プセロス『年代記』2巻

1 バシレイオスが死ぬと弟のコンスタンティノスが二度目の皇帝になった。それに反対はなかった。事実、今際の際のバシレイオスは最期を遂げる直前に彼を宮殿に呼んで政権を彼に譲っていた。コンスタンティノスはこの時には七〇歳で、決定的に柔弱な性格を持った人物で、人生における唯一の関心事は自分が楽しむことだった。金が詰め込まれた国庫を受け継いで以来、彼はその自然的な傾向についていくことができるようになり、この新たな支配者は贅沢暮らしに邁進した。
2 伝えられるところによれば、彼は権力への偉大な野心を持たないのろのろとした気質の男だった。彼は強靱な体を持っていたが、その心根は意気地がなかった。彼はすでに老人であり、戦争をすることもできず、あらゆる悪い噂が彼を苛立たせた。境を接する夷狄が我々に手を出すだけでコンスタンティノスは称号を承認して賄賂を差し出すことで彼らを押さえた。反乱は困難なものとなり、もし彼の臣下が反乱を起こせば、彼らは惨い報復で罰せられた。反乱の企てや党派性への疑いは復讐をその結果としてもたらし、容疑者は裁判抜きで有罪になった。ローマ人は彼の奴隷になり、優しい振る舞いでなびくことはなく、ありとあらゆる恐るべき罰によって服従した。これほど移り気な男もいなかった。彼の怒りは御し難く、彼は噂、とりわけ自分が裏切りを疑っていた者に関する噂に聞き耳を立てた。犠牲者は身の毛もよだつような拷問を受けて起訴された。これは一時的な制限や罰や収監は問題にならず、直ちに悪党を赤々と焼けた鉄で目を盲目にすることによって罰するというのが彼のやり方だった。ある場合に一見して極悪非道な犯罪に、またある場合には小さな怠慢に対して行ったかという事実は別として、これがありとあらゆる人になされた罰であった。犯罪の準備と単なる悪事の疑いは区別されなかった。なるほど彼の関心事は根拠を持った相応の罰を与えることではなく、むしろ自らを疑いから自由にすることであり、他の拷問よりも目潰しのほうがより人道的であるように彼には見えていた。その上、そのより広範な使用の優れた理由はそれが犠牲者を孤立無援にするということにあった。彼はこの方策を臣下に高位だろうと下位だろうと関係なく通した。その邪悪な行いは聖職者の一部にも拡大され、主教すら例外ではなかった。ひとたび怒りが収まるとこの男は四苦八苦して心の理性的な状態を取り戻し、遠い耳を全ての忠告に向けた。それでもなお気分が変わりやすいためにコンスタンティノスは慈悲心から完全に離れることはなく、災難の光景を見ると心を痛め、痛ましい話を語る人たちにしばしば情け深くなる。兄バシレイオスと似たように彼の怒りも長続きしなかった。彼は素早く態度を和らげて自分がしたことを恐れてふさぎ込んだ。誰かが燃え上がる怒りの炎を消せば、彼は課していた懲罰をやめてその抑止の影響に感謝すらするというのが彼の美点だった。抵抗がなければ、彼は度を超して怒り狂う。それからまず謝罪の言葉を述べて悲しみ、哀れみたっぷりに犠牲者を抱擁し、目から涙を流して悔恨でいっぱいの言葉で許しを請う。
3 彼は他の全ての皇帝以上に好意ある行動では気前が良かったが、彼の場合、この良き資質は正義からではなかった。彼は廷臣たちに好意の門を広く開け放っており、まるで砂のように黄金を積み上げたが、宮殿から遠く離れた者にはこの美徳はあまり発揮されなかった。彼の友人はそのほとんど全員が子供の頃に去勢された者と後に寝室番なり私設の召使いとして使われた者であった。この者たちは高貴な生まれでも自由民の生まれでもなかった。実際、彼らは夷狄と異教徒だったが皇帝に教育を施しており、彼らが彼にとっては行動の模範になっために彼らは他の誰よりも大きな尊敬と栄誉に値すると思われていた。彼らの身体の堕落は器用で野放図な贈り物のばらまき、恩恵に与ろうという熱意、他の紳士的な資質の見せかけのおかげで覆い隠されていた。
4 兄バシレイオスが皇帝になった時のコンスタンティノスはまだ若者で、ヘレナと呼ばれる婦人と結婚していた。彼女はその頃の市の名士で、高い評判を持った貴族の家系の一員であった名高いアリュピオスの娘であった。美しかっただけでなく有徳でもあったこの婦人は死ぬ前に彼との間に三人の娘を儲けた。この皇女たちは宮殿で育てられてその立派な階級に相応しい教育を受けた。バシレイオスは姪たちにこれ以上ないほどの気遣いと溺愛ぶりを見せていたものの、彼女らの未来にはこれ以上の興味を持っていなかったため、彼女らの訓育の責任はコンスタンティノスに委ねられた。彼は弟のために帝国を守るので手一杯だったのだ。
5 娘のうち長女は他の家族にほとんど似ることなく育った。彼女は他の娘よりもの静かな気質と優しい心根を持っており、子供の頃に感染症を患って以来容貌が損なわれており、美しさはほどほどだった。私がその老年をこの目で見た次女は非常に非常に王族らしい生き方をし、彼女の流儀をほとんど押しつけて敬意を掻き立ててしまうような見事な美女であった。彼女について私は私の歴史書の適当な箇所でより詳しく述べるつもりである。当面は彼女らの特徴の概略を手短に示すだけにしたい。末女でもある三女は非常に背が高く、そっけなく口が達者だったが、美しさは姉ほどではなかった。彼女らの伯父バシレオス帝は彼女らのその後の向上について計画を立てることなく死に、彼女らの父はというと、帝位に登っても彼女らの将来について賢明な決断をするには至らず、その例外は最も皇女らしかった次女だった。私は話が進み次第、その決定と彼が臨終の際にした計画の話を述べることにしたい。実際、この皇女と三女は自分たちで計画はしなかったが、伯父と父の考えを熟知しており、エウドキアという名の長女は権力を求めていなかったためか、あるいはより高尚な事柄に夢中になっていたために父に神への奉仕にこの身を捧げさせてほしいと請うた。彼は快く賛成し、彼女は主に奉納品としていわゆる両親の結婚の最初の果実を差し出した。他の二人の娘たちについてのコンスタンティノスの意図は内密にされ続けた。しかし私はそれについてまだ語るべきではなかろう。
6 私は今ここであらゆる偏見を抜きにしてこの皇帝の特長を素描したいと思う。政権の全てが彼の手にかかるようになると、彼は国家の世話に毛ほども自らの気力を向けなくなった。臣下のより賢明な者たちに問題を任せると、彼は玉座にこれ以上なく王者らしく座りつつ使節を謁見してその他の簡単な問題を取り扱うだけであった。しかし演説をする機会を得ると、彼はその理路整然とした話で聞く者全てを驚かせた。実際問題、彼はそのような勉強をしていなかった。彼は文化については子供に十分と思える程度の聞きかじりの知識しか持っていなかったが、普通に与えられる以上の天性の知性を持っていた。彼は弁舌ではさらに美しい調子と洗練を美点として持ち、彼の心に抱かれた論議は、いわば彼の舌を通して見事に運ばれた。なるほど彼が自らの栄誉の要点としていた勅令のいくつかを口述しても速記者は彼についていけず、彼はあまりに早口で話したため、秘書と記録係の数と質では恵まれていたという事実にもかかわらず、それらしきものを理解したのは僅かな人たちになってしまった。早口に圧倒された彼らは独自の記号を使うことで彼の考えと言語表現のほとんどを解釈するのが常であった。
7 彼は背が九プースにもなる巨漢だった。その上、彼の体質は強壮で、自然的にありとあらゆる食べ物を容易く消化することに適応した胃のために消化の力は並外れたものであった。とりわけ彼は高価な風味の良い汁物を作る技術に長けており、色と香りの組み合わせによって料理を彩り、触感を呼び起こすものは彼の手でありとあらゆる性質を付与された。大食と好色に支配されていたために彼は関節炎を煩うようになり、なお悪いことに彼の足は歩けないほどの苦しみを与えた。即位以来、彼が胸を張って歩こうとするのを見た者はおらず、彼は馬に安全に乗るのが常であったというのがその理由である。
8 彼は劇と競馬に完全に我を忘れて夢中になっていた。コンスタンティノスにとってこれらこそが本当に関心があることであり、彼は馬を変えると元気な馬に馬具を着け、競技場の開始地点に目を釘付けにした。長らく無視されていた格闘試合も彼の治下で復興された。彼はそれを劇場へと再導入し、皇帝の見せ物での通常の役割に満足せず、試合相手を前にした戦士として自らを見せることに満足を覚えた。その上、彼の競争相手はただ単に彼が皇帝であることで破れないであろうが、彼が勝利への自信がより大になるような技能でもって撃退するのを好み、望んだ。彼はいつも自分の関心事についてペチャクチャしゃべっており、一般の人たちとよく交際した。劇も競馬に劣らず彼を魅了していた。後者にひとたびのめり込めば彼は暑さを感じず寒さに気付かず、空腹も脇に追いやった。何にも増して彼は野獣との戦いに巧みであり、これのために彼は弓で矢を放ち、投げ槍を投げのに習熟し、巧みに剣を操り、矢を真っ直ぐ獲物に当てた。
9 彼は盤遊びとサイコロ遊びに熱中して帝国に関する事柄を無視し、遊技の追求に熱意を燃やして有頂天になっていたため、使節がお目通りのために待っていても、遊技のまっただ中にいれば彼は彼らを無視した。彼は最大の重要事項を嫌悪し、日夜全ての時間を遊びに費やし、全く何も食べないかと思うと、サイコロ遊びの最中にガツガツ食べた。かくして帝国を浪費に費やした彼は死に驚き、突如として老年が彼に自然の与える衰えを思い出させた。したがって彼は臨終が近いと感じると、相談相手らから説得されたか、あるいは自分の義務の自覚から帝位の相続人を探しだし、次女に彼が選ぶ男性を婚約させようとした。しかし彼はどの元老院議員もぞんざいに眺める以上には考慮せず、彼には賢明な取捨選択をするのは難しかった。
10 元老院の貴顕で、総督職〔Eparchos。彼の任務は都市の秩序維持、サーカス党派の監督、工業組合の制御、穀物の供給である。彼の職務は、事実、古のローマのpraefectus urbiとpraefectus annonaeを合わせたものである。ここで言及されている総督はこの頃にはアルメニアにいて、皇帝が副帝になってゾエと結婚するよう申し込み、そこにいる彼に信頼する宦官エルゴドテスを送っていたコンスタンティノス・ダラッセノスであろう(Cedrenus, 722)(N)。〕――帝国の称号だが、紫衣を着る特権が与えられてはない――に出世していたある人物が考慮されたが、この紳士はまだ子供だった頃に結婚していたため、適当な候補者とは到底思えなかった。家門と社会的な事情の問題では彼は他の競争者たちよりはより受け入れられそうだったが、教会の目には彼の前の結婚はさらなる出世の障害だった。彼が見送られるべきということは衆目の一致するところだった。他方、状況がさらなる熟慮を許さず、間近に迫った死のために皇帝は様々な人たちの詳細な審査の主張を妨げられたため、彼は帝室との結婚に値しないとして誰も彼もを非難し、ロマノスに全幅の支持を与えた。彼はロマノスの妻が計画の邪魔になることを知っていたため、彼女と夫に対してこの上なく横暴で情け容赦なく激怒したふりをした。表向きは彼への恐ろしい復讐を行って彼女を尼僧院へと押し込むために伝令が送られた。 彼女は陰謀の秘密を知らず、皇帝の怒りは見せかけのものであることが分からなかったためにすぐに運命に屈した。彼女の髪は切り落とされ、彼女は尼の黒い上着を着させられて尼僧院に入れられた一方で、夫は皇族との結婚のために宮殿に連れていかれた。コンスタンティノスの娘のうちで最も美しい娘は間もなく花嫁姿を彼に見せることになった。かくして彼女の父は婚儀が終わるのを見届けるのに十分なだけ生き、帝国を手放して彼の親戚のロマノスに残した〔コンスタンティノスの死は1028年11月11日、享年70歳〕。




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