33巻→ディオドロス『歴史叢書』34・35巻(断片)→36巻

1 アンティオコス〔七世〕王はイェルサレムを包囲した〔紀元前134年。〕。ユダヤ人はしばらくは包囲に耐えたが、全ての蓄えを使い尽くすと停戦協定を求めるべく彼に使節団を送らざるを得なくなった。彼の友人の多くはその都市を力攻めにしてユダヤ民族を根絶やしにするように説いた。それというのも彼らは全ての人のうちでも他の民族との混合を嫌い、全ての民族を敵として扱っていた唯一の民族だったからだ。ユダヤ人の祖先は不敬虔で神々を憎んでいたからエジプトから追い出されたのだと彼らは彼に言った。彼らの体には白いでき物ができていて癩病に感染しているのを見たためにエジプト人は彼ら全員を一カ所に集め、不敬で見下げ果てた悪党として国外へと追放することで罪を贖った。追放された後、彼らはイェルサレムあたりに住み着き、後に一つの国にまとまってユダヤ人の国と称した。しかし他の全ての人々への彼らの憎悪はその血によって子孫へと受け継がれた。したがって彼らは奇妙で他の人々とは全くかけ離れた戒律を作ることとなった。彼らは他の民族が飲むものは何も飲み食いしないし、繁栄を望みもしない。彼の友人たちは、顕現王とあだ名されたアンティオコスはユダヤ人を従えた後、戒律で司祭を除いて何人たりとも立ち入りを許されない神の社に足を踏み入れたことを彼に思い起こさせた。そこで座った姿で石に彫られた長い髭を蓄えた男の図像を見つけた彼は、それこそがイェルサレムを建設してその民族をそこに連れて行き、法でもって全ての邪悪な習俗を打ち立てて他の全ての人への憎悪と敵意で満たしたモーセだと分かった。したがってアンティオコスは他の全ての人に対する彼らの敵意を忌み嫌い、彼らの法を廃止しようと全力を尽くした。その目的のために彼は一頭の見事な豚をモーセの図像の前で生け贄に捧げ、神の祭壇の外側の庭に立って生け贄の血を撒いた。同様に彼は他の全ての民族を憎めと教える書物に豚肉の汁物をぶちまけるよう命じた。彼は神殿で絶えず灯っていて彼らからは不死のものと呼ばれていた灯火を消した。仕上げに彼は高位の祭司と他のユダヤ人に豚肉を食べるよう強制した。
 これら全てのことを話すと、アンティオコスの友人たちはその民族を根こそぎにするか、少なくとも彼らの戒律を廃止して以前の暮らし方を変えるよう強制するようにと熱心に勧めた。しかし寛大な精神と温和な態度を持っていた王は人質を取ってユダヤ人を許した。しかし彼はイェルサレムの城壁を破壊し、適当な年貢を課した。

2 カルタゴ転覆の後、シケリアの情勢は六〇年間にわたって順調に繁栄を続けていたが、ついに奴隷との戦争が以下のような理由で勃発した。シケリア人は長い平和を享受していたことで非常に富裕になり、数多の奴隷を養っていた。生まれ育った様々な土地からまるでたくさんの牛の群れのように群れの中に追い立てられていた奴隷たちは体に焼き印を押されていた。彼らは若い奴隷を羊飼いとして使い、その他の者は各々に適した仕事をさせた。しかし彼らの主人は彼らに対しては非常に厳しく情け容赦なく、必要な食料や衣服の面倒を見なかったために彼らの大部分は必需品を得るために強盗や窃盗を働くことを余儀なくされた。かくしてあたかも泥棒と強盗の軍勢が島の全土に散らばったかのように、全域が殺戮と殺人の巷と化した。実を言えば諸地域の統治者たちは彼らを鎮圧することができたのだが、奴隷の保有者たちが金持ちで権勢を持っていたために敢えて彼らを罰しようとはしなかった。したがってどの統治者もその地域で行われていた窃盗と強奪に見て見ぬふりをせざるを得なかった。多くの地主がローマの騎士階級で、彼らは地域での行いに関して統治者に対してなされた告発に判決を下したため、統治者自身にとっては恐怖の的だったのだ。
 したがって奴隷たちはこのように追い詰められて酷く痛めつけられ、理不尽に苦しめられていたため、これ以上は耐えるべきではないと決意した。したがって機会のあるごとに語らった彼らはどうやって目下の奴隷の境遇の軛から自由になろうかと相談し、ついに予め同意していたことを実際に決行した。アパメイア市生まれで、エンナのアンティゲネスの奴隷だったあるシュリア人がおり、彼は魔術師で呪術師だった。彼は未来の出来事を預言すると称していて、夢の中で神々がそれを明かしてくれていると言い、この手口で多くの人を騙した。それからさらに彼は夢で明かされた来たるべきことを予言しただけでなく、起きている時にも神を見ては神々は自分に何が実現するかを話したとうそぶいた。これらは彼がぶちあげた策略ではあったけれども、後になって偶然多くの事柄が真実であると証明された。実現されなかった預言は無視されたが、実現した預言はそこかしこで喝采を受けたため、彼は段々と賛美を受けるようになった。数々の術策によって彼はまるで火のついた燭台のように口から火炎を吐き出し続けたため、その時の彼がした予言はあかもアポロンによって直感を与えられたものであるかのようだった。彼は両側に穴を開けられた木の実の殻やその類いの物といった可燃物で火を点けて火を保たせ、それから自分の口の中に入れて勢いよく吐き出すと、火花と炎が現れた。奴隷の反乱の前にこの男が自慢しながら言うに、シュリアの女神が彼の前に現れて彼が支配することになるだろうと言ったとらしく、彼はこのことを他の奴隷だけでなく自分の主人にもしばしばうそぶいた。
 これが物笑いの種になるとアンティゲネスはこの男の滑稽さと馬鹿馬鹿しい自惚れにいたく惚れ込み、エウヌス――これが彼の名なのだが――と宴と晩餐の席を共にした。そして彼の未来の王国についていくつかの質問がなされ、お前は食卓にいる各々をどう扱うつもりなのかと尋ねられた。彼は喜んで話の続きをし、主人たちは非常に親切であるのがよろしいと言い、魔法使いが多くの奇妙な魔術的な語句と表現を使うような調子で彼はお客の全員を笑わせ、お客の中のある人たちは食台から大きく掴んだ食べ物を褒美として彼に与え、王様になった時にも自分たちの親切を忘れないようにと彼に頼んだ。しかしこの冗談の全てが彼が王位に上った際に実現し、ふざけながら宴会に出て彼に親切にしてやった者の全員に対して彼は真面目に恩返しをした。ともかくこのようにして反乱の口火は切られた〔紀元前135年。〕。  エンナにはダモフィロスなる者がおり、大金持ちだったが傲慢で居丈高だった。この男は奴隷に対しては度を超して残忍で過酷だった。彼の妻メガリスは奴隷に対する残忍さと非人間性のあらゆる点で夫に輪をかけて酷かった。常々むごい扱いを受けていた奴隷たちはこの野獣の如き奴原に憤慨し、蜂起して主人たちの喉を掻き切ってやろうと企んだ。ついに彼らはエウヌスと相談するに至り、神々は自分たちの計画を成功させてくれるかどうか尋ねた。彼は彼らを元気づけ、彼らの計画は成功すると明言した。彼はいつも通りの仕方で呪文を唱え、実行を急げと言った。したがって四〇〇人の奴隷の一団が蜂起した後、口から火を吐く奇術を常々していたエウヌスを隊長とし、彼に率いられた彼らは手始めに突如武器を取ってエンナ市に押し入った。次いで家々に入ると彼らは大殺戮を行い、乳幼児すら容赦せず、母親の胸から乱暴に子供をひったくって地面に叩きつけた。彼らは情欲を満たすために夫の眼前で妻を犯したため、これがどれほど唾棄すべき下劣なことかは言語に絶するほどである。この悪党たちは市内の夥しい奴隷と合流した。彼らはまず主人に対して惨たらしく怒りをぶちまけ、それから他の人たちを殺そうと襲いかかった。
 一方、エウヌスはダモフィロスと彼の妻が都市近郊の果樹園にいると聞いた。したがって彼は幾人かの暴徒をそこに送り、彼らは手を後ろ手に縛った状態の二人を連れてきて酷い扱いに手を染めてきたことをなじった。しかし彼らの娘は奴隷に対して慈悲深く思いやりを持ち、いつも奴隷の助けになろうとしていたため、奴隷たちは彼女に対しては優しくするべきだと明言した。他の人たちに対する奴隷の蛮行は彼ら自身の本来的な残忍さから起こったのではなく、以前から受けてきた悪事への復讐の渇望のためであることをこのことは示している。ダモフィロスとメガリスに向けて送られた男たちは彼らを都市へ、そして叛徒の全員が勢揃いしていた劇場へと連れて行った。そこでダモフィロスは熱心に命乞いをしてその発言によって多くの者の心を動かした。しかしヘルメイアスとゼウクシスは多くの辛辣な非難を彼に浴びせかけて猫かぶりのいかさま師と呼んだ。それから人々の彼に関する決定を聞くのを待たずに一人が剣を持って彼の方へと走り抜け、他方の者は彼の首を斧で刎ねた。
 それから彼らはエウヌスをその勇気と戦争の技術の故ではなく並外れた詐術の故に王にしたが、それは彼が謀反の指導者であり張本人であり、部下に親切〔ギリシア語ではEunous。良い知慮の意。〕だった彼の名前は良い徴候を示しているように見えたからだった。したがって彼が将軍になって思うがままに全ての事柄を命じたり処理する絶対的な権力を持つと、集会が招集され、彼は武器製造の技術を持っていた者を除いてエンナでの捕虜を全員殺させ、武器製造職人は足かせをつけて働かせることにした。メガリスはといえば、彼は彼女を女奴隷たちに渡して好きにさせ、彼女らが適当と思う復讐をさせた。彼女らは彼女を鞭で打って苦しめた後、険しい断崖から突き落とした。エウヌスその人は自分の主人だったアンティゲネスとピュトンを殺した。ついには冠を頭に被って王の全ての記章で身を飾ると、彼は同じ都市で産まれたシュリア人の妻を王妃と呼ばせ、最も賢明だと判断した人たちを相談役に選んだ。その中には生まれがアカイア人で名をアカイオスという者がおり、賢人で良き兵士だった。三日以内に彼は六〇〇〇人を超す兵を集め、彼らに用意できる限りの武装をさせた。他の人たちも彼に合流し、彼らは斧や鉈〔テクストではhatchesだが、hatchetsの誤記と思われるので鉈と訳した〕、投石器、鉈鎌、端を尖らせて焼いた杭、串などで武装していた。彼らはこれらを使ってその地方を荒らしてことごとくを分捕って戦利品とした。ついに無数の奴隷を併せた後、彼はローマの将軍たちとの戦争に挑むほどにその勢力と大胆さを増長させ、兵力の優越をもってしてしばしば戦いで彼らを破った。それというのもこの時の彼には一〇〇〇〇人を超す兵がいたからだ。
 一方でクレオンと呼ばれるキリキア人がもう一つの奴隷反乱を扇動し、今やこの手に負えない暴徒が同士討ちをして彼らの殺し合いと共倒れによってシケリアは彼らから解放されるだろうと皆が期待した。しかし皆の希望と予想を裏切って彼らは軍勢を合体させた。クレオンは全面的にエウヌスの軍門に降り、自らの手勢五〇〇〇人を率いて将軍としてこの君主に奉仕した。今やこの反乱の開始から三〇日が経過し、目下のところ奴隷はルキウス・ヒュプサエウス〔ルキウス・プラウティウス・ヒュプサエウス。紀元前135年の法務官。〕と戦っていて、彼はローマから来て八〇〇〇人のシケリア兵を率いていた。この戦いで叛徒が勝利し、次いで彼らは二〇〇〇〇人の兵力となり、その直後に彼らの軍勢は二〇万人にも膨れ上がった。彼らはローマ人自身と戦っていたにもかかわらずしばしば勝者となり、負けることは稀だった。
 この知らせが広まると一五〇人の奴隷がローマで反乱を起こし、彼らは政府への敵対行動を企んだ。同様に一〇〇〇人の奴隷がアフリカで、デロスで、他にも多くの場所で反旗を翻した。しかし様々な自治体の行政官たちは被害の拡大を阻止しようとして迅速な処置をし、速やかに奴隷を攻撃して皆殺しにした。こうしたわけで残りの奴隷と反乱を企んでいた奴隷はより正気で尋常な考えに立ち返った。
 しかしシケリアでは無秩序の度合いはより一層甚だしくなっていた。それというのも諸都市が陥落して住民が奴隷にされ、多くの軍隊が反乱軍によって敗走させられていたからだが、それもローマの将軍ルピリウス〔プブリウス・ルピリウス。紀元前132年の執政官。〕がタウロメニオンを奪回するまでのことだった。籠城軍は厳しく稠密な包囲によって己が子供を、夫が妻を食らい始めるほどの飢餓の局地にまで追い詰められた。そしてついに彼らは共食いのために殺し合うに至った。そこでルピリウスは籠城中にその都市から逃げだそうとしたクレオンの兄弟コマノスを捕らえた。ついにシュリア人サラピオンが寝返って砦を引き渡し、全ての逃亡者がルピリウスの手に落ちた。ルピリウスは彼らを鞭で打ち、断崖から突き落とした。彼はそこからエンナへと進撃して長期間の包囲で追い詰め、誰もが脱出の希望を絶たれた。市内から出撃して英雄的な戦いぶりを示した将軍クレオンを殺した後、ルピリウスは彼の遺体を晒し者にした。間もなくその都市も同様に裏切りによって彼の手に落ちたが、そうでもしなければその地はその天然の強固さのために力攻めで落ちることはなかっただろう。
 エウヌスはといえば、彼は臆病にも六〇〇人の親衛隊と一緒にある高い断崖の頂に逃げ、ここで彼と一緒にいた者たちは自分たちの破滅は不可避だと予期して――ルピリウスがすぐそばまで追いついていたからだ――刺し違えて死んだ。しかし魔術王エウヌスは恐怖から身を隠すのに丁度良いある洞窟に身を隠した。彼は料理人、理髪師、風呂で体をこする係の者と宴会芸人といった他の四人の仲間によってそこから引きずり出された。ついに彼は捕らえられ、下らない人間にはよくあることだが、モルガンティナで彼の人生での以前の悪事に相応しい死に方をして最期を遂げた。その後ルピリウスは少数の部隊を連れてシケリア全土を行軍し、間もなく泥棒と強盗をその地方から一掃した。
 この強盗の王エウヌスは自らアンティオコスと、自分の子分皆をシュリア人と称した。

 奴隷たちは反乱の蜂起を共謀し、主人を殺した。彼らはそう遠くないところで暮らしていたエウヌスに接近して彼の計画が神々の賛同を得られるかどうか尋ねた。彼は霊感を受けたように奇妙な物言いをし、彼らが訪れた目的を聞くと彼は、もし計画をグズグズせずに実行するならば神々が反乱の成功を認めるのは明らかだとした。それというのも運命は島全土の砦たるエンナを彼らの家として割り当てたからだと。彼らが彼の言ったことを聞いて神意が自分たちの企図を支持していると思うと、彼らの精神は反乱へと高揚して計画の実行をこれ以上遅らせようとしなかった。彼らはすぐにいくらかの奴隷を隷属から解放し、近隣に住む他の奴隷に自分たちに合流するよう呼びかけた。およそ四〇〇人がエンナ近くの野に集まり、互いに誓いを交わして夜までに生け贄に宣誓を行った後、彼らはその時できる限りの武装をした。しかし彼ら皆には最強の武器があった。それは横柄な主人を懲らしめてやろうという怒りに燃えた決意だった。エウヌスを指導者として互いに激励し合うと、真夜中に彼らはその都市を襲って多くの住民を殺した。
 この頃にシケリアでは実に多くの奴隷の反乱と騒擾が起こり、こういったことが以前の時代に同時並行で起こったことがついぞなかったので多くの都市が被害を受けて惨めなまでに荒らされた。数え切れないほどの男女と子供がこの上なく嘆かわしい厄災に見舞われ、今や島の全土が奴隷の手に落ちつつあり、彼らは彼らの主人の完全な破滅以外のことにはその途方もない勢力を注ぎ込まなかった。
 それらのことは誰も予期せぬ時に起こったものだが、全ての出来事の根源と原因を探るのを常としている人たちはそれが単なる偶然の産物ではないと結論づけた。というのもこの金持ちの島の住民はあまりにも豊かなことを鼻にかけていて、贅沢と享楽に溺れて驕り高ぶり横柄になっていたからだ。これらの理由のために主人たちの奴隷への残忍さ、奴隷の主人への憎悪は日増しに荒れ狂い高まっていった。ついには適当な機会が手に入ると、この憎悪が爆発して数千人の奴隷が突如として予告なしに団結して彼らの主人を滅ぼした。
 大体同じ頃にアジアでも同じ事が起こった。アリストニコスが何ら正当な権利もなくアジアの王国を手に入れようとすると、主人の残忍さの故に全ての奴隷が彼に味方して多くの町と都市が流血と殺戮の巷と化した。
 似たようにしてシケリアに多くの財産を持っていた人たちは彼らの土地に至るまで全ての奴隷市場で買い占めを行っていた。彼らはある者には枷をつけ、他の者は重労働で疲弊させ、どの者にも烙印を押して印をつけた。かくして夥しい数の奴隷がまるで洪水のようにシケリア全土に溢れかえったため、これを聞いても誰も信じられないほどだった。シケリアの金持ちたちはイタリア人と自負心、強欲、悪辣さを競い合い、多数の奴隷を持っていたイタリア人の多くが牧者たちをこれほどまでの程度の悪党になるように追いやり、彼らは奴隷たちに生活必需品を供給するよりはむしろ強盗と盗みを許していた。ひとたびこの許可が身体壮健で、暇があって主人に憤懣をぶちまける用意が十分ある者、必需品の欠乏によって必要なものを手に入れるためなら何でもするほどに追い詰められた者に与えられるや否や、すぐにこの無法状態は拡大した。
 まず彼らは街道を通る旅人が一人か二人ならばこれを殺すのを常とするようになり、後に徒党を組んで夜に小村に押し入って貧乏人の家を略奪し、目に入ったものを全て分捕り運び去って抵抗する者は殺した。ついには日を追うごとにますます大胆になったため、夜間の旅人にとってシケリアの街路は安全ではなくなり、その地方に住む人にとっては家も安全ではなくなり、全ての土地が強奪と強盗と殺人の巷と化した。羊飼いと牛飼いは武器を提供されて日夜開けた原野に滞在できるよう鍛えられていたため、彼らは日を追う毎に大胆且つ果敢になった。棍棒と槍と長い杭を持ち歩いて狼や野生の熊の皮を身につけた彼らはまるっきり戦争に行きがてらのようなこの上なくぞっとするような恐ろしげな風体をしていた。その上彼らの皆が大型の猛犬を引き連れて護衛とし、乳をがぶ飲みして肉と他の全ての食料をたらふく食べたため、心身の双方において獣に似てきた。その結果、島の全土がそこかしこを兵隊の群れがをうろついているかのようになり、果断な奴隷の全員が主人から解き放たれて向こう見ずな連中に与するに至るまでローマの法務官たちは奴隷の暴動を鎮圧するためにできる限りのことはしたのは真実だが、主人の権勢と影響力のせいでローマ人は奴隷たちを罰しようとはしなかったため、逆に強盗がはびこるのを座視せざるをえなくなった。主人の大部分は騎士階級のローマ人で、彼らはローマでは司法上の権限を持っていて法務官の件に関しては裁判官として振る舞うことになっており、法務官は属州統治に関する訴状で彼らの前に召喚されることになっていた。したがってこの行政官たちが彼らを恐れるのにはもっともな理由があったわけだ。
 シケリアに広大な土地を保有していたイタリア人は多くの奴隷を持っており、彼らはどの奴隷にも頬に焼き印を押して重労働で虐げ、十分な必需品すら与えていなかった。
 政治生活では権勢家たちは悲惨な境遇の人たちに温かく接していなかったばかりか、私生活でもまともな考えを持たずに奴隷を苛酷に扱っていた。国家においては横柄な振る舞いが市民間の内紛の種になるのと同じくらいにそれぞれの私邸でもそういった振る舞いは奴隷を主人に対して決起させて諸都市の恐るべき混乱を招くものである。権勢家たちが残忍で悪辣なことをしていた時、彼らの家来の気概は向こう見ずな行為へと焚きつけられた。運命によって低い身分に置かれた人たちは喜んで栄誉と栄光で彼らに勝ろうとしたが、もし彼らに相応の優しさが与えられなければ、彼らは残忍な独裁者のように振る舞う者たちに対して反旗を翻すことだろう。
 金持ちだったが非常に傲慢で横柄だったダモフィロスという者がエンナにいた。この男は広大な土地を耕作し、夥しい数の牛の群れを持っており、贅沢と奴隷への残酷さでイタリア人を真似ていた。彼はその地方を横断して行ったり来たりし、威厳たっぷりの馬が引く馬車に乗り武装した奴隷の一隊に護衛されながら旅をした。同様に彼は数多くの美少年、おべっか使いと居候たちを連れ回していた。都市と村で彼は銀の器と非常に値の張るありとあらゆる紫の絨毯に見事な刻印をした。そして彼は豪勢な宴会ともてなしの場を設け、その状態と雄大さで王と競った。華麗さと値の高さで彼はペルシア人の奢侈を遙かに上回り、彼の自負と横柄さは途方もないほどだった。彼は粗野で無学で無教養な育ちで、莫大な富を積み上げると野放図な放蕩に身を委ねた。まずこのゆとりと潤沢さは彼を横柄にし、ついに彼は彼自身にとっての厄介者になり、多くの悲惨さと災難を彼の地方に招くきっかけとなってしまった。多くの奴隷を買った彼はこれ以上ないほどに彼らを虐げ、彼の地方では自由民の生まれだった者〔自由民として生まれはしたが、何らかの理由で奴隷に身をやつした者のことであろう。〕と戦争捕虜の頬に彼は鉄釘の尖った先で烙印を押した。彼はそのある者には足枷をはめて奴隷用の檻に入れた。原野で牛の面倒を見るよう命じられていた他の者には自然の必要を満たすのに十分な衣服も食料も与えなかった。
 これほどに野蛮で残忍だったダモフィロスは些細な原因やきっかけがなくても奴隷を鞭打ち、そうしない日はなかった。彼の妻のメガリスは婢女と自分の手に落ちた他の奴隷に対しては彼と同じくらい残忍だった。したがって主人と女主人のこの残忍さに腹を据えかねた奴隷たちは今いるのよりも悪い条件になることはないと結論した。(そして突如として反乱を起こした)。
 一部の裸の奴隷たちはすぐにエンナのダモフィロスのもとまで向かい、自分たちには服がないと訴え出た。だがしかし彼は彼らの苦情に耳を貸さなかった。彼が言うには「だったら郊外の旅人を身ぐるみ剥いで裸で道を歩かせるようにすれば、お前たちは彼らの服を手に入れられるだろう?」とのこと。それから彼は彼らを柱に縛り付けて痛ましいほどに殴打し、偉そうに彼らを投げ捨てた。
 シケリアでは、ダモフィロスには非常に優しく思いやりのある気質の年若い娘がおり、彼女は両親に虐げられ鞭打たれた奴隷たちを介抱して治療して枷をはめられた奴隷に食べ物を差し入れるのに勤しんでいた。このために彼女は全ての奴隷から驚くほど愛されていた。彼女の以前からの優しさを覚えていた彼ら全員が彼女に同情し、この若い娘を乱暴したり傷つけたりすることは決してせず、誰もが彼女の純潔が侵されないようにと守るのを自らの仕事となした。そして仲間の中から最も適切な男たちを選んで彼女をカタナの家族のもとへと送り届けさせ、その中で最も熱心だったのがヘルメイアスだった。
反乱を起こした奴隷たちは主人の家族全員に怒りをぶちまけ、多くの恐るべき暴力に手を染めた。この復讐は彼らの残忍な気質の証ではなく、彼らが受けてきた不当な扱いの結果であり、これが彼らをして過去に彼らに悪事を働いた者を罰してやろうと怒らせたのだ。
 自然そのものが感謝と復讐に正当な反応をするように奴隷たちに教えたというわけだ。
 王として宣言された後にエウヌスは多くの金持ちの市民を殺し、彼の主人が冗談で彼をよく連れていった宴会の席で彼の予言を褒めた者だけを生かしておいた。同様に食べ物を彼に差し入れる程度に親切にした者も彼は保護した。このために運命の奇妙な変転は実に驚くべきものであり、貧しくみすぼらしい者にした親切が最も必要な時に大きな好意を招くことになった。
 アンティオコス王〔エウヌス〕の相談役のアカイオスは逃亡奴隷の行動を非として彼らの行き過ぎを譴責し、彼らは即座に罰せられるべきだと述べた。しかしエウヌスはこの直言に怒ってアカイオスを殺すどころか、主人の家を彼に与えて自分の相談役にした。
 およそ時を同じくしてもう一つの奴隷反乱が勃発した。タウロス山脈近くの出身のキリキア人で、少年の頃から強盗に慣れていてシケリアの牧草地の馬の世話を任されていたクレオンは常々街道で旅人を襲い、様々な凶悪な殺人に手を染めていた。この男はエウヌスと彼の追従者たちの幸運を知ると、幾らかの近隣の奴隷にこの突然の反乱に合流するようにと説き伏せた。彼らはアクラガス市と近隣地域の全てを占拠した。
 差し迫った需要と物資の欠乏は反乱を起こした奴隷たちにありとあらゆる危険を冒させたが、それもそのはず彼らにはより良い道を辿ることができる機会がなかったからだ。
 その都市の占領がどれほど簡単だったかを理解するためには神のお告げは必要ないほどだった。長らく続いた平和のために城壁は破損したままという体たらくで、守備隊の多くが殺されたため、その都市は包囲にそう長くは持ち堪えられないことはこの上なく無知な観察者にすら明らかだった。
 武器の射程外に軍を置いたエウヌスは、危険から逃げ出しているのは彼の軍ではなくローマ軍だと言ってローマ軍を嘲った。彼は〔軍の〕内部にものまね芸人を置き、奴隷たちは主人その人をその打倒へと誘った横柄さと度を超した残忍さを嘲りつつ自分たちが主人にどのように反逆したかを描いた。
 いくらかの人たちの確信しているところでは、神々は人々に降りかかる度を超した不運を気にかけていないが、それでもなお大衆の心に神々への恐れを教え込むことは共同体にとって有益である。自らの徳の結果としてただ正しく振る舞うのは僅かな人だけであり、多数の人は法律で加えられる罰と神々の報いから罪を思いとどまるに過ぎない。
 普通の人々はシケリア人が経験した甚だしい不運には到底憐れみを到底感じることはなく、逆に喜ぶものであるが、それは富と〔良い〕生活条件において存在する不均衡を妬んでいるからだった。彼らの嘆きの原因になりがちなこの嫉妬は、ひとたび幸運を享受していた人たちが今やもっとも悲惨な境遇に陥るのを見たために今や喜びに転じた。しかし最も残酷なことは、叛徒たちが賢明にも用心して彼らの家を焼いたり財産や収穫物を破壊せず、現に農業に勤しむ人には全く害を及ぼさなかったにもかかわらず、民衆は逃亡奴隷を口実にしつつ、実際は金持ちへの嫉妬に突き動かされて郊外へと走り出し、財産を強奪するのみならず田園の建物に火を放ったことだった。
3 アジアでは王位に就くや否やアッタロス〔三世〕は先代諸王の全員とは全く異なった仕方で物事を運営し始めた。というのも先代諸王は臣下への寛大さと思いやりによって幸せに統治して繁栄し、彼らは王国にとっては恩恵だったからだ。しかし残忍で血に飢えた質の持ち主だったこの君主は多くの殺戮と惨たらしい苦難で臣下を抑圧した。彼は父の友人の中の最も権勢があった人たちが自分に対する陰謀を企んでいるのではないかと疑ったため、彼らを排除してやろうと決意した。その目的のために彼は蛮族の傭兵隊の中からこの上なく残忍で強欲な無法者の一団を選り抜き、宮殿のいくつかの寝室に彼らを潜ませた。それから彼は最も疑念を持っていた友人と親戚たちに手紙を出し、彼らが現れると彼の残虐の血に飢えた実行人を使って彼ら全員の喉を掻き切り、速やかに彼らの妻子を同様の仕方で殺すよう命じた。
 軍を指揮していたり都市の統治者だったりしていた父の友人の生き残りを、彼は騙し討ちで暗殺するよう仕向けたり、彼らを逮捕して家族共々殺したりした。したがって彼は臣民のみならず近隣の全ての民族からも憎悪され、彼の支配領域内の全ての人が革命や政権交代を試みた。
4 輸送中、奴隷の恥辱を受けるに忍びなかったために夷狄の捕虜の大部分は自殺したり互いに刺し違えたりした〔これはヌマンティア戦争で敗北したヌマンティア人捕虜の話(N)。〕。まだ未成年で三人の姉妹に付き添われていたある若者は寝ていた彼女らを殺した。彼は自害の時間を得る前に捕縛され、なぜ姉妹を殺したのかと問われた。姉妹たちは生きるに値しなくなったから殺したと彼は言った。それから全ての食べ物を拒絶して自ら餓死した。
 同じような囚人たちは自分たちの国の境に到着するとうめき声を上げ、衣服の折り目を塵でいっぱいにして身を投げて地面に口づけしたため、全軍が哀れみの情に打たれた。同じ人間なら感激するような光景を見た各々の兵士は神への畏敬の念を感じ、最も荒々しい野蛮人ですら運命が彼らを母国の絆から断ち切った時には自分たちが育った土地への愛情を忘れないことを看取した。
5 ティベリウス・グラックスは二度執政官になって軍事と政治の両方の活動で非常に名声を持っていたティベリウスの息子だった。彼はハンニバルとカルタゴ人に勝利したプブリウス・スキピオの母方の孫でもあった。双方の家系での生まれの高貴さと同じくらいに彼は判断力と演説の実力に秀で、現に全ての勉学で同輩皆を陵駕したため、彼は自分と対立する権勢家を恐れることなく自由に議論した。
6 人々はまるで複数の川が全てを受け入れる大洋に流れ込むかのようにローマに集まってきた。彼らは法律を指導者兼同盟者として自らの訴訟を立証しようと決めていた。彼らの保護者〔グラックス〕は賄賂や懸念の余地のない行政官〔護民官〕で、彼は人々に土地を与え…〔欠損〕…ためならば自らの人生の最期の時まであらゆる困難と危険に立ち向かおうと決意していた。彼〔オクタウィウス?〕は彼に近づき、まとまりの悪い群衆ではなく、人々の中でこの上なく強力で最も栄えていた人たちを従えていた。したがって双方の生まれの良さが拮抗し、一方の側にぶれたと思えば他方に、という風に長らく勝利の見通しは不透明だった。数千人の人が集まってきて暴力づくで自派に助太刀した。この人々の群れは海で荒ぶる波のような呈を示した〔いわゆるグラックス兄弟の改革に際して起こった騒擾。紀元前133年に護民官に就任したグラックスの農地法に反対した同僚護民官マルクス・オクタウィウスは平民会での投票で解任された。〕。
7 官職を追われた後のオクタウィウスは自分が一個人になることを認めたくはなかったものの、護民官として振る舞おうともせずに大人しくしていた。グラックスがオクタウィウスを行政官としての地位から解任する宣言をするよう提案した時でもオクタウィウスはグラックスを護民官の地位から追い出す似たような宣言を提案した。もし二つの宣言が合法的に認可されれば、双方は私生活の場へと差し戻されることになっていた。そうはならず、敵対的な提案が違法だと見なされれば、他方が効力を持ち続けることになっていた。
 破滅へと絶え間なく突き進んだためにグラックスは間もなく相応の罰を受けることになった。怒りはしばしば諸々の障害に打ち勝つものであり、スキピオ〔プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ。ティベリウス・グラックスの母方の従兄弟だが、彼の政敵だった。〕は手近にあった棍棒を掴み……
 グラックスの死の知らせが軍に届く前にスキピオ・アフリカヌス〔プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・ヌマンティウス。アエミリウス・パウルスの実子。カルタゴを滅ぼしたことでもお馴染み。〕は「かくの如き罪を試みる者は皆滅ぼうぞ」〔オデュッセイア, 1. 47〕と叫んだ。
8 シュリア人奴隷は捕らえた捕虜の両手を、手首からではなく手と腕をもろとも切り落とした。
9 聖なる魚を食べた者たちは多大な苦しみに見舞われた。あたかも他の人たちに対して彼らを明らかな例にしようとしたかのように神はこれら全ての向こう見ずたちに助けの手を差し伸べることなく死ぬに任せた。かくして彼らは神々から正当な罰を、歴史の著述家から厳しい非難を被った。
10 元老院は神々の怒りを恐れてシビュラの書に諮ってシケリアへと使節団を送り、彼らは島中のアイトナのゼウスに捧げられた祭壇を訪れて正式な形で生け贄を捧げた。使節団は壁でそれらの祭壇を取り囲み、彼らの国〔ローマ〕の習慣に則り、それらの都市ではゼウスに犠牲を捧げる習わしの人を除いて誰も入れないようにした。




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