18巻→ディオドロス『歴史叢書』19巻→20巻

アガトクレスの生い立ちと僭主制樹立
1 伝えられるところでは古人は民主政を破壊するのは凡庸な才能の人物ではなく、優れた人物であると言ったという。このためにいくつかの都市は最も有力な公人を猜疑し、力がありそうに見えた人を都市から追い出していた。祖国の隷属化への段階は権力ある地位に留まり続けている人にとっては短いもので、その高貴さから支配への希望を得ている君主たることを彼らが差し控えるのは難しいように見える。というのも偉大さを渇望する人たちが栄達を目指し、何にも縛られない様を知ろうという欲望を養うのは自然的なことだからだ。例えば、アテナイ人はこのような理由で陶片追放として知られる法を作って市民のうちの第一人者を追放していた。これはそれ以前になされた不正義への刑罰を加えるためではなく、法をおろそかにするほどに力を持った市民に祖国を代償として悪事を働く機会を与えないためであった。現に彼らはペイシストラトスの僭主制を予測して以下の対句を挟んだソロンの発言を神託のように諳んじていた。
大者によって市へと破滅がもたらされ、無知によって人々は僭主の奴隷の身に落ちる。(1)
 さらに他の場所でも一人支配に対するこのような傾向は存し、それはシケリアでもローマ人がその島の支配者になる前に見られていた。というのも、そこの諸都市では扇動的な策略に騙されて弱い人を余りにも強くしたため、その弱い人は人々を騙して彼らに対する独裁者となった。全てのうちで最も尋常ならざる例はシュラクサイ人の僭主となったアガトクレスの例であり、彼は始めは最も卑しい人物であったが、シュラクサイのみならずシケリア全土とリビュアを最も酷い不幸へと陥れた。〔当初は〕手段のなさと運の乏しさのために彼は陶工の職業に就かざるを得なくなったにもかかわらず、彼は権力の絶頂と島全土の大部分を隷属化した残虐行為を極め、一時はリビュアとイタリアの大部分も領有し、シケリアの諸都市を怒りと殺戮で満たした。彼以前の僭主のうちでそのような事業を完遂し、臣下になる者に対してこれほどまでの残忍さを示した者は未だかつていない。例えば、彼は親類を皆殺しにすることで一私人を罰し、若い人から殺していくことで諸都市から〔罪の〕ツケを取り立てた。彼は罪を犯した少数の人のために都市の全員に死を宣告し、無辜の多くの人に同じ運命を強いた。
 したがってこの巻はアガトクレスの僭主制と並ぶ他の全ての出来事から成っているので、我々はそれについての予備的な説明は差し控え、まずは以下での説明に収められている内容を述べることから始め、すでに述べた出来事に続く出来事へと向かうことにしよう。これまでの一八巻で我々は人が住む世界として知られている地域の最初期からアガトクレスの僭主制の前年(2)まで、つまりトロイア破壊の年から八六六年の間に起こった出来事をあたうる限り記述した。この巻ではその王統から始め、アガトクレスとカルタゴ軍のヒメラでの戦いまでの七年間の年月(3)の出来事を述べるつもりである。
2 デモゲネスがアテナイでアルコンだった時(4)、ローマ人はルキウス・プロティウスとマルクス・フルウィウスを執政官に選出し(5)、シュラクサイのアガトクレスが彼の都市の僭主になった。出来事の系列をより明確にするために我々はその君主の前半生を手短に取り上げることにしよう。
 故郷の都市からの亡命者であったレギオンのカルキノスはカルタゴ人の支配下に置かれていたシケリアのテルマに住んでいた。現地の女と夫婦になって彼女を妊娠させると、彼は寝ている時にはひっきりなしに苦しむようになった。したがって子供の出産を心配してデルフォイに出発することになっていたカルタゴ人の使節に来たる息子の具合は良いのかどうかを尋ねるように指示した。彼らはきちんと任務をこなし、彼が儲けた子供はカルタゴ人とシケリア全土に大いなる災いをもたらすであろうという神託が与えられた。これを知って恐怖に駆られたカルキノスは子供を外に野ざらしにし、彼が死んでいるか見てくるよう家来たちを送った(6)。数日しても子供は死んでおらず、彼を見に行った者たちは怠け始めた。この時、母親が夜にこっそり来て子供を持ち去り、夫を恐れた彼女は家に彼を連れていかずに兄弟のヘラクレイデスのところに預けて彼を〔自らの〕父の名で、アガトクレスと呼んだ。少年はヘラクレイデスの家で育って年齢以上に外見が良く、身体は壮健になった。その子が七歳の時、カルキノスがヘラクレイデスによって宴に招待され、同年代の子供たちと遊ぶアガトクレスを見て彼の美貌と壮健さに驚いた。捨てられた子供が育っていれば同じ年になっていることにその女性〔アガトクレスの母〕が気付くと、彼は自分は自身の所業を後悔していると言ってボロボロと涙を流した。そこで彼女はその男の望みと彼女の過去の行いの一致を見て取ると、全ての真実を暴露した。彼女の言葉を聞いて喜んだ彼は息子を認知したが、カルタゴ人を恐れて全ての家人と共にシュラクサイへと戻った。彼は貧しかったためにアガトクレスに彼がまだ少年であった時から陶器の商いをさせた。
 この時、コリントス人ティモレオンがクリミソス川での戦いでカルタゴ人に勝利した後にシュラクサイの市民権を望む者全員に与えた(7)。カルキノスはアガトクレスと共に市民として登録されてから間もなく死んだ。母は息子の石像を或る境内に奉納し、蜂の群れがそこに住み着いてその尻のあたりに巣を作った。この不思議な出来事がそういった問題を専門とする人たち〔占い師〕に報告されると、その全員が彼の人生の全盛期に少年は偉大な名声を得るだろうと明言し、この予言は実現した。
3 シュラクサイの貴人であったダマスなる者がアガトクレスに恋し、彼は始めからあらゆるものをふんだんに彼に与えたために彼は相当の財産を貯めこむことになった。その後ダマスがアクラガスに対する〔遠征軍の〕将軍に選ばれて麾下の千人隊長の一人が死ぬと、アガトクレスをその地位に任命した。軍務の前でさえアガトクレスは鎧の大きさのために一目置かれ、軍事上の閲兵においては彼はかくも重い武装を身に着ける習いになっており、他の者のうち誰一人として鎧の重さのためにほとんどそれを使うことができなかった。千人隊長になると彼は戦時の大胆さと果敢さ、そして人々への演説での豪胆さと周到さのために更なる名声を得た。ダマスが病死して彼の妻に財産が残されると、アガトクレスは彼女と結婚して最も富裕な人々の一員になった。
 その後クロトンの人々がブルッティオイ人に包囲されると、シュラクサイ人は強力な軍を彼らの救援のために送った(8)。アガトクレスの兄弟アンタンドロスはこの軍の将軍の一人であったが、全軍の司令官はヘラクレイデスと策略、殺人そして多大な不敬虔に生涯の大部分を費やしたソストラトスであった。彼らの経歴の詳細は前巻に収められている(9)。アガトクレスもまた彼らと共にその遠征に参加し、人々に能力を認められて千人隊長の地位に就けられていた。彼は夷狄との戦いで最初に頭角を現したものの、ソストラトスと彼の友人たちに勇敢な行いへの賞賛を嫉妬されたために追放された。アガトクレスは彼らを深く恨んで人々の前で独裁政府を樹立するという彼らの決定を糾弾した。シュラクサイの人々はその告発に耳を貸さなかったため、ソストラトスはクロトンから戻ってくるや陰謀によって彼らの生まれた都市の支配権を得た。
4 彼らとの敵対のためにアガトクレスは最初は同志たちと共にイタリアに留まり続けた。クロトンに定住しようとして彼は追い出され、タラスへと他の少数の者と共に逃げた。タラス人のところで傭兵部隊が徴募されていた時に彼は多くの冒険的な行動に加わっていたために革命を計画しているのではないかと疑われた。こうした理由からこの軍も解散させられると、彼はイタリア全域から亡命者を集めてヘラクレイデスとソストラトスの攻撃を受けていたレギオンの救援へと赴いた。次いでシュラクサイでの陰謀が功を奏してソストラトスが追放されると、アガトクレスは市〔シュラクサイ〕へと帰国した。多くの声望ある市民が六〇〇人の貴族の寡頭制の成員だったために陰謀によって追放され、今や追放者と民主制の支持者との間で戦争が起こった(10)。カルタゴ人がソストラトスと一緒にいた追放者と同盟したために不断の戦いと強力な軍同士の激しい会戦が起こり、その中でアガトクレスはある時には一兵卒として、またある時には指揮権を委ねられ、その度毎の急場で有用な機転を働かせたためにその活力と巧妙さのために信頼された。そのうちで一つ述べるに足る価値のある例がある。ある時シュラクサイ軍〔アガトクレスの軍〕がゲラの近くで野営していると、アガトクレスは一〇〇〇人の兵と共に夜に市を掻っ攫ったが、ソストラトスが戦闘隊形の大軍を引き連れて突如現れて先頭の部隊を敗走させておよそ三〇〇人を倒した。残った者は或る隘路を通って逃げてもう駄目だと思った時、アガトクレスは予想を裏切って危険から彼らを救い出した。彼は全員のうちで最も見事に戦って七つの傷を負い、大量の血を失って倒れた。しかし敵が来つつあると、彼はラッパ手に二手から城壁へと向かって戦いの合図を出すよう命じた。彼らが即時に命令を実行に移すと、ゲラから〔ソストラトスへの〕救援に赴くために航行していた軍は暗闇のために本当のことを知ることができなかったが、残りのシュラクサイ軍が双方で敗れたと考えて更なる追跡を諦めて軍を二手に分け、速やかに危険へと立ち向かってラッパの音の方へと走って行った。ここでアガトクレスと彼の部下は休息を取って完全に安全になるように防備を施された野営地へと向かって安全を確保した。したがってこの時にこのようにして彼は敵の裏をかいて奇跡的に仲間の同盟軍七〇〇人も救ったのであった。
5 その後、コリントス人のアケストリデスがシュラクサイの将軍に選出されると、アガトクレスは僭主になろうとしていると噂されたが、彼は抜け目なくこの危機を逃れた。というのもアケストリデスは党派抗争では慎重であったためにアガトクレスを大っぴらに滅ぼそうとは思っておらず、アガトクレスに市を去るように命じ、その道に夜に彼を殺す刺客を送った。しかし将軍の狙いを鋭く悟ったアガトクレスは自身の奴隷の中から風貌と顔つきが一番自分に似ていた者を選び、自分の鎧と馬で武装させて自分の服さえ着させ、彼を殺すべく送られた刺客を欺いた。自らはぼろ布を着てその道を避けて旅を完了させた。彼らは鎧とその他の徴からそれはアガトクレスだと思って暗闇のためにもっと近くで見ずに殺害して指示された仕事をし損ねた。
 その後シュラクサイ人はソストラトスと共に追放されていた人たちを迎え入れてカルタゴ人と講和した。しかし亡命中のアガトクレスは劣勢ながら自ら軍を集めた。彼が彼の同胞市民だけでなくカルタゴ人にとっても恐怖の対象になった後に彼は市へと帰国するよう説得された。デメテルの神殿で彼は市民に捕えられ、彼は自分は民主制への敵対行為は何もするつもりはないと誓った。そして彼は巧みなやり方で民主制の支持者になったと見せかけて人々の支持を勝ち得ることにより、市へと戻ってきた亡命者の間に真の調和がもたらされる時までの間自らの将軍兼平和の守護者への選任を確実なものとした。議論を行う政治党派が多くの派閥に分かれて彼らのうちには意見の重要な相違があった。しかし反アガトクレスの主たる集団は六〇〇人会であり、声望と財産において第一のシュラクサイ人たちがこの会に入っていたため、六〇〇人会は市に寡頭制を敷こうと目論んでいた。
6 権力に対して貪欲だったアガトクレスは自らの計画の遂行にあたって多くの利点を持っていた。彼は将軍として軍の指揮権を持っていたのみならず、幾らかの叛徒がエルビタ近くの内陸部で軍を集めているという知らせが来ると疑いを喚起することなく彼は自らが選ぶ兵士を徴募する権限を得た。かくしてエルビタへ遠征するとみせかけて彼はモルガンティナと以前彼と共にカルタゴ軍と戦った内陸部の他の諸都市の男たちを軍として動員した。遠征の間、彼から多くの利益を受けていたためにその全員はアガトクレスに対する非常に固い愛着を持っていたが、彼らはシュラクサイの寡頭制の行政官であった六〇〇人会に対しては絶えざる敵意を持っており、大衆一般によって自分たちはその役目〔エルビタ遠征〕を彼らに押しつけられたという理由で大衆一般をも憎悪していた。その兵士たちはおよそ三〇〇〇人であり、彼らはその性向と自発的な選択の両方によって民主制打倒の最も好都合な道具であった。彼は彼らに財産と嫉妬のために権力者の主張に敵意を抱いていた市民を加えた。万事の準備をするやすぐに彼は兵士に夜明けにティモレオンティオン(11)に向かうよう命じ、六〇〇人会の指導者であると考えられていたペイサルコスとディオクレスをあたかも彼らと共通の利害の問題について相談しようとしているかのようにみせかけて呼び寄せた。彼らが四〇人程度の友人を連れてやってくと、アガトクレスは自らが陰謀の被害者であるかのようなふりをして彼ら全員を捕縛し、彼の一般庶民への同情のために六〇〇人会に捕縛されるところだったと言って兵士たちの前で告発し、自らの運命を嘆き悲しんだ。かくして暴徒は奮起して大声で彼にぐずぐずせずに即座にその悪漢どもに然るべき罰を科すよう求め、彼はラッパ手に戦いの合図をして兵士には罪人を殺し、六〇〇人会とその支持者の財産を略奪するよう命じた。全員が略奪へと走って市は混乱と惨禍で満たされ、貴族階級の成員は彼らに定められた破滅を知らずに騒動の原因を知ろうとして家を出て街路へと出ていき、兵士は貪欲と憤怒によって蛮行を働き、状況を知らず自らを守る武器を持たぬ丸腰の身を晒した人たちを殺しまくった。
7 狭い道は兵士によって厳重に占領されており、犠牲者たちのある者は通りで、ある者は家で殺された。何ら罪のない多くの人も殺戮の原因を知ろうとして同様に殺された。武力を持っていた武装した暴徒たちは最も利をもたらすだろうと考えられた者以外は友人も敵も区別せずに敵と見なした。したがって誰も市の全域に暴力、殺戮、そして全ての無法行為で満たされてない場所を見つけることができなかった。ある者は怒りを満たす好機を手に入れたために長く続く憎悪から敵対者へのどんな形の狼藉も慎まず、他の者は金持ちの殺戮によって財産を取り戻そうと考え、破壊のための手段を余すところなく実行した。ある者は家の扉を壊し、他の者は梯子で屋根に登り、さらに他の者は屋根の上から自分の身を守ろうとした人を攻撃した。神殿へと逃げ込んだ人は神々に祈ったが、神々への敬意は兵士たちによって台無しにされた。平時に、そして彼らの都市においてはギリシア人は敢えてギリシア人に対し、つまり血縁のために縁者に対してはそのような罪を犯そうとはせず、共通の人道も厳粛な協定も神々も顧みることなくそのような罪を犯してこれほどに被害者の運命を憐れまない人はいなかった。私は魂に微塵も思いやりがないような者でない限りは友人どころか全面的な敵さえもそのような悪党であるとは言うつもりはない。
8 全ての市門は閉じられ、唯一の罪が他の人よりも良い生まれであったというだけの人たち四〇〇〇人以上がその日のうちに殺された。逃げた人のうちで門へと走った者は捕らえられ、一方城壁から飛び降りた人は近隣の諸都市へと逃げ延びた。しかし、混乱して手前を見ずに飛び降りた人は真っ逆様に破滅へと向かった。多くの人が生まれた市を追われてその数は六〇〇〇人以上にもなり、その大部分はアクラガスの人々のところへと逃げてしかるべき世話を受けた。アガトクレス派は同胞市民の殺戮にその日を費やし、女性も彼らの暴行と罪悪から容赦しなかったが、彼らは死を免れた人は親類への暴虐によって十分に罰せられたと考えた。夫と父が妻への暴行と未婚の娘に降り懸かる恥のことを考えたならば、彼らは死以上の害悪を被るとことになるだろうと考えるのは理にかなっていよう。主として我々のその被害者への憐憫の故ではなく、むしろそれを容易く理解できるような時に読者の誰一人として全ての詳細を聞きたいと望まないようにするため、我々はわざとらしい悲劇的な調子をするのはやめ、歴史家らしい流儀でそれらの出来事の説明を続けるべきであろう。日中の街路とアゴラにいた人は何ら害を及ぼしていない人を殺すほどに恐れ知らずであり、家で彼らが夜にしたこと、彼らが親を失った娘たち、守ってくれる人がいずに最も恐ろしい敵の絶対的な力のうちにある女性に何をしたのかを書く必要はあるまい。二日経つとアガトクレスは同胞市民の殺戮に満足し、捕虜を集めた後にデイノクラテスをかねてよりの友情のために釈放したが、他の者のうち最も激しく敵対していた人たちは殺して残りは追放した。
9 次に彼は民会を召集し、自分は政府の主になろうとしていた人たちの政府を一掃したと言いつつ既存の六〇〇人会と寡頭制を弾劾した。そして彼は人々に損なわれることのない自由を復活させ、自分は最終的に重責から解放されて全ての人と同等の条件の一市民になることを願うと宣言した。こう言うと彼は自らの軍隊用の外套を脱ぎ捨てて平服を着て、自らは大勢の中の一人でしかないことを示して立ち去った。しかしこれをするにあたって彼は民会が彼の罪深い行いを許すであろうことを完全に熟知しつつただ単に民主派のふりをしただけであり、このようなわけで彼は誰か他の人を将軍職に据える気などさらさらなかったのである。いずれにせよ、犠牲者の財産を略奪した連中は自分たちをそのままにせず国家の全般的な運営権を受け取ってくれと絶えず声を上げて彼に請い願った。当初の彼は沈黙を守っていた。そこで群衆が一掃頑として彼に迫ってくると、彼は自分は他の人の違法行為に対して委員会の一員として〔つまり彼らと一蓮托生に〕合法的に責任を負うのは真っ平御免なので、他の人と共同で支配をするつもりはないと言った。多数の人が彼の単独支配に同意し、彼は全権将軍に任命され、その後は大っぴらに権限を行使して市を支配した(12)。堕落していなかったシュラクサイ人のうち、ある者たちは恐怖による苦痛を耐える羽目になり、他の者たちは大衆に〔数で〕圧倒されていたために敢えて彼の敵意に身を晒そうとはしなかった。他方で貧しい人と借金をしていた人たちはアガトクレスが民会で借金の帳消しと貧民への土地分配を約束したために革命を歓迎した。それらの事項を終えると、彼はこれ以上の殺戮と刑罰を停止した。気性を完全に変化させて彼は一般の人々に愛想の良さを見せ、多くの人を助け、約束で少なからぬ人を元気付け、そして慈善的な言葉で全ての人からの支持を得たために少なからぬ人気を得た。彼は権力を握っていたにもかかわらず、冠を着けず、護衛隊も置かず、全ての僭主にありがちな横柄な振る舞いもしなかった。彼は用心深く公的な歳入と鎧と武器の備蓄を監視し、すでにあるものに加えて建造した軍船を有していた。彼は内陸部の大部分の地方と都市の支配権をも獲得した。
 これがシケリアの情勢であった。
10 イタリアではその時ローマ人がサムニウム人との戦争の九年目にあった(13)。以前彼らは大軍で戦っていたものの、この時は敵地へ行った襲撃によって偉大なあるいは語るに足ることようなことを何も成し遂げていなかった。未だ彼らは砦への攻撃と土地を荒らすことを止めてはいなかった。アプリアでも彼らはダウニア全域を荒らしてカヌシウム人を〔敵との同盟から〕取り戻して彼らから人質を取った。彼らはファレルナとオウフェンティナという二つの部族を既に〔配下の〕部族に加えた。このことが起こっていた一方で、クロトンの人々はブルッティオイ人と講和したが、ヘラクレイデスとソストラトスとの同盟のために民主派によって追放された市民〔貴族派〕との戦争を未だにしており、彼らについて我々は既に前巻で詳しく述べておいた。この戦争はその時には二年目になっており、優れた人であったパロンとメネデモスが将軍に選ばれた。追放者たちはトゥリオイを発って三〇〇人の傭兵を仲間に加え、夜に生まれた市に入ろうとしたがクロトンの人々によって撃退され、ブルッティオイ人の土地との境界に野営した。しかしそのすぐ後に彼らは数で勝る市民軍の攻撃を受けて全員が戦死した。
 今や我々はシケリアとイタリアの情勢を述べ終えたので、ヨーロッパの残りの部分へと向かうことにしよう。

エウリュディケ対オリュンピアス
11 マケドニアでは、摂政位にあったエウリュディケはオリュンピアスが帰国の準備をしていると聞き知ると、ペロポネソスへとカッサンドロスに向けて使者を送って可及的速やかに来援に赴くよう要請した。そして彼女は最も活動的なマケドニア人たちに贈り物と大きな見返りの約束をすることによって彼らの忠誠を私人として得ようとした。しかし、ポリュペルコンが同盟者であるエペイロスのアイアキデスと共に軍を集めてオリュンピアス、そしてアレクサンドロスの息子を王として復帰させた。エウリュディケがマケドニアのエウイアに軍と共にいると聞き知るやすぐに彼は一戦でもって戦争を決着させようと決め、彼女へ向けて急いだ。しかし、互いに軍が対陣するとオリュンピアスの地位への尊敬とアレクサンドロスによって受けた恩を思い出したマケドニア人たちは同盟者を変えた。すぐさまフィリッポス王と彼の廷臣たちが捕えられた一方でエウリュディケは彼女の相談役の一人であったポリュクレスと一緒にアンフィポリスへと向かう途上で捕えられた。このようにオリュンピアスは王族たちを捕えて戦わずして王国を手にした後、自らの幸運を人間がするようには用いず、手始めにエウリュディケとその夫フィリッポスを監視の下に置いて虐待した。実際、彼女は彼らを狭い場所に閉じ込めて必要なものは一箇所の狭い穴から与えた。しかしこの不幸な捕虜たちに何日もの間無法な扱いをした後、彼女はあるトラキア人らに王位に就いて六年と四ヶ月であった(14)フィリッポスを刺殺するよう命じた。しかし自制心のなさを示し、そして王国はオリュンピアスよりはむしろ自分のものだと宣言していたエウリュディケにはより大きな罰が相応しいと彼女は判断した。したがってオリュンピアスはエウリュディケに剣、縄、数個のドクニンジンを送り、法の許さないような扱いをされたこの囚人のかつての高貴さへ何の敬意も見せることなく、全ての者に共通な運命への憐憫を感じることもなく、望む死に方をするよう命じた。このために彼女自身が似たような不幸に見舞われると、その残忍さに相応しい死をとげた。現にエウリュディケは従者の面前でオリュンピアスに似た運命が降りかからんことを祈ったものである。彼女は次に状況が許す限りで夫の遺体の傷を拭き、運命を嘆くこともなく不運の重圧に卑屈になることもなく帯で首を吊って命を絶った(15)。その二つのことをした後、オリュンピアスはカッサンドロスの兄弟のニカノルを殺害してイオラスの墓を発き、彼女の言うところではアレクサンドロスの死の復讐をした(16)。また、彼女はカッサンドロスの友人の中から一〇〇人の優秀なマケドニア人を選んで皆殺しにしもした。そのような残虐行為によって憤激を満足させた彼女はすぐにその残忍さのために多くのマケドニア人の憎悪を買った。そのため女に王という第一の地位を握らせないよう忠告した臨終の際のアンティパトロスの予言じみた言葉を誰もが思い出した。
 かくしてこの状況はマケドニアの内部情勢において革命が差し迫っていることの明白な徴候となった。

エウメネスの復活とペルディッカス派の暴動
12 アジアでエウメネスはマケドニアの銀楯隊とその指揮官アンティゲネスと共にカリア人の〔住む〕村々として知られていたバビュロニアの村々で越冬した(17)。彼はセレウコスとピトンに王たちを助けて自らに対アンティゴノス戦で味方するよう求める使節を送った。彼らについては、トリパラデイソスで行われた太守領の二度目の分割の時にピトンはメディアの太守に、他方のセレウコスはバビュロニアの太守に任命されていた。セレウコスは王たちには喜んで奉仕すると言ったものの、会議でマケドニア人によって死を宣告されたエウメネスの指図を受けるのには賛成しないと言った。この方策に関してかなり話し合った後、彼ら〔セレウコスとピトン〕はアンティゲネスと銀楯隊へと使者を送ってエウメネスから指揮権を剥奪するよう頼んだ。マケドニア人たちはこの通達に耳を傾けなかったためにエウメネスは彼らの忠誠心を賞賛した後、軍と共に出発してバビュロンから三〇〇スタディオンの距離にあるティグリス川に到着すると野営地を設営した。彼の目的はスサへと向うことであり、そこで彼は高地太守領から兵士を集め、王の宝物を彼の差し迫った必要に用いようと意図していた。しかし、彼の後ろの地方はすでに略奪されていたために〔必要物資を新たな場所で得るために〕彼はその川を渡らざるを得なくなっており、その一方で手付かずのもう一方の岸は彼の軍に十分な食糧を供給できた。したがって、彼が渡河のために全ての方面から戦利品を集めていた時、バビュロン近くのアレクサンドロスによって建造された船がまだ使えたためにセレウコスとピトンは二隻の三段櫂船と多くの小船と共に〔川を〕下ってきた。
13 その船団を上陸させる場所を求めていたセレウコスとピトンは、その男は外国人であり、非常に多くのマケドニア人を殺したとしてエウメネスから指揮権を取り上げて自分たちの計画に対立する準備をやめるよう再びマケドニア人を説得しようとした。しかしアンティゲネスと彼の兵士がどうしても説得されないないでいると、セレウコスはある古い運河へと航行し、時の経過によって〔堆積物で〕満たされていたその取入れ口を綺麗にした(18)。マケドニアの野営地は水で囲まれて隣接する土地は四方八方が水浸しになったために野営していた全ての兵士が洪水で壊滅する危険に晒された。この日はこの状況にどう対処すればよいのか分からなかったためにマケドニア人は動けないままだった。しかし次の日に彼らは約三〇〇隻の小船を作って上陸を邪魔されることなく軍のうち最良の一部を渡らせた。というのも、セレウコスは数において敵に大きく劣っていた騎兵しか持っていなかったからだ。しかし夜が彼らを襲ると、荷物を心配したエウメネスはマケドニア人たちに川を渡って戻らせた。そしてその地方の一人の住民の案内の下で彼は運河を曲げやすいある場所を掘り始めて〔運河の流れを変えて〕隣の土地へと通ることができるようにした。これを知ったセレウコスはできる限り早く自分の太守領から彼らを出すことを望んでいたため、講和を提案する使者を送ってエウメネスの渡河を認めた(19)。しかし、時を同じくして彼はメソポタミアへとアンティゴノスにも使者を派遣し、彼に〔敵の〕太守たちが戦力を到着させる前に可及的速やかに軍を来させるよう頼んだ。しかし、エウメネスはティグリス川を渡ってスシアナに至った後、食料の不足のために軍を三分した。彼らは縦列に分かれてその地方を進軍した。彼には全く穀物がなかったが、その土地は十分に果実がなっていたので彼は兵士に米、ゴマ、そしてナツメヤシを配った。彼は既に高地太守領の指揮官たちにエウメネスには何であれ従うよう書かれた王たちからの手紙を送った。そしてこの時に彼は再び太守たちにスシアナで全員で、それぞれの軍を伴って会議を開くよう述べる使者を送った。しかしまさにこの時、彼らは彼らの軍を動員しており、まずもって対処すべき必要性、他の理由のためにすでに軍を集めていた。
14 メディア太守に任じられていたピトンは高地太守領全域の将軍になると、前のパルティアの将軍のフィロタス(20)を処刑し、自身の弟エウダモスを彼の地位に据えた。ピトンが扇動的で彼の計画には大事業が含まれていて、似た運命を被ることを恐れていた他の全ての太守たちは力を合わせた。そして彼らは戦いで彼を打ち負かして多くの彼の支持者を殺し、パルティアから追い出した。当初彼はメディアに退いたがしばらくしてバビロンに行き、そこで自身を助けて期待を分かち合うためにセレウコスを招いた。そして高地太守領の太守たちはこのために軍を一箇所に集中させており、エウメネスからの急使は軍隊が準備ができているのを見て取った。総司令官で、満場一致の同意によって全軍の指揮を担った人はペウケステスで、彼はアレクサンドロスの護衛兵で、その勇気によって王により〔その地位に〕出世されられていた。彼は長年ペルシアの太守領を有し、住民からの素晴らしい好意を得た。彼らはこのためにアレクサンドロスはマケドニア人の彼ただ一人にペルシアの衣服を着ることを許し、ペルシア人の歓心を買うことを望み、ペウケステスを通して彼があらゆる点において国民を従順にしておくことができたと信じたという。この時のペウケステスは一〇〇〇〇人のペルシア人の弓兵と投石兵、あらゆる出のマケドニア式の装備の三〇〇〇人の兵士、六〇〇人のギリシア人とトラキア人の騎兵、そして四〇〇人以上のペルシア人騎兵を連れていた。カルマニア太守に任じられたマケドニア人のトレポレモスは、一五〇〇人の歩兵と七〇〇騎の騎兵を連れていた。アラコシアの指揮官シビュルティオスは一〇〇〇人の歩兵と六一〇騎の騎兵を連れてきた。オクシュアルテスが支配していた太守領パロパニサダイからはアンドロバゾスが一二〇〇人の歩兵と五〇〇騎の騎兵と共に派遣されていた。バクトリアからも兵士を連れてきたアレイアとドランギアナの太守スタサンドロスは一五〇〇人の歩兵と一〇〇〇騎の騎兵を連れてきた。インドからは五〇〇騎の騎兵と三〇〇人の歩兵、そして一二〇の象と共にエウダモスが来ていた。これらの獣を彼はアレクサンドロスの死後にポロス王を裏切って殺害したことによって確保していた。太守たちによるこの軍はしめて一八七〇〇人以上の歩兵と四六〇〇騎の騎兵にもなった(21)
15 太守たちはスシアナに来てエウメネスと合流した時に会議を招集し、そこで総指揮権をめぐる多くの競争が起こった。ペウケステスは遠征に引き連れてきた兵士の数とアレクサンドロスの下での高い身分のために自身が最高指揮権を持つべきだと考えた。しかし銀楯隊の将軍アンティゲネスは、彼らはアレクサンドロスと共にアジアを征服してその勇気のために打破されたことがないために選択の権利は彼のマケドニア人たちに認められるべきだと言った。しかし、エウメネスは彼らが内輪もめによって簡単にアンティゴノスの餌食となることを恐れ、一人の司令官を立てるのではなく、太守と大多数の兵士によって選ばれた将軍の全員が王の天幕に各々の日に集まって何が全般的の利になるかを会議をするべきだと提案した。一つの天幕が既に死んでいたにもかかわらずアレクサンドロスのために設えられ、彼らはこの前で申し出を行って考慮すべき問題について議論するようにした。彼の上記の全ての提案が全体で承認されたために彼は民主的原則で自身を支配しているいくつかの都市のようにそれぞれの日に会議を招集した。その後、彼らがスサに着くとエウメネスは宝物を管理し、彼の必要事には十分な額の金を受け取った。このため、手紙の中で王たちが彼の求めるならどのような額でも与える会計係を命じたのは彼一人となった。マケドニア人に六ヵ月分の給与を払った後、彼はこれは獣たちを維持するためのものだと言って二〇〇タラントンをインドから象を引き連れてきたエウダモスに与えたが、これは実はこの贈り物によってこの男の好感を得ようとするための試みであった。というのも後者は全ての諍いで大きな発言力をもっており、そして彼の象は目覚しい働きをするからである。各々の他の太守たちはエウメネスの指揮の下で領地からやって来た兵士たちの生活費を提供した。
 エウメネスが軍に休憩を取らせるためにスシアナに留まっていた間(22)、メソポタミアで越冬していたアンティゴノスは、手始めにエウメネスの軍が増える前に彼のすぐ後を絶えず追跡しようとした。しかし太守たちとその軍がマケドニア軍と合流したのを聞くと、彼はこの戦争には大軍と尋常ならざる準備が必要であると考えて〔進軍の〕速さを押さえて軍を休ませ、追加の兵士を入隊させた。
16 これらの出来事の一方で、アンティパトロスとフィロタス(23)並びにアッタロス、ポレモン、そしてドキモスといったアルケタス軍と共に捕らわれたこれらの指揮官たちは非常に強固なある要塞での監視下にあった。ところが、彼らはアンティゴノスが高地太守領への遠征を指揮していると知って好機が到来したと信じ、脱出のために数人の看守を説得して武器を手に入れ、深夜に看守を襲った。四〇〇人によって監視されていたが、八人しかいない彼らはアレクサンドロスとの軍務により大胆さと機敏さにおいて勝っていた。彼らは守備隊の隊長のクセノペイテスを腕ずくで捕えて一スタディオンの高さの崖があった城壁から投げ落とした。そして警備をしていた幾人かを虐殺して他の者を下へ投げた後、彼らは建物に火を放った結果を見るために傍観していた者〔を仲間に加えて〕から五〇人に数を増やした。要塞は大量の穀物と他の貯えがあったために彼らはここに留まるべきかそれともこの状況の強みを活かすべきか、即ちエウメネスを助けを期待して待つか、あるいは可能なかぎり素早く逃げて立ち居地の変化を待ってその間国を点々とするべきか話し合った。ドキモスが逃げるよう諭した一方でアッタロスは軟禁による体調不良のために〔放浪の〕苦難に耐えることはできないと言い放ったため、激論が戦われた。彼らが互いに言い争っている一方で五〇〇人以上の歩兵と四〇〇騎の騎兵の部隊がすでに付近の要塞から集まっていた。これに加えて現地人から他の者たちが来ており、彼らはその中の高位の者たちから指揮官を選んでいて要塞あたりで宿営していた三〇〇〇人を超える様々な種類の他の兵士であった。彼ら〔アッタロスたち〕が予期せず再び封じ込められると、ドキモスは下りのある道が無防備と知って近くにいたアンティゴノスの妻ストラトニケに使者を送った。ドキモスと一人の仲間が彼女との打ち合わせのために逃げたが、秘密が明らかになって守衛に引き渡された。そしてドキモスと彼と共に出た男は敵を案内することになり、要塞へと相当数の敵を連れて行き、そして〔彼らは要塞の上の〕峰の一つを占領した。アッタロスの仲間たちは数においてはるかに劣勢だったにもかかわらず勇気を持って踏み止まり、挫けず戦い続けて来る日も来る日も強固に抵抗した。一年と四ヶ月包囲された後に彼らは敗れた。

アンティゴノス対エウメネス第一回戦、コプラテス川の戦い
17 デモクレイデスがアテナイでアルコンだった時(24)、ローマ人はガイウス・ユリウスとクィントゥス・アエミリウスを執政官に選んだ(25)。その時一六〇回記念のオリュンピア祭があり、ラコニア人のデイノメネスが徒競走で優勝した。この時アンティゴノスはメソポタミアを出発してバビュロニアに入り、そこでセレウコスとピトンと共同行動の協定を結んだ。彼は彼らからも兵士を受け取り、ティグリス川に平底舟の橋を掛けて軍を渡らせて敵に向けて進んだ。事の次第を知るとエウメネスはスサの砦を守るクセノフィロス(26)にアンティゴノスに金を渡さず、いかなる会談もしないよう命じた。エウメネス自身は兵士と共にスサから一日の行程で、ウクシオイ人と呼ばれる未だ征服されていない民族がいる山岳地帯より注ぐティグリス川(27)へと向かった。その幅は大きい所では三スタディオンで、いくつかの箇所は四スタディオンもあった。流れの真ん中の深さは象の高さほどであった。山々から七〇〇スタディオンほど注いだ後に紅海へと注ぎ、そこには鮫と同様に海水魚がたくさんおり、これらは丁度シリウスの上る頃に現れる(28)。彼らは守りのために正面のこの川を保持し、見張りを置いてその水源から海までの資源を保持して彼らは敵の到来を待った。その長さのためにこの守りは少なからぬ兵士を必要としていたため、エウメネスとアンティゲネスはペウケステスにペルシアから一〇〇〇〇人の弓兵を呼び出すよう頼んだ。最初、将軍職を受けることができなかったことを彼は恨んでおり、そのために彼らの言うことに耳を貸さなかった。しかし後になって彼はアンティゴノスが勝利するという結果になりでもすれば自分は太守領を失って生命の危機にも瀕するだろうと考えてこれを許した。したがって彼は自身のことについて考え、またもし彼が可能な限り多くの兵士を擁していたならば更なる指揮権を得ることができそうだとも考え、彼は彼らが要求した一〇〇〇〇人の弓兵を連れてきた。ペルシア人の一部は三〇日の旅程の距離があったにもかかわらず、何事もなくは済まない問題〔命令の迅速な伝達〕について衛兵の配置の巧みな整理のおかげでその日中に全員命令を受けた。ペルシアは多くの狭い谷によって〔国土を〕分断されていて高く相互に接近している多くの見張り櫓があり、そこには最も声の大きい住民が配置されていた。それらの櫓は人の声が聞こえるだけの距離によって互いに離れていたため、命令を受けた物は同じ方法で次の者に伝え、そして太守領の隅々まで順々に他の者へと知らせが届けられたのである。
18 エウメネスとペウケステスがこれらの問題に携わっている間にアンティゴノスは軍と共に進んで州都のスサに来た。彼はセレウコスをその地方の太守に任命し、軍を与えて会計係のクセノフィロスが彼の命令を受けるのを拒絶したために要塞の包囲を命じた。彼自身は軍と共に天幕を畳んで、外国人の軍が通過するには非常に暑くとても危険な道であったが〔ここを通って〕敵軍に対して出発した。これらの理由によって彼らは〔暑さを避けるために〕夜の進軍を強いられ、夜明け前に川の近くで宿営した。にもかかわらず彼はこの地方の特性上の困難から全員を救うことはできず、あらゆることをしたにもかかわらずシリウスが昇る季節であったために激しい暑さで多くの兵士を失った。コプラテス川に至ると、彼は渡河の準備を始めた。この川はある山岳地帯から注いでおり、パシティグリス川に注いでおり、エウメネスの陣営から約八〇スタディオンの距離にある。幅においては約四プレトラであったが、流れが速かったために、船か橋が必要であった。アンティゴノスは少数の平底船を手に入れて歩兵の一部を渡らせ、彼らに軍の残りを受けとめさせるために川の正面に堀をめぐらして柵を立てることを命じた。しかしすぐにエウメネスは斥候より敵の動きを聞き、橋で四〇〇〇人の歩兵と一三〇〇騎の騎兵を〔パシ〕ティグリス川を渡らせ、歩兵三〇〇〇人以上と騎兵四〇〇騎、そして食料を探して散らばっていた渡河を終えていた六〇〇〇人を下らない兵士からなるアンティゴノス軍を奇襲した。突然の遭遇によって彼らが混乱するとエウメネスはすぐに残りの部隊を敗走させ、抵抗したマケドニア軍を攻撃と兵士の数の多さによって破り、彼ら全員を川へ追い詰めた。彼ら全員は船に殺到したが、船は大量の兵士が乗っていたために沈没し、〔川を〕泳ぐという危険に身を晒したその多くは流れに流されて溺死し、無事に超えることができたのは少数だけだった。泳ぎ方を知らなかった者は川で死ぬよりはむしろと捕らわれることを選び、四〇〇〇人が捕虜となった。アンティゴノスはかなりの数が殺されていたのを知ったが、船の不足のために彼らを助けに行くことができなかった(29)
19 渡河は不可能だと信じたアンティゴノスはエウライオス河畔にあるバダケ市へと向った。灼熱の太陽の下、進軍は焼け付くような暑さの下で行われたために多くの兵士が倒れ、軍の士気は落ちた。にもかかわらず四日間上述の市に留まって兵士に被害を回復するのを許した後に彼は最善の進路はメディアのエクバタナへと進軍することであるとし、そこを高地太守領の支配権を得る拠点とすることを決めた。メディアへの道は二通りあり、それぞれに不便があった。コロンへの道は良好な王の道であったが、熱く長く、ほぼ四〇日の行軍を要した。 一方、コッサイオイ人の間を抜ける他方は困難で短く、周りには断崖絶壁があり、敵地の通行でもあり、さらに物資が欠如していたが、短く涼しかった。山岳地帯に住む諸部族の同意を得ることなしに兵士にこの道を行かせるのは容易ではなかった。昔から独立していた彼らは洞窟に住まい、どんぐりときのこ、そしていぶった野獣の肉も食べていた。アンティゴノスは停戦ないし贈り物によって通行の許可を買うのは臆病なことだと考えたし、その時の彼は自身に従う非常な大軍を有していた。彼は盾兵〔ペルタスタイ〕の精鋭と〔他の隊から〕分かたれた弓兵、投石兵、そして他の軽装歩兵を選び出して二分し、近くて険しい土地を前もって占領しておくよう命じてその一つをネアルコスに与えた。他の部隊を進軍隊形にした後、彼自身はピトンに殿の指揮を執らせて〔自らは〕ファランクスを率いて進んだ。さてネアルコスの分遣隊は前もって少数にの見晴らしの良い箇所を占領しに向った。しかし彼らはそれらの箇所のほとんどと最も重要な箇所に向うのがあまりにも遅くなったために多くの兵士を失い、夷狄に激しく苦しめられつつもかろうじて道を通過した。アンティゴノスの率いた兵士については、彼がそれらの困難な通路に来るといつでも、何の助けも得られないような危険な目にあった。というのも、その地方に慣れ親しんで前もって高地を占めていた現地人たちは進軍する軍に向けて素早くそして続けざまに大きな岩を転がして落とし続けた。そして同時に矢の雨を降らせ、困難な地形のために飛び道具を避けることができないでいる兵士を負傷させた。というのもその道は切り立っていてほとんど通ることができなかったため、象、騎兵、そして重装歩兵さえも自衛することもできず、同時に死に直面して危険を冒すことを余儀なくされた。このような苦労をしてアンティゴノスはピトンが金で通行権を買うよう忠告したことに耳を貸さなかったことを後悔した。しかしながら多くの兵士を失って全ての企てを危うくした後に彼は苦労して九日目にメディアの人の住んでいる場所へと無事にたどり着いた。
20 しかし、続いた不運と甚だしい悲惨のためにアンティゴノスの兵士たちは彼に対して批判的になって敵対的な意見に陥った。というのも四〇日の間彼らは三つの大きな惨事に出くわしていたからだ(30)。にもかかわらず彼は親しみある言葉で兵士の中に分け入って全ての物資の配給を豊富にして整え、兵士を悲惨な状態から回復させた。彼はメディア全域から騎兵と軍馬、また大量の荷駄獣を可能な限り多く集めよう命じてピトンを送り出した。その土地にはいつも四足の獣が豊富にいたためにピトンは容易に任務を遂行し、騎兵二〇〇〇、装飾用馬具をつけた馬一〇〇〇頭以上、全軍を乗せるのに十分な数の荷駄獣、さらに王の財産五〇〇タラントンと共に戻ってきた。アンティゴノスはその騎兵を部隊に編成し、馬を失った者に馬を与えて荷駄獣のほとんどを分配したため、兵士たちの好意を取り戻した。

エウメネスの詭計
21 敵がメディアで野営していたことを知ると、エウメネス及び彼と同行していた太守および将軍たちの間で意見が分かれた。エウメネス、銀楯隊を指揮していたアンティゲネス、そして海(31)の方からやって来ていた全員は沿岸へと戻るべきだと信じた。しかし太守領からやってきた者たちは彼らの私的な事柄を案じて高地地方の支配を維持することが大切だと主張した。対立がさらに暴力的になり、もし軍が分裂すれば自分たちだけで戦える部隊はいないだろうと見たエウメネスは内地から来た太守たちの望みに従った。したがってパシティグリス川を去った彼らは二四日間の行軍でペルシアの首都ペルセポリスへと向った。「梯」と呼ばれた道の最初のあたりは立ち入りがたく、物資のない灼熱の谷であったが、残りは高地の上にあり、非常に気候が良く、季節に適った果実で満たされていた。というのも非常に木が生い茂っていて影の多い峡谷があり、谷間には様々な種類の木が生え、またあらゆる種の木と川水で満たされた自然にまとまった林間の空地もあり、それらのために旅人はこの場所で好んで休憩して喜んで留まっていた。またあらゆる家畜が十分におり、ペウケステスは住民からそれらを集めて兵士からの好感を得ようとして物惜しみせずに分配した。しかし、この地方に住んでいた者たちの大部分はペルシア人のうちでも好戦的な者たちで、皆が射手と投石兵であり、人口密度においてはこの地方は他の太守領よりはるかに勝っていた。
22 彼らが首都のペルセポリスに到着すると、この地の将軍であったペウケステスは神々とアレクサンドロスとフィリッポスのために大規模な犠牲式を執り行った。そしてペルシアのほぼ全土から数多くの犠牲獣と、祭儀と宗教的集会のために必要な他にものを集めた後、彼は軍のために祝宴を開いた。参加者を彼は四つの輪に入れられ、〔同心円状に〕一つを他の輪の中に囲ませ、最大の輪で他の〔三つの〕輪を囲ませた。外側の輪は円周が二〇スタディオンにもなるもので、傭兵と同盟軍の群集が入れられた。二つ目の輪は八スタディオンであり、マケドニアの銀楯隊とアレクサンドロスの下で戦ったヘタイロイがいた。次の輪は四スタディオンで、その場所には横になった者、即ち下士官、〔それより内側の、つまり一番内側の円に〕割り振られなかった友人と将軍、そして騎兵が入った。最後に、円周が二スタディオンの内側の輪は将軍と騎兵指揮官と最も高位のペルシア人の寝椅子の所が占めた。その真ん中には神々とアレクサンドロスとフィリッポスへの祭壇があった。寝椅子はあらゆる種類の覆いと絨毯によって覆われた場所に設えられ、それというのもペルシアは大量に贅沢と娯楽に必要なあらゆるものと産したからだ。そして輪は互いに十分に間を空けられ、宴会の出席者たちは混雑せず、全ての提供された物が手元の近くにあるようにしてあった。
23 全てのことが然るべく行われていた間、群集はペウケステスの気前の良さに拍手喝采を送った。彼が人気を大いに上げたことは明らかであった。しかしこれを見てペウケステスが総指揮権への望みを促進させようとして群集に取り入っていると推測したエウメネスは偽の手紙をこしらえた。兵士に戦いの結果に自信を持たせ、ペウケステスの威光と状況を引き下げることによって自身の立場を向上させ、群衆の目に自身の成功の見込みが増すように見せようとしたのだ。彼が書いた事の要旨は、オリュンピアスがアレクサンドロスの息子と連携してカッサンドロスを殺害した後にマケドニア王国での確固たる支配権を回復し、ポリュペルコンが強力な王軍と象の一部を率いてアンティゴノスに対してアジアへと渡り、カッパドキアの近隣にすでに進軍していたというものであった。シュリアの言葉で書かれたその手紙はアルメニア太守でペウケステスの友人だったオロンテスから送られた。太守たち〔ぺウケステスとオロンテス〕のかねてからの友情のためにこの手紙は信じられ、エウメネスはそれを指揮官たち、それと兵士のほとんどにも伝えて見せるよう命じた。陣営中の意見は変わり、エウメネスは両王の助けを受けて彼が望むことは何であれ実行し、彼を不当に扱った者に罰を強制することができるであろうがために、皆はエウメネスの見通しに注目を向け始めた。饗宴の後にエウメネスは彼に従順でない者や指揮権を欲しがっていた者を威圧しようと望み、アラコシア太守でペウケステスの大親友だったシビュルティオスを裁判にかけた。シビュルティオスの知らぬ間にエウメネスはアラコシアへと数名の騎兵を送り、さらに彼の荷物を押収するよう命てシビュルティオスを危険に陥れた。もし彼が密かに逃げていなければ集会で死を宣告されていたことだろう。
24 このようにして他の者を威嚇して威厳の誇示と仰々しさを身に纏った後、エウメネスはさらに今一度態度を変えてペウケステスを優しい言葉と大約束で味方につけ、彼をエウメネスに対して忠実にして王たちのための戦いへの熱意を持たせた。さらに自身を見捨てないようにするために彼は他の太守と将軍たちに抵当を課そうとした。彼は金が必要なふりをして王のために可能な限りの金を貸すよう各々に頼んだ。彼が適切と考えたそれらの指揮官たちから四〇〇タラントンを得て、エウメネスは前は彼への陰謀を企んだり、彼を見捨てようとしてるだろうと疑っていた者たちを彼個人の最も忠実な護衛にして競争における支援者とした。
 エウメネスが未来を見据えて戦略的な処置を取っていた間、メディアからアンティゴノスと彼の軍が陣を畳んでペルシアへと出発したという報せを携えた者たちがやって来た。これを聞くと、敵と危険に立ち向かって決着をつけようと決心してエウメネスもまた出発した。行軍の二日目に彼は神に生贄を捧げて金をかけて軍を供応した。現に彼は大多数の者に忠誠心を抱かせたが、彼自身は招待した酒好きの客たちに誘われて競い飲みをして病気になった。このような理由で彼は病気が治るまで数日の間進軍を延期した。敵がすぐに挑んでくるだろうと予想され、最も優れた将軍が病のために不利だったために軍は意気消沈した。ところが攻撃の危機を過ぎ去って少し回復するとエウメネスはペウケステスとアンティゲネスが率いる形で軍を進軍させ、その一方で彼自身は輿に担がれて混乱と道の混雑で迷惑がかからないように殿として続いた。

アンティゴノス対エウメネス第二回戦、パライタケネの戦い
25 両軍は互いに向けて進軍すると、斥候を送って敵の規模と意図を知ろうとした後に戦いの準備をした。しかし彼らは戦わずして別れたのであるが、それというのも両軍はその正面を川と渓谷で隔てられ、地形の困難のために攻撃に赴くことができなかったからだ。両軍は四日の旅程で互いに三スタディオンの距離をとって野営し、物資が払底したために彼らは小競り合いとその地方の略奪を続けた。しかし、五日目にアンティゴノスは太守とマケドニア人たちにエウメネスに従わず自身を信頼するようよう説く使節を送った。彼は太守たちに太守領を安堵し、マケドニア人には大きな土地を送り、他の者は栄誉と贈り物を付けて母国に帰し、軍に留まることを望む者には然るべき地位を与えると言った。しかし、マケドニア人たちはその申し出に注意を払わないどころか使節を脅した。エウメネスはそこに来て彼らを賞賛し、真実であるところの伝統的で古臭いが、その地位に不適当ではない話をした。エウメネスの言うところでは、あるライオンがある処女を愛し、娘の父に結婚したいと言ったという。その父は娘を与えてもよいが、ライオンが結婚した後に何かの拍子で機嫌を悪くして獣らしいやり方で処女に手向うのではないかと恐れているから自分はライオンの爪と牙を心配しているのだと言った。かくしてライオンが爪と牙を引き抜くと、父はライオンが自らを恐るべきものとしているあらゆる物を放り出したことを見て取ると棍棒で易々と殺した。「これと同じことだ」と彼は付け加えた。「これが今アンティゴノスのしていることだ。彼は軍の主になるまでしか約束を守らないだろうし、そうなれば指揮官たちは処刑されるだろう」。群衆は賛成を叫び、「その通りだ」と言って彼は集会を解散させた。
26 しかし、夜になるとそこへアンティゴノス軍からの脱走兵が現れ、アンティゴノスは兵士に第二哨戒の時に陣営を畳むよう命じたと報告した。事態を考えたエウメネスは敵はガベネに退くつもりだろうと正しくも結論した。この地は三日ほどの進軍を要する距離にあり、まだ略奪されておらず穀物と秣が豊富にあり、概して大軍に必要な物資を十分に供給できた。その上、その地にはそれらの利点に加えて、渡るのが難しい川と渓谷があった。したがってこれを憂慮したエウメネスはこの地を敵より先に占領するためにアンティゴノスの真似をした。金で手懐けた傭兵たちにエウメネスは陣営への夜襲を決定したと言うよう命じて、あたかも彼らが脱走したかのようにして立ち去らせた。しかし彼自身は行先に荷物を送り、兵士たちに急いで食事を摂った後に陣営を畳むよう命じた。万事を素早く済ました後、脱走兵から敵が夜間の戦いを決めたことを聞き知ったアンティゴノスは出発を延期して軍を戦闘隊形につかせた。この行動によって彼の注意が逸れて来るべき戦いのために気を取られていた間、彼はエウメネスがすでに出発して全速でガベネへと進軍していたことに気付くことができなかった。しばらくの間アンティゴノスは軍を武装させ続けていたが、敵が出発したことを斥候から知らされると、作戦で出し抜かれたと知ったものの、元の目的を放棄しなかった。兵士に陣営を畳むよう命じて彼は目的に相応しく強行軍で彼らを率いて行った。しかし、エウメネスは二哨戒時間だけ先んじていた。したがってアンティゴノスは全軍で遥か先にいる軍を追いつくのは簡単ではないと知ると、以下のような計略を練った。彼はピトンに残りの軍を与えて急がずに追うよう命じたが、彼自身は騎兵を率い、手綱を外して全速で追った。そして夜明けのいくつかの小高い場所から敵の殿が降りてきたまさにその時に敵の殿に追いつくと、彼は敵から見える尾根に陣取った。かなりの距離から敵の騎兵を眺めて全軍が近くにいると考えたため、エウメネスは進軍を停止して軍をすぐにでも戦えるように整列させた。したがって、上記のようにして二つの軍の将軍たちはあたかも技量の前哨戦を行って自らにこそ勝利の希望があることを示すかのように互いに裏をかき合ったのである。とにかくこの計略でアンティゴノスは敵が先に進むのを妨げる一方で自らの軍を繰り出すための猶予を確保し、軍が到着すると全軍を戦闘隊形につかせて敵に向って荘厳な陣容で前進した。
27 ピトンとセレウコスから送られた援軍を含めてアンティゴノスは全部で二八〇〇〇以上の歩兵、八五〇〇の騎兵、そして六五頭の象を有していた。将軍たちは軍を引き上げる際に異なった陣形を取り、戦術的能力の力量を競った。エウメネスは左翼にインドから象を連れて来たエウダモスを一五〇騎の騎兵部隊と共に、そして前衛として精鋭の槍騎兵五〇騎の二部隊と共に配した。彼は丘の麓にある高地に隣接させて彼らを配し、その隣に将軍スタサンドロスを彼自身の手勢である九五〇騎の騎兵と共に配した。次に彼はメソポタミア太守アンフィマコスを彼に従う六〇〇騎の騎兵と共に配し、その隣には以前はその指揮者はシビュルティオスであったが、彼が逃亡したためにケファロンが指揮官となっていたアラコシアからの六〇〇騎の騎兵がいた。その隣はパロパニサダイからの五〇〇騎の騎兵と、内陸地方の殖民地からの彼らと同数のトラキア人であった。これら全部の正面に彼は四五頭の象を、それらの獣の間の隙間には適度な数の弓兵と投石兵をつけて曲線に配した。エウメネスはこのようにして左翼を強化し、その横にファランクスを配した。この外側〔左翼側〕は六〇〇〇人以上の傭兵から構成され、その隣にいたのはあらゆる諸民族ではあるがマケドニア式に武装した約五〇〇〇人であった。
28 彼らの隣には数では三〇〇〇人以上で、その手柄の有名さが敵の間で恐怖の的になっていた不敗の部隊であったマケドニアの銀楯隊、そして最後にヒュパスピスタイ出身の兵士三〇〇〇人以上を置き、アンティゲネスとテウタモスが彼らと銀楯隊を率いた。彼は全ファランクスの前面に四〇頭の象を配置し、その間の隙間を軽装歩兵で埋めた。彼は右翼に騎兵を配置した。ファランクスの隣には太守トレポレモス率いる八〇〇騎のカルマニア騎兵を、そして〔その隣には〕ヘタイロイと呼ばれる騎兵九〇〇騎と、一つの部隊に編成されていたペウケステスとアンティゲネスの三〇〇騎の騎兵大隊を配置した。その翼の端の外側は同数〔三〇〇騎〕の騎兵を伴ったエウメネス自身の騎兵大隊であり、その前衛はそれぞれが五〇騎の騎兵から成るエウメネスの奴隷の二部隊であり、一方で翼の端は二〇〇騎の選り抜きの騎兵の四部隊に守らせた。れらに加えて、俊敏さと強さのために全ての騎兵部隊の中から選抜された三〇〇騎がエウメネスによって彼自身の騎兵大隊の後ろに配置された。その翼の全部に沿って四〇頭の象が配置された。エウメネスの全軍は歩兵三五〇〇〇人、騎兵六一〇〇騎、一一四頭の象からなった(32)
29 アンティゴノスは高い場所から敵の戦列を見下ろし、それに応じて自軍を配列した。敵の右翼が象と最強の騎兵によって補強されていたのを見て取ると、彼はこれに対して最も軽装備の騎兵を、正面きった戦いを避けて戦術的旋回を行うことで最も信任されていた敵の一部隊を防ぐよう命じて配置した。この翼に彼は旋回機動の実行においてよく鍛錬を積んでいたメディアとパルティアからの弓騎兵と槍騎兵一〇〇〇騎を配置した。その隣に彼は海の方から彼の許にやって来た二二〇〇騎のタレンティネ人を配置し、彼らは待ち伏せの技術のために選抜された兵士であった。彼自身の手勢のフリュギアとリュディアからの騎兵一〇〇〇騎、ピトンの下に一五〇〇騎を、リュサニアスの下に四〇〇騎の槍〔騎〕兵、そしてそれらの全てに加えて「二つの騎兵」と呼ばれた高地地域の植民者たちから編成された八〇〇騎の騎兵を置いた。左翼はそれらの騎兵からなり、ピトンの総指揮の下に置かれた。歩兵については、九〇〇〇人以上の傭兵がまず配置され、その隣に三〇〇〇人のリュキア人とパンヒュリア人が、そしてマケドニア式に武装した八〇〇〇人以上の雑多な兵士が、そして最後にアンティパトロスが王国の摂政に任じられた時に彼に与えたほぼ八〇〇〇人のマケドニア人が配置された。ファランクスに最初に隣り合った右翼の騎兵は雑多な生まれの傭兵五〇〇騎、そしてトラキア人一〇〇〇騎、同盟者からの五〇〇騎、その隣にはヘタイロイとして知られる一〇〇〇騎が、アンティゴノスの息子で、父に伴って初陣で戦っていたデメトリオス指揮の下に配置された。その翼のその側の端にアンティゴノス自身が陣取り、三〇〇騎の騎兵大隊が置かれた。前衛にはそれらを守るために彼自身の奴隷の三部隊が置かれ、彼らと平行してタレンティネ人一〇〇人で補強された大部隊が置かれた。翼の全部の周りに彼は最も強い三〇頭の象を曲線に並べ、その間を選り抜きの軽装歩兵で埋めた。他の象のほとんどを彼はファランクスの前に配置したが、左翼の騎兵の方へ少し配した。彼はこのように兵士を配置した時、斜めに布陣した敵に対して丘を下って進み、彼は最も右翼を信頼していたために右翼を押し出して左翼は進行を遅らせ、左翼には戦いを避けさせ、右翼の戦いで事を決しようとした。
30 軍が互いに接近して双方で信号が上がると兵士たちは交互に鬨の声を上げ、ラッパ手は戦いの合図をした。最初にピトンの騎兵は数と馬の速さでの優位を頼み、その優位を活かそうとした。彼らは象への正面攻撃が安全だとは考えずに翼の周りへと動いて側面攻撃を行い、度重なる弓の射撃によって損傷を与え、彼らはその機動性によって損害を受けなかったものの、その重さによって必要に応じて追うことも後退することもできない獣たちに大損害を与えた。しかし、エウメネスはその翼が多くの弓騎兵によって酷く圧迫されているのを見て取ると、左翼のエウダモスの許から彼のほとんどの軽装騎兵を呼び出した。その側面機動に全騎兵部隊を率いて彼は軽装歩兵とほとんどの軽装騎兵がついていた敵を攻撃させた。象もそれに続いたために、彼は易々とピトンの軍を敗走させて山麓の丘まで追撃した。これが進行しているのと同時に、歩兵のファランクスの戦いではかなりの時間が経過していたものの、両軍多くの損害を出した後に最終的にマケドニア人の銀楯隊の勇猛さによってエウメネス軍が勝利した。その強者たちはすでに老年で、かなりの数の戦いを戦ったために図々しさと技術において際立っており、彼らに対抗して渡り合うことのできる者はいなかった。したがって彼らはその時三〇〇〇人しかいなかったにもかかわらず、言わば全軍の穂先になった。
 左翼と全ファランクスの敗走を知ったものの、アンティゴノスはまだ無傷の部隊を手元に持っており、逃げた兵を集めるために丘に後退して盛り返すことを勧める者の言うことに少しも耳を貸そうとはしなかった。しかしむしろ賢明にも彼は状況によって得られた機会を利用して逃亡兵を救い、勝利を得た。エウメネスの銀楯隊と残余の歩兵部隊は対陣した敵を敗走させて近くにある丘辺りまで追った。そして敵の戦列で割れ目がこのように生じるや否やアンティゴノスは騎兵部隊と共に突撃し、左翼でエウダモスと共に配置された翼の部隊を攻撃した。この攻撃が予期せぬものだったために彼はすぐに彼に対峙していた者を敗走させて多くを殺傷した。その時に彼は最も足の早い騎兵を使いに遣り、彼らを用いて敗走させられていた兵士を呼び集め、丘に沿って再び戦列を作らせた。エウメネスは自軍の〔左翼の〕敗北を知るや否やトランペットの合図で追撃していた部隊を呼び戻し、エウダモスを救助した。
31 〔日が落ちて〕すでにでも火を点けるような時間だったにもかかわらず、双方は逃亡兵を集めて今一度全軍を戦わせようとし、勝利への熱意が将軍たちのみならず多くの戦っていた者たちをも満たした。夜空は晴れ渡って満月によって照らされたため、両軍は平行に互いにおよそ四プレトラの距離を空け、武器の音と馬が鼻を鳴らす音が全て手の届く距離にあるかのようであった。しかし彼らは縦列から横列へと動き、戦いに突入できるだけの距離からおよそ三〇スタディオンの距離を空けていたが、真夜中になると両軍は進軍、戦いでの苦労、そして食糧不足でかなり憔悴していたために戦いを断念し、野営地へと戻ることを余儀なくされた。エウメネスは遺体を手中に収めて議論の余地のない勝利を主張しようと望み、死者を取りに戻ろうとした。しかし、その時の兵士たちは彼の言うことを聞かず、いくらか離れたところにあった自身の荷物の許へと戻るよう喚いて主張したため、彼は大勢の者たちへの譲歩を余儀なくされた。というのも彼と指揮権を争った者が多くいたために兵士を厳しく罰することができず、彼は今は違反者を懲らしめるような時機ではないと悟った。逆に人気取りの必要もないほどに堅固に指揮権を握っていたアンティゴノスは自軍に遺体の近くに陣営を築かせた。そして〔戦死者の〕埋葬の権限を得たために彼は勝利を主張し、遺体を手中に収めることは戦いで勝利したということだと宣言した(33)。この戦いでアンティゴノス軍のうち歩兵三七〇〇人と騎兵五四騎が戦死して四〇〇〇人以上が負傷した。エウメネスの歩兵のうち五四〇人と騎兵のごく僅かが死に、負傷者は九〇〇人以上だった。
32 戦場を離れた後、アンティゴノスは彼の兵士が意気阻喪しているのを見て取り、敵から全速でできるだけ離れることに決めた。撤退の際、軍の邪魔にならないようにと彼は負傷兵と最も重い荷物を近隣の諸都市へと送った。彼は死者の埋葬を夜明けに行い、敵方から遺体の収容を交渉するためにやって来た使者を引き留めた(34)。そして彼は兵士にすぐに食事を摂るよう命じた。その日が暮れると彼は翌日の朝に遺体を撤去するように指示して使者を帰らせたが、彼自身は最初の哨戒時間の初めに全軍で陣営を畳んで軍を進軍させることによって敵に対して長距離を稼ぎ、兵士に補給をさせるために略奪を受けていない地方を我が物とした。実際に彼はピトンの支配下にあって大軍に十分な必要物資を何であれ供給することができた土地であるメディアのガマルガ辺りまで向かった。斥候によってアンティゴノスの出発を知るとエウメネスは彼の兵士もまた食料が欠乏し、大きな困難に苦しんでいたためにアンティゴノスを追うのを差し控えたが、死者を引き取りに向って彼らに壮麗な葬儀を受けさせた。その時にである驚くべき、ギリシアの習慣とは非常に異なった出来事が起こった。
33 インドからやってきた兵士の将軍のケテウスは目覚しく戦って戦死して軍に同行していた一人は新妻で他方は結婚して数年という二人の妻を残したが、二人とも彼を深く愛していた。結婚する男と結婚する処女は親が決めたからではなく互いの納得で結婚するというのがインド人の習慣である。昔は求婚はあまりにも若い人によってなされていたためにしばしば選択を悪い方に翻意し、双方がその行いをすぐに忘れて多くの妻たちは最初に誘惑され、次いで他の男と情を交わすという不貞を行い、最終的には最初に選んだ相手と不名誉な仕方でしか別れることができないので夫を毒殺することになっていた。現にその地方にはこのためには多くの手段があって数多く様々な致死性の毒があったため、そのいくつかはただ食べ物に撒いたり葡萄酒の杯につけさえすれば死をもたらすものであった。しかしこの悪事が流行して多くの人がこのようにして殺されると、インド人はその罪に罰を与えたにもかかわらず、他のやり方では悪事を思いとどまらせることができなかったために妻は妊娠していたり子供を持っていたりする場合を除いて死んだ夫と共に火葬されるべきであり、自分からこの法に従わない者は生きたままやもめになるだけではなく、不浄の者として犠牲の儀式と他の宗教的式典から全面的に締め出されるという法を定めた。その法が定められると、女たちの違法行為は正反対の状態に変化し、〔それをしない場合の〕カーストの大きな低下のために各々は進んで死に、彼女らはまるで自分のことのように夫の安全に気を配っただけでなく、互いに非常に大きな栄誉を争った。
34 この機会にこの競争が現れた。法はケテウスの妻のうち一人だけに彼との火葬を命じているにもかかわらず、両者が葬式に出て勇敢さへの賞品である彼との臨終の権利を争った。将軍たちがその問題を解決しようとすると、若い方の妻は他方の妻は妊娠しており、法的に優位となる理由を持たないと主張した。そして年上の方は自分は正当にも年数において優り、栄誉において優る者、他の全ての事柄において年上の者は尊重と栄誉において若い者に大きく優ると考えられると主張した。将軍たちは助産術の技術を持った者を使って年長の妻が妊娠していることを確かめ、〔火葬を行うのを〕若い方に決めた。このことが起こると決着で負けた方は涙を流して出て行き、頭に被せるつもりだった花冠を引き裂いて髪を掻き毟り、まるで何か大きな災厄に見舞われたかのようだった。しかし他方は勝利を喜んで積み薪へと向って女中が彼女の頭に結んだ髪ひもを頭にかけ、まるで結婚式のように非常に着飾り、彼女の徳を讃える賛歌を歌う親族に送られた。積み薪に近づくと、彼女は装飾品を脱いで家来と友人、ある人の言うところでは、彼女を愛する者たちに形見分けをした。装飾品については、様々な色合いの貴重な石のついた多くの指輪を手にはめ、頭にはあらゆる宝石でできた少なからぬ数の黄金の星が散りばめられており、首には多くの首飾りがあり、そのいくつかは小さく、他のものは〔同心円状に〕次第に少しずつ大きくなっていた。最終的に家族の許を去ると、彼女は兄弟に助けられて積み薪へと上った。その驚くべき奇観を見ようとたくさんの人が集まった一方で、彼女は英雄的な仕方で命に終止符を打った。積み薪に火が点けられる前に武装した全軍がそこを三度回り、彼女自身は夫の傍らに横になって火が点けられる間浅ましく泣くことなく、見守る者の一部には哀れみを、他の者には度を越した賞賛を起こさせた。にもかかわらず一部のギリシア人はその風習を野蛮で残忍であると非難した。
 遺体の葬儀を完了するとエウメネスはパライタケネからまだ略奪されておらず、軍のためのあらゆる物資が十分にあったガベネへと軍を動かした。人の住む地方を通るならば、その地方はアンティゴノスから二五日、水のない砂漠を通るならば、九日の旅程であった。その地方でその距離を踏破したエウメネスとアンティゴノスは越冬し、同時に兵を休ませた。

カッサンドロス対オリュンピアス
35 ヨーロッパでは、ペロポネソス半島にてテゲアを包囲していたカッサンドロスは、オリュンピアスがマケドニアへと帰還し、彼女がエウリュディケとフィリッポス王の殺害者であり、さらに彼の兄弟のイオラスが葬り去られたことを知ると、テゲアの人々と話をまとめて軍を率い、彼の同盟者たちが訳も分からないたままマケドニアへと出発した。ポリュペルコンの子アレクサンドロスは軍を率いてペロポネソスの諸都市への攻撃のために待機していた。オリュンピアスとポリュペルコンを喜ばせようと望んだアイトリア人はテルモピュライを占拠してカッサンドロスの通行を妨げた。カッサンドロスは攻めるに難いこの地方を通らないことに決め、彼は船とはしけをエウボイアとロクリスから得てテッサリアへと〔海路で〕軍を移動させた。ポリュペルコンとその軍がペライビアにいることを知ると、彼はポリュペルコンとの戦いを続行するよう命じて軍を授け、彼の将軍カラスを急派した。しかしデイニアスは通り道を占領するためにオリュンピアスによって送られた兵士と合流すべく向かい、彼らに先んじて隘路を手中に収めた。しかしオリュンピアスはカッサンドロスとその大軍がマケドニアの近くにいることを知ると、アリストヌウス将軍にカッサンドロスと戦うよう命じ、そして彼女自身は以下の者たちを伴ってピュドナに向った。アレクサンドロスの息子、その母ロクサネ、そしてアミュンタス〔三世〕の子フィリッポスの娘テッサロニケ、そしてエペイロス人の王アイアキデスの娘で後にローマと戦ったピュロスの姉妹デイダメイア、アッタロスの娘、そして最後に〔その中には〕オリュンピアスのより大切な他の友人たちの親戚もいた。したがって彼女の下には多くの人々が集まっていたが、そのうち大部分は戦いの役にはほとんど立たない人たちだった。それにかなり長い期間の篭城戦を耐えるだけの十分な食料の蓄えがなかった。それら全ての条件の危険性は明らかであったのに、それでも多くのギリシア人とマケドニア人が海路で彼女を助けに来てくれると思って彼女はそこに居続けた。彼女はアンブラキア人の騎兵と宮廷で仕えるのに慣れていた兵士のほとんど、またポリュペルコンが残した何頭かの象を有していたが、残りの象は先のカッサンドロスのマケドニアへの遠征において彼の手に落ちていた。
36 ペライビアを通ってピュドナの近くへと至ったカッサンドロスは海から海へと柵で囲ってその市を包囲し、海陸からオリュンピアスを包囲しようと企んで彼の同盟者になることを望んだ人たちから船、あらゆる種類の飛び道具と兵器を徴発した(35)。エペイロスのアイアキデス王が軍と共にオリュンピアスを助けるために向っていることを知らされると、彼はエペイロス軍と会戦するよう命じて軍を与え、アタリアスを将軍として送った。アタリアスは迅速に彼の命令を実行し、エペイロスからの通路を占拠することによってアイアキデスを動けなくするのに成功した。そこでエペイロス人の多くは彼らの意志に反してマケドニアへと送られていたために陣営で暴動を起こした。どんな犠牲を払ってでもオリュンピアスを助けたいと思っていたアイアキデスは軍内の不満を持っていた者を解散させ、彼と戦争での運命を共にしたいと思っていた者たちに休息を取らせた。彼は決着がつくまで戦うことを熱望していたにもかかわらず、少数の軍しか残らなかったために敵には敵わないことを悟った。祖国に戻ったエペイロス人は不在の王に対して反乱を起こして追放刑に処す布告を出し、カッサンドロスと同盟を結んだ。このようなことはこの地の王アキレウスの子ネオプトレモスの時代以来エペイロスでは決して起こらなかったことである。その子達は常に彼らの父の権威を継承してこの時に至るまで王として死んでいた。カッサンドロスはエペイロスを同盟者として受け入れてリュキスコスを摂政と将軍として同地に送り、以前よりマケドニアとの同盟に反対していた人々は絶望してオリュンピアスを見限り、カッサンドロスに与した。彼女はポリュペルコンからの助けだけを期待していたが、これもまた予期せず砕け散った。というのも将軍としてカッサンドロスによって送られていたカラスはペライビアでポリュペルコンへと近づいてそこで野営し、賄賂によってポリュペルコンの兵士のほとんどを買収したために残ったのは少数の最も忠実な兵士だけになってしまった。したがってオリュンピアスの希望はすぐに潰えた。

アンティゴノス対エウメネス第三回戦、ガベネの戦い
37 アジアでは、メディアのガダマラで越冬していたアンティゴノスは彼の軍が敵より弱いのを見て取ると、無警戒な敵軍に攻撃をしかけるのが良いと考えた。敵は越冬のために大部分が方々に分散しており、それぞれの他からの距離は六日間の行軍というほどであった。そこでアンティゴノスは長く敵に容易に気取られる道筋であったために人の住んでいる地域を進軍するという考えに賛成せず、その困難さにもかかわらず、彼の計画していた攻撃に最も好都合な水のない砂漠を行くという冒険をすることを決めた。その道ならば素早く向かうことが可能であるのみならず、〔敵は〕彼の動きが気付かずに村々にくつろいで分散していたためにその注意を避けやすく、敵軍に予期せぬ攻撃をかけやすかったからだ。この計画を考えた彼は兵士たちに陣営を畳む準備をして一〇日分の調理の必要がない食料を用意するよう命じた。彼はアルメニアへと軍を向わせようとしているという噂を流した後、冬至の頃(36)に突如として衆目に反して砂漠を渡るという計画を決行した。砂漠のほぼ全域は平坦だったが、遠い所からも火の光を簡単に見渡せる高い丘に囲まれていたため、彼は誰も高台からの火が敵に見つからないようにと、野営地では火は日中に起こして夜間には完全に火を消すよう命令を下した。大いに苦しみつつ軍が五日進軍した後、寒さと切迫した欲求を満足させるために兵士たちは日中にも夜間にも火を点した。砂漠の近くで暮らしていた人々のある者たちはこれを知ると、同日にそれをエウメネスとペウケスタスに知らせる男たちを、ほとんど一五〇スタディオンを続けて旅をすることができたために〔移動手段として〕ヒトコブラクダを与えて送った。
38 道程の半ばに一つの陣営が見つかったことを知るとペウケスタスは方々から同盟軍が集まる前に敵に倒されるのを恐れたため、越冬をしていた地域の最も遠い場所へと後退したいと思った。彼に意気地がないのを見て取るとエウメネスはアンティゴノスの到着を三日ないし四日遅らせる方法を見つけたと言い、勇気を出して砂漠との境に居続けるよう彼に説いた。もしこうすれば彼らの軍は難なく集まるだろうし、その時には完全に憔悴して全てが欠如している敵は彼らの手の内に来るだろう、と付け加えた。皆がこの驚くべき約束に驚嘆して何ゆえに敵の進撃を妨げることができるということが可能なのか知ろうとした一方で、彼は全ての指揮官に彼らの兵士に火を入れた多くの壺に持たせ、彼らと共に自分に続くよう命じた。それから彼は砂漠に面していてあらゆる方向が良く見える高台の場所を選び、周囲七スタディオンの広さ毎に印をつけた。その地域を彼に続いた者の各々に割り当てると彼は彼らに夜の第一哨戒時にはおよそ二〇ペキュスの間隔で火を灯してあたかも兵士たちはまだ起きていて彼らの身の回りの用事と食料の準備をしているかのように明かりをつけ続け、第二、第三の哨戒時には非常に少数〔の兵〕だけを残し〔て火をつけ続け〕、このために離れて見張る敵に対してこれが本物の陣営であるかのように見せかけるよう命じた。兵士たちは指示を実行に移した。羊の群れを向かい側丘に放牧し、メディアの太守ピトンに好意を寄せていた何人かの牧人にそれらの火は目撃された。これが本物の陣営だと信じた彼らは急いで平地へと下っていってアンティゴノスとピトンに知らせた。この予想だにせぬ知らせに驚いた彼らは進軍を中止し、すでに終結してあらゆるものを備えていた敵軍に対し、困難に耐え忍んであらゆるものを必要としていた軍を率いていくのは危険だったため、この知らせをどう活かすべきか話し合った。裏切りが起こって〔そのために〕あらかじめ何が起こったのかを知った敵が集結したのだと信じた彼らは直進する計画を諦めて右折し、苦難の後の軍を休憩させようと、まだ略奪されていない人の住んでいる地方へと向った。
39 このような次第で敵を出し抜いたエウメネスは広く分散し、村々で越冬していた兵士たちを方々から呼び集めた。守りとして柵を立てて深い堀で野営地を強化した後、彼は時折やって来た同盟者たちを迎え入れ、全ての必要物資で野営地を満たした。しかし砂漠を渡ってきたアンティゴノスは、住民から残余のエウメネス軍のほとんどは集結していたが、越冬地を経った象部隊はゆっくりと進んでおり、〔象部隊は彼らの〕近くにいて何の援護もないことを知った。彼は孤立した象部隊を攻撃して易々とこれを制圧して敵の最も強力な要素を奪い、自軍に入れようと望んで、それらへと二〇〇〇騎のメディア人槍騎兵と二〇〇人のタレンティネ人と全ての軽装歩兵を送った。しかし、エウメネスは敵は徒歩だと推測し、救援として騎兵一五〇〇騎と軽装歩兵三〇〇〇人を送った。アンティゴノスの兵士が最初に到着すると、象部隊の指揮官たちは正方形に隊列を整えて進軍し、荷物を真ん中に、背後に象部隊に同行していたせいぜい四〇〇騎から成る騎兵を置いた。敵は彼らに総攻撃を仕掛けて常により激しく圧迫したため、数に圧倒された騎兵は敗走した。しかし象を管理していた者たちは最初は抵抗し、全身傷だらけになろうとも踏みとどまったが、その代わりにいかにしても敵を傷付けることができなくなった。そして、彼らが憔悴すると、エウメネスによって送られた部隊が現れて彼らを危機から救った。数日後、両軍は四〇スタディオンの距離で互いに対陣し、それぞれの将軍は事を決そうとして戦いのために軍を整列させた。
40 アンティゴノスは騎兵を両翼に配置し、左翼の指揮はピトンに、右翼は息子のデメトリオスに任せ、その〔デメトリオスの〕隣で彼自身は戦うことにした。彼は中央に歩兵を配置して全正面にわたって象を展開し、その間の隙間を軽装歩兵で埋めた。彼の軍の総計はメディアから追加で参加した部隊を含めて歩兵二二〇〇〇人、騎兵九〇〇〇騎、象六五頭であった。
 アンティゴノスが右翼に最良の騎兵を自ら率いて陣取ったことを知ったエウメネスは彼に対抗して自らの部隊を配置し、彼の最も優れた部隊を左翼に配した。現に彼はそこに戦いで彼に同行した太守たちのほとんどを選り抜きの騎兵部隊と共に配置しており、自らは彼らと共に戦いに望もうと目論んでいた。またアリオバルザネスの子で、マゴス僧のスメルディスを殺した七人のペルシア人の子孫の一人であり、勇気と子供の頃から戦士として鍛えられたことで際立っていた人物であったミトリダテスの部隊もいた(37)。左翼の正面に彼は曲線状に六〇頭の最も強い象たちを配置して軽装歩兵でその隙間を埋めた。歩兵については、彼は最初にヒュパスピスタイを、次に銀楯隊を、そして最後に傭兵とマケドニア風に武装したその他の兵士を配置した。歩兵の前面に彼は象と十分な軽装歩兵を配置した。右翼に彼はフィリッポス指揮の下に弱い騎兵と象を配置し、彼らには戦いを避けて他の翼での成り行きを見守るよう命じた。この時、エウメネスの軍は全部で歩兵三六七〇〇人、騎兵六〇〇〇騎と象一一四頭であった。
41 戦いの直前に銀楯隊の将軍アンティゲネスは敵のファランクスに近づいて宣言を命じてマケドニア人騎兵を一騎、敵のファランクスへと送った。この兵士は敵に彼の声が聞こえるようにアンティゴノスのマケドニア人のファランクスの場所へと単騎で向かい、「悪漢どもよ、貴様らはフィリッポスとアレクサンドロスの下で全世界を征服した父たちに対して罪を犯そうというのか?!」と叫んだ。そして彼らはその老練兵らが王たち〔の下で戦ったこと〕と彼らの過去の戦いの両方で立派だということが分かっているはずだと短く付け足した。この時、銀楯隊では最も若い者でも六〇歳ほどで大半は七〇歳ほどであり、一部の者はこれよりも年を取ってさえいた。しかし経験と強さのために彼らは敵なしであり、絶えざる戦いを通して獲得された技術と大胆さを持っていた。この宣言が以上のように述べられるとアンティゴノスの兵士たちからは親族や年長者と戦わざるを得なくなったために怒号を上がったが、エウメネスの戦列からは喝采とできるだけ早く敵と戦わせるべきだという要求が起こった。彼らの熱狂を知るとエウメネスはラッパ手に戦闘と全軍に鬨の声を上げる合図をするよう命じた。
42 最初に激突したのは戦象であり、その後が騎兵の主力部隊であった。大きく広がった平地は塩が染み渡っていたために全く耕作されておらず、そのために騎兵によって少しの距離からも何が起こっているの容易には分からなくなるほどの砂埃が舞った。これを見たアンティゴノスはメディア騎兵をタレンティネ人部隊の十分な戦力と共に敵の輜重隊へと送った。実際そうなったことだが、彼はこの機動が砂埃のために見つからず、荷物を奪うことによって労を取らずして敵より優位に立てるだろうと期待していたのだ。その分遣隊は気付かれることなく敵の端を旋回し、戦場から五スタディオンの距離にいた輜重隊を攻撃した。彼らは戦いには役に立たない多くの人と少数の防衛部隊がいたのを見て取ると、すばやく抵抗した者を倒した後に他の全員を捕えた。このことが起こっていた間、アンティゴノスは騎兵の先頭に立って向かいの敵と戦ってペルシア太守ペウケステスを恐慌状態に陥れた。ペウケステスは配下の騎兵と共に砂煙を避けて後退し、同様に他の一五〇〇騎も後退させた。手元に残っていたのは支援を受けていない翼の端の少数の部隊であったにもかかわらずエウメネスは運命に屈して逃げるのは恥辱だと思った。彼は気高い決意で王からの信頼を全うしようとして〔逃げるよりは〕むしろ死ぬことを選び、アンティゴノス向けてと突っ込んだ。激しい騎兵戦が起こり、エウメネスの部下は気迫では勝っていたが、アンティゴノス側は数で勝っており、双方多くの者が倒れた。この時、象部隊も互いに戦っていたが、エウメネスの率いる象は前面に並べられた最も強い象たちと戦った後に敗れた。その後すぐ自軍はどこもかしこもが最悪の状況というわけではないことを知ると、エウメネスは戦っていなかった残りの騎兵を率いて他の翼〔右翼〕へと旋回し、そこでフィリッポスに任せて戦いを避けるよう命じていたそれらの部隊の指揮を執った。これが騎兵戦の結果である。
43 歩兵では、密集隊形の銀楯隊が敵に激しく襲い掛かって一部を次々と殺して他を敗走させた。彼らの突撃を敵の全ファランクスは支えることができず、技術と強さでの優越を示して一人も失うことなく彼らは敵兵五〇〇〇人を殺して歩兵の全軍を敗走させた。輜重隊が奪われたものの、ペウケステスの騎兵部隊が遠からぬ位置にいたのを知るとエウメネスは全ての騎兵を集めてアンティゴノスとの騎兵戦を再開しようとした。もし戦いで優位に立てば彼自身の荷物を確保できるのみならず、敵のそれを奪取できるものと彼は睨んでいた。しかしペウケステスは彼の言うことを聞かず、それどころかある川よりもっと先へと退却し、さらにまた夜になろうとしていたためにエウメネスはその〔ともすれば勝てそうな〕状況を放棄せざるを得なくなった。アンティゴノスは騎兵部隊を二分してその一つで自らエウメネスの〔次なる〕動きに対して待機した。他方をピトンに与えて騎兵の支援から切り離されていた銀楯隊を攻撃するよう命じた。ピトンが即座に命令を実行に移すと、そのマケドニア人らは方陣を組んで川まで無事に撤退し、そこで彼らは騎兵の敗北に責任ありとしてペウケステスを非難した。松明を焚く頃にエウメネスが彼らと合流した後、彼らはどうするべきか相談した。なるほど太守たちは可能な限り早く高地太守領へと撤退する必要があると言ったが、敵のファランクスは粉砕されて騎兵戦力は互角であったため、エウメネスは留まって戦うべきだと述べた。しかしマケドニア人ら〔銀楯隊〕は彼らの荷物と妻子と他の多くの縁者が奪われて敵の手の内にあったために〔エウメネスと太守たちの〕どちらの派の言う通りにするのも拒んだ。話し合いはしたがって全員の同意を得た何かしらの計画を受け入れることなしに物別れに終わり、マケドニア人は密かにアンティゴノスとの交渉に入り、エウメネスを捕えて引き渡して荷物を取り返すことにして、誓約を受け入れた後にアンティゴノス軍に入った。同じ様にして太守と他の将兵らは自らの安全だけを考えて彼らの将軍を見捨てた。
44 思いがけずエウメネスと自らに対立していた全軍をを手中に収めた今、アンティゴノスは銀楯隊の指揮官のアンティゲネスを捕えて穴に落とし生きたまま焼き殺した。彼はインドから象を連れて来たエウダモス、ケルバノス、彼にいつも敵対していた同じような他の幾人かを殺した。実際に優れた将軍であり、親交もあったエウメネスを召抱えることを彼は望んだが、エウメネスのオリュンピアスと王たちへの忠誠のために彼の約束をほとんど信用していなかった。事実、以前エウメネスがアンティゴノスによってフリュギアのノラで容赦された時にもなお彼は心から王たちを支持し〔てアンティゴノスに与しなかっ〕た。アンティゴノスはマケドニア人たちのエウメネス処刑への熱望を受け流せないこともまた知っており、彼を殺すことにした。しかしかねてからの友情のために彼はその遺体を火葬して骨を骨壷に納めた後に縁者へ送った。負傷者のうち捕虜であり、今まで常日頃エウメネスによって敬意を表されていたカルディアの歴史家ヒエロニュモスもまたそちらへ送られており、彼はエウメネスの死後アンティゴノスの好意と信頼を勝ち得た。
 アンティゴノスはメディアに全軍を向かわせた後、自らはこの地方の都であったエクバタナ近くの村で冬を過ごしたが(38)、全太守領の至る所、とりわけ昔に起こった災害からこの名前が来たラガイと呼ばれた地方に兵士を配分した。世界の全ての土地の中でそれらの都市は最も人が多く繁栄していたが、あまりにも酷い地震を経て都市と全ての住民の両方が消え、全ての土地は変容して新たに川と沼の湖が代わりに現れていたのだ。

ロドスでの洪水
45 この時にロドス市で三度目の洪水が起こって住民の多くが死んだ。それらの洪水については、最初のものは都市が新たに建てられていたばかりであったために多くの空き地があったおかげで住民にはほとんど被害を与えず、二度目にはより大きくより多くの人が死んだ。最後の洪水は春先に起こって〔ロドス市は〕信じがたい大きさの霰を伴った突然の激しい暴風雨によって直ちに破壊された。実際その霰は一ムナあるいは時折それ以上の重さで降ってきて、その重さによって多くの家が壊れて少なからぬ数の住民が死んだ。ロドスは劇場のような形をしていたために嵐は一つの地域へ主として向きが逸れたため、市の下部は直ちに洪水になった。冬の雨季はもう終わったものと考えられていたために排水はなおざりになっていて都市の壁を通る水管の穴は詰まった。突然増えた水は市場とディオニュソスの神殿の全地域を水浸しにし、時すでに洪水はアスクレピオスの神殿まで進んでおり、全ての住民は恐怖に襲われて様々な仕方で安全を得ようとした。幾人かは船で逃げて他の者は劇場まで走った。惨禍によって動転した人々はいよいよ困って最も高い祭壇と像の土台に登った。市とその全ての住民が全員滅亡するのではないかという危険に遭った時に一つの助けが来訪れた。広範囲にわたって城壁が崩れたために閉じ込められた水はこの開いた所から海へ流れ、各人はすぐに再び前の場所へ戻った。日中に洪水になったことは危険に晒された人々に利し、大部分の人は家から都市の高いところに逃げた。その上、家々は日干し煉瓦ではなく石でできていたために屋根の上に非難した人々は無事だった。それでもこの大災害で五〇〇人以上が死に、いくつかの家が全壊し他は倒壊した。
 ロドスを襲った災害は以上のようなものであった。

アンティゴノスの戦後処理
46 メディアで越冬していたアンティゴノスはピトンが約束と贈り物によって越冬地の多数の兵士の支持を勝ち得、そして謀反を企てていることを知ると、自らの意図を隠しつつも報酬を分配されていた者たちを信じていないように見せかけて多くの人に聞こえるように彼らを叱責して〔彼らとの〕友情を壊し、ピトンを高地太守領の安全のために十分な兵士をつけて同地の将軍として留め置こうとしているという噂を広めさせた。彼は早晩海の方へと移動をするつもりであるので〔それに間に合うように〕必要事項を直々に話し合いたいとピトン自身に可及的速やかに来るよう頼む手紙を書きさえした。ピトンに真実を疑わせまいとして彼は太守として留任させるつもりだと思いなすよう彼を説得しようとし、この計画を考案した。アレクサンドロスの下での仕事における功績から出世し、まさにその時メディアの太守であり、全軍の支持を得ていたこの男を無理矢理に捕縛するのは容易なことではなかった。メディアの最も離れた場所で越冬していたピトンは既に反乱への参加を約束した多数の者たちを買収していたが、彼の友人たちは彼にアンティゴノスの計画についての手紙を書いてアンティゴノス自身の大仰な策謀をほのめかしたが、ピトンは空約束への期待に騙されてアンティゴノスの許へとやってきた。後者は彼の者の身柄を押さえるや審議会の成員と相談する前にピトンを告発し、易々と有罪判決を下してすぐに処刑した。そして軍を一つの場所に集めた彼はメディア人のオロンタバテスをメディア太守に、将軍のヒッポストラトスを三五〇〇人の傭兵の歩兵部隊の指揮官に任命した。アンティゴノス自身は軍をエクバタナへと移動させた。そこで彼は五〇〇〇タラントンの鋳造されていない銀を得て、次いでペルシアへと軍を率いて行って約二〇日かけてペルセポリスと呼ばれているその都へと進軍した。
47 アンティゴノスが進軍していた一方で、ピトンの陰謀に関わっていたピトンの友人たちは、その最重要人物はメレアグロスとメノイタスであったのだが、散り散りになっていたエウメネスとピトンの同志を集めて八〇〇騎の騎兵にもなった。まず彼らは反乱への参加を拒んだメディア人たちの領地まで急ぎ向ったが、ヒッポストラトスとオロンタバテスが無警戒に野営しているのを知ると、この野営地へと夜襲をかけた。彼らの計画はうまくいってある程度の数の兵士を彼らの党派に引きずり込んだものの、その後に数で勝る敵に圧倒されて退却を余儀なくされた。彼らは重装備をしておらず全員が馬に騎乗していたためにその襲撃は予想外であり、その地方は混乱に陥った。しかし少し後に彼らは絶壁に囲まれた近くの場所で包囲され、そこで一部は殺されて他は生け捕りにされた。指導者の位にあったメレアグロスとメディア人のオクラネス、そしていくらかの際立った者たちは抵抗戦の際に殺された。
 これがメディアでの反乱の顛末である。
48 ペルシアに入るやアンティゴノスは住民によってあたかもれっきとしたアジアの主であるかのような王たるに相応しい権威を認められ、そして彼自身は友人たちと相談して太守領の問題を考えた。アンティゴノスは彼らは住民を良く治めていて多くの支持者がおり、手紙を送ることによって異動させるのは簡単ではないためにトレポレモスにカルマニアを、同様にスタサノルにバクトリアを保持するのを許した。彼はエウイトスをアレイアに送ったが(39)、エウイトスはその直後に死に、勇気と明敏さの両方を買われていたエウアゴラスをその地位に据えた。アンティゴノスは長期の遠征と強力な軍なしに移転させることができなかったためにロクサネの父オクシュアルテスに以前のようにパロパニサダイの太守領を保持することを許した。
 アンティゴノスはアラコシアから彼に好意を持っていたシビュルティオスを召喚して太守領の保持を許し、そして表向きは戦争に役立つだろうということにしたが、実はその破滅を確実なものにしようとして最も凶暴な銀楯隊を彼に委ねた。そして彼は太守に彼らが必ず死ぬような任務に少しずつ送るよう個人的に命じた。彼らのうちでエウメネスを裏切った者には即刻彼らの将軍への裏切りの処罰が下された。邪悪な行動は君主たちの権力の故に真に彼らに有用であるが、ただ命令に従うだけの私人にとってそれらは通常は大悪の元である。
 今やアンティゴノスはペウケステスがペルシア人からかなりの支持を得ていることに気付くと、いの一番に彼から太守領を取り上げた。ペルシア人たちは怒って彼らの指導者の一人テスピオスはペルシア人は他の誰にも服従しないと率直に言いさえした。アンティゴノスはこの男を殺して十分な数の兵士を与えてアスクレピオドロスをペルシアの支配者に据えた。ペウケステスに関して、アンティゴノスは彼を他の事柄での希望を持たせて無益な期待を膨らまさせた後にその地方から離れさせた。スサへの途上であった間にアンティゴノスはスサの宝物の管理者で、アンティゴノスのあらゆる命を遂行するという命令を携えてセレウコスによって送られたクセノフィロスによってパシティグリス川で出迎えられた。アンティゴノスは彼を迎えて親しい友人たちの中で彼に敬意を表するふりをし、彼が再び心変わりをせず、彼を締め出さないように警戒した。スサの城砦を手中に収めた時にそこでアンティゴノスは黄金の木と一五〇〇〇タラントンの重さになる多くの他の芸術品を見つけた。王冠と他の贈り物、略奪品を売却した多額の金が彼の共に集められ、五〇〇〇タラントンにも上った。そしてスサの宝物庫とは別にメディアでも同じだけの財物があり、全てで二五〇〇〇タラントンが集められた。
 以上がアンティゴノスの状況であった。

オリュンピアスの最期
49 アジアでの出来事の説明を終えた今、我々はヨーロッパへと注意を向けて前に述べた出来事の続きに向うべきだろう。カッサンドロスはオリュンピアスをマケドニアのピュドナに封じ込めたにもかかわらず、冬が来たために攻撃をかけることができなかった。しかし彼は市の周りに野営して海から海へと柵を立てて港を封鎖し、王妃を助けようとする者たちにそれをできないようにした。そして物資がすぐに尽きたために完全に無力になった彼ら〔オリュンピアスたち〕を彼は飢えさせた。事実、彼らは月に五コイニクスの穀物を各々の兵士に与えるというほどの甚だしい欠乏に迫られており、木をのこぎりで切ってそのおがくずを閉じ込めていた象たちに食べさせ、輸送用の動物と馬を食べるために屠殺した。市の状況がかくも深刻だった一方でオリュンピアスは未だに外から助けが来る望みにしがみついており、食糧不足のために象たちが死に、その〔馬を失って騎兵という〕階級ではなくなった騎兵はほぼ全員が罰を受けようとも歩兵になるのを受け入れず、少なからぬ兵士もまた同じ運命を辿った(40)。非ギリシア人の一部は彼らの自然的欲求が良心に打ち勝ったために死体を集めて食べられる肉を探した。その市はすぐに死体で満たされ、女王の友人たちの家来たちは死体の一部を埋葬し、他を市の城壁へと投げた。その光景は悲惨で、女王の宮廷にいて贅沢にふけっていた婦人のみならず、苦難に慣れていた兵士でさえその悪臭は耐え切れないほどであった。
50 春が来て日に日に入用な物が増えてくると、多くの兵士は集まり、物資の欠如のためにオリュンピアスに彼らを率いて〔打って出て〕くれるよう求めた。彼女には全く食料の配給も包囲の打破もできなかったため、彼女は彼らに退去を許した。脱走兵の全員を迎え入れて最も友好的な態度で彼らを扱ったカッサンドロスは彼らを様々な都市へと送った。というのも、彼は、マケドニア人が彼らからオリュンピアスがいかに弱体になっているかを知ると、彼らは自らの目的を絶望するだろうと期待していたからだ。そして、彼は出来事に対する推測を誤らなかった。篭城軍の側で戦うと決めていた者たちは心変わりしてカッサンドロスの許へ走った。そしてマケドニアで唯一忠誠心を保っていたのはアリストヌウスとモニモスだけになり、アリストヌウスはアンフィポリスの、モニモスはペラの支配者であった。しかしオリュンピアスは彼女の友人たちのほとんどがカッサンドロスの許に走り、残った者たちは彼女を助けるのには十分な力を持っていないことを知ると、五段櫂船を進水させてこれによって自らとその友人たちを救い出そうとした。しかし脱走兵がこの試みを敵へと知らせ、カッサンドロスが出航してその船を拿捕すると、現状には希望がないことを悟ったオリュンピアスは〔降伏の〕条件を扱う使者を送った。カッサンドロスが彼女は彼に全てを委ねるべきだという意見を伝えると、彼女は彼に自身の身柄の安全を保障するという一つの例外〔の条件〕を認めるという困難な説得をした。彼は〔ピュドナ〕市を手中に収めるとすぐにペラとアンフィポリスを引き継ぐために部下を送った。さて、ペラの支配者のモニモスはオリュンピアスの運命を聞くと市を明け渡した。しかし当初、アリストヌウスは多くの兵士を有し、成功を最近勝ち得ていたので彼の地位に固執した。この数日前のことであるが、カッサンドロスの将軍クラテウアスとの戦いで彼は向ってきた者のほとんどを殺傷し、この時クラテウアス自身と二〇〇〇人をベデュンディア、ビサルティアへと敗走させ、アリストヌウスはクラテウアスを〔逃亡先の町の〕包囲戦で捕え、軍を去らせた後に協定の下で去らせていたのだ。この事とエウメネスの死を知らなかったことによって自信を得ていたアリストヌウスはアレクサンドロスとポリュペルコンが自分を援助してくれると信じてアンフィポリスの引渡しを拒んでいたのだ。しかしオリュンピアスが彼に〔彼女に対する〕忠誠を求めて引渡しを命じる手紙を書くと、彼は自身の安全の担保のために命令に従い、カッサンドロスに市を引き渡す必要があると知った。
51 アリストヌウスはアレクサンドロスによって昇進されられていたために尊敬されていたことを見て取ったカッサンドロスは、反乱を指導することができる者が出てくるのを心配し、クラテウアスの親族を通して彼を殺した。また、彼はオリュンピアスをマケドニア人の一般総会で告発するためにオリュンピアスが殺した者たちの縁者を持ち出し、彼らは彼の命じたようにした。オリュンピアス不在のまま彼女の弁解を聞かずにマケドニア人たちは彼女に死を宣告したが、カッサンドロスは自身の数人の友人をオリュンピアスの許に送り、密かに逃亡するよう勧め、彼女のために船を提供してアテナイへと送ることを約束した。かくして彼は彼女の身柄を安全にするためではなく彼女に亡命を強いて途上で殺し、相応しい罰を下そうとしために行動を起こしたのである。彼女の身分とマケドニア人の移り気ために彼は慎重に事を進めたのだ。しかし、オリュンピアスは逃げることを拒んで逆に全てのマケドニア人の前で裁かれる準備をしたため、カッサンドロスはもし聴衆が王妃の弁明を聞いてアレクサンドロスとフィリッポスによって全ての国人に授けられた恩の全てを思い出せば、聴衆は心変わりするだろうと恐れ、可及的速やかに彼女を殺すよう命じ、そのような任務に最も適していた二〇〇人の兵士を彼女の許に送った。かくして彼らは王宮に押し入ったが、オリュンピアスを見ると彼女の高貴な身分に威圧さて任務を果たさずに引き上げた。しかし彼女による犠牲者の縁者たちは彼女に仇を討つのと同じ位カッサンドロスの機嫌を取りたいと思ってこの王妃を殺し、彼女は何ら卑しいあるいは女らしい懇願もしなかった。
 その時代、最高の尊厳を有し、エペイロス人の王ネオプトレモスの娘であり、イタリア遠征を行ったアレクサンドロスの姉妹であり、この時ヨーロッパを支配していた者の中で最強であったフィリッポスの妻、その事績は最も偉大で最も栄光あるものであったアレクサンドロスの母でもあったオリュンピアスの最期は以上のようなものであった。
52 カッサンドロスについていえば、彼の目論みは成功裏に終わって彼はマケドニア王国を望み始めた。このために彼は王家との繋がりを作ろうと望んでフィリッポスの娘でアレクサンドロスの腹違いの姉妹であったテッサロニケと結婚した。また、彼はパレネに彼の名を取ってカッサンドレイアと呼ばれる都市を建設し、それと半島の諸都市、ポテイダイアおよびかなりの数の隣接する町々を一つの都市に合併させた。また彼は残存していた少なからぬオリュントス人をその都市に住まわせもした(41)。広大であまりにも良い土地がカッサンドレイアの境界内には含まれており、そしてカッサンドロスはその都市を強化する野心を持っていたため、それはすぐに大いに発展してマケドニア最強の都市になった。カッサンドロスは〔自分以外の〕王国の後継者を消そうとし、アレクサンドロスの息子とその母ロクサネを殺そうと決めた。しかし目下、彼はオリュンピアスの殺害について一般の人々の世論を知ろうと望み、そしてまたアンティゴノスの勝利の知らせを知らなかったためにロクサネとその子を保護下に置いて彼らをアンフィポリスの砦へと移し、自らの最も信頼する手下の一人グラウキアスの管理下に置いた。また彼はお付きの給仕として躾けられていた小姓たちを習慣通りに去らせ、最早王として扱わずにに私的な身分の普通の人に相応しいように扱うよう命じた。この後、王国の問題の取り仕切りにおいて既に王として振舞っていた彼は王妃と王であるエウリュディケとフィリッポス〔三世アリダイオス〕、そしてアルケタスが殺したキュナの葬儀を王家の慣習通りアイガイで執り行った。追悼競技祭で死者に敬意を表した後、かねてよりペロポネソス遠征を決定していた彼は軍務に適したマケドニア人たちを軍に入れた。カッサンドロスがその問題に当たっていた一方で、ポリュペルコンはペライビアのアゾリオスで包囲されていたが、オリュンピアスの死を聞くと、ついにマケドニアでの勝利に絶望して少数の仲間のいる都市へと逃げた。テッサリアを経ってアイアキデスによって率いられていた兵士を引き継いだ彼は、そこでは最も安全に待機でき、その場所で状況の趨勢を見守ることができると信じ、アイトリアへと引いた。それというのも、たまたま彼はこの人々とは友好的であったのだ。

テバイ再建
53 十分な軍を集めた後にカッサンドロスはペロポネソス半島からポリュペルコンの子アレクサンドロスを駆逐せんとしてマケドニアを発った。というのもカッサンドロスの敵対者のうちで彼だけが軍と共に残存し、戦略上重要な諸都市と地域を占めていたからだ。カッサンドロスは無傷でテッサリアを抜けたが、テルモピュライの通路がアイトリア軍によって守られているのを見て取ると、彼は苦労して彼らを駆逐してボイオティアに入った。全ての方面より生き残っていたテバイ人を呼び寄せた彼はテバイを再建した。というのも彼は今こそ言い伝えられている事績と神話の両方によって広く知られていた都市を建設する最も素晴らしい機会だと思ったからだ。そして彼はこの情け深い行いによって不朽の名誉を得るだろうと考えた。事実、この都市は非常に多くの運命の変転を経ており、少なからぬ機会に破壊されていた。ここでその主要な歴史的出来事を述べるのは不適当ではなかろう。デウカリオンの頃に起こった洪水の後、カドモスが彼の名を取ったカドメイアを建設し、そこに彼と共に方々からスパルトイと呼ばれた人々が来て、そして元々はテバイにいたが洪水に追われて散り散りになった他のテバイ生まれの人たちが集まってきた。ともあれ、その人々はその市に住み着いたが、その後に戦争でエンケレイに敗れて追い出され、カドモスと彼の仲間たちもイリュリアへと追われた。後にアンフィオンとゼトスがその土地の支配者になり、彼らはまず、「彼らは最初に七つの門のテバイを建てた」と詩に詠われているように低地に都市を建設した。
 カドモスの子ポリュドロスが帰還し、アンフィオンに彼の子供に降りかかった不幸のため、現状に不満を抱いていたポリュドロスによってこの地の住民は二度目の追放に遭った(42)。次いで、ポリュドロスの子孫たちが王になったが、すでにその時にはその地方の全域がメラニッペとポセイドンの子でその地方の支配者のボイオトスにちなんでボイオティアと名付けられていた。そしてアルゴスから来たエピゴノイが市を包囲して陥落させたためにテバイ人は三度目の追放に遭った。追われた者の生き残りはアラルコメニアとティルフォシオン山に避難したが、アルゴス人が去ると生まれた市に戻った。その後、テバイ人はトロイア戦争のためにアジアへ渡り、後に残された者はペラスゴイ人によって残りのボイオティア人もろとも追われた。その後、彼らは多くの不幸に遭ったが、第四世代のみが〔それ以前のテバイ人と〕唯一異なり、ワタリカラスの予言にしたがってボイオティアに戻ってきてテバイを再建した。その時からその市は八〇〇年近く続き、最初にテバイ人はそれらの人々自身〔ボイオティア人〕の指導者になり、フィリッポスの子アレクサンドロスが市を強襲して占領して破壊するまでギリシアの覇権を争った。
54 二〇年来栄誉を渇望していたカッサンドロスは、まずボイオティア人の支持を得た後に生き残っていたテバイ人のために市を再建した。ギリシアの都市の多くはその不幸な人たちに対する哀れみとその市の栄光の両方から移住に手を貸した。例えば、アテナイ人は城壁の大部分を再建してやったし、ギリシアだけでなくシケリアとイタリアのその他のギリシア人も力の範囲内で建物を建て、他は逼迫した需要のための金を送った。このようにしてテバイ人は市を回復した。
 カッサンドロスへと〔話を〕戻すと、彼はペロポネソス半島へと軍を率いて出発したが、ポリュペルコンの子アレクサンドロスがイストモスを警護兵で封鎖していたのを知ると、メガラへと転進した。そこで彼はエピダウロスへとはしけを作って象を運び、小船で残りの軍を運んだ。アルゴス人の都市に来ると、彼はアレクサンドロスとの同盟を破棄させて彼と手を組ませ、イトメを除いたメッセニアの諸都市を味方にした後、交渉によってヘルミオニスを得た。しかし、アレクサンドロスが戦いに応じなかったため、モリュコス指揮下の二〇〇〇人の兵士をイストモスの端からゲラネイアに残してマケドニアに帰った。

セレウコスの逃亡と第一次対アンティゴノス同盟
55 この年が終わった時、アテナイではプラスクシブロスがアルコンであり(43)、ローマではナウティウス・スプリウスとマルクス・ポプリウスが執政官だった(44)。彼らが任にあった間、アンティゴノスは現地人のアスピサスをスシアナの太守として残し、〔地中〕海へと全財産を移すことを決めて荷馬車とラクダの準備をして宝物を運ばせ、軍と共にバビュロニアへと向った。二二日かかって彼はバビュロンに到着し、その地方の太守セレウコスは王に相応しい贈り物で彼に敬意を表して全軍をもてなした。しかし、アンティゴノスが歳入の説明を要求すると、セレウコスはアレクサンドロスが生きていた頃の自分の功労を認めてマケドニア人が彼に与えたこの地方での彼の運営の正式な調査をするつもりだと答えた。口論は日に日に深刻になったため、ピトンの運命を慮ったセレウコスは、アンティゴノスはそのうち口実を得て彼を滅ぼそうと企てるのではないかと恐れた。というのも、アンティゴノスは高位にあり、支配権の割り当てを主張できるだけの彼の全ての仲間を遠ざけようと熱心なようであったからだ。したがってこれを避けるために彼はエジプトへと退去しようとしてプトレマイオスの許へ五〇騎で逃げた。というのもプトレマイオスが彼の許へ逃げ込んだ者に対しては情け深く誠実で、親切であることは周知の事実だったからである。逃亡を知ると、友人であり活発に共同作戦をとっていた男に荒っぽい手を使う必要がなく事が済んだためにアンティゴノスは喜び、セレウコスの方は亡命を強いられたことで戦いも危険も冒すことなく太守領を手放すことになった。しかしカルデアの占星術師たちがアンティゴノスの許に来て、もしセレウコスが彼の許から逃げるに任せるならば、その結果、全アジアがセレウコスに服属し、アンティゴノス自身は彼との戦いで命を落とすことになるだろうと予言した。これを聞いたアンティゴノスは彼の以前の行いを悔やんでセレウコスを追うべく部下を送ったが、ある程度の距離彼を追った後に彼らは任務を果たせずに戻った。アンティゴノスは他の時には予言の類を軽蔑するのが常であったが、この時には少なからず悩み、彼らはかなりの経験を積んでいて最も正確な星の観察を行うものと評されていたために占星術師たちの評定によって〔アンティゴノスは〕睡眠を阻害された。現に彼らは幾年もの間その事柄についての研究が彼らの間で推し進められてきたのかを示していた。また、彼らは、バビュロンに入ればアレクサンドロスは死ぬだろうということを予言したとも信じられていた。アレクサンドロスについての予言の場合のように、セレウコスに関してこの予言もまた彼らの言った通りになり、的中した。このことについてはしかるべき時代に来た時に我々は詳細に述べるつもりである。
56 エジプトに無事到着したセレウコスはプトレマイオスからの好意の他に〔具体的な援助などは〕何も得なかった。高位の人物、とりわけアレクサンドロスに仕えた者全員を太守領から追い出そうとアンティゴノスは決めたのだと言って彼は激しくアンティゴノスを非難した。この例として彼はピトンの殺害、ペルシアからのペウケステスの解任、そして彼自身の体験を述べた。なんとなれば、罪がなく、友情のために大きな功労をなしたそれら全員は徳を評価されるのを辛抱強く待っていたのである。また彼はアンティゴノスの武力の強大さ、莫大な富、そして彼の最近の勝利を再検討し、その結果、彼は尊大になってマケドニア人の全王国を併呑するという野心的な計画を抱いていることを悟った。そのような論拠で彼はプトレマイオスに戦争の準備をするよう説き、似た話でカッサンドロスとリュシマコスをアンティゴノスの敵とするように指示してヨーロッパへと友人たちを送った。彼らはすばやく命令を実行に移し、争いと大戦争の種を育てた。しかしセレウコスが続いてとる行動を可能性から推論したアンティゴノスはプトレマイオス、リュシマコス、そしてカッサンドロスに使者を送って友好を維持するよう求めた。次に彼はインドから来たピトンをバビュロニアの太守とし、自身は軍を率いてキリキアへと進撃した。彼はマロスに到着し、オリオンが沈んだ後に越冬のために軍を分散させた(45)。また、彼はキュインダで一〇タラントンの金を得た。これとは別に彼は年に一一〇〇〇タラントンの歳入を得ていた。そのために軍の規模と富の量のために彼は〔他の将軍たちにとって〕恐るべき競争相手であった。
57 アンティゴノスが高地シュリアへと向かっていた間、プトレマイオスからの使者がリュシマコスとカッサンドロスの許に到着した。彼らは会談して自分たちも〔対エウメネス〕戦争で負担を負ったとしてカッパドキアとリュディアはカッサンドロスに、ヘレスポントス・フリュギアはリュシマコスに、全シュリアはプトレマイオスに、バビュロニアはセレウコスに与えられるべきであり、アンティゴノスはエウメネスとの戦いの後に手にした財を分配すべきであると要求した。彼らはもし彼がそれらを何もしなければ、彼に対して一致団結して戦争を起こすだろうと言った。アンティゴノスは幾分か厳しい答えを述べて彼らに戦争の準備をせよと言い、その結果、使者は任務を遂行できずに去った。そこでプトレマイオス、リュシマコス、そしてカッサンドロスは互いに同盟を結んだ後、軍を合体させ、武器、投擲兵器、そして他の必要物資の貯蔵の準備をした。しかしアンティゴノスは多くの評判の良い者たちが彼に対して連合しているのを見て取ったため、生じる戦争の大きさを計算し〔て大規模なものとなると予想し〕、諸民族、諸都市、そして彼と同盟を結んでいる支配者たちを召還した。彼はアゲシラオスをキュプロスの諸王の許へ、イドメネウスとモスキオンをロドスへ、そしてアミソスを包囲してカッパドキアへとカッサンドロスによって送られた軍の全てを追い払い、最終的にヘレスポントスを占領し、もしカッサンドロスがヨーロッパから渡って来ようとするならば、彼を待ち構えさせるべく甥のプトレマイオスを軍と共にカッパドキアへと送った。彼はアレクサンドロスとポリュペルコンと友好を樹立し、十分な傭兵軍を設えた後にカッサンドロスとの戦争に着手するよう指示してミレトスのアリストデモスを一〇〇〇タラントンを持たせてペロポネソスへと送った。彼自身は全ての事業においてすばやく情報を伝えることができるだろうと予測して支配下に置いているアジアの全部中あちこちに火信号と飛脚の体制を整えさせた。
58 それらの事柄に対応した後、アンティゴノスは海軍を建造するためにフォイニキアへと急いだ。というのも彼の敵は多くの艦船でもって海を支配していたが、彼はほんの僅かしか艦船を有していなかったからだ。フォイニキアの古市テュロスに野営して新市テュロスを包囲しようと目論んだ彼はフォイニキア人の王たちとシュリアの代官たちを召集した(46)。プトレマイオスがエジプトでフォイニキアの出の乗組員付きの艦船の全てを有していたため、アンティゴノスは王たちに艦船を建造して自分を支援するよう指示した。彼は代官たちに四五〇万メディムナの小麦…〔欠損〕…(47)を速やかに準備するよう命じたが、それは〔軍の?〕年間の消費量であった。彼自身はあらゆる方面からきこり、木挽き、そして船大工を集めてレバノンから海まで木を輸送した。八〇〇〇人の男が材木を切断して鋸で切る作業に、一〇〇〇組の荷を引く獣がその輸送に従事した。この山脈はトリポリス、ビュブリス、そしてシドンといった地方に広がっており、大変美しく良い大きさの杉と糸杉で覆われている。彼は三つの造船所をフォイニキア――トリポリス、ビュブロス、そしてシドン――に、キリキアに四つ目の造船所を作り、タウロスから材木を運んできた。〔造船所は〕もう一つロドスにもあり、その国は輸送された材木から船を作ることに合意していた。アンティゴノスが海の近くに野営した後にそれらの事柄に忙殺されていた間、セレウコスは立派に装備を施されて上手く航行していた一〇〇隻の船団と共にエジプトに到着した。彼はその陣営を見下しながら航行したため、同盟都市からの兵士とアンティゴノスと共同作戦を取っていた皆は落胆した。というのも、敵は海を支配していたため、彼らはアンティゴノスへの友好的から彼を支援する陸地を略奪するだろうことは明白だったからだ。しかし、アンティゴノスは夏には五〇〇隻の船で海を奪取できるだろうと主張して勇気を出すよう彼らに言った。
59 このような事柄が進行していた間、ニコクレオンと〔キュプロス島の〕他の最も強力な王たちがプトレマイオスと同盟を結び、キティオン、ラピトス、マリオン、そしてケリュネイアの王たちが彼と友好条約を結んだという報せを携えてキュプロス島に送られていた使節のアゲシラオスが到着した。これを知るとアンティゴノスはアンドロニコスの指揮下に包囲戦を続行させるために三〇〇〇人の兵士を残したが、自らは軍を率いて出発してイオペとガザといった服従を拒んだ諸都市を強襲によって落とした。捕らえたプトレマイオスの兵士を彼は自らの軍に配属したが、住民を彼に従わせるためにそれぞれの都市に守備隊を配置した。次いで彼自身は古市テュロスで野営するために戻り、包囲の準備をした。
 この時、エウメネスに信任されてクラテロスの遺骨を引き受けていたアリストンはそれを葬儀のために以前はクラテロスの妻だったが今はアンティゴノスの息子デメトリオスと結婚していたフィラに渡した。この女性はずば抜けて賢い女性であり、例えば彼女は軍の動揺を静め、戦争で貧しくなった姉妹と娘たちの結婚の世話をし、〔彼女のおかげで〕多くの人は無罪で起訴されるという危険からは解放された。彼女の父で彼の時代の最も賢い支配者であると評されていたアンティパトロスはフィラがまだ子供だった頃に最重要事項について彼女と相談していたとさえ言われていた。〔以降で〕進展する私の話、デメトリオスの変転と統治に対する最終的な危機をもたらした出来事によってその女性の性格は明らかになるだろう。
 アンティゴノスと、デメトリオスの妻フィラに起こった事態は以上のようなものであった。
60 アンティゴノスによって送られた将軍たちに関していえば、スパルタ人から傭兵を徴募するという任を受けたアリストデモスはラコニアへと航行してペロポネソス半島から八〇〇〇人の兵士を徴募した。アレクサンドロスとポリュペルコンと会談して彼は彼らとアンティゴノスとの友好を樹立した。彼はポリュペルコンをペロポネソス半島の将軍に任命し、アレクサンドロスをアジアのアンティゴノスの許へと向わせるよう説得した。他方の将軍、プトレマイオスは軍と共にカッパドキアへと向かい、そこでアミソスがカッサンドロスの将軍アスクレピオドロスによる包囲を受けていたのを知った。彼は市を危機から救い出し、休戦の下でアスクレピオドロスと彼の軍を去らせて太守領を回復した。 ビテュニアを通って進んだプトレマイオスはビテュニア王ジビュテスがアスタコス人とカルケドン人の市を包囲しているのを見て取ると、彼はジビュテスに包囲を諦めさせた。それらの都市とジビュテスと同盟を結び、それらから人質を取った後に彼はイオニアとリュディアへと進んだ。というのもアンティゴノスは彼に速やかに沿岸の支援に行くよう命じる手紙を出していたからであり、それはセレウコスがそれらの地方への海軍の遠征を企んでいたからであった。彼が最終的にこの地域へと接近したため、エリュトライ包囲を行っていたセレウコスは敵軍が近くにいると知ると何も成し遂げずに去った。
61 アンティゴノスはポリュペルコンの息子アレクサンドロスが自分の許にやって来ると彼と友好条約を結び、次いで兵士とそこに住んでいた外国人の総会(48)を招集してオリュンピアスの殺害とロクサネと王への扱いを取り上げてカッサンドロスを弾劾した。さらに彼はカッサンドロスはテッサロニケと無理矢理結婚し、明らかにマケドニアの王座を我が物にしようとしており、またオリュントス人がマケドニア人の非常に苦々しい敵であったにもかかわらずカッサンドロスは自らの名を冠した都市〔カッサンドレイア〕を彼らのために再建してマケドニア人によって破壊されたテバイを再建したのだと述べた。群衆が彼と怒りを共にする様を示すと、彼はカッサンドロスはそれらの都市を再び破壊して王とその母ロクサネを抑留から解放してマケドニア人の手に戻し、概して王権の後見を引き継ぐべく正当に任命された将軍であるところのアンティゴノスに服従しなければ敵たるべしという布告を票決し、それらの条項に基づいた布告を発した。全ギリシア人は自由たるべきであり、外国の守備隊に服従することなく自治権を持つべきであるとも述べられた。兵士たちがそれらの方針を支持して票決すると、アンティゴノスは自由への希望によってギリシア人を戦争にあたっての熱心な味方ならしめることになろうし、彼がアレクサンドロスから受け継いだ王たち廃すると決めたのではないかと疑っていた高地太守領の将軍と太守たちは彼が大っぴらに王たちのために戦争に身を投じれば、皆が心変わりして彼の命令に即座に従うはずだと信じて布告を広めるべく方々に人を送った。それらの問題を片づけると彼はアレクサンドロスに五〇〇タラントンを与え、来たるべき大事への希望を持たせてペロポネソス半島へと送り返した。彼自身はロドス島から船を呼び寄せて既に建設していた船のほとんどに艤装を施し、テュロスへ向けて送った。〔テュロスを〕一年と三か月の間厳しく包囲し、海上を支配して食料搬入を妨げて籠城側を物資の極端な欠乏へと陥れた後、アンティゴノスはプトレマイオスによって送られていた兵士に財産を携えて退去することを許した(49)。しかし市が降伏すると彼は守備隊を置いて厳に監視した。
62 それらのことが起こっていた一方で、アンティゴノスと共にマケドニア人によってなされたギリシア人の自由に関する布告を聞き知ったプトレマイオスはギリシア人に自分もアンティゴノスに劣らず彼らの自治に関心を持っていると知らせたいと思って似たような布告を発した。彼らの各々は実際のところギリシア人の好意を得ることは些末ではない問題だと見ていたため、この人々への好意をめぐって他の者と競った。またプトレマイオスは強大で相当数の都市を配下に収めていたカリア太守アサンドロスと同盟を結んだ。キュプロス島の王たちのところに彼は以前三〇〇〇人の兵士を送っており、彼の命令の実行に反対しようとしていた人たちを制圧しようと案じたために今度は強力な軍隊を送った。したがってアテナイ人ミュルミドンが一〇〇〇〇人の兵と共に、ポリュクレイトスが一〇〇隻の艦隊と共に送られ、一方でプトレマイオス自身の弟メネラオスが全軍の司令官となった。キュプロス島に航行してそこでセレウコスとその艦隊を見つけると彼らは合流し、今度どうすべきかを相談した。彼らはポリュクレイトスが五〇隻の艦隊と共にペロポネソス半島へと向かってアリストデモス、アレクサンドロス、そしてポリュペルコンとの戦争を遂行し、ミュルミドンと傭兵部隊はプトレマイオス将軍の攻撃を受けていたアサンドロスの救援のためにカリアに向かい、セレウコスとメネラオスはニコクレオン王と他の同盟者と共にキュプロス島に残って敵対者との戦争を行うことを決定した。軍がこのようにして別れた後、セレウコスはケリュネイアとラピトスを落とし、マリオンの王スタシオイコスの支持を確保し、アマトゥス人の支配者に〔彼らを支持するという〕保証を出させ、全軍でキティオン人の都市を絶えず包囲し〔たが〕、彼らを彼らの側に加えることができなかった。およそこの頃にテミソン指揮下の四〇隻の艦隊がヘレスポントスからアンティゴノスのところに来て、同様にディオスコリデスがヘレスポントスとロドスから八〇隻の軍船と共に到着した。真っ先にテュロスで拿捕した船一二〇隻を含むフォイニキアで作られた船の完全武装がなされ、かくして全部でアンティゴノスのところには二四〇隻の完全武装の軍船が集まることになった。それらのうち九〇隻は漕ぎ手が四列で〔四段櫂船〕、一〇隻が五列〔五段櫂船〕、三隻が九段、一〇隻が一〇段、そして三〇隻が甲板のない小舟であった(50)。彼はこの海上戦力を分割し、五〇隻をペロポネソスに送り、残りの指揮権を甥のディオスコリデスに与え、同盟国の安全を確保して未だ同盟を結んでいない島々の支持を得るために海上を周航するよう命じた。
 アンティゴノスの情勢は以上のようなものであった。
63 我々はアジアで起こった出来事を述べたので、ヨーロッパでの出来事を話すことにしよう。カッサンドロスによってアルゴスの将軍に任命されていたアポロニデスはアルカディアに夜襲をかけてステュンファリア人の都市を占領した。しかし彼がこれをしていた間、カッサンドロスに敵意を抱いていたアルゴス人はポリュペルコンの息子アレクサンドロスに手紙を送って市を彼に明け渡すことを約束した。しかしアレクサンドロスは遅れ、アポロニデスが先にアルゴスに戻ってきた。プリュタネイオンに集められた敵がおよそ五〇〇人であるのを見て取ると、彼は彼らをその建物から出さないようにして生きながら焼き殺した。彼は他の者の大部分を追放したが、少数の者を逮捕して殺した。カッサンドロスはペロポネソス半島へのアリストデモスの到来と彼がそこで集めた傭兵軍が大規模であることを知ると、まずはポリュペルコンにアンティゴノスとの同盟を破棄させようとした。しかしポリュペルコンは彼の言うことに耳を貸さずテッサリアを通ってボイオティアに軍を進めた。城壁の再建でテバイ人を援助した後にカッサンドロスはペロポネソス半島へと向かった。まず彼はケンクレイアイを落としてコリントス人の土地を略奪した。次いで二つの砦を強襲によって落とした後、彼は休戦条約の下でアレクサンドロスが置いていた守備隊を撤退させた。その次に彼はオルコメノス市を攻撃した。アレクサンドロスへの反対党派に迎え入れられて入城すると、彼は市に守備隊を置き、アレクサンドロスの友人たちがアルテミスの神殿に逃げ込むと彼は市民たちに彼らが望むように彼らを扱うよう許した。したがってオルコメノスの人々はギリシア人の一般的な管慣例に背いて嘆願者たちを力づくで引きずり出して皆殺しにした。
64 カッサンドロスはメッセニアへと入ったが、その都市〔主邑メッセネ〕にはポリュペルコンの守備隊がいるのを見て取ると、そこを包囲するという計画を一まず諦めた。彼はアルカディアへと向ってメガロポリスの支配者としてダミスを残し、一方自らはアルゴリスへと向かってネメア祭(51)を開催した後にマケドニアへと戻った。彼が去った後にアレクサンドロスはアリストデモスと共にペロポネソス半島の諸都市に留まり、カッサンドロスが置いた守備隊を追い払って諸都市に自由を復活させた。これを知るやカッサンドロスはすぐにプレペラオスをアレクサンドロスへと差し向けて彼にアンティゴノスと手を切って自身と正式に同盟を結ぶよう求めた。もしアレクサンドロスがこうすれば、カッサンドロスは彼にペロポネソス半島全域の支配権を与えて一軍の将軍し、功績に相応しい栄誉を授けると言った。アレクサンドロスは自分は元々そのためにカッサンドロスに対する戦争をしていたこと〔権益〕が認められたと理解すると、同盟を結んでペロポネソス半島の将軍に任命された。
 これらの全てが行われていた一方でセレウコスによってキュプロス島から〔ペロポネソス半島へと〕送られていたポリュクレイトスはケンクレアイへと航行していたが、同盟におけるアレクサンドロスの変節を聞いて〔行き先のペロポネソスには〕現存する敵対勢力が存在しなくなったことを知ると、パンヒュリアへと航行した。彼はパンヒュリアからキリキアのアフロディシアスへと沿岸に沿って航行し、アンティゴノスの提督テオドトスがカリア人が乗組員をしていたロドスの船団でリュキアのパタラから航行しつつあり、そしてペリラオスが陸で陸軍を率いて彼に同行していることを聞くと、航海における艦隊の安全を確保しようとし、彼らの双方を術中に陥れた。兵を上陸させると彼は必ず敵が通るであろう適当な場所に彼らを隠し、岬の後ろに隠れて敵が来るのを待った。まず陸軍がその待ち伏せに遭ってペリラオスは捕えられ、残りの一部は戦闘中に死んで他の者は捕虜になった。ロドス艦隊が味方の軍の助けに向かおうとすると、ポリュクレイトスは突如艦隊と共に突っ込んで戦いに入り、混乱した敵を易々と敗走させた。その結果は全ての船が拿捕され、負傷して数日後に死んだテオドトスを含む相当数の兵士も捕えられるというものであった。危険を冒すことなくかくも大きな優位を得た後、ポリュクレイトスはキュプロス島、そしてペルシオンへと航行した。プトレマイオスは彼を称賛して多大な贈り物で彼を讃え、重要な勝利の立役者としてより重要な地位を与えた。彼は使節がアンティゴノスのところから彼らのため〔捕虜の解放要求〕に来るとペリラオスと幾らかの捕虜を解放した。彼自身は所謂エクレグマへと向かってそこでアンティゴノスと会談し、アンティゴノスが彼の要求を容れなかったために再び戻った。

アガトクレスの征服戦争
65 さて、我々はギリシアとマケドニアにおけるヨーロッパのギリシア人の事績について述べてきたので、西方の歴史をしかるべき順序で考えてみることにしよう。シュラクサイの君主でメッセネ人の一つの砦を掌握していたアガトクレスは三〇タラントンを彼らから受け取る代わりに彼らにその場所を明け渡すことを約束した。しかしメッセネ人が彼に金を渡すと、彼は彼を信じた人たちとの約束を守らないばかりかメッセネそのものを占領しようとした。市の城壁のある部分が壊れていることを知ると、彼は陸路でシュラクサイへと騎兵を送り、一方自らは軽装船で夜に市へと近づいた。しかし目論まれた陰謀の犠牲者たちは予めこれを知ったために攻撃は失敗した。しかし彼はミュライへと航行して砦を包囲して条件付きで降伏させた。次いで彼はシュラクサイへと出発したが、穀物が穫れる時期にメッセネ遠征を今一度行った。彼は市の近くに野営して幾度も攻撃をかけたが、敵に何ら損害を与えることができなかった。というのも多くのシュラクサイ人亡命者が市に逃げ込んでいて彼らが自らの安全と僭主への憎悪のために死に物狂いで戦ったからだ。この時カルタゴからの使節がやってきて、彼らは協定を反故にしたとしてアガトクレスを非難した。また彼らはメッセネの人々のために平和を確保し、次いで僭主に砦の返還を強いるとリビュアへと戻った。しかしアガトクレスは同盟市アバカイオンへと向かうと、そこで彼に対する敵対者だと見えた人四〇人以上を処刑した。
 それらの出来事が起こっていた一方で、ローマ人はサムニウム人との戦争中にアプリアの都市フェレントゥム(52)を強襲によって落とした。アルファテルナと呼ばれていたヌケリアの住民は或る人たちの説得に従ってローマとの友好を捨ててサムニウム人と同盟した。

カッサンドロスの軍事行動
66 この年が過ぎた後にニコドロスがアテナイのアルコンとなり(53)、ローマではルキウス・パピリウスが四度目の、クィントゥス・プブリウスが二度目の執政官であった(54)。彼らが任期にあった間、アンティゴノスによって将軍となっていたアリストデモスはポリュペルコンの息子アレクサンドロスの寝返りを知るとアイトリア人の総会に出席してその問題を取り上げ、大多数をアンティゴノスの運命を支えるよう説き伏せた。かくして彼は自らアイトリアからペロポネソス半島へと傭兵と共に渡り、そこでアレクサンドロスとエリス人がキュレネを包囲しているのを知ると、危機に瀕したその人たちの決定的な瞬間に到着して包囲を解かせた。砦の安全を確保するために部隊をそこに残して彼はアカイアへと進軍してカッサンドロスの駐留軍の支配下にあったパトライを解放した。アイギオン包囲に成功した後に彼はその守備隊を手中に収めたが、布告に則ってアイギオンの人々に自由をもたらそうと望んでいたにもかかわらず、彼は以下のような事件のためにそれを妨げられた。というのも兵士が略奪に走って多数のアイギオン人が殺され、非常に多くの建物が破壊されたからだ。その後アリストデモスがアイトリアへと航行すると、カッサンドロスが送った守備隊の支配下にあったデュメ人が市から〔守備隊が駐屯していた〕砦を孤立させ、分離する壁で分けた。そこで各々自由を主張する勇気を得た後に彼らは砦を包囲して絶えず攻撃をかけ続けた。しかしこのことを知ったアレクサンドロスは軍を引き連れてやってきて城壁の内側へと押し入り、デュメ人の一部を殺して他は捕え、多くの者を追放した。アレクサンドロスが市を去ると、生き残りはしばらくは大人しくし、災難の大きさに茫然として同盟者を失った。しかし少し後になって彼らはアイギオンからアリストデモスの傭兵部隊を呼び寄せて今一度守備隊を攻撃した。砦を落とすと彼らは市を解放した。そこに残されていた者のほとんどを殺戮すると、彼らは同様にアレクサンドロスとの友好を保っていた市民を皆殺しにした。
67 このことが起こっていた一方でポリュペルコンの息子アレクサンドロスは軍を率いてシキュオンから出発しようとした時にシキュオンのアレクシオンと彼の友人と称した他の者たちに殺された。しかし彼の妻クラテシポリスは親切な行いから兵士たちから非常に慕われていたため、彼の権力を継承すると共に軍を掌握した。というのも不運な人を助け、財のない多くの人を援助するのが彼女の慣わしであったからだ。彼女は実務の力量と女性に期待される以上の大胆さにも恵まれていた。現にシキュオンの人々が夫の死のために彼女を見くびって自由を得ようとして軍を集めると、彼女は軍を出撃させて彼らを破って多くの敵を殺し、三〇人を逮捕して磔刑にした。市を確実に掌握すると、彼女は臨戦態勢の多くの兵士を維持しつつシキュオン人を統治した。
 ペロポネソスの情勢は以上のようなものであった。
 カッサンドロスはアイトリア人がアンティゴノスを支持してアカルナニア人との国境紛争をも戦っているのを見て取ると、一挙にアカルナニア人を自らの同盟者ならしめてアイトリア人の邪魔をするのが彼にとって有利だと結論した。このために彼はマケドニアを大軍を率いて出発してアイトリアへと入ってカンピュロスと呼ばれる川の畔に野営した。総会のためにアカルナニア人を召集してカッサンドロスはその場で彼らに事細かに彼らが昔から国境紛争をしていたことを述べると、彼は彼らに小さく無防備な村々から少数の都市に移動すべきであり、そうすれば彼らは家が分散していがために互いに助け合うにあたって無力であり、敵の予期せぬ襲撃に一丸となって対抗するのが難しいということにはもはやならないだろうと忠告した。アカルナニア人は説得され、ストラトスが最も堅固で大きい都市であったために大部分の者はそこに一緒に住むようになった。しかしオイニアダイ人と他の者はサウリアに集まり、デリエイス人と残りの者はアグリニオンに移住した。カッサンドロスはアカルナニア人を援助するよう命じて十分な兵士をつけ、指揮権を与えてリュキスコスを残した。しかし彼自身は軍を率いてレウカスへと向って使節を通してその市の忠誠を確保した。その上でアドリア海方面への遠征を目論んで彼はアポロニアを最初の強襲で落とした。イリュリアへと進んでヘブロス川を渡り、彼はイリュリア人の王グラウキアスへ向けて軍を進めた。〔グラウキアスとの〕戦いに勝利した彼はグラウキアスはカッサンドロスの同盟者と戦争をしないという協定をその王と結んだ。次いで彼自身はエピダムノス市を確保してそこに守備隊を置いた後、マケドニアへと戻った。

エーゲ海とカリアでの戦い
68 カッサンドロスがアイトリアを去ると、アイトリア人は三〇〇〇人を集めてアグリニオン包囲を開始した。その地の住民たちは彼らと協定を結び、市の明け渡しと安全退去に同意した。しかし協定を信じて彼らが出てくると、アイトリア人は条件を反故にし、危険など予想だにしていない彼らの後を大挙して追って少数を除いて皆殺しにした。カッサンドロスはマケドニアに到着し、プトレマイオス及びセレウコスと同盟していたカリアの全都市で戦争が起こっていることを聞くと、同盟者を助けると同時にアンティゴノスの注意を逸らしてヨーロッパへと渡る暇を与えまいとしてカリアへと軍を送った。また彼はファレロンのデメトリオスとムニュキアの駐留軍を指揮していたディオニュシオスへと手紙を書いてすぐにアリストテレスが指揮する船団を送るよう求めた。後者がレムノス島へと航行してセレウコスとその艦隊を呼び寄せた後、彼はレムノス人をアンティゴノスへの反乱に踏み切るよう説得したが、彼らの賛同を得られなかったために彼らの土地を荒らして市の包囲を開始した。しかし、その後セレウコスはコス島へと航行していった。アンティゴノスによって提督になっていたディオスコリデスはセレウコスの出発を知ると、レムノスを強襲してアリストテレスその人を島から追い出し、乗組員もろともほとんどの船を拿捕した。
 アサンドロスとプレペラオスはカッサンドロスによってカリアへと送られた遠征軍を指揮しており(55)、アンティゴノスの将軍プトレマイオスが越冬(56)のために軍を分割して自らは父の葬儀をしていることを知ると、カリアのカプリマで敵を待ち伏せるべく八〇〇〇人の歩兵と二〇〇騎の騎兵と共にエウポレモスを急派した。しかしこの時プトレマイオスは敵の計画を数人の脱走兵から聞き知り、近くで越冬していた部隊から八三〇〇人の歩兵と六〇〇騎の騎兵を集めた。プトレマイオスは真夜中に不意に防備を施された敵の野営地へと襲い掛かって眠りこけていた敵の虚を突き、エウポレモスその人を生け捕りにして兵士たちを投降させた。
 アジアへとカッサンドロスによって送られた将軍たちに起こったことは以上のようなことであった。
69 カッサンドロスが自らのためにアジアを獲得しようとしているのを知ると、アンティゴノスはプトレマイオスはエジプトからシュリアへと軍を率いてくる腹だろうと睨んで彼を迎撃するよう命じてシュリアに息子のデメトリオスを残した。彼はデメトリオスに一〇〇〇〇人の傭兵と二〇〇〇人のマケドニア人、五〇〇人のリュキア人とパンヒュリア人から成る歩兵、四〇〇人のペルシア人の弓兵と投石兵、五〇〇〇騎の騎兵、そして四三頭の象を付けて残した。デメトリオスは弱冠二二歳とまだ若かったため、彼は四人の相談役、クレタのネアルコス、バビュロンから数日前に戻ってきたアゲノルの息子ピトン、オリュントスのアンドロニコスとフィリッポスを任命しており、彼らはアレクサンドロスの全ての遠征に参加した古強者であった(57)。アンティゴノス自身は残りの軍を連れてまずタウロス山脈を渡ろうとし、そこで深い雪に見舞われて多くの兵を失った。したがってキリキアへと戻ってまたの機会を掴むと、彼は前述の山脈をより安全に越え、フリュギアのケライナイへと到着すると軍を越冬のために分割した。その後、彼はフォイニキアからメディオス指揮下の艦隊を呼び寄せ、メディオスはピュドナ人(58)の船団三六隻と遭遇してこれを戦いで破り、乗組員もろとも船を拿捕した。
 ギリシアとアジアの状況は以上のようなものであった。

アクロタトスのシケリア行き
70 シケリアではアクラガスに滞在していたシュラクサイ人亡命者たちがその都市の支配者たちにアガトクレスが諸都市を組織化するのを指をくわえて見ないよう説得した。というのも彼らの言うところでは、僭主が勢力を増大させるのを待ってより強力になった時の彼と戦う羽目になるよりは彼が強力になる前に自分から戦う方が良いからだ。彼らは真実を述べたかのように思われたためにアクラガス人の民会は戦争を決議し、ゲラとメッセネの人々を同盟に加え、事を任せられる有能な将軍を連れて戻るよう指示してラケダイモンへと亡命者の数名を送った。というのも彼らは自分たちの政治家が僭主制への傾向を有しているのではないかと違っていたが、コリントス人ティモレオンの将軍の実力を覚えていたために外国からの指導者は全般的な目的に真面目に専心するだろうと思っていたからだ。使節団はラコニアに到着すると、クレオメネス〔二世〕王の息子アクロタトスが多くの若者の不興を買っており、このために母国から離れたがっていたことを見て取った。これはラケダイモン人がアンティパトロスとの戦いの後に敗北から生き延びた者たちを不名誉から解放した時(59)、彼だけがその布告に反対したためであった。したがって彼は多くの人、とりわけ法によって有罪の対象となっていた人たちを攻撃したわけであるが、現にそれらの人たちは集まって彼に一撃食らわせ、絶えず彼に対する陰謀を練っていた。それ故に外国での指揮権を願っていたために彼はアクラガスの人たちからの招聘を喜んで受け入れた。監督官の同意を得ずに国から出発した彼は数隻の船と共にアクラガスへと渡ろうとして航行した。しかし彼は風でアドリア海へと流されてアポロニア領に上陸した。その都市がイリュリア人の王グラウキアスによって包囲されているのを見て取ると、彼は王をアポロニアの人々と協定を結ぶよう説き伏せることで包囲を終わらせた。そこで彼はタラスへと航行してそこの人々にシュラクサイ人の解放に参加するよう説いた。彼は二〇隻の船によって援助をすることを評決するよう彼らを説き伏せた。というのも同族のよしみ(60)と彼の一族の貴さのために彼らは彼の言葉に誠実さと大きな重要性を認めていたからだ。
71 タラス人が準備をしていた間にアクロタトスはすぐにアクラガスへと航行して将軍の任についた。まず彼は一般大衆を大仰な予想で元気付けて全ての人に僭主の速やかな打倒を期待させた。しかし時が経っても彼は彼の祖国にも家系の声望にも相応しいことを何もせず、それどころか逆に僭主よりも暴虐で残虐になって絶えず一般大衆を侮辱するようになった。その上、彼は彼の国での生き方を捨ててスパルタ人ではなくペルシア人ではないかというほどに放縦に快楽に耽った。歳入の大部分を一部は公事によって、一部は私的な着服によって浪費すると、彼は最終的に亡命者のうちで最も優れていてしばしば軍を指揮していたソシストラトス(61)を夕食に招待して騙し討ちをかけて殺した。このソシストラトスはアクロタトスを何ら非難しておらず、かねてより軍事に慣れていて指導者の地位を悪用する者を監視下に置くことができる人物だったために排除されたのだ。この行いが知られると亡命者たちはすぐに反アクロタトス勢力に加わり始め、残りの全員が彼から離反した。まず彼らは彼を将軍職から解任してすぐに彼を石打ちで処刑しようとしたため、人々の蜂起を恐れた彼は夜に逃亡してラコニアへと密かに航行していった。彼の出発の後、シケリアへと艦隊を送っていたタラス人は艦隊を呼び戻し、アクラガス、ゲラ、そしてメッセネの人々はアガトクレスとの戦争を始めてカルタゴ人のハミルカルが仲介者として動いて協定を結ばせた。同意の要点は以下のようなものであった。シケリアのギリシア諸都市のうち、ヘラクレイア、セリヌス、そしてヒメラは以前通りカルタゴ人に従属し、他の全てはシュラクサイの覇権の下で自治権を有するものとする。

アガトクレスの軍備とサムニウム戦争
72 しかしその後アガトクレスはシケリアから敵対戦力を掃討し終えたため、諸都市と要塞を彼に服属させることを妨げるものはいなくなったと見なした。そのことごとくを制圧すると彼はその権力を盤石たるものにした。現に彼は自らのために多くの同盟者、豊富な歳入、大軍勢を得ることになった。実際、同盟者と軍務に登録したシュラクサイ人を数えなければ、彼は一〇〇〇〇人の歩兵と二五〇〇騎の騎兵から成る精鋭の傭兵軍を有していた。その上、彼は講和条約でハミルカルを非難していたカルタゴ人(62)はすぐに自分に戦争をふっかけてくることを知っていたのであらゆる種類の武器と投擲兵器を溜め込んだ。
 以上がこの時のシケリア情勢のあらましであった。
 イタリアではローマ人と長年覇権を争って激しく戦っていたサムニウム人がローマの守備隊がいたプレスティケを包囲によって落とし、ソラの人々にそこにいたローマ人を殺して自分たちと同盟を結ぶよう説き伏せた。次いでローマ軍がサティクラを包囲すると、サムニウム人は包囲を解こうと突如大軍で現れた。そこで大会戦が起こって双方で多くの死者が出たが、最終的にローマ軍が優位に立った。戦いの後、ローマ軍は市の包囲を完成させて勝手気ままに進軍しては近隣の町と砦を制圧した。今やアプリアの諸都市を巡る戦いが加わったためにサムニウム人は軍務に耐えうる年齢の者を総動員して全ての決着をつけるべく敵の近くに野営した。これを知るとローマ人は逼迫した状況で不安に駆られて大軍を送り出した。危機が迫った時に彼らのうちで優れた人を軍事についての独裁官として任命するのが習慣であったため、彼らはクイントゥス・ファビウスを〔独裁官に〕、そして彼と共にクイントゥス・アウリウスを騎兵長官に任命した。彼らは軍の指揮権を受け取った後、出撃してラウストラエでサムニウム軍と戦って多くの兵を失った。全軍に混乱が広がると、アウリウスは逃走を恥じ、勝つためではなく祖国が屈服していないことを示すためにただ一人で敵の大軍を向こうに回して踏みとどまった。かくして彼は逃走の不名誉にあった中流市民に加わることなくたった一人で立派な死を遂げた。しかしローマ軍はアプリアの支配権を完全に失うのではないかと恐れてその地方の都市のうちで最も名高かったルケリアに植民団を送った。そこを基地として彼らはサムニウム人との戦争を続け、そこは将来の安全のための中々の設備となった。というのもこの都市がこの戦争での勝利をローマにもたらしたのみならず、我々の時代に至るまでの戦争で彼らはルケリアを近隣の人々に対する作戦基地として使うことになったからだ(63)

トラキア、ギリシア、そしてカリアでの状況
73 この年の出来事が終わった時にテオフラストスがアテナイでアルコン職を得て(64)、ローマではマルクス・プブリウスとガイウス・スルピキウスが執政官になった(65)。彼らの任期中、ポントスの左側(66)で暮らし、リュシマコスが送った守備隊に従属していたカランティアの人々がこの守備隊を追い出して自治を得ようとした。似たようにして彼らはイストロス人の都市と他の近隣諸都市を解放し、彼らをその君主との戦いへと糾合すべく彼らと同盟を結成した。また彼らは彼らと境界を接するトラキア人とスキュタイ人とも同盟を結んだため、それら全てが一大連合となって強力な軍を戦いのために準備できるようになった。しかしリュシマコスは事の次第を知るやすぐに叛徒へと向けて出撃した。トラキアを横断してハイモス山脈を通過した後に彼はオデッソスの近くに陣を張った。彼は包囲を開始して速やかに住民を脅し、市を条件付き降伏によって占領した。次にイストロス人を似たようにして制圧した後に彼はカランティア人の方へと向かった。まさにこの時、スキュタイ人とトラキア人が協定に基づいて同盟者を助けるべく大軍でもって襲来してきた。リュシマコスは彼らと対陣して即座に戦端を開いたため、トラキア人を恐れさせて寝返らせた。しかしスキュタイ人を彼は激しい戦いで破り、その多くを殺して境界を越えて生き残りを追撃した。次いでカランティア人の都市の近くに陣を張って彼はあらゆる手段を用いて反乱の責任者を懲らしめようとしてそこを包囲した(67)。彼がそのことに着手していた一方でアンティゴノスがカランティア人救援のために二つの遠征軍を陸海から送ってきて、艦隊を率いたリュコン将軍がポントスへと航行し、相当数の兵を率いたパウサニアスがヒエロンと呼ばれる場所に野営したことを知らせる伝令たちがやってきた。この妨害を受けたリュシマコスは包囲を遂行するのに十分な部隊を残して自らは軍の最強部隊を率いて敵と一戦交えんがために突き進んだ。しかしハイモス山脈への道に到着すると、彼はトラキアの王で、アンティゴノスの側についていたセウテス〔三世〕が大軍を率いてその道を守っているのを見て取った。彼との長時間に亘った戦いでリュシマコスは少なからぬ兵を失ったが、おびただしい数の敵を殺して夷狄を打ちひしいだ。また彼はパウサニアスの軍の方へと突然やってきて、近づき難い場所に避難した彼らと接触した。彼はここを占領してパウサニアスを殺した後に身代金を受け取って兵の一部を解放して他の者は自軍に組み入れた。
 リュシマコスの状況はこのようなものであった。
74 この試みが失敗した後、アンティゴノスは五〇隻の船と相当数の歩兵を与えてテレスフォロス(68)をペロポネソス半島へと派遣して諸都市を解放するよう命じ、これによってギリシア人に彼が本当に彼らの独立を気にかけていると信じさせようと望んだ。同時に彼は〔テレスフォロスに〕カッサンドロスの行動に気をつけよとの助言を与えた。ペロポネソス半島に入港するとすぐにテレスフォロスはアレクサンドロスの守備隊に占領されていた都市へと進軍してシキュオンとコリントスを除くその全てを解放した。というのもそれらの諸都市にはポリュペルコンが勢力を持っており、強力な軍を維持して彼らと地の利を頼んでいたからだ。このことが進行していた一方で、カッサンドロスによってアイトリア人との戦争の将軍として送られていたフィリッポス(69)はすぐにアカルナニアへと軍と共に入ってアイトリアを略奪しようとしたが、エペイロス人のアイアキデスが王国に帰還して強力な軍を集めていたことを知ると、アイトリア軍がその王と軍を合体させる前に各個撃破しようとして非常に迅速に彼の方へと向かった。エペイロス軍は既に戦いの準備ができていたことを知りつつも彼はすぐに攻撃をかけて多くの兵を殺し、少なからぬ捕虜を得て、その中には王の帰国の責任者およそ五〇人が偶然いた。彼は彼らを縛ってカッサンドロスの許へと送った。アイアキデスと彼の兵が戦闘から集結してアイトリア軍と合流したため、フィリッポスは再び彼らの方へと進軍して会戦で打ちひしぎ、アイアキデス王その人を含む多くの敵を殺した。数日のうちにこれほどの勝利を得たためにフィリッポスは多くのアイトリア人の肝を冷やしめ、このために彼らは無防備な都市を放棄して妻子と共に山地の最も近寄りにくい場所へと逃げ込んだ。
 ギリシアでの戦争の結果は以上のようなものであった。
75 アジアでは、戦争で余りにも追い詰められていたカリアの支配者アサンドロスがアンティゴノスに全軍を引き渡し、ギリシア諸都市を放棄してそれらに自治権を与え、〔アンティゴノスの〕許可の下で以前持っていた太守領を保持することに同意し、アンティゴノスの普遍の友であり続けるという条件でアンティゴノスと協定を結んだ。弟のアガトンを協定発効のための人質としていた彼は数日の後に協定の内容を後悔したため、密かに弟を監禁先から脱出させて可及的速やかな援助を請うべくプトレマイオスとセレウコスに使節団を送った。アンティゴノスはこれに激怒し、諸都市を解放すべくメディオスを艦隊提督に任命してドキモス(70)を陸軍の将軍として陸海から軍を派遣した。彼らはミレトス人の都市にやってきて包囲によって守備隊の拠る砦を落とした後にそこの政府の独立を回復した。彼らが戦っていた一方でアンティゴノスはトラレスを包囲して落とし、次いでカウノスへと進んで艦隊を呼び寄せ、その都市も砦を除いて占領した。ここを包囲して彼は攻め易い箇所から連続攻撃をかけ続けた。イッソスに十分な兵力と共に送られていたプトレマイオスはその市にアンティゴノスへの支持を強いた。このようにしてカリアの諸都市はアンティゴノスの軍門に下った。数日後にアイトリア人とボイオティア人から後者へと使節団がやってくると、彼は彼らと同盟を結んだ。しかし彼がヘレスポントス地方での和平についてカッサンドロスとの交渉に入った時には何の同意にも至ることなく物別れに終わった。子のためにカッサンドロスは解決の希望を捨ててギリシア情勢においてより大きな役割を果たそうと決めた。したがって三〇隻の艦隊を率いてオレオスへと出発すると、彼はその都市を包囲した。彼が猛攻をかけてまさに強襲によってその都市を落とすかに見えた時、オレオスの人々へと援軍が現れた。ペロポネソス半島からテレスフォロスが二〇隻の艦隊と一〇〇〇人の兵士と共に、アジアからメディオスが一〇〇隻の艦隊と共にやってきたのだ。彼らはカッサンドロスの艦隊が港を封鎖してることを知ってそれらに火を放ち、四隻を焼き払ってほとんどの船を破壊した。しかしその敗軍への援軍がアテナイからやってくると、カッサンドロスは警戒を解いていた敵に向けて出航した。それらが対決すると、彼は一隻の船を沈めて三隻を乗組員もろとも拿捕した。
 ギリシアとポントスでの動きは以上のようなものであった。

タラキナの戦い
76 イタリアではサムニウム人が大軍でもってカンパニアへと進撃しては敵を支持するカンパニアの都市ならばどれであれ破壊し、ローマの執政官たちは軍を率いて出撃して危機に瀕していた同盟諸国を救援しようとした。タラキナ近くで敵と対陣してすぐに差し迫った脅威から都市を開放し、次いで数日後に双方は出撃して激しい戦いが起こり、双方で非常に多くの死者が出た。結局ローマ軍が全軍をあげて前進して敵を負かして長時間追撃し、一〇〇〇〇人以上を殺した。この戦いの行方がまだ分からなかった時、カンパニア人はローマ人を見くびって反乱に踏み切った。しかしすぐにローマ人は彼らに向けて独裁官ガイウス・マニウスを指揮官とし、国家の慣習に則ってマニウス・フルウィウスを騎兵長官とした十分な兵力の軍を送った。彼らがカプアの近くに陣取るとカンパニア人は当初は戦おうとしたが、後になってサムニウム軍の敗北を聞いて全軍が自分たちへ向けられるだろうと信じたため、ローマ人と条約を結んだ。彼らは謀反の罪のある人たちを引き渡し、彼らは開廷される裁判での裁きを待つことなく自殺した。しかし諸都市は許されて以前通りの同盟に復帰した(71)

ギリシアをめぐるアンティゴノスとカッサンドロスの戦い
77 この年が終わった時、アテナイではポレモンがアルコンであり(72)、ローマではルキウス・パピリウスが五回目に、そしてガイウス・ユニウスが執政官となった(73)。この年に一一七回目のオリュンピア祭が開催され、ミテュレネのパルメニオンが徒競走で優勝した。この年にアンティゴノスはギリシア人を解放するためにギリシアへとプトレマイオス将軍を、メディオスを提督とした一五〇隻の軍船と歩兵五〇〇〇人と騎兵五〇〇騎の陸軍と共に送った。またアンティゴノスはロドス人と同盟を結んで彼らからギリシア人解放のために完全武装の一〇隻の船を受け取った。プトレマイオスは全艦隊と共にバテュスとして知られるボイオティアの港に投錨し、ボイオティア同盟から二二〇〇人の歩兵と一三〇〇騎の騎兵を受け取った。また彼はオレオスからも艦隊を呼んでサルガネウスを要塞化し、エウボイア人のうちで唯一敵によって守備隊を置かれていたカルキス人によって〔エウボイア島へと渡ってその島にあるカルキスへと〕招き入れられようと望み、サルガネウスへと全戦力を集めた。しかしカッサンドロスはカルキスを案じてオレオスの包囲を諦めてカルキスへと向い、軍を呼び寄せた。アンティゴノスはエウボイアで両軍が睨み合っているのを聞き知ると、メディオスをアジアへと艦隊もろとも呼び戻し、カッサンドロスがエウボイア島に留まるならばがら空きのマケドニアを占領し、カッサンドロスが王国を守るためにやってくるならば、〔カッサンドロスの〕ギリシアでの覇権を喪失させるためにマケドニアへと渡ろうとするかのように見せかけ、すぐに全速力でヘレスポントスへと陸軍と共に向かわせた。しかしカッサンドロスはアンティゴノスの計画を知ると、カルキス守備隊の指揮権を持っていたプレイスタルコス(74)を残して自らは全軍を率いて出発してオロポスを強襲によって落とし、テバイ人を同盟に引き入れた。次いで他のボイオティア人と条約を結んでエウポレモスをギリシアの将軍として残し、敵が渡ってくることを知りつつマケドニアへと向かった。アンティゴノスはプロポンティス海(75)へと来た時にビュザンティオンへと同盟を結ぶよう求める使節を送った。しかしリュシマコスからの使節団も到着しており、その使節団はリュシマコスなりカッサンドロスへの敵対行為を何もしないよう求めた。ビュザンティオン人は中立と平和、そして双方との友情を維持することに決めた。計画の裏をかかれ、また冬が間近に迫ってきたためにアンティゴノスは越冬のために諸都市へと兵士を分散させた(76)
78 それらのことが起こっていた一方で、アポロニアとエピダムノスの人々の支援に向かったコルキュラ人は休戦条約の下でカッサンドロスの兵士を解放した。そして彼らはそれらの都市のうちアポロニアを解放したが、エピダムノスはイリュリア人の王グラウキアスに引き渡した。カッサンドロスがマケドニアへと発った後、アンティゴノスの将軍プトレマイオスはカルキスを掌握していた守備隊に脅しをかけてその市を落とした。そしてその都市は戦争によって覇権を手にするための基地を得ようとする者にとっては要地であったため、アンティゴノスは自分が本当にギリシア人を解放しようと主張している証拠となすためにカルキス人のところには守備隊を置かないでおいた。しかしプトレマイオスはオレオスを包囲によって落とすと、そこをボイオティア人に返還してカッサンドロスの兵を捕虜にした。その後、エレトリアとカリュストスの人々を同盟に引き入れた後、彼はファレロンのデメトリオスが支配していたアッティカへと向かった。当初アテナイ人はアンティゴノスに密書を送って市を解放してくれるよう請願していたが、次にプトレマイオスが市に近づいてくると勇気を出してデメトリオスに講和を強い、アンティゴノスに向けて同盟に関する使節団を送った。プトレマイオスはアッティカからボイオティアへと向かうと、カドメイアを落として守備隊を追い出し、テバイ人を解放した。この後、彼はフォキスへと進んでその都市の大部分を味方につけてその全てからカッサンドロスの守備隊を追い払った。また彼はロクリスへも進撃した。オプス人がカッサンドロス派に与していたために彼は包囲を開始して連続攻撃をかけた。

プトレマイオスのキュプロス遠征
79 同じ夏(77)にキュレネの人々はプトレマイオスに反旗を翻して〔アクロポリスの〕砦を囲み、ともすれば守備隊を追い出すかに見えた。アレクサンドレイアから使節団がやってきて暴動の鎮静化を求めると、彼らは使節団を殺してさらに激しく砦の攻撃を続けた。彼らに激怒したプトレマイオスはアギスを将軍として陸軍と共に急派し、戦争に加わらせるべくエパイネトスが指揮を執る艦隊も送った。アギスは反乱軍に猛攻をかけて都市を力攻めで落とした。暴動の罪があった人たちを彼は捕縛してアレクサンドレイアに送り、次いで他の人から武器を取り上げて最善と思えるような仕方で都市の事件を収拾し、エジプトへと帰った。
 しかしプトレマイオスはもうキュレネは自分の意のままになるだろうと思い、彼への服従を拒む王たちに向けてエジプトからキュプロス島へと軍を率いて渡った。彼はピュグマリオンがアンティゴノスと交渉しているのに気付くとこれを殺し、彼に敵意を持いたラピトス王でケリュネイアの支配者だったプラクシッポスを捕縛し、またマリオンの支配者スタシオイコスに対してはその市を破壊してパフォスへとその住民を移住させた(78)。それらを成し遂げた後にプトレマイオスはニコクレオンをキュプロス担当の将軍に任命して追い出された王たちの都市とその歳入を与えた。しかし自らは軍と共にいわゆるシュリア高原(79)まで航行してポセイディオンとポタモイ・カロンを占領、略奪した。暇を措かずにキリキアへと航行して彼はマロスを落としてそこで捕らえた人たちを戦利品として売り払った。また彼は隣接する地方も略奪し、戦利品で軍を一杯にした後にキュプロスへと戻った。彼のこのような兵士へのご機嫌取りは近づきつつある戦いに向けての熱意を呼び起こした。
80 アンティゴノスの息子デメトリオスはエジプト軍を待ちかまえてコイレ・シュリアに留まっていた〔紀元前314年の夏から〕。しかし彼は諸都市の占領を聞くと、ピトンに象と重装兵部隊を与えてその地方を担当する将軍として残し、自らは騎兵と軽装兵部隊を率いて危機に瀕した人たちを助けるべく速やかにキリキアへと向かった。機を失した後に到着して敵はもう去ってしまったことに気が付くと、彼は行軍に際して多くの馬を失いつつも速やかに野営地へと戻った。というのも六日間のマロスへの行軍で彼は二四スタディオンを踏破しており、その結果、過度の苦難のために従軍商人や馬丁が一人もその速度についていけなくなったほどであった(80)
 プトレマイオスは企図が望んだ通りうまくいったためにエジプトへと帰った。しかし少し後にアンティゴノスに敵意を持っていたセレウコスに提案されてコイレ・シュリアに遠征してデメトリオス軍と戦おうと決めた。したがって彼は方々から軍を集めてアレクサンドレイアからペルシオンへと一八〇〇〇人の歩兵と四〇〇〇騎の騎兵と共に進軍した。彼の軍のうち一部はマケドニア人でもう一部は傭兵であったが、ある者は投擲兵器を運び、他の者は荷物を運んでいたが、それは武装して軍務に携わっていたたくさんのエジプト人であった。ペルシオンから砂漠を進むと、彼はシュリアのガザ旧市の近くに陣を張った。同様にガザ新市(81)へと方々の越冬先から兵士を呼び集めていたデメトリオスは敵の接近を待ち構えた。

ガザの戦い
81 若いデメトリオスは友人たちからあまりにも優れた将軍と優勢な軍と野戦を行わぬよう説得されたものの彼らの言うことを聞かず、父から離れて大会戦を戦おうとして自信を持って戦いの準備をした。不安と動揺の中、武装したまま集会を召集すると彼は講壇に上り、群集は彼に勇気を出すようにと叫んだ。それから伝令が大声を出している者たちに騒ぎをやめるよう指示する前に彼らは皆静かになった。というのも、彼は丁度指揮権を与えられたばかりだったため、兵士も非戦闘員も普通ならば多くの小さな苛立ちが一挙に大きな不満につながるような、長らく任にある将軍に対して発生する反感を彼に対しては持っていなかったからだ。というのも、同じ権力者の下にいるのが続くと、群集は厳しいことを要求するようになり、あらゆる集団は好まれざる変化を歓迎するようになるからだ。彼の父は既に年老いていたので王国の希望は彼の継承が主であったため、彼に指揮権と同時に多くの人の好意を得させようとした。さらに、彼は勇気と評判で傑出しており、また王の鎧を身に纏った時には非常に目立ち、畏敬の念を喚起し、それによって彼は多くの人から期待を寄せられていた。さらに若い王への思いやりと皆の彼への献身があったために高位の者でなくとも揃って彼の言うことを聞き、彼の若さと差し迫った重大な戦いにあって温かい心配を感じていた。というのも彼は数で優る軍だけではなくプトレマイオスとセレウコスという最も優れた将軍たちに対して決戦をしようとしていたからだ。現に、アレクサンドロスと共に全ての彼の戦争に参加してしばしば独自に軍を率いたことのあるそれらの将軍たちはこの時征服されていなかったのだ。いずれにせよデメトリオスはその場に適切な言葉によって群集を元気付け、受け取るに足る者に贈り物を与えて戦利品を兵士に与えることを約束し、軍を戦闘隊形に整列させた。
82 自らが戦う左翼に彼はまず自身の護衛に二〇〇の選抜した騎兵を配置し、そこには全ての他の友人たちがいてその中にはとりわけアレクサンドロスの遠征に参加してアンティゴノスによって共同の将軍とされてあらゆる計画の協力者となっていたピトンがいた。上級護衛兵として彼は三個中隊の騎兵隊を、そして側面に同数の護衛兵を配置し、それらに加えて翼の外側に別に三個中隊のタレンティネ兵を配置した。したがって彼の周りに配置された兵士は槍で武装した騎兵五〇〇騎と一〇〇騎のタレンティネ兵となった。次に彼はヘタイロイと呼ばれた騎兵八〇〇騎を配置し、彼らの隣にあらゆる種類の騎兵一五〇〇騎を配置した。翼の前面一帯に彼は三〇頭の彼の象を配置し、それらの隙間をそのうち一〇〇〇人が投槍兵と弓兵で、五〇〇人がペルシア人投石兵であった軽装歩兵部隊で満たした。このようにして彼はこれによって戦いの決着をつけようと目論んでいた左翼を編成した。その隣に彼はうち二〇〇〇人がマケドニア人で、一〇〇〇人がリュキア人とパンヒュリア人で、八〇〇〇人が傭兵の一一〇〇〇人からなる歩兵のファランクスを配置した。右翼に彼はアンドロニコス率いる残りの騎兵一五〇〇人を配置した。この部下は戦列を傾けて戦いを遅らせ、デメトリオスによって戦われる結果を待つよう命じられた。一三頭の他の象を彼は軽装兵の残余の通常部隊で間を満たして歩兵のファランクスの前面に配置した。このようにデメトリオスは軍を配置した。
83 プトレマイオスとセレウコスは最初、敵の意図を知らずに戦列の左部分を強化していた。しかし斥候から彼が採用した布陣を知ると、素早く右翼をより強く強力にしてデメトリオスと共に彼らに対陣していた左翼と渡り合えるように軍を改めた。彼らはこの翼に三〇〇〇騎の最強の騎兵を配し、自ら彼らと共に戦うことを決めた。この場所の正面に彼らは象による攻撃への対策として、鎖で繋げられた鉄製の釘のついた装置を持った兵士を配置した。というのもこの装置が伸ばされれば、簡単に獣たちが迫ってくるのを阻止できたからだ。彼らはこの翼の前の投槍兵と弓兵に象とその上に乗っている者を絶え間なく打ち続けるよう命じ、軽装備の部隊もまた配置した。彼らは右翼をこのようにして増強し、残りの軍を状況に従って配置して、彼らは大声をあげながら敵へと進んだ。
 彼らの敵もまた進軍した。最初に騎兵の翼の端で戦いが起こり、デメトリオスは優勢に立った。しかし少ししてプトレマイオスとセレウコスはその翼を馬で乗り回して厚みのある騎兵と共に彼らに凄まじい攻撃をしかけ、双方の熱意のために激しい戦いが起こった。最初の攻撃は槍での戦いであった。そのほとんどは粉々になり、多くの敵が負傷した。次いで、再結集した兵士たちは剣での戦いに入り、彼らは密集戦で動けなくなったために双方で多くが殺された。指揮官たちは皆の前に立って危険を冒したため、指揮下にあった者たちは果敢に持ち堪えようと奮い立った。そしてその全員が勇気のために選抜されていたその翼の騎兵は彼らと共に戦っていた将軍たちの勇猛さを見て互いに競い合った。
84 騎兵戦が互角のまま長時間続いた後、象はインド人の象使いによって戦いへと駆り立てられ、あたかも何者もそれらに太刀打ちできないかのように恐慌を引き起こさんとして距離を保って進み出でた。しかし、槍衾と大勢の投げ槍兵と弓兵の所へと来ると、それらは絶え間なく矢玉を投げつけられて象と象に乗っていた者たちは手ひどく傷付けられた。象使いが獣を前進させて突き棒を使っていた一方で、象の一部は器用に工夫された槍で刺され、傷と攻撃者の集中砲火で痛めつけられて混乱に陥った。滑らかで軟らかい地形ではそれらの獣たちは直接攻撃で抗しえない力を示すが、荒く凸凹した地形では足の脆弱さのためにそれらの力は完全に無力になる。そして、さらにこの時のプトレマイオスは大釘を配置すれば何が起こるかを鋭く予想していたためい象の力を無力化した。最終的な結果は、ほとんどの象使いがやられて全ての象が鹵獲されるというものだった。このことが起こると、デメトリオスの騎兵のほとんどは狼狽して遁走した。そして彼が踏みとどまって自分を見捨てないように懇願しても誰も彼のことを考えなかったために、彼自身の許には少数の者しか残らず、彼は残余の者と共に戦場を離れる他なくなった。さて、ガザで彼に付き従っていた騎兵のほとんどは命令をよく聞いて隊列を維持したために、追撃者のうち軽々しく攻撃をするという危険を冒そうとする者はいなかった。平原は開けて軟らかく、隊列を維持しての退却を望む者には都合が良かったのである。歩兵も続いて戦列を離れようとし、重い武器を投げ捨てて身軽になって我が身を守った。かくしてデメトリオスは夕暮れ頃にガザを過ぎ去ろうとしつつあった時、騎兵の一部は自らの荷物を運び去ろうとしたために抜けて都市に入った。そして、門が開かれて多数の荷駄獣が集められ、各々の兵士はまず自分の荷駄獣を連れ出そうとして門の辺りで混乱が生じたが、プトレマイオスの部隊がやってきた時には誰も間に合うように門を閉めることができなかった。したがって敵は城壁の中に殺到し、市はプトレマイオスの手に落ちた。
85 このようにして戦いが終わった後、デメトリオスは二七〇スタディオンを踏破して真夜中にアゾトスに到着した。そこで彼は死者を然るべき葬儀によって讃えるための費用を非常に心配していたため、死者の埋葬に関する使者を〔プトレマイオスへと〕送った。というのも友人のほとんど、そして彼自身と同じ条件で指揮権を分け合っていたピトン、長年にわたって父アンティゴノスに付き従い、彼の全ての国家機密を知っていたボイオトスを含む著名な人物が倒れたからだ。戦いでは五〇〇人以上、そして騎兵と名声ある人たちの大部分が倒れた。そして八〇〇〇人以上が捕虜になった。プトレマイオスとセレウコスは死者の引取りを許し、鹵獲されていた王の荷物と宮廷に参内するのが慣わしになっていた捕虜を身代金なしでデメトリオスに返還した。プトレマイオスとセレウコスは、アンティゴノスと彼らは最初にペルディッカスと、その後にはエウメネスと戦争を指揮権を有しつつ行っていたにもかかわらず、アンティゴノスは仲間に占領地の取り分を渡さず、そして再び、セレウコスと友好条約を結んだ後に全ての権利に反して彼のバビュロニアの太守領を彼から取り上げたために、アンティゴノスと争っているのだと言った。プトレマイオスは捕えた兵士をエジプトへと送り、ノモスに彼らを割り当てた。しかし彼自身は戦死した彼の兵士全てに壮麗な葬儀を上げた後、軍を率いてフォイニキアの諸都市へと向い、一部を包囲によって、他を説得によって獲得した。しかし、十分な軍を持っていなかったデメトリオスは可及的速やかな救援を求めるため父へと使者を送った。デメトリオス自身はフォイニキアのトリポリスへと向い、キリキアから兵士を呼び寄せ、また市や砦を守っていた彼の他の兵士を敵から離れた所へと移した。
86 そのがら空きになった地方を制圧した後にプトレマイオスはまずシドンを彼の側につけた。次にテュロスの近くに野営し、守備隊長のアンドロニコスを市の明け渡しのために呼び、贈り物と十分な栄誉を与えることを約束した。しかし、アンドロニコスは決してアンティゴノスとデメトリオスが自分に与えた信頼を裏切るつもりはないと言い、プトレマイオスを口汚く侮辱した。その後、彼の兵士は暴動を起こして彼は市から追い出されてプトレマイオスの手に落ち、彼は自分は侮辱とテュロス引渡しへの抵抗のために罰を受けるだろうと予測した。しかし実のところプトレマイオスは彼を恨んではいなかった。むしろ反対に、プトレマイオスはアンドロニコスに贈り物を与えて宮廷に留め置き、友人の一人として敬意を持って遇した。というのも、実際に王は非常に寛大で寛容であり、親切な振る舞いをするのが常であったからだ。最も彼の勢力が増し、多くの人をして彼と友誼を結ばんと望ませたのはまさにこのことであった。例えば、セレウコスがバビュロニアから追い出された時、プトレマイオスはセレウコスを友好的に迎え入れた。そしてプトレマイオスはセレウコス及び他の友人たちと幸運を分け合った。したがってこの機会にセレウコスはバビュロニアへの遠征のために兵士を与えてくれるよう彼に頼み、彼は快く同意した。それに加え、彼はあらゆる手段で彼が前に持っていた太守領を回復するまで彼を助けることを約束した。
 アジアでの情勢は以上のようなものであった。

ギリシア情勢――テレスフォロスの謀反、エペイロスでの戦い
87 ヨーロッパでは、コリントスの近くにいたアンティゴノスの提督テレスフォロスは彼自身よりもプトレマイオスにギリシアの全ての事柄を委ねる方が良いと〔アンティゴノスが考えていたのを〕知ると、アンティゴノスに叛いて自身の持っていた船を売り払い、自らの目的に参加させようと義勇兵として兵士を集めて自らの事業の準備をした。あたかもまだアンティゴノスへの友情を持っているかのようにしてエリスに入った彼はその砦の防備を固めて市を隷属化した。彼はオリュンピアの聖域さえも略奪して五〇〇タラントン以上の銀を集めた後、傭兵を雇い始めた。テレスフォロスはプトレマイオスの昇進を嫉妬したために、かくのごとくアンティゴノスの友情を裏切ったのである。アンティゴノスの将軍プトレマイオスはギリシアにおける事件を担当するよう任じられた。彼はテレスフォロスの反乱、エリス人の市の占領、オリュンピアの国土の略奪を聞くと、軍を率いてペロポネソス半島へと向った。彼はエリスに来ると防備を固められた砦を打ち壊し、エリス人の自由を回復させて宝物を神に返した。そこでテレスフォロスの同意を勝ち得て彼は後者〔テレスフォロス〕が守備隊を置いていたキュレネを取り戻し、エリス人に返した。
88 これのことが起こっていた間、エペイロス人はアイアキデス王の死に際して、父アリュンバスによって追放され、カッサンドロスに敵意を抱いていたアルケタス(82)に王位を授けた。このために、カッサンドロスによってアカルナニアの将軍に任じられたリュキスコスは兵を率いてエペイロスに侵入し、王国の情勢が混乱している間にアルケタスを易々と王座から引き摺り下ろそうとした。リュキスコスがカッソピア前に着陣していた一方で、アルケタスは可能な限り多くの兵士を徴募するようよう命じて子のアレクサンドロスとテウクロスをその市へ送った。そして彼自身は手持ちの軍を率いて敵に接近し、息子たちの帰還を待った。しかし、リュキスコスの軍は数においてずっと勝っていたためにエペイロス人は怯えて敵に寝返った。そして見捨てられたアルケタスはエペイロスの都市エウリュメナイへと退避した。彼がそこに包囲された間、アレクサンドロスは父の許へ援軍を引き連れてやってきた。多くの兵士が死んだ血みどろの戦いが起こり、戦死者にはリュキスコスの部下、とりわけ将軍のミキュトスとカッサンドロスによってレウカスを任されたアテナイ人リュサンドロスも含まれていた。しかしその後、デイニアスが敗軍の許へと援軍を連れて来た時に今一度戦いが起こり、アレクサンドロスとテウクロスは敗れて父と共に或る砦へと敗走し、一方リュキスコスはエウリュメナイを占領して略奪し、そこを破壊した。
89 この時、軍の敗北は聞いていたが続いて起こった勝利について知らなかったカッサンドロスはリュキスコスを助けるために急いでエペイロスへと向った。後者が優位に立ったことを知った彼はアルケタスと和解して友好を樹立した。そして、軍の一部を率いて彼はアドリア海方面へとアポロニアを包囲するために向った。というのも、そこの人々は彼の駐留軍を追い出してイリュリア人に接近していたからだ。しかし、そのアポロニア人は恐れず、他の同盟者からの助けが来て城壁の前に軍を配置した。戦いは激しくそして長く、数で勝っていたアポロニアの人々は敵を敗走させた。そして多くの兵士を失ったカッサンドロスは、十分な兵士がおらず、また冬が間近であったためにマケドニアへと戻った(83)。彼の出発の後、レウカス人はコルキュラ人の助けを受けてカッサンドロスの駐留軍を追い出した。幾時の間エペイロス人はアルケタスによって統治され続けた。しかし、彼があまりにも厳しく一般の人々を扱ったために、彼らは彼とまだ子供であった二人の息子エシオネオスとニソスを殺した。

セレウコスのバビュロニア奪回戦
90 アジアでは、シュリアのガザでのデメトリオスの敗北の後、セレウコスがプトレマイオスから僅か八〇〇人の歩兵と二〇〇騎の騎兵を受け取っただけでバビュロンへと出発した。彼は大きな期待をあまりにも膨らましていたために、たとえ全く兵士がいなくとも、彼の友人たちと自身の奴隷と共に内地に遠征したことだろう。かねてからの〔セレウコスへの〕好意のためにバビュロン人はすぐに味方してくれ、そしてアンティゴノスが軍と共に長い距離を後退したこと〔ガザの戦いの後のプトレマイオスの前進〕によって、自身の事業に都合の良い機会を得たと彼は考えていた。このような彼自身の熱狂の一方で、軍勢、豊富な資材、そして同盟者たちの忠実さのためにすでに大軍を擁していた敵に対して全くの少人数で戦争をしようとしていたことを知ると、同行した友人たちは少なからず落胆した。セレウコスは彼らが怯えているのを知ると、アレクサンドロスと共に遠征して武勇でもって彼と進軍した兵士たちは、武力と壮健さのみで武装して困難に立ち向かい、そして経験と技術によってアレクサンドロス自身は大業を成し遂げ普く偉業を賞賛を勝ち得たと言って彼らを励ました。彼は自身の戦争の終わりは彼の目的に見合うものであると予言した神託を信じるべきだとも付け加えた。それというのも、彼がブランキダイにて神託を聞いた時、神はセレウコスを王として迎え、そしてアレクサンドロスが彼の夢枕に立ったことによって、やがて彼のもとに来るよう運命付けられた未来の覇権の明らかな印が与られていたからだ。その上で彼は人々の間で賞賛される良いもの全ては苦労と危険を通して得られることを指摘した。しかし彼は戦友の好意を得ようともし、このような方法で彼ら皆と同じよう〔な苦労を受けること〕にし、各々の兵士は彼を尊重して喜んで大胆な冒険の危険を引き受けた。
91 進軍してメソポタミアに入ると、セレウコスはカライに定住していた幾人かのマケドニア人を彼の軍に合流するよう説得し、残りにはそれを強制した。彼がバビュロニアに進入すると、住民のほとんどは彼の許にはせ参じて彼の側につくことを宣言し、彼を助けると約束した。四年間その地方の太守をしていた時に彼は皆に寛大であったために一般庶民からの好意を得て、進軍においてもし総指揮権によって彼からの命令が与えられる機会があるならば、彼を助けるだろう人々を長らく確保していたのである。彼は一〇〇〇人以上の兵士と共にある地方で指揮権を持っていたポリュアルコスとも合流した。アンティゴノスへの忠誠を保っていた者達は人民の興奮が抑えられるものではないことを見て取り、ディフィロスが指揮官に任じられていた砦へ共に避難した。しかしセレウコスは、砦の包囲に取り掛かるやすぐにこれを占領し、バビュロンからエジプトへのセレウコスの出発の後、アンティゴノスの命によって監視下に置かれていた全ての友人と奴隷を取り戻した。これを終えると彼は兵士を徴募し、彼は馬を連れて来ていたので、それらを馬を扱うことができる者に分配した。全ての人と友誼を結んで全てのことにおける高邁な希望を掲げると、彼は仲間の冒険者たちを準備万端にさせてあらゆる条件の下でも熱意を持つようにした。このようにしてセレウコスはバビュロニアを回復したのである。
92 しかしメディアにいた将軍ニカノルがメディアとペルシアと隣接する地域から歩兵一〇〇〇〇人と騎兵七〇〇〇騎以上を召集すると、セレウコスは大急ぎで敵へと向かった。彼は全部で歩兵三〇〇〇人と騎兵四〇〇騎以上を持っていた。セレウコスはティグリス川を渡り、敵が数日の距離にいると聞くと奇襲を仕掛けようと思って兵士を付近の低湿地に隠した。ニカノルはティグリス川に至ったものの敵に気付いておらず、セレウコスはより遠くに逃げたと思い込んで適当な場所の一つで野営した。夜になってニカノルの軍が警備をなおざりにして怠けてきた時、大混乱を起こさんとしてセレウコスが突如襲い掛かった。ペルシア人が戦いに加わると、太守のエウアグロスは他の何人かの指導者らと共に倒れた。これが起こった時、一つには〔戦いの〕危険を恐れたために、もう一つにはアンティゴノスの振る舞いが気に入らなかったためにほとんどの兵士はセレウコスに降った。 ニカノルには少数の兵士しか残っておらず、敵に引き渡されるのではないかと恐れた彼は友人たちと砂漠を通って逃げた。そして、今や大兵力を支配下に入れて万事において立派に振舞っていたセレウコスは容易にスシアナ、メディアそしていくつかの隣接する地域を取り込んだ。彼は事業の達成についてプトレマイオスと他の友人たちに手紙を書いたわけであるが、彼はその時既に王らしい度量と王権に相応しい評判を有していた。

デメトリオスの雪辱戦
93 一方プトレマイオスはアンティゴノスの子デメトリオスを重要な会戦にて征した後もコイレ・シュリアに留まっていた。デメトリオスがキリキアから戻ってきて高地シュリアに野営していることを聞き、プトレマイオスは同行していた友人たちの中からマケドニア人のキレスを選んだ。そして彼に十分なだけの軍を与え、デメトリオスを完全にシュリアから追い払うかあるいは罠にかけて撃破することを命じた。キレスがその途上にいた一方でデメトリオスは間諜からキレスがミュオスで無用心に野営していると聞き、荷物を後に残して軽装兵を率いて進軍した。そして、早朝に敵に出し抜けに襲い掛かったデメトリオスは戦わずして兵を捕えて将軍その人を捕虜とした。このような成功を収めたことによって彼は〔ガザでの〕敗北を雪いだと信じた。とはいえ、プトレマイオスは全軍を率いてデメトリオスに向けて進んでくるだろうと考えた彼は沼地と湿地を防御のための外堡として用いて野営に入った。彼は勝ち得た成功について父に手紙を書き、可及的速やかに軍を送るかシュリアに自ら渡って来るよう訴えた。アンティゴノスはその時フリュギアのケライナイにたまたまいた。そして、手紙を受け取ると彼は息子が若輩にもかかわらず自分の力で困難を退け、王たるに相応しい様を示したことを大いに喜んだ。彼は自ら軍を伴ってフリュギアを発ち、タウロス山脈を越えて数日でデメトリオスと合流した。プトレマイオスはアンティゴノスの到着を聞いて指導者と友人たちを招集し、留まってシュリアで最終的な決着をつけるか、前にペルディッカスを倒した時のようにエジプトに退いてそこでの戦争に持ち込むのとどちらが良いか諮った。その全員が今や倍以上の兵力を有し、象の数ではずっと多い無傷の将軍の軍との戦いので危険を犯さないよう勧めた。彼らは豊富な蓄えがあり〔攻めるに〕困難な地形を頼むことができるエジプトでの戦争に持ち込む方がよっぽどやり易いと言った。そう決定するや彼はシュリアを去り、フォイニキアとシュリアのアケ、イオペ、サマリア、そしてシュリアのガザといった占領した価値のあるほとんどの都市を破壊した。かくして彼自身は軍と運べるだけの戦利品を伴ってエジプトに帰った。

ナバテア遠征
94 今や戦わずして全シュリアとフォイニキアを手にしたアンティゴノスは、ナバテア人と呼ばれるアラビア人の地への出征を望んだ(84)。この人たちは自身の考えに敵対していると判断した彼は友人の一人アテナイオスを選んで四〇〇〇人の軽装歩兵と足の速い六〇〇騎の騎兵を与え、夷狄を突然攻撃して戦利品として彼らの全ての家畜を手に入れるよう命じた。
 〔ナバテア人について〕知らない人たちのために、このアラビア人のいくつかの習慣を詳しく述べるのは有益であろう。以下のようにして彼らは自由を保持してると信じられている。彼らは野外で暮らしており、彼らの生まれた土地には川も十分な春もなく、敵対し〔て侵攻してき〕た軍も水を手に入れることもできないほどの荒野である。穀物を植えず、実のなる木を植えることも、果実酒を飲むことも、家を建てることも彼らの慣わしではない。そして誰かがこれとは反対のことをしているのが見つかると死罪になる。それらの物を持つ者は、それらを使い続けるためにその強力〔な便利〕さによって簡単にそれらのなすがままにさせられると信じているために彼らはこの習慣を続けているのである。彼らの一部は駱駝を、他は羊を育て、砂漠で放牧している。砂漠で放牧している多くのアラビアの民族がいる一方で、数において一〇〇〇〇人もいないにもかかわらずナバテア人が富においてずっと他を圧倒していた。というのも、彼らの少なからぬ者は海まで乳香、没薬そして最も価値ある種の香料を売るのに慣れており、彼らはそれらを運ぶアラビア・エウダイモンと呼ばれる人々から得ている。彼らは例外的に自由を好んでいる。そして敵の強力な軍隊が近くに来た時はいつでも砂漠へ非難し、砂漠を要塞として用いた。水が欠乏して他の者は〔砂漠を〕渡れなくなったが、彼らのみは化粧しっくいに沿った地下の貯水槽を準備していたために安定して〔水を〕得られた。土地に関していくつかの場所は粘土質で他は柔らかい石であり、彼らは非常に小さい出入り口の貯水槽を掘ったが、さらに深く掘ったために継続的に幅を増し、最終的にそれぞれの側で一プレトロンの長さになった。それらの貯水槽が雨水で満ちた後、彼らは入り口を閉じて残った土を被せ、彼らには分かるが他の者には分からない印を残しておいた。彼らは牛に一日おきに水を与え、そのために水のない場所を通って逃げようとも継続的に水を供給する必要がなかった。彼ら自身は肉と牛乳と地面に生えるこの目的〔すなわち食用に〕に適う植物を常食としている。そこには胡椒と彼らが水と混ぜて飲んでいる豊富な所謂「木からの天然の蜂蜜」が生えている。他のアラビアの民族たちもまた存在しており、その幾つかは農業を営み、貢納民と混ざって〔暮らして〕おり、家に住まないことを除いてはシュリア人と生活習慣を同じくしている。
95 アラビア人の習俗は以上のようなものである。辺りに住んでいる人が会議するのが慣わしになっている民族の集会に時期が近づくと、ある者は物品を売り、他の者は必要なものを買い、財産と老人、そしてまた女子供を或る岩に残して彼らはこの会議へと旅立つ。この場所はきわめて強固だが壁がなく、居住地域から二日の旅程の距離にある。
 この季節まで待った後、アテナイオスは軽装備の進軍隊形で軍を率いて岩へと向った。イドゥマイア地方から三日三晩かけて二二〇〇スタディオンを踏破し、彼はアラビア人の目をくぐって真夜中に岩を奪取した。そこを占領すると、彼は一部をすぐに殺し、一部を捕虜とし、負傷した他の者はそのまま残した。彼は乳香と没薬の大部分、そしておよそ五〇〇タラントンの銀を集めた。早朝の哨戒時にならないうちに夷狄の追撃を予期して彼は全速でそこを発った。彼と彼の兵は休むことなく二〇〇スタディオンを進んで疲れ、敵は二、三日は来ないだろうと信じて見張りをせず無警戒にも野営した。しかしアラビア人はその遠征を目撃者から聞き知ると、すぐに集まって会議の場所を出発し、岩へとやってきた。次いで負傷者から起こったことを知らされると、彼らは大急ぎギリシア軍を追跡した。一方疲れ切って深い眠りに落ちていたためにアテナイオスの兵は敵のことをほとんど考慮せずに野営しており、捕虜の一部が密かに脱走していた。そしてナバテア人は敵の状況を彼らから知ると、八〇〇人を下らない数で第三哨戒時に野営地を攻撃した。彼らは眠りこけていた敵兵の大部分を殺戮した。彼らは起きて武器へと走り寄った残りの者を投槍で殺した。結局歩兵の全員が殺されたが、およそ五〇騎の騎兵が逃げおおせ、その大部分は負傷していた。
 かくしてアテナイオスは最初に成功した後、後になって彼の愚かさのためにこのような目にあった。概して不注意と無頓着のために次に来た成功はもたらされたのである。このために幾人かの人は判断によって非常に大きな成功をするよりも、技量によって災厄にあう方が簡単だと正当にも信じた。というのも引き続いて起こることへの恐怖のために、災厄は人を慎重にするが、成功は以前の幸運のためにあらゆることへの不注意へと人を誘惑するからだ。
96 敢然と敵を罰すると、ナバテア人自身は取り戻した財物を持って岩壁へと戻った。しかしアンティゴノスに向けて彼らはシュリア語で手紙を書き、その中でアテナイオスを弾劾して自己弁護した。アンティゴノスは彼らに返信し、彼らは自己防衛において正当であることに同意した。そして、彼はアテナイオスは与えられた指示にもとる攻撃を行ったと言って非難した。彼はこのようにして自らの意図を隠して夷狄を欺いて安心させようとし、そして予想外の攻撃を加えて望みを果たそうとした。それというのも、遊牧民の生活を熱心にして砂漠を近づきがたい避難先として持つ者たちを出し抜く誤魔化しなしではそのことは容易ならざることだったからだ。大きな恐怖が和らぐと、アラビア人たちは非常に喜んだ。まだ彼らは全面的にアンティゴノスの言葉を信じてはおらず、彼らの予想は不確実だと考えてアラビアへ入る道を遠くから眺めやすい丘の上に警備隊を置き、彼ら自身は適当な仕方で事を取り決めた後、心配しながら決着を待った。しかしいくらかの間夷狄を友人として扱い、彼らがすっかり騙され、したがって彼らを攻める好機が到来したと信じるやアンティゴノスは軽装備で素早い進軍に向いていた全部で四〇〇〇人の歩兵と四〇〇〇騎以上の騎兵を選抜した。彼は彼らに調理が不要の七日分の糧秣を持っていくよう命じ、息子のデメトリオスに指揮を執らせた後、何であれ可能な仕方でアラビア人を処罰するよう命じて第一哨戒の間に彼らを送り出した。
97 かくしてデメトリオスは夷狄に見つからないように注意しつつ三日間道なき地方を通って進んだ。しかし見張りは敵軍が入り込んだのを見たため、前もって取り決められていた火の合図でナバテア人に知らせた。したがってギリシア軍がやって来たと知るとすぐに夷狄は岩盤へと財産を移してそこに単独では近づけないほどに十分に強力な守備隊を置いた。そして彼ら自身は家畜の群れを分けて、一部は一箇所に一部は他の場所にという風に砂漠に送った。デメトリオスは岩壁に到着して群れが移動し終わったのを見て取ると、砦へと繰り返し攻撃を仕掛けた。頑強に抵抗する者たちは高い場所のために簡単に優位に立っていた。そしてその日、彼は夜まで攻撃を続けた後、ラッパで兵士を呼び戻した。
 しかし、翌日に彼は岩壁が進んだ時、夷狄の一人が彼に呼びかけてこう言った。「デメトリオス王よ、砂漠で暮らして水も穀物も葡萄酒も、他に貴殿の人生の必要なものに相応しいどんなものも持たぬ我々への戦争へと貴殿を駆り立てるものはいかなる望み、あるいは一体何なのだ? 我々は自分から奴隷になるつもりはないのだから、皆で他の人々に価値ある全てのものが欠けた土地へと避難し、砂漠ですっかり野生の獣のように生きることを選んだのであって、貴殿らに何の害も及ぼしてはいない。したがって我々は貴殿とその父が我々を害さず、我々からの贈り物を受け取った後に軍を退いて今後はナバテア人を友人とするよう請い願うものである。というのも、もし貴殿が何日も居続けようと望むならば、貴殿は水や他の全ての必要な物資に困るだろうし、貴殿は我々に異なった暮らし方で暮らすことを強いることもできない。しかし貴殿は少数の捕虜を得るだろうが、その変わった生き方に従わない奴隷に失望することになるだろう」。その様に声明が述べられると、デメトリオスは撤兵してそのアラビア人たちにそれらの事柄についての使節を送るよう命じた。彼らは最も年老いた者を送って前に言ったのと同様の主題を繰り返して言い、最も高価な物産を贈り物として受け取って彼らと協定を結ぶよう彼を説得した。
98 合意された人質と贈り物を受け取ってデメトリオスは岩を離れた。三〇〇スタディオン進軍した後に彼は死海の近くで野営したのであるが、そこの性質は述べることなく通過すべきことではなかろう。この湖はイドゥマイアの太守領の真ん中に横たわり、およそ長さは五〇〇スタディオン、幅は六〇スタディオンになる。その水は非常に苦く非常な悪臭がし、そのために魚も他の動物も水の中には普段いなかった。水が異常に甘美な大きな川からそこへと流れ込んでいたにもかかわらず、悪臭がそれに優った。そして毎年の中盤から、面積にして時折三プラトラないし一プレトロン足らずの固形のアスファルトの塊が浮かび出てくる。すると、近くに暮らしていた夷狄は習慣的に大きな一頭の雄牛とより小さい一頭の子牛を呼んでくる。アスファルトが海に浮いている時、その表面は遠くからは丁度島ほどに見えた。アスファルトの噴出は二〇日前に起こり、何スタディオンも離れた海のあらゆる方向へ有毒な蒸気と共にアスファルトの臭いが広がり、その地方の全ての銀、金、そして青銅はその本来の色を失う。しかし、全てのアスファルトが出ていけばそれらはすぐに復活した。しかし、隣接する地方は非常に暑くて病んだ風土で、住民たちは病気がちな体で非常に短命だった。さらにその土地はどの部分であれ丁度よい川が交差しているか、水を引くことができる泉があったりして、椰子の木が生えるのに適していた。バルサムと呼ばれていたこの地方のある谷では、人が住んでいる場所にはどこにもない植物が見つかり、その薬としての使用は医師には非常に重要であったために大きな収入がもたらされた。
99 アスファルトが噴出すると、両側の海の近くで暮らしていた人々は互いに敵対していたためにそれを戦争の戦利品のように〔争って〕運び、船を使わない特有の仕方で収集した。彼らは葦の大きな束を準備をしてそれらを海に投じた。船では三人を越えない人員が位置について、うち二人が繋がれた櫂を漕ぎ、一人は弓を持って他の岸から向かってくる者や邪魔をしようとしてくる者を撃退する。彼らがアスファルトの近くに来てそこへと跳ぶと、あたかも軟らかい石のように破片を切り取っていかだの上にそれらを運び、持ち帰る。もしいかだが分解して泳ぎを知らないそのうちの一人が落ちても他の水域でのように沈まず、泳ぎを知っている者がするように水に浮かぶ。この液体はその性質のために、銀、金、鉛、そして同様の密度のある硬いものを除いて、成長や息をする力を持った重さのある身体〔つまり有機体〕を支える。そして他の湖に投げられたならば、それらは密度のある物質よりゆっくりと沈む。この収入源を持っていた夷狄はエジプトへとアスファルトを持って行って死体の防腐処理のためにそれを売った。これが他の芳香のある材料と混ぜられなければ、死体の保存は永続的にならない。
100 アンティゴノスは、デメトリオスが戻ってきて彼がしたことの詳細な報告をしてくるとナバテア人はデメトリオスの寛仁のためにではなく彼らをデメトリオスが倒すことができなかったために容赦を得たと思うだろうがために、アンティゴノスは夷狄を罰しなかったことによって彼らをずっと大胆にしたと言ってナバテア人との条約で彼を叱責した。しかしアンティゴノスは池を調査して王国の財源を明らかに見つけたことでデメトリオスを褒めた。彼は歴史を書いたヒエロニュモスをこれ〔アスファルトの採取〕の担当とし、船を準備し、全てのアスファルトを集め、そしてそれをある所に集めるよう指示した。しかしアラビア人は六〇〇〇人を集めて船に向って葦のいかだで航行し、矢でそのほとんど全員を殺したために、結果はアンティゴノスの期待通りにはならなかった。結果、アンティゴノスは彼が被った敗北と彼の心が他のより重要な問題へと向ったのためにその財源を諦めた。その時メディアと高地太守領の将軍ニカノルからの手紙を携えた急送運搬人が彼の許に来た。この手紙には内陸へのセレウコスの侵攻および彼によって被った災害の報告が書かれていた。そこで高地太守領を心配したアンティゴノスは、五〇〇〇人のマケドニア人と一〇〇〇〇人の歩兵と四〇〇〇騎の騎兵を付けて息子のデメトリオスを送った。そしてアンティゴノスはデメトリオスに海路でもって全速で向かい、太守領を回復した後、バビュロンへ向うよう命令した。
 シュリアのダマスコスから出発したデメトリオスは熱心に父の命を実行した。セレウコスによってバビュロニアの将軍にされていたパトロクレスは、敵がメソポタミアの国境にいると聞き、手元には少しの兵士しかいなかったために〔敵の〕到着を敢えて待たなかった。そして彼は市民に都市からの退避命令を下し、その一部にはエウフラテス川を渡って砂漠に避難し、一部にはティグリス川を渡りスシアナへ、エウテレスへ、紅海〔正しくはペルシア湾〕へと向かうよう命じた。パトロクレス自身はその時、手持ちの兵士を連れて川と運河を背にして身を守り、太守領に留まった。敵を執拗に攻撃しつつ、彼はその時メディアにいたセレウコスに起こったこと全てを知らせ、すぐに救援を送るよう訴えた。バビュロンに到着したデメトリオスは放棄された都市を見つけて砦の攻囲を開始した。彼はそれらの一つを奪取して兵士を略奪のために送り込んだ。他の砦を彼は数日間包囲したが、攻略に時間を要したために五〇〇〇人の歩兵と一〇〇〇騎の騎兵を授けて友人の一人アルケラオスを攻囲の将軍として残し、一方で自身はその時帰還の命令を受けた時期が迫っていたために残りの軍と共に海〔地中海〕まで進軍した。

サムニウム戦争の続き
101 このことが起こっていた一方でイタリアではローマ人がサムニウム人との戦争を行っており、イタリアで二つの最も好戦的な人々が覇権をめぐって戦っていたために郊外への幾度もの襲撃と都市の包囲戦、平地で両軍の戦闘が起こり、あらゆる種類の戦いが行われていた。その時に軍の一部を率いて敵の野営地と対陣していたローマの執政官たちは戦いの好機を待ちつつ、同時に同盟諸都市を保護していた。残りの軍と共に独裁官に選出されていたクィントゥス・ファビウスはフレゲラエ人の都市を占領してローマ人と対立していた人たちのうちで主たる人たちを捕虜とした。彼は数にして二〇〇人以上をローマへと連行して広場へと引き立て、父祖の習慣に基づいて杖で叩いて斬首した。すぐ後に敵地に入ると彼はカラティアとノラの砦を包囲戦によって落とした。そして莫大な戦利品を売却したが、土地は兵士に分配した。人々は事態が彼らの思い通りに進展していたため、ポンティアと呼ばれる島に植民団を送った。

アガトクレスのシケリア制覇戦
102 シケリアではメッセネ人を除くシケリア人とアガトクレスとの間で丁度講和が成り、シュラクサイ人亡命者たちはメッセネを王〔アガトクレス〕と敵対する唯一の都市であることを見て取るとメッセネに集まってきた。しかしその一団を解体させようと目論んでいたアガトクレスは軍を付けてパシフィロスを将軍としてメッセネに密命を授けて送った。パシフィロスは出し抜けにその地方に侵入して多くの捕虜とその他大量の戦利品を獲得し、メッセネ人に彼との友好を選んで、彼の最も苦々しい敵と同じように協定を結ばされる羽目にならないよう強制した。メッセネ人は戦争が血を流すことなく終わるのではないかという期待を持ち、シュラクサイ人亡命者を立ち退かせてアガトクレスが近くまで軍を連れてくると彼を迎え入れた。まず彼は彼らを友好的に扱って彼らに彼の軍内にいた亡命者、メッセネ人によって合法的に〔追放刑で〕罰せられた人たちを受け入れるよう説得した。しかし次に彼はタウロメニオンとメッセネから彼の支配に以前対立していた人たちを連れてこさせてその全員を処刑し、その数は六〇〇人を下らなかった。というのも彼の意図はカルタゴ人と戦争をすることであり、彼はシケリア中の全ての対立を取り除こうとしていたからだ。メッセネ人は自分たちと最も親しく、僭主から彼らを守る力を最も持っていた非市民らを追い出し、王と対立していた市民がもう殺されてしまったことを理解し、さらに有罪判決を下された人たちを受け入れさせられてしまい、自分たちのしたことを後悔した。しかし彼らの主となった人の優勢な武力によって完全に威圧されていたために彼らには服従する以外の道はなかった。アガトクレスはその都市も自分の意のままにしようとしてアクラガスへとまず向かった。しかしカルタゴ軍が六〇隻の艦隊で航行してくると彼は目的を諦めた。しかし彼はカルタゴ人に帰属する領地に侵入して荒らし、幾つかの要塞を力づくで落として他は交渉によって味方に付けた。
103 このことが起こっていた一方で、シュラクサイ人亡命者の指導者であったデイノクラテスはカルタゴ人に手紙を送ってアガトクレスがシケリア全域を彼の支配に組み入れる前に救援を送るよう求めた。デイノクラテスは強力な軍を有していたため、メッセネから追い出された亡命者を受け入れた後に友人の一人ニュンフォドロスをケントゥリパ人の都市へと兵の一部を付けて急派した。この都市はアガトクレスによって守備隊を置かれていたものの、主な人々は自治権を与えられるという条件で裏切りの約束をした。しかしニュンフォドロスが夜に市に突入すると、何が起こったのかを知った守備隊長らは彼その人と城壁の内部へと猛進していた兵たちを殺した。この機に乗じてアガトクレスはケントゥリパ人を弾劾して扇動の責任者と考えられた人々を皆殺しにした。王がこのことを行っていた一方で、カルタゴ人はシュラクサイの大港湾へと五隻の快速船で航行した。それらはそれ以上のことができなかったが、アテナイから来た二隻の商船を襲って船を沈めて乗組員の両手を切り落とした。彼らは無辜の人たちを明らかに残忍な仕方で扱ったのであり、神々は速やかにこの証を彼らに与えた。それからすぐに一部の船がブレッティアの近辺で艦隊からはぐれると、それらはアガトクレスの将軍たちによって拿捕されて生け捕りにされてたフォイニキア人は彼らが捕虜にしたのと似た運命を辿った。
104 デイノクラテスと共にいた亡命者たちは三〇〇〇人以上の歩兵と二〇〇〇騎を下らない騎兵を有していたためにガレリア(85)と呼ばれる土地を占領し、そこの市民は自発的に彼らを迎え入れた。彼らはアガトクレスの支持者を追い出したが、自分たちは市の前に野営した。しかしアガトクレスが速やかに彼らに向けてパシフィロスとデモフィロスを五〇〇〇人の兵と共に送ると、デイノクラテスとフィロニデスに率いられ、そのそれぞれが翼を指揮していた亡命者軍との間で戦いが起こった。しばらくの間戦いは互角で、両軍は熱烈に戦った。しかし将軍の一人フィロニデスが倒れると彼の軍の一部は逃げ出し、デイノクラテスもまた撤退を強いられた。パシフィロスは敗走の過程で多くの敵を殺してガレリアを再占領した後、扇動の廉で人々を殺した。アガトクレスはカルタゴ軍がゲラ領のエクノモスと呼ばれる丘を占領したことを聞き知ると戦いで全軍で決着をつけようと決めた。彼らに向けて出撃してその近くに来ると、以前の勝利で得意になっていた彼は戦いを挑んだ。しかし夷狄は敢えて彼とは戦おうとはせず、彼は自分は今や完全に原野を戦うことなく支配したのだと思ってシュラクサイへと去って戦利品で主な神殿を飾った。
 私が探し当てることのできたこの年の出来事は以上のようなものであった。

アレクサンドロス四世の死
105 アテナイでシモニデスがアルコンだった時、ローマ人はマルクス・ウァレリウス〔・マクシムス〕とプブリウス・デキウス〔・ムス〕を執政官職に選んだ(86)。彼らが任期にあった間にカッサンドロス、プトレマイオス、そしてリュシマコスはアンティゴノスと協定を結んだ。これの中でカッサンドロスはロクサネの息子アレクサンドロスが成年になるまではヨーロッパの将軍となり、リュシマコスはトラキアを支配し、プトレマイオスはエジプトとリビュアとアラビアに隣接する諸都市を支配し、アンティゴノスは全アジアで第一の地位を占め、ギリシア人は自治権を持つこということになった。しかし、彼らはその同意など一顧だにせずに都合の良い口実を持ち出して自らの勢力を増大しようとし続けた。さて、カッサンドロスはロクサネの息子アレクサンドロスが育ってきてマケドニア中にさる人たちによって監督下からその少年を解き放って父の王国を与えるのに丁度良い頃合いであるという噂が広められたのを知った。そして彼は〔噂の通りになることを〕恐れてその子の護衛隊を指揮していたグラウキアスにロクサネと王を殺してその遺体を隠し、事の次第を秘密にしておくよう命じた。グラウキアスがその指示を実行に移すと、カッサンドロス、リュシマコス、そしてプトレマイオス、さらにアンティゴノスは予期される王から発する彼らの危険(87)から解放された。というのもそれ以降もはや王国の継承者がいなくなり、地方や都市を支配していた者の各々は王権への希望を露わにしてあたかも槍によって勝ち取った王国であるかのように自らの権勢下に置かれた領地を保持した。
 アジアとギリシア、そしてマケドニアの状況は以上のようなものであった。
 イタリアではローマ人が歩騎の強力な軍隊でもってマルキニ人の都市ポリティウムと戦った。また彼らは幾らかの市民を植民団として送り出してインテラムナと呼ばれる場所に住まわせた。

ハミルカルのシケリア遠征開始、ヒメラス川の戦い
106 シケリアではアガトクレスがその勢力を増大させてより強力な軍勢を集めていたためにカルタゴ人はその君主が島の諸都市を自らの目的のために組織しており、武装した軍勢によって自分たちを凌駕しているいるのを聞くと、より積極的に戦争を開始しようと決めた。したがって彼らはすぐに一四〇隻の三段櫂船を集めて最も優れた人であったハミルカル(88)を将軍として選出し、彼にその中に多くの貴族を含む二〇〇〇人の市民兵、リビュアからの一〇〇〇〇人、エトルリアからの一〇〇〇人の傭兵と二〇〇人のゼウギッパイ(89)、一〇〇〇人のバリアリデス諸島の投石兵、また大量の資金としかるべき分量の投擲兵器の蓄え、食料、その他戦争に必要なものを与えた。全艦隊がカルタゴから海に漕ぎだした後に突如嵐がそれを襲って六〇隻が沈み、物資を運んでいた二〇〇隻の船が完全に破壊された。残りの艦隊は大嵐に遭いながらも苦労してシケリアに無事到達した。少なからぬカルタゴ貴族が消えたために市は公に喪に服した。市が何か大きな災難に見舞われた時には黒い粗麻袋で城壁を覆うのが彼らの習わしであった。将軍ハミルカルは嵐を生き延びた兵士を集めて傭兵を徴募し、その仕事に適していたシケリアの同盟国軍を集めた。また彼はシケリアにすでにいた軍を引き継いで戦争に好都合な全てのことを考慮に入れ、開けた土地からおよそ四〇〇〇〇人の歩兵と五〇〇〇騎近い騎兵を兵士をかき集めた。自らが経験した運命を迅速に改善して良将の評価を勝ち得たため、彼は同盟者の砕けた心を復活させて自らの敵に尋常ならざる困難をもたらした。
107 アガトクレスはカルタゴ軍が自軍よりも優越していることを知ると、少なからぬ砦がフォイニキア人に寝返って諸都市も自分から離反するだろうと推測した。彼は敵の全軍が上陸したことを知ってとりわけゲラ人の都市のことを気にしていた。およそこの頃に海峡で乗組員もろとも二〇隻の船がカルタゴの手に落ちたために彼は相当の海上戦力を失ってもいた。にもかかわらずゲラ市を守備隊によって守ることを決め、〔カルタゴに寝返るための〕口実を探していたゲラ人が先手を取り、多くの供給物を彼に提供していたその都市を失うことにならないようにと思って彼は敢えておおっぴらに軍を率いて行こうとはしなかった。したがって彼はあたかも彼の部隊が数で市兵よりも圧倒的に勝るようになるまで、特別に必要であるかのように一旦少数の兵士を送った。またすぐに彼は自ら乗り込んできて裏切りと〔協定条項の〕放棄のためにゲラ人を非難したのであるが、それは彼らが現にこのようなことをしようと企んでおり、そしてまた彼が追放者によってなされた不当な非難を真に受けていたか、あるいは再びその富を手にしようと望んでいたためであった。そして彼は四〇〇〇人以上のゲラ人を殺してその財産を没収した。彼は従わない者を罰で脅して全てのゲラ人に貨幣と鋳造されていない金銀を引き渡すよう命じもした。全ての人が恐怖のために速やかにその命令を実行したために彼は多額の資金を得て彼に従属していた全ての人に恐るべき恐怖を起こさせた。ゲラ人をしかるべき以上により残忍に扱おうと考えたため、彼は城壁の外側の塹壕に殺した人を積み上げ、市に十分な守備隊を残して敵へと向かっていった。
108 カルタゴ軍はファラリスの砦と人々が言っていたエクノモス丘に陣取っていた。そこにこの僭主は有名な青銅の牛を作り、その装置はその苦行に服す人を苦しめるために下から火で熱せられるようになっており、またその場所は彼の犠牲者に対してなされた無慈悲な行いのためにエクノモス(90)と呼ばれるようになったと報告されている。他方アガトクレスはファラリスのものであり、彼にちなんでファラリオンと呼ばれていたもう一つの砦に陣取った。両軍の野営地の間の場所には川〔ヒメラス川〕があり、この川は双方が敵に対する防壁として使っていた。この場所の近くで多くの男が戦いで倒れるよう運命付けられているという昔からの言い伝えが目下の時にあった。しかし、どちらにその不運が降り懸かるのかは明らかではなかったため、両軍は迷信じみた恐怖に満たされて戦いを嫌がった。したがって彼らは予期せぬ原因で本格的な戦いへと駆り立てられるまでは長い間敢えて無理やりに川を渡ろうとはしなかった。敵地へのリビュア兵による襲撃がアガトクレスをして同様のことを行わせしめ、ギリシア軍が略奪を働いてカルタゴ軍の野営地の何頭かの荷駄獣を引っ張っていくと、兵士たちが野営地から彼らを追いかけてきた。事の次第を予想するとアガトクレスは川岸に勇気の点で選んだ兵士たちを置いて待ち伏せを行わせた。カルタゴ軍が獣を引っ張ってくる兵士を追って川を渡ってくると、隊列を組まず無秩序だった兵士に彼らは待ち伏せ地点から突如として襲いかかって易々とこれを撃退した。夷狄の兵が殺戮されて野営地へと逃げていくと、アガトクレスは戦って決着をつけるべき時が来たと考えて敵の野営地へと全軍を率いて向かった。彼らに予期せぬ攻撃をかけて即座に壕の一部を抑えたために彼は柵を突破して野営地へ突入した。カルタゴ軍は予期せぬ攻撃のために恐慌状態に陥って隊列を組む暇を得ることができず、敵に対して手当たり次第に戦うことになった。双方が壕をめぐって激しく戦い、全ての場所がすぐに死体で満たされた。カルタゴ人のうちで最も高貴な人たちは野営地が占領されかけているのを見て取ると救援へと走り、そしてアガトクレス軍は手にした優位に元気付けられてこの一戦で全戦争の決着をつけることになるだろうと信じて夷狄を激しく圧迫した。
109 しかしハミルカルは彼の兵士が打ちひしがれていてギリシア軍が絶えず数を増して野営地へと向かいつつあるのを見て取ると、バリアリデス諸島からの少なくとも一〇〇〇人の投石兵を繰り出した。石の雨を降らせることで彼らは多くの兵士を負傷させ、攻撃をかけていた少なからぬ数の者を殺しさえし、その大部分の者の防御力に優れていた鎧を粉砕した。一ムナの重さの石を投じる習わしだった彼らは子供の頃から投石を絶えず行っていたため、その戦いでの勝利に大いに貢献した。このようにして彼らはギリシア軍を野営地から追い払って破った。しかしアガトクレスは他の地点で戦いを続けており、リビュアからの予期せぬ援軍がカルタゴ軍へと海からやってくると野営地は強襲によってすでに落とされた。したがって再び意気を取り戻すと彼らは野営地でギリシア軍と正面切って戦い、援軍が四方八方から彼らを包囲した。ギリシア軍は予期せぬ方向から被害を受けたために戦況はすぐに逆転した。ある者はヒメラス川へと、他の者は野営地へと逃げた。撤退は四〇スタディオンの距離に及び、ほとんど全域が平坦な土地であったために彼らは五〇〇〇騎を下らない夷狄の騎兵から激しく追撃された。その結果辺りは死体で埋め尽くされ、その川はギリシア軍の壊滅に大いに寄与した。その時はシリウスの季節で、追撃は真っ昼間に起こったために暑さと敗走によって起こった苦痛のためにほとんどの逃亡兵は渇きに非常に苦しめられ、彼らは塩水だろうとがぶ飲みした。したがって少なからぬ兵士が追撃そのもので殺され、無傷の遺体が川縁で見つかることになった。この戦いでおよそ五〇〇人の夷狄が、七〇〇〇人を下らないギリシア人が倒れた。
110 アガトクレスはこのような災難に遭うと、後方に逃れて生き延びた者を集め、陣を焼き払った後にゲラへと撤退した。彼が自分はすぐにシュラクサイへと向かうことを決めたと発表した後に三〇〇騎のリビュア人騎兵が平野でアガトクレスの兵の一部を襲った。アガトクレスがシュラクサイへと発ったと言われてリビュア兵はゲラへと友人として入ったが、予想を裏切られて射殺された。しかしアガトクレスはシュラクサイへと安全に向かうことができなかったのみならず、シュラクサイ人は何も恐れず季節に応じて作物を収穫していたため、カルタゴ軍をゲラの包囲へとおびき寄せようと思ってゲラに籠もった。ハミルカルは当初はゲラを包囲しようとしたが、市内に防衛軍がいてアガトクレスがあらゆる物資を豊富に持っていたことを見て取ると、その試みを諦めた。代わりに諸要塞と諸都市に滞在し、シケリア人の支持を得ようとして全ての人々を優しく扱った。カマリナとレオンティノイ、またカタネとタウロメニオンの人々はすぐに使節団を送ってカルタゴ軍の味方になり、数日のうちにメッセネとアバカイノンと他多くの都市が互いに競ってハミルカルに寝返った。僭主への憎悪のために敗北の後に人々はこのようなことを望んだからだ。しかしアガトクレスは軍の生き残りをシュラクサイへと率いていき、城壁の壊れていた部分を修繕して郊外から穀物を運び込み、市には十分な守備隊を残して軍の最強の部隊を連れてリビュアに渡って戦争を島から大陸へと移そうとした。
 しかし我々は冒頭での計画に則ってアガトクレスのリビュア遠征で次の巻を始めることにしよう。




(1)ディオゲネス・ラエルティオス, 『ギリシア哲学者列伝』, I, 50(邦訳では上巻の49ページ)。
(2)紀元前318年。
(3)紀元前317年から紀元前312年。
(4)紀元前317-316年。
(5)紀元前318年。
(6)アガトクレスが生まれたのは紀元前461年。
(7)紀元前341年。
(8)紀元前325年頃。
(9)ディオドロスは前巻ではこの人物には言及していない。
(10)紀元前317年から紀元前316年。
(11)ティモレオンの墓の近くに建てられた体育場。
(12)紀元前317年。
(13)第二次サムニウム戦争(紀元前326年-紀元前304年)の9年目、つまり紀元前318年。
(14)紀元前323年-紀元前317年。
(15)紀元前317年の秋。
(16)アレクサンドロスの死はカッサンドロスによる暗殺だという説が古来より唱えられていた。
(17)紀元前318年末から317年初までの冬。
(18)セレウコスは運河の水の通り道を作ることで河水を意図的に氾濫させ、エウメネス軍の渡河を防ごうとした。
(19)エウメネスは318年10月に占領していたバビュロンの砦を押さえていた。
(20)18巻39章ではパルティア太守はフィリッポスとなっている。このフィロタスというのはフィリッポスの間違いか。
(21)上記の兵力は合算すれば歩兵18500人と騎兵4210騎になり、ディオドロスの計算とは食い違う。なお、27章のパライタケネの戦いでは上記の太守たちに加えてメソポタミア太守アンフィマコス(600騎の騎兵を指揮)の名が挙がっている。
(22)紀元前318年末から317年初までの冬。
(23)このアンティパトロスは王の摂政とは別人。
(24)紀元前316-315年。
(25)紀元前317年。
(26)次章での記述も踏まえるならば、このクセノフィロスが15章で言及されていた会計係であろう。
(27)パシティグリス川の間違いか。エウメネスはティグリス川を既に渡っている。
(28)6月の後半。
(29)コプラテス川の戦いが起こったのは紀元前317年6月。
(30)灼熱の土地の通過、エウメネスによる奇襲、そして山岳民族による襲撃。
(31)恐らく地中海のことであろう。
(32)エウメネスの兵力を前章と合算すれば、重装歩兵一七〇〇〇人、六〇〇〇騎、戦象一二五頭になる。歩兵の足りない一八〇〇〇人は(あまりにも数が多すぎるものの)数が挙げられていない軽装歩兵や弓兵や投石兵であると考えるとしても、やはり騎兵は一〇〇騎足りず、戦象は一〇頭超過しており、ディオドロスの計算は合わない。
(33)古代ギリシアの慣例では敵を敗走させて最後まで戦場に留まり続け、戦死者を埋葬する資格を得ることが勝利の証とみなされていたから。
(34)これはアンティゴノスが先に遺体を回収して埋葬し、彼の軍の損害がエウメネス軍の損害を上回っていることをエウメネスに悟らせないようにするためであったという(ポリュアイノス, IV. 6. 10)。
(35)包囲の開始は紀元前317年から316年にかけての冬。
(36)紀元前317年12月。
(37)ペルシア王カンビュセス二世の死後(紀元前522年)、マゴス僧のスメルディスが王位を簒奪すると、ダレイオスをはじめとする七人のペルシア人貴族が紀元前521年にスメルディスに対してクーデタを起こしてスメルディスを殺し、ダレイオスが王位についたといわれている。ヘロドトス(『歴史』, III. 61-87)クテシアス(『ペルシア史』)にこの顛末は載っているが、それぞれの内容は食い違う点もある。
(38)紀元前317年から316年にかけての冬。
(39)同地はエウメネスに与していたスタサンドロスが治めていたので、彼はおそらく戦死したか、44章でエウダモスと共に殺された「彼にいつも敵対していた同じような他の幾人か」の一人として処刑されたかしたのであろう。また、メソポタミア太守アンフィマコスの消息も不明であり、これ以降の言及がいないので、ひょっとしたら彼もまたスタサンドロスのような末路を辿ったのかもしれない。
(40)餓死のこと。
(41)オリュントスはフィリッポス二世によって紀元前348年に落とされた時、彼によって破壊されていた。
(42)ディオドロスの記述は話を省略しすぎていて話が通じ難いので、神話時代のテバイについて整理すると以下のようになる。テバイに戻って王となったカドモスは老齢のために退位し、彼の娘のアガウエの息子ペンテウスに王位を譲った。しかしペンテウスはディオニュソスの差し金でアガウエによって殺され、その後カドモスの息子(アガウエの兄弟、ペンテウスの伯父)ポリュドロスが王位に就いた。ディオドロスの述べる「二度目の追放」はリュドロスが王位に就いた時に起こったものであろう。それからポリュドロスは幼い息子ラブダコスを残して死に、ポリュドロスの妻の兄弟ニュクテウスとリュコスが相次いでラブダコスの摂政になった。それからラブダコスもまた幼い息子ライオスを残して死んだため、リュコスが実権を握ることになった。リュコスとその妻ディルケは、ニュクテウスの娘アンティオペを虐げたため、アンティオペとゼウスとの間に生まれたアンフィオンとゼトスはテバイを攻撃してリュコスを破り、アンフィオンが王位に就いた。
 このアンフィオンの妻ニオベは子供の多さを二人しか子供がいない女神レトに自慢したため、レトの子であったアポロンとアルテミスに子供を皆殺しにされた。
(43)紀元前315-314年。
(44)紀元前316年。
(45)紀元前316年12月。
(46)古市のテュロスはフォイニキアの本土にあり、新市の方は本土の近くに浮かぶ島に建てられた。このために紀元前332年に新市を攻めたアレクサンドロスのように目下の紀元前315年に攻めたアンティゴノスも新市の攻略には海軍を必要とした。
(47)この欠損部分には馬の飼料として必要だった大麦の量が記載されていたと推定されている(N)。
(48)このマケドニア人というのは軍人ではい(N)。なお、テュロスに戻った59章以降アンティゴノスが場所を移動したとは書かれていないので、総会を開催して布告を発したのはテュロス、あるいは少なくともシュリアであろう。
(49)紀元前314年。
(50)全部で一四三隻しかないが、おそらく書き落とされている残りの九六隻は三段櫂船であろう(N)。
(51)紀元前315年の夏に開催された。
(52)リウィウスを除いた他の古典期の著者はアプリアにおいてフェレントゥム(Ferentum)と呼ばれる地名について言及しておらず、この地名の正しい読みはフォレントゥム(Forentum. 今日のラヴェッロ)であろう(N)。なお、この都市が占領されたのは紀元前317年である。
(53)紀元前314-313年。
(54)紀元前315年。
(55)プレペラオスはカッサンドロスが軍と共にアジアへと送った将軍で、アサンドロスはカリアの太守である。
(56)紀元前314年から翌年にかけての冬。
(57)前者二人はアレクサンドロス治世下でも言及が多く、彼らについての情報が多いが、後者二人についてはアレクサンドロス治世下での言及はない。彼らのこれ以前の来歴については、フィリッポスは紀元前323年にバクトリア及びソグディアナの太守に任じられた人物であるかもしれないこと、アンドロニコスは本巻59章で言及されていることしか分からない(N)。
(58)「ピュドナ人」というのは十中八九誤記で、「プトレマイオス」ないし「ポリュクレイトス」の表記間違いであろう(N)。
(59)紀元前331年のメガロポリスの戦いでの敗北を指す。アレクサンドロスが東征で出払った隙を突き、ペルシアの援助を得たスパルタ王アギス3世が紀元前331年に挙兵してマケドニアに戦いを挑んだ。アギスはアレクサンドロスからマケドニアとギリシアを任されていたアンティパトロスとメガロポリス近郊で戦って敗れ、自らも命を落とした。この戦いについては17巻62、63章を参照。
(60)タラスはスパルタからの植民団が建設した都市であったため、スパルタ人とは同族になる。
(61)この人物は十中八九、アガトクレスと戦って敗れて亡命した貴族派の領袖ソストラトスであろう。
(62)ハミルカルは裏切りの廉で告発されて裁判が終わる前に死んでいた(ユスティヌス, XXII. 3)。
(63)リウィウスはこの植民都市の建設を紀元前314年としているが、ディオドロスでは313年になる。ルケリアは第二次ポエニ戦争の最悪の時期でもローマへの忠誠を守り続け、同盟市戦争ではポンペイウスが司令部として使った(N)。
(64)紀元前313-312年。
(65)紀元前314年。
(66)黒海のヨーロッパ側の沿岸。
(67)包囲開始の年代は不明だが、紀元前310年までカランティア人はリュシマコスの包囲を持ち堪えていた(N)。
(68)ディオゲネス・ラエルティオスは「デメトリオスの従兄弟」としてこの人名に言及しており(ディオゲネス・ラエルティオス, 『ギリシア哲学者列伝』, V. 79; 邦訳では中巻の90ページ)、両者が同一人物だとすればテレスフォロスはアンティゴノスの甥ということになる(N)。
(69)このフィリッポスは恐らくカッサンドロスの弟であり、アレクサンドロス王の献酒係の一人だった人物であろう。この遠征での速攻作戦から中々優秀な将軍と見えるものの、彼はこれ以降歴史の表舞台から消える。彼の息子のアンティパトロスは紀元前279年に45日間の短命政権ではあったがマケドニア王となった(N)。
(70)このドキモスはペルディッカス派の将軍とは別人。
(71)紀元前314年。
(72)紀元前312-311年。
(73)紀元前313年。
(74)カッサンドロスの弟。
(75)現在のマルマラ海。
(76)紀元前313/312年の冬。
(77)紀元前313年。
(78)この文は不完全であり、脱文が疑われている(N)。
(79)ゴラン高原を指す。
(26)「この強行軍はコイレ・シュリアの基地からキリキアのマロスへのものである。ペルシアの道に置かれた駅の間の行程や距離の長さは画一的ではない。我々が17マイル〔約27.35キロメートル〕をその平均とするならば、子の軍は六日間で400マイル〔約643.73キロメートル〕ほどを踏破したことになるが、この距離は到底現実的とはいえない」(N)。
(81)ガザは紀元前332年にアレクサンドロス3世によって落とされた時に破壊されていたが、砦としての機能は維持したようである(N)。
(82)アリュンバスの息子でアイアキデスの兄。アルケタスは激しい気性のために父によって追放され、弟のアイアキデスが王位についていた(パウサニアス, I. 11. 5)。
(83) 312-311年の冬。
(84)「明らかにこれは彼が心に抱いていたエジプト遠征の下準備であった。カンビュセスはエジプトに攻め込む前にアラビア人と協定を結んだ」(ヘロドトス, 3. 4-9)(N)。
(85)正確な場所は不明。
(86)シモニデスは紀元前311-310年のアルコン、マルクス・ウァレリウス・マクシムスとプブリウス・デキウス・ムスは紀元前312年の執政官。
(87)彼らの支配権があくまで臣下としてのものであるために生じるもの。
(88)七一、七二章の同名の人物とは別人
(89)「もしこのテクストが正しいとすれば、二九章二節の「アンフィッポイ」〔amphippoi〕のようにこの未知のゼウギッパイ〔zeugippai〕なるものはそれぞれが卓抜の馬を持った騎兵であると考えるべきであろうが、ひょっとするとそれは『ゼウギタス』〔zeugitas〕つまり重歩兵と読むべきなのかもしれない」(N)。
(90)「無法」の意。




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