32巻→ディオドロス『歴史叢書』33巻(断片)→34巻

1 当初のルシタニア人には有能な将軍がいなかったのであっさりとローマ人に負かされたが、ウィリアトゥスが将軍になった後の彼らはローマ人に大損害を与えた。彼は沿岸部の住人の一人で、子供の頃から山々で牧人をしていた。生来の健康体で、体力と俊敏さではイベリア人のうちでずば抜けて優れていた。それというのも彼は倹約した食生活、労働と苦労、そして完全に必要最低限の睡眠で鍛え上げられていたからだ。彼はいつも武器を持ち歩き、野獣と盗賊との戦いで名をはせていた。ついに彼は人々の指導者となり、間もなく盗賊の群れの全部を味方につけた。多くの戦いで非常な成功を収めたため、彼は他の偉業だけでなく将軍としての能力でも賞賛を勝ち得ることとなった。加えて彼は戦利品の分配にあたって非常に公正で、手柄と功績に応じて皆に振り分けを行っていた。まだそれを続けて栄えていたところ、彼は泥棒や強盗というよりもむしろ酋長と自らなりおおせた。彼は度々ローマ軍と戦っては勝利を得て、ローマの将軍ウィテリウス〔紀元前147年の法務官ガイウス・ウィテリウス。〕と彼の軍を完全に敗走させるほどだった。将軍を捕虜にした後にはこれを殺した。そして彼は他にも多くの勇敢な功績を挙げたが、それはファビウス〔紀元前145年の執政官クイントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス。〕が彼に対する将軍に任命されるまでのことで、その時から彼は下り調子になり始めた。しかし間もなく兵を集めた彼はファビウスを相手に勇敢に戦い、ファビウスはローマの名を辱める不名誉な協定の受諾を余儀なくされた。しかし後にウィリアトゥス担当の将軍となったカエピオ〔紀元前140年の執政官クイントゥス・セルウィリウス・カエピオ。〕は以前の協定は無効だとして無視し、しばしばウィリアトゥスを敗走させ、事ここに至りて苦境に陥って和平を求めていたウィリアトゥスが親族のある者に裏切られて暗殺されるようにしむけた。そして彼の後継者タウタムスと彼の全軍を威圧すると、彼は彼らが満足できるような協定と条項を押しつけ、最終的には彼らに居住のための都市と土地を容認した。
 ルシタニアの盗賊の頭目ウィリアトゥスは戦利品の分配では公正にして正確で、戦いでは勇敢に振る舞う彼は手柄に応じて自分が良しと思うように褒美を与えた。そして彼は私的な用途のために決して公共財を着服しなかった。そういうわけで、彼がルシタニア人を指揮してその指導者になれば彼らは危険な試みに縮み上がったり尻込みしたりしせず、彼を共通の恩人且つ彼らの救国者として讃えた。
2 ローマの法務官プラウティウス〔ガイウス・プラウティウス・ヒュプサエウス。紀元前146年の法務官で、ヒスパニア・ウテリオルの支配を担った。〕は彼の属州で酷い悪政を働いたために人々から告発され、彼は彼の政府の顔に泥を塗ることになったためにローマを去って亡命した。
3 シュリアでは、精神薄弱のために王国を統治するのにまったく不適当だったためにアレクサンドロス王〔アレクサンドロス・バラス。〕はアンティオケイアの統治権をヒエラクスとディオドトスに譲った。
4 今やエジプト王国が落ちぶれると、シュリア王家唯一の生き残りだったデメトリオス〔二世〕は、全ての危機から解放されたと信じ、思いやりのある振る舞いによって人民からの高評判を得るために彼らに取り入っていた以前の諸王の行動にもとるようなことをしだした。しかし日を追うごとにますます我慢ならなくなると、ついに彼は徹底的に残虐になり、ありとあらゆる恥ずべき非道行為に手を染めた。この原因は彼自身の堕落した性向だけのせいではなく、王国の諸事の管理を担った一人の友人のせいでもあった。それというのも不敬虔で軽率な仲間だった彼はお追従によってその若者をあらゆる悪事へと駆り立てた。したがって手始めに彼は戦争で自分の敵に回った者を尋常ならざる残忍な仕方で皆殺しにした。その後、アンティオケイア人が彼らのお決まりの仕方で彼をなじって嘲ると、彼は傭兵の一隊を彼らに差し向けて市民に武装解除を命じた。アンティオケイア人が武器を置くのを拒んだため、彼は自分の手に落ちた者の一部を殺して他の者は妻子共々彼らの家で殺した。このおかげで市内が大騒ぎになると、彼は市内の大部分に火を放って灰燼に帰した。この動乱を指導したと告発された多くの者が殺された。彼らの財産は没収されて王家の金庫に納められた。したがってデメトリオスへの恐怖と憎悪の両方から多くの市民が市から逃げ、好機と復讐の機会を求めてシュリアのあちこちを彷徨った。デメトリオスは皆から憎まれていたためにその合間にもなお殺戮、追放、財産没収をほしいままにし、残忍さにおいて父さえ遙かに上回った。というのも彼の父は王らしく寛大に親切に支配する代わりに僭主的で身勝手に権力を振るい、この上なく悲惨で耐え難い厄災によって臣民を抑圧したからだ。その結果、この家系の諸王は圧政のために全ての人から嫌われた一方で他方の家〔アンティオコス七世の養子を名乗り、デメトリオスと王位を争ったアレクサンドロス・ゼビナスのことであろう。〕が穏健さや寛大さのために大変愛された。両家の指導者たちの互いに対する数多くの陰謀が繰り広げられたため、シュリアには継続的な戦争と動乱が付き物になった。一般の人民自身は、他方を凌ごうとする王たちのお追従と都合の良い約束に影響されたため、変転をいっそう喜んだ。
4a トリュフォンと呼ばれ、王の友人たちのうちで高い評判を持っていたディオドトスなる人がおり、大衆の熱意と彼らの支配者への憎悪がいかほどかを見て取ると彼はデメトリオスから離反し、自身の計画に参与する多くの人をすぐに見いだした。彼はラリサ〔ギリシアのテッサリアにある同名の町ではなく、今日ではシャイザールと呼ばれるシリアの町。〕の人々の支持を得たわけであるが、彼らの勇気は目覚ましく、勇敢な振る舞いへの褒美としてこの土地に住むことを許されていた人々だった。彼らはテッサリアのラリサからの移住者で、セレウコス・ニカトルの頃から歴代の王に同盟者として仕え、騎兵隊の最前列で……〔欠損〕。彼はアラビアの酋長でイアンブリコスとも同盟し、このイアンブリコスはエピファネスと呼ばれたアンティオコスの世話をたまたま委ねられていた。このアンティオコスはアレクサンドロスの息子で、まだ子供だった。それというのも彼は――それはもっともなことなのだが――大衆が変革を望んでいると思ってその少年を自発的に帰らせたのだが、それは先の王たちの有徳の振る舞いと最近の支配者の無法行為のためであった。まず彼はそこそこの数の兵を集めると、アラビアの境界に位置していてそこに安全に留まる軍を支援することができる〔地勢だった〕カルキス市近郊に陣を張った。この地を基地として彼は近隣の人々に勝利し、戦争に必要な物資の全てを用意した。当初デメトリオスは彼を単なる盗賊だと見くびり、兵に彼を逮捕せよと命じた。しかし後にトリュフォンが少年の王位への復権を〔デメトリオスへの〕攻撃の口実として使って支援者の予期せぬ大部隊を集めるとデメトリオスは彼に将軍を差し向けることを決定した。
5 アラドス人はマラトス人を滅ぼす好機を得たと思い、王国の総督アンモニオスに三〇〇タラントンの賄賂と一緒に手紙を私的に送り、マラトスを引き渡すよう説き伏せた。アンモニオスは、言葉の上では他の用向きと装いつつ、実際はその都市を奪取してアラドス人に引き渡そうと意図してマラトスへとイシドロスを送った。マラトス人は自分たちの破滅が意図されているとはつゆ知らなかったが、アラドス人が自分たちよりも王から気に入られていることを分かっていた。彼らは王の兵が彼らの都市に入るのを拒み、アラドス人に嘆願者として話をしようと決定した。したがって直ちに彼らは謙虚な嘆願書と、彼らが市に保管していた神々の最も古い図像を携えさせて一〇人の最も秀でた老齢の市民をアラドスへと使節団として派遣し、彼らの血縁関係と神々への崇敬によってアラドス人を宥めて怒りを逸らそうと望んだ。上陸するとすぐ、与えられた指示に則って彼らは嘆願者として人々に話しかけた。しかし激怒していたアラドス人は嘆願者についての尋常で共通の法を無視し、彼らの親族のものである図像、そして彼らの神々への敬意を投げ捨てた。したがって彼らはそれらの図像を破壊してこの上なく恥ずべき仕方で足下に踏みにじり、使節団を石打にしようとした。長老の一部が苦労しつつも群衆を静め、長老たちは使節の石打を防いだが、その間もまだ群衆は怒っていた。しかし彼らは使節団を監獄に連れて行くよう命じた。
 横柄になったアラドス人は、その不敬虔に対して叫び声を上げて嘆願者に示されるべき神聖なる尊重と使節への然るべき身の安全と保護を呼びかけたマラトスからの使節団を虐待し、無礼な若者連中は彼らを殺すに至った。そこでこの人殺したちとその仲間たちは総会に集まり、他の悪意にさらに悪意の一欠片を加えてマラトス人に対する不敬虔で下劣な計画を企んだ。それというのも彼らは殺された人たちの指から指輪を抜き取ってあたかも使節団からであるかのようにマラトス人に手紙を書き、その中でアラドス人はすぐに助けを送るつもりだと知らせた。兵が本当に同盟軍として送られてくれば、疑いを持たぬマラトス人はアラドス兵を市内に招き入れるはずで、そうすれば彼らを力づくで占領できよう、というのがその意図だった。しかし全ての船を去らせて誰もマラトス人に彼らの裏切りを暴露できないようにしていたにもかかわらず、敬虔な正直者でマラトス人を良く思っていた一人の漁師が彼らの窮地を哀れんだためにアラドス人の邪悪な計画は失敗した。彼の船は取り押さえられていたにもかかわらず、近隣の海へと航行するのに慣れていた彼は夜におよそ八スタディオンの幅の狭い海峡を泳いで渡り、アラドス人の欺瞞をマラトス人に打ち明けた。したがってアラドス人は間諜から自分たちの計画が露見したことを聞くと、手紙を送る悪巧みを放棄した。
5a ピシディアにブボン生まれのモルケステスなる者がおり、その地方の人々の間で非常に高い評判を得ており、その声望ゆえに将軍に任命された。その権力があまりにも増大したため、彼は親衛隊を与えられて大っぴらに僭主として振る舞い始めた。しばらくして彼の兄弟のセミアスは権力を我が物にしようと企み、兄弟として認められていたがゆえの信用を利用してモルケステスを殺して僭主として取って代わった。しかし故人のまだ子供だった息子たちは親戚の一人によって密かにテルメッソスへと連れ出された。そこで彼らは成長し、やがて成人すると父の仇を討とうとした。彼らは僭主を殺したが、その権力を自分たちで受け継ごうとはしなかった。その代わりに彼らは祖国に民主制を復活させた。
6 フィロメトル〔プトレマイオス六世〕の兄弟のプトレマイオス〔八世〕・ヒュスコンはこの上なく邪悪な統治を始めた。彼は自分の生命に対する陰謀についてのでっち上げの告発をした後にこの上なく惨たらしい苦痛を与えながら多くの臣民を殺した。彼は自作自演のでっち上げの罪で他の人を追放して彼らの地所を没収した。間もなく彼の臣民はこれらの残虐行為を腹に据えかねて皆が彼を憎んだが、彼は一五年間統治した。
6a 若い方のプトレマイオス〔八世〕は兄の死後一五年間統治した。彼は多くの無法行為に手を染め、実の姉妹のクレオパトラと結婚し、彼に対する陰謀で多くの人を不正に咎めた。彼はそのある者は殺し、他の者はでっち上げの訴状で追放して財産を没収した。
7 ウィリアトゥスの結婚に際し、多くの金銀の杯とありとあらゆる見事な職人技の豪華な絨毯がその式典を飾るために用意された。槍で自分の体を支えていたウィリアトゥスはこのような豪勢さと見事な装飾への賞賛の念も起こすことなく、むしろこれらを嘲り軽蔑していた。この際、彼は実に知恵のあり賢明な多くのことを話し、恩人への忘恩と愚かさ…〔欠落〕…あまり確実なものではない運命の贈り物への信頼に関する多くの著しく目立つ見解で結論づけた。とりわけ、彼の義父の名高い富の全てはそれらに槍を向ける者の餌食になりやすいという話が際だった話だった。さらに彼が言い加えるに、彼の義父はむしろ彼に感謝すべきであり、それは主君であり全ての所有者であるところのウィリアトゥスに義父が自分の物を何も与える必要がないためである。したがってその時のウィリアトゥスはそうするように熱烈に懇願されていたにもかかわらず、体を洗いも座りもしなかった。そして食卓には豪勢な肉料理が豊富にあったにもかかわらず、彼は自分に差し出された料理の中から何個かのパンと肉だけを取った。彼は自分の食事をそこそこに摂った後、花嫁を自分のもとへと連れてくるよう命じ、ヒスパニア式に犠牲を捧げてから彼女を馬に乗せ、山の中にある彼の住まいへと連れ去った。彼は素面でいることと節制こそ最高の富であり、自由を自分の祖国と、際だった勇気を最も確実な財産だと見なしていた。彼は会話では自分の考えていることを率直且つ真剣に話し、格式張った教育を受けていなかった彼の汚れのない性格は彼を申し分のない人物としていた。
 ウィリアトゥスの結婚では夥しい財貨が展示された。これに目を向けた後、ウィリアトゥスはアストルパスに尋ねた。「よしんばローマ人にその力があったとして、宴席に広げられたこれほどの富を眺めれば、彼らははたしてこれらの文物を手中に収めることを拒もうか?」 アストルパス〔ウィリアトゥスの舅〕は、多くのローマ人はこういうものを見てきたが誰も手に入れたり〔貰いたいと〕お願いしたりしようとは考えなかったと答えた。「それならなぜあなたは自分の財産を静かに楽しむことを捨てて貧乏で卑しい私に味方したのだ?」ウィリアトゥスは自己流で素朴な調子で彼らしい言葉を向けた。トゥッカの人々はある時はローマ人、またある時はウィリアトゥスというように支持する相手をコロコロ変え、彼らがこのような流儀を続けたためにウィリアトゥスは以下のような話をして彼らの無定見さと判断力の欠如をなじった。「ある中年男に二人の妻がいて、そのうち若い方の妻は夫と同じ年になりたくて彼の灰色の髪を引き抜いた一方で、年上の方は彼の黒い髪を引き抜き、ついにこの二人の女が引っ張ったおかげで彼の頭は完全な禿になってしまったとさ。トゥッカの人々を待つ運命はこれと似ている。ローマ人は自分たちの敵を殺し、ルシタニア人は自分たちの敵を殺し、こうして君たちの都市は早晩見捨てられることになろう」他にも多くの簡潔にして要を得た話がこの男のものとされており、彼は格式張った教育を受けていないが常識を教師としていた。自然の原則に則って生きた男は簡潔な演説をし、美徳の実践によってそれを強めた。短く単純な話をすることでこの弁士は聞く者が難なく思い出せる格言を吐いた。
8 人生における貧しく卑しい地位は自足と正義愛へと続いているが、富は貪欲と不正を伴う。
9 ラオディケイアに滞在中のデメトリオス〔二世〕は宴会とそれに似た贅沢に時を費やした。彼の性格は苦難によって全く矯正されなかったためにその間にもまだ彼は多くの人に対して残忍に振る舞っていた。
10 クノッソス人は、この都市の古の権威と英雄時代における祖先の栄光と名声の両者を理由として島の支配権は自分たちのものになるべきだと称し、これを求めた。ある人が言うに、ゼウスは彼らのもとで育ち、諸々の海を支配していたミノスはクノッソスでゼウスによって教育されて有徳な行いにおいては他の全ての人を上回ったという。
11 伝承によれば、アガメムノンはクレタに留まった戦士たちを呪ったという。クレタ人の間では、目下の災厄を一句で警告する「何たること! ペルガモスの者どもは不運を顧みなかったのだ」という古い言い回しがある。
12 エジプトではプトレマイオス王がその残忍さのせいで全ての臣下から憎まれていた。彼のやり方は彼の兄フィロメトルは比べものにならないもので、それもそのはず彼の兄は穏健で寛大な質だったが、彼その人は獰猛で残忍だった。したがって人々は変革を思い焦がれ、反乱の好機を熱烈に待ち構えた。
13 そのプトレマイオス王がエジプト人の伝統的な流儀でメンフィスで戴冠された時、彼の王妃のクレオパトラは息子を産み落とした。プトレマイオスはこれに狂喜し、彼の荘厳な即位式の時にメンフィス市で生まれたためにその男の子を「メンフィス人」と呼んだ。しかし息子の誕生を祝っている時にも彼は自らの常日頃の残忍さを忘れはしなかった。それというのも、エジプトに戻る彼に同行していたキュレネ出身の人たちが彼の妾のエイレネをあまりにも自由に謗っていたために彼は彼らを処刑させた。
14 トラキアの王に即位した後、ディエギュリスは自らの繁栄ぶりに驕り高ぶるあまり人民を臣下にして友人と見なすことなく支配し、奴隷や捕虜にするかのように手当たり次第に威張り散らし始めた。彼は多くの良き正直なトラキア人を拷問して殺し、この上なく度を超した残虐行為によって他の多くの者を虐待した。彼は見栄えが良く美しい女性と少年を独り占めし、力づくで財産を剥ぎ取られるのを免れた者はいなかった。そういうわけで彼は支配地を強奪と暴力で満たすこととなった。また、彼は近隣のギリシア人の諸都市も略奪して破壊し、ある者は捕虜にして他の者はこの上ない苦痛を与えながら殺した。アッタロスに属していたリュシマケイア市を占領した後にはこれを焼き払い、最も卓越した人々を捕虜の中から選って一風変わった聞いたこともないような拷問で殺した。彼は子供の首、両手両足を切ってそれらを親の首の近くにぶら下げ、男女の体の部分を互いに交換した。彼はある者たちの両手を切って腰のくびれまで裂き、時折槍の先に乗せるために足を薄切りにしたため、彼はその残虐さにおいてファラリスとカッサンドレイアの僭主アポロドロスを遙かに上回ることになった。彼の野蛮さは以下の例によってより一層明らかになる。トラキア人の伝統的な仕方で自分の結婚を祝っていた時に彼は、アッタロスの王国から旅で来ていた二人のギリシア人の若者を引っ捕らえた。彼らは兄弟で、両者いずれも美男だった。その一人はすでに成人に達しており、他方は成人まであと少しというところだった。ディエギュリスは生け贄を捧げる流儀で二人に花冠を被せていざなった。年下の方が官吏によって横たえられて縦に伸ばされていつでも真ん中から引き裂けるようにされると、暴君は、王と平民は同じ生け贄を差し出すべきではないと叫んだ。それから弟への愛情から嘆きの声を上げていた兄が彼と剣の間に割って入った。ディエギュリスが彼も同じようにしろと命令し、一撃で二人を殺して彼の残虐行為を二倍にすると、聴衆全てがあまりにも見事なその器用さを絶賛した。彼は他の多くの人にも同様の悪逆行為を働いた。
15 ディエギュリスがその残忍さと貪欲から全ての臣民から憎悪されていることを知ると、アッタロスは逆のことをした。かくして多くのトラキア人を捕虜にした後に彼はその全員を解放し、多くの人が彼の寛大さと慈悲深さの評判を外国に広めた。多くのトラキア人貴族は、ディエギュリスへの憎悪から彼のもとから逃げてくると暖かく迎え入れられた。しかしディエギュリスはこれを憎み、逃げた人たちが後に残した人質を拷問にかけてこの上なく悲惨な苦痛を与えた。彼らの多くは非常に若く年端もいかない年頃で、彼は八つ裂きにし、他の者は手足を、そして首を切り落とした。ある者は磔にされ、他の者は木から吊り下げられ、同様に多数の女たちは殺される前に大の字にされてあらゆる悪党の情欲のために売春をさせられ、彼はこの上なく野蛮な仕方で余すところなく下劣な行為に身を委ねた。これは彼の比べられようないほどの残忍さを雄弁に示したのと同じくらい、それを見る多くの人に、たとえ最も人道の感覚に乏しい者であろうと、慈悲心と同情の念を引き起こした。
16 ヌマンティア人とテルメッソス人は和を講じるためにローマ人に使節団を送り、以下の条件で講和が認められた。彼らはそれぞれローマ人に自分たちの諸都市、三〇〇人の人質、九〇〇〇枚の軍務用の外套、三〇〇〇枚の獣皮、八〇〇島の軍馬、そして全ての武器を引き渡すべし、そして彼らはローマ人を友にして同盟者とすべし。これらの条件に応じるために諸都市に一日が充てられ、それらは条件に則って行動した。しかし武器を引き渡す段になって立派な後悔と悲嘆の声が上がり、自由を取り戻そうという人民の勇敢な決意が燃え上がった。したがって彼らひとりひとりは、まるで女のように自分から武器を差し出すべきだと考えてしまったことに憤った。決定事項を後悔した父たちは息子たちを、子供たちは親たちを、女たちは夫たちを咎めた。かくして再び我に返って武器を引き渡すまいと決定すると、彼らはローマ人との戦争に賛同した。
17 ポンペイウス〔クイントゥス・ポンペイウス。紀元前141年の執政官。カエキリウスの後任。〕がラグニ市包囲の準備をしていたところ、ヌマンティア人は同郷人を救援すべく夜に四〇〇人の兵を送った。当初ラグニの人たちは喜んでこの部隊を受け入れて彼らを救援者として存分に讃えた。しかし数日して包囲を恐れた彼らは自分たちの助命のみを条件として主張してポンペイウスと町を明け渡す交渉に入った。ポンペイウスはヌマンティア兵を引き渡さない限りはその条件を受け入れないとすると、当初ラグニの人々は自分たちの恩人に対する悪行の検討に尻込みし、できるだけ抗戦しようと決意した。しかし後になって困窮状態に陥った彼らは、自分たちには同盟者の破滅によって自分たちの命を身請けする用意があると知らせるためにポンペイウスに使節団を送った。これを知るとヌマンティア兵は市民に出し抜けに夜襲を仕掛け、大虐殺を行った。ポンペイウスは町の中でのこの混乱と押し合いへし合いを知ると、城壁に梯子をかけてよじ登り、市を占領した。それから彼はラグニの貴族を全員斬殺したが、寛大にも二〇〇人いたヌマンティア人の救援軍は全員見逃した。それは彼が不当に多大な危機に陥って追い詰められていた者たちに憐れみを感じ、そして同様にこの行動によってローマ人に対するヌマンティア人の好意を獲得しようと目論んでいたからだった。後に彼はその都市を徹底的に破壊した。
18 パルティア人の王アルサケスは穏やかで優しい主君だったために際立った繁栄と成功を勝ち得、彼の帝国の境界を大いに広げるに至った。彼は自らの前に広がる全ての土地をいとも容易く征服し、それはかつてポロスが君臨していたインドにまで至った。彼はこれほどの権力と権勢の程度にまで到達したにもかかわらず、そのような状況の君主たちにありがちな驕りや奢侈へは少しも傾かなかった。彼は臣下には親切で敵には猛々しく、多くの民族を服属させると彼らの習俗の中の最善のものを集めてパルティア人に伝えた。
19 ウィリアトゥスが会見を申し込んでくると、執政官ポピリウス〔マルクス・ポポリウス・ラウェナス。紀元前139年の執政官。17章のポンペイウスの後任。〕は、一気に全部の条件を宣言しでもすればウィリアトゥスを捨て鉢にさせて徹底抗戦へと駆り立てることになるのではないかと恐れて条件を一つ一つ述べようと決めた。
20 アタマニア人の王アミュナンドロスの息子で、アタマニア出身のガライステスと呼ばれる男がおり、彼は家族のなかでとりわけ富と名声で秀でていた。彼はプトレマイオス〔六世〕・フィロメトルの友人の一人で、対デメトリオス〔二世。シュリア王。〕戦ではアレクサンドレイア出身の軍勢を指揮した。プトレマイオスの敗北と死の後、ガライステスは敵に勝利をわざと譲ったとして讒訴され、次の王になったプトレマイオス〔八世〕は彼の諸特権を剥奪して酷く扱った。したがって恐怖を感じた彼はギリシアへと去った。傭兵との戦いによって他にも多くの人がエジプトから追い出されていたため、ガライステスは亡命者たちを迎え入れた。彼は、自分はプトレマイオス・フィロメトルからクレオパトラとこの王の間にできた次の王になることを運命づけられている息子の後見を委ねられたと言った。彼はその少年に冠を被せ、多くの亡命者の支持を得てこの少年に父の王国を受け継がせようと準備した。
21 アウダス、ディタルケスそしてニコロンテスは互いに親類であり友人であり、ウルソ〔今日のオスナ。〕の出身だった。ウィリアトゥスの権威がローマ人のせいで弱まっているのを見て取った彼らは互いを恐れ、自分だけの安全を確保してくれそうなローマ人からの何らかの支持を得ようとし…〔欠損〕…ウィリアトゥスが戦争を終結させる気になっていたのを理解すると彼らは、もし自分たちを休戦協定の使節として派遣してくれればカエピオ〔クイントゥス・セルウィリウス・カエピオ。紀元前140年の執政官。〕を和平協定に同意させてみせると説き伏せた。酋長はこれに快く同意し、彼らは即座にカエピオのもとへと向かい、彼らがウィリアトゥスを暗殺すると言うと彼は彼らの身の安全を守ることを易々と説き伏せられた。この件について誓いを交わした後に彼らは速やかに自軍の野営地へと戻った。彼らはウィリアトゥスの考えを自分たちの真意からできるだけ逸らすため、自分たちはローマ人に和平に同意するよう説き伏せたと言って彼を上機嫌にさせた。それから友情のために彼が持っていた信頼を利用した彼らは夜に彼の天幕に忍び込んだ。ウィリアトゥスをよく狙いすました剣の攻撃で片付けた後、彼らはすぐに野営地から逃げ出して山々を遠回りして横断し、カエピオのもとへと無事やってきた。
21a ウィリアトゥスはルシタニア人によって非常に華やかで立派な仕方で埋葬され、この男の目覚ましい勇気を讃えて二〇〇組の剣闘士が彼の墓前で試合をして互いに競い合った。彼は危機にあっては勇敢で、必要なことに備えるにあたっては賢明で慎重だったというのが衆目の一致するところであった。そして全てのことのうちで最も注目すべきは、指揮を執った時の彼は以前の誰よりも愛されたことである。それというのも彼は戦利品の分配にあたっては他の者よりも自分の取り分を多めにすることはなく、自分の取り分から戦利品を分け与えて最も勇敢に戦った者をしばしば讃え、最も手元不如意な兵を助けた。彼は信じられないほど抑制的で油断なく行動し、労を惜しまず、災難を避けた。彼は安逸や快楽に少しも負けなかった。彼の諸々の有徳な資質は明らすぎて証明するのが容易いほどである。彼は一一年間ルシタニア人の将軍をしており、その間、彼の兵たちは反乱を起こさずよく規律だっていただけでなくほとんど無敗だった。しかし彼の死後、このような将軍を失ったルシタニア人の軍はすぐに打ち砕かれて四散した。
22 プトレマイオス〔八世〕はその残忍さ、殺人、汚らわしい情欲、形の崩れた体の故に全ての人から憎まれ、このためにヒュスコンと呼ばれた。しかし彼の将軍ヒエラクスは優れた戦士で会衆一般の皆から人気があり、偉大な精神を持った男だったため、彼その人が政権を支えていた。プトレマイオスは手元不如意で、兵士たちは給料の支払いを求めてガライステスに寝返ろうとしていたため、ヒエラクスは自腹を切って未払いの給料を支払うことで暴動を押し止めた。
23 エジプト人はプトレマイオスの演説があまりにも子供っぽく、下劣な性欲に溺れて放縦のおかげで体が骨抜きになっている様を見ると、こぞって彼を謗った
24 コントブリスと知られる都市はローマ人をコントブリス領から即座に去らせるように、あるいは大惨事を予想するよう指示を与えて使節団を送った。これまでこの国に敵軍を連れて敢えて侵入した者全てが滅んでいたからだ。執政官は使節たちに言った。「ルシタニア人とケルティベリア人は多大な脅しと野心的な主張をしているが、ローマ人はその罪を懲らしめて彼らの脅しを蔑むすべを知っている。脅しによるよりは行動の中で勇気を示す方が良いし、この民らは我が身をもってこのことを知ることになろう」
25 彼は武器を手放して最も恥ずべき奴隷になるよりは戦いで栄光に包まれて死ぬ方が良いと考えた。
26 ユニウス〔デキウス・ユニウス・ブルートゥス・カライクス。紀元前138年の執政官で、ウィリアトゥス死後も出没していたゲリラ掃討のためにヒスパニアに送られた。。〕は、兵士は今こそより一層の勇気を出してかつての勝利に相応しい者となるべきであり……彼らの魂は疲労に耐えて彼らの知性は身体の弱さに打ち勝つべきだと言って兵士を激励した。
 ローマ人が敵に向けた執念深い復讐の念は、服従した者への彼らの際だった寛大さと同じくらいに普く知られるようになった。
27 執政官アエミリウス〔マルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナ。紀元前137年の執政官。戦争状態になかったウァカエイ族にヌマンティア人を支援したという口実で先述のユニウスと一緒に戦争を仕掛けて彼らの主邑パランティアを包囲した。包囲は失敗して大敗を喫し、指揮権を剥奪された。〕は締まりのない贅肉で非常に太っていて不格好で見苦しい体をしていたため、戦争の指導には全く不適だった。
28 シュリアでは、トリュフォンと呼ばれるディオドトスがアレクサンドロスの息子でまだほんの子供で王位に上ったばかりだったアンティオコス〔六世〕を殺した。それから彼は王冠を被り、王位が空だったので自らを王と宣言し、王家の太守たちと将軍らに対する戦いの準備をした。メソポタミアにはメディア人ディオニュシオスが、コイレ・シュリアにはサルペドン、パラメデス及び彼らの仲間たちがいた。海沿いのセレウケイアにはアルサケスに捕らえられていたデメトリオスの妻である王妃クレオパトラを伴ったアイスクロンがいた。
28a 一般市民から王に成り上がったトリュフォンは自らの地位を強化する宣言を元老院から引き出すためにできる限りことをした。したがって彼は金貨一〇〇〇〇分の重さの勝利の女神の黄金の像をこしらえると、自分が王の称号をもらえるだろうと頭から予想し、自分の贈り物がそれ自体で相当の価値を持っているのみならず、まさにその名が勝利の兆しであると考え、ローマの人々へとこれを贈呈するためにローマへと使節団を送った。しかし彼は元老院の方が自分よりもずっと上手だと気付かされた。それというのも、賢明な彼らは詐術で他の人を出し抜く者を嫌っていたからだ。彼らは贈り物とその良き兆しを利益共々受領したが、元老院はトリュフォンの名前の代わりに、裏切られて殺された王の称号がそれに彫られるべしとを宣言した。こうすることで彼らは、自分たちがトリュフォンの子供殺しの邪悪さを憎んでいて悪人の贈り物は受け取るつもりはないということを示した。
28b スキピオ・アフリカヌスはエジプト王国全土を見るために他の使節と一緒にアレクサンドレイアへとやってきた。プトレマイオス〔八世〕はたくさんの従者を連れて彼らと威風堂々とした調子で会談して豪勢にもてなし、彼らを連れて回りながら宮殿と宝物庫を見せた。しかし徳において秀でていた人たちは質素で健康的な食事に甘んじ、出された豪勢な食べ物を心身にとって害になるものとみなして軽蔑した。王が珍奇で賞賛に値すると見なした文物を彼らは一瞥したにすぎず、これらを無価値なものと見なしたが、この都市の状態と繁栄ぶり、とりわけファロス島の様子など本当に見るに値した物はこの上なく注意深く眺めた。彼らはそこからメンフィスへと航行し、その島の良さ、ナイル川によってもたらされる強み、都市の数、無尽蔵の住民、エジプトの強固な防御力、その地方の見事さ、そしてどうやってエジプトの地がこの大帝国が支えて守っているのかに着目した。エジプトの人口とその地方の強みの両方に感服した彼らは、もしひとたび適切な支配者に恵まれればエジプト王国はいとも容易く巨大な帝国へと膨張できようという意見を持った。エジプトで見る必要がある全てのものを見た後、使節団はキュプロス島、そこからシュリアへと向かった。つまり彼らは人の住む世界のほとんどを踏破し、彼らが来た全ての場所で賞賛の的になった素面ぶりで一貫したため、際だった栄誉と声望を得た。帰国する時まで彼らはあらゆる人から満場一致の賞賛を獲得した。彼らは争議中の人を互いに和解させ、他の者には争っている相手に対して正当で正義に適ったことをするよう説き伏せた。彼らは図々しく強情な者には自制するように力づくで強いた。そして解決が困難な争いは元老院に諮った。王と民衆の双方と話し合って以前の全ての協定を更新したため、彼らはローマの統治への好感を増進した。そして全ての国は友好の立場を示そうとローマへと使節団を派遣してスキピオと他の代表者たち、そしてこの人たちを遣ってくれた元老院を大いに褒めた。




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