19巻→ディオドロス『歴史叢書』20巻→21巻

1 人は彼らの歴史書に演説を書き込んだり頻繁に演説を用いる人を正当にも非難することだろう。というのもそれは彼らが話の連続性を時宜を得ない演説の挿入によって損なうだけでなく、出来事の完全な知識を熱心に求める人の興味を損なうためである。修辞技術を披露しようと望む人々には賛美や非難の演説やそれに類するもののように公の談話と使節の演説を編む機会は依然として確実にあり、文学類型の分類を認識とそれらのそれぞれを作り上げることで彼らは行動のどちらの分野でも名声を得られるだろうと相当に期待するだろう。しかし、そうすることである著述家たちは修辞的な章句の多用によって歴史における全ての技術を弁論術の付随物にしてしまった。下手に編まれたそれは癪に障るものであるのみならず、他の側面でも、主題と機会を特定の型から遥かに逸脱させてしまったというのが的を射ているだろう。したがってそういった作品の読者でさえ、ある者はそれが完璧にうまくいっているように見えようともその演説を読み飛ばし、他の者は歴史家の言葉数の多さと味気なさに辟易して全部を読む気をなくすものである。このような態度は全く理に適わないものであり、歴史の特質は全体がまるで生き物のようなものでありながら、単純さと一貫性を持つことである。もしこれが台無しになれば、生き生きとした魅力は剥ぎ取られるし、もし必要な統一性を保つならば、適切に保存され、全体の構成の調和のためにその読書を心地よく晴れ渡ったものにするだろう。
2 さりとて、修辞的な演説への反対にあたって我々はそれらを歴史書で全面的に禁止するつもりもない。なんとなれば、歴史は多様性によって美しく飾られる必要があり、ある場所では助けを各々の章句――そしてこの際に私はそれを自分から取り上げようとは思わない――に求める必要があり、そのために状況が使節の公の演説や発言、あるいは他の人物の何かしらの言葉を要求する時にもそれが非難に値するという異論を挟む者はいまい。多くの機会に修辞技法の助けが必然的に求められることになるであろう少なからぬ理由が見つかるだろうし、多くのことがうまく要を得て述べられれば、その人はそれを見くびり、記憶に値して歴史に馴染まないわけでもない利益をもたらしてくれるようなことを見逃すことはあるまいし、主題が偉大で栄光に満ちたものであれば、その偉業をつまらない言葉で表現することは許されまい。そして予想を裏切る出来事が起こる時には我々は一見して逆説的なことを説明するためにもその主題に適切な言葉を使うよう強いられてしかるべきである。
 さて、この話についてはこれで十分だろう。我々は今度は我々の話題に属するような出来事について書くべきであり、まずは話の年代的な配列を述べることにしよう。これまでの巻で我々はアガトクレスのリビュア遠征の年までのギリシア人と夷狄双方の事績を書いたわけであり、それはトロイアの破壊から合計八八三年の年月〔八七三年の間違い〕の出来事である。この巻では、説明の順序からして次に来ることに加えてアガトクレスのリビュア渡航から始め、〔ディアドコイの〕王たちが互いに協定に至った後にフィリッポスの息子アンティゴノスに対する共同戦線を形成し始めた年で終わることにし、ここに収められる年月は九年間になる。
3 ヒエロムネモンがアテナイでアルコンだった時〔紀元前310-309年〕、ローマ人はガイウス・ユリウスとクイントゥス・アエミリウスを執政官職に選出し〔紀元前311年〕、シケリアでは、ヒメラス川での戦いでカルタゴ軍に敗れて軍の大部分と最強の部隊を失っていたアガトクレスはシュラクサイへと逃げ込んでいた。全ての同盟者が寝返って夷狄がシュラクサイを除くシケリアのほぼ全土の主となって遙かに優勢な陸海軍を有していたことを見て取ると、彼は予想だにしないほとんど無謀ともいえるような試みを実行に移した。皆が彼は最早カルタゴ軍と戦おうとはしないだろうと結論づけると、彼は市に十分な守備隊を残して適当な兵士を選抜し、彼らと共にリビュアに渡ろうと決意した。というのも彼がもしこうすれば、長く続いた平和の下で贅沢な暮らしを送り、そのために戦いの危険を経験したことのないカルタゴの人たちは易々と危険という学校で鍛え上げられていた兵士に破れるだろうし、長らく彼らの苛烈誅求を腹に据えかねていたカルタゴのリビュア人同盟者は反乱の好機を掴むだろうと望むはずだし、全てのうちで最も重要なことは出し抜けに現れることによって略奪を受けておらず、カルタゴ人の繁栄のために様々な富が豊富にあった土地を彼が略奪すること、概して言えばそれは、夷狄を彼の故郷の都市と島の全域から逸らしてリビュアに全ての戦争を移し変えることであった。そして実際にその最後のことが実行に移された。
4 この意図をどの友人にも打ち明けず、彼は兄弟のアンタンドロスを市の管理者として十分な守備隊を与え、自らは軍務に適正のある兵士を選抜して登録し、歩兵には武器を準備させ、騎兵には馬を獲得した時にはその馬に乗り、軍務に必要な装備を施せるようにするために完全装備に加えて鞍当てと馬勒を持ってくるよう特別の命令を与えた。というのもそれは先の大敗で歩兵の大部分が殺され、騎兵のほぼ全員が無傷で帰ってきており、彼はリビュアまで馬を輸送することができなかったためであった。シュラクサイ人が彼が去った後に革命を起こさないようにするため、彼はとりわけ兄弟同士を、父と息子をというように親族をそれぞれ分け、市内に一方を残して他方を彼と共に渡らせた。というのもシュラクサイに残った者は僭主に対して何か都合の悪いことをしかけても、肉親のことを気にしてアガトクレスに良からぬことをしないだろうということが明らかであったからだ。金を必要としていたため、彼は自分は後見人よりも財産をずっと上手く守るつもりだし、子供が成年に達した時には誠実に返還すると言って後見人から孤児の財産を徴発した。また彼は商人から借り入れをし、神殿の奉納品の一部を取って婦人から宝石を剥ぎ取った。そして金持ちの大部分が彼のやり方に腹を立てていて非常に敵対的であったのを知ると、彼は集会を召集して過去の災難と予期される苦難の双方を嘆き、あらゆる困難に慣れているので自分が包囲戦に耐えるのはたやすかろうが、彼らが封じ込められて包囲戦に挑まざるを得なくなるころを自分は憐れむと述べた。したがって彼は運命が決め、彼らが被ることになることには何であれ辛抱する気がある者には自らとその財産を守るよう命じた。しかし最も富裕で最も僭主を嫌っている人たちは市から出ていくと、傭兵を彼らに差し向けてこれを殺して財産を没収した。このたった一度の汚らわしい行いによって彼は十分な富を得て反対派を市から一掃すると、軍務に耐える奴隷を解放した。
5 全ての準備が整うと、アガトクレスは六〇隻の船に人員を乗せて船出に都合の良い時を待った。彼の目的地は分からなかったためにある者は彼はイタリアへ遠征するつもりだと、他の者はカルタゴ軍が制圧していたシケリアのどこかを略奪しに行くのだと推測した。しかし全員が船出する者の安全を絶望視しており、君主を凶行の故に批判していた。しかし敵は手持ちの何倍もの三段櫂船で港を封鎖していたため、アガトクレスは最初は出航ができなかったために数日間兵士を船の中に待機させた。しかし後に数隻の穀物輸送船が市へと入ってくると、カルタゴ軍は全艦隊でそちらへと向かい、計画をすでに諦めていたアガトクレスは封鎖船が港の入り口からいなくなったのを見て取ると、出航して全速力で櫂を漕がせた。次いですでに輸送船へと近づいていたカルタゴ軍は敵が密集隊形で船を進めているのを見て取ると、当初はアガトクレスは穀物輸送船の救援へと急行したのだと思い、艦隊を反転させて戦闘準備をした。しかし船が真っ直ぐに通り過ぎて彼らを長らく茫然とさせていることに気付くと、彼らは追撃を始めた。その結果、それらが互いに競っていた間、穀物を運んでいた船は予期せずして危機から逃れたため、食糧不足がすでに市を覆っていたシュラクサイに大量の豊富な物資を運び込んだ。すでに追いつかれて包囲されようとしていたアガトクレスは夜が迫ってきたことで望外の安全を得た。翌日、日食が起こって真っ暗になって星が至る所に見えるようになると〔紀元前310年8月15日〕、アガトクレスの兵はこの驚くべき出来事は彼らの不幸の前兆だと信じて将来への非常な不安に憑りつかれた。
6 六日と同じ数の夜を航行した後に日が明けると、思いがけずカルタゴ艦隊がそう遠からぬところに見えた。ここで両艦隊は熱意一杯に競って櫂を漕ぎ、カルタゴ人はすぐにギリシア船を撃破してシュラクサイを手中に収め、同時に母国を大きな危機から解放できるだろうと信じた。そしてギリシア軍はもし初めに上陸できなければ、奴隷になって家に帰れなくなる危険がその罰として待ち受けているだろうと予想した。リビュアが見えてくると甲板上の兵士たちは歓声を上げ、闘争心が鎌首をもたげてきた。夷狄の艦隊が乗組員の長きに渡る訓練のためにより速い速度で航行してきたが、ギリシア艦隊とは十分な距離があった。距離が急速に狭まって陸に近づくと、それらの船はまるで競争するかのように岸を目指して方々から突進した。射程内に入ると、先頭のカルタゴ船はアガトクレス艦隊の末尾の船へと矢玉を発射した。したがって短時間弓と投石で戦って夷狄が少しのギリシア船に距離を詰めてくると、アガトクレスは十分な兵士を有していたために優勢に立った。そこでカルタゴ船は退却して弓の射程圏外の沖合へと少し引いたが、アガトクレスは兵をラトミアイと呼ばれる場所に上陸させて海から海へと柵を築き、船を陸に上げた。
7 その危険な試みによって到着すると、アガトクレスは今一つのさらに危険な試みを敢行した。彼の提案に従う用意のある隊長で身辺を固めてデメテルとコレに犠牲を捧げた後、彼は集会を召集した。次に彼は演説のために出てきて王冠をつけて見事なヒマティオンを身に纏ってその壮挙にふさわしい前置きを述べると、カルタゴ軍に追われていた時にシケリアを守る二柱の女神デメテルとコレに全ての船を焼いて捧げる奉納品として捧げることを誓っていたと明言した。そして彼は彼らが大胆に戦いさえすれば、それらの船の代わりに何倍もの船が返ってくるだろうと約束した。さらに彼は犠牲の兆しからそれらの女神が戦争全体での勝利を予言していると本当に言い加えた。彼がこのようなことを述べていた間、彼の供廻りの一人が火のついた松明を持ってきた。これを持って全ての船の船長に松明を配るよう命令を下すと、彼は女神に祈願してまず自らが船長をしていた三段櫂船に火をつけた。船尾の近くに立つと彼は他の者にも彼に倣うよう言った。次いで全ての船長が火を投じると炎はすぐに高く燃え上がり、ラッパ手が戦いの合図を鳴らして軍は雄叫びを上げると、皆が無事帰国できるようにと祈った。アガトクレスはこれを主として兵士を危険の真っ直中に放り出して逃げ道はないと思わせるために行ったのであり、それというのも船への退路が断たれれば、勝利のみが安全の希望となることが明らかだったからだ。さらに彼の軍は小勢であったため、もし船を守ろうとすれば軍を割かざるを得なくなり、そうなれば敵と戦うには不十分な戦力になってしまうし、もし船に守備隊を残さなければ、船はカルタゴ人に渡ってしまうと考えていた。
8  にもかかわらず、全ての船に火が点けられて火柱が高く伸びると、シケリア軍から恐怖が沸いてきた。まずアガトクレスの策略と再検討の暇さえ与えなかった彼の試みの素早さで我を忘れたために皆がその行いを承認していた。しかし時が詳細な検討を可能にすると、彼らを母国から隔てる海の広大さを考えて彼らは後悔に襲われ、身の安全を絶望視した。しかしアガトクレスは兵士から落胆を取り除こうとして軍をメガレポリスと呼ばれるカルタゴ人の都市へと率いていった。彼らが進軍するためにそこを通る必要があるその間にある地方は非常に多くの水流が小さい運河になってあらゆる地域に水を引いていたため、庭園とあらゆるものの大農園に分けられていた。またその地方には贅沢に作られて化粧漆喰で覆われていた家が点在し、それはそれを持つ人たちの富を物語っていた。そこの住民は長く続いた平和で様々な産品を豊富に溜め込んでいたことが分かり、農園の建物は悦楽に必要なあらゆるもので満たされていた。土地の一部にはブドウの木が植えられ、他の地区からはオリーブが産出され、他の様々な果実の生る木もぎっしりと植えられていた。方々では平原に牛や羊の群が放牧され、隣接する牧草地は草を食む馬で満たされていた。カルタゴ人の主導者たちはそこを私有地として悦楽のためにその富でそれらを美化していたため、概してその地方には多種多様な繁栄が存していた。したがってシケリア軍はその土地の美しさと繁栄ぶりに驚き、すでにある危険に等しい報償が勝者の手に手に入るために希望に満ち溢れた。そしてアガトクレスは兵士たちが落胆から回復して戦いを望むようになったのを見て取ると直接攻撃によって市の城壁を攻めた。到来は予期せぬものであり、住民は何が起こったのか分からず、戦争の経験もなかったために短時間しか抵抗しなかったため、彼は市を陥落させた。市を兵士の略奪に委ね、彼は一撃で軍に戦利品を山と持たせて彼らに自信を与えた。次いでいわゆる白いテュニスへとすぐに進むと、彼はカルタゴからおよそ二〇〇〇スタディオンのところにあったその市を服属させた。兵士たちは占領した両方の都市に守備隊を置いて戦利品を預けて置きたがっていたが、アガトクレスはすでになされ、そして群衆が言うような行動について考えると、戦いで勝利するまで彼らに逃げ場を与えないのが都合がよいと考えてそれらの都市を破壊して野営をさせた。
9 シケリア艦隊が岸に上がった場所に碇を下ろしたカルタゴ軍は船が燃えているのを見ると、恐怖のために敵は船を破壊せざるを得なくなったのだろうと考えて喜んだ。しかし敵軍が国土へと動いていることを知ると、その結果を勘考して艦隊の破壊は自分たちにとっては不幸なことだと結論した。したがって彼らはカルタゴ市に国家的な不幸が降り懸かった時にそのようにする習わしであったように船の舳先に獣の皮を張った。そしてアガトクレスの船の青銅の舳先を自分たちの三段櫂船の甲板に付けた後、彼らはカルタゴへと事の次第について正確に伝えるための伝令を送った。しかし彼らが状況を説明する前にアガトクレスの上陸を見た地方の人々が速やかにカルタゴ人に報告した。予期せぬ出来事で混乱が生まれ、彼らはシケリアの陸海の軍は壊滅してしまったのだと思った。というのも彼らは、勝利したか、敵が海を支配している時に海峡を渡らせて軍を輸送したというのでない限りアガトクレスが敢えて防衛軍をシュラクサイから剥がしたままにしておくわけがないと信じていたからだ。したがって困惑と大混乱が市を多い、群衆はアゴラへと殺到して長老会は何をすべきかを論じた。事実、手元には敵と戦うことができる軍がなく、多くの市民は戦争には無経験で、すでに絶望していた。そして敵は城壁のすぐ近くにいると考えられるようになった。したがってある者はアガトクレスに講和を求める使節団を送ることを提案し、その同じ人たちは敵の状況を探る間諜も送るべきであると提案した。しかしある人たちは正確に事の次第を把握するまではそれを延期させるべきであると主張した。しかし混乱が市内に広まっていた時に艦隊指揮官から送られてきた伝令が入港して事の次第の正確で適切な説明をした。
10 今やカルタゴ人の勇気を取り戻させると、評議会は艦隊指揮官の全員は海を支配していたにもかかわらず、敵軍をリビュアへと踏み入れさせたとして彼らを叱責し、反目していたハンノとボルミルカル〔このボルミルカルは19巻71章でアガトクレスとシケリア諸都市との和平を仲介したハミルカルの息子〕を陸軍の将軍に任命した。現に評議委員たちは将軍たちの私的な不信と対立のために市の安全は完全に守られるだろうと考えていたのだ。しかし彼らは完全に真実を見過ごしていた。というのも長らく僭主制の樹立を胸に抱いていたが、その試みのための権威と好機に恵まれなかったボルミルカルは今や将軍としての指揮権を得ることでそのための素晴らしい始点を手にした。この問題の基本的な原因は罰を科す際のカルタゴ人の苛烈さであった。戦争で彼らは指導的な人たちは国家全体のために真っ先に危険に立ち向かうことを当然と見なして彼らを指揮権へと進ませていた。しかし平和を手にするや彼らは訴訟によってその同じ人たちを悩ませ、嫉妬から彼らに対して不正な告訴がなされ、彼らを刑罰へと駆り立てていた。したがって指揮を執る地位にいた人たちの一部は法廷での裁判を恐れて地位を放棄したが、他の人たちは僭主になろうとした。二人の将軍のうちの一人、ボルミルカルはこのような人物であり、ここで彼は好機を得た。彼について我々は少し後に説明することになるだろう。
 しかし話を戻すが、カルタゴ軍の将軍たちは目下の状況は遅延を全く許さないものであることを知ると、国と同盟諸都市からの兵士を待たずに四〇〇〇〇人を下らない歩兵と一〇〇〇騎の騎兵、そして二〇〇〇台の戦車から成る市民兵を戦場へと率いていった。敵よりさほど高くない場所を占めると彼らは戦いへと軍を率いていった。ハンノは右翼として指揮して神聖隊を集め、彼らは彼の傍らで戦った。ボルミルカルは左翼を指揮し、前面に地形のために広く展開できなかったためにファランクスの縦深を深くした。戦車と騎兵を彼らはファランクスの前に置き、それらで最初の打撃を与えてギリシア軍の調子を試すことに決めた。
11 アガトクレスは夷狄の陣立てを見た後に二五〇〇人の歩兵を与えて息子のアルカガトスに右翼を任せ、〔その隣に〕四五〇〇人のシュラクサイ兵を置き、そして三〇〇〇人のギリシア人傭兵を、最後に三〇〇〇人のサムニウム兵、エトルリア兵、ケルト兵を置いた。彼その人はカルタゴの神聖隊と対陣して親衛隊と共に左翼の正面で戦った。五〇〇人の弓兵と投石兵を彼は両翼に分けた。兵士にたちにはほとんど満足な装備がなく、彼は乗組員の男たちが無防備であるのに気付くと、棒で盾の覆い〔獣皮〕を棒で引き伸ばして丸盾のような見かけにして彼らに支給し、実際の軍務には全く役立ちはしないが遠目ではそれを知らない者には武器を持っているように見せかけることができた。兵士たちが歩騎の数の多さに怯えているのを見て取ると彼は一般兵士の落胆を和らげるために長らく準備していたフクロウを軍の多くの場所に放った。フクロウはファランクスの上を飛んで盾と兜の上に停まったために兵士を元気付け、各々の兵はこの鳥はアテナを祭るものであったためにこれを吉兆と見なした。こういったものは一部の人たちに子供騙しに見えるだろうが、しばしば大きな成功の元となったものである。そしてまた一般の兵士に勇気を吹き込んで神が明らかに彼らの勝利を予告しているという噂が流れると、彼らはさらに確固たる気持ちで戦いを待った。
12 現に戦車が彼らに襲いかかってくると彼らはその一部を射撃して他のものは素通りさせたが、そのほとんどを歩兵の戦列へと追い返した。同じようにして彼らは騎兵の突撃も撃退し、その多くを打ち落として背後へと敗走させた。彼らが前哨戦で素晴らしい働きぶりを示していた一方で、夷狄の歩兵部隊は全員で白兵戦を仕掛けてきた。激戦が繰り広げられて選り抜きの兵士の神聖隊を麾下に置いて戦っており、自らが勝利の立役者となろうとしていたハンノはギリシア軍を激しく圧迫してその多くを殺した。あらゆる投擲兵器が彼に向けて放たれてもなお彼は一歩も引かずに憔悴して死ぬまで多くの傷を受けた。彼が倒れると、戦列のその部分に並んでいたカルタゴ兵は落胆したが、アガトクレスと彼の兵は気勢を上げて以前よりもずっと大胆になった。他の将軍ボルミルカルはある人からこれを聞き知ると、神々が彼に僭主制樹立を試みる好機を与えてくれたのだと考えて以下のように一人合点した。アガトクレス軍が壊滅すれば、市民たちは強力であろうために彼自身は最高権力を求めることが出来なくなるが、前者が勝利してカルタゴ人の誇りを消し去れば、すでに破れた人たちは簡単に御することが出来るであろうし、彼はアガトクレスをいつで望む時に破ることが出来るだろう、と。この結論に至ると彼は前衛の軍と共に撤退し、敵にとっては説明がつかない撤退の様を見せたが、自軍の兵にはハンノの死を知らせて隊列を維持して高地まで撤退するよう命令した。というのもこれは彼の言うところでは彼らにとっては利になっていたからだ。しかし敵が追い縋って全軍の撤退が敗走のような有様になると、隣の隊列のリビュア兵は前衛は完膚なきまでに敗れてしまったのだと信じ込んで壊走した。しかしハンノ将軍の死後神聖隊を率いていた人たちは当初は激しく抵抗し、味方の死体を踏み越えてあらゆる危険に耐えたが、軍の大部分が敗走に転じていて敵が彼らを背後から包囲しつつあることを知ると、撤退を余儀なくされた。かくして敗走がカルタゴ軍の全域に広がると、夷狄はカルタゴへと逃げ込んだが、アガトクレスはある地点まで追撃した後に引き返して敵の野営地を略奪した。
13 この戦いで二〇〇人のギリシア兵、一〇〇〇人を下らないカルタゴ兵が死んだが、幾人かの書くところでは〔カルタゴ軍の死者は〕六〇〇〇人を上回ったという。カルタゴ軍の野営地では他の物資、多くの荷に加えて二〇〇〇〇組以上の手枷が見つかった。というのもカルタゴ人はギリシア軍を易々と打ちひしげるだろうと予想していたため、彼らの間では可能な限り多くの者を生け捕りにし、手枷を着けて奴隷の檻に投げ込もうという噂が出回っていたからだ。しかし、蓋し皮算用で思い上がる人の場合、定められた意図を持つ神は衆目に反して結果を真逆に変えるものである。カルタゴ軍を奇跡的に打ち破るやアガトクレスは彼らを城壁の内側に封じ込めることになった。しかし運命は勝利と敗北を同時にもたらし、勝者を敗者と同じような境遇に陥れた。というのも、一度の大会戦でアガトクレスを破ったシケリアのカルタゴ軍はシュラクサイを包囲していたが、リビュアでアガトクレスは重要な一戦で優位に立ってカルタゴ人を包囲下に置いていた。そして最も驚くべきことは、僭主の島で彼の軍は無傷であったにもかかわらず夷狄より劣っていることを示したが、一度破れた軍の一部を率いて彼は勝者に対して優位に立ったことである。
14 したがってカルタゴ人はその不幸は神々によって彼らにもたらされたものだと信じ、あらゆることをして神的な力への嘆願を行った。彼らは彼らの母都市で崇拝されていたヘラクレスが特に彼らに怒っていると信じて多額の金と最も高価な奉納品をテュロスに送った。その都市から植民団として彼らが来て以来、前の時代にはその神に彼らが得た多額の財産とさらに多額の歳入の全てのうちの十分の一を贈ることが習慣になっており、彼らは神のことをあまり考えずにほんの少ししか贈らなかった。しかしこの不運のために一転して後悔した彼らはテュロスの全ての神のことを考えるようになった。奉納品を許しを得るために贈れば、神の怒りをより宥められるだろうと信じて彼らは嘆願にあたって彼らの神殿からその図像が描かれた黄金の神殿を贈りさえした。また彼らは以前はクロノス〔バアルないしモロク〕神に最も高貴な子供たちを犠牲を捧げる習わしになっていたが、最近は密かに買って育てていた子供たちを犠牲に捧げていたため、その神が彼らに立腹していると言いたてた。そして調査がなされると、犠牲に捧げられていた子供の一部はそうであるように推定されるということが明らかになった。彼らはこのことに思いを致して城壁の前に敵が野営していることを知ると、父たちによってなされたことで神の栄誉を無視してしまったのだと信じたために迷信じみた恐怖で満たされた。彼らは自分たちの怠慢を修正しようと躍起になって二〇〇人の最も高貴な子供たちを選んで公式に犠牲に捧げた。容疑をかけられていた他の人たちは自発的に犠牲を捧げ、その数は三〇〇人を下らなかった。市内には青銅の手と手のひらを広げて地面に屈んでいたクロノス像があり、そのため各々の子供たちはそこに寝転がらされて火が満ちた穴の中に落とされた。これからエウリピデスが彼の作品に見られるタウリスでの生け贄についての神話を描き出したというのはあり得る話であり、その中で彼はイフィゲネイアが以下のようにオレステスに問いかけられる様を見せている。
「なら俺が死ねばどんな墓をもらえるんだ?」
「神聖な火の中、大地の大きな裂け目です」
 またギリシア人のうちでも古の神話ではクロノスは自らの子供たちを払い退けたという話が伝えられており、これがこの儀式においてカルタゴ人の記憶のうちで生き続けているかのようにも見える。
15 しかし事ここに至りてリビュアでの逆転の後にカルタゴ人はシケリアのハミルカルへと使者を送って可及的速やかに救援を送るよう求めた。そして彼らは彼へと拿捕したアガトクレスの艦隊の青銅の舳先を送った。ハミルカルは密かに渡ってきた使者たちに敗北に屈っすることなくアガトクレスの艦隊と全軍が全滅したという噂を兵士の間に広めるよう命じた。ハミルカル自身はシュラクサイへとカルタゴからやってきた人たちの一部を使節として送って彼らに舳先を持たせ、市の明け渡しを要求した。というのも彼の言うところでは、シュラクサイ軍はカルタゴ軍に粉砕されてその艦隊は焼き払われており、信じない人にはその舳先を証拠として見せた。市の住民がアガトクレスの悲運を知らされると、一般庶民はそれを信じた。しかし行政官たちはそれを疑って混乱が起きないように厳に警戒しつつ、すぐに外へと使節団を送った。そして亡命者の親類と友人たちと行政官の行いに不満を持った他の人たちを彼らは市から退去させ、その数は八〇〇〇人を下らなかった。その結果、非常に多くの人が突然故郷を追われることになり、市はあちこちが騒擾と女性の嘆きで満たされた。というのもその時に悲嘆を免れた家などなかったからだ。僭主派の人たちはアガトクレスと彼の息子たちの不幸を嘆き、市民の一部はリビュアに消えたと信じられた人たちのために、他の人たちは暖炉と先祖代々の神々から奪われた人たちと夷狄が市を囲んでいるために城壁の外に残ったり出たりすることさえできない人、予想された余りにも大きな害悪に加えて逃げるにあたっては幼子と妻を連れていかなければならなかった人たちのために涙を流した。しかし亡命者たちがハミルカルのところに逃げ込んでくると、彼は彼らに身の安全を申し出た。そして軍の支度をさせると、守り手の不在とそこに残っていた人たちに伝えられていた惨事のためにその都市とを落とせると期待して彼はシュラクサイへと率いていった。
16 ハミルカルが先に使節を送ってもしアンタンドロスと彼と共にいた人たちが市を明け渡せば彼らに身の安全を保証すると申し出た後、高位の指導者たちは相談した。議論が長引くとアンタンドロスは生来臆病で、兄の大胆さと活力とは真逆の性格だったために市を明け渡す必要があるのではないかと考えるようになった。しかしアガトクレスによって彼の兄弟の共同統治者に任じられていたアイトリア人エリュムノンは反対意見を展開して真実が耳に入るまでは持ち堪えるよう説得しようとした。ハミルカルは市内の彼らの決定を知ると、攻撃を決意してありとあらゆる攻城壁を作った。しかし戦いの後に二隻の四つの櫂のついた船を建造していたアガトクレスは人々に勝利を報告するためにその甲板に最も力の強い漕ぎ手で最も信頼する友人の一人ネアルコスを乗せてそのうち一隻をシュラクサイへと送り出した。順調な船旅をこなし、彼らは五日目の夜にシュラクサイに近づき、花冠を被って戦歌を歌いながら航行して夜明けに市に到着した。しかしカルタゴ艦隊の見張りの船がそれらの姿を見つけて猛追跡をしてきて、追跡された側は優勢な立場ではなかったために競って櫂を漕いだ。それらが互いに競っていた一方で市の民衆と包囲軍は何が起こったのかを知るとどちらも港に走り、いずれの集団も自分たちの側の人への心配の感情を共有して大声で応援した。急派された小舟があと少しで捕らえられそうになると夷狄は勝利の雄叫びを上げ、市の住民は他に寄る辺などなかったために航行している人たちの無事を神々に祈った。しかし岸からそう遠からぬ所で一隻の追跡船の衝角が輸送船に一撃食らわせようとしたところ、追われている船はうまくと投擲兵器の射程外へと離脱し、シュラクサイ人が助けに来ると危機を脱した。しかし市の住民が心配と今や予想される手紙の驚くべき内容のために港へと集まってくると、ハミルカルは城壁の一部が無防備になっていると推測して梯子を持たせて最強の兵士たちを進ませた。彼らは歩哨がいなくなっているのを見て取ると、気付かれずに上った。しかし二つの塔の間の城壁をほとんど奪取しかけた時、習慣通り回ってきた見張りが彼らを見つけた。続いて起こった戦いで市兵が集まってきて、城壁に上った者への援軍に来つつあった者に先んじて到着し、その一部を殺して他の者を胸壁から投げ落とした。ハミルカルはこれで大いに落胆したために市から撤兵してカルタゴにいる人へと遠征軍のうち五〇〇〇人の交代する兵士を送った。
17 その一方で平地を制圧していたアガトクレスは強襲によってカルタゴ近くのいくつかの要塞を落とし、都市の一部を彼への恐怖のために、他のものをカルタゴ人への憎悪のために説き伏せて味方につけた。テュニスの近くの野営地を要塞化して十分な守備隊を残した後に彼は海沿いの諸都市へ向かった。最初の都市ネアポリスを強襲によって落とすと彼は捕らえた人を人道的に扱った。次いでアドリュメティノンへ向けて進撃してその都市の包囲を開始し、リビュア人の王アイリュマスを同盟に引き入れた。それらの動きを知るとカルタゴ人はテュニスへと全軍を差し向けてアガトクレスの野営地を占領した。次いで市へと攻城兵器を運ぶと彼らは容赦ない攻撃をかけた。しかしアガトクレスは数人の者が彼の兵を襲った逆転を報告してくると、軍の過半数を包囲のために残し、従者と少数の兵を連れて密かに山の中にあるアドリュメティノンの人々からもテュニスを囲むカルタゴ軍からも彼が見える場所へと向かった。この兵を使って夜に広い場所を〔兵士の実数以上のかがり火の〕明かりで照らすことで彼はカルタゴ軍に彼が大軍を連れてやってきていると信じさせ、一方で籠城軍は強力なもう一つの軍勢が敵への同盟軍として目と鼻の先にいると考えた。その両方はその詐術にまんまと騙されて予期せぬ敗北を喫することになった。テュニスを包囲していた軍は攻城壁を捨ててカルタゴへと逃げ帰り、アドリュメティオンの人々は恐怖のために故郷を明け渡した。協定の下でこの都市を受け取った後にアガトクレスは力づくでタプソスを落とし、この地方の他の諸都市の一部を強襲によって落とし、他のものを説得によって味方につけた。数にして二〇〇以上の全ての都市を支配下に納めると、彼はリビュア地方の内陸部へと軍を進めようという考えを胸に抱いた。
18 アガトクレスが出撃して何日も順調に進軍した後、カルタゴ人はシケリアから渡ってきた軍と他の軍を合わせた全軍で進撃して再びテュニスを包囲した。彼らは敵の手に落ちた多くの土地を再占領した。しかしアガトクレスは分遣していた輸送部隊がテュニスから彼のところにやってきてフェニキア軍がしたことを明らかにしたため、すぐに引き返した。敵からおよそ二〇〇スタディオンのところに差し掛かると彼は陣を張って兵士には火を点けるのを禁じた。次いで彼は夜に進軍し、郊外で食料調達をしていた者と無秩序に野営地の外を彷徨っていた者に夜明けに襲いかかり、およそ二〇〇〇人を殺して少なからぬ捕虜を得て大いに未来への希望を強めた。今やシケリアからの援軍が到着してリビュアの同盟軍が近くで戦っていたためにカルタゴ軍はアガトクレスに対して優勢になったようであった。しかし彼がこの勝利を得るとすぐに夷狄の自信は再び衰えた。事実、彼はリビュア人の王で彼を見捨てていたアイリュマスを戦いで破り、この王と多くの夷狄の兵を殺した。
 シケリアとリビュアの情勢は以上のようなものであった。
19 マケドニアではカッサンドロスがアウタリアタイ族と戦っていたパイオニア人の王アウドレオンの援助に向かって王を危機から救ったが、全部で二〇〇〇〇人のアウタリアタイ族を彼らに随行していた女子供もろともオルベロスと呼ばれる山の近くに住まわせた。したがって彼が戦っていた一方で、アンティゴノスの将軍で、ペロポネソスで軍を任されていたが、その君主に苛立ちを覚えていたプトレマイオスは、当人の言うところでは然るべき報償で讃えられていなかったためにアンティゴノスに反旗を翻してカッサンドロスと同盟を結んだ。最も信頼する友人であったフォイニクスをヘレスポントス沿いの太守領の支配者として残してプトレマイオスは彼に兵士を送り、砦と都市に守備隊を置いてアンティゴノスには従わないよう命じた。
 ギリシア諸都市の自由に関する共通の協定を指導者らと結ぶとエジプトの支配者プトレマイオスは守備隊で諸都市を占領しているとしてアンティゴノスを非難し、戦争の準備をした。軍とその指揮官レオニダスを送ると、プトレマイオスはアンティゴノスに服属していたキリキア・トラケイアの諸都市を服属させ、カッサンドロスとリュシマコスが支配していた諸都市へ自分との共同作戦を実施し、アンティゴノスがこれ以上強力になるのを防ぐことを求める手紙を送った。しかしアンティゴノスは末息子のフィリッポスをフォイニクス及び叛徒らと戦うためにヘレスポントスへ、デメトリオスをキリキアへと送り、デメトリオスは精力的に遠征を行ってプトレマイオスの将軍たちを破って諸都市を回復した。
20 一方その時ペロポネソスにいてカッサンドロスのことを苦々しく思っており、マケドニア人への主導権を長らく切望していたポリュペルコンはペルガモンからバルシネとアレクサンドロスの息子で、ペルガモンで育てられていて齢一七歳であったヘラクレスを呼び寄せた。その上ポリュペルコンは多くの場所にいた自身の友人とカッサンドロスと不仲だった人たちに手紙を書いてこの若者に彼の父祖の王権を取り戻させてやろうと説得した。また彼はアイトリア人の連合に安全通行を認めて彼と戦力を合体させるよう要請し、彼らがもし父祖の王権をこの若者に与えるのを助けてくれるのならば長らくその支持に報いることを約束する手紙を書いた。事態は彼の思った通りに進展し、アイトリア人は熱烈に賛成して他の多くの人たちは王の復活を急いで援助するようになり、全部で二〇〇〇〇人以上の歩兵と少なくとも一〇〇〇騎の騎兵が集まった。一方ポリュペルコンは戦争の準備をしようとして金を集め、友好的だったマケドニア人に手紙を送ってその試みへの参加を促した。
21 しかしキュプロス諸都市の支配者であったプトレマイオスはある人からパフォスの王ニコクレス〔キュプロス島には同名のサラミス王がいるが、どうやらディオドロスは両者を混同しており、以下に述べる末路を辿ったのはサラミス王ニコクレスのようである(N)。〕が密かに個人的にアンティゴノスと同盟を結んだことを知ると、ニコクレスを殺すよう命じてアルガイオスとカリクラテスという二人の友人を急派した。というのも彼は以前に反旗を翻した者が罰せられないでいるのを見ると他の王たちも急いで忠誠を翻すのではないかと恐れてあらゆる警戒をしたからだ。したがってその二人の男は島まで航行してメネラオス将軍から兵を受け取った後にニコクレスの母国を包囲し、彼に王の望みを知らせて自害を命じた。最初、彼はその非難に対して申し開きをしようとしたが、誰からも相手にされなかったために自殺した。ニコクレスの妻アクシオテアは夫の死を知ると敵の手に渡すまいとして未婚の娘たちを殺し、プトレマイオスはその女性について何も指示を与えておらず彼女らの身の安全を認めていたにもかかわらず、ニコクレスの兄弟の妻たちに自分と共に死ぬのを選ぶよう説いた。したがって宮殿が死体と予期せぬ惨劇で満たされると、ニコクレスの兄弟たちは扉を閉ざして建物に火を放って自害した。かくしてこの王家はここで述べたような末路を辿ったのである。
 今や我々はキュプロスで起こったことを終わりまで述べたので、次に起こる出来事へと話を移すことにしよう。
22 およそ時を同じくしてポントス地方にて、キンメリアのボスポロスの王であったパリュサデスの死後、エウメロス、サテュロス、そしてプリュタニスといったその息子たちが互いに首位を争った。彼らのうち最年長だったためにサテュロスが父から彼が三八年間〔紀元前348-310年〕王であった統治権を受け取ったが、エウメロスは近くに暮らしていた夷狄と友好条約を結んだ後、これによって強力な軍を集めて王位を請求する競争相手となった。これを知るとサテュロスは強力な軍を率いて彼へ向けて出撃した。タテス川を渡って敵の近くに来ると、彼は野営地を十分な物資を運んだ荷駄車で囲み、軍を戦闘隊形にしてスキュティア式に自らファランクスの中央に陣取った。彼の軍には二〇〇〇人以上のギリシア人傭兵と同数のトラキア兵が登録されていたのみならず、その他の残りは全ては二〇〇〇〇人以上の歩兵と一〇〇〇〇騎を下らない騎兵から成るスキュタイ人同盟軍であった。しかしエウメロスはシラコイ族の王アリファルネスを同盟者とし、二〇〇〇〇騎の騎兵と二二〇〇〇人の歩兵を有していた。激しい戦いが起こり、サテュロスは供回りであった選り抜きの騎兵部隊を率いて戦列の中央に布陣していたアリファルネスに攻撃をかけた。双方で多くの兵士が倒れた後、ついに彼はその蛮族王を後退、そして敗走させた。まず彼は突進して追いついた多くの敵兵を殺し、その少し後に弟のエウメロスが右翼で優位に立っていて自軍の傭兵部隊が敗走に転じていることを聞くと、追撃をやめた。負かされていた部隊の救援に向かい、次いで勝利の立役者となると、彼は敵の全軍を敗走させて彼の生まれと勇気のために彼こそが父の王権を継承するに相応しいということが誰の目にも明らかになった。
23 しかしアリファルネスとエウメロスは戦いで敗れた後に〔シラコイ族の〕首都まで逃げた。その都市はタテス川沿いにあってその川は市を囲んでおり、かなりの深さであったためにむしろ市へと近づきにくくしていた。その都市は大きな崖と鬱蒼とした森にも囲まれており、市にはその両方が人工的なものであった二つの入り口しかなく、そのうち一つは王城の中にあって高い塔と外堡で補強され、他方は反対側の沼地にあって木の柵で防衛され、一定間隔に杭があってそれが水上の家を支えていた。その地の堅固さは並大抵のものではなく、サテュロスは手始めに敵地を略奪して村々に火を放ち、そうして捕虜と多くの戦利品を集めた。しかしその後に彼は道を通って〔市の中に〕押し入ろうとした。外堡と塔のために彼は多くの兵を失って退却したが、沼地を強行突破して木の柵を占領した。これを壊して川を渡った後、彼はそれを使って王宮に着くために進むのに必要な木を伐採した。これが精力的に進展していた一方で、アリファルネス王は自分の都が強襲によって落とされるのではないかと案じ、身の安全の希望は勝利のみにかかっていると信じて非常に大胆に戦った。彼は道の両側に弓兵を配置し、その支援によって木を切っていた者に簡単に致命傷を与えたのであるが、それというのも木の密集のために彼らはその時に矢玉が見えず、弓兵に逆襲することもできなかったからだ。サテュロスの兵は三日間木を伐採して道を造って困難に耐えた。四日目に彼らは城壁まで近づいたが、多くの矢玉に圧倒されて狭い足場で破れ、大損害を被った。現に傭兵隊長で知慮と大胆さに秀でていたメニスコスは城壁までその道を踏破して兵士と共に勇敢に戦った後、より強力な軍勢が向かってくると撤退を余儀なくされた。彼が危機に瀕しているのを見て取ると、サテュロスは急いで彼の救援へと向かったが、敵の突進を持ち堪えて上手からの投槍で負傷した。傷が重くなったために彼は野営地へと戻り、夜が来ると彼は父パリュサセデスの死からわずか九ヶ月君臨して死んだ〔紀元前310年〕。かくして傭兵隊長メニスコスは包囲を諦めて軍をガルガザ市へと引かせ、そこで川を使って王の遺体を弟プリュタニスがいるパンティカパイオンまで運んだ。
24 プリュタニスは〔パンティカパイオンで〕豪華な葬儀を挙げて王の墳墓へと遺体を安置した後、速やかにガルガザへと向かって軍と王権の両方を引き継いだ。エウメロスが王国の分割についての使節を送ると、彼は聞く耳持たずにガルガザに守備隊を残し、自らの王の特権を確保するためにパンティカパイオンへと戻った。この間にエウメロスは夷狄との共同作戦でガルガザと他の諸都市と村々を占領した。プリュタニスが自らに手向かってくると、エウメロスは弟を戦いで破った。マイオティス湖の近くの地峡に彼を封じ込めた後に彼は軍を引き渡して王としての地位を明け渡すという条項を受け入れさせた。しかしプリュタニスは常にボスポロスを支配する者の首都であったパンティカパイオンに入ると王国を取り戻そうとした。しかし彼は破れていわゆる「庭園」〔現在のタマン半島〕まで逃げ、そこで殺された。弟の死後エウメロスは自らの権力を確固たるものにしようと望んでサテュロスとプリュタニスの友人たちを殺し、似たようにしてその妻子も殺した。サテュロスの息子で、非常に幼かったパリュサデスのみが唯一彼から逃れた。彼は馬の背に乗って都市を脱出し、スキュタイ人の王アガロスのところに逃げ込んだ。市民は親戚の殺害に怒ったためにエウメロスは人々を集会に呼んでそこでこの問題について弁明をして父祖の政体を復活させた。彼はパンティカパイオンに住む人が彼の祖先の下で支払っていた課税の免除を認めさえした。彼は彼らの全員を特別税から解放すると約束しもし、人々の支持を得ようとして他にも多くの方策を論じた。彼の恩恵によって皆が即座に以前の好意を取り戻すと、その時から彼は王であり続け、臣民を合法的に支配して彼の優秀さのために少なからぬ評判を得た。
25 エウメロスはビュザンティオンとシノペの人々、そしてポントス沿いに住む他のギリシア人のほとんどへと親善を示し続け、カランティアの人々がリュシマコスに包囲されて食糧不足で追いつめられた時には飢餓のために母国を去った一〇〇〇人の面倒を見た。その時に彼は彼らに安全な避難場所を認めてやっただけでなく、住むための都市も与えてプソアンカイティネと呼ばれる地方に土地を分け与えた。ポントスを航海する人の利害のために彼は海賊行為を働くのが常となっていた夷狄、ヘニオコイ人、タウロス人、そしてアカイア人と戦端を開いて海賊を海から一掃し、その結果、商人は彼の偉業の知らせを外国へと運んだために彼の王国のみならず人の住む世界のほとんどさえも彼は当然ともいえる最高の名声、賞賛を受けた。また夷狄から彼は人の住む多くの近隣地方の領有権も得て王国をより高名にした。要するに彼はポントス沿いの全ての民族を服属させ、彼の人生が突然切り上げられなかったならば恐らく目的を達していたことだろう。彼は五年と同じ数の月に王位にあった後に非常に奇妙な災難に遭って死んだ。彼はシンディケからの帰国の途上にあって犠牲を捧げるのを急いでいたため、四つの車輪と天蓋があった四頭立ての馬車で王宮へと駆けていると、馬がおびえて彼のいうことを聞かなくなった。御者が手綱を操れなくなったため、王は渓谷へと連れて行かれてしまうのではないかと恐れて飛び降りようとした。しかし剣が車輪に絡まって彼は馬車の動きに合わせて引きずられてある地点で死んでしまった。
26 エウメロスとサテュロスの兄弟の死についていくつかの予言が伝わっているが、それらはむしろ馬鹿馬鹿しいものではあったが地上の人々の間で受け入れられた。それらは神はサテュロスにネズミが死因にならないようにネズミから身を守るように言ったと述べている。このために彼は奴隷にせよ自由民にせよこの名前を持つ者が自分の許で働くことを許さず、家の内外のネズミを恐れ、いつも奴隷たちにはネズミを殺して穴を塞ぐよう命令しもした。しかし、破滅を避けようと考えて万全を期したにもかかわらず「ネズミ」に上腕を噛まれて死んでしまった。その際エウメロスは移動する家から身を守るよう注意すべきであった。そういうわけで彼はその後は家来が前もって屋根と床下を調べなければ自分から家には入らなかった。かくして四頭立ての馬の戦車の上に乗っていた天蓋のせいで彼が死ぬと、衆目は予言が成就したということになった。
 ボスポロスで起こった出来事についてはこれで十分だろう。
 イタリアではローマの執政官たちが軍を率いて敵地に攻め込んでサムニウム軍をタリウムと呼ばれる場所で起こった戦いで破った。敗者が聖山という名で呼ばれる場所を占拠すると、ローマ軍は夜が来たので当面は野営地へと撤退したが、翌日に二度目の戦いが起こって多くのサムニウム兵が殺されて二二〇〇人以上が捕虜になった。それらの勝利をローマ軍が得た後、当然の如くそれから執政官たちは損害を被ることなく平野を制圧し、服していなかった諸都市を制覇することになった。カタラクタとケラウニリアを包囲して落とすと、彼らはそれらに守備隊を置いたが、他の都市のあるものは説得によって味方に引き入れた。
27 ファレロンのデメトリオスがアテナイでアルコンだった時〔紀元前309-308年〕、ローマではクィントゥス・ファビウス〔・マクシムス・ルリアヌス〕が二度目の、ガイウス・マルキウス〔・ルティルス〕が一度目の執政官職に就いた〔紀元前310年〕。彼らが任期にあった時、エジプト王プトレマイオスは自分の将軍たちがキリキアの諸都市を失ったことを聞くと、ファセリスへと軍を率いて航行してこの都市を落とした。次いでリュキアへと渡って彼はアンティゴノスが守備隊を置いていたクサントスを強襲によって落とした。次に彼はカウノスへと航行してその都市を味方に付け、守備隊が籠もる砦に猛攻を加え、ヘラクレイオンを攻め、兵士が彼に引き渡したペルシコンを手に入れた。その後彼はコスへと航行してアンティゴノスの甥で彼から一軍を委ねられていたにもかかわらず、伯父を見捨ててプトレマイオスに共同作戦を持ちかけていたプトレマイオスに手紙を書いた。プトレマイオスがカルキスからコスまで航行してくると、プトレマイオスは最初は彼を礼儀正しく迎え、やがて彼が図々しくなって彼の将軍たちを会話と贈り物によって自分の味方に付けようとしているのを知ると、彼が何か陰謀を企むのではないかと恐れ、先手を打って彼を逮捕してドクニンジンを飲ませた。プトレマイオスにつき従っていた兵士たちは、約束によってプトレマイオスになびき、彼は彼らを自軍に分けた。
28 その間に強力な軍を集めたポリュペルコンはアレクサンドロスとバルシネの息子ヘラクレスに父の王国を取り戻させようとしたが、ステュンファイオンと呼ばれる場所に野営していた時にカッサンドロスが軍と共にやってきた。野営地は互いに非常に離れていてマケドニア人たちは嫌悪を感じることなく王の復帰を考えていたため、カッサンドロスはマケドニア人たちが彼らの簡単に寝返りがちなその天性のために折に触れてヘラクレスになびくのではないかと恐れ、ポリュペルコンに使節を送った。 王についていえば、カッサンドロスはポリュペルコンにもし王権の復古が成れば、彼は他人から命令される立場になるであろうことを示そうとしたが、もしポリュペルコンが彼と手を結んでその青年を殺せば、すぐにマケドニア人のうちで以前に彼が認められていたものを取り戻せるだろう、そして軍を受け取った暁にはカッサンドロスの王国でペロポネソスの将軍に任命され、全ての人に勝る名誉を得ることになるだろうと言った。結局彼はポリュペルコンを多くの約束によって手懐け、密かに彼と連絡を取って王を殺させた。その若者を殺して公然とカッサンドロスと共同行動をとると、ポリュペルコンは協定に則ってマケドニアでの地位を取り戻し、四〇〇〇人のマケドニア人歩兵と五〇〇騎のテッサリア騎兵を受け取った。また他の者でそれを望む者も徴募し、彼はボイオティアを抜けてペロポネソス半島へと彼らを率いていこうとした。しかし彼はボイオティア人とペロポネソス人による妨害を受けると、道を逸れてロクリスへと進んでそこで冬を越した〔紀元前309/8年冬〕。
29 それらの出来事が起こっていた一方でリュシマコスはケルソネソスに都市を建設し、自らの名にちなんでリュシマケイアと呼んだ。ラケダイモン人の王クレオメネスは六〇年と一〇ヶ月統治した後に死に、クレオメネスの孫でアクロタトスの息子であったアレウスが王位を継いで四四年間統治した。
 この頃にシケリアにいた軍勢の将軍ハミルカルは残っていた前哨基地を奪取した後に強襲によってその都市を落とそうと目論んでシュラクサイへと軍を進ませた。彼は長らく海を勢力下に置いていたために穀物の輸送を邪魔した。そして陸にいた軍勢を撃破した後に今や都市の前に広がっていたオリュンピエオン辺りの地区を占領しようとした。しかし、占い師が次の日に彼が確実にシュラクサイで晩餐を取るだろうという犠牲獣の卦を彼に言ったため、到着してすぐに彼は城壁も攻撃しようと決めた。しかし敵の意図を知ると市の人々は歩兵およそ三〇〇〇人と騎兵およそ四〇〇騎をエウリュエロスを占領するよう命じて夜に送り出した。彼らは速やかに命令を実行したが、カルタゴ軍は敵に気付かれないだろうと信じて夜間に進軍していた。その時ハミルカルは予定地点に通常彼の周りを固めていた兵と共におり、彼には騎兵の指揮権を受け取っていたデイノクラテスが続いた。歩兵の本隊は一つは夷狄から、もう一つはギリシア人同盟軍から成る二つのファランクスに分けられた。隊列の外側には戦利品目当てでついてきていた混ぜこぜの烏合の衆がおり、その男たちは軍にとっては何の役にも立たないが、騒動と不合理な混乱の元となり、この上ない危険が彼らからしばしばもたらされた。この時には、道は狭く荒かったために輜重部隊と従軍者の一部は道を通ろうとして争って互いに押し合い続けた。そしてその群衆は狭い場所で圧され、このために一部の者は喧嘩に巻き込まれて多くの者はそれぞれの側を助けようとし、大変な混乱と騒乱が軍中に広まった。
 ここでエウリュエロスを占領したシュラクサイ軍は敵が混乱しながら前進しており、一方で彼らの方はというと高地に拠っていることに気付くと、敵に攻撃をかけた。彼らの一部はその高地に立って近づきつつある敵に投擲兵器を放ち、有利な場所に拠っていたために一部の者は逃げる兵士を断崖へと追い込んだ。暗闇と情報不足のために敵はシュラクサイ軍は大軍で攻撃をかけてきたのだと思った。カルタゴ軍は一部では隊列の混乱のために、また一部では敵の突然の出現のために、そしてとりわけ土地勘のなさと窮屈な場所のために劣勢に陥って敗走した。しかしその場所を抜けて広い場所に出ると、彼らの一部は多数の騎兵によって踏みしだかれ、他の者は暗闇のために訳も分からずに同士討ちを起こした。ハミルカルは当初は敵を果断に退却させ、近くに整列した兵を自分と共に戦うよう激励していたが、後になって兵士は混乱と恐慌のために彼を見捨てて、彼は一人取り残されてシュラクサイ兵に襲われた。
30 運命の一貫性のなさと人間の出来事が予想に反して進展する奇妙な仕方は理由をもって述べられるだろう。というのも勇気で秀でて彼を支えるために戦う大軍勢を持っていたアガトクレスはヒメラ川で夷狄に決定的な敗北を喫したのみならず軍の最精鋭と大部分の兵を失い、その一方でシュラクサイに前に破れた者のほんの僅かな一部の兵と共に残された守備隊は彼らを包囲したカルタゴ軍を打ち負かしただけでなく、市民のうちで最も高名な人物だったハミルカルを生け捕りにしさえした。最も驚くべきことは一一二〇〇〇人の歩兵と五〇〇〇騎の騎兵が策略と地の利を生かした敵の小勢に戦いで敗れたことであり、そのようなわけでこれは戦争は偶然を競うことだと言ったことの裏付けとなろう。
 敗走後、カルタゴ軍は方々に散って翌日に苦労しながら集結した。そしてシュラクサイ軍は大量の戦利品を持って帰り、ハミルカルを彼に復讐をしたがっていた人たちに引き渡した。彼らは神が形を変えつつ真実を示していた、ハミルカルが翌日にシュラクサイに入ってにそこで晩餐をとると言った占い師の言葉を思い出した。死者の親族はハミルカルを縛って市中を引き回して恐ろしい拷問を加えた後、全く不面目な仕方で彼を処刑した。次いで市の支配者は彼の首を刎ね、人を遣ってアガトクレスに向けてリビュアへとそれを届けさせ、勝ち得た勝利を報告させた。
31 起こったその災難の後にカルタゴ軍はその不運の原因を知ると、苦難の果てにその恐怖から解放された。優れた将軍がいなかったため、夷狄は〔彼らの側についていた〕ギリシア人と別れた。次いで他のギリシア人と共にいた亡命者たちはデイノクラテスを将軍に選出し、カルタゴ軍はハミルカルの部下だった人に指揮権を授けた。
 この頃、アクラガス人はシケリアの情勢が計画に最も好都合だと見て取ると島全域の覇権を手にしようとした。というのも彼らはカルタゴ人はアガトクレスとの戦争で虫の息であり、デイノクラテスは彼が亡命者の軍勢を集めていたために簡単に倒すことができ、シュラクサイの人々は飢餓でやつれていたために第一の地位を競おうとすらしないだろうと、そして最も重要なことはもし彼らが諸都市の独立を守るために立ち上がれば、皆が喜んで全ての人に根付いていた夷狄への憎悪と自治政府への望みのために呼びかけに応じるだろうと信じていたためであった。したがって彼らはクセノディコスを将軍に選んでその試みに適当な軍を授けて戦争へと送り出した。彼はすぐにゲラへと向かい、私的な友人によって夜に招き入れられて力と富によって市の支配者になった。かくの如くゲラの人々は解放されると、非常に熱狂的に全会一致で遠征に加わって諸都市を解放すべく出発した。アクラガス人の試みの知らせが島中に広がると自由への衝動が諸都市で顕著になった。まずエンナの人々がアクラガス人に手紙を出して都市を引き渡した。そして彼らがエンナを解放すると、アクラガス軍は〔カルタゴ軍の〕守備隊がいて市を監視していたにもかかわらずエルベッソス市へと向かった。 その中で市民がアクラガス軍を支援して激しい戦が起こった後に守備隊は捕らえられ、そして多くの夷狄が倒れたものの少なくとも五〇〇人が武器を置いて投降した。
32 アクラガス人がこのような戦いを展開していた一方で、アガトクレスによってシュラクサイに残されていた兵の一部はエケトラを奪取した後にレオンティノイとカマリナをを略奪した。それらの都市は原野の略奪と全ての収穫物の毀損を被ったため、クセノディコスがその地方に入ってきてレオンティノイとカマリナの人々を戦争から解放した。城壁が巡らされた都市であったエケトラを落とした後に彼はそこの市民のために民主制を樹立してシュラクサイ人を恐怖に陥れた。概して彼は前進する度にカルタゴの支配下にあった砦と都市を自由化していったのである。
 その一方シュラクサイ人は飢餓でひどく追いつめられており、穀物輸送船がシュラクサイへと向かっていることを知ると、常々港に碇を降ろしては彼らを監視していた夷狄を監視するために二〇隻の三段櫂船に人員を乗り込ませ、気付かれることなく出航してメガラへと沿岸航行し、商船の接近を待った。しかしその後カルタゴ軍が三〇隻の艦隊でそれらに向けて航行してくると、それらは最初は海戦を行おうとしたものの速やかに陸へと追いやられて船からあるヘラの神殿へと飛び込んだ。次いで船を巡る戦いが起こると、カルタゴ軍は三段櫂船に鍵爪のついた錨を投げて強い力でそれらを岸へと曳いていき、そのうち一〇隻を拿捕したが、他は市から救援のためにやってきた船によって救出された。
 シケリアの情勢は以上のようなものであった。
33 リビュアではハミルカルの首の輸送人が入港すると、アガトクレスはその首を持って敵陣の声が聞こえるくらいの近さまで騎馬で駆け寄ってそれを敵に見せ、彼らに遠征軍の敗北を述べた。カルタゴ軍は酷く落胆して夷狄の慣わしとして地面にうつ伏せになり、王の死を自分の不幸のように考えて戦争全体を深く絶望した。しかしすでにリビュアでの勝利で意気が上がっていたアガトクレスは運命の一撃が今や加えられると、自分は全ての危機を脱したと考えて空高く舞い上がった希望によって得意になった。にもかかわらず運命は同じ側の人間に長続きする成功を許さず、最大のその君主に彼の兵からの危機をもたらした。というのも指揮をする地位にあった人物の一人リュキスコスはアガトクレスに夕食に招待され、酒を飲んで君主を侮辱した。今や戦巧者として評価されていたアガトクレスは辛辣な言いぐさだったその冗談を受けて出ていった。しかし彼の息子アルカガトスは腹を立ててリュキスコスを非難して脅しつけた。酒宴が終わって人々が各々の方向に去っていくと、リュキスコスはアルカガトスの継母との姦通をあげつらって彼をなじった。というのも彼は父に知られずにアルキアという名の女人を我がものにしていると見られていたからだ。激怒したアルカガトスは護衛の一人から槍をひったくってリュキスコスを突いて肋骨を貫いた。彼はすぐに死に、家来によって天幕へと運ばれた。殺された男の友人たちは夜明けに雁首揃えてやってきて、他の多くの兵士たちが急いで彼らに加わろうとし、皆が事の次第に憤慨して野営地は騒動で満たされた。指揮をする地位にあった多くの者もまた批判の対象となっていて我が身を案じたため、その危機に乗じて些細というわけではない扇動に火を点けた。憤慨が全軍に満ちると、兵士たちは下手人を成敗すべく各々で完全武装した。そして最終的に群衆はアルカガトスは処刑されるべきであり、アガトクレスが息子を引き渡さなければ、相応の罰金を支払うべきだと決めた。彼らは彼らにとって当然の給与の支払いも要求し続け、軍を率いる将軍を選出した。そしてついに彼らの一部はトゥネスの城壁を奪取して方々の守兵で君主たちを包囲した。
34 カルタゴ人は敵中の不和を知ると彼らに寝返りを説く人たちを送り、より高額の給与と多額の特別手当を約束した。実際に多くの指導者が彼らに軍を引き継がせることに同意したが、アガトクレスは自らの安全が不安定になっているのに気付き、敵に引き渡されたら侮辱されながら生涯を終えることになるだろうと恐れ、危害を加えられることになれば自らの手で自害する方が良いと結論した。したがって紫衣を脱いで一市民の質素な服装に着替えた彼は群衆の真っ直中に出てきた。彼の行動が予期せぬものであったために沈黙が生まれ、群衆が駆け寄ってくると彼はこの危機的状況にうってつけの演説をした。彼の以前の事績を思い出させた後に彼はもし仲間の兵士によってそれが最善とあらば自分は死ぬ用意があると言った。というのも彼は怯懦によって強制されることなく命惜しさから侮蔑に耐えることを受け入れはしなかったからだ。兵士たち自身がこの目撃だと明言した彼はあたかも自害するかのように剣を抜いた。彼がまさに一撃やろうとしたところで軍は彼にそれを止めるよう叫び、方々から彼の責任を放免する叫び声が起こった。群衆が彼に王の衣装を着るよう迫り続けると、彼は彼の地位の服を着て涙を流して人々に感謝し、一方で群衆は軍内の不和の修復に喝采を送った。カルタゴ軍がギリシア軍がすぐに彼らに寝返ることを期待して無為に待っていた間にアガトクレスは気を逸することなく彼らに向けて軍を率いていった。夷狄は敵が彼らを見捨てたと信じ、現実に起こったことを全く考えもしていなかったのだ。敵の近くにやってくると、アガトクレスは突然戦いの信号を上げるよう命じて彼らに襲いかかり、大混乱に陥れた。カルタゴ軍は突然の逆転に呆然とし、多くの兵を失って野営地へと逃げた。したがってアガトクレスは息子のために最大の危機に陥った後、彼自身の卓越性によって苦境から脱したのみならず敵をも打ちひしいだ。しかし、騒動の主たる責任者と君主に敵対していた他の人たち二〇〇人以上は勇気を振り絞ってカルタゴ軍のところへと脱走した。
 今や我々はリビュアとシケリアでの出来事の説明を完了したので、イタリアで起こったことを述べることにしよう。
35 エトルスキ人がローマの植民市であったストリウム市と戦うと、執政官たち〔紀元前310年の執政官のクイントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスとガイウス・マルキウス・ルティルス・ケンソリヌス〕は強力な軍勢を連れて救援に駆けつけ、戦いで彼らを破って野営地へと撃退した。しかしこのローマ軍が遠くに出払っている時にサムニウム人はローマ人を支持するイアピュゲス人から妨げる者なく略奪を働いた。したがって執政官たちは軍の分割を強いられた。ファビウスがエトルリアに留まり、マルキウスがサムニウム人に向けて出発することになり、強襲によってアリファエを落として包囲されていた同盟国を危機から解放した。しかしエトルスキ人が対ストリウムの大軍を集めていた時にファビウスは敵情を知らずに隣接する地方を通って長らく略奪を受けていなかった高地エトルリアへと進軍した。そこを出し抜けに襲って彼はその地方の大部分を略奪した。彼は彼に手向かってきた住民に対して勝利してその多くを殺して少なからぬ捕虜を生け捕りにした。その後エトルスキ軍をペルシアと呼ばれる場所近くでの二度目の戦いで破ってその多くを撃滅すると、軍を率いてその地方に攻め込んだ最初のローマ人となったために彼はその民族を威圧した。彼はペルシアの人々に対してと同じようにアレティウムとクロトナ〔南伊にギリシア人が建てたクロトン市ではなく、エトルリアの都市〕の人々とも休戦した。包囲戦でカストラと呼ばれると市を落としたために彼はエトルスキ人にストリウムの包囲を解かしめた。
36 ローマではこの年に監察官が選出され、その一人はアッピウス・クラウディウスで、彼の同僚はルキウス・プラウティウスで、前者の影響の下で父祖の法に対して多くの改正がなされた。というのも彼は元老院を重要視せずに以下のようにして人々を喜ばせたからだ。手始めに彼はローマから八〇スタディオンのところにいわゆるアッピア水道を建設し、元老院の命令抜きでこの建設のために多額の公費を費やした。次に彼は彼の名にちなんで名付けられ、ローマからカプアまであり、一〇〇〇スタディオン以上の距離のアッピア街道の大部分を硬い石で舗装した。彼は盛り上がった場所を掘って目立つ盛り土で峡谷と渓谷を平らにしたため、彼は〔これらの工事に〕国家の全歳入を投じたが、公的な利害における野心を持って彼のために不死の記念物を残した。また彼は高貴な生まれと習わし上高位の人を〔元老院に〕登録したのみならず、解放奴隷の多くの息子を入れ、元老院を混ぜ合わせた。このために自らの高貴さを鼻にかけていた人たちは彼に対して憤慨した。また彼は各々の市民に何であれその者が望む部族で登録され、好きな財産等級に入る権利を与えた。つまり、最も優越した人たち〔貴族たち〕が胸に秘めた自らへの憎悪が見て取ると、彼は誰か他の市民へと非難が及ぶのを避け、貴族たちの敵意を多くの人の彼への好意で釣り合わせようとしたのである。騎士階級の調査にあたって彼は誰からも馬を取り上げず、元老院の名簿を作成し、監察官がそうするのが常であったところの不適格な元老院議員を一人も免職させなかった。次いで執政官たちは彼を憎悪し、最も優れた人たちを喜ばせるために元老院を召集したわけだが、それは彼が作成した議員一覧ではなく、以前の監察官たちの手による議員一覧に則ってであった。そして人たちは貴族に対抗してアッピウスを支持し、彼らの階級の地位向上を確固たるものにしようと望んで解放奴隷の息子で、奴隷を父に持ちながら官職に就いた最初のローマ人となったグナエウス・フラウィウスを按察官職のより優れたものに擁立した。アッピウスは任期を満了すると、元老院の悪意に対する警戒から失明したふりをして家に引きこもった。
37 カリノスがアテナイでアルコンだった時〔紀元前308-307年〕、ローマ人はプブリウス・デキウスとクイントゥス・ファビウスを執政官とし〔紀元前309年。ファスティでは紀元前309年はルキウス・パピリウス・クルソルが独裁官、ガイウス・ユニウス・ブブルクス・ブルートゥスが騎兵長官だった「独裁官の年」となっており、執政官はいない。この独裁官の年はおそらく二つの年代の体系を調整させるために考え出されたものであり、この虚構的な年をリウィウスとディオドロスはともに書き落としている。ファスティにある紀元前308年の執政官はプブリウス・デキウス・ムスとクイントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスである(N)。〕、エリスで一一八回目のオリュンピア祭が開催されてテゲアのアポロニデスが徒競走で優勝した。この時、プトレマイオスは強力な艦隊を率いてミュンドスから島々を経由して航行し、道すがらアンドロス島を解放して守備隊を追い出した。イストモス地峡へと向かって彼はシキュオンとコリントスをクラテシポリスから奪った。彼女がそれらの高名な諸都市の支配者となった経緯は前巻で明らかにしておいたので、同じ主題について再び述べることはすまい。さて、プトレマイオスはギリシア人の支持は彼自身の試みに彼にとって大いに利益になるであろうと考えて他のギリシア諸都市も解放しようと計画した。かくしてペロポネソス人が食料と資金の供出に同意したものの、約束を守らないでいると、その君主は怒り、両君主は各々が保持することになる諸都市の主であり続けるという条件でカッサンドロスと講和した。シキュオンとコリントスを守備隊で確保した後にプトレマイオスはエジプトへと出発した。
 一方クレオパトラはアンティゴノスと争い、プトレマイオスに自らの命運を託そうという気になったために彼女は彼のところへと渡るためにサルディスを発った。彼女はペルシアの征服者アレクサンドロスの姉妹で、アミュンタスの息子フィリッポスの娘であり、イタリア遠征を行ったアレクサンドロスの妻であった。彼女の血統の卓越性のためにカッサンドロスとリュシマコスは、アンティゴノスとプトレマイオス、そしてアレクサンドロスの死後最も重要な地位にあったあまねく全ての将軍と同様に彼女を我がものにしようとしていた。その各々はマケドニア人はこの結婚の首位者〔クレオパトラの夫〕に従うだろうと期待し、覇権を手に入れようとして王家との縁組みを望んでいた。アンティゴノスからクレオパトラを監視するよう命じられていたサルディスの支配者は彼女の旅立ちを妨げたが、後になって君主の命令により、ある女性を使って彼女を謀殺しようとした。しかしアンティゴノスは殺害を自分のせいにしたくないと思っていたために彼女に対する陰謀を企んだとしてその女性たちを罰し、王家の流儀で葬儀を挙げた。したがってクレオパトラは最も優れた将軍たちの争いへの報償となった後に結婚が成る前にこのような運命を辿った。
 今や我々はアジアとギリシアでの出来事について述べたので、人の住む世界のうちの他の地方へと話を移すことにしよう。
38 リビュアにて、逃げ去っていた遊牧民を味方につけるためにカルタゴ人が軍を送ると、アガトクレスは息子のアルカガトスを軍の一部と共にトゥネスの前に残し、自らは歩兵八〇〇〇人と騎兵八〇〇騎、そしてリビュアの戦車五〇台という最強の部隊を選りすぐって強行軍で敵を追った。ズフォネス族と呼ばれる遊牧民の部族の許へと来ると、カルタゴ軍は住民の多くを味方につけて離脱者の一部を以前の同盟関係に戻したが、敵が目と鼻の先にいることを知ると、深く渡り難い川に囲まれた或る丘に陣を張った。彼らはそこを敵の予期せぬ攻撃に対する守りとして用いたが、最も適当な遊牧民にはギリシア軍に接近して追い縋って進軍の妨害をするよう指示した。彼らが指示された通りのことをすると、アガトクレスは彼らに対して投石兵と弓兵を差し向け、自らは軍の残りと共に敵の野営地へと向けて進軍した。彼の意図を知るとカルタゴ軍は野営地から出撃し、戦闘の準備をした。しかしアガトクレスがすでに川を渡っていたことを知ると彼らは戦闘隊形で攻撃をかけ、浅瀬を渡り難い川で多くの敵を殺した。しかしアガトクレスは猛進し、ギリシア兵は勇気で勝っていたが、夷狄は数で優っていた。そこで両軍がしばらくの間激しく戦っていると、双方の遊牧民は負けた方の輜重を略奪しようと目論み、戦闘を離脱して戦いの顛末を見守った。しかし周りに最良の兵を配していたアガトクレスが先に全面の敵を退けると、彼は彼らの敗走によって残りの夷狄も敗走させた。騎兵のうち、クリノン率いるギリシア軍〔34章でカルタゴ軍に寝返った兵たち?〕のみがカルタゴ軍を支援し、前進してくるアガトクレスの重装備の兵を相手に持ち堪えた。勇敢に戦ったもののギリシア兵の大部分が戦死し、生き残った者はただ単に偶然のためであった。
39 アガトクレスは騎兵の追撃を諦めると野営地に逃げ込んでいた夷狄を攻撃した。彼は急勾配で通りにくい土地を無理矢理に通ったためにカルタゴ軍に与えたのに劣らぬ大きな損害を被ることになった。にもかかわらず彼の熱意は緩まず、それどころか勝利で自信を持って野営地を占領しようと期待して突進した。ここで戦いの顛末を見守っていた遊牧民は両軍が野営地近くで戦っていたためにカルタゴ軍の輜重隊に襲いかかることができず、アガトクレスが遠く離れていたことを知りながらギリシア軍の陣営に攻撃をかけた。野営地には守備隊がいなかったために妨げる者なく彼らは易々と攻撃をかけ、抗戦した少数の者を殺して多数の捕虜と大量の戦利品を分捕った。これを聞くとアガトクレスは急いで軍を戻させて戦利品の一部を取り戻したが、その大部分は遊牧民の手に落ち、彼らは夜になると遠くまで退却した。戦勝記念碑を建てた後、この君主は戦利品を兵士に分配し、このために誰も彼の損失に文句を言わなかった。しかしカルタゴ人の側で戦って捕らえられたギリシア人を彼は或る砦に向かわせた。一〇〇〇人いてうち五〇〇人がシュラクサイ人だった彼らは今や君主からの罰を恐れたために夜にその砦に攻撃をかけ、戦いで破れはしたもののある強力な場所を占領した。しかし事の次第を聞くとアガトクレスは軍と共にやってきて休戦の下でその場所から彼らを退去させ、攻撃をした者を皆殺しにした。
40 この戦いを終えた後、アガトクレスはカルタゴ人を服属させるためのあらゆる計略に思いをいたしたため、シュラクサイ人のオルトンをオフェラスに宛ててキュレネへと使者として送った。後者はアレクサンドロスと共に遠征をした友人の一人だった。今やキュレネの諸都市と強力な軍勢の主だった彼はより強大な王国を持とうという野心を抱いた。カルタゴ人を服属させるのに協力することを勧めるべくアガトクレスからの使節が来たのはこのような性根の男にであった。この仕事の見返りにオルトンはオフェラスにアガトクレスはリビュアの支配権を行使することを許すだろうと約束した。それというのも彼の言うところでは、アガトクレスはカルタゴの危機から解放されることができれば、彼は島の全域を恐れもなく支配できるならシケリアで十分であるからだ。さらに彼がこの大事の後に到着することを決めさえすれば、イタリアは彼の支配の拡大のために早晩彼の手に落ちることになる。というのも広大で危険な海によって隔てられているリビュアは彼にとっては全然都合が良くなく、その土地へと彼はただ単に必要のために意に反して今来てさえいるからだ。オフェラスは長年の悲願にこの現実に起こった希望を今や判断材料に加え、オフェラスはマラトンで勝利した部隊を指揮していた人物にその名が由来しているミルティアデスの娘エウテュディケと結婚していたため、喜んで賛同してアテナイ人に同盟を打診する使者を送った。この結婚と彼が常日頃から彼らの都市に示していた顕著な好意のためにアテナイ人の多くの良き人たちが熱烈に遠征に参加した。他の少なからぬギリシア人もまたリビュアの最も肥沃な地域への植民に加わってカルタゴ人の富を略奪するという希望を抱き、その試みに速やかに参加した。継続的な戦争と王侯の相互の争いのためにギリシア中の状況は不安定になって貧窮しており、彼らは多くの利益を得るのみならず、目下の悪しき状況から解放されることを期待していたからだ。
41 かくしてオフェラスは遠征のためのありとあらゆる大仰な準備ができると、一〇〇〇〇人以上の歩兵と六〇〇騎の騎兵、一〇〇台の戦車、そして三〇〇人の戦車の馭者とその他の戦闘員という軍と共に出発した。彼らには一〇〇〇〇人を下らない非戦闘員もまた随行しており、その多くは彼らの妻子とその他の所有物であり、そのために軍はまるで植民遠征団のようだった。一八日間行軍して三〇〇〇スタディオンを踏破すると、彼らはアウトマラに野営した。それから彼らの進んだところに両側が険しかったが、中央には深い峡谷があり、滑らかな岩地が広がる場所から頂上へと至る山があった。その岩山の基部にはツタとブリオニアで覆われた大きな洞窟があり、神話によればその中で美しさにおいて秀でた女王ラミアが生まれたという。しかし彼女の残忍な心のために彼女の獣的な側面が変わるまで時間が過ぎたと神話は述べている。彼女が儲けた全ての子供が死ぬと、運命に打ちひしがれて子供に関する他の全ての女の幸福を妬んだ彼女は新たに生まれる赤子は母の腕から奪われてすぐに殺されるようにと命じた。このために今世代に至るまで我々のうちでは、この女の話は子供たちに語り継がれて彼女の名は母親たちから最も恐れられている。しかし彼女は好き勝手に酒を飲む時には、全ての人が喜ぶ機会を与えた。したがって彼女はそれぞれの時代に起こったことについて思い悩まなくなって以来、その土地の人々は彼女は見えないと思うようになった。 そしてこのために幾人かの人たちは神話の中で彼女は酒瓶の中に目を落っことしたのだと述べ、彼女の視覚が失われたのはブドウ酒のによってであったため、以上のような次第で、葡萄酒の真っただ中にあるこの上ない不用心という比喩へと転じた。エウリピデスが、彼が「リビュア人で誰がラミアの名を、死すべき者のうちで最も難じられたかの名を知らぬというのか?」〔この台詞が現れる劇は不明(N)〕と言っていることを以って彼女がリビュアで生まれたことの証人として持ち出されるだろう。
42 さて、オフェラスは軍を率いて猛獣がうようよいる水のない土地を苦労しながらも進んだ。水がなくなったのみならず乾いた食べ物も尽きてしまったために彼は全軍を失うほどの危機に陥った。ありとあらゆる牙を持った獣たちがシュルティス湾近くの砂漠に群がっており、噛み傷はそのほとんどが致命傷になった。したがって医師と友人による治療の望みを失ってそこに倒れた人は大変な災難に見舞われることになった。というのも幾らかの蛇は見かけが彼らの足下の地面に非常に似ていた肌を持っていたためにその形を見えなくさせていたからだ。そして多くの人がそれを知らずに踏みつけては噛まれて致命傷を負った。最終的に二ヶ月以上の行軍で大損害を被った後に彼らは苦労しつつもアガトクレスの所への旅程を終え、両軍の間に短い距離を維持しつつ野営した。
 カルタゴ人は彼らの出現を聞くと、かくも強大な軍勢が彼らに対して到着したことを理解して困惑した。しかしアガトクレスはオフェラスと会見して気前よくあらゆる必需品を提供し、苦境から軍を解放してくれるよう要請した。彼自身は数日間留まって新手の野営地で起こる全てのことを用心深く観察した。兵の大部分が飼い葉と食料を見つけるために散り、自身の計画にオフェラスが何の疑いを持っていないことを見て取ると、彼は自軍の集会を召集し、同盟に参加しにやってきたその男をあたかも彼が自らに対する陰謀を企んでいるかのように弾劾して兵士の怒りを掻き立て、すぐさま完全に整列してキュレネ軍へと軍を率いていった。それからオフェラスはこの予期せぬ行動に唖然とし、自衛を試みた。しかし時間が押していたために彼が野営地に残していた軍勢は十分ではなかったため、彼は戦死してしまった。アガトクレスは軍の残りを武装解除させ、気前の良い約束で皆を味方につけて全軍の主になった。かくして待望を胸に抱いて軽率にも自分のことを他人に委ねてしまったオフェラスは不名誉な死を迎えることになった。
43 カルタゴでは長らく僭主になろうという計画をしていたボルミルカルが彼の私的な計画の好機を探っていた。環境は何度も何度も彼の計画を実行できるような状況に彼を置いていたが、いくつかの小さな原因が邪魔をして彼を挫折させていた。というのもその無法で重大な試みを実行しようとしていた人たちは迷信深く、行為よりも遅延、実行よりも延期を選ぶのが常であったからだ。この時にこの男について以下のようなことも起こった。彼は最も優れた市民たちを遊牧民への遠征に送り、その結果、彼と対立する者がいなくなってしまったが、警戒のために思いとどまって僭主制のための計画を露わにする果断さを持ってなかった。しかしアガトクレスがオフェラスを攻撃した時、ボルミルカルは僭主の地位を得る試みを実行に移し、敵方で何が起こっていたのかを二者のそれぞれは知らなかった。カルタゴの主に簡単になれたであろう時にアガトクレスは〔ボルミルカルによる〕僭主制のための試みと市内の混乱のことを知らなかったわけであるが、それというのもボルミルカルは市民へと刑罰を受けるために自らを投げ出すよりはアガトクレスと協調行動をとる方が得だと気付いたからだ。そしてまたオフェラスの軍の助けを得ればアガトクレスは簡単にカルタゴ人を打倒できるであろうため、カルタゴ人はアガトクレスの攻撃を知らなかったことになる。しかし私はそれらの行動は規模が大きく、そのような果断な行いをした人たちは互いに近くにいはしたものの、そのように双方のうちに無知が蔓延っていたことは故なきことではないと思う。というのもアガトクレスは敵中で起こったことを顧慮せずに友人だった人を殺しており、ボルミルカルはというと祖国からその自由を奪った時、その時に敵ではなく自らの同胞市民を征服するという所定の目的を心に抱いていたため、敵の野営地での出来事を全く機にしていなかったからだ。
 人が歴史における技芸を譴責するであろう地点においては、人生において多くの難事が同じ瞬間になされるが、それらを記録する人たちは話を中断させて同時に起こった出来事をその自然の流れに反して異なった時期に配する必要に迫られており、その結果として出来事の現実の経験は真実を含んでいて書かれた記録さえあるにもかかわらず、そのような力〔理解のしやすさ〕を奪われてしまうことを見て取る時、その一方で出来事の引き写しは本当にそうであるように配列するには及ばない。
44 いずれにせよボルミルカルは旧カルタゴ市からそう離れていない新市街と呼ばれた場所で閲兵すると、その陰謀において彼が信頼を置いている兵士、五〇〇〇人の市民兵とおよそ一〇〇〇人の傭兵を除いて軍を解散させ、自らを僭主と宣言した。兵を五隊に分けて彼は敵対者を街路で襲って殺戮した。度を超した騒動が市内のあらゆる場所で起こったため、カルタゴ人は最初は敵が押し入ってきて市は裏切って明け渡されたのだと思った。しかし真実が明らかになると、若者たちは混成部隊を編成して僭主に立ち向かった。しかしボルミルカルは街路の人たちを殺しながら速やかにアゴラへと進み、多くの市民が無防備でいるのを見てはこれを虐殺した。しかしカルタゴ人はアゴラの周りの高い建物に拠った後に素早く矢玉の雨を降らせ、反逆への参加者はあらゆる場所が射程内になっていたために倒された。したがって彼らは大損害を受けたために、絶えず偶然近くにきた家々からその都度矢玉を浴びながらも隊列を密集させて新市街へと狭い道を通って押し進んだ。或る高台を占拠した後にカルタゴ人は全市民を武装状態で集めると、反乱に参加した者へとその軍を向かわせた。ついにカルタゴ人は長老たちを権限を与えて使者として送ると、恩赦とを申し出て〔反乱軍〕協定を結んだ。残りの者に彼らは市を取り囲む危機のために罪に問わなかったが、ボルミルカルには苛烈な拷問を加えて宣誓になど耳を貸さずに処刑した。かくしてこのようにしてカルタゴ人は最大の危機に陥った後に父祖の政体を守り抜いたのであった。
 アガトクレスは戦利品を輸送船に積んでキュレネから来ていた戦争の役に立たない人たちを乗せると、シュラクサイへと送った。しかし嵐が起こってある船は破壊され、またあるものはイタリア沖のピテクサイ諸島へと流され、シュラクサイへと無事たどり着いたのは少数であった。
 イタリアではローマの執政官たちがサムニウム人と戦っていたマルシ人の救援に向かい、二度の会戦で勝利を得て多くの敵を殺した。次いでウンブリイ族の領地へと渡った彼らは敵対していたエトルリアに攻め込み、カエリウムと呼ばれる要塞を包囲によって落とした。その地方の人々が休戦を求める使者を送ってくると、執政官たちはタルクィニア人と四〇年期限の休戦協定を結んだが、他の全てのエトルリア人とは一年期限だった。
45 この年が終わった時〔紀元前307-376年〕、アテナイではアナクシクラテスがアルコンであり、ローマではアッピウス・クラウディウスとルキウス・ウォルムニスが執政官になった〔紀元前307年〕。彼らの任期中、アンティゴノスの息子デメトリオスは父から強力な陸海の戦力、投擲兵器と他の包囲戦に必要な物資の蓄えを受け取ると、エフェソスから出航した。彼はギリシア中の全ての都市を解放するという命令を発したが、最初はカッサンドロスの駐留軍が押さえていたアテナイだった。軍と共にペイライエウスへと航行すると、彼はすぐに四方八方から攻撃をかけて声明を発した。ムニュキアの駐留軍を指揮していたディオニュシオスとカッサンドロスによってその都市の軍政長官とされていたファレロンのデメトリオスは城壁から多くの兵士と共に彼に抵抗した。アンティゴノスの兵のある者が猛攻をかけて沿岸沿いに突破口を開き、多くの戦友を城壁の中へと入れた。その結果、ペイライエウスは落ちてその中にいた隊長ディオニュシオスはムニュキアに逃げ、ファレロンのデメトリオスは市内へと退却した。翌日人々によって他の人たちと共に使節としてデメトリオスのところへと送られたデメトリオスは市の独立と自らの身の安全を話し合って安全通行権を得て、アテナイの支配権を放棄してテバイへ、後にプトレマイオスのいるエジプトへと退避した。またこの人は一〇年間その市の独裁者であった後に上述のようにして祖国から追放されることになった。アテナイの人々は自由を回復して解放の立役者を讃えた。
 しかしデメトリオスはバリスタと他の攻城兵器と投擲兵器を持ってきてムニュキアを陸海両方から攻撃した。城壁から勇敢に防戦に立ったディオニュシオスはムニュキアは自然と防備の両方によって堅牢な要害となっていたために難攻の地と高い位置を活かしたが、デメトリオスは何倍もの兵力を有しており、武装では遙かに勝っていた。最終的に二日間の容赦ない連続攻撃の後、カタパルトとバリスタで酷く痛めつけられて交代の人員がいなかった防衛軍は最悪の状態に陥った。絶えず交代しながら戦っていたデメトリオスの兵は城壁がバリスタで一掃された後にムニュキアに突入し、守備隊に武器を置かせて隊長のディオニュシオスを生け捕りにした。
46 僅か数日で勝利を得てムニュキアを徹底的に破壊した後のデメトリオスは人々に自由を取り戻させ、彼らと友好と同盟を樹立した。アテナイ人はハルモディオスとアリストゲイトンの像の近くに戦車に乗ったアンティゴノスとデメトリオスの黄金の像を建て、彼らに二〇〇タラントンの額の名誉の冠を贈り、「救済者」の祭壇と呼ぶ祭壇を捧げ、元々いた一〇の部族にさらにデメトリアスとアンティゴニスという二つを加え、彼らを讃えて毎年競技祭を開催し、その際には行進をして犠牲を捧げ、アテナのペプロスに彼らの似顔絵を織ることを評決し、ストラトクレスがその布告文を書いた。かくして一五年前のラミア戦争の時にアンティパトロスによって権限を剥奪されていた一般大衆は予期せずして父祖の政体を復活させることになった。メガラが守備隊に占拠されていたものの、デメトリオスはそこを包囲して落とし、人々に自治を回復させて彼が役に立った人たちから特筆すべき名誉を授けられた。
 アンティゴノスのところへとアテナイから使節がやってきて彼に授けられた栄誉についての布告を伝えて穀物と造船のための木材の問題について協議すると、彼は彼らに一五万メディムノスの穀物と一〇〇隻の船の建造に十分なほどの木材を与えた。また、彼はインブロス島から守備隊を撤兵させてアテナイ人にその都市を返してやった。彼は息子のデメトリオスに何がギリシアのためになるのかを共同で論じる同盟諸都市からの委員を召集し、軍と共にキュプロスヘ渡航して可及的速やかにプトレマイオスの将軍たちとの戦争を終わらせるよう命じる手紙を書いた。デメトリオスは父の命に従って全てを首尾よく行い、カリアへと向かって対プトレマイオス戦争のためにロドス人に召集をかけた。全ての相手と共通の平和を維持しようとしていた彼らはそれに従わず、これはその人たちとアンティゴノスと反目の端緒となった。
47 キリキアへと沿岸航行してそこで追加の船と兵を集めた後にデメトリオスは一五〇〇〇人の歩兵と四〇〇〇騎の騎兵、一一〇隻以上の快速の三段櫂船、五三隻のより重い輸送船、歩兵と騎兵のための十分な分量のあらゆる物資を積んだ貨物船を率いてキュプロス島へと航行した。まず彼はカルパシア岸に野営し、船を陸に上げた後に野営地を柵と深い壕で守った。次いで近くに暮らしていた人々を襲撃してウラニアとカルパシアを強襲によって落とした。その次に船に十分な守備隊を残してサラミスへと軍と共に向かった。プトレマイオスによってその島の将軍とされていたメネラオスは前哨基地から兵を集めてサラミスで待ち構えた。しかし敵が四〇スタディオンの距離に来ると、歩兵一二〇〇〇人と騎兵およそ八〇〇騎を率いて出撃した。短時間の戦いが起こり、メネラオス軍は圧倒されて敗走した。デメトリオスは敵を市〔サラミス〕まで追撃して三〇〇〇人を下らない捕虜を得ておよそ一〇〇〇人を殺した。まず彼は捕虜を全員解放して自軍に配分した。しかし彼らが荷物がエジプトのプトレマイオスのところに残っていたためにメネラオスへと奔ると、彼らが寝返ったはずがないと思っていた彼は船に乗せてシュリアのアンティゴノスのもとへと送った。
 この時アンティゴノスは高地シュリアに滞在していてオロンテス川沿いに自らにちなんだアンティゴネイアという都市を建設していた。彼はそれを大仰な規模に作り、その周囲は七〇スタディオンにもなった。というのもそこはバビュロンと高地諸州を監視できる天然の要地であり、その上低地シュリアとエジプト近くの州への目配りも効いていたからだ。しかしセレウコスが〔アンティゴネイアを〕解体して自らの名にちなんだセレウケイアという都市を建設してそこへ移ったためにその都市はそう長くは存続しなかった〔「だがこの都市は実のところセレウコスの父にちなんだアンティオケイアと呼ばれていた。この間違いは多分筆写者よりもディオドロスのものであろう。アンティゴネイアは完全に放棄されてはいなかった。少なくとも紀元前51年までその存続が言及されている(ディオ・カシウス, 40. 29. 1)」(N)。〕。しかし我々は然るべき時が来れば、その話をより詳細に明らかにするつもりである〔現存するテクストにはその記述はない(N)。〕。キュプロス情勢に関していえば、メネラオスは敗北の後に投擲兵器と攻城兵器を城壁内へと運び込んで胸壁に兵を配して戦いに備えた。彼はデメトリオスが包囲戦の準備をしていることを知っていたため、敗北を知らせて危機に瀕した島への来援を求めるためにプトレマイオスに宛ててエジプトに使者を送った。
48 デメトリオスはサラミス人の都市は侮り難く、市内にはそこを守る大軍がいることを知ると、非常に大型の攻城兵器、矢を打ち出すカタパルトとあらゆるバリスタ、そして恐怖を呼び起こす他の兵器の準備を決めた。彼はアジアから職人、鉄、並びに大型の木材とその他適当な物資を求める手紙を出した。あらゆる準備できてくると、彼はそれぞれの肋材の長さが四五ペキュスで高さが九〇ペキュスの「ヘレポリス」と呼ばれる装置を建造した。それは九つの階に分けられ、その全体は八ペキュスの四つの強固な車輪の上に乗っていた。また彼は非常に大型の破城槌とそれらを運ぶための二つの屋根も建造した。ヘレポリスの下層に彼はありとあらゆるバリスタを乗せ、その最大のものは三タラントンの重さの矢玉を放つことができた。中層には最大のカタパルトを、最高階には最も小型のカタパルトと非常に多くのバリスタを付けた。また彼はヘレポリスにそれらの兵器の適切な操作のために二〇〇人以上の兵士を乗せた。
 兵器を市へと運んで矢玉の雨を降らせると、彼はバリスタで胸壁を一掃して破城槌で城壁を粉砕した。守兵は頑強に抵抗して他の装置によって彼の兵器に対抗したために数日の間戦いの帰趨は分からず、双方が苦境に立って多くの負傷者を出した。最終的に城壁が崩れて市が強襲による落城の危機に陥った時、攻撃は夜の到来によって妨げられた。自分が新しく何かをしない限り市が落とされてしまうことにはっきり気付いたメネラオスは大量の乾いた木材を集めて真夜中にこれらを敵の攻城兵器に投じ、同時に城壁の上から火矢の一斉射撃をして攻城兵器の大部分に火を放った。火が突如燃え上がると、デメトリオスは消火へと向かった。しかし火の手は彼の手が付けられないほどになっており、その結果兵器は完全に破壊されてそれに乗っていた多くの者も死んでしまった。デメトリオスは自らの予想によって意気阻喪したものの、そのうち敵を破ることができるだろうと信じて包囲を止めずに執拗に陸海からの締め付けを行った。
49 自軍の敗北を聞き知ると、プトレマイオスはエジプトから陸海の大軍を率いて航行してきた。キュプロスのファロスに到着すると彼は諸都市から船舶を受け取ってサラミスから二〇〇スタディオン離れたキティオンへと沿岸航行した。彼は全部で最大のものは五段櫂船で最小のものは四段櫂船であった一四〇隻の軍船と少なくとも一〇〇〇〇人の歩兵を積んだそれらに随行する二〇〇隻以上の輸送船を有していた。プトレマイオスは陸路でメネラオスに一部の兵を送って可能ならばサラミスから速やかに自分の方へと六〇隻の船を送るよう指示した。というのも彼は二〇〇隻の軍船を有していたので、もしそれらを増援として受け取れば、海上戦力で簡単に優勢になれるだろうと期待していたからだ。彼の意図を知ると、デメトリオスは包囲のために軍の一部を残して全船に人員を乗り込ませて最良の兵士を乗せ、それらを投擲兵器とバリスタで満たし、船首に長さが三指〔約53センチメートル〕の矢を発射する十分な数のバリスタを乗せた。艦隊に海戦のためのあらゆる準備をした後に彼は市の周りを航行し、港の入り口の丁度射程外に碇を下ろして夜を明かし、市からの船が他の友軍と合流するのを防ぎ、同時に敵の動向を監視して戦える状態で待機した。プトレマイオスが少し距離を置いて随行する船団を伴いつつサラミスへと航行してくると、彼の艦隊は船の多さのために見る者に荘厳な印象を与えた。
50 デメトリオスはプトレマイオスの接近を知ると、港の出口は狭かったために市内の船が戦いへと向かうのを妨害するべく提督アンティステネスを一〇隻の五段櫂船を付けて残し、騎兵部隊には沿岸を見回るよう命じ、そうすれば難破船があっても陸まで泳いできた者を救出することができるようにした。彼自らは艦隊を出発させ、占領された町々から乗組員が提供されていた船を含めて全部で一八〇隻を率いて敵へと向かっていった。最大の船は七隻あり、そのほとんどは五段櫂船であった。左翼は七隻のフェニキア船と三〇隻のアテナイの四段櫂船の混成船団から構成され、提督メディオスが指揮を執った。その後ろに彼は一〇隻の六段櫂船と同数の五段櫂船を置いて航行させたが、それというのも彼は自らが陣取ってこの決戦を戦うこの翼を強くしようと決めていたからだ。戦列の真ん中に彼は最も軽い船を配置し、サモスのテミソンとマケドニアの歴史書を編んだマルシュアス〔「スーダ辞典によれば彼はアンティゴノスの義兄弟である。彼は10巻のマケドニア史、12巻のアッティカ史を書き、アレクサンドロスの教育についても書いた」(N)。〕が指揮を執った。右翼はハリカルナッソスのヘゲシッポスと全艦隊の航海長であったコスのプレイスティアスが指揮を執った。
 まず、まだ夜だった時にプトレマイオスは敵が準備を済ます前に入り口を奪取できるのではないかと信じて全速力でサラミスへと向かったが、夜が明けると戦闘隊形の敵艦隊がそう遠からぬ距離に見えてきて、プトレマイオスもまた戦争準備をした。物資輸送船には一定の距離を取るよう命じて他の船の隊列を適切なものとしつつ、彼その人は自らの下で戦う最大の軍船を率いて右翼の指揮を執った。艦隊がこのような配置についた後に双方は習慣通り神々に祈りを捧げ、信号係が先導して乗組員が応えて祈りに加わった。
51 自らの生命と全てのもののために戦おうとしていたためにその君侯たちは非常に不安を抱いていた。敵からおよそ三スタディオンの距離にさしかかると、デメトリオスは決めていた戦いの合図として鍍金を施された盾を掲げ、この合図は交代で繰り返し全員に知られていった。プトレマイオスも似たような信号を上げ、両艦隊の距離は急速に詰められていった。ラッパ手が戦闘の合図を上げて両軍は鬨の声を上げ、全ての船が恐ろしい様子で進んでいった。最初は弓とバリスタを使い、次いで投槍を雨霰と降らせて兵士たちは射程内の敵を負傷させた。次いで船が互いに接近して激しい戦いが起こり、甲板の兵士たちはしゃがみ、漕ぎ手は信号手に駆り立てられてさらに必死に漕いだ。船は力ずくで遮二無二動き、ある場合には櫂を押し流したために攻撃や追撃の役に立たなくなり、甲板の兵士は戦意旺盛だったにもかかわらず戦いに加われなくなった。しかし船が衝角の付いた船首と船首を衝突させた場所では、船は今一度の攻撃のために引き下がり、甲板の兵士たちは双方の的は射程内に密集していたために互いに巧く射撃した。兵士の一部は船長が舷側への射撃をして衝角攻撃がうまく当たると、敵船へと乗り込んで多くの傷を受けたり与えたりした。彼らの或る者は近くにあった船の横木を掴んだ後に足場を失って海へと落ちていき、上に立っていた兵士によって槍ですぐに殺された。他の者は思い通りに事が進んで敵兵数人を殺し、他の者を狭い甲板に沿って海へと追い落とした。つまるところ戦いの模様は多様で驚きに満ち、船の高さのために何度も劣い方の人が優位に立ち、より強かった人が不利な場所とこの種の戦いで起こりがちな不規則のために裏をかかれた。陸戦では外面的で思いがけないことが妨げにはなることなく優位を得ることができるために勇気が勝利の分かれ目となることが明らかであることは明白である。しかし海戦では様々な種類の多くの原因があり、理に反して然るべき通り勇気で勝利を得るような人が敗れることがある。
52 デメトリオスは彼の七段櫂船の船尾に立って全ての人のうちで最も勇敢に戦った。多くの兵士が彼に向けて殺到してきたが、そのある者は彼から投槍を投じられて他の者は接近したところを彼に槍で刺されて殺された。そして数多くのありとあらゆる投擲兵器が彼へと向けられたにもかかわらず、彼は視認するのが間に合ったその一部を避けて他の物は防御力の高い鎧で受け止めた。盾で彼を守った三人の兵士のうち一人は槍で殺されて他の二人は重傷を負った。最終的にデメトリオスは彼に向かってきた軍を撃退して右翼を敗走させ、すぐに隣の翼の船団をも敗走させた。最も重い船と最強の兵を連れていたプトレマイオスは易々と前面の敵を敗走させて一部を沈めて他を乗組員もろとも拿捕していた。勝利から戻った彼は他の部隊も易々と制圧したものと予期していたが、右翼の部隊、敗走に陥った翼の隣にいた全ての部隊が散り散りになり、さらにはそれらをデメトリオスが全軍で圧迫していたのを見て取ると、キティオンへと戻った。
 デメトリオスは勝利の後にネオンとブリコスに追撃して海を泳いでいた者を拾い上げるよう命じ、輸送船を与えた。そして彼自身は船の船首と船尾を飾って拿捕した船を曳きながら野営地に向けて母港まで航行した。海戦の時、サラミスの将軍メネラオスは六〇隻の船に人員を乗り込ませてメノイティオスにその指揮権を与え、プトレマイオスの援軍へと送り出していた。〔サラミスの〕港の入り口でそこを守る艦隊との戦いが起こり、市から出てきた艦隊が激しく迫ってくると、デメトリオスの一〇隻の船は陸軍の野営地まで逃げた。そしてメノイティオスは非常に遅れて到着した後にサラミスへと戻った。
 海戦の結果は以上のようなものであり、ほぼ八〇〇〇人が乗っていた物資輸送船一〇〇隻以上が拿捕され、軍船四〇隻が乗組員もろとも拿捕され、八隻が使い物にならなくなり、勝者はそれらを海から市の前まで野営地まで曳いていった。デメトリオスの船二〇隻が使い物にならなくなったが、その全部が適切な処置を受けた後にそれらに相応しい任務に従事した。
53 その後プトレマイオスはキュプロスでの戦いを放棄してエジプトに帰った。デメトリオスは島の全ての都市とその守備隊を制覇した後にその兵士たちを自軍に加えた。彼らは編成されると歩兵一六〇〇〇人と騎兵およそ六〇〇騎になった。彼は最大の船に使者たちを乗せ、すぐに父に自らの勝利を知らせるべく送った。アンティゴノスは得られた勝利を聞くと、彼の幸運の大きさで得意になって冠を身につけてその時から王の身なりをするようになった。そして彼はデメトリオスにも同じ称号と位階を許した。しかしプトレマイオスは敗北をものともせずに冠を身につけて常に王を称するようになった。似たようにして彼らへの競争心から残りの君候たち、高地諸州を最近獲得したセレウコス、元々割り当てられた領地をまだ保持していたリュシマコスとカッサンドロスも王を称した。
 今や我々は上記の話題を十分に述べたので、リビュアとシケリアで起こった出来事へと目を転じて述べることにしよう。
54 アガトクレスはまさに今述べた君主たちが王冠を帯びたことを聞くと、権勢でも領土でも業績でも彼らに劣るものではないと考えたために王を称した。彼は僭主の地位を奪取した時に数人の神官によって彼の物になった花冠を常日頃から被っており、その当時は最高権力を得るための闘争を諦めていなかったために王冠を被ることはすまいと決めていた。しかし幾人かの人たちは、彼は頭髪に恵まれていなかったために元々これを被るのが常だったと行っている。しかしそうだとしても、この称号に相応しいことを何かしようと望んで彼は自身を見捨てたウティカの人々への遠征を行った。彼らの都市へと出し抜けに攻撃をかけて平地で数にして三〇〇人の市民を捕虜にすると、まず解放を申し出て市を明け渡すよう要求した。しかし市内の人々が彼の申し出に耳を貸さないでいると、彼は攻城兵器を作って捕虜をそこから吊し、城壁の上へと運んだ。ウティカ人はその不運な人たちを哀れみ、安全よりも何にも増して自由を保持しようとさえ思って兵士を城壁の部署に割り当てて勇敢にも攻撃を待ちかまえた。それからアガトクレスは攻城兵器にカタパルト、投石兵、弓兵を乗せてここから戦わせるようにして攻撃を開始し、それはさながら市内の人々の魂に烙鉄を押すかのようであった。城壁の上に立っていた者は彼らの標的に最も秀でていた市民であった仲間の市民がいたために当初は投擲兵器を使うのを躊躇っていたが、敵の重圧が増してくると、攻城兵器に乗った相手に対して自衛を余儀なくされた。その結果、運命によるウティカの人々への比べようのない損害と悪意に満ちた扱いが起こり、逃げようのない悲惨な苦境に陥った。というのもギリシア軍は捕らえたウティカの人々を盾にし、彼らを助けて祖国が敵の手に落ちるのを座視するか、市を守って不運な大勢の同胞市民を無慈悲にも殺す必要を迫ったからだ。そして実際には以下のようなことが起こった。彼らは敵に抗戦してありとあらゆる投擲兵器を使ったために兵器の前にいた人の一部を射殺し、そこに吊り下げられた同胞市民の一部を切り裂きもし、兵器へと体の至る所を杭で打ちつけられ、そのために理不尽な暴行とほとんど磔罰を受けるような有様になっていた他の者を投擲兵器で意図せずして撃つことになった。もし偶然起こったことであれば、必要性は人々のうちの神聖なものへと実に関わっているわけではないため、この悲運は親類と友人の手によってなされた。
55 しかし彼らが戦いのためならば冷血にもなる様を見ると、アガトクレスは軍に四方八方から攻撃をかけさせ、城壁の作りが貧弱だった場所に突破口をこじ開けて市内へと突入した。ウティカ人のある者が家の中へと、他の者が神殿へと逃げると、アガトクレスは自分に刃向かった彼らへの激怒のために市を殺戮で満たした。彼は一部を白兵戦で殺し、捕らえた者は縛り首にし、神殿と神々の神殿に逃げ込んだ人たちに対しては彼らの希望を欺いた。動産を略奪すると彼は市を保持すべく守備隊を残し、ヒップ・アクラと呼ばれ、その前に沼地が横わたっていたために天然の要害であった地へと軍を率いて向かった。厳しい包囲を敷いて海戦でそこの人たちに対して優位に立った後、彼はそこを強襲によって落とした。このようにして諸都市を征服すると、彼は沿岸地帯と内陸地に住む遊牧民を除く人々の主になり、彼らのある者は彼との友好条約にこぎ着け、ある者は最終的な帰趨を待った。というのも四つの民族がリビュアを分けていたからだ。フェニキア人はカルタゴをその時は占めており、リビュフェニキア人は海沿いに多くの都市を持ち、カルタゴ人と結婚しており、複雑な血縁の結果このように名付けられていた。住民のうちで大多数を占め、最も古い民族はリビュア人と呼ばれ、彼らはカルタゴ人の圧制のために彼らを特別激しく憎んでいた。最期の者は遊牧民であり、彼らは家畜の群を砂漠にいたるリビュアの大部分で放牧していた。
 今やアガトクレスがリビュア人同盟者と自身の軍勢によってカルタゴ人に対して優勢に立ちつつもシケリアでの情勢に大いに悩み、快速船と五〇櫂船を建造してそれらに二〇〇〇人の兵士を乗り込ませた。息子のアガタルコスをリビュアでの事柄の指揮を執らせるべく残すと、彼はその船団と共に出航してシケリアへの船旅を行った。
56 このことが起こっていた間、アクラガス人の将軍クセノドコスは多くの都市を解放して島中のシケリア人に自治への大きな希望を喚起していたため、アガトクレスの将軍たちへ向けて軍を率いていった。その軍は一〇〇〇〇人以上の歩兵と一〇〇〇騎に近い騎兵から成っていた。レプティネスとデモフィロスはシュラクサイと諸要塞からあたうる限り多くの兵をかき集めると、八二〇〇人ほ歩兵と一二〇〇騎の騎兵と共に彼に対陣した。続いて激しい戦いが起こり、クセノドコスは破れて一五〇〇人を下らない兵を失ってアクラガスへと敗退した。アクラガスの人々はこの逆転劇に遭った後、彼らの最も尊い企図のみならず、同時に同盟者の自由への希望をも終焉させた。この戦いが起こったすぐ後にアガトクレスはシケリアのセリヌスに投錨してその都市を解放したヘラクレイアの人々に今一度の服従を強いた。島の他の側へと渡った後、彼はカルタゴの守備隊に安全通行権を保障して協定によってテルマの人々を自分の側へと靡かせた。次いでケファロイディオンを落としてレプティネスを支配者として残すと、彼自身は内陸部を通って進軍してケントゥリパへと夜に進入しようとし、そこの一部の市民が彼を呼び込む手はずであった。しかし、彼らの計画が明るみに出て守備兵が防戦に向かってくると、彼は五〇〇人以上の兵士を失って市から退けられた。そこでアポロニア出身の兵士たちが彼を招いて彼らの祖国を裏切ること約束すると、彼はその都市へと向かった。裏切り者たちはこのことが発覚して罰せられたために彼は市を攻撃したが初日は何の成果も出せず、翌日に大損害を被って多くの兵士を失った後に辛うじてそこを落とした。アポロニア人のほとんどを殺戮した後、彼は彼らの財産を略奪した。
57 アガトクレスがこれらの事柄にかかずらっていた間、追放者の指導者デイノクラテスはアクラガス人の施策を受け継いで自らを共通の自由の擁護者であると宣言し、方々から多くの人を惹きつけた。というのもある者は全ての人に生まれながらに備わっている独立を熱望したため、他の者はアガトクレスへの恐怖から彼の呼びかけに熱烈に耳を貸したからだ。デイノクラテスは二〇〇〇〇人の歩兵と一五〇〇騎の騎兵に近い兵力と、追放の絶えざる経験と苦難に耐えていた全ての人たちを集めると、平野に野営して僭主に戦いを挑んだ。しかし兵力において遙かに劣勢だったアガトクレスが戦いを拒むと、彼は速やかにこれを追撃し、戦わずして勝利を得た。
 この時からアガトクレスの運命はシケリアでのみならずリビュアでも暗転した。彼に将軍として残されていたアルカガトスは父の出発の後、内陸地方に軍の一部をエウマコス指揮の下に送ることによって当初は幾分か優勢に立っていた。この指揮官は幾分大きなトカス市を落とした後、近隣に住んでいた多くの遊牧民を味方に引き入れた。次いでフェリネと呼ばれるもう一つの都市を占領した後、近隣の地方を放牧地として用いていたエチオピア人に似た体色のアスフォデロデス族と呼ばれている人たちを服従させた。彼が落とした三つ目の都市はメスケラで、そこは非常に大きく、トロイアから帰っていたギリシア人によって長らく知られており、これについて我々は第三巻ですでに述べておいた。次に彼は同名の都市がアガトクレスによって強襲によって落とされていたヒップ・アクラと呼ばれる地を、そして最後にアクリスと呼ばれる独立都市を落とし、人々を奴隷にした後にここを兵士たちに略奪のために差し出した。
58 軍を戦利品で満たした後、彼はアルカガトスの許へと戻った。そして彼はその功績のために名声を得たため、再びリビュアの内陸地へと軍を率いて向かった。以前に分捕った諸都市を通過する際に彼は用心せずにミルティネと呼ばれる都市の前にやってきてその中に入った。しかし夷狄たちが彼に対抗すべく集結して街路で彼を打倒すると、彼は大いに驚いて撃退されて多くの兵を失った。そこを放棄すると、彼は二〇〇スタディオンほど延びて山猫が群生しており、前述の獣の敏捷さのために木々や渓谷に巣を作る鳥がいなかったある高い山脈を通って進軍した。この山脈を踏破すると、彼は多くの猿がいる地方と、その名がギリシア語に翻訳されるならばその獣から由来するピテクサイと呼ばれる三つの都市へとやってきた。それらの都市の習俗の多くは我々の現在の習俗とは非常に異なっていた。というのも猿たちは、丁度エジプト人の間で犬がそうであるように神々と見なされていたために人と同じ家に住んでおり、物置にある蓄えから妨げられることなく望む物は何であれ糧を得ていた。親たちは通常、あたかも神々にちなむかのように子供たちに猿にちなんだ名前を与えていた。というのもこの動物を殺した者は誰であれ、あたかも彼が最大の犠牲をもたらしたかのように、死罪が科せされているからだ。このようなわけで彼らの間では殺しても罰にならないような者については猿の血への罪を受けるという諺が通用しているくらいである。それはともかくエウマコスは強襲によってそれらの都市のうちの一つを落として破壊したが、他の二つは説得によって味方にした。しかし近隣の夷狄たちが彼に対抗して大軍勢を集めていることを聞くと、彼は海に近い地方へと戻ろうと決めてより懸命に前進した。
59 この時に至るまでリビュアでの全ての遠征はアルカガトスに満足のいくものであった。しかしこの後、カルタゴの元老院は戦争についてきちんと論じてその元老院議員たちは三つの軍を編成してこれらを都市から送り出し、一つは沿岸の諸都市へと、もう一つは奥地に、もう一つは内陸地へと遣ることを決定した。第一に、もしこうすれば都市の包囲と同時に食糧不足からも解放されるだろうと彼らは考えた。というのも全域から多くの人々がカルタゴへと逃げ込んでおり、その結果あらゆるものが不足して食糧の蓄えはすでに払底していたが、その都市は城壁と海によって守られていて近寄り難かったために包囲による危険はなかった。第二に、彼らはもし更なる軍勢が戦場で彼らを助ければ、同盟者たちはより忠実であり続けるだろうと思った。そして最も重要なことは、彼らが敵は軍を分割してカルタゴから離れた所までの撤退を強いられるだろうと期待していた。それらの軍の全てが目的を果たした。三〇〇〇〇人の兵士が市から送り出され、守備隊として後に残された兵は彼らを守るのに充分であっただけでなく、その夥しさのためにありとあらゆるものを豊富に得た。従来の同盟者は敵への恐怖の故に彼らと協定を結ばざるを得なくなり、再び勇気を得て速やかに以前の友好へと立ち帰った。
60 リビュアの全てが大軍によって占められたことを知ると、アルカガトスも軍を分割した。その一部を彼は沿岸地域へと送り、軍の残りのうち一部をアイスクリオンに与えて送り出し、テュニスに十分な守備隊を残して自らは他の部隊を率いて行った。かくも多くの軍勢がその地方のあらゆる場所をうろついて遠征を決定付けるような危機が予想されると、皆が心配しながら最終的な結末を待った。その時に内陸地方で軍を率いていたハンノはアイスクリオンを待ち伏せして突如襲いかかり、将軍その人を含む四〇〇〇人以上の歩兵とおよそ二〇〇騎の騎兵を殺した。他の者の一部は捕えられ、さらに他の者は五〇〇スタディオンの距離のところにいたアルカガトスの許へと無事逃げた。奥地への遠征を任じられていたヒミルコンはまず、その軍が占領した諸都市から得た重量の戦利品を運んでいたエウマコスを待ち、ある都市で待機した。それからギリシア人が軍を向けてきて彼に戦いを挑むと、追撃者に一斉に襲いかかるよう命じてその都市に武器を持った軍の一部を残していたヒミルコンは逃げるふりをして退却するという手筈になっていた。彼自身は兵の半分を率いて野営地の正面のそう遠からぬ場所で戦い、すぐにあたかも潰走するかのように逃げた。エウマコスの兵は勝利で勢いづいて陣形のことなど全く考えず、退却する者を追いかけて乱雑な猛追をかけてきた。しかし突如として市のもう一方の地区から完全に戦闘準備ができた軍が溢れ出てきてその大軍が単一の指揮の下に鬨の声を上げると、彼らは恐慌状態に陥った。したがって夷狄が無秩序になっていて突如の襲来に怯えていた敵に襲いかかった結果、すぐにギリシア軍は敗走した。カルタゴ軍は野営地への敵の退路を遮断し、エウマコスは近場の水の供給が乏しい丘への撤退を余儀なくされた。フェニキア軍がその場所を囲むと、渇きのために衰弱して敵に打ちひしがれていたギリシア軍はほとんど皆殺しにされた。事実、八〇〇〇人の歩兵のうち助かったのは僅か三〇人で、八〇〇騎の騎兵のうち戦いから逃げられたのは四〇騎しかいなかった。
61 かくも大きな災難に見舞われた後、アルカガトスはテュニスへと戻った。彼は送り出されていた兵士の生き残りを方々から呼び寄せ、事の次第を父に報告して可及的速やかな来援を求めるべくシケリアへと使者を送った。先の災難に加えてギリシア軍はもう一つの敗北を味わっていた。それというのも小数を除いた全同盟者が彼を見捨て、敵軍が集結して近くに陣を張り、彼らを待ち構えていたからだ。ヒミルコンはいくつかの道を占領し、一〇〇スタディオン離れた所にいた敵をその地方から発する道から遮断した。そして他方でアタルバスがテュニスから四〇スタディオン離れた所に陣を張っていた。したがって敵が海だけでなく陸地をも支配下に置いてしまったためにギリシア軍は飢えで苦しんで恐怖に四方八方を取り囲まれることになった。
 皆が深い絶望に陥った時、アガトクレスはリビュアでの逆転を知ると、アルカガトスの救援に向かうべく一七隻の軍船の準備をした。シケリアの情勢もまたデイノクラテスに付き従う追放者たちの勢力増大のために不利に転じていたものの、アルカガトスはレプティネスを将軍として島での戦争を一任した。そして彼自身は船団に人員を乗せ、カルタゴ軍が三〇隻の艦隊で港を封鎖していたために船出の好機を窺った。今まさにこの時に一八隻の船団がエトルリアから援軍として到着し、カルタゴ軍に知られることなく夜に港へと滑り込んだ。この戦力を得たアガトクレスは敵を術中に陥れた。この同盟軍には彼は自分が出航してカルタゴ艦隊が追跡するまで留まるよう命じ、彼自身は計画通り一七隻の船団と共に港から全速で海へと出航した。見張りをしていた船団は追跡したが、エトルリア艦隊が港から現れたのを見たアガトクレスは突如船団を反転させて衝角攻撃の態勢に移り、自らの船団を夷狄の船と戦わせた。カルタゴ艦隊はその奇襲によって大混乱に陥り、彼らの三段櫂船が敵艦隊によって寸断されてしまったために敗走した。それからギリシア艦隊は五隻を乗組員もろとも拿捕し、カルタゴ艦隊の司令官は自らの旗艦がまさに拿捕されそうになると、予想される虜囚の身に陥るよりは死を選んで自害した。しかし本当のところ、彼の船は順風を得て帆柱に帆を張って戦いから逃げおおせていたため、彼はその出来事を浅はかに判断したことを示してしまった。
62 海でカルタゴ軍より優位に立てるとは期待していなかったアガトクレスは予期せずして海戦で彼らを破り、その後は海を支配して商船を安全にした。このためにシュラクサイの人々は方々から彼らの方に財貨を運び、物資の欠乏からうって変わってすぐにありとあらゆるものを豊富に享受するようになった。僭主は勝ち得たその成功に元気付けられて敵地、とりわけアクラガスの略奪へとレプティネスを派遣した。というのも喫した敗北のために政敵たちに貶されたためにクセノドコスが政敵たちと争っていたからだ。したがってアガトクレスはレプティネスにこの男を戦いへと誘い出すよう命じた。なんとなれば彼の言うところでは、彼の軍には反乱の空気が漂っており、彼らはすでに敗れていたために彼を打ち負かすのは容易だったからだ。そして実際にそのようになった。レプティネスがアクラガス領へと入ってその土地の略奪を始めると、クセノドコスは最初は自分には戦えるほどの戦力があるとは信じていなかったために静観していたが、市民たちからその臆病ぶりを非難されると、市民軍は放縦と庇護の下の生き方に慣れ切っており、他方は戦場と絶えざる遠征での軍務で鍛え上げられていたため、クセノドコスは敵軍より数で劣っていたのみならず士気でも遥かに劣っていた軍を率いて出撃することになった。したがって戦いが行われると、レプティネスは速やかにアクラガス兵を敗走させてその都市まで追撃した。この戦いで敗軍はおよそ五〇〇人の歩兵と五〇人の騎兵を失った。アクラガスの人々は彼らの災難に苛立ち、この男のせいで二度敗れたのだと言ってクセノドコスを告発したが、彼は間近に迫った尋問と裁判を恐れてゲラへと去った。
63 アガトクレスは僅かな日数のうちに陸と海の両方で敵を打ちひしぐと、神々に犠牲を捧げて友人たちのために豪奢な宴会を催した。彼は酒飲み競争で僭主の華美さを脱ぎ捨てて一般市民よりも謙虚な振る舞いを見せるのが常であった。こういったやり方によって大衆の好意を得ようとすると同時に杯を傾けながら彼への反論を述べる許しを人々に与えることで彼は各々の人たちの意見を正確に気付けるようにしていた。それというのも葡萄酒によって真実は隠されることなく明るみに出るものであるからだ。しかし元来、道化師や物真似芸人だけでなく民会での話し合いにおいてでさえ、彼はその場にいる人を野次ったり彼その中の誰かの真似の演技をすることを慎んだりしなかったために一般の民衆はあたかも彼らが物真似芸人や手品師を見ているかのようにしばしば笑いだした。大衆を自分の護衛として用いることで彼は付添人なしで民会へと、僭主のディオニュシオスとは違った様子で入った。というのも後者は誰も彼もを疑ったため、概して彼は髪と髭を長く伸ばして床屋の鋏に彼の体の命に関わるほとんどの部分を委ねないようにした。そして頭を整える必要に迫られようとも彼は垂れた髪を焦がし、疑わしいものは僭主の安全だけであると明言した。さて、アガトクレスは酒飲み競争では大きな黄金の酒杯を持ち、自分は技術の追求においてこれほどの職人芸で陶器の飲み器を作るまでは陶工の仕事を捨てなかったと言った。というのも彼は自分の仕事を悪しざまに言うことなく、それどころか逆に彼自身の才覚によって最も低い地位での生活から最も高い身分を手に入れたのだと述べたてて自慢の種にしていた。かつて一度彼が名誉を持たぬでもない都市を包囲してそこの人々が城壁からこう叫んだことがあった。「陶工、竈作業人め、お前はお前の兵にいつ金を払うつもりなんだ?」彼は離れた場所からこう言った。「私がこの都市を落とした時だ」しかしそれにもかかわらず、酒飲み競争の場で冗談を言って過ごしつつ彼は葡萄酒で顔を紅潮させた者が彼の僭主制への敵意を持っているのを見つけると、他の機会に個別に彼らを宴へと呼び、とりわけそのように無遠慮になった他のシュラクサイ人はおよそ五〇〇人に及んだ。そして彼らを適当な人もろとも傭兵で囲むと、皆殺しにした。というのも彼はリビュアに出払っていた間、彼らが僭主制を打倒してデイノクラテスと追放者たちを呼び戻すのではないかと用心深く警戒していたからだ。このようにして支配を確固たるものにした後、彼はシュラクサイから出航した。
64 リビュアに到着すると彼は軍が落胆して非常に物資が欠乏していたのを見て取った。したがって戦いを行うのが最善だと宣言すると、彼は兵士たちを戦いへと鼓舞して戦闘隊形で率いていった後、夷狄に戦いを挑んだ。彼が歩兵として有していたのは数にして六〇〇〇人の生き残りのギリシア兵全員、少なくとも同じ位のケルト兵、サムニウム兵、エトルリア兵、そして繰り出してきては状況の変化によって常に寝返りの機をうかがっていたためにそこにいて見ているだけだったほぼ一〇〇〇〇人のリビュア兵であった。それらに加えて彼には一五〇〇騎の騎兵と六〇〇〇台以上のリビュアの戦車隊が続いていた。カルタゴ軍は高地と難攻不落の場所に野営していたため、身の安全を無視した相手と戦うという危険を冒さぬよう決定し、ありとあらゆるものが豊富に供給される野営地に留まれば敵を飢餓と時間の経過によって打ち破れるだろうと期待した。しかし平地へと敵をおびき寄せることができず、自身の置かれた状況で何か果敢なことをして結果を帰ることを迫られたため、アガトクレスは夷狄の野営地へと自軍を率いていった。次いでカルタゴ軍が彼に向けて撃って出ると、彼らが数で遙かに勝って凸凹した地形のために有利だったにもかかわらず、アガトクレスは四方八方から迫っていた危機にしばしの間は持ち堪えた。しかしその後、傭兵とその他の兵が敵に不覚を取ると、彼は野営地への撤退を余儀なくされた。激しく追いすがった夷狄は彼らへの好意を示そうとして邪魔をしないでいたリビュア兵から見逃された。しかしギリシア兵と傭兵を彼らの武器から判別して見て取ると、彼らをその野営地まで追い払うまで殺戮を続けた。
 この際にアガトクレスの兵のうちおよそ三〇〇〇人が殺されたが、次の夜に両軍は奇妙で全く予期せぬ不運な出来事に遭遇することになった。
65 カルタゴ軍は勝利の後の夜に捕虜のうちで最も見栄えの良い者たちを神々に戦勝を感謝する供物として捧げた。大きな火が生け贄として捧げられた男たちを包み込んだ時、突如突風が彼らへ向かって吹いた結果、祭壇の近くにあった神聖な小屋に火がついてここから将軍の小屋へと、次いでそれと並んでいた指揮官たちの小屋へと火がつき、かくして野営地中に大きな驚愕と恐怖が沸き起こった。一部の者は消火を試みていたところを、他の者は鎧と貴重品を運んでいたところを火に閉じこめられた。それというのも、その小屋群は葦と藁でできていて、風で火が強く煽られると兵士たちが持っていた目的〔の遂行〕にはあまりにも時間がかかってしまった。したがって野営地のほとんど全域が炎に包まれると、不信心な行いそれ自体がそれに相応しい罰をもたらしたため、狭い道に殺到した多くの者が焼け死んで捕虜に対する残虐行為への即座にして然るべき報いを受けた。そして混乱と悲鳴の巷と化した野営地から飛び出した者をもう一つのより大きな危険が待ちかまえていた。
66 アガトクレス軍に加わっていた五〇〇〇人ほどのリビュア兵がギリシア軍を見捨てて夜に夷狄の側へと寝返ろうとした。斥候として送り出されていた兵たちはカルタゴ軍の野営地向かう兵たちを見ると、ギリシア軍の全軍がすでに戦いへと向かっていると信じ込み、友軍に接近しつつある軍があるとすぐさま報告した。その報告が全軍に広まると、彼らは困惑して敵からの攻撃に怯え始めた。各々の兵は逃亡こそ安全だと思い、指揮官たちから命令が下されず、何の陣形も組んでいなかったために逃亡兵たちは互いに向けて走り続けることになった。彼らの一部は暗闇のために、他の者は恐怖のために味方を識別できず、敵同士であるかのように同士討ちを起こした。あまねく殺戮が起こり、未だ誤解が広まっていた間にある者は白兵戦で殺され、急いで武器を捨てて凸凹した所を逃げていた他の者は崖から落ち、突然の恐慌に取り乱した。最終的に五〇〇〇人以上が死に、生き残りの大部分はカルタゴへと逃げ込んだ。しかし、その時に味方からの報告で勘違いした市内の者は、彼らは戦いで敗れて軍の大部分が撃滅されたものと思い込んだ。したがって大変な不安に駆られた彼らは市門を開いて混乱と興奮と共に兵たちを迎え入れ、彼らの中の最後の者たちと一緒に敵が突入してきた。しかし日が昇ると、彼らは真相を知り、災難が起こるという予想から四苦八苦して解放された。
67 しかし、時を同じくしてアガトクレスは勘違いのために予想を外して似たような災難に出くわした。というのも脱走したリビュア人は野営地の焼失と巻き起こった混乱の後に敢えて先に進もうとはせずに再び寝返ってきた。ギリシア軍の一部は彼らが前進してくるのを見てカルタゴ軍が来たものと信じ、敵軍が近づいてきたとアガトクレスに報告した。この君主は軍に武器を取るよう命じ、兵士たちは大いに興奮しながら野営地から突進していった。同時にカルタゴ軍の野営地の火が高く燃え上がり、カルタゴ軍の叫び声が聞こえるようになったため、ギリシア軍は本当は夷狄が全軍で彼らの方へと向かってきたのだと信じ込んだ。驚愕が彼らに熟慮を許さなかったため、野営地では恐慌が起こって全軍が逃げ出した。それからリビュア軍が彼らに混ざり、暗闇が広がり始めて不文明さが増したため、各々はあたかも敵であるかのように出会う者と片っ端から戦った。彼らは夜通し方々に散り散りになって混乱と恐怖に捕らえられ、その結果四〇〇〇人以上が殺された。真相がついに露わになると、生き残った者たちは彼らの野営地へと戻った。したがって両軍は、諺の述べるように、戦争の空疎な恐怖によって騙されたために上述のような災難に見舞われた。
68 この不運の後にリビュア人全てが彼を見捨て、残りの軍はカルタゴ軍と戦うにあたっては十分に強力ではなかったためにアガトクレスはリビュアを去ることを宣言した。しかし彼は何の輸送手段も準備しておらず、制海権を有していたカルタゴ軍がそれを許しはしないために自分は兵を輸送できるなどとは信じていなかった。彼は夷狄は兵力では遙かに勝っていて、初めて渡ってきた者の撃滅によって他の者のリビュアへの攻撃を押しとどめることを決意していたたために休戦に同意するとは期待していなかった。したがって彼は密かに少数の者と共に帰路に発つと明言し、自分の息子たちのうちの年下の方とヘラクレイデスを自分と一緒に乗船させた。というのも彼は、継母と関係を持っており、元来剛胆であったアルカガトスが自身に対する陰謀を企てるのではないかと案じており、こうすることでこの息子に備えたわけだ。しかしアルカガトスはアガトクレスの目的を疑って用心深く出航を見張り、その試みを邪魔するであろう隊長たちに陰謀を暴露することを決意した。それというのも彼は戦いには喜んで参加するし父と弟のためにも戦うが、自分だけが無事な帰国から閉め出されて敵への犠牲として取り残されるのは御免被ると考えたからだ。したがって彼はアガトクレスは夜に密かに出航しようとしていると数人の隊長に打ち明けた。急いでやってきた彼らはこれの邪魔をしただけでなく、将兵にアガトクレスの悪行を公表した。そして兵士たちはこれに怒り狂って僭主を捕らえて縛り上げ、軟禁下に置いた。
69 かくして野営地から規律が消え去ると騒動と混乱が起こり、夜になると敵が近くにいるという噂が広まった。不安と恐慌の恐怖が彼らに降り懸かると、各々は誰も命令を与えていないのに武器を取って野営地から飛び出した。まさにこの時、僭主を警護していた兵たちは他の者に劣らず怯えていて自分たちが誰かに呼び出されるであろうと想像したため、鎖で繋がれていたアガトクレスを大急ぎで連れ出した。一般の兵たちは彼を見て取ると慈悲心を掻き立てられて皆が彼に出ていけと叫んだ。解放された彼は、この時はプレイアデスが出る冬の季節であったわけだが、少数の供廻りと共に輸送船に乗って密かに出航した〔およそ紀元前307年11月1日(N)。〕。そこでこの男は我が身の無事を案じて息子たちを見捨てたわけだが、彼の逃亡を知ると、他のあらゆることを措いて兵士たちは彼ら〔アガトクレスの逃亡に手を貸した者〕を殺した。そして兵士たちは自分たちの中から将軍たちを選び出して以下のような条件でカルタゴ人と講和した。彼らは占領した諸都市を返還して三〇〇タラントンを受け取り、カルタゴ人と一緒に〔彼らの下で傭兵として〕働くことを選んだ者は通常通りの賃金を受け取り、その他の者はシケリアへと輸送された暁にはソルスを居住地として受け取る。 そこで兵の大部分は協定に則って留まって合意された条件を受け入れたが、まだアガトクレスに希望を抱き続けていたために諸都市を占領し続けていた全員が攻撃を受けて強襲で落とされた。彼らの指導者たちをカルタゴ人は磔にし、その他の兵は足枷をはめ、戦争の間に彼らが荒らし尽くした地方を再び耕地へと戻すための労苦を押しつけた。
 かくしてこのようにしてカルタゴ人は戦争の四年目に戦争から解放された。
70 アガトクレスのリビュア遠征のほとんど信じがたい要素と彼の子供たちがあたかも神意によるかのようにして被った罰には注意が向けられることであろう。それというのも、シケリアで彼は敗れて軍の大部分を失ったにもかかわらず、リビュアでは以前に勝利を得ていた者を軍の僅かな部分でもって破ったからだ。そしてシケリアで全ての都市を失った後、彼はシュラクサイで包囲された。しかしリビュアでは他の全ての都市の主になった後に彼は一度の包囲戦によってカルタゴ人を封じ込め、運命の女神は状況に希望がなくなった時にあたかもはっきりした目的を持っているかのように彼女に固有の力を見せつけた。彼が優勢に立ち、オフェラスを友人であり賓客であったにもかかわらず殺した後、神の力はオフェラスへの無慈悲な行いを通して後に彼に降り懸かる前兆を明らかに示した。オフェラスを殺して彼の軍を得た同じ月の同じ日に彼は自分の息子たちの死と彼の軍の喪失に見舞われた。全てのことのうちで最も特異なものは、神がまるで良き立法者のように彼に二倍の罰を与えたことだ。それというのも彼がその友人を不正に殺した時に彼は二人の息子を奪われ、オフェラスと共にいた者たちはその若者たちに乱暴を働いた。次にそれらの事柄を軽んじる者への我々の答えとして以上のことを述べることにしよう。
71 リビュアからシケリアへと大急ぎで渡ると、アガトクレスは軍の一部を呼び寄せ、同盟国であったエゲスタ市へと向かった。彼は手元不如意だったので、その時に一〇〇〇〇人程度の人口を抱えていたその都市で富裕な人たちに財産の大部分を無理矢理提出させた。これに怒った多くの人が民会を開いたため、彼はエゲスタの人々を彼に対する陰謀の廉で非難して酷い災難を加えつつ市に留まった。例えば、最も裕福な人々を彼は都市の外のスカマンドロス川沿いの場所に連れ出して殺した。しかし彼はもっと財産を持っていると信じられた人たちに拷問を加えて尋問し、どれだけの財産を持っているかを無理矢理言わせた。彼はある人たちを車裂きにし、他の人たちをカタパルトに縛り付けて発射させ、指関節の骨を力づくで他の骨につっくけるなどし、彼らに惨い苦痛を与えた。また彼は他にもファラリスの雄牛に似たような拷問を考案した。これは人間の体の形をして四方を棒で囲まれた青銅の寝台を準備し、これに拷問を受ける人を固定して生きたまま焼くというもので、この仕掛けは苦しみながら死ぬ様が見えやすいという点では雄牛よりも優れていた。富裕な婦人たちについては、彼はその一部に足首を鉄のやっとこで砕く拷問を加え、他の者は胸を切り、妊娠していた者の背中の下の方に煉瓦を置き、この圧力で胎児を押し出させた。このようにして僭主が全ての財産を探し回っていた時、大きな恐慌が市中に蔓延し、ある人たちは家のそばで焼身自殺をし、他の人たちは首を吊って生からの解放を得た。かくしてエゲスタは災難に満ちた一日に見舞われ、若者以降の全ての男を失った。次いでアガトクレスは娘と子供を捕まえてイタリアへと渡航させてブルッティオイ人に売り払い、市の名前すら残さなかった。しかし彼は名前をディカイオポリスと改めて脱走兵たちに住居として与えた。
72 息子たちの殺害を聞くとアガトクレスはリビュアに残してきた者全員に対して激怒し、カルタゴ遠征に参加した者の親族を皆殺しにするよう命じて幾人かの友人を兄弟のアンタンドロスのいるシュラクサイへと送った。アンタンドロスは速やかに命令を実行に移し、この時代に至るまでで最も念入りに企てられた虐殺が起こった。彼らは兄弟、父、成人したばかりの息子たちのみならず、祖父と父であろうと、これほど生きたならば高齢になるまで生き延びてすでに時の推移によって感覚の全てを奪われた人たちであろうと、もたらされるのがいかなる運命であろうと意識を持たない幼児として腕の中に生まれた子供であろうと死なせた。また彼らは結婚や血縁による関係を持っていた女性たちを去らせもし、要するに罪があるあらゆる人たちというのはリビュアに残された者に嘆きを寄せた人たちに他ならなかった。多くの、そして全ての種族の人々から成っていた大衆は罰のために海へと追い出され、執行人が彼らの傍らに陣取り、嘆きと祈りと悲しみが互いに混ざり、ある者は情け容赦なく殺され、他の人は隣人の不運と自身にまさに降り懸かろうとしている運命のために気絶し、精神においては彼らの前で殺されようとしている者と変わるところがなかった。全てのことの中で最も残忍だったことは、多くの人が殺されてその遺体が沿岸に移された時、親族も友人も、死んだ人たちとの親密に振る舞った人だと判明することを恐れて最後の儀式を誰のためにもしようとしなかったことである。そしてこの異常な非道な行いの後、波打ち際で殺された者の多さのために海は大量の血で染まったと言われた。
73 この年が終わった時、コロイボスがアテナイでアルコンになり〔紀元前306-305年〕、ローマではクイントゥス・マルキウスとプブリウス・コルネリウスが執政官職を引き継いだ〔紀元前306年〕。彼らが任期にあった間、末息子フォイニクスを亡くしたアンティゴノス王はこの息子を王に相応しい栄誉でもって弔った〔19巻5章では末息子の名はフィリッポスであり、フォイニクスというのは誤り(N)。〕。そしてキュプロスからデメトリオスを呼び寄せた後、彼はアンティゴネイアに軍を集めた。彼はエジプト遠征を宣言した。かくして彼自らが陸軍を指揮して八〇〇〇〇人以上の歩兵、およそ八〇〇〇騎の騎兵、八三頭の象を率いてコイレ・シュリアを通って進軍した。彼はデメトリオスに艦隊を与えて陸軍と速度を合わせて沿岸沿いに近くを追従するよう命じた。全部で一五〇隻の軍船と大量の兵器の蓄えを積んだ一〇〇隻の輸送船が準備されていた。舵手たちが八日後に来るだろうと予想されていたプレイアデスの位置に注意する必要があると考えると、彼らを危険を恐れるような連中だといってアンティゴノスは非難した。しかし、彼自身はガザに野営していてプトレマイオスの機先を制そうと望んでいたために兵士に十日分の食料を提供するよう命じ、アラビア人が集めてきたラクダに一三〇〇〇メディムノスの穀物とそれらの獣のための飼料の蓄えを積むよう命じた。そして武器を荷馬車に乗せると彼は広野を通って進み、その地方の多くの場所、とりわけバラトラと呼ばれる地の近くが沼地であったため非常に苦労しながら進軍した。
74 デメトリオスは深夜にガザを出航し、最初の数日の間は天気が穏やかだったために快速船で物資を曳いていった。それからプレイアデスの位置がその艦隊を追い越して北風が起こると、多くの四段櫂船が嵐により、錨を降ろす余地のない浅瀬で囲まれていたラフィアへと危うく流されそうになった。兵器を積んでいた船の一部は嵐で壊れてしまい、他の船はガザに戻された。しかし最も丈夫な船に乗っていた彼はカシオンあたりに針路を取った。この地はナイル川からそう遠くはないが、港がなく、嵐の季節にはここに上陸することができない。したがって彼らは錨を下ろして陸からおよそ二〇〇スタディオンのところで波に揺られる羽目になり、そこではすぐに多くの危険に巻き込まれた。というのも波しぶきが激しく打ちつけたために船が乗組員もろとも沈む危険が生じ、岸は港がなく敵の手にあったため、船は危険を冒すことなく近づくことも兵士が陸まで泳いでいくこともできず、何もかもが最悪の状況に陥って飲み水が尽き、彼らはもし嵐がもう一日続いていれば乾きで全滅していたのではないかというほどの苦境に陥った。全員が絶望してすでに死を覚悟していると、風が吹き、アンティゴノスの陸軍がやってきて艦隊の近くに野営した。かくして彼らは船を下りて離れ離れになった船団を待つ間に野営地で回復した。このようにして波に晒されたことで四段櫂船三隻が失われたが、そこから兵士たちは陸まで泳いでいった。そこでアンティゴノスは陸軍をナイル川の近くまで向かわせて川から二スタディオンの距離のところに野営した。
75 信頼に足る守備隊によって戦略的要地を予め押さえていたプトレマイオスは小舟に兵を乗せて送り出し、上陸地点に近づいてアンティゴノスを裏切れば一般兵士には二ムナ、指揮をする地位に任命されていた者には一タラントンの賞金を支払う宣言するよう彼らに命じた。その宣言が効果を発揮すると、アンティゴノスの傭兵たちのうちに寝返りの願望が生まれ、彼の多くの隊長さえそれを理由として、あるいは他の理由で寝返ろうという考えに傾いていたことが明るみに出た。しかし多くの者がプトレマイオスの側につこうとすると、アンティゴノスは弓兵、投石兵、そして多くのカタパルトを川の縁に置いて小舟でその近くに来ようとした者を撃退した。そして彼は脱走兵の一部を捕らえてこのような試みをしようと思っていた者を威嚇しようとして恐ろしい拷問を加えた。遅れて到着した船団を兵力に加えた後、彼はそこならば幾ばくかの兵士を上陸させることができるだろうと信じてプセウドストモンと呼ばれる土地へと航行させた。しかしその地に強力な守備隊がいて、矢とその他ありとあらゆる投擲兵器を防いだのを見て取った彼は夜が近づいてくるとそこを離れた。次いで舵手たちに将軍の船の後に続くよう命じ、その灯りに目を向け続けつつナイル川のファトニティコンと呼ばれる河口へと航行させた。しかし日が昇ると、多くの船が針路を外れたために彼はそれらの船を待ち、彼に続いていた最も足の速い船を船の探索のために送るよう余儀なくされた。
76 このために大変な遅延が生じたため、敵の到着を聞いたプトレマイオスはすぐさま軍を連れて部下の支援へと向かい、沿岸沿いに着陣した。しかしデメトリオスはこの上陸に失敗していて、また近隣の岸が湿地と沼地のために天然の要害をなしていることを聞き知ったために全艦隊と共に進路を引き返した。それから強い北風が起こって高波が生じ、彼の四段櫂船のうちの三隻、そして数隻の輸送船が同様にして波で激しく陸に打ち上げられてプトレマイオスの手に落ちた。しかし乗組員が本隊のいる沿岸を避けていた他の船は無事にアンティゴノスの野営地へとたどり着いた。しかしプトレマイオスはすでに川沿いのあらゆる揚陸地点を強力な守備隊によって占領し終え、多くの川船が彼のために準備されており、その全てにありとあらゆる武装とそれらを使う兵士が配備されていたため、アンティゴノスは少なからぬ苦境に陥った。というのも彼の海軍はナイルのペルシオン河口が敵によって先んじて占領されてしまったために無用になっており、陸軍は川幅のおかげで頓挫させられた先の挫折に気付いており、何よりも重要なことは何日も過ぎていたために兵士の食料と獣のための馬草が不足しつつあったことであった。かくして彼の軍勢はそれらの理由のために意気阻喪していたため、アンティゴノスは陸軍と指揮官たちを召集して彼らに戦争を続けるのと差し当たりシュリアに戻って後により完璧な準備をした上でナイル川が最も低くなる時期に遠征を行うのとはどちらが良いかと尋ねた。皆が可及的速やかな撤退に傾くと、彼は兵士たちに陣営を畳むよう命じて速やかにシュリアへと戻り、全艦隊はこれに沿って沿岸を航行した。敵の出発の後、プトレマイオスは大いに喜んだ。そして神に感謝を捧げると、彼は友人たちを豪勢にもてなした。また彼はセレウコス、リュシマコス、そしてカッサンドロスに彼の勝利と彼の許を去った大軍についての手紙を書いた。そして自身は二度目のエジプト戦を終えてその地方は戦争の報償として彼のものであることに納得すると、アレクサンドレイアへと戻った。
77 それらの出来事が起こっていた間、ポントスのヘラクレイアの僭主ディオニュシオスが三二年間の支配の後に死に、彼の息子のオクサトラスとクレアルコスが僭主の地位を継いで一七年間支配した。
 シケリアでは、アガトクレスが守備隊によって安全を確保して彼に服属する諸都市から金を徴発しつつその諸都市に滞在していた。というのも彼は自身に降り懸かった不運のためにシケリアのギリシア人が独立を得ようと試みるのではないかと極度に警戒していたからだ。なるほどまさにその時にパシフィロス将軍がアガトクレスの息子たちの殺害と彼のリビュアでの変転を聞き知って僭主を侮るようになっていた。そしてデイノクラテスの許へと脱走して彼と友好関係を樹立すると、自身に委ねられていた諸都市をがっしりと掌握して希望によって兵士たちの心を誘惑することで彼らを僭主から離反させた。事ここに至りて方々での希望がすり減ってしまったアガトクレスはデイノクラテスに使節を送って以下のような協定の下で彼と講和するという考えを持つほどに意気消沈した。彼は僭主としての地位から退いてシュラクサイを市民に返還する一方でデイノクラテスは追放から復帰し、他方でテルマとケファロイディオンという指定された要塞がその領地もろともアガトクレスに与えられるべし。
78 見通しが最低になった時にありとあらゆる他の状況にあって断固として自信を失わなかったアガトクレスがこの時には臆病になり、そのために以前は多くの大会戦を戦った彼が戦わずして敵に僭主の地位を手放したこと、全てのことのうちで最も不可解なことは、彼がシュラクサイと他の諸都市の主であり、それらに相応しい船と富と軍を有していた一方で、僭主ディオニュシオスの経験を一つも思い起こすことなく偶然を勘定する全ての力を失ったことについて、尤もな理由でもってその心配を表現するだろう。例えば、僭主〔ディオニュシオス〕が自ら認めるほどの絶望的な状況へと陥って差し迫った危機の大きさのために王位を保つ希望を諦めてシュラクサイから自発的に亡命して切り抜けようとしていた時、彼の友人のうちで最年長であったヘロリスが「ディオニュシオス様、僭主の地位は素晴らしい死装束ですぞ」と言った。そして僭主の義理の兄弟メガクレスはディオニュシオスに自らの胸の内を話し、僭主の地位を逐われた者は足から引っ張られて去り、自身の思い通りの選択を手放すことになると述べた。それらの激励で奮起したディオニュシオスは打倒できないように見えた全ての危機に断固として立ち向かい、支配領域を拡大したのみならず、天恵のうちに年を重ねてヨーロッパ最大の帝国を息子たちに残した。
79 しかしアガトクレスは何があろうとも浮上せず、経験によって彼の決死の希望を試し損なったため、以上のような条項でかくも強大な帝国を手放しかけた。しかし生憎その協定は発効せず、それはアガトクレスの施策によって実際に批准されたもののデイノクラテスの野心のために受け入れられなかった。後者は単独支配を目論んでいたためにシュラクサイの民主制を敵視し、自らがその時に持っていた支配権を喜んでいた。それというのも彼は二〇〇〇〇人以上の歩兵と三〇〇〇騎の騎兵、多くの強大な都市を指揮する立場にあり、そのために亡命者の将軍と呼ばれてはいたものの、事実上は王の権威を持っており、彼の権力は絶対的だったからだ。しかし彼がシュラクサイに戻れば、自治は平等を愛するものであるために必ず一市民になる運命にあり、その他大勢の中の一人になってしまうだろう。そして大衆は遠慮のない物言いをする人の最高権限に反対するものなので、選挙で彼は万に一つだが民衆指導者に負ける恐れがあった。したがってアガトクレスは自らの僭主としての地位を捨てたと正しくも言われるだろうし、デイノクラテスは君主の後の成功の責任者であると考えられるだろう。それというのもアガトクレスが講和条件を議論する使節団を送り続けて余生を過ごすための二つの砦を承認するよう求めていた時、デイノクラテスはいつも尤もらしい口実をでっち上げて協定への一切の希望を絶ち、今やアガトクレスはシケリアを去るべきであると主張して子供たちを人質として求めるに至った。彼の目的を知るとアガトクレスは亡命者たちに手紙を送って彼らの独立獲得を邪魔しているとしてデイノクラテスを告発し、カルタゴ人には使者を送ってフェニキア人は以前彼らに服属していた全ての都市を取り返し、その代わりにカルタゴ人から銀三〇〇タラントン、あるいはティマイオスの言うところでは一五〇タラントンの値の黄金と、と二〇万メディムノスの穀物を受け取るという条件で講和した。
 シケリアの情勢はこのようなものであった。
80 イタリアではサムニウム人がローマ人と同盟を結んでいたソラとカラティアを落として住民を奴隷にし、両執政官は強力な軍を率いてイアピュギアに攻め込んでシルウィウムに野営した。この都市にはサムニウム人によって守備隊が置かれており、ローマ軍はかなりの日数がかかることになる包囲を開始した。強襲によってこの都市を落とすと、彼らは五〇〇〇人以上の人を捕虜にしてさらに大量の戦利品を集めた。これを完了させると彼らはサムニウム人の地方への攻め込んで木々を切り倒し、方々を破壊して回った。それというのもサムニウム人の長年にわたる戦争をいの一番に考えていたローマ人はもしこの地方で敵の財産を奪い取れば、これによってより強い者に彼らを屈服させることができると期待したからだ。このために彼らは五ヶ月を敵地の壊滅に費やし、農地の建物のほとんど全てを焼き払って土地を荒らし、実がなるありとあらゆるものを破壊した。その後に彼らは不正な振る舞いをしていたアナグニア人に宣戦し、フルシノを落として土地を分配した。
81 この年が終わった時、アテナイではエウクセニッポスがアルコンになり〔紀元前305-304年〕、ローマではルキウス・ポストゥミウスとティベリウス・ミヌキウスが執政官だった〔紀元前305年〕。彼らの任期中、以下の理由でロドス人とアンティゴノスとの間で戦争が起こった。強力な海軍力を持ち、ギリシア人の都市のうちで良く治まっていて熱烈な称賛の的だったロドス人の都市は君主や王たちの垂涎の的で、その各々はそこを同盟者にしようとしていた。ロドス人はずっと前から何が有益であるかを理解してそれぞれの君主と別個に友好を樹立していたため、君主ら相互の戦争には参加していなかった。その結果、そこは堂々たる贈り物で各々の王たちによって称えられる一方で長い平和を享受し、大いに繁栄していた。事実、ロドスはギリシア人のために海賊との戦争を請け負って悪党共を海から一掃するほどの大勢力であり、記憶に知られる者のうちで最も有力な人物たるアレクサンロドスはロドスに他の全ての都市を上回る名誉を与え、彼の全王国をどう処理するかについての遺言をそこに預け、他の仕方でもそこへの賞賛を示して指導的な地位へと引き上げもした。いずれにせよロドス人は全ての支配者と友好条約を樹立して言いがかりの合法的な根拠を与えること用心深く避けていた。しかし善意を示すにあたって彼らの歳入の大部分はエジプトに航行する商人のおかげであり、概してその都市はその王国から食料を得ていたために主としてプトレマイオス贔屓だった。
82 アンティゴノスはこれを知ってロドス人とプトレマイオスとの繋がりを遮断しようと目論んだため、キュプロスをめぐってプトレマイオスと戦おうとしていた時にはいの一番に彼らに使節団を送って自分と同盟してデメトリオスの味方として船を派遣してはどうかと尋ねた。そして彼らが同意しないと、彼はロドスからエジプトへ航行する商船は陸に上げて荷を奪うよう命じて自らの将軍の一人を艦隊と共に送った。この将軍がロドス人によって追い出されると、アンティゴノスは彼らは不正な戦争の張本人であると宣言して強力な軍でもってその都市を包囲すると脅した。しかしロドス人は当初は彼に大きな栄誉を与え、使節団を送ってこの都市を彼らの協定に反してプトレマイオスとの戦争へと追い立てないよう請願した。しかし王が一層厳しい応答を寄越して息子のデメトリオスを軍と攻城兵器と共に送ると、彼らはその王の優勢な勢力に怯え、まずデメトリオスに自分たちはプトレマイオスとの戦争ではアンティゴノスの味方をするという旨の手紙を送るほどであったが、デメトリオスが一〇〇人の貴族の市民を人質とするよう求めて彼の艦隊を彼らの港で受け入れるよう命令すると、彼らは彼が市に対して謀を練っていると結論して戦争の準備をした。デメトリオスは全軍をロリュマの港に集めるとロドス攻撃のための艦隊を結成した。彼はあらゆる大きさの二〇〇隻の軍船と一〇〇隻以上の補助艦船を有し、それらでは四〇〇〇〇人の兵士に加えて騎兵と彼の同盟者であった海賊を全部は輸送できなかった。ありとあらゆる軍需品の潤沢な貯えと包囲戦のための全ての必要物資の大量の貯蓄もあった。それらに加えて彼には船を自弁したほぼ一〇〇〇人の海賊が伴い、彼らは貿易の従事者でもあった。というのもロドス人の土地は何年も略奪を受けていなかったため、そこには方々から戦時の人々の不幸を自らの金儲けの手段と考えるのを常とする人たちが集まっていたからだ。
83 かくしてデメトリオスは混乱を引き起こすために道中であたかも海戦のためであるかのように艦隊を並べると、船首に長さ三スピタメの矢用のカタパルトがついた軍船を送り出した。そして彼は漕ぎ手を使った船の後に兵と馬を輸送する船を続かせ、全船の最後には海賊と商人と貿易商の積み荷を運ぶ船を行かせ、既に述べたようにそれらは大変な数にのぼって島の対岸との間の全域が船で満たされる様が見られ、その光景は市から監視をしていた者に大変な恐怖と恐慌を起こした。ロドス人の兵士たちは城壁のそれぞれの場所に陣取って敵艦隊の接近を待ち構え、市は劇場のような形をしていたために老人と女たちは彼らの家からその様を眺めた。そして皆が艦隊の規模と光を受けた鎧の輝きに恐怖し、結末を少なからず心配した。それからデメトリオスが島へと航行してきた。陸軍を上陸させた後、彼は市の近くの場所に陣取って投擲兵器の射程外に陣を張った。すぐに彼は海賊とその他の者たちから適当で妥当な男たちを陸路と海路の両方を使って島へと略奪のために送り出した。また彼は近くの地域の木々を伐採して農場の建物を破壊し、この資材で三重の柵を、そしてその近くに大きな杭を巡らして野営地を要塞化し、かくして敵によって被った損失は彼の兵の守りとなった。この後、彼は全軍と乗組員を使って僅かな日にちで都市と出口との間の空間を土手で遮り、彼の船のために十分な大きさの港を作った。
84 さしあたりロドス人は使節を送り続けてその都市に取り返しのつかないことをしないよう彼に頼んだ。しかし誰も彼らに耳を貸さないでいると、彼らは和平への希望を捨ててプトレマイオス、リュシマコス、そしてカッサンドロスに使節を送って救援を懇願し、この都市は彼らのために戦争を戦うのだと言った。在留外国人と市内に住んでいた外国人、希望者に対して彼らは戦いに加わる許可を与え、役に立たない者は一面では物資の貯えの乏しさを用心して、もう一面では誰も状況に不満を持って市を裏切ろうとしないようにするために都市から送り出した。彼らが戦うことができる者を数えたところ、およそ六〇〇〇人の市民と、同じくらいの在留外国人と〔その他の〕外国人を見出した。彼らは戦いで勇敢な兵士であることを証明した奴隷は彼らの主人から買い上げて解放し、自由民とすることを票決した。また彼らは戦争で倒れた者の遺体は国葬され、さらにはその両親と子供たちは国庫からの支援金を受け取って養われ、彼らの未婚の娘は公費で嫁資を与えられ、息子は成人に達するとディオニュシア祭の劇場で冠を被せられて一揃いの鎧を与えられるというもう一つの布告を起草した。それらの処置によって勇敢に戦いを続ける精神を全ての人を奮起させると、彼らは他の事柄でも可能な限りの準備をした。全ての人が心を一つにしたため、富める者は金を寄付して職人はその技術を武器の準備のために振るい、各々が競争心を胸に他者に勝ろうと奮闘し、皆が活動した。したがってある者はカタパルトとバリスタの仕事をし、他の者はその他の武装の準備をし、またある者は城壁の壊れた部分を修繕し、非常に多くの人が城壁へと石を運んで積み重ねた。彼らは三隻の最も船足の速い船を敵と彼へと物資を運ぶ商船に向けて繰り出しさえした。それらの船は不意に現れて自分の利益のために土地を略奪すべく航海していた商人を乗せた多くの船を沈め、少数の船を岸へと曳いて焼き払いさえした。捕虜については、ロドス人とデメトリオスの双方は自由民の身代金として一〇〇〇ドラクマを、奴隷の場合は五〇〇ドラクマを払うべしとの協定を結んでいたために身代金を払うことができた者を市へと連れていった。
85 兵器を設えるにあたって必要な準備をことごとく万全になしたデメトリオスは一方をバリスタ、他方はカタパルトのためもので、その各々が共に固定された二つの荷台の上にしっかりと乗っていた二つの搭屋、港にある塔を高さで上回り、その各々は同じ大きさの二隻の船に乗せられて固定され、塔が進めば同じ重さを双方で支えるという仕組みの二つの四〇階立ての塔の準備を始めた。また彼は杭を散りばめた、浮かぶ四脚の帆桁を準備し、敵が航行してきてその兵器を乗せている船に衝角攻撃をするのを防ぐためにこれを浮かべた。それらが最後の仕上げを受けている間、彼は軽い船のうち最強のものを集めて厚板で防備を施し、それらに閉じることができる舷窓を与え、それらに最も射程が長い三スピタメの長さの釘を射出するカタパルト、それを適切に動かすための兵士、そしてまたクレタ人弓兵を乗せた。次いで射程内に小舟を送ると、彼は港沿いの城壁をより高くしようと建ていた市内の兵を射撃した。
 デメトリオスの総攻撃が港を狙ったものであると知ると、ロドス人はそこの安全にも気を配るようにした。彼らは防波堤に二つの装置を、小港湾の防材区域近くにあった貨物船に三つの装置を配置した。敵が防波堤に兵を上陸させたり彼の装置を前進させれば、これによって彼の計画を頓挫させるため、それらに彼らはありとあらゆる大きさのカタパルトとバリスタを多数乗せた。また彼らは港に碇を降ろしていた各々の輸送船に、カタパルトが乗る丁度良い甲板を乗せた。
86 双方がこのようにして準備をした後、デメトリオスは手始めに港へと攻城兵器を引き具そうとしたが、海が荒ぶっていたためにこれを妨げられた。しかしその後、夜になって天候が穏やかになると彼は密かに航行し、大港湾の防波堤の端を奪取した後にすぐにその場所に防備を施し、石と厚板の壁でもってそこを遮断し、四〇〇人の兵とありとあらゆる種類の軍需品の備蓄をそこに上陸させた。この地点は市壁から五プレトラの距離にあった。それから夜明けに彼はラッパの音と叫び声を響かせながら港へと攻城兵器を運んだ。射程の長い比較的軽いカタパルトによって彼は港沿いの城壁を作っていた者を駆逐し、バリスタによって敵の兵器と防波堤を横切る城壁を射撃して破壊したのだが、それというのもそこはこの時には脆弱で低かったからだ。しかし市から来た者も激しく戦ったため、双方は終日戦って大損害を被った。そして夜がすでに間近になると、デメトリオスは押し船を使って攻城兵器を射程外へと戻した。しかしロドス軍は乾いた瀝青のついた木を快速船に満載してこれに松明を乗せ、手始めに彼らは追撃に向かい、敵の投擲兵器に近づくと木に火を放ったが、その後、浮かぶ下桁と投擲兵器で後に撃退されたため、彼らは撤退を余儀なくされた。火が勢いを増すと少数の者は火を消して小舟で漕ぎだしたが、小舟が尽きたためにほとんどの者は海へと飛び込んだ。翌日にデメトリオスは海から同様の攻撃を仕掛けたが、同時に陸でも多くの人の気をそらせてロドス人に恐怖の苦痛へと陥れるため、雄叫びとラッパの音を鳴らしながら方々から市に猛攻をかけるようにも命令した。
87 八日の間この種の攻城兵器を運んだ後、デメトリオスは重量のバリスタで突堤の上にあった兵器を粉砕し、塔と交差する幕壁を弱めた。また彼の兵の一部は港沿いの要塞化された一部区画を占領し、ロドス人は部隊を整列させて彼らとの戦いに入って敵に対して数で勝っていたために一部を殺して残りは退却に追い込んだ。城壁の外側沿いの建築物のそばには多くの岩があったため、市の兵は城壁沿いの沿岸の起伏に助けられた。それらの兵を運んでいた船のうち少なからぬ船が気付かずに座礁し、すぐにロドス人はこれらの衝角を外した後に瀝青のついた乾木を船内に投げ込んで焼き払った。ロドス人がそれで手一杯だった間、デメトリオスの兵は方々に航行して城壁に梯子をかけてより頑強に圧迫し、陸から攻撃をかけていた部隊も方々で戦いに参加し、一斉に鬨の声を上げた。それから多くの兵が無鉄砲に生命を危険に晒して多くの兵が城壁に乗り込んだため、激戦が起こって外側の者は道を切り開こうとし、市内の者は一丸となって防戦に向かった。ついに、ロドス人は猛烈に戦うあまり馬に乗っていた者の一部は引きずり下ろされて他の者は負傷して捕らえられ、最も優れた指導者たちもその中にはいた。外部から戦っていた者はかような損害に見舞われたため、デメトリオスは兵器を港まで退かせて損傷した船と兵器を修理した。そしてロドス人は死んだ市民を埋葬して敵の武器と船の衝角を神々に奉納し、城壁のバリスタで破壊された部分を再建した。
88 兵器と船の修繕に七日間を費やして包囲戦の準備をした後、デメトリオスは再び港に攻撃を仕掛けた。それは全ての労力をここの占領に集中して市の人々の物資の補給を遮断しようとしたためであった。彼は射程内に入ると投錨していたロドス軍の船に多数準備していた火矢を放ち、バリスタで城壁を撃ち、姿を現した兵をカタパルトで切り倒した。次いで攻撃が継続して恐るべきものになると、ロドス船の船長たちは船を守るために猛然と戦った後に火矢を放ち、港が危機に瀕すると当番評議員は共通の安全のために戦争の危険を冒すべく最も高貴な市民たちを呼び寄せた。多くの人は機敏に反応すると、最も信頼の置ける三隻の船に選り抜きの兵を乗せ、彼らに衝角で敵の兵器を運ぶ船を沈めよとの命を与えた。したがって多数の投擲兵器が雨あられと投ぜられたにもかかわらずその兵士たちは突進した。まず彼らは鉄鋲のついた下桁を突破し、次いで衝角で船に何度も打撃を加えることで船を浸水させると、二つの装置をひっくり返した。しかし三つ目がデメトリオスの兵によって縄で戻されると、ロドス軍は彼らの成功に気をよくして思慮深くというよりもより大胆に戦いへと邁進した。かくして多くの船が彼らの周りに殺到してそれらの船の側面が多数の箇所で衝角で封じ込められると、三段階船船長であった提督エクセケストスと他の数人は怪我で動けなくなって捕らえられた。残りの乗組員は海に飛び込んで仲間の許へと泳ぎ、一隻の船がデメトリオスの手に落ちたが、他の船は戦場から逃げおおせた。海戦がこのような結果に終わると、デメトリオスは高さと幅では以前のものの三倍になるもう一つの装置を建設した。しかし彼が港へとこれを運んでいた時、南からの突風が起こって投錨していた船を吹き飛ばし、この装置をひっくり返した。そしてまさにこの時、ロドス人は抜け目なくその場所に現れ、門を開いて突堤を占拠していた者へ向けて漕ぎ出した。長時間にわたる激しい戦いが起こり、デメトリオスは嵐のために増援を遅れず、他方でロドス軍は交代で戦ったために王の兵は武器を置いて降伏することを余儀なくされ、その数は四〇〇人以上に上った。ロドス軍が優勢になった後、その都市のために同盟軍としてクノッソス人から一五〇人の、プトレマイオスからその一部が王の軍に傭兵として参加していたロドス人であった五〇〇人以上の兵が航行してきた。
 ロドス包囲の状況は以上のようなものであった。
89 シケリアでは、デイノクラテス及び亡命者たちと協定を締結できなかったアガトクレスは彼らと戦ってその結果に全てを賭ける必要があると信じて彼が有していた軍でもって野戦を行った。目下彼には五〇〇〇人以上の歩兵と八〇〇騎の騎兵がつき従っていた。デイノクラテスと亡命者たちは敵の動きを見て取ると、その何倍もの戦力があったために喜んで戦いへと向かった。というのも彼らの歩兵は二五〇〇〇人以上おり、騎兵は三〇〇〇騎を下らなかったからだ。両軍がトルギオンと呼ばれる場所の近くに互いに陣を張り、それから戦列を組んで互いに向けて出撃すると、間もなく双方の熱意のために激しい戦いが起こった。しかし数にして二〇〇〇人以上のデイノクラテスと不仲だった者の一部が僭主に寝返り、亡命者の敗北を招いた。それというのもアガトクレスに同行していた者たちは遥かに大きな自信を持っており、デイノクラテスの側で戦った者たちは逃亡兵の数を大きく見積もって意気消沈し、総崩れが起こったからだ。それからアガトクレスはいくらかの距離を追撃して殺戮をやめた後、敗軍に使者を送って争いを終えて彼らの生まれた都市に戻るよう求めた。数倍の兵力にもかかわらず自分たちが敗れたことを見て取った以上、彼ら亡命者たちは戦いで自分を破ることができないということを経験によって悟ったはずだと彼は言った。亡命者については、騎兵の全員が戦いを生き延びアンビカイで安全を確保した。しかし歩兵に関しては、その一部は逃げ延びたものの、大部分の者は夜にある丘を占領した後、アガトクレスと協定を結んだのであるが、それは戦いによる勝利の希望を失って親族と友人、そして祖国とそこの慰安を思い焦がれていたためであった。今や彼らが誠実な誓約を交わして丘の砦から降りてくると、せいぜいアガトクレスは彼らの武器を取り上げるだけにしておいた。そして軍を彼らの周りに配置すると、彼は彼らを全員、ティマイオスの言うところではおよそ七〇〇〇人、幾人かの言うところではおよそ四〇〇〇人を射殺した。なるほどこの僭主は信頼と誓約を常々軽蔑していたわけである。彼は自身の敵よりも同盟者の方を恐れ、軍事力によってではなく、彼の臣民の弱さによって自身の権力を保持した。
90 このようにして自身に対して陣容を整えた軍を撃破したアガトクレスはデイノクラテスと協定を結んで亡命者の生き残りを受け入れ、彼を自分の軍の一部の将軍に任命して彼に対して最も重要事案を委ね続けた。このことに関しては、誰も彼も疑って誰も決して信頼しなかったアガトクレスがなぜデイノクラテス一人と終生友情を保ったのか不思議に思われるであろう。だがデイノクラテスは同盟者を裏切った後にゲラでパシフィロスを捕らえて殺し、アガトクレスにいくつかの砦と都市を引き渡し、敵の救助に二年間を過ごした。
 イタリアではローマ人がパエリグニ人を破って彼らの土地を奪い、ローマに友好的と見なした一部の人たちに市民権を認めた。その後、サムニウム人がファレルニティスを略奪すると、両執政官は彼らに向けて出撃し、引き続いて起こった戦いではローマ軍が勝利した。彼らは二〇個の軍旗を奪って二〇〇〇人以上の兵を捕虜とした。両執政官はすぐにボラ市を落としたが、サムニウム人の指導者ゲリウス・ガイウスが六〇〇〇人の兵を連れて現れた。激しい戦いが起こってゲリウスその人が捕虜となり、他のサムニウム人はそのほとんどが切り死にしたが、一部は生け捕りになった。両執政官はこれらの勝利で優位に立つと、ソラ、ハルピナ、そしてセルンニアといった占領されていた同盟諸都市を奪い返した。
91 その年が終わった時、フェレクレスがアテナイでアルコンになって〔紀元前304-303年〕ローマではプブリウス・センプロニウスとプブリウス・スルピキウスが執政官職を容れた〔紀元前304年〕。そしてエリスで一一九回目のオリュンピア祭が開催され、その祭典でコリントスのアンドロメネスが徒競走で優勝した。彼らが任期にあった間、ロドスを包囲していたデメトリオスは海からの攻撃で失敗したため、陸からの攻撃を決意した。したがってありとあらゆる大量の物資を受け取ると、彼はヘレポリスと呼ばれる兵器を作った。これは大きさでは以前に作られたものより遙かに勝っていた。四角形の〔最下〕階のそれぞれの辺を彼は長さがほぼ五〇プースに作り、四角形の木材で組み立てて鉄材で固定した。彼が格子で分けた空間はそれぞれの辺が一プースになり、したがってこれがこの装置を前に押す人が立つ場所になる。構造全体は可動式で、八つの非常に硬い輪に乗っていた。それらのへりの幅は二プースで、重い鉄板が被せられた。側面への移動ができるように軸が設えられ、これによって装置全体は色々な簡単に動けるようになった。それぞれの角からは一〇〇ペキュスより少し短いくらいの同じ長さの梁が延びていて、各々他の方向へと〔四角睡状に上へと〕傾斜することで全構造は九階の高さになり、一階目は四方が四三〇〇プース、最上階は九〇〇プースになった。装置の三方の表面を彼は鋲打ちされた鉄板で覆い、こうすることで火攻めでは損傷を受けなくなった。それぞれの階の正面には銃眼があり、大きさと形は放たれる投擲兵器の個別の特性に応じていた。それらの銃眼には鎧戸があって機械装置で引き上げられ、階で射撃に従事する兵を守っていた。その鎧戸は伸ばした皮革からできていて羊毛が積められていたため、バリスタからの石による打撃に耐えられるようになっていた。各々の階には二つの広い階段があり、そのうちの一つは必要なものを運ぶのに、他方は降下に使われており、それは混乱が起こらないように用心してのことであった。装置を動かす人員として三四〇〇人の体力で優れた男が全軍から選ばれた。その中のある者は装置の中に入っており、他方で他の者は後ろに配置されて彼らはヘレポリを前に押したわけであるが、巧妙な計画が大いにその動きを助けていた。彼は〔ヘレポリスとは別に〕小屋も作り、そのいくつかは壕を占めていた兵を守るためのもので、他のものはそこを通って作業者が安全に行き帰りをするための破城槌を運ぶためのものであった。船の乗組員を使って彼はここを通って準備した攻城兵器を進ませることを計画していた四スタディオンの幅の場所を清掃し、その幅は六つの幕壁の正面と七つの塔を移動させるのに十分であった。集められた多くの職人と人夫は三〇〇〇人を下らなかった。
92 したがって全体として多くの作業が予想以上に早く終了すると、デメトリオスはロドス人の警戒を買った。それというのも攻城兵器の大きさと集められた軍勢の数だけでなく王の活力と兵器の扱いでの非凡さもまた彼らを愕然とさせたからだ。この発明品の準備を見事にして多くのものを熟練の建設者の技術を上回って改良したため、彼はポリオルケテス、つまり攻城者と呼ばれた。そして彼はかくなる優越性と、どんな城壁も籠城軍も彼からは無事に耐え切ることができないほどに攻撃では威力を示した。背丈と美しさの両方で彼は英雄の威厳を示しており、遠路はるばる来た異邦人ですら王らしい華美さで装われた彼の器量の良い姿を眺めると驚嘆し、彼が外に出ると彼を眺めるためについていった。さらに彼の魂は高邁で誇り高く、一般人のみならず王族も見下していた。そして彼に最も特徴的なことは、平時には飲んだくれて舞踊とどんちゃん騒ぎがつきものの酒宴に時間を費やし、概して彼の行いは人々のうちでディオニュシオスの神話で語られる振る舞いそのものだった。しかし戦時には活動的でしらふになり、この生業では他の全ての人以上に心身をその仕事に捧げた。最大の兵器が完成してありとあらゆる兵器が存在していた他の全ての兵器を上回ったのは彼の時代にであった。そしてこの男はこの包囲戦と父の死の後に最大の船を浸水させた。
93 ロドス人は敵の攻城作業の進展を見ると、攻撃で破れかかっていた第一の城壁に平行する第二の城壁を築いた。彼らは劇場の外壁と隣接する家屋、さらにはいくつかの神殿からひっぺがして調達した石材を使い、市が助かった暁には彼らはより立派な神殿を建てることを神々に誓った。また彼らは指揮官に方々へと航行し、出し抜けに現れては途中で出会った敵船のあるものは沈め、他のものは市へと運ぶよう命じて九隻の船を送り出した。それらが出航して三隊に分かれた後、ロドス人から「護送船団」と呼ばれていた種類の船を率いていたダモフィロスはカルパトスへと航行した。そこでデメトリオスの多数の船を見つけると、彼は衝角で打ち砕いてその一部を沈め、他のものは岸に上げて乗組員の中から最も有用な者たちを選んだ後に焼き払い、その島から穀物を輸送していた少なからぬ船をロドスへと持ち帰った。三隻の軽装甲板船を指揮していたメネデモスはリュキアのパタラまで航行した。そこで乗組員を岸に上げて碇を降ろした船団を見つけると、その全てに火を放った。そして陸軍に物資を運んでいた多くの貨物船を拿捕してロドスへとそれらを送った。また彼はキリキアから航行していて、デメトリオスの妻フィラが大変な苦労をして準備して夫のために送った王用の外衣と残りの支度を載せていた一隻の四段櫂船も拿捕した。ダモフィロスはその服は紫色で王が着るに相応しいものであったためにエジプトへと送った。しかし彼は船を陸へと曳き 四段櫂船と他の拿捕した船との両方の船員たちを売り払った。残りの三隻を率いたアミュンタスは島々に向かってそこで敵に戦争での兵器に有用な物資を運んでいた多くの貨物船を襲い、その一部を沈めてまた一部を島まで運んだ。それらの船では投擲兵器とカタパルトの製造で見事な技術を持っていた一一隻の高名な技師も捕らえられた。
 その後に集会が開かれると、ある人たちは彼らの包囲者と恩人を等しく讃えることは馬鹿馬鹿しいことだと述べ、アンティゴノスとデメトリオスの像は引き倒されるべきだと忠告した。ここで人々は怒ってその人たちは間違っていると咎め、アンティゴノスへの栄誉を何も改めず、名声と自身の利害の双方の観点から賢明な決断をした。民主制におけるこの行いの度量の大きさと穏健さは他の全ての人たちの喝采と包囲者の悔恨をもたらした。それというのも後者はギリシア中の都市を開放しようとして〔ギリシアの諸都市は〕この恩人たちへ好意を全く示さなかった一方で、彼らは実際のところ好意に報いる際には最も志操堅固であることを示していたその都市を明らかに隷属化させようとしていた。そして運命の突然の変転に対する自衛として、戦争の結果がロドスの占領と相成れば、ロドス人は哀れみを得るための手段として彼らが保持していた友情の記憶を保ったことだろう。そしてそれらのことはロドス人によって賢明になされた。
94 デメトリオスが工兵を使って城壁を掘り崩していると、脱走兵の中の一人が地下で働いている者たちは城壁のほぼ内側に来ていると籠城側に知らせてきた。したがってロドス人は掘進作戦を早く行えばぶつかると予測され、そして城壁に平行する深い塹壕を掘ることで地下で敵と接触し、さらなる前進を邪魔した。今や坑道が双方から密な監視を受けるようになり、デメトリオス軍の一部の者たちはロドス軍によって監視部隊の指揮権を与えられていたアテナゴラスの買収を試みた。この男は祖先からいえばミレトス人であり、プトレマイオスによって傭兵部隊の指揮官として送られていた。寝返りを約束すると彼は兵士が集合する場所を調査するために〔デメトリオス軍の〕高官の一人がデメトリオスの方から夜に坑道を通って市内へと向かうべく送られる日を定めた。しかしデメトリオスに大きな希望を持たせた後、アテナゴラスは評議会に事の次第を明かした。王が友人の一人でマケドニア人のアレクサンドロスを寄越すと、ロドス人は彼が坑道を通ってきたところを捕縛した。彼らはアテナゴラスに黄金の冠を被せて五タラントンの銀を贈った。これは傭兵と外国人といった余所者にも市への忠誠をかき立てることを目的として行われた。
95 件の兵器が完成して城壁の全面の全ての場所が一掃されると、デメトリオスはヘレポリスを中央に置き、工兵を守るための八台ある〔移動式の〕屋根付き小屋に部署を割り当てた。彼はヘレポリスの両側に屋根付き小屋を四台ずつ置いてその各々を覆いのついた道でつなげたたため、兵士たちは安全に行き来して割り当てられた作業をできるようになった。そして彼は打撃のための槌が乗せられた二つの巨大な屋根付き小屋も作り上げた。各々の小屋は長さが一二〇ペキュスで鉄で覆われ、船の衝角のように打撃を加えるための槌がついていた。その槌は車輪の上に乗っていて、戦いの時には一〇〇〇人を下らない兵士から動力を受けていたので簡単に移動できた。城壁に向けて装置を前進させる準備ができると、彼はヘレポリスのそれぞれの階に適当な大きさのバリスタとカタパルトを置き、港を攻撃する位置と隣接する区域に艦隊を配置し、城壁を攻撃できるそれぞれの区域沿いに歩兵を割り振った。それから単一の指揮と信号の下で全軍が鬨の声を上げると、彼は方々から都市へと攻撃を仕掛けた。城壁を破城槌とバリスタで揺らしていると、クニドスの使節団がやってきて彼に攻撃を見合わせるよう求め、彼の要求に最も適うことを受け入れるようロドス人を説き伏せることを約束した。王は攻撃を停止し、使節団はあちこちで長々とした交渉を行った。しかし、結局彼らは何の同意に至ることもできず、包囲は生き生きと再開された。またデメトリオスは塔のうちで最も強力なものを倒壊させ、これは正方形の石で建てられていて幕壁全体を遮断しており、そのために市内の軍勢はこの地点の銃眼付きの胸壁の通路を維持することができなくなった。
96 これと同時期にプトレマイオス王はロドス人に三〇万メディムノスの穀物と野菜を載せた多数の輸送船を派遣した。その船団がその都市への途上にあった時、デメトリオスは自身の野営地へとそれらを運ぶために船団を派遣した。エジプト船団に順風が吹いたため、いっぱいに帆を張って進んで友軍の港へと入ったが、デメトリオスが送り出した船団は任を果たすことなく戻った。カッサンドロスもロドス人に一〇〇〇メディムノスの大麦を、リュシマコスも四〇〇〇〇メディムノスの小麦と同じ量の大麦を送った。かくて市内の人たちが大量の補給物資を得ると、すでに意気消沈していた籠城軍は勇気を取り戻した。敵の攻城兵器を叩くのが得策と結論づけると、彼らは火がつく投擲兵器を大量に蓄える準備をし、バリスタとカタパルトの全てを城壁に据えた。夜が来ると、第二哨戒時頃に彼らは突如としてヘレポリスに火のついた矢玉の雨を絶え間なく降らせ始め、他のありとあらゆる投擲兵器でその場所に急行してきた兵を射撃した。攻撃は予期せぬものであったために制作された攻城兵器を案じたデメトリオスは援軍に急行した。その夜は月のない夜であり、火のついた矢玉は空中を猛進するかのように輝きを放った。しかしカタパルトとバリスタはそれらの矢玉が見えなかったために、まさに起こらんとする一撃を見ることができなかった者を撃破した。ヘレポリスの鉄板の一部は剥げ、構築物の露出した木材に降り注いだ火のついた矢玉を直に受けた。かくしてデメトリオスは火が広まって装置全体が失われるのを恐れ、速やかに救援に向かい、各階に準備しておいた水で広がりつつある火を消させようとした。最終的に彼はラッパの合図で装置を動かすのを任せられていた兵を集めて彼らの手で射程外まで装置を曳いた。
97 それから日が落ちると、彼は野営地の兵たちにロドス人が放った矢玉を集めるよう命じ、それはこの兵器から市内の兵力を見積もろうとの魂胆からであった。速やかに命令を実行に移すと、彼らは様々な大きさの矢玉を八〇〇個以上、一五〇〇個を下らないカタパルトの矢を数えた。あまりにも多くの兵器が夜の短時間に放たれたため、彼は市内が有する資源とそれらの兵器の浪費ぶりに驚愕した。
 次いでデメトリオスは損傷を受けていた兵器を修繕し、死者の葬儀と負傷者の治療に専念した。他方、攻城兵器での猛攻が停止すると市の人々は三つ目の三日月型の城壁を作って城壁の危険な状態にあったあらゆる部分をその円で囲んだ。しかしこれにもかかわらず彼らは城壁の倒壊した部分の周りに深い堀を掘ったため、王は重装備の部隊による強襲でそう易々と市を抜けなくなった。また彼らはアミュンタスを指揮官とした最も速い船を数隻送り出した。彼はアジアのペライアへと航行し、デメトリオスによって送られていた海賊に対処した。彼らはの甲板がない船を三隻有しており、王の同盟者として戦っていた海賊のうちで最強の者たちであると考えられていた。続いて起こった短い海戦でロドス軍は敵を打ちひしいで船を乗組員ともども捕獲し、その中には海賊の親玉ティモクレスもいた。また彼らはいくつかの商船と遭遇して穀物を積んでいた快速船を相当数拿捕すると、それらと海賊と甲板のない船を夜にロドスの港へと送り、敵に気付かれることなく逃げ去った。デメトリオスは損傷を受けていた兵器を修繕した後、攻城兵器を城壁へと送り出した。彼は出し惜しみをせずに全ての矢玉を使ったために胸壁に配置されていた兵を追い散らし、城壁の繋がった部分に破城槌を打ちつけたために二つの幕壁を破った。しかし市の軍勢はそれらの間にあった二つの塔のために頑強に戦い、激しく絶え間なく続々と敵が現れ、その結果指揮官のアナニアスは死にものぐるいの戦いで死に、多くの兵もまた戦死した。
98 それらの出来事が起こってい一方で、プトレマイオス王はロドス人に以前に送った量に劣らぬ量の穀物とその他の物資とマケドニア人アンティゴノスを指揮官とする一五〇〇人の兵を送った。まさにこの時、デメトリオスのもとにアテナイ人とその他のギリシア諸都市から五〇人以上の使節団がやってきてロドス人と協定を結ぶよう求めてきた。したがって休戦が成り、ありとあらゆる数多くの提議がその都市とデメトリオスに対して呈されたものの、それらは毫も一致しなかった。そこで使節たちは目的を達成することなく帰国することになった。
 デメトリオスは城壁の突破口から夜に市を攻撃することを決定すると、戦闘員と彼の目的に適う残りの者の中から最強の者一五〇〇人を選抜した。そこで彼は彼らに第二哨戒時にひっそりと城壁に向けて前進するよう命じ、彼自身は準備を済ますとそれぞれの位置にいた者たちに信号を出し、鬨の声を上げて陸海両方から攻撃を仕掛けるよう命じた。彼ら全員が命令を実行に移すと、城壁の突破口に向かっていた者たちは堀に前衛部隊を送り出した後、市内へと突進して劇場の地区を占拠した。しかしロドス人の行政官たちは事の次第を知って市の全域が混乱状態に陥ったのを見て取ると、港と城壁の部隊に持ち場を維持してデメトリオスが攻撃を掛けてくれば外側の敵に抗戦するよう命令を出した。そして彼ら自身は選り抜きの部隊とアレクサンドレイアから最近渡航してきたばかりの兵を連れて城壁の内側に来ていた部隊を攻めた。日が戻ってきてデメトリオスが兵器を引き具してくると、港を攻めていた者とその時方々にいた者たちの全員が鬨の声をあげ、劇場の区画を占拠していた兵に勇気を与えた。しかし市内では自分たちの生まれた都市が強襲によって落とされようとしていると思った女子供の群が怯えて泣き出していた。にもかかわらず城壁を突破しようとする者とロドス軍との間で戦いが始まると、双方で多くの者が倒れた。当初はいずれの側も持ち場を退かなかったが、後にロドス軍は絶えず数を増して敵に立ち向かおうとし、それは祖国と最も大切なもののために戦う人のとる道であった。他方で王の軍は押され、アルキモスとマンティアスといった指揮官が多くの傷を受けた後に死に、他の大部分の者が白兵戦で戦死したり捕らえられ、王のもとへと逃げ仰せて生き延びたのはごく僅かだった。ロドス人もまた多くの死者を出し、その中には勇気において大喝采を浴びていた議長のダモテレスもいた。
99 デメトリオスは運命の女神が彼の手から市の占領を奪い去ったことを悟ると、包囲戦のために新たな準備を行った。その後、彼の父があたうる限りの条件でロドス人と協定を結ぶよう彼に手紙を書いて指示すると、デメトリオスは和解の尤もらしい口実をもたらしてくれる好機を待った。プトレマイオスはロドス人に手紙を書き、その中でまず自分は彼らに大量の穀物と三〇〇〇人の兵を送ると述べ、次いで彼らに可能ならばアンティゴノス、平和を好む者皆と対等の協定を結ぶよう勧めた。丁度この時にアイトリア同盟が和解を求める使節団を送ってきて、ロドス人は以下のような条件でデメトリオスと協定を結ぶに至った。この都市は自治を保って守備隊を受け入れず、自らの歳入を自国の事柄で処理する。ロドス人はアンティゴノスの同盟者となり、それは彼がプトレマイオスと戦争中であってもである。ロドス人はデメトリオスが選ぶ一〇〇人の市民を人質として差し出すが、公職にある者は除外されるものとする。
100 このようにしてロドス人は一年間の包囲の後に戦争を終結させた。戦いの中で自らが勇者であると証明した者たちを彼らは彼らに相応しい報償で讃え、勇敢さを示した奴隷に自由と市民権を認めた。彼らは世論において第二の地位を占めたにもかかわらず、市の解放に多大な寄与をしたカッサンドロス王とリュシマコス王の像を建てもした。プトレマイオスの場合、彼らはより大きな親切によって彼の親切に報いることで彼の記録を凌ごうと望んだため、アモンの神託はロドス人がプトレマイオスに神としての栄誉を授けるよう忠告するのかどうかを尋ねるためにリビュアに神聖な事柄に関する派遣団を送った。神託が賛同すると、彼らは市の正方形の区画を奉納し、それぞれ〔の柱〕が一スタディオンの長さの列柱を建て、プトレマイオンと呼んだ。また彼らは劇場、城壁の倒壊した部分、他の区画の建物を再建し、以前よりも美しくした。
 さてデメトリオスは父の指示に従ってロドス人と講和すると、全軍と共に出航した。そして島々を経由した後にボイオティアのアウリスに投錨した。彼はギリシア人の解放を意図していたため――それというのもカッサンドロスとポリュペルコンはこの時に至るまでギリシアの大部分の略奪に手を染めていながら咎を受けていなかったからだ――彼はまずボイオティア人によって守備隊を置かれていたカルキス人の都市をボイオティア人に恐怖を引き起こすことで解放し、彼らにカッサンドロスとの友好を放棄させた。この後彼はアイトリア人と同盟を結んでポリュペルコンとカッサンドロスと戦争を行う準備を始めた。
 それらの出来事が起こっていた間、ボルポロスの王エウメロスが在位六年目に死に、彼の息子のスパルタコスが王位を継いで二〇年間君臨した。
101 今や我々はギリシアとアジアでの出来事を丁寧に検討したので、人が住む世界の他の部分へと話を転じることにしよう。
 シケリアではリパラ島の住民はアガトクレスとは平和な状態であったにもかかわらず、彼は予告抜きで彼らに向けて航行して彼に以前刃向ったことのないこの人たちから五〇タラントンの銀を徴発した。実際多くの人にとって私が述べようとしていることは神の御業と見えるだろうし、彼の罪科は神意の印を受けることになった。リパラ人は彼に欠けた支払額の〔調達の〕ために時間をくれるよう懇請し、自分たちは神聖な奉納物を流用したくはないと言うと、アガトクレスは彼らに一部はアイオロス、また一部はヘファイストスへの献辞があったプリュタネイオンの奉納品を寄越すよう強い、それらを手にするとすぐに出航した。しかし風が起こって金を積んでいた彼の一一隻の船が沈んだ。 〔それは〕風の主と言われる神〔アイオロス〕が即座にアガトクレスをその最初の船旅で罰を与えたのであり、そして最後にはヘファイストスが僭主の不敬虔な行いとその神の名に相応しい方法で、即ち熱した石炭で彼を生きながらにして焼き殺すことで彼の国で罰を与えたのだと多くの人には思われた。というのもアイトナの彼らの両親を助けた者に手を出すのを差し控えること、そして彼に相応しい権能でもって彼の神殿に不敬虔の罪を犯した者を探し出すことは〔ヘファイストスと〕同じ性格と同じ正義の下にあった。
 しかし、アガトクレスを見舞った災難に関して我々はしかるべき時にその出来事自体が我々が今言ったことを確証するだろうから、今のところはイタリアに隣接する地方の出来事を述べるべきであろう。
 ローマ人とサムニウム人は二二年と六ヶ月の間戦った後に使節を交換して講和した。そして執政官の一人プブリウス・センプロニウスはアエクィ人の国に軍を率いて侵攻し、四つの都市を五〇日間かけて占領して全民族をローマに服従させた後、帰国して大変な称賛を博し、凱旋式を執り行った。ローマ人はマルシ人、パリグニ人、そしてマルキニ人と同盟を結んだ。
102 この年が終わった時〔紀元前303-302年〕にはレオストラトスがアテナイでアルコンであり、ローマではセルウィウス・コルネリウスとルキウス・ゲヌキウスが執政官であった。彼らの任期の間デメトリオスはカッサンドロスとの戦争を続行してギリシア人を解放することを提案した。彼はギリシア人の解放は自身に大きな名誉をもたらすと信じてギリシアの情勢に秩序を樹立しようと計画し、手始めにカッサンドロス攻撃の前にプレペラオスと他の指導者たちを蹴落とす必要があり、次いでカッサンドロスが彼に手向かってこなければマケドニアに攻め上ろうと同時に考えた。今シキュオン市には非常に有能な将軍であったフィリッポス率いるプトレマイオス王の兵隊が駐屯していた。この都市に突如として夜襲を仕掛けてデメトリオスは城壁の内側へと侵入した。そして守備隊はアクロポリスに逃げ込んだが、デメトリオスはその都市を占領して家々とアクロポリスの間の区画を占め〔てアクロポリス包囲をしようと〕た。彼が攻城兵器の輸送を急いでいる一方で守備隊は混乱状態に陥って協定の下でアクロポリスを引き渡してエジプトへと去った。シキュオンの人々をアクロポリスへと移動させたのち、デメトリオスは市の港に面する一部をその場所はまったく無防備であったために破壊した。次いで家々の建設で市民たちを援助して彼らに自由な政府を再建させてやった後、彼は自身が恩恵を施したその人たちから神の栄誉を授けられた。彼らは市をデメトリアスと呼び、毎年彼を讃えて犠牲を捧げて公的な祭りと競技祭を開催し、〔デメトリオスに〕建設者に等しい栄誉を認めることを決議した。しかしながら情勢の変化によってその継続は途絶え、時間〔の流れ〕はそれらの栄誉を無効にした。しかしシキュオンの人々はずっと良い地位を得たため、当代に至るまでそこで暮らし続けている。アクロポリスの囲い込まれた区画は平らで十分な広さがあったために全面を登り難い壁で囲まれ、かくして攻城兵器を近くに運び込むことができなくなった。さらに彼らが豊かな庭園を発達させたために水が豊富にあり、そのために王はその計画〔即ちギリシア作戦〕において平時の快適と戦時の安全の双方において素晴らしい物資の供給を得たようである。
103 シキュオン人の事件を解決した後、デメトリオスは全軍を率いてカッサンドロスの将軍プレペラオスが保持していたコリントスへと出発した。手始めにある市民によって夜に裏門から迎え入れられた後、デメトリオスは市とその港を掌握した。しかしながら、守備隊はある者はシシュフィオンと呼ばれた場所へ、ある者はアクロコリントスへと逃げた。しかし彼は攻城兵器をその要塞へと運んで多くの犠牲を出した後にシシュフィオンを強襲によって落とした。次いで、〔逃げ延びたプレペラオスの〕兵士たちはアクロコリントスを占領した部隊の許へと逃げ込むと、デメトリオスは彼らにも〔陥落を〕ほのめかして砦の放棄を強いた。というのもこの王は〔要塞への〕攻撃において敵なしであり、とりわけ攻城兵器の構築技術に秀でていたのだ。しかしすぐにコリントス人を開放するや彼はアクロコリントスに守備隊を置き、市民はカッサンドロスとの戦争が終結するまで王によって守られることを望んだ。不名誉にもコリントスを追い出されたプレペラオスはカッサンドロスの許へと撤退したが、デメトリオスはアカイアへと進み、ブラを強襲によって落として市民に自治を回復させてやった。次いでスキュロスを数日で占領すると、彼はそこに守備隊を置いた。この後、アルカディアのオルコメノスへと遠征して彼は守備隊長ストロンビコスにその市を明け渡すよう命じた。彼は命令を聞かずに無礼な仕方で城壁から侮辱を加え、王は攻城兵器を引き具して城壁を破り、強襲で市を落とした。ポリュペルコンによって守備隊長になっていたストロンビコスと少なくとも彼に敵意を持っていた八〇人をデメトリオスは市の前で磔刑にしたが、少なくとも他の二〇〇〇人の傭兵を捕えて自軍に加えた。この都市を占領した後、近辺の砦を指揮していた人たちは王の軍事力から逃れることはできないと思い、彼に砦を引き渡した。同じようにして諸都市の守兵は同意の上で撤退し、カッサンドロス、プレペラオス、そしてポリュペルコンは彼らを助け損ねたのであるが、デメトリオスは大軍を率い、圧倒的な攻城兵器と共に接近した。
 デメトリオスの状況は以上のようなものであった。
104 イタリアではタラスの人々がルカニア人とローマ人と戦争を始めていた。そして彼らはスパルタに使節を送って援助とクレオニュモスを将軍としてやってくれるよう求めた。ラケダイモン人は喜んで彼らに彼らが求める指導者を〔送ることを〕認めてタラス人が金と船を送ると、クレオニュモスは五〇〇〇人の傭兵をラコニアのタイナロンで徴募してタラスへとすぐに出航した。前に徴募したのとは別にその数を下らない傭兵を集めた後、彼は一二〇〇〇人の市民を歩兵として二〇〇〇人を騎兵として集めた。彼はイタリアのギリシア人の大部分とメッサピア人の部族も味方に付けた。次いで彼が強力な軍を指揮下に置いたためにルカニア人は警戒してタラス人と友好関係を樹立し、メタポンティオンの人々が彼に帰順せずにいると彼は自分も同時に攻撃を仕掛けるとしつつルカニア人を脅し、彼らをメタポンティオン人の領地に攻め込むよう説得した。そして友人として市に入ると、彼は六〇〇タラントン以上の銀を取り立て、最も良い家柄の二〇〇人の処女を人質とし、自らの情欲を満たすために市の信頼を失った。現に彼はスパルタ式の衣装を脱ぎ捨てて贅沢三昧の暮らしをして彼を信任していた人たちを奴隷とした。彼はあまりにも強力な軍隊と豊富な物資を有することになったために最早スパルタ的な名士ではなくなった。彼はアガトクレスの僭主制を転覆させシケロイ人に独立を回復させるためであるかのようにシケリア侵攻を計画した。しかし目下の遠征は延期されたため、彼はコルキュラへと航行し、その市を奪取した後に多額の金銭を取り立てて守備隊を駐留させ、この地を基地として使ってギリシア情勢に参入する機会を待とうと目論んだ。
105 しかしそれからすぐにデメトリオス・ポリオルケテスとカッサンドロスの双方から同盟を打診する使節が来ると、彼はどちらとも手を結ばなかった。しかしタラス人とその他の人たちが反乱を起こしたことを知ると、彼はコルキュラに十分な守備隊を残して残りの軍を率いて彼の指揮権に反旗を翻した人々を罰するために全速でイタリアへと航行した。夷狄〔イタリアの非ギリシア人〕に守られた土地に上陸すると、彼は市を落として人々を奴隷として売り払い、田園地帯を略奪した。同様に彼は包囲戦でトリオピオンと呼ばれる都市を落とし、三〇〇〇人の捕虜を得た。しかしまさにこの時その地方中の夷狄が終結して彼の野営地を夜襲し、起こった戦いでクレオニュモスの兵二〇〇〇人以上を殺しておよそ一〇〇〇人の捕虜を得た。戦いの時嵐が起こって彼の野営地の近くに投錨していた二〇隻の船が破壊された。そのような二つの災厄に遭ったクレオニュモスは軍と共にコルキュラへと去った。
106 この年が終わった時〔紀元前302-301年〕、アテナイではニコクレスがアルコンであり、ローマではマルクス・リウィウスとマルクス・アエミリウスが執政官職を拝命した。彼らが任期にあった間、マケドニア人の王カッサンドロスはギリシア人が力を増大させ、全ての戦争がマケドニアを標的としていたのを知ると、行く末を非常に心配するようになった。したがって彼は協定を打診するためにアンティゴノスに向けてアジアへと使節を送った。しかしアンティゴノスはカッサンドロスが彼が有しているあらゆるものの放棄の上でなければ解決は認めないと答え、カッサンドロスは警戒して最も優先順位の高い案件に関して共同作戦を取るためにリュシマコスをトラキアから呼び寄せた。リュシマコスの個人的な性格と彼の王国のマケドニアへの隣接のため、リュシマコスを援助のために呼ぶことは最も危険な状況に直面した時のカッサンドロスの変わらぬ習慣となっていた。共通の利害に関して共に会談すると、王たちはエジプト王プトレマイオスと高地太守領の支配者であったセレウコスに使節団を送り、アンティゴノスの返答の傲慢さを明らかにして戦争が起こる危険性は彼ら皆に共通のものであると示した。もしアンティゴノスがマケドニアの支配権を得ることになれば、すぐに他の者からも王国を奪うだろうし、現に彼は長らく共有物ではなく自らの所有物として指揮権を掌握し、そしてみなしてきた証拠を示してきたのだと彼らは言った。したがって彼らは皆のためになることは一致団結して計画を練り、力を合わせて対アンティゴノス戦争を戦うことであると言った。今やプトレマイオスとセレウコスは〔使節たちの〕言っていることは真実だと信じ、強力な軍でもって助け合うことに熱心に賛同してカッサンドロスと手を組んだ。
107 しかしカッサンドロスは敵の攻撃を座視して待たず、自ら戦端を開いて優位に立つために使えるものを奪取するべく先んじるのが最良だと考えた。したがってカッサンドロスはリュシマコスに軍の一部を与えてプレペラオスを将軍として一緒に送り、一方自身は残りの軍を率いてデメトリオスおよびギリシア人との戦争を遂行するためにテッサリアへと向かった。リュシマコスは軍を率いてヨーロッパからアジアへと渡り、ランプサコスとパリオンの住民は自発的に彼の側に付いたため、彼は彼らを自由なままにしておいたが、シゲイオンは力づくで奪取して守備隊を置いた。次に将軍のプレペラオスに六〇〇〇人の歩兵と一〇〇〇騎の騎兵を与え、アイオリスとイオニア全域の諸都市を従わせるべく送り出した。リュシマコス自身はまずアビュドスの包囲を試みて投擲兵器および攻城兵器ならびに他の装置を引き具した。しかし海から籠城軍を支援するべくデメトリオスによって送られた市の安全を保つのに十分なほどの大部隊が到着すると、リュシマコスはこの試みをあきらめてヘレスポントス・フリュギアを平定し、また〔アンティゴノス〕王の莫大な宝物が収められていたシュンナダ市の包囲に取り掛かった。まさにこの時彼はアンティゴノスの将軍ドキモスを彼に賛同するよう説き伏せ、彼の支援によってシュンナダと王の財産が置かれていたいくつかの砦を落とした。リュシマコスによってアイオリスとイオニアに送られていた将軍プレペラオスはアドラミュッティオンを見逃すことで下し、次いでエフェソスを包囲してそこの住民をおびえさせ、その市を落とした。そこで見つけた一〇〇人のロドス人の人質を彼は母国に送り返し、エフェソス人は自由なままにしておいたが、敵が海上を支配すれば戦争の全結果が不確実になるので、港にあった全ての船を焼き払った。この後彼はテオスとコロフォンの人々の支持を確保したが、エリュトライとクラゾメナイへと海から援軍が来たため、それらの都市を占領することができなかった。しかし彼はそれらの領地を略奪し、次いでサルディスへと向った。そこでアンティゴノスの将軍フォイニクスを王を見限るよう説き伏せ、彼はアクロポリスを除くその市の支配権を得た。アンティゴノスの友人の一人でその砦を守っていたフィリッポスは彼を信任していた男への忠誠心を守り続けた。
 リュシマコスの情勢はこのような状況であった。
108 アンティゴネイアでの大競技祭と祝祭を祝う準備をしていたアンティゴノスは全域から最も有名な陸上選手と芸術家を莫大な褒美と賞金を競わせるべく集めた。しかしリュシマコスが〔アジアに〕渡ってきたことと自らの将軍たちの逃亡を聞き知ると、彼は競技祭を取りやめたものの、陸上選手と芸術家たちに報酬として二〇〇タラントンを下らない額を分け与えた。彼は自ら軍を率いてシュリアを出発し、敵に向けて強行軍を行った。キリキアのタウロスに到着すると、彼は軍にキュインダから運んできた金で三か月分の給与を支払った。この資金とは別に彼は軍と共に三〇〇〇タラントンを金が必要な時に資金を供することになるであろうために運び出した。次いでタウロス山脈を踏破し、彼はカッパドキアへと進軍した。そして高地フリュギアとリュカオニアの彼から離反した人たちに向けて進み、彼らを再び以前の同盟へと戻した。まさにこの時リュシマコスは敵が現れたことを知り、迫りつつある危険にどう対処すべきか相談した。彼ら〔リュシマコス軍〕はセレウコスが高地太守領から下ってくるまでは戦わず強力な場所を押さえることを決め、柵と壕で野営地を安全にした後に敵の攻撃を待ち構えた。したがって彼らは断固として決定を実行に移したが、敵の近くに来たことを知るとアンティゴノスは軍を率いて向い、戦いを挑んだ。誰も出撃してこないと、彼は自ら敵の輜重隊が絶対に通るはずの或る地点を占領した。リュシマコスは食料供給が絶たれては敵の慈悲にすがることになってしまうと恐れ、夜に陣を畳んで四〇〇スタディオン進軍し、ドリュライオン近くに野営した。というのもその要塞は穀物とその他の物資の豊富な蓄えがあり、近くを川が流れていたためにそのそばに陣を張れば防御しやすかったからだ。陣を敷くと、彼らは野営地を深い壕と三重の柵で防備を固めた。
109 敵の出発を知るとアンティゴノスはすぐに追跡にかかった。彼が野営地まで近づいてもリュシマコス軍は戦いに打って出てこなかった。アンティゴノスは塹壕で野営地を囲み始め、カタパルトと投擲兵器を投入してそこを攻めようとした。穴を掘る工事の中矢玉が飛び交ってリュシマコスの兵が工夫を投擲兵器で追い払おうとすると、いずれの時にもアンティゴノスはその裏をかいた。そして時がたって作業が完成に近づくと、籠城軍で食料が欠乏しだしたため、リュシマコスは嵐の夜を待って陣を畳み、高地を通って越冬地へと出発した。夜明けに敵の出発を知ると、アンティゴノスは彼らに並行して平地を進軍した。大嵐が来てその結果その地域はぬかるんで非常に泥まみれになり、彼は荷駄獣と少数の兵士を失い、概して全軍が深刻な苦境に陥った。したがって王は兵士をこの状況から救いたいと思い、そしてまた冬が間近に迫っていたのを見て取ったため、追撃を諦めた。そして越冬に最適な場所を選んで軍を分散させた。しかしセレウコスが高地大守領から大軍を率いて下ってきたことを知ると、彼は幾人かの友人をデメトリオスへ向けてギリシアへと送り、可及的速やかに軍を率いてくるよう求めた。というの全ての王が彼に対して一致団結していたため、彼はヨーロッパの軍が合流する前に戦って全戦争の雌雄を決する羽目にならないようにあらゆる予防策を取った。同様にリュシマコスもまたサロニアと呼ばれる平野の越冬地に向かうため軍を分割した。彼は結婚による同盟をヘラクレイア人と結んでいたため、ヘラクレイアから豊富な物資を得た。というのも彼はオクシュアルテスの娘でダレイオス王の姪であるアメストリスと結婚していたからだ。彼女はかつてアレクサンドロスによってクラテロスに与えられて彼の妻になっており、目下は市の支配者であった。
 アジアの状況は以上のようなものであった。
110 ギリシアでは、アテナイに滞在していたデメトリオスはエレウシスの秘儀に加入して参加したいと臨んだ。アテナイ人が秘儀を開催する習わしだった法律的に定められた日までかなりの時間があったため、自分がもたらした恩恵を盾に彼らの父祖の風習を変えるよう彼は人々を説得した。そして神官たちに非武装で自身を委ね、彼は法定の日より前に加入してアテナイを去った。まず彼はエウボイアのカルキスに艦隊と陸軍を集め、次いでカッサンドロスが前もって道を押さえていたのを知ると、陸路でテッサリアに向かうのを諦めてラリサの港へと軍を率いて沿岸航行することにした。軍を上陸させて彼は即座にその都市〔ラリサ〕を占領した。アクロポリスを落とした彼は守備隊を捕らえて監視下に置いたが、ラリサの人々に自治を回復させた。その後彼はアントロネスとプテレオンを味方につけ、カッサンドロスがディオンとオルコメノスの人々をテバイ〔・フティオティス〕に移すと、それらの都市の移住を妨げた。しかしカッサンドロスはデメトリオスの試みがうまくいっていたのを見て取ると、まずフェライとテバイをより強力な守備隊で守り、全軍を一カ所に集めてデメトリオスに対陣した。彼は全部で二九〇〇〇人の歩兵と二〇〇〇騎の騎兵を有していた。デメトリオスは一五〇〇騎の騎兵と少なくとも八〇〇〇人のマケドニア人歩兵、一五〇〇〇人の傭兵、二五〇〇〇人のギリシア諸都市からの兵士、そして少なくとも軽装歩兵および戦闘と略奪がある所に集まってくる雑多な非正規兵八〇〇〇人を有しており、かくして総計は五六〇〇〇人の歩兵になった。何日もの間両陣営は対陣し、戦列が双方で整えられたが、各々はアジアで起こる全ての問題の決着を待っていたために戦いは起こらなかった。しかしデメトリオスはフェライの人々が彼らの都市に彼の軍の一部を入れて砦を落とすよう彼を呼ぶと、カッサンドロスの兵を協定の下で撤退させてフェライの人々に自由を取り戻してやった。
111 テッサリアの情勢が以上のようになっていた一方、同地のデメトリオスのもとにアンティゴノスが送った使者がやってきて、父の命令を正確に事細かく述べ、彼の軍団を可及的速やかにアジアへと渡らせるよう求めてきた。父の命令への服従は義務的なものだと考えていた王は諸条項が彼の父の受け入れるものである場合に限り妥当であるという条件でカッサンドロスと協定を結んだ。それというのもデメトリオスは父は始まってしまった戦争を武力によって集結させる腹でいたためにそれらを受け入れることはないだろうとよく知っていたものの、立派に見えて逃走らしくないような形でのギリシアからの撤退を望んでいたからだ。なるほどギリシア本土のみならずアジアのものであろうとギリシア人の諸都市は自由たるべきであると協定のその他の条件のうちには書かれていた。次いでデメトリオスは兵士と装備の輸送のための船を準備した後に全艦隊と共に航行し、島々を経由してエフェソスに投錨した。軍を陸に揚げて城壁の近くに陣を張ると、彼は市に以前の地位に戻ることを強い、それからリュシマコスの将軍プレペラオスによって置かれていた守備隊を協定の下で解散させ、アクロポリスに自分の守備隊を置いた後にヘレスポントスへと向かった。また彼はランプサコスとパリオン、寝返ったその他の諸都市のいくつかも同様に取り戻した。ポントス海の入り口に着くと彼はカルケドン人の神殿の傍らに陣を張ってその地方の防衛のために歩兵三〇〇〇人と軍船三〇隻を残した。次いで彼は越冬地へと残りの軍を送り、彼らを諸都市に割り振った。
 この頃、アンティゴノスに服属していたがカッサンドロスに忠誠を移しているかのような態勢であったミトリダテスがミュシアのキオスで殺され、それは彼が三五年間その都市とミュルレイアを支配した後のことであった。王国を受け継いだミトリダテスは多くの新たな臣下を追加し、四三年間カッパドキアとパフラゴニアの王となった。
112 同じ頃、デメトリオス出発の後にテッサリアの諸都市を手中に収めたカッサンドロスはプレイスタルコスをリュシマコス救援のためにアジアへと軍と一緒に送った。彼と一緒に送られた軍は歩兵一一〇〇〇人と騎兵五〇〇騎であった。しかしポントス海の入り口までやってきた時、プレイスタルコスはその地方はすでに敵の手に落ちていたことを見て取り、渡航を放棄してアポロニアとカランティアの間に位置し、対岸のヘラクレイアの真向かいにあり、リュシマコス軍の一部が宿営していたオデッソスへと転進した。兵を輸送するのに十分な船を持っていなかったため、彼は軍を三分割した。さて、送り出された第一隊はヘラクレイアへと無事来れたが、第二隊はポントス海の入り口の監視船に拿捕された。プレイスタルコスその人が第三隊と共に航行すると、大きな嵐が起こって大部分の船とそれに乗っていた兵が失われた。かくして将軍を乗せた大型軍船は沈み、その船に乗って航行していた五〇〇人を下らない兵のうち僅か三三人だけが助かった。生き残りの中にはプレイスタルコスもおり、彼は難破船の欠片を掴んで半死半生で岸へと運ばれた。彼はヘラクレイアへと運ばれてその不運から回復した後、軍の大部分を失いつつも越冬地のリュシマコスのところへと向かった。
113 それと同じ頃にプトレマイオス王は大軍勢と共にエジプトを出発し、コイレ・シュリア諸都市の全てを制圧した。しかし彼がシドンを包囲していた時、ある人たちが王たちの間で戦いが起こって破れたリュシマコスとセレウコスはヘラクレイアへと退却し、勝利の後にアンティゴノスはシュリアへと進軍中であるという偽りの知らせを持ってきた。したがってプトレマイオスは彼らに騙されてこの報告は真実だと信じ、シドン人と四ヶ月間の休戦協定を結び、占領した諸都市に守備隊を置いて確保して軍を連れてエジプトへと戻った。このことが起こったのと時を同じくして脱走兵として越冬地に取り残されていたリュシマコスの兵の一部がアンティゴノスに寝返り、彼らは二〇〇〇人のアウタリアタイ兵とおよそ八〇〇人のリュキア兵及びパンヒュリア兵であった。その時アンティゴノスはこの男たちを親切に迎え入れて彼らがリュシマコスから受け取っていたと言った額の給料を渡しただけでなく、贈り物で讃えもした。この時には大軍と共に高地諸州からカッパドキアへと渡ってきていたセレウコスも到着しており、兵士のために小屋を建てた後に彼は近辺の越冬地へと向かった。彼はおよそ二〇〇〇〇人の歩兵、弓騎兵を含む一二〇〇〇騎の騎兵、四八〇頭の象、そして一〇〇台以上鎌付き戦車を擁していた。
 このようにして王たちの軍勢が集結しつつあったわけであるが、それは彼ら皆が来る夏の間に武器の力でもって戦争に決着をつけようと決意していたからであった。しかし、私が始めに計画したように、我々はその王たちが覇権をかけて互いに行った戦争でもって次の巻を始めることにしたい。




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