ディオドロス『歴史叢書』7巻→8巻

注意
この巻には他の巻からの抜粋がいくつか含まれております。すでに私が訳した個所からの抜粋はそのまま訳文を引き写しておりますが、1から6巻からの抜粋に関してはこれらの巻の翻訳がすでにあることから訳出はせず、当該箇所を示すにとどめます。

1巻. 4章. 6節

「先の六巻で我々はトロイア戦争での出来事の記録からアテナイ人がシュラクサイ人に宣戦した戦争まで下ってきた」(13巻, 1章, 2節)。

「これまでの巻で我々はトロイアの占領からペロポネソス戦争とアテナイ帝国の終焉に至る七七九年間に起こった出来事の記録を書き留めてきた」(14巻. 2章. 4節)。

1 オルフェウスはヘラクレスの同時代人で、この二人はトロイア戦争の時代の数百年前に生きていた。オルフェウスの作品の中で私が読んだのは『石について』で、その中で彼は自分自身について話しており、自分はヘレノスの少し後に生き、ホメロスはヘレノスの一つ後の世代だと述べている。周期に関する著者ディオニュシオスによれば、ホメロスはテバイ遠征と、ヘレネのためにギリシア人が起こした遠征という二つの遠征の時代に生きたと述べられている。ディオドロスは無数の他の著者たちと同じようにディオニュシオスに賛同している。
2 ディオドロスは、ホメロスがヘラクレイダイの帰還以前に死んだと述べている。
3 ディオメデスの妻アイギアレイアは夫への愛がすっかり冷めていた。憎悪から彼女は夫に対して不正な振る舞いをし、親戚たちを彼への復讐のために呼び寄せた。そして彼らは後にミュケナイの王位を手に入れるアイギストスを助力者とし、ディオメデスの父が外国人だったにもかかわらず貴族たちを国から追放してアイトリアの血縁者たちをその地に住まわせようと企んだとして彼に死刑判決を下した。このでっち上げの告発が広く信じられたため、ディオメデスは不安を抱き、彼に付き従うことを望んだ者たちを連れてアルゴスへと逃げた。
4 トロイアが陥落すると、アエネアスは他のトロイア人たちを伴ってその都市の一部を占拠して攻撃軍に対して持ち堪えた。ギリシア軍が休戦の下で立ち去ることを彼らに許し、各々が持ち出せる限りの財産を持っていくことに同意すると、全ての生き残りたちが金銀やその他値の張る品々を持っていった一方で、アエネアスは年を取って自分で動けなかった父を肩に担いだ。この行いのために彼はギリシア人の賞賛を浴び、もう一度だけ家内の財産を選ぶ許しを得た。彼が家の守り神たち〔の像〕を運び出すと、彼の美徳は一層の賞賛を浴び、敵からさえ大喝采を受けた。というのもこの男は最大の危機の真只中にあって親への尊敬と神々への崇敬を第一に考えたからだ。我々が述べたように、彼が生き残りのトロイア人を連れて完全に安全にトロイアを去って好きな土地に行くことを許されたのはこれが理由だった。

以下はエウセビウスの『年代記』からの抜粋。

 さて、同じ出来事の他の証人へと、即ち全ての図書を知識の完全にして同一な精算を行って概略的な形で収集したディオドロスへと転じることにしよう。というのも彼はローマ人の歴史を第七巻で以下のように記述しているからだ。

5 ある歴史家たちは、それが間違いであるにもかかわらず、アエネアスの娘から生まれたロムルスがローマの建設者だと思っている。しかし真実はそうではなく、アエネアスとロムルスとの間の時代には数多くの王がいて、その都市は第七オリュンピア紀の二年目〔紀元前749年夏から翌748年夏までの期間。〕に建設され、この建設の時期はトロイア戦争から四三三年後のことであった。というのも、トロイア陥落からアエネアスがラテン人の王権を受け取るまでに三年間が経過しており、彼は王権を三年間保持し、それから人のうちから姿を消して不死の栄誉を受けた。彼の息子アスカニウスが王位を継承してアルバ・ロンガを建設し、その都市は当時はアルバ川と呼ばれて今日はティベリス川の名を持つ川からその名を得ている。しかしその都市の名前に関して、ローマ人の歴史を書いたファビウス〔クイントゥス・ファビウス・ピクトル。〕は異なった話を提示している。彼が言っているのはこうである。ある神託がアエネアスに下され、それは四つ足の動物が都市を建設すべき場所へと彼を導く、というものであった。ある時に彼が白い色をした妊娠している雌豚を犠牲に捧げようとしていたところ、その豚は彼の手から逃げてある陸まで追いかけられ、そこで三〇頭の子豚を産み落とした。この奇妙な出来事に驚いたアエネアスはそれから神託のことを思い出すとその場所に都市を建設する準備をした。しかし就寝中に彼はそれを厳しく禁じて今から子豚の数に対応する三〇の年の後に都市を建設するよう忠告する幻影を見て、計画を諦めた。
 アエネアスが死ぬと息子のアスカニウスが王位につき、それから三〇年後に彼はある陸に居住地を建設し、豚の色にちなんでその都市をアルバと名づけた。それというのもラテン人は白いものをアルバと読んでいたからだ。また、その都市は幅が狭く長さが大きかったためにアスカニウスは「長い」の意味に訳されるロンガというもう一つの名前を付け加えた。
 そして彼(ディオドロス)は続けてこう述べる。「アスカニウスはアルバを自らの王国の都とし、周辺の少なからぬ村落を従えた。彼は有名な人物になり、三八年間支配した後に死んだ」。
 この時代の終わりに、二人の人物が王位をめぐって互いに争ったために人々の間で分裂が起こった。それというのも、ユリウスはアスカニウスの息子だったために「私の父が持っていた支配権は私のものだ」と主張した。そしてアスカニウスがアエネアスがイリオンの女だった最初の妻との間に儲けた息子だった一方で、アスカニウスの弟であり、さらにはアエネアスがラティヌスの娘ラウィニアとの間に儲けた息子だったシルウィウスは「支配権は私のものだ」と主張した。実のところアエネアスの死後にアスカニウスはシルウィウスの生命を狙った陰謀を企んだ一方で、この陰謀のために子供だった後者は山地のある羊飼いに育てられ、ラテン人がシルウァと呼んでいたその山の名前にちなんでシルウィウスと呼ばれるようになった。二派のこの争いでは最終的にシルウィウスが人々の票を得て王位を手に入れた。しかしユリウスは最高権力を失いはしたものの、最高神祇官になって王に次ぐ存在になった。今日〔抜粋者のエウセビウスではなく、ディオドロスの時代(N)。〕でもローマに現存するユリウス氏族は、我々が述べてきたこの彼から発している。
 シルウィウスは治世下において何ら語るに値することをせず、四九年間支配した後に死んだ。彼の次に王位に就いたのは息子のアエネアスで、アエネアスはシルウィウスのあだ名を得ており、三〇年間支配した。彼の後にこれまたシルウィウスと呼ばれたラティヌスが五〇年間支配した。彼は内政でも戦争でも活発な統治者であり、近隣の土地を荒らし、ティブル、プラエネステ、ガビイ、トゥスクルム、コラ、ポメティア、ラヌウィウム、ラビキ、スカプティア、サトリクム、アリキア、テレナエ、クルストゥメリウム、カエニナ、フレゲラエ、カメリア、メドゥリア、そしてボラと書く著者もいるボイルムという、以前は「ラテン諸都市」として知られていた一八個の古い都市を建設した。
 ラティヌスの死後に彼の息子アルバ・シルウィウスが王に選ばれ、三八年間支配した。彼の後にエピトゥス・シルウァが二六年間支配した。彼が死ぬとカピュスが王位に取って代わって二八年間支配した。彼の死後に息子のカルペトゥスが一三年間支配し、次いでティベリウス・シルウィウスが八年間支配した。後者はエトルスキ人に対する遠征を行ったが、アルバ川へと軍を率いていったところで川に落ちて死に、そこからその川はティベリス川と名づけられた。彼の死後、アグリッパが四一年間ラテン人を支配し、彼の後にアラムリウス・シルウィウスが九年間支配した。
 アラムリウスについては、彼は全生涯を通して高慢で、ユピテル〔アルメニア語のテクストでは「アラマズド」(キリスト教伝来以前のアルメニアの主神)(N)。〕の力に強情に歯向かったという話が伝えられている。なるほど、収穫期に絶え間なく大きな稲妻が鳴り響くことがあった時、彼は兵士たちに一斉に剣で盾を叩くよう命令を出した。そして彼はこうやって出した騒音が雷の音を上回ったとうそぶいた。彼は雷の一撃で殺されて家全体がアルバ湖で水浸しになることで神々に対する傲慢に対するつけを支払うことになった。今日に至るまでその湖の近くに住んでいるローマ人は、湖の中、湖底の王宮の廃墟からそびえ立っている柱の形がこの出来事の証拠だと指摘している。
 アラムリウスの次の王に選ばれたのはアウェンティウスで、彼は三七年間支配した。かつてある隣国との戦争で追い詰められた時、彼は防戦のためにアウェンティウスの丘へと退却し、このためにその丘はアウェンティウスの丘という名を得た。彼が死ぬと息子のプロカ・シルウィウスが王位を継ぎ、二三年間支配した。彼が死ぬと、両親が同じ兄であった長男ヌミトルが遠方にいたため、年少の方の息子であるアムリウスが暴力づくで王権を手に入れた。アムリウスは四三年間余り支配し、ローマの建設者となったレムスとロムルスに殺された。
6 アエネアスの死後、まだ子供だったシルウィウスに対する陰謀がアスカニウスによって練られた。シルウィウスは山地で羊飼いによって育てられ、ラテン人がその山をシルウァと呼んでいたためにシルウィウスと名づけた。
7 ロマヌス・シルウィウスは生涯を通じて横柄な人物で、それは神に喧嘩を売るほどだった。例えば、神が雷を鳴らした時に彼はいつもある信号を出して兵士たちに剣で盾を叩くよう命令し、それから彼らが発した音は雷よりも大きいとうそぶいた。

「彼〔アガトクレス〕が落とした三つ目の都市はメスケラで、そこは非常に大きく、トロイアから帰っていたギリシア人によって昔に建設された都市であり、これについて我々は第三巻ですでに述べておいた」(20巻. 57章. 6節)。

4巻. 55章. 2節

4巻. 58章. 4-5節

以下はエウセビウスの『年代記』からの抜粋。

8 この時代にはアテナイにも他の都市にも年毎の行政官がいなかったため、トロイアあたりの出来事の年代から最初のオリュンピア紀までの間隔を決定するのは難しいので、我々はラケダイモンの諸王をその目的のために用いることにしたい。アテナイのアポロドロスの言うところでは、トロイア破壊から最初のオリュンピア紀〔紀元前776年夏から紀元前772年夏までの4年間。〕までは四〇八年間の歳月があった。ヘラクレイダイの帰還までが八〇年間で、残りの年月はプロクレスとエウリュステウス並びに彼らの子孫のラケダイモン諸王の治世で埋まっている。ここで我々は最初のオリュンピア紀までのこの二家の個々の王を列挙してみよう。
 エウリュステウスはトロイアあたりの出来事から八〇年後に統治を始め、四二年間支配した。彼の後はアギスが一間、エケストラトスが三一年〔エウセビウスが数える王の一覧では「三五年」(N)。〕、ラボタスが三七年、ドリストスが二九年、彼の後継者アゲシラオスが四四年、アルケラオスが六〇年、テレクロスが四〇年、アルカメネスが三八年支配した。この最後の王の一〇年目に最初のオリュンピア紀が始まり、スタディオン走でエレアのクリボスが優勝した。
 もう一つの王家ではプロクレスが最初の支配者で、四九年統治した。〔この間には欠損がある(N)。プロクレスの次の王は息子のソオス、その次の王は息子のエウリュポン、そしてエウリュポンの子がプリタニス(プリュタニス)。〕彼の後にプリタニスが四九年、エウノミオスが四五年、その後にカリクロスが六〇年、その後にニカンドロスが三八年、テオポンポスが四七年支配した。これまた最後の王の統治の一〇年目に最初のオリュンピア紀が始まった。トロイア陥落からヘラクレイダイの帰還までの時期全体の長さは八〇年間だった。
9 今や我々はそれらの主題を検討したので、コリントスとシキュオンについて、そしてそれらの都市の領地にドーリア人がどうやって移り住んできたのかを述べるのが残っている。アルカディア人を除いて事実上ペロポネソス半島の全ての人はヘラクレイダイの帰還の際に追い出されるということが起こった。さて土地を分配する段になると、ヘラクレイダイはコリントス領とその周辺をその例外とし、アレテス〔ヘラクレイダイの一人で、ヘラクレスの15代目の子孫。〕にこの領地を委ねると伝えた。アレテスは注目に値する人物になるとコリントス市の勢力を増大させ、三八年間王として支配した。彼の死後、王権はキュプセロスの僭主制まで子々孫々長男によって受け継がれ、それはヘラクレイダイの帰還以後四四七年に及んだ。ヘラクレイダイのうちで王位を継承した最初の人はイクシオンで、三八年間支配した。彼の後はアゲラスが三七年間、その次はプリュムニスが三五年間支配した。そして同年数支配したバッキスは彼の祖先の誰よりも高名な人物になり、彼に続く諸王が最早ヘラクレイダイではなくバッキアダイ〔バッキアス家、バッキアス朝〕と呼ばれるようになったのはこれが理由である。バッキスの次のアゲラスは三〇年間、エウデモスは二五年間、アリストデモスは三五年間支配した。死に際してアリストデモスは年からいってまだ子供だった息子のテレステスを残し、テレステスの父の兄弟であり後見人だったアゲモンによってテレステスは王位を奪われて彼の後を襲ったアゲモンは一六年間支配した。彼の後のアレクサンドロスは二五年間王権を保持した。アレクサンドロスは父祖伝来の支配権を奪われたテレステスによって殺され、この時の彼は一二年間支配したところだった。そしてテレステスは親戚たちに殺され、アウトメネスが一年間支配した。ヘラクレスの子孫であるバッキアダイは支配権を獲得した時には二〇〇人おり、彼ら全員が一体となって国家を統治した。彼らはその人数から毎年一人の行政長官を選出して彼は王位に上り、この政体はキュプセロスが打ち立てた僭主制によって破壊されるまで九〇年間続いた。
10 キュメ市にはマラコスという名の僭主がいた。彼は大衆に取り入って絶えず最も影響力のある市民たちを中傷することで支配権を握り、最も裕福な市民たちを継続的に剣にかけて彼らの財産を没収することで傭兵隊を維持し、キュメ人を恐れさせた。

5巻. 80章. 3節

5巻. 84章. 4節

11 エウセビウス『年代記』
 ディオドロスの著作からの抜粋された、時代毎の海の覇者たち。

 トロイア戦争の後の海の覇権はクセルクセス〔紀元前480年のギリシア遠征。なお、アルメニア語のテクストは代わりに「アレクサンドロス」と読む(N)。〕が他の側〔アジアに対するヨーロッパを指す〕へと渡ってくる時に至るまで以下の人たちによって握られた〔以下の十番目の民族名はエウセビウスの『表』(Canon)では「カリア人」とあるが、バーンは「メガラ人」と読んでいる(A. R. Burn, "Greek Sea-Power, 776-540 B. C., and the 'Carian' Entry in the Eusebian Thalassocracy-List" in The Journal of Hellenic Studies Part2, 1927)(N)。〕。

1リュディア人とマイオニア人92年
2ペラスギア人85年
3トラキア人79年
4ロドス人23年
5フリュギア人25年
6キュプロス人33年
7フェニキア人45年
8エジプト人-
9ミレトス人-
10
-
24年
11レスボス人-
12フォカイア人44年
13サモス人-
14ラケダイモン人2年
15ナクソス人10年
16エレトリア人15年
17アイギナ人10年

12 リュクルゴスが備えていた美徳の資質の大きさは、彼がデルフォイに行った際にピュティア巫女が以下の文言を彼に述べたほどだった。
リュクルゴスよ、ゼウスと祖国の全ての者に愛されし者よ
オリュンピオスにあれば、汝の技量は
我が富める輝きをもたらす。我はいかほどに
汝に己を顕わにしたるか驚く、神として、あるいは人として。
いっそう神々しきリュクルゴスよ、我は汝を抱く。
汝は良き法を求めて来たり、
良き法の制度を我は今汝に与う
地の上の都市が
いまだかつて持たぬようなものを。
 同上のリュクルゴスはピュティアの巫女に、ラケダイモン人が最大の利点を得るにはどんな習慣を打ち立てれば良いのか尋ねた。一つの集団が立派に統治して他の集団はその権威者に従うような法を立てるべきだと彼女が答えると、立派に支配すべき者と権威者に従うべき者によって何が為されるべきなのかと彼は再び尋ねた。そこで巫女は以下の神託を伝えた。
遠く分かたれし二つの道がある
一つは自由の栄誉ある集いへと導くもの
他方は全ての死すべき者が避ける隷属の家へと導くもの
先の道は踏み固められる
それは雄々しき魂と甘き調和の者によりて。
この道で我は汝に人民の指導を課す。
後者の道は忌まわしき内紛と
弱き思い違いの道なり
この道を汝は
最大の用心を持ち見張るべし。
 和合と男らしい魂に最大の注意を払うべきであり、それらによってのみ自由は維持されることができ、自由を持たない者は自らにとって役立たずになり、彼が他の人に従属することを了解すれば現に人類の大多数が価値ありと考えている善きものもなくなる、というのが神託の大意と中身であった。そういった全ての事柄は隷属する者にではなく、権威を持つ者に属する。だからもし誰かが自分自身か他の人のために使うべく人生における良き品々を取っておこうと望むのならば、彼は何よりもまず自由を勝ち得るべきである。両方の財産〔人生における良き品々と自由〕は男たちの関心事であり、それらのいずれも他方のものが欠けていれば、手にする者のためにはならない。というのも自分たちのうちに争いがあるならば勇敢であることは男たちのためにはならないし、臆病であれば心を一つにすることも役に立たなくなるからだ。
 同上のリュクルゴスは強欲に関する神託をデルフォイから受け、それは以下の箴言の形で記憶に伝えられている。
強欲、それだけが
スパルタを破滅させるだろう。
 ピュティアの巫女はリュクルゴスに以下のような文言で政体に関する神託も伝えた。
しかして主アポロン、銀の弓の持ち主
遠くへと放つ者、黄金の髪を持つ彼の者は答えた
かの者の富める神殿より。王どもよ、
神々のうち彼の者に栄誉を与えよ、
彼の者がスパルタの愛しい都市を案じしことを心に刻みて
集いでは第一の地位を与えよ。老人たちよ、
古き価値ある者どもよ、彼らの後に従いて
順に出でる戦士の者ども皆
整然たるレトラに従え、立派に話し
振る舞いでは正義を為せ。
この国に曲がった話し合いを出さぬように。
人民の身体には
決断と力のあらんことを。しかしてこれは
フォイボスがこの都市に定めしこと。
 神への敬虔を重んじない者は人への正義を守ることにもあまり関心を示さない。
 ラケダイモン人はリュクルゴスの諸法守ったことで卑しい民からギリシアで最も有力な民へと成長し、ギリシア諸国への覇権を四〇〇年以上も保持した(「500年」のほうがより正しいが、紀元前8世紀頃から紀元前371年のレウクトラの戦いでの敗北までの期間(N)。)。しかし時が過ぎると彼らは少しずつ制度を緩めて贅沢と無頓着へと流れ始め、貨幣を使って富を積み上げるように堕落してしまうと、彼らは覇権を失った。
13 アルゴス領を自分の取り分として獲得したテメノスは軍を連れて敵地へと攻め込んだ。長く続いた戦争で彼は息子たちに指揮をする地位に昇進させず、娘婿で特にお気に入りだったデイフォンテスに最も名高い相手に向けて軍を率いていく作戦を任せた。このためにキッソスとファルケス、ケリュネスといった彼の息子たちはテメノスに憤慨し、父に対してある悪人らを使った陰謀を練った。そして後者は息子たちにそそのかされてある川の近くでテメノスを待ち伏せた。しかし彼らは彼を殺し損ない、彼を負傷させただけで逃げ去った。
 アルゴス人は彼らの王と共にラケダイモン人に対して行った戦争で重大な逆転を経験して彼らの父祖伝来の祖国をアルカディア人に引き渡すことを強いられたため、王が彼らの土地を追放者に与えてくじ引きで分割したことを根拠として王にこの責任を帰した。多数の市民が彼に反旗を翻し、自棄を起こして彼に暴力を振るったことから、彼はテゲアへと逃げてそこで彼の厚意を受けた人たちの手で栄誉を与えられつつ余生を過ごした。
14 最も学識あるディオドロスが彼の歴史書で述べている通り、アルゴス人の王政は五四九年間続いた。

〔以下はエウセビオス『年代記』の別の箇所からの抜粋〕

15 アッシリア人の支配がその最後の王サルダナパロスの死によって終わりを告げた後、マケドニア人の時代がそれに続いた。
 財貨に貪欲だったカラノスは最初のオリュンピア紀より前にアルゴス人と残りのペロポネソス人から軍を集め、この軍を連れてマケドニア人の領土へと攻め込んだ。たまたま時を同じくしてオレスタイ人の王がエオルダエイ人として知られる隣人との戦争状態にあった。彼がカラノスに援軍に来るよう頼んで自国の半分を与えることを約束すると、カラノスはオレスタイ人に平和を確立した。王は約束を守り、カラノスは土地を受け取ってそこで三〇年間王として支配した。彼は老齢で死に、コイノスとして知られる息子が王位を継承して二八年間支配した。彼の後、ティリンモスが四三年間、ペルディッカスが四八年間支配した。ペルディッカスは王国を拡大しようと望んでデルフォイに伺いを立てた。
 同じ主題について彼〔ディオドロス〕はもう少し書いている。
 ペルディッカスは四八年間支配してアルガイオスに王権を残した。三一年間の治世の後にアルガイオスの王位を継いだのはフィリッポスで、三三年間支配してアエロパスに支配権を残した。彼は二〇年間支配し、アルケタスが王位を受け継いで一八年間支配し、彼はアミンタスに王権を残した。彼の四九年間の治世の後にアレクサンドロスが王位を継いで二二年間保持し、それからアルケラオスが一七年間、アエロパスが六年間王位にあった。彼の後のパウサニアスは一年間、プトレマイオスは三年間、それからペルディッカスは五年間、フィリッポスは二四年間〔支配した〕。アレクサンドロス〔三世・大王〕は一二年間をペルシア人との戦争に費やした。
 このような系譜によって信頼できる歴史家たちはマケドニア諸王の血統をヘラクレスへと遡っていった。マケドニアの勢力を統一して権力を掌握した最初の人であったカラノスからアジアの地を征したアレクサンドロスまで、二四人の王と四八〇年が勘定されている。
16 ペルディッカスは王国の力を増そうと望んでデルフォイへと神託を伺う手紙を送った。ピュティアの巫女は彼にこう答えた。
富める土地の上に打ち立てよ
テメノスの正しく貴き血筋の、
アイギスの盾を持つゼウスの諸王の力を。されど急ぎ行け
群れの豊富なボッティアイスへと。そして
そこで汝は白き角の山羊どもを見るだろう、
雪の如く白き毛を持ち夜明けに憩う山羊どもを
聖なる神々の犠牲に捧げよ、
その地に国の都を建てよ。
17 カラノスの系譜はテオポンポスを含む歴史家の大部分とディオドロスが報告するところでは、以下のように提示されている。カラノスは、ヘラクレスの息子ヒュロスの息子クレオダイオスの息子アリストマコスの息子テメノスの息子キッシオスの息子テスティオスの息子メロプスの息子アリストダミスの息子フェイドンの息子である。しかし彼が言うところでは、異なった系譜を示している人たちもおり、その述べるところではカラノスは、さらにまたペロポネソス半島へと帰ってきたテメノスの息子ラカレスの息子デバロスの息子エウリュビアデスの息子クレオダイオスの息子クロイソスの息子ポイアスの息子である。




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