30巻→ディオドロス『歴史叢書』31巻(断片)→32巻

1 アンティオコスはエジプトの王位を奪う考えは彼の過度な軍備の本意ではなく、年長のプトレマイオス〔六世〕が相続の権利によって得た地位を確実なものにするのを支援するのが唯一の動機であると主張し、当初は好調に進軍した〔この記事は第六次シリア戦争(紀元前170-168年)のことを指している(N)。原因はつまびらかではないが、プトレマイオス六世の二人の摂政エウライオスとレナイオスがシュリアに宣戦したことで始まった。エジプトに遠征したアンティオコスは169年までにエジプトの要衝ペルシオンを占領し、プトレマイオス六世を傀儡とした。しかしエジプト人はプトレマイオス六世の弟のプトレマイオス八世を担ぎ上げて抗戦し、アレクサンドレイア包囲に失敗したアンティオコスはエジプトから撤退した。しかし件度朝来捲土重を期したアンティオコスは再びエジプトに攻め込むと、エジプト人はローマに助けを求め、ローマとの敵対を恐れたアンティオコスはエジプトから再び撤退した。この章の話はアンティオコスの第二次遠征についてのことであろう。〕。これは真実ではなく、逆に彼は青年たちの争いの議長になって好意を得ることで戦わずしてエジプトを征服しようと考えていた。しかし運命が彼の公言を試して彼が主張した口実を彼から奪い取ると、彼は名誉を利得よりも重要だと見なさない多くの君主の一人であることを明らかにした。
2 ローマ人が接触するとアンティオコスは彼らを言葉の上で遠くから歓迎した後、歓迎の時に手を伸ばした。しかし元老院の命が記された文書を携えていたポピリウス〔ガイウス・ポピリウス・ラエナス〕はそれを出してアンティオコスに読むよう命じた。かくしてこの行為の目的は、実際のところ王が友であるか敵であるかが決定できるほど明らかになるまで王の手を友情を込めて握ることを避けるだったと考えられていた。王がその文書を読んだ後にそれらの問題について友人たちと相談したいと言うと、これを聞いたポピリウスは度を超して攻撃的で横柄と思われるような仕方で振る舞った。すでに手に持っていた葡萄の枝を使ってアンティオコスの周りに線を引き、その円の中で答えるよう命じた。王は起こったことに仰天し、そしてまたローマの威厳と力に恐れをなして希望のない困惑に陥り、自分はローマ人の提案の全てを実行すると熟慮の上で述べた。ポピリウスと彼の同僚たちはそれから彼の手を取って心から挨拶をした。さて彼はすぐにプトレマイオスに対する戦争を中断すべきというのがその手紙の要旨であった。これらの命令に従い、ローマの優勢な力に恐れをなし、その上マケドニアの崩壊の知らせを丁度受け取っていた王はエジプトから軍を撤退させた。なるほど起こった出来事を知らなければ、彼は決して自分からその布告に耳を傾けはしなかったことだろう。
3 古賢の言うように、許しは復讐よりも好ましいということは一見して真実である〔この節はロドス人を弁護するカトーの演説の一部らしい(N)〕。実際、我々は皆、持てる力を穏健に使う者に賛同し、手中に落ちた人をすぐに罰する人を咎めるものである。したがって我々は以下のことを見て取りもするだろう。すなわち、前者の類の人たちは運命の奇襲への用意ができており、好意の豊かな蓄えは情け深かく扱った人たちの心の中に蓄えられるが、後者の人たちは自分がひっくり返される時はいつであっても自分が冷酷に扱った人たちから復讐を受けるだけでなく、倒れ落ちた人に一般的に認められるような慈悲から自らを締め出してしまったことを見て取るだろう。なるほど、他者への思いやりの一切を否定した者が一転して躓いて倒れた時、彼に対して力を持つ人たちから顧慮を受けられようはずがないということはもっともなことであろう。それでも多くの人は敵に復讐する際の厳しさということを、了見違いであるにもかかわらず自慢するほどに向こう見ずである。というのも、倒れて我々の力の下に自らを投げ出した人に癒し難い災難を与えることにどんな立派で偉大なことがあろうか? もし繁栄の中で我々が横柄に振る舞って以前に持っていた正当な名声が幸運に相応しくないことを自ら示すことで打ち消すならば、勝利は我々にどんな益をもたらすだろうか? 立派な行いで得られる栄誉は出来事を支配しようと望む者の最高の報償であると正当にも考えられているが、このことは確実なことである。このようになっている以上、ほとんど全ての人が最初に彼らが明言する原則の真実性と有用性を認めている一方で、彼らの意見を試して裏付ける段になるとそうでなくなるのは驚くべきことである。知性ある人たちならば食卓はひっくり返されうるということをとりわけ勝利の絶頂期に心にとどめるであろうが故に、私が主張する本来の筋道というのは勇気によって敵を征しようとも賢明さによって運命の犠牲者に慈悲を与えることだろうということである。これはいくらかの人の、とりわけ帝国の代表者の影響を大いに増大させる。それというのも力を失った人は自発的な忠誠を生み出すことで熱心な奉仕をし、全てのことにおける忠実な協力者であるからだ。
 この原則を明らかにローマ人はしっかりと心に留めていた。彼らは考慮の際には政治家然としており、彼らが破った人たちの力を顧慮することでその顧慮を受けた人たちの内在的な感謝と残りの人類からの当然の賞賛を得ようとした。
4 運命の潮流が自分たちに味方して強く流れるようになって以来、ローマ人は成功にあってどう行動すべきかに注意深く目を向けるようになっていた。多くの人は勝利の正しい使用は武器の力で敵を屈服させるよりも簡単だと考えている。実際のところこれは真実ではなく、というのも戦いで勇敢な人は繁栄の時期にあって人道的な人よりも数多く見受けられるからだ。
5 丁度この時にトラキア人からの使節団が彼らに対してなされていた申し立てへの潔白を示すためにローマに到着した。それというのも、ペルセウスとの戦争中に彼らはこの王に共感を寄せてローマとの友情に不義理をしたと信じられていたからだ。使節派遣の目的を全く成し遂げられなかったために彼らは心が折れ、涙を浮かべながら請願した。軍団副官の一人アントニウスによって元老院の前に導かれると、フィロフロンが代表団のために最初に、次いでアステュメデスが話した。彼らは長々と慈悲と許しを請い、最後に見事な演説をした後に彼らができたのは返答を引き出すことだけだった。なるほど、彼らは申し立てられた告発内容のために手ひどい叱責を受けはしたものの、これは彼らを最も恐れるものから解放した。
 この時にロドス人の使節が彼らに対してなされた申し立てへの潔白を示すためにローマに到着した。それというのも、ペルセウスとの戦争で彼らの共感はその王に傾き、ローマとの友情に不実だったと信じられていたからだ。使節団が自分たちの受けた冷淡な扱いに気付いて落ち込み、そしてある法務官が民会を召集してロドス人との戦争を人々に訴えると、彼らは自分たちの国の完全な破滅を恐れて悲しみで意気消沈し、友人たちへの訴えにおいてはもはや弁護人や原告として話すことをせず、涙ながらにロドス人にとって致命的な施策を採用しないようにと求めた。彼らは軍団副官の一人によって元老院の前に導かれ、同じ人物は演壇から戦争を訴えていた法務官〔外国人係法務官(praetor peregrinus)のマルクス・ユウェンティウス・タルナ〕を引っ張り出し……演説をした。多くの嘆願がなされて初めて彼らは応答をした。なるほどこれは完全な破滅の恐怖から彼らを解放しはしたが、彼らは特別の非難のために厳しい難詰の対象となった。
 この人たちは大変な嘆願と請願を申し出て、いわゆる白鳥の歌を見せた後に彼らができたのは彼らの恐怖を取り除く応答を引き出すことだけだった。
 今や彼らは自分たちの上にぶら下がっていた恐怖を免れたと考え、不快なことであろうとも他のあらゆることを快く行った。なるほど全般的な規則として、予期される被害の重大さのおかげで人はより少ない不幸を小さいものと考えるものだ。
6 ここでローマ人の中で秀でた人たちは互いに栄光を競うものと見られるべきであり、彼らの努力によって人々に対する主要な場合における有徳な全ての事柄が成功を収めた。別の言い方では、彼らは互いを嫉妬したが、ローマ人は同胞市民を称えた。その結果、共通の幸福の向上にあたっての互いへの競争によってローマ人は最も栄光ある成功を成し遂げた一方、他の人たちは比類なき名声を思い描いて互いの計画を妨害したため、彼らの国に被害を与えることになった。
7.1 およそ同じ頃、全ての地方から勝利への祝賀を捧げるための使節団がローマへと到着した。元老院は彼ら全員を快く受け入れ、短く立派な応答を各々に寄越して帰国させた。
8 以前にローマ人が当代で最も強大な君主であったアンティオコスとフィリッポスを破った時、彼らは復讐を控えて彼らに王国を保持するのを許しただけではなく、彼らを友人として受け入れることすらした。かくしてこの目下の折にも、ペルセウスとの繰り返された戦いと彼らが直面した多くの重大な危機にもかかわらず、今やついにマケドニア王国を制圧すると、全ての予想を裏切って彼らは占領した諸都市に自由を与えた。このことを予想した者はいなかっただけでなく、マケドニア人自身すらローマに対してなした多くの重大な攻撃を意識していたためにこのような配慮を受けることを期待していなかった。なるほど彼らの以前の誤ちが許されたため、彼らは、尤もなことであるが、慈悲や許しについての論議は遠からぬ後のために未だ棚上げされただけだと思った。
 しかしローマの元老院は敵意を抱くことなく寛大に、いくつかの場合には利益を顧慮すらして振る舞った。例えば、ペルセウスは彼らに継承された感謝の義務を負っており、制約を無視して不正な戦争での侵略者となっていたために捕らえられ、彼らは彼を捕虜にした後に「自由な軟禁」で確実に彼の罪よりも遙かに軽い罰を与えた。奴隷に落とされるのは全くもって正義に適うであろうマケドニアの人々は自由になり、敗者が嘆願するのを待たずに恩恵を施すほどにローマ人は気前が良く迅速だった。夷狄は彼らの寛大に値するという信念からというよりは、恩恵をもたらす行為の主導権を握って権力の時代にあって過度な自信を持つことを避けることがローマ人にとって適当であるという確信から、かつて服属させたイリュリア人にも同様に彼らは自治を認めた。
 元老院は、マケドニア人とイリュリア人は自由たるべきであり、彼らは以前に自分たちの王に納めていた税金の半分の額の税を支払うべきであると決定した。
 ローマ人の執政官で最も有能な将軍だったマルクス・アエミリウス〔正しくはルキウス・アエミリウス〕は、ペルセウスはローマ人に大義名分がなく、誓約を冒涜するような戦争を仕掛けたにもかかわらず「自由な軟禁」の下に捕虜のペルセウスを置いた。その上、ローマ人はペルセウスとの戦争の重大な危機に繰り返し直面してきたし、以前には彼の父フィッポスとアンティオコス大王と戦ってこれらを破り、彼らに王国を保持してローマの友情を享受することすら許す配慮を示していたという事実にもかかわらず、彼が占領されたマケドニアとイリュリアの諸都市の全てに自由を与えたことは誰も彼もを驚かせた。その結果、マケドニア人が無責任になったためにローマ人は彼らは慈悲には値しないと考え、ペルセウス共々ローマ人の手に収めた。逆に元老院は彼らを大目に見て寛大な精神で扱い、奴隷にする代わりに自由を与えた。似たようにして彼らは、ゲティオン王〔その他史料ではゲンティオス〕をペルセウスと一緒に捕虜にするという形でイリュリア人を扱った。したがって堂々と彼らに自由を贈り物として与えると、ローマ人は彼らに自分たちの王に以前に払っていた税の半分の税を払うよう命じた。
 彼らは元老院の中から一〇人の委員をマケドニアへと、五人をイリュリアへと送り、彼らはマルクス・アエミリウスと会談してマケドニア人の主要都市デメトリアスの城壁を解体し、アンブラキアをアイトリアから切り離し、マケドニアの卓越した人たちを連れて会議へと向かうことに合意した。そこで彼らは彼らに自由を与えて守備隊の撤収を宣言した。これに加えて一面では地域住民を抑圧から遠ざけ続けるために、もう一面ではマケドニアの支配権を得るのにこの富を使うことで後に誰かが革命を起こすのを防ぐために彼らは金山と銀山から上がる収益を〔マケドニアから〕切り離した。彼らは全域を四つの地区に分けた。第一の地区はネストス川とストリュモン川の間の地域、アブデラとマロネイアとアイノスを除くネストス以東の諸要塞とストリュモン以西の諸要塞、ヘラクレイア並びにビサルティカの全域から構成されており、第二の地区は東ではストリュモン川、西ではアクシオス川と呼ばれる川と境を接する地域で、第三の地区は西ではペネオス川、北ではベルノン山と境を接する地域とパイオニアのいくつかの地方をこれに加え、エデッサとベロイアという名高い都市を含む地域であり、第四であり最後の地区はベルノン山の向こう側の地域、エペイロスまで広がってイリュリアの地域であった。アンフィポリスが第一の、テッサロニケが第二の、ペラが第三の、ペラゴニアが第四のという風に四つの都市が四つの地区の主邑となり、四人の統治者がこれらに置かれて税はここに集められた。敵対する近隣諸部族のためにマケドニアの国境地帯には部隊が置かれた。
 それからアエミリウスは集まった群衆のために見事な競技祭と宴を開催した後、見つけた宝物を何であれローマへと送り、仲間の将軍たちを連れて彼その人が到着した時には凱旋で市内に入るように元老院から命じられた。まずアニキウス、そして艦隊司令官オクタウィウスがそれぞれ一日をかけて凱旋を祝ったが、非常に賢明だったアエミリウスは三日間祝った〔この順番は誤りであり、凱旋のファスティによればアエミリウスの凱旋式は11月28-30日、グナエウス・オクタウィウスは12月1日、ゲンティウスに対するルキウス・アニキウス・ガルスの凱旋式は翌年4月である(N)。〕。初日は浮き彫りの入った白い盾〔白盾隊(レウカスピデス)の盾とピュドナのトラキア人部隊の盾は輝く白い盾で目立っていた(N)。〕と青銅の盾を満載した一二〇〇台の荷車、突き槍、長槍、弓、そして投槍を乗せた三〇〇台の荷車の行列で始まり、戦争でのようにラッパ手がこれを先導した。他にも多くの武器もあり、様々な種類の武器が乗せられており、八〇〇の一揃いの装備が竿にかけられていた。二日目には一〇〇〇タラントンの鋳造された貨幣、二二〇〇タラントンの銀、大量の酒杯の行列と神々と人間の様々な像、多数の黄金の盾と見事な飾り板を載せた五〇〇台の荷車の行列が催された。三日目には白い牛が引く一二〇台の戦車、二二〇台の荷車に載せられた何タラントンもの黄金、宝石がはめられた一〇タラントンの黄金の鉢、一〇タラントンの値打ちのありとあらゆる金細工、長さが三ペキュスの二〇〇個の象牙、黄金と宝石で飾られた象牙の戦車、宝石がついた頬革と黄金で飾られて残りの馬具がつけられた戦闘状態の馬、花模様の覆いのついた黄金の長椅子、深紅の幕のついた黄金の輿の列が行われた。それからマケドニア人の不幸な王ペルセウスが二人の息子、一人の娘、二五〇人の家臣、様々な都市と君侯らによって提供された四〇〇個の花冠、残りの全てのものと一緒に続き、目のくらむような象牙の戦車に乗ったアエミリウスその人が続いた。
 アエミリウスは彼が見せた見せ物を心配して驚いた人たちに、適切な流儀で競技祭を行って適当な宴を催し、敵に対して良き戦術でもって軍を整列させるのに必要なのと同じ心の資質を呼び起こした。
9 マケドニア最後の王であり、ローマ人とはしばしば友好関係にあったが、小さからぬ軍で繰り返し彼らと戦いもしたペルセウスはついにアエミリウスに破れて捕らえられ、アエミリウスはこの勝利を見事な凱旋式で祝った。ペルセウスは平穏に生きるつもりがなかったにせよ、彼が見舞われた不運は彼の辛苦が作り事のように見えるほど甚だしいものであった。元老院が彼の受けるべき罰を決定する前に、市の法務官の一人が彼を彼の子供たちと一緒にアルバ〔イタリア中部のアルバ・フケンス〕の収容所へと投獄した。この監獄は地下深くにある牢で、九つの長椅子ほどの長さもない部屋であり、暗く、重罪の判決を受けてその場所に収容された多くの人たちから発せられる悪臭がしていたわけであるが、それはこの類のほとんどの人はその頃〔つまりペルセウスの投獄と時を同じくして〕に投獄されていたからだ。かくも狭い場所にかくも多くの人が閉じこめられたため、この惨めで哀れな人たちは獣のような体つきになり、彼らの食べ物と他の必要に関係するあらゆるものは全て汚らしく混じり合い、ほとんど耐えられないほどひどい悪臭がそこに近寄る人を襲った。七日間ペルセウスはそこに留まり、かくも哀れな窮状にあって彼は、臭い飯を食べていたこの上なく下品な状態の人たちからの救援すら請うほどだった。なるほど彼らは彼らもまたそれを分かち合っているところの彼の不運の大きさに心打たれて涙を流し、彼らが受け取ったものの一部を気前良く与えた。自害のための剣、首を吊るための輪縄、彼が望む通りにそれらを使う完全な自由が彼に投げ寄越された。しかし受難が死を是認する時であれ、不運を生命そのものとして被る者にとって他にこれほど甘美なものはない。そして元老院の指導者マルクス・アエミリウス〔ここのマルクス・アエミリウス・レピドゥスは紀元前179年から元老院の第一人者(princeps senatus)だった人だが、プルタルコス(アエミリウス, 37)はこの役をアエミリウス・パウルスに演じさせている(N)。〕が彼の原理原則と彼の国の公正の法の両方を守り、たとえ元老院が少なくとも勢力を横柄に乱用する者につきまとうネメシス女神を尊重することを人から脅かされていなかったとしても、〔アエミリウスが〕彼らを憤然と諭していなければ、最終的にペルセウスはそうした欠乏の下で死んだことだろう。結果としてペルセウスはより相応しい拘留の下に置かれ、元老院の親切心のために無駄な希望によって彼の以前の不運に相応しい最期を迎えることだけを持ち続けた。二年間命にしがみついた後、彼は自分の見張りについていた夷狄たちを咎めたせいで彼が睡眠不足で死ぬまで睡眠を阻害された。
10 マケドニア人の王国が高みにあった時、ファレロンのデメトリオスは『運命について』の論考で、あたかもその未来の真正の予言者であるかのように以下の見事な文言を適切にも物した。曰く「もし時間の限りのない拡大も多くの世代のことも考えず、ただ直近の過去五〇年さえ考えれば、あなたは運命の不可解さを悟ることだろう。五〇年前、もし神の誰かが未来を予言すれば、当時の人が住む世界ほぼ全域の主だったペルシア人の名が未だ生きながらえ、以前は無名だったマケドニア人が全土を支配することをペルシア人やペルシア人の王、マケドニア人やマケドニア人の王がその時に信じたとあなたは考えらるだろうか? しかしこれにもかかわらず、我々の生への彼女の予期できない結果、これと共にその変転によって我々の計算の裏をかき、見事であり予期せぬ出来事によって彼女の力を証明する運命の女神は、私の見解では今も同じ教訓ーーすなわち彼女はペルシア人の玉座にマケドニア人を座らせて彼女の心がマケドニア人から心変わりする時まで使えるようにと彼女の富を彼らに貸し与えたことーーを指し示している」我々が今関わっている時代にそれは成就した。したがって私はこの状況に適当な論評を加え、デメトリオスの文言、すなわち人間の着想を越えたこの言葉を思い起こさせることが自分の義務であると判断している。先の一五〇年間に何が起こるのかを彼は予言していたのである。
11 アエミリウスの二人の息子が急死して全ての民衆が大きな悲しみに包まれると、この父親は平民会を召集し、戦争での自分の行動の弁明をした後に以下の文言で演説を締めくくった。曰く、イタリアからギリシアへ軍を輸送し始めた頃に太陽が昇るのを見た後に自分は渡航し、第九刻に犠牲を出すことなくコルキュラに投錨した。そこから四日後にマケドニアに到着して軍の指揮権を引き継いだ。ペトラの峠を奪取してペルセウスを戦いで破るまでにかかったのは全部で一五日間であった。つまるところローマ人に対する王の反抗が五年目に差し掛かっていたにもかかわらず、彼、すなわちアエミリウスは前述の日数でマケドニア全土を服属させたというわけである。彼が言うには、その時ですら自分は勝利の意外さに驚いていたが、それから間もなく王とその子供たちを捕らえて王の宝物を鹵獲すると、運命の流れの順調さに一層驚いた。さらに宝物と彼の兵士が輸送されてイタリアへと速やかに渡ると、彼は事の全てが彼が予想した以上に幸運に終わりつつあるという事実に完全に困惑してしまった。しかし皆が彼と共に喜んで彼の幸運を祝うと、彼は運命からの何か災厄がもたらされることを何にも増して悟った。したがって神にこの逆転が国家に何の作用も与えないように、いやむしろ何か苦難を歩ませるのが神の喜びであるのが確実であれば、その重荷が自分に降り懸かるようにと懇願した。したがって彼の息子たちに降り懸かったこの不運な出来事が起こるや否や、それは彼にとっては深い悲しみであった一方、国家とその懸案事項については運命は後ずさりして悪意を今や一市民である彼自身の身の上に向けたことに安心した。〔アエミリウスの演説はここまで〕以上のように言うと、皆が彼の精神の偉大さに驚嘆し、彼の被害への共感が時を追うごとに増し加えられた。
12 ペルセウス王の敗北の後にエウメネスは予期せぬ大逆転〔ローマからの支持の喪失(N)〕を経験した。というのも今や彼に最も敵対していた王国が倒れて自分の支配域が無事確保されたと彼が思っていた一方、この時に彼は非常に深刻な危機にむけてひた走ることになった。なるほど運命は無事保たれているように見えるような組織を覆すものであるし、ひとたび彼女が一人の人間に手を貸して助けたとしても、移り変わらせることで釣り合いを矯正し、かくして成功への支持を損なわせるものなのだ。
13 野蛮なるガリア人の将軍は追撃から戻ってくると捕虜を集め、まったく非人間的で横柄な行動をした。見目麗しく人生の花盛りにあった捕虜たちに彼は花輪をかぶせて神々への犠牲に捧げた。それもこれもこのような生け贄を受ける神がいたとすれば、の話だが。残りの全員を彼は射殺し、この捕虜たちの多くは以前に友誼を交わした際には彼と知り合いだったにもかかわらず、誰一人友情の報いとしての慈悲を受けなかった。しかし、予期せぬ成功の高ぶりにあってのこのような野蛮人が非人間的な振る舞いによって幸運を祝うというのは実際には驚くべきことではない。
14 傭兵軍を雇い入れると、エウメネスは彼らの全員に給料を払っただけでなく、その一部を贈り物で讃えて彼ら全員を約束で喜ばせ、彼らの好意を喚起した。この点で彼はペルセウスとは似ても似つかなかった。というのも、ペルセウスは二〇〇〇〇人のガリア人が対ローマ戦争で彼に協力するために来た時、自分の富を節約するためにこの同盟軍の大部隊を疎んじたからだ。しかしそれほど金持ちではなかったにもかかわらずエウメネスは外人部隊を徴募した時には彼に提供できる限りの全ての贈り物で讃えた。したがって前者は王らしくなければ気前が良い方針でもない、そして恥ずべき卑しいしみったれた施策を採用することで自分が守った富が王国全体もろとも分捕られるのを見ることになった一方で、後者は勝利のために全てのことを二の次にしたために王国を多大な危機から救っただけでなく、ガリア人の全部族を服属せしめたというわけだ。
15 ビテュニア王プルシアス〔二世〕は、上首尾にいっていた問題に対立をもたらした元老院と将軍たちを祝いに来た。この男の精神の卑しさを述べることなく過ぎるのは許されるべきではあるまい。というのも良き人の徳が賞賛されれば後の世代の多くの人は似た行き先へと励むように導かれ、卑しい人間の卑劣さが非難の的になれば悪の道を歩む少なからぬ人がそこを外れるからだ。したがって歴史の率直な物言いは意図的に世の中の改善のために寄与すべきであろう。
 プルシアスは王権に不相応な男であり、全生涯を通して絶えず自分の周りの連中の卑屈なごますりに付き合っていた。例えば、一度ローマの使節が訪れた時に彼は王の記章、冠と紫の服を脱ぎ、ローマで新たに解放された解放奴隷の真似をしながら頭を剃って白い帽子、トーガ、そしてローマ風の履き物を身につけて使節に会いに行った。彼らに挨拶すると、彼は自分はローマ人の解放奴隷だと宣言した。これ以上に卑しい発言は想像し難い。
 彼の他の以前の行動も今の行動も同様の性質のものであり、彼は元老院の議事室へ続く入り口に到着すると元老院議員たちの前で戸口に立ち、両手をついて頭を下げて敷居に口づけをし、席に着いた議員たちに「万歳、汝ら救いの神々よ」と言って挨拶し、こうして男らしからぬへつらいと女々しい振る舞いの他の追随を許さない深みをなした。このような振る舞いを続けながら彼は元老院の前で演説をし、その中で彼が述べたことは我々が記録する価値すらないような類のことだった。元老院は彼の話の大部分に不快になってプルシアスへの好ましからざる印象を形成したため、彼にそのお追従に相応しい答えを寄越した。というのもローマ人は彼らが征服した敵にすら高邁な精神と勇敢さを要求していたからだ。
15a ペトサラピスとも呼ばれ、プトレマイオスの「友人たち」の一人だったディオニュシオスは国家を牛耳ろうとし、王国に大きな危険をもたらした〔この出来事は他の記録がなく、プトレマイオス六世とプトレマイオス八世の共同統治の期間(紀元前169-164年)に起こったことなのかもしれない(N)。〕。彼は宮廷でこれ以上ないほどに影響力を振るい、戦場ではエジプト人同胞のうちに同輩を持たなかったため、両王をその若さと経験のなさの故に軽んじた。自分は年長の方の王〔六世〕によって近親の血を流すよう説得させられたと称し、彼は若い方のプトレマイオス〔八世〕への陰謀が実の兄によって企まれたものだと思わせようとして人々の間に噂を流した。人々は急いで競技場に集まり、自分たちには兄の方を殺して弟の方に王国を委ねる用意があるという口上を彼ら全員が叫ぶと、今や騒動での声が王宮にまで届くようになり、王は弟を呼び寄せて目に涙を浮かべて自らの潔白を弁明し、王権を聾断しようと企み彼らを物事に対処するには若すぎる者として扱う者〔ディオニュシオス〕を信用しないように訴えた。しかし目下、彼の弟は未だ疑いと心配を胸に抱いており、王冠と支配権を自分の手に寄越すよう兄に要求した。この若者はすぐに兄への疑いを晴らし、両者は王用の上着を身につけて人々の前に姿を現し、自分たちは協調しているとありとあらゆる人に宣言した。計画が失敗するとディオニュシオスは身の安全を手の届かないところに置き、反乱にうってつけの兵たちに言伝を送って自分と望みを分かち合おうと説き伏せた。それからエレウシスに撤退した彼は革命を支持することを決めた者全員を迎え、荒くれ者の強者の部隊およそ四〇〇〇人が集まり…〔欠損〕…。王は彼らに向けて進撃して勝利し、一部を殺して他の者は敗走させた。ディオニュシオスその人は流れる川を裸になって泳いで渡って内陸部へと退却し、そこで人々を反乱へと駆り立てようとした。彼は活発な男でもあり、エジプト人の人気を得るや否や自分と幸運を分け合いたがる多くの人々を徴募した。
16 アンティオコス〔四世〕の事業と行動のあるものは王者らしくまったくもって賞賛されるべきものであった一方で、他のものはその分だけ取るに足らず下劣な、それこそ全ての人の完全な軽蔑を彼に招くようなことであった。例えば、自分の競技祭〔アンティオケイア近くのダフネでの競技祭(N)〕を開催した際に彼は手始めに他の王の施策とは正反対の施策を採用した。彼らは武器と富の両方で王国を強大にした一方で、ローマの優越性をはばかってできる限り自分の意図を隠した。しかし彼は逆の方策を採りもし、彼の祝祭に世界のほぼ全土から最も優れた人たちを呼び寄せて自分の都の全体を豪勢に飾って彼らを一カ所に集め、いわば自分の王国全土を舞台として彼に関わることは何であれ彼らに知られずにおかないようにした。
 気前の良い競技祭とこの驚くべき祝祭を開くにあたってアンティオコスはこれ以前の全ての競争者を上回った。彼にとっては自分で事を管理するのはみすぼらしい仕事で、軽蔑の的ですらあった。例えば、彼は哀れっぽい様の馬の行列のそばで馬に乗り、家来たちに進んだり止まったりするよう命じ、必要な折りには他の者たちをこれら〔の馬〕の持ち場に割り当てた。したがって冠によっても彼のことをまだ知らない者は、彼の姿が普通の属官のそれですらないのを見てはこの人が王であり全土の主だと信じるにいたった。酒宴で出入り口に陣取った彼は幾人かの客を席に、他の客はそれぞれの場所に導き、相伴に与る随行者たちに場所を割り当てた。同じ気分を持ち続けながら彼は時折宴の客たちに近づき、時には座ったりもたれかかったりした。それから杯を下げさせて食べ残しを投げ捨てると、彼は飛び跳ねて動き回り、会場の全体を回って立ったまま乾杯したり芸人とじゃれあったりした。現にひとたびお祭り騒ぎがたけなわになって客の大部分がすでに去るや彼は登場し、厚着をしながら物真似の列に入って混じった。仲間の俳優の近くで地べたにいて、音楽の合図が発せられるや否や彼は裸足で飛び跳ね、物真似で茶化しながら笑いやせせら笑いをいつも起こすような類の踊りをし、大いに困惑した同席者たちは皆急いで宴から出ていった。事実、支出の浪費ぶりと競技祭と行列の全般的な管理運営のことを考えれば、この祭に参列した各々の人たちは仰天して王と王国の両方を讃えた。しかし参列者は王自身のことと彼の受け入れ難い振る舞いに注意を向けると、これほどの見事さと品のなさが同一の人格の中に存在できようとは信じられなかった。
17 競技祭が終わった後、グラックス〔ティベリウス・センプロニウス・グラックス(N)〕の使節団が王国を調査するためにやってきた。王が彼らと親しげに会話を交わした結果、彼らは陰謀の兆しも、彼がエジプトで受けたすげない拒絶の後にはひっそりと存在しているはずだと予期される敵意を示すことは何も見いださなかった。しかし彼の真の施策は見かけ通りのものではなく、むしろ彼はローマ人に対して根深い不満を持っていた。
17a アルメニア王アルタクセス〔他の歴史家たちによればアルタクシアス〕はアンティオコスから離反し、自らの名にちなんだ都市〔アルタクサタ〕を建設して強力な軍隊を集めた。この時代の勢力は他のどの王も歯が立たないものであったアンティオコスは彼に向けて進撃して勝利し、これを服属させた。
17 その上テバイスでもう一つの反乱が起こり、反乱の風潮が王宮に染み込んできた。彼らに向けて軍勢を動かしたプトレマイオス王は易々とテバイスの残りの支配権を取り戻した。しかしパノンポリスとして知られる都市は土手の上に立てられており、このためにその難攻不落ぶりが確実なものだとみなされていた。プトレマイオスはエジプト人の自棄とその場所の強固さ〔「を見て取ると?」(N)〕包囲の準備をし、ありとあらゆる艱難辛苦を経た後にその都市を占領した。それから彼は首謀者らを罰してアレクサンドレイアへと戻った。




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