フォティオス『図書総覧』

72. クテシアス『ペルシア史、インド史』
 クニドスのクテシアスの二三巻の『ペルシア史』を読む。最初の六巻で彼はアッシュリアでの出来事とペルシア帝国成立以前の出来事を扱い、そして七巻目でペルシアでの出来事を扱い始めている。七巻から一三巻までで彼はキュロス、カンビュセス、マゴス僧〔偽スメルディス〕、ダレイオス〔一世〕、そしてクセルクセス〔一世〕について述べており、その中で彼は多くの説での間違いを非難し、おとぎ話の作者と彼が呼んでいるところのヘロドトスとはほとんど違ったことを述べている。クテシアスはヘロドトスよりも後代の人であり、自身が述べていることのほとんどを目撃した人間であってその点〔記述の正確性〕に関しては問題はなく、彼はペルシア人から直接情報を得て、このようにして歴史を編んだと述べている。彼はヘロドトスのみならずグリュロスの子クセノフォン〔の『アナバシス』〕にもいくつかの点で一致していない。クテシアスはダレイオス〔二世〕とパリュサティスの息子で王位を継いだアルトクセルクセスの弟のキュロスの時代に全盛を極めた。

キュロスの治世
 アステュアゲス(アステュイガスとも呼ばれる)はキュロスと血縁関係になく、アステュアゲスは〔キュロスとの戦争において〕アグバタナへとキュロスから逃げ、娘のアミュティスとその夫スピタマスの助けで王宮の地下貯蔵室に身を隠した。キュロスは王位につくとスピタマスとアミュティスだけではなく、スピタケスとメガベルネスという彼らの息子たちはアステュイガスを助けたことで拷問にかけられるべきであると命じ、後者〔アステュアゲス〕は、クテシアスの報告ではアステュアゲスの孫の拷問を免じるために自らを諦め、オイバレスによって捕らえられて鎖に繋がれた。すぐ後に彼はキュロスによって解放されて父としての栄誉を受け、娘のアミュティスは母として扱われ、後に彼の妻になった。彼女の夫のスピタマスは、アステュイガスがどこにいるかを問われた時に知らないと答えたために殺された。それらの出来事についての説明においてクテシアスはヘロドトスとは異なっている。キュロスは決定的な勝利を得られなかったバクトリア人との戦争を行ったが、キュロスによってアステュイガスが父として、アミュティスが母と妻として受け入れられたと知ると、彼らは自発的にアミュティスとキュロスに従ったとクテシアスは加えている。
 いかにしてキュロスがサカイ人との戦争を行い、スパレトラの夫であるアモルゲス王を捕虜とし、夫が捕らえられた後スパレトラが三〇万人の軍と二〇万人の女性を集めてキュロスと戦争をして敗れたのかについても彼は述べてもいる。サカイ人によって捕らえられた多くの捕虜のうちアミュティスの兄弟のパルミセスと彼の三人の息子たちはその後アモルゲスとの交換で釈放された。
 キュロスはアモルゲスに支援されつつクロイソスとサルデスへ向けて進撃した。オイバレスの忠告のために彼はペルシア人の格好をした木の人形を城壁の周りに置き、その光景は住民たちに市が簡単に落とされるのではないかと恐れさせた。これより前にクロイソスの息子が人質として渡されており、神からのお告げによって王自身は〔これを〕決めていた。クロイソスが明らかに欺瞞を企んでいたため、彼の息子は彼の目の前で殺された。彼の処刑を目の当たりにした彼の母は城壁から身を投げて自殺した。その市が落ちた後クロイソスはアポロンの神殿に逃げ込んだ。彼は三度捕縛され、神殿が閉ざされ密閉されたにもかかわらず、三度見られることなく拘束を逃れ、オイバレスが彼を見張った。クロイソスと共に囚われた人たちは彼を逃がそうと企んでいたと疑われて首を刎ねられた。その後彼は王宮に連れて行かれて更に厳重に鎖に繋がれたが、再び天から送られた雷光によって自由になった。最終的にキュロスは自身の意思に反して彼を自由にし、その時から親切に扱い、五〇〇〇騎の騎兵と一〇〇〇〇人のペルタスタイ、投槍兵、弓兵がいたバレネという名のアグバタナ近くの大都市を授けた。
 次いでアステュイガスとその娘のアミュティスがキュロスに会うのを切望していたため、キュロスは自身に対して大きな影響力を持っていた宦官のペティサカスを、アステュイガスをバルカニア人の許から呼び寄せるためにペルシアへと送った。オイバレスは次いでペティサカスにアステュイガスを飢え死にさせるためにある場所に一人で残すよう忠告し、彼は死んだ。しかしこの罪は夢の中で明らかになり、ペティサカスはアミュティスの執拗な要求で罰のためにキュロスによって彼女へと引き渡された。彼女は彼の目を抉り出すよう命じ、生きたまま皮をはぎ、次いで磔にした。オイバレスは同じ罰を受けることを恐れ、キュロスが彼にそのようなことは許さないと保証したにもかかわらず、十日の間食を絶って自ら命を絶った。アステュイガスは立派な葬儀を営まれた。〔葬儀がされる前には〕彼の遺体は荒地にそのまま野獣に触れられることなく残され、数頭のライオンがペティサカスに動かされるまでそれを守っていた。
 キュロスはアモライオスが王であったデルビケス人に向けて進撃した。デルビケス人は待ち伏せをしていた数頭の象を突如投入し、キュロスの騎兵を敗走させた。キュロス自身は馬から下り、一人のインド兵が太腿の下に投槍で彼に致命傷を負わせた。インド兵はデルビケス人の側に立って戦い、象を提供していた。キュロスの友人たちが彼を運び出しだ時彼はまだ息があり、陣営へと戻された。多くのペルシア人とデルビケス人が殺され、その数は双方で一〇〇〇〇人にもなった。
 キュロスに起こったことを聞き知ると、アモルゲスは大慌てでサカイ人騎兵二〇〇〇〇騎を率いてペルシア人の援軍に向かった。続いて起こった戦いでペルシア軍とサカイ人は素晴らしい勝利を得て、デルビケス人の王アモライオスと彼の二人の息子が殺された。三○〇〇〇人のデルビケス人と九〇〇〇人のペルシア軍が戦死した。そしてその地方はキュロスに服属した。
 キュロスは死が近づいてくると、長子のカンビュセスを王と宣し、末子のタニュオクサルケスをバクトリア、コラムニア、パルティア、そしてカルマニアの主にして貢納を免じた。スピタマスの子供たちについては、彼はスピタケスをデルビケス人の太守に、メガベルネスをバクトリア人の太守に任命し、何であれ母の言うことに従うよう命じた。また彼は彼らをアモルゲスの友人にしようと試みもし、互いに友人らしい言葉を使い続けるのを許し、最初に間違った者に呪いあれとした。それらの言葉を言い、キュロスは負傷して三日後に三〇年の治世の後に死んだ。これを以って一一巻は終わる。

カンビュセス二世の治世
 一二巻目はカンビュセスの統治から始まる。即位からすぐに彼は父の遺体を宦官バガパテスにペルシアへと埋葬のために送らせ、他の全てのことに関して父の遺志を実行に移した。彼に最も影響を及ぼしていたのはヒュルカニア人アルタシュラス、宦官イザバテス、アスパダテス、そしてペティサカス死後の父王の寵臣であったバガパテスであった。バガパテスはエジプトと同地の王アミュルタイオスに対する遠征軍を指揮しており、アミュルタイオスの主席顧問であり、ある橋とその他の重要な秘密を売り渡した宦官コンバフィスの裏切りによってアミュルタイオスを破り、カンビュセスはバガパテスをエジプトの主とした。カンビュセスはコンバフィスの甥イザバテスを通して彼と協定を結び、後に個人的な約束で以ってそれを確かなものにした。アミュルタイオスを生け捕りにしたカンビュセスはアミュルタイオスに害を及ぼすことはなかったが、彼をスサへと彼自ら選んだ六〇〇〇人のエジプト人と共に移した。全エジプトはかくしてカンビュセスに服属することになった。エジプト人は五〇〇〇〇人を、ペルシア人は七〇〇〇人を戦いで失った。
 一方であるマゴス僧がタニュオクサルケスに罪状で何度か鞭打ち刑に処されていたスフェンダダテスを呼び、カンビュセスの許へと向かわせ、弟がカンビュセスに対する陰謀を企んでいると彼に知らせた。これを証拠として彼〔マゴス僧〕はタニュオクサルケスは召還されれば来るのを拒否するだろうと言った。そのため、カンビュセスは弟を呼び寄せたが、他の用事にかかわっていたため来訪は延期された。マゴス僧は彼をよりはばかることなく非難するようになった。そのマゴス僧を疑っていたタニュオクサルケスの母アミュティスはカンビュセスに彼の言うことを聞かぬよう忠告した。カンビュセスは彼を信じていないように見せかける一方で実のところ彼を信じていた。三度カンビュセスによって召還されたため、タニュオクサルケスは召還命令に従った。兄は彼を抱擁したにもかかわらず彼の処刑を決め、母アミュティスの知らぬところで計画を実行に移そうとした。あるマゴス僧が以下のような提案をした。かくして彼はタニュオクサルケスに瓜二つだったため、間違って王の弟を非難したとして自身の首を刎ねるよう命じるよう彼は王におおっぴらに忠告した。一方でタニュオクサルケスを密かに殺し、彼〔マゴス僧〕にタニュオクサルケスの衣装を着せ、かくしてタニュオクサルケスが生きているかのように見なされるようになる、と。カンビュセスはこれに賛成した。タニュオクサルケスは牡牛の血を飲まさされて殺され、そのマゴス僧は彼の服を着て人々から〔タニュオクサルケスは存命であり、彼がタニュオクサルケスであると〕勘違いされた。その詐術はカンビュセスが唯一秘密を打ち明けたアルタシュラス、バガパテス、そしてイザバテス以外からは長らく知られなかった。
 そしてカンビュセスはタニュオクサルケスの宦官ラビュゾスと他の宦官たちを召還し、マゴス僧を座らせて衣装を着せて弟のふりをさせている様を見せ、彼がタニュオクサルケスだと思うか問うた。ラビュゾスは驚いて答えた。「他の誰だと私たちは思いましょうや」彼と同様に多くの者が騙された。かくしてそのマゴス僧はバクトリアへと送られ、そこでタニュオクサルケスの役を演じた。五年後にアミュティスは真実をそのマゴス僧から鞭打たれた宦官のティベティスから知ると、カンビュセスにスフェンダダテスを引き渡すよう止めたが、彼はそれを拒んだ。その後アミュティスは彼に呪いを浴びせた後、毒をあおって死んだ。
 ある時、カンビュセスが犠牲を捧げていると、切られた犠牲獣から血が流れないことがあった。この事件で彼は大いに警戒し、ロクサナからの頭のない息子の誕生はこの警戒を増幅した。この前兆は賢者たちから彼は後継者を残さないことを意味すると解釈された。彼の母もまた彼が夢に出てきて彼が行った殺人の報いを受けるとの徴候を得て、彼はより一層警戒するようになった。バビュロンで楽しみのために木片をナイフで彫っていたところ、彼は誤って腿に怪我をして一一日後に死んだ。その治世は一八年間であった。

ダレイオス一世の登位とその治世
 バガパテスとアルタシュラスはカンビュセスが死ぬ前にマゴス僧〔偽スメルディス〕を王位につける陰謀を企て、後に成し遂げた。ペルシアへとカンビュセスの遺体を輸送したイザバテスは帰還時にマゴス僧がタニュオクサルケスの名の下に支配しているのを見て取ると、真実を軍に暴露して〔タニュオクサルケスの名で支配しているのは〕マゴス僧だと暴いた。この後彼〔マゴス僧〕は神殿へと非難し、そこで捕えられて殺された。
 次いで七人の卓越したペルシア人たちはマゴス僧〔偽スメルディス〕に対して陰謀を企てた。彼らの名はオノファス、イデルネス、ノロンダバテス、マルドニオス、バリッセス、アタフェルネス、そしてダレイオス・ヒュスタスピスであった。最も厳粛な誓いをすると、彼らは彼らの相談役であり、宮殿の全ての鍵を持っていたアルタシュラスとバガパテスを仲間に入れた。その七人はバガパテスによって王宮に入るのを許されると、眠っているマゴス僧を見つけた。彼らを視認するや彼は飛び起きたが、手に武器を持っておらず(というのもバガパテスが密かに全ての武器をよそへ移していたからだ)、黄金製の椅子を叩き壊してその一本の足で自衛したが、結局その七人に刺し殺された。彼は七ヶ月君臨した。
 ダレイオスは〔同志たちから〕賛成された試験によって七人の陰謀者たちの中から王に選ばれたわけであり、それは日が昇った後彼の馬が最初に嘶いたというもので〔最初に嘶いた馬の主が王になるというわけ〕あり、それは狡猾な策謀の結果であった。ペルシア人はマゴス僧が殺されたその日をマゴフォニアと呼ばれる祭で祝っている。ダレイオスは自身のために二つの先の尖った山に墓を立てるよう命じ、彼はそこに行って見ようと望んだが、占い師と両親〔の反対〕によって断念した。しかしながら、後者は登山を心配していたが、それを蒸し返した聖職者たちは数匹の蛇を見たとして怯え、縄を手から離して落とし、叩きつけて粉々にした。ダレイオスは大いに落胆して責任があった四〇人の高官を切るよう命じた。
 ダレイオスはカッパドキア太守アリアラムネスにスキュティアへと渡り、男女の多くの捕虜を連れてくるよう命じた。彼は三〇隻の五重櫂船で向かい、スキュティア王の弟で、ある犯罪のために兄によって投獄されていたマルサゲテスを捕らえた。スキュタイ人の支配者は激怒してダレイオスに罵詈雑言を書いた手紙を書き、ダレイオスは同じ調子で返事を返した。ダレイオスは八〇万人の軍を集めて一五日でボスポロスとイストロス川に船橋をかけてスキュタイ人の領地に渡った。二人の王はお返しに互いに弓を送った。ダレイオスはスキュタイ人の弓がより強いと見て取ると反転して橋を渡って逃げ、急いだために全軍が渡り終える前にいくつかの橋が壊れた。ヨーロッパに残された八〇〇〇人の彼の兵士はスキュタイ人の支配者に殺された。ダレイオスは〔橋を〕渡るとゼウス・ディアバテリオスに敬意を示し、そして橋を渡った後、カルケドン人が彼が彼らの都市の近くにかけた橋を壊そうとし、また彼が建てた祭壇を壊していたため、彼らの家と神殿に火を放った。
 ペルシア艦隊の指揮官ダティスはポントスから戻るとギリシアと島々を荒らした。マラトンで彼はミルティアデスと戦い、夷狄は敗れてダティスその人が殺され、アテナイ人は後にペルシア人の要求にその身体を明け渡すのを拒んだ。
 そしてダレイオスはペルシアに戻り、そこで犠牲を捧げた後、三〇日後に病死し、その時は七二歳であり、三一年君臨した。アルタシュラスとバガパテスもまた死に、後者は七年間ダレイオスの墓守を勤めた。

クセルクセス一世の治世
 ダレイオスの後は息子のクセルクセスが継いだ。アルタシュラスの子アルタパノスは彼の父がダレイオスに影響力を持っていたように大きな影響力を持った。クセルクセスの他の信頼厚い相談役は年長のマルドニオスと宦官のマタカスであった。クセルクセスはオノファスの娘アメストリスと結婚してダレイオスという一人の息子を儲け、二年後にヒュスタスペスとアルタクセルクセス、ロドグネと母にちなんだアミュティスという二人の娘を儲けた。
 カルケドン人が既に掛けられていた橋を破壊しようとしてダレイオスが立てた祭壇を取り壊し、アテナイ人がダティスを殺して彼の遺体の引渡しを拒んだために、クセルクセスはギリシアとの戦争を決意した。しかしまず彼はベリタネスの墓を見たいと思ってバビュロンに滞在し、マルドニオスがそれを彼に見せた。しかし彼はすでに書いたように、油の器を満たすことができなかった。
 そこで彼はアグバタナへと進み、バビュロニア人の反乱と太守ゾピュロスの殺害を聞いた。クテシアスの説明はヘロドトスの説明と異なっている。後者がゾピュロスについて述べていることは、クテシアスによれば、子馬を産んだラバのことを除き、クセルクセスの義理の息子で彼の娘のアミュティスの娘の夫のメガバテスのことである。バビュロンはメガビュゾスによって落とされ、他の褒美の中でも、最大の栄誉である素晴らしい贈り物であった六タラントンの重さの黄金の手動の碾き臼をクセルクセスは与えた。そしてクセルクセスは戦車を含まなければ八〇万人と三段櫂船一〇〇〇隻のペルシア軍を集めてギリシアへと出発し、まずアビュドスに橋を架けた。そこに最初に到達し、クセルクセスが渡るのに同行したスパルタ人のデマラトスはスパルタ侵攻〔が危険であること〕を忠告して思いとどまらせた。クセルクセスの将軍アルタパノスは一万人と共にスパルタの将軍〔将軍というのは間違いで、本当は王〕レオニダスとテルモピュライで戦った。大勢のペルシア軍が切り殺されたが、スパルタ軍は僅か二、三人が殺されただけだった。次いで〔クセルクセス〕王は二万人での攻撃を命じたが、彼らは敗れ、鞭を打って戦いへと駆り立てたにもかかわらず、再び敗走した。翌日彼は五万人による攻撃を命じたが成功せず、したがって作戦行動を中止した。クセルクセスによってテッサリア人のトラクスと、トラキス人の指導者で軍を率いていたカリアデスとティマフェルネス、スパルタ人は降伏しないうちは負けること張るまいと言っていたデマラトスとエフェソス人でヘギアスが一緒に召還された。四〇〇〇〇のペルシア軍はほとんど通ることができない山道をラケダイモン人の背後へとトラキス人の二人の指揮官に率いられて行き、ラケダイモン人は包囲されて男らしく勇敢に死んだ。
 テバイ人に唆され、クセルクセスはプラタイアへとマルドニオス指揮下の一二万人のもう一つの軍を送った。彼は三〇〇人のスパルティアタイ、一〇〇〇人のペリオイコイ、そして他の都市からの六〇〇〇人を率いたスパルタ人のパウサニアスと対峙した。ペルシア軍は大敗を喫し、マルドニオスは負傷して逃げざるを得なくなった。彼は後にクセルクセスによってアポロンの神殿を略奪するために送られ、そこで激しいあられの間に受けた傷で死に、クセルクセスは激しく嘆いたと言われている。
 クセルクセスはアテナイその地へと進撃し、住民を乗せた一一〇隻の三段櫂船はサラミス島に非難した。クセルクセスは空の市を占領し、残留した少数の一団が守るアクロポリスを除き、火を放った。最終的に彼らも夜に逃げてアクロポリスは焼かれた。この後、クセルクセスはヘラクレイオンと呼ばれるアッティカの土地の隘路へと進み、そこを歩いて渡ろうとしてサラミス方面に堤防を作り始めた。アテナイ人テミストクレスとアリステイデスの忠告によって弓兵たちがクレタから呼び寄せられた。七〇〇隻のギリシア軍とオノファス指揮下の一〇〇〇隻以上のペルシア軍との間で海戦が起こった。アテナイ人が勝利し、彼らはアリステイデスとテミストクレスの忠告と懸命な戦略に感謝した。ペルシア軍は五〇〇隻を失い、クセルクセスは逃げた。残りの戦い〔プラタイアの戦い〕で一二〇〇〇人のペルシア人が殺された。
 クセルクセスはアジアへと渡ってサルデスへと進み、デルフォイの神殿を略奪するためにメガビュゾスを派遣した。彼は行くことを拒否して宦官のマタカスが代わりにアポロンを辱めて神殿を略奪するために送られた。命令を実行した彼はクセルクセスの許へと戻り、そうしているうちにクセルクセスはバビュロンからペルシアに到着した。そこでメガビュゾスは自らの妻アミュティス(クセルクセスの娘)を姦通の廉で告訴した。クセルクセスは彼女を厳しく叱責したが、彼女は自身は無罪だと明言した。クセルクセスの信頼厚い助言者だったアルタパノスと宦官のアスパミトレスは彼らの主人を殺すことを決心した。こうして彼らはアルトクセルクセスに彼の兄弟のダレイオスがクセルクセスを殺したのだと説得した。ダレイオスはアルトクセルクセスの宮殿へと行かせられ、熱心に起訴事実を否定したにもかかわらず、処刑された。

アルトクセルクセス一世の治世
 したがってアルトクセルクセスは王になるとアルタパノスに感謝したのであるが、アルタパノスは妻の貫通を疑って憤慨していたメガビュゾスと共にアルトクセルクセスに対する陰謀に加担し、各々は他方に対して忠実であり続けると宣誓した。それにもかかわらず、メガビュゾスは陰謀を暴露してアルタパノスの罪深い行いが明るみに出て、彼は自身がアルトクセルクセスに対して目論んでいた通りの死を迎えた。クセルクセスとダレイオスの殺害に加わっていたアスパミトレスは飼い葉桶の中で日に曝されるという残忍な仕方で殺された。アルタパノスの死後、彼の仲間の陰謀者とその他のペルシア人との間で戦いが起こり、その中でアルタパノスの三人の息子は殺されてメガビュゾスは重傷を負った。アルトクセルクセス、アミュティス、そしてロドグネ、彼らの母アメストリスは深く悲しみ、彼の命はコスの医者アポロニデスの技術と世話のみによって救われた。
 バクトラとそこの太守であったもう一人のアルタパノスがアルトクセルクセスに反旗を翻した。最初の戦いは決着がつかなかったが、二度目の戦いでは向かい風のためにバクトリア軍が敗北し、バクトリア全域が服属することになった。
 エジプトがリビュア人のイナロス指導の下で現地人の支援を受けて反乱を起こし、戦争の準備をした。イナロスの求めでアテナイ人は彼を助けるべく四〇隻の船を送った。アルトクセルクセスは親征を望んでいたが、彼の友人たちが思いとどまらせた。したがって彼は弟のアカイメニデスを四〇万人の歩兵と八〇隻の船と共に送った。イナロスはアカイメニデスと戦ってエジプト軍が勝利し、アカイメニデスはイナロスによって殺され、彼の遺体はアルトクセルクセスの許に送られた。イナロスは海戦でも勝利した。アテナイ艦隊四〇隻の司令官カリティミデスは一度の海戦で栄光に包まれ、五〇隻のペルシア船のうち二〇隻が乗組員もろとも拿捕されて残りの三〇隻は沈められた。
 そこで王はイナロスに対して追加で二〇万人の軍とオリスコスが指揮する三〇〇隻の艦隊と共にメガビュゾスを送った。かくして船の乗組員を勘定に入れなければ、彼の軍は五〇万人に上ることになった。というのも、アカイメニデスが死んだ時、彼の四〇万人の兵のうち一〇万人が死んでいたからだ。決死の戦いが続いて起こり、エジプト軍の損害がより重かったものの、双方が重い損害を受けた。メガビュゾスはイナロスに腿を負傷させて彼を敗走させ、ペルシア軍は完勝した。イナロスは戦死しなかったギリシア軍と共にエジプトの砦であったビュブロスに逃げ込んだ。そこでビュブロスを除いたエジプト全域がメガビュゾスに降った。しかしこの砦は難攻不落と見えたため、彼はイナロスとギリシア軍(六〇〇〇人以上)と彼らは王から害を及ぼされず、ギリシア軍は望む時に帰国を許可されるという条件で協定を結んだ。
 サルサマスをエジプト太守に任命してメガビュゾスはイナロスとギリシア軍をイナロスが弟のアカイメニデスを殺したために彼に対して大いに憤慨していたアルトクセルクセスのところにまで連れて行った。メガビュゾスは起こったことと、彼がビュブロスを占領した時にイナロスとギリシア軍に送った言葉について彼に言い、王に彼らの助命を熱心に嘆願した。王はそれに同意し、イナロスとギリシア軍に害を及ぼさないという知らせがすぐに軍に報告された。
 しかしアメストリスはイナロスとギリシア軍が息子のアカイメニデスを殺した罰を逃れるのに不満を持ち、〔彼らの引き渡しを〕王に頼んだが拒否された。次いで彼女はメガビュゾスに訴え、彼は彼女の訴えを却下した。しかし、最終的に度重なるしつこい懇願によって彼女は息子から彼女の望みを引き出し、五年後に王はイナロスとギリシア軍を彼女に引き渡した。イナロスは三本の杭で串刺しにされ、彼女の手に落ちたギリシア人は皆首を刎ねられた。メガビュゾスはこれを深く嘆き、彼の太守領シュリアへと引き上げる許可を求めた。ギリシア人の生き残りを前もって密かにそこへと送り、彼は到着すると大軍(騎兵を含めずに一五万)を集めて反旗を翻した。二〇万人の兵士と共にウシリスが彼に向けて送られた。戦いが起こってメガビュゾスとウシリスはいずれも負傷した。ウシリスは槍でメガビュゾスの腿に指二つ分の傷を与え、お返しにメガビュゾスはウシリスの腿と肩に傷を与えたため、ウシリスは落馬した。メガビュゾスは彼が倒れた時に彼を守り、彼に生き残るよう命じた。多くのペルシア人が戦いで殺され、その中で有名なのはメガビュゾスの息子ゾピュロスとアルテュフィオスであり、メガビュゾスが決定的な勝利を得た。ウシリスは大きな配慮を受け、彼の要望でアルトクセルクセスのところへと送られた。
 もう一つの軍はバビュロン太守でアルトクセルクセスの弟のアルタリオスの息子メノスタネス指揮の下で彼へ向けて送られた。もう一つ戦いが起こり、ペルシア軍が敗走した。メノスタネスはまず肩を、次いで頭をメガビュゾスに射られたが、致命傷にはならなかった。しかし彼は軍と共に逃げてメガビュゾスは素晴らしい勝利を得た。そこでアルタリオスはメガビュゾスに手紙を送って王と協定を結ぶよう勧めた。メガビュゾスは自分にはその準備があるが、それは彼が再び宮廷に参内する義務を負わず、彼の太守領を安堵されるという条件であると応えた。彼の応答が王に報告されると、パフラゴニア人の宦官アルトクサレスとアメストリスは彼に遅れることなく講和するよう説いた。したがってアルタリオス、彼の妻アミュティス、(二〇歳だった)アルトクサレス、そしてウシリスの息子でスピタマスの父ペティサスがその目的のためにメガビュゾスのところへと送られた。多くの嘆願と厳粛な宣誓の後、彼らは非常に苦労しながらもメガビュゾスに王の許を訪問するよう説き伏せ、王は最終的に彼の全ての罪を許した。
 少し後、王は狩りをしていた時にライオンに襲われ、後ろ足で立って王に襲いかかろうとしていたライオンをメガビュゾスが殺した。王はメガビュゾスが獣を最初に殺したことに激怒して彼の首を刎ねるよう命じたが、アメストリス、アミュティス、その他の人たちの嘆願のために彼の命は助けられて彼は紅海沿岸の町クルタイへと流された。メガビュゾスへの支持を王に向けてしばしば憚ることなく述べていたために宦官アルトクサレスもまたアルメニアへと流された。五年間を追放の身で過ごした後、メガビュゾスは誰も近づこうとしない癩病にかかったふりをして逃げてアミュティスのところまで戻ったが、彼女はほとんどそれが彼であると分からなかった。アメストリスとアミュティスの仲裁の下で、王は彼と和解して以前通りの地位を認めた。メガビュゾスは七六歳で死に、それを王は深く悼んだ。
 彼の死後、彼の妻アミュティスは彼女以前に母アメストリスがしたように社交において相当な軽率さを示した。医者のコスのアポロニデスはアミュティスが軽い病気にかかった時に彼女を診るために呼ばれ、彼女と恋に落ちた。しばらくの間彼らは密通をしていたが、最終的に彼女はそれを母に喋ってしまった。次いで彼女は王に知らせ、王はアメストリスにその無礼者については彼女に好きにさせた。アポロニデスは罰として二ヶ月の間鎖に繋がれてアミュティスが死んだのと同じ日に生きながら埋葬された。
 メガビュゾスとアミュティスの息子ゾピュロスは父と母の死後に王に対して反旗を翻した。彼はアテナイを訪れ、そこで彼の母がアテナイ人になした奉仕〔エジプトに遠征した捕虜の助命嘆願〕のためにもてなされた。アテナイから彼はアテナイ兵と共にカウノスへと向かい、そこに降伏を呼びかけた。住民たちはその意を表したが、彼に同行したアテナイ人は入れないものとした。ゾピュロスが城壁に上るとアルキデスという名の一人のカウノス人が彼の頭を石で打って殺した。そのカウノス人は彼の祖母アメストリスの命で磔にされた。それからいくらかに後アメストリスは高齢で死に、アルトクセルクセスも四二年間統治した後に死んだ。そこで一七巻目は終わっている。

クセルクセス二世とセキュディアノス
 アルタトセルクセスが父クセルクセス〔二世〕の後を継ぎ〔両者の関係は逆で、正しくはクセルクセスがアルトクセルクセスの息子〕、彼は夫と同日に死んだダマスピアから生まれた唯一の嫡子であった。 王と王妃の遺体はバゴラゾスによってペルシアへと運ばれた。アルトクセルクセスには一七人の嫡男がおり、バビュロニア人のアログネとの間にセキュディアノス、同じくバビュロニア人のコスマルティデネとの間にオコス(後の王)とアルシテスがいた。その三人の他に彼は息子バガパイオスと娘パリュサティスをこれまたバビュロニア人で、アルトクセルクセスとキュロスの母となったアンドリアとの間に儲けていた。父の生前オコスはヒュルカニアの太守であり、アルトクセルクセスとその実妹の娘であったパリュサティスと結婚していた。
 セキュディアノスはクセルクセスに対抗してバゴラゾス、メノスタネス及び他の者に次いで最も大きな影響力を持っていた宦官ファルナキュアスを味方につけて祝祭の後に王宮に押し入り、酔っぱらって寝ていたクセルクセスを殺した。それは父が死んでから二十五日後のことであった。父と息子の遺体はペルシアへと運ばれ、その時にまるで息子の遺体を待つかのように父の遺体を乗せた戦車を曳いていた騾馬たちが進むのを拒んだ。そして父の遺体が到着するや騾馬たちは早く進んだ。
 したがってセキュディアノスが王になり、メノスタネスをアザバリテス〔ペルシアの称号で、宮廷の儀仗官〕に任命した。バゴラゾスが宮廷に戻ってきた後、彼に積年の恨みを抱いていたセキュディアノスは彼が父の遺体を任を果たさずペルシアに運ばなかったということを口実として石打ちでの処刑を命じた。軍は大いに嘆き、セキュディアノスが兵に大金をばらまいたにもかかわらず、父王クセルクセスと今しがたのバゴラゾスの殺害で彼を憎んだ。
 次いでセキュディアノスはオコスを宮廷に召喚してオコスは出頭を約束したが、それを反故にした。何度も呼ばれた後に彼は王位を奪取するという明確な意図でもって大軍を集めた。彼のところには騎兵指揮官アルバリオスとエジプト太守アルクサネスが加わった。宦官アルトクサレスもまたアルメニアから馳せ参じてオコスの頭に彼の意に反して冠〔キタリス〕を被せた。
 したがってオコスは王になって名をダリアイオス〔正しくはダレイオス〕と改めた。パリュサティスの提案で彼は計略と厳粛な誓いによりセキュディアノスを打倒しようとした。メノスタネスはセキュディアノスがその約束を信じたり彼を騙そうとしている者たちと協定を結んだりしないように全力を尽くした。にもかかわらずセキュディアノスは説得されてしまい、捕らえられて灰の中へと投じられて殺された。それは六ヶ月と一五日の統治の後であった。

ダレイオス二世の治世
 かくしてオコス(ダリアイオスとも呼ばれる)は単独の支配者となった。アルトクサレス、アルティバルザネス、そしてアトゥスの三人の宦官は彼に大きな影響力を持っただけでなく、彼の主たる助言者は彼の妻〔パリュサティス〕であった。彼女との間に彼は王になる前に二人の息子とアメストリスという一人の娘を儲け、息子のアルサケスは後にアルトクセルクセスと呼ばれた。彼の即位後に彼女は太陽にちなんでキュロスと呼ばれたもう一人の息子を彼との間に儲けた。アルトステスと名付けられた三男は他の子供たちの後に一三人目として生まれた。著者は彼はパリュサティスその人から彼らを儲けたと述べている。子供の大部分はすぐに死んでしまい、生き残ったのはさっき述べた子らと四人目のオクセンドラスのみだった。彼と父母とも同じ兄弟であったアルシテスはメガビュゾスの息子アルテュフィオスと共に王に対して反乱を起こした。アルタシュラスが彼らに向けて送られ、二度の会戦で敗れたもののアルテュフィオスに同行していたギリシア軍を買収した三度目の会戦では勝利し、その時には三人のミレトス人しか彼への忠誠を保たなかった。最終的にアルテュフィオスはアルシテスがいなくなったのを知ると、アルタシュラスが彼の命を助けると厳粛に約束した後に王に投降した。王はアルテュフィオスを殺そうと思っていたが、パリュサティスはアルシテスを騙して彼も屈服させるため、すぐにはそうしないよう勧めた。両者が共に降伏すると彼女は彼らを殺すよう言った。その計画はうまくいき、アルテュフィオスとアルシテスは投降し、灰の中へと投じられた。王はアルシテスを許したいと思っていたが、パリュサティスはしつこくせがんで殺すよう説き伏せた。クセルクセスの殺害でセキュディアノスに協力したファルナキュアスは石打ちで殺された。メノスタネスもまた逮捕されて弾劾されたが、自殺によって運命に対して先手を打った。
 ピッストネスもまた反乱を起こし、ティッサフェルネス、スピトラダテス、そしてパルミセスが彼に向けて送られた。ピッストネスはアテナイ人リュコンとギリシア人部隊と一緒に彼らと戦い、彼ら〔リュコンと彼の部隊〕は王の将軍たちによって買収されて彼を見捨てた。かくしてピッストネスは投降して命の保証を取り付けた後、ティッサフェルネスに伴われて参内した。しかし王は彼を灰へと投じるよう命じ、彼の太守領をティッサフェルネスに与えた。また、リュコンは裏切りの褒賞として幾つかの町と地方を受け取った。
 王に対して大きな影響力を持っていた宦官アルトクサレスは王位を狙って主に対して陰謀を練った。彼は妻に彼が男に見るように偽の顎鬚と口髭を作るよう命じた。しかし彼の妻は彼を裏切り、彼は拘束されてパリュサティスに引き渡されて殺された。王の息子で後にアルトクセルクセスと改名したアルサケスはイデルネスの娘スタテイラと結婚しており、イデルネスの息子で父の死後太守領に任命されていたテリトゥクメスは王の娘アメストリスと結婚していた。テリトゥクメスには類稀な美貌を持ち、弓術と投げ槍が非常に巧みだったロクサナという異母姉妹がいた。テリトゥクメスは彼女と恋に落ちて妻のアメストリスを嫌うようになり、彼女を排除するために彼女を袋に入れて三〇〇人の共犯者に殺させ、彼らと共に反乱を起こそうと謀った。しかしテリトゥクメスに対して大きな影響力を持っていたウディアステスなる者は、王からもし娘を助けてくれるのならば気前の良い褒賞を与えるという手紙を受け取ると、テリトゥクメスを攻撃して殺した。その時、彼は勇敢に防戦して彼を襲撃した(伝えられるところでは)三七人を殺したという。
 ウディアステスの息子でテリトゥクメスの鎧持ちだったミトラダテスはこの事件に関係しておらず、事の次第を知ると彼は父を呪ってテリトゥクメスの息子に引き渡すためにザリス市を占領した。パリュサティスはテリトゥクメスの母、彼の兄弟のミトロステスとヘリコス、そしてスタテイラを除く姉妹に死を命じた。ロクサナは生きながら切り刻まれた。王は妻パリュサティスに同じ罰を息子のアルサケスの妻にも加えるよう言った。しかしアルサケスは涙ながらに悲嘆して父母の怒りを宥めた。パリュサティスは不憫に思い、オコスはスタテイラの命を救いはしたが、同時にパリュサティスに対し、彼女は一日すればそのことを大いに後悔することになるだろうと言った。

アルトクセルクセス二世の治世
 一九巻目で著者はいかにして三五年間統治したオコス・ダリアイオスが病に臥せってバビュロンで死んだのかを述べている。彼の後を襲ったアルサケスは名をアルトクセルクセス〔二世〕と改めた。ウディアステスは自ら根元から舌を切って死んだ。彼の息子のミトラダテスが彼の太守領に任じられた。これはスタテイラの差し金であり、その時パリュサティスは非常に傷付いていた。キュロスがティッサフェルネスによって兄アルトクセルクセスの命を狙う計画を立てたとして告発されたため、母のところへと逃げ込んで彼女の干渉によって嫌疑を晴らした。母によって恥をかいたために彼は自らの太守領へと退いて反乱の計画を練った。パリュサティスの行いには落ち度がなかったにもかかわらず、彼女と共に陰謀を練ったとしてオロンテスをサティバルザネスは告発した。オロンテスは処刑され、パリュサティスはテリトゥクメスの息子を毒殺していたため、オロンテスの母は王に対して非常に憤慨した。また著者は彼は父を法に反して火葬したとも述べており、ヘラニコスとヘロドトスの言っていることは間違っていたとしている。
 キュロスは兄に対して反旗を翻してギリシア人と夷狄の双方から成る軍を集めた。クレアルコスがギリシア軍を指揮しており、キリキア王シュエンネシスはキュロスとアルトクセルクセスの両者を支援した。次いで著者はその二人の君侯〔キュロスとアルタクセルクセス〕の兵士への演説を報告している。キュロスに付き従っていたテッサリア人メノンはキュロスが何につけクレアルコスの忠告を聞いていた一方で自身が軽んじられていたため常にギリシア軍を指揮していたスパルタ人クレアルコスと対立していた。かなりの数の兵士がアルトクセルクセスを見捨ててキュロスの側についたが、キュロスの側からアルトクセルクセスの方へ奔った者はいなかった。キュロスは王軍を攻撃して勝利を得たが、クレアルコスの忠告を無視したがために自らの命を失った〔紀元前401年のクナクサの戦い〕。彼の遺体はアルトクセルクセスによって切断され、彼は自らを攻撃した頭と手を切断するよう命じて意気揚々と運んで行いった。スパルタ人クレアルコスは夜にギリシア軍と共に撤退してパリュサティスのものであった諸都市の一つを占領した後、王は彼と講和した。
 パリュサティスはバビュロンへと向かってキュロスの死を悼み、苦労して頭と手を取り戻して埋葬のためにスサへと送った。アルトクセルクセスの命を受けて首を刎ねたのはバガパテスであった。パリュサティスは王とサイコロ遊びをした時、その遊戯で勝ってバガパテスを賞品として得て、生きながら彼の皮を剥いだ後に磔にした。やがて彼女はアルトクセルクセスの懇願に説得されて息子の喪に服するのをやめた。王はキュロスの帽子を自身のところに持ってきた兵士とキュロスを負傷させたと見なされたカリア人に褒美を与え、パリュサティスは後に彼らを拷問して殺した。ミトラダテスはキュロスを殺したことを食事の席で自慢してしまったためにパリュサティスは彼を自分に引き渡すよう求め、彼の身柄を受け取ると非常に残忍な仕方で殺した。一九巻と二〇巻の内容は以上のようなものであった。
 二一、二二、そして二三巻には以下の歴史が含まれている。ティッサフェルネスは寝返ったテッサリア人メノンの助けを得てギリシア軍に対して陰謀を練った。狡猾で厳粛な約束によって彼はクレアルコスと他の将軍たちを手中に収めた。クレアルコスは疑問を持っていて裏切りに備えて護衛を伴っていたにもかかわらず、兵士たちはメノンの言葉に騙されてしぶしぶクレアルコスにティッサフェルネスを訪問するのを認めさせられた。すでに騙されていたボイオティア人プロクセノスも彼に行くよう勧めた。クレアルコスと他の将軍たちは鎖を着けられてバビュロンのアルトクセルクセスのところへと送られ、そこの全ての人がクレアルコスを一目見ようと群がった。パリュサティスの侍医であったクテシアスその人はクレアルコスを労り、できる限りのことをして幽閉されていた彼の巡り合わせを慰めた。パリュサティスは彼を解放するように、スタテイラは彼を殺すよう王を説得した。クレアルコスの処刑の後に驚嘆すべきことが起こった。強い風が吹いて彼の遺体にたくさんの土をかけ、それは天然の墓となった。彼と共に送り出されていた他のギリシア人たちもまた、メノンを除いて殺された。
 著者は次に我々にパリュサティスによってスタテイラに浴びせられた侮辱を物語っており、スタテイラは毒による死から長らく守られていたにもかかわらず、パリュサティスは以下のようにしてスタテイラを毒殺した。食卓の短刀の一方の側に毒が塗られた。リュンダケと呼ばれる卵ほどの大きさの一羽の小鳥がパリュサティスによって半分に切られ、彼女はそれをよそって毒の面と触れていない方を食べ、同時にスタテイラには毒がついた片割れをよそった。スタテイラはパリュサティスが彼女の取り分を食べたのを見て疑いを持たずに致死性の毒を食べた。王は母に憤慨して彼女の腹心であったギンゲを含む彼女付きの宦官たちを捕えて拷問するよう命じた。後者は告訴されて裁判に引き立てられ、無罪判決を得たが、王は彼女を非難して彼女を拷問にかけて殺すよう命じ、そのために母と息子の長く続く不和が起こった。
 クレアルコスの墓は八年後に建てられ、パリュサティスが彼女の宦官たちを使って密かに植えたヤシの木で覆われた。
 著者は次にアルトクセルクセスとサラミス王エウアゴラスとの争いの原因を述べている。アブレテスからの手紙の受領についてエウアゴラスからクテシアスへと送られた使者。キュプロス人の君主アナクサゴラスとの調停に関するクテシアスのエウアゴラスへの手紙。エウアゴラスの使者のキュプロスの帰還とクテシアスからエウアゴラスへの手紙の配達。王のところを訪れるようにとのコノンのエウアゴラスへの演説と、エウアゴラスの彼が王から受け取った名誉についての手紙。クテシアスへのコノンの手紙、王に貢納を支払うというエウアゴラスの同意、そしてクテシアスへの手紙の送付。コノンの王とクテシアスへの手紙。スパルタ人指揮官の王のところへの監禁。クテシアスその人によって彼らに送られた王からコノンとスパルタ人への手紙。コノンがファルナバゾスによって艦隊指揮官に任命されたこと。
 クテシアスの彼の生まれた都市クニドス、そしてスパルタへの滞在。ロドスでのスパルタの使節に対する出来事と彼らの無罪放免。エフェソスからバクトリアとインドまでの宿場、日数、パラサング数。この作品はニノスとセミラミスからアルトクセルクセスまでのアッシュリア王の一覧を収めている。この著者の文体は明確で非常に簡潔であり、それがこの作品を読み心地のよいものにしている。彼はイオニア方言を使っているが、ヘロドトスとは違って一貫してはおらず、或る表現ではそうではなく、ヘロドトスがそうであったように時宜を失した余談で話の道筋を中断している。彼はヘロドトスを年老いた妻たちの話について非難しているものの、彼は同じ欠点を、とりわけインドについての説明において免れていない。彼の歴史書の魅力は主に出来事の語り口に存し、それは情感において力強く予期せぬものであり、様々な神話的な修飾を多用している。その文体はしかるべき以上に不注意で、その言葉遣いはしばしば陳腐なものになっており、一方でヘロドトスのそれはこの点と他の点の両方に関しては厳密で技量があり、イオニア方言の模範である。

インド史
 同じ著者のより頻繁にイオニア方言が出てくる『インド史』も読む。インドス川について彼は川幅が最も狭い場所は四〇スタディオン、最も広い場所は二〇〇スタディオンであると述べている。彼はインドの人口は全世界のそれを少し下回るほど多いと明言している。彼はこの川には一匹の虫がおり、それがそこで育つ唯一の生き物であるとも述べている。インドより向こう〔東〕には人の住む国はない。そこでは雨が降らず、その地方はその川〔インドス川〕によって水を供給されている。彼は宝石の一種であるパンタルバ〔訳注によれば「恐らく透蛋白石(oculus mundi、つまり世界の目とも呼ばれる)、浸されると水を吸収し、色の輝きを変える性質があるオパールの一種であろう」〕について、そしてあるバクトリア人商人のものであったが、川に投げ捨てられていた四七七個の宝石と他の貴重な石が全ての人の団結によってこの石を使って川底から引き上げられたことについても述べている。
 また彼は城壁を取り壊す象、四ペキュスの長さの尾を持つ小さい猿、そして非常に大きい雄鳥、およそ鷹ほどの大きさの人間さながらの舌と声、暗赤色のくちばし、黒い髭、辰砂のように赤い〔ここのテクストは乱れている〕首まである青い羽根を持つオウム、についても述べている。インド人は郷土を愛しており、もしギリシア語を教えればギリシア後を話すだろうと述べている。
 彼は次に年中液状の黄金で満たされ、そこから水差し一〇〇杯分の黄金が得られる泉について述べている。黄金は引き上げられると堅くなってしまい、それを取り出した器を必ず壊してしまうためにその水差しは土からできている。その泉は正方形で周囲が一六ペキュスあり、一オルギュイアの深さがある。それぞれの杯の黄金は一タラントンの重さである。泉の底には鉄があり、著者は自分はそれから作られたという二振りの剣を持っており、一方は王から、他方は王の母パリュサティスから貰ったと述べている。もしこの鉄が大地に固着すれば、雲と霰と暴風雨は起こらないだろうし、クテシアスは王が二度この効果を証明して自分でそれを目撃したと明言している。
 インドの犬は非常に大きく、獅子さえ攻撃する。多くの山があってそこからは紅縞瑪瑙、縞瑪瑙、その他の宝石が採掘されている。そこは非常に暑く、他の国の十倍の大きさの太陽があるかのようであり、多くの人は熱で窒息させられる。海はギリシアの海と同じくらい大きく、表面は非常に熱く指四つ分の深さであり、魚は表面の近くに住むことができずに底に住み続けている。
 インドス川は山脈の間と平地に横たわって流れており、そこにはインド葦が群生している。それは二人の男が辛うじて腕を回すことができるほどに太く、最も大きい商船の帆注ぐらいの高さがある。あるものはもっと大きく、またあるものはより小さく、山の大きさを考慮するならばそれは尤もなことである。その葦のうち一部は雄花で、他は雌花である。雄花は核がなく非常に強靱だが、雌花には髄がある。
 マルティコラはこの地方で発見された動物である。それはまるで人のような顔をしており、辰砂と同じくらい肌が赤く、獅子と同じくらいの大さである。それには歯が三列あり、耳と 水色の目はまるで人のもののようであり、尾は陸にいるサソリの尾のようであり、端には一ペキュス以上の長さの針がついている。他にも尾のあちこちに針が付いており、まるでサソリのように頭の天辺に一つ、常に致命的な傷を負わせる針が付いている。もし遠くから攻撃されれば尾を前に出してまるで矢のように突き出す。後ろから攻撃されれば、尾を真っ直ぐにして一プレトラの距離を一直線に針を突き出して攻撃する。傷を負えばそれは象を除く全ての動物にとって致命傷になる。その針は足一つ分ほどであり、小さいイグサほどの太さである。マルティコラはギリシア語ではアントロポファゴス(人食い)と呼ばれ、それというのもそれは他の動物を補食しているにもかかわらず、多くの人を殺して貪り食うからだ。それは鋏と針で戦い、クテシアスによれば〔針は〕何度も排出されることで育つ。それはインドの動物の中で大きなものであり、象に乗った原住民に槍や弓で狩られて殺されている。
 インド人は度を超して公正であったことを知ったクテシアスは彼らの作法と習俗を記述しようとした。彼はある人の住んでいない場所に聖地があると述べており、彼らは太陽と月の名の下にそこを讃えているという。そこはサルドの山〔これは固有名という意味なのかサルドという宝石の山なのか不分明である〕から一五日のところにある。そこでは太陽は常に一年のうち三五日の間涼しく、そのために太陽の信者たちは太陽の宴に出てその祝宴の後に暑くない中、家へと戻るようである。インドでは雷も稲妻も雨も起こらないが、あらゆるものを吹き飛ばす風と台風は頻繁に起こる。太陽が昇った後も日の半分は涼しいが、残りはその地方の大部分でそうであるように猛暑になる。インド人の肌を浅黒くしているのは太陽の熱ではなく、元々である。男であろうと女であろうと彼らの一部は数はより少ないものの完全な金髪である。クテシアスは彼自身が五人の金髪の男と二人の金髪の女をその目で見たと述べている。五五日の間太陽が空気を冷やすという彼の主張の証左として彼はアイトナ山から流れ出る火は正しい人の住居であるためであるために通過した地方の中央部に損害を与えないが、残余の土地は滅ぼすとと述べている〔アイトナ山が噴火した時、カタネのアンフィノモスとアナポスという兄弟は両親を肩に担いで運んでいたところ、溶岩が触れなかったという故事を指す〕。ザキュントス島には魚が豊富にいる泉があり、そこからはヤニが採れる。ナクソス島には時折非常に美味なブドウ酒が溢れてくる泉がある。ファシス川の水は杯の中に日中と夜に入れておくと最も旨いブドウ酒になる。リュキアのファセリスの近くには消えることはないが、日夜岩の上で燃えている火がある。それは水では消えないどころか火の勢いはさらに増し、土をかけないと消えない。
 インドの中央にはピュグマイオイと呼ばれる黒人がおり、その地方の他の住民と同じ言語を話している。彼らは非常に小さく、最も背の高い者でも二ペキュスにしかならず、部分は一と半ペキュスにしかならない。彼らの金髪は非常に長く、膝とその下までかかり、彼らの髭は他のどの人の髭よりも長い。彼らの髭が完全に伸びれば彼らは服を脱いで髪を膝の下まで降ろし、髭を正面の足まで垂らす。体が髪の毛で完全に覆われると、彼らはそれを帯で体の回りにとめて服として使う。彼らは獅子鼻で醜い。彼らの羊は子羊ほど大きくなく、彼らの牛、ロバ、馬、ラバ、そしてその他の荷を運ぶ獣は雄羊ほどの大きさである。彼らは非常に巧みな弓兵であったため、彼らのうち三〇〇〇人はインドの王に仕えている。彼らは非常に公正でインド人と同じ法を持っている。彼らは犬ではなく、ワタリガラス、トビ、カラス、そしてワシを使って野ウサギと狐を狩る。
 周囲が八〇〇スタディオンの湖があり、その水面は風で波立つと、浮き出た油で覆われる。小舟でその上を行けば小さいお椀で油を採ることができる。また、その油はゴマ油と堅果油として使えるが、その湖で採れる油は最高級のものである。その湖は魚もたくさんいる。
 その地方は銀を産していて多くの銀山があり、〔そこで採れる銀は〕非常に濃度が濃いというわけではないが、バクトリアの銀山の方が濃いと言われている。そこには金もあって川で採れてさらわれ、パクトロス川あたりの非常に多くの山にはグリュプスが住んでいる。それは狼くらいの大きさの四本足の鳥であり、足と爪ははライオンのそれのようであり、胸の羽は赤く、体の残りの部分は黒い。山々には豊富な金があるものの、その鳥のために金を採るのは困難になっている。
 インドの羊と山羊は牛より大きく、四頭、時折り六頭の若いものを支配している。飼い慣らされている豚も野生の豚もインドにはいない。椰子の木とナツメヤシはバビュロンのものの三倍の大きさである。岩から流れ出る蜂蜜の川がある。
 著者は最後にインド人の正義愛、王への忠誠心、そして死の軽視について述べている。また彼は水がはけるとチーズのようにドロドロになる泉についても述べている。三オボロスの重さこの塊を潰して水と混ぜて飲むために誰かに与えれば、彼は一日中狂乱して彼が以前したあらゆることを暴露することになる。王は被告について本当のことを明らかにしたい時にこれを取り調べに使っている。白状した者は餓死を命じられ、何も暴露しなかった者は放免される。
 インド人は頭痛、眼病や歯痛、口の潰瘍、あるいは体のあらゆる部位の痛みに煩わされることはない。彼らは一二〇、一三〇、一五〇歳、ある者は二〇〇歳まで生きる。
 体長が一指〔22.86センチメートル〕で最も美しい紫色をし、頭が広く、歯のない蛇いる。それは紅縞瑪瑙が採掘される燃える山で穫れる。それは牙で刺しはしないが、付着した場所が腐敗して崩れ落ちる体液を吐く。尾から吊り下げられれば二種類の毒を吐き出し、その毒は蛇がまだ生きていれば琥珀のような黄色で、死んでいれば黒い色である。前者をゴマ類を水に溶かすようにして飲めば、脳は騒音でいっぱいになってすぐに死に至る。他方の毒を与えられれば、体力を消耗して少なくとも一年もせずに死に至る。
 ヤマウズラ卵くらいの大きさのディカイロン(「正しい」を意味するギリシア語)と呼ばれる鳥がいる。それは糞便を隠すために地面に埋める。それを見つけて朝にゴマほどの大きさの少量にして飲めば睡魔に襲われて意識を失い、日の入りには死に至る。
 オリーブくらいの大きさで、王の庭園でしか見られないパレボンと呼ばれる木もある。それは花も実もつけず、最も小さいものでも人の腕くらいの太さの一五個の非常に丈夫な根しかない。およそ一指の長さのこの根の欠片は金、銀、真鍮、石といった物質、事実上琥珀を除いたあらゆるものに近づけられると、それらを引きつける。一ペキュスの長さが使われれば子羊と鳥を引きつけ、後者は概ねこのようにして捕らえられている。もし一クース〔クースはギリシアで用いられる液体の体積の単位で、約2.5リットルに相当する〕の水を固めたければ、一オボロスの重さのその根の欠片を投げるだけでよい。翌日には再び蒸留酒になるものの、ブドウ酒も同様にすれば蜜蝋のように扱えるようになる。その根は腸の病気を患った人を治療するのにも使われる。
 大きくはないが、およそ二スタディオンの幅のインドを流れる川がある。それはインドではヒュパルコス川と呼ばれ、ギリシア語では「全ての恵みをもたらすもの」の意である。その川では一年のうち三〇日の間、琥珀が下ってくる。ある山脈にはそこを流れる川の両岸に林があり、年のある季節、とりわけ他のいくつかの木々では三〇日間、アーモンド、モミのような滴がこぼれると言われている。その滴は川に落ちて固くなる。この木はインドのスピタコラ〔ペルシア語のshiftehkhor、「食べられるもの」の意〕と呼ばれ、ギリシア語では「甘いもの」の意であり、そこから住民は琥珀を集める。またブドウのような房をした果物もなり、ポントスの木の実と同じくらいの大きさである。
 それらの山々には犬の頭をした人たちが住んでおり、彼らの服は野獣の皮であった。彼らは人語を話さないが、犬のように吠えて互いのことを理解している。彼らの歯は犬よりも長く、彼らの爪はその獣のようだが、より長くより曲がっている。彼らはインドス川あたりの山脈に住んでいる。彼らの肌の色は浅黒い。彼らは彼らが交流している残りのインド人のように非常に公正である。彼らはインドの言葉を解するが話すことはできず、聾や唖のように吠えたり手拍子で答えることしかできない。彼らはインド人からはカリュストリオイ、ギリシア語ではキュノケファロイ(犬頭)と呼ばれる。彼らの人口は一二万人ほどである。
 この川〔ヒュパルコス川〕の水源近くには紫の花が群生し、これから紫色の染料が得られ、その品質はギリシアのものに勝るとも劣らぬ素晴らしい色である。同じ地方には甲虫くらいの大きさで、辰砂ほど赤く、非常に長い足を持り、芋虫のように柔らかい図体の動物もいる。それは琥珀を産する木で繁殖し、ワラジムシがギリシアのブドウの木を損じるようにその木の果物を食べて木を殺す。インド人はその虫を潰して長衣と上着と彼らが望む他の服の染料として使っている〔この虫はコチニールである〕。その染料はペルシア人のものよりも優れている。
 山々に住んでいるキュノケファロイは交易ではなく狩猟によって暮らしている。彼らは動物を殺すと太陽で焼く。彼らはたくさんの羊、山羊、そして牛を飼育して羊の乳とそれからできる乳清を飲んでいる。彼らはシプタコラの果物を食べ、それは甘いために琥珀ができる。また、ギリシア人が乾燥させたブドウを保存するように彼らはそれを乾燥させて籠に入れて保存する。彼らは筏を作ってよく綺麗にした紫の花と二六〇タラントンの琥珀、それと同じ量の紫の染料、さらに一〇〇〇タラントンの琥珀と一緒にこの果物を乗せ、毎年インドの王にそれらを送っている。彼らは残ったものをインド人とパン、小麦粉、そして木綿の織物と交換し、それらから彼らは弓術と槍投げが非常に巧みだったために獣を狩るための剣、弓、そして矢を買った。非常に高く近づきにくい山々に住んでいたために彼らは戦争では負け知らずだった。五年ごとに王は彼らに三〇〇〇〇個の弓と同数の投げ槍、一二万個の盾、そして五〇〇〇〇本の剣を贈っている。
 彼らは家にではなく洞穴に暮らしている。彼らは弓と投槍を使って獲物を追い、彼らは非常に足が速いために獲物を追えばすぐに追いつく。女は一月に一回風呂に入り、男は全く風呂に入らないが、手を洗いはする。彼らは一月に三回を指定して乳からできた油で肌を拭いている。男女の服はいずれも同じ様に毛のある皮ではなく、日に焼けた申し分のない皮である。最も裕福な者は亜麻の服を着るが、それは少数である。彼らは寝台を持たず、葉や草の上に寝ている。他の財産についてのように、最も多くの羊を持つ者が最も裕福だ者後考えられている。男も女も皆が尻に犬のようだが、より長くより毛深い尾を持っている。彼らは公正で他の人よりも長生きで一七〇歳まで、時には二〇〇歳まで生きる。
 彼らの地方の先、川の水源には残りのインド人のように黒い他の人が住んでいるといわれている。彼らは働かず、穀物を食べず、水も飲まないが、雄牛、雌牛、羊、そして羊を飼育し、それらの乳が彼らの食料となっている。彼らは朝に、次に正午に再び乳を飲み、胃の中で乳が凝固するのを防ぐ甘い根を食べ、夜に皆が難なくそれらを吐き出す。
 インドには馬と同等あるいはそれ以上の大きさのロバもいる〔この記述は全く適当ではないものの、サイかもしれない〕。それらの体は白く、頭は赤黒く、目には青みがかかり、額には一ペキュスほどの長さの角がある。額から二パライステ〔一パライステは77.1mm〕のところにあるその角の下の方の部分は真っ白で、中頃は黒く、上の方は先に至るまで燃えるような赤色である。これからできた杯から酒を飲む人は痙攣、てんかん、毒にさえ耐えることができ、それらの症状が出る前だろうと後だろうと彼らは幾らかのブドウ酒なり水なり他の液体をその杯から飲むことでそうなる。他の地方にいる家畜と野生のロバと他の全ての硬い蹄を持った動物は距骨も胆嚢も持っていないが、その一方でインドのロバはそれらのいずれも持っている。それらの距骨は私が見た中で最も美しいもので、大きさと見かけはまるで雄牛のもののようである。その重さは鉛くらいで、色は辰砂そのものである。その動物は非常に強靱で素早く、馬も他のどの動物も追いつけない。その走り始めは遅いが、驚くほどに早さを増していき、段々と早くなる。それを捕まえる方法は一つしかない。それらが子の餌やりのために連れている際、たくさんの馬で囲まれれば、それらは子馬を見捨てるに忍びなく戦い、角で突き、蹴り、噛んで多くの人と馬を殺す。それを生け捕りにするのは不可能であるため、弓と投槍で突き刺された後、それらはついに捕らえられる。その肉は苦すぎて食べられず、それらは角と距骨のためだけに狩られている。
 インドス川にはイチジクの木に通常見られる芋虫に似た芋虫が見られる。その平均的な体長は七ペキュスで、あるものはそれより長く、他のものはより小さい。それは一〇歳の子供が腕を回して掴むほとんどできないほどに太い。それは一つは上顎に、もう一つは下顎に二つの歯を持っている。それは歯で噛みついたものは何であれ貪り食う。日中までそれは川のぬかるみにいるが、夜には出てきては雄牛なり駱駝なり川を渡るものは何であれ噛みついて川に引きずり込み、腸を残して食らい尽くす。それは餌のついた長い鍵爪で子羊や子山羊をひっかけて捕まえる。捕まえた後にその芋虫を三〇日間地下にある器の中に吊しておくと、体から一〇アッティカ・コテュレ〔およそ五パイント〕の油が滴り落ちてくる。三〇日が過ぎると、その芋虫は投げ捨てられ、油の器は唯一それを使うのが許されているインドの王への貢ぎ物にするために乾燥させて封がされる。この油は注がれれば木だろうが動物だろうが何にでも火をつけ、その火は大量の泥をかけないと消えない。
 インドには杉や糸杉ほどの高さで、少し広く、芽を出さない点を除けば椰子のような葉を持つ木がある。それらは月桂樹の雄花のような花をつけるが、実はつけない。その木はインド人からはカルピオンと、ギリシア人からはミュロロドン(軟膏薔薇)と呼ばれており、滅多に見れない木である。それからは油の滴がにじみ出て、羊毛でぬぐい取られて石花石膏の石箱へと詰め込まれる。その油は赤みを帯び、それどころか濃い色をしており、五スタディオン離れていても大気中にその匂いがするほどに香しい。王とその家族のみがそれを使うことを許されている。インド王はペルシア王にそれを幾らか送り、それを見たクテシアスは他のものと比べようがないほどの匂いだと言っている。
 インド人は非常に素晴らしいチーズと甘い葡萄酒も産し、クテシアスはその両方を味わった。
 インドには周囲の長さが五オルギュイアの正方形の泉がある。その水はおよそ三オルギュイアの深さの岩盤の中にある。最も位の高いインド人たちは――男も女も子供も――それの風呂に入っている〔これは体を清めるためではなく、病気の予防としてである〕。彼らは水中に足のほとんどをつっこみ、そして彼らがその中に飛び込むと水は彼らを再び乾いた地上へと吐き出し、底へと沈む鉄、銀、金、それから銅以外のあらゆるもの、人間だけでなく、生きているものであれ死んだものであれあらゆる動物がそうなる。その水は非常に冷たく、飲むのに適している。その水からは大釜で煮沸されているかのような大きな音がする。それはレプラとかさぶたを直す。それはインドではバラデと、ギリシア語ではオフェリメ(有用なもの)と呼ばれている。
 山々にはインド葦が育ち、そこには数にしておよそ三〇〇〇〇人の人々が住んでいる。その女性は一生で一度しか子供を作らず、彼らは上顎と下顎に美しい歯を持って生まれる。男の子も女の子も頭髪も眉毛も白髪である。三〇歳に達した男は全身の毛が白く、それから黒くなり初めて、六〇歳になれば完全に黒くなる。その男女は手も足も八本指である。彼らは非常に好戦的で、五〇〇〇人――弓兵と槍兵――が軍事遠征においてインドの王に随行する。彼らの耳は腕が耳が肘と背中あたりまで届くほどに長く、一つの耳がもう一方の耳まで届くほどである。
 エティオピアにはコロコッタス〔ジャッカルないしハイエナ〕と呼ばれ、驚くべき強さの野卑なキュノリュコス(犬狼)の動物がいる。それは人間の声真似をして夜に名前を呼び、近づいた者を捕食すると言われている。それはライオンのように勇敢で、馬のように素早く、牛のように強い。それにはいかなる鋼鉄の武器でも勝てない。エウボイア島のカルキスに胆嚢を持たない羊がおり、その肉は犬が食べるのを拒むほどに苦い。また彼らはマウレタニアの門の向こうでは夏には十分な雨が降り、冬には焼け付くような暑さで乾燥しているとも言っている。キュオニア人のところには水の代わりに油がわき出て、それを人々が全ての食料の〔調理の〕ために使う泉がある。メタドリダにはもう一つの泉があり、それは海からほど遠からぬところにあり、そこからの水流は深夜には激しくなり、住民が拾いきれずに地面に捨て置いて腐るに任せるほどの数の魚を陸に打ち上げるほどである〔訳注によれば、多分この段落はクテシアスによるものではない〕。
 クテシアスは彼自身が記述したものの一部をこの目で見て、残りのものは目撃者から知らされたと言い添えて以上のような話を完全な真実として述べている。彼はそれらを見たことのない人たちが彼の説明は全く信ずるに値しないと考えるのではないかと恐れて自分はさらに驚くべき多くの事柄を書き落としたと言っている。

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