20巻→ディオドロス『歴史叢書』21巻(断片)→22巻

1 全ての悪徳は知性ある人々によって避けられるであろうが、とりわけ貪欲という悪徳についていえば、利益への期待のために多くの人を不正へと駆り立てて人類への非常に大きな悪事の原因となる。かくして貪欲は不正な行いのまさに母都市であるため、私人の市民のみならず、最も偉大な王たちにすら多くの大変な不運をもたらす〔この断片はイプソスの戦いでのアンティゴノスの死についての説明全体に対する導入であろう(N)。〕。
 一私人の地位から高位へと上って彼の時代の最も強大な王となったアンティゴノス王は運命の贈り物に満足せず、不正にも他の全ての王の王国を手中に収めようと試みた。かくして彼は自らの支配地を失い、命も落とした。
 プトレマイオス、セレウコス、そしてリュシマコスはアンティゴノス王に対して一致団結した。互いへの善意に掻き立てられてというよりはむしろ各々が自分のためを思い、恐怖に強いられ、覇権争いにあたって自発的に共通の考えを持つに至った。
 戦いでアンティゴノスとリュシマコスの象はあたかも自然が勇気と強さでそれらを互角に釣り合わせたかのように戦った。
 この後にあるカルデア人がアンティゴノスに近づき、セレウコスを野放しにしておけば全アジアがセレウコスに服属させられることになり、アンティゴノス自身は彼との戦いで死ぬだろうと予言し…〔欠損〕…。これは彼を…〔欠損〕…へと深くかきたてたわけだが、それというのも彼はその人たちが享受していた名声に強い印象を抱き…〔欠損〕…。事実、彼らカルデア人はもしバビュロンに入れば死ぬだろうとアレクサンドロスに予言したと名高かった。そしてアレクサンドロスの場合のように、セレウコスについての予言はその人たちの言った通りに実現する運びとなった。この予言について我々は適当な時代にさしかかった時に詳細に述べることにしよう。
 アジアの王アンティゴノスはラゴスの息子でエジプト王のプトレマイオス、バビュロニア王セレウコス、トラキア王リュシマコス、アンティパトロスの息子でマケドニア王のカッサンドロスといった四人の王の同盟と戦争を行った。彼が彼らと戦いに入ると、彼は多くの投擲兵器で貫かれ、彼の遺体は戦場から運ばれて王への栄誉でもって埋葬された。しかし彼の息子のデメトリオスは価値を有する全ての財物を携えてキリキアに残されていた母ストラトニケと合流し、彼の所有にあったためにキュプロスのサラミスへと航行した。
 セレウコスはというと、アンティゴノス王国の分割の後に軍を集めてフェニキアへと向かい、そこで協定の条項に則ってコイレ・シュリアを我が物としようとした。しかしプトレマイオスはその地方の諸都市をすでに占領しており、セレウコスとプトレマイオスは友人であるにもかかわらず、セレウコスはプトレマイオスにすでに服属していた地域を自分の取り分の指名を受諾したとして彼を非難した。さらに彼は自分は対アンティゴノス戦争の仲間であったのに征服地を分配しなかったとして王たちを難詰した。これらの非難に対してセレウコスは、戦場で勝利した者が戦利品を好きにできるということだけが公正であり、しかるにコイレ・シュリア問題をプトレマイオスは友情のために目下のところ邪魔せず、侵略を選ぶ友人とは今よりも後に折り合いをつけるのが最善だと思われるとした。
 しかしその都市〔オロンテス河畔のアンティゴネイアを指す。なお以下のセレウケイアはアンティオケイアの間違いであろう(N)〕は長続きしなかったが、それはセレウコスがそこを破壊して住民を彼が建設して自分にちなんでセレウケイアと呼んだ都市へと移したからだ。しかしそれらの事柄に関しては適当な時代にさしかかった時に正確に詳細に取りかかることにしよう。
 ギリシアからこの地方〔アンティオケイア〕へと送り出された植民団について知りたければ、その事柄については地理学者ストラボン、フレゴン、そしてシケリアのディオドロスによる骨身を惜しまない説明がある。
2 コルキュラがマケドニア王カッサンドロスによって陸海から包囲を受け、あわや占領されそうになっていた時、それ〔援軍〕がシケリアの王アガトクレスから送られてきて、全マケドニア艦隊に火を放った。
 最高の競争心はいずれの側にも不足していなかった。それというのもマケドニア軍は船を救い出そうと精魂を傾け、他方シケリア軍はカルタゴ人とイタリアの夷狄への勝者と思われるだけでなく、アジアとヨーロッパの両方を槍で征服したマケドニア人と自らがギリシアでの競争で互角以上であることを示そうと望んだ。
 アガトクレスは陸軍を上陸させた後に間近にいた敵を攻撃すると、易々とマケドニア軍を粉砕した。しかし受け取った知らせと部下の驚きを知らなかったため、軍を上陸させた後に戦勝記念碑を立てて「戦争には多くの無駄がある」という諺の真実性を証するので満足した。というのも誤解と欺瞞はしばしば軍事行動と同等のことを成し遂げるからだ。
3 コルキュラから戻るとアガトクレスは後に残していた軍を再合流させ、留守中にリグリア人とエトルスキ人が反抗して彼の息子アガタルコスからの給与支払いを要求していることを知ると、彼は彼らを皆殺しにし、その数は少なくとも二〇〇〇人に上った。この行動はブルッティオイ人を遠ざけてしまい、そこでアガトクレスはエタイと呼ばれる都市を占領しようと試みた。しかし夷狄は大軍を集めて彼に予期せぬ夜襲を仕掛けて彼は四〇〇〇人の兵を失い、このためにシュラクサイへと戻った。
4 アガトクレスは海軍を率いてイタリアへと渡航した。クロトンを包囲しようと望んでその都市に向かおうと計画すると、クロトンの僭主で友人のメネデモスに使者を送って勘違いして警戒しないよう告げ、自分は王らしい栄誉でもって娘のラナッサを結婚のためにエペイロスへと護送しようとしているのだと述べた。そしてこの策略によって彼はクロトン人を無防備状態にした。次いで彼はその都市を包囲して海から海まで壁で囲み、投石器を使い、坑道を掘って最も高い建物を崩した。これを見たクロトン人は恐怖し、門を開いてアガトクレスと彼の軍を引き入れ、市内に突入した彼らは家々を略奪して男の市民を殺戮した。アガトクレスは近隣の夷狄、イアピュデス族とペウケティオイ族と同盟を結んで海賊船を提供し、分け前を受け取った。それからクロトンに守備隊を残すと彼はシュラクサイへと帰っていった。
5 アテナイの歴史家ディユロスは二六巻の普遍史を編み、プラタイアのプサオンはこれの続きの三〇巻の著作を著した。
6 ドゥリスによれば、エトルスキ人、ガリア人、サムニウム人並びにその他の同盟者との戦争でローマ人はファビウスの執政官時に一〇万人を殺した〔フルネームはクイントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス。紀元前295年のセンティヌムの戦い(N)〕。
 似たようなことはドゥリス、ディオドロス、そしてディオも述べており、サムニウム人、エトルスキ人及びその他の種族はローマ人と戦争をした時、ローマの執政官で、トルクァトゥスの同僚だったデキウスが似たような仕方で自分自身を犠牲に捧げ、その日に一〇万人の敵が殺された〔ここでのデキウス(プブリウス・デキウス・ムス)はファビウスの同僚の紀元前295年の執政官。トルクアトゥスの同僚なのは紀元前340年に執政官だった彼の父のことである(N)〕。
7 嫉妬のためにアンティパトロス〔カッサンドロスがアレクサンドロス大王の姉妹テッサロニケとの間に儲けた息子〕は自らの母を殺した。
 アンティパトロスの兄弟アレクサンドロスは助けてもらうために呼び寄せたデメトリオス王に暗殺された。共同統治者を持つのが嫌だったデメトリオスはアレクサンドロスの殺害者で母殺しのアンティパトロスも同様に暗殺した。
8 アガトクレスは軍を集めて三〇〇〇〇人の歩兵と三〇〇〇騎の騎兵を連れてイタリアへと渡った。彼はブルッティオイ人の領地を荒らすよう命じて海軍をスティルポンに委ねた。しかしスティルポンは沿岸沿いの土地を略奪して回っていた時に嵐に遭って船のほとんどを失った。アガトクレスはヒッポニオンを包囲し…〔欠損〕…投石塔を使ってその都市を圧倒して占領した。ブルッティオイ人はこれに怯えて協定を論じるべく使節を送った。アガトクレスは彼らから六〇〇人の人質を取って占領軍を残すと、シュラクサイへと戻った。しかしブルッティオイ人は誓いを遵守する代わりに全軍で残された兵に向けて進軍してこれを粉砕、人質を取り戻し、かくしてアガトクレスの支配から自由になった。
9 デメトリオス王は公の集会で日常的に彼を中傷してあらゆる事柄について彼に喧嘩腰で反対していた者全てを逮捕した後、罰よりも許す方が良いと気付いて彼らに危害を加えずにおいた。
10 軍の指導者のほとんどは厳しい変転に直面すると大衆と対立する危険を冒すよりは彼らの主張に従う。
11 トラキア人が王の息子アガトクレスを捕らえたが、一面では運命の奇襲からの避難先を用意するために、もう一面ではこの親切な行いによってリュシマコスが奪った領地を取り戻すことを期待して贈り物を持たせて母国へと送った。それというのも最も有力な王のほとんど全員が今や協定の下にあり、互いに軍事同盟を結んでいたために彼らは最早戦争で勝つことができようとは期待していなかったからだ〔蓋し、他のトラキアの諸部族がこぞってリュシマコスの側についていたため、件のトラキア人は孤立していたということであろうか。〕。
12 リュシマコスの軍が食糧不足で苦境に陥って彼の友人たちが彼に自分が助かることに最善を尽くして野営地の無事を期待しないよう訴え続けた時、彼は軍と友人を見捨てて恥ずべき安全を得ることは不名誉であると答えた〔「紀元前292年にリュシマコスはドナウ川を越えてゲタイ族に攻撃をかけた」(N)〕。
 トラキア人の王ドロミカイテスはリュシマコス王に関係のありとあらゆる印を示して彼を「父」と呼びさえし、それから彼と彼の子供たちをヘリスと呼ばれる都市へと連れていった。
 リュシマコスの軍を捕らえた後、トラキア人は急いで集まって捕らえた王には極刑を加えるべしと叫んだ。彼らは戦いの苦難を共にした者が相談して捕虜をどうするかを決めることだけが正当だと叫んだ。ドロミカイテスは王の処罰に異議を唱えて彼の助命こそ有益であると兵士たちに示した。彼が処刑されれば、多分彼らの先代よりも恐れられるようになるであろう他の王たちはリュシマコスの権威を認めることになるだろうとドロミカイテスは言った。他方で彼が助命されれば、彼はトラキア人への感謝の借りを作り、トラキア人は以前は彼らのものであった砦の数々を危険を冒すことなく取り戻せるだろう。群衆がこの施策に賛同すると、ドロミカイテスは捕虜の中からリュシマコスの友人と彼にいつも付き従っていた者を探し出し、彼らを捕らわれの王のもとに行かせた。そして犠牲を捧げると、彼は最も相応しいトラキア人と一緒にリュシマコスと彼の友人たちを宴に招待した。彼は戦利品の一部の王用の布地をリュシマコス用の席に使った二揃いの長椅子を、自分とその友人用には藁のみすぼらしい寝台を準備した。似たようにして彼は二つの異なった食事を用意し、異国の客人の前には銀の食卓の上に贅を尽くしたありとあらゆるご馳走を並べ、トラキア人の前には控えめによそわれた草の葉と肉の食事を置き、彼らの肉はみすぼらしい板の上に載せられていた。最後に彼は客人のために葡萄酒を金銀の杯に、自分の同郷人にはゲタイ人の習わしとして角や木の杯に注いだ。彼らがしばし酒を飲んだ後、彼は一番大きい角の酒杯を一杯にして「父よ」とリュシマコスに渡し、このように王らしい宴はマケドニア人とトラキア人のどちらにより相応しいと思うかと尋ねた。リュシマコスは「マケドニア人だ」と答えた。彼は「してそれはなぜ?」と尋ねた。「貴殿はそのような素晴らしい生き方と、これよりも栄光ある王国を捨て、夷狄の中に分け入って野獣のような生を送り、実った穀物と果物に事欠く冬がちな土地を望むですのか? 何が貴殿をして軍を、外国の軍隊が戸外で生きられないようなこんな土地へとその本性に反して行くのを強いたのですかな?」リュシマコスはこの遠征に関して言えば自分は目暗滅法に動いたものだが、今後は友人として彼を助け、親切な行いには親切を返し損なわないよう努めるつもりだと答えて言った。ドロミカイテスはこれらの言葉を愛想良く受け取り、リュシマコスが分捕った領地の返還という成果を得て、彼の頭に冠を置いて帰路を見送った。
13 ディオドロスの書くように、蓋しパイオニア人の王アウドレオンの最も信頼の置ける友人の地位にあったクセルモディゲストスは、リュシマコスないしトラキアの他の王に宝物〔の在りか〕を明らかにした――これらの本なしに神のように全てのことを述べるのは私には難しいし、あなたは私が話したことを知っている。彼はトラキアの冠を戴く者にサルゲンティオス川の底に隠された宝物を明らかにした。彼その人は捕虜だけに助けられて〔アウドレオンの〕埋葬を行い、河床をそばに転じさせてその下に宝物を埋葬し、それから〔川の流れを元に戻して〕水を流して捕虜を殺した。
14 デメトリオス王はテバイが二度目の反乱を起こした時にこれを包囲し、攻城兵器で城壁を崩して落としたが、反乱の責任者一〇人を殺すだけで済ませた。
 デメトリオス王はその他の諸都市も手中に収めると、ボイオティア人を気前良く扱い、反乱の主要な責任者一四人を除く全員を放免した。
 多くの場合、怒りに身を任せて苦難の果ての結末のために戦おうとしてはならない。それというのも時には協定を結び、安全のために金を払い、そして概して復讐を忘れることが好都合だからだ。
15 アガトクレスは友好と同盟の条約を成立させるべく息子のアガトクレスをデメトリオス王に向けて送った。王はこの若者を暖かく迎え、彼に君主用の外衣を着せて豪勢な贈り物を与えた。デメトリオスは表向きは同盟の宣誓を受けるために、実際はシケリアを探るためにアガトクレスに友人の一人オクシュテミスを付けて返した。
16 [しかしアガトクレスの死についての話を我々はこの場所に置けば、実際に起こったことは先程述べられたことを裏付けることになるだろう。]
 長年カルタゴ人との平和条約を守ってきたアガトクレス王はこの時に大規模な海軍の準備をした。それというともリビュアへと軍を今一度輸送し、この船団でフェニキア人へのサルディニア島とシケリア島からの穀物流入を遮断しようと企図していたからだ。なるほどリビュアとの先の戦争では海を支配していたことでカルタゴ人は彼らの国を危機から救い出した。今やアガトクレス王は完全武装の船、即ち四段櫂船と六段櫂船二〇〇隻を有するに至った。にもかかわらず彼は以下のような理由で計画を実行できなくなった。エゲスタで生まれたメノンなる者がおり、彼は生まれた市の陥落〔紀元前307年〕で捕虜になっていて、その美貌のために王の奴隷になっていた。しばしの間彼は満足しているふりをし、王のお気に入りの友人に数えられていたが、彼の都市の災難と彼個人への暴行がうずくような憎しみを生んでおり、彼は復讐の機会をつかんだ。その頃王は年を重ねていたため、野戦軍の指揮権をアルカガトスに委ねていた。彼はリビュアで殺されたアルカガトスの息子、ひいてはアガトクレスの孫であった。彼の男らしさと我慢強さは通常期待される分を遙かに勝っていた。彼がエトナ近くに野営していた時、王は息子のアガトクレスを王位継承者に昇進させようと望み、手始めにシュラクサイでその若者を表に出して自分の権力の相続人とすると宣言し、それから彼を野営地へと送った。彼はアルカガトスに対して陸海両軍をアガトクレスに引き渡すよう命じる手紙を書いた。他の者が王国を受け継ぐべきだと思っていたアルカガトスは両者への陰謀を企てることを決意した。彼はエゲスタ人メノンに手紙を送り、王を毒殺するよう説き伏せた。彼自身はある島で犠牲を捧げ、宴に招かれた若い方のアガトクレスがそこに碇を降ろすと、せっせと酒を飲ませて夜に殺害した。遺体は海に投げ捨てられて波によって岸に打ち上げられ、ここで遺体が彼だと分かった人たちはこれをシュラクサイへと運んだ。
 さて晩餐の後のいつもの習慣として王は羽で歯を磨いていた。したがって葡萄酒を飲むのをやめた彼はメノンに羽を求め、メノンは腐敗性の薬を塗った羽を渡した。これを知らぬ王は一層激しく使って歯の周りの歯茎全体にその薬を付けた。最初に起こったのは日を追うごとに耐え難くなる痛みで、歯の周りの治し難い壊疽が続いて起こった。今際の際に彼は人々を召集し、アルカガトスの冷酷非道を非難して人々に彼への復讐を叫び、人民に自治権を返還すると宣言した。それから臨終の王の上にデメトリオス王からの使節のオクシュテミスが薪を積み、苦痛の甚だしい激烈さあまり声を上げることもできない彼を生きたまま焼いた。アガトクレスは君臨していた間に数多くの、そしてこの上なく多様な殺戮を行っており、神々への不敬虔に加えて人々へと残忍な振る舞いをしていたため、彼の死に様は彼の無法な生き方に相応しいものであった。シュラクサイのティマイオス、もう一人のシュラクサイ人で二二巻本の著者カリアス、アガトクレスの弟で歴史家でもあったアンタンドロスによれば、アガトクレスは七二年間生きて二八年間統治した。シュラクサイ人は彼らの人民政権の復活にあってアガトクレスの財産を没収して彼が立てた像を打ち倒した。王に対する陰謀を企てたメノンはアルカガトスのもとに留まり、シュラクサイから逃亡した。しかし彼は王国の転覆者としての利益を享受できるものと信じて有頂天になっていた。彼はアルカガトスを暗殺して野営地を手中に収め、群衆を見せかけの善意で味方につけ、シュラクサイ人に対して戦争を起こして主権は自らのものだと主張しようと決意した。
 まだ非常に若かったためにアルカガトスの男らしさと忍耐は年齢以上のものであった。
17 これ以前の歴史家たちの過ちを鋭く咎めたこの歴史家〔ティマイオスを指す〕は著述の残りの部分で真実への非常に高い配慮を示したが、彼のアガトクレスについての歴史書の大部分は私的な反目の故にこの支配者に対する偏向記述に成り下がっている。それというのも、彼はアガトクレスによってシケリアを追われてその君主が生きていた間は戻ることができず、その死後になって歴史書の全体を通してその名誉を傷付けた。それというのも一般に、この王が実際に行った悪しき資質にこの歴史家は彼自身が考案した他の資質を付け加えているからだ。彼はアガトクレスから彼の成功を取り去り、王自身に責任があるものばかりでなく、不運に由来するものであろうと失敗をそのままに保存し、これらを彼は全く失敗していなかった人の評価点に移した。王は立派な戦術家であり、精力的で、戦いで勇気を求められる場面で自信を持っていたことはあまねく認められていたものの、ティマイオスは彼の歴史書を通して彼を臆病者、卑怯者と呼んでいる。未だかつて権力に至ったことがある全ての人のうちで彼より小さな元手から最も強大な王国を獲得した者がいるだろうか? 乏しい手段と身分の低い親のために子供の頃から職人として育てられた彼は後に自らの実力でシケリアのほぼ全土の主なったばかりでなく、イタリアとリビュアの多くを武力で屈服させた。その著作を通して勇気の故にシュラクサイの人々を讃えはするが、彼らを支配する者が臆病さで全ての人に勝っていると述べるこの歴史家の無頓着は不思議に思われるだろう。これらの矛盾は彼が私的な敵意と論争嗜好を満足させるために歴史の公正さにおける真摯さの基準を放棄した証拠であることを明らかに示している。したがって我々はアガトクレスの事績を扱うこの著者の歴史書の最後の五つの巻を鵜呑みにするわけにはいかない。
 同様にシュラクサイのカリアスも公正且つ適切な吟味を受けるべきである。彼がアガトクレスのためにした擁護と、アガトクレスがふんだんに与えた利得のおかげで彼は歴史の真実に背くことになった。この歴史家は決して値しない賛辞を自分の恩人に惜しげなく与えるのをやめなかった。したがってアガトクレスの神々への不敬虔な行いと人々へと無法な行いは少なくはないものの、それでもなおこの歴史家は、彼は慈悲と優しさで他の人を遙かに上回っていたと述べている。一般的にアガトクレスは市民の財産を奪い、正義にもとりこの歴史家に与えるべからざる物を与え、そのためにこの注目に値する年代記作家はこの君主に美徳の全てを与えるべく筆をとったのだ。この著者との好意のこの交換において彼の賛辞が王家からの賄賂に至らなかったことは実に分かりやすく、疑いようがない。
18 シュラクサイの人々はメノンとの戦争を行わせるために軍を授けてヒケタスを将軍として派遣した。しばしの間彼は戦争を行っていたが、敵は行動を控えて彼らと正面切って戦うのを避けるようになった。しかしカルタゴ人が大兵力でもってメノンの支援を始めると、シュラクサイ人はフェニキア人に四〇〇人の人質を渡し、反目を捨てて亡命者たちを復帰させるのを余儀なくされた。それから選挙に投票するのを許されなかった傭兵のために市は内紛に陥った。シュラクサイ人と傭兵の双方は武器を頼みにするに至り、長老たちは長い交渉をして両派に多くの申し出ををした後、定められた期限内に傭兵たちは所有物を売却してシケリアを去るという条件で混乱を終わらせたということだけが苦労しつつなされた。その協定が締結されると、傭兵たちは合意に則ってシュラクサイを去った。彼らが〔メッサナ〕海峡に至ると、メッサナの人々から友人にして同盟者として歓迎を受けた。しかし彼らが市民の家々で懇ろにもてなすと、彼らは夜に家主を殺してその妻と結婚し、市を乗っ取った。彼らは彼らの言葉ではマメルトスと呼ばれているアレスにあやかってこの都市をマメルティナと命名した。
 協定に則って傭兵たちがシュラクサイを去ると、メッサナの人々から友人にして同盟者として歓迎を受けた。しかし市民から家へと暖かく受け入れられると、彼らは夜に家主を殺し、彼らがこの悪事を働いた人たちの妻を娶り、市を手中に収めた。
 護民官の資格がない人たちは護民官の承認を受けた投票権を期待しないだろう〔多分この段落で述べられているのは紀元前287年のローマでのクイントゥス・ホルテンシウスの立法であり、護民官の地位の資格を持たない貴族が平民会から締め出されたことに関わる話だろう(N)。〕。
19 [デメトリオスの王国の最後の危機にあって起こったことについての我々の話とその中での状況の予期せぬ変化の結末はこの女の特質をより一層示すだろう〔これはデメトリオスの妻で、紀元前287年に夫がマケドニアを失った直後に自殺したフィラについての文言らしい(N)。〕。]
20 デメトリオスがペラで監視下にあった時、リュシマコスはセレウコスに、デメトリオスは飽くなき野心を持つ男で全ての王たちに対する謀を練っているので何があっても彼を自身の権力下から解放するべきではないと要求する使節団を送り、セレウコスに彼を始末するために二〇〇〇タラントンを渡すのを申し出た。しかしこの王は真摯な誓いを反故にするだけではなく、結婚によって自分と同盟を結んだこの男に関して汚れを招くことを自分に要求しないでほしいと使節たちを咎めた。セレウコスはメディアにいた息子のアンティオコスに向けてデメトリオスをどう扱うべきかを忠告する手紙を書いた。それというのも以前に彼はデメトリオスの解放を決意して王座へと大変華やかに復帰させたが、アンティオコスはデメオリオスの娘ストラトニケと結婚して子供を何人か儲けていたため、息子にこの親切へと共通の信頼を持たせようと望んだ。
21 敵にとって最も手強い者は友人には最も堅く真心を持つ者だろう。
 何が自分の有利になるのかを知らずにへつらいの言葉に耳を傾けて以来、あなたは国にゆきわたる不運をこの目で見てきたし、よりよく教えられることだろう。
 それというのも生涯に再三再四道を誤るのは人間のみであるが、同じ状況で過ちを繰り返すことは計算の完全な狂いとしてその人間を特徴づけるから。我々が手を染める失敗が多くなるほど、我々が受けるに値する罰はより大きくなる。
 我々の市民のある者は国家の不運を代償にして自分の財産を殖やそうと望むほど利益に対して貪欲な行動をとっていた。
 仲間を助けた人を不正に扱った人はどうすれば自分自身に対する助けを見いだせるだろうか?
 我々は過去の過ちを許し、そうやって平和に生きるべきである。
 我々は過ちを犯した者を例外なく罰するのではなく、犯した罰でより学ぶことのない者を罰するべきである。
 死すべき者たちのうちでは立派な扱いは怒りに勝り、親切な行動は罰に勝る。
 敵意をぬぐい去ってこれを友情に変えることは正しく適切である。それというのも苦境に陥ると人はまず友人に助けを求めようとするからである。
 外国人の軍人は苦境に陥ると、まず友人を略奪しようとする。
 王たちに生得的な貪欲がそのような都市から遠ざかることはない。
 人間に生得的な貪欲はそのような試みを全く慎もうとしない。
 というのも自負の顕示と僭主の衣服は家に置き、自由民の都市に入ると法に従うべきであるから。
 他の人の血と支配地を受け継いだ人は良き名も受け継ぎたいと望むだろう。アキレウスの息子ピュロスの名を持ちながらテルシテスの振る舞いを見せるのは恥ずべきことだから。
 持つ名声がより大きくなればなるほどその人は幸運の立役者である人たちへの感謝も大きくなる。ここでその人は栄誉と行為によって得られるものを不実で栄誉のないような仕方で得ることを望まないだろう。
 したがって他の人の失敗からあなた自身の安全のために必要な経験を見いだすのが紳士である。
 親類である人より縁のない人を、武器を持った仲間の誠意より敵の憎悪を好むことは決してないだろう。




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