九巻から一六巻までのメムノンの歴史書を読んだ。この歴史書はヘラクレイア・ポンティカで起こった書くに値する事柄を記述するものである。ヘラクレイアの僭主、彼らの性格と事績、他の人たちの生涯、死に方を記載し、それらに関連する事柄を述べている。 クレアルコス一世の僭主制 [1] 〔メムノンは〕クレアルコスが市の僭主となろうとした最初の人であると述べている。クレアルコスは哲学教育を受け、プラトンの弟子の一人であり、四年間修辞学者のイソクラテスの弟子であった。しかし彼は真正の野蛮人、自身の臣下の血に飢えた人物に変貌し、かくしてゼウスの息子と自称して人工的な染料で顔を染め、異なったあらゆる種類の仕方できらきら光ったり赤みがかかったり見えるように飾り、服装をおどろおどろしかったり優雅だったりする様々なものに変えた。2彼の悪徳はこれだけではなく、彼は恩人への感謝を示さず極端に乱暴で、身の毛もよだつような最も恐ろしい行いに手を染めた。彼は彼を攻撃する人々を自国民だけでなくいつどこであれ脅威を感じた人も情け容赦なく滅ぼした。しかし彼は僭主と呼ばれた人のうちで図書館を立てた最初の人物あった。 3彼の殺し好き、残忍で横柄な性格のために彼への陰謀が企てられたため、彼はその全員を、最終的にはマトリスの子キオンまでもを追放した。クレアルコスの親族であったこの高邁な心根の人はレオン、エウクセノンおよびその他多くの人たちと共に陰謀を企てた。彼らはクレアルコスに致命的傷を与え、クレアルコスはその傷で悲劇的な死を遂げた。4僭主が公的な犠牲を捧げていると、キオンと彼の仲間たちはこれは事を起こす好機であると考え、キオンは彼らの共通の敵〔クレアルコス〕めがけて剣を持って突進した。クレアルコスは重篤で痛切な苦痛と凄惨な幻視(その光景は残忍な仕方で彼が殺した人たちの亡霊であった)に苦しんだ。二日後に彼は息を引き取った。それは五八年の生の後であり、一二年間僭主の地位にあった。その時はアルタクセルクセス〔二世〕がペルシアの王であり、彼の後はオコスが王であった。クレアルコスは生きていた間多くの追っ手を放っていた。5かくして僭主の暗殺者たちはほとんど全員が殺された。一部の者は勇敢に戦い、護衛兵に攻撃の時に切り殺された。他の者は後に捕えられて惨い拷問にかけられた。 サテュロスの事績 [2] クレアルコスの弟のサテュロスが政府を引き継ぎ、ティモテオスとディオニュシオスといった僭主の息子たちの後見人として振る舞った。サテュロスは残忍さにおいてクレアルコスのみならず他の僭主をも上回った。彼は兄に対して陰謀を企んだ人たちに復讐しただけでなく、親の行いとは無関係の彼らの子供たちにも等しく情け容赦ない危害を加え、多くの罪もない人たちをあたかも罪人であるかのように殺した。2彼は全く学問、哲学と他の全ての文芸に興味を示さなかった。彼が唯一熱心だったものは殺人であり、彼は人間的だったり開明化したどんな行動も学ぼうとはしなかった。彼はあらゆる方途において非道で、さながら国人の殺害と血で自身を満たす〔という欲求を〕時間を潰しているかのようであったが、兄への顕著な愛情を示した。3彼は国の主権を兄の子供たちのために無事保ち続け、少年たちの幸福に非常な価値を置き、彼は妻を一人持ち彼女を深く愛していたにもかかわらず子供を儲けないように決め、甥への対抗心を持つ者を残さないようにと子供を作らないために可能なあらゆる処置を取った。 4まだ存命であったのであるが、サテュロスは老齢で弱ったために兄の息子であるティモテオスに国政を譲り、それからすぐ後になって重篤で施しようのない病で苦しんだ。鼠蹊部と陰嚢の間の下側に癌が広がり、痛みを伴いながら彼の体の中心部へと増えていった。肉に穴が空いて悪臭と耐えられない臭いが放たれ、かくして彼の家来と医師はもはや腐敗物の充満した悪臭を隠すことができなかった。継続的な鋭い痛みは彼の全身を蝕み、最終的に病が彼の内臓に広がって彼から命を奪うまで不眠と痙攣で苦しめた。5クレアルコスの場合のようにサテュロスは死に臨んで残忍さと市民への違法な虐待の罰を受けたのだという印象を彼を見た人々に与えた。病気の間に彼はしばしば無駄にも死を願い、幾日もの間この無情で悲痛な苦痛を味わった後、最後につけを払ったのだと彼らは言っている。彼は六五年間生き、七年間僭主の地位にあり、その時にはアルキダモス〔三世〕がスパルタの王であった。 ティモテオスの治世 [3] ティモテオスは政府を引き継いでより穏健で民主的な体制に改革し、かくして彼の臣民たちはもはや彼を僭主とは呼ばず、慈善者、そして救い主と呼ぶようになった。彼は金貸しに自腹を切って借金を返し、彼らの商売と残りの生活の糧の必要のために無利子で金を貸した。彼は無実の人たちを、そして罪人さえ牢獄から解放した。彼は厳格ではあったが人道的な判断をする人物であり、他の面に関しては良きそして信頼に値する性格であった。かくして彼はまるで父のように弟のディオニュシオスの世話を何であれし、彼を最初は共同統治者としてやがて後継者に指名した。2彼は戦争において勇敢な精神も示した。彼は心身ともに度量が大きく高貴であり、戦争の解決においては公正で礼儀正しかった。彼は機を見るに敏で計画の実行においては断固としており、慈悲深く公正な性格で、大胆さでは容赦なく、節度を守り、親切で思いやり深かった。したがってその生涯において彼は彼を恐れ憎む全ての敵にとっての大いなる恐怖の対象であったが、臣下には愛想がよく礼儀正しく、彼が死んだ時には嘆かれ、彼の死は切望と混ざった悲嘆を呼び起こした。3彼の弟のディオニュシオスは彼の遺体を壮麗な火葬で弔い、目からは涙を流し、心の底から嘆きの声をあげた。彼はティモテオスを讃えて競技祭を催し、それには競馬だけでなく劇と合唱と体操の競技もあった。彼はそのいくつかをただちに、他は後により豪勢に開催した。 メムノンの歴史書の九巻と一〇巻で述べられたことは簡潔に言えば以上のようなものである。 ディオニュシオスの治世 [4] ディオニュシオスは新しい支配者になってその権力を増大化させた。アレクサンドロスのグラニコス川でのペルシア軍への勝利〔紀元前三三四年〕によって、権力を増したいと思っていた人たちに以前は彼ら皆の障害であったペルシア人の権力を削ることによって〔彼らの権力を強くする〕道が開けた。しかし後にディオニュシオスは多くの危機を経験し、とりわけヘラクレイアからの亡命者たちがアジアを完全に征服したアレクサンドロスへ使節を送って帰国を認めてその都市に伝統的な民主制を復活させるよう求めた時がそれである。このためにディオニュシオスは勢力をほとんど失い、そしてもし彼が非常に賢明で機転がきき、彼の臣下の好意を得てクレオパトラの支持を得たのでなければ排除されるところであった。彼は彼の脅威であった敵に対峙し、ある時には彼らの要求を呑んで怒りを宥めて遅延によってはぐらかし、他の時には対抗手段を取った。 2アレクサンドロスがバビュロンで〔毒殺〕あるいは病によって死ぬと、ディオニュシオスはこの知らせを聞いた後喜びの像を建てた。最初に知らせが届くと彼は大喜びし、過度の悲嘆が起こすのと同じ結果になった。彼はそのショックで倒れ、意識を失ったかのようであった。3ヘラクレイアからの亡命者たちは政権を引き継いだペルディッカスに同じ政治路線を続けるよう訴えたが、ディオニュシオスは短刀の刃により、同じようなやり方で自身に対する全ての危険から免れた。ペルディッカスは不運な指導者で、部下に殺された。亡命者たちの希望は潰えてディオニュシオスは彼の全ての企図の見通しに喜んだ。 4二度目の結婚によって最大の幸運が彼に訪れた。彼はオクサトレスの娘アマストリスと結婚した。このオクサトレスはダレイオスの兄弟であり、彼の娘のスタテイラはアレクサンドロスの妻となり、父の後に殺された。そのようなわけでその二人の女性は従姉妹同士であり、彼女らは一緒に育てられもし、互いに対して格別の情愛を持っていた。スタテイラと結婚するとアレクサンドロスはこのアマストリスを親友の一人クラテロスに与えた。アレクサンドロスがこの世を去った後、クラテロスはアンティパトロスの娘フィラの方に向かい、前の夫の同意の上でアマストリスはディオニュシオスと同居するために出ていった。 5この時以降、彼の王国は結婚によってもたらされた富と彼の見栄のために大いに繁栄した。彼はシケリアの僭主で権力の座から引きずり降ろされたディオニュシオス〔二世〕の王用の衣装一式を買うことに決めた。6彼の勢力を強くしたのはこれだけでなく、成功と以前彼の支配下にはなかった多くの人を含む彼の臣民の支持もまたそうであった。彼はアジアの支配者アンティゴノスがキュプロスを包囲していた時に彼を際だって援助し、褒美としてアンティゴノスの甥でヘレスポントス一帯の軍の将軍であったプトレマイオスを彼の前の結婚によって得た娘の夫とした。かような栄達を遂げた後、彼は僭主の称号を破棄して王を称した。 7今や全ての恐怖と心配事から自由になったため、彼は絶えず贅沢な暮らしをしてそためにぶくぶく太って不自然なまでに膨れ上がった。その結果、彼は国の統治を気にしなくなったばかりか、眠りに入った時にはその無意識的な無気力さから彼を起こす残された唯一の方法だった沢山の針による突き刺しによっても睡眠状態からは中々起き難くなった。8彼はアマストリスからクレアルコス、オクサトレス、そして母と同じ名前の娘という三人の子供を儲けた。死に瀕すると彼はアマストリスに国事を委ね、他の幾人かの人たちと共にまだ幼かった子供たちの後見人とした。彼は五五年間生き、そのうちおよそ〔三〇〕年統治した。伝えられるところでは彼は非常に穏健な支配者でその性格から「善王」の異名を得た。彼の臣下は彼の死を深く悲しんだ。 9彼のこの世からの旅立ちの後でも市は繁栄し、アンティゴノスはディオニュシオスの子供たちと彼らの市民の利害を慎重に守った。しかしアンティゴノスの関心が別のところへと移るとリュシマコスが再びヘラクレイアと子供たちを監督し、アマストリスを妻にさえした。当初彼は彼女を非常に溺愛していたが、状況が逼迫してくると彼女をヘラクレイアに残して差し迫った事業に忙殺された。多くの問題から解放されると、彼はすぐにサルディスで会うよう彼女に手紙を送り、そこで彼は彼女に変わらぬ気持ちを見せた。しかし後にアルシオネと呼ばれていたプトレマイオス・フィラデルフォス〔の娘〕の方へと彼の関心が移ると、このためにアマストリスの心は彼から離れた。彼と離れた後、彼女はヘラクレイアに君臨してその滞在によって市を復興させてアマストリスという新しい都市を造った。 クレアルコス二世の治世 [5] 今やクレアルコスは成年に達して市の支配者となり、彼はある時には他国の同盟者として、またある時には彼自身に対する攻撃への対抗で多くの戦争を戦った。それらの戦争の一つで彼はゲタイ人に対してリュシマコスの同盟者として赴き、彼と一緒に捕えられた。リュシマコスは虜囚の身から解放され、後にクレアルコスの解放も同様に確約された。クレアルコスと彼の弟は市の支配者として父の後を継いだが、彼らの臣民の扱い方は彼の穏やかな善意とはかけ離れたものだった。〔彼らは〕最も汚らわしい諸々の罪を犯した。なんとなれば、彼らは母が船で出ていた時に恐るべき、そして邪悪な細工によって彼らの事に特に介入しはしなかった母を海で溺死させたのだ。 3我々が以前何度も述べたリュシマコスは今やマケドニアの王になり、アルシノエとの関係によって彼はアマストリスが彼のもとを離れる原因を作ったが、未だに彼女に対する以前の情念を幾分か燃えたぎらせていた。彼は彼女の残忍な殺害について知ったが、非常に慎重に思いを隠してクレアルコスへの以前通りの友情を示すふりをした。(彼は自らの意図を隠す最も巧みな人であったために)多くの技巧と詐術によって彼はヘレクレイアにあたかも継承に同意するかのように到着した。クレアルコスへと父親のような愛情の仮面を着けることによって彼はこの母親の殺害者たちをまずクレアルコス、次いでオクサトレスという風に殺害し、彼らに母殺しの罪を贖わせた。彼は市を自らの保護下に置き、僭主が貯め込んだ多額の財産を持ち去った。市民に彼らが望んでいた民主制の樹立をもとした後、彼は自らの王国へと戻った。 リュシマコスの支配と死 4そこへ到着すると、彼はアマストリスへの賞賛でいっぱいになった。彼は彼女の性格と統治の仕方、いかに彼女が彼女の王国を規模と重要性と強さを増したのかに驚嘆した。彼はヘラクレイアを誉め称え、ティオスと彼女が自らの名にちなんで建設したアマストリスを賞賛の対象に含めた。この全てを言ったために彼はアルシノエに彼が称えたそれらの地の主になりたいという欲求を呼び起こしてしまい、彼女は自らの望みを叶えてくれるよう彼に頼んだ。与えるにはあまりにも多すぎると言って彼は最初断ったが、後になって彼女が懇願すると、彼は彼女にもとした。というのもアルシノエは短気であり、老齢がリュシマコスをより影響されやすくしていたからだ。5ヘラクレイアの支配権を得ると彼女は彼女の支持者であったが、他の面では情け容赦なく冷酷であり、巧妙で頭の回転が速い計画者であったキュメのヘラクレイデスをそこへと送った。ヘラクレイアに着くと彼は市を厳しく支配し、多くの市民を告訴して絞首刑にし、彼らはそれによってまさに得たばかりの幸運を再び奪われた。 6アルシノエの影響の下でリュシマコスは前の結婚で得た子供であり、最も出来のよい息子であった長男のアガトクレスを殺した。まず彼は密かに彼を毒殺しようとしたが、アガトクレスはこれに気が付いて毒を吐き出してしまい、彼は最も恥ずべき仕方で彼を殺すことになった。彼は彼を投獄してリュシマコスへの陰謀を企んだというでっち上げの罪で斬り殺した。この暴挙を実行したプトレマイオスはアルシノエの兄弟であり、愚劣さと向こう見ずのためにケラウノス〔「雷」の意〕とあだ名されていた。7息子の殺害によってリュシマコスは正当なことに臣下の憎悪を浴びることになった。かくしてセレウコスはこのこととその王国の打倒がどれほど容易であるかを知り、今や諸都市がリュシマコスに反旗を翻したために彼に対する戦いに加わった。リュシマコスはセレウコスの側で戦っていたヘラクレイア出身のマラコンなる兵士によって投じられた槍を受けた後、この戦争で死んだ。リュシマコスの死後、彼の王国はセレウコスの王国の一部として併合された。 ここでメムノンの一二巻目は終わる。 セレウコスとの反目 [6] 一三巻目でメムノンは、ヘラクレイア人がリュシマコスがヘラクレイア出身の兵士によって殺されたことを聞くと自信を取り戻して八四年間、最初はそこで生まれた僭主によって、次にリュシマコスによって奪われていた独立を勇気を持って求めたことを述べている。2手始めに彼らはヘラクレイデスのところに行き、彼らは彼に害を及ぼするつりはないし、もし彼が自由を取り戻させてくれれば素晴らしい贈り物を贈るといって彼に都市を手放すよう説得した。しかし説得されるどころか彼は憤慨して彼らの一部を罰するために送り出しそのために市民は守備隊の隊長と協定を結び、守備隊は市民権と同等の権利を与えられてこれまと同額の給与を受け取ることを約束した。次いで彼らはヘラクレイデスを捕らえてしばらくの間捕虜とした。これで彼らは全ての恐怖から解放されることになった。彼らはアクロポリスの城壁をその基礎から取り壊してフォクリトスを市の支配者に任命し、セレウコスに使節を送った。 3しかしビテュニア人の支配者であり、リュシマコスとセレウコスと対立していたためにヘラクレイアと敵対していたジポイテスは市の領地を攻撃して荒らした。彼の兵士は彼らが他の人に与えた危害とほとんど同じくらいの損害を受けたため、それと同様の損害を受けずに逃げることはできなかった。 [7] 一方セレウコスはフリュギアの諸都市とポントスの高地地域を管理するためにアプロディシオスを送ってきた。彼は職務を果たして帰国すると諸都市を讃えたが、セレウコスに対して敵意を持っているとしてヘラクレイア人を非難した。これに腹を立てたセレウコスは自分のところへとやってきた使節たちをけなして脅したが、使節の一人はカメレオンが脅したところで怖くないと嘯き、「ヘラクレスはカロンであり、セレウコス様です」と言った。「カロン」はドーリア方言では「異人」を意味する。セレウコスはこれを理解せずに怒り続け、彼らを追い返した。使節団は帰国してもそこに留まっても利はないことを理解した。 プトレマイオス・ケラウノスの即位と死 2これを聞くとヘラクレイア人は他の準備もしつつその一環として同盟者を集め、ポントス王ミトリダテス〔一世〕とビュザンティオン市とカルケドン市に使節を送った。3次いでヘラクレイアから追放され続けていた者の一人ニュンフィスは他の人たち〔彼をはじめとする人たちを追放した市民〕に彼の帰国を提案し、彼らが親から奪い取られた財産の返還を要求すれば簡単に帰国できると言った。彼はいとも容易く他の追放者たちを説得して彼が予測した通り帰国が成った。帰国した追放者と彼らを受け入れた都市は等しく満足と喜びを感じ、市内の人々は温かく彼らを迎えて戦争に役立つことは何も見逃さないように固く決意した。4このようにしてヘラクレイア人は伝統的な貴族と政体を回復した。 [8] セレウコスはリュシマコスに対する勝利で得意になってマケドニアへと渡るべく出発した。アレクサンドロスと共に出発して以来の帰国だったので彼は故郷へと戻ることを切望しており、すでに老人だった彼は息子のアンティオコスにアジアの支配権を委ねた後に残りの人生をそこで過ごそうと思っていた。2しかしプトレマイオス・ケラウノスがリュシマコスの王国をセレウコスの支配下に置くためにセレウコスに同行しており、彼は捕虜のようには軽蔑されはせず、王の息子であったために名誉を与えられて配慮されていた。彼の希望は彼の父プトレマイオスが死ねばセレウコスが王国の正当な相続人として彼をエジプトに帰すという約束によって燃え上がっていた。3しかし彼はこのように顧慮されて尊重されていたにもかかわらず、それらの好意はこの悪党の気質を改善しなかった。彼は陰謀を仕組んで恩人を襲撃して殺した。次いで彼は馬に飛び乗ってリュシマケイアへと駆けつけ、そこで冠を被り、立派な護衛に護送されて軍に会いに行った。彼らは以前はセレウコスの下で働いていたにもかかわらず、彼を承認して彼を王と呼ばされることになった。 4事の次第を聞くと、アンティゴノスの息子デメトリオスはプトレマイオスの機先を制するべく軍と艦隊を連れてマケドニアへと渡ろうとした。プトレマイオスは彼に対抗すべくリュシマコスの艦隊と共に向かった。5この艦隊の一部の船はヘラクレイアから送られたものであり、一隻の六段櫂船と五段櫂船と輸送船と、「獅子運び」と呼ばれた大きさと美しさの点で際だっていた一隻の八段櫂船がそうであった。一つの列に一〇〇人の漕ぎ手がおり、それぞれの方向に八〇〇人がついたため、漕ぎ手は全部で一六〇〇人になった。また、甲板の上には一二〇〇人の兵士と二人の舵手がいた。6戦いが起こると、勝利は全軍のうちで最も勇敢に戦ったヘラクレイア艦隊もろともアンティゴノス艦隊を敗走させたプトレマイオスの手に帰した。ヘラクレイア船のうち「獅子運び」の八段櫂船が賞賛を勝ち得た。この海での敗北の後にアンティゴノス〔デメトリオスの息子アンティゴノス二世〕はボイオティアへと撤退し、プトレマイオスはマケドニアへと渡ってそこを確実に支配下に置いた。7すぐに彼は、姉妹のアルシオネとの結婚(エジプト人の間では伝統的なことであった)と彼女がリュシマコスとの間に儲けた息子たちの殺害によってその性悪を示した。彼らを排除した後に彼はアルシオネ自身を王国から追放した。8彼はガリア人の集団が飢餓のために彼らの国を去ってマケドニアに攻め込むまでの二年間のうちに多くの犯罪行為に手を染めた。彼はそのガリア人と戦い、乗っていた象が怪我をして彼を振り落とした後、彼を生け捕りにしたガリア人によって引き裂かれるという彼の残忍さに相応しい仕方で殺された。デメトリオスの息子で、海戦で彼に敗れていたアンティゴノスがプトレマイオスの死後にマケドニアの支配者となった。 諸王の戦い [9] セレウコスの息子で父の王国を多くの苦しい戦争を通して完全にではないにせよ回復したアンティオコス〔一世〕はタウロス方面に分遣隊と共にパトロクレス将軍を送った。パトロクレスはアスペンドス出身の一族の人であったヘルモゲネスにヘラクレイアとその他の諸都市の攻撃を任せた。2ヘラクレイア人がヘルモゲネスに使節を送ると、彼は彼らと協定を結んで領地から撤退し、彼は代わりにフリュギアを通ってビテュニアへと向かった。しかしヘルモゲネスはビテュニア人の待ち伏せ攻撃を受け、彼自身は敵に対して勇戦したものの全軍ともども殺された。3この結果、アンティオコスはビテュニア人に対する遠征軍を起こすことを決め、彼らの王ニコメデス〔一世〕はヘラクレイアに同盟を打診する使節を送り、見返りとして似たような窮地に陥った時にはその都市を助けることを約束してすぐに同盟を結んだ。 4一方で大金を費やしてヘラクレイア人はキエロスとティオスとテュニア領を回復したが、戦争と資金の捻出に苦労したにもかかわらずアマストリス(彼らから他の都市ともども奪い取られていた)奪還には成功しなかった。アマストリスを掌握していたエウメネス〔一世〕は理不尽な怒りに揺り動かされ、ヘラクレイア人からそこの支払い代金を受け取るならばいっそのことその都市をミトリダテスの息子アリオバルザネスに無償で引き渡そうとした。5およそ同時にヘラクレイア人はビテュニア人で、トラキアのテュニアを牛耳っていたジポイテスとの戦争に突入した。この戦争で多くのヘラクレイア人が真に勇敢に振る舞った後に殺され、ジポイテスは彼らを完膚なきまでに破った。しかし同盟軍がヘラクレイア人の救援に駆けつけると、彼は逃走によって勝利を辱めることになった。敗れたにもかかわらず、ヘラクレイア人は妨害をされることなく遺体を回収して荼毘に附した。そしてその戦争でこのようなことを成し遂げると、市へと死者の骨を持って帰って英雄としての立派な葬儀を挙げた。 [10] およそ同時期にセレウコスの息子アンティオコスとデメトリオスの息子アンティゴノスとの間で戦争が起こった。大軍が方々で展開され、戦争は長引いた。ビテュニア王ニコメデスはアンティゴノスの同盟者として戦い、他の者はアンティオコスの側について戦った。2アンティゴノスと激突した後にアンティオコスはニコメデスとの戦争に着手した。ニコメデスはあらゆる土地から軍を集め、ヘラクレイア人に救援を求める使節団を送った。彼らは一三隻の三段櫂船を彼を来援にと送り出した。そしてニコメデスはアンティオコスの艦隊へと向かっていったが、しばらくは対陣したままでどちらも戦いを始めず、何も成し遂げることなく戻った。 ガリア人のアジア入り [11] ガリア人がビュザンティオンへと来てその領地の大部分を荒らし回ると、ビュザンティオン人は戦争で疲弊して同盟諸国に救援を求めた。全ての同盟諸国はできる限りの救援を行い、ヘラクレイア人は金塊四〇〇〇個(これは使節が求めたものであった)を渡した。2そう遠からぬうちにニコメデスはビュザンティオンを攻撃していたガリア人と協定を結び、彼らがアジアへと渡る手はずを整えた。ガリア人は前に何度も渡ろうとしていたが、ビュザンティオン人がそれをさせなかったためにいつも失敗していたのだ。その協定の条件は以下のようなものであった。夷狄は常にニコメデスと彼の子供たちを支え、ニコメデスのもとしなしに他のどの国とも同盟を結んではならない。彼らは彼の同盟者の同盟者、彼の敵の敵とならなければならない。彼らはビュザンテイオン人の同盟者として、必要があればティオスとヘラクレイアとカルケドンとキエロスの住民及びその他の支配者に奉仕しなければならない。3それらの条項によってニコメデスは大勢のガリア人をアジアへと運んだ。ガリア人には一七人の有名な指導者がおり、そのうちで最も重要で優れていたのはレオンノリオスとルトゥリオスであった。 4最初はガリア人のこのアジア渡航はその住民の厄介事の原因にしかならなかったが、最終的には彼らの利益に繋がったようであった。その王たちは諸都市の民主政治を終わらせようとしたが、諸都市の圧制者を呼び戻すことでガリア人はそれらを強化した。5ニコメデスはガリア人を武装させた後にヘラクレイア人の支援を得てビテュニアの土地の征服と住民の殺戮を開始した。ガリア人は残りの略奪品をヘラクレイア人に分けた。 6その地方のあらかたを制覇した後にガリア人は撤退して自分たちが保持する土地を選び、そこは今ではガラティアと呼ばれている。彼らはトログモイ族、トロストボイオイ族、そしてテクトサガイ族といった部族でこの土地を三つに分けた。彼らのそれぞれは、トログモイ族はアンキュラに、トロストボイオイ族はタビアに、テクトサガイ族はペッシノスに都市を建設した。 ビテュニアの諸王との戦い [12] ニコメデスは大いに繁栄し、アスタコスの向かい側に自らの名にちなんだ都市を建設した。アスタコスは一七回目のオリュンピア祭〔紀元前712/711年〕の初めにメガラからの移住者によって建設され、神託の指示に従っていわゆる土着のスパルトイ(テバイのスパルトイの子孫)であったアスタコスという名の高潔な貴族にちなんで名付けられていた。3市は隣人〔ニコメデス〕からの幾度にも亘る攻撃に耐えて戦いで疲弊したが、アテナイ人がメガラ人と合流するためにそこに移住者を送った後、ドイダルソスがビテュニア人の支配者になった時に困難から解放されて大きな栄光を得て強大になった。 4ボテイラスがドイダルソスの後を継ぎ、七六年生きて今度は息子のバスが後を継いだ。バスはアレクサンドロスの将軍カラスを、カラスは戦いの武装がよくできていたにもかかわらず破り、ビテュニアからマケドニア人を閉め出した。彼は七一年間生き、五〇年間王であった。5リュシマコスの将軍の一人を殺してもう一人の将軍を王国から撃退したほど優れた戦士であった息子のジポイタスが彼の後を継いだ。まずマケドニア人の王リュシマコスを、次いでセレウコスの息子でアジアの王だったアンティオコスを破った後、彼はリュパロス山の麓に都市を建設して自らにちなんで命名した。ジポイタスは七六年間生きて四八年間王国を統治し、四人の子供を残した。6兄のようにではなく、兄弟の死刑執行人のように振る舞った長子のニコメデス〔一世〕が彼の後を継いだ。しかしながら彼はビテュニア人の王国を強化し、とりわけガリア人がアジアに渡る手はずを整え、上述のように彼は自らの名にちなんだ都市を建設した。 [13] そう遠からぬうちにビュザンティオン人とカラティス(ヘラクレイアの植民地)とイストリアの住民との間で戦争が起こった。戦争の原因はトミスにある交易所であり、そこをカラティスの住民が独占商人として経営しようとしたことであった。双方はヘラクレイア人に助力を求める使節団を送り、ヘラクレイア人はいずれの側にも軍事支援を与えず、その時は何も成し遂げなかったものの各々が休戦条約を締結するための調停者を送った。敵の手で大損害を被った後にカラティスの住民は休戦に同意したが、その時までに彼らは被った被害をほとんど回復した。 [14] 短い中断期間の後、死に瀕していたビテュニア王ニコメデスは二人目の妻エタゼタの息子たちを相続人に指名した。彼らはまだ非常に幼かったため、プトレマイオス〔二世〕、アンティゴノス〔二世〕そしてビュザンティオン、ヘラクレイア、キオスの人々に後見を託した。前の結婚で得た息子ゼイラスは継母エタゼタの差し金で追放されてアルメニア人の王のところに亡命していた。2しかしゼイラスはトロストボゴイ系ガリア人によって増強された軍を連れて王国を要求すべく戻ってきた。ビテュニア人は王国を幼い子供たちに保持させたいと思い、ニコメデスの兄弟を子供たちの母と結婚させた。ビテュニア人は上述の後見人たちから軍を集め、多くの戦いが起こって運命が変転したものの、双方が休戦に同意するまでゼイラスの攻撃を凌いだ。ヘラクレイア人は英雄的に戦って有利な協定を結んだ。3したがってガリア人はヘラクレイア人を敵と見なしてカレス川あたりまでの領地を荒らし、大量の戦利品を携えて帰国した。 諸王国とヘラクレイアとの関係 [15] ビュザンティオン人はアンティオコスと戦争し、ヘラクレイア人は四〇隻の三段櫂船で彼らを支援したが、戦争は双方にとり脅威的なものにはならなかった。 [16] そう遠からぬうちに〔ポントス王〕アリオバルザネスがガリア人との紛争の真っ直中で世を去った〔紀元前250年〕。彼の息子ミトリダテス〔二世〕はまだ若年であったため、ガリア人はその息子を馬鹿にして彼の王国を荒らした。2ミトリダテスの臣民は苦境に立たされたが、アミソスへと穀物を送って彼らに食べ物を与えて基本的な欲求を満たしてくれたヘラクレイア人に救われた。このためにガリア人はヘラクレイア領に対して今一度の遠征を行い、ヘラクレイア人が使節を送ってくるまで荒らした。3歴史家のニュンフィスが使節の団長となり、ガリア軍の全体に五〇〇〇個の金塊、各々の指導者たちに二〇〇個を支払うことで国からの撤退の説得に成功した。 [17] エジプト王プトレマイオスは繁栄の極みに至って莫大な贈り物を諸都市に施した。ヘラクレイア人に彼は五〇〇アルタバ〔一アルタバは約四〇リットル〕の穀物を与え、プロコンネソスの大理石でできたヘラクレスの神殿を彼らのアクロポリスに建設した。 ローマ人の戦争と征服、ヘラクレイアとの関係 [18] この地点まで説明をすると、著者はローマ人の興隆、彼らの出自、いかにしてイタリアに住み着いたのか、ローマ建設以前とその時に何が起こっていたのかへと話を脱線させている。彼は彼らの支配者とそれと戦った人々、王の指名、君主制から執政官の支配への変革、そしていかにしてローマ人がガリア人に破れたのか、カミルスが助けに来て救出しなければ彼らの都市がガリア人に占領されていたことについて説明している。2次いで彼はアジアへと渡った時にアレクサンドロスが彼らに対してもし彼らが他者を支配することができれば、他者を征服したり、彼らよりも強いものを圧することができるだろうという手紙を書いたことについて述べている。ローマ人は彼に何タラントンもの金のついた冠を送った。次いで彼はタレントゥム人と彼らの同盟者であったエペイロスのピュロスとの、ローマ人が彼らに対して逆転勝利を得た後にタレントゥム人を服属させてピュロスをイタリアから撃退した戦争について述べている。3次に彼はローマ人のカルタゴ人とハンニバルとの戦争、スキピオ及び他の指導者たちの下でのヒスパニアでの勝利、スキピオがヒスパニア人によって王に祭り上げられたもののその称号を拒んだ次第、ハンニバルが最終的に破れて敗走した次第について述べている。 4次いで彼はいかにしてローマ人がイオニア海を渡ったのか、いかにしてフィリッポス〔五世〕の息子ペルセウスがマケドニア人の王になった時に彼の父がローマ人と締結した条約を性急に破ってパウルスに負けた後に転覆させられたのかを述べている。5次に彼はいかにして彼がシュリア、コンマゲネ、そしてユダイアの王アンティオコス〔三世〕を二つの戦いで破ってヨーロッパから撃退したのかを述べている。 6このようにローマ人の征服についての説明をした後に著者はアジアに渡ってきたローマの将軍のもとへとヘラクレイア人によって使節団が送られ、ローマ人が彼らを温かく歓迎して親切に彼らを扱ったことを述べている。プブリウス・アエミリウスは彼らに元老院の彼らへの友好を確約し、彼らが必要とする保護と顧慮を受け入れると述べる手紙を持たせた。7後に彼らは以前結んだ同盟を確認するためにアフリカをローマ人のために征服したコルネリウス・スキピオに使節団を送った。8この後、彼らはアンティオコス王をローマ人と和解させようとして再びスキピオに使節団を送った。また彼はアンティオコスに布告を発してローマ人への敵意を捨てるよう呼びかけもした。コルネリウスはヘラクレイア人に以下のような書き出しの返書を送った。「ローマ人の将軍、前執政官スキピオからヘラクレイア人の元老院及び人々へ。ご機嫌よう」この手紙の中で彼はローマ人のヘラクレイア人への好意、彼らは喜んでアンティオコスとの戦争を終わらせるつもりであることを確認した。ルキウスの弟で、艦隊を指揮していたプブリウス・コルネリウス・スキピオはヘラクレイア人の使節団に同様の返答を与えた。 9そう遠からぬうちにアンティオコスはローマ人との戦争を再開して完敗し、アジア全土を彼に放棄させ、象と艦隊を引き渡させるという内容の条約に調印することで〔ローマ人への〕敵意を捨てた。コンマゲネとユダイアは彼の支配地として残された。 10ヘラクレイア市はローマ人が次に送った将軍たちにも似たような手紙を持った使節を送り、彼らは以前と同じ好意と親切さでもって迎えられた。結局のところローマ人とヘラクレイア人の間で協定が結ばれ、その中で彼らは友人であり続けることだけでなく、必要とあらば他方の国のため、その敵に対して同盟者として戦うことに同意した。条約の同じ内容の複製が二つの青銅板に刻まれ、一方はローマでカピトリウムのゼウス〔ユピテル〕の神殿に、他方はヘラクレイアのゼウスの神殿に置かれた。 プルシアス一世による侵略 [19] 歴史書の一三巻と一四巻でこの全てを物語った後に著者は一五巻の頭でいかにしてビテュニア人の精力的で非常に行動的な王プルシアス〔一世〕が戦争を起こすことでキエロス(ヘラクレイア人に属していた)を他のいくつかの都市ともども彼の支配下に置いたのかを述べている。彼はそこをキエロスに代わってプルシアスの都市という名に改めた。また彼はヘラクレイア人のもう一つの都市ティオスも占領したため、彼の領地はヘラクレイアを海まで取り囲むことになった。2それらの都市の後に彼はヘラクレイアそのものに激しい包囲を加え、籠城していた多くの人を殺した。その都市は落とされる寸前にまでなったが、梯子を登っていたプルシアスに銃眼から投じられた石がぶつかった。彼はくずおれ、この負傷のために包囲は解かれた。3負傷した王はビテュニアへと敷き藁に乗せられて運ばれて難なく国へと戻り、怪我のために「びっこ」と呼ばれて死ぬ〔紀元前182年〕前に僅かな年数生きた。 ガリア人による侵略 [20] ローマ人がアジアに渡る前、ポントスの高地地方に暮らしていたガリア人は海への入り口を求め、その都市は以前の力を失っていたために侮って簡単に占領できるだろうと思ってヘラクレイアを占領しようとした。彼らは全軍でそこへと進軍し、ヘラクレイア人はその時に使うことができたあらゆる支援を求めた。2かくしてその都市は包囲され、それはガリア人は物資の欠乏で悩み始めるまでのしばらくの間行われた。というのもガリア人は必要な準備をすることによってというよりもむしろ衝動的に戦争を起こす癖があったからだ。彼らが野営地を離れて物資の徴発に出ると、市の防衛軍は出撃して彼らに奇襲をかけた。彼らは野営地を占領してそこで多くのガリア人を殺し、郊外に散っていた他の者を難なく捕らえ、そのためにガラティアに逃げ帰ることができたガリア軍は三分の一にも満たなかった。3この勝利はヘラクレイア人に彼らが以前の栄光と繁栄を取り戻せるのではないかという希望をもたらした。 第一次ミトリダテス戦争 [21] ローマ人がマルシ族とパエリグニ族とマルキニ族と戦っていた時(彼らはアフリカの北部、ガデス近くに暮らしていた)、ヘラクレイア人は二階の甲板のついた三段櫂船でもってローマ人の援軍に参上した。戦勝を期待して彼らの勇気への大きな賞賛へと逸った後にヘラクレイア軍は彼らが旅立ってからようやく一一年目に帰国した。 [22] この後、ローマ人とポントスのミトリダテス〔六世〕王との間で凄惨な戦争が勃発した。この戦争の外見上の原因はカッパドキアの奪取である。ミトリダテスはカッパドキアの支配権を獲得した時に休戦に関する宣誓を破って従兄弟のアラテス〔正しくはアリアラテス七世〕を捕らえ、それから彼を手ずから殺した〔紀元前101年〕。このアラテスはアリアラテス〔六世〕とミトリダテスの姉妹との息子であった。2ミトリダテスは子供の頃からの偏執的な殺人者であった。彼は一三歳で王になり、その直後に彼の父が彼との共同統治者として残していた母を捕らえてついには暴力によって彼女の生に終止符を打ち、彼は兄弟もまた殺した。3彼は戦争でファシス流域の王たちを帰属させることで支配域をカウカソス山脈までの地方まで拡大し、度を超して尊大になった。4このためにローマ人は彼の意図を疑惑の思いを持って考えるようになり、彼はスキュタイ人の王たちに先祖代々の領地を返還するべきだという布告を発した。彼は抵抗せずにこの命令に従ったが、パルティア人、メディア人、アルメニア人ティグラネス〔二世〕、フリュギア人とイベリア人の王たちを同盟者として召集した。5彼は戦争の他の口実を掴んだ。例えば、ローマの元老院がニコメデス〔三世〕とニュサの息子ニコメデス〔四世〕をビテュニア王に任命した後、ミトリダテスはクレストスと呼ばれた〔ソクラテス〕をニコメデスの対立王として擁立した。しかしミトリダテスの敵対行為にもかかわらず、ローマ人の希望はうまくいった。 6後にスラとマリウスがローマ国家の支配権を巡って戦うと、ミトリダテスは四〇〇〇〇人の歩兵と一〇〇〇〇騎の騎兵をアルケラオス将軍に与え、ビテュニア人に向けて進軍するよう命じた。彼らが矛を交えると、アルケラオスが勝利してニコメデスは少数の供廻りと共に逃げた〔紀元前88年〕。この知らせを聞くと、その時同盟軍と共にいたミトリダテスは一五万人の軍勢を率いてアマセイアの平地を出発してパフラゴニアを通って進軍してきた。7マニウスは彼と共にいたニコメデスの兵がミトリダテスの接近を聞くや否や逃げ去ったためにミトリダテスの将軍メノファネスに対して少数のローマ軍と共に立ち向かうことになった。マニウスは全軍を失って破れ、敗走した。8それからミトリダテスはビテュニアに大軍を率いて攻め込み、戦わずして諸都市と郊外を占領した。アジアの他の諸都市の一部は占領され、その他はミトリダテスと同盟したため、状況は完全に変わった。ロドス人だけがローマ人との同盟を続けていた。したがってミトリダテスは陸海で彼らと戦争し、ロドス人は戦いを優位に進めてミトリダテスその人が海戦であわや捕らえられそうになった。9次いで諸都市に散らばっていたローマ人が彼の計画を妨害しているのを聞き知ったためにミトリダテスは全ての都市にそこにいるローマ人を指定した日に殺すよう指示する手紙を出した。その多くがその命令に従い、一日で八〇〇〇〇人が斬殺されるという殺戮がなされた。 10エレトリア、カルキスとエウボイア島の全域がミトリダテスに味方して他の諸都市と共にスパルタ人が破れると、ローマ軍はスラを彼に向けて適当な軍と共に送り出した。11到着するとスラはいくつかの都市を翻意させて味方につけて他の諸都市を力づくで占領し、ポントスからの大軍を戦いで敗走させた。彼はアテナイも占領し、もし元老院がスラの意図を素早く止めなければその都市は破壊されていたことだろう。12多くの小競り合いが起こってそのほとんどでポントス兵が優勢に立ち、彼らの勝利の結果、状況は変化した。しかし無思慮に手持ちの物を使用して手に入れた物を保つ術を知らなかったため、王の軍勢は物資の欠乏に陥った。タクシレスがアンフィポリスを占領してその後にマケドニアの残りの部分を味方につけ、彼が潤沢な物資を供給できていなければ彼らは絶望的な困難に陥っていたことだろう。 13タクシレスとアルケラオスが軍を合流させると、彼らは六〇〇〇〇人以上の兵を有することになって彼らはフォキス領で地歩を固めてスラを待ちかまえた。スラはイタリアから六〇〇〇人以上の兵を連れてきたルキウス・ホルテンシウスから援軍を受け取り、かなりの距離のところに対陣した。アルケラオスの兵が軽率に食料徴発に出ると、スラは彼の野営地に奇襲をかけた。彼は強靱であれば捕らえた兵をすぐに殺したが、恐るるに足らない者は野営地の周りに捨て置いて火を放ち、徴発から戻ってきた者を事の次第を疑わせることなく受け入れるように言った。これは彼の計画した通りに進み、スラの部隊は見事な勝利を得た。 [23] ミトリダテスはロドス人を援助した廉でキオス人を非難し、ドリュラオスを彼らに差し向けた。ドリュラオスはその都市を幾分か苦労しつつも占領した。それから彼は土地をポントスから来た人たちに分配し、キオス人を海路でポントスへと送った。2キオス人の同盟者だったヘラクレイア人は捕虜を輸送するポントス船団が航行していたところを攻撃し、その船団には防備がなかったために抵抗されることなく市へと彼らを取り戻した。ヘラクレイア人は速やかにキオス人を彼らが必要とするあらゆる者を惜しげもなく与えて解放し、それから彼らに気前のよい贈り物を持たせた後に彼らを祖国に復帰させた。 [24] 元老院は〔ルキウス・〕ウァレリウス・フラックスと〔ガイウス・フラウィウス・〕フィンブリアをミトリダテスと戦わせるために送った。元老院はもしスラが元老院と歩調を合わせるならば彼と戦争で協力し、そうでなければまず彼と戦争をするように命じた。2フラックスは(食糧不足と戦いでの敗北で)初っぱなから様々な不運に見舞われたが、おおかた成功を得た。彼はビテュニアへとビュザンティオン人の助けを得て渡り、そこからニカイアに行くとそこで停止した。同様にフィンブリアが兵と共に渡ってきた。3フラックスは軍の大部分が思慮深い将軍であったフィンブリアに率いられる方を望んでいたために悩まやされた。フラックスがフィンブリアと最も優れていた兵士たちを手酷く叱責すると、他の者よりも大きな憤激を感じたその中の二人が彼を殺した。元老院はこのことでフィンブリアに対して怒ったが、怒りを隠して彼を執政官に選出する手はずを整えた。かくしてフィンブリアは全軍の司令官になり、いくつかの諸都市を協定によって味方につけ、他のものは力づくで占領した。 4タクシレス、ディオファントスそしてメナンドロスといった将軍たちに付き添われていたミトリダテスの息子は大軍でもってフィンブリアと対陣した。夷狄の優勢で戦いが始まると、フィンブリアは戦いでの敗北を埋め合わせるために計略を用いることを決めた(敵軍はこちらよりもずっと数が多かったのだ)。両軍が或る川に到着して川を挟んでにらみ合っていると、夜明けに嵐が起こり、ローマの将軍は出し抜けに川を渡った。彼はまだ眠りこけていた敵に襲いかかり、彼らが何が起こったのかを知る暇を与えずにその大部分を殺した。ミトリダテスの息子ミトリダテスを含む少数の指揮官と騎兵がこの殺戮から逃げ仰せ、彼は馬を駆って他の数人の者と共に父のいるペルガモンへと落ち延びた。5王の軍勢がこの大敗を喫した後、大部分の都市がローマ人に靡いた。 [25] 敵対党派の一員であったマリウスが亡命の身からローマへと復帰した後、スラはマリウスにした苛烈な扱いのために自分も同様に亡命する羽目になるのではないかと心配したため、ミトリダテスに使者を送って彼とローマ人との休戦を提案した。ミトリダテスはその提案を受け入れて条項を批准するための会談を求めた。スラは喜んで向かい、2互いに行軍した後に彼らはダルダノスで協定について話し合った。随員たちが下がると、彼らはミトリダテスはアジアをローマ人に渡し、ビテュニア人とカッパドキアは土着の王によって支配され、ミトリダテスは八〇隻の三段櫂船と三〇〇〇タラントンをローマへの路銀としてスラに個人的に提供する限りはポントス全土の王であると確約され、ローマ人はミトリダテスを支持した諸都市を罰しないという同意に至った。実際のところローマ人はこの協定の大部分に従わず、後にそれらの都市の大部分を隷属化させた。3かくしてスラはイタリアへと栄光を帯びて戻り、マリウスは再びローマを退いた。ミトリダテスは帰国し、彼が被った災難の後に彼の支配に反旗を翻していた諸民族を服属させるのに取りかかった 第二次ミトリダテス戦争 [26] ムレナが元老院によって司令官として送られ、ミトリダテスは彼に使節団を送ってスラが結んだ協定を思い起こさせてその履行を求めた。しかにムレナは、そのほとんどがギリシア人と哲学者であり、ミトリダテスを支える代わりに彼を貶していた使節のことを無視してミトリダテスに向けて出発した。彼はアリオバルザネスをカッパドキア王に据え、ミトリダテスの王国との国境にリキニア市を建設した。2ムレナとミトリダテスはヘラクレイア人に使節を送って彼らに同盟者になるように求めた。ヘラクレイア人はローマ人の力は恐るべきものだと考えたが、ミトリダテスは隣人だったために彼を恐れた。したがって彼らはそのような大戦争が勃発すれば彼らはほとんど自らの領地を防衛することができなくなってしまい、ましてや他人の助けに向かうことなど到底できないだろうと使節らに答えた。3ムレナの助言者の数人は、その都市を占領すればムレナは他の土地を易々と味方につけることができるだろうから、シノペを攻めて王の首都の支配権を得て戦端を開くべきだと言った。しかしミトリダテスはシノペを大軍でもって守って開戦の準備をした。 4緒戦の小競り合いで王の軍勢は優勢に立ったが、続く会戦では互角になり、この戦いは双方の戦争への熱意を鈍らせた。ミトリダテスはファシス川とカウカソス山脈周辺の地方へと去り、一方のムレナはアジアへと戻り、彼ら双方は自分の状況への処置をした。 第三次ミトリダテス戦争 [27] スラがローマで死んですぐに元老院はアウレリウス・コッタをビテュニアに、ルキウス・ルクルスをアジアに送り、両者はミトリダテスと戦うようにという命令を受けた。2ミトリダテスは今一度大軍と四〇〇隻の三段櫂船、それと五〇櫂船とケルクロイを含むかなりの数のより小さい舟を集めた。彼はもしルクルスがポントスへと進軍してきたならば、彼に立ち塞がってさらなる前進を防ぐために諸都市に守備隊を置くべくディオファントス〔と〕ミタロスを軍勢と共にカッパドキアへと送った。3ミトリダテスは一五万人の歩兵と一二〇〇〇騎の騎兵と一二〇台の鎌付き戦車、これらと同数の人夫を擁していた。彼はパフラゴニア・ティモニティス〔パフラゴニアの内陸部〕を通ってガラティアへと前進し、それから九日後にビテュニアに到着した。4ルクルスはコッタにカルケドンの港へと全艦隊と共に航行してくるよう命じた。5ミトリダテスの海軍はヘラクレイアの向こうへと航行した。その都市に入ることはもとされなかったが、ヘラクレイア人は求められると物資を提供した。水夫と住民が互いに混じりあっていた時、当然の流れとして海軍の司令官アルケラオスは二人秀でていたヘラクレイア人、シレノスとサテュロスを捕らえ、ローマ人に対する戦争を支援するためにヘラクレイア人が五隻の三段櫂船を提供するよう説き伏せるまで彼らを解放しなかった。この行動の結果、アルケラオスが企んだ通りヘラクレイアの人たちはローマ人に敵と見なされるようになった。したがって他の都市から必需品を徴発していたローマ人はヘラクレイアにも寄与を要求した。6資金収集者たちは市に到着するとその国の法律をないがしろにし、彼らによる苛斂誅求は市民を苦しめ、市民たちはこれを隷属の始まりと考えた。彼らは元老院に必需品〔の徴発〕を容赦してくれるよう代表団を送りたがっていたが、市内で最も向こう見ずな男に資金収集者を密かに亡き者にしいて誰もどのようにして彼らが死んだのかを確実に分からないようにするよう説き伏せられた。 7ローマとポントスの海軍がカルケドン市の近くで戦い、陸でも王の軍とローマ軍との戦いが起こった。双方の将軍はミトリダテスとコッタであった。陸戦ではバスタルナイ族部隊がイタリア軍を敗走させてその多くを殺戮した。海戦でも似たような結果が起こり、一日にして同日にして陸と海はローマ兵の死体で覆われることになった。海戦では八〇〇〇人が殺されて四五〇〇人が捕らえられ、陸戦では五三〇〇人のイタリア兵が、ミトリダテス軍では三〇人のバスタルナイ兵とその他七〇〇人が殺された。ミトリダテスのこの勝利のために誰もが怯えて彼に服従した。8しかしサンガリオス川の近くに陣を張っていたルクルスはこの災難を聞くと兵士に語りかけて落胆しないよう激励した。 [28] ミトリダテスは自信を持ってキュジコスへと動いてその都市の包囲を決めた。ルクルスは彼を追い、続いて起こった戦いでポントス軍を完全に打ち破った。短時間で彼は一〇〇〇〇人を殺して一三〇〇〇人を捕虜にした。2フィンブリアの兵はフラックスに対する彼らの罪のために彼らの司令官は彼らは不従順であると考えているのではないかと心配し、密かにミトリダテスに手紙を送って彼を見捨てることを約束した。この言づては望外の幸運であったものの、夜が来るとミトリダテスはアルケラオスに約定を承認して自分のもとに逃亡兵たちを連れてくるよう手紙を送った。しかしアルケラオスが到着すると、フィンブリアの兵は彼を捕らえて彼の随行者たちを殺した。3この不幸の極みにあって王の軍勢は飢餓に苦しんでその多くが死んだ。それら全ての挫折を被ったにもかかわらず、ミトリダテスは包囲を止めなかった。しかし後になって多くの損害を被った後に彼はそこを占領することなくその都市から撤退した。彼はヘルマイオスとマリウス(?)に三〇〇〇〇人以上の軍と共に歩兵の指揮を任せ、一方彼は海路で戻った。三段櫂船に乗ろうとまだ待っていた部下たちが船を掴み、すでに満員だった船と残りの船にぶら下がったため、彼が三段櫂船に乗ると様々な災難が起こった。かくして多くの兵士がこのようにしたためにいくつかの船は沈没して他の船は転覆してしまった。4これを見ると、キュジコス市民たちはポントス軍の野営地に攻撃をかけ、そこに残されていた疲弊していた兵を殺戮し、野営地に残されたありとあらゆるものを略奪した。ルクルスはその軍をアイセポス川あたりまで追撃し、そこで奇襲をかけて多数の敵を殺した。ミトリダテスは最善を尽くすべくペリントスを包囲したが、攻略できずにビテュニアへと渡って戻った。 5それからイタリア兵の大軍を指揮していたバルバが到着してローマの将軍トリアリウスがアパメイアへと進軍してそこの包囲を開始した。アパメイア市民はあたうる限り抗戦したが、最終的に城門を開いてローマ人を引き入れた。6ローマ軍はアジアのオリュンポス山の麓にあったプルサ市も占領した。7そこからトリアリウスは海路でプルシアス市へと軍を向かわせた。昔はプルシアスはキエロスと呼ばれており、アルゴ号の到着、ヒュラスの消失とヒュラスを探すヘラクレスの放浪など多くの話の舞台になっていた。トリアリウスがそこへ到着すると、プルシアスの住民はポントスの部隊を追い出して自ら彼を招き入れた。 8そこからトリアリウスはニカイアへと向かったが、そこにはミトリダテスが守備隊を置いていた。しかしポントス兵はニカイアの住民がローマ人になびいていることを知ると、夜にニコメデイアのミトリダテスのもとへと退却した。その後にローマ軍は戦うことなくその都市の支配を得た。9ニカイア市はニカイアと呼ばれていた一人のナイアス〔川のニンフ〕に由来し、アレクサンドロス軍で戦ったニカイアの男たちによって建設された。アレクサンドロスの死後、彼らは母国を思い出してこの都市を建設して住み着いた。ニュンフのニカイアはキュベレとこの地方の支配者だったサンガリオスの娘であったと言われている。その男と同居するよりも処女性の方を好んだために彼女は山での狩りにその生を費やした。ディオニュシオスは彼女に恋したが、彼女は彼の申し出を断った。拒絶の後、ディオニュシオスは策略によって自らの欲望を成就させようとした。彼は、ニカイアが狩りで疲れた時にそこから常々水を飲んでいた泉を水の代わりに葡萄酒で満たした。彼女は実際に起こることを予想だにせず偽の液体で腹を満たした。それから彼女を酩酊と睡眠が捕らえ、彼女は彼女の意志に反してであろうと彼女に恋をする者の意のままになった。ディオニュシオスは彼女と交わり、サテュロスとその他の息子たちを彼女との間に儲けた。10元々ニカイア市を建設してそこに住み着いたその男たちはニカイアの次にフォキスへと向かった。しばしば彼らはフォキス人と戦い、彼らは結局はフォキス人を彼らの故郷から追い出し、そこを服従させて非常な熱意をもってそこを跡形もなく消し去った。11そこがどのようにしてニカイアと名付けられ、建設され、ローマ人の手に渡ったのかは以上の通りである。 [29] コッタは以前の失敗の穴埋めをしようと望み、彼がかつて破れたカルケドンから、ミトリダテスが滞在していたニコメディアへと進軍した。彼はこの都市から一五〇スタディオンのところに野営したが、戦おうとはしなかった。呼び出しを待たずにトリアリウスはコッタと合流すべく急ぎ、ミトリダテスが市内へと退却すると、ローマ軍は陸海双方からの攻城の準備をした。2しかし王はポントス海軍が、テネドス島近くとエーゲ海でルクルスと戦われた二度の海戦で敗れたことを聞き、彼に対峙するローマ軍を退却させるほどの力が自分にあるとは考えなくなった。したがって彼は軍を〔船に〕乗せて川を上っていった。彼は激しい嵐で三段櫂船の一部を失ったが、船団の大部分と共にヒュピオス川に到着した。3彼はそこで越冬し、多くの約束と資金の提供により、彼の旧友で国家の指導者であると聞き知っていたヘラクレイアのラマコスに自分がその都市に入城する手はずを整えてくれるよう頼んだ。ラマコスはその要請を承諾した。彼は市の外側にいる市民のために盛大な宴の準備をし、市門を宴の間は開けたままにするよう指示した後、人々に酒を飲ませた。かくして彼はミトリダテスが同日に密かに来るよう前もって手はずを整え、このようにしてミトリダテスはヘラクレイア人が彼の到着を知る前にその都市の支配権を握った。4翌日、ミトリダテスは人々を集めて宥めるような物言いで挨拶をした。彼は自身への支持を保つよう勧め、ローマ人が彼らへの攻撃を決めれば、守備隊が市を守って住民を保護するという名目でコンナコレクスを隊長とする四〇〇〇人の守備隊を置いた。それから彼は住民、とりわけ権威ある地位の者に金をばらまいてシノペへと出航した。5ルクルス、コッタそしてトリアリウスといったローマ軍を率いる将軍たちはニコメディアで落ち合ってポントスへと攻め込んだ。しかしヘラクレイアの占領を聞くと――彼らはそこが寝返ったことを知らず、都市の全体が忠誠を誓う相手を変えていたと考えていた――ミトリダテスと彼の王国全体を攻撃すべくルクルスが軍の大部分を連れてカッパドキアへと内陸地方を通って前進し、コッタはヘラクレイアを攻撃し、トリアリウスはヘレスポントスとプロポンティスあたりで海上戦力を集めてミトリダテスがクレタ島とヒスパニアに送り出していた艦隊が帰ってくるのを待ち伏せることを決定した。6彼らの計画を知ると、ミトリダテスは自分の方でも準備をしてスキュタイ人の諸王、パルティア王、義理の息子であったアルメニア王ティグラネスに使節を送った。ティグラネス以外の他の者は彼に助けをよこさなかったが、ティグラネスはミトリダテスの娘の多くの懇願を無視した後、ついに彼と同盟を結んだ。7ミトリダテスはルクルスとの戦いのために別の将軍たちを送った。彼らが戦いに入ると、彼らは様々な成功を勝ち得たが、ほとんどの場合にローマ軍が優位に立った。8王はこれに意気消沈したが、それでもなお四〇〇〇〇人の歩兵と八〇〇〇騎の騎兵を集めてディオファントスとタクシレスが将軍をしていた以前の軍に増援として送った。彼らが他方と合流した後、まず双方は連日のような小競り合いで互いに小手調べをし、それから二度の騎兵戦が起こって最初の戦いではローマ軍が、二度目の戦いではポントス軍が勝利した。9戦いが長引くとルクルスは物資調達のために一部の兵をカッパドキアへと送り出したが、タクシレスとディオファントスはこれを聞き知ると、歩兵四〇〇〇人と騎兵二〇〇〇騎の部隊を物資を持って帰っている兵を攻撃して物資を略奪するために送り出した。しかし両軍が激突すると、ローマ軍が優勢に立ち、ルクルスが友軍に援軍を送った後に形勢は夷狄の完全な敗走へと転じた。逃げる夷狄軍の追撃でローマ軍はディオファントスとタクシレスの陣営に到着し、猛攻を加えた。ポントス軍はしばらくはその攻撃を食い止めたが、やがて彼らの将軍たちが真っ先に逃げ出したために総崩れになった。将軍たちは自分たちの敗北の伝令としてミトリダテスのもとへと向かい、多くの夷狄が殺された。 [30] このハッとするような災難を被った後、ミトリダテスは王家の王女たちを殺すよう命じ、彼が滞在していたカベイラから臣下たちに知られることなく逃げることを決定した。しかし彼は彼のことを知らなかったあるガリア人らの追跡を受け、もし彼らがミトリダテスの金銀を運んでいた一頭のラバを横切ってこの宝物を略奪するために足を止めていなければ、捕らえられていたことだろう。2ルクルスはマルクス・ポンペイウスを追撃に送り出していたものの、ミトリダテス自身はアルメニアに到達した。それからルクルスは全軍を率いてカベイラへと進んでその都市を包囲した。夷狄が休戦の下で投降するのに同意した後、彼は城壁を手中に収めた。3そこから彼はアミソスへと向かい、そこの住民にローマ人と協定を結ぶよう説得しようとしたが、彼らは耳を貸さなかったので立ち去ってエウパトリアの包囲を開始した。そこで彼は敵を安心させ、彼らに同じくずぼらな態度をとらせるためにずぼらに振る舞うふりをし、次いで奇襲を仕掛けて目的を達成した。その結果は彼が予想した通りになり、彼はこの計略によってその都市を占領したのであった。何ら予想していなかった防衛部隊があまり注意を払っていない時にルクルスは突然兵たちに梯子を持ってくるよう命じ、彼は兵たちに城壁の上まで梯子を掛けさせた。このようにしてエウパトリアは落ち、すぐに滅んだ。4すぐ後にアミソスも似たようにして、敵が梯子で城壁に上ることで占領された。アミソスの市民の多くがすぐに殺されたが、ルクルスは殺戮を止めさせた。彼はその都市と領土を残りの市民に返し、彼らを懇ろに扱った。 [31] ミトリダテスはその時は義理の息子〔ティグラネス〕の領地を訪れ、彼はミトリダテスに会うのを拒んだものの、護衛と他の全ての歓待の証を渡した。2ルクルスはアッピウス・クラウディウスを使節としてティグラネスのもとに送ってミトリダテスの引き渡しを要求したが、ティグラネスはもし妻の父を裏切るならば、自分は万人の非難を被ることになると言って引き渡しを拒んだ。したがって彼はミトリダテスの立場の無価値さを知ってはいたものの、王家の繋がりを尊重した。3ティグラネスはルクルスに同じ内容の手紙を書いたが、その手紙はローマ人を苛立たせただけであり、それというのもそれはルクルスに「将軍」と宛名書きをしておらず、ルクルス自身は手紙への返信でティグラネスを「諸王の王」と宛名書きをしなかった。 この地点でこの歴史書の一五巻は終わる。 ヘラクレイアの包囲 [32] 歴史書の次の部の内容は以下のようなものである。コッタはローマ軍と共にヘラクレイアへと進軍したが、まず彼はプルシアスへと軍を率いていった。プルシアスは以前はその近くを流れる川にちなんでキエロスと呼ばれていたが、ヘラクレイア人から奪った時にビテュニア王が自らにちなんで改名した。そこから彼は〔エウクセイノス〕海へと下り、沿岸沿いに進軍して城壁の最も高い地点の近くに兵を配置した。2その地は天然の要害であるために自信を持っていたヘラクレイア人は、コッタが攻撃をかけると、守備隊と共に食い止めた。ヘラクレイア人は投擲兵器で多くの負傷者を出したものの、多くのローマ兵が殺された。したがってコッタは城壁の攻撃から軍を引き上げさせ、少し離れた場所に野営した。彼は籠城していた市民のところに物資の補給が来るのを妨害するのに意を向けた。基本的な必需品に事欠く有様になると、市民たちは植民諸都市に使節団を送って金と引き替えに物資の供給を求め、植民諸都市は直ちにそれに応じた。 [33] 上述のようにクレテとヒスパニアへと送られていたポントスの三段櫂船艦隊と相見えるべく、間もなくトリアリウスがローマ艦隊を連れてニコメディアを発った。彼はポントス艦隊嵐と様々な戦いで多くの船が沈んだ後にポントスへと退いている途中であることを知った。彼は残った艦隊に途中で襲いかかってテネドス島近くで戦い、この時に彼は七〇隻の三段櫂船を、ポントス海軍はちょうど八〇隻を擁していた。 2双方が会すると、王の艦隊は最初はいくらか抗戦したが、その後、完全に敗走してローマ海軍は決定的な勝利を得た。かくしてミトリダテスと共にアジアを出港した全艦隊が壊滅した。 [34] ヘラクレイア近くに野営していたコッタは全軍でもってその都市に攻撃をかけず、その一部がローマ軍で多くがビテュニア軍から抽出した分遣隊を送った。しかし彼の兵の多くが死傷したため、彼は「亀」を含む様々な攻城兵器を作り、これはむしろ市の防衛軍を警戒させた。彼は損害を与えやすいと見たある一つの塔に向けた全軍にこれを配備した。しかし一、二撃の後にも塔はそびえ立ち続けたのみならず、打撃を加えるための羊の頭が壊れてしまった。このおかげでヘラクレイア人は意気を取り戻したが、その都市は占領できないのではと心配していたコッタは落胆した。2翌日コッタは再び攻城兵器を投入したが、何の成果も得られなかった。かくして彼はその兵器を焼き払ってそれを作った男たちの首を刎ねた。城壁の近くに監視隊を残して彼は残りの軍で陣を畳んでいわゆるリュカイア平地へと去り、そこで豊富な物資の蓄えを獲得した。そこから彼はヘラクレイア領の全域を荒らして市民たちを非常な危機に陥れた。3かくして彼らはスキュティアのケルソネソスとテオドシアの住民とボスポロスの諸王に同盟を求めるためにもう一人使節を送ったが、使節は手ぶらで帰ってきた。 4守備隊は人々が生きながらえるのと同じ配給では満足しなかったために市民たちは敵の攻撃のために内外で苦しめられることになり、〔守備隊による〕市民への攻撃のために市民はそう簡単に余裕を作れないような分量を配給するのを余儀なくされた。守備隊の隊長コンナコレクスは彼の部下に輪をかけて獣のような男であり、彼らの暴力を抑える代わりにそれを煽りたてた。 5郊外を略奪した後、コッタは再び城壁を攻めた。しかし兵士たちが包囲を進めるのに乗り気でないことを見て取った彼は彼らを再び城壁から連れ出し、三段櫂船を率いて急行して海から都市を兵糧攻めにするよう求めるべくトリアリウスに手紙を送った。6トリアリウスは彼と一緒にいた艦隊とロドス船二〇隻を有しており、それらは合計で四三隻になった。彼は〔エウクセイノス〕海へと渡ってコッタに自分が到着する日にちを知らせた。トリアリウスの船団が現れたのと同日にコッタは城壁へと軍を向かわせた。7ヘラクレイア人は艦隊の突然の出現に驚いた。彼らは自分たちの船三〇隻は完全武装ではなかったものの、それらを海へと出撃させ、残りの兵は市の防衛に回った。ヘラクレイア艦隊は姿を現した敵船団を迎え打つべく航行し、他よりも勇気と経験豊富な舵手で名高かったロドス船団が攻撃の口火を切った。三隻のロドス船と五隻のヘラクレイア船がすぐに沈められた。次いでローマ船が戦いに加わり、双方共に大きな損害を受けたが、ローマ艦隊は敵に大損害を与えた。結局ヘラクレイア艦隊は敗走して市へと逃げ戻らざるを得なくなった。一四隻のヘラクレイア船が失われ、逃げおおせた船は大港湾に置かれた。 8コッタも包囲を再開すべく陸軍を向かわせた。トリアリウスの艦隊は食糧が市内に届くのを邪魔するために港の両側に陣取り、市は深刻な飢餓に覆われたために小麦一コイニクスが八〇アッティカ・ドラクマで売られほどになった。9その他の害悪の頂点にあって疫病が市民を襲い、それは気候の変化ないし彼らの粗食のいずれかが原因であった。その疫病は多くの異なった仕方で犠牲者を生み、その中にはとりわけゆっくりとした苦痛に満ちた死に耐えたラマコスも含まれていた。守備隊はそのほどんど全員が病死し、そのために三〇〇〇人のうち一〇〇〇人が死んだ。そしてそれらの苦難はローマ軍に明らかになった。 [35] コンナコレクスはそれらの災難で落ち込み、ヘラクレイア人の破滅と引き替えに自らの安全を買うべく市を裏切ってローマ軍に売り渡すことに決めた。彼はラマコス派の賛同者であり、ラマコスの死後に市の防衛の指導者に選ばれていたダモフェレスというヘラクレイア人をこの計画に加えた。2コンナコレクスは、横柄で信用に値しないと思っていたコッタには接触せず、ダモフェレスがすでに〔折衝を〕承諾していたトリアリウスと手はずを整えた。望む条件は彼らの身の安全を確保することで一致した後、彼らは市を裏切る準備をした。3裏切り者の計画の内実は全ての市民の知るところとなり、彼らは速やかに集会を開いて守備隊の指揮官を召還した。指導的な市民の一人ブリタゴラスはコンナコレクスと会いに向かった。彼はヘラクレイアの状況を述べ、もし望むならば、彼ら全員の共通の安全についてトリアリウスと交渉するよう彼に願った。ブリタゴラスが非常に悲しげにこの要望を伝えた後、コンナコレクスは立ち上がり、彼らの自由と多大な期待を支持するふりをしてそのような約定〔ローマ軍との密約〕の打ち合わせを拒否した。 彼は、自分は手紙を通して〔ミトリダテス〕王は義理の息子ティグラネスから友好的な歓迎を受け、十分な支援が間もなくそこから来ることを予期していると言った。この全てはコンナコレクスがでっちあげたものだったが、ヘラクレイア人は彼の言葉に騙されて彼の作り話をまるで真実のことのように信じた。それというのも人は常に彼らが実際のところそうであってほしいと望むことを信じることを選ぶものだから。4コンナコレクスは彼らをうまく騙せたと知ると、こっそりと真夜中に軍を三段櫂船に乗せて去った。それというのもトリアリウスとの協定は、彼の兵は無傷にして彼らが得ていた戦利品を持ち去ると規定していたからだ。それからダモフェレスは門を開き、トリアリウスとローマ軍が市内になだれ込んできた。彼らの一部は門を通り、他の者は城壁の上へと上ってやってきた。 5ヘラクレイア人が唯一知ったのは自分たちが裏切られたということだった。彼らの一部は投降し、他の者は殺された。金目のものと財産は略奪され、ローマ軍は海戦での敗北と包囲戦の間に味わった苦労を覚えてたために市民はありとあらゆる蛮行の犠牲となった。ローマ軍は神殿に逃げ込んだ者すら容赦せず、祭壇と神の画像の傍らで彼らを斬殺した。6したがってヘラクレイア人の多くが避けられぬ死を恐れたために城壁を越えて逃げて周辺の郊外に散り、彼らの一部はコッタに自らの身柄を引き渡すのを余儀なくされた。コッタは彼らから市の占領、市民の虐殺、彼らの財産の略奪を聞き知った。怒りでいっぱいになった彼はすぐに市へと向かった。彼の軍は勝利の栄光を奪われただけでなく、市の全財産がすでに他の兵に略奪されていたことで彼と怒りを共にしていた。トリアリウスが彼らの意図に気付かなければ、彼らは友軍と戦端を開いて両軍は同士討ちを起こしていたことだろう。融和の言葉を費やして彼らのものになっていた戦利品を彼ら全員に分けることを約束することで彼は同士討ちの勃発を防いだ。 7しかしコンナコレクスがティオスとアマストリスを占領したことを知ると、コッタはすぐにトリアリウスに彼からそれらの都市を取り上げるよう手紙を書いた。その間コッタは彼に投降した兵と戦争捕虜を拘束し、この上なく残忍な仕方で彼ら全員を扱った。財宝の捜索で彼は神殿の中身すら容赦せず、見事な像と画像の数々を持ち去った。8彼はアゴラからヘラクレスの像を持ち去り、それに加えて貴重さと大きさ、並びに調和と品格、そして芸術性において最も名声高いものにに劣らなかったピラミッドから装飾品を持ち去った。その中には精錬された金を引き延ばして作られていて、大きなライオンの外皮が彫り込まれていた棍棒、弓矢が入った同じ材質からできた矢筒が含まれていた。彼は神殿と都市から持ち出したこの他の美しく見事な奉納品を数多く運び去った。最後に彼は市に火を放つよう兵士たちに命令し、市の大部分を焼き尽くした。9市は占領される前には二年間の包囲に持ち堪えた。 [36] 送られていた諸都市へと到着したトリアリウスは、他の都市を掌握することでヘラクレイアでの裏切りを隠そうとしていたコンナコレクスを安全に撤退させ、戦わずして諸都市を手中に収めた。上記のような行動をとった後、コッタは歩兵と騎兵をルクルスに送り、同盟軍を故郷へと帰し、艦隊と一緒に帰路についた。ヘラクレイアでの戦利品を載せた船の一部は重さのためにその都市からそう遠からぬところで沈み、他の船は北風で浅瀬に流されたために多くの荷物を失った。 シノペの包囲 [37] ミトリダテスがクレオカレスと一緒にシノペを任せていたレオニッポスは抵抗の希望を捨てて市を裏ると約束する言伝をルクルスに送った。クレオカレス、そしてミトリダテスが他の二人と対等の立場に置いていたもう一人の将軍であったセレウコスはレオニッポスの裏切りに気付き、彼を民会で告発した。しかしレオニッポスは正直者だったので人々は彼らの言うことを信じなかった。したがってクレオカレスと彼の仲間たちは民衆がレオニッポスに示した好意を警戒し、彼を夜に待ち伏せして殺した。この事件は民衆を憤慨させたが、クレオカレスと彼の仲間たちはこれによってレオニッポスの殺害の罰を逃れることを期待して政権を手中に収め、僭主的な仕方で支配をした。2一方、ボスポロスからローマ軍へと穀物を運んでいた一五隻の三段櫂船を指揮するローマの提督ケンソリヌスはシノペ近海に停泊していた。クレオカレスとセレウコスと彼らの仲間たちはシノペで三段櫂船艦隊と共に彼に向けて航行した。続いて起こった海戦でクレオカレスが指揮を執った艦隊はイタリア艦隊を破って輸送船を自分たちの使用のために分捕った。3クレオカレスと彼の仲間たちはこの成功で元気付けられ、市の支配にあたってより一層僭主的になった。彼らは市民を無差別に殺して他のあらゆる仕方で残忍に行動した。4クレオカレスとセレウコスの間で言い争いが起こった。クレオカレスは戦争の続行を望み、セレウコスはシノペの市民を皆殺しにして多額の褒美と引き替えにローマ軍に引き渡そうと望んだ。彼らはいずれも他方を説得できなかったため、彼らは密かに輸送船に自分の財産を乗せてミトリダテスの息子で、その時コルキスの隣国に滞在していたマカレスのところに送った。 5その間、ローマの将軍ルクルスはシノペに到着して市を厳しく包囲した。6ミトリダテスの息子マカレスはルクルスに使節団を送って友好と同盟を申し出た。ルクルスはもしマカレスがシノペの住民に補給物資を送らなければ自分は同盟を確固たるものと考えるだろうと述べて快く受け入れた。マカレスはこれに応じただけでなく、ミトリダテス軍のために用意されていた物資をルクルスに送りすらした。7これを知るとクレオカレスと彼の仲間たちは全ての希望を捨てた。彼らは夜のうちに船に大量の財物を乗せ、同時に兵士たちに市の略奪の略奪を許した。不要な船を焼いた後、彼らは〔黒〕海の内側へと出航してサネガイ族とラジ族の領地へと向かった。8火柱が上がると、ルクルスは何が起こっているのかに気付いて城壁に梯子をかけるよう命じた。兵士たちは城壁に上り、手始めに〔市民の〕大殺戮を行った。しかしルクルスは彼らを哀れんで殺戮をやめさせた。9このようにしてシノペは占領された。アマセイアはまだ頑張っていたが、そう遠からぬうちにローマ軍に屈服した。 ティグラノケルタの戦い [38] ミトリダテスはアルメニアのある地方に一年と八ヶ月滞在しており、未だにティグラネスにお目通りできていなかった。それからティグラネスは彼に謁見を認めるよう強いられていると感じ、豪勢な行列を連れて彼と会って王に相応しい歓迎をした。彼らは三日間を密談に費やした後、ティグラネスはミトリダテスを豪勢な宴でもてなし、一〇〇〇〇騎の騎兵と共にポントスへと戻らせた。2支配者のアリオバルザネスが同盟者だったカッパドキアを通って進軍したルクルスは出し抜けにエウフラテス川を渡り、ティグラネスが高価な財物と一緒に側室たちを留めていると聞き知っていた都市〔ティグラノケルタ〕へと軍を進めた。そしてまたルクルスはティグラノケルタ包囲のために文遣隊を、もう一方の軍を他の重要な居住地の攻撃のために送った。3ティグラネスはアルメニアの大部分がこのようにして包囲下に置かれたことを見て取ると、ミトリダテスを呼び戻して側室たちがいるその都市へと軍を送った。軍がその都市に到着すると、弓兵隊がローマ軍が野営地を離れるのを妨害し、夜のうちに側室たちと最も高価な財物を退避させた。しかし夜明けにローマ軍とトラキア軍が勇敢に攻撃をかけてきて、アルメニア軍を広範囲で殺戮した。多くのアルメニア兵が捕らえられて戦死者はそれに劣らなかったが、彼らが真っ先に送っていた荷物はティグラネスのもとに無事到着した。4ティグラネスは八〇〇〇〇人の軍勢を集結させ、包囲を解いて敵を撃退すべくティグラノケルタへと向かった。そこに到着してローマの野営地の小ささを見た彼は軽蔑しながら言った。「彼らが使節として来たのなら多すぎるな。戦うために来たのなら少なすぎる」こう言った後、彼はローマ軍の隣に陣を張った。5ルクルスは用心深く巧妙に軍を戦いのために出撃させ、激励の言葉を兵士たちに投げかけた。すぐに彼は敵の右翼を敗走させ、それからその隣の兵も退け、全軍が敗走するまでこれを続けた。恐るべき、そして止めようのない混乱がアルメニア軍を襲い、これに軍の壊滅が不可避的に続いた。ティグラネスは王冠と権力の象徴の数々を息子に譲り渡し、砦の一つに逃げた。6ルクルスはティグラノケルタに戻ってより厳しい包囲で締め付け、それは市内のミトリダテスの将軍たちが全ての希望を捨てて彼ら自身の安全と引き替えに市を引き渡すまで続いた。7しかしミトリダテスはティグラネスのもとへと向かって元気を取り戻させ、以前の服に劣らぬ見事な王の衣服を再び着せた。ミトリダテスはすでに相当の軍勢を持っており、他の軍勢を集めるようティグラネスを励ましたため、彼は今一度勝利を争えるようになった。それからティグラネスはミトリダテスの高貴さと知性を信頼して彼に全権を委ねたのであるが、それは彼がローマ人との戦争を続けるにあたって最も有能だったと見ていたからだ。8ティグラネス自身はパルティア人に使節を送った。フラアテスはメソポタミア、アディアベネ、そして大渓谷地帯の割譲を彼に要求した。同時にルクルスからの使節団がパルティア人のもとに到着し、王は私的にローマ人に対して自分は友人であり同盟者であると称し、これまた私的にアルメニア人と似たような協定を結んだ。 戦後のヘラクレイア [39] ローマに到着すると、コッタはヘラクレイアを占領したことから「ポンティクス・イペラトール」という称号で元老院から称えられた。しかし彼が私的な利得のためだけにその大都市を破壊したという告発がローマに届き、悪事によって得られた富が嫉妬を呼び起こすと、彼は公衆の憎悪の対象となった。富が引き起こした嫉妬を避けようとして彼はその都市からの多くの略奪品を国庫に差し出したが、彼が手放したのはほんの僅かで、大部分を自分のために取っておいていると思っていた他の人たちを宥めるには至らなかった。彼らはすぐにヘラクレイアから得られた捕虜を解放するよう票決した。2そのヘラクレイア人の一人、トラシュメデスは民会でコッタを弾劾した。彼はその都市のローマ人への好意を述べ、もしその都市がこの好意に反するように振る舞ったとすればそれは市民の共通の賛同によってなされることあるまいが、彼らはこの件で責任者たちに騙されていたか、彼らを攻撃した敵によって強制されてこのようにしてしまったのだと述べた。彼はヘラクレイア炎上の元となった破壊について、そしていかにコッタが像の数々を戦利品として持ち去って神殿を荒らしたのか、彼が市に入った後に働いた他の全ての悪逆非道を非難した。トラシュメデスはコッタが自分のために持ち去ったその市の金銀の膨大な量とヘラクレイアのその他の宝物を述べ上げた。3ローマの指導者たちはトラシュメデスが涙を浮かべて泣きながら述べたこの演説で心を動かされた一方で、近くに立っていた捕虜の集団は男も女も子供と一緒に喪服を着て、嘆願者として悲しげにオリーブの枝を握っていた。これに答えてコッタは彼の言語〔ラテン語〕で短い演説をして座った。〔ガイウス・パピリウス・〕カルボが立ち上がって「コッタよ、我らは貴殿に都市を占領するよう命じはしたが、破壊しろと命じはしなかったぞ」と大声で言い、その後もしばしば弁士たちが似たような仕方でコッタを弾劾した。したがって多くの人々はコッタは追放されるべきだと考えたが、その代わりに彼らはより軽い罰として元老院からの除名で済ました。彼らはヘラクレイア人に陸と海の領域、港を返還した。また彼らはヘラクレイアの何人たりとも奴隷にされてはならないと票決した。 [40] これを行った後、トラシュメデスは大部分のヘラクレイア人を母国まで送った。彼自身は他の切迫した諸問題を扱うためにブリタゴラスとその息子プロピュロスと共にまだ留まっていた。数年後に彼は三隻の快速船でヘラクレイアに帰国した。2到着すると、彼は市を再建しようと四方八方手を尽くしたが、彼の全ての努力をもってしても彼の家人並びに僅か八〇〇〇人程度を集めるのが精一杯であった。3その市の状況が改善すると、ブリタゴラスは自分が市民の自由を復興できるのではないかと望み始めた。多くの年月が経ってローマ人の政権はガイウス・ユリウス・カエサルの単独支配の下に入った。ブリタゴラスはカエサルへと使節を遣って彼との友情を発展させたが、ガイウスはローマに滞在せずに他の地への遠征に出ていたために市に自由を得させることはすぐにはできなかった。しかしブリタゴラスは諦めず、彼とプロピュロスは世界中のどこへなりとカエサルに同行し、あたかもこの独裁官は彼らの嘆願に同意すると表明しているかのように彼と会った。4一二年間カエサルに同行した後、カエサルがちょうどローマに戻ろうと計画していた時、老年と耐えざる尽力のために疲れ果てたブリタゴラスは死んだ。彼の死は彼の祖国で大変な悲しみを巻き起こした。 この時点でメムノンの歴史書の第一六巻は終わりを迎える。 この歴史書は知性に溢れ、明瞭さを兼ね備えた平明な文体で書かれている。目的にとって必要ないくつかの外因的な出来事に含まれる内容を除いて脱線は避けられており、その時ですら、脱線は長くはならず、本質的な事柄に集中してすぐに話の本線に立ち返っている。少数の物珍しい語がありはするが、この本では型通りの語彙が用いられている。最初の八巻、第一六巻より後の読める複写は見つからなかった。 | |