プセロス『年代記』4巻

1 ロマノスは以上のよう死に方をしたわけであるが、これは五年と半年の治世の後のことであった。皇后ゾエは彼の死を知ると――彼女は彼が死んだ現場に居合わせなかったのだ――明らかに自分が神の許可によって帝位の相続権を持っているとの印象を受けた彼女は万事を掌握した。実際のところ彼女は自分のために権力を握ろうと思っていたわけではなく、彼女の試みの全ては私がすでに述べた人物であるミカエルに冠を確保することを意図したものだった。権威ある地位を割り当てられていていた廷臣――彼らの大部分は家庭内の年取った家来だった――が夫の友人たちと、父の時代以来その家系に奉仕してきた家来たちと結託し、人たちが何らかの根本的で劇的な行動をするのを邪魔しようとし、反対が起こった〔「少なくともケドレノスによれば(p. 506)ミカエルの即位に反対したのはパトリキオスのコンスタンティノス・ダラッセノスだけである。総主教アレクシオスはたっぷりと賄賂を貰ってゾエの結婚に賛成するようそそのかされた」(N)〕。彼らは彼女に何らかの決定をする前に彼女自身にとって最も高貴な方途の何たるかを考えるよう忠告した。彼らが言うには、彼女を配偶者としてではなく正当な権利を持つ皇后として扱う気がある男の中で秀でた誰か一人が帝冠に上るべきである。
2 ありとあらゆる論議が彼女を説得するために動員された。彼らは自分たちの影響力が速やかに勝利して彼女が自分たちの味方になるだろうと信じていた。彼らには信じられないことに彼女は不動の忠実さでもってミカエルの支持に固執した。彼女のその男についての判断は感傷によって起こっていたものだったために理由は問題にならなかった。即位の儀式と権力のその他の記章の引き継ぎのための時間が取っておかれた。ミカエルの兄がある用向きで彼女に私的に近づいたが、それは並外れた知性を持つと同時に行動力も備えた宦官ヨハネスだった。彼は論じた。「もしミカエルの即位がこれ以上遅れれば、私たちは死ぬことになりましょう」今や完全に味方になっていたゾエはすぐさまその若者に手紙を送り、金を織り込んだ上着を着せて帝冠を頭にかぶせ、見事な玉座に座らせ、自らも似たような衣装をして寄り添った。それから彼女は、宮殿で暮らす全ての者は彼ら二人の前にひれ伏して彼らを共同統治者と呼ぶようにとの命令を発した。もちろん命令は遵守されたが、その知らせが宮殿の外にまで届くと、帝都の全体が彼女の命令への祝賀による分け前に与りたがった。大部分の人たちは新たな主君におべっかを使い、その継承への賛同を装った。古い方の皇帝はといえば彼らはこれをあたかも重荷か何かのように見捨てた。かくして快活で朗らかに、快適に満足しながら彼らはミカエルを歓呼の声で皇帝と呼んだ。
3 以下の布告は新帝の私的な友人によって夜に用意されたものだった。間もなく二重の命令が首都長官に送られた。彼は元老院の全員を連れて夜明けに宮殿へと赴いて彼らと共にミカエルの前でひれ伏し、次いで彼は仲間たちと一緒に故ロマノスの慣例に則った葬儀を行う〔というのが新帝の命令だった〕。かくして彼らは自分たちの義務のために参上した。一人一人入ってきた彼らは、玉座に座った主君夫妻を前に地面まで深々と頭を下げた。この忠誠の儀礼は皇后に対してのみ行われたもので、皇帝はというと、その上で右手への口づけの儀式が行われた。こうしてミカエルは皇帝にして支配者と宣言され、彼の帝国の最善の利益についての考慮へとつつがなく取りかかった。立派な棺台に乗せられた故ロマノスの葬儀は準備がすでに済んでおり、一同は通常の流儀で亡き皇帝へと敬意を払った。この棺台を先導したのは宦官ヨハネスで、彼について私はこの歴史書の中の適当な頃合いに論じるつもりである。
4 私はこの葬儀の行列をこの目で見た。この頃の私はまだ髭も生え揃わず、つい最近に詩の勉強に勤しむようになったところだった。実を言うと、死人を検分しても私は顔色からも外見からも彼を皇帝だと認知することができなかった。この度死んだのが皇帝だったと辛うじて分かったのは記章のおかげだった。彼の顔は完全に変わり果てていて人相は完全に変わっていたが、それは衰弱のせいではなくむくみのせいだった。それは遺体というよりはむしろ毒を飲んだことでむくんで顔白くなった人を思わせるもので、そういうわけで頬の下には全く血の気がなかった。彼の頭髪と頬髭があまりにも薄かったために彼の崩れた骨格はまるで火で荒らし尽くされた小麦畑のようだった――あなたは遠くからもその生気のなさが分かるはずだ。もし誰かが彼のために涙を流したとしても、全人民のある者は彼の手で受けた多くの悪事の、他の者は好意を享受できなかったために彼を眺めたにすぎず、一言の尊敬の言葉もなく彼にまなざしを向けながら行列の近くを進んだり護送していたせいで落涙したに過ぎなかった。
5 存命中のロマノスの有様と、彼が讃えられた葬儀は以上のようなものであった。修道院建設にかかった仕事と出費にもかかわらず、彼自身はその教会のごく一部、すなわちその遺体が安置された一角しか享受できなかった。
6 皇后への愛を示していたミカエルの態度と彼女へのまなざしは今の今まで芝居だった。もっとも何よりも変わってしまったのはこの芝居であり、彼女の愛と好意は根本的な忘恩で報いられるのにさして時間はかからなかった。恩人へのこの嫌悪も彼女のへの振る舞いも私は褒めはしないが、さりとてそうしなければ彼もロマノスのような破滅に陥ってしまうはずだというその婦人に対する彼の恐怖を支持しないというのもできないので、私はそのことで彼を賞賛することも難じることもできない。
7 この男への率直な非難に対する主たる反論は彼自身の性格に存しており、もしあなたがロマノスになされたこの犯罪行為から彼を放免し、姦通の罪状と彼が単なる疑惑によって人々を追放したという告発からも彼を放免するのなら、この男はローマの諸皇帝のうち第一級の座を占めることになるはずだ。まこと彼にはギリシア的な教養が全く欠けていた一方で、そのような教養を持つと公言していた哲学者たちよりもその生来の性格においていっそう調和していた。壮年期と若い花盛りの時期を通して彼は自らの身体を支配した。身体的な情念は到底彼の理性を打ちひしぐには至らなかったので欲望の厳格な統御が発揮され得た。厳めしいかったのは彼の目つきだけではなく、その魂もそうであった。さらに彼は当意即妙の返答が上手く彼の舌はこの目的に長けており、朗々とした美声での彼の話しぶりは流暢で退屈とはほど遠かった。
8 彼は法や規律に関することに判断を下したりそういう事柄を証明することで苦労することはあっても、口達者な連中はほとんど彼をやり込めることができなかった。しかし問題の要点が思索によって解決するようなものであれば、彼はすぐに多くの提案を出し、込み入った議論をした。そういったことの熟練者のうちこの男の群を抜いた生来の能力に太刀打ちできる者はいなかった。
 もちろん彼にはそんな時間はなく、私は彼の治世の開始点へと戻るべきである。私の主題は即位の当日からいかに彼が用心深く公の問題の管理を担ったことを示すことである。
9 私が示してきたように、この男の最高権力への出世の始まり方は明らかに立派なものではなかった。にもかかわらず、帝国の主人になって間もない頃の彼はまるで冗談事のように帝国の支配を扱っていた。彼はいくつかの危機や出来事の予期せぬ変転が起こるまで決定を下さず、その間には妻を楽しませて彼女のための娯楽と気晴らしの計画をするのに時間を費やした。しかしひとたび帝国の見事さを見て取ってその管理のために必要な用心の多様な性質と国家の世話に関わる非常に多くのを困難――真の皇帝なら直面するに違いない困難である――を認識すると、彼の性格は突然にして徹底的に変わった。それはあたかもあたかも成人に育ってもはや少年ではなくなったかのようで、その瞬間から彼はより男らしくより立派に帝国を支配した。
10 この皇帝には私が賞賛せずにはいられない特質がもっとあった。彼の生まれは卑しく、大なる幸運の時期にあっても平衡感覚を失わず、権力に困惑することもなかった。彼のいつもの習慣は何一つ変えられなかった。彼は用心深くずっと前からその仕事のための訓練をしてきたと考えたくもなろうが、彼は自然的にその域に達したようである。即位の日の彼は何年も前から皇帝になるよう宣されていた人のように振る舞い、人々も彼のことをそんな風に思った。彼は出来合いの習慣に何ら革新をもたらさず法を無効にすることもなく、前任者の精神にもとるようなことは何一つ導入せず元老院議員を一人も排斥しなかった――これらは新たしい支配が始まった時に付き物の変化なのだが。出世の前から彼の味方になって力を貸していた人たち、あるいは彼が義務を負っていた人たちはというと、皇帝になった彼は彼らの期待を裏切らなかった。ただし高位への出世が即座ではなかったことを除けばだが。つまり、彼はまず試しに彼らを卑しく取るに足らない職務で雇い、より重要な地位へと徐々に登らせた。もし彼の兄弟たちが何か邪悪な星の下に生まれていなければ――このために彼は家族の幹と枝〔本家の家族と分家や親戚のことであろうか〕を一掃することができず、彼らの邪悪な資質のせいで彼らを正直者にすることができなかったわけだが――彼らはこんな風にはならず、名高い諸君主のうち彼に並び立てる者はいなかっただろうと私は認めざるを得ない。
11 私の時代――私は自分の人生の多くの経験を伴い、最後の一年まで続いた期間のことを言っている――の皇帝のうちで私の知る限りでは誰一人として最期の時まで全く非難を受けないまま帝国の重荷に耐え抜いた者はいなかった。ある者は生来邪悪で、他の者は或る人々との友情によって邪悪になり、さらに他の者は他の人たちと共通の諸理由によって再び邪悪になった。そういうわけでこの男の場合も例に漏れず、彼自身は善良だったが、兄弟への扱いにおいて彼はあまり思い切りやるができなかった。一見して自然が彼らを生んだ時、ミカエルにはより貴い資質が与えられていたが、他の兄弟には正反対の資質が与えられた。彼らの各々は兄弟たち〔ミカエルとヨハネス〕の地位を強奪しようと望み、海でも陸でも彼らのうち誰にもが生きて広い世界で孤独に暮らすことを許さなかったため、あたかも神の何らかの思し召しによって海と陸は彼自身の相続物になった。しばしばミカエルは戒めによってではなく激しい悪口雑言、怒りを込めた叱責、そして乱暴でぞっとするような脅しによって彼らを押さえ込もうと試みた。長兄ヨハネスがこの上なく抜け目なく彼らの事柄を統括していたためにそれも無駄骨に終わった。皇帝の怒りを和らげて兄弟たちに好きなことをさせる許可を獲得したのは彼だった。そして彼がこれを行ったのは彼らの振る舞いに賛同していたからではなく、そんな状況にもかかわらず彼が家族の面倒を見ていたからだった。
12 この歴史書の中での私の望みは出来合いの文言の引用に頼ることなくヨハネスについての多少はより十分といえる記述をすることである。あなたは分かってくれるだろうが、自分の髭が生え始めた時に私は彼その人を見たものだし、彼が話すことを聞いて彼の行動を目撃したものである。私は彼の特質にしっかりと注目し、彼の行動のあるものは賞賛に値するものであるにもかかわらず、彼の人生での他のことは一般的な賛同を得ることはできないようなものであることに気付いた。あの時の彼の性格には多くの面があった。彼には鋭い機知があり、もし抜け目のない人がいるとすれば、彼こそがそのような人物だった。彼の鋭い眼差しはそれらの資質を如実に示していた。彼は自分の責務に細心の注意を払っており、事実彼はきわめて勤勉に責務の実行にあたった。政府の全ての部署での彼の経験は凄まじいものだったが、とりわけ彼の知恵と抜け目なさは公費の管理で目覚ましかった。彼は誰にも悪意を見せなかった。けれども同時に、誰かが彼の重要性を過小評価しでもすれば、彼は苛立ちもした。彼が〔他の人の〕魂に何の害も及ぼさないとしても、彼はどぎつい表現を人々との関係の中で使って人々を皆を恐れさせていたことであろう。容貌が関係する限りのことでは彼は彼らを実際に傷つけていた。彼らの大部分は彼を見かけると身震いし、邪悪な行動を差し控えた。したがってヨハネスは実の兄弟たる皇帝にとってはまぎれもない防波堤だったわけであり、それというのも彼は寝ずの番では決して気を緩めず、昼も夜も、否、悦楽に身を委ねていたり宴会と公的な儀式と祝祭に参加している時でさえ責務への熱意を全く忘れなかった。彼に気付かれずにいられることは何一つとしてなく、誰も彼から逃れることはできなかったが、それというのも夜の時ならぬ時間に彼は突然馬に乗ってはありとあらゆるへんぴな場所と大都会の隙間を駆け巡ってはまるで光のきらめきのように人の住まない地区の全てをたちまち横断していたため、誰もが彼を恐れて彼の監督に震え上がっていたからだ。彼がこの視察に出かけたことを知る者がいなかったとしても、誰もがピリピリし、大人しくなって縮こまった。公の場では家の中で自分の人生を私人らしく生きる人に会うことができなかった〔つまり、家の中でも羽を伸ばせないほどヨハネスの監視を恐れたということ〕。
13 人々が賞賛するこの男の資質は以上のようなものであるが、反対の種類の資質も他にあった。彼は気まぐれだった。彼は自分と話す人の意見に完全に自らを適合させ、それぞれの会話に際して多くの顔を見せた。人々が話を持ちかけてくると彼はそのあら探しをした一方で、彼らがあまりにも遠ざかると、彼らを引きつけようとしてあたかも初めて会った時のように愛想良く語りかけた。その上、もし誰かが国家にとって大いに役に立つことが分かりそうな知らせを届けてくると、その知らせに対する恩義を避けるために彼はずっと前にそれを知っていたふりをするのが常で、それから遅れたといってその人を叱った。後者の人が当惑しながら立ち去る一方でヨハネスは必要な手を講じ、隠蔽のためならば面倒事はおそらく最初の段階で一掃することもできた。より偉大な壮挙を成し遂げて国家の事柄をより皇帝らしく運営するという彼の大望は彼自らの生来の習性によって挫かれたのであるが、本当のところを言えば、それは彼が自らの根深い貪欲さを御するのについぞ成功しなかったということである。したがってひとたび酒を飲み出すと――これは彼につきまとう罪だったのだが――彼はありとあらゆる下品な行為に頭からのめり込んだ。そんな時でもなお彼は帝国の世話について忘れたことはなく、猛獣が眼前にいるかのようにくつろぐことがなく、彼の言い回しは厳めしかった。
14 宴会で私が彼と同席してこの男の様子を観察した時のことだが、まるで奴隷のように酒を飲んでは下品なことをするこの男が帝国の重荷に耐えることができたことはしばしば私の驚愕の原因になった。彼は杯を持ちつつ仲間たちがどう振る舞っているのかを用心深く見ていたのであろう。後にあたかも現行犯で捕まえたかのように彼は彼らに酒を飲んだ時の言動を問い質し尋問した。このため、素面の彼より酔っ払った彼を彼らは一層恐れるようになった。現にこの仲間〔ヨハネス〕は際立った混合物だった。長らく彼は修道士のような暮らしぶりをしていたが、夢の中ではその衣服に相応しい上等な振る舞いにあまり気をとめていなかった。長らく定着していた習慣が何らかの儀式を要求したとしても、なお彼はその役を演じただろう。感覚的快楽に止めどなく浸っていた放蕩者たちに関してヨハネスは彼らをただ軽蔑するだけあった。他方で誰かが品位のある生き方を選んでいるか美徳の自由な行使に時間を使っているか、あるいは学問の勉強にその精神を役立たせていれば、その者はヨハネスの中に執念深い敵を見出したことだろう。この宦官は何らかの道における他者の値打ちのある野心を意図的に誤って伝えることだろう。彼の他者に対する扱いのこの逆説的な振る舞いは兄弟である皇帝と一緒に行動している時に繰り返されることはなく、ミカエルと一緒なら彼の態度はミカエルと一心同体でたがうことなく、変わることもなかったからだ。ヨハネスはどんな時でも彼の前では何の隠し事もしなかった。
15 〔ミカエルは〕全部で五人兄弟だった。その性格に関してミカエル帝は他の兄弟とは正反対だったが、私が今し方述べたところの宦官ヨハネスは美徳に関してのみ彼に劣っていた。ある種独特だった彼は他の兄弟とは比較にならなかった。そのことをよりはっきりさせるために私は、三人の他の兄弟に対する彼の態度は皇帝の態度とは正反対だったと言っておきたい。彼と比べればヨハネスは甚だ劣っていたが、一定の類似点もあった。彼も兄弟たちの手に負えない振る舞いを嫌がっていた。他方で彼は彼らに深い愛情を感じており、これほどの兄弟愛を示した者はいないほどだった。そういうわけで彼はその悪事のために〔譴責などのために〕彼らを呼び出すのには乗り気ではなかった。ミカエルは何が起こったのかに決して気付くまいと信じていた彼はむしろ彼らの不行状を隠し、彼らのために一層の自由を要求する傾向にあった。
16 兄弟たちについてはこのくらいにしておく。皇帝に話題を転じてみよう。しばしの間彼はゾエのことを大変気に留めながら扱っていたが、すぐにその段階は終わった。彼は彼女の動きを疑い――家中には疑うだけの理由があった――彼女の自由はどんなものであれ取り上げた〔現にゾエはヨハネスの毒殺を企んでいた(Cedrenus, 741C,p. 519)(N)。〕。彼女がいつもしていた宮殿からの外出への許可は拒否され、彼女は婦人たちの区画に閉じ込められた。訪問者の本人確認、出自、そして目的についての用心深い調査をした後、まず親衛隊長が権限を与えない限りは誰も彼女に近づくのを許されず、彼女はこのような監視下に置かれていた。まったく当然のことながら彼女はこの扱いで辛い思いをした。皇帝に恩を施していた時の彼女にはこのような憎悪で報いられようとはよもや夢にも思われなかったことだろう。にもかかわらず彼女はミカエルの決定に背くのは適当ではないと顧慮して自制し、彼女は親衛隊からの全ての保護を剥奪されて全ての権威を失っていたために、彼女が何らかの行動を起こしたり彼の意志に刃向かうことを望んだところで彼女には何の機会もなかった。ともかく彼女はおしゃべりという卑劣で女々しい特質を免れており、情動のほとばしりもなかった。彼女は皇帝に愛も、彼が過去に見せてくれた信頼も思い出させたりはせず、彼の兄弟が脅しと悪口雑言で彼女を打ちのめした時に彼らへの怒りを表に出したりもしなかった。一度たりとも彼女は親衛隊長を恨みがましく見たりはせず、彼女の前から彼がいなくなるのを寂しがりもしなかった。逆に彼女は全ての人に親切で、まるでこの上なく利口な弁論家のように別々の人々に別々の状況で順応した。
17 しかし他の人たちはゾエを喜ばせるために自分の態度を変えようとは決してしなかった。事実、彼らはまるで彼女を当面の間は獰猛さを脇に置いているライオンのように極度に恐れていた。したがって彼らが自らの身の安全を求めるであろうことは自然のことだった。ありとあらゆる障壁と壁が彼女の攻撃から彼らを守るために建てられた。彼らが絶えず寝ずの番をしていた一方、皇帝はといえば徐々に彼女と会うのを控えるようになった。これには多くの理由があったことを私は知っている。彼女との夫婦関係は不可能になり、今になって彼を脅かす病弊がいつも現れるようになっていたのだ。彼の健康は蝕まれて体調は悪化した。そうかと思えば彼はゾエを見れば恥ずかしさでいっぱいになり、どうやって自分が愛を裏切って約束を破ったのかを知っていたので彼女の視線に耐えることができず、言葉を失った。第三に、彼が権力を得るためにしでかしたことについてある聖なる人たちと対話をしてこれらの紳士たちから健全な忠告を受けると、彼はありとあらゆる行き過ぎを控えて妥当な交わりすら控えた。彼には他にも恐れていたことがあり、これのために彼はこれ以上皇后のもとを訪れようとはしなかった。もはや今までのような長い間隔を置いた精神錯乱が彼を苛むことはなくなり、何らかの外的影響で病状が変わったのか、はたまた内的な作用が合致したかしたために発作はより頻繁に起こるようになった。他の人の面前では、誰かが来た時にはあまり困っていた様子は見せなかったが、皇后の前ではひどく赤面し、予期できなかった状況で病弊が彼に影響を及ぼしたため、彼は彼女を見ていられなくなった。もし彼女がそんな風に彼を見ていれば、彼は恥じ入ったことだろう。
18 これらを理由として彼は滅多に人前に姿を現さなくなり、他人との社交での自信を失った。彼が謁見や他の通常の儀礼を行おうと望む時には特定の人たちが彼を観察して見守る責務を任された。これらの役人は彼の両側に赤い幕を垂らし、彼が僅かでも頭を回したり居眠りしたり、病気の発作を知らせる他の印を使うのを見るやすぐに謁見した人に去るようにと頼み、幕を下げてその後ろで自ら彼の世話をした。〔病気の〕攻撃が素早ければ彼は一層素早く回復し、その後の彼の振る舞いには病気の何の痕跡もなかった。彼は速やか且つ明らかに自らとその理性の支配者となったことだろう。徒歩や馬で出かけていようとも親衛隊の円陣が彼を護送することになっており、彼が病を感じると、彼の難儀を知らない人から見られるのを恐れることなく四方八方から彼の周りに集まって世話をした。とはいえしょっちゅう彼は落馬した。ある時など、馬に乗って川を渡っていた最中に病魔が彼を襲った。事件を予期していなかった親衛隊はその時は多少離れたところにいて、突如彼が鞍から転げ落ちて地面の上で痙攣するのが群衆の目にとまった。誰も彼を起き上がらせようとはしなかったが、彼らは彼の悲運への憐れみで満たされた。
19 これらの出来事の結果はこの歴史書の適当な場所で述べられるはずである。我々は病身の皇帝を見てきた。ここで彼が健康だった時にはどんな人物だったのかを見ていきたい。発作と発作の間の期間、彼の理性が正常だった時、彼は帝国のことを考えることに全身全霊を捧げていた。彼は領内の諸都市に善政を保証しただけではなく、国境外の諸民族がローマ領へ攻め込むのを防ぎもした。彼は一面では使節の派遣によって、もう一面では賄賂により、他面では軍事力を毎年見せつけることでそれを行った。これらの用心のおかげでエジプトの支配者もペルシアの支配者も、バビュロニアの支配者も我々と結んだ協定の条項を破ることがなかった。より遠隔の人々のうち誰も敵を大っぴらに示すことはなかった。実際にある者たちは現状に完全に甘んじた一方で、皇帝の目が届くことを了解していた他の者たちは彼の報復に怯え、絶対的な中立政策を採った。公的財源の整理と統御は彼の兄弟のヨハネスに委任されていた。内政の大部分もヨハネスに任されていたが、残りの事柄はミカエル自身が経営していた。今や民政の主題のいつかに彼の対応が要求されていた。他の機会に彼はローマ帝国の「筋力」、即ち軍隊を組織して強化するつもりでいた。しかし彼に作用し始めていた病が進展して頂点に達した時にもなお、あたかも病など屁でもないかのように彼は帝国の全てのことを差配していた。
20 彼が徐々に衰えているのを見ると、彼の兄弟ヨハネスは自分自身と家族全員のことで恐怖に駆られた。支配者の死後の全般的な混乱のさなかにあって帝国は彼のことを忘れ、彼はありとあらゆる厄介事に直面せざるを得なくなるだろう。そういうわけで彼は誰がどう見ても最も賢明だが、その実は最も危険で、実際に事の結果がその危険性を証明することになった方策を採った。なるほどこれこそが完璧な破滅としか言いようがないような乗組員全滅を伴った難破の直接的な原因だった。しかしそれは後に来るべき話である。それはともかく、皇帝の回復への希望を捨てたヨハネスは他の兄弟たちには内緒で彼と会談した。その話し合いで彼がした提案は誠実というよりはうわべだけのものだった。それはこのようにして起こった。ある日、彼はミカエルが一人でいるのを見つけ、長ったらしい言い回しで自らの考えを糊塗しつつ、明らかに彼に無理矢理に質問をさせようと企んで以下のように話し始めた。曰く、「わたくしが単に兄弟であるだけでなく主君であり皇帝であるところの陛下に尽くし続けてきたこと、これを天はご存じでしょうし、全世界もまた知っているところであります。まさか陛下ご自身がそれを否定することはございますまい。しかしながら、わたくしは控えめに申しましても残りの家族の要望と共通の益についての彼らの意見と利害も幾ばくか気にかけておりまして、陛下もまたこのことを他の誰よりもご存じのはずです。さて、わたくしは陛下が在位しておられる期間については何ら案じることはありません。わたくしが保証を求めておりますことといえば、それから先のことでして、わたくしは帝冠が攻撃から解放され続けることを確実にしておきたく思っております。もしわたくしが人々の舌を抑えることができなければ、少なくともわたくしの施策は万人の注目を陛下へと、そして陛下お一人へと向けさせていたでしょう。もしわたくしの忠誠の確実な証をお受け取りになったならば、そしてわたくしが自らの責務に真摯に取り組んでいたことを陛下がご存じになっていれば、わたくしとしましては陛下がわたくしの以下の考えを脇に追いやることのないようにと請い願うものであります。もし陛下がそうなさるのならば、これは結構なことで、わたくしから申し上げることはございません。わたくしが陛下のお叱りを免れないことには、どこで我らの運命が終わりを迎えることになるのか、私は今申し上げるつもりはございません」
21 この言葉で皇帝はひどく取り乱した。一体全体それはどういう意味で、この話の主題は何だと彼は尋ねた。「貴殿の余に対する忠誠は百も承知、一時たりとも忘れたことはないぞ」
 他方の者はこの告白に乗じて続けた。「陛下、陛下が明白な病で苦しんでおられて、このことを秘密にしてすらいることを人々が聞きそびれたりこの目で見落とすなどとはゆめ思いませぬように。もちろん、陛下が病から悪影響を受けることはないとわたくしはよく存じておりますが、陛下がお隠れになったらどうなるかがいつも人々の噂の的になっております。そこで、なのですが、わたくしの心配とはこういうことなのです。陛下の崩御が間近だと彼らが信じているおかげで陛下に反旗を翻す者が出てくることになりましょうぞ。彼らは誰かを自分たちの味方として担ぎ上げ、陛下の帝位にその者を登らせることでしょう。わたくし自身の事情と我が家族全般の事情に関してわたくしはあまり心配しておりませんが、陛下のことは案じております。良き公正な皇帝が無思慮として非難を受けることになりでもすれば、それはぞっとするようなことです。もちろん、その皇帝自身は危機を逃れるでしょうが、将来にわたってその欠点のことで難じられることを逃れることはできますまい」ミカエルにはこう答える用意ができていた。曰く「そうくれば余はこう尋ねてみようか。この予知〔ミカエルが無思慮として非難を受けるという予測〕とはどんなものなのだ? そしてどうやれば我らは人々の悪口を阻止できようか? 革命の待望についてもっと余に教えてくれ」

皇后がミカエルを養子に迎え、彼が副帝に昇進したこと
22 ヨハネスが答えて曰く「容易いことです。それに全ての準備はできております。もし我らが兄弟が死んでいなければ、陛下は彼を国家において第二位の権能、すなわち副帝の職務を授けることになったことでしょう〔ここでの兄弟とはヨハネスの姉妹のマリアの夫、ヨハネスにとっては義兄弟のステファノスを指している(N)。彼は1035年のシケリア遠征艦隊の提督として出征したが、大敗を喫した。1040年に再び彼はシケリア遠征軍の総司令官となったが、彼の能力の欠如のおかげで彼の前任者であった名将ゲオルギオス・マニアケスによるシケリアの再征服は水泡に帰した。疑いなく彼の地位は義兄弟のおかげであった。〕。死が彼を我々から奪ったおかげで、陛下もご存じの我らの姉妹の息子であるミカエルが陛下の親衛隊の指揮権を委ねられております。なぜ彼を副帝にされないのでしょうか? 彼は以前以上に陛下に忠勤を尽くすでしょうし、彼はその地位を単に名目的なものと見なすことでしょう。称号を保有することを除けば彼は陛下の一番身分の低い奴隷以上のものではありません」彼はこれらの説得力のある議論で皇帝を圧倒し、新たな施策への同意に至るや彼ら二人はどうやって実行しようと話し合った。ヨハネスは再び忠告を進んで行った。「陛下は帝国の相続権はゾエ様にあり、全ての人々が彼女により大きな忠誠を持っていること、それは彼女が女であると同時に帝権の継承者であるためであることはご存じでしょう。その上、気前よくお金を分配していたために彼女は人々の心を完全に掴んでおります。したがってわたくしは、我らは彼女を我らの甥の母となし――もし彼女が彼を養子にしたならば好都合でしょう――同時に彼女に彼を副帝の地位と権威へと昇進させるよう説き伏せるべきだと提案いたします。彼女が拒むことはないでしょう。ゾエ様は十分に怒りを収めていますし、いずれにせよ彼女はどうしようとも我らに刃向かうことはできないのです」
23 皇帝はその計画が良かろうと賛同し、彼らがその計画をゾエに知らせると、彼らは彼女の説得は非常に簡単なものだと悟った。したがって直ちに彼らは実行へと移った。公の典礼についての通達がされ、全ての高官たちがブラケルナエ宮殿の教会に勢揃いした。聖なる建物が満杯になると、皇太后は養子に伴われつつ宮殿からいざなわれた。皇帝は彼に皇后との新たな縁について祝いの言葉を述べ、正式に副帝の称号へと昇進させた。それからその集会で彼に拍手喝采が送られ、こういう機会にとって適切な通常の儀式と典礼が彼の栄誉を完成させた。この後に会合は閉会された。ヨハネスはというと、自分の全ての厄介事が今終わりを告げて家族の命運が今確固たるものとなったと信じたため、彼は自分がどれほど喜んでいるのかかほとんど分からなかったほどだった。
24 この出来事は実際には将来の大いなる厄災の始まりであり、一族の栄光の礎石が本当は完全な破滅の元だったことが誰の目にも明らかなように証明されることになった。私はこの歴史書で後にその真理性を証明するつもりである。今のところは皇帝の友人たちが私の述べたような仕方で問題を解決し、間もなく皇帝が病で倒れたことで帝位を継承することになる地位に推定相続人であるこの若い副帝を据えたことで十分としておこう。事がこのように進むと、彼らは自らの地位が長続きすることに関心を寄せるのをやめ、自分たちの利害は今や完全に確実なものとなったと確信した。皇帝がすぐに自分の行動を後悔したのかどうか、あるいは甥に対する感情が何らかの変化を被ったのか私は知らないが、彼は甥を副帝としては扱わずにその高位を全く尊重せず、承認された栄誉すら彼に与えようとはせず、権力の外的記号だけしか享受できないように差配した。
25 私自身には副帝は宮廷の高官たちの真っ只中で隅っこにいて誰かが皇帝のために自分で頑張って何か面白い話をしてくれるような様を見てきた。公的な宴会で副帝の場所を占めていた時以外、彼が皇帝と食卓を共にすることはなかった。入り口に衛兵がいて副帝の本部と似た天幕が彼のために設えられようとも、それは目立たない場所にあり、皇帝の兄弟が陣取る天幕のように見えた。類似は偶然のものではなく、彼らは今や兄弟の命を案じていて〔兄弟即ちミカエル四世の命を心配するというよりは、いつ死ぬかと待ちに待っていたということであろうか。〕甥に自分たちの希望を賭けていたために異様に厳重に警護しつつ後者を扱った。彼らは彼の品の良さに取り入って皇帝並みの栄誉を惜しみなく与えた。また他の事柄においても彼らの行動は将来の政権での高い地位を確保して、そのための道ならしをするために計画されたものであった。かくして彼らは彼にコンスタンティノポリスではなく郊外の区画にある住居を譲渡した。一見して彼らはこれを注目に値する栄誉として計画していたようだったが、実は偽装された追放の類いだったわけで、それもこれも彼らが行き来していたのは彼自身が望んだ時にではなく彼に命じた時だったからだ。最も突飛な夢の中でさえ彼は伯父の庇護から毛ほども恩典を得ていなかった。
26 今この男について多少の説明をさせて貰いたい。彼の家族は父方ではまるで取るに足らない、まったくもって曖昧模糊としたものだった。彼の父は完全に見放された地方ないしは世界のどこか他の端っこからやってきた。彼の生業は穀物の種を蒔くことでもぶどう園を育てることでもなく、本当のところ彼は自分の土地と呼べるようなものは一切持っていなかった。追い立てる牛の群れもなく、番をする羊の群れもなかった。彼は農場の管理人でもなかった。彼には他に何一つ生業がなく、その兆しすらなかった。否、ある仲間が彼の関心を海へと向けた。彼には商業に従事する気も、船で航海士として活動する気も、船が港に入ったり海に出たりする時に報酬を取って案内をする気もなかった。しかし彼が陸から振り向いて今になって海に自分の生き方を探ってみたところ、彼は造船の道で大物になった。彼が材木を切って船で使う木を植え、板を貼り合わせて固定するなどと想像しないでもらいたい。ちっともそうではなかった。彼がしたことといえば、他の者が組み立てをしている時に組み上げられた部品を器用に樹脂で汚すことだった。この悪賢い手練手練れを持った男が船に最後の仕上げすることがなければ、一艘の小舟もできず、海に進水することになる一隻の新造船もできはしなかったことだろう。
27 後に彼は運命のおもちゃになり、生き方全体が変えられてしまった。私は変身後の彼を見たことがあるが、彼に携わっていたものと調和したり一致するような兆しは何もなかった。彼の馬、彼の衣服、この男の外見を変えるような他のあらゆるもの――全てが元々のものとは違っていた。それはあたかも小人がヘラクレスの役を演じたがって半神のように自分を見せたがっているかのようだった。こういった人がそのようにしようとすればするほどに彼の見かけが彼の間違いを示すものである――獅子の皮を着込んではいるが、蟹に痛めつけられるというのだ! そういうわけで、この男には何一つ立派なことがなかった。
28 ミカエルの父方の家族はこのような具合だった。彼の母方の祖先を辿りたいと思う者がいれば、彼のおじ〔ミカエル四世〕を除けば彼の父の先祖とは大した違いがないことを見て取ることだろう。彼がそこから現れたところの種族は以上のようなものだった。彼自身についていえば、彼の自信を構成した全ての事柄は――世の中で身分の高い地位もあるが、少なくとも外見上は――彼が両親にあまり似ずに育ったということだった。彼は「灰の下の炎」を隠すことでは際だった天賦の才を持っており、言わば彼は親切な外見の下に邪悪な本性を隠していたのである。彼は見込みのない計画を思いついて企む達人だった。彼は恩人には配慮を見せず、彼に対する献身に際しての友情や気遣いに対する感謝を誰にも見せなかった。しかし彼の秘匿する力は全てを隠し通せるほどのものだった。副帝への昇進の後、彼が正帝になるまでに実に長い合間があり、彼はどうやって支配しようかと、もちろん密かにではあるが心中で想像し始めた。彼は自分でその場面を描いては自分がするつもりのことを企み始めた。家族の成員の誰もが同様に思われていた。自分に好意を見せて出世の手伝いをしてくれた全員の破滅を彼は企んでいた。彼は皇后には激烈な怒りを覚えていた。彼はおおじの何人かを殺してその他の者は追放するつもりでいた。四六時中彼はこんなことを想像しており、彼らに親しさをいつも通りに示すという点ではいっそう慎重だった。宦官ヨハネスは彼の裏切り計画の主要な対象だったが、ミカエルの振る舞いには何の兆しもなかった。なるほど、この甥は下位の人間らしく振る舞い続けてヨハネスを「閣下」と呼んでいたためにこういった事柄の隠蔽ではいっそう器用だった。彼が言うには自分の生命と身の安全の希望はヨハネスの手に握られていた。
29 副帝の術策について他の人は気付いておらず、彼らは彼の魂の隠された内奥を何も知らなかったが、ヨハネスの認識はミカエルの演技よりも鋭かった。ヨハネスにとっては全ての用件が疑わしかった。これにもかかわらず彼は施策の速やかな変更が求められているとは考えず、好機が来たら行うつもりだった。他方で副帝が彼の策略に惑わされることはなかった。かくして両者は互いに睨み合い、善意を装いつつ互いに密かに陰謀を練っていた。各々は自分が敵対者を騙し通せていると思っていたが、それでもなお他方の計画を知らないわけでではなかった。しかし引っかかったのはヨハネスで、それは彼が自分の悪賢さを完全に活用し損ねたからだった。副帝を退けて失脚させる好機を逃したことで彼は家族全員の不幸へと頭から真っ逆さまに落ちていった。私はその話については後ほど語るつもりである。
30 偉大な出来事を支配するものを神の摂理に帰するのが私の習わしであり、むしろ私としては、我々の人間本性が堕落してさえいなければ全ての出来事は神意に由来すると考えているほどである。私の意見では、この出来事もまた人間の洞察と指図を越えたものから由来するものである――ここで私は、この家族全員が副帝によって全滅させられるであろうと神が知っていたために、帝位の継承が家族の他の成員の誰でもなくこの副帝に訪れたという事実のことを意味している。しかしその主題については後に扱うつもりである。
31 皇帝の全身の腫れは今や明らかで、彼が苦しんでいる水腫に気付かない者はいなかった。彼は治癒を期待して祈祷や清めといった色々な方法を試したものだが、彼は特にある理由――アナルギュロイを崇敬して教会を帝都の近くの東岸に建設したこと〔「聖コスマスと彼の兄弟ダミアヌスは四世紀初めのディオクレティアヌスの迫害で死んだ。彼らは医者で、無償で治療をしていた(ここから彼らはアナルギュロイ〔銀(Argyros)無し(an)。治療に対する代金を取らないという意味。〕という名がついた)。ユスティニアヌスは彼らを讃えてコンスタンティノポリスに教会を建設した」(N)。〕――から完全回復を確信していた。それは栄光に充ちた業績だった。実際のところ全部の基礎をミカエルが建てたわけではなく、彼がしたのは広い区画にこれらの基礎を設けることだった。以前からその場所にはある聖なる建物が建っていたが、語るに値するほど見事というわけでなければその建築様式は目覚ましいものではなかった。今や彼はこの建物を美しくし、増築し、壁で囲んだ。新しい礼拝堂はその栄光を高めた。全ての工事が終わると、彼はこの教会を修道院として奉献した。聖なる諸々の教会の建築に関する限りではミカエルは職人の技術と壮麗さの両方で全ての先達を上回った。この建物の奥行きと高さは新たに対称的にされ、彼の礼拝堂は調和によって無限の美を得ていた。最も美しい石が床と壁に使われ、教会全体が黄金のモザイクと画家の技術で煌めいた。ほとんど生きているかのようないくつもの絵があらゆる場所に展示され、聖なる建物を栄光で満たした。これら全ての他に見事な浴場、無数の泉、美しい芝生、そして目を楽しませ魅了する他の様々なものがこの教会の近くにあり、実質的には敷地内に組み込まれていた。
32 この全ての事業は幾分かは神を称えるためのものだったが、皇帝は「神の僕たち」の機嫌を取り、おそらく彼らが彼の病気を癒してくれるだろうとも期待していた。彼の寿命は尽きていて健康は依然として崩れ続けていたためにそれは全くの無駄骨だった。したがってついに彼は回復の希望を完全に捨てるに至った。今や彼は死後の審判で頭がいっぱいになった。彼はこれを最後に自分の魂に付きまとっていた罪からきっぱりと手を引いた。
33 一部の人々は彼の家族に対してはっきりとした好意ではなく偏見を持っていて、ミカエルが権力を手に入れる前にある神秘的な儀式が最高権力を求めるよう彼に影響を与えていたと話していた。彼だけに見えたぼんやりとした亡霊たちが(伝わるところでは)彼の未来の昇進を予言し、この仕事の見返りとして彼らは彼が神への信仰を否むことを要求した。彼らの話によれば、今の彼を苛んでいたのはこの取引であり、このせいで彼には安息が与えられず、全能の神との平和から彼を締め出してしまったという。この話の真偽を知っているのは、彼と一緒にこれらの儀式に参加して幽霊を装った人あろう。もしこれがただの作り話ならば、私のこの主題についての意見は無視できないものであろう。明らかに、歴史的なことに関して人々は作りごとをする傾向があるために一般の人々の間で流布する中傷は私にとってはあまり説得的だとは思えない。私は自分が聞いたことを信じるより先に、そういった話は吟味することにするのを常としている。
34 私は即位後のこの男が敬虔な性向を持っていたことを知っている。彼は聖なる教会に定期的に通っていただけでなく、とりわけ哲学者たちの言うこと耳を傾けていた。ここで「哲学者」という言葉で私が示しているのは宇宙の原理を発見しようとした――そして彼ら自身の救済の原理を等閑した――人たちでもなければ、自然の本質を探求した人たちでもない。私は世界を軽蔑する人とこの世界で動物と共に暮らす人たちのことを意味している。ではそういった暮らしを送る人たちのうちで皇帝に知られずにいられる者がいようか? 隠れている人を日の光の下に連れ出すために彼が徹底的に探さなかった陸と海、割らなかった岩と地上の秘密の洞穴があろうか? ひとたび彼が彼らを見つけるや、彼は宮殿へと彼らを連れて行ったことだろう。それからどれほど彼が彼らに敬意を払い、彼らの塵で覆われた足を洗ったことか、そして自分の両腕を彼らに差し出し喜んで彼らの身体を抱擁することさえし、密かに彼らの古着を着て皇帝のベッドに彼らを寝かせつつ、自身は硬い石を枕にしながら粗末な長椅子に横たわるということをどれだけしたことか? 善行の一覧を語り尽くすことは如何様にしてもできないが、私のここでの目的は頌徳文を編むことではない。私は単に出来事を述べているのだ。
35 本当のことを言えば、ほとんどの人が病気にかかった人の共同体をいつも避けていた一方で、この男は尋常ではないことを行った。というのも彼は頻繁に彼らに付き合って彼らの身体の爛れて痛む部位に顔を当てて−−なお一層驚くべきことに−−彼らを抱擁して腕で抱き、あたかも自分が奴隷で彼らが主人であるかのように彼らの入浴に付き添い、彼らに侍したからだ。してみれば彼を中傷する悪人たちにはいったいどんな正当性があるというのか? なぜこの皇帝は彼らの悪人呼ばわりに晒されなければならないというのか? とはいえ話の本筋から幾分か逸れてしまった。
36 皇帝は自らの罪への赦しを求めた。したがって彼は神を喜ばせられそうなことは何でも自ら行い、この目的のために聖職者たちに自分を助けて欲しいと促した。事実、皇帝の財産のかなりの部分が徹底的な自制によって修道院と女子修道院の建設のために取っておかれた。新しい宿泊所も建設されてこれを彼はプトコトロフェイオン〔「乞食の宿」〕と呼び、このようにして瞑想生活を好む人たちのために黄金が大河のように流れ出した。ある考えが別の考えに続いて起こり、他の諸々の企図の中から彼は死後の魂の救済のための計画を企んだ。帝都の至る所に夥しい数の売春婦がおり、言葉で説得しても仕事を変えようとはせず−−この種の女は自分たちの助けになる全ての忠告に耳を貸さないものだ−−力尽くで彼女らの活動を押さえつけようとしても駄目で、自分が暴虐の汚名を被らないようにするために彼は諸都市の女王に彼女らの駆け込み先となる巨大で非常に美しい建物を建設した。それから彼の以下のような宣言を公用の触れ役に大声で触れ回らせた。自らの美を違法に売買している全ての女たちは、自分たちの生業と贅沢暮らしを止めるつもりがあるならば、この建物を聖域とすることができる、そして彼女らは修道女用の服に着替えて永続的に貧乏暮らしへの恐れから完全に解放されることになり、「種子も蒔かず耕しもせぬのに何でも育つ」〔ホメロス『オデュッセイア』第9歌l08-109行〕。そこでさっそく売春婦の夥しい群れが皇帝の布告を頼みとしてこの避難所を訪れ、衣服と生活態度の両方を改め、ある若い一団は神への奉仕へと美徳の兵隊として入隊した。
37 自らの救済を期した皇帝の努力はこれだけで留まらなかった。神への祈祷に専念する人たち、禁欲生活を送って老いさらばえた人たちの手を彼は自ら取った。彼らは全能の神と直接に接触して全ての力を授けられていたのだと彼は信じていた。彼らのある人たちに彼は精神的な指導や対話を求めた一方で、他の人たちには彼のためないし彼の罪の赦しのために神に祈るという約束を要求した。悪意ある大衆が意地の悪い醜聞を広めたためにこれはさらなる問題を引き起こし、特に修道僧の一部はこのことで躊躇いを覚えた−−必ずしも彼らの全員がミカエルの求めに応じたというわけではなかった。事実としては、恐るべき罪に手を染めてしかもその告白を恥じていた皇帝が聖書に違反することを強制するのではないかと心配したために大部分の者がその仕事を投げ出した。しかしこれはただの憶測で、外見上は彼が心底熱心に神からの罪の許しを得られることを切望し、案じているかのようだった。
38 彼の時代には誤った意見が流布していたために彼の遺言については数多くの年代記作家が多分私の説明とは違った説明をしているであろうことを私は了解している。しかし私はこれらの出来事については自ら関わったし、さらに彼の親しい友人たちからより信憑性のある情報を得た。したがって私がこの目で見てこの耳で聞いた事柄についての私の解釈に関して誰かが私と争いたいというのでなければ、私の結論は公平である。多分私の説明の大部分は下らないおしゃべりにうつつを抜かす機会を腹黒い人たちに与えることであろうが、私が今より語ることの真実性を議論する人がいると私は信じていない。彼の様々な活動と内紛と対外戦争での処置について完全に述べるのは多くの時間がかかるだろうから、私は一つの事柄だけを選び出すこととしたい。彼が夷狄に対して行った戦争について述べてみよう。私はこれに短い概略の形で触れることにする。
39 ブルガリアの人々は運命の多くの変転と過去の度重なる戦いの後にローマ帝国の臣民となった。なかでも有名なのがバシレイオスだが、諸帝王は慎重に彼らの国に攻撃をかけて彼らの勢力を破壊した。ブルガリア人はローマ人の勢力に対抗した後、しばしの間その力を完全に消耗していたが、後に往時の尊大さを取り戻した。しかし公然たる反乱の直接的な兆しはすぐには現れなかったが、それも政治的な先導者が彼らの中に出現するまでのことで、この時に彼らの施策はすぐに反帝国に染まった〔「ブルガリアの反乱は1040年に勃発した。スラヴ人の指導者はサムイルの孫を称したペタル・デリャンだった。彼はビュザンティオンにいた奴隷だったが、その都市から脱走した。反乱軍は最初は大いに成功し、皇帝は命からがらサロニカから逃げ帰るという始末だった。ブルガリア人はヨハネスの租税の不正な取り立てのために憤慨していた。その土地のやり方で税を納めさせていたバシレイオス2世とは違い、ヨハネスは新たな租税を導入して情け容赦なく金を集めた」(N)。〕。
40 この愚行へと彼らを唆したのは彼らの見解では驚嘆すべき人物だった。ドリアノスと呼ばれていたこの輩は彼自身の人種も一族も語るに値するものではなかったが、狡猾で同胞を騙すのが上手かった。その名前は彼が父からを受け継いだものなのか、ある兆しのおかげで自分から名乗ったものなのか私は知らない〔「彼の名はギリシア語では「裏切り」〔dolosであろう。〕を思い出させるものだった」(N)。〕。彼はこの民族全体がローマ人への反逆に乗り気だったことを知っていた。実際、反乱が計画止まりだったのはただ単にこれまでは計画を実行に移す能力を持った指導者を欠いていたためだった。したがって、手始めに彼は人目を集めて集会の場で自らの能力を示し、戦の遂行の技術を証明した。それからこれらの資質によって彼らの支持を得た以上、ブルガリア人の指導者として認められるために残る仕事は彼自身の祖先が高貴なものであることを証明するだけだった。(王家の血族だけをこの民族の指導者として承認するのが彼らの習わしだった。)これが民族的な慣習だと知ると、彼は自らが少し前に王としてこの民族全体を支配した名高いサムイルと彼の兄弟アロンの血統に連なることを提示した。彼は自分がこれらの王たちの正当な後継者だとは主張せず、傍系の親族だとでっち上げて示した。彼はあっさりと人々にこの話を信じ込ませ、彼らは彼を盾の上に担いだ。彼は王と宣言された。この時からブルガリア人の企図は明白になり、公然と離反した。ローマ人支配の軛を首から外した彼らは独立を宣言し、この事実は自らの自由意志で獲得したものだと強調した。そこで彼らはローマ領に攻撃を仕掛けて略奪遠征を行うようになった〔「反乱軍はギリシアに侵攻し、ナウパクトスを除くニコポリス州全土が彼らに味方した」(N)。〕。
41 ミカエル即位直後に事を起こすほどに愚かだった夷狄はすぐに自分たちが攻撃した君主がどのような君主なのかを学ぶことになった。その頃の彼の身体は壮健で、危機に際しては男らしかった。この時の彼にとって武器を掲げて選り抜きの将軍たちと共に彼らの土地へと攻め込むのは造作もないことだった。ローマに反旗を翻すなどという向こう見ずなことをしないよう彼らを教え諭すのは簡単だった。しかしこの独特な反乱が起こった時に彼はすでに衰弱しており、彼の体調は絶望的だった。ちょっとした活動でもこの時の彼にとっては苦痛で、服を着ることすら大仕事だと彼は悟った。つかの間ながらブルガリア人がまるで舞台上の役者のように自ら支配権を振るい、他愛のないごっこ遊びを楽しむかのようにこれを決意したのはこの時のことだった。彼らがこのようにできたのも栄光への燃えさかる野心が突如として皇帝に力を与え、高揚感が溢れ出した彼が敵に向けて自ら突き進むまでのことだった。
42 その知らせが彼の知るところとなるや、実際に十分な報告を受け取るより前に彼はブルガリア人に対する戦争を決意した。彼は軍の先頭に立って自ら軍を進めるつもりだった。もちろん彼の健康状態からすればこんなことは不可能で、とにかく元老院はこの計画にこぞって反対した。ミカエルの家族も帝都を離れないでくれと彼に懇願し、戦をすると腹をくくっていた彼はこれにたいそう苛立った。もし彼の治世がローマ帝国の強化を見ないよう宿命付けられているだけでなく、現実的に領土の喪失を見ることになるならば、これはきわめて遺憾なことだと彼は強く訴えた。彼は、何かが起こった後に自分の領分を怠ってブルガリア人が罰を受けることなく離反するのを許せば、神と人〔おそらく死後の裁きにおけるイエス・キリストを指す。〕の前では自分にその責任ありとなるのではないかと睨んでいた。

皇帝のブルガリア遠征
43 この考えは身体的苦痛より遙かに皇帝を悩ませ、これが彼に生み出す害は全く違ったものとなった。病は彼の体を膨らました一方で、この反乱に耐える際の心の苦痛は逆の結果を生み、彼を消耗させた。こうして彼は完全に逆方向に彼を苦しめる二つの害悪で引き裂かれた。しかし夷狄と組み合う前に起こった彼の最初の戦い――この戦いに彼は勝利したが――は自らの親しい友人たちに対するもので、戦争の最初の戦勝記念碑は彼自身の親族と味方、そして彼自身に対する勝利を祝うものとして建てられることとなった。彼の場合、身体の弱さは決意の力によっていっそう補われ、この力を抱きつつ彼は自らの目標の実現を神に託した。こうして戦争の準備が始まった。会議をして目標を設定し、目的の達成のための取り組みを指示するという手段が取られた。その計画が向こう見ずに、あるいは然るべき用心をせずに実行されたわけではないのは疑いようがなかった。詳細について踏み込む必要はないが、軍事上の準備は十分だった。現に全ての軍が動員されたわけではなく、単に数が抑えられていただけだった。最良の兵と戦場での経験が最も豊富な将軍たちが選出された。彼らを率いて彼はスキュティア人〔「プセロスはスキュティア人という名称をスラヴ人全部に無差別に用いている」(N)。〕に向けて出撃して順調に進軍し、彼の軍は戦略の規則通り適切に配置された。
44 遠征軍が敵地との境に到着すると、野営地が適当な場所に設営された。軍議を開いた後、皇帝はブルガリア人との戦いを決意した――これは同行していた彼の指揮官たちですら反対した尋常ではない計画だった。夜になると彼は治療を受けて瀕死になっていたため、これ〔将軍たちの反対〕は驚くべきものではなかった。まだ夜が明けたばかりの時に彼は起き上がり、どうやら何かの力によって新たな活力を与えられたかのように馬に乗り、鞍にしっかり座って見事な手綱捌きでこの動物を操った。それから目撃者の皆にとって驚嘆の的と化した彼は騎馬で後方へと走り、軍の雑多な部隊を一つの密集隊形に整列させた。

アルシアノスのブルガリアへの逃亡
45 まだ戦争が起こっていなかった時にある最も驚くべきことが起こった――これは皇帝の行動とほとんど同じくらいに驚くべきことだった。アロンの息子たち(アロンはブルガリア人の王だった)〔アロンは997年にビザンツ帝国に反旗を翻してブルガリア帝国を復活させたサムイルの弟で、ビザンツ側と秘密の和平交渉を行ったために家族諸共兄によって処刑された。アロンの息子イヴァン・ブラディスラフはサムイルの息子ガブリル・ラドミルのとりなしで助命されたが、父の跡を襲ったガブリル・ラドミルを殺して帝位についた。ビザンツ帝国への抵抗を続けたイヴァン・ブラディスラフの1018年の死後、ブルガリア人はビザンツ帝国に帰順した。アルシアノスはこのイヴァン・ブラディスラフの次男にあたる。〕のうちで比較的愛想が良かったのはアルシアノスという名の者で〔「1041年9月。アルシアノスはアロンの次男である。ヨハネスは不明ながら何らかの罪状で裁判抜きで彼に罰金刑を科して彼の妻を投獄していた」(N)。〕、この穏やかな人柄で立派な知性を持つ卓越した地位の人物は自らをミカエルの勝利の立役者として現すことになった。これは彼が皇帝を助けようと望んだからではなく、事実としてはその真逆だった。神が彼をこのような行動へと駆り立てることで敵の意に反して皇帝の勝利をもたらした、というのが真相だった。
46 さて、このアルシアノスは宮廷ではてんで好かれていなかった。彼は政治上の問題について意見を求められたことも、他の人たちから何らかの仕方で讃えられたこともなかった。現に彼には自分の家で大人しくしていなければならないという命令が発せられており、彼は皇帝がはっきり命じる場合を除いてビュザンティオンに入ることを禁じられていた。当然ながらこの誓約はこの男を苛立たせて意気消沈させたものだが、当面の彼は無力だった。しかしブルガリアでの出来事が彼に報告され、この地方では王家の血筋を持つ者が他にいなかったというたった一つの理由から法に悖る僭称者が王位に就くのをそこの人々が支持していることを彼は知った。このような状況下で彼は随分と子供じみた冒険を企てた。我が子らの訴えを無視して妻への愛を忘れ――彼らのうち誰も計画を知らせてもらえなかった――彼は僅かな家来と無思慮な向こう見ずで軽はずみな連中だと見込んだ男たちを伴い東の端から西へ〔つまりコンスタンティノポリスから反乱軍が占領していたバルカン半島西部まで。〕と大胆に進んだ。都での露見を避けるために彼は徹底的な変装をした。うまいこと服を捨てて他の者の服を着て普通の傭兵の装いをした彼は露見することなく逃げ出した。
47 二度か三度彼はこの偉大な都市で私の情報提供者となった人たちのもとを訪れた。後者の紳士は後になってそのことについて私に話をしてくれた。曰く「あの方は私とは多少の顔なじみでして、彼は親しげに私に挨拶してくれたのですが私は彼に気付かず、彼が訪れた他の全ての人たちもそのようでした」こうして彼はヨハネス・オルファノトロフォスの監視と大勢の目を逃れた――これはなかなかの勝利だった。やがて彼の突然の失踪は疑念を呼び、当局は能うならば彼を見つけて逮捕するべく警戒した。話を端折るが、彼は彼らを回避して無事ブルガリアまでたどり着いた。そこで彼は大衆に自分のことをすぐには知らせず、最初は様々な機会を捕まえて特定の人たちに接近した。あたかも自分が他家の一員であるかのように、彼は自分とは関わりがないといった調子で自分の父に触れた。次いで彼は父の先祖のことを自慢げに語り出し、躊躇いがちに〔以下のような〕質問をいくつかした。彼の息子たちの誰かがその地方に出向いたならば、叛徒たちは僭称者ではなくむしろこの正当な後継者を自分たちの王に選び出すだろうか? あるいは今や後者がすでに指導的な地位に立ってしまった以上、後継者のことは完全に忘れてしまうのが良いのではないか?
48 公認の息子が疑わしい息子より一般的に好まれているのが明らかになると、彼は幾分か不思議な仕方で自分が話した人たちに敢然と自らの真の素性を明らかにし、彼はこの中の一人を自分の一族に暖かな忠誠を持っているだろうとほどほどに当て込んだ。この人はアルシアノスをしっかり見つめて(彼は過去にアルシアノスと懇意だった)彼が彼だと分かると、膝をついて彼の足に口づけをした。それから疑念を避けるために彼は秘密の印を出すよう求めた。これは右肘の暗い色の当て布で、その上にはもじゃもじゃとした毛の房がぎっしりとついていた。これを見ると彼はアルシアノスの首にいっそう激しくしなだれ、胸元に何度も口づけを浴びせた。それから彼ら二人は巧妙に計画を進めた。彼らは個々の人たちに少しずつ接近し、この話はあちこちに広まった。ブルガリア人の大多数がこの真の後継者に忠誠を移し、ある人たちは「多頭制」を好み、他の人たちはその息子を好んでいたために君主制はこの政体となったが、双方の結びつきは平和の維持への不安を呼び、彼らは二人の主導者を和解させた。その後に彼らは対等の条件で並び立って頻繁に挨拶を交わしていたが、互いに疑心暗鬼だった。
49 にもかかわらずアルシアノスは最初に攻撃を仕掛けて出し抜けに競合者の計画を頓挫さ、彼はドリアノスを捕らえて料理で使う包丁を使って鼻を削いで両目を潰すという手術をした〔「最初にデリャンは酔わされていた」(N)。〕。したがってスキュティア人たちは再び元の主人に従属することになった。この出来事によって皇帝との交渉はすぐには起こらなかった。事実、アルシアノスは自らの軍を動かしてローマ人に向けて進軍したが、攻撃の失敗が明らかになると自らは逃亡先を探すようになった。公然と戦争を行ってミカエルとこれ以上対立するのには相当な困難が伴うことは明らかだった。彼の愛する妻子のことも気がかりだった。このように状況を勘定した彼は皇帝に秘密の知らせを届けた。その提案とは、もし皇帝の好意を得られて自らに相応しい〔王位以外の〕その他の栄誉を授けられるのであれば彼は皇帝の側に立って与するつもりである、というものだった。この文言を皇帝は受け入れ、アルシアノスの望んだ通り、最重要機密として彼らの間でさらなる連絡が交わされた。協定の条項に則り、後者はさも二度目の戦いを行うかのように前進し、突如軍を見捨てて降伏した。ミカエルは彼をひときわ栄誉をもって扱い、彼はビュザンティオンへと送り返された。彼の民はというと、今や方々での戦争で細切れになって最早指導者もおらず、決定的な敗北を喫した後の彼らにミカエルは離反したまさにその帝国へと再び服従させた。それから彼は栄光に包まれることとなり、最も高貴なブルガリア人たち、鼻が欠けて目を失った僭称者にして指導者たる人を含む多数の捕虜を連れながら宮殿へと帰還した。
50 帝都への入城は素晴らしい出来事だった。全ての人たちが彼を一目見ようと群がってきた。私はこの折に彼を見ており、彼はあたかも葬列に随行しながら馬の上で揺られていたかのように見えた。手綱を握る指は巨人の指のように太く大きく、腕も同様だった――これは彼の体内の故障の結果だった。また彼の顔は以前とは似ても似つかず、往時の痕跡を残していなかった。このように騎乗しつつ彼は宮殿まで見事な凱旋行列を率いていった。捕虜たちは劇場〔ヒッポドローム(N)。〕の中心を通って歩かされ、情熱が死者に新しい生を吹き込み、栄光の渇望が身体の脆弱さより強いことをローマ人に示した。




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