22巻→ディオドロス『歴史叢書』23巻(断片)→24巻

1 シケリアは帝国の成長に大いに貢献することができる島であったために全ての島々のうちで最も名高い島である。
 ハンニバルの息子ハンノはシケリアへと向かい、リリュバイオンに軍を集めてソロスへと進軍した。彼は陸軍を市の近くに残して野営させ、その間に彼自身はカルタゴ人にすでに友好的だった市民を同盟者になるよう説き伏せた後、アクラガスへと向かってそこの砦を要塞化した。彼が野営地へと戻ると、ヒエロンから送られていた共同戦線について論じる使節がやってきた。それというのも彼らはローマ人が速やかにシケリアを出ていかなければ対ローマ戦争を行うために同盟を結んでいたからだ。双方がメッサナへと軍を動かすと、ヒエロンはカルキス山に野営し、カルタゴ軍はエウネスと呼ばれる場所に陸軍を野営させ、海軍はペロリアスと呼ばれる岬を占拠した。そして彼らはメッサナを絶えず包囲下に置き続けた。ローマ人はこれを知ると、アッピウス・クラウディウス(1)という名の執政官の一人を強力な軍勢と共に送り、彼は即座にレギオンへと向かった。彼はヒエロンとカルタゴ軍に包囲を取りやめるよう論じる使節団を派遣した。彼は加えて…〔欠落〕…しかし自分はヒエロンに対する戦争を行わないと公式に述べると約束を続けた。カマリナとゲラを荒らしてメッサナを無慈悲な仕方で奪取したマメルティニは正しい大儀でもって包囲されており、ローマ人は信義という言葉を口にして良き信義への最大限の軽蔑を見せつけた殺人者を保護すべきではないというのは確実であるが、もしかくも明らかな涜神者たちのためにかくも大きな戦争に突入するというのであれば、彼らは自分たちの利害の口実として危機にある人たちへの慈悲を弄しつつ、実はシケリアを欲しがっているということは全ての人類にとって明らかであろうとヒエロンは答えた。
2 フェニキア軍とローマ軍は海戦を戦った。その後、彼ら(2)は自分たちの前に横たわる戦争の大きさを考えて友好条約を論じるべく執政官に使者を送った。大いに話し合いがなされ、双方は辛辣な議論を交わした。フェニキア人はカルタゴ人が海を支配しているのにローマ人がシケリアへと敢えて渡ってきたことに実に驚いている、それというのももし彼らが友好関係を維持しなければ、ローマ人は海で手を洗うこともできないことは全ての人に明らかだからだと言った。ローマ人はというと、彼らの主張するところでは自分たちローマ人は師に常に勝ってきた弟子であるために、カルタゴ人は彼らに海の事柄に出しゃばることを教えなければよかったと忠告した。例えば、昔に彼らが長方形の盾を使っていた頃、青銅の丸い盾を使ってファランクス方陣を組んで戦っていたエトルリア人は彼らに同様の装備を採用するよう促し、その結果破れ去った(3)。その後再び、他の人々(4)がローマ人が今日使っているような盾を使って中隊制で戦えば、彼ら両方の真似をし、優れたやり方を導入させてくれた者を破った。ギリシア人から彼らは攻城装置と城壁を壊すための兵器の使用を学び、次いで師匠の都市に命令を押しつけるようになった。今、カルタゴ人は彼らに海戦を教えでもすればすぐに弟子が師よりも優れることになると見て取った。

 最初にローマ人は戦争で長方形の盾を使っていたが、後にエトルリア人が青銅の盾を使っているのを知ると、彼らはそれを真似し、かくしてエトルリア人を征服した。
3 両執政官(5)がメッサナへと渡航した後、カルタゴ人が自分を裏切って渡航を許したと考えたヒエロンはシュラクサイへと逃げた。しかしカルタゴ軍は戦ったが破れ、そして執政官はエケトラを包囲したが、多数の兵を失った後にメッサナへと撤退した。
4 両執政官はシケリアへと向かい、ハドラノン市を包囲してこれを力攻めで落とした。それから彼らがケントゥリパ市を包囲して「真鍮門」近くに野営した時、まずハライサの人々からの使節が到着した。次いで恐怖した他の諸都市も和平を求め、ローマ人に都市を引き渡すべく使節団を送った。それらの諸都市は六七を数えた。ローマ人はそれらの都市の軍を自軍に加えた後にヒエロンを包囲すべくシュラクサイへと進軍した。しかしヒエロンはシュラクサイ人の不満を知ると両執政官に和解を論じる使節を派遣し、カルタゴ人だけを敵とするつもりだったローマ人は快く合意して一五年間の和平を締結した。ローマ人は一五万ドラクマを受領し、ヒエロンは戦争捕虜の返還を条件としてシュラクサイ人、アクライ、レオンティノイ、メガラ、ヘロロン、ネエトン、そしてタウロメニオンといった彼に服属する諸都市の支配者として留まった。それらの事柄が起こっていた間、王を助けるべくハンニバルが海軍を連れてクシフォニアに到着したが、事の次第を知ると立ち去った。
 ローマ人はマケラとハドラノンの村を何日もの包囲の下に置き続けていたにもかかわらず、目的を何も遂げることなく退去した。
5 エゲスタ人は最初はカルタゴ人に服属していたものの、ローマ人に鞍替えした。ハリキュアイ人は似たような行動をとたが、イラロスとテュリトスとアスケロスを彼らは一度の包囲戦の後に落とした。しかしフェニキア人は彼らの忠誠を疑うようになって指導的な人たちをリリュバイオンへと人質として連れていき、彼らの穀物、葡萄酒、そしてその他の物資を運び去った。
6 喜劇詩人ピレモンは九七の劇を書いて九九年間(6)生きた。
7 アクラガスの包囲に取り組んだローマ軍は塹壕を掘って柵を築き、その兵力は一〇万を数えた。長きにわたる抗戦の後にフェニキア人はついにアクラガス市をローマ人に明け渡した。
8 アクラガス包囲の間、老ハンノは五〇〇〇〇人の歩兵、六〇〇〇騎の騎兵、そして六〇頭の象という大軍をリビュアからシケリアへと輸送した。歴史家であるアクラガスのフィリノスがこれを記録した。いずれにせよハンノはリリュバイオンから全軍を率いて進軍してヘラクレイアに到着し、その時にやってきた人たちが自分たちはヘルベッソスを彼に裏切って引き渡してみせると明言した。ハンノは二度戦って三〇〇〇人の歩兵、二〇〇騎の騎兵を失い、四〇〇〇人の捕虜を出し、八頭の象が殺されて三三頭が怪我で行動不能になった。

 エンテラも都市である。

 ハンノはより賢明な計画を採用し、一つの計略でもって不満分子と政敵の両方を叩き潰した。
9 六ヶ月の包囲戦の後ローマ軍はすでに述べたような仕方でアクラガスの支配者となって全ての人を奴隷にし、その数は二五〇〇〇人を越した。しかしローマ軍もまた歩兵三〇〇〇〇人と騎兵一五〇〇騎という損害を受けた。カルタゴ軍はハンノから市民権を剥奪して金貨六〇〇枚の罰金を科し、彼の代わりにハミルカルをシケリアへと司令官として送り出した。ローマ軍はミュティストラトスの包囲に向かって多くの攻城兵器を作ったが、多くの兵を失って七ヶ月後に手ぶらで去った。ハミルカルはテルマイでローマ軍と遭遇して会戦し、勝利してほぼ全軍にあたる六〇〇〇人の兵を殺した。マザリン砦(7)もローマ軍に落とされて人々は奴隷にされた。カルタゴ人ハミルカルは裏切り者の助けを得てカマリナを再び手中に収め、数日後に同様の仕方でエンナの主になった。ドレパノンを要塞化してその都市を発つと、彼は遠く離れたところのエリュクス人を立ち退かせて神殿の周りの地区を除いてエリュクスを破壊した。ローマ軍はミュティストラトスに三度目の包囲を行って占領し、これを徹底的に破壊して生き残った住民を戦利品として売り払った。次いで彼らはカマリナへと進軍して彼(8)がその傍らに野営したが、これを落とすことができなかった。しかし後にヒエロンに攻城兵器を求める手紙を送ると、彼はその都市を占領して住民のほとんどを売り払った。その直後、裏切り者の手引きで彼はエンナも占領し、そこの守備隊の一部は殺されて他の者は同盟国へと無事退去した。それから彼はシッタナへと進軍してこれを強襲によって落とした。そして他の諸都市のようにそこに守備隊を置くと、彼はアクラガスに属する砦のカミコスへと向かった。この地も彼は裏切りによって落とし、守備隊を置いた。この時までにヘルベッソスも放棄された。ハリュコス川まで…〔欠損〕…他のものについても…〔欠損〕…最も早く。
10 カルタゴ軍の将軍ハンニバルは海戦(9)で敗れ、敗北のために元老院から罰を受けるのではないかと恐れて以下のような策をめぐらした。彼は自分に好都合と思える命令を持たせて友人の一人を派遣した。この男が都市(10)へと帰投して元老院の前に連れられると、ハンニバルが二〇〇隻の艦隊でもって一二〇隻のローマ艦隊と戦うべきかどうか評議会に諮るよう自分に命じたと話した。彼らは賛同の声を上げて彼に戦うように言った。「よろしい」彼は言った。「ハンニバルが戦った理由は正当であった。我々はすでに敗れている。だが貴殿らがこれを命じた以上、彼は責を逃れることになるわけだ」かくしてハンニバルは同胞市民がその出来事の後に彼らの将軍を迫害しようとしているのを知ると、沖合で告発に対して先手を打ったわけである。
 先の数々の戦い以来、彼らは被った被害の責任で非難されており、彼らはこの海戦で傷つけられた声望を取り戻そうと躍起になった。
11 敗北(11)によってこれほどに心を打ち砕かれた者はカルタゴ人を措いて他にはいなかった。例えば彼らは陸へと停泊しつつあった敵の海軍を易々と撃破し、彼らの撃退すら企てた。ローマ人の三〇隻の船が岸に接近して戦闘隊形すらとっていなかった時には危険なく船と兵と全てのものを捕らえることができるはずだった(12)。もし彼らが平地に降りて互角の条件で戦って軍の大部分を行動に移させれば、彼らは易々と敵を凌駕していたことは確実だろう。代わりに彼らはたった一つのこと、即ち丘を占めることによる安全しか意図しておらず、過剰な警戒のために彼らの優位のいくつかを取りこぼして未経験のために他のことを認識し損なったため、手痛い敗北を被った。
12 カルタゴ人は大いに失望していたため、元老院は和平条件を協議すべく三人の高名な市民をアティリウスに使節として送った。その中ではハミルカルの息子ハンノが最も令名高い男であり、機に適った話をした後に彼は執政官に自分たちを穏健且つローマに相応しい流儀で扱うよう説いた。しかし成功で得意になって人間の運命の浮き沈みを等閑していたアティリウスは自分が作った奴隷にも劣らぬ内容の和平条件を命じた。彼らは陸でも海でも自由を守るために対抗できない以上は彼に感謝しつつ彼がする譲歩は何であれ贈り物として受け取るべきだと言った。しかしハンノと彼の仲間たちが彼に率直に彼らの意見を言い続けていると、アティリウスは横柄に脅しつけ、勇者はより強大な者を征服することも隷属させることもできると述べてできる限り早く立ち去るよう命じた。今やこのように行動することで執政官も彼の国の風習を守り損ねて神の報いに対して自衛し損ね、すぐに彼はその傲慢に相応しい罰を受けることになった。
13 さて全ての人は運に恵まれない時ほど神に気を配るが、しばしば勝利と成功の真っ直中には神々を神話ないし作り物として軽んじるものであるが、それでもなお負けるや早々と自然本来の敬虔へと逆戻りする。かくして特にカルタゴ人は今や彼らがぶら下げられている恐怖の大きさの故に長年しないでいた生け贄を捧げ、神々に捧げる栄誉を増加させた。
14 スパルタ人クサンティッポスは将軍たちに敵に向かって進むよう忠告し続けていた。彼が言うには、自分は彼らを説いて駆り立てつつも自分は危険を冒さずにいられるようにするためにこのようにしているのではなく、もし彼らがそのようにすれば、自分は勝利を得られることをすでに確信していることを知ってもらえるだろう、とのことであった。彼自身はというと、自分は攻撃を指揮して危機の真っ直中での勇気を見せつけるつもりだと言い加えた。
 戦いの間、スパルタ人クサンティッポスは馬に乗ったり降りたりして、逃げた歩兵を引き返させていた。しかしある人が馬の背で他の者に危険を冒すよう励ますのは簡単なことだと言うと、彼はすぐに馬から飛び降りて馬を家来に委ね、徒歩で進み出て兵たちに全軍に敗北と破滅をもたらさぬよう求めた。
15 覇権の地位にある人たちの施策について、その良し悪しに関わらず、歴史書の本来的な部分を通り過ぎるというのはよろしくないと我々は考えるものである。それというのも過ちへの非難によって同様の過ちへと靡きそうになる他の人たちは素直になるだろうし、気高い行いの賞賛によって多くの人の心は正しい行いへと促進させられるだろうからだ。公正に考えてアティリウスの愚劣さと尊大さを非難せずにいられる者がいようか? いわば成功の重荷をうまく背負えなかったことで彼は最高の名声を自らから奪い取って彼の国を酷い災難に陥れてしまった。彼はローマに有利でありカルタゴとって実に屈辱的な条件で講和し、さらに全ての人の間に寛大さと人間らしさの不朽の記憶を獲得するすることができたにもかかわらず、このようなことを勘定せずに敗者をあまりにも横柄に扱い、神々が義憤の声を上げ、破れた敵が度を超した苛烈さのために転向と抗戦へと追い立てられたほど過酷な条件を命じた。その結果、彼のせいで、以前は敗北に驚愕して身の安全を絶望視していたカルタゴ人が今や勇気への途へと向き直って敵軍を粉砕し、一方ローマ人はあまりにも破滅的な一撃受けたため、歩兵の戦いでは全世界で最高の名声を博していた者たちが機会があっても最早敵に戦いを挑まなくなるというという機運の逆転が起こった。したがって戦争は一貫して長期化して戦いは海戦の連なりへと解体され、その中でローマ人とその同盟者たちは難破事故で死んだ者も含めて多くの船と一〇万人を下らない兵を失った。膨らんだ戦費は、かくも多くの船で構成された海軍に人員を乗せ、この時より後の一五年間の戦争を行う費用を眺めればどうなるかを予期できるほどに莫大なものとなった。しかしなるほどこの全ての原因となったこの男は報いとしてその災難の少なからぬ分け前を受け取ることになった。すでに享受していた栄誉と引き替えに彼は幾度も大なる不名誉と恥辱を受け、彼の私的な悲運によって他の人に権力の行使における中庸を悟ることを教えた。何よりも悪いことに、彼は敗者に対して同意される寛恕と慈悲の見込みをすでに自らから奪い去っていたため、彼が軽蔑しながら悲運にある人たちに向けたまさにその無礼と傲慢に耐えることを余儀なくされた。他方でクサンティッポスは彼の個人的な卓越性によってカルタゴ人を絶望的な状況から救い出したのみならず、戦争全体の流れをひっくり返した。それというのも彼は完全な優勢にある人たちの鼻をあかし、その一方で彼の成功の甚だしさのために、敗北のおかげで破滅を予想していた人たちが敵を軽蔑しながら眺めることを可能ならしめたからだ。その結果、彼らの行いの名声はほぼ全世界中に広がり、故なきことではないのだが、誰もが彼の能力に驚いた。それというのもカルタゴ軍に一人の男を加えることで状況の全体にこれほど大きな変化が起こったために、まさにその時閉じこめられて包囲されていた者があべこべに敵を包囲することになり、陸と海で勇敢さで優位に立っていた者が小さな都市に逃げ込んで占領を待つことになろうとは信じられていなかったからだ。一人の将軍の生来の知性と実地経験が一見して克服できそうにない困難を打ちひしぐということは全く驚くには値しない。知性は到達可能でありうる全てのことを起こし、全ての事柄で技能が獣的な力を打ち破るからだ。
15 ローマ人は執政官アティリウスに率いられた大軍でもってリビュアに渡った後、手始めにカルタゴ軍に勝利を得て多くのと市と砦を占領して大軍を粉砕した。しかしその後、スパルタ人の将軍で傭兵のクサンティッポスがギリシアからやってくると、カルタゴ人は主戦力でローマ軍を破ってその大軍を粉砕した。その後、海戦が起こってローマ人は多くの船と兵を失ったために死者の数は一〇万人にのぼった。

 身体は魂の召使いであるのと同じように大軍勢もその指揮者たちの知性の支配に反応するものである。

 都合の良いことに目を向けて元老院は全ての困難に打ち勝ち……〔欠損〕
16 シケロイ人(13)による捕縛の後にローマの将軍マルクス・レグルスに降り懸かった運命が知られるようになった。彼らは彼の瞼を短刀で切り取って目を開いたままにさせた。それから彼を非常に小さく狭い檻に入れると、彼らは荒々しい象を怒り狂わせて駆り立て、彼を見下ろすところまで引っ張って彼を叩きのめさせた。したがってこの偉大な将軍はまるで復讐の怒りに押し流されたかのように息を引き取ってこの上なく悲惨な死を迎えた。スパルタ人クサンティッポスもシケロイ人の手で死んだ。シケロイ人の都市、リリュバイオンの周りでローマ軍とシケロイ人との間で軍事衝突が起こり、その戦争は二四年間続いた。シケロイ人は戦いで幾度も敗北を喫したために彼らの都市をローマ人に服属させるよう申し出た。しかしローマ人はこの申し出を聞きもせず、シケロイ人に手ぶらで出ていくよう命じた。スパルタから一〇〇人の兵を、あるいは様々な著者によっては一人、もしくは五〇人の兵を連れてやってきたスパルタ人クサンティッポスは、その時未だ囲まれていたシケロイ人のところへとやってきて、通訳を通して長々と会談した後、最終的に敵に立ち向かう勇気を与えた。彼はローマ軍と会戦してシケロイ人の援軍を得てその全軍を粉砕した。この素晴らしい働きぶりにもかかわらず、英雄にして貴族であった彼への嫉妬のせいで穴の開いた船の中で不正な卑劣行為がなされ、彼はアドリア海の渦巻く海中へと沈められたたため、彼はこの道理の通らぬ人たちから彼らに相応しい報償を受け取ることになった。シケロイ人ディオドロスは以上の話とレグルスの話を記録している。
17 フィリストスは歴史家だった。
18 ローマ軍はリビュアへと渡ってカルタゴ艦隊と戦った。勝利を得てカルタゴ船二四隻を拿捕すると、彼らは陸の戦いでの生き残りのローマ人を甲板に乗せたが、シケリアへと渡る際にカマリナ近海で危機に陥って三四〇隻の軍船、騎兵の輸送船とその他三〇〇隻の船を失った。兵と獣の遺体と難破船の残骸はカマリナからパキュノスまで流れついた。
 ヒエロンは生き残りを温かく迎え、衣服、食料、その他の必需品で元気を回復させ、メッサナへと安全に送り届けた。ローマ軍の難破の後、カルタゴ人カルタロがアクラガスを包囲してその都市を占領し、焼き討ちにして城壁を破壊した。生き残った市民はオリュンピアのゼウスの聖域に逃げ込んだ。ローマ人は海難事故の後にもう一つの艦隊を建造し、二五〇隻の艦隊でもってケファロイディオンへと進んでこれを裏切りによって手中に収めた。彼らはドレパナに向かってこれを囲んだが、カルタロが救援に駆けつけると撃退されてパノルモスへと向かった。そこで彼らは城壁に近い港に船の碇を降ろし、兵を上陸させた後に市を柵と壕で囲んだ。それというのも郊外は市門に至るまで鬱蒼とした森が茂っており、土塁と壕は海から海まで延ばされたからだ。そこでローマ軍は絶えず攻撃を仕掛けて市の城壁を攻城兵器で崩し、そして市の外延部を手中に収めて多くの人を殺した。残りの人たちは旧市街に逃げ込み、助命の確約を求める使者を両執政官に送った。二ムナの金を支払った者は好きに去れるという合意がなされ、それからローマ軍は市を落とした。この値段で一四〇〇〇人の人たちが金銭支払いの合意の下で去り、解放された。一三〇〇〇人の他の全ての人たちは家財もろとも戦利品としてローマ人によって売り払われた。イアイティアの住民はフェニキア人守備隊を追い出して市をローマ軍に引き渡した。ソロス、ペトラ、エナタロス、そしてテュンダリスの人たちもそれに倣った。両執政官はパノルモスに守備隊を置くと、メッサナへと撤退した。
19 翌年にローマ軍は再びリビュアへと航行したが、カルタゴ軍に阻まれて碇を降ろすことができなかったために引き返してパノルモスへと向かった。そこからローマへと航行する際に彼らは嵐に襲われてまたもや難破し、一五〇隻の軍船と輸送していたもの全て、並びに戦利品を失い……〔欠損〕。テルマイのある門番は生理的な必要から城壁の向こうに出たところをローマ軍に捕らえられた。彼は、もし自分を解放してくれるのであれば市の門を夜に開けるとの手紙を司令官に送った。司令官は彼を解放し、時間を示し合わせると夜に一〇〇〇人の兵を送り出した。彼らは到着し、彼は所定の時間に門を開け放った。指導者ら、名士たちがやってきて彼らは市内の財産を運び去ろうとし、門に閂をかけて何人たりとも進入を許さないよう門番に命じた。彼らの全員が切り伏せられ、その強欲に相応しく殺された。
20 別の折にローマ軍はテルマイとリパラの両方を手中に収めた。またローマ軍は四〇〇〇〇人の歩兵と一〇〇〇騎の騎兵でヘルクテの砦を包囲したにもかかわらず破ることができなかった。
21 カルタゴ人の将軍ハスドルバルは戦わなかったことで人々から追及を受けていたため、全軍を率いて凸凹した地方を通ってセリヌスへ向けて進軍し、パノルモスに到着した。兵にその近くにあった川を渡らせると、彼は市の城壁近くに野営したが、特に問題はないと考えていたために柵や壕を〔作れとは〕命じなかった。この折に再び商船が大量の葡萄酒を運んできて、ケルト人は酔っぱらって完全に秩序を失って大騒ぎをし、この時に執政官カエキリウス(14)が彼らに攻撃をかけた。彼は彼らに勝利して六〇頭の象を分捕り、これらをローマへと送った。そしてローマ人はこれに仰天した。
22 バルカとあだ名されたカルタゴ人ハミルカルと彼の息子ハンニバルが最も偉大なカルタゴ人の将軍であり、彼ら以前の人たちだけでなく後の時代の人よりも偉大であることは衆目の一致するところであり、その個人的な事績のために彼らは祖国の勢力を大いに増大させた。




(1)アッピウス・クラウディウス・カウデクス。紀元前264年の執政官で、シケリアへの遠征を強く主張して第一次ポエニ戦争の口火を切った。
(2)カルタゴ人。
(3)長方形の盾はスクトゥム、丸い盾はクリペウスと呼ばれる。
(4)サムニウム人(N)。
(5)紀元前263年の執政官マニウス・オタキリウス・クラッススとマニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサーラ。
(6)紀元前362-262年。
(7)おそらくセリヌス領のマザラ(N)。
(8)急に人称が変わっているのは要約の結果起こったことであろう(N)。
(9)紀元前260年のミュラエの海戦。
(10)カルタゴ。
(11)紀元前256年のエクノモス岬の海戦を指す(N)。
(12)マルクス・アティリウス・レグルスによる紀元前256年のカルタゴ本土侵攻。
(13)ここではカルタゴ人を指しているようである。
(14)紀元前251年及び紀元前247年の執政官、ルウキウス・カエキリウス・メテルス。




戻る