25巻→ディオドロス『歴史叢書』26巻(断片)→27巻

1 詩人も歴史家も、何らかの文芸の形式に通じたどんな人も彼の読者を全面的に満足させることはできない。それというのも人間本性は、完成の高い度合いに至ろうとも全ての人の是認を勝ち得て非難を避けることに成功することはまずないからだ。例えばフェイディアスは象牙像の制作で、プラクシテレスは石像制作で見事に感情を込める手法で他の全ての人からの称賛を受けており、アペレスとパラシオスは色を混ぜる実践技能のために絵画の技術の頂点に達した。仕事でこのような成功を得たそういった人たちのうち、全ての面での非難を越えた技術の成果を示すことができた人は未だかつていない。例えば、詩人のなかでホメロスより輝かしい者がいようか? 弁論家のなかでデモステネス以上の者は? アリステイデスとソロン以上に立派な生き方をした者は? 彼らの名声と才覚でさえ批判と誤りの証明で責められた。それというのも専門技能で優秀であろうとも、所詮彼らは人間でしかなく、人間のもろさのせいで多くの過ちを犯すからだ。さて嫉妬心と些末な知恵に満ち、業績で秀でた全ての人を斥けるが、歪曲やもっともらしい非難は何であれしつこく賞賛するような取るに足らない連中がいる。彼らはこうやって他の人たちを批判することで自らの技能を高めようと望んでいるが、才能のなさに気付けないことは外面的な影響の結果ではなく、むしろ逆にあらゆる才能はそれ自体で判断されるものである。我々はかように愚かな精神が他の人を罵ることで自分のために名を上げようと試みて下らないことに費やす勤勉さにいたく驚嘆するだろう。蓋し、霜と雪が若く見事な作物を枯らすのと同じくらい、迂闊に悶着を起こすのはいくらかの人たちにとっては非常に自然なことである。なるほど、雪の眩しい白さで目がかすんではっきりした視界が失われるように、何ら注目されるようなことを成し遂げる気もなくできもせず、したがって他の人の功業を謗ることを目指す人がいるものである。それ故に良き理解力を持つ人は、勤勉な努力によって成功を勝ち得た人をその立派さの故に讃えるが、あまり成功していない人の短所をあら探ししようとはしないものである。悪口を言う者についてはこのくらいにしておこう。
2 ハンニバルは生まれながらの戦士であり、少年の頃から戦争の現場で育てられて偉大な指導者たちの友として戦場で多くの歳月を費やしたため、戦争と戦闘に通暁することになった。その上、自然から彼は賢慮をふんだんに与えられ、長年の戦争の訓練によって指揮の能力を得たために今や彼は功業を大いに希望するに至った。
3 独裁官ファビウスの賢明な方策への対抗手段としてハンニバルは度々彼に会戦を挑んでは臆病を嘲ることで戦いを決意させようとした。彼が動かないでいると、ローマの民衆は独裁官を「従僕」(1)と呼んで批判し始め、臆病さをなじった。しかしファビウスは冷静沈着にこれらの嘲りに耐えた。
 良い陸上競技者のように彼〔ファビウス〕は長い訓練の後にのみ、そして経験と力を大いに得た時に競技に入った。
 ひとたびミヌキウスがハンニバルに負かされると、この全面的な失敗は彼の愚かさと無経験の結果だったが、ファビウスは賢明さと戦略家としての能力によって安全への冷静な顧慮を徹底的に示したとその出来事の後に誰もが結論した。
4 ペリントスのメノドトスは一五巻本の『ギリシア史論』を書いた。エリスのソシュロスは七巻本の『ハンニバルの歴史』を書いた。
5 ローマの軍団は五〇〇〇人の兵から構成される(2)
6 人は自然的に成功の旗の下へと集結するが、倒れた者の運命には攻撃に加わる。

 運命はその本性上変わりやすいものであり、我々の状況の逆転を速やかにもたらすだろう。
7 アイトリアの将軍ドリマコス(3)はドドナの神託所を略奪して内陣を除く神殿に火を放ったことで不敬虔な行いを犯すことになった。
8 ロドスが大地震によって打ち倒されると、シュラクサイのヒエロンは市壁の再建のために六タラントンの銀を与え、その金に加えて多くの銀の立派な容器を与え、穀物輸送船に関税支払いを免除した(4)
9 今テッサリアのフィリッポポリスと呼ばれている都市は以前はフティオティスのテーバイと呼ばれていた(5)
10 反乱についての提議がカプアの民会に提出されて取るべき行動方針が議論されると、カプア人はパンキュルス・パウクスなる者に自分の意見を話すことを許した。ハンニバルへの恐怖で気が動転していた彼は同胞市民にある誓約をした。曰く、もしローマ人にとっての好機がまだ百に一つもあれば、自分はカルタゴ人の側につくつもりはないが、実際は敵の優勢が甚だしく危機は門のすぐ手前に立っているので、彼らはこの優勢に否応なしに屈服せざるを得ない、と。このようにして皆がカルタゴ人と力を合わせることに同意し……。
11 ハンニバルの軍がしばしの間カンパニアの富の全てを貪欲なまでに分捕った後、彼らの生き方の全体が逆転した。絶えざる奢侈、柔らかな長椅子、そしてありとあらゆる種類の芳香と食べ物、惜しみのない豊富な全ての物が彼らの力と危険に堪え忍ぶいつもの能力を緩め、心身両方を柔弱で女々しい状態に陥れた。事実、人間本性は慣れない苦難の実行や粗食を嫌々でなければ受け入れないものである一方で、安逸と奢侈の生活は喜んでしたがるものだ。
12 今やこのように世論の重みが物差しをひっくり返したので諸都市(6)はもがき転がることになった。

 友人の善意すら変化しつつある状況によっては変わるものであるように見える。

 良き人の徳は時には敵の間にすら栄誉を得させる。

 多くの女性、未婚の少女、そして自由民に生まれた少年たちは食料の欠乏のためにカプア軍に加わった。事実、戦争は時には平和な時代には高い権威をもって生きていた人たちに、彼らのたどった年月が免れさせていたような状況に耐えるよう強いるものである。
13 その行く先々で広範な破壊を加えると、ハンニバルはブルッティウムの諸都市も奪取し、その後にクロトンを占領し、レギオンを包囲しようと企てた。ヘラクレスの柱を西方を出発した彼はローマとネアポリスを除くローマ領の全域を屈服させ、戦火はクロトンまで及んだ。
14 残忍さと不実さ、そしてとりわけ横柄さを長々と論じ立ててローマ人を非難した後、ハンニバルは元老院を悩ませるために元老院議員の息子と親戚を選び出して殺した。
 ローマへの持ち前の深い敵意のためにハンニバルは適当な捕虜を選んで一騎打ちのために二人組を作らせた。彼は兄を弟と、父を息子と、親戚を親戚と戦わせた。なるほど、ここでフェニキア人の野蛮な残忍さを嫌悪し、ローマ人の慈悲深さとかくも悲惨な状態における断固とした忍耐を賞賛するのは正しい主張だろう。彼らは火と突き棒を向けられてこの上なく惨い折檻を受けたにもかかわらず、誰一人として近親に暴力を振るうのを良しとせず、近親での殺し合いの汚れを免れ続けたおかげで気高い愛情の発露を拷問のもとで示したのだから。
15 シケリアの支配者だったゲロンとヒエロンのシュラクサイでの死と十代の若者だったヒエロニュモスの王位への即位に際し、王国は有能な指導者を欠いたままになった(7)。若さの結果、ご機嫌伺いをするおべっか使いに囲まれ続けることで贅沢暮らしと放蕩、そして独裁的な残忍へと彼は堕落した。彼は女性に乱暴を働き、率直にものを言う友人たちを殺して即座に多くの地所を没収し、ごますり連中にそれらを与えた。この振る舞いの結果、まず人民の憎悪、次いで陰謀、そして最後に暴君に付き物の転落が起こった。
 ヒエロニュモスの死後、シュラクサイ人は集会を開き、僭主の家系を完全に根絶するために僭主の家族全員を処罰して男も女も等しく皆殺しにすることを票決した。
16 マゴはセンプロニウス(8)の遺体をハンニバルに送った。さて、兵士たちはその遺体を見ると大声を上げてそれを叩き切って少しずつ風に乗せて放り出すように要求した。しかしハンニバルは、物言わぬ遺体に腹いせをするのは適切ではないし、自分は運命の不確かさの証拠を前にしているのと同時にこの男の勇気への称賛に心打たれているのだと明言し、この死せる英雄のために豪勢な葬儀を許した。それから遺骨を集めて慇懃に扱うと、彼はこれをローマ軍の陣営に送り届けた。
17 カプアが二重の壁で完全に包囲されたことを知ると、この都市の占領は今や目前だったにもかかわらず、ローマの元老院は不変の敵対政策に固執しようとはしなかった。逆に類縁の絆によって彼らは、所定の期間以前に寝返った全カンパニア人は放免を認められるべしとの布告を発した。しかしカンパニア人は元老院の寛大な提案を拒絶してハンニバルから助けが来ると自らを騙していたため、後悔がどうにもなくなった時になってやっと後悔しだした。
18 [一人の男(9)の並びにこの発明のみならず他の多くの、そして偉大な発明に関する驚嘆すべき設計者としての天分、人間の住む世界の全土を覆ったその名声については、我々がアルキメデスの時代にさしかかった時に詳細で正確な説明を与えるつもりである。]
 高名で学識のある技師にして数学者、シュラクサイ人として生まれたアルキメデスはこの時には七五歳の老人だった。彼は多くの非凡な機械を作り、ある時には三つの滑車装置で左手だけを使って五〇〇〇〇メディムノスの重荷を積める商船を水面へと降ろした。その頃にローマの将軍マルケルスが陸と海からシュラクサイを攻撃すると、アルキメデスはまず機械装置を使って水上から敵の船を引っ張り出し、シュラクサイの城壁まで上げた後に人も何もかも海へと投げ落とした。次いでマルケルスが船を少し離すと、この老人は〔彼の考案した機械を使って〕シュラクサイ人誰も彼もが荷車ほどの大きさの石を上げて一挙に投げ降ろして船を沈められるようにした。この時にマルケルスが矢を飛ばしてくるカルタゴ艦隊から離れると、この老人は六角形の鏡を考案し、適切な距離のところに同じような小さい四角形の鏡を取り付けて金属の板と小さい蝶番で調節できるようにした。この装置で彼は夏も冬も正午の最盛期の太陽光を集め、ついにはこの太陽光の反射による恐ろしい焼けるような熱が船を発火させ、矢の射程外から彼は船を消し炭にした。こうしてこの老人は彼の発明品によってマルケルスを負かした。さらに彼はシュラクサイのドリス風の言い方(10)でいつもこう言っていた。「わしに立つ場所と操作棒を一本寄越してくれれば全世界を動かしてやるぞ」さてディオドロスの述べるところでは、シュラクサイ人は突如マルケルスに裏切られた時に、ディオによれば市民がアルテミスの夜の祭りを祝っていた時にローマ人の略奪を受け、この男は以下のような顛末で一人のローマ兵に殺された。彼が機械の図を夢中になって描いていた時にローマ兵が彼のところにやってきて戦争捕虜として引っ張っていこうとした。アルキメデスは図に没頭していて誰が自分を引っ張っているのか分からなかったためにその男に「わしの図から離れんかい!」と言った。それからその男がなおも彼を引っ張り続けていると、振り返って彼がローマ兵だと気付いたアルキメデスは叫んだ。「誰か、わしの機械の一つを早くここに!」そのローマ兵は怖くなってその場で彼を、この弱々しい老人を殺したが、不思議なことが起こった。マルケルスはこれを知るや否や嘆き、市の貴族と共に全ローマ軍が彼の父祖の墓で見事な葬儀を挙げた。私の思うところ、この殺人者を彼は斬首した。ディオとディオドロスがこの話を記録した。
19 歴史家ディオドロスはオロンテス河畔のアンティオケイアとシュラクサイを比較し、シュラクサイはテトラポリスだと述べた(11)
20 シュラクサイ陥落の後に住民が嘆願者としてマルケルスに訴え出てくると、彼は自由民として生まれた全ての人を解放するが全財産は戦利品として取り上げるよう命じた。

 占領後に貧困のために食料を入手できなくなっていたためにシュラクサイ人は奴隷になることに合意したため、売却された時に彼らは買い手から食料を受け取ることができた。したがって運命は破れたシュラクサイ人に、他の損失に加えて差し出された自由の代わりに自分から奴隷になることを選ぶというあまりにも嘆かわしい災難を与えた。
21 人質を解放することによってスキピオは一人の男の美徳が即座に民に王を押し付けられることを再三再四証明した(12)
22 ケルティベリア人インディベレス(13)はスキピオからの放免を得た後、好機がやってくると再び戦争への熱意を燃やした。なるほど、悪党に良くしてやる者は好意が無駄になるのに加え、実際にはしばしば敵を自分に対して立ち上がらせることになると了解する羽目になるものだ。
23 リビュア戦争(14)を集結させた後、カルタゴ人はミカタノイ族系のヌミディア人に報復を行い、捕らえた者全員を女子供を含めて磔にした。その結果、父祖譲りの残忍な心を持った彼らの子孫はカルタゴ人の不倶戴天の敵となった。
24 彼(15)はある男――無論ハスドルバルを意味する――の偉大な能力を記録せずにはいなかったどころか、逆にそれをはっきり主張した。バルカとあだ名されて当代で最も優れた人物であり、シケリア戦争でローマ軍を破った唯一の指導者で、内戦を集結させた後にヒスパニアを横断して軍を動かした最初の人だったハミルカルの息子がハスドルバルだった。このような父の息子らしくハスドルバルは自らが父の名声に値しないわけではないことを証明した。彼は兄ハンニバルの次に全カルタゴで立派な将軍だったということはあまねく認められており、このためにハンニバルはヒスパニアの軍の指揮権を彼に委ねた。彼はヒスパニア中で多くの戦いを戦って敗北の後にも軍を絶えず鍛え上げ、頻繁な数多くの危機を前にしても踏みとどまった。なるほど内陸へと追い出された後ですら、その卓越した人格的資質は彼が大軍を連れて来ることを可能とし、全ての予想に反して彼はイタリアへと向かったのだから。
 もしハスドルバルが運命の助けをも得ていたならば、ローマ人は彼とハンニバル両方との同時作戦を続けることができなかっただろうとあまねく認められている。これを理由として我々は彼の実績ではなく彼の狙いと事業に基づいて彼の能力を評価するべきである。それというのも、これらの資質は人間の統御を受けるものだが、彼らの行動の結果は運命の手にあるものだからだ。




(1)ハンニバルの後をつかず離れず追跡するファビウスが、自分が仕えている主人の子供の後に付き従っているように見えたため(N)。
(2)「ポリュビオス(3巻107章10-11)は一個軍団はおよそ四〇〇〇人の歩兵が定数だとしているが、非常時には五〇〇〇人で運用されたと述べている」(N)。
(3)「トリコニオンのドリマコスは、スコパスと共に同盟市戦争を起こし、アイトリア同盟とその同盟国を率いてピリッポス五世並びにアカイア同盟と戦った(紀元前220-217年)。この作品における配列にあたってここでディオドロスは、第3巻でカンナエの会戦(紀元前216年)までのハンニバル戦争を述べた後に第4・5巻でギリシア情勢に戻ったポリュビオスに倣っている。ドドナ襲撃についてはポリュビオス4巻67章1-4を参照」(N)。
(4)紀元前227年ないし翌年の出来事(N)。
(5)紀元前217年にピリッポス五世に占領され、改名されてマケドニア人が移住してきた(N)。
(6)カンナエの戦いとカプアの離反の後のイタリア諸都市であろう(N)。
(7)ヒエロンは紀元前215年初夏に、ヒエロンの息子ゲロンはその数か月後に死んだ。ゲロンの息子でヒエロンとピュロスの孫(ゲロンはピュロスの娘ネレイスと結婚していた)であるヒエロニュモスは当時15歳ほどで即位した。彼は15か月支配した。ポリュビオス(7.7)は彼を免責してはいないが、彼の罪は過度に誇張されていると述べている(N)。
(8)前者はハンニバルの弟、後者は解放を約束した奴隷軍団を率いて戦ったティベリウス・センプロニウス・グラックス(N)。
(9)アルキメデスを指す。
(10)シュラクサイはドリス系ギリシア人が建てた都市だったため。
(11)テトラポリスは四都市の意。シュラクサイ市はオルテュギア島、ネアポリス、アクラディネ、テュケの四つの区画から構成されており(N)、ここではシリアのセレウキス地方の四都市、すなわちアンティオケイア、セレウキア・ピエリア、アパメイア、ラオディケイアと比較されているのであろう。
(12)これはカルタゴ人が服属させたヒスパニア人の王たちから取っていた人質を新カルタゴを占領したスキピオが解放し、これによってヒスパニア諸王からの支持を得たという文脈での文言あろう(N)。
(13)エブロ川の北のイレルゲティ族の酋長で、新カルタゴ陥落の後に兄弟のマンドニウスと一緒にローマ側についた(N)。
(14)第一次ポエニ戦争後に起きた「傭兵戦争」のこと。
(15)ポリュビオスのことを指す(N)。




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