36巻→ディオドロス『歴史叢書』37巻(断片)→38巻

1 人間の行動が永遠に記憶されるために歴史書に記録されるようになって以来、マルシ族からその名がつけられたマルシ戦争が我々に知られている限り最大の戦争である。なるほどこの戦争は指導者の勇気と彼らの偉業の偉大さの双方においてこれまでの全ての戦争を上回っている。最も名高い詩人のホメロスは彼の英雄叙事詩によってトロイア戦争を永遠に有名にした。ヨーロッパとアジアのこの戦いの中で二つの最大の大陸が勝利を争い、後世の人々が劇場で神話の主題と悲劇の主題として大規模に描き挙げることになるような偉業を成し遂げた。だがこれら古の英雄たちがトロイアスの諸都市を服属させるのに一〇年をかけた一方で、後のローマ人はアンティオコス大王を一度の会戦で打ち破ってアジアの主となった。トロイア戦争の後にペルシア王がギリシアに軍を進めた。滅ぶことのない諸河川が王の引き連れていた戦士の群れによって干上がった。しかしギリシア人の勇気と合わさったテミストクレスの軍略の腕前がペルシア軍を破った。同時に三〇万人のカルタゴ軍がシケリアに上陸すると、シュラクサイの支配者ゲロンが一つの軍略を使って短時間のうちに二〇〇隻の船を焼き、一度の会戦で十五万人の敵を殺して同数を捕虜とした。しかしマルシ戦争を戦ったローマ人はこれら全ての偉業を成し遂げた人たちの子孫を破った人たちだった。より近い時代ではその天才と際だった勇気によってペルシア帝国を覆したアレクサンドロスの祖国だったマケドニアをローマ人は征服した。カルタゴは二十四年間シケリアでローマ軍に対抗し、陸と海での最長且つ最大数の戦いを行った末、ローマ人の力に屈した。その後、カルタゴがいわゆるハンニバル戦争を始めた後、カルタゴは陸と海で多くの勝利を得て、最も秀でた将軍だったハンニバルの指導下での偉業への多くの名声が得られたにもかかわらず、最終的にはローマ人とイタリア人の勇気並びにスキピオの能力に屈した。巨人の威容を持ったキンブリ族はローマの大軍をいくつも壊滅させて四〇万人の兵力でイタリアに攻撃をかけたが、ローマ人の勇気のおかげで何一つ成し遂げることがなかった。
 かくして勇気による勝利がローマ人とイタリアの人々に与えられたのは当然だと誰もが判断していたが、運命はこの人々の間に故意に不和を醸成し、その規模において他の全ての戦争を上回る戦争の幕が切って落とされた。常に最も勇敢だと見なされていたイタリアの人々は内部の派閥によって分裂し、ローマの覇権に対して反乱を起こした。それから勃発したこの大戦争は反乱の指導者であるマルシ族の名にちなんだマルシ戦争と呼ばれた。
2 いわゆるマルシ戦争(ディオドロスの存命中に起こった)はこれまでの全ての戦争より大きかった(とディオドロスは述べている)。イタリア人がローマ人に対してこの全面戦争を起こしたものの、マルシ戦争は反乱の指導者からその名がついている。慎ましやかに質素な生活をしながら大なる勢力を築き上げたローマ人が悦楽と奢侈と放蕩にふけったことがこの戦争勃発の最初の原因だと言われている。この変化は平民と元老院の大きな対立の原因となり、元老院がイタリア人に支持を呼びかけ、イタリア人がしばしば行った請願への返答の中で彼らに選挙権を授与してローマの自由市民にし、これに法律上の承認を得ると約束したが、イタリア人は約束が実現しないのを見て取ると、彼らの火花はルキウス・マルキウス・フィリップスとセクストゥス・ユリウスが執政官で第一一七回オリュンピア会期の時についに燃え上がった〔紀元前91年。〕。
 この戦争を通して多くの殺戮、攻城戦、そして双方の町の略奪が起こり、どこに落ちてくるもか分からない勝利とてその時々の儚いもので、どちらの陣営に彼女〔運命を擬人化した女神〕が味方しているかの保証は与えられなかった。しかしついに大量の血が流された後にローマ人はやっとのことで優勢に立ち、以前の権力と統治権を取り戻した。この戦争ではサムニウム人、アスクルム人、ルカニア人、ピケヌム人、ノラ人及び他の諸都市と民族がローマ人と戦った。その中には大きく有名な都市で、最近イタリア人の首都と定められたコルフィニウムもあった。ここにはかくも大きな都市を支えて守り、政権を維持するために必要な全てのものがあった。とりわけ大きな公共広場と議事堂、大量の財産、そして全ての物資の豊富な蓄えがあった。同様に彼らは五〇〇人から成る元老院を擁しており、彼らの中から最も重要な行政長官職を占めるべきと見なされた人物が選ばれ、国家の事柄を管理した。したがって彼らはこの行政長官らに戦争の運営を任せ、元老院議員の手に全ての仕事を遂行するための絶対的な権力を授け、元老院議員らは二人の執政官と一二人の将軍が毎年選ばれるべしとの法律を作った。この時にマルシ人のクイントゥス・ポンパエディウス・シロ(彼の国では最も高名な人物だった)と、同様に自国の残りの者のうちで立派な振る舞いの故に令名高かったサムニウム人のガイウス・アポニウス・モテュルスが執政官に選ばれた。彼らは全イタリアを二つに分け、それぞれが執政官権限の行使にあたって〔権限を〕対等に分け合うことにした。彼らはいわゆるケルコイからアドリア海までの北部と西部の地方をポンパエディウスと六人の将軍にくじ引きで割り当てた。南部と東部の残りをイタリア人はモテュルスと同数の将軍たちに割り当てた。要するにそれはローマの政府の昔の型に則ってこの全てを調えたわけだが、全てのことを上首尾に処理した彼らはより大きな熱意を持って戦争の遂行に邁進し、その都市そのものをイタリアと呼んだ。そして彼らはその大部分〔の戦い〕で勝者となるほどの成功を得たが、それもグナエウス・ポンペイウス〔グナエウス・ポンペイウス・ストラボ。紀元前89年の執政官で、第一次三頭政治の一角として有名なグナエウス・ポンペイウスの父。〕が執政官にして戦争の司令官になるまでのことで、彼はもう一人の執政官カトー〔ルキウス・ポルキウス・カトー。紀元前89年の執政官で、大カトーの孫。〕の将軍スラと共にしばしば彼らを敗走させて苦境に立たせ、ついに彼らの勢力は粉々に打ち砕かれた。しかしなおも彼らは戦争を続行したが、イアピュギアに将軍として派遣されたガイウス・コスコニウス〔紀元前89年のローマの法務官。〕によって最悪の状態に陥った。したがって弱体化して数を減らたことでマルシ族と他の近隣部族はローマに投降したため、彼らは首都コルフィニウムを放棄して五人の将軍の指揮下でサムニウム人の都市アエセルニアに移ることに合意した。彼らは、勇気と戦争での賢明な統制での第一人者だったクイントゥス・ポンパエディウスをその将軍の一人にし、他の将軍たちの同意の上で三〇〇〇〇人に上る老兵の大軍を挙げた。これに加えて彼は奴隷を解放することで少なくとも一二万人の歩兵と一〇〇〇騎の騎兵を用意し、彼らを時間が許す限り武装させた。マメルクス〔マメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌス。後の紀元前77年の執政官。〕が将軍だったローマ軍との戦いに赴くと、マメルクスは少数の兵を殺しただけだったが、自軍は六〇〇〇人以上を失った。ほぼ時を同じくしてメテルスはアプリアの重要な都市で多くの兵がいたウェヌシアを占領し、三〇〇〇人以上を捕虜として連行した。
 今やローマ軍は日々一層敵に対して優位になったため、イタリア人は当時は見事な常備軍を持っていたポントス王ミトリダテスに代表団を送り、軍を連れてイタリアに攻め込んでローマ軍に対抗して欲しいと要請した。そうすればローマ人の勢力は簡単に崩壊するだろうと彼らは彼に語った。ミトリダテスは目下のところ取り組んでいるアジアの制圧ができ次第すぐにイタリアに攻め込むつもりだと答えた。したがって反乱軍は即座の援軍と資金提供の希望に対して失望を覚え、ひどく打ちひしがれた。それというのも残っていたのは僅かなサムニウム人だけで、これにノラのサベリア人、残余のルカニア勢を率いていたランポニウスとクレピティウスが加わるといった有様だったからだ。
 マルシ戦争がほとんど終わりかけていたところで、ローマの貴族らの多くの争議を起こすような質の野心の故にローマで再び内紛が起こり、その戦争で手にすることができる報償と富の莫大さに惹かれて誰もが対ミトリダテス戦争の将軍になろうと躍起になった。ガイウス・ユリウス〔ガイウス・ユリウス・カエサル・ストラボ。〕と六回執政官を担ったガイウス・マリウスは互いに争い、ある者は一方を、またある者は他方を〔支持する〕といった風に人々は折々に分裂した。同様に大体時を同じくして他でも動揺が起こり、執政官のスラがローマからノラの近くにいた軍勢の方へと向かい、多くの近隣の領土と諸都市を恐怖のどん底に突き落として投降させた。しかしスラが対ミトリダテスでアジアでの戦争に取り組むと、ローマは殺戮と内乱の巷と化した。ブルテッィウムに残っていたイタリア軍の将軍だったマルクス・ランポニウス、ティベリウス・クレプティウス並びにポンペイウスは強力な都市だったイシアエを占領しようと試みた。長期間その都市の前に陣取った後、彼らはレギオンを取れば容易にシケリアに軍を輸送して太陽の下にある島のうちで最も豊かなその島の主になれると期待し、包囲を続行させるために軍の一部を残してこの地に猛攻撃をかけた。しかしシケリア総督のガイウス・ノルバヌスが自らの軍勢の強大さと膨大な用意によって威圧したため、彼らは包囲を解いた。こうしてレギオン人は危機から解放された。その後、マリウスとスラの間で内戦が起こり、イタリア人のある者はマリウスに、残りの者はスラの側につき、彼らの大部分が戦争で殺された。生き残った者は全員が勝者スラに味方した者だった。かくして内戦と同時に全ての戦争のうちで最大の戦争だったマルシ戦争が終結した。
3 以前のローマ人は良き健全な法と慣習によって支配されていたために段々と勢力の高みに登り、ついには歴史が語ってきた中で最大の帝国を獲得するに至った。しかし後年、多くの民を征服して邪魔されることのない平和の享受にふけった後には昔の流儀から悪しき破滅的な悦楽へと堕落した。それというのも若者たちは戦争から解放された休みを楽しみ、彼らには情欲の糧となるありとあらゆるものが豊富にあり、奢侈と放縦に身を委ねることとなった。市内では倹約より乱費が好まれ、軍務を後回しにした安楽な暮らしが送られた。官能に全ての時を費やし、有徳で謹厳な振る舞いをしない者だけが幸せな人だと皆が考えていた。したがって豪勢な宴、この上なく良い香りの軟膏、花で飾られ刺繍の入った絨毯、豪勢で荘重な晩餐、金、銀、象牙並びに同様の材料で見事に作られた工芸品が至る所で流行した。並の品質の葡萄酒に彼らは手をつけず、ファレルニア産とキオス産のもの、その他の立派な葡萄酒にしか手をつけなかった。同じように、選び抜かれた魚と最高の種類のあらゆるものが彼らの恥知らずな贅沢を満足させるために供された。同様に若者たちはこの上なく見事で柔らかい羊毛の服や見事な織物の服を着たため、まるで婦人の化粧着がそうであるようにその薄さのために服が透き通ることさえあった。これら全ての物は贅沢と放蕩(ひいては彼らの滅亡と破滅)を増長させたために全ての人から普く無闇やたらに欲しがられることとなり、そのために瞬く間にそれらの値段は途方もない水準にまで高騰した。ファレルニア産萄酒の瓶は一〇〇ドラクマ、塩漬けにされたポントス産の魚は四〇〇ドラクマ、技術の高い料理人は個々四〇〇タラントン、優美な美少年は数タラントンで売られた。全ての人がこの贅沢な暮らし方の極みにあった一方で、属州総督の一部はその大罪を改めようと試みて全力を尽くした。結局のところ、彼らの卓抜した身分のために最も人目を引いたため、彼らは自らの暮らしを他の人たちに対する美徳と自由学芸の実例として位置づけた。
 賢人であり道徳の純粋さで際立っていたマルクス・カトーはローマを襲った贅沢を難じて元老院でこう述べて叫んだ。「塩漬けのポントスの魚の瓶のほうが牛のつがいより高値がつき、奴隷一人より稚児のほうが値が張るのはまったくこの都市だけだ」
4 私は他の人たちにとっての模範として何人かの人物について述べたいが、それは彼らに然るべき賞賛を与えて公的生活への助けとするためである。そうすることで堕落した人たちには歴史において彼らが被る譴責によって悪しき企図の追求へのやる気をなくさせ、良き人たちは賞賛と永久の栄光への期待から立派な振る舞いを求めることになるというわけである。
5 クイントゥス・スカエウォラ〔クイントゥス・ムキウス・スカエウォラ。紀元前95年の執政官。次の段落のムキウス・スカエウォラは同一人物。マリウスとスラの内戦の際に殺された。〕は自らが徳の模範となることで他の人たちの堕落した風潮を改めようと全力を尽くした。アシアの総督として送られた時、彼は友人のうちで最も尊敬に値する人物だったクイントゥス・ルティリウス〔クイントゥス・ルティリウス・ルフス。スカエウォラとルティリウスの改革路線は属州で阿漕な金儲けを続けたかった騎士の利害と衝突したため、ルティリウスはローマに帰国した紀元前92年に告発を受けて裁判にかけられ、スミュルナへの追放処分を下された。〕を総督代理とし、属州統治と法の執行にあっては常に忠告を求めた。スカエウォラは自分とその従者の全ての費用と出費を自腹を切って支払うことにした。そして節制と倹約、及び公正で適切な振る舞いによって彼はその属州を以前の窮乏と圧政から解放した。彼以前のアシア総督たちは、当時ローマで裁判の運営を牛耳っていた徴税人と共謀して違法な取り立てで属州全土を苦しめていた。
 ムキウス・スカエウォラは可能な限り勤勉且つ誠実に統治を担った。彼は全てのでっち上げの起訴をやめさせただけでなく、徴税人によって行われた傷害と虐待をもやめさせた。徴税人たちによる虐待を受けた人が彼に訴え出ればいつでも彼は徴税人たちに適切な裁きをして有罪判決を下し、どの場合でも彼は彼らに刑を宣告し、彼らが傷つけた人たちに割り当てられた慰謝料を支払わせた。しかし死刑相当の罪には死刑を宣告した。主たる徴税人たちの給仕の一人で、主と大金と引き換えに解放の契約を結んだ者に対し、彼は解放前に死刑判決を下して磔刑にした。
 彼は被害を受けた人たちによって裁判で有罪判決を受けた人たちを監獄へと連行させるために引き渡した。かくして以前には横柄さと強欲によってあらゆる不正を働いた人たちは予期せずして自分が傷つけた人たちによって監獄へと急き立てられることになった。さらに自分のための出費と従者の出費を自腹を切って支払うことで彼はすぐにローマの人々に対する全ての同盟者の好意を回復させた。
5a ……と彼は意図したが、幾人かが言うところでは、彼は土地の大部分を他の息子に受け継がせるために残したことでその全てを喪失する危険を冒すことになった。きわめて無鉄砲でせっかちだったこの若者〔後述のエウフェネス。マケドニアの王政復古を掲げてローマに対して反乱を企んだ。〕は冠を被って自らをマケドニア人の王と宣言した。彼は人民にローマ人に反乱を起こして古の父祖伝来のマケドニア人の王国を再興しようと呼びかけた。多くの人が戦利品への期待から彼に味方すべく集まってくると、不安になったエクセケストゥスは法務官センティウスに使者を送って自分の息子の愚行を知らせた。また彼はトラキア人の王コテュス〔おそらくオドリュサイ王国のコテュス五世。〕と接触し、その若者を召喚して計画を捨てるように説得するよう頼んだ。エウフェネスの友人だったコテュスはその若者を呼び寄せ、数日間留め置いた後に父のもとへと帰した。こうして彼は自分への告発から解放されることになった。
6 総督はその賢明さと時宜を得た救済によってローマ人の支配に持たれていた憎悪に終止符を打った。彼は自分が助けた人たちから神のような栄誉を、同法市民から数多くの賞賛を受け取った。
7 卑賤な境遇から始め、すでに述べた人たちと遜色ない目標を目指して努力した人たちのことも我々は述べるべきである。というのも謙虚な人と高尚な人たちは良き行いによって自ら立派になろうとする同じ熱意に勇気づけられるからである。
8 父が財務官だったルキウス・アシリウス〔紀元前96年のシケリア担当の法務官。〕は法務官としてシケリアに送られ、その属州の騒乱と荒廃を見て取った。しかし諸事の賢明な監督によって彼は短期間でそこを以前の状態まで回復させた。スカエウォラの例に倣って彼は友人のうちで最も尊敬に値し、伝統的な節度ある生活様式の信奉者だったガイウス・ロングスを総督代理に選び、シュラクサイに住むローマ騎士のうち最も高名で、運命の贈り物に加えて人格の徳性で名高かったプブリウスを彼と一緒に相談役として用いた。彼の敬神ぶりは生け贄、贈与、そして寺院の装飾によって十分に証明されており、人生の最後の瞬間に至るまでの全ての感覚の素早く活発な使用は節度と節制の明らかな証明だった。彼の学識と礼儀正しい態度は学識ある人たちからさえ認められた彼の偉大な価値と評判、自由学芸と学問の研究に専心する人たちへの金銭的な気前の良さと寛大さから明白である。シリウス〔恐らくアシリウスの誤記。〕はこの二人の助言を頼みとしつつそれ〔属州〕を改善しようと日ごと気を配って属州の全ての事柄を再び正道に戻し、この二人は彼の近くで暮らすために隣の家に住み続け、彼が法廷の運営に取り組んでいた時は一緒に着席するほどだった。
 法廷でこの人は公益を目指し、全てのごますり屋とでっち上げの告発を行った者の審議を明晰に行った。彼が主として気を配ったことは最も貧しい人たちと自分を自分で支えることのできない人たちの救済だった。他の法務官たちが孤児、後見人や保護者となるような友人を持たない未亡人の世話に取り組んでいた一方で、彼は自ら彼らのために責任を持って取り組んで想像しうる限り勤勉に彼らの面倒を見ようと決意し、圧迫されていた人たちを大いに救済した。そしてシケリア総督である限り、島が以前の幸福で繁栄した状態を取り戻すまでは公私における損害を抑制しようと絶えずこの上ない程の努力をした。
9 元老院は法廷の監督権を騎士たちに移管についてグラックス〔ガイウス・センプロニウス・グラックス。いわゆるグラックス兄弟の弟の方。彼は属州総督の弾劾裁判の裁判権を騎士に移し、元老院の反発を受けた。〕を戦争に訴えることで脅しつけた。しかし彼は大胆にも「私が死んだとしても、私は……元老院の側から抜かれた剣……を止めない」と言い放った。この言葉はまるで神託のように諸々の出来事によって実現された。というのも僭主的な権力を切望したグラックスは裁判抜きで殺されたからだ。
10 マルクス・リウィウス・ドルスス〔紀元前91年の護民官。騎士階級の元老院への加入、汚職対策などに関する立法を行った。〕はまだ非常に年若かったにもかかわらず、その心身いずれに関してもあらゆる賞賛に値する資質で飾られていた。それというのも彼は生まれの高貴さと有徳な性格の両方のためにローマの人々から非常に愛されていた令名高い父の息子だったからだ。彼自身は雄弁さで全ての同輩を、富と財産で全ての同法市民を上回っていた。言葉の正直さのゆえに彼は市民の間で非常に大きな影響力と権威を獲得し、そのまったく気高い魂から元老院の唯一の保護者とみなされた。
 ドルスス家はその高貴な出自と市民に対する優しさから大きな影響力を持った。ある法律が最近提案されて承認された時、ある市民がふざけて自分の投票札の下に「この法律は市民皆に適用されるが、二人のドルススは除くものとする」と書いた。
 元老院がドルススの提案した諸法案を却下した時、彼は「私は元老院の法令に反対する権限を持ってはいますが、そうはいたしません。なぜならその罪を犯せばすぐに彼らの罰を受けることになることを私は知っていますから」と言った。さらに彼が言い添えたところでは、自分の諸法案が破棄されれば司法に関する自分のある法律の撤廃が結果として招来することになるだろうし、この法律によってあらゆる高潔な人は告発の恐怖から解放される一方で、属州を略奪したものは罪人として裁かれることになったため、彼の栄光を減らそうと企む嫉妬深い人たちは自分の法令を殺すことになるだろう、と。
11 「カピトリヌスのユピテル、ローマのウェスタ、この都市の守護神マルス、全ての人の祖先たるソル、動物と植物への恩恵者テラ、ローマを建設した半神たち、そしてローマの勢力拡大に貢献した英雄たちにかけて、私はドルススの友であれ敵であれともに私のものであることをここに誓い、ドルスス及び同じ誓いで結ばれた人たちの関心事がそれを要求するのであれば、私は自分の命であれ子供たちであれ両親であれ命乞いをするつもりはない。ドルススの法によって私が市民になれば、私はローマを我が祖国とみなし、ドルススを我が最大の恩人とみなすだろう。私はこの誓いを可能な限り多くの自分の同胞市民に伝えたい。もし私が誓いを守れば、私はあらゆる恩恵を手にするだろし、誓いを破れば逆のことが起こる」〔これはイタリアの同盟都市に対してもローマ市民権を認めるというドルススの法案を支持するイタリア人の発言。〕
12 ある日、公的な競技祭が開催されて劇場がローマ人の観客でいっぱいになった時、役にそぐわないことをしたという口実の下で彼らは舞台上で腹立たしいことを口走った芸人を殺した。この時に運命はその状況にお似合いの皮肉な性格をその場にもたらし、劇場全体が混乱と恐怖に包まれた。この芸人の名はサウニオといい、ラテン人の生まれだった。彼は非常に抜け目のない道化で、言葉によるだけでなく黙ったまま身体を様々に動かすことでも人を笑わせたためにローマの劇場では非常に有名だった。ピケヌム人はこの滑稽な役者が提供する娯楽をローマ人から奪おうと望んだため、彼の殺害を決定した。サウニオは自らを待ち構える運命を知ると、この芸人がまさにそこで殺された舞台に足を踏み入れ、聴衆に向けてこう言った。「お客様方、縁起が良いぜ! この悪さが幸運に転じるだろうからな! 俺はローマ人じゃあないし、それこそあんたらみたいに束桿の家来でもねえ! 俺は人を笑わせて喜ばせることで贔屓にして貰おうとイタリア中を回っているんだぜ。だから神様のおかげであんたらみんなの家に安全に巣を作るのを許してもらっているようなツバメに遠慮はいらねえ。だってあんたらの心を乱すようなことをするのはいいことじゃねえからな」この道化は他にも多くの彼らを笑わせるような滑稽な話を続け、群衆を宥めることで危機から逃れた。
13 マルシ族の将軍ポンパエディウスは偉大で類を見ない功業を成し遂げようと企んだ。彼は攻撃の故に相応の罰を受ける恐れがあった者から一〇〇〇〇人の兵を選抜して彼らに上着の下に剣を隠すよう命じ、この武装兵たちで元老院を取り囲んで市民権を分与するよう要求すべく意図してローマへと進んだ。これが認められなければ、彼らは剣で国家を破壊するつもりだった。ガイウス・ドミティウス〔ガイウス・ドミティウス・アヘノバルブス。紀元前96年の執政官。〕が途上の彼に会い、こう尋ねた。「ポンパエディウス殿、そんな大人数を連れていったいどこへ行こうというのですか?」市民権分与のために護民官によって召喚されていたため、彼はこう答えた。「ローマに」しかしドミティウスが答えて言うに「喧嘩腰で元老院に訴えなければ、貴殿が求めているものはもっと楽に、もっと名誉ある仕方で得られましょうぞ。別に元老院は同盟者にして盟友であるラテン人にそんな親切をすることを強いられているというわけではなく、要請され請願される立場なのですから」ポンパエディウスはまるで天から神の説諭を受けたかのようにこれに衝撃を受けてドミティウスが言ったことに納得し、すぐに帰国した。したがって法務官セルウィリウス〔クイントゥス・セルウィリウス〕がピケヌム人にしたよりも効果的な言葉をポンパエディウスにかけたドミティウスは賢明な忠告によって自分の国を脅威となる恐るべき不幸から救うことになった。と言うのもセルウィリウスは自由民と同盟者に対してではなくまるで奴隷に対するように話し、最大の侮蔑と考えうる限りの嘲弄で彼らを嘲ったからだ。彼は恐るべき脅迫を述べ立てて、同盟者を自らと他者双方の破滅と壊滅へと駆り立てたものだ。しかし逆にドミティウスは穏やかで冷静な話しぶりで荒ぶる叛徒の怒りと暴力を静めた。
14 彼らは戦争の旨味を与えて自由のための戦いに一層やる気を出すようにするために兵士と戦利品を山分けした。
15 マリウスはサムニウム人の平地へと軍を率い、敵前で野営した。マルシ軍の総司令権を委ねられていたポンパエディウスもまた兵を率いて進撃した。両軍が互いに近づくと、彼らの好戦的な態度は平和的な雰囲気に変わった。彼らが視界に入ると、双方の兵士は賓客、親友、ついには家族の紐帯で結ばれていた多くの者の姿を認めた。従って自然的な同情が彼らに言葉を交わさせ、彼らは互いに名を呼び合い、相手に向かって血縁を殺すために前進しないように促した。戦いの準備ができていた武装を脇にのけ、彼らは右手を伸ばし、愛情を込めて抱擁した。この様を見たマリウスもまた戦列を離れ、ポンパエディウスも同じようにし、二人の司令官は親しげに話をした。両司令官が長々と和平と市民権について話をしていた間、双方は喜びと希望に満ちあふれ、戦の代わりに祝祭のような様を呈した。適切な言葉によって指揮官たちは平和的な結論を促し、彼ら皆が流血と戦いを喜び勇んで避けた。




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