31巻→ディオドロス『歴史叢書』32巻(断片)→33巻

1 マシニッサと戦争で戦ったことでカルタゴ人はローマとの条約に違反したとみなされた。使節を送って彼らは、ローマ人はどうすべきだったのかを知っていたはずだと述べた〔第二次ポエニ戦争の敗戦と共に締結された条約でカルタゴは一切の戦争を禁じられた。今回の戦いはマシニッサのカルタゴ領への度重なる襲撃に対してやむを得ず自衛したというのがカルタゴ側の言い分。〕。受け取った答えがあまりにも曖昧だったためにカルタゴ人は混乱させられた。
2 他人への支配権を得ることを目的とする者はその獲得のために勇気と知恵を用い、広く拡大するために他人に対する穏健さと配慮を支配権を用い、攻撃からそれを守るために威嚇して動けなくさせる。これらの命題の証明は昔に生まれた帝国並びにそれらに続いたローマの支配の歴史への注意深い考慮によって見て取れよう。
3 カルタゴ人の使節が自分たちはマシニッサに対する戦争の責任者を罰したと述べると、元老院のある議員が「終戦時にではなく即座に争議の責任者が罰せられないのはいったいどういうわけだ?」と叫んだ。ここでカルタゴの使節は誠実な受け答えももっともらしい受け答えも出せずに黙り込んでしまった。そこで元老院はローマ人はすべきことをよく知っていたという文言を踏まえ、彼らにぎこちない遁辞を返した。
4 アミュンタスの息子フィリッポスはマケドニアがイリュリア人に隷属していた時に王位を継承し、武力と軍勢の指揮官としての抜け目なさによって彼らから王国をもぎ取ったが、敗者に示した穏健さによってヨーロッパの最大勢力にのし上がった。例えば、ある有名な戦いで彼のギリシアでの覇権に楯突いたアテナイ人を破った時、彼は敗軍の死者の葬儀をして埋葬されないままにすまいと大変な労苦を引き受け、二〇〇〇人以上の数の捕虜を身代金なしで解放して母国へと帰らせた。その結果、今や覇権を争って武器を取っていた者たちは彼の寛容さのおかげでギリシア諸国への彼の権威を喜んで認めた。他方、多くの戦いでその権勢を打ち立てた彼は、一度の親切な行動によって敵対者の自発的同意の下でヘラス全土の覇権を受け取ることになった。そして人口の多い都市であったオリュントスを平地にならした時、ついに彼は恐怖を用いて王国の永続性を確保した。似たようにして彼の息子アレクサンドロスはテバイを占領した後にこの都市を破壊することにより、反旗を翻すつもりだったアテナイ人とラケダイモン人に反乱を思いとどまらせた。ペルシア遠征でも戦争捕虜をこの上なく寛大に扱うことで彼は勇気と同様に寛容さの名声を得て、これはアジア人に彼の支配を熱望させるのに貢献した。
 より近くにローマ人が世界帝国を追い求めるようになると、武器での勇気によってそれを獲得し、次いで敗者への可能な限り最も親切な扱いによって影響力を遠くへ広く拡大させた。なるほど、これまで彼らは属国への残忍と復讐を控えてきたために属国からは敵とはみなされず、あたかも恩人や友人であるかのようだった。以前は敵だった被征服者が恐るべき報復が訪れるのではないかと予期した時にこの征服者は右に出る者がいないほどの寛容さを示した。彼らはある者を同胞市民として記帳し、ある者は異民族間結婚の権利を認め、他の者には独立を取り戻させてやり、どんな場合にも不当にむごい憤りを養うことがなかった。したがって彼らの驚くべき人道性のために諸王、諸都市、そしてあらゆる民族はローマの旗の下に集った。しかしひとたび人の住む世界の事実上全土を支配するようになると、彼らは恐怖政治と最も見事な諸都市の破壊でその勢力を支えるようになった。彼らはコリントスを徹底的に破壊し、例えばペルセウスのようにマケドニア人を根絶やしにし、カルタゴとケルティベリアのヌマンティア市を灰燼に帰し、彼らが恐怖によって脅かした人はおびただしかった。
5 ローマ人は正当な戦争のみに乗り出しており、〔戦争の〕原因を作ったりそういった問題についての決定をしようとはしなかった。
6 ローマ人がカルタゴ人に対する遠征軍を出撃させ、リリュバイオンにはすでに艦隊がいるという知らせがカルタゴに届くと、カルタゴ人は全ての敵対行為を控えてローマに代表団を送り、ローマ人に自分たちとその国の処理を委ねることにした。彼らの降伏を受け入れた元老院は、カルタゴ人が忠告を素直に聞く限りにおいて元老院は彼ら固有の法、領土、聖域、墓所、自由、そして財産――しかしカルタゴ市への言及はどこにもなく、その破壊の意図は隠されていた――の所有を認めるという回答を寄越した。カルタゴ人にこれらの慈悲が与えられると、彼らは三〇〇人の人質、元老院の息子たちを差し出して両執政官の命令に従った。カルタゴ人はこれで戦争を免れられると思い、さして嘆きもせずに人質を送った。ローマ軍がウティカに到着した。カルタゴは、ローマ人が彼らに散々要求をしてきたことを知らせるために再度使節を送った。両執政官がごまかさずに武器と投擲兵器を引き渡せと述べると、ハスドルバルと戦争中だった彼らは当初は落胆した。にもかかわらずローマ人は二〇万個のありとあらゆる武器と二〇〇〇本のカタパルト〔の矢〕を受け取った。そこでローマ人は再びカルタゴ人に手紙を送り、〔その中で〕長老たちの代表団を任命して〔寄越せば〕最後の指示を知らせるつもりだとした。カルタゴ人は三〇人の最高位の人たちを派遣した。両執政官のうち年長の方のマニリウスは、カルタゴ人が今住んでいる都市を放棄して海から八〇スタディオンの距離にもう一つ都市を建設すべしと元老院は宣言したと述べた。事ここに至りて使節団は泣き落としで慈悲心に訴え、全員が地面にひれ伏して涙ながらに悲嘆の泣き声を上げた。そして感情の大きな揺れで集会を押し流した。もがいた後にカルタゴ人が仰天から立ち直ると、ブランノなる一人の男だけが時宜に適った言葉を発し、やけくその勇気をもって実に率直な物言いをし、彼の言うことを聞いた全員に慈悲の念を呼び起こした。
 断固としてカルタゴを滅ぼすと決めていたローマ人は使節たちにすぐさまカルタゴに戻って宣言されたことを市民に報告するよう命じた。使節団の一部の者は帰国は絶望的だと考えたために全力を尽くして私的な逃げ場を探したが、他の者は帰国を決めて来た道を戻り、死を逃れられぬ任務を完遂した。人々が彼らに会おうと集まってくると、彼らは人々に言葉をかけずに自らの頭を打ち、両手を掲げて神々に助けを求め、アゴラへと向かい、ローマ人が下した命令を長老会に報告した。
7 後にアフリカヌスと呼ばれることになるが当時はただの軍団幕僚でしかなかったスキピオは、宣誓の言葉を軽んじては宣誓に基づく合意に至った人との真義を裏切っていた他の軍団幕僚とは違い、籠城者との約束を守るにあたっては最も真義に篤く、彼の手に自らを委ねた全ての人への扱いでは誠実だった。このため彼の正義の評判がリビュア中に知られるようになり、包囲下にあった者は何人たりともスキピオが合意の委員にいなければ投降しなかった。
8 この戦いで倒れた三人のローマ人が埋葬されないままにされたために全軍がその男たちのことに、何よりも埋葬されなかったことに悲しんだ。スキピオは執政官の同意の下でハスドルバルに彼らの埋葬を求める手紙を書いた。彼はその求めに同意して相応の栄誉でもって葬儀を行い、遺骨を執政官に送り届けた。こうしてスキピオは敵に対してすら大いに影響力のある人物として名を上げた。
9 カルタゴの女たちは黄金の宝飾を供出した。というのも今や生命の危機がすぐ足下に迫っていたため、富を失うことになっても贈り物によって身の安全を確保できようと人民全員が感じていたからだ。
13 [カルタゴの港はコトンという名で知られていた。それのいくつかある優位のうちで我々は然るべき時に完全な説明を提示しようと思う。]
14 カルタゴの城壁は四〇ペキュスの高さで幅が二二ペキュスだと彼は言っている。それにもかかわらずローマ軍の攻城兵器と彼らの軍事的偉業がカルタゴの防備より強いことが証明され、その都市は占領されて徹底的に破壊された。
15 [彼については別の箇所で再び触れる。]デメトリオス王がペルセウスの息子を自称するアンドリスコスという若者をローマに送ると、元老院はイタリアのある都市で暮らすよう彼に命じた。しかし後に彼は脱走してミレトスへと渡った。そこでの滞在中に彼は自分がペルセウスの息子だと証明すると称する話をでっち上げた。彼が言うには、まだ子供だった頃に彼は……に与えられてクレタ人に育てられ、そのクレタ人は封印が施された板を彼に伝え、その〔板に書かれていることの〕中でペルセウスが彼に二つの宝物の存在を明かしたという。そのうち一つはアンフィポリスの街道の下の一〇オルギュイアの深さのところにあって一五〇タラントンの銀を収めており、他方はテッサロニカにあり、宮殿の向かい側の列柱のエクセドラの真ん中にあって七〇タラントンの銀があるという。彼の話は大いに注目を集め、ついにはミレトスの行政官たちの耳にまで入り、彼らは彼を逮捕して獄に繋いだ。ある使節団がたまたまその都市に滞在していたため、行政官たちはどうすればよいか忠告を求めて彼らにこの問題を諮った。彼らはそいつのことなど放っておけと嘲るような調子で行政官たちに言った。釈放されると彼は熱心に活動を初め、彼の虚礼に現実味を持たせた。王家の生まれについての話に絶えず尾ひれをつけることで彼はマケドニア人さえ含めた多くの人を騙した。マケドニア生まれの名をニコラオスという竪琴奏者を仲間にすることにより、彼からペルセウス王の妾だったカリッパと呼ばれる婦人が今はペルガモンのアテナイオスの妻になっていることを教えられた。したがって彼は彼女のもとへと向かい、ペルセウスとの血縁のおとぎ話を述べたてて旅の資金、王らしい衣服、冠、そして必要に応じた二人の奴隷を彼女からせしめた。さらにトラキアの酋長テレスが先のフィリッポス王〔ペルセウスの本物の息子。彼は父の死後も二年間生きていたが、王位には就かず、イタリアで捕虜として死んだ(N)。〕の娘と結婚したと彼は彼女から聞いた。この支援で元気付けられた彼はトラキアへと向かった。途中で彼はビュザンティオンに立ち寄って栄誉を受けたが、これはビュザンティオン市民が後にローマにそのつけを払うことになった愚かさの証だった。ますます人々が彼のもとに集まると、彼はトラキアのテレスの宮殿に到着した。テレスは栄誉の印として彼に一〇〇人の兵を贈り、彼の頭上に冠をかぶせた。彼によって他の酋長たちに紹介されると、アンドリスコスは彼らからも新たに一〇〇人の兵を受け取った。トラキアの酋長バルサダスの宮廷に向かうと、今や相続権に基づいてマケドニア王位の法的に正当な主張を訴えるに至った彼は遠征軍に加わってマケドニアへの帰国の途を護送するよう彼に説き伏せた。マケドニクスに戦いで敗れると、この偽フィリッポスはトラキアに逃げ込み……。ついに彼〔マケドニクス〕はマケドニア中の都市で優勢に立った。
16 先のリビュア王でありローマと友好関係を常に保っていたマシニッサは全く衰えを見せることなく九〇歳まで生き、一〇人の息子を残して死に、ローマに彼らの後見を委ねた。彼はずば抜けて壮健な身体を持った男で、子供の頃から我慢と激しい運動に慣れ親しんでいた。なるほど彼は一日中道に立っていられるし、まんじりともせずに夜まで座っていられたし、自分の事柄でせわしなく動き回っていた。馬に乗ると彼は遠くへ行かずに日中ずっとと夜通し立て続けに乗っていることさえできた。以下の話は彼の健康と活力の第一の印である。九〇近くになっても彼にはこれまた顕著に頑丈な子供だった四歳の息子がいた。土地の管理でもマシニッサはあまりにもずば抜けていたために息子のそれぞれに必要な全ての建物を備えた一〇〇〇〇プレトラの農地を残すことができた。彼の王としての目覚ましい来歴は六〇年に及んだ。
17 ファメアスと合って大きな希望を胸に抱いたスキピオは彼に一二〇〇騎の騎兵を連れてカルタゴ人を見捨てるよう説き伏せた。
9a 偽フィリッポスはローマ人に対する目覚ましい勝利を得た後、野蛮なまでの残忍行為と法に対する暴君じみた軽視に手を染めるようになった。彼は中傷じみたでっち上げの罪状をぶちあげた後に多くの金持ちを殺し、友人さえ少なからず殺した。それというのも生来彼は残忍で流血を好み、横柄な仕草をしており、さらに貪欲であらゆる卑しい資質を徹底的に持っていた。
 賢明さが広く認められた人物だったマルクス・ポルキウス・カトーは誰かからスキピオがリビュアでどうしているのかと尋ねられた時、「彼一人が正気で、他の連中は影のようにあたりを飛び回っているにすぎぬ」と言った。その上、人々は彼こそ執政官になるのに相応しい人物だと考えていた。
 スキピオはまだ若輩で法が許す年齢に達していないにもかかわらず、人々は彼が〔執政官になるのに〕相応しいと考えていて、彼を執政官にするために全力を尽くした。
9b 偽フィリッポスはテレステスを将軍に任命した。しかし彼はローマ人の約束に唆されて反旗を翻し、カエキリウスに騎兵部隊ともども寝返った。偽フィリッポスは彼の行動に激怒し、テレステスの妻子を逮捕して彼らに怒りをぶちまけた。
17.2 運命は全ての事柄をあたかも目的があるかのように巻き込み、最初はある者を同盟者とするも、他の者を敵対者とする。
18 ローマの執政官カルプルニウス〔紀元前149年の執政官ルキウス・カルプルニウス・ピソ〕はいくつかの町の降伏を受け入れた後に宣誓の言葉を反故にしてそれらを破壊した。そこで信用されなくなったため、あたかも何らかの神的な作用が彼に手向かっているかのように彼の全ての計画は破綻した。というのも彼は多くのことを試みたにもかかわらず、彼の行動は効果を生まなかったからだ。
19 プルシアス王が反吐の出そうな格好をして柔弱な暮らしぶりで女々しい体つきになったため、彼はビテュニア人の憎悪の的になった。
20 元老院はニコメデスと彼の父プルシアスとの戦争を解決するためにアジアへと委員団を派遣し、この任務のために痛風を患っていたリキニウス、落ちてきたタイルが頭に刺さったせいで大部分の骨を取り去ったマンキヌス、知覚を全く持たないルキウスを選んだ。このために元老院の指導的人物で非常な賢者だったカトーは元老院で「我々は足がなく、頭がなく、心を持たぬ使節を派遣しようというのだ」と言った。彼の当てこすりはよく狙いすまされたもので、その町の噂に上った。
21 ニコメデスは父プルシアスを戦いで破ると、ゼウスの神殿の神域に連れて行った後にこれを殺した。したがって彼はビテュニアの王位を継承し、最も冒涜的な殺人に手を染めることでこの高い地位を得た。
22 カルタゴ人が包囲されていた間にハスドルバルはグルッサに手紙を送って会談に招いた。将軍〔スキピオを指す〕の指示に従ってグルッサはハスドルバルに一〇タラントンと一〇〇人の奴隷ともども彼自身と一〇個の家族に避難先を提供した。ハスドルバルは、彼の国が炎で荒らされている間には身の安全を求めて動く彼を太陽は拝むことはないだろうと答えた。さて彼は言葉の上では勇壮な風だったが、行動では自らが変節者であることを示した。彼の都市は絶望的な苦境にあったにもかかわらず、彼は贅沢暮らしをして豪勢な宴会を開いては一日中酒を飲み、尊大な調子で二番目の料理を食べた。同胞市民が飢餓で死んでいた間も、彼は居丈高に侮蔑した調子で紫の上着と高価な毛織りのマントを着ており、彼の国の不運にあってもどんちゃん騒ぎをして楽しんでいた。
23 カルタゴ陥落時に将軍は誇り高い勇気、あるいはむしろ誇り高い物言いを忘れたかため、逃亡者たちを見捨てて嘆願者のふりをしてスキピオに近づいた。スキピオを両膝で抱きしめてできる限りの言い訳をしながらむせび泣いたために彼はスキピオの同情を買った。スキピオは彼を元気づけ、彼と一緒に会議の席に座っていた友人たちに向かって「これがしばし前には大変友好的な言葉での身の安全についての申し出を突っぱねた男だ。これこそ運命の女神と彼女の力の無常さだ。彼女は全ての人間の自惚れを予期せぬ形で打ち砕くものだ」と言った。
24 カルタゴに火が放たれて炎が市の全域を恐るべき破壊のるつぼとなすと、スキピオは耐えきれずに涙を流した。助言役のポリュビオスに尋ねられると彼は心を揺さぶられたわけを話した。「なぜって、運命の女神の気まぐれさを顧みたからですよ。おそらくいつの日か、似たような運命がローマを襲う時が来るはずですから」そして彼は詩人ホメロスから数行を引用した。
聖なるイリオンにも、プリアモスと彼の民ともども滅びの日が来るだろう。
25 カルタゴ占領の後にスキピオは集められた戦利品をシケリアからやってきた使節に見せ、過去に個々の都市からカルタゴに運び去られた物を個々に拾い上げさせた。多くの有名な人々の肖像、多くの見事な職人技の像、金銀でできた神々への少なからず目立つ奉納品が見つけられた。その中にはアクラガスの悪名高い牛もあった。それは僭主のファラリスのためにペリラオスがこしらえたもので、この装置を最初に使用されたことで彼は命を落とし、自らが犠牲になることによって正当にも殺された。
26 人間の事績が歴史に記録されたどの時代でもギリシアがこのような災難〔アカイア同盟がローマに敗れた戦争を示す〕の犠牲になることはついぞなかった。なるほど、不運の激烈さのために何人たりとも涙なくしてこれらを書いたり読んだりできないだろう。私の著述はその時に何が起こったのかの不朽の記録をきたる世代に提供するためのものではあるが、私はギリシアの不運をくどくど述べ立てるのがどれほど苦痛に満ちたことであるのかを知らないわけではない。しかし出来事とその結果についての経験から引き出された警告は我々自身の欠点を矯正するにあたって少なからず人々の役に立つものだと私は書き留めもした。したがって批判が向けられるべきは歴史家ではなく、むしろ状況にあってあまりに思慮のない振る舞いをした人であるべきである。例えば、アカイア同盟を突き崩してこれに崩壊をもたらしたのは兵士の怯懦ではなく彼らの指揮官たちの無経験さである。これとほぼ同時にカルタゴ人を転覆させた恐るべき災難があったにもかかわらず、ギリシア人を襲った不運はこれにすら劣らぬもので、実を言えばそれ以上のものだった。それというのもカルタゴ人は完全に滅ぼし尽くされたために彼らの不運への嘆きは彼らと共に消え去ったが、ギリシア人は親族と友人の虐殺と斬首、彼らの諸都市の占領と略奪、全ての人々の情け容赦ない奴隷化をこの目で目撃した後、つまりは自由と自由に物を言う権利の両方を喪失した後、繁栄の高みをこの上ない惨状と取り替えることになったからだ。ローマとの戦争に乗り出すことを不注意にも許したために今や彼らは最大の災難を経験することになった。
 なるほどアカイア同盟に取り憑いた動揺と彼らの自己破壊への驚くべき猛進ぶりはまったき神罰の外観を呈していた。これら全ての問題の責任者は将軍たちである。彼らの一部の者には債務があったため、革命と戦争の機が熟すと全ての債務の帳消しを提案した。そして彼らを支持する多くの寄る辺ない債務者がいたため、彼らは平民たちを駆り立てることができた。他の指導者たちは全く愚劣にも最後の手段に飛びついた。何にも増して人民のうちに革命の炎を点したのはクリトラオスだった。彼の地位が彼に与えた特権を行使して彼は行いが横柄で自分勝手だとローマ人を大っぴらに非難した。自分はローマの友たらんことを望んでいるが、自分から進んでローマ人を主君として歓迎することを選ぶなど到底できないと彼は言った。総会は、もし自分たちが男らしさを示せば同盟者に事欠くことはないだろうし、奴隷になればご主人様に事欠くことはないだろうと完全に納得した。そして演説の中で彼は、すでに軍事同盟に関する会談が王たちと自由諸都市との間で設けられているとの印象を与えた。
 演説によって群衆の情熱を燃え上がらせると彼は対スパルタを名目にしてはいたが実のところローマに対する宣戦を提案した。したがって幾度も悪徳が美徳を打ちひしぎ、慎みと安全の外観を呈した破滅へと導く宣言がなされた。
27 コリントスについて昔の詩人たちはこう詠っている。
コリントス、ヘラスの輝ける星よ。
 後の世代には驚くべきことだろうが、これはこの時に征服者によって消し去られた都市のことを言っているのだ。コリントスがそれを見た者に大きな哀れみの念を掻き立てたのは陥落の時だけではなく、後年そこを眺めた者でも皆その都市が跡形もなく消し去られたのを知ると、慈悲の念を覚えたものである。過去の繁栄と栄光の痕跡の乏しさを眺めて涙するこなくここを通り過ぎる旅人はいない。それ故に一〇〇年ほど前の昔に、その偉大な事績の故に神君と呼び習わされたガイウス・ユリウス・カエサルはその跡地を眺めた後に都市の再建を行った。
 彼らの魂は安全への希望と破滅の予見という二つの対立する感情に掴み取られた。
 一〇〇年ほど前の昔に、その偉大な事績の故に神君と呼び習わされたガイウス・ユリウス・カエサルはコリントスの跡地を視察した時に哀れみと名声への渇望に突き動かされて大変な意欲でもってそこの再建に取りかかった。したがってこの男と彼の行動の高邁さが我々の全面的な賞賛を受け、我々が我々の歴史書で彼の寛大さへの絶え間ない賞賛に賛同するのは当然のことである。彼の祖先のその都市への扱いは過酷だった一方で、罰するよりもむしろ許す方が好きだった彼は持ち前の寛大さによって情け容赦ない過酷さを改めた。業績の偉大さにおいて彼はそれに先立つ全ての人を上回り、自らの実力に基づいて獲得したその称号を受けるに足る人物だった。つまるところ、この男こそ高潔さ、弁論家としての実力、戦争での統率力、そして金銭への無関心によって我々の賞賛を受け、気前の良い行いによって歴史書で讃えられる資格がある人物であった。業績の偉大さにおいて彼は先立つ全てのローマ人を上回った。
9c プトレマイオス・フィロメトルは血縁に基づいてアレクサンドロスを支援すべくシュリア入りした。しかしこの男のどうしようもない意気地のなさを見て取ると、現在進行中の策があると称して娘のクレオパトラをデメトリオスの方に移し、同盟を結んだ後に彼女を彼と婚約させることを誓った。ヒエラクスとディオドトスはアレクサンドロスのことを絶望視し、デメトリオスの父への悪事のために彼を恐れたため、アンティオケイアの人々を反乱へと駆り立て、プトレマイオスをその都市に招き入れて彼の頭に冠を乗せて王位を差し出した。しかし彼は王位は望まなかったがコイレ・シュリアを自らの支配地に加えようと切望して非公式にデメトリオスと手を結ぶことにし、これによってプトレマイオスはコイレ・シュリアを、デメトリオスは先祖代々の王国を支配しようとした。
9d, 10.1 アレクサンドロスは会戦〔紀元前145年のオイノパラス川の戦いでデメトリオス・プトレマイオス連合軍に敗れた(N)。〕で敗れると土着の酋長であるディオクレスのもとへと逃げ込もうと五〇〇人の兵を連れてアラビアのアバイへと逃げ、彼は以前に幼子のアンティオコスを彼のもとに養育のために置いていた。そこでアレクサンドロスに同行していたヘリアデスとカシオスという二人の将校は自分たちの身の安全のために〔デメトリオスと〕秘密の交渉をしてアレクサンドロスの暗殺を自分から申し出た。デメトリオスが彼らの条件に賛成すると、彼らは自分たちの王に対する裏切り者になるだけでは飽き足らず、その殺害者ともなった。したがってアレクサンドロスは友人たちによって殺されることとなった。
 あまりにも不思議で多分信じられそうにはないことではあるが、アレクサンドロスが死ぬ前に起こった奇妙な出来事を書かないでおくのは不適切であろう。目下の話の少し前、アレクサンドロス王がアポロン・サルペドニオスの神域と呼ばれていたキリキアで神託に伺いを立てると、伝えられるところでは「二つの形を持った一人」を生んだ場所に用心すべきだと神は彼に答えたという。その時の神託は謎めいたものだったが、後に王が死んだ後に以下のような原因でその意味が判明した。
 アラビアのアバイにマケドニア人を祖先とするディオファントスという名の男が住んでいた。彼はその地方のアラビア人の女と結婚して息子と娘を儲け、息子は自らにちなんで〔ディオファントスと〕名付け、娘はヘライスと呼んだ。さて彼は息子が青春時代に達する前に死んだのを見たが、娘が結婚できる年齢になると彼女に贈り物を贈ってサミアデスという名の男に彼女を娶せた。妻との結婚生活を一年間過ごした後に彼は長い旅に出た。ヘライスは奇妙で全く信じられないほど病弱になった。酷い腫れが彼女の腹部にでき、その部分は段々と膨れ上がって高熱が起こり、彼女の医者たちは子宮口に潰瘍ができているのではないかと疑った。彼らは炎症を減らせると考えて治療を施したが、それにもかかわらず七日目に腫瘍がはち切れて睾丸がついた男性器のように見えるものが性器から飛び出てきた。破裂が起こった結果、医者も他の訪問者も来なくなり、母と二人の下女しか彼女のもとを訪れなくなった。この超常現象に度肝を抜かれたために彼女らはできる限りヘライスの世話をし、何が起こったのかについては何も言わなかった。病から回復すると彼女は女物の服を着て家庭的な人間として、夫には従順に振る舞った。しかしこの奇妙な秘密に関係を持っていた人たちからは彼女が両性具有者であると思われ、彼女の夫との過去の生活に関しては、自然的な肉体関係がこの夫婦にはそぐわなかったので彼女は同性同士のまぐわいをしていたと考えられていた。彼女の状況がまだ発覚していなかった時にサミアデスが戻ってきて、当然のことながら彼女は非常に恥じ入って彼と顔を合わせられなくなったのであるが、彼らが言うには彼は苛立つようになったという。彼はその点を絶えず強調して妻に不平を言い、彼女の父は彼の抗弁に応じなかったが、理由を隠し通すのに頭を悩ませたため、彼らの不一致はすぐに争議へと発展した。その結果、サミアデスは妻に関して彼女の父を告訴したわけだが、それというのも運命の女神がいつも遊びの中でしてきたことを実生活で行い、告訴へと導く奇妙な変化を起こしたためである。判事たちが椅子に座り、全ての陳述が提出された後、問題の人物が法廷の前に姿を現し、陪審員たちは妻に対して夫か、それとも娘に対して父のどちらが監督権を持つべきなのかを議論した。しかし法廷が夫に付き従うのが妻の義務だと見いだすと、ついに彼女は真実を明らかにした。彼女は勇気を奮い起こして着ていた服を脱ぎ、彼ら全員に自分の男性器を見せ、男が男と共同生活をする必要があるのかという激しい抵抗が起こった。その場にいた全員がこの驚くべきものに度肝を抜かれ、この驚異に驚き叫んだ。今や彼女の恥が公然と暴露されたため、ヘライスは女物の衣服を若い男の衣服に替えた。証拠を見た医者たちは、彼女の男性器は女性器の卵形の部分で覆い隠されていて、皮膜がその器官を異常なほどに包んだためにそこを通って排出物が出される隙間ができたのだと結論づけた。その結果、彼らは突き通された部位を掘り起こして瘢痕化を起こす必要があると見て取った。こうして彼らは男性器を目立たないようにし、状況が許せばこういった処置を応用してもよいということへの信憑性をもたらした。ヘライスはディオファントスと名を改めて騎兵隊に入隊し、王〔アレクサンドロス〕の軍勢で戦った後に王のアバイへの撤退に同行した。かくして王が「二つの形を持った一人」の誕生した土地であるアバイで暗殺されると、以前は不可解だった神託は今や明らかになった。サミアデスはというと、彼は未だ愛と昔の縁の奴隷だったが、不毛な結婚への恥で追い詰められたため、ディオファントスを自らの意志で自分の財産の相続人に指定して命を絶った。したがって女として生まれていた彼女は男の勇気と名声を得た一方で、この男はこの女ほど決然とはしていないことを証明することになった。
11 三〇年後にもこれと似た状況での性の変化がエピダウロス市で起こった。両親に先立たれて孤児になり、まだ少女だと思われていたカロというエピダウロスの女がいた。さてこれによって女だと定められているところの開口部が彼女の場合には開かなくなったが、いわゆるくし状器官の近くに生まれた頃から穿孔が空いていてそこから液状の残留物が排出された。成長すると彼女は同胞市民の妻になった。二年間彼女は彼と一緒に暮らし、女として交わることができなかったために不自然な交わりを甘受した。後に彼女の性器に腫れが現れ、激痛が起こったために多くの医者が呼び寄せられた。他の誰も彼女への処置の責務を果たすことができなかったが、彼女の治療を申し出た一人の薬師が晴れ上がった部位を切除すると、男の性器、即ち睾丸と無孔の陰茎がはみ出た。他の皆がその異様な出来事に驚いた一方で、その薬師は残る欠陥の治療へと乗り出した。手始めに尿道を通すために亀頭に切れ目を入れ、銀の導管を挿入して液状の残留物をはけさせた。それから穴の空いた部位を切り落とすことで彼はそれらの部位を一緒にした。こうした治療を終えた後に彼は、女の病人を受け入れて健康的な若い男にしてやったと言って二重の謝礼を要求した。カロは機織器の杼と他の全ての女仕事の道具を捨て、代わりに男物の衣服と身分を手に入れてカロンと名を改めた。男の姿形に変化する前の彼女はデメテルの巫女で、人間が見てはならないものを目撃したために不敬虔の裁きを受けたと幾人かの人によって述べられている。
12 同様にネアポリスと他の多くの場所でもこういった類いの突然の変化が起こったと言われている。もっともこれは不可能なことではあるが、それは男女の自然が本物の両性具有の形体で統一されていたのではなく、人間にとっては驚愕し当惑すべきものであるが、自然が身体の一部によってこのような印象を誤って与えたにすぎない。これこそが、我々がこれらの性の変異を大部分の読者にとっての楽しみのためではなく改善のために記録に値すると考えた理由である。それというのも多くの人はこういったことを驚異と考えて迷信に陥り、個人のみならず民族や都市をも切り離して考えるからだ。いずれにせよ、記録されているところではマルシ戦争の初頭に上記の人たちと似たような両性具有者と結婚していたあるイタリア人がローマからほど遠からぬところに暮らしていたという。彼が元老院を前にして報告したところでは、迷信的な恐怖に襲われ、そしてエトルスキ人の占い師に従った彼はその生き物を焼き殺すよう命じたという。したがってその自然が我々に似ていて本当は化け物でもない者が病弊への誤解のせいで不適当な最期を遂げた。それから間もなくアテナイでももう一件そういう事例があり、その病への誤解のせいでその人は焼き殺された。実際、ハイエナと呼ばれる動物はいったんは雄でありながら雌でもあり、毎年互いに代わる代わる交わるという旨の奇想天外な話まである。これは単純に本当のことではない。雄と雌はそれぞれ単純で明らかな雌雄の性質を持つが、各々の場合に付属物ができることもあるために誤った印象を作り出して無頓着な観察者を欺くことがある。雌の場合は雄の器官に似た付属物を持ち、逆に雄は雌に似た見かけの器官を持つ。この同じ考察は全ての生き物にも成り立ち、ありとあらゆる化け物が頻繁に生まれるのは真実である一方、彼らは発育せず、完全な成熟に至ることはできない。迷信的な恐怖の治療法によって言えるのはこういったことである。




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