この年代記は最も学識あり、正当で光栄ある修道士ミカエルによって編まれ、以下の皇帝の事績が物語られている。紫衣の生まれたるバシレイオス〔二世〕とコンスタンティノス〔八世〕、彼らの後継者ロマノス〔三世〕・アルギュロス、パフラゴニア人ミカエル〔四世〕、最後に名が挙がったこの者の甥であり、元は副帝の称号を持っていたミカエル〔五世〕、紫衣の生まれであり、皇女であった二姉妹、ゾエとテオドラ、彼女らと帝位を共有したコンスタンティノス〔九世〕・モノマコス、上述の姉妹の一人で女帝として単独統治した皇女テオドラ、老ミカエル〔六世〕、イサキオス〔一世〕・コムネノス。この歴史書はコンスタンティノス〔一〇世〕ドゥーカスの即位を以って終わる。 1 ヨハネス・ツィミスケス帝が死を迎えた状況は助祭レオンの歴史書においてすでに語られている。ロマノス〔二世〕の息子、バシレイオスとコンスタンティノスは今や彼らの前任者の試みによって多くの勝利を得ていて、その勢力を大いに増していた帝国の正当な相続人となった。 2 両君主の少年時代は見納めになったが、彼らの関心は遥かに隔たっており、二者のうちで年長の方のバシレイオスはいつも機敏で知的、思慮深い印象を与え、弟の方は何に対しても冷淡な様子、怠惰な生活ぶりで、贅沢暮らしに夢中になっていた。したがって彼らが二頭体制の考えを放棄したことは当然であった。相互の同意によって全ての実権はバシレイオスが纏い、コンスタンティノスは名目的な皇帝として彼と並び立った。もし帝国がうまく統治されるのであれば、より経験豊かな兄が国家の最高の地位を受け継ぐことは必定であるためにその決定は賢明な決定であった。コンスタンティノスは法的に兄と平等の条件での遺産を兄と共有する資格を持っていたため――「遺産」によって私は帝国を意味する――ひょっとしたらこの折のコンスタンティノスの最高権限の放棄は何かしら賞賛に値する事柄であっただろう。彼の決定をより際立ったものとする点は彼はその時は非常に若く、実際に権力への欲望は非常に簡単に燃え上がる年齢であるという事実であった。また、バシレイオスはもうとっくの昔に成人していたために青年であることを思い起こすべきである。一般的な表現を使うとすれば彼はすでに「最初の顎ひげが生えていた」わけであり、コンスタンティノスは彼が自身の上に立つことを許していた。したがって私がこの歴史書の冒頭でこの弟にこの賛辞を贈ったのは全く妥当なことである。 3 ひとたびローマ人の最高権力を握るとバシレイオスは自らの計画を誰か他の人と分担したり公的な事柄の実施についての忠告を受けるのを嫌悪するようになった。他方でそれ以前には軍事や管理運営の経験がなかったために彼は自らの判断のみを頼むことができないことに気付き、したがってパラコイモメノスのバシレイオスの補佐を頼ることを余儀なくされた。さて、この男はその時はローマ帝国では知性の深遠さと体躯と堂々とした風貌の両方において最も際立った人物であった。彼はバシレイオスとコンスタンティノスの父とは同じ父からの生まれであったにもかかわらず、彼の母方で彼は別の血統であった〔パラコイモメノスのバシレイオスはロマノス一世の庶子で、ロマノス二世はコンスタンティノス七世とロマノス一世の娘(嫡子)の子であった〕。幼少期に彼は――愛人の息子に対する当然の予防措置であるが――去勢され、このような状況のために彼は帝位の合法的継承者から締め出されていた。現に彼は自らの運命を諦めており、彼自身の家系であった帝室に実に忠誠を尽くした。彼はとりわけ甥のバシレイオスに身を捧げ、その若者を愛情あふれる仕方で面倒を見て彼の成長に里親のように優しいまなざしを注いだ。かくしてバシレイオスがこの男の双肩に帝国の責務を置いたことは驚くべきことではなかった。その年長者の真面目な性質もまた皇帝の性格に影響を及ぼした。事実、パラコイモメノスは勝負の競争においては陸上選手のようであった一方でバシレイオス帝は観客として彼を眺め、この観客は単に勝者に声援を送っただけでなくむしろ自ら走って自分を鍛えて自ら競争に加わり、他方の足跡を追って彼の流儀に倣った。かくしてパラコイモメノスは全世界を牛耳ることになった。彼は一般市民は彼の方を向き、軍も彼の方を向き、国庫の管理と政府の指導のために事実上彼は一人でその責任を負った。この仕事にあたってバシレイオスは彼の大臣の法案に副署しただけでなく文書でもそれらを確認したため、彼は言葉と実行の両方において絶えず皇帝の補佐を受けることになった。 4 バシレイオス帝を見た我々の世代の大抵の人たちにとって彼の態度は質素でぶっきらぼうで、心変わりが早く短気、それでいて日々の生活習慣では謹直で、柔弱さを嫌いはする人物に見えたが、もし私がその時代に彼について書いた歴史家たちを信ずるならば、彼は治世が始まった時はこれとは全く違う人物だったという。彼の性格の変化は帝位に登った後に起こったことであり、以前の自堕落で色狂いの生活ぶりとは打って変わって彼は見事な活力を持った人物になった。彼の生き方にこの完全な変化をもたらしたのは出来事の圧迫であった。彼の性格は強張ってしまったと言える。脆弱さは力に道を譲って往時のだらしなさは目的の新たな固着を前に消え失せた。往時の彼はまったく憚ることなく宴を楽しんでしばしば愛の快楽に溺れていた。彼の主たる関心は宴をして面白おかしく、そして宮廷の怠惰な気風の中で人生を過ごすことであった。若さと最高権力の結合はそれを彼に自分のために乱用する好機を与え、彼は存分に楽しんだ。彼の生き方の完全な変化は悪名高いスクレロスとフォカスの両名が試みた反乱を以って始まった。スクレロスは二度反旗を翻し、皇帝に対立する二つの派閥と共に帝冠への野心を抱いた者は他にも現れた。往時のバシレイオスの呑気な生活ぶりは忘れ去られて彼はその容易ならざる目的に全身全霊を傾けて専念した。一たび最初の打撃が彼の権力を握っていた一族の成員たちに加えられると、彼は自ら断固として彼らの完全な破滅を成し遂げた。 スクレロスの反乱 5 真に抜本的であったものの、不自然でなかった一つの政策がニケフォロス・フォカスの甥たちを反逆へと駆り立てた。この難事は有能な計画者であっただけでなく計画の実行にあたっては実に巧妙であり、堂々たる血統と大きな戦争による威信、彼の味方になってその企図を助ける全ての軍事階級による成功、莫大な富(帝冠を狙う者としては遜色ないほどの財産であった)を持った人物であったスクレロスによって口火を切られた。スクレロスの武力政変の企てにはかなりの支持が見出された。それはバシレイオスを退位させる大胆な試みの最初のものであったが、その帝位請求者は勝利に非常な自信を持っていた。彼は手を伸ばすだけで帝国を掌握できるだろうと考えつつ歩騎の全軍を率いて皇帝に向けて進軍した。現に重装歩兵はスクレロスの許に勢揃いし、これを知った皇帝の助言者たちは最初は彼ら側には望みはないと信じた。しかし考え直した彼らは心変わりし、全ての情勢は異なった局面へと向かった。絶望が勇気への道を開き、某バルダス〔・フォカス〕のことを考えた彼らは叛徒と渡り合えるだけの対抗者を見出した。彼らにはバルダスは嵐から守ってくれる安全な停泊地に見えた。現に彼は高貴な生まれで非常に勇敢な男であり、ニケフォロス帝の甥であった。そのようなわけで彼らはこのバルダスに残存兵力の全てを委ねた。彼は総司令官とされて共通の敵と一戦交えるべく送り出された。 6 かくして彼らの直接的な障害は敗られたが、この新たな将軍はスクレロスに劣らず恐るべき人物であった。彼は皇帝の血統にあった。十中八九彼は従属的な地位を占めるのに満足することはなかっただろう。かくして彼らは彼から平服と帝室の全ての記章を剥奪し、教会に入ることを強いた。次いで彼らは裏切りの罪を犯さず、彼がなした約束を違えないように彼を最も恐ろしい誓いで縛った。彼が将来為すであろう野心的な企てに対して用心し、彼らは彼を皇帝軍全てと共に送り出した。 7 歴史家たちによれば、このバルダスという男はいつも憂鬱な雰囲気を纏って油断なく、全ての事態を予見することができ、一瞥しただけであらゆることを把握できたため、人々に伯父ニケフォロス帝の面影を思い出させていた。戦争での作戦行動に大いに通暁し、包囲戦の局面も、待ち伏せ戦術も会戦での戦術も知らぬことはなかった。肉体的な武勇においてバルダスはスクレロスよりも精力的で剛健であった。事実、彼の手による一撃を受けた者はすぐに死者となり、彼が遠くから叫び声を上げるだけで全軍は震え上がった。今や彼は折に触れて何度も軍を大隊に編成して分割し、敵は大軍であったにもかかわらず再三再四矛を交えた。本当のところバルダスは技量と軍略と勇気で敵を凌駕し、逆に数では劣勢のようだった。 8 双方は敵との対決において自信を持っており、両司令官とも一致して一戦で勝負を決めるつもりだった〔979年5月24日のパンカレイアの戦い(N)。〕。かくして二つの戦列を分かつ場所へと駆け出すと、彼らは互いを見つけ、さらなる面倒を被ることなく接近した。叛徒のスクレロスは生来のせっかちさを抑えることができずにこの類の戦いの規則を破り、フォカスに接近して全力でその頭に一撃食らわせた。打撃は突進しながらなされたために追加の力も得た。フォカスはこの一撃で唖然として一瞬手綱を操れなくなったが、再び我に返って敵の体の同じ箇所へとお返しの一撃を食らわせた。かくして後者は戦意を失って一目散に逃げ出した。 9 愛国者と叛徒の両者はこれが戦争の決着点だと納得した。スクレロスは完全に恥じ入ってしまったため、確かにこれほどに皇帝の勝利に寄与した出来事もなかった。彼はもはやフォカスに戦いで太刀打ちできなかった。彼は皇帝からの許しを請うことができないほどに恥じ入っていた。このような次第で彼は全く賢明でなければ全く安全でもない方策を採り、全軍をローマ領からアッシュリアへと移動させた〔980年〕。そこで彼はコスロエス王に自分のことを知らせて彼の疑いを招いたわけであるが、それというのもコスロエスは彼の軍が大軍勢であることを恐れ、またおそらくそのローマ人が彼への出し抜けの攻撃を企んでいるのではないかと神経をとがらせたからだ。その結果、スクレロスの全軍は捕虜になって投獄された。 バルダス・フォカスの反乱 10 一方のバルダス・フォカスは皇帝の許へと戻った。彼は凱旋式の特権を与えられて主君の私的な友人たちのうちに座を占めた。かくして最初の反乱は終結した。一見して今やバシレイオスは全ての難事から解放されていたが、敵対のこの外見上の衰微は続いて起こる数々の悪の前触れでしかなかったことを証明した。フォカスはビュザンティオンへと最初に戻って高名を得た後、やがて自分が軽んじられていることを見て取った。彼の野心は今一度その手の内をすり抜けたかのようだった。彼の意に反したこのような冷遇は相応しからぬものであった。彼は自らに託された信頼を裏切らず、特別条件に同意し、それを誠実に遵守した。かくして不満を抱いたために彼はバシレイオスへの敵対にあたって軍の大部分を味方につけて反乱へと踏み切り、その反乱はスクレロスの以前の試みに比べて対処するにもいっそう深刻で骨の折れるものであった〔987年8月15日〕。指導的な地位にあって最も有力な諸家門を味方につけたため、彼は現体制への公然たる敵対者として自ら名乗りを上げることを決意した。イベリア人の軍が徴募され、獰猛で誇り高い戦士たちは高地での十歩に耐えられる〔体躯の大きさを示す慣用句〕ほどであった。彼が帝冠と紫の王座の記章と共に皇帝の長衣を纏ったのは全くもって、もはや想像上のことではなくなった。 11 私は次に起こったことを述べるつもりである。この外国の戦争はバビュロニア人を驚かせ、同じコスロエス王の許へと逃げてきたスクレロスと彼の軍勢は彼からの支援を期待した。私の述べたその希望はすでに挫かれていた。それというのもこの戦争は王の資源への恐るべき負担であることが明らかになり、この武装した大軍勢は戦いに投入されたからだ。コスロエスが元からいた軍勢にそれらが外国の軍勢からの支援がない状態で信頼を抱くのは無理な話であった。かくして彼は亡命してきたローマ軍に助けを与える方向へと転じた。彼らはただちに拘束を解かれて牢へから釈放され、強力に武装して敵に対して戦闘隊形についた。彼らスクレロスとその兵士たちは男らしく好戦的な戦士であったため、戦いでは歩兵の配置に精通しており、自分たちをそれぞれの翼に二隊に編成した。それから密集隊形で騎馬突撃を行って鬨の声を上げると、彼らはある場所では敵のある者を殺して他の者は敗走させた。追撃は土塁あたりまで続けられて敵は完全に殲滅された〔この戦いは986年後半に起こったようである(N)。〕。帰路においてそのローマ人たちはあたかも共通の一つの考えに憑りつかれたかのように逃げた。このために彼らはコスロエスに恐れを抱かせてしまった。このローマ人たちはコスロエスがあまり彼らのことを考えてくれないことを予想し、彼は彼らを牢獄へと戻すつもりなのではないかと信じた。かくして彼らはあたうる限り大急ぎで逃げ去り、アッシュリア人が彼らのしでかしたことに気付く前にかなりの距離を踏破し、それらの作戦行動はアッシュリアで起こっていた。コスロエスは彼の軍勢が集結するとすぐさま、アッシュリア軍のうちでそのローマ人たちと会う全ての兵が彼らの追撃に参加すべしとの命令を下した。実際、大軍勢が後ろから襲いかかったが、逃亡者たちがすぐに反転して追撃者を破ったため、すぐに彼らは自分たちがどれほどローマ兵に劣っているのかを悟った。現に敵軍は戦いが始まった時点では遙かに勝っていたにもかかわらず、ローマ軍よりも数で下回ってしまうほどの損害を被った。 12 スクレロスは今こそ権力をめぐる戦いを再開する好機だと決意した。彼の考えるところでは、フォカスはすでにアナトリアへと去っており、皇帝の軍は解散していたために帝国全域はその果実をもぎ取るべき頃合いに熟していた。しかしローマ領に到着した彼はフォカスが帝位を我がものにしようと企てていたことを知り、皇帝と競争相手のどちらの側にもいなかったため、後者をだしにして尊大さの真新しい噴出に身を任せ、一方で後者に対しては配下としての外観を呈した。フォカスの覇権は認められてスクレロスは彼の下で働くことに同意した。その後すぐに彼らの軍は二分されて反乱軍は大いに強化された。自分の兵と軍の配置に満々たる自信を持った彼らはプロポンティスと海岸の要地あたりまで下ってきて塹壕を掘って安全を確保し、海そのものを飛び越えさせることだけはしなかった。 13 バシレイオス帝はローマ人の不忠をよく知っていたが、これからそう遠からぬ後にスキュタイ人の選り抜きの部隊がタウロス山脈より彼を助けるためにやってきて、彼らは見事な部隊であった〔988年春〕。彼はこの兵を個々の部隊ごとに訓練し、もう一隊の傭兵部隊を彼らと合体させて中隊ごとに分け、反乱軍との戦いへと繰り出した。反乱軍が見張りをつけずに台に座って酒を飲んでいる時に彼らは予期せずして現れ、彼らは少なからぬ兵を撃破した後、残りを方々に散り散りにさせた〔988年夏のクリュソポリスの戦い(N)。〕。敵の生き残りは予想に反して集結してフォカスその人に非常な熱意を持って敵対した。 14 バシレイオスはローマ軍によるそれらの作戦を自ら行った。丁度彼は髭を生やし初め、実戦での経験から戦争の技術を学んでいた。彼の弟コンスタンティノスさえ戦列に加わり、胸甲と長槍で武装した。 15 かくして両者は、一方の皇帝軍は海の近くに、反乱軍は高地にというように、両者の間には広い余地を持って相まみえた。バシレイオスとコンスタンティノスが敵軍の中にいるのを見つけると、フォカスはもはや戦いを厭わなかった〔989年4月13日のアビュドスの戦い(N)。〕。フォカスが決意したように、その日は戦争の転換点となり、帝国の未来を決定した日となった。かくして彼は彼の大義を幸運なものとした。〔結果は〕彼の随行員の中の占星術師の忠告とは裏腹になったわけだが、それというのも彼らは彼に戦いを思いとどまらせていたからだ。彼らの犠牲は明らかにそのこと〔戦うこと〕が愚かであることを示していたが、馬に手綱をつけて頑として聞かなかった。 占星術師に現れたように、凶兆が彼に現れたのであるが、彼が乗馬したとたんにその軍馬が彼の下に滑り込んできて、彼が少し腰を下ろした時にも、さらに数歩して同じ運命をたどったと言われている。その上、彼の肌は変色して彼の心は不吉な予感でいっぱいになり、彼の頭は目眩によって苛まれた。しかしフォカスは着手した事業からすぐに手を引くような男ではなく、軍の先頭に立って駆け、すでに皇帝軍からいくらか近いところに来ると、自分の周りに歩兵部隊を集めた。イベリア人の中で最も見事な戦士であると私が示すこの兵士たちはその全員が若者で、彼らの若い花には最初の髭が生えつつあり、あたかも彼らは一人の支配者によって測られたかのように等しく高く背が高く、右手を剣で武装しており、彼らの突撃には踏みとどまることができないほどであった。フォカスは彼を取り巻くこの戦士たちと共に、一つの軍旗の下に軍の正面から攻撃に移った。加速すると彼はあたかも直ちに皇帝を殺さんとするかのように皇帝に向けて雄叫びを上げ、右手で剣を振り上げながら直進した。 16 フォカスが果敢に突進してくると、バシレイオスも軍の先頭に飛び出した。彼はそこに立って剣を手に持った。救世主の母の絵が敵の恐るべき猛襲に対する最も確かな守りだと考えた彼は左手にこのイコンを握りしめた。フォカスはまるで雲が暴風で吹き飛ばされるかのように猛進し、平地へと旋回してきた。一方両翼に配置されていた者たちは彼に向けて槍を放った。他の者のうちで本隊のすぐ前には長槍を振り回すコンスタンティノス帝がいた。自軍からいくらか離れたところまで馬で駆け足で向かった後、フォカスは突如鞍を滑り落ちて地面に投げ出された。この点については著者たちは矛盾する異なった説明をしている。幾人かは彼は投槍兵に射られて致命傷を受けたのだと強く主張している。他の人たちは彼は胃の不調の結果、突然失神して鞍から落ちたのだと断言している。本当の説明がどうであれ、コンスタンティノスはこの叛徒を殺した誇らしい名声を自分のものだと称した。しかし、尋常な話であり、最もありうると人が考えるようなことは、この事件の一切が陰謀の結果であるということである。毒が調合されてフォカスはそれを飲み、出撃した時に薬が突如効果を発揮し、理性の力を彼から奪ってめまいが起こり、彼の落馬を起こしたというわけだ。 17 いずれにせよ彼は倒れ、それはこれまで傷を負ったり生け捕りにならなかった彼の痛ましく悲しげな光景であった。敵軍は事の次第を見るとすぐに散り散りになって退却し、密集隊形は崩れ、彼らは総崩れになった。他方で皇帝軍はフォカスの卒倒の直後に彼へと飛びかかり、イベリア人親衛隊を散り散りにし、繰り返し剣で切りつけて彼を切り刻んだ。彼の首は切り落とされてバシレイオスに届けられた。 18 皇帝の性格の完全な変化はその時である。彼は敵の死を喜ぶ一方で、誰も彼もを疑い、横柄で秘密主義的な人物、短気で彼が望んだことを失敗した者に対して怒りっぽくなった結果、彼は自分の悲しい状況を嘆き悲しんだ。 パラコイモメノスのバシレイオスの失脚と追放 19 パライコイモメノスのバシレオスに政府の一般的監督を続けるのを許さなくなった皇帝はその時から自分で指図すると決めた。さらに彼は容赦ない憎悪でもって大臣を悩ませるようになり、これをありとあらゆるやり方で示して彼を見るのを拒んだ。パライコイモメノスは親類であり、皇帝は彼に大変な恩義があり、この大臣は良く仕えて何不自由なくしてくれ、彼が掴んだ国家の非常な高位にもかかわらず、バシレイオスは彼を敵と見なした。地上の何物も彼のこの態度を変えるよう説得できなかった。実のところ、皇帝であり成人した男であった彼があたかも一般市民であるかのように政府を〔専有するのではなく〕共有することしか許されないと考えることは、彼の自尊心を傷つけていたのだ。彼は決して帝位に上っておらず、他の人と同等の条件で権力を分けあったり、政府において劣位の地位にあると人は想像するだろう。彼はこの主題について相当考え、彼がようやく腹をくくったのはかなり動揺した後だった。しかし、ひとたび決定がなされると、彼はパラコイモメノスを解任し、打撃を一撃食らわせた。それを悪しきものにしたのは、後者の運命におけるこの変化がいかなる尊敬の証によっても和らげられなかったという事実であった。現に皇帝の行動は信じられないほどむごかったが、それというのも彼は彼を追放してお払い箱にしたからだ。 20 この不名誉もバシレイオスの困難の終焉を証明しなかった。むしろそれはさらなる不運の前触れとなったのだが、それは皇帝が帝位に登ってパラコイモメノスが帝国を支配し始めて以来のパラコイモメノスの治世の出来事の再検討を次に始めたからだ。彼はその時代全ての間になされたことを様々な物差しで検討した。彼自身の幸福や国家の善に寄与したことは何であれ法令でもって存続を許された。他方、顕職の華やかさとそのような地位の容認に言及していた全ての布告は今では廃止されてしまった。皇帝が取り組んだ前者のものは彼自身によって是認され、後者のものは彼は何も知らなかった。万事において彼は宦官の失墜と破滅を目指して奮闘した。例えば、パラコイモメノスは大バシレイオスを讃えて壮麗な修道院を建設し、その修道院に自らの名を与えてもいた。それはすさまじい規模で、大変な労働力を費やして作られ、建築の美しい様々な様式を組み合わせていた。さらにその建物に使われた材料の大部分は気前の良い寄付で得られていた。今や皇帝はこの殿堂を徹底的に破壊しようと望んだ。しかし彼は不敬虔の謗りを避けようと用心し、全部はすぐにはそうせずにその修道院のある部分だけを取り除いた。彼は他の部分と建物の残りを取り壊し、移動できる家具とモザイク画を同様に扱った。彼は彼自身が吐いた言葉を引用するならば、「この瞑想の場所を思考の、そしてそこに住む人がこれだけが人生の必要なものだと思うような思考のための場所にする!」まで満足しなかった。 21 当然ながらパラコイモメノスは来る日も来る日も拷問を受けたために絶望でいっぱいになった。彼には苦痛の緩和も何の慰安もなかった。突如、瞬く間に大権ある地位から降格されたため、その心を自負で満たしていたこの高邁で力強い男は今や自身の体を治めることもできなくなった。彼の手足は麻痺し、生ける屍となった。ほどなくして彼は死に、実際のところ彼の記憶を支える柱となった彼の生は語り部の格好の題材であり、あるいは私は全世界の運命の移ろいやすさの証明を述べることもできる。パラコイモメノスのバシレイオスはその運命を成就した。 22 皇帝へと話を戻そう。今や彼は彼の支配領域の多様な特徴を見て取ると、権力を行使するのはそう容易いことではないと理解し、全ての道楽を退けた。彼は身体の装飾を軽蔑するまでになった。彼は首を襟で、頭を冠で飾らなかった。彼は緋色の外套で自らを目立たせることを拒んだ。彼は余計な指輪、それどころか異なった色の服すら脱ぎ捨てた。他方で彼は国家の様々な部署を自らの手に集中させ、それらが不和なく働くようになることを確固たるものとすることに心血を注いだ。他の人を扱う時だけではなく、弟にすら見下したような態度をとった。彼はコンスタンティノスにより権威があって押しつけがましいやり方での保護を与えるのを渋ったものの、彼にはごく僅かな護衛しか割り当てなかった。まず自らを戒め、いわば自ら楽しげに誇らしげな君主制の装置を脱ぎ捨てると、彼は弟もそんな風に扱って徐々に彼の権威も減らしていった。彼には国中の美女、彼のとびっきりの趣味である風呂と狩猟の喜びを楽しませ、一方で自らは軍勢が激しく圧迫されていた国境へと赴いた。実際のところ東西から帝国から我々を取り囲み、国境を侵すために包囲する全ての夷狄を完全に追い出すことが彼の野心だった。 フォカス死後のスクレロスの二度目の反乱 23 しかし、スクレロスが皇帝を二度目の反乱で忙殺させ続けたため、この計画は未来に持ち越されるべきものとなり、夷狄に対して計画されていた遠征は少なくとも当面は不可能になった。フォカスの死後、彼の指揮下にあった軍の一部はスクレロスとの彼の同盟の前にフォカスに置いていた希望を裏切られたため、意気消沈して完全に解体し、他方スクレロスと彼と共にアッシュリアから逃げてきた者たちは母国へと帰ってきた。その後者は今や自発的に軍を再編した。彼らは独立した部隊として述べられるような部隊を組成し、それはフォカスの軍と同等の兵力であり、皇帝の目には脅威そのものとして映った。 24 このスクレロスという男は身体的な壮健さでは一見してフォカスの足元にも及ばないものの、軍略と管理のより偉大な体現者であった。彼は他の者よりも才能に恵まれた人物としても評判が高かった。彼のバシレイオスとの戦いが再び燃え上がると、彼は正面切って戦いを交えないように用心した。彼の意図は重厚な援軍で軍を立て直して正面対決をすることよりはむしろ遊撃戦術で皇帝を悩ますことだった。実際の作戦行動で敵で圧倒しようとはせず、バシレイオスの補給はいつも輸送を止められて彼は自由に街道を使えなくなり、外から首都へと運ばれていた全ての商品が押収され、それはスクレロス自身の軍に大きな優位をもたらした。その上厳しい用心を続けることで国家の伝令によって届けられる命令は途中で奪われて届かなくなった。 25 反乱は夏に始まって秋まで延びた。その年の全部が過ぎ、陰謀は未だに潰されなかった。実際のところこの邪悪は以降長年国家を悩ました。スクレロスの軍に徴募された男たちはもはや忠誠で意見が割れることはなく、彼らのうちの誰もが自任の叛徒であったというのが真相だった。彼らの指導者は自らの断固たる決断を彼らに吹き込み、彼らを一致団結させた。好意によって彼は彼らの忠誠を勝ち得、親切さによって献身を熱烈なものにした。彼は彼らの不和を調停し、兵士と同じ食卓を囲んで同じ杯で酒を飲み、彼らを名前で呼び、おべっかで彼らを忠臣に仕立て上げた。 26 皇帝はあらゆる手段を選ばず試して彼を挫折させようと姦計を弄したが、スクレロスはその全ての試みを赤子の手をひねるようにすり抜けた。彼は名将らしく敵の計略と策謀に自らの戦術でもって答えた。かくしてバシレイオスは敵は決して捕らえられないだろうと理解すると彼は協定の提案を持たせて彼に使節を送り、その内容はスクレロスは反乱を取りやめるべきであり、もし彼が皇帝の申し出を受け入れるならば、彼はバシレイオスその人に次ぐ地位を占めるというものであった。当初僭称者はそれらの打診にさほど機敏に反応せず、後になってその問題を熟慮して目下の状況と過去の状況とを比較し、現在との比較において未来に彼がどうなるのかを考量した。すでに年老いていた彼が個人的な見通しを考えれば、申し入れられた交渉は悪くはなかった。かくして彼は皇帝の使節の歓迎で彼を支援するために全軍を集め、バシレイオスと以下の条件で講和した。スクレロスは帝冠を捨てて紫衣を脱ぐが、皇帝のすぐ後の地位を占める。彼と共に反乱を起こした将軍とその他の隊長たちは現在の地位を保持し、彼らが生きている限り彼が彼らに与えた特権を享受する。彼らは公式に保有する財産も、その後にスクレロスから得た財産も剥奪されず、彼らの巡り合わせで得た他の利権も剥奪されないものとする。 27 それらの条件で同意に至ると皇帝は都から彼の最も豪華な所領の一つへと向かい、そこ〔ディデュモティコス〕で件の謀反人を招いて協定に署名した。バシレイオスは皇帝の天幕の席に腰を下ろした。スクレロスは少し離れた所で衛兵により案内されてきた。彼らは皇帝の面前に彼をまっすぐにいざない、馬に乗らずに徒歩で護衛した。スクレロスはかなり背の高い男だったが、老人でもあり、両側から護衛に支えられながらやってきた。皇帝は彼を見ると少し近づき、傍らで眺めている者たちに向き直り、誰もがこの話を知っている有名な言葉を吐いた。「見よ、私が恐れていたこの男を! この老いぼれた嘆願者は自分で歩くこともできないのだ!」スクレロスの方はというと、〔権力への〕熱意のために、あるいはそのことを忘れていたため、権力の他の印を傍らに置いた時も紫色の履き物を履き続けていた。それはあたかも帝位の特権のいくらかの分け前を持っていることを示しているかのようだった。どうにかして彼はこの履き物を履いたまま皇帝に近づいた。バシレイオスはこれを離れたところから見て苛立ちながら目を閉じたのであるが、それはまずもってあらゆるこまごまとしたことにおいてスクレロスが普通の市民のような服を着ない限りは彼を全く見ないようにするためであった。あらゆる場面、いつでもどこでもスクレロスは天幕の入り口で彼の紫の履き物を履いており、そうやって皇帝の面前に入ってきた。 28 彼が入ってくるのを見るや否やバシレイオスは立ち上がって互いに抱擁し合った。それから彼らは会談し、一方は反乱を詫び、謀議を練って実行に移した理由を説明し、他方は謝罪を静かに受け入れてそれを偶然の不運に帰した。彼らは酒杯を共用し、皇帝はまずスクレロスに差し出すはずの杯に口をつけ、客人に返す前に中身をほどほど一口飲んだ。したがってバシレイオスは毒殺の疑いからスクレロスを解放し、それと同時に彼らの合意内容の神聖さを証した。この後、バシレイオスは命令を下す習わしの人間とし、彼の帝国についていかにして紛争から逃れ続けることができるのか彼に質問を発した。スクレロスはこれに答え、それは忠告の類ではなかったものの、一将軍から期待されるようなことだった。事実、これは悪逆非道の陰謀により似つかわしいものであった。「過度に奢り高ぶるようになる支配者たちは」彼は言った。「切り伏せなさい。遠征時の将軍にはあまりに多くの資源を持たせてはなりません。彼らを自分のことに忙殺させ続けるために不正な強制で彼らを疲弊させなさい。帝国の相談事に女の参与を認めてはなりません。誰に対しても近づきやすくあってはなりません。最も内々の計画を打ち明けるのは少数にするのです」 29 この注意で彼らの話は終わった。スクレロスは彼に割り当てられた地方の領地へと去り、間もなく死んだ。彼のことはさておき皇帝のことに移ろう。バシレイオスは臣下の扱いでは異常に用心深く振る舞っていた。彼が支配者として打ち立てた偉大な名声が忠誠よりも恐怖の目で見られていたことは完全な真実である。彼は年を重ねてより経験を積み重ねるごとに自分よりも賢い人の判断を頼らなくなった。彼は一人で新しい施策を講じて一人で軍を扱った。彼は内政では書かれた法によってではなく、目的の性質に応じて最も見事に準備された自分の直観による書かれていない口頭命令に則って統治した。したがって彼は学者など歯牙にもかけず、それどころか私が意味するところの学のある人たちを頭から軽蔑していた。したがって皇帝が学問の文化を軽蔑した一方で哲学者と弁論家の少ならぬ収穫物がその時代に生じたことは私には驚くべきことのように思える。この逆説の解決にあたって私が思い描く限りでは、その時代の人々は隠れた目的のために学問の研究に身を捧げたのである。彼らは自分のために学問それ自身を目的として学問の修練をし、その一方で昨今の多数の人たちはこのような魂で教育の主題に近づくことはなく、学問をする第一の理由は私的な利益と考えている。ひょとしたら儲けは学問への熱意の目的ではあるものの、もし彼らがすぐにこの終着地へと至ったならば、すぐに学問から離れるだろうと私は付け加えるべきかもしれない。彼らの何と恥知らずなことか! 30 しかし我々は皇帝のことに話を戻すべきであろう。帝国を夷狄から清めるために彼は自身の臣下を扱って彼らも完全に支配したわけであるが、私は「支配する」という言葉はそれを述べるに適当な言葉と考えている〔「封建的家門が再び彼の政府に対する謀反を起こせないことを確実なものとすることがバシレイオスの政策であった。『お気に入りたち』はその性格からして後に『元老院議員』の名で通用する公僕、平和の維持にバシレイオスその人ほど関心を持たない官僚である。996年1月の新法によってロマノス・レカペノスの治世以降に豊かな土地所有者によって人々から取得された土地は無料で返還されるべしと制定された。金持ちは有名なこのアレレギュオン制によってさらに拘束を受け、それによって金のある人たちは貧しくなった人の税金を支払うよう求められた。しかしこれらの政治的施策はバシレイオスにとって実行が最も難しいだけでなく、国家の様々な階級の間に大変な苦痛をもたらしたように見えたことだろう」(N)。〕。彼は以前の施策を放棄することを決め、豪族が面目を失って残りの人たちと歩調を合わせた後にバシレイオスは自分が政治権力をめぐる勝負をかなりの成功を収めつつ行っていると気付いた。彼は知性の素晴らしさでも家系の高貴さでも、ましてや学識で秀でているわけでもないお気に入りたちで周りを固めた。彼らには皇帝の勅令が委ねられ、彼は彼らと国家機密を共有した。しかしその時代以来記録や支持の要請への皇帝の所見は多様ではなくなり、バシレイオスは書くにせよ話すにせよ文章の色気の全てを斥けていたため、彼の舌へとやってくるままの言葉さながら秘書たちに向けて一つの言葉から他の言葉へと全部を一気に紡いだため、彼が口頭で指示するのに用いていたような平易で簡潔な文章だけになった。彼の発言には巧妙さも余分なものもなかった。 31 臣民の誇りや嫉妬を慎ませることでバシレイオスは彼自身の権力への道程を容易ならしめた。さらに彼は国庫にもたらされた金の出口を閉じることでも用心深かった。かくして一面では厳しい節約の実施のおかげで、外国からの新たな追加のおかげで多額の金が積み上げられた。実際、帝国の国庫に積み上げられた額は総額二〇万タラントンもの大金であった〔訳注「過酷さで名高かったもののバシレイオスは貧者に租税免除期間を認めるのが常であり(ケドレノス, 721, p. 484)、彼が死んだ時にはすでに二年間未払いだった租税があった。彼の後継者コンスタンティノスは負債者に一括で五年分の税を納めさせた」。〕。彼の残りの獲得物については、それらを述べるのにはまったく十分な言葉を見つけるのが難しいほどである。イベリアとアラビアで蓄えた全ての宝物、ケルト人のもとで見つかった全ての富、スキュタイ人の土地にあったもの、短く言えば――我々の国境を囲む全ての夷狄の富――この全てが一カ所に集められて皇帝の金庫に蓄えられた。これに加えて彼は自分に反乱を起こした者と後になって服従した者の金の全てを金庫部屋へと運び去り、差し押さえた。建物の中にその用途のために作られていた金庫部屋は十分な大きさではなかったため、彼は螺旋状の廊下をエジプト式に地下へと掘って宝物に相応しいだけ確保した。彼自身はそれらのうちに悦楽を見いださなかった。むしろそれとは正反対に、大部分の宝石に関して、我々が真珠と呼ぶ白い石と色とりどりに輝く石は、王冠や襟にちりばめることなく地下室に隠した。他方でバシレイオスは行列に参加する時には区別の印として宝石を手に持ち、非常に明るい紫ではなく、単に暗い色合いの紫色の上着だけを身にまとって高官たちの前に出た。彼は兵士として我々の国境の防衛に働き、我々の領土を夷狄が襲撃できないようにし続けることに治世の大半を過ごし、自分の富の蓄えからは何も引き出さずに富を何倍にも増やした。 32 夷狄への遠征でバシレイオスは春の中頃に出撃して夏の終わりに帰るという他の皇帝たちの慣習的な手順に従わなかった。というのも彼にとって帰還の時は仕事をこの手で終えた時だったからだ。彼は冬の厳しさと夏の暑さに分け隔てなく耐えた。彼は乾きに耐えるよう自己を律した。事実、彼の全ての自然的な欲求は厳しい統制の下に置かれており、この男は鉄のように堅固な男だった。彼は軍隊生活の詳細についての知識を持っており、これによって私は彼の軍隊の構成への一般的な見識、一体となった個別の部隊の相対的な機能、あるいは〔陣形の〕様々な組み合わせと〔ある陣形からの〕異なった陣形への適当な配置を意味するつもりはない。彼の軍務の経験はそれ以上のものだった。プロトスタテス〔隊列の第一列及び奇数列を占める兵〕の義務、ヘミロキテス〔8から16人から成る縦隊「ロコス」の半分を指揮する下士官〕の義務、彼らのすぐ下の階級に本来的な仕事、それら全てはバシレイオスには不思議なものではなく、その知識は彼の戦争で役に立った。したがってそれらの将官に本来的な仕事は他の将官には委譲されず、皇帝は各々個別のものの性質と戦いでの責務について自ら精通し、それぞれの者の気質や練度に合致していることは何なのかを知っていたため、能力のある者を用いてそのような仕事を勤めさせた。 33 さらに彼は自分の兵に適した様々な陣形を知ってもいた。彼は本も読めば、戦時の作戦中は自分で考えもし、それは自らの直観の結果であった。彼は自分で戦争を指導するのを旨として部隊を戦闘隊形につかせており、自分でそれぞれの遠征を計画したが、自分で戦うのは好まなかった。さもなくば突然の退却が困惑を証明したことだろう。したがって大部分の場合、彼は兵を動かさないままにした。彼は兵器を作って離れたところでの小競り合いをし、その一方で機動作戦は軽装の兵に委ねられた。ひとたび彼が敵と接触すると、通例の軍事上の連絡路がローマ軍の異なった隊列の間で樹立させた。司令部は軽装歩兵隊との連絡を保つ騎兵隊と連絡を保ち、さらにそれら軽装歩兵隊が重装歩兵隊のそれぞれの単位と再び連絡を取るというようになっていたため、全軍はまるで堅牢な塔のように編成された。全ての準備が整うと、いかなる状況であろうとどの兵も戦列の前に進み出て隊列を崩してはならないという厳命が下される。その命令が無視されて最も勇敢で果敢な兵たちが残りの戦列から抜け駆けすれば、たとえ敵に対してうまく戦ったとしても、彼らは帰ってきても勲章や褒美を期待できなくなる。逆にバシレオスは彼らを直ちに軍から追い出し、普通の罪人と同じ程度の罰が下される。彼の意見では、勝利の達成における決定的な要素は一丸となった部隊の重厚さであり、これさえあればローマ軍は無敵になると信じていた。彼が戦いの前にする念入りな視察は兵士たちを苛立たせ、彼らは大っぴらに彼の悪口を言ったが、彼は分別を持って無視した。彼は〔悪口を〕静かに聞き、それからもし自分が用心を怠れば、彼らの戦いは永遠に続くことになるだろうと陽気に笑いながら指摘した。 バシレイオスの人となり 34 バシレイオスの人柄は二面的なものであり、それというのも平時の平穏に劣らず戦時の危機に容易に適応したからだ。実を言えば、彼は平時に皇帝であるのに劣らず戦時には悪漢だった。彼は怒りの爆発を制御し、ことわざで言う「灰の下の火」のように怒りを胸中に隠し続けたが、戦争時に命令が破られると、宮殿に戻るや怒りに灯を点してそれを露わにした。そして復讐は身の毛もよだつようなもので、その時の彼はまさに悪人そのものだった。概して彼は自分の意見に固執したが、折に触れて心変わりした。多くの場合に彼は罪をその元の原因まで遡ることもし、その連鎖の最終的なつながりを明らかにした。かくして軍紀違反者のほとんどは彼の共感深い理解力のために、あるいは彼が彼らの事件での他のことに関心を示したために寛恕を得た。彼は行動の指針の決定にあたってはゆっくりしていたが、ひとたび採用された決定を自分から覆すことは決してなかった。したがっておそらくは友人たちに対して自分の意見を修正する必要に迫られない限り彼らへの態度は一貫したものであった。同様に誰かに怒りをぶちまければ彼はそう早く怒りを和らげることはない。なるほど、彼が作り上げた評定は何であれ彼にとっては取り消しができず、神から霊感を受けた判断であったのだ。 35 彼の性格についてはこのくらいにしておこう。彼の外見はこの男の本来的な高貴さを裏切るようなものであった。それというのも彼の目は明るい青色の燃えるような色合いで、眉は張り出してもおらず不機嫌そうでもなく、真っ直ぐに延びてすらおらず、婦人のそれのようだが、弓なりで彼の自尊心を表している。彼の目は深くくぼんでいる――これは悪辣さと狡猾さの印である――ものでなければ、突き出たもの――これは浅はかさの印である――でもないが、男らしく輝いている。彼の顔の全体は中心から完全な円になっているかのように丸みを帯び、しっかりしているが、長くはない首で肩と繋がっている。彼の胸は正面へと突きだしていなければ、吊り下がったものでもなく、いわば窪んだものでいなければ、実に狭苦しいそうな感じである。むしろ極端な二つのものの間の中間であり、彼の残りの肉体は釣り合いがとれたものだった。 36 背丈について言えば、彼は通常の背丈を下回っていなかったが、体の部分の分かれ方は均整がとれ、彼は直立不動に立っていた。徒歩の彼と会えば、彼が他の人と対して変わらないと見て取ることだろうが、馬上の彼は似た体勢を取る騎手とはまったく比較的ないほどの外見を呈しており、それというのも鞍の彼は偉大な彫刻家が彫った一つの像を思い起こさせるからだ。馬を手綱で御して攻撃で駆けると、彼は興奮して手綱を安定させて丘を駆け降りるかのように駆け上がり、駿馬を御する時には手綱をかけて翼を持っているかのように高く飛び上がり、そして同じ見事さで上ったり降りたりする。老年時の彼は顎髭がはげていたが、頬から下ろした髪は太くあふれんばかりに増えており、そのために丸い顔の両側に巻き付いて見事な髭を蓄えているかのように見えた。彼には指の間に髪を巻き付ける癖があり、怒って怒鳴ったり大勢の人に話しかけたり、あるいは熟考している時にとりわけよくする仕草だった。もう一つ頻繁にする癖があり、それは指を尻につけ、両腕を腰に当てることだった。彼は流暢な弁士ではなかった。言葉は丸みを帯びておらず、終止符までは間延びしてもいなかった。事実、彼は言葉を短く刈り込み、言葉の間には少しの間隙しかなく、良い教育を受けた人というよりは農夫のような言葉遣いだった。彼は全身をよじれさせながら大声で笑った。 37 この皇帝は他の全ての君主よりも非常に長命だったようであり、生まれてから二〇歳になるまで父とフォカス・ニケフォロス、その後は後者の後継者ヨハネス・ツィミスケスと帝権を分け合った。この期間に彼は副次的な地位を占めたが、続く五二年間は最高権力でもって支配した。したがって死んだ時の彼は七二歳だった。 | |