プセロス『年代記』3巻

1 コンスタンティノスの後に皇帝として跡を継いだのは彼の義理の息子で、アルギュロプロスとあだ名されたロマノスであった〔ロマノスの曾祖父ロマノス・アルギュロプロスはロマノス・レカペノスの娘と結婚していた。コンスタンティノスの祖父コンスタンティノス七世ポルヒュロゲニトスも同皇帝の娘と結婚していた。したがってゾエとロマノスは遠縁に当たる(N)。〕。後者は彼の君臨が新たな王朝の始まりを示すものと確信していた。マケドニア人バシレイオスから発する帝室は彼の先帝をもって死に絶え、彼は今や自らから発する新たな王朝を望んだ。実際のところ、その家系はすぐに滅ぶ運命にあり、彼は苦難に満ちた短い余生の後に突然の死を迎えることになった。その話については後により詳細に、一切合切を明かすつもりである。この時期からこの歴史書はこれまでの時期以上に正確になろうが、それというのもバシレイオス帝の死は私が少年の頃の、コンスタンティノスの治世の終わりは私が初等教育を始めたすぐ後のことだったからだ。そういうわけで私は彼らにお目通りしたことがなく、彼らから話を聞いたこともなかった。私はその頃の記憶を覚えるにはあまりにも若かったため、彼らを見たかどうかすら言えない。他方、私はある機会にロマノスと会って実際に話をしたこともある。したがって当然ながら最初の二人の皇帝についての私の所見は他の人から提供された知見に基づくものであるが、ロマノスについての私の説明は完全にそれとは独立したものである。
2 ギリシアの文芸で養成されたこの紳士はイタリア人の自由学芸にいくらか精通していた。彼は上品な言い回しと堂々とした言葉遣いをしていた。英雄らしい出で立ちのこの男は王のような外見をしていた。自分の知識の範囲についての彼の考えは非常に誇張されたものであったが、過去の偉大なインド人、名高い哲学者マルクス〔・アウレリウス・アントニヌス〕とアウグストゥスを統治の模範にしようと望んでいたために彼はとりわけ二つのこと、文芸の研究と戦争の学問に注意を向けていた。後者に関して彼は全くの無知であり、文芸に関する彼の知識は深淵とはほど遠く、実際のところ皮相的なものでしかなかった。しかし自分の知識についてのこの信念と自らの知的限界を超えた力のおかげで彼は大きな規模での過ちを働くことになった。疑いなく、灰の下に隠れた知恵という言い回しを使うとすれば、彼は火に新しい燃料を加え、乾燥した彼は新たな哲学者と弁論家の全ての種族と学問に勤しむ全ての人たちを、あるいは自分がそれをしていると考えてその一覧に記帳した。
3 その時代は学識ある人を僅かしか産せず、彼らですらアリストテレスの学説の戸口に立ってプラトンの寓話を繰り返すのがせいぜいで、その隠された意味やこれらの哲学者たちのディアレクティケーや三段論法の証明についての研究は理解されずじまいだった。適当な基準がないためにこれらの偉大な人たちについての彼らの判断は誤ったものになっていた。しかし宗教的な主題とあらば問題は深遠なものになり、聖書の解釈が問題になった。それでもなお、最も困難な諸問題は未解決なままにされた。真理はそれらが聖母への無原罪の御宿り、処女受胎、そして形而上学的な問題と同じくらいに神秘的なことに関わっていた。なるほど宮殿はそれを見る者皆に対しては哲学の外見的な装いをしているが、それは仮面であり見せかけのものでしかなかった。真の吟味も真理への本物の追求もそこにはなかった。
4 これらの研究をしばしの間放棄するとロマノスは軍略へと戻り、論議はすね当てと胸甲のことへと向かう。東西関係なく夷狄の世界の全てを併呑しようと計画された。彼の野心は理論の征服にとどまるものではなかった。彼は武力によって夷狄を服属させようと望んでいた。皇帝のこの二重の熱意が単なる虚栄心と誤解の代わりに彼の問題についての真の理解を導いたならば、彼は帝国に多大な利益をもたらしていたであろうことは疑いようがない。彼は計画をしたり、未完成の城を作ったりすること以上のことはせず、実際の行動ではそれらを再び投げ落とすことになった。しかし私は自分の横溢のためにいわば彼の治世の〔入口の〕門を立てる前の話を駆け足で終わらせることにしたい。したがって彼の即位の時へと戻りたい。
5 帝冠の価値は他の全てのものよりも上だと判断したロマノスは、自分は長年統治することになって自分の家系は何世代も帝冠を遺産として受け継ぐ運命にあるだろうと信じるよう自らを騙した。即位した後、一緒に暮らしていたコンスタンティノスの娘は子供を儲けるには年を取りすぎていてもう子供は望めなかったことに一見して彼は気付いたし、実際に彼女は彼と結婚した時にはもう五〇歳だった。生来の無能力を前にしてもなお、なお彼は断固として野心に固執して未来への信頼を抱いた。ここで彼はその計画のための身体的な前提条件を無視した。にもかかわらず彼は、性的な不具合を扱い、刺激して不妊を直す能力を称する専門家たちを頼みにした。彼は軟膏と揉み治療を受診し、妻にも同じことを受けさせた。事実、彼女はより一層進み、魔術の実践にも手をつけて小さな水晶を身につけ、魅力を我がものとすべく鎖を身につけ、残りの無意味なもので自らを飾りたてた。彼らの希望は成就することはなく、ついに皇帝は諦めてゾエに関心を持たなくなった。本当のところ、彼は彼女よりも二〇歳も年上だったために彼の欲求は幾分か鈍って彼の身体の活力は尽きていたのだ。
6 彼は帝国の栄誉を分け合うにあたって名声について最も嫉妬深く、行為と贈与を通した帝室財産の使い方の気前の良さではどの支配者よりも勝っていた〔「彼が行った財政の逼迫を緩和するための措置の他の手段はバシレイオス二世によって導入されたアレレギュオン制の撤廃があり、帝室財産は負債者と聖ソフィア教会の聖職者たちを助けるために行った多額の贈与のために使われた。ロマノスは1031-32年の酷い災難の連続をもたらしたサラセン人の侵入の他に治世下に後になってこの気前の良い政策を覆す格好の理由(小アジアでの飢饉、疫病、イナゴの来襲による穀物の喪失、コンスタンティノープルでの大地震)を得た」(N)〕。突如、あたかも彼に何か新しい考えが浮かんだか全くの別人になったかのようにしてこの親切な気前良い精神は終わり、突風が吹き出した。彼は自分の力への自信を失って身の程を知ったかのようだった。そこで彼は気を緩め、権力への穏健な態度を失った。彼は頂点から深い底へと短い一瞬のうちに全てを落とした。皇后に関しては、他のことよりも二つのこと、すなわちロマノスが彼女を愛しておらず、彼女自身が金を無駄遣いできなかったという事実が彼女を苛立たせた。金庫室は彼女に対して閉ざされ、皇帝の命で封をされており、彼女は一定の手当で暮らしていくのを余儀なくされた。不自然なことではないが、彼とその事柄において彼が従った忠告をした相談役たちに彼女は怒り狂った。彼らはというと、彼女の感情に気付いて一層厳しく警戒し、偉大な精神を持った女性で兄弟の成功に少なからず貢献したプルケリアがとりわけそのような人物だった。一方でロマノスはこの底を流れる疑惑を完全に忘れており、一見して彼は超自然的な権力が自身の帝冠に結びついていて取って置かれているという印象を持っていた。彼の名声はこの権力による栄光の維持のためにもなお確固としたものであり続けており、あたかもある種の契約が彼と栄光との間になされていたかのようだった。
7 軍事的栄光への熱意を抱いた彼は東西の夷狄との戦争の準備をした。しかし西方の夷狄への勝利は簡単で、さほど大きな勝利とは思われなかったが、東方の夷狄への攻撃は名声をもたらすものであると彼には思われた。それに際して彼は帝国の資源を途方もなく使うことができた。これらの理由で、戦争のための真っ当な口実がなかったにもかかわらず、彼は――サラセン人の言語でこの地の名前をこう言うのだが――カレプ〔現在のアレッポ〕を首都としていたコイレ・シュリアに住んでいるサラセン人に大義名分のない攻撃をかけた。全ローマ軍が集結してサラセン人と戦うべく編成された。隊列が増えて新しい陣形が考案された一方で、傭兵たちは一つの軍に統合されて新兵が徴兵された。彼の計画は最初の一撃で敵を圧倒することらしく、彼は通常の戦力以上に軍を増やせば、あるいはむしろ軍団が多くなり、ローマ軍と同盟軍の大軍勢で敵の方へと来れば、誰も抗することはできまいと考えていた。指導的な将軍たちはその結果を少なからず案じて彼にこの攻勢を思いとどまらせようとしたが、戦勝宣言の際に頭を飾ろうとして彼は多額を投じて冠を作った。
8 十分な準備をすると彼はビュザンティオン領からシュリアへと出発した。彼がアンティオケイアを占領するとその都市への入り口では華美な祝賀がなされた。それは確かに王者らしい光景だったが、軍の装備は幾分か芝居かかったもので、戦う人には不似合いであって敵の心に恐怖を植え付けるようなものでもなかった。夷狄の側はどうかというと、彼らは戦争についてより現実的な視点を持っていた。最初に彼らは皇帝に使節団を送った。彼らは自分たちはこの戦争を望んでおらず、何の口実も与えていないと明言した。彼らにはすでに結ばれていた平和条約に立脚し、それがまだ有効であることを否定するのを拒んだ。他方で今の彼が脅迫路線を取っているのを見て取っていて彼が力をひけらかし続けていたため、もし彼が強情さを証明するならば、彼ら自身は今より対決の準備をして戦争の運命に自らを投じる用意があった。以上がこの使節の話の要旨である。この警告にもかかわらずどう見ても皇帝のたった一つの目的、戦列を組み、敵に向かって兵を並べ、待ち伏せをし、食料徴発に出かけ、壕を掘り、川を干上がらせ、砦を奪取するということだった。事実、彼は名高いトラヤヌスとハドリアヌス、あるいはさらに歴史を遡ればアウグストゥスとカエサル、あるいはその先人、フィリッポスの息子アレクサンドロスの伝統ある偉業の真似をしようと望んでいた。したがって使節たちが調停の言伝を携えて去った一方で、彼らはなお一層必死に戦争の準備をした。しかし目的を達成するために彼が最良の人物を選ぶことはなかった。彼は戦争は大軍勢によって決着が付くと考えており、彼が頼みにしたのはこの大軍勢であった。
9 彼がアンティオケイアを発ってさらに進むと、その全員が我々風の武装をして鞍を使わずに馬に乗っていた夷狄の分遣隊が軍の進路の両側で待ち伏せ攻撃をかけてきた。彼らは突如高地に現れた。鬨の声を上げ、敵をこの予期せぬ光景への仰天で一杯にしながら彼らは大きな音を出しながら馬に突進攻撃をかけさせた。密集隊形を保たないことで彼らは大軍であるようにみせかけ、分散し、通常の陣形を組まない部隊で周りを駆けた。このおかげでローマ兵たちは恐怖に陥ってこの強く名高い軍のうちに混乱が広がり、士気は四散したため、彼らはあたかも整列するかのように一目散に走って逃亡以外の何も考えなかった。馬に乗っていた者は回れ右して能うる限り早く駆けた一方で、残りの者たちは馬に乗る暇すら与えられず、馬を〔戦利品として〕その所有を主張することになった最初の主のために取り残し、誰も彼もが走ったりさまよったりして身の安全を確保しようと最善を尽くした。これは尋常ではない光景だった。ここにいたのは協定のために派遣団を送り、戦争の準備をし、以前は軍事において夷狄の全ての軍勢に対して無敵だったのと同じ人たちであり、今や彼らは眼前の敵を見ようとすらしていなかった。あたかも夷狄の雄叫びの雷鳴が彼らの耳を駄目にして恐怖で心を強打したかのように彼らは背を向け、完敗したかのように駆けていった。最初にこの混乱の結果が現れたのは皇帝の親衛隊だった。後ろを一別することもなく彼らは皇帝を見捨てて逃げた。なるほどもし誰も彼が馬に乗るのを助けず、手綱を渡さずに逃亡を勧めていなれば、彼は十中八九捕らえられて敵の捕虜になっていただろう。大陸全土を揺り動かそうと望んでいたこの彼が、である! もし神がその瞬間に夷狄の突進を抑えず、勝利の時にあって中庸の念を彼らに与えていなければ、ローマ軍が全滅を免れることはなく、皇帝が真っ先に倒れていたはずだというのは真実であろう。
10 かくしてローマ軍は大混乱に陥った。その間、あたかも理由もなく退却して逃げるローマ軍の光景に驚いたかのように敵は立ち尽くし、この驚くべき勝利を指をくわえて見ていた。その後、戦場で僅かな捕虜と重要事項について知っていた者たちを捕らえた後、彼らは残りの者は自由に立ち去るように言い、略奪に向かった。まず彼らは皇帝の天幕を鹵獲し、それは首飾りと腕輪と冠、よりいっそう高値の真珠と宝石、ありとあらゆる栄光ある戦利品で満たされていたために今日の宮殿とほぼ同じくらいに値の張るものだった。この夥しい宝物を計算することは簡単な仕事ではなかっただろうし、その夥しく豪勢な皇帝の天幕の富の膨大さの甚だしさの故にそれらの美しさと豪華さを十分に見定めることはできないだろう。次いで彼らは残りの戦利品を集めにかかり、戦利品と一緒に乗り込んだ彼らは同胞たちを喜ばせた。その間、皇帝はサラセン軍の前方を駆け、自分の気まぐれな性格にうんざりしながらさまよっていた。彼はある尾根の近くに来て、ここで走り過ぎようとしていた数人の兵士たちに発見され、鞍の色から彼だと認識された。彼は多くの逃亡兵をそこで停止させ、彼らに囲まれることになった。それからロマノスはまだ生きているという噂が広まり、他の者たちが彼に合流してきた。それよりも重要なことは、ある者が神の母のイコンを持ってやってきたことであり、この画像はロマノスが道しるべにして全軍の守護としていつも遠征で持ち運んでいたものであった。敵の手に落ちなかったのはこれだけだった。
11 皇帝は特に崇敬の念を抱いていたこのイコンの美しい様を見ると、すぐに元気になってこれを手に取ったが、彼がそれを抱いた様、彼がそれを涙で濡らした様、彼がそれに宛てた心からの言葉、我らの味方であるこの女主人が危機に瀕したローマ人の勢力を救い助けた過去と多くの時での彼女の親切さを彼が思い出した様を述べられるような言葉はない。この時から彼は勇気に満ち溢れるようになった。しかしついさっきまでは自ら逃亡者だった彼は今や逃走した他の者たちを叱責した。大声と自分よりも年若い人たちの活力のために彼はあてのない放浪をやめ、自らの声でもって彼らに自分が皇帝ロマノスであることを知らせて姿を現し、速やかに相当数の軍を集めた。それから彼は彼らと共に歩み、彼を守るために急いで立てられた天幕まで退却し、そこで露営した。小休止の後、彼は夜明けに将軍たちを召集して今後どうすべきかを決めるよう主張した。彼らはビュザンティオンに戻ることを例外なく勧めた。首都で問題全体にわたる徹底的な検討がなされるはずだった。ロマノスは彼らに同意しーーそれは彼自身に利しそうな行動指針でありーーコンスタンティノポリスへと急いで戻った。
12 すべきだったことへの苦い後悔と彼が耐えた被害への自己憐憫が続いて彼を襲った。その全てが一挙に起こって彼の気分を変えた。彼の仕事は今や新たな終焉に、彼にとって幾分か尋常ではない局面に突入した。彼は公的資金の用心深い運用によってこの損害を完全に取り戻せるだろうと期待した。かくして彼は皇帝というよりも徴税人となった。諺で言うところの「前エウクレイデス史」を復活させて微に入り細に入りやることで、とうの昔に父親を亡くした息子たちの会計状況を詮索し、このために惨いことをするようになった。訴訟での判決は競合する派閥によって提出された証拠に則って行われず、彼は一つないし他の派に私的に加わったことであろう。したがって判決文はせいぜい彼自身の原告ないし被告への好意でしかなかった。この見解で全ての人々は二組に分けられた。一方は皇帝が彼らに無頓着だったために単純で正直な人生を生きることを好み、公の問題に関わろうとしない合理的な人々であった。他方は残りの人たちを食い物にして金持ちになった向こう見ずな人たちであった。後者の人たちは悪事の自分の割り当てを、支配者によって燃え上がった争いの全般への燃料として加え、その結果として起こったのは混乱と騒動だけであった。それをより困ったものにしたのは、大多数の人たちが略奪を受けて身ぐるみはがされ、金の川がどこへなりと流れ出ていたために皇帝の金庫は彼らの着服で築き上げられた恩恵で一文無しになったという事実であった。この真実は話が進めばこのことは一層明らかになることだろう。
13 この特異な皇帝は敬虔さでの名声を熱望していた。彼は宗教的な事柄に関心を持っていたが、これは真の敬虔というより皮相的なものだったことは明らかに真実であり、とにもかくにも彼は敬虔な人物であるような見かけをしていた。第一にこれは彼を神についての問題の議論の放縦へと向かわせた。彼は単なる知識によっては説明できないような諸々の見解と議論を検討した。解釈の媒介なしに霊魂に訴えるだけで神秘は明瞭なものとみなされた。しかし彼は自然哲学にあまり興味を示さず、自分たちがアリストテレスの徒であると不正に主張するような人を除いて専門家とそういった事柄を論じなかった。我らが賢者たちが述べるように、ロマノスの勉学はより深淵なもので、霊魂そのものによって把握できる対象を扱うものだったというわけだ。
14 以上が彼が最初に敬虔さを示そうと目論んだ最初の方法であった。後に偉大なソロモン及び、神聖にある言葉にしようがない英知にちなんで名付けられた巨大な教会〔ハギア・ソフィア教会〕のためにユスティニアヌス帝に嫉妬すると、いわば償いとして彼は神の母の栄誉を持ったもう一つの教会を建設して創設することを決意した。敬虔な行いとなるよう意図されたことは悪の原因と多くの不正のきっかけに転じるものであるため、それは重大な過ちであった。この教会のためになされた出費は絶えず増えていった。毎日彼は仕事に必要な以上に寄付金を集め、建設に歯止めをかけようとした人には災いが降り懸かった。他方、新たな乱費と建築様式の新しい変形を企んでいた者たちはすぐに皇帝の友情を勝ち得ることを確実なものとした。あらゆる山がその資源となり、鉱員の技能は哲学そのものより高く見積もられた。したがって得られた石のうち一部は割られ、他のものは磨かれ、また他のものは彫刻になり、石に関する労働者たちはフェイディアスとポリュグノトスとゼウクシスのようにみなされた。世界の全てといえど教会のために十分とは考えられなかった。全ての帝室財産が利用でき、ありとあらゆる黄金の流れがそこへと注ぎ込まれた。資金が尽きても建築はまだ途中だったが、それは他の新しい部分の上にまた新しいものが追加され、同時に他の部分が凹んだためであった。またしばしば作業は中断され、それから突然再開されて僅かに大きくされたり、幾分かより念入りな様々なものを加えられた。川が海へと注ぐ時には水のほとんどは河口に至るまでもなく流れ出てしまうものであるようにこの資金もそうであり、この教会のために集められてあらかじめ充当された資金のほとんどは他のことで空費された。
15 ロマノスはこのような活動で敬虔さを見せつけていた一方で最初から自らが悪漢であることを示したわけであるが、それというのも彼は集められた金を教会の建設とは全く異なった目的のために使ったからだ。主の家を愛してこれを華麗にすることは讃美歌作家が言うように美しいことであり、神の栄光の拝堂を愛することは立派なことであることは疑いようがない。神への奉仕によって人々の目に何度も不名誉を被るように映ることは、世界的に豊かになるより良い。なるほどこのような専心は尊く、奉仕に熱心で主の御心に満ちた人たちはそれを軽蔑することがあろうか? しかし、この専心を損なうことは何であれしてはならない。敬虔さを示すために不正に手を染め、国家の全体を混乱に陥れ、政治的なものの全体を破壊することが正しいということはあり得ない。悪人は犬よりましというわけではないものの、売春婦の捧げ物を斥けて不信心者の犠牲を完全に蔑んだ彼は、豊かで栄光あろうと、その建物が多くの悪の原因になった時にどういうわけでその建物に近づくことができるというのだろうか? 城壁の対称性、円形に囲む柱、ぶら下がったつづれおり、素晴らしい捧げ物、そして同様に見事な他の物品は敬虔の聖なる目的に寄与することができるのだろうか? 人間の魂が敬神の念で飾られ、その心は精神的な紫色に染められ、行いが正しく、思考が品性に満ちていることで十分であることは確実である。つまり、もしある人が悪知恵を持っていなければ、この単純な信仰のために我々の内にはもう一つの種類の寺院が建てられ、その寺院は主の受け入れるところとなって主に愛される。ロマノスの知っている哲学は学者の探求するもの、つまり三段論法、「複合三段論法」、「本質」に関わるものだが、彼は仕事で哲学的精神を発揮するという考えをてんで持っていなかった。この皇帝があたかも他の何よりも見事な規模に建物を建てることを強いられていると感じていたとしてもなお、彼の義務は宮殿の面倒を見てアクロポリスを栄光あるものとし、破壊されたものを修繕し、帝室の宝物庫を満たし、金を軍隊の維持に投じることであった。この教会を美しさで他の全ての教会を凌駕するものとするために彼はなおもこの全てを無視し、他のあらゆるものに破滅をもたらした。本当のことを言えば、彼はその事業では気が変になっていた。彼はそれから自らを振り払うことがほとんどできなかった。かくして彼は宮廷の全ての手回り品でその場所を取り囲み、そこに帝冠を置いて笏でこれを飾り、紫色の衣類を吊り下げ、その美しさを褒め称えて快感に微笑みながらこの教会で年の大部分を過ごした。彼の望みは平凡な美よりも美しい名前で神の母を讃えることだった。不幸にも彼は自分が彼女に与えた別称は事実のところ、もし「ペリブレプトス」という名がなるほど「祝福されし者」を意味しているのならば、聖人よりも女性により適当なものであることに気付かなかった。




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