28巻→ディオドロス『歴史叢書』29巻(断片)→30巻

1 デリオンは聖域で、カルキスからはそう遠くなく……。したがって彼はローマとの戦争の口火を神殿冒涜行為で切ったために王はギリシア人から中傷され……そしてその頃にコリントスにいたフラミニヌスは全ての人々と神々に戦争での最初の攻撃が王によってなされたことへの証人となるよう呼びかけた〔アポロンの神域をアンティオコスの部隊が奇襲してローマ兵五〇〇人を皆殺しにした事件を指す(N)。〕。
2 アンティオコスはデメトリアスに越冬地を設営した。今や齢五〇を越していた彼は戦争の準備を怠ってある美しい処女と恋に落ち、彼女との婚儀を祝うのに時を空費しては見事な会合と祝祭を開催した。この行いによって彼は自らとその心身の破滅を招いただけでなく、軍の風紀を乱した。現に彼の兵士たちは冬の間中安楽で心地よく暮らして過ごした後、ひもじさに直面した時には乾きとその他の困難に耐えることができずに無様な振る舞いをした。その結果、ある者は病に倒れ、他の者は進軍中に落伍したため、隊列から広範囲に分散することになった。
3 テッサリア諸都市がローマ側につき、アンティオコス王はアジアの軍勢の到着が遅れており、さらにアイトリア人が怠慢で言い訳ばかりしていることを知ると、深く失望した。その結果、彼は自分が準備できていない戦争へとアイトリア同盟の力を頼んで踏み切るよう誘った人たちに憤慨した。しかし今や彼は逆の意見を持っていたハンニバルに対しては賞賛の念に満ち溢れ、自らの全ての希望を彼に託した。以前の彼は彼を疑いの目で見ていた一方で、今の彼はハンニバルを最も誠実な友とみなして全ての事柄で彼の忠告に従った。
4 アイトリア人からの使節が講和条約を論ずるためにやってくると、元老院はアイトリア人がローマ人の裁量の下に彼ら自身を置くか、銀一〇〇〇タラントンを即金でローマに支払うべきだと決定した。応答が過酷だったためにアイトリア人はこれらの要求の受け入れを拒否し、すっかり怯えて悲惨なほどの危機に自らがあることに気付いた。王への彼らの熱烈な支持が絶望的な困難へと彼らを投げ込んだのであり、彼らには苦境を脱するいかなる道もなかった。
5 敗北で落ち込んだアンティオコスはヨーロッパから撤退してアジアの防衛に集中しようと決意した。彼はリュシマケイアの住民に都市の一切合切を放棄してアジアの諸都市に居を求めるよう命じた。これは馬鹿げた計画で、彼はこれによってヨーロッパからアジアに軍を送るのを防ぐのに最も都合の良い位置にある都市を戦わずして敵に明け渡してしまったというのが普く持たれた意見だった。遺棄された都市を見つけるやスキピオ〔ルキウス・コルネリウス・スキピオ。アフリカヌスの兄。〕はそこを占領することで濡れ手に粟の成功を得たため、それらの出来事の成り行きはこの判断を全面的に裏付けるものであった。
6 戦争には十分な貯金が必要で、知られた諺にあるように資金は成功の姉妹であり、資金をよく提供される人は戦える男子に事欠くことはない〔この話はアンティオコスを対ローマ戦争にあたって激励する演説からの文言らしく、もしそうであれば二八巻の終わりないし二九巻の頭に置かれるものであろう(N)。〕。かくして、例えば最近カルタゴ人はローマ人を滅亡の瀬戸際まで追いつめはしたが、大きな戦いで勝利したのは市民軍ではなく、大勢の傭兵のおかげだった。事実、豊富な外人部隊は彼らを雇う側にとっては非常に有益で、敵にとっては非常に手強いものであり、雇い主が僅かな費用で自分たちのために戦う兵を呼び集められる一方で、市民兵はたとえ勝利しようともすぐに新手の敵対者の群と対峙させられる。市民軍の場合には一度の敗北が完全な破滅をもたらすが、傭兵の場合には何度彼らが負けても雇い主は資金が続く限り無傷の軍隊を維持できる。しかし、傭兵を雇うのはローマ人の習わしではないし、彼らは十分な資本を持ってもいない。
 一つの共通の規則として、兵士は彼らの指揮官の例に倣うものである。
 アンティオコスは彼自身の愚考に対する報いをすぐに積み上げることとなったために多大なる不運を対価にして成功にあって自らを顧みることを学んだ。
7 アンティオコスはローマ軍がアジアに渡ってきたことを知ると、ビュザンティオンのヘラクレイデスを和平を請うために執政官のもとへと送り、戦費の半分を支払ってランプサコス、スミュルナ、そしてこの争いの元だと考えられていたアレクサンドレイア〔トロアスのアレクサンドレイア〕を譲渡することを申し込んだ。アジアのギリシア諸都市については、実際には手始めに元老院に使節団を送ってそれらの独立への援助を呼び掛けた。
8 追加でアンティオコスは、プブリウス・スキピオが提案された和平を支持する場合に限って元老院の上役の一員だった彼にエウボイア滞在中に捕虜にしていた彼の息子を身代金なしでの返還と多額の金を差し出しを申し出た。息子の解放に関しては王に感謝するが「多額の金」は不要だとスキピオは応答したが、彼はこの親切のお返しとして今にローマと戦えば自分が武勇の例となることになるとアンティオコスに忠告した。しかしアンティオコスはローマの弁解の余地もないほどのむごさを見て取ると、彼の対案を拒絶した。
 望外の幸運に目を向けたアンティオコスはスキピオの息子を解放するのが利になると考えたため、彼を豪勢に飾りたてて送り返した。
10 アンティオコスは自棄になって戦うのを諦め、執政官に使節を送って自らの過ちへの許しを求めてどんな条件でも和平を受けることを認めた。執政官は公正な扱いというローマの伝統的な施策を保持し、兄弟のプブリウスの訴えに動かされて以下のような条件での和平を承認した。ローマ人の支持の下、王はヨーロッパとタウロスのこちら側の領土とそこに含まれる諸都市と民族を放棄すべし。王は象と軍船を引き渡し、五〇〇〇エウボイア・タラントンと算出された戦費の全額を支払うべし。彼はローマ人が指名する二〇人の人質と一緒にカルタゴ人ハンニバル、アイトリア人トアス並びにその他の者たちを引き渡すべし。和平を渇望していたアンティオコスは全ての条件を受諾して矛を収めた。
9 アンティオコスの敗北の前、アイトリアからの使節団はローマで元老院を前にして彼らに差し迫ったことを言わず、ローマへの彼らの奉仕を長々と述べたてた。そこで元老院のある議員が立ち上がってアイトリア人はローマの人々の手に自らを投げ出すつもりか否かと使節たちに尋ねた。使節たちが回答を寄越さないでいると、元老院はアイトリア人が未だアンティオコスに希望を持ち続けているとみなし、彼らを手ぶらでギリシアに返した。
11 アンティオコスの敗北の後、都市とアジアの君主国の全てから使節が姿を現し、ある者は独立を訴え、他の者は対アンティオコス共同戦線でのローマへの彼らの奉仕への見返りを訴えた。元老院は皆にそうするもっともな理由があるとほのめかし、戦場の将軍たちと共に全ての問題の解決にあたる一〇人の代表団をアジアへと派遣することを知らせた。使節たちは帰国し、一〇人の代表団はまずスキピオとアエミリウス〔ルキウス・アエミリウス・レギルス〕と相談した後、タウロスのこちら側の領土と象はエウメネスに属し、カリアとリュキアはロドス人の領地に追加され、以前はエウメネス〔おそらくアッタロスの間違い(N)〕に朝貢していた諸都市はエウメネスに従属し、すでにアンティオコスに朝貢していた諸都市は全ての義務から解放されるべしと決定して宣言した。
12 前執政官のグナエウス・マンリウス〔紀元前189年の執政官グナエウス・マンリウス・ウルソ。アジアでの指揮権をスキピオから引き継いだ。〕はガラティア人からの使節から敵意を放棄するよう訴えられると、彼らの王が自ら自分の前に現れない限り自分は彼らと和平を結ぶつもりはないと答えた。
13 マンリウスはリュカオニアへと向かって当然受け取るべき穀物と、アンティオコスからの毎年一〇〇〇タラントンの支払いが合意で規定された金を受領した〔グナエウス・マンリウスは和平に先立ってすでに二五〇〇タラントンを受け取っており、ここでのマンリウスは彼の兄弟で、アンティオコスの宣誓を確認するためにシュリアに赴いたルキウスのことであろう(N)。〕。
14 その時にリグリアの同盟者の権利を侵害していた法務官のマルクス・フリウス〔マルクス・フリウス・クラシペス〕は然るべき罰を受けた。というのも彼は表向きは友人としてケノマニ族のもとへと彼らに対して何ら主張の根拠も持たずして赴き、彼らから武器を取り上げた。しかし執政官はこの事件を知ると、武器を返してマルクスに罰金を科した。
15 手元不如意になったアンティオコスはエリュマイスのベル神殿が金銀を大量に貯め込んでいるのを聞くと、そこを略奪して奉納品を分捕ることを決意した。彼はエリュマイスへと向かって敵対行動を働いたとしてそこの住民を咎めた後、神殿を略奪した。しかし彼は莫大な富を積み上げたにもかかわらず、神々からの罰を速やかに受けることになった。
16 フィリッポスは、テッサリア人が以前の主人の悪口を言いながら今やローマの好意によって予期せずして自由を得たのだといって彼らを咎めた。彼が言うには、マケドニアの太陽はまだ完全に沈んでいないことを彼らは知らない。このからかいはこれを聞いた人をフィリッポスがローマとの戦争を意図しているという疑いへと掻き立て、激怒した委員たちは、フィリッポスにはマケドニアのいかなる都市の保持も許可されるべきではないと宣言した。
17 ペロポネソス情勢はというと、アカイア同盟が総会を開催した際にローマの使節団が案内された。ラケダモンの諸砦を取り壊したこと、スパルタの支配権を得てラケダイモン人を同盟に加盟させた時にアカイア同盟が出した決議を元老院は遺憾に思っていると述べた。次いでエウメネスの使節団が案内され、彼は彼らに二〇タラントンを贈り、王はこの中からアカイア総会の成員たちへの支払いが行われるべしと考えた。しかしアカイア人は金の申し出を分不相応なものだとして断り、贈り物の受領を拒んだ。アカイア人がアンティオコス王と結んだ同盟の更新を求めてセレウコス〔四世〕からの使節団もやってきた。総会は同盟を更新して彼の贈り物を受け取った。
18 アカイア同盟の将軍フィロポイメンは才覚、知性、軍事、そして道徳でも際だった男であり、彼の長く続いた政治経歴は徹頭徹尾ケチのつけようのないものだった。彼は将軍職に再三再四任用され、四〇年間国事を指導した。彼は自らの政策を一般の人を親切に扱うために行っただけでなく人柄の力によってローマ人からの評判を勝ち得たため、彼ほどアカイア連邦の公益を押し進めた者はいなかった。彼が運命の冷酷さを悟ることとなったのは臨終の時になってようやくのことであった。しかし彼の死後、あたかも何らかの神意によるかのように、死に伴う不運の埋め合わせとして、神に捧げられるのと同等の栄誉を彼は得た。アカイア人が喜んで票決した彼の栄誉についての布告に加え、彼の生まれた都市は祭壇を立てて彼のために毎年犠牲を捧げるようになり、賛歌と彼の偉業への賛辞が市の若者たちによって歌われるように取り決めた。
19 全てのカルタゴ人の中で戦略の技量と事績の見事さで第一の人物だったハンニバルは兵に不満を抱かせたことがついぞなかった。逆に彼の賢明な先見性は彼をして協調、そして幅広く多様な言語が話されていたことで分断されていた調和の要素を保たせた。同様に、ちょっとしたことで腹を立てて敵に寝返るのが外人の兵の常だったにもかかわらず、このようなことを敢えて行う者は彼の指揮下にはいなかった。金や物資が乏しくなろうとも彼は常に大軍を維持していた。全てのことのうちでもっとも尋常ならざることは、彼のもとで働いた外人は彼への愛着においては市民に劣るところがなく、それどころか市民を遙かに凌駕していたことである。したがって自然の流れとして兵の見事な統御は見事な結果をもたらした。世界最強の軍事大国と事を構えた彼はおよそ一七年間にわたってイタリアを略奪し、全ての戦いで無敗であり続けた。彼が世界の支配者を破った行動は数多く偉大なものであったために彼によって引き起こされた災難は人々から彼と正面対決する大胆さを奪うほどだった。彼が占領して火を放った都市は数多く、イタリアの人口が数で勝っていようとも彼は男子の払底を彼らに知らしめた。これらの世界的に名高い偉業を彼は公費で成し遂げ、それは種々雑多な傭兵と外人の集まりだった軍勢をもってしてであったことは確実である。そして彼の敵手が共通の言語を共有していたおかげで対抗するのが難しい相手だとしても、彼個人の賢慮と将軍としての有能さが彼らに対する勝利を彼に与えた。どのような指揮官が軍に対して、どのような精神が身体に対して成功の立役者となるかという指南を全ての人が読み取ることであろう。
20 スキピオはまだ非常に年若かった時にヒスパニアでの事柄を驚くべき仕方で捌き、カルタゴ軍を打ち破った。そして彼は当時恐るべき危機にあった祖国を救った。というのも、彼は無敗のハンニバルを巧妙な計画をもってして会戦の危険を冒すことなくイタリアからの撤退へと追い込んだからだ。ついに大胆な戦略を駆使して彼は今まで不敗を誇っていたハンニバルを会戦で破り、かくしてカルタゴを屈服させた。
21 スキピオは彼の偉業のおかげで国家の権威と両立可能な限度を超えるほどの影響力を行使した。例えば、かつて苦痛に満ちた死に値する罪科があるとの告発を受けた際、彼の喋る番が回ってくると、当の告発者がそのおかげで自由にものを言う権利を享受できているところの人を票決にかけるのはローマ人に相応しからぬことだとしか話さなかった。全ての人民が彼の発言の力によって恥入ったためにすぐに会議はお開きになり、彼の告発者は見捨てられて独りぼっちになったために評判を落として帰宅する羽目になった。また他の折り、元老院での話し合いにおいて資金が必要になって財務官が国庫を開くことを拒んだ時、スキピオは、事実として財務官たちが国庫を閉められるのは自分のおかげだと言って彼自身がそれを行うために鍵を引き継いだ。別の折りにも、元老院の何人かの人たちが彼が部隊を維持するために受け取った資金の会計説明をするよう彼に要求した時、彼は説明ができると認めはしたものの、自分は他の人と同じような理由で調査に従うべきではないとそれを拒んだ。彼の告発者がその要求を強弁すると、彼は兄に元老院の議員のもとに帳面を持ってくるよう手紙を送り、それを細切れに引き裂いた後に切れ端から計算をしろと言った。それから他の元老院議員に向き直ると彼は、彼らはアンティオコスから受け取った三〇〇〇タラントンの会計説明を要求するのにどうやって彼らがヒスパニア、リビュア、それからアジアのほぼ全土の支配者となったのはなぜなのかを考えないのかと尋ねた。彼はこれ以上何も言わなかったが、彼の率直な物言いが持つ権威は告発者と残りの元老院を黙らせた。
28 山賊と逃亡者の巣窟だったケメレトゥム人の都市はローマの挑戦を受けた〔以下の出来事についてはアッピアノス『ローマ史』「ヒスパニアの戦争」, 42を参照〕。彼らはフルウィウスに使節団を派遣し、殺された各々の名の下で外套、短刀、馬を要求した。これが失敗すると彼らは戦争で脅して実行を迫った。フルウィウスは代表団を元気づけて彼らと痛みを分かち合い、彼自身は彼らの都市に向けて進み出てそこで彼らの遠征軍を前に立ちふさがった。有言実行を望んだ彼はすぐさま陣を畳み、使節団のすぐ後に続いた。
29 プトレマイオス〔五世〕王はなぜ彼に正当な権利があるはずのコイレ・シュリアを無視するのかと尋ねられると、自分はその問題をよくよく心に留めていると答えた。その友人が続けてどこで十分な遠征費用を見つけるのかと尋ねると、王は「ぶらつけばそこに余の財布がある」とその友人に答えた。
22 使節として送られてきたアジアの君候たちがローマに到着すると、アッタロスと彼の同伴者たちは暖かい歓待を受けた。彼らは恭しく市内へと護送されて豪勢な贈り物を贈られ、ありとあらゆる慇懃な扱いを受けた。なるほどこれらの君候はローマの確固たる友人であり、彼らは全ての事柄で元老院に服従し、その上彼らの王国に滞在したローマ人へのもてなしではこれ以上なく気前が良かったため、可能な限り最も立派な歓待を認められた。彼らのために元老院はこれら全ての使節団の言い分を聞いてやり、エウメネス〔二世。アッタロスの兄。〕を喜ばせるのに最大の配慮を払い、どんな犠牲を払ってでもファルナケスとの争いを解決するために元老院から成る委員団を送るつもりだと述べて彼らに好意的な応答を返した。
23 ファルナケスの将軍レオクリトスは絶えざる攻撃によってティオスの傭兵軍をついに降伏に追い込み、身の安全を保障するという休戦協定の下で護送してそこから去らせた。今や合意に則って市を退去することになった傭兵軍は過去にファルナケスに対して悪事を働いていた連中だった。ファルナケスから彼らを一人残らず殺すよう命じられていたレオクリトスは事ここに至りて休戦協定を反故にし、彼らがティオスを去る途上の彼らを襲って一人残らず矢で射殺した。
24 大軍を率いたセレウコス〔四世〕はファルナケスの支援の下であたかもタウロス山脈を越えるつもりであるかのように進軍した。しかし彼の父がローマ人と結んだ協定、そして……を禁じる条項を気にして……
25 この罪を犯してデメトリオスを殺害した者は神の正義の罰による報いを逃れられなかった〔マケドニア王フィリッポス五世が息子ペルセウスに唆されてペルセウスの弟デメトリオスを殺した事件〕。逆にでっち上げの告訴をこらしらえて彼らをローマから連れてきた者たちは王の不興を買って殺された。フィリポス自身はというと、最も出来の良い息子に対する無慈悲な罪のために残りの人生には夢と罪悪感への恐怖がつきまとった。癒し難い悲しみの重荷に屈して彼は二年も生き延びられなかった。ついに全ての悪事の首謀者たるペルセウスはローマに敗れてサモトラケに逃げたが、自分が「最も純粋なる神々」の嘆願者だという彼の主張は彼が強大に犯した獣のように無慈悲な行動で無効にされた。
26 法務官ティベリウス・グラックスはその戦争を厳しく告発した〔ここでの戦争とはケルティベリア戦争を指す。なお彼は有名なグラックス兄弟の父でもある。〕。なるほどまだ若者でありながら彼は勇気と知性で全ての同輩を凌ぎ、彼の能力は賞賛を集めてその将来への大きな希望を示しており、彼は同輩の間では甚だ際だった評判を博していた。
27 パトロヌスにもなった執政官アエミリウス〔おそらく紀元前180年に大神官(ポンティフェクス・マクシムス)になったマルクス・アエミリウス・レピドゥスを指す(N)。〕は高貴な生まれの眉目秀麗な男で、加えて優れた知性にも恵まれていた。その結果、彼の国が彼を高官総出で称えた一方で、彼の方はというと生涯を通じて人々の賞賛を得続け、死後も彼の国の繁栄に寄り添って良き名声を得た。
30 ペルセウスの政治的狙いは彼の父のそれと同じものだったが、ローマ人からこれを隠そうとしたために彼は父の同盟と友好の条約を更新するための使節団をローマへと派遣した。元老院は事の次第のほぼ全てに気付いていたにもかかわらず同盟を更新し、こうやって自分のために人を騙そうとした者を騙し返した。
31 我々の関心は恐怖と武力よりは敗者に対する寛容によって促進される。例えば、トアスが引き渡されて元老院が彼を掌中に収めた時、彼らは寛大に振る舞って彼を全ての告発から放免した。
32 アンティオコス〔四世〕は王位を継承した当初は外国の他の君主たちに対しては義侠心の強い生き方をしていた。当初、彼はしばしば廷臣に知らせることなく宮殿を抜け出しては一人二人のお供を連れて市のあたりをあてもなくぶらついた。次いで彼は一般人民との付き合いをやめ、ところかまわず最も卑しいような外国人のもとに滞在して酒を飲むのを威張るようになった。概してもし誰か若者たちが早い時間に集まっているのを知れば彼は突然横笛と他の楽器を持ってその一団のもとに現れたため、仰天したお客の平民のある者は回れ右して逃げ、他の者は言葉を失った。挙げ句の果てに彼は時折王の上着を脱ぎ捨ててトーガにくるまり、ローマの官職の志願者たちを見ると市民たちに近寄って言葉をかけて今は造営官職に、そしてまたある時は護民官職に自分に投票するよう頼んだ。選出されると彼は象牙の椅子に座り、通例の紛争事例についての相対立する意見にローマ風に耳を傾けた。彼はよくよく注意して熱心にこれをしたため、品のある全ての人は彼に対して困惑し、一部の人は彼の振るまいは野暮ったい単純化だと、他の人は馬鹿らしいことだと、またある人は狂気の沙汰だと言った。
33 アイトリアでの負債の帳消しはテッサリアの真似るところとなり、あらゆる都市で党派抗争と混乱が生じた。元老院はペルセウスがこの騒動の元だと思い、元老院は彼に対する他の全ての訴状を取り下げる代わりにトラキア人アブルポリスの王位からの駆逐がペルセウスが是正すべき行動だと彼の使節団に報告した。
34 ペルセウスの使節のハルパロスは応答を寄越さなかった。元老院はエウメネスに象牙の高官椅子に座る栄誉を許して彼に他にも友好の証を承認した後、彼をアジアへ向けて派遣した。
 エウメネスの生命に対する謀略の噂に続き、彼が死んで早々アッタロスが王妃に言い寄りだしたとの噂がペルガモンに入ってきた。それでも帰路にあってこれを素知らぬエウメネスは兄弟に暖かく挨拶し、以前通り親しくした。




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