プロコピウス『戦史』1巻 ペルシア戦争



I
 カエサレアのプロコピウスはローマ人の皇帝ユスティニアヌスが東西の夷狄に対して行った戦争についての歴史書を書いてそれぞれの出来事を別個に述べたわけであるが、その目的は記録されないことで時間の長い経過が非凡で重要な出来事を埋没させて忘却が置き去りにし、完全に抹消することのないようにというものである。これらの出来事は現代の人にとっては偉大で最も有用なものであって将来の世代にとってもそうであり、時が今後似たような重圧下に再び人々を置くことがないようにと彼は考えていた。それというのも目的を持って戦争に突入したり何らかの種類の戦いの準備をしたりする人々は歴史上の似た状況の話から何らかの利益を引き出すはずであり、それもこれもこれが同じ種類の戦いで昔の人々が得た最終的な結果を露わにし、計画にあたって最も賢明な人たちにとっては少なくとも目下の出来事がどんな結果になりうるのかの予兆となるからである。さらにその上、彼は他に理由がなかったとしても自分がこれらの出来事の歴史を書くのに特に適任だという矜持を持っていたわけであるが、それというのもベリサリウス将軍の相談役に任じられた時に記述される全ての出来事をこの目で見るという当たり籤を引いたからである。巧妙さが習字技法に、創意工夫の才が詩作に適う一方で、真実のみが歴史に適切なものであるというのが彼の確信であった。この原則に則って彼は最も親しい知り合いの失敗すら隠し立てせず、それが良く為されようとも悪く為されようとも関わった人に降りかかったあらゆることを完全に正確に書き出した。
 歴史上で看取されることのうちで戦争のなかで起こったことほど重要だったり強大だったりする事績はないということは明らかであろう――真理に関する判断に基礎を置きたいと望むとすれば、の話だが。なんとなれば我々がよく知っている他の戦争の中でよりもそれら〔プロコピウスが語るユスティニアヌス時代の戦争〕の中でいっそう注目に値する偉業が成し遂げられてきたからである。なるほど、この話の読者が古代に栄光の座を与えて現代の事績は注目に値するものに勘定する価値がないと考えたとしてもそうなのである。例えば、今日の兵を「弓兵」と呼ぶ一方で、最も古い時代の兵を「接近戦の戦士」、「盾兵」といういとも高尚な語やこういった類いのその他の語で呼ぶのを好む人たちがいる。そして彼らはその時代の勇敢さはまったく現代まで残ってはいないと考えているが、これは実に不用心で完全にこの主題〔戦争〕の実際の経験から乖離した意見である。持ち前の技術から引き出されたこの語で不運にもあざ笑われているホメロスの中の弓兵に関して言えば、彼らは馬で運ばれるわけでもなく槍や盾によって守られているわけでもないということにこの人たちはまったく考えが及んでいない。事実、彼らの体を守る物は一切なかった。彼らは徒歩で戦いに突入し、仲間の盾を〔防備として〕選んだり堡塁の上で、その後ろで安全を確保するための墓石を探したりすることで自らを隠すことを強いられており、こういった状況のおかげで彼らは敗走の憂き目に遭ったり素早く移動する敵に襲いかかった際には身の安全を確保できなかった。彼らは開けた場所での決戦に加わることは到底なかったが、常に戦いの参加者の物を盗もうとしていたらしい。これとは別に彼らは弓の使用に無関心なあまり獣にしか弓の弦を引かなかったほどで、そのために放たれた飛び道具は当然のことながら物の数ではなく、命中した人には無害だった。過去の弓術がこういったものであったことは明らかである。しかし現代の弓兵は胴鎧を着込んで膝まで伸びた脛当てを装備して戦いに向かう。右側に矢を、もう一方の側に剣をぶら下げている。槍を自分に結びつけて装備し、肩に取手のない小型盾の一種をつけて顔と首の部位を覆う者もいた。彼らは熟練した騎兵であり、全速で駆けている時に造作なくどちらの側にでも弓を構え、追撃の時も敗走の時も敵を射ることができた。彼らは弓の弦を額に沿って反対の右耳へと引き、進路上に立つ者は誰であれ殺せるほどの力で矢を放ち、盾と胴鎧などはこの威力には歯が立たなかった。そこでもまだこういった事柄のどれも考慮せずに古代を尊敬し崇敬し、現代の改良に信を置かない人たちがいる。しかしそういった考慮によって最も偉大で見事な偉業がこれらの戦争〔ユスティニアヌス時代の戦争〕で成し遂げられたという結論を下すのが妨げられることはあるまい。その歴史は、ローマ人とメディア人の戦争での運命、彼らの逆転と成功とについて述べる幾分か隔たった時代のことから辿ることから始めるつもりである。

II
 ビュザンティオンで今際の際にあったローマ皇帝アルカディウスには未だ元気だったテオドシウスという息子がおり、アルカディウスは自分のためだけではなく統治のため、どうやれば賢明な備えができるのか分からずいたく恐怖を感じていた。もし彼がテオドシウスのために共同統治者を用意すれば、事実その者は馬脚を現して王権を纏った敵となり、これによってアルカディウスの実子を滅ぼすだろうと彼は気付いていた。他方で彼に帝国を単独で統治させれば、事を起こすと予想される多くの人が孤立無援の子供に強みを活かして対抗し、帝位に登ろうと試みることになろう。こういった人たちが政権に対して蜂起すれば、ビュザンティオンにはテオドシウスの後見人になれるような親族がいないためにこの少年を滅ぼした、その後に難なく僭主になり仰せることだろう。それというのもアルカディウスはこの少年の叔父のホノリウスに対して、イタリアでの状況がすでに困難なものになっていたために息子を支援してくれるとは期待していなかったからだ。そして彼はメディア人が若い皇帝を踏みにじってローマ人に取り返しのつかない害を及ぼすのではないかとも恐れており、この夷狄の態勢にも等しく不安を抱えていた。アルカディウスはこの困難な状況に直面すると、他の問題では聡明には見えなかったにもかかわらず、統治の相談役の中に通常たくさん見出すことができる学識ある人たちとの対話の結果か、あるいは彼のもとを訪れた神的な直観から、彼の子供とその帝位の両方を厄介事から守る計画を練った。彼は自らの意向を書面にして子を帝位の後継者に指名したが、ペルシア王イスディゲルデス〔ヤズデギルド一世〕に全力を尽くしその深慮遠謀によってテオドシウスのために帝国の保全してほしいという自分の意向を真剣に託して後見人に指名した。かくして私事と帝国の用務をこのように差配すると、アルカディウスは世を去った。しかしペルシア王イスディゲルデスは時間通り自分に届けられたこの書状を見ると、君主になる前ですらその性格の高邁さで最大の名声を得ていただけに驚くべき注目に値する美徳をすみやかに示した。彼はアルカディウスの要請を律儀に守ってローマ人との完全な平和路線を採用してこれを反故にすることなく守り続け、こうやってテオドシウスのために帝国を保全してやった。なるほど彼はすぐにローマの元老院に書簡を送り、自分はテオドシウス帝の後見人としての責務を拒むことはないとし、テオドシウスへの陰謀を企む者を自らに対する戦争で脅したほどだった。
 テオドシウスが成年に達して人生の盛りに至ってイスディゲルデスが病で世を去ると、ペルシア王バララネス〔ヤズデギルド一世の子バハラーム五世〕が強力な軍隊を連れてローマ領へと攻め込んだ。しかし彼は被害を与えられず何も成し遂げることなく帰国した。以上のことは以下のようにして起こった。オリエンス道担当将軍アナトリウスはテオドシウス帝によってペルシア人への使節としてお供をつけず一人で送られていた。メディア軍に接近すると、ひとりぼっちの彼は馬から飛び降りてバララネスのところへと徒歩で進んだ。彼を見ると、バララネスは近くにいた人たちにやってくるこの男は何者かと尋ねた。この人はローマの将軍だと彼らは答えた。そこで王はこれほどに度を超した尊重で言葉を失うほど驚き、自ら馬を廻らして去り、全ペルシア軍が彼に続いた。自領にたどり着くと、彼は大変真心を込めて使節を接見し、アナトリウスが彼に求めた条件での停戦協定を承認した。しかし彼は一つだけ条件を付け加えた。それは両者いずれも新しい要塞を自領内のうち両国の国境線に近い場所に建設しない、というものであった。この協定が施行されると、両君主はそれぞれの国の事柄を最善と思うように統括し続けた。

III
 後年、ペルシアの王ペロゼス〔一世。ペーローズとも。バラハーム五世の孫〕が「白フン族」と呼ばれるエフタル系フン族の国との国境紛争に入り、堂々たる軍勢を集めて彼らに向けて進撃した。事実、そのエフタルはその名の通りフン族の血統だったが、彼らは彼らと接するどころか近くの土地すら占めていなかったために我々に知られているフン族と混ざっていなかった。しかし彼らの領地はすぐにペルシアの北辺に至った。なるほどゴルゴと呼ばれる彼らの都市はペルシアとすぐ境を接しており、それゆえにこれら二つの人々の国境線の頻繁な争いの中心になった。彼らは他のフン族とは違って遊牧民ではなかったが、長い間良い土地に定住していた。この結果、メディア軍〔メディア人はしばしばペルシア人の異名として用いられている。〕と共同した場合を除けば彼らがローマ領に攻め込むことはなかった。彼らはフン族の中でも体と顔が白く、醜くない唯一のフン族である。彼らの生活様式が彼らの同族とは似ておらず、彼らは同族がするような野蛮な生活をしていないというのは本当のことである。しかし彼らは一人の王によって支配されて法的な秩序を持っているため、彼らは他の部族と隣人の両方に対しては権利と正義に適った扱いを保っており、その度合いはローマ人とペルシア人にも劣らないほどである。その上、裕福な市民は二〇人、場合によってはそれ以上の友人を持つ習わしがあり、彼らは不変の宴会仲間になり、宴会に関する類いの共通の権利を楽しむべく全財産を共有している。それから、そういった仲間を集めていた人が死んだ時、皆が彼と一緒に生きたまま墓に入る習慣がある。
 このエフタルに向けて進軍したペロゼスは、たまたまゼノ帝によって彼の宮廷に送られていたエウセビウスという名の使者を同行していた。さてエフタルは攻撃に完全に怯えて逃げているように敵に見せかけ、四方を険しい山々で閉ざされていて広大な木々の鬱蒼とした森で守られた地点へと大急ぎで退却した。この時、木々の間から長い距離を進んでくると広々としたどこまでも続くように伸びた道が谷の中に現れるが、ついに至るところにはまったく出口がなく、山に囲まれたまっただ中がその終点となる。かくして完全に油断して考えなしになっていたペロゼスは自分が敵地を進軍していることを忘れて無警戒に追撃を続けた。フン族の一つの小部隊が彼の前方を逃げていた一方で、彼らの軍の大部分は凸凹した地形に身を隠したことで敵軍の後ろを取った。しかしそれでも彼らは、敵が十分罠に踏み込んでできる限り山の間まで行ってもはや引き返せなくなるようにするために敵に姿を見られまいとした。メディア軍が全てこの通りになると――彼らは危機のちらつきに気づき始めていた――ペロゼスを恐れて自分たちの状況について話すのをやめていたにもかかわらず、王を以下のように説得してくれるようエウセビウスに熱心に懇願した。すなわち、自らの窮地に全く気付いていない王が自ら際だった大胆さを見せつけるよりはむしろ相談をして自分たちの身の安全を確保する方途を検討する方が良い、と。かくして彼はペロゼスの面前へと赴いたが、面前の破滅について全く示すことができなかった。代わりに彼は寓話を始めた。曰く、ある時、獅子がそれほど高くはない山の上で縛られて泣き言を言っている山羊に出会った。そしてその獅子はその山羊をご馳走にしようとし、その山羊をひっ捕らえようと飛びかかったところ、非常に深い壕に落ちてしまった。そこは出口のない堂々巡りの狭く終わりのない道の先にあっただけであるが、それもそのはず山羊の持ち主たちがまさにこの目的のためにこしらえて獅子への餌として山羊をその上に乗せたというわけだ。ペロゼスはこれを聞くと、おそらくメディア軍は敵を追撃することで墓穴を掘っているのではないかという恐怖に襲われた。したがって彼はこれ以上の進撃をやめたが、いる場所にとどまって善後策の検討を始めた。この時までにフン族はもう身を隠すことなく彼に追っており、敵が最早後退できない場所の入り口までおびき寄せていた。ついにペルシア軍は自分たちの苦境がどんなものであるかを知るに至り、状況は絶望的だと感じた。というのも彼らはこの危機から絶対に逃がれられる希望はないと感じていたからだ。そこでエフタルの王は何人かの部下をペロゼスのもとへと送り、このおかげでペロゼスが自らとペルシアの人々を理不尽に破滅させたところの彼の無思慮さと無鉄砲さを長々と叱責したが、たとえそうであってもペロゼスがあたかもご主人様であることを証明するかのように王の前に平伏するのに甘んじ、ペルシア人の間での伝統的な宣誓でもう二度とエフタルの国に刃向かわないと誓約するならばフン族は彼らの解放を認めるつもりだと告げた。ペロゼスはこれを聞くと、臨席していたマゴス僧たちに相談し、自分は敵に押しつけられた条件を飲むべきかどうか尋ねた。マゴス僧たちが答えて言うに、宣誓に関して彼は好きなように事を決めた方が良いが、残りのことについては策略をもってして敵を出し抜くべきであると。そして彼らは、日ごとに昇る太陽に平伏するのはペルシア人の習わしであり、したがって彼は時をきっちり見計らって夜明けにとエフタルの指導者と会い、昇る太陽に向き直って敬礼をするべきだと彼に思い起こさせた。こうやって彼らは、彼が行動の不名誉を将来にわたって逃れることができるはずだと説明した。したがってペロゼスは和平についての宣誓を行い、マゴス僧の提案そのままに敵にぬかずき、こうして全メディア軍を連れて無傷で喜びつつ母国へと退却した。

IV
 これから遠からぬうちに彼は誓約を反故にし、自分を辱めたフン族への復讐を企んだ。したがって彼はすぐに全土からペルシア軍とその同盟軍をかき集めてエフタルに向けて率いていった。彼は息子全員のうちであいにく少年を過ぎたばかりだったカバデスという名の息子を後に残し、三〇人ほどいた他の息子全員を連れて行った。エフタルは彼の侵攻を知ると敵の手で受けた詐術に怒り、自分たちをメディア人のために見捨てたとして彼らの王を厳しく責め立てた。彼が笑いながら彼らに尋ねて言うに、彼らのものである世界のもので何を自分が捨てたというのか、それは土地か、武器か、それともその他の財産か、と。そこで彼らが言い返すに、なるほど彼は何一つ捨ててはいない、ただし他のあらゆるものが結局のところ依存するところの好機を除いてだが、と。今やエフタル人らは侵略者と一戦交えに行こうと熱烈に要求したが、王はとにかく当座のところ彼らを抑えようとした。というのも、彼らはまだ侵攻について確たる情報を受け取っておらず、ペルシア軍はすでに彼らの境界内にいるのだと彼は主張した。かくして彼は今いるところにとどまって以下のような仕掛けを施した。彼はペルシア軍がエフタルの土地への侵入口としようとしていたある原野を非常に大きく広大な一つの区画に仕切り、十分な幅の深い壕をこしらえた。しかし中央に一〇頭の馬が通るのに十分な手つかずの小区画を残しておいた。壕の上に彼は葦を乗せ、葦の上に土を撒いて本物の表面を偽装した。それから彼はフン族の軍勢に壕の内側に退却する時が来たら、狭い縦列を組んで自分たちが壕に落ちないように用心しつつむしろゆっくりとこの場所の隘路〔落とし穴になっていない場所〕を抜けるよう指示した。そして彼は王の軍旗の上部から、かつてその上でペロゼスがフン族に刃向かうことで反故にしてしまった宣誓を行った塩を吊り下げた。今や敵が彼らの領土にいると聞いても彼は大人しくしていたが、斥候から敵がペルシアの国境にあるゴルゴ市に到着し、それからそこを発って自軍に向けて進軍中だと聞くと、自らは兵の大部分共々壕の内側に残った。そして以下の命令を持たせて小部隊を差し向けた。即ち、平地にいる敵から自分たちを視認できるようにして視認されれば一目散に後方へと逃げ、壕に近づいた時には壕についての指示を心に留めておくようにと。彼らは命じられた通りに行動し、壕に近づくと隘路に入り、全員がそこを渡って残りの軍と合流した。しかしその作戦をつゆ知らぬペルシア軍は大急ぎで平原を渡って敵に対する怒りの気力を抱きつつ追撃し、先頭の者だけでなく後続の者もみんな壕に落ちていった。というのも私が述べたように激しく追撃を行っていたために彼らは自分たちの指揮官たちに降りかかった破滅に気付かずに馬と槍共々真っ逆さまに落ちていった。その結果、当然のことながらこれら両方〔馬と槍〕が彼らを壊滅させて他ならぬ破滅の巻き添えになった。ペロゼスと彼の息子全員もそれに含まれていた。彼がこの穴へと落ちようとしていたまさにその時、危機に気付いた彼が自分の右耳からぶら下がっていた真珠――素晴らしい白さで、際だった大きさのために高値がついていた宝石だった――をひっつかんで投げた、と彼ら〔この「彼ら」が指しているのがペロゼスの息子たちでもエフタルでも座りが悪い。プロコピウスの真珠についての話の情報源がペルシア人であることを勘定すれば、これは一連の出来事を言い伝えているペルシア人のことであろう。〕は言っている。それを彼の後に身につける者が出ないようにするためであったのは疑いない。それというのもその真珠はきわめて見栄えが美しく、彼以前のどの王も所有していなかったほどだったからだ。しかしながらこの話は私には信用に足るものとは思えない。それというのもそんな危機を悟った者ならば〔身の危険以外の〕他のことは何も考えることができないだろうし、彼の耳はこの厄災で押しつぶされて真珠はどこかになくなってしまったものと私には思われる。この真珠をローマ皇帝はエフタルから購入しようと四方八方手を尽くしたが、全くの不首尾に終わった。それというのも大変な手間をかけて探しはしたものの、夷狄はついにそれを見つけることができなかったからだ。しかし彼らはエフタルがそれを後に見つけてカバデスに売ったと言っている。
 ペルシア人が語るこの真珠の話は、ひょっとしたらいくらかの人たちには全く信じられないようなものとは見えないであろうから、語るに値するものである。それというのも彼らは、その真珠はペルシア湾を洗う海の牡蠣の中にあり、その牡蠣は海岸からそう遠くないところを泳いでいたと言っている。その二枚貝の両方が開けば真珠がその間に鎮座し、その見事な見かけときたら大きさといい美しさといい、歴史上のどの真珠もまったく歯が立たないほど立派なものであった。非常に大きくおそろしく獰猛な一頭のサメがこの見かけを愛し、朝な夕な近くで見守っていた。食料のことを考えざるをえなくなると、このサメは自分がいる所だけで食べられるものを探し、小物を見かけるとさっと襲って急いで食べた。それからこの牡蠣に追いつくと、サメは愛する光景に再び満足した。彼らが言うには、ついにこれが泳ぎ行くのに一人の漁師が気付いたが、怪物への恐怖から危険に尻込みした。しかし彼は事の一切合切をペロゼス王に報告した。さてペロゼスは彼の説明を聞くと、彼らが言うには、その真珠に強い憧れを抱いてこの漁師をたくさんのお世辞と褒美への希望で説得した。君主のしつこさに根負けした彼はペロゼスに以下のように言ったといわれる。「陛下、人間にとって大事なものはお金であり、もっと大事なのは命でありますが、全ての人にとって一番価値があるのは我が子でございます。もとより子供たちへの愛に強いられれば人間は何であれ敢然と行うものでございましょう。さて、私はその怪物を試してみて、陛下を真珠の主にしたいものと思っております。そしてもし私がこの戦いを制したならば、今後私がめでたい人間と勘定される人たちの列に入るということは明らかでございましょう。というのも諸王の王たる陛下が私に全ての良き文物を褒美として与えるであろうことは相応しからぬことではないからですし、私としては、自分が褒美を貰えないでいるとしても、自分が主君の恩人であることを見せつけるだけで十分満足することでしょう。しかしもし私がこの怪物の犠牲になる必要があるとすれば、なるほど、陛下、王のすべきことは父の死について私の子供たちに報いることでございましょう。そうすれば死後にさえ私は――私が自分にとって最も近しい人たちの稼ぎ手になればそれだけあなた様が善行で勝ち得る大きな名声は大きくなることでしょう――我が子たちを助ける報酬となり、あなた様は自分に恩のことで感謝する力を持たない私に恩恵を施すことになりましょう。それというのも気前の良さは死者に示される時にのみ不純物のないものになると見なされているからです」こう言って彼は出発した。そして牡蠣がいつも泳ぎ、サメがその後をついてきている地点に来ると、彼は岩の上に座って崇拝者がいなくってひとりになった真珠を取る機会をうかがった。サメが食べられる物をたまたま見つけて牡蠣から遅れてしまうや否や、漁師は浜にこの任務のために自分に付き従っていた人たちを残し、牡蠣めがけて真っ直ぐに突き進んだ。彼がすでに牡蠣を取って大急ぎで海から出ようとしていたところ、サメが彼に気付いて救出のために突っ込んできた。漁師はサメが来るのを見て、浜までそう遠からぬところで追いつかれそうになると戦利品を全力で陸へと投げ、自らは間もなく捕捉されて破滅の憂き目に遭った。しかし浜に残された人たちは真珠を拾い上げて王のもとへと持っていき、一切合切を報告した。私が書き留めた限りではペルシア人がこの真珠について語る話は以上のようなものである。このあたりで元の話に戻ることにしよう。
 こうしてペロゼスは全ペルシア軍共々滅ぼされた〔484年。〕。たまたま壕に落ちなかった僅かな兵たちは敵の慈悲に自らを委ねることになった。この経験の結果、敵地を進軍している間は敵が力負けして潰走していようとも追撃を行ってはならないという一つの法がペルシア人のうちに作られた。かくしてペロゼスと一緒に進軍していなかった者と自国に残った者はペロゼスの末子で唯一の生き残りだったカバデスを王に選んだ。その時、ペルシア人はエフタルに服従して年貢を払うようになり、これはカバデスが勢力をこの上なく確固たるものとして最早彼らに年貢を払う必要がないと思うようになるまで続いた。この蛮族がペルシア人を支配した期間は二年間に及んだ。

V
 しかし時が経つにつれてカバデスは政権運営にいっそう熟練して組織に諸々の改革をもたらした。その中にはペルシア人は女性との情交を共有のものとして行うべしと定める法があったが、その法は一般人民には決して喜ばれなかった。したがって彼らは彼に対して蜂起し、彼を王座から引きずり下ろして投獄した。そこで言われるところではペロゼスには他に男子が残っておらず、王家が完全に絶えた場合を除けば一般市民の生まれの誰かが王座に就くことはペルシア人のうちでは法にもとることだったため、彼らはペロゼスの兄弟ブラセスを王に選んだ。ブラセス〔実際のところカバデスの治世の顛末はプロコピウスが述べるのとはいささか違っているようで、ペロゼスが死んだ484年に王位を継いだのはペロゼスの兄弟だったブラセス(バラーシュ)だった。488年に彼は貴族たちに背かれて廃位され、カバデスが一度目の王位に就いた。しかしカバデスは上記にあるような女性の共有政策を含むマズダク教導入政策によって貴族ら支持を失って退位させられ、496年にカバデスの弟のジャーマースブが王位に登った。その後498年にエフタルの助力を得てペルシアに攻め込んだカバデスが王位を奪った。〕は王権を受け取るとペルシア人貴族を集めてカバデスの処遇について会議を開いた。それというのも多数の人はこの男を殺してしまうことを望んでいなかったからだ。両論で多くの意見が出た後、彼らはペルシア人のうちで評判高く、「カナランゲス」(ペルシアの言葉では将軍であろう)という官職にいたグサナスタデスという名の人物を訪ねた。彼の管轄地はペルシア領の国境の最前線、エフタルの土地と隣接する地方であった。ペルシア人が常々爪の手入れをするのに使う人の指ほどの長さで、幅が指の三分の一もない短刀を握りつつ彼は言った。「貴殿らにはこの短刀がどれだけ小さいかご覧いただけるだろう。さりとて納得して貰いたいのだが、我が親愛なるペルシアの御仁らよ、少し後になれば鎧武者の二つの大軍勢がやろうとしてもできぬことが今ならできようぞ」彼のこの発言は、彼らがカバデスを殺さなければすぐにカバデスはペルシア人に問題を引き起こす、ということだった。しかし彼らは王家の血が流れる男を殺すのに忍びなく、慣習的に「忘却の牢獄」と呼ばれている城に幽閉することに決めた。そこに投げ込まれる者がいれば、法はそれ以後その者について話すのを許さず、彼の名を語る者を待っているのは死刑である。このためにそこはペルシア人からこのような名を頂戴することになったというわけである。しかし時折アルメニア人の歴史は忘却の牢獄についての法律の効果がペルシア人によって以下のようにして停止されたことがあったと物語っている。
 かつてペルシア人とアルメニア人との間で二、三〇年に及んだ休戦を挟まない戦争があり、この時はパクリウス〔シャープール二世〕がペルシア人の王で、アルメニア人の王はアルサケス家のアルサケス〔二世〕だった。長く続いた戦争のために双方は限界を超えた被害を被り、とりわけそれはアルメニア人に顕著だった。しかし両国は他方から非常に距離が隔たっていたため、交戦国に和平を打診できないでいた。その時、ペルシア人が、アルメニア人とそう遠くないところで暮らしていた他のある夷狄との戦争に取り組む運びとなった。したがってアルメニア人はペルシア人に好意を示して和平を求めるようとやっきになってその夷狄の土地に攻め込むことを決定し、手始めにペルシア人にその計画を披露した。それから彼らはその夷狄に不意打ちを仕掛けて老いも若きもそのほとんど全ての者を殺した。そこでその好意をいたく喜んだパクリウスは最も信頼する友人たちをアルサケスのもとへと送り、身の安全の保障を宣誓して自分の面前へと招待した。アルサケスが彼のもとへとやってくると、パクリウスはありとあらゆる親切を示し、兄弟として共に並んで歩くほど厚遇した。そこでパクリウスは、ペルシア人とアルメニア人は以後は本当に互いを友人にして同盟者とすることとし、最も厳粛な誓約で彼を縛って自らも同様の誓約を行った。その後、彼はすぐにアルサケスを解放して自分の国へと帰した。
これからそう遠からぬうちにとある人たちが、何らかの扇動的な計画を実行しようと企んでいると言ってアルサケスを中傷した。パクリウスはこの人たちに説き伏せられ、全般的な事案を相談したいと伝えて再び彼を召喚した。何の躊躇もなく王のもとへと来たアルサケスはアルメニア人のうちで最も好戦的な者たちを同行させており、その中にはその時の王の将軍であり相談役だったバッシキウスがいた。それは彼が知勇を目覚ましいほどに兼ね備えた人物だったからだ。そこでパクリウスは、アルサケスとバッシキウスが宣誓された協定を反故にして舌の根も乾かぬうちに騒擾を企むようになったとして両者に非難を雨あられと浴びせた。しかし彼らは嫌疑を否定し、そういったことを自分たちは企んでいないとこの上なくしつこく誓った。したがって当初パクリウスは彼らを監視下に置くことでその顔に泥を塗ったが、後になってマゴス僧たちに彼らをどうすれば良いかと尋ねた。さて、そのマゴス僧たちは罪を否認していて明らかな罪状が見つからないこの者たちに有罪判決を下すのは決して公正ではないと考えたが、嫌が応にもアルサケスその人が自らの告発者になってしまうような一計を王に提案した。彼らは彼に王用の天幕の床に半分はペルシアの土を、もう半分はアルメニアの土を敷き詰めさせた。王は指示の通りにこれを行った。それからマゴス僧たちは魔術の儀式をして天幕中で呪文を唱えた後、王にアルサケスを伴ってそこを歩きつつ宣誓された合意への違反を非難するように仕向けた。さらにマゴス僧たちは自分たちが会談の場にいて然るべきであり、こうすれば皆が発言の証人となるはずだと言った。したがってパクリウスはすぐにアルサケスを召喚し、マゴス僧たちが隣席する天幕で彼を連れて行ったり来たり歩き始めた。パクリウスはこの男になぜ宣誓した約束を反故にしてペルシア人とアルメニア人を重大な厄介事でさらに困らせようとするのかと問うた。さて話し合いがペルシアの地から取られた土で覆われた地面にさしかかってもアルサケスは否定し続け、自分はパクリウスの忠実な臣下であると主張するというこの上なくぞっとするような誓いをした。しかし喋っている最中に彼が天幕の中央にさしかかってアルメニアの土地に足を踏み入れると、何らかの未知の力に強いられて突如として挑戦的な口調に変わり、自分が主人になればすぐにこの無礼に対してパクリウスとペルシア人に復讐をするつもりだと公言し、パクリウスとペルシア人を脅すのをやめなくなった。引き返してペルシアの土の地面に戻ってくるまで彼は歩いている間中に若者らしく愚劣な言葉遣いで話し続けた。そうかと思えば取り消しの詩〔パリノディア(palinodia)。古代ギリシア以来のヨーロッパで作られた、直前に言ったことを撤回するための詩。有名どころでは、プラトンの『パイドロス』の中でソクラテスが議論の中でついエロス神を悪し様に言ってしまったことに対し、罪を清める取り消しの詩としてエロスを称揚する話をしている。〕を歌うかのように以前のような調子でパクリウスに哀れっぽい申し開きをする嘆願者になった。しかしアルメニアの土に再び来ると彼は脅迫に転じた。このようにして彼は何度も何度もコロコロ立場を変え、いかなる秘密も秘匿できなくなった。そこでついにマゴス僧たちは協定と誓約を反故にしたとの判決を彼に下した。パクリウスはバッシキウスの皮を剥いでその皮で鞄を作り、もみがらを詰めて高い木から吊した。アルサケスはといえば、パクリウスは王家の血筋の人間を殺すつもりはまったくなかったので、忘却の監獄に閉じ込めた。
 この後にペルシア人はその夷狄〔アルメニア人〕の国へと進軍し、アルサケスがペルシアの土地に来た時にも随行したアルサケスと特に懇意なとあるアルメニア人を同行させた。この男はパクリウスにも分かるほどこの遠征で自身が優秀な戦士であることを証明し、ペルシアの勝利の立役者となった。このためにパクリウスは何であれ拒まないと保証して彼の望みを叶えさせてくれと頼んだ。このアルメニア人は自分が望むような仕方で一日だけアルサケスに敬意を捧げること以外何も求めなかった。さて、これに王は甚だ苛立ち、かくなる上は非常に古いある一つの法律を無視することを余儀なくされるに違いなかった。しかし自分の言葉を完全なる真実とするために彼は要望が認められることを許した。この男が王の命令によって忘却の監獄を見つけると、彼はアルサケスに挨拶し、両者は互いに抱擁し合って優しい嘆きの声をかけ合って彼らに降りかかった厳しい運命を悲しみ、やっとこさ互いへの抱擁から離れた。それから彼らは泣きながら座ってから涙を止め、件のアルメニア人はアルサケスを入浴させ、何一つおろそかにせずに身なりを完全に整えて王の外套を着せ、イグサの寝台の上に横たわらせた。それからアルサケスはその場にいた人たちを以前の彼の習慣通り王らしい饗宴でもてなした。この宴の間、多くの酒杯の上で演説がなされてアルサケスをいたく喜ばせ、彼の心を喜ばせる多くの出来事が起こった。酒宴は日暮れまで続いて皆が相互の交わりをこの上なく夢中になって喜んだ。ついに彼らは大変嫌々ながらも互いに離れ、幸福をありったけ吹き込まれた形で分かれた。それから生涯の最も甘美な一日を過ごして何よりもないのを寂しがっていた交際を楽しんだ後には最早人生の悲惨さに喜んで耐えるつもりはないということをアルサケスがどんな風に言ったかを彼ら〔「彼ら」とは言い伝えをしたペルシア人であろうか。〕は述べている。彼が言うには、これらの言葉を言いつつも実のところ宴の際にわざと盗んだ短刀を自らに突き立て、彼らのもとから旅立った。このアルサケスに関する話は以上のようなもので、私が述べた通りのことが『アルメニア史』で物語られており、この折に忘却の監獄についての法律が一時停止された。だが私は脱線した点へと戻るべきだろう。

VI
 投獄中のカバデスは妻に世話をしてもらっていて、彼女は絶えず彼のもとへと通って食べ物を差し入れた。さて彼女は極めて眉目秀麗だったために監獄の見張りが彼女を口説き始めた。妻からこのことを知ったカバデスは彼女に自らをこの男に差し出して好きなようにさせるよう命じた。こうやって監獄の見張りはその女と懇意になって彼女を著しく愛し、その結果として夫を彼女が望む所に行かせて最早誰の邪魔もされない場所へと去らせることを許した。この時、名をセオセスというカバデスの大親友だったペルシア人貴族がおり、彼はどうにかして彼を救出しようと望んでいつもこの監獄の近郊にいた。そして彼は、自分は監獄から遠くない場所に馬と部下を待機させているのでその場所を示すという旨の手紙をカバデスへとその妻を通じて送った。ある日の夜の帳が落ちそうになっていた時、カバデスは妻に自分の服を寄越させ、自分の衣服に着替えさせていつも座っていた場所に自分の代わりに座らせた。かくしてこうやってカバデスは脱獄した。任にあった見張りたちは彼を見ていたにもかかわらず、これ〔女装して外に出るカバデス?〕を女性だと思ったため、邪魔をしたり怒らたりすることはすまいと決め込んだ。夜明けに彼らは独房の中にいたのが夫の服を着た女だということに気がつき、カバデスがそこにいたものと思って完全に騙され、数日間このこと〔入れ替わり〕は信じられ続けてその間にカバデスはうまい具合に歩を進めていた。策略が明るみに出た後にこの女に降りかかった運命と彼らが彼女を罰した仕方について私は正確に述べることができない。なぜならペルシア人は互いに食い違う説明をしており、こういうわけだから私は彼らの話については書かないでおくことにする。
 カバデスはセオセスを伴って捜査の目を完全にかいくぐってエフタル系フン族のもとに到着した。そこで〔エフタルの〕王は彼に娘を娶らせ、今やカバデスが義理の息子になると彼はペルシア人に対する遠征にあたって実に恐るべき軍勢の指揮を任せた。ペルシア人はこの軍と遭遇するのをまったく嫌がって方々へと急いで逃げた。グサナスタデスが権力を行使していた領地へと至ると、カバデスはその日に自分の面前へとやってきて奉仕を申し出た最初のペルシア人をカナランゲスに任命するつもりだと何人かの友人に話した。しかしこう言いはしたものの、ペルシア人の官職は栄誉ある出自の者以外には与えられてはならないと定めたペルシア人の法律を思い浮かべたために彼はこう話したことを後悔する羽目になった。というのも彼は目下のカナランゲスの親族の誰かが最初に来るのではないか、そして自分の言葉を守るために法に無視せざるを得なくなるのではないかと恐れていたからだ。それにしても彼がこの問題を検討するに、偶然が起これば法を無視することなく彼はそのまま自分の言葉を守ることができる。たまたま彼のもとに最初に来たのはグサナスタデスの血縁で特に優れた軍人だったアデルグドゥンバデスという若者だった。彼はカバデスに「陛下」と呼びかけて王としての彼に最初に服従し、どんな任であれ奴隷として自分を使ってくれるよう求めた。それからカバデスは何の問題もなく王宮へと進路を取り、バラセスから擁護者を奪い取り、熱して猛烈に沸騰させたオリーブ油を開いた両目へと注ぎ込む、あるいは鉄針を火で温めて眼球を突き刺すという悪人に対してペルシア人が一般的に使っていた目潰しの方法を用いて彼の両目を潰した。その後バラセスは幽閉されたまま二年間ペルシア人の上に君臨した。グサナスタデスは殺されてアデルグドゥンバデスが彼に変わってカナランゲス職に据えられた一方で、セオセスはすぐに「アドラスタダラン・サラネス」という全官庁と全軍の権限に人を任命できる称号となると宣言された。後にも先にも誰もこの官職を与えられなかったため、セオセスはペルシアでこの官職に就いた最初にして唯一の人物であった。賢明さと活発さでカバデスの右に出る者はいなかったため、王国は彼によって強化されて堅固に守られた。

VII
 少し後にカバデスはエフタル王に払えきれないほどの額の金を借りていて、このためにローマ皇帝アナスタシウスに金を貸してくれるよう求めた。そこでアナスタシウスは友人たちの何人かと相談してこれをどうすべきかと尋ねたが、彼らは貸し付けを許さなかっただろう。彼らが指摘するところでは、彼らの金によって敵とエフタルとの友情を一層強固にすることは得策ではない。現に可能な限り彼らの間を裂くのがローマ人にはより良いことだった。正義を原因にしてではなくこのことのためにカバデスはローマ人に対する遠征を決意した。手始めに彼はその到来の知らせが届く暇も与えぬ速度で動いてアルメニア人の土地に攻め込み、この素早い遠征でその地の大部分を略奪した後に彼はメソポタミアに位置するアミダ市に出し抜けに到着し、季節が冬だったにもかかわらずその町を攻めた。この時のアミダの市民はその時は平和と繁栄の時期だと了解していたために手元には兵がおらず、他の点でも何も備えをしていなかった。にもかかわらず彼らはまったく不本意ながらも敵の手に投げ出されると、危険と苦難に持ち堪えて予想だにせぬ不屈の精神を見せつけた。
 この時、シリア人の中にヤコブスという名の正義漢がおり、彼は宗教に関わる諸事では非常に厳格な人物だった。よりしっかりと敬虔な瞑想に没頭できるようにとこの男はアミダから一日のところにあるエンディエロンと呼ばれる場所に長年引きこもっていた。この地の人々は彼の目的を支えるために彼の周りを杭が連なりつつも間隔が空いた垣根で囲み、このために近くに来た人は彼を見て話をすることができた。彼らは彼の頭上に雨と雪を防ぐのに十分なほどの小さな覆いをこしらえた。そこでこの男は暑さにも寒さにも耐え、毎日というわけではないが長い間隔を空けて豆を常食にすることで命を繋ぎつつ長らく座っていた。さて、その地方をうろついていたエフタル兵の一部がこのヤコブスを見つけ、彼を射殺しようとして非常に熱心に弓を構えた。しかし彼らの中の誰の手も動かなくなってまったく弓を扱えなくなってしまった。これが軍の間で言いふらされてカバデスの耳に入ると、彼は自分の目でこの様を見てみたいと思った。そしてこれを見ると彼と彼に付き従っていたペルシア人は甚だ仰天し、彼はヤコブスに夷狄どもの罪を許してほしいと懇願した。彼は許しを口にし、この男たちは苦悶から解放された。それからカバデスは多額の金を所望するだろうと思いつつもこの男に何か望みはないかと尋ね、自分は何であれ拒まないと若者らしく無鉄砲に言い添えた。しかし彼はカバデスに戦争の間に彼の捕虜になる者全員を自分に譲渡するよう求めた。この要望をカバデスは飲み、彼の身の安全に関する特許状を与えた。そしてこの行いが広く知れ渡ったために予想通り非常に多くの人が方々から彼のもとへと集い、そこに身の安全を見出した。かくして事の次第は以上のようになった。
 アミダ包囲中のカバデスは「羊」〔城壁を叩く部分が羊の頭を模した破城鎚。〕として知られる兵器を防備のあらゆる部署に差し向けたが、町の人々は羊の横向きに木材を投げて絶えずそれらの頭を外した。しかしカバデスは城壁がこの仕方では成功裏に攻撃できないと悟るまで弛まず試し続けた。何度も城壁に打撃を加えたにもかかわらず、彼はどこの防備もてんで壊すことがでず、揺るがすことすらできなかった。まことこの安全は大昔にそれ〔城壁〕を作った建設者の仕事の成果というわけだった。これに失敗すると、カバデスはその都市を脅かすために城壁を遙かに上回る高さの人口の丘を作ったが、籠城軍は防備の内側から丘に伸びる坑道を密かに地中に掘り始め、それは丘の内側の大部分をくり抜くまで続けられた。しかし外部は最初の形のままなので誰も何が起こったのか気付きようがなかった。したがって多くのペルシア兵が安全だと思ってそこに登り、要塞の内側の人々の頭めがけて射撃を行おうと頂上に陣取った。しかし夥しい兵士がそこに一気に群がったために丘は突如崩れ、彼らのほとんどが死んだ。そこでカバデスは状況の挽回の手立てはないと見て取って包囲を解くことを決意し、翌日に軍に撤退命令を出した。それから籠城側は自分たちの危険になど頓着していないとでも言うかのように夷狄を要塞から嘲笑い始めた。これに加えて何人かの娼婦たちが恥知らずにも服をまくって近くに立っていたカバデスに見せつけ、一人の女の体の男には当然ない部分が露わになった。これが明らかにマゴス僧の目に入ると彼らは王の面前に赴き、これはアミダ市民は間もなくカバデスに秘密と隠し立てしているものの一切合切を露わにするということが起こることだという解釈を言い放って撤退を防ごうとした。かくしてペルシア軍はそこに留まることとなった。
 何日もせずに一人のペルシア兵が塔から眺めていたところ古い地下道の入り口を目にしたが、それは僅かばかりの小さい石で不用心に隠されていただけだった。その夜、彼は一人でそこに向かってその入り口が円形の城壁の内側に繋がっていることをを検分した。用意した梯子を自ら運びつつ王は僅かな部下を連れて次の夜にそこに来た。そしてこの一欠片の幸運を喜んだ。それというのもその通り道に一番近いところにあった塔の守りは、監視の点では一番用心深い「修道士」と呼ばれていたキリスト教徒たちに割り当てられていたからだ。この人たちはたまたまその日は神ための年ごとの宗教的な祝祭を続けていた。夜が来た時、祝祭のおかげで彼ら全員は非常に疲労していて、いつもの習慣に反して食べ物と飲み物を持って座り込んで甘く優しい眠りに落ち、そのおかげで何が起こったのかに気付けなかった。かくしてペルシア兵は要塞内部への通路を抜けて進んで瞬く間に塔に乗り込み、眠っていた「修道士」たちを一人残らず殺した。これを知るとカバデスはこの塔に近い城壁へと梯子を運んだ。これは白昼堂々と行われた。そして隣接する塔を守り続けていた町の兵たちは厄災に気付き、大急ぎでそちらへと走って救援に赴いた。次いで長い間両軍が他方に雪崩れ込んで戦い、城壁に登ってきた多くの兵を殺して梯子へと投げ落とすなど町の兵が優位に立ち、あと一歩で危機を脱出できそうだった。しかしカバデスは剣を抜いてこれで絶えずペルシア兵を脅しつけ、自ら梯子へと急かして彼らが後に引くのを許さなかった。退こうと身を翻した者を待っていた罰は死刑だった。この結果、ペルシア軍は数を頼んで優位に立ち、戦いで敵を打ちひしいだ。かくしてこの年は包囲が始まってから八日目にして力攻めで落とされた〔503年1月11日。〕。続いて市民に対する大虐殺が起こり、これは年老いた聖職者だった一人の市民が市内に騎乗してやってきたところのカバデスに近づいて捕虜を殺戮するのは王らしからぬ行為だと話すまで続いた。そこでまだ激情に突き動かされていたカバデスはこう答えた。「しからばなぜ貴様らは余に刃向かって戦おうと決めたのだ?」老人はすぐに答えた。「それは我らの決定と同じくらいに陛下の勇気によって神がアミダを陛下の手に授けようとしたからでございます」この話を喜んだカバデスはこれ以上の虐殺を許さなかったが、ペルシア兵に財産を略奪して生き残りを奴隷にするがままにさせ、奴隷の中で全ての貴族を自分のために選び出すよう命じた。
 これからすぐに彼はペルシア人ゴロネス指揮下の一〇〇〇人の守備隊、ペルシア人の日ごとの要求に召使いとして仕えることを宿命づけられた僅かばかりの不運なアミダ市民をその地に残してから出発した。彼自身は残りの全軍と捕虜を連れて帰路についた。捕虜たちはカバデスから王たるに相応しい寛大な扱いを受け、その後すぐに全員が解放されて帰国させられたが、力尽くで逃げることは許されなかった。そしてローマ皇帝アナスタシウスも彼らの勇気に相応しい栄誉を示し、その都市に七年間全ての毎年の税を免除すると伝え、彼ら全員を一つの身体を持ちながら多くの良きものを別個に持った各々の人として表現したため、彼らは自分たちに降りかかった不運を完全に忘れてしまった。しかしこれは後年のことである。

VIII
 その頃にアミダが包囲されていたのを知ったアナスタシウス帝は大急ぎで十分な戦力の軍勢を派遣した。しかしこの軍には全部隊を統括する総司令官がおらず、最高指揮権は以下の四人の将軍に分割されていた。即ち、オリエンス道担当軍司令官でもあり、少し前に西方の皇帝だったオリュブリウスの義理の息子だったアレオビンドゥス、近衛軍団司令官――この官職はローマ人から「マギステル」と呼ばれるのが常である――ケレル、彼らに加えてビュザンティオンの諸部隊の司令官のフリュギア人パトリキウス〔英訳ではPatriciasとあったが、以下の文脈ではPatriciusと表記され、さらに希羅対訳版ではそれぞれPatricios/Patriciusとあるため、誤植と思われるのでパトリキウスと改めた。〕、皇帝の従兄弟ヒュパティウスの四人がこの時に将軍となっていた。彼らに加えて後にアナスタシウスが死ぬと皇帝となるユスティヌス、そう遠からぬうちにアナスタシウス帝に対して武装蜂起して僭帝となる息子ウィタリアヌスを伴ったパトリキオルスが加わっていた。さらにコルキス生まれで並外れた軍人としての力量を持ったファレスマネス、テオデリックがトラキアからイタリアに向かった時に彼に同行しなかったゴート人一派で双方共にこの上なく高貴な生まれで兵事において経験豊富だったゴディディスクルスとベッサスもいた。その他にも多くの高官がこの軍に加わっていた。彼らが言うには、このような軍がローマ人によってペルシア人に対して集めたことは後にも先にもなかった。しかし彼ら全員は一つに集まらず、進軍する時にも一つの軍に編成されず、司令官は各々別個に敵に向けて手勢を率いていった。軍の財務長官としてエジプト人アピオンが送られており、彼はパトリキウス〔直前に同盟の人物が出ているので紛らわしいが、この「パトリキウス」は人名ではなく後期ローマ帝国における高位の称号。〕らのうちで令名高く極めて精力的な人物だった。彼が望む通りに財務を差配する権限を持てるようにするために皇帝は筆記された声明書の中で彼を帝権の共同運営者だと宣言していた。
 さてこの軍は動員がかなり遅れており、進軍もトロトロしたものだった。この結果、ペルシア軍は突如襲いかかっては戦利品を全部持って自国へとすぐに引き上げていたために彼らはローマ領で夷狄軍を捕捉できなかった。アミダに残されていた守備隊が大量の物資の蓄えを運び込んでいたことに気付いてはいたものの、敵地に攻め込むのを躊躇したためにどの将軍も当面は彼らの包囲に取りかかろうとはしなかった。しかし彼らは一緒に夷狄に向けて進軍せず、別々に進んで離れて野営していた。たまたま接近したおかげでこれを知ったカバデスはローマの国境へと大急ぎで向かって彼らに立ち塞がった。しかしローマ軍はカバデスが全軍を率いて自分たちの方へと動いていることをまだ知らず、いるのは小規模なペルシア軍だと当て込んでいた。したがってアレオビンドゥス軍はコンスタンティナ市から二日の距離にあるアルザモンと呼ばれる土地に陣を敷き、パトリキウスとヒュパティウスはアミダ市から三五〇スタディオンも離れていないシフリオスと呼ばれる土地に陣を敷いていた。ケレルはというとまだ到着していなかった。
 カバデスが全軍を率いて到来しつつあることを突き止めるとアレオビンドゥスは野営地を放棄して全軍を連れての逃亡に転じ、コンスタンティナへと急いで退却した。そう遠からぬうちにやってきた敵は無人の野営地を鹵獲してそこにあった資金を手に入れた。そこから彼らは速やかに他のローマ軍の方へと向かった。この時パトリキウスとヒュパティウスはペルシア軍の先発隊だったエフタル人部隊八〇〇人と遭遇し、これをほぼ皆殺しにした。次いでカバデスとペルシア軍のことをつゆ知らぬ彼らは自分たちが勝利を得たと思って警戒怠るようになった。いずれにせよすでに日中の〔食事に〕適当な時間が近づきつつあったので彼らは武器を山積みにして昼食の準備をした。さてこの地には小川が流れていて、そこでローマ軍は食事用の肉を洗い始め、また暑さに参っていた一部の兵たちは川に入っており、その結果として小川の流れは濁った。一方カバデスはエフタル兵の身に降りかかったことを知ると敵へと急行し、小川の水がかき乱されていることに気付くと事の次第を見抜き、敵の準備はできていないとの結論に達してすぐに全速で敵に突撃をかけるよう命令を下した。それから彼らはすぐに食事中の無防備な敵に襲いかかった。ローマ軍ははなから踏み止まることができず、抗戦しようという考えをすぐに捨てたが、各々がでできる限りで逃げ始めた。ある者は捕らえられて殺され、他の者はそこに立っていた丘を登って非常に混乱して恐慌状態になりながら岩壁から落ちていった。そして一人もそこから逃げられなかったが、パトリキウスとヒュパティウスは劈頭いの一番に逃げ延びていた。この後、敵のフン族が領地の北部に攻め込んだためにカバデスは全軍を連れて帰国し、この人々と彼は王国の北部で長く続く戦争をした。他方で他のローマ軍もまた到着したが、遠征軍の最高司令官になるような者がおらず、将軍全員が対等の階級だったおかげでいつも意見が対立して一体となることがまったくできなかったために何ら語るに値することを成し遂げなかった。しかしケレルは麾下の部隊を連れてニュンフィウス川〔現代のバトマン川。ティグリス河の支流で、トルコ南東部のバトマン州とディヤルバクル州の境を成す。〕を渡ってアルザネネ〔アルメニア王国南西部〕に侵攻した。この川はマルテュロポリスに非常に近く、アミダからおよそ三〇〇スタディオンのところにある。かくしてケレルの部隊はその地方一帯を略奪して長居せずに帰国し、この遠征全体は短期間のうちに完遂された。




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