征軍はアレッポの北、アザジオン(Azazion/Aazaz)で1030年8月2日(あるいは10日)に破れた。
「ゲオルギオス・マニアケスはこの時テルク・テマ〔註39「Telouchはアレッポとマラシュの間の町」。〕の司令官だった。追撃から戻ってきた800人のアラブ軍が完全に思い上がった状態で彼の許へとやってきて、皇帝は捕らえられてローマの全軍は完全に撃滅されたとして可及的速やかに降伏して市を明け渡すよう命じた。彼はその明らかな危機へと自らを投げ込む必要はなかった。夜が明ければすぐに彼と彼と共にいた者たちは包囲されて容赦なく撃滅されていただろう。ゲオルギオスはその警告を受け入れて彼の言う通りにするふりをした。彼は彼と彼と共にいた者たちがそのみを引き渡してアラブ人をローマ人の全ての金もろともテルクの主にする夜明けまでの間、休むようにと言って彼らに食料と飲み物の蓄えをふんだんに運んできた。彼の言葉と行動に騙されて明日に全てを受け取ることができると期待し、彼らは酒を飲んで酔っぱらい、安全のことなど毫も考えることなく夜を過ごした。しかし真夜中に彼らが酔いつぶれて何も案ずることなく眠っているところへとゲオルギオスは攻撃をかけて皆殺しにした。彼はローマ人の財産の全てを乗せた280頭のラクダを捕らえた。彼は死者の鼻と耳を切ってカッパドキアの皇帝(敗走の後に彼はフォカス家の所領に到着してそこに滞在していたからだ)の許へと送った。皇帝は彼の行いを是認して彼を下メディア〔註40によれば「ユーフラテスの向こうの町々(サモサタあたり)のテマと置換できる」〕のカテパノに任じた」(XVIII. 6)。
1031年。「そしてその年にグデリオス・マニアケスの息子、プロトスパタリオス、ユーフラテス沿いの諸都市の司令官であり、サモサタに居住していたゲオルギオス・マニアケスがオスロエネのエデッサ市を落とそうとした。この都市はミエフェルケイム/マルテュロポリスのアミールに委ねられていたトルコ人のサラマン〔Sulayman ibn al Kurgi〕によって支配されていたが、彼は贈り物、約束と栄誉によって買収されて真夜中にそこをマニアケスに引き渡した〔1031年10月〕。マニアケスは三つの堅固に要塞化された塔を確保し、包囲軍気取りの相手を孤立無援でありながら猛然と撃退した。ミエフェルケイムのアミールのアポメルバネス〔Nalr ad Doula ibn Marwan〕はそれらの陥落を知ると、即座に相当数の軍勢を連れて塔を包囲したが、ゲオルギオスは頑強に持ち堪えた。アミールは撃退されて為す術もなく途方に暮れた。彼は最も見事な建物を荒らしてその都市にあった美しいものを、大教会そのものさえ略奪した。彼は最も見事な文物をラクダに載せ、市の残りのものには火を放ち、マルテュロポリスへと戻っていった。今や行動の自由を得たマニアケスは市の中心の険しい岩山の頂上にある砦を占領し、外側から軍を呼んで市の保持を確固たるものとした。そして主イエス・キリストがアブガルに宛てた自筆の手紙を見つけると、彼はそれをビュザンティオンの皇帝に送った」(xviii. 13; p. 365)。
「マニアケスはエデッサから皇帝に [金] 50ポンドの年賦の貢納を送った」(xviii. 16; p. 366)。
1034年、「彼〔ヨハネス・オルファノトロフォス〕パトリキオスのゲオルギオス・マニアケスをエデッサから転任させ、Vaspurakanとしても知られる高地メディアを統治するために送り、その一方でレオン・レペンドレノスをエデッサへと派遣した」(xix. 6; p. 374)。
1035年。「シケリアの支配者アポラファル・ムクメト〔Ahmed al-Akhal〕が皇帝と同盟を結んでマギストロスの称号で称えられた。彼の弟アポカプス〔Abu Hafs〕が彼に対して反乱を起こし、破れると彼は公邸に救援を求めた。パトリキオスのゲオルギオス・マニアケスが軍と共に全権将軍としてロンゴバルディアへと送られた」(ibid, 9; p. 375-376)。ただし、マニアケスはヴァリャーグ兵、ロシア人、ノルマン人の傭兵、ロンゴバルド人と東方のテマからの幾つかの部隊と共にシケリアに到着した(註28)。そして、「フィラレトス伝によれば彼は帝国全土から兵を集めるようにという皇帝の命令を受けていた。スキュリツェスがマニアケスがその時にシケリアに到着したと言っているのは誤りである」(註29)。「皇帝の姉妹の側の義理の兄弟であるパトリキオスのステファノスが艦隊を率いて彼と共に向かった」(ibid, 9; p. 376)。
1036年。「シチリアでは、上述のように、二人の兄弟が互いに争っており、アポラファルが優勢に立つと、他方の兄弟はアフリカの支配者ウメルに助けを求めた。ウメルはもし島の幾らかの所有物を受け取れるならば、彼と共に戦うと約束した。シケリア人は快くこれに同意した。彼が到着してアポラファルと戦い、アポラファルと共に戦うべくパトリキオスのゲオルギオス・マニアケスと共に送られていた軍が遅れていたために彼は完全に打ち負かされた。アポラファルはロンゴバルディアの支配者レオン・オポスのところまで逃げて彼に救援を求めた。レオンは手元にあった軍を集めてシケリアへと渡り、アフリカの指揮官との遭遇戦でのいくつかの勝利の結果、敵の決然たる進軍を押しとどめることができた。しかしそれから兄弟が互いに和平を結んで団結してローマ軍に攻撃をかけようとしていることを聞くと、彼は15000人のローマ人捕虜を船に乗せてイタリアへと戻り、母国へと散らせた。カルタゴ人は今やシケリアに自由に滞在できるようになり、そこを彼の都合の良いように略奪した」(ibid, 11; p. 378)。
1037年。「二兄弟が互いに講和して彼を島から追い出すことに狙いを変えてすぐにゲオルギオス・マニアケスはシケリアに到着した。彼らはアフリカから5000人の同盟軍を呼び寄せ、彼らが到着するとレマタで激しい戦いが起こり、マニアケスはカルタゴ軍をほとんど敗走させた。殺戮のあまり、あたりを流れていた川は血に染まった。彼はシケリアの13の町を落とし、それから徐々に島全域の征服を進めていった」(ibid. 16; p. 380)。
1040年。「シチリアでは、カルタゴ人〔Abdallah ben al-Mu'izz〕が再び奮起し、以前以上の軍勢を集結させてマニアケスをそこから追い出そうとしてシチリアへとやってきた。彼はドラギナイ〔今日のTroina〕と呼ばれる傾斜した平野に陣を張ってそこで戦いの開始を待ちかまえた。これを知ると、マニアケスは手始めに我々がすでに述べたところの皇帝の義理の兄弟で艦隊を指揮していたステファノスに戦いが開始されれば、破れたカルタゴ軍が気付かれずに逃げ去ったり母国に戻れないようにするために沿岸を確保するよう指示を与え、配下の軍を動員して彼と一戦交えるべく向かった。戦いが始まって敵は手酷く敗走させられ、大勢のアフリカ人(数にしておよそ5000人)が死んだ一方で彼らの首領は危険から逃げ仰せて沿岸に来て、高速のヨットに乗り込んで(ステファノスの監視を知らずに)母国へと去っていった。マニアケスはこれを知ると激怒した。ステファノスが彼との会談にやってくると、彼は度を超して手酷い叱責をして彼を鞭で打ち、頭を何度も打った。彼は彼を皇帝の意向を裏切った怠惰な臆病者呼ばわりした。ステファノスはその暴言と嘲弄を軽く見なさず、遅延することなくオルファノトロフォスにマニアケスは皇帝に対する謀反を企んでいると忠告する手紙を送った。マニアケスはパトリキオスのバシレイオス・テオドラカノス共々即座に逮捕されて首都へと送られて投獄された。全指揮権はステファノスと彼と共同するために送られた宦官バシレイオス・ペディディアテスに移った。当然の流れとしてこの二人は全ての状況を破滅へと追いやって貪欲、怯懦そして無警戒とによってシチリアを失った。マニアケスは島の町々を落とすとそれらに砦を築いてそれぞれに十分な守備隊を置いており、これが土着の人々が攻撃によって都市を奪回するのを防いでいた。しかし今や(すでに述べたように)彼が囚人になってビュザンティオンへと去るや土着の人々は指揮をする将官らの小心と怠惰に乗じた。彼らは幾人かのカルタゴ人と同盟して諸都市を攻撃した。諸砦を破壊するや否や彼らは防衛軍を打ち破り、メッシーナを除く全ての都市を再占領した。ここにはアルメニアコン・テマの部隊を指揮しており、防衛の任についていたプロトスパタリオスのカタカロン・ケカウメノスがいた。彼の許には300騎の騎兵と500人の歩兵がいた。……かくしてマニアケスによって瞬く間に打ち破られたシチリアの全域は、司令官たちの無頓着と無能のおかげであっという間にサラセン人によって再占領されてしまった。メッシーナだけが(上述のようにして)保たれ、ステファノスとペディアテスはロンゴバルディアへと逃げ帰った」(ibid. 20; p. 381-383)。
1042年。ミカエル5世が帝位を追われ、ミカエル4世の妻でミカエル5世の義母だったゾエが修道院から復帰した。「彼女はミカエルによってすでに虜囚から解放されていたゲオルギオス・マニアケスにマギストロスの地位が付いたイタリア軍の全権将軍とする手紙を送った」(xxi. 1; p. 397)。
「すでに述べたように、マギストロスのゲオルギオス・マニアケスはそこの情勢を安定化させるために女帝ゾエによってイタリアへと送られていた〔注20 マニアケスは1042年の4月にオトラントに上陸してノルマン人がOria地方を略奪していた一方でその町に封じ込められていた。〕。それというのもあらゆることが弱々しい状態になっており、土地はそこの指揮官たちの無経験と無能のために酷い害悪を被っていたからだ。今やゲオルギオスは謀反を企てるに至り、この本に出会う人に正確な情報を提供するためにその理由は語る価値があることである。ミカエル帝によって彼が最初にイタリアに送られた時は、彼の兄弟とアフリカ人 [Zirids] と戦っていたシチリアの支配者アポラファル・ムクメトを支援するためであった。ゲオルギオスにはアルプスの向こう側のガリア人から集められ、宗主権を認めていなかった支配者のアルドゥインという名の男によって率いられていた500人のフランク人が加わっていた。彼らと共に彼はサラセン人に対して勝利を得た。次いでゲオルギオスは無実の罪で告発されて指揮から解任され、都市へと送られて牢獄に投げ込まれた一方でプロトスパタリオスのミカエル・ドケイアノスが彼の代わりにイタリアを統治するために送られ、この無能な男には公的な事柄を管理する力がまるでなかった。彼は瞬く間に全てに混乱と災難をもたらした。彼はその時にフランク人に毎月の手当を支給せず、彼らが言うように最悪の結果をもたらした。彼らの指導者が兵士を思いやりを持って使って彼らから彼らの働きに対する報償を奪わないでほしいと頼むと、彼は彼を罵って鞭打ちで屈辱を与え、これが [フランク人の] 反逆をもたらした〔注22 イタリアの原典では、イスラム教徒から分捕った戦利品についての口論からアルドゥインはマニアケスに背いた。にもかかわらず彼は帝国軍で働き続け、このために彼はおそらくミカエル・ドケイアノスによって彼のイタリア到着の後、1040年10月にメルフィのトポテレテス〔topoteretes〕(守備隊長)に任命された〕。アルドゥインは1040年11月にメルフィで反旗を翻してノルマン人を率い、イタリアの帝国領に大動乱の時代をもたらした。〕彼らが武器を取ると、ミカエルはしぶしぶながら全ローマ軍を集結させてフランク人と会戦した。彼は一部隊(オプシキオン兵)とトラケシオン兵の一部を連れ、昔ハンニバルがローマの大軍を粉砕したカンネーの近くで彼らと矛を交えた」(xxi. 3)。

官職(「」内は試訳)
Anthypatos:proconsular dignityのギリシア語。パトリキオスより一段下がる控えめな地位(p. 373, note 8)。
Asekretis:「秘書官」帝国公文書庁の秘書官の一つで、Protoasekretisの指示に従う。
Elates:帝国艦隊の漕ぎ手。
Eparch:「首都長官兼判事」。コンスタンティノープル長官で、皇帝不在中の首都を統治し、市場(とりわけ絹市場)を管理し、首都内の外国人居住区を監督し、首都と郊外における刑事と民事の裁判を行う法廷を主催した。
Epeiktes:「馬丁」。馬屋長官の下で働き、馬と荷駄獣の供給を担う官職。この地位はいくつかの活動と結びついているが、その全てが軍事的なものというわけではない。
Katholicos:特定の東方協会、とりわけアルメニア協会の長の称号。
Kleisourarch:kleisura、つまり山道や道を守る部隊の軍事司令官。
Koubilarios:皇帝の寝室に駐在する宦官。Parakoimomenosの命令に服する。
Kouropalates:「宮殿管理官」。元々は宮殿の管理人だったが、6世紀からは高位の名誉称号になった。11世紀の中頃までこれは帝国における最高の地位の一つであり、通常は皇族によって占められる。イベリアとして知られるグルジア地方を支配する人物が伝統的にkouropalatesに任命される。
Logothete of the drome:「外務大臣兼属州監督官」。外国の使節への応対の任に当たる帝国の省庁の長官。属州の人々の心境の報告書を作成して彼らを支配する官吏を監督し、外務大臣であり、スパイの長官であった。
Manglabites:皇帝の「革紐持ち」。
Mesazon:皇帝の相談役の長に与えられる名称。この称号は公的なものではなく公文書にも印章にも見あたらない。
Mystikos:皇帝の私設秘書(p. 175)。
Nobelissimos:副帝に次ぐ称号(p. 392; note 9)。
Oikonomos:教会にて、通常は教会の動産を管理する司祭。ロマノス3世の治世のn. 1を見よ。修道院では制度運営の任に就く修道士である。
Paradyasteun:この称号は公的な地位ではなく、Taktikaでも見あたらない。それは皇帝が帝国の統治において彼を補佐するために選んだ人物を指している。
Parakoimomenos:「寝室管理官」。通常は宦官で、皇帝の寝室を管理するため、国家における最も影響力のある人々の一人であった。
Praepositos epi tou kanikleiou:文字通りにはインク壷の管理官で、つまるところ皇帝が秘書長官が準備した書類に署名する紫のインクが入った壷を保存するが、実質は皇帝の署名が本物であると証明する。
Protoasekretis:「秘書長官」。Asekretisの長、帝国公文書庁の長官で、皇帝の法令の完成原稿の作成を担う。
Protospatharios:「第一の剣持」。テマの司令官とそれに似た地位の者に付与される称号。元老院に最初に入ることができる爵位で、11世紀から衰微する。
Protostator:祭礼の際に皇帝に同行する皇帝の首位の馬丁長。やがてこの語は騎兵の総司令官を示すようになった。
Quaestor:相続権と遺産相続の問題に特化した法廷を主催する判事で、新法の立法にも関わる。
Sakellarios:国家の財務の会計検査官。彼はchrysocheion(金の延べ棒の倉庫)を管理する官職でもあった。
Sebastophoros:皇帝の側近の宦官に与えられる不適切に定義された称号で、11世紀には権威のみになった。
Teicheotes:「城壁伯」、宮殿の城壁の維持を担った。
Vestes: 元々は皇帝の衣装箪笥の関わる人物(宦官とその他)のために10世紀に創設され、protovestesとvestarchesと簡単に区別できない名誉称号。

組織
Exkoubitors:首都の防衛を担う四つの部隊(タグマ)の一つで、他のものはスコライ、巡視隊とヒカナトイで、その各々はドメスティコスによって指揮されていた。
Hetaireiai:時折君主の身辺警護を担う部隊(恐らく四部隊で、一部は外国人)。
Hicanatoi:809年にニケフォロス1世によって新設された首都防衛部隊。


小林功『生まれてくる文明と対峙すること』
1章
360年代後半からの対アラブの強硬路線化:また非カルケドン派との合同(単一エネルゲイア論の採用)が神の怒りを買ったために相次ぐ負け戦が生じたと考えられたため、直接対決を回避しようとしたヘラクレイオスのキリスト教世界の守護者としとのイメージが損なわれ、ヘラクレイオスの指導力が弱まりコンスタンティノス3世ら強硬派の発言力が増した。このため、ヘラクレイオス死後にはマルティナやアレクサンドリア主教キュロスら直接対決回避派が失脚した。
2章
マルティナ、ヘラクロナスへの反感の理由は近親婚のみならず対アラブ融和策、単一エネルゲイア論に対するものがある。コンスタンティノス3世の息子ヘラクレイオスのコンスタンティノスへの改名はマルティナ、ヘラクロナスが継続しようとした「ヘラクレイオス的」からの決別、ヘラクレイオスではなくコンスタンティノス3世の後継者であるというアピールでもある。
3章
640年代にはエジプト以外の領土を失わなかった。ビザンツ側の強硬路線における反撃はしばしば失敗した。アラブの度重なる攻撃は彼らが略奪と貢納だけで満足したため、ビザンツ側は小アジア防衛体制を構築できていなかった(軍は最前線に展開されていた)にもかかわらず均衡が生じていた。
4章
アラブがペルシアの抵抗勢力を掃討して東方に展開していた軍を西方に移せるようになったこともあり、ビザンツ征服を目指すようになった。
このため、ビザンツの強硬路線維持が困難になり、さらに651年には人質と貢納を定めたビザンツ不利な3年期限の休戦条約を結ぶことになり、アラブを一時的な襲撃者ではなく隣人、それも自分たちより強い隣人として認識するようになった。この猶予でコンスタンスは意向を無視できない軍人などの粛清をした。
654年のコンスタンティノープル包囲失敗はアラブにとっては初めての敗北で、この余波でカリフのウスマーンが殺され、第一次内戦が起こった。
5章
コンスタンス2世はコンスタンティノープルからアラブ軍を撃退した後、一時的に脅威が減退すると小アジアの防衛態勢構築、コーサカス遠征、コンスタンティノープルの後背地確保などを行い、次に西方へと目を向けた(ローマ教会との関係強化)。シチリア(農業生産が多く、貴重な税収源)行きは北アフリカのアラブ人に備えて艦隊を設置するため。
6章
660年代からアラブ人は中継地を経由しつつ一気にコンスタンティノープルを突く戦略からまず小アジアを略歴・荒廃させてビザンツ帝国を疲弊させた後にコンスタンティノープルを攻める戦略に切り替え、小アジアは深刻な被害を受けた。663・664年に小アジアに侵入していたにもかかわらずコンスタンティノープル包囲が667年までなされなかったのはマストの海戦で消耗し、内戦中には整備が行われなかった艦隊を再建するため。
660年代から小アジアでアラブに対する抵抗が始まったのは、諸都市の城壁強化など防衛態勢の強化、コンスタンスが軍を西方に引き抜いたために兵力不足が起きて籠城戦術を採らざるを得なくなったこともあるが、654年の勝利が神の加護によるものとみなされ、アラブも無敵ではないことが認識され、小アジアの人々の士気を高めたため。
7章
667-669年のコンスタンティノープル包囲を撃退した後、670年代にビザンツ帝国は段々と守勢から攻勢へと転じるようになり、エジプトやシリアを攻撃するようにもなった。反撃の原動力はコンスタンス2世がシチリアで創設した艦隊で、コンスタンティノス4世がこの艦隊を東方に振り分けたためである。
終章
ユスティニアヌス期の帝国の変容:都市が衰退し(都市参事会員ら地域政治のエリートの没落)、都市による周辺村落への支配が弱まり、村落部の繁栄が進展した。寒冷化による人口減少。首都への居住義務のない下位の元老院議員が地方統治を担い、大所領を形成し、新たな支配層となった。中小農民が彼らの庇護下に入り、さらに地域住民にとって彼らこそ国家権力の体現者となった。中央政府と住民の距離が広がり、離心的傾向が生じると同時に中央政府も地域の有力者に地方行政を依存していた。カルケドン派と非カルケドン派の調停の失敗、ギリシア語とギリシア語による教養の影響力が非カルケドン派優勢地域で低下し、アラム語やシリア語、コプト語等土着言語が非カルケドン派信仰と結び付き東方属州に独自のアイデンティティや政治文化が生まれた。


ジュディス・ヘリン『ビザンツ 驚くべき中世帝国』
・キリスト教徒はなぜ殉教を恐れなかったのか
「同時代人とは違って、イエスの弟子たちは死は終わりではないと確信していた。彼らは平和で光に満ちた天国に昇ることになっていた。この信条によって彼らは正しいキリスト教徒としてふるまうよう促された。すなわち、罪を避け、信仰と慈悲を勧めることで、神によって来世における永遠の命に値すると認められるのである。キリスト教徒を、ユダヤ人や多神教徒、それに紀元後最初の数世紀に栄えていたそのほかの信仰と区別したのはこの信条であった。
 キリスト教徒のあいだで、信仰を否認するぐらいなら死を選ぶ者が現れたのもこの信条のためであり、この点をローマ帝国当局はきわめて異常なこととみなしていた」(p. 59-60)。

・イコノクラスムの始点:神の加護を取り戻す
「アラブ人が軍事的成功を続けていたので、イコンに対して向けられた偶像崇拝という非難は、ある程度の共感を得ていた。というのも、イスラーム教徒は、像を刻んではならないという旧約聖書の戒律を遵守していたからである」(p. 134)。
「ビザンツ人は、神が戦闘における勝利を与えてくれること、かつて神の支援によってかのペルシア帝国を打ち負かしたことを知っていただけに、いまやどうして神がアラブ人に勝利を授けるのかを問わざるを得なかった。神を恐れる民であったがゆえに、自分たち人間の過ちは、神が不満をもっているからだと説明しようとしたのである。
 七二六年、エーゲ海の深海より大規模な火山の噴火が起こり、煮え立つ溶岩と『丘ほどもある』軽石を空中へと噴き出した。これらは数日間にわたって大空を暗くし、続いて小アジア、ギリシアや島々の岸辺に流れ着いた。テラ(サントリーニ)島とテラシア島の間には新しい島が出現した。レオンがこの不思議な兆候は何を意味しているのかを怪しむと、彼の助言者たちはこれを偶像崇拝への警告であると解釈し、教会や公共の場所においてイコンを禁じるように忠告した。小アジアのナコレイア主教のコンスタンティノスがすでに、アラブ人によって包囲された諸都市を守るのにイコンが役に立たなかったと警告していたことや、霊験あらたかなはずのイコンが期待された奇跡を起こさなくなったことを、レオンが知っていたのかどうかは定かではない。ただし、件のコンスタンティノスはレオンの助言者であったことが、のちにわかっている。イコンへの過度な崇敬――それは偶像崇拝と瓜二つである――によって神の恩恵が停止されている、と認識したレオン三世は、年代記作者テオファネスが述べているように、『聖なるイコンに反対し始めた』。テオファネスはまた、七二二/三年にカリフのヤジードがキリスト教芸術の破壊を命じたことに言及し、レオンは同じ考えを抱いた『サラセン魂』である、と主張している。けれども、レオンにとって、アラブ人に対する戦闘において神の支援を確保する必要があったし、聖像崇拝を禁止することが神の支援の条件だというなら、聖像破壊が実行されなければならなかった。聖像崇拝の禁止は、ビザンツの存亡の瀬戸際において神の加護を再び手にする方策として始められたのである」(p. 148-149)。

・軍事的勝利とイコノクラスムの結びつき
「遠征は大きな成功を収めて、彼〔コンスタンティノス五世〕の軍事的勝利の結果、勝利する帝国という観念は聖像破壊の宗教政策と融合し、これらの戦争に従軍した者たちはしばしばその熱烈な支持者となった」(p. 152)。
「しかし、聖像破壊の影響を受けたもっとも重要な分野はおそらく軍隊であろう。とりわけ、コンスタンティノス五世の指揮下にいた兵士たちは、八世紀半ばにコンスタンティノスに率いられてアラブ人やブルガール人に対して大勝し、確信的な聖像破壊派となったのである。彼らの目には、正しい聖像破壊の神学が外敵に対する軍事的勝利をビザンツにもたらしたと映った」(p. 158)。
「八一五年、皇帝レオン五世(在位八一三-二〇年)によって再会された第二次聖像崇拝禁止は、軍事的な成功の約束と密接に関わっていた。軍事的成功への期待はいまやコンスタンティノス五世と強く結びついていた。彼の業績を懐かしむ兵士たちが、聖使徒教会附属の墓廟にある皇帝の墓に押し入り、自分たちの英雄であるコンスタンティノスに勝利へと導いてくれるよう呼びかける、というやらせの事件もあった」(p. 153-154)。

・イコノクラスムまとめ
「ビザンツ人が聖なる画像に敵対した七三〇年から八四三年は、イスラームの征服による挑戦、帝国の喪失や世界の終末の予感によって引き起こされた大変動の時期であった。ビザンツは新たな形態をとることで折り合いをつけ、存続の可能性に自信を持ったので、最初は七八七年、次いで八四三年と、皇后のエイレーネーとテオドラが主導してイコンへと回帰した。九世紀初頭のように脅威が感じられると、ビザンツは兵士たちが主導権を握って、軍事的勝利と密接に結びついた聖像破壊政策を採用した。八一五年から八四三年の第二次のイコノクラスムは、帝国の存在を脅かすさらに厳しい軍事的挑戦に対するビザンツ人の反応としてのみ説明が可能である」(p. 156)。

・ビザンツのネガティブイメージの起源
フンベルトゥスとケルラリオスの対立と相互破門、神聖ローマ皇帝に嫁いだテオファノの出しゃばり。「東方に対する西方の敵意は、聖霊の発出のような教義上の問題から、より日常的な関心事へと広がっていった。ビザンツの絹製品、宦官、フォークに強烈な反感を示したことに加えて、ペトルス・ダミアヌスは、カラブリア出身のギリシア系修道士ヨハネス・フィラガトスとの不道徳な行為についてテオファノを非難した――政敵を貶めるために企てられる典型的なやり方である。透けた絹のドレスをまとった女性の問題から、ビザンツ宮廷の男性用の長い官服が西欧のズボンと比べて男らしさに欠けると非難されるまでは、ほんの一歩であった。フォークから、油で調理したニンニク、タマネギ、ポロネギを用いる、といった類の奇妙な食習慣へと、そして、奇妙な食事から、宦官に宮廷儀礼を委ねる、さらに奇妙な慣行へと、さらに、宦官制度が普及していることから、ビザンツの男はみな、女々しく、戦争をしたがらない、という思いこみへと、偏見は拡大していった。こうした深い偏見は、乏しい情報に基づいた定型化した反ビザンツ観を育んだ。……しかし、そうした固定観念は、現代の歴史家に悪い影響をあまりにも強く及ぼしてきた。……今日ですら、一部の学者は、そこに含まれる偏見を問い直すことなく、こうした固定観念を再生産している」(p. 284)。
「ビザンツについての無知は、第四回十字軍をめぐる西欧人たちの議論にいまだに影響を与えている。西欧人は、ビザンツ帝国は活気がなく滅びかけた地域――一千年以上にわたって続く皇帝や戦いの連続、ただそれだけの世界――とみなす固定観念に寄りかかっている。帝国の内部の発展を生き生きと描けなかったビザンツ研究者の歴史学にも責任はあるかもしれない。しかし西欧中世史の専門家もまた、こうした退屈な歴史にしがみついている。ビザンツを干からびた、他とは共通性を持たない、細かく検討する価値もない国家とみなした、かつての啓蒙思想的な見解に寄りかかるのは、あまりにも安易と言わなければならない。 実証するのは難しいが、こうした固定観念の源流の一つは、一二〇四年にビザンツ帝国を襲った攻撃と破壊そのものにあると思われる。この事件には、帝国がみずから攻撃を招いてしまったという側面もある。……
 しかしここに至って西方世界は、キリスト教徒でありながら、残忍な虐殺や、キリスト教世界のなかでもっとも優美な都市コンスタンティノープルを破壊したことの説明、その正当化に迫られた。不信心なイスラーム教徒との戦いに向かうはずの軍隊が、どうしてキリスト教世界最大の都市へ向かい、イコンを焼き払い、教会を荒らすことになったのだろうか。西欧としては、ビザンツ帝国にはそれが当然だったという理由しかなかった。ビザンツ帝国とは、裏切りやすく、破滅の運命にあり、柔弱でどうにも許しがたい、ローマに服従しない、そういったものでなければならなかった。第四回十字軍の破壊や征服は、教皇インノケンティウスとその後継者、そして十字軍に参加した西方の君候や修道士たちに、ギリシア人はそもそもずるがしこくて油断できないという観念を再確認させた。ギリシア人は弱みを隠すためにいつも策略外交を駆使しており、戦うはめになると、とたんに臆病をさらけ出すというわけである。ビザンツの統治システムも不安定なものとみなされていた。なぜならビザンツでは反乱者が皇帝になったり、失政を犯した統治者が退位させられて目をくりぬかれる事態も生じたからである。このことはみずからの権威を強化しつつあったヨーロッパの君主たちの目には弱さと映った。ビザンツの旧態依然とした政治システムへの批判は、聖遺物・金銀製品・イコン・絹などへのあこがへと対になっており、それらの品物は、もっとふさわしい場所にあるべきだと考えられたこのようにして十字軍は自分たちの略奪行為を正当化した。存在するに値しない文化といわんばかりの、否定的で紋切り型の『ビザンツ』という用語は、一二〇四年の略奪に対する西欧の不正実な態度に由来しているのである」(p. 354-355)。
「とはいえ、ビザンツについての近代の類型的な理解は、臆病な女々しい男たちと堕落した宦官による専制政治である。空疎な儀礼と、果てしなく複雑で理解しがたい官僚制にとり憑かれた統治である。以上のような戯画を展開して、ローマ帝国の衰退の理由を説明しようとしたのは、十七世紀のモンテスキューであった。続いてヴォルテールも、宗教に対して理性を優越させようという熱意をもって、この戯画をさらに誇張した。モンテスキューは『ギリシア帝国』――彼はビザンツをそう呼んだのだが――を、修道士が大きな力を持っている、神学論争に熱中している、そして教会と世俗の問題の望ましい分離に欠けているという理由で退けてしまったし、ヴォルテールはビザンツを『人間精神の汚点』となんら憚ることなく非難した。たぶんふたりとも、ルイ十四世が専制君主の統治を称える手段としてビザンツを利用したことに反発したのであろう」(p. 423-424)。

・ビザンツの強さ
「破壊があまりにもひどかったので、ビザンツ帝国は二度の復活しないかと思われた。たいていの国家はこのような心臓部への一撃によって滅亡しただろうが、ビザンツ帝国は都を半世紀にもわたって占領されたにもかかわらず、いくつかの中心をとつ新たなかたちの複合体として再生した。ビザンツ文明の内的な活力のおかげで、帝国はさらに二百五十年にわたって存続することになる。
 このことは、本書を執筆する過程で発見したもっとも驚くべき事実のひとつである。私は一も二もなく、コンスタンティノープルが建築物や商業によって、すばらしい特別な都市として中心機能を果たすものと考えていた。行政・宗教から軍事・知的技術に至る広い側面において、ビザンツ文明が逞しい想像力や革新性をもっていたことを、これほど何度も書くことになろうとは思いもよらなかったのである。ビザンツは海上で爆発する秘密の火器を発明し、その秘密を何百年にもわたって守る能力があった。イコンの役割や位置づけ、宗教信条をめぐるきわめて重要な議論を生み出し、展開させた。ラテン的キリスト教世界とイスラーム東方世界が、ラテン語やアラビア語というそれぞれにとって神聖な言葉で聖書を伝えるべきだと主張していたときに、ビザンツは大胆にもギリシア語聖書を、ビザンツの学者自身が考案した文字でスラヴ語に翻訳した。スラヴ人の改宗を容易にするためであった。七百年にもわたって安定した金貨を鋳造し、貨幣制度を維持できるだけの統制力をもっていた。ローマ帝国の行政制度を維持しつつも、君主制の権力形態を発達させる創造性をもっていた。ローマ、異教、キリスト教、ギリシアのそれぞれの遺産を驚くべきやり方で組み合わせることによって、繰り返し困難な状況を迎えつつも、わずかな痕跡のみを残して姿を消すのではなく、復活する力をもっていた。ビザンツは、一般に言われるような決まり文句とは違って、活気に満ちた相違あふれる社会であり、強い自信をもっていた。
 コンスタンティノープルという偉大な中心を支えていたのが、この町を頂点とした文明に広く行き渡っていた力だったという見解は、ビザンツ帝国の首が刎ね落とされ、外国勢力による首都占領・支配という事態に、それぞれの地域が対応しなければならなくなったときに、その正しさが証明されることになる。……コンスタンティノープルが失われたことに対する反応はさまざまであったが、反応の強さや様相をみると、教育・行政・文化・軍事におけるビザンツ帝国の長い伝統の力、挑戦に対応できる力が確認できるのである。画一的、官僚的、軟弱、退廃、複雑怪奇、無能といった紋切り型のビザンツ観は、まったくの誤解だったようである」(『ビザンツ 驚くべき中世帝国』, p. 355-357)。

・11世紀の危機
「一〇七一年の敗北は、十一世紀代四半期にさかのぼる一連の問題という、より広い文脈のなかに位置づけられなければならない。第一の問題は、一〇二八年にコンスタンティノス八世が死んで以降の慢性的な情勢不安である。ひっきりなしの皇帝交代は、第二の問題によってさらに深刻となった。すなわち、国内の反乱と、非キリスト教徒の部族ペチェネグ人によるドナウ北方からの侵略である。ビザンツの正規軍だけでは不十分になり、傭兵部隊で補う必要が生じたとき、コンスタンティノス九世(在位一〇四二-一〇五五年)は、その経費を賄い、彼らの忠誠を確保するために、二十四金を下回る新たな軽量金貨を発行した。それは、ソリドゥス金貨が発行されて以来七百年、初めての重大な品位低下だった。これが第三の問題であった。そこには、軍事的弱体性と王朝の不安定さがもっとも有害な仕方で組み合わされていたのである」( p. 297)。


『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』
皇帝は神の代理人という神権政治(分離独立が起こらなかった理由?)(p. 39)。
神学論争からの解放と防衛に適した地形(p. 124-125)。
バシレイオスの後継者不在の理由とロマノス選出の理由は、軍隊や属州よりも宮廷人や王朝の利害を優先させる候補者を選び、戦功のある将軍を避けるため、アルギュロスが選ばれた(p. 229)。
バシレイオスの長い影:緩衝国ブルガリアの消滅によりペチェネグ人の矢面に。軍人貴族への警戒心が彼らの不満を生んだ。亀裂は文官と軍人ではなく都と属州に。
自称がローマ人から言語や民族により定義されるヘレネスに。普遍主義から地域的愛国心へ。安全保障を果たせない皇帝から小アジアの心が離れる(p. 298-299)。
教会合同は民族への裏切りと見なされ、これへの抵抗は民族の自己認識と結び付いていたこと、普遍主義の消滅の一側面(p. 303-304)。


井上浩一『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』
・「戦う皇帝」から「平和の皇帝」へ
「ユスティニアノス二世は、妃にテオドラという名を与えたほど、同じ名前の一世に心酔していた。しかし、さすがにユスティニアヌス一世のような制服称号を帯びることは断念し、平和をもたらす皇帝と称している。『戦う皇帝』から『平和の皇帝』へ、これもまたローマ皇帝からビザンツ皇帝への変化のひとつである」(同書, p. 62)。

・テマ
「テマへの言及は七世紀からみられるが、初期のテマについての記録は少なく、この制度の成立過程はよくわからない。起源を解明する手がかりは、軍管区の名称と所在地のずれにある。たとえば、アルメニアコイ(アルメニア)軍管区はアルメニアではなく小アジア東北部にあり、トラケシオイ(トラキア)軍管区もバルカン半島東南のトラキア地方ではなく、小アジア西南部にある。どうしてこのような現象が生じたのだろうか。  結論から先に述べると、このずれは、テマを生み出したのがアラブ人の侵入であったことを物語っている。アラブ軍の攻撃を受けたオリエント(シリア)軍団・アルメニア軍団は小アジアに撤退し、そこに防衛体制を敷いた。都の皇帝直属軍(オプセキウム)とバルカンにいたトラキア軍団も小アジア防衛に動員された。アラブの攻撃が長期にわたったため、各軍団はもとの駐屯地に戻ることはなく、そのまま小アジアに定着した。その結果、それぞれの軍団の管轄地が、その軍団名で呼ばれるようになり、軍管区が成立したのである」(『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』, p. 57-58)。
「七世紀後半から八世紀初め、各地のテマの反乱があいつぎ、帝位はめまぐるしく交代した。この時期のテマは、軍事権と行政権をあわせ持つ長官のもと、中央政府の統制のおよばない半独立政権のような様相を呈していたのである。このようなテマを国家の地方行政単位へと作り変えてゆく過程、それが八−九世紀のビザンツ政治史の歩みであった。
 ……レオーン三世の支配体制は、各テマがもっていた権限を完全に否定するものではなく、その連合体制の上に皇帝が立つというもので、皇帝専制国家というよりもテマ連合国家と呼ぶべきものである。
 テマ連合体制が首尾よく機能するためには、各テマを強力に指導できる有能な軍人皇帝が必要であった。……しかし幼くして即位したコンスタンティノス六世(在位七八〇−七九七年)や女帝エイレーネーとなるとそうはゆかなかった。彼らの時代には再びテマ反乱が勃発し、テマ連合国家体制は揺らぐ。
 しかしながら、八世紀末から九世紀初めの動乱は、一〇〇年前のテマ反乱とは違って、テマを完全に抑えて中央集権体制を確立するための産みの苦しみであった。それによって、レオーン三世、コンスタンティノス五世のような皇帝個人の能力に負うのではなく、皇帝が幼くてもまた無能でも、きちんと機能するような専制国家が確立してゆくのである」(p. 70-71)。
「対外関係が安定化するとともに、各テマの力を抑えて、皇帝権力を強化させる政策が順次実施されていった。
 まずなされたのは大きなテマの分割である。コンスタンティノス五世時代に、最有力テマのオプシキオンからブケラリオイ・テマが分離されたのをはじめとして、九世紀になると次々と分割が行われた。ひとつのテマの管轄区域は小さくなり、テマ長官の権限も縮小した。
 テマ分割と平行して、強力な中央軍団の創設もはかられた。アラブ人の侵入に対して中央軍団も小アジア防衛に投入してしまった結果、ビザンツ帝国は、宮廷の警備部隊を除いて、中央軍とよべるようなものをもたない状態が長く続いていた。テマの反乱にあっけなく皇帝が失脚したのもそのためである。
 九世紀になると、テマ長官に対する細かな統制の行われるようになった。出身地に任命しないことや、任期を三〜四年に限ることなどである。任地での婚姻や土地取得も禁止された。テマ長官はなお文武の両権を握っていたが、長官のもとで行政を担当する役人のなかには、中央政府から派遣される者が増えてきた。これもまたテマ長官の権限を制限するのに有効であった。
 これらの方策によって、かつでのテマ長官のような、長期にわたってその地位にあり、地方で大きな勢力を持つ人物は現れなくなった。八二〇〜八二三年のスラヴ人トマスの乱を最後に大規模なテマ反乱はなくなる。ビザンツ帝国は皇帝専制体制のもとで安定期を迎えるのである」(p. 71-72)。

・11世紀の危機
「危機の根底にあったのは貴族たちの成長である。すでに十世紀に名門家系が成立していたことは名字の普及が示している。しかし当初は、官位の印章には名字を記さないのが慣例であった。『皇帝の奴隷』たる者は姓を名乗るべきではないというわけである。ところが十一世紀になると印章でも名字が用いられるようになる。そこには『皇帝の奴隷』から脱却してゆく貴族たちの姿が窺える」(p. 142-143)。

・ブルガリア経済
「都市は発展せず、貨幣もほとんど用いられていない。農民たちは現物で租税を納めていた。貨幣経済の発達していたビザンツ帝国に隣接し、コンスタンティノープルとも活発な交易をおこなっていたにもかかわらず、なぜブルガリアは自然経済にとどまったのであろうか。
 ブルガリア王国はビザンツ貿易に熱心で、穀物・家畜・亜麻・密などの農産物を輸出し、ビザンツの絹織物・貴金属細工品を輸入していた。注目すべきは、ブルガリア王が自国の商人に特許状を発行していたことである。租税として集めた農産物を特権商人の手でビザンツ帝国へ輸出することによって、王は富を蓄積した。それだけではなく、見返りとしてもたらされた絹をはじめとする奢侈品は、臣下の貴族に分配され、王の権威を高める手段となった。
 対ビザンツ貿易を独占するために、王は国内の商品流通を抑止した。国内の経済発展を押しとどめることが、ブルガリア王権の強化と、農村の貧困、貨幣経済の未発達の原因となった。
 ビザンツ帝国に近接し、その影響を強く受けたにもかかわらず、ではなく、受けたゆえに、ブルガリアは長く自然経済にとどまったというべきであろう。まさに両者はひとつのシステムを構成していたのである。このあとブルガリアは、ギリシア正教への改宗、ビザンツ帝国への併合によって、宗教的にも政治的にもビザンツと一体となる」(p. 91)。

・軍人貴族の乱の背景
「イサキオス・コムネノスの乱を始めといて、十一世紀に繰り返された貴族反乱は皇帝に対してふたつの要求を掲げていた。『気前よくあれ』と『節度をもて』である。ここには移りゆく時代の貴族の姿が反映されている。
『気前よくあれ』とは官位を与えよ、昇進させよということである。一〇五七年のコムネノスの乱のきっかけは官位の要求であった。皇帝の恩恵に与りたいというこの姿勢には、『皇帝の奴隷』の名残をみることができる。
 これに対して、一〇七七〜七八年のブリュエンニオスの乱は穀物専売政策に対する不満から始まっている。反乱貴族の主張は、我々の農業経営を妨害するなということであった。皇帝といえど侵すべきではない世界がある、『節度をもて』というわけである。
 おおざっぱにいって、十一世紀の貴族反乱は、官位の獲得からイエの経営へとその課題を移していった。この変化は新しい時代の到来を告げている。貴族たちが官位をめぐって相争う時代から、イエの経営者としての共通の利害を自覚し、団結して帝国を支配する時代への転換である」(p. 148-149)。


ロバート・ブラウニング『ビザンツとブルガリア』
ブルガリア経済の発展阻害要因:多くの職人が有力者の従属者だったこと、生産力の発展による余剰物がビザンツの贅沢品と交換されたこと(「余剰は課税あるいは様々な封建的義務によって抜き取られたのである」(p. 268))、工業生産の多くが軍需に転用されて市場への販路をあまり持たなかったこと、国境が関税を得る場ではなく軍事的な防御地点だったこと。

・ブルガリアのキリスト教改宗の理由
1. 貴族内でのキリスト教徒の増加。
2. 異教を信仰した状況ではキリスト教諸国との正式な外交関係を結べなかった。
3. ブルガール人とスラヴ人の軋轢、後者による前者の吸収に対処するための中央集権化。
4. 支配権の正当化。

ブルガリアはキリスト教の受容によって帝国の政治的・文化的支配を受けることなく、キリスト教の利点を享受するというジレンマに直面した。ボリス1世はこれにかなりの成功を収めた。

ブルガリアで成立した教会は大土地所有者であり、聖職者は支配階級の貴族階級から供給され、これまでの貴族がそうしたように教会もまたブルガリア農民を搾取した。この改宗間もないブルガリアにパウロ派やマッサリアノイ派などの信徒がアジアから強制移住させられた異端、レウキオス派などが入り込んで農民たちの社会不満を吸収した。

ビザンツ帝国は核家族と国家・教会の間の中間的コミュニティ(村落共同体や部族)が消えており、「奇妙に孤立していた」(p. 260-261)。
『世界歴史大系ドイツ史1』
16世紀のドイツ経済の衰退の原因:諸外国が自国産業の振興を期したことから国外におけるハンザ商人の特権が剥奪され、彼らは国外の拠点を失った。ネーデルラントやイギリスがハンザ商人の仲介を経ることなく直接バルト海商業圏と取引を始め、カール5世はハンザ商人を犠牲にしてネーデルラント商人のバルト海自由航行権を容認した(p. 482)。フッガー家やヴェルザー家は安定しリスクの少ない土地への投資に方向転換した。
根津由喜夫「十世紀小アジア貴族の世界」
・スクレロスは反乱においてアルメニア系貴族やツィミスケス時代の人脈・遠征軍を継承して戦い、バシレイオス・レカペノスはツィミスケス時代に下野したフォーカス・マレイノス、寝返ったブルツェスなどを利用してスクレロスと戦わせた。とどのつまりは貴族同士の争いに他ならない。バルダス・フォーカスの破滅に伴い、マレイノス家の当主エウスタシオスは首都に連れて行かれて飼い殺しにされ、彼の死後に残された所領と財産は国庫に押収された。
・バレイシオス2世は貴族たちから彼らの権勢の源であった土地と高級軍事官職を奪って自らが総指揮権を握って副次的な軍事官職には子飼いの新興軍人たちを起用した。フォーカスは衰え、スクレロスは宮廷貴族化し、ブルツェスやメリッセノスは12世紀まで続いたとはいえ往時の面影はなかった。しかしバシレイオス帝が起用したコムネノス、ドゥーカス、ディオゲネス、ボタネイアテスといった新興軍人層が10世紀の有力貴族を受け継ぐ存在となった。
根津由喜夫「11世紀ビザンツ属州貴族と地域社会」(2017)
・アドリアノープルは北方からの敵から帝都を守る要塞都市として人や金が流れ込んで成長したが、平和によって西方軍の削減や俸給カットが行われた。こうしたアドリアノープルに根を張る西方軍の軍人貴族の不満がトルニキオスの乱の背景となった(反乱のきっかけはペチェネグ人をブルガリア地方に入植させて国境警備を任せ、バルカン駐屯の正規軍の一部を解雇したこと)。
・トルニキオスの敗因は人的紐帯の弱体さ。トルニキオスの乱に加わった西方軍事貴族たちには一般民衆を動員したり結集させる能力はなく、免税という利で釣るしかなかった。当然彼らは旗色が悪くなれば彼らから離れた。西方軍事貴族も一枚岩ではなく、ライデストスのヴァタツェスが抵抗したり、終盤に裏切りが続発するなど結束は強固ではなかった。「この時期のマケドニア貴族は、国家からの官位・官職の授与に依存する緩やかな連合体にすぎず、地域社会に深く根を下ろして中央と対決するほどの力量も意志も有してはいなかったのである」(p. 50)。 ・対ペチェネグ戦争を通してブリュエンニオスが頭角を現す。中央からも信任され西方軍を掌握して一躍アドリアノープルのリーダーとなる。1057年に陰謀の廉で目をえぐられるが、イサキオスによってクロパラテスに叙任され、1071年には西方軍司令官となる。ロマノス4世の東方作戦では同じくマケドニア貴族のヨセフ・タルカネイオテスと共に敵を誘い込んで焦土作戦で疲弊させた後に撃破すべしと説くが(用意かつ確実に敵を討ち取りたいというバルカン貴族の願望)、本拠に敵を誘い込みたくないロマノスを含む小アジア貴族は反対。結果、敗北。 ・マンツィケルト後にタルカネイオテスはマギストロスからプロトプロエドロスに昇進し、ブリュエンニオスは昇格こそされなかったがデュラキオンの長官に任ぜられる。「ここには、マケドニア貴族たちのもつ軍事的能力を最大限に利用しつつ、有力家門同士を競合させ、彼らを統制しようとする皇帝の思惑がはっきりと読み取れるのである」(p. 53)。
・軍人の俸給カット、城塞都市への補助金撤廃、とりわけライデストスの穀物専売政策(トラキアの穀物は強制的に取引所に集められ、その仲介で売買しなければならなくなった)。軍人貴族と民衆の不満を背景にヴァタツェス家の女当主ヴァタツェナと共にブリュエンニオスは反旗を翻して皇帝の名乗りを上げる。アドリアノープルで孤立したタルカネイオテスはブリュエンニオスに寝返った。
・ブリュエンニオスの乱ではトルニキオスの場合より遙かにマケドニア貴族の団結、地域社会での影響力が強化されていた。しかし、この勢力は彼らの家産組織自体ではなく、正規軍の識見を押さえていたことによるもので、中央への依存は残っていた。とはいえ、アレクシオス・コムネノスに敗れて当主のブリュエンニオスが捕らわれた後にもマケドニア貴族は団結を維持し、決起以前の名誉と財産を保持した上で矛を収めるという譲歩を引き出した(小アジアをトルコ人に蹂躙された小アジア軍の衰弱という事情もあるのだが)。
・帝位をニケフォロス3世から奪ったアレクシオスはブリュエンニオスからすれば周辺的な貴族や旧トルニキオス派などを起用してブリュエンニオスへの対抗勢力に仕立て上げてマケドニア貴族を分断しようとしたが、起用した将軍たちの戦死やクマン人の侵入を受けてブリュエンニオス家をはじめとするマケドニア貴族の既得権益を承認して彼らからの指示を確保する方針に転じた。
『中世教皇史』
 アイストゥルフにより751年にラヴェンナが最終的に陥落し、ローマ公領に重税を課し、自らの裁判権の下に置いた。ビザンツは助けを寄越さなかった。754年のピピンとの会見から教皇はフランク王国と結びつくと同時に、(急にではなく徐々にであるが)教皇は東西を横断する存在ではなくなり、西方圏内に収まった。この時のステファヌス2世から785年まで教皇たちはランゴバルド領を手に入れて教皇国家を打ち立てようとしてきたが、ピピンはランゴバルド融和策に転じ、さらに宗教的な同着方イタリア遠征を行ったピピンとは異なりランゴバルド領を手に入れようとしていたカールはランゴバルド王となった。ハドリアヌス1世が死んでカールに従順なレオ3世が即位した795年をもって754年以来の教皇の領土拡大政策の失敗が決定的になった。カールの下で教皇は従属的な地位に措かれた。 カール没後の後継者たちは帝国の後継者の地位を得ようとして教皇のお墨付き、つまり戴冠を求めた。この時に教皇のみが皇帝を聖別できるという習慣が固まり、帝国に対する政治上の監督権を持つ、あるいはキリスト教社会は教皇の政治的且つ霊的な指導権のもとにある一つの政治的統一体であるという考えが生まれていった。 一方で皇帝と相互依存していたが、帝国の解体に伴って後ろ盾を失った9世紀の教皇の地位はローマ周辺の豪族たちに左右され、彼らの政争の具となった。事態はランゴバルド諸公が教皇を脅かしていた時代に逆戻りしてしまった。この状況に対して「教皇権をローマの党派制時の領域から脱却させる」ためにハインリヒ3世が介入し、彼は4人のドイツ人教皇を擁立した。なかでもレオ9世の時代にロタリンギアからの改革者(聖職売買、妻帯、暴力、道徳的腐敗の改革)が幅を利かせ、彼らの影響を受けたローマ人たちは風紀の強制よりも教皇の地位や権威の強化を目指した(1054年のコンスタンティノープルとの相互破門もその帰結)。
 ハインリヒ3世の時代には君主権と改革派の対立は僅かな兆候でしかなかったが、ハインリヒ3世の死で彼の後ろ盾を失った教皇及び改革派は皇帝の敵であるロートリンゲン大公ゴットフリートと手を結び、ハインリヒ3世が擁立した最期の教皇が1057年に死ぬと彼の弟がステファヌス9世として教皇に選出された。さらに1059年に即したニコラウス2世はノルマン人と手を組み、彼らの支援を得た。またニコラウス2世の時代に教皇候補者の選定が司教枢機卿に、その中からの選出は枢機卿全体の務めになり、貴族層と皇帝の影響は排除された。ニコラウス2世死後の教皇選出では皇帝の擁立した候補者ホノリウス2世が承認してもらえなかったことは皇帝の威厳へのダメージとなった。次のグレゴリウス7世の選出については関与どころ加担に諸国に通達されただけだった。当初はグレゴリウスとハインリヒ4世の関係は対立的ではなかった。彼らの対立において叙任権は副次的なもので、本質的な対立は君主権の地位と権利、位置づけであった。
 グレゴリウスの理念は独特のものであり、教皇はペトロの後継者であり教皇の権威はキリストの権威でもあり、教皇だけが「普遍的」と呼ばれうるものであり、教皇は皇帝を配意する権利があるというものだが、いずれも教会法にはその根拠がない。彼の先輩のフンベルトゥスもダミアヌスもそのような結論は出していない。さらに司教の廃位は教皇の同意が必要だという伝統的な見解に対し、グレゴリウスは教皇には教会会議の協力なしに司教を廃位する権利があると見なした。「グレゴリウスにとって改革というのは説教や規範の問題ではなく、組織編成の問題であった。……教会の『自由』を守るため、教会そのものと社会は君主制的な方向に再編されなければならず、教会行政は中央集権化に向かうべきで、国王や支配者たちは司教と同じく教皇の意志の遂行者という地位に低められるべきであるとされた」(p. 148)。このために彼は司教たちの反発を受け、13人もの枢機卿が彼のもとを去った。グレゴリウスの教皇権が普遍的な支配権と絶対的で神権政治的な権力を持つという方向性はインノケンティウス3世やボニファティウス8世らによって進められたが、それはグレゴリウスの影響ではなく、混乱を引き起こした彼の理念は彼の死後にすぐ廃棄された。
ウルバヌス2世あたりから行政改革と行政上の組織化が進んだ。「教皇庁」が制度化され、枢機卿は教皇の最高顧問団となり、枢機卿会議が教皇の決定に大きな影響を及ぼすようになった。彼らは文書長官、財務長官などの行政職を兼ね、このために政務に使う時間が少なくなったために教皇礼拝堂が制度化され、教皇礼拝堂付司祭が人材の供給源となった。中央集権化や司法や財務に関わる官僚の増大から教皇の財政は悪化し、官僚たちは謝礼によって生計を立てることになって汚職が蔓延した。中央集権化の進行、教会法の整備、教皇が訴訟の最終的な裁決者となったことから教皇は実務にかかりきりになって政務がおろそかになり、官僚機構が肥大化し、上告は教皇に直接行われるものであったために自らの頭越しに上告がなされ、自らの叙任権が教皇に握られることになった司教の地位と意義は低下した。教皇は実行力の欠如を顧みずに国際政治で当初は裁定者として、後に当事者としての活動を活発化させたため、そのために多くの資金を必要とし、財政は悪化した。
 民衆受けのする異端からシェアを奪い、教皇庁の腐敗に対処するためにインノケンティウス3世はフランチェスコの托鉢修道士運動に公認を与えたが、やがて運動には組織化、金、そして生活の安定が、説教には神学研究が要るというお題目で清貧の理念は骨抜きになり、フランチェスコの理念に忠実であろうとする聖霊派とコンヴェンツァル派に別れた。前者は神秘主義へと傾倒して教皇からの弾圧を受け、それが後にプロテスタントの地下水脈となった。
チャールズ・ホーマー・ハスキンズ『十二世紀のルネサンス』
12世紀にも文化と学問の復興があり、これがあったからこそ15・16世紀のルネサンスが出現したのであり、何もないところから突然現れたものではない。
原因は? イタリアにおける商業と交易の発展、平和の確立によるコミュニケーションの活発化、アラビア科学の流入、色々な事情をあげることができるが、はっきりとした説明はできないらしい。
カロリング・ルネサンスは宮廷と宮廷付属学校を中心としていたので、フランク帝国の崩壊に伴って崩れた。
イタリアは法学と医学、フランスは哲学と神学とラテン語詩、弁証法。
本が稀少でなかなか手に入らなかった。修道院の書庫も小規模。蔵書は第一に聖書、第二に典礼書、それからもろもろのラテン古典。
・文学
ウェルギリウスやマルティアヌス・カペラ、オウィディウスなどが読まれていた。アリストテレス論理学の流入、論理学が学生が増えて優勢になったことで文学と文法は劣勢になる。中世といえば真面目腐った時代だと思われがちで、確かに12世紀は宗教詩の絶頂期だったが、当時のラテン語詩には宗教詩に加えて叙情詩、とりわけゴリアルディによる俗っぽいものも多い(p. 180あたり)。
・法学 ローマ法大全が知られたことによるローマ法の復活。これまでは慣習法が支配し、ローマ法とローマ法大全は細々と続いていただけだった。11世紀初頭のボローニャの法学者イルネリウスを始まりとして法学の研究と教育が活発になり、学者、そして国の間で徐々に普及する。
・歴史著述
歴史著述の量が増える。とりわけ伝記。著述範囲が地理的にも拡大。自国語による歴史著述もされるようになる。
・科学
それまではイシドルスのような古代の科学の要約じみたものしかなかった。アラビアの学問の伝播ルートとしてはシチリア、アジアもあったが、イベリア半島ルートが主な伝播ルート。天文学、占星術、医術、数学、哲学などのアラビアからの流入により、西欧の科学は質と量において向上した。アリストテレス、ガレノス、プトレマイオス、エウクレイデス。十字軍は思われているほど学問の流入には貢献しなかった。アラビア語からの翻訳は盛んになされたが、ギリシア語からの翻訳はあまりされず、イタリアだけ。とはいえ、実験よりも先人の権威を重んじていた。
・哲学
アリストテレスのアラビアからの流入。中世にはプラトンより、教科書っぽくて注釈的なアリストテレスが好まれた。アリストテレスの影響は、中世初期以来論理学が、1200年あたりから自然学書、形而上学が訳され、それから倫理学や動物誌、政治学や修辞学、詩学などが訳された。アリストテレスの翻訳と一緒に入ってきたアヴェロエス(質料の永遠性、人格不滅の否定)の影響は大。
・大学
「十二世紀は、司教座聖堂付属学校の興隆に始まり、サレルノ、ボローニャ、パリ、モンペリエ、オックスフォードの最初の大学の確立をもって終わる」(p. 16)。前者が後者の形に発展した(ただし起源と過程の記録は乏しい)。大学はギルドないし共同体で(修士すなわちマスター・親方(教授資格者)のギルド、学生のギルド)、教師は直接学生から謝礼を受け取っていたので人気次第で格差ができた。学生はあちこちの国の大学を行き来していて、今風に言えば国際的。
・唯名論の重要性
ただの用語の問題ではない。神に唯名論をあてはめると、三位一体はバラバラの三つの位格になってしまい、教会に当てはめれば教会はそれ自体で生命を持った聖なる団体ではなく、ここのキリスト教徒全体を示す便宜的な名前になってしまう。それが国家なら、政治的権威の所在は全体か、個々の市民かという問題が出てくる。だから大問題になったというわけ。
・知的な自由
信じられている以上に大きかった。教会の教義の範囲の中ではわりかし自由に思索でき、哲学と神学の領分を侵さない限りは自由だったらしい。
タミム・アンサーリー『イスラームから見た世界史』
・オスマン帝国の停滞の有様(p. 413-415)
(1)領土の拡大は租税収入の源泉であり、(2)戦争と軍隊は土地を追われた農民への雇用創出の機能を持ち、(3)デヴシルメ制は新たに獲得した領土からの奴隷の徴用を前提としていた。しかし領土の拡大が停止すると、農村で生計を立てられなくなって都市に流入した農民は失業者となり(同業者組合(ギルド)が製造業への参入障壁となった)、イェニチェリは妻帯して子供をもうけ、世襲エリート層となった。

・「オスマン帝国を弱体化させたのは兵士ではなく、貿易商人だった」
 ギルドはそれぞれの製品の製造を独占し、帝国政府はギルドが価格をつり上げないように価格統制をして大衆を保護した。西欧人が原材料をギルドより高値で買いあさったためにギルドは原材料を調達できなくなった上、価格を上げたり増産することで埋め合わせることもできなくなったため、国内産業の衰退が始まった。
 政府は国内産業が必要とする戦略的に重要な原材料の輸出を禁止したが、密貿易が行われるようになり、闇市場起業家たちは脱法行為を見逃して貰うために役人に賄賂を送り、これが腐敗の温床となった。密貿易を通して現金が流入するのと同時に製造業が不振に陥ったためにオスマン帝国経済はインフレに見舞われた。インフレに直撃された「固定収入」で暮らしていた官僚たちは収入を補うために行政機関や立法機関への取り次ぎを却下しない見返りとして賄賂を受け取るようになった。これを防ぐために国家は賄賂を受け取る必要がないようにと官僚の給料を上げたが、国家には生産力に裏付けられた財源がなかったために紙幣を増刷したため、インフレに拍車がかかった。

・サファヴィー朝の衰退
 シーア派のウラマー(イスラーム諸学に通じて独自の解釈・判断を提示する資格を持つ学者はムジュタヒド、高位のウラマーはアーヤットラーと呼ばれた)は、隠れイマームの唯一の代弁者たる自分たちの承認なくして王は国を統治できないと主張し始め、彼らは農民や商人の支持を得ていた。王はウラマーに屈服して権威をアーヤットラーに譲るか、至高の権威は王に属すると主張する代わりにウラマー、ひいては大衆から統治の正当性を認められなくなるかの二者択一を選ばざるを得なくなった。サファヴィー朝の歴代君主は後者を選び、配下の軍隊を頼ったが、軍隊はヨーロッパの軍事専門家によって装備、訓練、「助言」されていた。「要するにペルシアでは、サファヴィー朝の君主が大衆と密接に結びついたムスリムの宗教学者を締めつけるのを、ヨーロッパのキリスト教徒が支援するという構図ができ上がっていたのだ」(p. 436)。
 時を経るにしたがって王位継承の闘争は熾烈になり、彼らはライバルより優位に立つためにますますヨーロッパ人軍事顧問を雇い、ヨーロッパ製武器を輸入し始めた。軍隊をヨーロッパ人の顧問や将校が牛耳り、宮廷と対立したウラマーは伝統的なイスラーム文化の保護者をもって任じ、歴代君主は概して怠惰で強欲で近視眼的で軟弱で、ヨーロッパ人の操り人形になっていた。

・ムガル帝国の衰退
 オスマン帝国の場合と同様の仕方でベンガルの手工業は壊滅し、千葉産業を基盤とする経済の破綻のおかげでベンガル人はイギリス人に依存し、その言いなりになった。
 当初ヨーロッパの各東インド会社は皇帝の支持を得ようとしていたが、帝国の解体が進むにつれてそれも無意味になったため、地方の権力闘争に介入して(会社の私設軍隊の投入も行われた)自分たちの都合の良い方向へと誘導しようとした。ここでの彼らの敵は現地のインド人ではなく、他のヨーロッパ人であり、インドでの戦いは彼らの代理戦争だった。ポルトガル、次いでオランダが敗北し、最終的にイギリスはフランスを破った。東インド会社はベンガル州政府の「顧問」を標榜し、徴税を代行し、ついにはイギリス東インド会社が商業上の利害関係を有する地域ではイギリスが統治者を任命・罷免する権利を有するという制度を定めるに至った。

『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』
ブワイフ朝下で俸給支給(地方が税を送付しないので金がないため支払い困難に)からイクター制への転換の影響は、官僚機構を支えていた徴税人の役割縮小、軍人の農村の直接支配化(p. 70)。
9世紀後半以降、政治的に混乱したバグダードからカイロへと文化と交易の重心が移る(p. 115-117)。

『スペインの歴史』
封建制の危機、カスティーリャとアラゴンの格差の出現
14世紀半ばにカタルーニャ、カスティーリャに上陸したペストでカタルーニャは人工の35〜40パーセントを失い、カスティーリャは15〜20パーセントを失った。被害が相対的に軽かったカスティーリャの人口回復は比較的早く、人口は15世紀初頭には増加に転じた。
人口減少によって賃金・物価の高騰、保有地が小規模な農民の都市への流入が引き起こされ、アンダルシア地方の小土地所有者もイスラム軍の脅威、ペスト、当分相続による農業生産性の低下によって中北部カスティーリャに流入した。農民の耕作地放棄と都市流入は領主経営を圧迫し、地代収入は減少した。
カスティーリャでは人口減少や放牧地(放棄された農地だろう)の拡大、王権の保護、百年戦争勃発後のフランドル向けの羊毛輸出の拡大を背景に、有力貴族、境界期間、宗教騎士団による移動性放牧業が発展した。
カタルーニャは14世紀後半〜15世紀を通じて人口の減少と生産力の低下が激しく、商業も低迷した。1365年のフローリン金貨の切り下げは金貨の海外流出を招き、軍事費(1443年のナポリ王位獲得と併合に伴い、オスマン帝国との抗争に巻き込まれた)や公共支出の増大と相まって王室財政とバルセロナのと市財政を加速度的に悪化させた。財政危機を乗り切るために王室とバルセロナと市当局はカタルーニャ人やイタリア人銀行家から短期高利融資を求め、年金を抵当とした公債を発行したが、14世紀末と15世紀初頭に支払い停止に陥り、バルセロナの銀行が連鎖倒産して金融危機が表面化した。従来カタルーニャ商人は毛織物製品、珊瑚細工、鉄などを北アフリカに輸出してその儲けを元手にアレクサンドリアで香辛料を買ってヨーロッパ諸国に転売して利益を上げていたが、15世紀のジェノヴァ商人、ヴェネツィア商人との競争の激化、カスティーリャ商人やポルトガル商人の地中海進出、ポルトガルのアフリカ西岸南下によるトランス・サハラ交易ルートの出現による北アフリカ貿易からの締め出しによって地中海貿易は1430年以降急速に縮小した。
15世紀前半にカスティーリャは危機をほぼ脱出したのに対し、カタルーニャの危機は一層深刻化し、カスティーリャ優位の一因となった。

16世紀の経済的繁栄と衰退
16世紀には人口が増加した。国内や新大陸での需要増加に伴って放牧用の共有地が農地へと転化され、耕作面積が増えたために生産が増大した。しかし1580年代になると農耕地の拡大が限界になり、新大陸での農作物時給が進んだために農業は停滞し、スペイン伝統的に盛んで王権から保護を受けていた牧畜業、輸出の中心だった羊毛の生産を取り仕切るメスタ(移動牧羊業者組合)との争いが頻発した。イスラム統治時代から絹織物業がグラナダやバレンシアで盛んだで、製品は輸出に回された。セゴビアやクエンカでは毛織物業が発展したが、帝国内のネーデルラントの毛織物に比べると品質が劣り、国内産の良質な羊毛はネーデルラントに送られたため、国内の毛織物業は徐々に衰退した。
新大陸から大量の貴金属が運ばれてきたことで、必要な者は国内で作らずに外国から買えば良いという風潮が広まり、国内の自律的な工業発展が阻害された。毛織物業に顕著なように、原料を輸出して技術力の優れた外国産製品を輸入する政策が採られ、手工業従事者の失業が増大した。
16世紀中葉までは外国人銀行家がスペインでの取引で得た貨幣を海外に持ち出すのは禁止され、やむを得ず彼らは農・畜産物に変えて国外に持ち出していた。これがスペインの農・牧畜業の繁栄の一因だった。しかし1566年にフェリペ二世は銀行家たちの要請を聞き入れて貴金属の海外持ち出しを許可したため、農・牧畜業は大打撃を受けた。

17世紀の経済危機と回復
1596〜1692年、1647〜1652年にかけて戦ペストがイベリア半島で猛威を振るい、モリスコ追放、恒常的な戦争での犠牲者の増加、新大陸への移民などによって17世紀スペインは激しい人口減少に見舞われた。これは労働力不足、農村の荒廃と都市浮浪者の増加を生み出した。
1630年以降、新大陸の銀産出量が減少に転じ、イギリスやオランダの商船がスペインの航路で銀の略奪を働いたため、安定した交易ルートの確保がますます困難になった。
この経済危機に対してフェリペ3世の時代には通貨政策による収入増大が図られた。1599年に従来は銀と銅の合金だったベリョン貨を銅のみで鋳造し、1603年には貨幣に二倍の価値を刻印して流出させるようにした。この結果、インフレが進んで経済に悪影響が生じ、インフレは1660年以降さらに激しさを増した(本にはそう書いているが、デフレの間違いでは?)。
フェリペ4世時代にはオリバーレスの好戦的な対外政策によって戦費が増大し、四度の国家破産宣告が成され、外国人銀行家たちはスペインから次々と撤退した。
1680年と1687年に政府は50パーセントの平価切り下げ(本にはそう書いているが、切り上げの間違いでは?)を実施し、これによって17世紀初頭からの通貨危機は克服された。
17世紀末にもなると徐々に経済は好転し始め、カスティーリャでは人口増加に転じ、農業や商工業は回復に向かった。

ブルジョワは貴族を目指す
ハプスブルク諸王は大卒のレトラード(文官)を徴用して貴族の排除に努めたが、彼らの経済的・社会的特権(とりわけ税の免除)は従来通り保証したため、黄金時代の社会で貴族という身分配信を持ち続けた。
貴族は地代という経済的衰退の影響を受けにくい安定した収入源を持っていたため、ブルジョワ階級の人々はヨーロッパや新大陸で富を得るとその富を新たな事業に投資するのではなく、金銭で貴族身分を手に入れて領主的な生活を送ることを理想とした。インディアス交易は投機性が高く、商人たちは博打に勝てば勝ち逃げして貴族の仲間入りしようとした。彼らは富を蓄えるよりは富を利用して身分を上げることを目的とした。その過程で商人たちはインディアスへの輸出品の調達では外国人商人への依存度を高めていき、次第に彼らのエージェントのような存在になっていった。
他方で重税にあえぐ農民や手工業者には土地や仕事を捨てて物乞いや浮浪者になる者も多く、経済的格差は激化した。

『神聖ローマ帝国―ドイツ王が支配した帝国―』
皇帝尊厳者(inperator augstus)p. 53

オットー朝の「帝国教会政策」:王はドイツの教会の人事権を握り、教会は軍勢拠出や聖職者の官僚として皇帝に協力する代わり、教会が諸侯に浸食されないように保護を与える(不輸不入権)というギブアンドテイク。王は俗人と教会の「仲介者」。実際に九八一年のオットー2世のイタリア遠征の祭の兵力の四分の三は聖職者(大司教、司教、修道院長)から供給されていた(24-28)。

(オットー1世の時代の)イタリア政策は単なる名誉欲や征服欲ではなく、「中部王国」(ロートリンゲン、ブルグンド、イタリアとりわけ後者二つ)をドイツ以外の勢力が再興して勢力バランスが崩れることへのへの懸念が動機として存在し、ドイツがイタリアを押さえることでこれを阻止するのが狙いだった。さらにオットーの皇帝戴冠によって中部王国支配の根拠がドイツに移り、中部王国を廻る問題は解決を見た(裏を返せばこの権利をもとに後代のドイツ王たちは戴冠のためにイタリア遠征を行った)(40-44)。

・シュタウフェン王朝
コンラート3世:教皇による皇帝戴冠なくして皇帝の称号を用いた。
フリードリヒ1世:彼以降は「神聖帝国」を称し、帝権の「神直属」を強調した。

中世末期の「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」呼称の含みは、@帝国とその支配者が自らを「ローマ帝国」の後継者を考えていたこと、A存在の基礎がキリスト教及び教会との関係に由来する宗教的な使命だったこと、B前者二つの担い手がドイツ人であること。




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