『歴史』
『歴史概観』
『ビザンツ 驚くべき中世帝国』
『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』

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ポリュビオス『歴史』
ポリュビオスの述べるハンニバル戦争の原因
発端:「すでに決定していた計画を初めて実行に移すとき、その最初の行動」(III. 6)
原因:「決定や決断に先行してそれらを導き出すもの、すなわち心の動きや状態、およびそれらについての考察」(III. 6)
例. マケドニアのペルシア遠征の発端はアレクサンドロスのアジア渡航、原因はキュロスやアゲシラオスの遠征でペルシア人が見せた惰弱さ、これらからフィリッポスが引き出したペルシアの弱さと自軍の強さ、勝利への報償の大きさ(III. 6)。
第一の原因はハミルカルの怨念(最後まで陣地を守り抜いた彼には負けたという意識はなく、カルタゴ艦隊の敗北のおかげで渋々休戦を受け入れたにすぎない)、第二はサルディニアの喪失(この件についてはカルタゴの主張の方が正当であったにもかかわらず、その時に戦争を避けるためにはサルディニアを譲渡するしかなかった)、第三はハミルカルによるイベリア掌握の成功(人的資源の確保)(III. 9-10)。 サグントゥムへの攻撃はこの場合発端にすぎない。

ラケダイモンの国制の欠陥
「ところがその後、破れて逃げ帰ったペルシア人との間でアンタルキダスによる和約を結び、ギリシア人の諸都市を裏切って売り渡してしまった。ギリシアに覇を唱えるための資金を手に入れようとしたのだが、しかしこの出来事によって、この国の法律にひとつの欠陥があることが露見したのである。
 つまりラケダイモンという国は、隣人の領土か、あるいはせいぜいペロポンネソス域内の支配を目指しているうちは、ラコニア地方からもたらされる収益と資産だけで足りていて、必要な物資はすぐに手に入ったし、遠征先からの帰国も本国からの物資補給も短時間で可能だった。ところが海上に艦隊を送り出したり、ペロポンネソス域外に陸軍を遠征させたりするようになると、リュクルゴスの法律にしたがって鉄の貨幣を使ったり、その年の収穫物で物資の不足を補ったりするだけでは、もはや必要をまかないきれないことが明白になった。新たな展開のために、共通の貨幣と域外からの物資調達が不可欠の条件となったのである。そこでリュクルゴスの法律を守っていては、ギリシアの覇権はおろかいかなる勢力獲得もおぼつかないと悟ったラケダイモン人は、やむなくペルシア人の戸口に物乞いに出かけたり、島々の住民の貢税を課したり、ギリシア全土から献金を要求したりし始めたのである」(6. 49)。
「さて何のためにこんな話を持ち出したかというと、事実そのものによって次のことを明らかにしたかったからだ。つまりリュクルゴスの定めた法律というのは、故国の安全を保障し独立を守るためには申し分のない出来映えであり、したがってそのようなことを国制の目的と見なす人にとっては、ラケダイモンの政治制度と法体系にもましてすばらしいものは現在と過去を通じてどこにもないと認めなければならない。しかしそれよりももっと多くを望む人がいるなら、そして広域に覇を唱え、多くの国に支配と権力を及ぼし、世界中から伏して仰ぎ見られることを、もっとも美しくもっとも尊い行為考える人がいるなら、その人から見てラケダイモン人の国制には足りないところがあり、それと比べてローマ人の国制は数段優れていて、より大きな力を発揮する仕組みを備えていることも、やはり認めないわけにはいかない」(6. 50)。



ヨハネス・スキュリツェス『歴史概観』
クルクアス家についての抜粋
・ヨハネス(1)
・920年「パトリキオスのテオヒュラクトス、皇帝の教育係テオドロス、そしてその兄弟シュメオンはロマノスに対する敵対行動を仕組んたとの嫌疑で都から追放されてオプシキオン・テマに住むよう命じられた。彼らを突然逮捕することで彼らの追放の命令を実行し、船で対岸まで運んだのは巡視隊長官ヨハネス・クルクアスであった」(IX. 14; p. 204)。
922年「皇帝に対する今一つの謀反が地方長官であったパトリキオスのバルダス・ボイラスの扇動でカルディアで起こった。反乱の指導者はハドリアノス・カルドスとアルメニア人タツァテスといういずれも非常に金持ちの男たちだった。彼らはパイペルテと呼ばれる砦を占領してそこで皇帝に対抗するための軍備を行ったが、スコライ司令官ヨハネス・クルクアスが突如現れて(彼はカイサレイアにいた)集まっていた者を四散させた。彼は重要人物のほとんどの目をつぶし、逮捕して財産を没収したが、貧乏で重要ではない者についてはどこへなり好きな所へ行くよう命じて釈放した。タツァテスただ一人が高い丘の上に立てられた砦に陣取っていた。司令官の害を及ぼすつもりはないという手紙を受け取ると、彼は首都へと赴いてそこで革紐持ちの称号で讃えられてマグナウラ宮殿に拘留された。しかし彼は脱出を試みて両目を失った。(皇帝の寵を得ていた)バルダス・ボイラスについては、頭を剃って修道僧にされ、そう悪い扱いは受けなかった」(X. 9; p. 210-211)。「ヨハネスは922年6月にポトス・アルギュロスの後を襲い〔スコライ司令官になり〕、944年秋まで22年間その地位にあった。彼はロマノス(皇帝は陸戦には不慣れであり、自ら陸軍を率いたことはなかった)の最良の武官の一人であった。……ヨハネスの兄弟テオフィロスは偉大な名声を得たもう一人の司令官であった」(訳注35)。
931年秋「スコライ司令官の将軍ヨハネス・クルクアスはシュリアを荒らして全ての抵抗を一掃した。彼は夷狄の多くの砦、要塞と諸都市を手に入れ、それから名高いメリテネへと向かって包囲し、住民を彼と協定を結ぶことを考えさせるほどの苦境に陥れた。かくしてアムルの子孫でメリテネのアミールのアポカプスが守備隊長のアポサラトと共に彼のところへとやってきた。司令官は彼らを懇ろに迎え入れて賓客として皇帝の許へと送った。彼らは彼と会談して平和条約を結び、それからローマ人の友であり同盟者という称号に喜びながら故郷へと戻り、ローマのために同胞民族と戦う用意をした」。「ブルガリアの危機が和らいで東方に援軍を送ることができるようになったために926年6、7月に最初の遠征が行われたが、メリテネ周辺を荒らすのが関の山でその町を落とすまではいかなかった。931年秋になってようやくヨハネス・クルクアスがメリテネ地方の主たる地域に和平を押しつけるのに成功した」(訳注68)。
934年「しかしアポカプスとアポサラトが死ぬと、この平和条約は破棄されたため、上述の司令官はメリアスと彼のアルメニア兵を連れて彼らとの戦端を開いた。最初に彼らは攻撃をかけ、平地に陣取るほど剛胆だった者たちを城壁の中へと押し返した。それから彼らは都市を包囲して厳しく絞め上げ、そこを占領して軍政の下に置いた〔934年5月19日〕。彼らは周囲の領地の全てを平らげてローマ人の支配の下へと置いた。皇帝はメリテネと近隣の人が住む全ての地域を「教区」へと編成し、それによって国庫へと莫大な貢納を納めた」(X. 19; p. 216-217)。
941年。オレーグとイーゴリ率いるロシア艦隊がコンスタンティノープルに攻め込んできたが、プロトヴェスティアリオスのテオファネスがこれを海で破った。「生き残ったロシア人は東岸〔小アジア沿岸〕に渡ってきて、ソグラと呼ばれる土地に転進してきた。〔ニケフォロス・〕フォカスの息子でパトリキオスのバルダスが騎兵と選り抜きの兵を連れて巡回していたため、彼は食料調達に送り出されていた [ロシア兵の] 大部隊と遭遇するとこれを破って殺した。そしてスコライ司令官のクルクアスはすぐに軍を連れて到着すると、散り散りになってあちこちをさまよっていたロシア兵をすぐさま発見し、痛撃を与えた」(X. 31; p. 221)。
944年。「皇帝はプロトヴェスティアリオス〔テオファネス〕を暖かく迎え入れて寝室管理官に昇進させることで彼を讃えた。ロマノス帝が司令官〔クルクアス〕の娘エウフロシュネと自らの孫で、自分の末子コンスタンティノスの息子ロマノスを結婚させようと望んだため、他の皇帝たちの間でヨハネス・クルクアスに対する憎悪が生まれた。彼が22年と7ヶ月の間続けて働いてシリアの全域を実質的に征服して服属させた後、 [皇帝は] 止むを得ずに司令官をその指揮権から解任した。彼の素晴らしい偉業について知りたいと思う者は大剣持で判事であったマヌエルなる者が編んだ著作にあたるべきであろう。彼はその8巻本にこの男の勇敢な偉業の全てについて書いた。軍事において彼がどのような人物であったのかはそれから知ることができよう。そして彼の兄弟で、後に帝位に上ったヨハネスの祖父であるテオフィロスもまた司令官の地位にあった時にメソポタミアのサラセン人の町々を似たように扱い、ハガルの息子たちを服属、隷属させた。そしてヨハネスの息子、パトリキオスのロマノスは司令官になった時に多くの要塞を奪取して大量の戦利品によってローマ人の国庫を潤すのに功があった。ヨハネスが解任された後、皇帝の親族でパンテリオスと呼ばれたロマノスがスコライ司令官に任命された」(X. 32; p. 222)。

・ヨハネス(1)の息子ロマノス(1)
「ニケフォロスによって我々が説明したようにして魅了された後、ブリンガスは彼を本国へと招き入れた。後に彼はそれについて考え直して網の中の獲物になってしまい、自分は何と馬鹿なことをしでかしたのだとで自分自身に対して憤慨した。かくして彼はその事柄についての彼の不安を取り除こうと策謀を考えるようになった。彼が考えつくことができた最も効果的な方策は行動においては精力的でフォカスその人に次いでローマの指揮官のうちで最も優れており、当時はアナトリコン・テマの長官だった司令官ヨハネス・ツィミスケスと東方で勤務していたもう一人の有能な将軍ロマノス・クルクアスに手紙を書くことであった。彼はフォカス打倒のために友情の約束、栄誉と贈り物と共に彼らに手紙を送った。手紙が書かれてこの要旨は以下のようなものであった。もし [決起] が起こってフォカスを取り除いて彼の頭を剃って修道士にするなり他の仕方で [彼を排除する] ならば〔注12. 「ロマノスはヨハネス・ツィミスケスの第一の従兄弟で、重要なテマ、彼はヨハネスの次の位階にあって次のストラテゴスになったようであるため、恐らくアルメニアコン・テマのストラテゴスであった。〕、ヨハネスは東方のスコライ司令官の総司令権に任命され、ロマノスは西方の司令官になる。問題の人物らに手紙が届くや否や彼らはそれらをフォカスに読ませて(彼らは彼に対して非常に忠実だった)不確実ではない仕方で対処したり何か立派で大胆な策略を練るよう求めた。彼らは彼がぐずぐずすればその手で彼を殺すと脅した。生命の危機に怯えたために彼は6月2日、インディクティオの同年に彼らに彼を皇帝として宣言することを許し、そして現に彼はツィミスケスが集めた全東方軍によってローマ人の皇帝として承認された」(XIII. 6)。

・ロマノス(1)の息子ヨハネス(2)
ドロストロン包囲にて「スキュタイ人は市内では飢餓と戦い、外では攻城兵器によってひどく痛めつけられており、とりわけロマノス・クルクアスの息子で、マギストロスのヨハネスが守る区画では投石機が中の者に少なからぬ損害を与えていた。そのためいスキュタイ人は最も英雄的な重装備の兵を選んで彼らに軽装備の歩兵を混ぜて無力化できるかどうかを調べるために装置へと送った。クルクアスはこれに感づいて彼と共にいた兵士のうちで最も強い兵士たちを連れて救援へと急いだ。彼はスキュタイ人の真っ直中で矢玉で馬を殺されて彼も倒れ、斬殺された。ローマ軍は突撃をかけてロシア軍と戦い、兵器が傷つくのを防ぎ、スキュタイ人を撃退して市内に押し込んだ」(XV. 14; p. 289)。「助祭レオンはクルクアス(ヨハネス・ツィミスケスの最初の甥)の死に様に異なった記述をしている。彼は無分別な防戦の理由は酩酊であり、クルクアスは鍍金が施された鎧を着ていたために皇帝と間違えられたと述べている。レオンは彼の悲惨な最期は懐を満たすためにブルガール人の教会を略奪した罰であると主張してもいる」(訳注65)。

・ロマノス(2) 「ロマノス・スクレロスの息子でパトリキオスのバシレイオスがマギストロスのブルガール人プルシアノスと戦って互いに指し違えるのではないかというほどに対立するようになった。コンスタンティノスはこの争いに皇帝権力に対する侵犯であるという判決を下して一方をオクセイア島へ、他方をプラテアへと追放した。少し後に彼は逃亡を企んだとしてバシレイオスの目を潰した。プルシアノスは同じ運命をたどりかけたが、解放された。彼はプルシアノスの姉妹と結婚していたロマノス・クルクアスも目を潰した」(XVII. 1. 372)。

・コンスタンティノス8世の粛清
「皇帝の姉妹の夫で、コンスタンティノスによって目を潰されていた人物であったマギストロスのバシレイオス・スクレロスは落ち着きがなく気まぐれな心根の持ち主であった。彼はロマノスによってマギストロスに昇進されられていてそこから多くの利益も得ていたにもかかわらず、彼に対して陰謀を練った。しかしこれは明るみに出て彼は妻共々市から追放された」(XIII. 15; p. 366)。

「コンスタンティノス8世によって将軍ニケフォロス・コムネノスが謀反の疑いをかけられて目を潰された。「そして彼はパトリキオスのバルダス(マギストロスのバルダス・フォカスの孫)及び幾人かの他の人たちと共に憤ると、密通者の一人を通して言い張って彼〔皇帝〕は自らに対する謀反の罪状をでっち上げ、即座に彼と共に悪態をついていた人たちもろとも彼の目を潰した」(XVII. 1. 372)。訳注8「コンスタンティノスはフォカス家の最後の者影響力を殺ぐという仕事を完遂させた。アンティオキアのヤーファは、フォカスとクシフィアスの共謀者は虜囚の身から解放され、それからフォカスの息子の一人の周りで陰謀が企まれ、これを皇帝が打倒したという異なった話を述べている」。

・ロマノス・スクレロス
「彼はマギストロスの顕官職に妹側の義理の兄弟で、我々がすでに述べたように [コンスタンティノスが] 目を潰していたロマノス・スクレロスを登位させ、長らく追放されて自発的にストゥディオス修道院での修道院生活を送っていたニケフォロス・クシフィアスを久方ぶりに受け入れた」(XVIII. 1. 375)。

ゲオルギオス・マニアケス
バシレイオスの死に伴ってサラセン人が対立行動を起こし、1029年10月31日(アラブ側の史料では7月15日)にシリアでアンティオキアの司令官ミカエル・スポンデュレスがミルダース朝(the Mirdassides)のアレッポの君侯に敗北する。
ロマノス自ら率いる遠征軍はアレッポの北、アザジオン(Azazion/Aazaz)で1030年8月2日(あるいは10日)に破れた。
「ゲオルギオス・マニアケスはこの時テルク・テマ〔註39「Telouchはアレッポとマラシュの間の町」。〕の司令官だった。追撃から戻ってきた800人のアラブ軍が完全に思い上がった状態で彼の許へとやってきて、皇帝は捕らえられてローマの全軍は完全に撃滅されたとして可及的速やかに降伏して市を明け渡すよう命じた。彼はその明らかな危機へと自らを投げ込む必要はなかった。夜が明ければすぐに彼と彼と共にいた者たちは包囲されて容赦なく撃滅されていただろう。ゲオルギオスはその警告を受け入れて彼の言う通りにするふりをした。彼は彼と彼と共にいた者たちがそのみを引き渡してアラブ人をローマ人の全ての金もろともテルクの主にする夜明けまでの間、休むようにと言って彼らに食料と飲み物の蓄えをふんだんに運んできた。彼の言葉と行動に騙されて明日に全てを受け取ることができると期待し、彼らは酒を飲んで酔っぱらい、安全のことなど毫も考えることなく夜を過ごした。しかし真夜中に彼らが酔いつぶれて何も案ずることなく眠っているところへとゲオルギオスは攻撃をかけて皆殺しにした。彼はローマ人の財産の全てを乗せた280頭のラクダを捕らえた。彼は死者の鼻と耳を切ってカッパドキアの皇帝(敗走の後に彼はフォカス家の所領に到着してそこに滞在していたからだ)の許へと送った。皇帝は彼の行いを是認して彼を下メディア〔註40によれば「ユーフラテスの向こうの町々(サモサタあたり)のテマと置換できる」〕のカテパノに任じた」(XVIII. 6)。
1031年。「そしてその年にグデリオス・マニアケスの息子、プロトスパタリオス、ユーフラテス沿いの諸都市の司令官であり、サモサタに居住していたゲオルギオス・マニアケスがオスロエネのエデッサ市を落とそうとした。この都市はミエフェルケイム/マルテュロポリスのアミールに委ねられていたトルコ人のサラマン〔Sulayman ibn al Kurgi〕によって支配されていたが、彼は贈り物、約束と栄誉によって買収されて真夜中にそこをマニアケスに引き渡した〔1031年10月〕。マニアケスは三つの堅固に要塞化された塔を確保し、包囲軍気取りの相手を孤立無援でありながら猛然と撃退した。ミエフェルケイムのアミールのアポメルバネス〔Nalr ad Doula ibn Marwan〕はそれらの陥落を知ると、即座に相当数の軍勢を連れて塔を包囲したが、ゲオルギオスは頑強に持ち堪えた。アミールは撃退されて為す術もなく途方に暮れた。彼は最も見事な建物を荒らしてその都市にあった美しいものを、大教会そのものさえ略奪した。彼は最も見事な文物をラクダに載せ、市の残りのものには火を放ち、マルテュロポリスへと戻っていった。今や行動の自由を得たマニアケスは市の中心の険しい岩山の頂上にある砦を占領し、外側から軍を呼んで市の保持を確固たるものとした。そして主イエス・キリストがアブガルに宛てた自筆の手紙を見つけると、彼はそれをビュザンティオンの皇帝に送った」(xviii. 13; p. 365)。
「マニアケスはエデッサから皇帝に [金] 50ポンドの年賦の貢納を送った」(xviii. 16; p. 366)。
1034年、「彼〔ヨハネス・オルファノトロフォス〕パトリキオスのゲオルギオス・マニアケスをエデッサから転任させ、Vaspurakanとしても知られる高地メディアを統治するために送り、その一方でレオン・レペンドレノスをエデッサへと派遣した」(xix. 6; p. 374)。
1035年。「シケリアの支配者アポラファル・ムクメト〔Ahmed al-Akhal〕が皇帝と同盟を結んでマギストロスの称号で称えられた。彼の弟アポカプス〔Abu Hafs〕が彼に対して反乱を起こし、破れると彼は公邸に救援を求めた。パトリキオスのゲオルギオス・マニアケスが軍と共に全権将軍としてロンゴバルディアへと送られた」(ibid, 9; p. 375-376)。ただし、マニアケスはヴァリャーグ兵、ロシア人、ノルマン人の傭兵、ロンゴバルド人と東方のテマからの幾つかの部隊と共にシケリアに到着した(註28)。そして、「フィラレトス伝によれば彼は帝国全土から兵を集めるようにという皇帝の命令を受けていた。スキュリツェスがマニアケスがその時にシケリアに到着したと言っているのは誤りである」(註29)。「皇帝の姉妹の側の義理の兄弟であるパトリキオスのステファノスが艦隊を率いて彼と共に向かった」(ibid, 9; p. 376)。
1036年。「シチリアでは、上述のように、二人の兄弟が互いに争っており、アポラファルが優勢に立つと、他方の兄弟はアフリカの支配者ウメルに助けを求めた。ウメルはもし島の幾らかの所有物を受け取れるならば、彼と共に戦うと約束した。シケリア人は快くこれに同意した。彼が到着してアポラファルと戦い、アポラファルと共に戦うべくパトリキオスのゲオルギオス・マニアケスと共に送られていた軍が遅れていたために彼は完全に打ち負かされた。アポラファルはロンゴバルディアの支配者レオン・オポスのところまで逃げて彼に救援を求めた。レオンは手元にあった軍を集めてシケリアへと渡り、アフリカの指揮官との遭遇戦でのいくつかの勝利の結果、敵の決然たる進軍を押しとどめることができた。しかしそれから兄弟が互いに和平を結んで団結してローマ軍に攻撃をかけようとしていることを聞くと、彼は15000人のローマ人捕虜を船に乗せてイタリアへと戻り、母国へと散らせた。カルタゴ人は今やシケリアに自由に滞在できるようになり、そこを彼の都合の良いように略奪した」(ibid, 11; p. 378)。
1037年。「二兄弟が互いに講和して彼を島から追い出すことに狙いを変えてすぐにゲオルギオス・マニアケスはシケリアに到着した。彼らはアフリカから5000人の同盟軍を呼び寄せ、彼らが到着するとレマタで激しい戦いが起こり、マニアケスはカルタゴ軍をほとんど敗走させた。殺戮のあまり、あたりを流れていた川は血に染まった。彼はシケリアの13の町を落とし、それから徐々に島全域の征服を進めていった」(ibid. 16; p. 380)。
1040年。「シチリアでは、カルタゴ人〔Abdallah ben al-Mu'izz〕が再び奮起し、以前以上の軍勢を集結させてマニアケスをそこから追い出そうとしてシチリアへとやってきた。彼はドラギナイ〔今日のTroina〕と呼ばれる傾斜した平野に陣を張ってそこで戦いの開始を待ちかまえた。これを知ると、マニアケスは手始めに我々がすでに述べたところの皇帝の義理の兄弟で艦隊を指揮していたステファノスに戦いが開始されれば、破れたカルタゴ軍が気付かれずに逃げ去ったり母国に戻れないようにするために沿岸を確保するよう指示を与え、配下の軍を動員して彼と一戦交えるべく向かった。戦いが始まって敵は手酷く敗走させられ、大勢のアフリカ人(数にしておよそ5000人)が死んだ一方で彼らの首領は危険から逃げ仰せて沿岸に来て、高速のヨットに乗り込んで(ステファノスの監視を知らずに)母国へと去っていった。マニアケスはこれを知ると激怒した。ステファノスが彼との会談にやってくると、彼は度を超して手酷い叱責をして彼を鞭で打ち、頭を何度も打った。彼は彼を皇帝の意向を裏切った怠惰な臆病者呼ばわりした。ステファノスはその暴言と嘲弄を軽く見なさず、遅延することなくオルファノトロフォスにマニアケスは皇帝に対する謀反を企んでいると忠告する手紙を送った。マニアケスはパトリキオスのバシレイオス・テオドラカノス共々即座に逮捕されて首都へと送られて投獄された。全指揮権はステファノスと彼と共同するために送られた宦官バシレイオス・ペディディアテスに移った。当然の流れとしてこの二人は全ての状況を破滅へと追いやって貪欲、怯懦そして無警戒とによってシチリアを失った。マニアケスは島の町々を落とすとそれらに砦を築いてそれぞれに十分な守備隊を置いており、これが土着の人々が攻撃によって都市を奪回するのを防いでいた。しかし今や(すでに述べたように)彼が囚人になってビュザンティオンへと去るや土着の人々は指揮をする将官らの小心と怠惰に乗じた。彼らは幾人かのカルタゴ人と同盟して諸都市を攻撃した。諸砦を破壊するや否や彼らは防衛軍を打ち破り、メッシーナを除く全ての都市を再占領した。ここにはアルメニアコン・テマの部隊を指揮しており、防衛の任についていたプロトスパタリオスのカタカロン・ケカウメノスがいた。彼の許には300騎の騎兵と500人の歩兵がいた。……かくしてマニアケスによって瞬く間に打ち破られたシチリアの全域は、司令官たちの無頓着と無能のおかげであっという間にサラセン人によって再占領されてしまった。メッシーナだけが(上述のようにして)保たれ、ステファノスとペディアテスはロンゴバルディアへと逃げ帰った」(ibid. 20; p. 381-383)。
1042年。ミカエル5世が帝位を追われ、ミカエル4世の妻でミカエル5世の義母だったゾエが修道院から復帰した。「彼女はミカエルによってすでに虜囚から解放されていたゲオルギオス・マニアケスにマギストロスの地位が付いたイタリア軍の全権将軍とする手紙を送った」(xxi. 1; p. 397)。
「すでに述べたように、マギストロスのゲオルギオス・マニアケスはそこの情勢を安定化させるために女帝ゾエによってイタリアへと送られていた〔注20 マニアケスは1042年の4月にオトラントに上陸してノルマン人がOria地方を略奪していた一方でその町に封じ込められていた。〕。それというのもあらゆることが弱々しい状態になっており、土地はそこの指揮官たちの無経験と無能のために酷い害悪を被っていたからだ。今やゲオルギオスは謀反を企てるに至り、この本に出会う人に正確な情報を提供するためにその理由は語る価値があることである。ミカエル帝によって彼が最初にイタリアに送られた時は、彼の兄弟とアフリカ人 [Zirids] と戦っていたシチリアの支配者アポラファル・ムクメトを支援するためであった。ゲオルギオスにはアルプスの向こう側のガリア人から集められ、宗主権を認めていなかった支配者のアルドゥインという名の男によって率いられていた500人のフランク人が加わっていた。彼らと共に彼はサラセン人に対して勝利を得た。次いでゲオルギオスは無実の罪で告発されて指揮から解任され、都市へと送られて牢獄に投げ込まれた一方でプロトスパタリオスのミカエル・ドケイアノスが彼の代わりにイタリアを統治するために送られ、この無能な男には公的な事柄を管理する力がまるでなかった。彼は瞬く間に全てに混乱と災難をもたらした。彼はその時にフランク人に毎月の手当を支給せず、彼らが言うように最悪の結果をもたらした。彼らの指導者が兵士を思いやりを持って使って彼らから彼らの働きに対する報償を奪わないでほしいと頼むと、彼は彼を罵って鞭打ちで屈辱を与え、これが [フランク人の] 反逆をもたらした〔注22 イタリアの原典では、イスラム教徒から分捕った戦利品についての口論からアルドゥインはマニアケスに背いた。にもかかわらず彼は帝国軍で働き続け、このために彼はおそらくミカエル・ドケイアノスによって彼のイタリア到着の後、1040年10月にメルフィのトポテレテス〔topoteretes〕(守備隊長)に任命された〕。アルドゥインは1040年11月にメルフィで反旗を翻してノルマン人を率い、イタリアの帝国領に大動乱の時代をもたらした。〕彼らが武器を取ると、ミカエルはしぶしぶながら全ローマ軍を集結させてフランク人と会戦した。彼は一部隊(オプシキオン兵)とトラケシオン兵の一部を連れ、昔ハンニバルがローマの大軍を粉砕したカンネーの近くで彼らと矛を交えた」(xxi. 3)。

官職(「」内は試訳)
Anthypatos:proconsular dignityのギリシア語。パトリキオスより一段下がる控えめな地位(p. 373, note 8)。
Asekretis:「秘書官」帝国公文書庁の秘書官の一つで、Protoasekretisの指示に従う。
Elates:帝国艦隊の漕ぎ手。
Eparch:「首都長官兼判事」。コンスタンティノープル長官で、皇帝不在中の首都を統治し、市場(とりわけ絹市場)を管理し、首都内の外国人居住区を監督し、首都と郊外における刑事と民事の裁判を行う法廷を主催した。
Epeiktes:「馬丁」。馬屋長官の下で働き、馬と荷駄獣の供給を担う官職。この地位はいくつかの活動と結びついているが、その全てが軍事的なものというわけではない。
Katholicos:特定の東方協会、とりわけアルメニア協会の長の称号。
Kleisourarch:kleisura、つまり山道や道を守る部隊の軍事司令官。
Koubilarios:皇帝の寝室に駐在する宦官。Parakoimomenosの命令に服する。
Kouropalates:「宮殿管理官」。元々は宮殿の管理人だったが、6世紀からは高位の名誉称号になった。11世紀の中頃までこれは帝国における最高の地位の一つであり、通常は皇族によって占められる。イベリアとして知られるグルジア地方を支配する人物が伝統的にkouropalatesに任命される。
Logothete of the drome:「外務大臣兼属州監督官」。外国の使節への応対の任に当たる帝国の省庁の長官。属州の人々の心境の報告書を作成して彼らを支配する官吏を監督し、外務大臣であり、スパイの長官であった。
Manglabites:皇帝の「革紐持ち」。
Mesazon:皇帝の相談役の長に与えられる名称。この称号は公的なものではなく公文書にも印章にも見あたらない。
Mystikos:皇帝の私設秘書(p. 175)。
Nobelissimos:副帝に次ぐ称号(p. 392; note 9)。
Oikonomos:教会にて、通常は教会の動産を管理する司祭。ロマノス3世の治世のn. 1を見よ。修道院では制度運営の任に就く修道士である。
Paradyasteun:この称号は公的な地位ではなく、Taktikaでも見あたらない。それは皇帝が帝国の統治において彼を補佐するために選んだ人物を指している。
Parakoimomenos:「寝室管理官」。通常は宦官で、皇帝の寝室を管理するため、国家における最も影響力のある人々の一人であった。
Praepositos epi tou kanikleiou:文字通りにはインク壷の管理官で、つまるところ皇帝が秘書長官が準備した書類に署名する紫のインクが入った壷を保存するが、実質は皇帝の署名が本物であると証明する。
Protoasekretis:「秘書長官」。Asekretisの長、帝国公文書庁の長官で、皇帝の法令の完成原稿の作成を担う。
Protospatharios:「第一の剣持」。テマの司令官とそれに似た地位の者に付与される称号。元老院に最初に入ることができる爵位で、11世紀から衰微する。
Protostator:祭礼の際に皇帝に同行する皇帝の首位の馬丁長。やがてこの語は騎兵の総司令官を示すようになった。
Quaestor:相続権と遺産相続の問題に特化した法廷を主催する判事で、新法の立法にも関わる。
Sakellarios:国家の財務の会計検査官。彼はchrysocheion(金の延べ棒の倉庫)を管理する官職でもあった。
Sebastophoros:皇帝の側近の宦官に与えられる不適切に定義された称号で、11世紀には権威のみになった。
Teicheotes:「城壁伯」、宮殿の城壁の維持を担った。
Vestes: 元々は皇帝の衣装箪笥の関わる人物(宦官とその他)のために10世紀に創設され、protovestesとvestarchesと簡単に区別できない名誉称号。

組織
Exkoubitors:首都の防衛を担う四つの部隊(タグマ)の一つで、他のものはスコライ、巡視隊とヒカナトイで、その各々はドメスティコスによって指揮されていた。
Hetaireiai:時折君主の身辺警護を担う部隊(恐らく四部隊で、一部は外国人)。
Hicanatoi:809年にニケフォロス1世によって新設された首都防衛部隊。



ジュディス・ヘリン『ビザンツ 驚くべき中世帝国』
・キリスト教徒はなぜ殉教を恐れなかったのか
「同時代人とは違って、イエスの弟子たちは死は終わりではないと確信していた。彼らは平和で光に満ちた天国に昇ることになっていた。この信条によって彼らは正しいキリスト教徒としてふるまうよう促された。すなわち、罪を避け、信仰と慈悲を勧めることで、神によって来世における永遠の命に値すると認められるのである。キリスト教徒を、ユダヤ人や多神教徒、それに紀元後最初の数世紀に栄えていたそのほかの信仰と区別したのはこの信条であった。
 キリスト教徒のあいだで、信仰を否認するぐらいなら死を選ぶ者が現れたのもこの信条のためであり、この点をローマ帝国当局はきわめて異常なこととみなしていた」(p. 59-60)。

・イコノクラスムの始点:神の加護を取り戻す
「アラブ人が軍事的成功を続けていたので、イコンに対して向けられた偶像崇拝という非難は、ある程度の共感を得ていた。というのも、イスラーム教徒は、像を刻んではならないという旧約聖書の戒律を遵守していたからである」(p. 134)。
「ビザンツ人は、神が戦闘における勝利を与えてくれること、かつて神の支援によってかのペルシア帝国を打ち負かしたことを知っていただけに、いまやどうして神がアラブ人に勝利を授けるのかを問わざるを得なかった。神を恐れる民であったがゆえに、自分たち人間の過ちは、神が不満をもっているからだと説明しようとしたのである。
 七二六年、エーゲ海の深海より大規模な火山の噴火が起こり、煮え立つ溶岩と『丘ほどもある』軽石を空中へと噴き出した。これらは数日間にわたって大空を暗くし、続いて小アジア、ギリシアや島々の岸辺に流れ着いた。テラ(サントリーニ)島とテラシア島の間には新しい島が出現した。レオンがこの不思議な兆候は何を意味しているのかを怪しむと、彼の助言者たちはこれを偶像崇拝への警告であると解釈し、教会や公共の場所においてイコンを禁じるように忠告した。小アジアのナコレイア主教のコンスタンティノスがすでに、アラブ人によって包囲された諸都市を守るのにイコンが役に立たなかったと警告していたことや、霊験あらたかなはずのイコンが期待された奇跡を起こさなくなったことを、レオンが知っていたのかどうかは定かではない。ただし、件のコンスタンティノスはレオンの助言者であったことが、のちにわかっている。イコンへの過度な崇敬――それは偶像崇拝と瓜二つである――によって神の恩恵が停止されている、と認識したレオン三世は、年代記作者テオファネスが述べているように、『聖なるイコンに反対し始めた』。テオファネスはまた、七二二/三年にカリフのヤジードがキリスト教芸術の破壊を命じたことに言及し、レオンは同じ考えを抱いた『サラセン魂』である、と主張している。けれども、レオンにとって、アラブ人に対する戦闘において神の支援を確保する必要があったし、聖像崇拝を禁止することが神の支援の条件だというなら、聖像破壊が実行されなければならなかった。聖像崇拝の禁止は、ビザンツの存亡の瀬戸際において神の加護を再び手にする方策として始められたのである」(p. 148-149)。

・軍事的勝利とイコノクラスムの結びつき
「遠征は大きな成功を収めて、彼〔コンスタンティノス五世〕の軍事的勝利の結果、勝利する帝国という観念は聖像破壊の宗教政策と融合し、これらの戦争に従軍した者たちはしばしばその熱烈な支持者となった」(p. 152)。
「しかし、聖像破壊の影響を受けたもっとも重要な分野はおそらく軍隊であろう。とりわけ、コンスタンティノス五世の指揮下にいた兵士たちは、八世紀半ばにコンスタンティノスに率いられてアラブ人やブルガール人に対して大勝し、確信的な聖像破壊派となったのである。彼らの目には、正しい聖像破壊の神学が外敵に対する軍事的勝利をビザンツにもたらしたと映った」(p. 158)。
「八一五年、皇帝レオン五世(在位八一三-二〇年)によって再会された第二次聖像崇拝禁止は、軍事的な成功の約束と密接に関わっていた。軍事的成功への期待はいまやコンスタンティノス五世と強く結びついていた。彼の業績を懐かしむ兵士たちが、聖使徒教会附属の墓廟にある皇帝の墓に押し入り、自分たちの英雄であるコンスタンティノスに勝利へと導いてくれるよう呼びかける、というやらせの事件もあった」(p. 153-154)。

・イコノクラスムまとめ
「ビザンツ人が聖なる画像に敵対した七三〇年から八四三年は、イスラームの征服による挑戦、帝国の喪失や世界の終末の予感によって引き起こされた大変動の時期であった。ビザンツは新たな形態をとることで折り合いをつけ、存続の可能性に自信を持ったので、最初は七八七年、次いで八四三年と、皇后のエイレーネーとテオドラが主導してイコンへと回帰した。九世紀初頭のように脅威が感じられると、ビザンツは兵士たちが主導権を握って、軍事的勝利と密接に結びついた聖像破壊政策を採用した。八一五年から八四三年の第二次のイコノクラスムは、帝国の存在を脅かすさらに厳しい軍事的挑戦に対するビザンツ人の反応としてのみ説明が可能である」(p. 156)。

・ビザンツのネガティブイメージの起源
フンベルトゥスとケルラリオスの対立と相互破門、神聖ローマ皇帝に嫁いだテオファノの出しゃばり。「東方に対する西方の敵意は、聖霊の発出のような教義上の問題から、より日常的な関心事へと広がっていった。ビザンツの絹製品、宦官、フォークに強烈な反感を示したことに加えて、ペトルス・ダミアヌスは、カラブリア出身のギリシア系修道士ヨハネス・フィラガトスとの不道徳な行為についてテオファノを非難した――政敵を貶めるために企てられる典型的なやり方である。透けた絹のドレスをまとった女性の問題から、ビザンツ宮廷の男性用の長い官服が西欧のズボンと比べて男らしさに欠けると非難されるまでは、ほんの一歩であった。フォークから、油で調理したニンニク、タマネギ、ポロネギを用いる、といった類の奇妙な食習慣へと、そして、奇妙な食事から、宦官に宮廷儀礼を委ねる、さらに奇妙な慣行へと、さらに、宦官制度が普及していることから、ビザンツの男はみな、女々しく、戦争をしたがらない、という思いこみへと、偏見は拡大していった。こうした深い偏見は、乏しい情報に基づいた定型化した反ビザンツ観を育んだ。……しかし、そうした固定観念は、現代の歴史家に悪い影響をあまりにも強く及ぼしてきた。……今日ですら、一部の学者は、そこに含まれる偏見を問い直すことなく、こうした固定観念を再生産している」(p. 284)。
「ビザンツについての無知は、第四回十字軍をめぐる西欧人たちの議論にいまだに影響を与えている。西欧人は、ビザンツ帝国は活気がなく滅びかけた地域――一千年以上にわたって続く皇帝や戦いの連続、ただそれだけの世界――とみなす固定観念に寄りかかっている。帝国の内部の発展を生き生きと描けなかったビザンツ研究者の歴史学にも責任はあるかもしれない。しかし西欧中世史の専門家もまた、こうした退屈な歴史にしがみついている。ビザンツを干からびた、他とは共通性を持たない、細かく検討する価値もない国家とみなした、かつての啓蒙思想的な見解に寄りかかるのは、あまりにも安易と言わなければならない。 実証するのは難しいが、こうした固定観念の源流の一つは、一二〇四年にビザンツ帝国を襲った攻撃と破壊そのものにあると思われる。この事件には、帝国がみずから攻撃を招いてしまったという側面もある。……
 しかしここに至って西方世界は、キリスト教徒でありながら、残忍な虐殺や、キリスト教世界のなかでもっとも優美な都市コンスタンティノープルを破壊したことの説明、その正当化に迫られた。不信心なイスラーム教徒との戦いに向かうはずの軍隊が、どうしてキリスト教世界最大の都市へ向かい、イコンを焼き払い、教会を荒らすことになったのだろうか。西欧としては、ビザンツ帝国にはそれが当然だったという理由しかなかった。ビザンツ帝国とは、裏切りやすく、破滅の運命にあり、柔弱でどうにも許しがたい、ローマに服従しない、そういったものでなければならなかった。第四回十字軍の破壊や征服は、教皇インノケンティウスとその後継者、そして十字軍に参加した西方の君候や修道士たちに、ギリシア人はそもそもずるがしこくて油断できないという観念を再確認させた。ギリシア人は弱みを隠すためにいつも策略外交を駆使しており、戦うはめになると、とたんに臆病をさらけ出すというわけである。ビザンツの統治システムも不安定なものとみなされていた。なぜならビザンツでは反乱者が皇帝になったり、失政を犯した統治者が退位させられて目をくりぬかれる事態も生じたからである。このことはみずからの権威を強化しつつあったヨーロッパの君主たちの目には弱さと映った。ビザンツの旧態依然とした政治システムへの批判は、聖遺物・金銀製品・イコン・絹などへのあこがへと対になっており、それらの品物は、もっとふさわしい場所にあるべきだと考えられたこのようにして十字軍は自分たちの略奪行為を正当化した。存在するに値しない文化といわんばかりの、否定的で紋切り型の『ビザンツ』という用語は、一二〇四年の略奪に対する西欧の不正実な態度に由来しているのである」(p. 354-355)。
「とはいえ、ビザンツについての近代の類型的な理解は、臆病な女々しい男たちと堕落した宦官による専制政治である。空疎な儀礼と、果てしなく複雑で理解しがたい官僚制にとり憑かれた統治である。以上のような戯画を展開して、ローマ帝国の衰退の理由を説明しようとしたのは、十七世紀のモンテスキューであった。続いてヴォルテールも、宗教に対して理性を優越させようという熱意をもって、この戯画をさらに誇張した。モンテスキューは『ギリシア帝国』――彼はビザンツをそう呼んだのだが――を、修道士が大きな力を持っている、神学論争に熱中している、そして教会と世俗の問題の望ましい分離に欠けているという理由で退けてしまったし、ヴォルテールはビザンツを『人間精神の汚点』となんら憚ることなく非難した。たぶんふたりとも、ルイ十四世が専制君主の統治を称える手段としてビザンツを利用したことに反発したのであろう」(p. 423-424)。

・ビザンツの強さ
「破壊があまりにもひどかったので、ビザンツ帝国は二度の復活しないかと思われた。たいていの国家はこのような心臓部への一撃によって滅亡しただろうが、ビザンツ帝国は都を半世紀にもわたって占領されたにもかかわらず、いくつかの中心をとつ新たなかたちの複合体として再生した。ビザンツ文明の内的な活力のおかげで、帝国はさらに二百五十年にわたって存続することになる。
 このことは、本書を執筆する過程で発見したもっとも驚くべき事実のひとつである。私は一も二もなく、コンスタンティノープルが建築物や商業によって、すばらしい特別な都市として中心機能を果たすものと考えていた。行政・宗教から軍事・知的技術に至る広い側面において、ビザンツ文明が逞しい想像力や革新性をもっていたことを、これほど何度も書くことになろうとは思いもよらなかったのである。ビザンツは海上で爆発する秘密の火器を発明し、その秘密を何百年にもわたって守る能力があった。イコンの役割や位置づけ、宗教信条をめぐるきわめて重要な議論を生み出し、展開させた。ラテン的キリスト教世界とイスラーム東方世界が、ラテン語やアラビア語というそれぞれにとって神聖な言葉で聖書を伝えるべきだと主張していたときに、ビザンツは大胆にもギリシア語聖書を、ビザンツの学者自身が考案した文字でスラヴ語に翻訳した。スラヴ人の改宗を容易にするためであった。七百年にもわたって安定した金貨を鋳造し、貨幣制度を維持できるだけの統制力をもっていた。ローマ帝国の行政制度を維持しつつも、君主制の権力形態を発達させる創造性をもっていた。ローマ、異教、キリスト教、ギリシアのそれぞれの遺産を驚くべきやり方で組み合わせることによって、繰り返し困難な状況を迎えつつも、わずかな痕跡のみを残して姿を消すのではなく、復活する力をもっていた。ビザンツは、一般に言われるような決まり文句とは違って、活気に満ちた相違あふれる社会であり、強い自信をもっていた。
 コンスタンティノープルという偉大な中心を支えていたのが、この町を頂点とした文明に広く行き渡っていた力だったという見解は、ビザンツ帝国の首が刎ね落とされ、外国勢力による首都占領・支配という事態に、それぞれの地域が対応しなければならなくなったときに、その正しさが証明されることになる。……コンスタンティノープルが失われたことに対する反応はさまざまであったが、反応の強さや様相をみると、教育・行政・文化・軍事におけるビザンツ帝国の長い伝統の力、挑戦に対応できる力が確認できるのである。画一的、官僚的、軟弱、退廃、複雑怪奇、無能といった紋切り型のビザンツ観は、まったくの誤解だったようである」(『ビザンツ 驚くべき中世帝国』, p. 355-357)。

・11世紀の危機
「一〇七一年の敗北は、十一世紀代四半期にさかのぼる一連の問題という、より広い文脈のなかに位置づけられなければならない。第一の問題は、一〇二八年にコンスタンティノス八世が死んで以降の慢性的な情勢不安である。ひっきりなしの皇帝交代は、第二の問題によってさらに深刻となった。すなわち、国内の反乱と、非キリスト教徒の部族ペチェネグ人によるドナウ北方からの侵略である。ビザンツの正規軍だけでは不十分になり、傭兵部隊で補う必要が生じたとき、コンスタンティノス九世(在位一〇四二-一〇五五年)は、その経費を賄い、彼らの忠誠を確保するために、二十四金を下回る新たな軽量金貨を発行した。それは、ソリドゥス金貨が発行されて以来七百年、初めての重大な品位低下だった。これが第三の問題であった。そこには、軍事的弱体性と王朝の不安定さがもっとも有害な仕方で組み合わされていたのである」( p. 297)。
井上浩一『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』
・「戦う皇帝」から「平和の皇帝」へ
「ユスティニアノス二世は、妃にテオドラという名を与えたほど、同じ名前の一世に心酔していた。しかし、さすがにユスティニアヌス一世のような制服称号を帯びることは断念し、平和をもたらす皇帝と称している。『戦う皇帝』から『平和の皇帝』へ、これもまたローマ皇帝からビザンツ皇帝への変化のひとつである」(同書, p. 62)。

・テマ
「テマへの言及は七世紀からみられるが、初期のテマについての記録は少なく、この制度の成立過程はよくわからない。起源を解明する手がかりは、軍管区の名称と所在地のずれにある。たとえば、アルメニアコイ(アルメニア)軍管区はアルメニアではなく小アジア東北部にあり、トラケシオイ(トラキア)軍管区もバルカン半島東南のトラキア地方ではなく、小アジア西南部にある。どうしてこのような現象が生じたのだろうか。  結論から先に述べると、このずれは、テマを生み出したのがアラブ人の侵入であったことを物語っている。アラブ軍の攻撃を受けたオリエント(シリア)軍団・アルメニア軍団は小アジアに撤退し、そこに防衛体制を敷いた。都の皇帝直属軍(オプセキウム)とバルカンにいたトラキア軍団も小アジア防衛に動員された。アラブの攻撃が長期にわたったため、各軍団はもとの駐屯地に戻ることはなく、そのまま小アジアに定着した。その結果、それぞれの軍団の管轄地が、その軍団名で呼ばれるようになり、軍管区が成立したのである」(『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』, p. 57-58)。
「七世紀後半から八世紀初め、各地のテマの反乱があいつぎ、帝位はめまぐるしく交代した。この時期のテマは、軍事権と行政権をあわせ持つ長官のもと、中央政府の統制のおよばない半独立政権のような様相を呈していたのである。このようなテマを国家の地方行政単位へと作り変えてゆく過程、それが八−九世紀のビザンツ政治史の歩みであった。
 ……レオーン三世の支配体制は、各テマがもっていた権限を完全に否定するものではなく、その連合体制の上に皇帝が立つというもので、皇帝専制国家というよりもテマ連合国家と呼ぶべきものである。
 テマ連合体制が首尾よく機能するためには、各テマを強力に指導できる有能な軍人皇帝が必要であった。……しかし幼くして即位したコンスタンティノス六世(在位七八〇−七九七年)や女帝エイレーネーとなるとそうはゆかなかった。彼らの時代には再びテマ反乱が勃発し、テマ連合国家体制は揺らぐ。
 しかしながら、八世紀末から九世紀初めの動乱は、一〇〇年前のテマ反乱とは違って、テマを完全に抑えて中央集権体制を確立するための産みの苦しみであった。それによって、レオーン三世、コンスタンティノス五世のような皇帝個人の能力に負うのではなく、皇帝が幼くてもまた無能でも、きちんと機能するような専制国家が確立してゆくのである」(p. 70-71)。
「対外関係が安定化するとともに、各テマの力を抑えて、皇帝権力を強化させる政策が順次実施されていった。
 まずなされたのは大きなテマの分割である。コンスタンティノス五世時代に、最有力テマのオプシキオンからブケラリオイ・テマが分離されたのをはじめとして、九世紀になると次々と分割が行われた。ひとつのテマの管轄区域は小さくなり、テマ長官の権限も縮小した。
 テマ分割と平行して、強力な中央軍団の創設もはかられた。アラブ人の侵入に対して中央軍団も小アジア防衛に投入してしまった結果、ビザンツ帝国は、宮廷の警備部隊を除いて、中央軍とよべるようなものをもたない状態が長く続いていた。テマの反乱にあっけなく皇帝が失脚したのもそのためである。
 九世紀になると、テマ長官に対する細かな統制の行われるようになった。出身地に任命しないことや、任期を三〜四年に限ることなどである。任地での婚姻や土地取得も禁止された。テマ長官はなお文武の両権を握っていたが、長官のもとで行政を担当する役人のなかには、中央政府から派遣される者が増えてきた。これもまたテマ長官の権限を制限するのに有効であった。
 これらの方策によって、かつでのテマ長官のような、長期にわたってその地位にあり、地方で大きな勢力を持つ人物は現れなくなった。八二〇〜八二三年のスラヴ人トマスの乱を最後に大規模なテマ反乱はなくなる。ビザンツ帝国は皇帝専制体制のもとで安定期を迎えるのである」(p. 71-72)。

・11世紀の危機
「危機の根底にあったのは貴族たちの成長である。すでに十世紀に名門家系が成立していたことは名字の普及が示している。しかし当初は、官位の印章には名字を記さないのが慣例であった。『皇帝の奴隷』たる者は姓を名乗るべきではないというわけである。ところが十一世紀になると印章でも名字が用いられるようになる。そこには『皇帝の奴隷』から脱却してゆく貴族たちの姿が窺える」(p. 142-143)。

・ブルガリア経済
「都市は発展せず、貨幣もほとんど用いられていない。農民たちは現物で租税を納めていた。貨幣経済の発達していたビザンツ帝国に隣接し、コンスタンティノープルとも活発な交易をおこなっていたにもかかわらず、なぜブルガリアは自然経済にとどまったのであろうか。
 ブルガリア王国はビザンツ貿易に熱心で、穀物・家畜・亜麻・密などの農産物を輸出し、ビザンツの絹織物・貴金属細工品を輸入していた。注目すべきは、ブルガリア王が自国の商人に特許状を発行していたことである。租税として集めた農産物を特権商人の手でビザンツ帝国へ輸出することによって、王は富を蓄積した。それだけではなく、見返りとしてもたらされた絹をはじめとする奢侈品は、臣下の貴族に分配され、王の権威を高める手段となった。
 対ビザンツ貿易を独占するために、王は国内の商品流通を抑止した。国内の経済発展を押しとどめることが、ブルガリア王権の強化と、農村の貧困、貨幣経済の未発達の原因となった。
 ビザンツ帝国に近接し、その影響を強く受けたにもかかわらず、ではなく、受けたゆえに、ブルガリアは長く自然経済にとどまったというべきであろう。まさに両者はひとつのシステムを構成していたのである。このあとブルガリアは、ギリシア正教への改宗、ビザンツ帝国への併合によって、宗教的にも政治的にもビザンツと一体となる」(p. 91)。

・軍人貴族の乱の背景
「イサキオス・コムネノスの乱を始めといて、十一世紀に繰り返された貴族反乱は皇帝に対してふたつの要求を掲げていた。『気前よくあれ』と『節度をもて』である。ここには移りゆく時代の貴族の姿が反映されている。
『気前よくあれ』とは官位を与えよ、昇進させよということである。一〇五七年のコムネノスの乱のきっかけは官位の要求であった。皇帝の恩恵に与りたいというこの姿勢には、『皇帝の奴隷』の名残をみることができる。
 これに対して、一〇七七〜七八年のブリュエンニオスの乱は穀物専売政策に対する不満から始まっている。反乱貴族の主張は、我々の農業経営を妨害するなということであった。皇帝といえど侵すべきではない世界がある、『節度をもて』というわけである。
 おおざっぱにいって、十一世紀の貴族反乱は、官位の獲得からイエの経営へとその課題を移していった。この変化は新しい時代の到来を告げている。貴族たちが官位をめぐって相争う時代から、イエの経営者としての共通の利害を自覚し、団結して帝国を支配する時代への転換である」(p. 148-149)。




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