30巻→ディオドロス『歴史叢書』31巻(断片)→32巻

1 アンティオコスはエジプトの王位を奪う考えは彼の過度な軍備の本意ではなく、年長のプトレマイオス〔六世〕が相続の権利によって得た地位を確実なものにするのを支援するのが唯一の動機であると主張し、当初は好調に進軍した〔この記事は第六次シリア戦争(紀元前170-168年)のことを指している(N)。原因はつまびらかではないが、プトレマイオス六世の二人の摂政エウライオスとレナイオスがシュリアに宣戦したことで始まった。エジプトに遠征したアンティオコスは169年までにエジプトの要衝ペルシオンを占領し、プトレマイオス六世を傀儡とした。しかしエジプト人はプトレマイオス六世の弟のプトレマイオス八世を担ぎ上げて抗戦し、アレクサンドレイア包囲に失敗したアンティオコスはエジプトから撤退した。しかし件度朝来捲土重を期したアンティオコスは再びエジプトに攻め込むと、エジプト人はローマに助けを求め、ローマとの敵対を恐れたアンティオコスはエジプトから再び撤退した。この章の話はアンティオコスの第二次遠征についてのことであろう。〕。これは真実ではなく、逆に彼は青年たちの争いの議長になって好意を得ることで戦わずしてエジプトを征服しようと考えていた。しかし運命が彼の公言を試して彼が主張した口実を彼から奪い取ると、彼は名誉を利得よりも重要だと見なさない多くの君主の一人であることを明らかにした。
2 ローマ人が接触するとアンティオコスは彼らを言葉の上で遠くから歓迎した後、歓迎の時に手を伸ばした。しかし元老院の命が記された文書を携えていたポピリウス〔ガイウス・ポピリウス・ラエナス〕はそれを出してアンティオコスに読むよう命じた。かくしてこの行為の目的は、実際のところ王が友であるか敵であるかが決定できるほど明らかになるまで王の手を友情を込めて握ることを避けるだったと考えられていた。王がその文書を読んだ後にそれらの問題について友人たちと相談したいと言うと、これを聞いたポピリウスは度を超して攻撃的で横柄と思われるような仕方で振る舞った。すでに手に持っていた葡萄の枝を使ってアンティオコスの周りに線を引き、その円の中で答えるよう命じた。王は起こったことに仰天し、そしてまたローマの威厳と力に恐れをなして希望のない困惑に陥り、自分はローマ人の提案の全てを実行すると熟慮の上で述べた。ポピリウスと彼の同僚たちはそれから彼の手を取って心から挨拶をした。さて彼はすぐにプトレマイオスに対する戦争を中断すべきというのがその手紙の要旨であった。これらの命令に従い、ローマの優勢な力に恐れをなし、その上マケドニアの崩壊の知らせを丁度受け取っていた王はエジプトから軍を撤退させた。なるほど起こった出来事を知らなければ、彼は決して自分からその布告に耳を傾けはしなかったことだろう。
3 古賢の言うように、許しは復讐よりも好ましいということは一見して真実である〔この節はロドス人を弁護するカトーの演説の一部らしい(N)〕。実際、我々は皆、持てる力を穏健に使う者に賛同し、手中に落ちた人をすぐに罰する人を咎めるものである。したがって我々は以下のことを見て取りもするだろう。すなわち、前者の類の人たちは運命の奇襲への用意ができており、好意の豊かな蓄えは情け深かく扱った人たちの心の中に蓄えられるが、後者の人たちは自分がひっくり返される時はいつであっても自分が冷酷に扱った人たちから復讐を受けるだけでなく、倒れ落ちた人に一般的に認められるような慈悲から自らを締め出してしまったことを見て取るだろう。なるほど、他者への思いやりの一切を否定した者が一転して躓いて倒れた時、彼に対して力を持つ人たちから顧慮を受けられようはずがないということはもっともなことであろう。それでも多くの人は敵に復讐する際の厳しさということを、了見違いであるにもかかわらず自慢するほどに向こう見ずである。というのも、倒れて我々の力の下に自らを投げ出した人に癒し難い災難を与えることにどんな立派で偉大なことがあろうか? もし繁栄の中で我々が横柄に振る舞って以前に持っていた正当な名声が幸運に相応しくないことを自ら示すことで打ち消すならば、勝利は我々にどんな益をもたらすだろうか? 立派な行いで得られる栄誉は出来事を支配しようと望む者の最高の報償であると正当にも考えられているが、このことは確実なことである。このようになっている以上、ほとんど全ての人が最初に彼らが明言する原則の真実性と有用性を認めている一方で、彼らの意見を試して裏付ける段になるとそうでなくなるのは驚くべきことである。知性ある人たちならば食卓はひっくり返されうるということをとりわけ勝利の絶頂期に心にとどめるであろうが故に、私が主張する本来の筋道というのは勇気によって敵を征しようとも賢明さによって運命の犠牲者に慈悲を与えることだろうということである。これはいくらかの人の、とりわけ帝国の代表者の影響を大いに増大させる。それというのも力を失った人は自発的な忠誠を生み出すことで熱心な奉仕をし、全てのことにおける忠実な協力者であるからだ。
 この原則を明らかにローマ人はしっかりと心に留めていた。彼らは考慮の際には政治家然としており、彼らが破った人たちの力を顧慮することでその顧慮を受けた人たちの内在的な感謝と残りの人類からの当然の賞賛を得ようとした。
4 運命の潮流が自分たちに味方して強く流れるようになって以来、ローマ人は成功にあってどう行動すべきかに注意深く目を向けるようになっていた。多くの人は勝利の正しい使用は武器の力で敵を屈服させるよりも簡単だと考えている。実際のところこれは真実ではなく、というのも戦いで勇敢な人は繁栄の時期にあって人道的な人よりも数多く見受けられるからだ。
5 丁度この時にトラキア人からの使節団が彼らに対してなされていた申し立てへの潔白を示すためにローマに到着した。それというのも、ペルセウスとの戦争中に彼らはこの王に共感を寄せてローマとの友情に不義理をしたと信じられていたからだ。使節派遣の目的を全く成し遂げられなかったために彼らは心が折れ、涙を浮かべながら請願した。軍団副官の一人アントニウスによって元老院の前に導かれると、フィロフロンが代表団のために最初に、次いでアステュメデスが話した。彼らは長々と慈悲と許しを請い、最後に見事な演説をした後に彼らができたのは返答を引き出すことだけだった。なるほど、彼らは申し立てられた告発内容のために手ひどい叱責を受けはしたものの、これは彼らを最も恐れるものから解放した。
 この時にロドス人の使節が彼らに対してなされた申し立てへの潔白を示すためにローマに到着した。それというのも、ペルセウスとの戦争で彼らの共感はその王に傾き、ローマとの友情に不実だったと信じられていたからだ。使節団が自分たちの受けた冷淡な扱いに気付いて落ち込み、そしてある法務官が民会を召集してロドス人との戦争を人々に訴えると、彼らは自分たちの国の完全な破滅を恐れて悲しみで意気消沈し、友人たちへの訴えにおいてはもはや弁護人や原告として話すことをせず、涙ながらにロドス人にとって致命的な施策を採用しないようにと求めた。彼らは軍団副官の一人によって元老院の前に導かれ、同じ人物は演壇から戦争を訴えていた法務官〔外国人係法務官(praetor peregrinus)のマルクス・ユウェンティウス・タルナ〕を引っ張り出し……演説をした。多くの嘆願がなされて初めて彼らは応答をした。なるほどこれは完全な破滅の恐怖から彼らを解放しはしたが、彼らは特別の非難のために厳しい難詰の対象となった。
 この人たちは大変な嘆願と請願を申し出て、いわゆる白鳥の歌を見せた後に彼らができたのは彼らの恐怖を取り除く応答を引き出すことだけだった。
 今や彼らは自分たちの上にぶら下がっていた恐怖を免れたと考え、不快なことであろうとも他のあらゆることを快く行った。なるほど全般的な規則として、予期される被害の重大さのおかげで人はより少ない不幸を小さいものと考えるものだ。
6 ここでローマ人の中で秀でた人たちは互いに栄光を競うものと見られるべきであり、彼らの努力によって人々に対する主要な場合における有徳な全ての事柄が成功を収めた。別の言い方では、彼らは互いを嫉妬したが、ローマ人は同胞市民を称えた。その結果、共通の幸福の向上にあたっての互いへの競争によってローマ人は最も栄光ある成功を成し遂げた一方、他の人たちは比類なき名声を思い描いて互いの計画を妨害したため、彼らの国に被害を与えることになった。
7.1 およそ同じ頃、全ての地方から勝利への祝賀を捧げるための使節団がローマへと到着した。元老院は彼ら全員を快く受け入れ、短く立派な応答を各々に寄越して帰国させた。
8 以前にローマ人が当代で最も強大な君主であったアンティオコスとフィリッポスを破った時、彼らは復讐を控えて彼らに王国を保持するのを許しただけではなく、彼らを友人として受け入れることすらした。かくしてこの目下の折にも、ペルセウスとの繰り返された戦いと彼らが直面した多くの重大な危機にもかかわらず、今やついにマケドニア王国を制圧すると、全ての予想を裏切って彼らは占領した諸都市に自由を与えた。このことを予想した者はいなかっただけでなく、マケドニア人自身すらローマに対してなした多くの重大な攻撃を意識していたためにこのような配慮を受けることを期待していなかった。なるほど彼らの以前の誤ちが許されたため、彼らは、尤もなことであるが、慈悲や許しについての論議は遠からぬ後のために未だ棚上げされただけだと思った。
 しかしローマの元老院は敵意を抱くことなく寛大に、いくつかの場合には利益を顧慮すらして振る舞った。例えば、ペルセウスは彼らに継承された感謝の義務を負っており、制約を無視して不正な戦争での侵略者となっていたために捕らえられ、彼らは彼を捕虜にした後に「自由な軟禁」で確実に彼の罪よりも遙かに軽い罰を与えた。奴隷に落とされるのは全くもって正義に適うであろうマケドニアの人々は自由になり、敗者が嘆願するのを待たずに恩恵を施すほどにローマ人は気前が良く迅速だった。夷狄は彼らの寛大に値するという信念からというよりは、恩恵をもたらす行為の主導権を握って権力の時代にあって過度な自信を持つことを避けることがローマ人にとって適当であるという確信から、かつて服属させたイリュリア人にも同様に彼らは自治を認めた。
 元老院は、マケドニア人とイリュリア人は自由たるべきであり、彼らは以前に自分たちの王に納めていた税金の半分の額の税を支払うべきであると決定した。
 ローマ人の執政官で最も有能な将軍だったマルクス・アエミリウス〔正しくはルキウス・アエミリウス〕は、ペルセウスはローマ人に大義名分がなく、誓約を冒涜するような戦争を仕掛けたにもかかわらず「自由な軟禁」の下に捕虜のペルセウスを置いた。その上、ローマ人はペルセウスとの戦争の重大な危機に繰り返し直面してきたし、以前には彼の父フィッポスとアンティオコス大王と戦ってこれらを破り、彼らに王国を保持してローマの友情を享受することすら許す配慮を示していたという事実にもかかわらず、彼が占領されたマケドニアとイリュリアの諸都市の全てに自由を与えたことは誰も彼もを驚かせた。その結果、マケドニア人が無責任になったためにローマ人は彼らは慈悲には値しないと考え、ペルセウス共々ローマ人の手に収めた。逆に元老院は彼らを大目に見て寛大な精神で扱い、奴隷にする代わりに自由を与えた。似たようにして彼らは、ゲティオン王〔その他史料ではゲンティオス〕をペルセウスと一緒に捕虜にするという形でイリュリア人を扱った。したがって堂々と彼らに自由を贈り物として与えると、ローマ人は彼らに自分たちの王に以前に払っていた税の半分の税を払うよう命じた。
 彼らは元老院の中から一〇人の委員をマケドニアへと、五人をイリュリアへと送り、彼らはマルクス・アエミリウスと会談してマケドニア人の主要都市デメトリアスの城壁を解体し、アンブラキアをアイトリアから切り離し、マケドニアの卓越した人たちを連れて会議へと向かうことに合意した。そこで彼らは彼らに自由を与えて守備隊の撤収を宣言した。これに加えて一面では地域住民を抑圧から遠ざけ続けるために、もう一面ではマケドニアの支配権を得るのにこの富を使うことで後に誰かが革命を起こすのを防ぐために彼らは金山と銀山から上がる収益を〔マケドニアから〕切り離した。彼らは全域を四つの地区に分けた。第一の地区はネストス川とストリュモン川の間の地域、アブデラとマロネイアとアイノスを除くネストス以東の諸要塞とストリュモン以西の諸要塞、ヘラクレイア並びにビサルティカの全域から構成されており、第二の地区は東ではストリュモン川、西ではアクシオス川と呼ばれる川と境を接する地域で、第三の地区は西ではペネオス川、北ではベルノン山と境を接する地域とパイオニアのいくつかの地方をこれに加え、エデッサとベロイアという名高い都市を含む地域であり、第四であり最後の地区はベルノン山の向こう側の地域、エペイロスまで広がってイリュリアの地域であった。アンフィポリスが第一の、テッサロニケが第二の、ペラが第三の、ペラゴニアが第四のという風に四つの都市が四つの地区の主邑となり、四人の統治者がこれらに置かれて税はここに集められた。敵対する近隣諸部族のためにマケドニアの国境地帯には部隊が置かれた。
 それからアエミリウスは集まった群衆のために見事な競技祭と宴を開催した後、見つけた宝物を何であれローマへと送り、仲間の将軍たちを連れて彼その人が到着した時には凱旋で市内に入るように元老院から命じられた。まずアニキウス、そして艦隊司令官オクタウィウスがそれぞれ一日をかけて凱旋を祝ったが、非常に賢明だったアエミリウスは三日間祝った〔この順番は誤りであり、凱旋のファスティによればアエミリウスの凱旋式は11月28-30日、グナエウス・オクタウィウスは12月1日、ゲンティウスに対するルキウス・アニキウス・ガルスの凱旋式は翌年4月である(N)。〕。初日は浮き彫りの入った白い盾〔白盾隊(レウカスピデス)の盾とピュドナのトラキア人部隊の盾は輝く白い盾で目立っていた(N)。〕と青銅の盾を満載した一二〇〇台の荷車、突き槍、長槍、弓、そして投槍を乗せた三〇〇台の荷車の行列で始まり、戦争でのようにラッパ手がこれを先導した。他にも多くの武器もあり、様々な種類の武器が乗せられており、八〇〇の一揃いの装備が竿にかけられていた。二日目には一〇〇〇タラントンの鋳造された貨幣、二二〇〇タラントンの銀、大量の酒杯の行列と神々と人間の様々な像、多数の黄金の盾と見事な飾り板を載せた五〇〇台の荷車の行列が催された。三日目には白い牛が引く一二〇台の戦車、二二〇台の荷車に載せられた何タラントンもの黄金、宝石がはめられた一〇タラントンの黄金の鉢、一〇タラントンの値打ちのありとあらゆる金細工、長さが三ペキュスの二〇〇個の象牙、黄金と宝石で飾られた象牙の戦車、宝石がついた頬革と黄金で飾られて残りの馬具がつけられた戦闘状態の馬、花模様の覆いのついた黄金の長椅子、深紅の幕のついた黄金の輿の列が行われた。それからマケドニア人の不幸な王ペルセウスが二人の息子、一人の娘、二五〇人の家臣、様々な都市と君侯らによって提供された四〇〇個の花冠、残りの全てのものと一緒に続き、目のくらむような象牙の戦車に乗ったアエミリウスその人が続いた。
 アエミリウスは彼が見せた見せ物を心配して驚いた人たちに、適切な流儀で競技祭を行って適当な宴を催し、敵に対して良き戦術でもって軍を整列させるのに必要なのと同じ心の資質を呼び起こした。
9 マケドニア最後の王であり、ローマ人とはしばしば友好関係にあったが、小さからぬ軍で繰り返し彼らと戦いもしたペルセウスはついにアエミリウスに破れて捕らえられ、アエミリウスはこの勝利を見事な凱旋式で祝った。ペルセウスは平穏に生きるつもりがなかったにせよ、彼が見舞われた不運は彼の辛苦が作り事のように見えるほど甚だしいものであった。元老院が彼の受けるべき罰を決定する前に、市の法務官の一人が彼を彼の子供たちと一緒にアルバ〔イタリア中部のアルバ・フケンス〕の収容所へと投獄した。この監獄は地下深くにある牢で、九つの長椅子ほどの長さもない部屋であり、暗く、重罪の判決を受けてその場所に収容された多くの人たちから発せられる悪臭がしていたわけであるが、それはこの類のほとんどの人はその頃〔つまりペルセウスの投獄と時を同じくして〕に投獄されていたからだ。かくも狭い場所にかくも多くの人が閉じこめられたため、この惨めで哀れな人たちは獣のような体つきになり、彼らの食べ物と他の必要に関係するあらゆるものは全て汚らしく混じり合い、ほとんど耐えられないほどひどい悪臭がそこに近寄る人を襲った。七日間ペルセウスはそこに留まり、かくも哀れな窮状にあって彼は、臭い飯を食べていたこの上なく下品な状態の人たちからの救援すら請うほどだった。なるほど彼らは彼らもまたそれを分かち合っているところの彼の不運の大きさに心打たれて涙を流し、彼らが受け取ったものの一部を気前良く与えた。自害のための剣、首を吊るための輪縄、彼が望む通りにそれらを使う完全な自由が彼に投げ寄越された。しかし受難が死を是認する時であれ、不運を生命そのものとして被る者にとって他にこれほど甘美なものはない。そして元老院の指導者マルクス・アエミリウス〔ここのマルクス・アエミリウス・レピドゥスは紀元前179年から元老院の第一人者(princeps senatus)だった人だが、プルタルコス(アエミリウス, 37)はこの役をアエミリウス・パウルスに演じさせている(N)。〕が彼の原理原則と彼の国の公正の法の両方を守り、たとえ元老院が少なくとも勢力を横柄に乱用する者につきまとうネメシス女神を尊重することを人から脅かされていなかったとしても、〔アエミリウスが〕彼らを憤然と諭していなければ、最終的にペルセウスはそうした欠乏の下で死んだことだろう。結果としてペルセウスはより相応しい拘留の下に置かれ、元老院の親切心のために無駄な希望によって彼の以前の不運に相応しい最期を迎えることだけを持ち続けた。二年間命にしがみついた後、彼は自分の見張りについていた夷狄たちを咎めたせいで彼が睡眠不足で死ぬまで睡眠を阻害された。
10 マケドニア人の王国が高みにあった時、ファレロンのデメトリオスは『運命について』の論考で、あたかもその未来の真正の予言者であるかのように以下の見事な文言を適切にも物した。曰く「もし時間の限りのない拡大も多くの世代のことも考えず、ただ直近の過去五〇年さえ考えれば、あなたは運命の不可解さを悟ることだろう。五〇年前、もし神の誰かが未来を予言すれば、当時の人が住む世界ほぼ全域の主だったペルシア人の名が未だ生きながらえ、以前は無名だったマケドニア人が全土を支配することをペルシア人やペルシア人の王、マケドニア人やマケドニア人の王がその時に信じたとあなたは考えらるだろうか? しかしこれにもかかわらず、我々の生への彼女の予期できない結果、これと共にその変転によって我々の計算の裏をかき、見事であり予期せぬ出来事によって彼女の力を証明する運命の女神は、私の見解では今も同じ教訓ーーすなわち彼女はペルシア人の玉座にマケドニア人を座らせて彼女の心がマケドニア人から心変わりする時まで使えるようにと彼女の富を彼らに貸し与えたことーーを指し示している」我々が今関わっている時代にそれは成就した。したがって私はこの状況に適当な論評を加え、デメトリオスの文言、すなわち人間の着想を越えたこの言葉を思い起こさせることが自分の義務であると判断している。先の一五〇年間に何が起こるのかを彼は予言していたのである。
11 アエミリウスの二人の息子が急死して全ての民衆が大きな悲しみに包まれると、この父親は平民会を召集し、戦争での自分の行動の弁明をした後に以下の文言で演説を締めくくった。曰く、イタリアからギリシアへ軍を輸送し始めた頃に太陽が昇るのを見た後に自分は渡航し、第九刻に犠牲を出すことなくコルキュラに投錨した。そこから四日後にマケドニアに到着して軍の指揮権を引き継いだ。ペトラの峠を奪取してペルセウスを戦いで破るまでにかかったのは全部で一五日間であった。つまるところローマ人に対する王の反抗が五年目に差し掛かっていたにもかかわらず、彼、すなわちアエミリウスは前述の日数でマケドニア全土を服属させたというわけである。彼が言うには、その時ですら自分は勝利の意外さに驚いていたが、それから間もなく王とその子供たちを捕らえて王の宝物を鹵獲すると、運命の流れの順調さに一層驚いた。さらに宝物と彼の兵士が輸送されてイタリアへと速やかに渡ると、彼は事の全てが彼が予想した以上に幸運に終わりつつあるという事実に完全に困惑してしまった。しかし皆が彼と共に喜んで彼の幸運を祝うと、彼は運命からの何か災厄がもたらされることを何にも増して悟った。したがって神にこの逆転が国家に何の作用も与えないように、いやむしろ何か苦難を歩ませるのが神の喜びであるのが確実であれば、その重荷が自分に降り懸かるようにと懇願した。したがって彼の息子たちに降り懸かったこの不運な出来事が起こるや否や、それは彼にとっては深い悲しみであった一方、国家とその懸案事項については運命は後ずさりして悪意を今や一市民である彼自身の身の上に向けたことに安心した。〔アエミリウスの演説はここまで〕以上のように言うと、皆が彼の精神の偉大さに驚嘆し、彼の被害への共感が時を追うごとに増し加えられた。
12 ペルセウス王の敗北の後にエウメネスは予期せぬ大逆転〔ローマからの支持の喪失(N)〕を経験した。というのも今や彼に最も敵対していた王国が倒れて自分の支配域が無事確保されたと彼が思っていた一方、この時に彼は非常に深刻な危機にむけてひた走ることになった。なるほど運命は無事保たれているように見えるような組織を覆すものであるし、ひとたび彼女が一人の人間に手を貸して助けたとしても、移り変わらせることで釣り合いを矯正し、かくして成功への支持を損なわせるものなのだ。
13 野蛮なるガリア人の将軍は追撃から戻ってくると捕虜を集め、まったく非人間的で横柄な行動をした。見目麗しく人生の花盛りにあった捕虜たちに彼は花輪をかぶせて神々への犠牲に捧げた。それもこれもこのような生け贄を受ける神がいたとすれば、の話だが。残りの全員を彼は射殺し、この捕虜たちの多くは以前に友誼を交わした際には彼と知り合いだったにもかかわらず、誰一人友情の報いとしての慈悲を受けなかった。しかし、予期せぬ成功の高ぶりにあってのこのような野蛮人が非人間的な振る舞いによって幸運を祝うというのは実際には驚くべきことではない。
14 傭兵軍を雇い入れると、エウメネスは彼らの全員に給料を払っただけでなく、その一部を贈り物で讃えて彼ら全員を約束で喜ばせ、彼らの好意を喚起した。この点で彼はペルセウスとは似ても似つかなかった。というのも、ペルセウスは二〇〇〇〇人のガリア人が対ローマ戦争で彼に協力するために来た時、自分の富を節約するためにこの同盟軍の大部隊を疎んじたからだ。しかしそれほど金持ちではなかったにもかかわらずエウメネスは外人部隊を徴募した時には彼に提供できる限りの全ての贈り物で讃えた。したがって前者は王らしくなければ気前が良い方針でもない、そして恥ずべき卑しいしみったれた施策を採用することで自分が守った富が王国全体もろとも分捕られるのを見ることになった一方で、後者は勝利のために全てのことを二の次にしたために王国を多大な危機から救っただけでなく、ガリア人の全部族を服属せしめたというわけだ。
15 ビテュニア王プルシアス〔二世〕は、上首尾にいっていた問題に対立をもたらした元老院と将軍たちを祝いに来た。この男の精神の卑しさを述べることなく過ぎるのは許されるべきではあるまい。というのも良き人の徳が賞賛されれば後の世代の多くの人は似た行き先へと励むように導かれ、卑しい人間の卑劣さが非難の的になれば悪の道を歩む少なからぬ人がそこを外れるからだ。したがって歴史の率直な物言いは意図的に世の中の改善のために寄与すべきであろう。
 プルシアスは王権に不相応な男であり、全生涯を通して絶えず自分の周りの連中の卑屈なごますりに付き合っていた。例えば、一度ローマの使節が訪れた時に彼は王の記章、冠と紫の服を脱ぎ、ローマで新たに解放された解放奴隷の真似をしながら頭を剃って白い帽子、トーガ、そしてローマ風の履き物を身につけて使節に会いに行った。彼らに挨拶すると、彼は自分はローマ人の解放奴隷だと宣言した。これ以上に卑しい発言は想像し難い。
 彼の他の以前の行動も今の行動も同様の性質のものであり、彼は元老院の議事室へ続く入り口に到着すると元老院議員たちの前で戸口に立ち、両手をついて頭を下げて敷居に口づけをし、席に着いた議員たちに「万歳、汝ら救いの神々よ」と言って挨拶し、こうして男らしからぬへつらいと女々しい振る舞いの他の追随を許さない深みをなした。このような振る舞いを続けながら彼は元老院の前で演説をし、その中で彼が述べたことは我々が記録する価値すらないような類のことだった。元老院は彼の話の大部分に不快になってプルシアスへの好ましからざる印象を形成したため、彼にそのお追従に相応しい答えを寄越した。というのもローマ人は彼らが征服した敵にすら高邁な精神と勇敢さを要求していたからだ。
15a ペトサラピスとも呼ばれ、プトレマイオスの「友人たち」の一人だったディオニュシオスは国家を牛耳ろうとし、王国に大きな危険をもたらした〔この出来事は他の記録がなく、プトレマイオス六世とプトレマイオス八世の共同統治の期間(紀元前169-164年)に起こったことなのかもしれない(N)。〕。彼は宮廷でこれ以上ないほどに影響力を振るい、戦場ではエジプト人同胞のうちに同輩を持たなかったため、両王をその若さと経験のなさの故に軽んじた。自分は年長の方の王〔六世〕によって近親の血を流すよう説得させられたと称し、彼は若い方のプトレマイオス〔八世〕への陰謀が実の兄によって企まれたものだと思わせようとして人々の間に噂を流した。人々は急いで競技場に集まり、自分たちには兄の方を殺して弟の方に王国を委ねる用意があるという口上を彼ら全員が叫ぶと、今や騒動での声が王宮にまで届くようになり、王は弟を呼び寄せて目に涙を浮かべて自らの潔白を弁明し、王権を聾断しようと企み彼らを物事に対処するには若すぎる者として扱う者〔ディオニュシオス〕を信用しないように訴えた。しかし目下、彼の弟は未だ疑いと心配を胸に抱いており、王冠と支配権を自分の手に寄越すよう兄に要求した。この若者はすぐに兄への疑いを晴らし、両者は王用の上着を身につけて人々の前に姿を現し、自分たちは協調しているとありとあらゆる人に宣言した。計画が失敗するとディオニュシオスは身の安全を手の届かないところに置き、反乱にうってつけの兵たちに言伝を送って自分と望みを分かち合おうと説き伏せた。それからエレウシスに撤退した彼は革命を支持することを決めた者全員を迎え、荒くれ者の強者の部隊およそ四〇〇〇人が集まり…〔欠損〕…。王は彼らに向けて進撃して勝利し、一部を殺して他の者は敗走させた。ディオニュシオスその人は流れる川を裸になって泳いで渡って内陸部へと退却し、そこで人々を反乱へと駆り立てようとした。彼は活発な男でもあり、エジプト人の人気を得るや否や自分と幸運を分け合いたがる多くの人々を徴募した。
16 アンティオコス〔四世〕の事業と行動のあるものは王者らしくまったくもって賞賛されるべきものであった一方で、他のものはその分だけ取るに足らず下劣な、それこそ全ての人の完全な軽蔑を彼に招くようなことであった。例えば、自分の競技祭〔アンティオケイア近くのダフネでの競技祭(N)〕を開催した際に彼は手始めに他の王の施策とは正反対の施策を採用した。彼らは武器と富の両方で王国を強大にした一方で、ローマの優越性をはばかってできる限り自分の意図を隠した。しかし彼は逆の方策を採りもし、彼の祝祭に世界のほぼ全土から最も優れた人たちを呼び寄せて自分の都の全体を豪勢に飾って彼らを一カ所に集め、いわば自分の王国全土を舞台として彼に関わることは何であれ彼らに知られずにおかないようにした。
 気前の良い競技祭とこの驚くべき祝祭を開くにあたってアンティオコスはこれ以前の全ての競争者を上回った。彼にとっては自分で事を管理するのはみすぼらしい仕事で、軽蔑の的ですらあった。例えば、彼は哀れっぽい様の馬の行列のそばで馬に乗り、家来たちに進んだり止まったりするよう命じ、必要な折りには他の者たちをこれら〔の馬〕の持ち場に割り当てた。したがって冠によっても彼のことをまだ知らない者は、彼の姿が普通の属官のそれですらないのを見てはこの人が王であり全土の主だと信じるにいたった。酒宴で出入り口に陣取った彼は幾人かの客を席に、他の客はそれぞれの場所に導き、相伴に与る随行者たちに場所を割り当てた。同じ気分を持ち続けながら彼は時折宴の客たちに近づき、時には座ったりもたれかかったりした。それから杯を下げさせて食べ残しを投げ捨てると、彼は飛び跳ねて動き回り、会場の全体を回って立ったまま乾杯したり芸人とじゃれあったりした。現にひとたびお祭り騒ぎがたけなわになって客の大部分がすでに去るや彼は登場し、厚着をしながら物真似の列に入って混じった。仲間の俳優の近くで地べたにいて、音楽の合図が発せられるや否や彼は裸足で飛び跳ね、物真似で茶化しながら笑いやせせら笑いをいつも起こすような類の踊りをし、大いに困惑した同席者たちは皆急いで宴から出ていった。事実、支出の浪費ぶりと競技祭と行列の全般的な管理運営のことを考えれば、この祭に参列した各々の人たちは仰天して王と王国の両方を讃えた。しかし参列者は王自身のことと彼の受け入れ難い振る舞いに注意を向けると、これほどの見事さと品のなさが同一の人格の中に存在できようとは信じられなかった。
17 競技祭が終わった後、グラックス〔ティベリウス・センプロニウス・グラックス(N)〕の使節団が王国を調査するためにやってきた。王が彼らと親しげに会話を交わした結果、彼らは陰謀の兆しも、彼がエジプトで受けたすげない拒絶の後にはひっそりと存在しているはずだと予期される敵意を示すことは何も見いださなかった。しかし彼の真の施策は見かけ通りのものではなく、むしろ彼はローマ人に対して根深い不満を持っていた。
17a アルメニア王アルタクセス〔他の歴史家たちによればアルタクシアス〕はアンティオコスから離反し、自らの名にちなんだ都市〔アルタクサタ〕を建設して強力な軍隊を集めた。この時代の勢力は他のどの王も歯が立たないものであったアンティオコスは彼に向けて進撃して勝利し、これを服属させた。
17b その上テバイスでもう一つの反乱が起こり、反乱の風潮が王宮に染み込んできた。彼らに向けて軍勢を動かしたプトレマイオス王は易々とテバイスの残りの支配権を取り戻した。しかしパノンポリスとして知られる都市は土手の上に立てられており、このためにその難攻不落ぶりが確実なものだとみなされていた。プトレマイオスはエジプト人の自棄とその場所の強固さ〔「を見て取ると?」(N)〕包囲の準備をし、ありとあらゆる艱難辛苦を経た後にその都市を占領した。それから彼は首謀者らを罰してアレクサンドレイアへと戻った。
7.2 およそこの頃に多くの使節団が到着すると、元老院はアッタロスが長となっていた使節団にまず対処した。というのもローマ人はエウメネスに疑惑を抱いていたからだが、それもこれも明るみに出た返信で彼がペルセウスと同盟を結んでいたからだ。とりわけプルシアス〔一世〕王が送った使節とガリア人〔ガラティア諸王国のこと〕の使節などアジアからの多くの使節による諸々の告発でも彼は狙い撃ちにされていたため、アッタロスと彼の随行員たちは全力を尽くして告発に逐一反論し、中傷を晴らしたのみならず栄誉を携えて帰国すらした。しかし元老院のエウメネスへの疑惑は完全に晴れず、彼の情勢を視察すべくガイウス〔ガイウス・スルピキウス・ガルス〕を任命して送った。
18 今や亡命中のプトレマイオス〔六世〕王がローマへと徒歩で向かっていたところ、セレウコス〔四世〕の息子のデメトリオスはこれが彼であることを認め、不思議な窮状に心打たれて真の王らしく豪勢な〔王としての〕手本となるような文物を与えた。彼はすぐに王らしい衣服と冠、加えて黄金の馬具の付いた値の張る馬を準備し、家族ともどもプトレマイオスに会いに向かった。市から二〇〇スタディオンの距離の場所で彼を元気づけて友情のこもった挨拶をすると、彼は王の記章で自らを飾りたててローマに入るに当たって自らの地位に相応しくするよう説き、それをするために彼がその人のことで考えなかったことは何一つなかった。プトレマイオスは彼の熱意をありがたく思ったが、その申し出のあるものは到底受け入れられなかったのでデメトリオスに街道沿いの町々の一つに残るよう頼みすらし、アルキアスとその他の人たちを彼と一緒に後に残したいと願んだ。
 エジプト王プトレマイオスは自身の兄弟によって王国から追い出されたため、宦官一人と奴隷三人だけをお供にして庶民のみすぼらしい風体でローマへ赴いた。まだ道中にあった時に地誌学者デメトリオスの地所を見つけると、プトレマイオスは彼を探して彼のもとに泊まったのであるが、このデメトリオスという人はアレクサンドレイアに住んでいた時に彼からもてなしを受けた人だった。さて、ローマでの宿代は非常に高かったために彼は小さく甚だ粗末な屋根裏部屋に住んだ。このことで明るみになった以上、大勢の人が良いとみなすものどもを願ったり、これらに信を置いたり、平均以上に幸運である人に嫉妬の念を抱く者がいようか? なるほどこれ以上にはっきりしていて大きい運命の変化、あるいは予期せぬ変転を見つけることは難しいだろう。語るに値する原因も機会もなかったため、彼の高貴で王者らしい評判は平民の卑しい運命へと落とされ、数千人の自由民全部に命令をしていた彼には、彼の私的な運命の難破にあって突如として三人の奴隷だけしか残らなくなったのだ。
18a ポリュビオスとディオドロス、これら『歴史叢書』の著者たちは、彼〔アンティオコス四世〕はユダヤの神に反対しただけでなく、悪徳の炎に燃えてエリュマイスにあった非常に富裕なアルテミス神殿の略奪を試みもしたと述べている。しかし神殿の守役と近隣の人々に恐れをなした彼はとある幻影と怖ろしいもので頭がおかしくなり、ついには病死した。そして、彼がアルテミスの神殿を冒涜しようとしたからこういうことが彼に降り懸かったのだと彼らは言っている。
20 アンティパトロスが拷問死した後、彼らは市長官アスクレピアデスをかっさらい、彼らが大声で抗弁するには、ティモテオスがこの悲劇の仕掛人であり、若者に不正を働いて兄弟に情け容赦ない報復をしたのが彼だとのことだった。この時点から人々は少しずつ彼らの指導者たちのまごうことなきごまかしを知るようになり、犠牲者たちの不幸を慈悲の心でもって考えはじめると、警戒したティモテオスと彼の仲間たちは彼らのなかの残りの被告への拷問をやめて内密にとどめを刺した。
17c ティモテオス暗殺の後、人々は……そしてアレクサンドレイアで、自分たちは王〔プトレマイオス八世〕に対して兄弟への恥知らずな扱いのためにうんざりしており、彼から王家の家来を引き剥がし、キュプロス島から年長のプトレマイオスを呼び戻すべく手紙を送った。
19 カッパドキアの諸王は、自分たちの祖先はペルシア人キュロスにまで遡ると言っており、マゴス僧を排除した七人のペルシア人のなかの一人の子孫だと主張している。さて、キュロスと彼らのつながりに関して彼らは以下のように説明している。キュロスの父カンビュセスには適法な生まれ〔つまり正室の子〕のアトッサという姉妹がいた。カッパドキア王ファルナケスは彼女との間にガロスという息子を儲け、ガロスの息子はスメルディス、そのまた息子はアルタムネス、そのまた息子はアナファスで、この抜群の勇気と大胆さを持った男は件の七人のペルシア人の一人だった。このような系図で彼らはキュロスとアナファスとの血縁まで遡り、彼らが言うにはカッパドキア州は彼の勇気の故に、年貢をペルシア人に払わなくても良いとの了承のもとで承認されたものだという。彼の死後、同名の息子が支配した。彼がダタメスとアリムナイオスという二人の息子を残して死ぬとダタメスが王位を継ぎ、彼は戦争とその他の王らしい義務領域の両方で賞賛を得て、ペルシア人と戦うと見事に戦って戦死した。王国は彼の息子アリアムネスに移り、彼にはアリアラテスとホロフェルネスという息子がいた。アリアムネスは四〇年間支配して何ら語るに値することを成し遂げずに死んだ。王冠は彼の長男アリアラテスに移り、弟を甚だ愛していた彼は最も傑出した地位に彼を出世させたと言われる。したがって彼はペルシア人の対エジプト戦争に援軍として送られ、ペルシア王オコスが彼の勇気に与えた栄誉を携えて帰国した。彼〔アリアラテス〕はアリアラテスとアリュセスという二人の息子を残して故国で死んだ。今やカッパドキアの王となった彼の弟〔ホロフェルネス〕は自分の子を廃嫡して兄の長男のアリアラテスを養子にした。大体この頃にマケドニアのアレクサンドロスがペルシア人を破ってこれを覆し、そして死んだ。この時点で最高指揮権を保有していたペルディッカスはカッパドキアの軍事的支配者とすべくエウメネスを派遣した。アリアラテス〔一世〕は破れて戦死し、カッパドキア自体と近隣の地方はマケドニア人の手に落ちた。先の王の息子アリアラテス〔二世〕は目下の状況を絶望視して少数のお供を連れてアルメニアに退いた。そう遠からぬうちにエウメネスとペルディッカスが死に、アンティゴノスとセレウコスが余所で戦っていたうちに彼はアルメニア王アルドアテスからの軍を得てマケドニアの将軍アミュンタスを殺し、土地から瞬く間にマケドニア人を追い出し、元来の領域を回復した。三人の息子のうち長子アリアムネスが王国を継いだ。彼は神王と呼ばれたアンティオコス〔二世〕と軍事同盟を結び、〔アンティオコスは〕娘のストラトニケを彼〔アリアムネス〕の長男アリアラテス〔三世〕と結婚させた。その人〔アリアムネス〕は度を超して子供たちを可愛がったため、彼は息子〔アリアラテス三世〕の頭に冠を乗せ、共同統治者にして対等の条件で王権の全てを分けあった。父が死ぬとアリアラテスは単独支配者になり、この時はまだほんの子供だった息子のアリアラテス〔四世〕に王国を残して世を去った。今度は彼が大王とあだ名されたアンティオコス〔三世〕の娘と結婚したわけであるが、アンティオキスという名の彼女は全く思慮のない女だった。子供を儲けられなかったために彼女はアリアラテスとホロフェルネスという二人の偽の息子を何も知らぬ夫に掴ませた。しかしある時に彼女の不妊が直り、二人の娘とミトリダテスという一人息子を予期せずして儲けた。そこで夫に真実を明かすと、王国をめぐって嫡男と争うのを避けるために彼女は適当な俸給をつけて偽の息子のうち兄の方をローマへ、弟をイオニアに送り出す手はずを整えた。言われるところでは成年に達すると彼〔ミトリダテス〕は名をアリアラテス〔五世〕と改め、ギリシア風の教育を受けて他の点でも優秀さを賞賛された。さて、彼は孝行息子だったために彼の父もお返しに親らしい配慮を忘れず、彼らの互いへの思いやりは父が息子の同意の下で完全に退位するよう傾くほどになるまで続き、一方で息子は親がまだ健在なのにこのような類の好意を受け入れることは自分にはできないと宣言した。しかし父に運命の時がやってくると息子は王国を継承し、生涯を通じて、とりわけ哲学への熱中によって自らが最高の称賛に値することを示した。したがってギリシア人に長らく知られなかったカッパドキアはこの時に文化的な人たちに逗留先を提供することになった。またこの王はローマと同盟と友好の条約を更新した。この時に至るまでキュロスの子孫たる王家がカッパドキアを支配したというわけである。
 ディオドロスが書くところでは、その王朝が一六〇年続いたカッパドキアの七人の王はこの頃に始まった。
21 愛父王とあだ名されるアリアラテス〔五世〕は先祖代々の王国を継承すると、いの一番に父のために豪勢な葬式を挙げた。それから権威ある地位にある友人と他の副次的な役人である友人の事柄を順当に気にかけると、彼は人々から大変な支持を勝ち得た。
22 アリアラテスがミトロブザネスにその先祖代々の支配地を取り戻させた後、アルメニア王アルタクシアスは元来の強欲を抑えきれずにアリアラテスに使節団を送り、自分と一致団結するよう説いて自分たち各々で彼の宮廷にいるこの若者を殺してソフェネを自分たちで分け会うことを申し込んだ。このような悪逆非道とは性質を異にしていたアリアラテスは使節たちを譴責し、アルタクシアスに宛ててこのような行いは控えるようにという手紙を書いた。結果がこのようになると、アリアラテスはさらに少なからぬ程度に名声を増し加え、その一方でミトロブザネスは自分の支援者の賞賛すべき良き真義と気高さに感謝して父の王位を継承した。
19a コンマゲネの支配者でかねてよりシュリア諸王にあまり敬意を示していなかったプトレマイオス〔セレウコス朝のコンマゲネ太守(紀元前201-163年)で、163年にセレウコス朝から独立し、紀元前130年に死ぬまで王位にあった。〕は今や独立を主張し、シュリア諸王は自分のことに忙殺されていたために、そして〔地形の堅固さによる〕防御上の自然的な優位で主に勇気づけられていてその地方の統制に口出しを受けることなく独立を樹立した。さてこの利得で満足したために彼は軍を起こし、カッパドキアに属していてアリアラテスの属領だったメリテネに攻め入り、優位な地点を占めることで最初は成功を得た。しかしアリアラテスが強力な軍勢を連れて進撃してくると、彼は自領に退いた。
23 年少と年長両方のプトレマイオスからの使節団がローマに到着した。元老院の前の聴衆たちが彼らの姿を認めると、元老院は双方の言い分を聞いた後に年長の方のプトレマイオスの使節団は五日以内にイタリアを去らねばならず、彼との同盟は失効し、年少の方のプトレマイオスに向けて元老院からの指示と兄への指令を知らせるべく代表団が送られるべしと宣言した。
24 或る若者たちがお気に入りの男〔多分、これは奴隷〕に一タラントンを、瓶いっぱいのポントス風の塩漬け魚に三〇〇アッティカ・ドラクマを支払っていたため、評判高い男だったマルクス・ポルキウス・カトーは、お気に入りが農場よりも、瓶いっぱいの塩漬け魚が御者よりも高値で売られた時にここな人々の行動と国家に対するさらなる悪へと向かわせる物を毛ほども躊躇せずに蔑むことになるはずだと平民会の前で宣言した。
25 ペルセウスへの勝者にして現職監察官であり、ほぼありとあらゆる有徳な能力で仲間の市民を上回っていたアエミリウスがこの時に死んだ。彼の死の知らせが国外へと広まって彼の葬儀が近づくと、〔ローマ〕市の全体が悲しみに包まれたため、労働者とその他残りの一般市民らが素早く集まっただけでなく、行政官らと元老院すら政を脇に置いた。同様にその時に間に合ったローマの周りの全ての町からもほとんど一人残らず住民が見世物を見て故人に栄誉を送ることの両方を求めてローマにやってきた。
 ペルセウスへの勝者ルキウス・アエミリウスの葬儀に関する説明の中でディオドロスは、それが実に見事に行われたと述べ、以下の文言を言い添えている。「高貴な生まれと祖先の名声のために秀でていたローマ人が死ぬと、その姿はまるで生きているかのような描写がなされているだけではなく体全体の外見を見せる絵に描かれる。というのもそれはその人の全生涯を通じて彼の身のこなしと外見の特徴を用心深く観察した役者の役を果たすからだ。同様にして故人の先祖のそれぞれ〔の絵〕は葬儀の行列に引き出され、観客が余りにかけ離れた描写で区別できるようにと外套と記章をつけられた上でそのそれぞれは「栄誉の道」を進み、国家の権威に与る」
26 この同上のアエミリウスは彼が生前に享受したのと同等の人柄についての評判を残して世を去った。彼はローマにヒスパニアから同時代人の誰よりも多い黄金を手に入れ、マケドニアの信じられないほどの宝物を所有しており、上述の場合には凄まじい権勢を持っていたにもかかわらずその金には手をつけなかったため、彼の死後、彼がすでに養子に出していた息子たちは遺産が現物の財産の一部を売り払いでもしなければ彼の未亡人の然るべき私的な持参金を払うこともできないほどだったことを知った。そこで多くの人には貪欲からの自由という点において彼はアリステイデスやエパメイノンダスなどギリシアの驚嘆すべき人々をすら上回ったと思われた。それというのも彼らは贈り物をする人の意に添うような申し出は何であれ拒んだが、彼は自分が望む限りのものを得るために全力を尽くして何も欲しがるまいとした。さて、この文言を信じ難いと思う人がいれば、我々が今日のローマ人の恥ずべき強欲によって古の人たちの貪欲からの自由を適切に判断できないという事実の説明を彼らはすべきだろう。それというのも当代にこの人たちはもっともっとと欲しがる強い傾向を獲得していることが見て取れようからだ。
 まさに今一人の良き人を心に思い起こすとするならば、私はスキピオ〔アフリカヌスのほうではなく、スキピオ・アエミリアヌスのほう〕の訓練について手短に述べたく思うわけであり、彼は後にヌミディアを滅ぼしたため、最も貴い目的への彼の若々しいこだわりを無しようものなら後年の彼の成功は信じられないものとある人たちには思えよう。
 プブリウス・スキピオはすでに述べたように血縁の上ではペルセウスを破ったアエミリウス息子だったが、ハンニバルとカルタゴ人に対する勝者の息子であるスキピオへと養子に出されためにアフリカヌスとあだ名された彼の時代で最も偉大なローマ人であるスキピオを養子先の家での祖父とするに至った。これほどの家系から発し、かくも重要な家と氏族を継承することになった彼は自らが父祖の名声に相応しい人物であることを示した。というのも子供の頃からギリシアの勉学の広範な手習いをしたため、一八歳になった年の彼は『歴史』の著者であるメガロポリスのポリュビオスを師範として哲学に専心した。いつも彼と一緒に暮らして自らがあらゆる美徳の熱烈な達人であることを証明すると、彼は節度、性格の高貴さ、度量の大きさ、そして概して全ての良き資質においてで同輩のみならず年長者すら上回った。もっとも、哲学を自らに課する前の幼い頃の彼ときたら彼の家の十全な後継者にして権威の代表者になろうなどとは考えらぬ怠け者だというのが世評だった。にもかかわらず節制の第一人者になることで彼は年相応になり始めた。今や時勢が若者たちの間に野放図な快楽と過度の奢侈への強い傾向をもたらした。ある者は稚児に、他の者は高級娼婦に、他の者はあらゆる種類の音楽に、宴会に、概してこれらのものが伴う浪費に溺れた。ペルセウスとの戦争の間にギリシアでかなりの時を過ごしていたために彼らはそういったものへのギリシア人ののんきな態度の影響を受け、まして十分な資金を獲得していたために彼らの富は浪費を賄う費用としては十分なものになっていた。
27 しかしスキピオは逆の道を辿って行動し、あたかもそれが野獣であるかように彼の自然的な欲望全てに対して武器を取り、五年もせずに名を上げ、その規律と節制をあまねく認められた。この声望が一般に同意されるところとなったおかげで全ての場所で好意的に見られるようになってもなお、彼は寛大さと財産の気前の良い振る舞いぶりで際だっていた。この徳の獲得のために彼は実の祖父アエミリウスの人となりに従うべき見事な範を求め、概して祖父との密接な結びつきが彼に或る利点を与えて彼の面影を残さしめた。また少なからぬ程度働いた偶然のおかげで金銭についての彼の鷹揚さが速やかに知られるようになる機会を与えた。
 例えば、偉大なるスキピオの妻でペルセウスに対する勝者アエミリウスの姉妹だったアエミリアは広大な地所を残して死に、彼がそれを継承する次第となったことがあった。ここで彼は以下のような状況下で自らの目的をまず示した。彼の母パピリアは彼の父の死から大分たっていて夫から引き離されてはいたが、彼女の世帯の資産は程度の高い暮らしをするには十分とはいえなかった。しかしスキピオの養父の母は遺産を彼に残してくれた女性で、偉大なるスキピオの人生と富の信望を分け合った人に相応しく、彼女の運命の残りの富を別にしてもなお大量の装飾品、従者とそれに類するものをを持っていた。これら全ての罠、価値ある多くの素質を得るや彼は自らの母に譲った。彼女はこの捧げられたきらびやで輝かしいものどもを公への見せびらかしに使ったため、この若者の善良さと気前の良さ、そして概して彼の母に対する愛情溢れる思いやりはまず女性、次いで男性といった風に市の全体の認めるところとなった。これはどの都市で輝かしい事例であり見事なこととして知られるようなことであろうが、とりわけローマではなおのこと彼の財に自発的に与るつもりでいた者はいなかった。後に多額の金が偉大なるスキピオの娘たちの持参金を充当するために残されると、三年以内で分割して持参金を払うのがローマ人の慣例だったにもかかわらず、彼は彼女らのために全額を一括で払った。次いで彼の実父アエミリウスが養子縁組みにやった息子たちである彼とファビウスに財産を残して死ぬと、スキピオは記録に値する立派な振る舞いをした。兄弟が自分ほど裕福ではないと見て取った彼は六〇タラントン以上の値がする遺産の自分の取り分を兄弟の取り分に追加して譲り、そのために兄弟の分と彼の全ての分を等しくした。これが賛同と好意的な言葉と一緒に方々で人々の耳に入ると、彼は一層目立つことをした。彼の兄弟のファビウスが父を称えて剣闘士試合を開催したいと願ってはいたものの、莫大な経費がかかるために費用を捻出できないでいると、彼は自分の懐から全額の半分を彼に渡した。母が死ぬと自分が母に与えた諸々のものは当然〔自分のものになるべき〕のものとはほど遠いと思ったため、自分の姉妹たちが遺産についての法的な主張をしていなかったにもかかわらず、彼は彼女らに自分が与えたものだけでなく母の地所の残りを譲った。善意と寛大さで比類ない賛美を受けたため、彼はだんだんと市全体からの賞賛を得るようになった。これがもたらしたものは、彼の贈り物の適時性と彼がその提案をそれによって行ったところの機転ほど値打ちがあるものではなかった。なるほど、他方で節制の成果は金がかからないし、放蕩の禁欲は彼に終生十分な代償と応報を得させたもので、身体の健康と壮健さがそのたまものである。まだ残っている一つの徳、これはなるほど全ての人、とりわけローマ人にとって本質的な美徳と考えられている勇気であり、これを彼もまた尋常ではない熱意でもって追求し、偶然が大きな機会を彼に与えたためにこれを完成させた。勇気はマケドニア諸王が特にその追求に常々専心してきたものであり、スキピオはこれで誰もを凌駕したからである。
27a そのこと〔ローマで人質として暮らしていたデメトリオスがローマを脱出して帰国し、王として即位したことであろうか〕が知られると、ローマ人はデメトリオスを遺憾に思い、他の諸王のみならず彼に服属する一部の太守たちも彼の王権をあまり尊重しなくなった。こういった太守のなかで最も際だっていたのはティマルコスなる者だった。ミレトスの生まれで先王アンティオコス〔四世〕の友人だった彼はローマへの度重なる使節任務で元老院に酷い損失をもたらした。多額の金が彼に支給されると、彼は贈り物で懐の寂しい元老院議員たちを圧倒して魅惑しようとして元老院議員たちに賄賂を持ちかけた。このやり方で多くの支持者を獲得してローマの正式な政策とは反対の提案を彼らにすると、彼は元老院を堕落させた。この点で彼は兄弟のヘラクレイデスには及ばず、ヘラクレイデスはこういった仕事ではこの上ない天性の才覚を持っていた。同じ策略を続けることで彼は目下の折りにローマにたびたび赴いていたが、メディア太守となった今、デメトリオスに多くの告発を浴びせることで彼に関する以下の宣言をするよう元老院を説き伏せた。「ティマルコスに、……のために、彼らの王たるべし」この宣言で得意になった彼はデメトリオスに対してメディアで大軍を起こした。また彼は対デメトリオス同盟をアルメニアの王アルタクシアスと結びもした。その上、軍の威容で近隣の人々を威圧して彼らの多くを自らの影響下に置いたため、彼はゼウグマに進軍してついには王国の支配権を握った。
28 第一五五オリュンピア会期にアリアラテスからの使節団が到着し、この王のローマの人々に対する友好的態度と、彼らの説明ではデメトリオスとの婚姻と友好同盟を彼が破棄したことを元老院に知らせるために金貨一〇〇〇〇枚の「冠」と一緒に持ってきた。これはアリアラテスへの賛成を表明するグラックスと彼の同僚の委員たち〔アウルス・センプロニウス・グラックスを長として紀元前162年に東方へと送られた委員団(N)。〕の証言で裏付けられたため、冠は受領されて彼らが渡す習わしになっていた最も高価な贈り物が彼に贈られた。
29 ほぼ時を同じくしてデメトリオスの使節団も案内された。彼らも金貨一〇〇〇〇枚の「冠」を持ってきて、これらと一緒にオクタウィウスの殺害の責任者たちを鎖に繋いでつれてきた〔この事件の詳細はアッピアノス『ローマ史』「シュリア戦争」46及び47章を参照。以下のレプティネスはその下手人。〕。元老院議員たちは長らくその状況をどう処理したものか確信を持てなかった。ついに彼らは冠を受領したが、その引き渡しが冠と一緒に彼らに申し込まれていたイソクラテスとレプティネスの拘留の受け入れは断った。
30 デメトリオスがローマへと使節を一人寄越すと、元老院は、もし彼の権威の行使にあって元老院を満足させれば彼は彼らの手で親切な扱いを受けることになろうという回りくどい謎めいた応答を寄越した。
31 ペルセウスを破った後、ローマ人はマケドニア側に立って戦争に参加した人たちの一部を拘束し、他の者はローマへと追い出した。手始めにエペイロスでは、ローマ人の友人としての声望にものを言わせて国を牛耳っていていたカロプスがある程度の警戒をしたが、最初は人民に対して些末な罪科しか行わなかった。しかし無法行為が段々と甚だしくなると、彼はエペイロスを破滅させることになった。段々と彼は金持ちに対するでっち上げの告発を行ってはある者を殺し、他の者は追放して財産を没収し、金を男だけでなく女からも〔金を〕徴発し、生来その性にもとる残忍さと無法さを備えた人物だった彼の母フィロタですらその対象になった。そして彼はローマに対して不平を持っているとの訴状を民会を前にしてぶちあげて多くの人を告発した。判決は全て死罪だった。
32 オロフェルネスは兄アリアラテスを王座から追い出したが、慎重に事に当たったり、人々を助けて彼らに奉仕することで人々の支持を取り付けようとかいうことには全く努めようとしなかった。なるほどまさにその時の彼が強制徴収で金を増やして多くの人を殺すと、彼はティモテオスに五〇タラントンを贈り、他の折りには残りの四〇〇タラントンを支払うという約束をしていた六〇〇タラントンの支払いとは別にデメトリオス王に七〇タラントンを贈った。カッパドキア人が不満を抱いているのを見て取ると、彼は方々から金を徴発し、私利私欲のために最も秀でた人たちから財産を没収し始めた。多額の金を集めると、彼は運命の予期せぬ奇襲に備えて四〇〇タラントンをプリエネ市に預け、プリエネ市民たちはこれを後に返還した。
32a エウメネス王〔このエウメネス二世というのは抜粋者の誤りで、年代的にはアッタロス二世〕はアリアラテスの排除に心を痛めつつデメトリオスを押さえ込もうという自分のための理由のおかげで燃え上がり、眉目秀麗で年格好が後のシュリア王アンティオコス〔五世〕に非常に似ていた一人の若者に手紙を送った。この男はスミュルナに住んでいてアンティオコス〔四世〕王の息子だと強く認められており、〔アンティオコスに〕そっくりだったために彼は多くの人からそうだと信じられていた。彼がペルガモンに到着すると王は彼に冠と王に相応しい他の印を身につけさせ、それから名をゼノファネスというとあるキリキア人のもとへと彼を遣った。この男はいくつかの理由からデメトリオスと反目しており、エウメネスによってある苦境から助け出されたこともあり、それから自分が王になると一方とは対立し、他方とは親しくしていた。彼はこの若者にキリキアのある町でこの若者を受け取り、この若者が良い頃合いに父の王国を取り戻すだろうという噂をシュリアに流した〔実際にこの偽物、即ちアレクサンドロス・バラスはローマ、エジプト、ペルガモン、カッパドキアの支援を受けて紀元前152年にデメトリオス一世に反乱を起こして紀元前150年にはこれを殺したが、紀元前145年にデメトリオス一世の息子デメトリオス二世に敗れて殺された。〕。さて先王の寛大な振る舞いの後にシュリアの平民たちはデメトリオスの厳格さと彼の苛斂誅求に不満を持っていた。したがって変革の準備ができると彼らは政権が他のもっと優しい君主の手に渡るのに希望をつないだ。
32b ローマから戻る途中だったオロフェルネスの使節団はアリアラテスに対する陰謀を旅路で練り上げたが、コルキュラでアリアラテスに発覚して殺された。同様にコリントスでオロフェルネスの手下たちがアリアラテスに対する計画を企むと、彼は彼らから逃れて彼らの目算を狂わせ、ペルガモンのアッタロスのもとに向かって安全を確保した。
33 大軍のおかげで年長の方のプトレマイオス〔六世〕はすぐに弟〔プトレマイオス八世〕に籠城を強いて彼が受け取っていたあらゆるものを剥奪していたが、一面では持ち前の善意と家族の情のために、他面ではローマ人への恐怖からまだ彼を殺そうとはしなかった。彼は弟に身の安全を認め、若い方のプトレマイオスがキュレネの領有に甘んじて毎年所定の穀物の受け取るものとする協定を結んだ。したがって深刻な対立と死にものぐるいの争いに発展していた両王の関係は予期せぬ人道的な解決を見ることとなった。
34 状況が悪化したオロフェルネスは部下への賃金支払いに悩み、恐怖から彼らは革命を開始した。しかし目下のところ資金がなかった彼はいわゆるアリアドネ山の麓にあって遙か昔から冒涜を受けていなかったゼウス神殿の略奪へと追い込まれた。彼はここで盗みを働いて未払い賃金を支払った。
35 ビテュニアのプルシアス〔二世〕王はアッタロスに対する計画が失敗すると、城壁外のニケフォリオンとして知られる神域を破壊し、神殿を略奪した。また彼は奉納された像、神々の画像、そして見事な職人芸の一例でヒュロマコスの作と名高いアスクレピオスの有名な像を運び去った。神の力はすぐさま印の形を取って彼に報いを下した。軍で赤痢が蔓延し、大部分の兵が死んだ。彼の海軍にも似たような運命が降り懸かり、艦隊がプロポンティス海で突然の嵐に見舞われて多くの船が人も一切合切一緒に海に飲み込まれ、一部は岸に流されて難破した。以上が彼がその涜神行為のために受けた最初の報いだった。
36 その抜け目なさと特権の転用のおかげでロドス人はいわば諸王からの自発的な年貢金を受け続けていた。というのも権力を持った人は誰であれ賢明なおべっかと公の布告で讃え、その上、正確で鋭い予測をもってこれを行うことで彼らは諸王から好意を得て何度も価値ある贈り物を受け取ったからだ。例えば、彼らはデメトリオスから二〇万タラントンの小麦と一〇万タラントンの大麦を受け取り、エウメネスは死亡時になっても彼らに三〇〇〇〇タラントンの借金があった。この王は大理石の劇場の改装を約束してもいた。したがってロドス人はギリシアで最良の政権を維持しつつ多くの君主を彼らに恩恵を与えることに関して互いに張り合わせることとなった。
37 しかし概して戦いで試される段になるとまるで質の悪い貨幣に他の金属が混ざっていることが明るみに出たかのように、人格的な短所によって彼〔対クレタ戦争におけるロドスの司令官アリストクラテスのことを指す(N)。紀元前154年に彼は海戦でクレタ艦隊に敗北した。〕は戦争を拡大させてしまった。
38 ロドス人に起こったことはむしろ熊狩りのようだった。現に大きさと力では実に恐ろしげに見えるその獣は狩人が小さいが活動的で勇敢な犬を自分に向けて放つといともたやすく逃走するものだからだ。熊の足は柔らかく肉付きがよく、下で音が鳴ると思わず座り込んでしまい、それは狩人が一撃を急所に食らわせるまで続き、その鈍重な動きのおかげで熊は犬のすばしこさ…〔欠損〕…ができない。かくして海軍力では世界中にその名を轟かせていたにもかかわらずロドス人は小型船の艦隊、「鼠」と「山羊」〔「山羊」と「鼠」が何を意味しているのかについては調べた限りでは不明。なお、HODOI ELEKTRONIKAIにあるギリシア語テクストには両動物は影も形もなく、仏語訳では単に「筏と軽い子船」と訳されているのみ。〕によって方々から予期せぬ包囲を受けるとこの上ない窮地に追い込まれた。
39 ケルティベリアにはベゲダ〔あるいはセゲダとも。〕と呼ばれる小都市があり、人口の激増のために彼らはこれの拡大を票決した。ローマの元老院は彼らの勢力増大を疑念の目で眺めたため、他の条項と同様、ローマ人の同意なしにケルティベリア人は都市を建設してはならないと述べられている協定に則って彼らに待ったをかけるために委員会を送った。名をカキュルスという長老の一人が答えて言うには、その協定は都市の建設は禁じているが古い家を増築することは禁じていないし、自分たちは前になかった都市を建設しているのではなく、すでにある都市を改築しているのだから協定の違反や人類全てに普通の行いにもとることではない。彼が言うには、自分たちは他の全ての点でローマ人に従ってきたし、助けを求められた際には同盟者として誠心誠意振る舞ってきたが、自分たちは都市の建築を決して差し控えるつもりであると付言した。集会が全会一致でこれらの文言への同意を示すと、使節団は元老院に彼らの応答を携えて帰った。それから元老院は協定を無効にして敵対行為を始めた。
40 一つのきっかけがギリシアでの戦争の結末を決定した一方で、ケルティベリア戦争では概して夜が厳として交戦勢力を分け、活力は未だ減退せず、冬すら戦争を終わらせるには至らなかった。そういうわけで幾人かの人たちに使われる「激しい戦争」という語はこの戦争に他の戦争より先にこの戦争を思い起こさせる。
40a 今一度人々は多数の不満から蜂起し、王位を取り上げるぞとデメトリオスを脅した。傭兵隊の一人で名をアンドリスコスという男は顔つきも体躯もペルセウスの息子フィリッポスに瓜二つで、最初は冗談で馬鹿にされながら友人たちから「ペルセウスのご子息」と呼ばれていたが、すぐにその言葉は人々の信用するところとなった。アンドリスコスは大胆にもこの話を貴貨とし、その通り自らはペルセウスの息子だと宣言したばかりか自分の出生と育ちについての作り話をぶちあげ、追従者たちの冠をつけてデメトリオスに接見してマケドニアと父祖の王位を返還するよう呼びかけることすらした。さて当初デメトリオスは彼を奇人の類だと見なしていた。しかしデメトリオスは王の役割を果たすことができなかったりその気がなかったとしてもアンドリスコスを復帰させるか自分が退位すべきだと多くの人が集まって言い放つと、デメトリオスは群衆を恐れて夜にアンドリスコスを逮捕し、元老院へ宛てたこの男についてなされた主張に関する一切合切の報告と一緒に速やかにローマへと送り出した。
41 この勝利の後、ケルティベリア人は運命に賢明なまなざしを向けたために執政官に和平を論じる使節団を送った。しかし執政官はローマの誇りある伝統を守るのが自分の義務だと感じたため、ローマ人に全てを委ねるかこの上なく熱烈に戦争を行うかをせよと彼らに答えた〔ここでの勝利とは紀元前153年の執政官クイントゥス・フルウィウス・ノビリオルに対する勝利を指しているが、後任執政官マルクス・クラウディウス・マルケルスのケルティベリア人に対する態度は穏健なものであった。このため、本文に出てくる威圧的な執政官はノビリオルを指しており、この断片は順序を間違っている(N)。〕。
42 ディオドロスもイベリア人をルシタニア人と呼んでいる。というのも法務官ムンミウスが軍と一緒にイベリアへと送られてくると、ルシタニア人は軍を集めて上陸中の不意を突いてこれを戦いで破り、彼の軍の大部分を一掃したと彼は述べているからだ。イベリア人の勝利の知らせが知られると、アレウァキ族はイベリア人よりも自分たちの方が遙かに優勢だと考えて敵意を鮮明にし、人々は集会でローマ人との戦争に入ることを選び、このような理由で主に行動を起こした。
43 ロドスの人々は熱狂的に戦争の準備をしていたにもかかわらず、その冒険が不運なものになるとまるで心を長らく病んだ人たちのように奇妙な考え方へと陥った。そのような人たちは医者が決めた摂生をした後にも自分の状況が良くならないのを見ると供犠と占いを生業とする人を頼る一方で、そのうち一部の人たちは呪文とありとあらゆるお守りの使用に賛同する。そういうわけでロドス人は彼らの事業の全てが突然失敗すると元来軽蔑していた人たちに助力を頼み、他の人の目には彼らがどうかしたと思えるような道を辿った。
44 勝利をもたらすのは船の装備と大きさではなく、船に乗った勇敢な戦士の行動と大胆さである。
45 クレタ人はシフノスに停泊するとその都市を攻撃し、脅迫と詐術によって城壁の中に招き入れられた。クレタ人らしくいつも通り不実に振る舞って誓いの文言を反故にした彼らはその都市を隷属化し、神々の神殿を略奪した後に戦利品を満載してクレタへと〔出航した〕。神々は速やかに彼らにその罪への罰を下し、神の力は予期せぬ仕方で彼らの不敬虔を顕著な仕方で扱った。敵とその大きな船に対する恐怖から彼らは夜間航行を余儀なくされたため、疾風が吹き付けると大部分の兵士が波に飲み込まれた一方で一部の者は岩壁にぶつかって死に、生き残ったたった一人はシフノス人への背信に加担しなかった男だったという。




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