34・35巻→ディオドロス『歴史叢書』36巻(断片)→37巻

1 およそその頃にマリウスが大決戦でボックスとユグルタといったアフリカの王たちを破って何千人ものアフリカ兵を殺し、その後にユグルタその人――ローマ人の好意を得つつ彼らに対して戦争を起こしたことへの許しを得るためにボックスによってマリウスに引き渡された――を捕らえたが、ローマ人自体はキンブリ族とガリア人に対する戦争で被った大損害のために苦しい立場にあった。その上、まさに同時にシケリアから到着した人たちが何千人もの奴隷が反乱に立ち上がったことを報告した。したがってローマ国家全体がこのような苦境にあったため、彼らはどうやってこれを覆したものか分からなかった。キンブリ族との戦争で六〇〇〇人の同盟軍をガリアで失った後の彼らには新たな軍を送り出すのに十分な兵がなかった。
2 おまけにシケリアでの奴隷反乱の前にもイタリアで数多くの反乱が起こっていた。しかしこれらは短期間で大したものではなく、それはあたかも神がシケリアでの大反乱の兆候なり前触れをローマ人に与えたかのようだった。最初の反乱はヌケリアで起こり、三〇人の召使いが陰謀を企んだがすぐに罰せられた。二つ目の反乱はカプアでのもので、二〇〇人が武装蜂起したがすぐに鎮圧された。三つ目は以下のような奇妙な仕方で起こった。父の代から非常に金持ちだったローマ人騎士ティトゥス・ミヌティウスが他の人の非常に美しい少女だった下女とたまたま恋に落ちた。彼女を喜ばせるために彼は並々ならぬ情熱に突き動かされてほとんど狂気の域にまで達した。彼は彼女をその主人から買い取ろうと望んだが、その主人はなかなか説得されなかった。ついにこの恋に落ちた男は七アッティカ・タラントンで彼女を買い受け、金の支払いのためにしばしの時間を取ることに合意した。この時までは彼の父の莫大な財産のおかげで彼は信用されていた。しかし支払日が来ても彼は金を工面できず、三〇日延期してくれるよう頼んだ。その時が来ると貸主は彼に金を要求してもこの恋に落ちた男はまだ支払えなかったが、それでも彼の愛は以前と変わらず熱烈なままだった。ついに彼の頭に浮かんだ尋常ならざる考えが金を要求する人を罠にかけるよう彼を唆した。ついに彼は君主の国家と権威を獲得しようと決意した。したがって彼は五〇〇組の鎧兜を買い入れた。彼が信用されて新たな支払い期日が設定された後、彼は密かにある原野へと退き、ここでおよそ四〇〇人を数える自分の奴隷たちに反乱を起こすよう扇動した。それから彼は王冠と紫の袖なし外套、王の他の全ての記章と象徴を身につけ、自らを王にして奴隷の解放者と宣言した。手始めに彼は、彼が件の若い女のために与えたお金を要求していた者全員を鞭打って殺害した。それから彼は武装した奴隷を連れて次の町に入り、彼と合流する準備ができていた者に武器を与えて刃向かった者を皆殺しにした。間もなく七〇〇人ほどを集めると、彼は彼らを一〇〇人ごとに分けた。そして自分の守りを固めると、主人のもとを脱走した全ての奴隷を受け入れた。
 反乱の報がローマに入ると、元老院は被害を食い止めるために賢明な処置を取って見事鎮圧した。逃亡奴隷を減らして罰する仕事の処置と取り扱いは都市〔ローマ〕の法務官の一人ルキウス・ルクルスに委ねられ、彼はローマで六〇〇人の兵を集めて同日にカプアへと向かい、そこで四〇〇〇人の歩兵と四〇〇騎の騎兵を集めた。ウェッティウス〔上述のミヌティウスと同一人物。〕はルクルスの進軍の速さを聞くと彼目がけて進撃し、三五〇〇人の兵でもって強固な丘に陣取った。最初の戦いでは高地を頼んだ逃亡奴隷が優位に立った。後にルクルスは国家の代理者として無罪放免にしてやると約束してウェッティウスの将軍のアポロニウスを味方を裏切るよう買収した。アポロニウスは時間通りローマ軍に呼応してウェッティウスを攻撃し、恐れていた反乱への罰を避けるためにウェッティウスは自害した。残りの叛徒はアポロニウスを除いてすぐに殺された。これはシケリアでの大反乱の序章のようなもので、その大反乱は以下のようにして始まった。
2a 多くの奴隷反乱が起こった。最初の反乱はヌケリアで起こり、三〇人の奴隷が陰謀を練ったが速やかに鎮圧された。二つ目の反乱はカプアで起こり、二〇〇人の奴隷が反乱に参加したが速やかに鎮圧された。三つ目の反乱は並々ならぬもので、通常の出来事とは模様が非常に異なっていた。非常に金持ちの父を持っていたローマの騎士のティトゥス・ウェッティウスなる者がおり、まだ若者に過ぎなかった彼は他の人の女召使いを強く思慕しており、彼女は非常に美しい少女だった。彼女と交際してかなりの時間一緒に暮らした後、彼は異常な熱意とある種の狂気の虜となった。彼女への愛の故に彼はその少女を買い取って自由にしようと試みた。当初、彼女の持ち主はこれを拒絶したが、後に高額の申し出に折れて七アッティカ・タラントンで彼女を売ることに合意し、金を引き渡す時が定められた。父の豊かな財産の故にその額を支払うことを請け負ったその少年は少女を連れ去って父の所有地の一つに行き、そこで彼女と情欲を満たした。支払いに呈された時が来ると、何人かの男たちがやってきて金を要求した。支払いを三〇日間延期した後、それでも金の当てがなかったこの自らの情念の奴隷と化していた少年はこの上なく奇妙な行動に訴えた。感情の強さと支払い延期から起こる恥ずかしさは彼を子供っぽい実に馬鹿げた考えへと駆り立てた。彼の恋人に似つかわしい逸脱行為を企むと、彼は支払いを要求する人たちに対して自暴自棄の陰謀を企て……
3 キンブリ族に対するマリウスの作戦指揮の一環として元老院は海の向こう側の国々から兵を集める任務を与えた。最終的にマリウスはビテュニア王ニコメデス〔三世〕に使節団を送って支援軍としていくばくかの兵を送ってくれるよう要請した。しかしニコメデスは、大部分のビテュニア人は徴税人によって奴隷として連れ去られて〔ローマの〕諸属州に散らばっていると答えた。これを聞くと、元老院はローマの同盟に属するいかなる自由民もどの属州であっても無理矢理に奴隷にされてはならず、法務官たちは彼らが解放されたかを見届ける任に就くべしという布告を発した。この命令の履行にあたってシケリアの法務官リキニウス・ネルウァは審理を行い、僅かな日のうちにシケリアの全ての奴隷が元気づけられて自由の希望への確信を膨らませたほど多くの奴隷を解放した。したがって最も高名なシケリア人たちは法務官に訴え出てこれ以上の解放を行うのを思いとどまるよう求めた。そこで彼は、買収されたかあるいは好意を得ようとして審理への支援を切り上げ、もし他の者が解放されようと期待して彼のもとを訪れたとしても厳しい言葉で退けて主人のもとへと送り返した。これを受けて奴隷たちは陰謀を企むに至り、彼らはシュラクサイを去ってパリコイの二柱の神の森に集まり、ここで計画中の反乱を論じ合った。奴隷たちの大胆な機運は島中多くの場所で公然たるものとなった。他の者たちのうち、ハリキュアイ地方の二人の金持ち兄弟の三〇人の奴隷が最初に自由を主張した。彼らの指導者はウァリウスなる者だった。彼らは手始めに寝台で眠っていた主人たちを殺した。次いで彼らは近隣の住居へと去り、全ての奴隷たちに自分たちに倣って自由を得るよう訴えた。そして一二〇人以上の奴隷がその一晩で彼らの味方になった。ここで彼らは天然の要害だったある土地を占拠して防備を固めてより強固にしようとし、八〇人の良い武装をしていた男たちがそこの彼らのもとへとやってきた。属州総督のリキニウス・ネルウァは彼らの略奪を止めようとして彼らに向けて急行したが、試みの全てが無駄に終わった。したがってその地が力攻めで占領されなかったのを見て取ると、彼は寝返りによってそこを手に入れようとした。彼はガダエウスとあだ名されていたガイウス・ティティニウスなる者と密かに渡りをつけ、身の安全と保護を約束することで自分の目的達成にあたって支援を行うよう説き伏せた。この男は二年前に死刑を宣告されていたが逃亡し、その属州の多くの自由民に対して強盗と殺人を働いていたが、奴隷は決して傷つけなかった。ティティニウスはまるであたかもローマ人と一戦交えるにあたって彼らの味方するつもりであるかのように、反乱軍が陣取っていたこの砦に奴隷の大部隊を連れてやって来た。彼らが喜んで心底から彼を迎え入れると、持ち前の大胆さが認識された彼は彼らの将軍となり、次いで彼は砦を明け渡した。それから一部の叛徒は抵抗して殺され、残りは捕虜になりでもしたら降りかかるであろうことへの恐怖から岩壁の頂上から真っ逆さまに身を投げた。このようにして最初の奴隷反乱は鎮圧された。
4 しかしおよそ八〇人の奴隷が蜂起してローマ人騎士プブリウス・コロニウスの喉を掻き切ってその数が今や非常に増えていたという知らせが届くと間もなく部隊がその地方へと戻ってきた。よりにもよってなお悪いことに、法務官が良からぬ忠告を受けて軍の大部分を解散させた結果、遅れが生じて反乱軍が強化される時間を与えてしまった。しかし彼は手持ちの兵を連れて彼らに向けて進軍した。アルバ川を渡って間もなく、彼はカプリアヌス山に集まっていた反乱奴隷のいるところから逸れてヘラクレイアに到着した。そこで法務官が臆病者で攻撃を受けるのを恐れているという知らせが広まり、非常に多くの奴隷が反乱への参加を励まされた。したがって非常に多くの奴隷が戦える装備をできる限りつけて集うと、七日間で武器を取った者はおよそ八〇〇人にもなった。そして間もなく彼らは二〇〇〇人を数えるほどになった。ヘラクレイアの法務官は彼らの数が増えつつあることを知らされると、エンナの守備隊から引き抜いた六〇〇人を与えてマルクス・ティティニウスを指揮官として差し向けた。このティティニウスは反乱軍と戦い、地の利と数で優位だった彼らは彼を敗走させて多くの兵を殺し、生き残りは武器を捨てて非常に難儀をしつつ逃亡によって生きながらえた。これによって反乱軍は突如として非常に多くの武器を手に入れたため、反乱を貫こうと固い決意をし、今や全ての奴隷が反乱にやる気を出した。日ごとに反乱にいっそうの奴隷が反乱に加わるようになると、すぐにその数は誰もそのようなことがありえようかと疑うほど一気に膨れ上がり、その結果として数日間でおよそ六〇〇〇人になった。彼らは集会を招集して相談し、手始めに占い師として評判高く、女たちの演芸では横笛を乱暴に演奏していたサルウィウスなる者を王に選んだ。しかし王に担ぎ上げられた彼は都市が怠惰と女々しさの苗床だとして都市での生活を軽蔑した。その後、彼は軍を三部隊に分けてそれぞれに将軍を任命し、その地方のあちこちに進出して所定の時に一つの軍へと再合流するよう命じた。これらの略奪で彼らは馬とその他の動物をたっぷり手に入れたため、彼らは非常に未熟で戦争に不慣れではあったものの、短期間でおよそ二〇〇〇騎の騎兵と二〇〇〇〇人を下らない歩兵を擁するまでになった。その他の襲撃の一環で彼らは強固で良く防備が施された都市だったモルガンティネを攻撃し、非常に激しく絶えることなく攻め立てた。
 ローマの将軍はその都市を解放しようと意図してイタリアとシケリアの約一〇〇〇〇の兵を連れて夜に進軍した。彼が包囲にかかりきりだった反乱軍の不意を突いて奇襲を仕掛けて彼らの野営地へと突入すると、見張りは僅かばかりだったが捕虜が非常に多く、ありとあらゆる略奪品が豊富にあったのを見つけた。彼はいとも容易くこの全部を鹵獲した。野営地を略奪すると彼はモルガンティネへと向かった。しかし反乱軍が非常に興奮しながら彼へと反転してきて、高地を活かしたことですぐに彼を敗走させて彼の全軍を総崩れにさせた。反乱軍の王は武器を投げ出した者は殺してはならないとお触れを出し、このために兵の大部分は武器を投げ捨てて逃げた。これによってサルウィウスは野営地で失ったものを取り戻して栄光ある勝利、そして多くの戦利品を獲得した。王の寛大さのおかげで殺されたイタリア兵とシケリア兵は六〇〇人もいなかったが、四〇〇〇人が捕虜になった。この勝利の後、多くの奴隷がサルウィウスに合流すべく集い、彼の軍は以前の二倍に膨れ上がった。このようにして自ら開けた郊外の絶対的な支配者となった彼はモルガンティネを再び包囲し、市内の奴隷全員に自由を約束した。しかし彼らの主人たちも、もし奴隷が忠実なままでいてその地の防衛に参加すればといって同様の約束をした。彼らはどちらかといえば主人から差し出されたものを受け取ることを選んだ。彼らは断固として戦ったために敵に包囲を解かせるほどだった。しかし後に法務官は奴隷との解放の約束を反故にした。これが彼らの多くが反乱軍に走る原因となった。
5 この後、エゲスタとリリュバイオンの領地の全ての奴隷にも同様にこの反乱への欲望に伝染した。彼らの指導者は勇敢なキリキア男のアテニオンだった。この男は金持ちの二人兄弟の給仕で一級の占星術師であり、手始めに数にして二〇〇人いた自分の配下の奴隷たちを自分に味方するよう説き伏せた。その後、彼は近隣地域で暮らしていた奴隷も加えたため、五日間でおよそ一〇〇〇人を集めた。彼らは彼を王にしてその頭に冠を被せた。アテニオンは他の反乱軍とは非常に異なった仕方で物事を命令することを決意した。というのも彼は自分のもとに来る者を誰であれ差別せず受け入れることはせず、最良の戦士となるであろう強く健康な身体を持った者だけを受け入れたからだ。残りの者には以前の仕事を続けるよう強い、彼のいる場所にいる者は誰であれ勤勉に責務を全うした。こうやって彼は兵士のための豊富な物資を手に入れることができた。彼は自分がシケリア全土の王になることを星によって神々が予告していると称し、このためにその全てが彼のものであるとしてその地方の略奪や家畜や穀物の破壊を押し止めることができた。ついにおよそ一〇〇〇〇人の兵を擁するに至ると、彼は難攻不落と謳われた都市だったリリュバイオンの包囲に踏み切った。しかしうまくいかなかったため、もし包囲を続ければ何らかの突然の不運に確実に見舞われるだろうとの警告を神々から受けたと称してその計画を放棄した。かくして彼がその都市からの撤退準備をしていたところ、リリュバイオン市民の援軍として送られていたマウレタニア人の艦隊が港に入ってきた。ゴモンと呼ばれていたその司令官は包囲を解いて退却中のアテニオン軍に夜襲を仕掛けた。彼は手勢を連れて市へと戻る前に大勢の敵を殺して同じくらい多くその他の者を負傷させた。アテニオンの星占いの予言がこのように実現したことに反乱軍は仰天した。
6 同時に大混乱と厄災の受難がシケリア全土に広まることとなった。奴隷だけでなく貧乏になった自由民もありとあらゆる強奪と悪行に手を染めた。というのも彼らは恥知らずにも奴隷だろうと自由民だろうとお構いなしに会う人全員を殺したため、誰もこれらのことを伝えるために〔犯行現場を〕去ることがなかったほどだった。その結果、諸都市の住民は自分たちが城壁の中にあるものをほとんど所有できていないのではないかと感じるようになった。しかし外側のものは全てが失われ、暴力の無法な支配の獲物となった。多くの異なった人々によって他にも多くの非道な行いがシケリア中で無差別に行われた。
7 モルガンティネを包囲したサルウィウスは同様にレオンティノイ領に至るまでその地方の全域を襲撃し、そこでおよそ三〇〇〇〇人の戦闘員から成る軍を集めた。それから彼はその地域の英雄だった二柱のパリコイ神に犠牲を捧げ、勝利を感謝して自分の王用の外套の一つを奉納した。彼は自ら王を宣言し、叛徒によってトリュフォンという名を与えられた。彼はトリオカラを手に入れてそこに宮殿を建てようとしたため、アテニオンに手紙を送って王が将軍を呼ぶかのように召喚した。アテニオンは自分のために王国を手に入れようとしていて、このために反乱軍は分裂して戦争は速やかに終結するだろうといるのだと誰もが考えていた。しかし運命はあたかも逃亡奴隷の両軍勢を強化するかのように両指導者が完全に協調行動を取るという困難を巻き起こした。というのもトリュフォンはトリオカラへと軍を連れて急行し、三〇〇〇の兵を連れたアテニオンはそこで彼と会談し、王としてのトリュフォンの命令としてあらゆることを受け入れたからだ。アテニオンは残りの軍に郊外を荒らして反乱に加わることができる限り多くの奴隷を連れてくるよう手紙を送った。しかしそう遠からぬうちにトリュフォンはアテニオンがそのうち自分に取って代わることを企んで自分を軟禁するのではないかと疑うようになった。それ自体が非常に堅固な砦を彼はさらに強化し、同様に多くの荘重な建築物で飾った。そこは三つの見事なもの〔tria(三つ)とkala(見事)の合成語。〕が目立ったためにトリオカラと呼ばれていると伝わっている。第一にきわめて甘い水の泉、第二に葡萄園とオリーブの大農園と耕作に適した肥沃な土地、第三に高く近寄りがたい岩壁の上に立った難攻不落の地形。彼は八スタディオンの城壁をその都市の周りに建設した後、そこを王都にして人が生きるのに必要なありとあらゆるものでそこをたっぷりと満たした。同様に彼はそこに威厳のある宮殿と非常に多くの人を収容できるアゴラを建てた。彼は相談役にするために適当な数の賢者たちを集め、助言者として用いた。さらに彼は仕事をする時はいつでも紫色に縁取りされたトーガと幅広のキトンを身につけた。仕上げに彼は自分の後ろをついていく杖と斧を持った先導吏を任命し、王権の他の全ての印と装飾が見て取れるようにと腐心した。
8 ついにはルキウス・リキニウス・ルクルス〔紀元前103年の法務官〕がローマの元老院によって将軍に選出され、反乱軍鎮圧へと向かった。彼は一四〇〇〇人のローマ人及びイタリア人の兵、八〇〇人のビテュニア兵を連れていた。テッサリア兵とアカルナニア兵、勇敢さで名高い熟練の将軍クレプティウス指揮下のルカニア兵六〇〇人、そしてその他の地方からの六〇〇人の兵がいて、総勢一七〇〇〇人を数えた。この軍を連れて彼がシケリア入りすると、トリュフォンはアテニオンを釈放してローマ人に対する戦争をどうやって指導しようかと相談した。トリオカラにとどまっててここで敵を迎え撃つのが一番の安全策だというのがトリュフォンの意見だったが、アテニオンは座して包囲戦で閉じ込められるよりは開けた郊外で戦うべきだと助言した。この意見が勝つと、彼らは出撃して四〇〇〇〇人を下らない兵と共にローマの野営地から一二スタディオン離れたスキルタイアの近くに野営した。まず両軍は毎日小競り合いをしたが、ついぞ会戦は行われなかった。勝利が未だ未確定で双方で多くの者が殺されていた時、アテニオンは二〇〇騎の騎兵と一緒に戦って自分の周りの地面を敵の死体で覆った。しかし両膝を負傷し、次いで第三の傷を受けたために彼は戦い続けることがまったくできなくなった。これは反乱軍の志気を挫いて敗走へと転じさせた。アテニオンはまるで死んだかのように隠れ、夜が来るまで彼は〔死んだかのように〕みせかけてこっそりと離脱した。しかしローマ軍が今や栄光ある勝利を得るとトリュフォンは大わらわで逃げることを余儀なくされ、ローマ軍は少なくとも二〇〇〇〇人を追撃戦で殺した。残りは夜陰に乗じてトリオカラへと去り、もし追撃を厳しくていれば将軍はいとも容易く彼らも殺せただろう。
 この敗走で奴隷たちは大いに意気阻喪し、主人のもとに戻って主人の権力に全面的に自らを投げ出す方が良いと思う者も現れた。しかし最後まで踏み止まって敵の復讐に自らを引き渡さないよう助言した者たちが他の者よりも優位に立った。九日後、ローマの法務官はトリオカラの包囲を開始したが、双方で死者が続出したために退却してその地を去るのを余儀なくされた。そこで反乱軍は意気を取り戻した一方で法務官は怠惰と怠慢もしくは賄賂で買収されたために義務の然るべき遂行を完全に怠り、このために後に彼はローマ人によって裁判にかけられることになった。
9 ルクルスの跡を襲ったガイウス・セルウィリウス〔紀元前102年の法務官〕も何ら記憶に値することを成し遂げなかったために以前ルクルスがそうなったように裁判にかけられて刑に服した。他方でトリュフォンが死んでアテニオンが反乱軍の王位を継承した。彼はセルウィリウスと対峙することなく諸都市を包囲して郊外を荒したため、広大な地域を支配下に置くこととなった。
 法務官ガイウス・セルウィリウスが戦争の指揮権を引き継ぐためにシケリアへと向かうべく海峡を渡ったと聞くと、法務官ルクルスは後任者から戦争の指揮に使える資源を奪い去るために兵を解散して防柵と防衛設備を焼き払った。戦争を引き延ばしたとして告発されることになっていたため、後任者に恥をかかせて失敗させることで自分を無罪放免にできると信じた。
10 翌年〔紀元前101年。〕にガイウス・マリウスがローマで五度目の執政官に選出され、ガイウス・アクィリウスが彼の同僚だった。アクィリウスが将軍として反乱軍に差し向けられた。彼はその個人的勇気によって大会戦で彼らを打ち破った。さながら英雄のように彼は反乱軍の王アテニオンと一騎打ちをしてこれを殺し、頭を負傷したが回復した。次いで彼はおよそ一〇〇〇〇人いた残りの反乱軍に向けて進軍した。彼らは彼の攻撃を待たずに逃げて守りに入り、アクィリウスは包囲で彼らを打ちひしぐまで少しも決意を緩めなかった。今や残りの反乱軍はサテュロス率いる一〇〇〇人足らずとなった。当初のアクィリウスは力づくで彼らを倒そうと決めていたが、後になって彼らは代表団を送って降伏してきた。当面彼は彼らへの罰を延期したが、彼らがローマに囚人として運ばれると彼は彼らを野獣と戦うよう差し向けたが、彼らはそこで勇敢且つ気高い精神のまま生涯を終えたと伝えられる。というのも彼らは獣と戦うのをはねつけて公共の祭壇で刺し違えたからだ。結局は他の者も死んだが、最後を飾ったのは英雄的な精神で自らの命を絶ったサテュロスだった。この悲劇的な結末がほぼ四年間〔紀元前104年から100年まで。〕続いた奴隷戦争の結末だった。
11 シケリアを荒廃させたのは多くいた奴隷だけではなく、郊外にいた財産を持たない自由民も強奪と無法行為へと向かった。彼らの群れは貧乏と無法状態によって郊外の略奪へと駆り立てられ、牛の群れ全部を運び去って町と村の納屋で強奪を働き、穀物と作物を持ち去った。彼らは奴隷だろうと自由民だろうとお構いなしに会う者皆を殺したため、彼らの向こう見ずと残忍を報告する者は残されなかった。シケリアが完全な無政府状態になったのはこの時で、ローマの行政官も司法権を行使できず、全ての者が野蛮に走り刑罰を受けることなく多くの重罪を犯したために全ての場所は暴力と強奪の巷と化し、金持ちの財産は略奪された。少し前には富と栄誉で同法市民の間で傑出していた人たちは突然の運命の変転によってこの上なく軽蔑されて考えうる限りの嘲笑を受け、自分たちの奴隷によって全てを奪い取られただけでなく、仲間の自由民からさえ耐えられないほどの不当な扱いを受ける羽目になった。したがって誰も市門の中にある物ですら自分の所有物だと正当に言うことはできないほどだったが、外側の物は強盗の獲物、取り返しようのない完全に失われたものと見なされた。結論として、法と正義の完全な破壊と混乱は島中の全ての都市に急速に広まった。叛徒はというと、開けた郊外を手中に収めた後に諸々の道を通れなくした。主人への憎悪に駆り立てられた彼らは予期せぬ成功に満足しなかった。まだ都市の内側にいて悲嘆に暮れつつも反乱の好機を待ち望んでいた奴隷たちでさえ主人の不安と恐怖の的だった。
12 護民官のサトゥルニヌス〔ルキウス・アプレイウス・サトゥルニヌス。ガイウス・マリウスの支持者で、平民派の政治家。〕は放蕩暮らしが身についた人物だった。財務官だった時に彼はオスティアからローマへの全ての穀物輸送を司る任についていたが、怠慢と卑しい性格のために元老院によって任を解かれて他の仕事をする羽目になった〔紀元前104年。〕。しかしその後、以前の放蕩をやめて素面で暮らすようになると、人々から護民官に選ばれた〔紀元前103年と100年。〕。
13 レア女神の神官バッタケスがフリュギアのペシノスという都市からローマにやってきた。彼は自分はその女神の命令でやってきたと言い放ち、神殿が穢されており、罪の社会全体での贖いがローマ人の名の下でなされねばならないと行政官たちと元老院に向かって述べた。彼の衣服と彼が身につけたその他の衣類は非常に風変わりでローマでは全く際だったものだった。それというのも彼は非常に大きな黄金の冠を被っており、黄金の刺繍の入った服で彩られ、その外見は王侯そのものだった。演壇から人々に語りかけて人々を敬神の念で満たした後、彼は公共の宿と歓待で称えられた。しかし護民官のアウルス・ポンペイウスによって彼に冠を被せられるのが禁じられた。もう一人の護民官がバッタケスを演壇から下がらせて贖いの犠牲をどうやって捧げるべきかと尋ねて返ってきた答えは宗教的な興奮に満ちたものだった。ついに彼はポンペイウス派によって多くの嘲笑と嘲りを受けながら追い出された。彼は宿に戻り、以後は彼らは彼自身だけではなく女神をも侮辱したのだと言いつつ決して外に出ようとはしなかった。間もなくポンペイウスは高熱を出し、それから扁桃腺炎になって喋れなくなって三日目に死んだ〔紀元前102年。〕。一般平民は彼の死は神意のせいであり、女神とその神官への彼の冒涜と不敬虔な罵倒の結果だと信じた。というのもローマ人は非常に神を恐れていたからだ。したがってバッタケスは多くの贈り物で称えられ、全ての飾りをつけて神聖な衣服を着続けることが許された。彼が帰国のためにローマを去る時には夥しい男女が市から付き添った。
14 将軍が戦って六〇〇〇人以上の敵を殺した時には彼をギリシア語の「王」と同義のインペラトールと呼ぶのがローマ兵の習慣だった。
15 ミトリダテス〔六世〕王からローマへと元老院を買収するための多額の金を持った使節が来た。サトゥルニヌスは今や自分が元老院への攻撃の原因となっていると考えて使節団を罵った。使節団を支援すると約束した元老院たちから激励された使節団はこの罵倒の件でサトゥルニヌスを起訴した。彼は使節団への侵害行為、ローマ人が使節団への攻撃に手を染めることへのゆるぎない嫌悪を理由として非常に厳しく公の裁判に引き立てられた。さて、そのような事例にあって彼に対する正当な裁判官である元老院によって死を宣告される危機に陥ったサトゥルニヌスは甚だしい恐怖と危険に陥った。苦境の深刻さの故に狼狽した彼は通例は不運な人々に与えられる慈悲にすがりついた。金持ちらしい装いを投げ捨てて貧相でみすぼらしい衣服に着替え、髭を生えるがままにすると、彼は市内あちこちで人々の騒がしい集団へと走り寄り、ある人たちには膝を屈してひざまずき、他の人には手を握って目下の災難にある自分を支えてくれるよう涙ながらに訴えた。彼は自分が元老院によるあらゆる正当性と正義にもとる政治的迫害の犠牲者であり、自分は平民のために行った善行の故にこの全ての被害を受けていて、元老院は彼の敵であり告発者であり裁判官だと言い放った。群衆は彼の懇願に心を動かされ、大騒ぎをしながら何千もの人たちが裁判所に走り寄ってきたため、彼は予期せずして告発から解放されることとなった。そして平民の支持を受けて護民官に再任した。
16 メテルスの亡命は二年の間集会の議題に上がった〔クイントゥス・カエキリウス・メテルス・ヌミディクスは政敵であるサトゥルニヌスが彼の追放を提議した際、自らロドスへと亡命していた。サトゥルニヌスの死後、紀元前99年に以下のような事情から帰国を許された。〕。彼の息子はフォルムを伸び放題の髭と髪を蓄えボロボロの服を身につけて横切り、目に涙を浮かべながら市民たちの足下にひれ伏して父を呼び戻してくれるよう懇願した。人々には法を曲げてまで追放者を帰国させる前例を作る気はさらさらなかったが、それでもこの若者に憐れみを感じて彼の嘆願の熱心さに心を動かされてメテルスを追放先から呼び戻し、父に対する並外れた献身と気遣いからこの息子にピウスというあだ名をつけた。




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