フォティオス『図書総覧』

77. エウナピウス『年代記』
 エウナピウスによるデクシッポスの年代期の続編の一四巻本の新版を読んだ。これはデクシッポスの歴史書が終わったクラウディウス・カエサルの治世から始まり、テオドシウスの息子たち、ホノリウスとアルカディウスの時代まで下る。この作品は実際にはヨハネス・クリュソストモス追放後にアルサキウスがコンスタンティノープルの総主教に昇進してアルカディウスの妻が流産で死んだ時〔404年〕でもって終わっている。このエウナピウスはリュディアのサルデスの生まれであり、不敬虔な異教徒であった。彼は敬虔さで帝国を飾った全ての人たち、とりわけコンスタンティヌス大帝をあらゆる仕方で、そして何一つはばかることなく中傷して罵った。その一方で彼は何にもまして背教者ユリアヌスを讃えた。なるほどあたかもこの著作は彼への巧妙な賛辞としてほとんど書かれたかのようであった。
 もし「まるで鶏」、「より鹿らしい」「より白鳥のよう」、「あたかも鷹」、「さながらカラス」、「川のような涙」等々のような残りの言語表現の品を損なって落とすような表現を切り落とすならば、彼の文体は優雅である。また、彼は移り気な特徴の言い方をしており、歴史的著述の規則が禁じるような誤りを犯しているが、概して効果的な文体が攻撃を取り繕う洗練ぶりと組合わさっている。彼の編集手法、年代の正確さと利用は歴史語りにきわめて適っているが、時折その文体は歴史的な言語というよりはむしろ法廷弁論らしい言葉遣いになっている。構成では彼は数多くの工夫を凝らしているが、不快さを帳消しにして彼の手法への攻撃への容赦させるには至っていない。
 彼は同じ時代を包含する二部立ての形で書いている。第一部で彼は我らキリスト教徒の純真な信仰に中傷を浴びせかけ、異境の迷信を賞賛し、多くの敬虔な皇帝たちを攻撃している。彼が「新版」と呼ぶ第二部で彼はキリスト教の敬虔さへと浴びせかけた侮蔑と酷い悪口を切り落とし、元々の狂乱の跡がまだかなり残ってはいるものの、これと著作の残りを結びつけて、我々が述べた「新版」と呼びならわしている。我々は両方の版、別々の部とこれらが結びつけられたものの両方の古い複写を見つけ、両方読んで両者の違いを評価できるようになった。その結果、概してこの著者は明瞭さへのかなりの考慮を示していたものの、新版の多くの文言は書き落としのおかげで骨抜きになって曖昧になっている。ともかくこの第二版で彼は書き落とした内容への当然の顧慮を払って話を繋げておらず、かくして意味を損うに至っている。



78. マルコス『ビザンツ史』
 ソフィストのマルコスの七巻本のビザンツ史を読んだ。それはレオ〔一世〕帝の一七年の統治の末の最期の病とその死〔474年〕から始まる。その著者はゼノの布告と即位、彼の帝位からの放逐と私人としての生活、僭帝バシリスクスの即位と退位を説明している。ゼノの復位とバシリスクスの殺害、その妻子は同時に不当に殺された。ゼノを復位させたハルマティウスは似たような報いを受け、オヌルフスによって殺された。著者はトリアリウスの息子テオドリックの反乱、〔ゼノとの〕マラミルの息子テオデリックの友情、そしてトリアリウスの息子テオドリックとの彼〔マラミルの息子テオドリック〕の戦争、〔トリアリウスの息子テオドリックの〕ゼノに対する二度目の反乱、マルキアヌスの謀反、ゼノの義母の〔ゼノに対する〕陰謀、そしてマルキアヌスの流罪中の生活の説明もしている。ウェリナ〔レオ一世の皇后〕のイルス〔バシリスクス、次いでゼノを支持した将軍〕への陰謀、マラミルの息子テオドリックによるエピダムノスの油断のならない奪取。それらの出来事を述べると著者は次いでローマでの出来事に触れる。第七巻はグリュケリウスを追放して帝権を手にし、グリュケリウスの髪を僧侶のように切るよう命じて皇帝から主教にしたネポスの死〔480年〕でもって終わる。ネポス自身はそれからグリュケリウスの扇動で殺された。その七巻本はその最初の巻の冒頭から〔それ以前の内容が〕出てきているために著者がすでにこれ以前の出来事の説明を〔別の本で〕書いたことを示している。七巻目の終わりは彼がもし寿命が許すならば、続きの歴史書を計画していたことをさらに示している。フィラデルフィア生まれのマルコスは最も賞賛に値する歴史家である。彼の文体は上品で、冗長さとは無縁で分かりやすく、その言語表現には技巧が凝らされていて正確であり、幾分か勿体ぶったところがある。彼は強調、快音調、高尚さといった性格を持つ見慣れない表現を使うのに躊躇していない。概して言えば、彼の言語表現は歴史家の見本である。この専業ソフィストであり最も偉大な修辞家の一人はキリスト教会の一員であった。



79. カンディドゥス『歴史』
 カンディドゥスの三巻本の『歴史』を読んだ。これはイリュリアのダキア生まれで、軍団幕僚で、セリュンブリアの部隊を指揮し、アスパルの支援によって帝位を得たレオ〔一世〕の即位から始まる。アスパルはアラン人で若い頃からの軍人であった。彼は三度結婚し、アルダブリウス、パトリキウス、そしてエルメナリクスという三人の息子を儲けていた。話はアナスタシウスの皇帝宣言まで下る。この著者は彼その人が我々に語ることと、ある影響力のあるイサウリア人たちへの信仰告白の書記要員によれば、イサウリア・トラケイア〔トラケオティスとも。小アジアのキリキアとピシディアの間の地方(N)〕の生まれであった。第四次公会議への賛同と革新者へのうまく正当化される攻撃を示しているため、宗教では彼は正統派キリスト教であった。彼の文体は歴史に適当なものではなかった。彼は面白味がなく子供っぽい詩的表現を常用し、著述は不快で不調和であり、ディテュランボス調の大言壮語の傾向があって不注意と無粋さに陥っている。彼は滑らかでうっとりするようなものを著作に追加しないが、読みにくく魅力を完全に失せさせるような新しい様式を導入していて、それは他の著者ならしないようなものである。あちこちで彼の文体は改善を示している一方で、彼の歴史は明らかに異なった資料のこれ以上ない混合物である。彼はイサウリアという名はエサウに由来するとしている。
 第一巻はアスパルと彼の息子たちの影響力、アスパルの手によるレオの即位、コンスタンティノープルで起こった大火、そしてアスパルの福祉に関する全般的な法令を記述している。タティアヌスとウィウィアヌスに関するアスパルと皇帝の争論と、彼らが互いに言ったこと。これがルスンブラデオテスの息子で、最初の妻の死後にレオの義理の息子となった際にゼノと名を改めたタラシコディッサスを通した皇帝とイサウリア人の同盟が成り立った顛末。皇帝と対峙すべくアルダブリウスもイサウリア人を味方につけようと試みた。アルダブリウスの友人のマルティヌスなる者がタラシコディッサスにアルダブリウスの皇帝への陰謀を知らせ、最終的にレオ帝がアスパルとアルダブリウスと副帝パトリキウスといった彼の息子たちの殺害を決意するまでに相互不信が悪化した顛末。アスパルは殺されたが、パトリキウスは予期せずして負傷から回復し、アスパルの他の息子でその時に父と一緒にいなかったエルメナリクスも逃げ延びた。レオはタラシコディッサスに娘のアリアドネを娶らせてゼノと名を改めさせ、東方担当の将軍に任命した。アフリカでのバシリスクスの成功と暗転。レオが義理の息子ゼノの皇帝への即位を担保しようと望んで計画したが、臣下たちの支持を得られなかった顛末。しかし死が間近になると彼は孫であり、アリアドネの息子レオを〔次期皇帝に〕宣言し、彼は祖父の死後に元老院の賛同によって父の頭に帝冠を乗せた。次に続くのはイサウリア人の詳細な系譜であり、その中で著者は彼らはエサウの末裔であることを証明しようと全力を尽くしている。ウェリナに騙されたゼノが〔コンスタンティノープル〕市と帝位を捨てて妻と母共々逃げ去った顛末。ウェリナはマギステルのパトリキウスが自身と結婚して彼を皇帝にすることを望んで騙し討ちで義理の息子のゼノを追い出したが、権威を持っていた人たちが彼女の兄弟のバシリスクスを帝位に登らせたために期待を裏切られた顛末。コンスタンティノープルでのイサウリア人への恐るべき虐殺。ローマの皇帝ネポスの後をオレステスの息子アウグストゥルスが襲った。以上が第一巻の内容である。
 第二巻はウェリナと一緒に陰謀を実施したマギステルのパトリキウスが激怒した彼女の兄弟バシリスクスに殺害された顛末を述べる。ウェリナはこのために兄弟の憎悪を知って金でゼノが帝位を取り戻すのを援助し、兄弟に苦しめられ、アルマトゥス〔ハルマティウスとも。軍司令官でありバシリスクスの甥。〕が彼女を教会から密かに脱出させていなければ、命を奪われていたであろう顛末。バシリスクスの妻と共に陰謀を実行していたアルマトゥスは大きな影響力を持っていてゼノとの戦争の遂行を委ねられていたが、その後イルスと合意してゼノに味方した。アルマトゥスはゼノから広大な所領を得て、彼の息子は副帝の地位に上った。にもかかわらず後に彼は殺されて息子は副帝の地位を剥奪されてブラケルナエの読師の一人になった。バシリスクスはこれより前に息子のマルクスを副帝に、その後に皇帝として宣言していた。イルスはゼノと和解すると彼に帝位を取り戻させる準備をした。バシリスクスは自らの反乱の支持者たちが反抗すると子供たちと妻のゼノニスを連れて逃げ、裏切ったアルマトゥスに逃げ込んだ教会を去るよう唆されてカッパドキアに追放されてそこで家族全員と一緒に殺された。不敬虔なペトルス〔仕上げ工とあだ名された、471から488年のアンティオキア総主教で単性論者(N)〕は東方の諸教会で騒動を起こすと、ゼノはアンティオキア総主教を叙任すべくカランディオンを送った。皇帝は金欠のため、彼に提案された方法によって幾ばくかの金を得ることに成功した。彼に対して陰謀を企んでいた多くの人たちが捕らえられて処刑された。イルスは戦時の勇気と軍事的成功、野心的な政治的施策と公正な行動によって帝国のために多大な貢献を行った。ローマ皇帝ネポスの死と彼の息子アウグストゥルス〔前段落にあるようにアウグストゥルスはオレステスの息子なのでこの記述は誤り〕の追放の後、オドアケルがイタリアとローマ市そのものを手中に収めた。しかし西方のガリア人が彼に反旗を翻して彼らとオドアケルはゼノに使節団を送り、ゼノはオドアケルを支持した。イルスの殺害を企んだとあるアラン人は、彼を負傷させた後に自分はウェリナの側近のエピニキウスに買収されてやったのだと明らかにした。エピニキウスはイルスに引き渡され、放免と褒美の約束を得た後、ウェリナのイルスに対する計画を暴露した。ゼノはウェリナをイルスに引き渡して彼はキリキアの砦へと彼女を追放し、身の安全を確保した。不敬虔なるパンプレピウス〔上部エジプトのパノポリスの人で、アテナイの学堂の文法学(哲学)の教師で、『イサウリカ』と語源についての論文を書いたと言われている。新プラトン主義者でキリスト教の大敵であった(N)。〕と非常に懇意になり、マルススに唆されたイルスは徐々に破滅した。マルキアヌスとプロコピウスといったローマ皇帝アンテミウスの息子たちによってゼノに対する内戦の口火が切られた。敗北の後、マルキアヌスは司祭に叙任され、プロコピウスはトラキアのテオデリックのもとに逃げ込んだ。カッパドキアに追放されたマルキアヌスは脱走してガラティアのアンキュラで反乱を起こし、それは彼が捕らえられてイサウリアに流されるまで続いた。皇帝の増していったイルスへの憎悪の起源。第二巻の内容は以上のようなものである。第三巻は、他のことのうち、イルスがゼノに対して反旗を翻し、レオンティウスを皇帝と、ウェリナを皇后と宣言した顛末、反乱が失敗してイルスとレオンティウスが包囲され、捕らえられて残首された顛末について述べている。また、この巻にはゼノの死までの出来事も収められている。



80. オリュンピオドロス『歴史』
 オリュンピオドロスの二二巻の『歴史』〔現在は散逸〕を読んだ。これはホノリウス帝の七回目、テオドシウスの二回目の執政官職の年で始まり、プラキディアとコンスタンティウスの息子ウァレンティニアヌス〔三世〕がローマ人の皇帝に宣言された時にまで至る。異教徒であった著者は彼自身の説明ではエジプトのテーベの生まれで、職業詩人であった。彼の文体は明瞭だが厳めしさに欠けており、時折ありふれた卑俗さに陥っており、このためにこの作品は歴史と考えられるに値しない。ことによると著者自身がこれらの欠点を意識して自分の著作は歴史ではなく、歴史のための素材の集成であると宣言しており、彼は規則的な形式の相当な欠如を自分なりの文体と言い回しだと考えていた理由かもしれない。彼が再三再四単純さに向かっていると主張されているであろう点を除いて彼は形式には無頓着だった。しかしこの中ですら、度を越した浅ましさと言い回しの些末さのために彼はこれに失敗し、野卑で新鮮味のなさへと徐々に落ち込んでいる。彼は自らの著作を『シルウァ』と呼び、巻に分けて序言で飾るよう努めた。それはアルカディウスの息子でホノリウスとプラキディアの甥であったテオドシウス帝に献呈されている。
 スティリコの権力上昇。テオドシウス大帝による彼のアルカディウスとホノリウスの後見人への任命、セレナとの結婚、この婚約で彼は皇帝その人を叔父に持つことになった。彼の娘テルマンティアとホノリウスの結婚、彼の権力の向上。彼の成功した多くの対外戦争。無慈悲な冷血漢オリュンピウスの手による彼の死、彼は彼自身を皇帝に売り込んだ。
 スティリコはゴート族の酋長アラリックにホノリウス――このイリュリクム道は父テオドシウスによって彼に割り当てられていた――のためにイリュリクムを保持することになるだろうという手紙を以前に送っており、スティリコ暗殺の結果、約束は果たされないままになったため、アラリックはローマを包囲して略奪した。彼はホノリウスの姉妹で丁度その都市にいたプラキディアともども大量の戦利品を持ち去った。この占領の前に彼は首都長官であり、名高い市民であったアッタロスという名の男を皇帝として宣言していた。アラリックの行動のもう一つの理由は、同じくゴート族で二〇〇ないし三〇〇人程度の小部隊の隊長であり、勇敢で敵なしの戦士であったサルスがアラリックに対抗するためにローマ人から同盟の申し出を受けていたことであり、かくしてアラリックはローマ人の不倶戴天の敵となった。
 ローマ包囲中の住民たちは食人へと駆り立てられた。スティリコがまだ生きていた時にアラリックは遠征費用として四〇〇〇リブラの金を受け取っていた。スティリコの死後に彼の寡婦セレナは絞殺されたが、それは彼女がアラリックによるその都市への攻撃の責任者だと考えられたためであった。彼の息子エウケリウスはすでに殺されていた。
 ホノリウスの治世の間、ブケラリイという名がローマ人のみならず外国人部隊にも与えられ、似たようにしてフォエデラティという名が軍の混合部隊と非正規部隊に与えられた。
 スティリコへの陰謀を練ったオリュンピウスが官房長官に任命されたが、後に地位を逐われた。彼はその地位を取り戻し、そして再び逐われた。彼はまず耳を削がれた後、プラキディアの夫だったコンスタンティウスの命令で撲殺された。かくして無慈悲な憤怒はついに相当の罰を受けることになった。
 ラダガイススと共にいたオプティマティと呼ばれるゴート族の主力部隊およそ一二〇〇〇人はラダガイススと同盟を結んだスティリコに破れた〔405年後半と翌406年の前半にイタリアに攻め込んだゴート族の王ラダガイススはフロレンティア包囲時にスティリコの攻撃を受けて捕らえられ、処刑された戦いを指す。〕。
 アラリックの病と死、彼の妻の兄弟アタウルフが跡を襲った。
 著者は、乾いたパンがブケラトゥムと呼ばれていたと述べ、兵士たちはこのためにブケラリイと呼ばれたとふざけて主張している。
 コンスタンティヌスは自らガリアの僭主となり仰せると、ホノリウスへと使節団を送って自分は兵士によって紫衣を無理矢理着させられたと弁解し、彼の同僚皇帝となることを許して認めてくれるよう求めた。ホノリウスは多大な困難に陥っていたために彼の要望に同意した。このコンスタンティヌスはブリタニアでの兵士の反乱の際に皇帝と宣言され、その地で彼らはホノリウスの七度目の執政官職〔407年〕の前にマルクスなる者を皇帝と宣言していた。彼はすぐに彼らによって逐われ、グラティアヌスが彼に取って代わった。四ヶ月後に彼らは彼にもうんざりするようになってこれを殺し、コンスタンティヌスがその地位と正帝の称号に昇った。ユスティヌスとネオビガステスに軍の指揮を任せると彼はブリタニアを発ち、沿岸の町であってガリア地方第一の町だったボノニアへと渡った。そこで彼はしばし時を過ごし、ガリアとアクイタニアの軍人の全員を集めてイタリアとガリアを分かつアルペス山脈に至るまでのガリア全域を占領した。彼にはコンスタンスとユリアヌスという二人の息子がおり、彼は前者を副帝の地位に昇らせ、後者にノビリッシムスの称号を与えた。
 アッタルスがホノリウスに対する対立皇帝となってラウェンナへと進軍し、近衛長官でパトリキウスのヨウィアヌス、歩騎両軍司令長官ウァレンス、財務官ポタミウス、秘書官長ユリアヌスが使節としてホノリウスによって彼のもとに送られた。彼らはアッタルスに、自分たちは彼を帝国の共同統治者と認めるかという問題を論じるためにホノリウスによって送られてきたと知らせた。彼はこれを断ったが、ホノリウスが無傷でどこかの島々ないし彼が好むどこかの土地へと引退するのを許すと申し出た。ヨウィアヌスは喜んでこの提案を受け入れ、さらにホノリウスを不具にしようと提案した。アッタルスはホノリウスが自分から退位すればを不具にする理由はないと言ってヨウィアヌスを咎めた。ヨウィアヌスは失敗したいくつかの使節任務の後、アッタルスに彼のパトリキウスの地位を保たせた。その一方でラウェンナの指揮権が監理官〔「神聖寝室監理官(Praepositus cubiculi sacri)すなわち、聖なる寝室の長ないし管理者、大寝室管理者」(N)。皇帝の寝室を管理する官職で、たいていは宦官によって占められていた。〕エウセビウスに委譲され、彼はその直後にアロビクの残忍さと公式の布告によって皇帝の眼前で死ぬまで鞭で打たれた。かなりたった後、主にホノリウスの使節任務を裏切ったヨウィアヌスのせいでアラリックへの忠誠を保たなかったアッタルスは帝位を追われ、その後は私的な友人としてアラリックの側近になった。それから彼は復位したが、再び退位を強いられた。最終的に彼はラウェンナに向かう際に捕らえられ、右手の親指と人差し指を切断されて追放された。
 直後にアロビクは監理官エウセビウスの殺害のつけを払い、皇帝の面前で殺された。僭帝コンスタンティヌスはアロビクの死を知ると、ホノリウスと協定を結ぶためにラウェンナへと急行したが、警戒して引き返した。
 レギウムはブルッティイ地方の主邑で、ここで歴史家〔オリュンピオドロス自身〕が言うには、アラリックはシケリアへ渡ろうと意図したが、神聖な像によってそうするのを妨げられたという。この像はアエトナの火、そして海を渡ってくる夷狄の来寇に対する守り神として古人から崇められていたと言われる。片足で消えることのない火が燃え続け、他方で水が尽きることはなかった。それからコンスタンティウスの管理官のアスクレピウスによってこれが破壊されると、プラキディアのシケリアでの財産と住民はアエトナと夷狄から大きな被害を受けた。
 僭帝コンスタンティヌスと、その息子で最初は副帝、後に正帝になったコンスタンスが敗北して敗走すると、彼の将軍ゲロンティウスは喜んで夷狄と講和して近衛兵の一人マクシムスと自らの息子を皇帝として宣言した。それから彼はコンスタンスを追撃してこれを殺し、コンスタンティヌスを追った。それらの出来事が起こっていた間、コンスタンティウスとウルフィアスがコンスタンティヌスに向けて送られ、コンスタンティヌスが息子のユリアヌスと共に暮らしていたアレラテに着くと彼らはこれを包囲した。コンスタンティヌスは助命の厳粛な約束を得ると、教会に逃げ込んで司祭に叙任された。市門が籠城軍に開け放たれるとコンスタンティヌスと息子はホノリウスのもとへと連れていかれた。しかし皇帝はコンスタンティヌスによる従兄弟の殺害のために彼らを恨んでいたため、誓約を破ってラウェンナから三〇マイル離れたところで彼らを殺すよう命じた。コンスタンティウスとウルフィアスが到着するとゲロンティウスは逃亡し、彼の厳しい軍規に怒って背いた兵たちによって捕らえられた。彼が逃げ込んだ家には火が放たれたが、生まれがアラン人だった一人の家来と共に彼は叛徒に対して勇敢に抗戦した。ついに彼はそのアラン人を、それから妻をその切なる願いで殺し、自らに剣を突き立てた。彼の息子マクシムスはこれを聞くと友好的な夷狄のもとへと逃げ込んだ。
 その一方ヨウィヌスがアラン人ゴアルとブルグンド族の酋長グンティアルに助けられて高地ゲルマニアのモグンティアクムで皇帝に宣言された。アッタルスの忠告でアタウルフは軍と一緒にアッタルスと合流した。しかしヨウィヌスはアタウルフの出現を難詰し、アタウルフに合流を説いたアッタルスを奇妙な言葉で責めた。また、サルスがヨウィヌスとの合流の途にあったが、これを聞いたアタウルフは一〇〇〇〇人の部隊を集め、二八人の部下しか連れていなかったサルスを待ち伏せした。サルスは見事英雄的に戦って散々手こずらせ、彼の頭に袋をかぶせた一兵卒によって捕らえられ、その後に殺された。サルスは自分の家来のベレリデスの殺害を無碍にして調査と彼の殺害者の処罰を拒んだホノリウスに離反していた。
 ドナトゥス〔フン族の王〕とフン族、そして彼らの王たちの弓を射る技能のこと。著者は彼自身がドナトゥスへと任のために送られたと述べ、彼の驚嘆と海による危機について悲劇的な説明をしている。ドナトゥスが宣誓で騙されたために無法な死に方をした顛末。最初の王カラトンはその殺人に憤慨したため、皇帝から贈り物によって宥められた。この歴史書の最初の一〇年は以上のようなものであった。
 第二部は以下のように始まる。ヨウィヌスはアタウルフの忠告とは逆に兄弟のセバスティアヌスを皇帝と宣言した。アタウルフは酷く難じられたためにホノリウスに使節団を送って僭主の首を送ると約束して和平を申し込んだ。誓約が交換されると使節団は帰り、セバスティアヌスの首が皇帝に送られた。ヨウィヌスはアタウルフに包囲されて降伏し、皇帝のもとに送られて近衛長官ダルダヌス自らの手で処刑された。両者の首はカルタゴの外で晒され、そこにはコンスタンティヌスとユリアヌスの首、テオドシウス大帝治世下に帝位を狙って同じ運命を辿ったマクシムスとエウゲニウスの首がすでに晒されていた。
 アタウルフのもとから兄弟ホノリウスのもとへのプラキディアの帰国が後に彼女の夫となるコンスタンティウスによってうるさく要求された。しかし約束は、とりわけ穀物の供給がアタウルフに実行されないままにされたため、彼は彼女を返すのを拒んで平和の代わりに戦争の準備をした。
 アタウルフはプラキディアを返還するよう要求されると、彼に約束された穀物を要求した。そのことを約束した人たちは穀物を提供することができなかったにもかかわらず、もしプラキディアを取り戻したらそうすると合意した。夷狄は応じるようなふりをした。その一方で彼はマッシリアを裏切りによって占領しようと期待してそこへ向けて出発した。しかし最も高貴なボニファキウスによってほとんど致命的な大怪我を負ったために彼はボニファキウスに対して喜びながら喝采を送り、讃えた市を放棄して自分の地方へと戻った。
 コンスタンティウスによるプラキディアの引き渡し要求をものともせずにアタウルフは彼女との結婚を決め、もし彼ら〔ローマ側〕が要望を認めれなければ彼女の留置にとて良い口実を得られるはずだった。
 以前に執政官に選出されていたコンスタンティウスはラウェンナで執政官になり、コンスタンスが同時にコンスタンティノポリスで執政官になった〔414年〕。ヘラクリアヌスの財産の中に十分な黄金が見いだされると、執政官の経費を支払うにあたってその量は期待されていたほどでもなかったものの、彼は帝位を得ようと画策したとして処刑された。見つかった黄金の量はおよそ四六〇〇ポンドゥスで、実際の価値の評価は二〇〇〇リトラ、九二〇〇〇ポンドゥスだった。これら全てをコンスタンティウスはホノリウスへと「頼まれて」譲渡された。周りを馬で走ったコンスタンティウスの大きな目と首と広い頭はがっかりして陰鬱な様子だった。古い言い回しでは「帝国に値する様子で」〔エウリピデス、『アイオロス』〕彼の全身は馬の上で曲がっていて片方に斜めに見えた。しかし祝いと宴の席で彼は快活で社交的で、しばしば食卓で演じていた身振り狂言者と柄にもなく競うことすらした。
 忠告とカンディディアヌスの暗殺によってアタウルフとプラキディアの結婚がナルボ市の一月の初めに最も卓越した市民の一人であったインゲニウスの家で祝われた。プラキディアは内側の部屋でローマ式の服と帝王の長衣を身にまとい、彼女の傍らにはローマ式の羊毛の短衣を着たアタウルフがいた。他の結婚の贈り物の中でアタウルフは絹の服を着た、各々がその手に一つは黄金で、もう一つは宝石、あるいはむしろ価値のない石、ゴート族によって略奪を受けた時のローマでの戦利品で満たされた二つの大皿を持った五〇人の美しい若者を花嫁に与えた。ルスティキウスとフォエバディウスを伴ったアッタルスが合唱隊を指揮して婚儀の歌が歌われた。儀式は喜びの大仰な実演とローマ人と夷狄が参加した遊技で締めくくられた。
 ゴート族によるローマ占領の後、通常の状態に復興すると首都長官アルビヌスは、一日で一四〇〇〇人ほどの異国人が流入してきて人々の数が増加していたために人々に分配される穀物の量が不十分になっていると皇帝に報告した。
 テオドシウスと彼が名付けた息子をプラキディアが儲けた後、アタウルフはローマ人といっそう親しく付き合ったが、コンスタンティウスと彼の支持者らとの対立が彼とプラキディアの成果を無に帰した。その息子はすぐに死んでしまい、両親は深くこれを嘆いて銀の棺に入れてバルキノ近くの教会に葬った。すぐ後にアタウルフその人も殺され、これは習慣として行っていた厩の馬の世話をしていた時のことだった。彼が殺されたのは古くからの憎悪を満足させる機会を長らくうかがっていた家来で、ドゥビウスという名のゴート人によってだった。ドゥビウスの主人であり、ゴート族の一派の酋長だった人〔サルス〕はアタウルフに殺されており、彼はドゥビウスを自分の家に連れていった。ドゥビウスは最初の主の復讐のために二人目の主を殺した。死ぬ前にアタウルフは、プラキディアを帰して可能ならばローマの友情を育むよう自分の兄弟に命じた。彼の後はサルスの兄弟のシンゲリックが継ぎ、彼は法的なことや人間関係に関する理由よりはむしろ暴力と陰謀によって王位を保持した。彼はアタウルフの以前の結婚でできた子供たちを殺し、主教のシゲサルスの腕から彼らを引き離し、プラキディアを行列で市から一二個目の一理塚まで、侮辱的な仕方で他の捕虜と一緒に彼の馬の前を歩かせた。七日間君臨した後、シンゲリックは殺されてゴート族の酋長ワリアが後を継いだ。
 この歴史家は、ウァレリウスという名の高貴な人から夷狄が手を触れないようにと奉納された或る銀の像について聞いたと述べている。コンスタンティウスの治世にトラキアの統治者だったウァレリウスはその宝物がどこにあるのかの情報を受け取った。彼はその地点まで向かい、住民からそこは神聖な場所と見なされていて、或る像は古の儀式に則って捧げられたものだと聞いた。ウァレリウスはこのことを皇帝に報告し、皇帝は彼にそれらを持ち去る許可を文書で与えた。その場所は掘られ、夷狄風の見かけをして両腕を腰につけ、まだら模様付きの服を着て、髪が長く、夷狄の国がある北を向いた三体の金銀の像が見つかった。それらの像が運び去られて数日後にゴート族は手始めにトラキアを荒らし周り、少ししてフン族とサルマティア族がイリュリクム、そしてトラキアそのものへと侵略した。奉納された地区がトラキアとイリュリクムの間にあり、彼らは奉納された多くの像から夷狄の諸民族に対しての加護を得ようと意図していたようであった。
 この歴史家は彼の旅での苦難と危機を我々に物語っている。彼は自分がアテナイで学び、彼の支援と努力により、レオンティウスが望んでいなかったにもかかわらず修辞術の〔教授の?〕座に任命されたとも述べている。アテナイで彼はソフィストの総票決で哲学者の外套を身につける許可を受け、その権利が彼らの規則と慣例で裏付けられない限りは何人たりとも、とりわけ外国人は着るのを許されていなかった。以下はその折りの儀礼である。全ての新入り、若者と老人は公共浴場まで連れていかれる。外套を着るのに適切な年に近い者は彼らを先導する学者〔「ここでは「ソフィスト」という意味に違いなく、しばしば後のギリシア語の「法律家」ではない」(N)〕によって連れていかれ、それから一部の者が前を走って彼らを後ろへ押しやり、他の者は後ろを走って彼らを前に押して「やめろ、やめろ、彼は望むはずがない」と叫びながら抵抗する。新入りの前進を防ごうとした者を押し戻した者は競争で勝ったと考えられた。かなりの時間の後、そして長い論争が慣習通りになされた後、いざなわれていた彼は暖かい部屋に通されて身を清められる。服を着ると、数多くの立派な群衆を伴い、彼は風呂場からの途上で外套を身につける許可を与えられる。アクロミタイと呼ばれる学校長たち〔「ヘシュキオスは辞典でこの語を『オイメイゾネス』(『より大なる人』)、外套を着ることになっているより高い階級と解釈している。指示されているのは教師よりはむしろ上級の学徒であると主張されている」(N)〕のために多額の資金〔の供出〕が票決されていた。
 ヴァンダル族はゴート族をトルリと呼んでおり、それは彼らが飢餓で追いつめられていた時にヴァンダル族から金貨で一トルラの小麦を買ったからだ。一トルラは一オクタリウスの三分の一以上もない。
 ヴァンダル族がヒスパニアを荒らすと、要塞化された諸都市に逃げ込んだローマ人は食糧不足に陥ったために食人行為へと追いつめられた。四人の子供の母であった女は子供全員を食らいつくし、そのそれぞれの折に彼女は残った子に幾ばくかの食料を与えて命を助けるふりをしてこれを行っていたが、全員を食らい尽くした時に彼女は人々によって石打ちで殺された。
 寝室管理官エウプルティウスがゴート族の王ワリアのもとへと講和条約を結んでプラキディアを取り戻すために送られた。ワリアは彼を親切にもてなして穀物六〇万メディムノスを受領し、プラキディアは解放されて兄弟のホノリウスのもとへと護送されるべくエウプルティウスに引き渡された。
 どうやって本がくっつき、人々はどんな糊が使われるのかを知りたがるのかという議論がアテナイで起こった時、著者の連れで文芸にまつわる全ての事柄に通じていたフィルタティウスが彼らに何をすべきか示した。感謝した市民たちは彼を讃えて像を建てた。
 著者はオアシスについて信じられないようなことを多く述べている。まず、そこの気候は非常に穏やかであるために住民のうち誰一人としててんかんにかかることがないが、他の地方から来た人はそれが直るという。次に彼は非常に広大な砂漠、二〇〇プース、三〇〇プース、時には五〇〇プースの深さまで掘られ、水流が吹き出て、労働に加わる農民たちがその仕事と引き替えにそこから原野を灌漑するための水を引き込む井戸について述べている。木々は常時果実をたくわえ、そこで生育する穀物は他の地の穀物より見事なもので、雪よりも白い。時によっては一年に大麦の収穫が二回、キビの収穫が三回ある。住民たちは土地の小区画に夏の三日目と冬の六日目に水をやり、これによって土地は非常に越えた土壌になる。曇りはまれで、そうそう見られない。記録は以下のような感じである。著者が言うところでは、そのオアシスは以前は本土から離れた島で、ヘロドトスによって祝福された者の島と呼ばれているが、オルフェウスとムサイオスの伝記を書いたヘロドロスがファイアキス島と呼んでいる島だという。彼が説くところでは、まず、海の貝がテバイスからそのオアシスへと続く山の石にくっついているのが見つかるという事実のために、第二に三つのオアシスを満たす大量の砂のゆえにそれは島である。それというのも彼は我々に、それらのオアシスは三つあり、二つは大きく、それぞれ外側と内側にあって一〇〇里離れて互いに面している一方で、三つ目は小さくて他の二つとは非常に離れていると述べている。それが島であるというさらなる論述は、魚がしばしば見つかり、その魚は鳥によってそこへと運ばれて残りの魚は食べられるのであり、そのために海はそう遠くないという推論がなされている。ホメロスの家族はテバイスの人だったと著者は述べている。
 ホノリウスの一一回目の、コンスタンティウスの二回目の執政官期間〔417年〕にプラキディアの結婚が行われた。彼女自身はこれを非常に嫌がっており、このおかげでコンスタンティウスは彼女の一族に憤慨することになった。にもかかわらず彼の執政官職の初日に彼女の兄弟のホノリウス帝は彼女の手を取り、彼女は抵抗したにもかかわらずコンスタンティウスのところへと連れていかれて非常に豪勢な結婚式が執り行われた。彼らは二人の子供を儲け、それは娘のホノリアと息子のウァレンティニアヌスで、彼はプラキディアの切望でホノリウスの存命中にノビリッシムスの称号を受けた。後者の死と僭帝ヨハネスの鎮圧の後、ウァレンティニアヌスは皇帝になった。ホノリウスは気が進まないながらもコンスタンティウスを帝国の共同統治者として受け入れることに同意し、プラキディアは兄弟と夫からアウグスタの称号を受けた。ホノリウスの甥で東の皇帝だったテオドシウス〔二世〕にコンスタンティウスの即位を知らせる使節団が送られ、彼はそれを拒んだ。コンスタンティウスはもはや彼が楽しんでいた時間を持てず、娯楽の所に来れなくなり、彼の権威が通例の娯楽に耽溺するのを彼に禁じたたためにすぐに帝位に飽きた。これは彼の健康に深刻な影響を与え、六ヶ月間帝位にあった後に幻視が彼に現れてこのような言葉を彼に言った。「六が過ぎ、七が始まる」。彼は胸膜炎で死に、彼の死により、彼の即位を認めるのを拒否する怒号が起こった。東側で計画された攻撃は放棄された。ゴート族の王ワリアが死んでテオデリックが跡を襲った。
 著者は命辛々逃がれた海での様々な危機を述べている。船乗りからウラニアと呼ばれる驚くべき星〔幾人かの人たちによればセント・エルモの火(N)〕について話している間、彼は危うく水へと投げ落とされそうになって帆にずっしりともたれかかっていた。また彼は、二〇年間生きていて全ての人の行動をほぼ真似ることができたある舵手についても述べている。真似では歌って踊り、彼らの名前と同種のもので人々を呼んでいる。彼〔著者自身〕は情報収集のためにテーベとソエネに滞在した時にブェンミュエス人と呼ばれるタルミスの夷狄の酋長と予言者らが彼の名声のゆえに熱心に彼に会いたがっていたことも述べてもいる。彼曰く、「彼らはタルミスあたりまで私を連れていき、私はフィラエからプリマ呼ばれる都市に至るまで、五日分の旅程の距離にあるその地方を調べたはずである。これはテバイスの蛮地に一番近い都市であり、ここではローマ人から一番のもの、すなわちプリマと呼ばれており、フォイニコン、キリス、タピス、そしてタルミスの他の四つの都市が夷狄の手に落ちてから長らくたっているにもかかわらず、その名が未だに残っている」この地方で彼は、エジプト諸王のために宝石をふんだんに供給してきたエメラルドの鉱山があると聞いた。夷狄の予言者たちはそれらを調査するために彼を招いたが、王の許可なくして調査はできなかった。
 彼はアジア人で、ホノリウスとコンスタンティウスの治世下でラウェンナに現れた最も完璧な魔術師のリバニウスなる人についての驚くべき話も述べている。不可思議なことを起こせると彼は明言し、兵士の助けなしで夷狄に対してそれらを行うと約束した。試すために約束をした後、その報告はプラキディアの耳に届き、彼女はその魔術師と不信心者を取り除かなければ離婚するとコンスタンティウスに迫った。したがってリバニウスは殺された。コンスタンティウスはダキアのナイスス出身のイリュリア人で、テオドシウス大帝の時代から数多くの遠征に従事し、後に帝位に登った。これを機に貪欲でものを欲しがるようになったプラキディアとの結婚まで、多くの面で彼は称賛に値して気前の良い態度をとっていた。彼の死後、彼から財産面での被害を受けた人たちからの彼に対する数多くの陳情がラウェンナで提示された。しかしホノリウスの無関心とプラキディアの彼との親密さのおかげでそれらの陳情は無益なものになり、正義を行う権力は妨げられた。
 コンスタンティウスの死後、ホノリウスは彼の姉妹に惜しみなく愛情を注いだが、プラキディアの乳母で彼女が最も信頼していたスパドゥサとエルピディア、そして彼女の執事レオンティウスの陰謀に怒り、間もなく信用しなくなって憎むようになった。ラウェンナでは頻繁に暴動が起こり、アタウルフ及びコンスタンティウスと彼女の結婚の結果彼女の側についた多くの夷狄が頻繁に帝国の近衛隊を襲った。ついに争いは激化し、今や彼女の兄弟の彼女への愛に取って代わった憎悪の結果、プラキディアは歯が立ちそうもないと見て取ると、コンスタンティノポリスへと子供たちを連れて退いた。ボニファキウスただ一人が彼女に忠実であり続け、彼が統治者となっていたアフリカからできるだけ金を彼女に送り、彼の力の範囲であらゆる奉仕をした。またそれから彼は彼女が帝位を得られるよう支援した。
 ホノリウスは八月の二七日に水腫で死に、この知らせは東方に送られた。その一方、ヨハネスなる者が帝位を奪取した。彼の就任が起こった間、あたかも神託で言われるかのようなこのような声が聞こえた。「彼は逝き、彼は立たぬ」そこで人々はあたかもつづりを崩して「彼は立ち、彼は逝かぬ」と叫んだ。
 ボニファキウスは英雄的な軍人で、夷狄との戦いにおいてはある時は大軍で、ある時は寡兵で、またある時は一度の交戦でしばしば見事な働きをした。つまり、彼は多くの夷狄の諸族からアフリカを完全に解放したわけである。彼は正義を愛し、富を蔑んでいた。
 ローマの各々の大きな家はそのよく整えられた都市での全ての利便性をもたらすもの、競馬場、広場、寺院、泉、そして浴場をその中に含んでいたと著者は述べている。このことは彼をしてこう主張せしめた。「一つの家は町であり、一つの都市は一〇〇〇〇個の町である」大規模な公共浴場もあり、アントニニアナエと呼ばれたその浴場には入浴者の便のための一六〇〇個の席があり、磨き上げられた大理石でできていた。ディオクレティアナエと呼ばれる浴場にはその二倍の席があった。幾何学者アンモンの測定によれば、ローマの城壁はゴート族の最初の劫掠の頃には円周二一マイルだった。
 多くのローマの家族は穀物と葡萄酒と他の産品、上記の量の三分の一の量に等しい塩を〔除外して〕述べなければ、年毎におよそ金四〇ケンテナリア〔100ローマ・ポンドに相当する重さの単位〕、すなわち一六万ポンドゥスの量に財産に応じた手当を受けていた。その次の階級の家族は次に一五か一〇ケンテナリア、すなわち六〇〇〇〇から四〇〇〇〇ポンドゥスの手当を受けた。オリュンピウスの息子で、ヨハネスの僭主時代には首都長官だったプロブスは一二ケンテナリアの金、すなわち四八〇〇〇ポンドゥスを使った。ローマが落ちる前、弁論家でほどほどの身分の元老院議員シュンマクスと、豊かな市民の一人の某マクシムスは二〇ケンテナリア、つまり八〇〇〇〇ポンドゥスと四〇ケンテナリア、つまり一六万ポンドゥスをそれぞれの息子が法務官だった頃に使った。法務官たちによって提供された見世物は一週間続いた。
 著者は、オデュッセウスの放浪の舞台はシケリア沿岸ではなくイタリアのもっと先の沿岸であり、大洋を渡った後に彼はハデスに下りてその海で多くの危険な冒険をしたと述べている。以上が彼が様々な論証によって裏付けようと試みた見解である。私は彼に賛同する他の多くの著者の著作を読んだ。
 プラキディアはテオドシウスにより僭帝ヨハネスに対抗するためにコンスタンティノポリスから子供たちと一緒に送り返された。彼女はアウグスタの称号を、ウァレンティニアヌスはノビシッリムスの称号を承認された。彼らはアスパルの息子アルダブリウスとカンディディアヌス指揮下の歩騎の両軍に付き添われた。テッサロニカで、テオドシウスによって送られていた官房長官ヘリオンが僅か五歳のウァレンティニアヌスに帝王用の上着を着せた。帰路でアルダブリウスはヨハネスの兵に捕らえられて僭帝のもとへと連行され、彼らは友好的な間柄になった。その間に彼の息子アスパルとプラキディアは悲嘆と不安に打ち負けたが、カンディディアヌスは多くの町を占領して名高い大物に勝利したことによって彼らの悲嘆を晴らし、彼らの心を元気づけた。僭帝ヨハネスは殺され、プラキディアが副帝の息子と共にラウェンナに入った。官房長官でパトリキウスのヘリオンはローマを手中に収め、殺到したたくさんの人々の真っ直中でウァレンティニアヌスに帝王の上着を着せた。この時点でこの歴史書は終わる。



82. デクシッポス『歴史提要』
 四巻のデクシッポス〔の史料〕によって、アレクサンドロス大王の死後に起こった出来事の歴史書を読んだ。また、彼の歴史書の梗概、編年史はクラウディウス〔二世ゴティクス〕の時代にまでのものである。また、スキュタイ人〔正確にはゴート人〕とローマ人の戦争と他の重要な事を記述している彼の『スキュティカ』も読むべきである。彼の文体には余分なもの、厳粛さ、そして威厳がない。彼の方がより明晰に書いているものの、彼は第二のトゥキュディデスと呼べるだろう。彼の特質は主に最後に言及された作品〔『スキュティカ』〕において示されている。
 アレクサンドロス死後の出来事についての彼の記録において、彼はいかにして王権がアレクサンドロスの兄弟で、マケドニアのフィリッポス〔二世〕とラリサのフィリンナの息子であるアリダイオスのものになったのかを述べている。いまだ生まれぬアレクサンドロスとロクサナの子〔アレクサンドロス四世〕は男児であり、マケドニア人によって帝国の諸事を取り仕切るよう選ばれたペルディッカスと共に、アリダイオスと共同統治することになった。アレクサンドロスの帝国の分割。アジアでは、プトレマイオス・ラゴスがエジプト、リビュア、そしてエジプトに隣接する地域の支配権を獲得し、アレクサンドロスによってその地方の太守任じられていたクレオメネスが彼の下につけられた。ミュティレネのラオメドンがシュリアを、フィロタスがキリキアを、ピトンがメディアを、エウメネスがカッパドキア、パフラゴニア、そしてトラペゾスまでの黒海沿岸を、アンティゴノスがパンヒュリアとフリュギアまでのキリキアを、アサンドロスがカリアを、メナンドロスがリュディアを、レオンナトスがフリュギア・ヘレスポントスを獲得した。ヨーロッパでは、リュシマコスがトラキアとケルソネソスを、アンティパトロスがマケドニア全域、ギリシア、イリュリア、そしてトリバッロイ人とアグリアネス人の地方、そして彼がアレクサンドロスの時代から単独の将軍に任じられていた本土の全域を手に入れた。王国の諸事と防衛の責務はクラテロスに委ねられた。ペルディッカスは、マケドニア人のうちで最高の権威であったヘファイスティオンのものだったキリアルコスの地位を得た。
 ポロスとタクシレスはインドの支配者であり、ポロスにはインドス川とヒュダスペス川の間の地域が、タクシレスにはその残りが割り当てられた。ピトン〔前述の同名人物とは別人〕はパラミサデスを除く隣接する人々の地方を受け取った。コーサカス山脈に近い地域とインドと境を接する地域は、アレクサンドロスとも呼ばれた〔大王の〕息子を父の死後生んだロクサナの父で、バクトリア人のオクシュアルテスに与えられた。シビュルティオスはアラコシア人とゲドロシア人を、ソロイのスタサノルはアレイア人とドランギアナ人を、フィリッポスはソグディアナ人を、ラダフェルネスはヒュルカニア人を、ネオプトレモスはカルマニア人を、ペウケステスはペルシア人を支配した。オロピオスがソグディアナの支配者になったが、それは父からの相続ではなく、アレクサンドロスの好意によるものであった。反乱の結果彼は告発されて彼の王国を失うことになると脅され、フィリッポスとの共同でそれを保持した。バビュロンはセレウコスに、メソポタミアはアルケラオスに与えられた。このようにしてアレクサンドロスの死後ペルディッカスによって地域とそれらの支配者が分配された。このことと話の他の部分において概してデクシッポスはアリアノスと一致している。



83. ハリカルナッソスのディオニュシオス『歴史』
 ハリカルナッソスのディオニュシオスの二〇巻の歴史書を読んだ。彼はトロイア占領後のアエネアスのイタリア到着から初めてローマの建設、ロムルスとレムスの誕生、ローマ人とエペイロス王ピュロスとの戦争までの他の出来事について詳細に述べている。その著作は一二八回目のオリュンピア紀で終わっており、著者はメガロポリスのポリュビオスの歴史書がそこから始まると述べている。ディオニュシオスはアウグストゥス時代に活躍し、彼は自分はアントニウスとアウグストゥスの内戦終結後にイタリアへと渡ってそこで二二年間暮らしたと我々に述べている。この時代に彼はラテン語とローマの古典の正確な知識を得て、それらによって自らを武装することで歴史書を書いた。彼の文体と語句選択は新機軸を示しており、それは踏み均された道を外れた語り口であるが、彼の詳述への好みは情感を単純にしており、そのようなわけでその言語表現は荒さと不快感さに押し流されていないかのようである。彼は読者の気を楽にして歴史に辟易させないようにし、読者を爽快にして再び活性化させるような余談を好んでいる。つまり、文体の優雅さ、詳述と余談の混合が峻厳になりがちな構成を優しくしているのである。



84. ハリカルナッソスのディオニュシオス『歴史の概略』
 同じ著者の五部構成の二〇巻以上の『概略』も読んだ。この本での彼の文体は心地よさに劣らず品があり、同時にこの著作は絶対に必要なこと以外何も挿入されていないためにより有用である。彼の文体は簡潔で冗長さを免れており、彼は文法法則の設定にあたっては王と言われてもよかろう。彼の構成と言葉使いは聞く者の耳に幾分かいっそう厳しい調子で届く音を送ってくる。彼の流儀は概略には不適当なだけでなく、完全で完璧な歴史のためには決して採用されないものでもある。著者が生きたのはディオン・コッカイオスとこれまたローマ史を書いたアレクサンドレイアのアッピアノス以前であることは明らかである。



90. リバニオス
 リバニオスの二巻本を読んだ。演説の実演をするために書かれた著者の想像上の演説は残りのものより有用である。後者の過剰な技巧と過度な精密さはそれらの持ち味、言うなれば同時にある品と魅力を損なっており、それらの明瞭さを破壊している。挿入句、そして時折不可欠なことを無視することによって甚だしい曖昧さが生じてもいる。他の面で彼はアッティカ調の戒律と流儀である。彼の書簡もかなりの評価を持っている。異なった種類の他のいくつかの作品もまた彼に帰されている。



92. アリアノス『続き』
属領の第一次分割
 同じ著者〔アリアノス〕は一〇巻の本でアレクサンドロス没後に起こったことについても書いている。彼は軍内での扇動、ロクサネの子供が生まれた暁には、それが男児ならば彼と王位を共有するというアリダイオス(アレクサンドロスの父フィリッポスとフィリンナという名のトラキア女との息子)の布告を述べている。そこでアリダイオスは再びフィリッポスの名を宣された。歩兵と騎兵の間で論争が起こった。長官であり、後者〔騎兵〕のうちで最も影響力のある指揮官たちはオロンテスの子ペルディッカス、アンテスの子レオンナトス、ラゴスの子プトレマイオス、アガトクレスの子リュシマコス、ピサイオスの子アリストヌウス、クラテロスの子ピトン、アンティオコスの子セレウコス、そしてカルディアのエウメネスであった。メレアグロスは歩兵の指揮権を持っていた。彼らの間で連絡が取られ、ようやく、すでに王を選んでいた歩兵と騎兵との間で、アンティパトロスをヨーロッパ軍の将軍とし、クラテロスがアリダイオスの王国の面倒を見て、ペルディッカスがヘファイスティオンのものであった兵士のキリアルコス〔千人隊長〕になって全帝国の監督を委ねられ、そしてメレアグロスが彼の副官になるということで同意にこぎつけた。ペルディッカスは閲兵して騒動の首謀者を逮捕し、あたかもアリダイオスが命じたかのように彼の臨席の下で処刑した。これは残りの者に恐怖を引き起こし、メレアグロスはそれから間もなく殺された。この後ペルディッカスはあまねく猜疑を買い、彼自身の方でもあらゆる人を疑った。にもかかわらず、あたかもアリダイオスが彼に命じたかのように彼は様々な属領の統治権を任命した。ラゴスの子プトレマイオスは、アレクサンドロスの下で代理として前のエジプトの支配者だったクレオメネスと共に以前と同じようにエジプトとリュビア、そしてエジプトと接するアラビア地方の支配者に任じられた。隣接するシュリア地方はラオメドンに、キリキアはフィロタスに、メディアはピトンに、カッパドキア、パフラゴニア、そしてトラペゾス(シノペからのギリシア人の植民地)までの黒海沿岸地方はカルディアのエウメネスに、パフラゴニア、リュキア、そして大フリュギアはアンティゴノスに、カリアはカッサンドロスに、リュディアはメナンドロスに、ヘレスポントスのフリュギアはレオンナトスに与えられた。このフリュギアは以前はアレクサンドロスによってカラスなる者に与えられ、次いでデマルコスに委ねられたものである。アジアの分割はこのようにされた。
 ヨーロッパは、トラキアとケルソネソス、黒海のサルミュデッソス辺りまでのトラキアの境界地帯とトラキアより先、イリュリア人、トリバッロイ人までの地域が一緒にリュシマコスに与えられた。そしてアグリアネス人、マケドニア本土、山脈あたりまでのエピロス、そしてギリシア全域はクラテロスとアンティパトロスに与えられた。ヨーロッパの分割は以上のようであった。アレクサンドロスとの約定によって同時にいくつかの属領は現地の支配者の下に置かれ続け、分割を受けなかった。

後継者たちの対外戦争
 一方でロクサナは男児を生み、彼はすぐに兵士から歓呼の声を以って王として認められた。アレクサンドロスの死後、多くの争いが起こった。アンティパトロスはレオステネスに率いられたアテナイ人とその他のギリシア人との戦争へと向った。当初彼は敗れて酷い窮地に陥ったが、その後勝利を得た。レオンナトスが救援に駆けつけたが、戦死した。リュシマコスもまた無謀にも優勢な兵力のトラキア人セウテスと戦い、彼の兵士は名を馳せたにもかかわらず敗れた。ペルディッカスもまたカッパドキアの王アリアラテスがエウメネスに彼のものされていた自身の王国を譲ることを拒絶したために彼との戦争を行った。ペルディッカスは二度の戦いでアリアラテスを破って捕虜とし、彼を絞首刑にしてエウメネスを復権させた。クラテロスはギリシア人に対してアンティパトロスの助けに向かってその撃破に大いに貢献し、その後ギリシア人は躊躇せずにクラテロスとアンティパトロスに服属した。以上が最初の五巻の内容である。
 第六巻はデモステネスとヒュペレイデス、マラトンのアリストニコスとファレロンのデメトリオスの兄弟ヒメライオスがいかにしてアイギナへと逃げ、そしてその間デマデスの動議でアテナイ人によって死を宣告され、アンティパトロスが判決を実行に移したのかを述べている。いかにして彼らを処刑したトゥリオイ人アルキアスが極度の貧困と不名誉で死を向かえたのか。いかにしてデマデスがマケドニアへとすぐに送られ、そこで彼の息子がカッサンドロスの武器によって殺された直後に彼によって殺されたのか。カッサンドロスは処刑の際デマデスは一度父アンティパトロスを侮辱しており、彼はペルディッカスに宛てた手紙の中で古く腐った糸にすがりついているギリシア人を助けるようペルディッカスに要請し、アンティパトロスを口汚く罵ったと主張した。コリントスのデイナルコスは賄賂、裏切り、そして欺瞞の廉で罰金を支払ったデマデスの原告であった。
 著者はアレクサンドロスが生きていた間に彼のものであった金を盗んでアテナイへと逃亡したハルパロスがいかにしてラケダイモン人ティブロンに殺されたのかについても述べている。ティブロンは残りの金の全てを手にしてクレテ島のキュドニアへと向かい、キュレネとバルカからの亡命者からの要望でそこから六〇〇〇人の兵士と共にキュレネへと渡った。多くの戦いと相互の陰謀の後、彼はある時は成功を収め、ある時は失敗し、最終的には逃亡の際にリビュアの騎兵によって捕らえられ、ラゴスの息子プトレマイオスがキュレネ人を助けるために送っていたマケドニア人のオフェリアスに委任されていたテウキラのオリュントスの人エピキュデスに引き渡された。オフェリアスの許可の下でそこの住民はまずティブロンを拷問にかけ、次いでキュレネの港へと縛り首にするために送った。しかしキュレネ人はまだ彼らの反乱に固執していたため、プトレマイオスは直々にその地を訪れ、秩序を回復した後、再び帰国した。

ペルディッカスと諸将との不和と戦争
 ペルディッカスはアンティゴノスへの陰謀を企んで裁判のために彼を呼んだが、アンティゴノスは陰謀を悟って出頭を拒否した。これによって彼らの間で反目が生まれた。同時にイオラスとアルキアスがアンティパトロスの娘のニカイアを連れてマケドニアからペルディッカスのところへと来て結婚の提案をした。アレクサンドロス大王の母オリュンピアスもまた彼に手紙を送り、娘のクレオパトラとの婚約を申し出た。カルディアのエウメネスはクレオパトラを支持していたが、〔ペルディッカスの〕弟のアルケタスはニカイアを受け入れるよう説得した。すぐ後にキュナネはペルディッカスとその弟アルケタスに殺された。このキュナネはアレクサンドロスの父フィリッポスの娘で、母はアレクサンドロスがアジアに出発する直前に処刑したアミュンタスの妻のエウリュディケであった。このアミュンタスはフィリッポスの兄ペルディッカスの息子で、そのためにアレクサンドロスの従兄であった。キュナネは娘のアデア(後にエウリュディケと呼ばれる)をアジアに連れてきており、アリダイオスに結婚を申し込んだ。かくしてキュナネの死で起こった兵士の憤激を宥めようとしたペルディッカスの支持を得て結婚が成った。一方でアンティゴノスはマケドニアにいるアンティパトロスとクラテロスのところへと逃げ込み、彼らにペルディッカスの自身に対する陰謀を知らせ、同様の全ての企みを明言した。また彼はキュナネの死も述べ、ペルディッカスに対する戦争をするよう誇張を交えて説得した。アレクサンドロスの遺体を保存していたアリダイオスはペルディッカスの希望に反してバビュロンからダマスコスを経由してエジプトの、ラゴスの子プトレマイオスのところまで運んだ。そしてしばしばペルディッカスの友人のポレモンから旅路を妨害されたものの、目論みを成功させた。
 一方エウメネスはペルディッカスがニカイアを拒絶してクレオパトラと結婚することを決めたため、サルデスでペルディッカスからクレオパトラへの贈り物を持ってきた。このことがリュディアの支配者メナンドロスによってアンティゴノスに知るところとなると、アンティゴノスはアンティパトロスとクラテロスに知らせ、彼らはついにペルディッカスとの戦争を決心した。アンティパトロスとクラテロスは前もってその通路を守っていた者を騙すために使者を送り、ケルソネソスを出発してヘレスポントスを渡った。彼らはペルディッカスを支持していたエウメネスとネオプトレモスにも使者を送り、ネオプトレモスは彼らの側についたが、エウメネスは拒絶した。
 ネオプトレモスはエウメネスから疑われたため、彼らの間で戦争が起こってエウメネスが勝利した。ネオプトレモスは少数の兵士と共にアンティパトロスとクラテロスのところへと逃げ、後者を彼に協力するよう説き伏せるのに成功した。両者はエウメネスとの戦争に踏み切った。エウメネスはクラテロスの影響力の大きさのために自身の部下が彼を見捨てるか、あるいは彼への忠誠を維持したとしても意気が萎えるのではないかと心配し、彼らに彼と戦っているのがクラテロスだと知られないように最善を尽くした。計略はうまくいき、戦いでも彼はうまくいった。ネオプトレモスは勇敢な戦士と指揮官であることを証明した後に「書記官」エウメネスの手で討ち取られた。自身に対峙していた全ての者と戦い、自分のことを明らかに知らせようとしたクラテロスは帽子を脱いだにも関わらず彼だと気付かれる前に数人のパフラゴニア人に殺された。しかし歩兵は逃げてアンティパトロスのところへと戻って彼を相当に安心させた。
 ペルディッカスはダマスコスから出発してラゴスの子プトレマイオスとの戦争を行い、王と大軍と共にエジプトに到達した。彼は公然と潔白であったプトレマイオスに対して多くの告発を行い、そのためにその告発は正当な根拠がないように見えた。ペルディッカスは彼の兵の反対にもかかわらず戦争へ踏み切った。彼は二度敗れ、プトレマイオスに靡いた者を余りにも酷薄に扱ったため、他面では一将軍の域を超えて傲岸に振る舞ったため、戦いの最中に部下の騎兵に殺害された。彼の死後プトレマイオスはナイル川を渡って王たちを訪ね、贈り物を渡して彼らを実に親切且つ丁重に扱い、他のマケドニア人の高官たちに対しても同様にした。同時に彼は公然とペルディッカスの友人たちへの同情を示し、恐怖していたマケドニア人たちの恐れを宥めるのに全力を尽くし、そのためにすぐにそしてそれ以降彼は非常に尊敬されるようになった。

属領の第二次分割
 戦争に関する総会議においてピトンとアリダイオスがその時の全軍の総司令官に任命されたが、エウメネスとアルケタスの支持者五〇人が主としてクラテロスを内乱で殺したために告発された。アンティゴノスがキュプロスから召喚され、アンティパトロスは全速で王たちのところに向うよう命じた。彼らが到着する前にエウリュディケはピトンとアリダイオスが彼女の許可なく何かしらのことをすることを許さなかった。最初彼らは異議を唱えなかったが、後になって彼女は公的な問題に口を挟むべきではなく、彼らでアンティゴノスとアンティパトロスが到着するまでは万事を処理すると彼女に言った。彼らが到着すると、アンティゴノスが総司令官に就いた。軍が遠征の分の約束されていた給与支払いを求めると、アンティパトロスは金がないが、彼らの非難を避けるために徹底的に宝物と金が隠されていそうな他の場所を探すつもりだと率直に答えた。その言葉は軍の不興を買った。エウリュディケがアンティパトロス弾劾に加わると、人々は憤慨して騒擾が起こった。そこでエウリュディケは、秘書のアスクレピオドロスの助力を受けてアッタロスに補佐され〔て書い〕た彼を弾劾する演説をぶちあげた。アンティパトロスは辛うじて逃げおおせ、彼の懸命な要望でアンティゴノスとセレウコスが彼のために人々に命がけで呼びかけた。このようにしてアンティパトロスは市を逃れて自身の軍のところまで退却し、そこで騎兵指揮官たちを召還し、苦労しながら騒擾を沈めた後、再び彼の指揮下に置き直した。
 次いで彼はアジアを分割し、一部は前任者をそのままにして一部は必要に応じて挿げ替えた。エジプトおよびその背後に広がる広大な地域、そしてそれ以西の征服地の全域はプトレマイオスに、シュリアはミュティレネ人ラオメドンに、キリキアは以前そこを担当していたフィロクセノスに与えられた。高地地域はメソポタミアとアルベリティスが王の兄弟アンフィマコスに、バビュロニアがセレウコスに与えられた。マケドニアの銀楯隊の指揮官で、ペルディッカスを最初に攻撃したアンティゲネスにいはスシアナの全域が、ペウケステスにはペルシアが、トレポレモスにはカルマニアが、ピトンにはカスピ門までのメディアが、フィリッポスにはパルティアが、スタサンドロスにはアレイア人とドランギアナ人の土地が、ソロイのスタサノルにはバクトリアとソグディアナが、シブルティオスにはアラコシアが、ロクサナの父オクシュアルテスにはパラパミソスが、アゲノルの子ピトンにはインドのうちパラパミソスに隣接する部分が与えられた。隣接する諸州のうち、インドス川流域の諸州およびインドのその地方最大の都市パタラはポロス王に、ヒュダスペス川流域はインド人タクシレスに与えられ、それは彼らの統治がアレクサンドロスによって承認され、彼らの力は非常に増大していたために彼らを挿げ替えることが容易ならざることであったためである。タウロス山以北の地方に関しては、カッパドキアはニカノルに、大フリュギア、リュカオニア、パンヒュリア、そしてリュディアは以前通りアンティゴノスに、カリアはアサンドロスに、リュディアはクレイトスに、ヘレスポントスのフリュギアはアリダイオスに割り当てられた。アンティゲネスはスサ地方の歳入の徴収を任命され、反骨の傾向があった三〇〇〇人のマケドニア人〔銀楯隊〕が彼と共に送られた。王の護衛としてアンティパトロスはアガトクレスの子アウトリュコス、アレクサンドロスの子でペウケステスの兄弟アミュンタス、プトレマイオスの子プトレマイオス、そしてポリュペルコンの子アレクサンドロスを任命した。彼は実子カッサンドロスを騎兵の千人隊長に任命し、一方でアンティゴノスは以前はペルディッカスの下にいた軍の指揮権、王の世話と監督並びにアンティゴノス自身の要望で対エウメネス戦争を終結させる仕事を受領した。アンティパトロスは彼が成した全ての事への全般的な賛意を得た後、帰国した。これをもって九巻目は終わる。
 一〇巻目はペルディッカスの身に起こったことを聞き、そしてマケドニア人によって敵と宣言された後にエウメネスがいかにして戦争の準備をしたのか、ペルディッカスの弟アルケタスがいかにして彼と共に逃げ延び、またアンティパトロスに対する反乱の首謀者の一人であったアッタロスがいかにして一〇〇〇〇人の歩兵と八〇〇騎の騎兵と共に逃亡者らと合流し、アッタロスと彼の兵がいかにしてクニドス、カウノス、そしてロドスを攻撃したのかを述べている。デマラトス提督の指揮下にあったロドス人は彼らを完璧に撃退した。エウメネスはサルデスへのアンティパトロスの到着に際して彼に打撃を与えるべくそのすぐ近くまで来たが、アレクサンドロスの姉クレオパトラはマケドニア人から戦争の原因であるとして弾劾されないようにするためにサルデスを去るようエウメネスを説得した。にもかかわらずアンティパトロスはエウメネスとペルディッカスとの友情のために彼女を罵った。彼女は女性に期待される以上の力強さでもって自己弁護して彼に反撃し、最終的に平和的に別れた。エウメネスは彼の権威を認めない者たちへと奇襲をかけて大量の戦利品と資金を集め、それらを兵士たちに分配した。また彼はアルケタスと彼の友人たちへと全戦力を一か所に集めて共通の敵と一致団結して戦うことを要請する使者を送った。しかし意見の相違が彼らの間に起こり、結局彼らはそれを拒絶した。アンティパトロスは今のところは敢えてエウメネスとは交戦しようとはせず、アサンドロスをアッタロスとアルケタスへと差し向けた。決着が不分明なままに長く続いた戦いの後にアサンドロスは破れた。カッサンドロスはアンティゴノスと対立していたが、父アンティパトロスの命令で敵意を捨てた。にもかかわらずカッサンドロスは父とフリュギアで会った時に王たちからあまり離れすぎないようにしてアンティゴノスを見張り続けるようよう忠告した。しかし後者は大人しい振るまい、礼儀正しさ、そして良き資質によって可能な限り全ての疑いを晴らした。宥められたアンティパトロスは彼にアジアへと自らと共に渡った軍勢――マケドニア人歩兵八五〇〇人と同数の外国人騎兵、並びに象の半分(七〇頭)――の指揮権をエウメネスとの戦争に決着をつけるのを支援するために与えた。かくしてアンティゴノスは戦争を開始した。アンティパトロスは王たちと残りの軍と共にマケドニアへと渡ろうとしたが、軍は再び騒擾を起こして給与支払いを求めた。アンティパトロスはアビュドスに着いた時に給与を払うつもりであり、あるいは全額がなかったとしても少なくともその大部分を支払うと約束した。したがって彼らの希望を掻き立てて彼は何の障害もなくアビュドスに到着したが、兵士を騙してしまったために夜に王たちと一緒にヘレスポントスを渡ってリュシマコスのところへと向かった。翌日には兵士たちも渡ってきて、当座はこれ以上給与支払を求めようとはしなかった。ここで一〇巻は終わる。
 この著者は右に出る者のない優れた歴史著述家である。彼の語り口は簡潔で非常に力強く、時宜を失した余談や挿入節によって話の連続性を損なうようなことをしていない。彼はこれ以上簡潔に、そして理解しやすく物語ることができないような仕方で使っている言い回しにおいてよりも言葉の配列で真新しいことをした。彼の文体は明瞭で心地よく、そして簡潔であり、滑らかでそして巧い繋ぎ方によって特徴付けられる。彼の言葉遣いの真新しさは単なる不自然な細工ではなく、明確で強固、そして真正の演説の特徴を持っており、ありきたりな語の単なる変更ではない。その結果、この点に関して明晰さのみならず、技巧、順序、そして分かりやすさの芸術的な本質をなす語り口の自然さが保たれている。明瞭な終止符は専門家でもない人たちによってさえ使われており、これが何によっても和らげられることなくなされるならば文体は退屈とつまらなさへと退歩してしまうし、彼の明晰さにもかかわらず我々の著者の筋道はなくなってしまう。彼は終止符だけでなく語の省略も用いており、そのために省略された点は見分けがつかない。書き落とされているものを補おうという試みは不必要な付加となる向きがあり、本当に隙間を満たすことにはならないだろう。彼の修辞的特徴の多様さは素晴らしいものである。それらは単純な形と語用法からそう直ちに逸れてはいないが、始点から徐々に複雑になっているそのために飽きによって興を殺がず、突然の変化による混乱ももたらさない。つまるところ、彼を他の歴史家たちと比較する人は多くの古典的著作は構成において彼のそれより劣っていることを見て取ることだろう。



93. アリアノス『ビテュニア史』
 ビテュニアの神話的そして通史の詳細説明がある〔先の項目で紹介した本と〕同じ著者の八巻のビテュニア史を読んだ。それは彼の故郷の歴史であり、愛国的な献呈となっている。というのもそれは、彼は我々にこの著作において自分がニコメディアで生まれ育って教育を受け、そしてデメテルとその娘〔ペルセフォネ〕の神官の職であり、その都市は彼女らに捧げられていたことを明確に述べているためである。彼はシュラクサイとシケリア全土を一人目のディオニュシオス〔一世〕の息子であった二人目のディオニュシオス〔二世〕とディオニュシオス〔二世〕が自身の僭主制を支えるために呼び込んだ夷狄〔カルタゴ軍〕から解放した人たち、つまりコリントス人ティモレオンのシケリアでの事績、シュラクサイ人ディオンの記憶に値する事績といった他の主題についての彼の様々な著作に触れている。アレクサンドロス大王、ティモレオン、そしてディオンの歴史の後に書かれたため、彼の地域の歴史は彼が書いた四つ目の著作であった。確実なことにこの主題を扱おうと思った著述活動に最初に専念した時からこの作品は資料の不足のために完成までにしばらく時間がかかった。最終的にこれがその作品の遅延の理由であった。彼は言われるところでは神話時代から初め、タルクィニウス廃位以来王を戴かなかったローマ人に死後に王国を渡した最期のニコメデス〔四世〕の死〔紀元前74年〕までを扱った。



97. トラレスのフレゴン『年代記集成とオリュンピア祭優勝者の一覧』
 ハドリアヌス帝の解放奴隷、トラレスのフレゴンによる『年代記集成及びオリュンピア祭の優勝者の一覧』を読んだ。この著作は皇帝の近衛兵隊の一員、アルキビアデスなる人に献呈されている。他のほぼ全ての著者が認めるように、より以前の年代の慎重で正確な記載がなく、異なった著者たちが異なったことを言っており、それらについての著作に信憑性を望まれがちな人たちすら自己矛盾をしているためにこの本は第一回目のオリュンピア会期〔紀元前776年〕から始めている。我々が述べたように、このために著者は第一回目のオリュンピア会期から初めて、彼自身が言うところではハドリアヌスの時代まで下る。
 私はミレトスのヘカトムノスがスタディオン走とディアウロス走で、そして鎧を着た競争で三度目の優勝者になり、シキュオン人ヒュプシクレスとローマのガイウスが長距離走で、コスのアリストニュミダスが五種競技で、アレクサンドレイアのイシドロスが格闘で、アプトトスが四大競技で、ヒポクラテスの息子でアドラミュッティオン生まれのアテュアナスが拳闘で、シキュオン人スフォドリアスがパンクラティオンで優勝者になった一七七回目のオリュンピア会期〔紀元前79-72年〕まで読んだ。若者のうちでアジアのソシゲネスが〔徒〕競争で、キュパリッソスのアポロニオスが格闘で、エリスのソテリコスが拳闘で、エリスのガラスがパンクラティオンで、それと同じ日にかつてスタディオン走とディアウロス走と鎧を着た競争で三度冠を得たミレトスのヘカトムノスが鎧を着た競争で、エリスのアリストロコスが四頭立て戦車競争で、エリスのハゲモンが競馬で、エリスのヘラニコスが二頭立てと四頭立て戦車競争で、エリスのクレティアスが二頭立て〔戦車競争〕で、ペリオンのカリッポスが競馬で優勝した。
 その頃にルクルスがアミソスを包囲していたが、ムレナを二個軍団と一緒に包囲のために残して自らは他の三個軍団を連れてカビラ人の領地へと向かい、そこで越冬に入った。また彼はすでに破れていたミトリダテスとの戦争を行うようハドリアヌスに命じた。ローマの地震は大きな被害をもたらし、このオリュンピア会期には他にも多くの出来事が起こった。この三年目に調査によれば〔ローマの〕人口は九一万人だった。パルティア人の王シナトルケスの後をフラアテス〔三世〕・テオスが、エピクロス派のファイドロスの後をパトロンが襲った。ウィルギリウス・マロがこの年の一〇月一五日に生まれた。このオリュンピア会期の四年目にティグラネスとミトリダテスは四〇〇〇〇人の歩兵と三〇〇〇〇騎の騎兵を集めて戦闘隊形でローマ軍目指して向かい、ルクルスと戦って破れた。ティグラネスは五〇〇〇人を失い、雑多な人々と多くの兵が捕虜になった。カトゥルス〔クイントゥス・ルタティウス・カトゥルス〕はローマのカピトリヌスに〔戦利品の一部を〕捧げた。メテルス〔クイントゥス・カエキリウス・メテルス〕はクレタ島へ向けて三個軍団を連れて出発してその島を占領した。ラオステネスを破って住民を城壁の中へと封じ込めると、彼はインペラトルの称号で讃えられた。海賊アテノドロスがデロス島の人々を奴隷にしていわゆる神々の図像を辱めたが、ガイウス・トリアリウスが市の被害を受けた区画を修繕し、島を要塞化した。
 我々はこの五巻本をこのオリュンピア会期まで読んだ。著者の文体はあまりにもつまらなく平凡なものというわけではないが、アッティカ流の文体を常に保っているわけでもない。しかしこの上なく勤勉ではあるが時機を失したオリュンピア会期を勘定する脱線、優勝者と彼らの競技の名前の一覧、そして神託についての説明は、一別して脇によけた上で現れることを許さないものであるために読者をうんざりさせて言葉を不愉快にしているだけでなく、全ての魅力を奪い取ってもいる。また彼は全ての種類の神託に甚だしい重要性を持たせてもいる。



 国庫管理官の督軍ゾシモスの六巻の歴史書を読んだ。不敬虔な異教徒であったために彼は頻繁に真の信仰を持った人たち〔キリスト教徒〕への非難を声高に叫んでいる。彼の文体は簡潔で明瞭、上品であり、魅力に欠けてない。彼は歴史書をだいたいアウグストゥス時代から始め、ディオクレティアヌスまでの皇帝には布告と継承の順番しか述べずに駆け足で触れている。彼は〔二巻からの〕五巻でディオクレティアヌスとそれ以降の後継者たちについてより長く扱っている。最初の巻はアウグストゥスからディオクレティアヌスまでの皇帝のことが収められ、第六巻はアラリックがローマを二度包囲して市民が絶望的な窮地に立たされ、包囲を解いてアッタルス帝を皇帝として宣言した時で終わっている。すぐ後にアラリックはアッタルスをその無能さのために退位させ、ラウェンナにいたホノリウスに講和を提案する使節を送った。しかしゴート人であり、アラリックの敵手であったサルスはおよそ三〇〇人を率いてホノリウスに接近し、アラリックへの抗戦では全力を尽くして彼を支援すると約束したが、交渉は失敗した。ここで第六巻は終わる。
 ゾシモスは歴史書を書いたのではなく、エウナピオスの歴史書を写しただけであり、それらには簡潔さとスティリコへの罵倒の少なさしか違いがないと言われるだろう。他の点に関して彼の説明、とりわけキリスト教徒の皇帝への攻撃は全く同じである。私は最初の版を見たことがないものの、両著者は新しい編集をし、エウナピオスのように彼は第二版を出版したのであり、そのことは私が読んだ「新版」の題名から推測されるだろうと私は考えている。我々がすでに述べたように、彼はエウナピオスよりより明瞭で簡潔であり、めったに修辞表現を使っていない。



 ヘロディアヌスの八巻本の『歴史』を読んだ。彼はマルクス・アスレリウスの死から初め、彼の息子で後継者のコンモドゥスが完全に堕落して完璧にごますり屋たちの影響下にいたことを見せつけたためにラエトゥスとエクレクトゥスの陰謀の結果として情婦のマルキアに殺されたという次第を述べている。ペルティナクスという高邁な性格の老人が彼の跡を襲った。しかし徳を憎悪していた親衛隊は宮殿で彼を殺した。親衛隊を買収して帝位を得たユリアヌスは間もなく彼らに殺された。令名高い人物といった風であったニゲルが皇帝に宣言された間もユリアヌスはまだ生きていた。鋭く機転が利き、抜け目がなく、危機の際には決断力があったセウェルスが競合者を破って殺すと帝位へと上り、あけすけな暴力と謀略によって抵抗勢力の全てを消し去った。彼はこの上なく横柄に臣民を扱った。彼はブリトン人との戦争の最中に病死した。彼の二人の息子のうち年長の方のアントニヌス〔カラカラという名の方が有名であろうか〕は彼らと協定を結んでイタリアへと帰った。彼はしぶしぶ弟のゲタを帝国の共同統治者として受け入れ、彼を間もなく母の腕の中で殺した。彼は悪徳と残忍さで全ての人を上回ろうとしていたため、皇帝に殺すと脅されてそれを防ごうと案じていたマクリヌスの陰謀に足を踏み入れてシュリアでその犠牲となった。ぐずぐずして自制心を欠いていたが、他に適任者がいなかったために老人マクリヌスがアントニヌス死後の皇帝になった。ユリアの姉妹のモエサにはソアエミスとママエアという二人の娘がいた。前者にはバッシアヌスという名の息子が、後者にはアレクシヌスという名の息子がおり、いずれもアントニヌスの息子と評判されていた。軍は幾分か軽い口実でバッシアヌス〔エラガバルスという名の方が有名であろうか〕を野営地で皇帝に宣言し、アントニヌスの名を与えた。マクリヌスは戦いで敗れるとフェニキアとシュリアの境界まで逃げ、カエルケドンに退いてそこからローマへと向かおうと意図した。しかし彼はアントニヌスの使節団に妨げられ、彼らは彼の首を刎ねてそれを持って帰った。
 アントニヌスは母と相談して母に従っていた限りでは穏健な支配をし、アレクサンデルと名を改めたアレクシヌスを養子、副帝にした。しかし彼が追従者たちの影響下に入ると、悪徳と無節制には際限はなくなり、彼が犯さない罪はなかった。アレクサンデルに対して試みられた彼の陰謀は兵士たちによって頓挫させられ、彼が彼らを罰することを決定すると、彼らは彼を殺した。ママエアの息子アレクサンデルは善と寛容さを持って全力を尽くして流血を起こさず一四年間統治したが、言われているところでは彼の母の貪欲と浅ましさの故に母子ともに殺され、マクシミヌスが皇帝に宣言された。
 野獣のような抑圧的な僭主にして巨躯と度を超した残忍さを持った男であったマクシミヌスは三年近く統治した。アフリカの部隊が反乱を起こし、マクシミヌスによって任命された似たような質の人物だった支配者を殺し、前執政官で齢八〇歳だったゴルディアヌスを彼の意志に反して皇帝にかつぎ上げた。ローマは喜んで彼の就任を受け入れてマクシミヌスから全ての栄誉を剥奪し、同時にこの前執政官の息子ゴルディアヌスを父との共同皇帝と宣言した。マクシミヌスが戦争準備をしていた間、息子と共にカルタゴを占拠したゴルディアヌスは自分の状況が絶望的だと見ると首をくくった。彼の息子はマクシミヌスとの戦いで敗死した。ローマ人は彼らの死を深く嘆き、同時にマクシミヌスを憎悪しつつ恐れていたため、バルビヌスとマクシムスをローマで皇帝に宣言した。兵士は妨害をして老ゴルディアヌスの孫で、彼の娘の息子で、まだほんの少年だったゴルディアヌスを帝国統治に彼らと共に与らせるべきだと要求した。マクシムスがマクシミヌスに向けて進撃していた一方、後者は配下の兵たちに殺されてその首はマクシムスに、そこからローマへと届けられた。間もなく兵士たちは再び背いてマクシムスとバルビヌスは宮殿から引きずり出され、彼らにありとあらゆる嘲弄を浴びせた後に殺し、今やだいたい一三歳になっていたゴルディアヌスただ一人に帝位を授けた。ここで第八巻は終わる。
 この著者の文体は明瞭で見事で心地よく、彼の言葉遣いには極端なところがなく、日常言語の自然の魅力を濫用するアッティカ流儀に向かいすぎることもなければ技法の全ての規則を犠牲にして卑しさに陥る不用心を犯すこともない。彼は余計なものを自慢せず、必要なことを書き落としてもいない。つまり、彼は歴史家の全ての良き資質で劣ることが少ない。



 高齢まで生きて君臨したゼノ帝を讃えるアンティオケイアのランパディウスの息子ウィクトリヌスの執政官と皇帝の〔ための〕演説集を読んだ。彼の文体は明瞭さ、余分なもののなさ、そして平凡な言葉遣いで特徴づけられる。



 テオポンポスの歴史書を読んだ。それは五三巻が残っている。幾人かの古人からは六、七、二七そして三〇巻がなくなったと言われている。だから私はそれらの巻を読んだことはない。他方でさるメノファネスなるテオポンポス(彼は軽く見られるべきではない古代の著述家である)に言及した人は同様に一二巻も失われたと述べており、我々は未だ他の巻も読めていない。
 そしてこの一二巻目にはエジプト王アコリス(彼は夷狄に対処し、ペルシア人と対立したエウアゴラスのために動いた)〔在位紀元前393-383年〕の歴史が収められており、〔キュプロス〕島を支配していたキティオンのアブデュモンに捕えられた後に彼がキュプロス島に王権を打ち立てた予想だにしない道程、キンニュラスの臣下を追放した後にアガメムノンのギリシア軍がキュプロスを占領した方法とを述べている。それらの名残はアマトゥスの住民に残っている。(ペルシアの)王がいかにしてリュディアの太守アントフラダテスを将軍としてヘカトムノスを提督としてエウアゴラスとの戦争をするよう説得されたのか。著者は王がギリシアで締結した講和について述べている。彼はエウアゴラスとの戦争がいかにしてかくも激しく行われたのかを話し、キュプロスでの海戦を述べている。アテナイの国家は王との協定に忠実であり続けようとしたが、誇り高いスパルタ人は協定を破棄しようと望んだ。著者はアンタルキダスの和約の成立、ティルバゾス〔別の言い方ではティリバゾス〕が行った戦争、そして彼がエウアゴラスに対していかなる陰謀を企んだのか、いかにしてエウアゴラスが彼を王の前で非難してオロンテスと協定を結んだのかを述べている。彼はネクタネボがエジプトで玉座に上ると、エウアゴラスは〔ネクタネボの即位に協力した〕スパルタ人に使節を送ったと言っている。彼はいかにしてキュプロスでの戦争が終わったのかを記録している。彼は陰謀を企んでいたニコクレオンが驚くべき仕方で正体を暴かれて逃げたことについて述べている。彼はどのようにしてエウアゴラスと彼の息子プニュタゴラスの両人が他の人がそうしたことを知ることなくニコクレオンの生き残った娘によって眠らされたのかを詳述している。これは見返りとしてその少女と愛人関係になったエリスのトラシュダイオスという宦官の差し金であった。これは彼らの死の原因となり、トラシュダイオスは彼ら両人を殺した。この歴史家は次にエジプト人アコリスがいかにしてピシディア人と同盟を結んだのかを報告している。彼は彼らの国とアスペンドスの国について述べている。彼はアスクレピアダイと呼ばれるコスとクニドスの医者について述べている。その最初の人はシュルノス出身で、ポダリロスの子孫である。彼は預言者モプソスと彼の娘たち、ロデ、メリアスとパンヒュリアについても述べており、モプスエスティアは彼から、リュキアのロディアとパンヒュリアは彼女らの名からとっている。彼はパンヒュリアがギリシア人の植民を受けたことと彼らの内戦を報告している。彼らの王の指揮下でペリクレスはテルメッソスとの戦争を行い、城壁内に市民を追い込んで交渉の席に引きずり出すまで戦いをやめなかった。かくして以上がメノファネスが失われたと考えた一二巻目の内容である。
 テオポンポスはキオスの出身でダモストラトスの息子である。スパルタを支持した廉で彼は父と共に祖国を追放されたと言われている。彼は父の死後帰国を許され、彼の帰国はマケドニアのアレクサンドロス王からキオスの人々への手紙のおかげであった。この時テオポンポスは四五歳であった。アレクサンドロスの死後、方々からの亡命者から脅かされた〔アレクサンドロスが死の直前に発した追放者帰国令〕ため、彼はエジプトに向かった。その地の王プトレマイオスはその著者を受け入れたいとは思わなかったが、ある彼の友人がとりなして彼を助けなければ、陰謀者として殺されていたことだろう。
 彼は自身はアテナイのイソクラテス、ファセリスのテオデクテスそしてエルトライア〔別の言い方ではエリュトライ〕のナウクラテスの同時代人であると言っている。彼らはギリシア人のうちで彼と共に弁論術の第一人者の位置を占めた。しかし資産がなかったため、イソクラテスとテオデクテスは金のために演説を書き、若者を教えるソフィストになって生涯を送った。彼〔テオポンポス〕とナウクラテスには哲学と研究に捧げられる十分な時間があった。彼が書いたのは二〇〇〇〇行以上にわたる弁論術の論だけでなく、彼の時代までのギリシアと蛮族の事実と事績の話一五万行以上であり、その彼の主張には徹頭徹尾異常なものは何らなかった。
 彼はギリシアには自身が滞在して弁論家としての大きな栄誉と彼の才能の記念を残すことなく彼の理論の講演をしなかった主要な場所も町もないと言ってもいる。
 一方で彼について述べるならば、前の時代において第一位の地位を占めた人は彼の時代の著者に、第二位の地位にさえ値しなかった人にすら実に劣るということをよく示している。この類の研究〔歴史研究〕は彼の時代に大きな進歩を遂げたため、彼の言っているように、このことは一人あるいは別の人が編んで我々に残したいくつもの本から明らかである。しかし彼が述べるようなより前の時代の著者は誰がいるだろうか? 彼は敢えて自身が複数の点で劣るヘロドトスとトゥキュディデスを攻撃しはしなかったと思うので、私はこれを明確には決められない。疑いようがない人物は彼が念頭に置いていた歴史家のヘラニコスとフィリストスであり、あるいはおそらくゴルギアス、リュシアスおよび他の彼の時代より少し前の人で、文章に関して彼にあらゆる面で全く劣っていないこの種の著者たち〔弁論家〕のことを彼はほのめかしている。かくしてテオポンポスの意見は以上のようなものであった。
 他方でエフォロスと彼はイソクラテスの弟子であったと言われている。彼らの著作がこのことを示しているのであり、なんとなればテオポンポスの著作ではイシクラテス〔イソクラテスの誤記か〕が頻繁に用いた形式が模倣されており、それはあたかも作品の正確性において劣っているかのようであった。歴史書の主題は、古い時代はエフォロス、トゥキュディデスより後のギリシアの出来事はテオポンポスという風に、彼らの師によって彼らに提案されたものである。各々の気質に相応しい仕方で仕事は分けられた。これが彼らの歴史書が思想とその他の要素において互いに非常に似ている理由であり、まるで両者は同じ基礎から歴史の経歴を始めたかのようであった。
 種々の主題についての非常に数多い余談でテオポンポスの歴史著述は伸びている。これはローマ人と戦争をしたフィリッポス〔五世〕がテオポンポス〔の本〕だけからフィリッポス〔二世〕の事績を抜き出して寄せ集め、テオポンポス本人のものへの追加分と余談を除いて省略したもの抜きで六巻になった理由である。
 サモスのドゥリスは彼の歴史書の一巻で「エフォロスとテオポンポス〔の著作〕は他の人の著述より遥かに劣っている。現に彼らの記録は正確でなく、表現の仕方には魅力がなく、ただ単に書くことにしか関心を持っていなかった」と言っている。しかしドゥリス本人はこれらの点で彼が批判する著者たちに対して劣っていた。この非難は自分より前の著者を二流のものとさえしていないテオポンポスの思い上がった意見に対する応答なのだろうか? 私はそれらの二人の著者のいずれも公正に判断されてはいないと言うことはできないが、そのことを支持することはできる。
 思うに、スミュルレアのクレアルコスはイソクラテスの完璧な弁論(あるいは彼がデモステネスと比較したところの見解では、我々は彼らを彼よりもずっと低い位置につけるべきではないというものである)はデモステネスの弁論は兵士の部隊に、イソクラテスのそれらは陸上選手の束に似ていると述べている。しかしテオポンポスは彼の著作においてイソクラテスの著作に劣ってはないということは明らかである。
 以上が私がテオポンポスの家族、彼の〔受けた〕教育、師、同時代人、著作、公的な生活、文体そして目的(全ては簡潔に要約した)、彼が生きた時代と人生における彼の浮き沈みについて言うべきだったことである。

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