21巻→ディオドロス『歴史叢書』22巻(断片)→23巻

1 伝統的にエペイロス人は自分の国のために戦うのみならず、友人と同盟者を守るために危険に身を晒すような人たちである。
 ローマの軍団副官デキウスはピュロス王のためにレギオン防衛を任されると、市の男たちを殺戮して彼らの妻と財産を我がものにした。この兵士たちはカンパニア人で、マメルティニがメッサナの人々を殺戮した後にしたように行動した。それから犠牲者の財産の分配は不公正だったためにデキウスは彼自身のカンパニア兵によってレギオンから追い出されて追放された。マメルティニもまた略奪した金によって…〔欠落〕…に援助を与え、彼を将軍にした。ある機会に眼病を患ったため、デキウスは一流の医者を呼び寄せた。この医者は祖国への不法行為に対する仕返しをすべくデキウスの目にツチハンミョウから作られた軟膏を塗って彼から視力を奪い、それからメッサナから逃げ去った〔このデキウスの姓はウィベリウス。ディオニュシオスによれば、執政官ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスによってこの守備隊は派遣され、後に彼がその都市を解放した。しかし、彼の執政官の時期は紀元前282年と紀元前278年であるが、問題の出来事が起こったのがそのどちらなのかは明らかではない(N)。〕。
 ローマ人によってレギオンへと守備隊が送られた。軍団副官のカンパニア人で、異常に貪欲で果敢な男であったデキウスはマメルティニの無法な行いを真似た。マメルティニはメッサナの人々に友人として受け入れられたにもかかわらず、市の支配権を奪取して家ごとに男を殺戮し、客を迎えた主人の妻たちと結婚して犠牲者の財産を我がものとした。かくしてデキウスと彼のカンパニア兵はレギオンの住民を守るためにローマから送られていたにもかかわらず、マメルティニの残虐行為を真似た。彼らは市民を殺戮して彼らの財産を山分けし、戦争への報償として市を占領した。守備隊の指揮官に任じられていたデキウスは不運な人々の財産を金に換え、分配が不公平だったために共犯者のカンパニア兵によってレギオンから追い出されて追放された。しかしこの咎人たちは罰を免れず、酷い眼炎を煩ったデキウスは祖国の復讐を企んでいた最良の医師たちを呼び寄せ、彼らはツチハンミョウの軟膏を十分に塗ってデキウスの視力を奪ってメッサナから逃げた。
2 シュラクサイにはヒケタス、アクラガスにはフィンティアス、タウロメニオンにはテュンダリオン、そしてより小さい諸都市には他の者という風にシケリア中に僭主がいた。フィンティアスとヒケタスとの間で戦争が起こり、ヒュブライオス川の近くで戦いが起こると、ヒケタスが勝利した。互いに襲撃を行い、彼らは土地を荒らしてそれらの地方を不毛の地にした。ヒケタスは勝利で得意になったためにカルタゴ人と矛を交えたが、テリアス川の近くで破れて多くの兵を失った。フィンティアスは都市を建設してフィンティアスと名付け、祖国を追われていたゲラの住民を住まわせた。この都市、フィンティアスは海の近くにある。彼はゲラの城壁と家々をこぼち、そこの人々をフィンティアスへと移し、そこに城壁、見事な市場、そして神々の神殿を建設した。
 そこで彼は自らが血に飢えた殺人者であることを示し、彼に服属する全ての都市は彼を嫌悪して守備隊を追い払ったわけであるが、その反乱の口火を切ったのはアギュリオンの人々であった。
 フィンティアスは主力部隊で諸都市を支配下に置いて多くの富裕な人々を殺し、彼は無法さのために臣民の憎悪を買った。したがって全ての人が反乱に踏み切った時、彼はすぐに気落ちしてやり方を変え、より人道的な支配で臣民を支配するようになった。
3 マケドニア人の王プトレマイオスは非常に年若く戦争の経験がなく、生来軽率でせっかちだったため、思慮も予見もしていなかった。例えば、友人たちが彼に到着が遅れていた部隊を待つよう忠告した時、に彼は耳を貸さなかった。
 プトレマイオス王は殺されて全マケドニア軍が斬殺されてガリア人に壊滅させられた。
4 短期間しか王位に留まれずに王位を追われた多くの王位主張者が出ていたためにこの時期にガリア人がマケドニアを攻撃して悩ませていた。その一人はラゴスの息子プトレマイオスの兄弟であったメレアグロスであり、彼は数日統治しただけで追い出された。似たようにアンティパトロスは四五日間支配した。彼らの後に来たのはソステネス、次いでプトレマイオス〔おそらくリュシマコスの息子(N)〕、さらにアレクサンドロス〔おそらくリュシマコスの息子であり、エウセビオスがアリダイオスと名指しする人物と同定されるかもしれない(N)〕、そしてエペイロスのピュロスである。ディオドロスによれば彼ら全員が支配した分を合わせれば三年間であった。
5 僭主制を敷こうという目論見を持っていたアポロドロス〔カッサンドレイアの革命者で、紀元前276年にアンティゴノス・ゴナタスに従属した(N)。〕は陰謀を安全にしようと考えて友人の一人であった若者を犠牲式に招いて神々への捧げものとして彼を殺し、共謀者たちに彼の臓物を食わせ、血を葡萄酒と混ぜ合わせたものを飲ませた。
 同上のアポロドロスはいくらかのガリア人を雇って武器を与えたわけであるが、彼らに贈り物を渡すことで彼は彼らの残忍さのおかげで彼の罰を実行する忠実な親衛隊と便利な道具を彼らのうちに見いだした。富裕な人たちの財産を没収することで彼は大変な富を積み上げた。次いで彼の兵士の給料を上げ、自身の富を貧乏人たちを分け合うことで彼は恐るべき軍隊の主となりおおせた。しかし残忍と貪欲へと方向を転じた彼は思うままに市民から資金を徴収し始め、多くの男と少なからぬ女たちにも拷問の刑罰を加えることであらゆる人たちから金銀を奪い取った。僭主政治における彼の導き手であり指導者はシケロイ人カリフォンであり、彼はシケリアの多くの僭主の宮廷で暮らしていた人物だった。
6 「カドメイアの勝利」ということわざがある。これの意味するところは勝利が不幸をもたらす一方で、破れた側が彼らの支配地の広大さのために危機に陥らないということである。
 ピュロス王は彼と共に渡航してきたエペイロス軍の多くを失い、彼の友人の一人がどう戦いを進めてきたのかと尋ねた時、彼はこう答えた。「もしローマ人と今一度戦って勝てたとしても、余のもとには共に渡ってきた兵は一人も残らないだろう」実にその通りであり、彼の全ての勝利は、ことわざにあるようにカドメイアの勝利であった。というのも敵は破れたとしても彼らの支配地があまりにも広大なために落ち込むことがなく、他方で勝者は通常ならば敗北になるほどの損害と災難を被ることになったからだ。
 ピュロスがローマ人のもとへと協定を話し合うために使節として送ったキネアスは説得力のある外交官であり、さらに適切な人たちに価値ある贈り物を申し出た。彼らは贈り物を受け取らず、この時の彼が敵である以上はそのような贈り物は全く不適当であるが、もし彼が平和を目指してローマ人の友人たろうとするならば自分たちは喜んで贈り物を受け取るし、その時には〔贈り物の授受は〕非難に値しなくなるだろうという答えを一様に返した。
7 フィンティアス市の建設者であり、アクラガスの僭主であったフィンティアスは彼の死に様を露わにするある夢を見た。それは彼が野猪狩りをしていた時に豚が彼の方へと突っ込んできて牙で彼の横っ腹を突いて貫通させ、彼は死んでしまったというものだった。
 ヒケタスはマメオスの息子トイノンから権力を委任されてシュラクサイを九年間支配した。
 トイノンとソストラトスはヒケタスの跡を継ぐとピュロス王を今一度シケリアに呼び寄せた。
 メッサナの人たちを騙し討ちにして殺したマメルティニはカルタゴ人と同盟を結び、彼らと協力してピュロスがシケリアに渡航してくるのを防ごうと決めた。しかしタウロメニアの僭主テュンダリオンはピュロスに好意的でその都市に彼の軍を受け入れる準備をした。
 ローマ人と同盟を結んだカルタゴ人は五〇〇人の兵を彼らのものであった船の甲板に乗せてレギオンへと出航した〔この兵はローマの軍団兵で、ローマとカルタゴの協定は紀元前279年である(N)。〕。彼らは〔レギオンに〕攻撃をかけ、包囲から手を引きはしたたものの、造船のために運ばれていた木材に火を放ち、ピュロスの渡航の試みを監視すべく海峡の警戒を続けた。
 トイノンは〔オルテュギア〕島を、他方ソストラトスがシュラクサイを支配した。彼らは一〇〇〇〇人の兵を有し、互いに戦争に突入した。しかし双方共に戦争で疲弊したため、ピュロスに使節団を送った。
8 ピュロスは二年と四ヶ月の間イタリアでの戦争を戦った。彼が出航の準備をしていた時、カルタゴ軍がシュラクサイを陸と海から包囲しており、彼らは大港湾を一〇〇隻の船で封鎖して陸からは一五〇〇〇人の兵で城壁に接近する作戦を行っていた。したがって彼らはシュラクサイ人を追いつめつつ、彼らの領地を略奪して荒らし回っていた。そのために戦争で消耗したシュラクサイ人はピュロスに希望を託したのだが、それは彼の妻でピュロスとの間にアレクサンドロスという息子を生んでいたラナッサはアガトクレスの娘だったからだ。したがって彼らは毎日代わる代わる使節団を彼に派遣した。彼は兵、象、そしてその他の兵器を船に乗せてタラスを出航し、十日目にロクリに錨を降ろした。そこでタウロメニアの君主テュンダリオンを同盟者に加えて彼から兵を受け取った後、ピュロスはカタナへと航行した。そこで住民からの熱烈な歓迎を受けて黄金の冠を被せられると、彼は歩兵を上陸させた。彼らはシュラクサイへと針路を取ると、艦隊を戦闘隊形で同行させた。彼らがシュラクサイに現れると、ある必要な任務で三〇隻の船を送り出していたカルタゴ軍は残っていた艦隊だけで戦おうとはしなかった。したがってピュロスはシュラクサイへと挑戦を受けることなく入り、トイノンから〔オルテュギア〕島の、市民とソシストラトスから市の残りを引き渡された。このソシストラトスは自らがアクラガスとその他多くの都市の主であり、一〇〇〇〇人以上の軍勢を有していた。ピュロスは平和によって大多数の人々の人気を得られるだろうと考えてトイノンと、ソシストラトスとシュラクサイ人との間を調停して調和を取り戻した。王は投擲兵器、攻城兵器並びにその都市にあった武具を引き渡した。彼がシュラクサイで受け取った船は一二〇隻の甲板付き軍船、甲板二〇隻、王の「九段櫂船」であり、彼が運んできた船を含めて全部で二〇〇隻以上の艦隊になった。彼がそれらの事柄に忙殺されていた間、レオンティノイの支配者ヘラクレイデスが送ってきた使節が到着し、ヘラクレイデスは王に都市と砦を引き渡すとつもりだと述べた。他の多くの使節団もまたシュラクサイへとやってきて、都市の引き渡しを申し出てピュロスと提携すると述べた。彼はその全員を慇懃に受け入れ、それからリビュアすら獲得することを期待しつつそれぞれの国へと返した。
 コリントスの港はレカイオンと呼ばれている。
9 ガリア人の王ブレンノスは長い盾で武装した十四万人の歩兵、一〇〇〇〇騎の騎兵、それから野営地に続く人たちの群れ、多数の商人、そして二〇〇〇台の馬車を引き連れてマケドニアに攻め込んで矛を交えた。十分な兵力がなかったせいでこの戦いで多くの兵が失われ……後に彼はギリシア、そして略奪を期待してデルフォイの神託所へと前進した。戦われた会戦で彼は数万人の戦闘員を失い、ブレンノスその人は三度負傷するほどだった。落胆して瀕死の状態に陥ったため、彼は軍勢を集めてガリア人たちに語りかけた。彼は彼らに自分と負傷者全員を殺して荷物を焼き払い、故郷へと身軽になって帰るよう勧めた。彼はキコリオスを王にすることも勧めた。それから薄められていない葡萄酒をがぶ飲みした後にブレンノスは自害した。キコリオスは彼を埋葬した後に負傷者を殺し、寒さと飢えの犠牲者は全部でおよそ二〇〇〇〇人にのぼった。ギリシア軍が難路で攻撃をかけて殿を寸断し、彼らの全ての荷を奪い取った。テルモピュライへの途上で食料が僅かになったために彼らは二〇〇〇〇人以上の兵を見捨てた。残りの全員がダルダノイ族の土地を通る際に壊滅し、一人も故郷に戻ることはなかった。
 ガリア人の王ブレンノスは神殿に入った際には金ないし銀の奉納品が見つからず、石と木の画像のみがあった時、神々が人間の姿形をしていると信じていた人たち〔ギリシア人〕は木と石に彼らの似像を設えたと考えてこれらを笑ったという。
 ガリア人の侵攻時にデルフォイの住民は危機が間近であると見て取ると、宝物と彼らの妻子を神殿から最も強固に要塞化された近隣諸都市に移すというのはどうかと神々に伺いをたてた。境内の奉納品と神々の装飾品に属する物は何であれそのままにせよ、さすれば神々と白い処女たちは全てを守るであろう、と神はデルフォイ人に命じたと巫女は彼らに答えた。聖域内にはきわめて古い二つの神殿があり、一つはアテナ・プロナイア、もう一つはアルテミスのそれであったので、彼らはこの女神たちが神託で名を挙げられた「白い処女たち」だと思った。
10 ピュロスはシュラクサイとレオンティノイの問題を解決させた後、アクラガスへと軍を進めた。その途上にあった時にエンナの人たちがやってきて、自分たちはカルタゴの守備隊に追い出され、カルタゴ軍はフィンティアスが彼らの支配者になるのを妨げ続けていると述べたて、彼らの都市をピュロスに引き渡して同盟者になると約束した。ピュロスは軍を連れて発ち……アクラガスに着いてソシストラトスから市と八〇〇〇人の歩兵と八〇〇騎の騎兵という、その全員が選り抜きでエペイロスの兵にいささかも劣らない部隊を受け取った。また彼はソシストラトスが支配していた三〇の都市も受け取った。それから彼はシュラクサイへと手紙を送って攻城兵器と大量の投擲兵器を運ばせた。彼はカルタゴ人に服属する領地へ向けて歩兵三〇〇〇〇人と騎兵一五〇〇騎と象部隊という軍勢を連れて進軍した。彼はまずカルタゴの守備隊がいたヘラクレイア市を制圧した。次いで彼はアゾネスを奪取した。それからセリヌスの人々が、次いでハリキュアイ、エゲスタ、その他多くの都市の人々が王のもとへとやってきた。エリュクスは相当数のカルタゴの守備隊がいた攻め難い天然の要害だったものの、ピュロスは力攻めの包囲によってそこを落とそうと決意した。ここで彼は城壁に向けて攻城兵器を持ち出して激烈で猛烈な攻防戦が起こり、王が高名を得てヘラクレスと張り合おうと望んで自ら城壁に攻撃をかけるまで長時間続いた。英雄的な戦いをした彼は彼に立ち向かってきたカルタゴ兵を殺し、王の「友人たち」も戦いに加わると、その都市を落とした。 そこに守備隊を置いた後、彼は群を抜いて強固な地で、パノルモス攻撃のための絶好の位置にあったイアイティア市へと向かった。イアイティアの人々は自分たちから服し、そこから彼はすぐに全シケリア最高の良港を持っていて、事実このためにそのような名を得ていたパノルモスへと進軍した。この地も彼は力攻めで落とし、ヘルクタイ砦を手中に収めると、今や彼はカルタゴの全帝国を打ちひしぎ、リリュバイオンを除くその帝国の支配者になった。この都市はモテュア市を僭主ディオニュシオスによって奪われた後にカルタゴ人が建設したものであり、そのために彼らはモテュアの生き残り全員と共に集まってリリュバイオンに住んでいた。ピュロスがこの都市の包囲の準備中にカルタゴ人はリビュアからリリュバイオンへと大軍を送り込み、海を支配していたために大量の穀物、攻城兵器と信じられない量の投擲兵器を輸送してきた。その都市の大部分は海で囲まれていたため、彼らは陸の接近地点に城壁を巡らして短い間隔で塔を建て、深い壕を掘った。それから彼らは協定を結んで多額の金を支払う準備すらあったため、王に休戦と和平を論ずるべく使節を送った。王は金の受け取りを拒んだものの、カルタゴ人がリリュバイオンの保有を認めるよう説得された。しかし会議に参加していた王の「友人たち」と諸都市からの代表者たちは傍らで彼に呼びかけていかなる場合であっても夷狄にシケリア攻撃の足がかりを認めてはならず、むしろフェニキア人を島全土から追い出して彼らの支配地との境界を海にするようにと説いた。王はすぐに城壁近くに陣を張り、まず兵士に代わる代わる攻撃をかけさせた。しかしカルタゴ人は戦闘員の数と装備品の潤沢さのおかげで守り抜くことができた。カルタゴ人は大量のカタパルト、矢投射器と投石器を集めたため、あらゆる兵器で城壁の上は足の踏み場もないほどになった。かくいてありとあらゆる矢玉が攻撃軍に向けて降り注いで多くの兵が倒れ、他の多くの者が負傷し、ピュロスは不利な状況に陥った。王はシュラクサイから運んできたもの以上に強力な兵器を建設し、坑道作戦で城壁を揺るがそうと試みた。しかしカルタゴ軍は険しい地形を頼んで抵抗を続け、二ヶ月間の包囲戦の後にピュロスは市の力攻めでの占領を諦めて囲みを解いた。このために海の支配権を得て軍をリビュアへと運ぶべく大艦隊の建造を決めた彼はこれに邁進した。
11 ピュロスは有名な勝利を得ると、ガリア人の長い盾とその他の戦利品のうちで最も値の張るものを以下の碑文と共にアテナ・イトニスの神殿に奉納した。
勇敢なるガリア人より得たるこの盾をモロッソス人ピュロスがアンティゴノスの全軍を撃破した後にここにアテナ・イトニスへの贈り物として吊り下げた。
アイアコスの息子らは古の時も今も戦士たることは驚くには値せぬ。
 したがってこれほどの不敬虔な行いに手を染めたことを思えば、尤もながら彼らは罪に相応しい罰を受けることになると予期したのだ。
12 マケドニア王家の座であるアイゲアイを略奪した後、ピュロスはそこにガリア人部隊を残した。彼らはある密告者から財産が昔の風習に則って王の埋葬時に死者と共に埋葬されていることを聞くと、全ての墓を掘り返して暴き、宝物を分け合って死者の遺骨をまき散らした。ピュロスは彼らが戦争に必要だったためにこの夷狄を罰さずにおいたために罵られた。
13 メッサナに住み着いたマメルティニが勢力を増大させて以来……多くの砦……彼ら自身は速足の陣形を軍に組ませ、攻撃を受けていたメッサナ領へと助けるべく急行した〔「これはケントゥリパ近くのキュアモソロス川でのヒエロンのマメルティニへの敗北を指しているのであろう(ポリュビオス, 1. 9. 3-4)」(N)〕。しかしヒエロンは敵領を去った後、強襲によってミュライを落として一五〇〇人の兵を得た。すぐに他の諸要塞も平らげるべく動いた彼はケントゥリパとアギュリオンの間にあるアメセロンに来た。アメセロンは良く要塞化されていて強力な部隊が陣取っていたにもかかわらず、彼はこの砦を占領して徹底的に破壊したものの、守備隊の兵を一切責めずに自軍に取り込んだ。その土地の一部を彼はケントゥリパの人々に、他の一部をアギュリオンの人々に与えた。この後ヒエロンは大軍でもってマメルティニとの戦争を行った。ハライサを彼は降伏で味方にし、アバカイノンとテュンダリスの住民から熱烈に迎え入れられると、それらの諸都市の主となってマメルティニを狭い地域へと追いつめた。というのも彼はシケリア海ではメッサナ近くのタウロメニオンを、テュレニア海ではテュンダリスを掌握していたからだ。彼はメッサナ領に攻め込んで歩兵一〇〇〇〇人と騎兵一五〇〇騎と共にロイタノス川沿いに野営した〔「確証はないもののおそらくこれはポリュビオス, 1. 9. 7-8でのロンガノス川と同一の川であろう。ヒエロンの経歴の年代は非常に不確かで、ロンガノスの戦いは紀元前269年と紀元前264年に別々に置かれた」(N)。〕。マメルティニは八〇〇〇人の歩兵と四〇騎の騎兵でもって彼と対陣し、彼らの将軍はキオスだった。さて、キオスは内臓を調べるために占い師を集め、犠牲を捧げた後に彼らに戦いについて尋ねた。神々は犠牲を通して彼は敵陣で夜を過ごすことになると告げていると彼らが答えると、彼は自分が王の陣営を手中に収めるものと考えて大喜びした。すぐに彼は軍勢を展開して川を渡ろうとした。しかしメッサナからの勇気と勇敢な行いで名高かった二〇〇人の亡命者を軍内に有していたヒエロンは彼らに四〇〇人の選り抜きの兵をさらに加え、彼らにトラクスという近くの丘を回り込んで敵の背後に攻撃をかけるよう命じた。彼自身は軍を展開させて敵と正面から対峙した。川の近くで騎兵戦が起こると同時に、すでに王の命で川の近くのある土手を占領していた歩兵が地の利を活かして優位に立った。それでもなお戦いはしばらくは互角だった。しかし丘を迂回した部隊がマメルティニに奇襲をしかけて難なく彼らを殺戮すると、彼らは新手で敵は戦いで疲れていたため、方々から囲まれたマメルティニは敗走し、シュラクサイ軍は正面から攻撃をかけて全軍を細切れにした。マメルティニの将軍は破れかぶれに戦ったが、多くの傷を受けて意識を失った後、生け捕りにされた。彼は王の陣営まで息があるうちに連れていかれ、治療のために医者に預けられた。かくして予言者の予言通りに彼は敵陣で夜を明かすことになり、さらに王がキオスの回復を気遣っていた時、戦場から王のもとへと兵たちがいくらかの馬を連れてやってきて、その中に息子の馬でいることに気付いたキオスはこの若者が殺されたものと思った。度を超した悲しみで傷の縫い目がはちきれ、彼は自身の死によって息子の死に値段を与えることになった。マメルティニはというと、彼らの将軍キオスと全軍が壊滅したという知らせが入ると、嘆願者として王の前に出ることを決定した。しかし運命はマメルティニの主張に完全な崩壊を許さなかった。それというのもカルタゴ軍の将軍ハンニバルはリパラ島に碇を降ろしていたからだ。その予期せぬ知らせを聞くと、表向きは祝賀のために、実のところはヒエロンを詐術によって出し抜こうとして彼は大急ぎで王のもとへと向かった。王はそのフェニキア人を信頼して何も行動を起こさなかった。ハンニバルはメッサナへと転進し、マメルティニがその都市を引き渡そうとした瞬間にそれを思いとどまらせ、援助を口実として市内に四〇人の兵を入れた。したがって敗北のために自分たちの考えを絶望視していたマメルティニは今まさに述べたような形で安全を回復した。このフェニキア人に出し抜かれたヒエロンは望みを失って包囲を放棄し、方々に知れ渡った勝利を成し遂げてシュラクサイに戻った。
 カルタゴ人とヒエロンはメッサナから前者が追い出された後に会談し、同盟条約を結ぶと、メッサナを共同で攻めることで同意した。




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