30巻→ディオドロス『歴史叢書』31巻(断片)→32巻

1 アンティオコスはエジプトの王位を奪う考えは彼の過度な軍備の本意ではなく、年長のプトレマイオス〔六世〕が相続の権利によって得た地位を確実なものにするのを支援するのが唯一の動機であると主張し、当初は好調に進軍した〔この記事は第六次シリア戦争(紀元前170-168年)のことを指している(N)。原因はつまびらかではないが、プトレマイオス六世の二人の摂政エウライオスとレナイオスがシュリアに宣戦したことで始まった。エジプトに遠征したアンティオコスは169年までにエジプトの要衝ペルシオンを占領し、プトレマイオス六世を傀儡とした。しかしエジプト人はプトレマイオス六世の弟のプトレマイオス八世を担ぎ上げて抗戦し、アレクサンドレイア包囲に失敗したアンティオコスはエジプトから撤退した。しかし件度朝来捲土重を期したアンティオコスは再びエジプトに攻め込むと、エジプト人はローマに助けを求め、ローマとの敵対を恐れたアンティオコスはエジプトから再び撤退した。この章の話はアンティオコスの第二次遠征についてのことであろう。〕。これは真実ではなく、逆に彼は青年たちの争いの議長になって好意を得ることで戦わずしてエジプトを征服しようと考えていた。しかし運命が彼の公言を試して彼が主張した口実を彼から奪い取ると、彼は名誉を利得よりも重要だと見なさない多くの君主の一人であることを明らかにした。
2 ローマ人が接触するとアンティオコスは彼らを言葉の上で遠くから歓迎した後、歓迎の時に手を伸ばした。しかし元老院の命が記された文書を携えていたポピリウス〔ガイウス・ポピリウス・ラエナス〕はそれを出してアンティオコスに読むよう命じた。かくしてこの行為の目的は、実際のところ王が友であるか敵であるかが決定できるほど明らかになるまで王の手を友情を込めて握ることを避けるだったと考えられていた。王がその文書を読んだ後にそれらの問題について友人たちと相談したいと言うと、これを聞いたポピリウスは度を超して攻撃的で横柄と思われるような仕方で振る舞った。すでに手に持っていた葡萄の枝を使ってアンティオコスの周りに線を引き、その円の中で答えるよう命じた。王は起こったことに仰天し、そしてまたローマの威厳と力に恐れをなして希望のない困惑に陥り、自分はローマ人の提案の全てを実行すると熟慮の上で述べた。ポピリウスと彼の同僚たちはそれから彼の手を取って心から挨拶をした。さて彼はすぐにプトレマイオスに対する戦争を中断すべきというのがその手紙の要旨であった。これらの命令に従い、ローマの優勢な力に恐れをなし、その上マケドニアの崩壊の知らせを丁度受け取っていた王はエジプトから軍を撤退させた。なるほど起こった出来事を知らなければ、彼は決して自分からその布告に耳を傾けはしなかったことだろう。
3 古賢の言うように、許しは復讐よりも好ましいということは一見して真実である〔この節はロドス人を弁護するカトーの演説の一部らしい(N)〕。実際、我々は皆、持てる力を穏健に使う者に賛同し、手中に落ちた人をすぐに罰する人を咎めるものである。したがって我々は以下のことを見て取りもするだろう。すなわち、前者の類の人たちは運命の奇襲への用意ができており、好意の豊かな蓄えは情け深かく扱った人たちの心の中に蓄えられるが、後者の人たちは自分がひっくり返される時はいつであっても自分が冷酷に扱った人たちから復讐を受けるだけでなく、倒れ落ちた人に一般的に認められるような慈悲から自らを締め出してしまったことを見て取るだろう。なるほど、他者への思いやりの一切を否定した者が一転して躓いて倒れた時、彼に対して力を持つ人たちから顧慮を受けられようはずがないということはもっともなことであろう。それでも多くの人は敵に復讐する際の厳しさということを、了見違いであるにもかかわらず自慢するほどに向こう見ずである。というのも、倒れて我々の力の下に自らを投げ出した人に癒し難い災難を与えることにどんな立派で偉大なことがあろうか? もし繁栄の中で我々が横柄に振る舞って以前に持っていた正当な名声が幸運に相応しくないことを自ら示すことで打ち消すならば、勝利は我々にどんな益をもたらすだろうか? 立派な行いで得られる栄誉は出来事を支配しようと望む者の最高の報償であると正当にも考えられているが、このことは確実なことである。このようになっている以上、ほとんど全ての人が最初に彼らが明言する原則の真実性と有用性を認めている一方で、彼らの意見を試して裏付ける段になるとそうでなくなるのは驚くべきことである。知性ある人たちならば食卓はひっくり返されうるということをとりわけ勝利の絶頂期に心にとどめるであろうが故に、私が主張する本来の筋道というのは勇気によって敵を征しようとも賢明さによって運命の犠牲者に慈悲を与えることだろうということである。これはいくらかの人の、とりわけ帝国の代表者の影響を大いに増大させる。それというのも力を失った人は自発的な忠誠を生み出すことで熱心な奉仕をし、全てのことにおける忠実な協力者であるからだ。
 この原則を明らかにローマ人はしっかりと心に留めていた。彼らは考慮の際には政治家然としており、彼らが破った人たちの力を顧慮することでその顧慮を受けた人たちの内在的な感謝と残りの人類からの当然の賞賛を得ようとした。
4 運命の潮流が自分たちに味方して強く流れるようになって以来、ローマ人は成功にあってどう行動すべきかに注意深く目を向けるようになっていた。多くの人は勝利の正しい使用は武器の力で敵を屈服させるよりも簡単だと考えている。実際のところこれは真実ではなく、というのも戦いで勇敢な人は繁栄の時期にあって人道的な人よりも数多く見受けられるからだ。
5 丁度この時にトラキア人からの使節団が彼らに対してなされていた申し立てへの潔白を示すためにローマに到着した。それというのも、ペルセウスとの戦争中に彼らはこの王に共感を寄せてローマとの友情に不義理をしたと信じられていたからだ。使節派遣の目的を全く成し遂げられなかったために彼らは心が折れ、涙を浮かべながら請願した。軍団副官の一人アントニウスによって元老院の前に導かれると、フィロフロンが代表団のために最初に、次いでアステュメデスが話した。彼らは長々と慈悲と許しを請い、最後に見事な演説をした後に彼らができたのは返答を引き出すことだけだった。なるほど、彼らは申し立てられた告発内容のために手ひどい叱責を受けはしたものの、これは彼らを最も恐れるものから解放した。
 この時にロドス人の使節が彼らに対してなされた申し立てへの潔白を示すためにローマに到着した。それというのも、ペルセウスとの戦争で彼らの共感はその王に傾き、ローマとの友情に不実だったと信じられていたからだ。使節団が自分たちの受けた冷淡な扱いに気付いて落ち込み、そしてある法務官が民会を召集してロドス人との戦争を人々に訴えると、彼らは自分たちの国の完全な破滅を恐れて悲しみで意気消沈し、友人たちへの訴えにおいてはもはや弁護人や原告として話すことをせず、涙ながらにロドス人にとって致命的な施策を採用しないようにと求めた。彼らは軍団副官の一人によって元老院の前に導かれ、同じ人物は演壇から戦争を訴えていた法務官〔外国人係法務官(praetor peregrinus)のマルクス・ユウェンティウス・タルナ〕を引っ張り出し……演説をした。多くの嘆願がなされて初めて彼らは応答をした。なるほどこれは完全な破滅の恐怖から彼らを解放しはしたが、彼らは特別の非難のために厳しい難詰の対象となった。
 この人たちは大変な嘆願と請願を申し出て、いわゆる白鳥の歌を見せた後に彼らができたのは彼らの恐怖を取り除く応答を引き出すことだけだった。
 今や彼らは自分たちの上にぶら下がっていた恐怖を免れたと考え、不快なことであろうとも他のあらゆることを快く行った。なるほど全般的な規則として、予期される被害の重大さのおかげで人はより少ない不幸を小さいものと考えるものだ。
6 ここでローマ人の中で秀でた人たちは互いに栄光を競うものと見られるべきであり、彼らの努力によって人々に対する主要な場合における有徳な全ての事柄が成功を収めた。別の言い方では、彼らは互いを嫉妬したが、ローマ人は同胞市民を称えた。その結果、共通の幸福の向上にあたっての互いへの競争によってローマ人は最も栄光ある成功を成し遂げた一方、他の人たちは比類なき名声を思い描いて互いの計画を妨害したため、彼らの国に被害を与えることになった。
7.1 およそ同じ頃、全ての地方から勝利への祝賀を捧げるための使節団がローマへと到着した。元老院は彼ら全員を快く受け入れ、短く立派な応答を各々に寄越して帰国させた。
8 以前にローマ人が当代で最も強大な君主であったアンティオコスとフィリッポスを破った時、彼らは復讐を控えて彼らに王国を保持するのを許しただけではなく、彼らを友人として受け入れることすらした。かくしてこの目下の折にも、ペルセウスとの繰り返された戦いと彼らが直面した多くの重大な危機にもかかわらず、今やついにマケドニア王国を制圧すると、全ての予想を裏切って彼らは占領した諸都市に自由を与えた。このことを予想した者はいなかっただけでなく、マケドニア人自身すらローマに対してなした多くの重大な攻撃を意識していたためにこのような配慮を受けることを期待していなかった。なるほど彼らの以前の誤ちが許されたため、彼らは、尤もなことであるが、慈悲や許しについての論議は遠からぬ後のために未だ棚上げされただけだと思った。
 しかしローマの元老院は敵意を抱くことなく寛大に、いくつかの場合には利益を顧慮すらして振る舞った。例えば、ペルセウスは彼らに継承された感謝の義務を負っており、制約を無視して不正な戦争での侵略者となっていたために捕らえられ、彼らは彼を捕虜にした後に「自由な軟禁」で確実に彼の罪よりも遙かに軽い罰を与えた。奴隷に落とされるのは全くもって正義に適うであろうマケドニアの人々は自由になり、敗者が嘆願するのを待たずに恩恵を施すほどにローマ人は気前が良く迅速だった。夷狄は彼らの寛大に値するという信念からというよりは、恩恵をもたらす行為の主導権を握って権力の時代にあって過度な自信を持つことを避けることがローマ人にとって適当であるという確信から、かつて服属させたイリュリア人にも同様に彼らは自治を認めた。
 元老院は、マケドニア人とイリュリア人は自由たるべきであり、彼らは以前に自分たちの王に納めていた税金の半分の額の税を支払うべきであると決定した。
 ローマ人の執政官で最も有能な将軍だったマルクス・アエミリウス〔正しくはルキウス・アエミリウス〕は、ペルセウスはローマ人に大義名分がなく、誓約を冒涜するような戦争を仕掛けたにもかかわらず「自由な軟禁」の下に捕虜のペルセウスを置いた。その上、ローマ人はペルセウスとの戦争の重大な危機に繰り返し直面してきたし、以前には彼の父フィッポスとアンティオコス大王と戦ってこれらを破り、彼らに王国を保持してローマの友情を享受することすら許す配慮を示していたという事実にもかかわらず、彼が占領されたマケドニアとイリュリアの諸都市の全てに自由を与えたことは誰も彼もを驚かせた。その結果、マケドニア人が無責任になったためにローマ人は彼らは慈悲には値しないと考え、ペルセウス共々ローマ人の手に収めた。逆に元老院は彼らを大目に見て寛大な精神で扱い、奴隷にする代わりに自由を与えた。似たようにして彼らは、ゲティオン王〔その他史料ではゲンティオス〕をペルセウスと一緒に捕虜にするという形でイリュリア人を扱った。したがって堂々と彼らに自由を贈り物として与えると、ローマ人は彼らに自分たちの王に以前に払っていた税の半分の税を払うよう命じた。
 彼らは元老院の中から一〇人の委員をマケドニアへと、五人をイリュリアへと送り、彼らはマルクス・アエミリウスと会談してマケドニア人の主要都市デメトリアスの城壁を解体し、アンブラキアをアイトリアから切り離し、マケドニアの卓越した人たちを連れて会議へと向かうことに合意した。そこで彼らは彼らに自由を与えて守備隊の撤収を宣言した。これに加えて一面では地域住民を抑圧から遠ざけ続けるために、もう一面ではマケドニアの支配権を得るのにこの富を使うことで後に誰かが革命を起こすのを防ぐために彼らは金山と銀山から上がる収益を〔マケドニアから〕切り離した。彼らは全域を四つの地区に分けた。第一の地区はネストス川とストリュモン川の間の地域、アブデラとマロネイアとアイノスを除くネストス以東の諸要塞とストリュモン以西の諸要塞、ヘラクレイア並びにビサルティカの全域から構成されており、第二の地区は東ではストリュモン川、西ではアクシオス川と呼ばれる川と境を接する地域で、第三の地区は西ではペネオス川、北ではベルノン山と境を接する地域とパイオニアのいくつかの地方をこれに加え、エデッサとベロイアという名高い都市を含む地域であり、第四であり最後の地区はベルノン山の向こう側の地域、エペイロスまで広がってイリュリアの地域であった。アンフィポリスが第一の、テッサロニケが第二の、ペラが第三の、ペラゴニアが第四のという風に四つの都市が四つの地区の主邑となり、四人の統治者がこれらに置かれて税はここに集められた。敵対する近隣諸部族のためにマケドニアの国境地帯には部隊が置かれた。
 それからアエミリウスは集まった群衆のために見事な競技祭と宴を開催した後、見つけた宝物を何であれローマへと送り、仲間の将軍たちを連れて彼その人が到着した時には凱旋で市内に入るように元老院から命じられた。まずアニキウス、そして艦隊司令官オクタウィウスがそれぞれ一日をかけて凱旋を祝ったが、非常に賢明だったアエミリウスは三日間祝った〔この順番は誤りであり、凱旋のファスティによればアエミリウスの凱旋式は11月28-30日、グナエウス・オクタウィウスは12月1日、ゲンティウスに対するルキウス・アニキウス・ガルスの凱旋式は翌年4月である(N)。〕。初日は浮き彫りの入った白い盾〔白盾隊(レウカスピデス)の盾とピュドナのトラキア人部隊の盾は輝く白い盾で目立っていた(N)。〕と青銅の盾を満載した一二〇〇台の荷車、突き槍、長槍、弓、そして投槍を乗せた三〇〇台の荷車の行列で始まり、戦争でのようにラッパ手がこれを先導した。他にも多くの武器もあり、様々な種類の武器が乗せられており、八〇〇の一揃いの装備が竿にかけられていた。二日目には一〇〇〇タラントンの鋳造された貨幣、二二〇〇タラントンの銀、大量の酒杯の行列と神々と人間の様々な像、多数の黄金の盾と見事な飾り板を載せた五〇〇台の荷車の行列が催された。三日目には白い牛が引く一二〇台の戦車、二二〇台の荷車に載せられた何タラントンもの黄金、宝石がはめられた一〇タラントンの黄金の鉢、一〇タラントンの値打ちのありとあらゆる金細工、長さが三ペキュスの二〇〇個の象牙、黄金と宝石で飾られた象牙の戦車、宝石がついた頬革と黄金で飾られて残りの馬具がつけられた戦闘状態の馬、花模様の覆いのついた黄金の長椅子、深紅の幕のついた黄金の輿の列が行われた。それからマケドニア人の不幸な王ペルセウスが二人の息子、一人の娘、二五〇人の家臣、様々な都市と君侯らによって提供された四〇〇個の花冠、残りの全てのものと一緒に続き、目のくらむような象牙の戦車に乗ったアエミリウスその人が続いた。
 アエミリウスは彼が見せた見せ物を心配して驚いた人たちに、適切な流儀で競技祭を行って適当な宴を催し、敵に対して良き戦術でもって軍を整列させるのに必要なのと同じ心の資質を呼び起こした。
9 マケドニア最後の王であり、ローマ人とはしばしば友好関係にあったが、小さからぬ軍で繰り返し彼らと戦いもしたペルセウスはついにアエミリウスに破れて捕らえられ、アエミリウスはこの勝利を見事な凱旋式で祝った。ペルセウスは平穏に生きるつもりがなかったにせよ、彼が見舞われた不運は彼の辛苦が作り事のように見えるほど甚だしいものであった。元老院が彼の受けるべき罰を決定する前に、市の法務官の一人が彼を彼の子供たちと一緒にアルバ〔イタリア中部のアルバ・フケンス〕の収容所へと投獄した。この監獄は地下深くにある牢で、九つの長椅子ほどの長さもない部屋であり、暗く、重罪の判決を受けてその場所に収容された多くの人たちから発せられる悪臭がしていたわけであるが、それはこの類のほとんどの人はその頃〔つまりペルセウスの投獄と時を同じくして〕に投獄されていたからだ。かくも狭い場所にかくも多くの人が閉じこめられたため、この惨めで哀れな人たちは獣のような体つきになり、彼らの食べ物と他の必要に関係するあらゆるものは全て汚らしく混じり合い、ほとんど耐えられないほどひどい悪臭がそこに近寄る人を襲った。七日間ペルセウスはそこに留まり、かくも哀れな窮状にあって彼は、臭い飯を食べていたこの上なく下品な状態の人たちからの救援すら請うほどだった。なるほど彼らは彼らもまたそれを分かち合っているところの彼の不運の大きさに心打たれて涙を流し、彼らが受け取ったものの一部を気前良く与えた。自害のための剣、首を吊るための輪縄、彼が望む通りにそれらを使う完全な自由が彼に投げ寄越された。しかし受難が死を是認する時であれ、不運を生命そのものとして被る者にとって他にこれほど甘美なものはない。そして元老院の指導者マルクス・アエミリウス〔ここのマルクス・アエミリウス・レピドゥスは紀元前179年から元老院の第一人者(princeps senatus)だった人だが、プルタルコス(アエミリウス, 37)はこの役をアエミリウス・パウルスに演じさせている(N)。〕が彼の原理原則と彼の国の公正の法の両方を守り、たとえ元老院が少なくとも勢力を横柄に乱用する者につきまとうネメシス女神を尊重することを人から脅かされていなかったとしても、〔アエミリウスが〕彼らを憤然と諭していなければ、最終的にペルセウスはそうした欠乏の下で死んだことだろう。結果としてペルセウスはより相応しい拘留の下に置かれ、元老院の親切心のために無駄な希望によって彼の以前の不運に相応しい最期を迎えることだけを持ち続けた。二年間命にしがみついた後、彼は自分の見張りについていた夷狄たちを咎めたせいで彼が睡眠不足で死ぬまで睡眠を阻害された。
10 マケドニア人の王国が高みにあった時、ファレロンのデメトリオスは『運命について』の論考で、あたかもその未来の真正の予言者であるかのように以下の見事な文言を適切にも物した。曰く「もし時間の限りのない拡大も多くの世代のことも考えず、ただ直近の過去五〇年さえ考えれば、あなたは運命の不可解さを悟ることだろう。五〇年前、もし神の誰かが未来を予言すれば、当時の人が住む世界ほぼ全域の主だったペルシア人の名が未だ生きながらえ、以前は無名だったマケドニア人が全土を支配することをペルシア人やペルシア人の王、マケドニア人やマケドニア人の王がその時に信じたとあなたは考えらるだろうか? しかしこれにもかかわらず、我々の生への彼女の予期できない結果、これと共にその変転によって我々の計算の裏をかき、見事であり予期せぬ出来事によって彼女の力を証明する運命の女神は、私の見解では今も同じ教訓ーーすなわち彼女はペルシア人の玉座にマケドニア人を座らせて彼女の心がマケドニア人から心変わりする時まで使えるようにと彼女の富を彼らに貸し与えたことーーを指し示している」我々が今関わっている時代にそれは成就した。したがって私はこの状況に適当な論評を加え、デメトリオスの文言、すなわち人間の着想を越えたこの言葉を思い起こさせることが自分の義務であると判断している。先の一五〇年間に何が起こるのかを彼は予言していたのである。




戻る