24巻→ディオドロス『歴史叢書』25巻(断片)→26巻

1 『主要な諸々の理論』と題された著作の中で哲学者エピクロスは、正しき生に憂いはない一方で不正な生では憂いの重荷を背負い込むことになると明言した。したがってこの短い一文に彼は真の知恵、さらにその上で概ね人間にある悪を矯正する力を包含させたわけである。それというのも不正は悪の首府であるためにそこの一市民だけでなく、集団として実際の民族と民衆、王たちにもに最大の不幸をもたらすからである。
2 カルタゴ人はシケリアを巡る大戦と危機に耐えてローマ人と二四年の間継続して戦争状態にあったにもかかわらず、彼らが悪事を働いた傭兵との戦争でもこれに劣らぬ大きな災難を経験した。外人部隊から然るべき給料の延滞分を騙し取った結果、彼らはあわや彼らの帝国、それどころか祖国すら失いそうになった。したがって騙された傭兵たちは突如反乱へと踏み切り、これによってカルタゴに切迫した苦難をもたらしたのである。

 イベリア人、ケルト人、バリアリデス諸島の人、リビュア人、フェニキア人、リグリア人、そして雑多なギリシア人奴隷がカルタゴ軍で働いており、彼らが反乱を起こした。
3 カルタゴ人は反乱軍に死者の遺体返還を交渉すべく使者を送った。スポンディウスとその他の指導者たちは彼らの増大した冷酷さのために埋葬の要望を拒んだだけでなく、同じ罰(1)がやってくる者にも待っていると脅していかなる事柄についてであれ今後再び使者を送ることを禁じた。また彼らは今後カルタゴ人の全ての捕虜は彼らと同じ罰を受け、フェニキア人の同盟者であれば両手を切り落としてカルタゴに送り返すと宣言しもした。かくして私が述べたこような無慈悲と残忍性のためにスポンディウスとその他の指導者たちはバルカの寛大路線の土台を崩すことに成功した。それというのもハミルカル自身は彼らの残忍さに追いつめられたために捕虜への思いやりを投げ捨て、彼の手に落ちた者に似たような罰を科すことを余儀なくされたからだ。したがって彼は捕虜になった者全員を拷問にかけてから象に向けて投げ、死ぬまで踏みつけさせるという厳罰を科した。

 ヒッポとウティカの住民は反旗を翻して城壁から守備隊の兵たちを投げ落とし、埋葬しないままにした。カルタゴから遺体を引き取るために使節団が来ると、彼らは埋葬の邪魔をした。
4 叛徒は食料の欠乏のために包囲しているのかされているのか分からないような状況に陥った(2)

 勇気において彼らは敵と完全に互角だったが、指導者の経験のなさではかなり不利だった。したがってここで再び、有能な将軍の判断力がいかに素人の未経験、兵卒の不合理な定常作業よりも重要であるかを実地経験の光の中で見ることが可能になる。
5 というのも、明らかに彼らの不敬虔な行いへのこの報いを彼らに課すのはより高位の力だったからだ。

 ハミルカルはスポンディウスを磔刑に処した。しかしマトはハンニバルを捕虜にすると、同じ十字架に彼をかけた。したがってそれはあたかも所定の目的の運命が成功と敗北を人道にもとる人たちに代わる代わる割り当てたかのようであった。

 その二都市(3)は最初の攻撃から慈悲や戒めの余地なく振る舞っていたために和解の交渉をするための根拠を持っていなかった。悪事を働く場合にすら、穏健さとぞっとするような振る舞いの抑制には大きな利点がある。
6 シケリア撤退の後、カルタゴ人の傭兵隊は以下のような理由で彼らに反旗を翻した。彼らはシケリアで死んだ馬と死んだ者のための多額の補償を要求し……そして彼らは四年と四ヶ月間続く戦争を起こした。彼らはローマ軍に対してシケリアで勇戦した将軍ハミルカル・バルカに殺戮された。
7 [この島(4)は穀物の豊富さで名高く、後にカルタゴ人が強勢になるとそれを欲しがって多くの戦いと立て続けの危機に直面した。しかし我々はそれらの問題をそれらが属する年代との関連の下で述べることにしたい。]
8 バルカとあだ名されたハミルカルはローマ人との戦争ではシケリアで、傭兵とリビュア人が蜂起してカルタゴを包囲した時のリビュアで、国のために多くの偉大な奉仕を行った。両戦争での彼の事績は際立っており、事件での彼の行動は賢明だったため、彼は全同胞市民から当然の賞賛を得た。しかし後にリビュア戦争が決着すると、彼は下層の人たちの政治党派を形成し、この元手と戦利品によって富を蓄えた。その上、成功によって自らの勢力が増大したのを見て取ると彼は人民を扇動して彼らの支持を得て、こうして人々のおかげでイベリア全土での無期限の軍指揮権を手中に収めた。
9 ケルト人〔傭兵〕は数倍の数で、果敢な精神と大胆な振る舞いで非常に思い上がっていたため、戦いでの彼らの態度は侮蔑的なものになり、バルカと彼の部下たちは彼らの数々の欠点を勇気と経験によって矯正しようとした。彼らの計画の堅実なることは普く同意されてはいたが、さりとて彼らの希望を越えて出来事の帰趨を司り、不可能に見えて危険に満ちていた事業に幸福を予期せぬ形でもたらすのは運命の女神であった。
10 ハミルカルはカルタゴを指導する地位につくとすぐに彼の国の支配領域を拡大し、それはヘラクレスの柱、ガデイラ【別名ガデス、今日のカディス〕の海まで、そして大洋にまで及んだ。この時のガデイラ市はフェニキア人の植民地で、人の住む世界の最果てに大洋に面して位置しており、船の停泊所を持っていた。ハミルカルはイベリア人とタルテッソス人、並びにイストラティオスとその兄弟に率いられたケルト人と戦争し、この兄弟と他の際だった指導者を含む全軍を切り殺した。彼は三〇〇〇人の生き残りを引き継いで軍に入隊させた。そこでインドルテスが五〇〇〇〇人の軍勢で挙兵したが、戦いが起こりもしないうちに逃亡してある丘に逃げ込んだ。そこでハミルカルに包囲された彼は夜陰に乗じて再び逃げたものの、軍の大部分は斬殺されてインドルテスその人は生け捕りになった。彼の両目をくり貫いて彼の身柄を手荒く扱った後、ハミルカルは彼を磔刑に処した。しかし数にして一〇〇〇〇人以上の残りの捕虜は解放した。彼は外交によって多くの都市を、軍事力によってその他多くの都市を獲得した。ハミルカルの義理の息子ハスドルバルはカルタゴ人に対して反旗を翻したヌミディア人との戦争に参加すべく義父によってカルタゴへと送られ、八〇〇〇人を切り殺して二〇〇〇人を生け捕りにした。以前には年貢を納めていた残りのヌミディア人は奴隷に落とされた。ハミルカルはというと、イベリア中の多くの都市を配下に納めた後に非常に大きな都市を建設し、その位置からアクラ・レウケ(5)と名付けた。ハミルカルはヘリケ市(6)の前で野営してそこを包囲していた時、彼自身が建設した都市だったアクラ・ケウケの越冬地へと軍と象の大部分を送り、残りは後に残した。しかしオリッシオイ族の王は包囲された都市の救援に来て友好と同盟の見せかけの申し込みによってハミルカルを撤退させるのに成功した。退却の際にハミルカルは他の道に方向を転じることで息子たちと友人たちの生命を助けようと企んだ。王に追いつかれると彼は馬に乗ったままある大きな川に飛び込んで川の中で馬の下で死んだが、ハンンバルとハスドルバルといった息子たちはアクラ・レウケへと無事たどり着いた。

 したがってハミルカルは我々の時代の何年も前に死んだにもかかわらず、彼に相応しい賞賛を墓標の形で歴史から得ることになった。
11 ハスドルバルは公正な扱いは武力より効果的であることを学んでいたために戦争より平和を好んでいた。

 都市の全域は〔ハミルカルの死の〕知らせでいつも落ち着かなくなり、広まったあらゆる噂が心変わりを起こさせ、不安が広まった。
12 ハミルカルの義理の息子ハスドルバルは親類の災難を知るや否や陣を畳んでアクラ・レウケへと向かった。彼は一〇〇頭以上の象を連れていた。軍並びにカルタゴ人から将軍として承認されると、彼は五〇〇〇〇人の慣れ親しんだ歩兵と六〇〇〇騎の騎兵、さらに二〇〇頭の象から成る軍を集めた。彼は手始めにオリッシオイ族の王と戦争をしてハミルカルの敗走の責任者を皆殺しにした。彼らの一二の都市とイベリアの全ての都市は彼の手に落ちた。イベリアの君候の娘との結婚の後、彼はイベリアの全ての人々によって無制限の権力を持った将軍に宣言された。そこで彼は沿岸に都市を建設して新カルタゴと呼んだ。後に彼はハミルカルを上回ろうとしてもう一つ都市を建設した。彼は六〇〇〇〇人の歩兵、八〇〇〇騎の騎兵、そして二〇〇頭の象の軍を有していた。彼の家内奴隷の一人が彼に陰謀を企て、彼は九年間指揮権を握った後に殺された。
13 ケルト人とガリア人は二〇万人の軍勢を集めるとローマ人と戦って最初の戦いで勝利した。二度目の攻撃で彼らは再び勝利し、ローマの執政官の一人を戦死させすらした(7)。かたや七〇万人の歩兵と七〇〇〇〇騎の騎兵を有していたローマ人は二度の敗戦の後、三度目の戦いで勝利した。彼らは四〇〇〇〇人の兵を殺して残りを捕虜にし、その結果、敵の酋長は自らの喉をかっ切り、彼の次代の酋長は生け捕りにされた。この偉業の後、今や前執政官になっていたアエミリウス【紀元前225年の執政官ルキウス・アエミリウス・パプス。〕はガリア人とケルト人の領地を荒らして多くの都市と要塞化された場所を落としてローマへと戦利品をふんだんに送った。
14 シュラクサイの王ヒエロンはローマ人を援助するためにケルト戦争の中に彼らに穀物を送り、戦争終結の後に代金を受け取った。
15 ハスドルバル暗殺以来、そこのカルタゴ人には指揮を執る者がおらず、彼らはハミルカルの長男ハンニバルを将軍に選んだ。ハンニバルによって包囲を受けたザカンタ(8)の人々は神聖な財物、家々にあった金銀、そして装飾品と耳飾り、女性たちの銀製品を集め、銅と一緒に溶かして合金にした。こうして黄金を役に立たなくすると彼らは出撃して英雄的な戦いをした後、多くの犠牲者を出させて全員が切り死にした。市の女たちは子供を殺して首を吊った。したがって市の占領はハンニバルに何の益ももたらさなかった。ローマ人はハンニバルの無法行為を裁くために彼を引き渡すよう要求し、これが拒まれると「ハンニバルの」戦争が勃発した。
16 カルタゴの議事堂でローマ人が送った使節団の長老者がトーガのすそを〔カルタゴの〕元老院に示し、自分は平和と戦争の両方を彼らに持ってきたのであり、カルタゴ人が望む方を残していくと言った。カルタゴ人のスフェスが望む方をせよと彼に命じると、彼は答えた。「私はあなた方に戦争を送ろう」直ちにカルタゴ人の多数派は受けて立つと大声を上げた。
17 ウィクトメラ(9)の人々は市を明け渡すよう強いられたため、最後の時を楽しむために妻子を〔家に〕帰した。なるほど、死を定められた男にとって、涙、家族と親戚との最後の別れの抱擁だけを取っておき、一見してそのように不幸で哀れな人が彼らの不運からいくらかの安楽を得る以上にどんな悦楽があるだろうか? そうすると、男たちの大部分は家に火を放って家財の全てを火に投じ、自身の財産の上に墓を立てた。さらに他の者たちはまず高邁な勇気でもって家族を殺し、それから敵の手にかかって死ぬより自害する方が好ましいと考えて自害した(10)
18 デメトリオスの息子アンティゴノス〔三世〕は彼(11)の後見人に指名されて一二年間、あるいはディオドロスによれば九年間マケドニアを支配した。
19 ディオドロス、ディオ、そしてハリカルナッソスのディオニュシオスの全員が一致するところでは、ハンニバルはシケロイ人の将軍で、ハミルカルの息子であった。このハミルカルはイベリア全土を征服したが、イベリア人の裏切りに遭って殺された。この折りに彼は全軍に逃げるよう命じ、息子たち――一五歳のハンニバル、一二歳のハスドルバル――が彼にしがみついて一緒に死にたがると、彼らを鞭で追い払って逃げていた他の者に合流させた。それから兜の羽根飾りと兜を頭から掲げてイベリア兵から彼だと認識された。ちょうどいたイベリア兵全員が彼に猛攻をかけると、逃げる兵たちは猶予を得て逃げ去った。ハミルカルは軍が無事なのを知るや否やきびすを返してイベリア兵による彼自身の敗北と戦ったが、彼らが方々から重圧をかけると彼は馬に激しく拍車をかけてイベロス川の水中へと飛び込んだ。彼が急ぐと誰かが彼を投げ槍で突いた。彼は溺死したが、遺体はイベリア兵に見つからなかった――それが彼の目的だったわけだが――それというのも遺体は水流で流されたからだ。この英雄的な男の息子ハンニバルはハミルカルの義理の息子の下で働き、そして彼と共に父の死への復讐のためにイベリア全土を荒らし回った。
 その間にアウソニア(12)のローマ人は多くの変転の後にシケロイ人を破り、何人たりとも剣を保持してはいけないという厳命を彼らに課した。二五歳のハンニバルは元老院や権威者と争わず、獰猛で勇ましい一〇〇人以上の若者を連れてイベリアを略奪することで暮らし、その間に彼は絶えず部隊の規模を増していった。給料や戦利品抜きで集められたにもかかわらずその数が数百を越えて数千、数万となると、ついに逞しい戦士の大軍勢が出来上がり、すぐさまこれはローマ人の知るところとなった。誰も彼もが陸海での戦争に参加し、七七〇〇〇人の強壮な男たちがシケロイ人を根こそぎ枝まで滅ぼそうと戦った。シケロイ人は自分たちを完全に滅ぼさないようハンニバルを思いとどまらせようとした。彼は話して怒鳴り散らして上記のローマ人を待つことなく攻撃したかったが、シケロイ人全員のうち一人だけを彼はイタリアへのアルペス山脈越えに同行させた。その通過は困難で、彼は切り立った崖に道を切り開き、六ヶ月かけてローマ軍と戦うに至った。様々な戦いで彼は多数のローマ兵を殺した。しかし彼は、後にアルペスを一五日で越えて強力な軍勢を率いてハンニバルに近づいていた弟のハスドルバルを待って見張り続けた。これを見つけるとローマ人は密かに攻撃をかけて彼を殺し、首を運んでハンニバルの足下へと投げ込んだ。愛する弟を正式に弔った後、ハンニバルは軍をカンナエでローマ軍に対陣させた(13)。ローマの将軍はパウルスとテレンティウスだった。カンナエはアプリアの平原で、ディオメデスがアルギュリッパ市、ギリシア風の呼び方ではアルゴス・ヒッペイオンを建設した場所である。この平原はかつてはダウニア人、その後にイアピュギア人、次いでサレンティア人、そして今日は全ての人がカラブリア人と呼ぶ人々のものであった。さらにカラブリア人とランゴバルド人(14)の境界で両者の間で大きな戦いが起こった。この恐ろしい戦いの際に凄まじい地震が起こり、山を真っ二つに割り、石が空から雨霰と降り注いだが、熱狂的に戦う戦士たちは何にも気付かなかった。最終的に多くのローマ人が戦いで倒れたため、将軍のハンニバルが〔ローマ軍の〕指揮官たちと他の優れた人たちの大量の指輪をシケリアへとった。ローマの高貴で卓越した婦人たちは市の神殿へと群がって嘆き悲しみ、彼女らの髪で像を清めた。その後、ローマ人の土地からは男が根こそぎにされて彼女らは奴隷と夷狄と交わったので、そのために彼らの民族の系図が消し去られることはなかった。この時にローマでは男子が完全に失われて何日もそのままになり、老人たちはこの上なく悲惨な災難を嘆き悲しみながら門の前に座り込み、近くを通る人に生き残りはいないのかと尋ねた。ローマがその時にはこれほどの悲運に見舞われたにもかかわらず、ハンニバルはそこを跡形もなく消し去る好機を逃し、勝利のために行動がのろくなってしまった示すことになり、ローマ人が再び徴兵軍を持つようになるまでハンニバルは飲酒とゆったりした暮らしをしていた。それから彼は三度ローマへの攻撃を躊躇したが、それというのも晴れた空から突如として激しい雹が降って暗闇が彼らの進路を閉ざしたからだ。後にハンニバルはシケロイ人からの嫉妬の目で見られるようになり、彼らが何も送って寄こさなかったために彼の食料は乏しくなり、ひとたび栄誉ある勝者になっていた彼自身は今や飢餓で打ち負かされてローマのスキピオによって敗走させられる羽目になり、彼はシケロイ人に恐るべき破滅の機会をもたらすことになった。彼は母国リビュアの土地で死ぬと考えていたが、彼自身はビテュニアのリビュッサと呼ばれる地で毒を飲んで死んだ。というのもハンニバルは「リビュアの土がハンニバルの遺体を覆うであろう」という神託を受けていたからだ。




(1)殺害と遺体を埋葬しないままにしておくこと。
(2)これは反乱軍によるカルタゴ包囲を指す(N)。
(3)ヒッポとウティカ。
(4)サルディニア島を指す。紀元前240年にカルタゴの傭兵がこの島で反乱を起こし、その二年後にローマはカルタゴにこの島の譲渡を強いた(N)。
(5)「白い砦」の意。
(6)ローマ人がイリキ(現エルチェ)と呼ぶ都市。
(7)ガイウス・アティリウス・レグルス。なお、ポリュビオスの記録では彼の死はローマ軍が勝利した紀元前225年のテラモンの戦いでのこととなっている(N)。
(8)サグントゥムの別名。
(9)リグリアのウィクトゥムラエのことか(N)。
(10)ウィクトゥムラエの陥落はトレビアの戦いの後の紀元前218/7年の冬(N)・
(11)フィリッポス五世。
(12)イタリアの別称。
(13)ハスドルバルの死は紀元前208年、カンナエの戦いは紀元前216年なので出来事の順序が逆。
(14)ランゴバルド人は6世紀にイタリアに侵入したので、ビザンツの抜粋者ツェツェスによる時代錯誤(N)。




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