16巻→ディオドロス『歴史叢書』18巻→19巻

アレクサンドロス死後の体制と帝国の第一次分割
1 サモスのピュタゴラスと幾らかの他の古の哲学者たちは人間の魂は不死であり、またこの理説によって魂は肉体を離れる臨終の時に未来を予見すると明言したものである。臨終の際のヘクトルにアキレウスもすぐに死ぬだろうという予言をさせている詩人のホメロスは彼らに賛同しているといえよう。同様により最近においてさえ、我々が既に述べたことが多くの人にその臨終の時、とりわけマケドニアのアレクサンドロスの臨終の際に起こったことが報告されている。彼がバビュロンでの臨終の際に友人たちから誰に王国を残すのか問われると彼は言った。「最も強い者に。私の友人たちの大戦争が私の葬儀の競技祭となるだろうと予言しよう」。実際にこのようになり、アレクサンドロスの死後最も高名な彼の友人たちは最高権力を争って大戦争に加わった。
 この巻ではその友人たちによる所業についての説明を扱っており、興味を持った読者にはかの哲学者の言ったことが明らかになることだろう。前巻にはアレクサンドロスの事績とその死までを扱った。ここでは彼の王国の継承者たちの事績を収め、アガトクレスの僭主制の前の年で終わる七年間(1)を扱う。
2 ケフィソドロスがアテナイでアルコンだった時(2)、ローマ人はルキウス・フリウスとデキウス・ユニウスを執政官に選んだ(3)。彼らの任期の間、アレクサンドロス王は子供を残さずに死んだために王位は空位となり、主導権をめぐる大論争が起こった。歩兵のファランクスは、不治の精神病を患っていたにもかかわらずフィリッポスの子アリダイオスを王位に推した。しかし、フィロイと側近護衛官たちの中で最も影響力のあった者たちは相談してヘタイロイとして知られる騎兵部隊と協力し、まずファランクスに対して武器を取ること、そして高位の者の中から最も高名な者であったメレアグロスを選んで彼らの命に従わせることを依頼して歩兵たちへと使者として送ることを決定した。しかし、ファランクスの兵士たちのところに来るとメレアグロスは任務のことを述べず、逆に彼らを彼らが行って彼らの敵に対する怒りを鮮明にした決議のために褒め称えた。結果、マケドニア人はメレアグロスを彼らの指導者とし、彼らに反対した者たちに対して武装して向った。しかし側近護衛官たちがバビュロンから退却して戦争の準備を始めた時にはほとんどの兵士は和解へと心が傾いており、諸派は和合へと説得された。直ちに彼らはフィリッポスの子アリダイオスを王とし、彼の名をフィリッポスと改めた。ペルディッカスは、王が臨終の際に彼に王の指輪を与えために王国の摂政となった。そして彼らはフィロイと側近護衛官たちのうちで最も重要な人物たちが太守領を得、王とペルディッカスに従うことを決定した。
3 ペルディッカスは最高指揮権を手にした後に主要人物らと相談し、エジプトをラゴスの子プトレマイオスに、シュリアをミテュレネのラオメドンに、キリキアをフィロタスに、メディアをピトンに与えた。エウメネスにはアレクサンドロスがダレイオスとの戦争を終わらせる時に緊急の事情のために侵略しなかったパフラゴニアとカッパドキアとそれらと接する土地の全てが与えられ、アンティゴノスにはパンヒュリア、リュキア、そして大フリュギアと呼ばれる土地が、アサンドロスにはカリアが、メナンドロスにはリュディアが、そしてレオンナトスにはヘレスポントス・フリュギアが与えられた。以上の州はその時このように分割された。ヨーロッパについては、トラキアとエウクセイノス海に隣接する諸民族はリュシマコスに与えられ、マケドニアとそれに隣接する人々はアンティパトロスに割り当てられた。しかし、ペルディッカスは、アジアの残りの州を分割しないことに決め、同じ支配者のままにしておくことを許し、またタクシレスとポロスがアレクサンドロス自身が整理した通りに彼らの王国を支配者であるべきであると決めた。ピトン(4)にはタクシレスおよび他の王たちの近くにある州が与えられ、娘のロクサネがアレクサンドロスと結婚していたバクトリア人のオクシュアルテスにはカウカソスと並んで位置していたパロパニサダイと呼ばれた州を割り当てた。彼はアラコシアとゲドロシアをシビュルティオスに、アレイアとドランギアナをソロイのスタサノルに、バクトリアとソグディアナをフィリッポスに、パルティアとヒュルカニアをフラタフェルネスに、ペルシアをペウケステスに、カルマニアをトレポレモスに、メディア(5)をアトロパテスに、バビュロニアをアルコンに、そしてメソポタミアをアルケシラオスに与えた。彼はセレウコスに最も優秀な騎兵部隊(6)の指揮権を与え、これはヘファイスティオンが最初に、次にペルディッカスが指揮し、三人目にセレウコスが名を連ねた。アモンへ遺体を運ぶことになっていた亡き王の遺体の輸送と乗り物の準備に彼らはアリダイオス(7)を任命した。
4 最も卓越した人の一人であったクラテロスは前にアレクサンドロスによって除隊者一〇〇〇〇人と共にキリキアへと送られていた。同時に彼は王が彼に〔以下の命令の〕遂行を指示する手紙を受け取っていた。にもかかわらず、アレクサンドロスの死後、後継者たちにとってはそれらの計画を実施しないことが最善のことのように思われた。莫大な費用を要するヘファイスティオンのための積み薪の完成という王の命令とアレクサンドロスの他の計画を遺言の中に見つけた時、それらは途方もない経費がかかるためにペルディッカスはそれらを実現するのは賢明ではないと結論した。しかし、自分の勝手気ままにアレクサンドロスの栄光を減じさせているように見られないようにと考えて彼はマケドニア人の一般総会にそれらの事柄を提示した。
 遺言の最も壮大で、最も非凡な事項は以下の如くあった。カルタゴ人およびリビュアとイベリアの沿岸およびシケリアまでに隣接する沿岸地方に住んでいる他の人たちに対する遠征のためにフォイニキア、シュリア、キリキア、そしてキュプロスでの一〇〇〇隻の三段櫂船より大きい軍船の建造が提案されていた。リビュアからヘラクレスの柱までの沿岸沿いに道を通すという計画はあまりにも大規模な遠征軍が必要であったために、丁度良い場所に港と造船所を建設する必要があった。六つの最も贅沢な神殿を建立するために、それぞれ一五〇〇タラントンの支出が必要であった。そして最後に、最大の大陸を一つの統一へと向かわせて異民族間の結婚と家族の結びつきによる友好関係を作るために、諸都市を建設してアジアからヨーロッパへと、逆の方向にヨーロッパからアジアへと人々を移住させる。上述の神殿はデロス島、デルフォイ、ドドナであり、そしてマケドニアにはディオンのゼウス、アンフィポリスのアルテミス・タウロポロス、キュルノスのアテナの神殿も建てられる。同様にイリオンにもこれらの神々を敬ってその他のものに劣らぬ神殿を建てる。彼の父のフィリッポスの墓は、幾人かの人が人の手による七つの最も偉大な建物の一つであるとしているエジプトの最大のピラミッドに匹敵する大きさで建てるべしとされた。それらの遺言が読み上げられると、アレクサンドロスの名を賞賛していたにもかかわらず、マケドニア人はそれらの計画は乱費であり、実現不可能であると見なし、上述のそれらのどれも実行しないことを決めた。
 まずペルディッカスは争いを扇動して最も彼に対して憎悪を抱いていた兵士三〇人を処刑した。その後、論争と任務の際に自らを裏切ったメレアグロスを、個人的な反目とメレアグロスが自分に対する陰謀を企んでいるという容疑を口実として処罰した。その時、高地諸州(8)に殖民されたギリシア人が反乱を起こしてかなりの規模の軍を挙げたため、彼らと戦うために貴族の一人のピトンを送った。

帝国東方の地理
5 以上に述べた出来事を鑑みるに、私はまず反乱の原因、アジア全域の状況、そして州の大きさと特徴へと向うのが適当だと考える。というのも私の読者の目の前に一般的な地形と距離を置くことによって、私は最もうまく以下の事柄について容易に彼らに話すことができるであろうからである。
 さて、キリキアのタウロス山脈から切れ目のない山脈がカウカソスと東の海辺りまでアジア全域に広がっている。この山脈は様々な高さの頂上によって分けられ、それぞれの地方は固有の名前を有している。したがってアジアは二つの部分に分かたれ、一方は北に傾斜し、他は南に傾斜する。それらの傾斜に対応して、向かい側の地域に川が流れている。そのあるものはカスピ海に、他のものはエウクセイノス海、またあるものは北海へと注ぐ。それらの対岸に横たわる川については、そのいくつかはインドに面する大洋へと流れ出て、いくつかはこの大陸に隣り合った大洋に流れ出て、そしていくつかはエリュトライ海(9)と呼ばれる海へと注ぐ。いくつかの川は北に、他は南に傾斜しており、それに倣って州も分けられている。北に面しているものの最初のもの、つまりソグディアナとバクトリアはタナイス川辺りに横たわっている。それらに隣接するのはアレイア、パルティア、そして分離した水域であるヒュルカニア海(10)がそれによって囲まれるところのヒュルカニアである。隣は区別の目安となる名前によって多くの地方を擁し、全ての州の中でも最大のものであるメディアである。その全域が非常に寒い気候であるアルメニア、リュカオニア、そしてカッパドキアが隣接している。それらに真っ直ぐ隣接するのは大フリュギアとヘレスポントス・フリュギアであり、リュディアとカリアはそれらの側面にある。フリュギアより高地であり、その隣にあるのはピシディアであり、その隣にはリュキアがある。それら沿岸地域の州にはギリシア人の都市が建てられている。それらの名前を述べるのは目下の目的には必要ではない。北に面する州は述べられたように位置している。
6 南に面していた州のうち、カウカソスに沿って最初にあるものはインドで、それは最も大きく人口の多い王国で多くのインド人が住んでおり、ガンダリアダイがそのうちで最大であり、そこへはアレクサンドロスは象の数の多さのために遠征を行わなかった。その地方で最も深く、三〇スタディオンの幅があるガンゲス川はこの土地をインドをその隣接地域と分けている。この隣にはアレクサンドロスが征服した残りのインドがあり、川から水を引かれて最も栄えていた。そこはポロスとタクシレスおよび他の多くの諸王国の領土であり、インドス川がそこを貫いて流れており、そこからその地方は〔インディアという〕名がついた。インドの州の隣にはアラコシア、ケドロシアとカルマニア、そしてそれらの隣にはペルシスが横たわり、そこ〔ペルシスの西〕にはスシアナとシッタキネがあった。その隣にはバビュロニアがアラビア砂漠へと広がっている。他の側、私が内陸部の境を画した場所から〔西への〕の方向にはエウフラテス川とティグリス川という二つの川に包み込まれたメソポタミアがあり(11)、そのことからその名がついている。メソポタミアの隣は高地シュリアと呼ばれており、その地方にはそこから海に沿ってキリキア、パンヒュリア、そしてフォイニキアを含むコイレ・シュリアが隣接している。コイレ・シュリアの国境とそれに隣接する砂漠に沿ってシュリアとエジプトを分けるナイル川が貫くエジプトは全ての州の中で最良のものであり、最大の歳入をもたらしている。南部の空気は北部に広がっている空気とは異なっていたため、それら全ての地方は非常に暑い。そして、アレクサンドロスによって征服された州は以上述べたような位置であり、最も優れた人たちに分割された。

ギリシア人の反乱、ラミア戦争
7 アレクサンドロスによって高地諸州に移住させられていたギリシア人はギリシアの習俗と生活様式を思い焦がれていた。彼らは王国の非常に離れた場所に捨てられていたにもかかわらず、王が生きている間は〔王に〕従っていた。しかし彼が死ぬや蜂起した。共に相談してアエニアニア人のフィロンを将軍に選出した後、彼らはかなりの戦力でもって挙兵した。彼らのところには二〇〇〇〇人以上の歩兵と三〇〇〇の騎兵がおり、その全員が長らく続いた戦争に参加しており、勇気において優れていた。ギリシア人の反乱を聞き知るとペルディッカスはマケドニア人の歩兵三〇〇〇人と騎兵八〇〇騎を籤で選び出した。彼は軍の指揮にアレクサンドロスの側近護衛官で、思慮に満ち、軍の指揮に巧みだったピトンをあたらせ、籤で選びされた兵士を与えた。太守たちへと自らに歩兵一〇〇〇〇と騎兵八〇〇〇を提供せよとという内容の手紙を送った後、ピトンは叛徒へと向っていった。大望を抱いていたピトンは寛大さによってギリシア人を味方にし、彼らとの同盟によって軍を強大化した後、自己の利益のために動いて高地諸州の支配者になろうと目論み、喜んでその遠征を引き受けた。しかし彼の計画を疑ったペルディッカスは彼に叛徒たちを屈服させた後に彼らを皆殺しにし、兵士たちに戦利品を分配するという限定した指示を与えた。
 ピトンは彼に与えられた兵士と共に出発して太守たちからの援軍を受け取り、全軍で叛徒の許へとやって来た。あるアエニアニア人の仲介を通して彼は叛徒のうち三〇〇〇人の指揮官となっていたレトドロスを買収し、完勝した。というのも、戦いが始まった時には勝利は不確かであったが、裏切り者が予告なしに同盟者の許を去ってある丘へと退き、彼の三〇〇〇人の兵士を連れて行った。残りの者はそれが敗走だと思い込んで混乱に陥り、きびすを返して逃げた。ピトンは戦いに勝利し、敗者へと使者を送り、宣誓を受けた後に武器を置いて彼らのそれぞれの植民地へと戻るよう命じた。このような宣誓が立てられてギリシア人はマケドニア人の中に間隔を置いて配置され、事件が自らの目論見通りに推移したのを見たピトンは大いに喜んだ。しかし、マケドニア人はペルディッカスの命令を覚えていて、なされた誓いを良く思っていなかったたため、ギリシア人との約束を破った。武装していなかったギリシア人を不意に攻撃し、彼らは投げ槍で彼ら全員を射殺して彼らの所有物を戦利品とした。自らの望みをごまかしてピトンはマケドニア軍と共にペルディッカスのところへと帰った。以上がアジアの情勢であった。
8 ヨーロッパではロドス人がマケドニア人の守備隊を追い払って市を解放し、アテナイ人がアンティパトロスに対してラミア戦争と呼ばれる戦争を始めた。その出来事をより明確にするためにはこの戦争の原因から始める必要がある。死の直前にアレクサンドロスはギリシアの都市の全ての亡命者を帰国させることを決め、それは一面では名誉を与えるために、他面ではギリシア人の反抗的な動きと扇動を押し留めるために都市毎に多くの献身的で個人的な支持者を確保するためのものであった。したがって、オリュンピア祭が近かったために、彼は復帰の布告を携えてスタゲイラのニカノルをギリシアに送り、勝利の使者として会場にいた多くの人に公表するよう命じた。ニカノルは彼の指示を遂行し、この使者は以下の文言を呼んだ。「アレクサンドロス王よりギリシアの諸都市からの亡命者のために。我々はあなたたちの亡命の原因ではないものの、不敬な輩を除いた者の帰国の原因にはなるだろう。我々はこのことに関して、もしいくつかの都市があなたたちを復帰させようとしなければ、それらに強制するようアンティパトロスへと手紙を書いておいた」。使者がこのことを布告すると、群集は大喝采でもって賛同を示した。この祭典で彼らは王の好意を喜びの涙を流して受け入れ、彼の良き行いに賞賛でもって報いた。全ての亡命者がその祭典に来ており、その数は二〇万人以上にも上った。
 さて、人々は普く亡命者の復帰を良きこととして歓迎したのだが、オイニアダイ人を彼らの生まれた市から追放していたアイトリア人は彼らの悪事に相応しい罰を予想した。というのも、王自身がオイニアダイ人の息子たちだけでなく彼自身もまた彼らを罰するであろうと彼らを脅していたからだ。同様にサモス島を市民に分配していたアテナイ人もその島を手放したくなかったためにそうであった。しかし王の軍はあまりにも強大で歯が立たなかったため、彼らは当面は大人しくして遠からずしてやってくる好機を待った。
9 少ししてアレクサンドロスが王国の継承者としての息子を残さずに死ぬと、アテナイ人は自由とギリシア人への覇権を主張しようと思い立った。戦争のための資源として彼らはハルパロスの残した多額の金を有しており、このことは我々が前の巻(12)で余すところなく話したことであり、そしてまた〔大王との戦いの時にペルシアの〕太守たちによって雇われていたが解散させられていた八〇〇〇人の傭兵がペロポネソスのタイナロン近くで待機していた。したがって、アテナイ人たちはアテナイ人レオステネスに、まずあたかも市からの許可なしに彼自身の責任において行うかのようにして彼らを軍に入れるよう命じてそれら〔反乱の準備〕に関する密命を下し、アンティパトロスはレオステネスを見下していたためにレオステネス対策には本腰を入れないだろうと思われており、一方でアテナイ人はレオステネスに戦争のために必要物資を準備するための時間を与えた。したがってレオステネスは非常に静かに上述の部隊を雇い入れ、一般的に信じられていたのとはうらはらに、いつでも事に移れる相当の数の兵士を確保した。というのも、それらの兵士たちは長い間アジア中で戦っており、多くの大きな戦いに参加し、戦いのベテランになっていたからだ。
 さて、それらの事はアクサンドロスの死がいまだ確かに知られていなかった時になされたことだが、王の死の目撃者たちがバビュロンから来ると、民衆の政府は戦争の意図をあらわにしてレオステネスにハルパロスの金の一部と一揃いの鎧を送り、もはや行動を密かにせずに、利になることは何であれ公然とするよう命じた。傭兵に給料を分配して鎧のない者を完全武装させた後、レオステネスは共同作戦の準備のためにアイトリアへと向った。アイトリア人は彼の行いを喜んで聞くと七〇〇〇人の兵士を与え、彼はロクリス人とフォキス人およびその他の隣国の人々に手紙を送って自由を説き、ギリシアからマケドニアの専制をなくすことを訴えた。
10 アテナイの民会において資産家たちは何もしないようにと忠告したが、デマゴーグたちは戦争へと人々を精力的に駆り立てて戦争を訴え、戦争へと傾いていた者と軍務を離れて暮らすことに慣れていた者が数においてずっと勝っていた。彼らは、一度はフィリッポスが戦争が平和になるか、平和が戦争になるかは彼ら次第だと言っていた人々であった。そこでさっそく弁論家たちは、人々はギリシア人の普遍的自由に責任を持ち、守備隊に支配されている諸都市を自由にすべきであり、四〇隻の四段櫂船と二〇〇隻の三段櫂船を準備し、四〇歳までの全アテナイの男は軍に入り、三つの部族がアッティカを守り、他の七つの部族は国境を越えての遠征の準備をし、使者をギリシア諸都市に送り、使者たちは全ギリシアはギリシア人の父祖の地であり、昔アテナイの人々はギリシアを隷属化しようと侵攻してきた強大な夷狄と海で戦ったのであり、今もまたアテナイは生命と金銭、そして船をギリシア全体の安全を守るために危険に晒す必要がある信じていると説得すべし、という要旨の宣言を書くことによって平民たちの望みに形を与えた。
 この決議が賢明にというよりもせっかちに決議されると、賢いギリシア人たちはアテナイ人は栄光について良く考慮したが何が得策であるかは見落としたと言った。というのも彼らは打ち勝ちがたく強大な相手に好機になるより先に飛び出して何ら必要性に急き立てられたわけでもないのに危険を冒し、そしてよく知られていたテバイ人の境遇(13)が忠告することについては何も考えていなかったからだ。にもかかわらず、使節たちは諸都市を回ってお得意の雄弁で戦争を説き、いくつかは国内の党派ごとに、いくつかは諸都市ごとにという風に、ギリシア人のほとんどが同盟に加わった。
11 残りのギリシア人に関しては、一部はマケドニア人に好意的で、他は中立を維持した。アイトリア人が全戦力で最初に同盟に加わり、伝わるところでは、彼らの後にペリンナイオンを除く全テッサリア人、ヘラクレイアの住民を除くオイタイア人、テバイ人を除くフティオティスのアカイア、ラミア人を除くメリエイス人が、続いて全ドリス人、ロクリス人、そしてフォキス人、アエニアニア人、アリュザイア人、そしてドロピア人、さらにアタマニア、レウカディア人、そしてアリュプタイオスに服属するモロシア人が同盟に加わった。最後に名が上がった者はうわべだけの同盟を結んだ後、後になって裏切ってマケドニア人と共同行動を取った。次に、エウボイアからカリュスティア人が戦争に加わり、そして最後にペロポネソス人、アルゴス人、シキュオン人、エリス人、メッセニア人、そしてアクテに住んでいる人々が参加した。さて、同盟に参加したそれらのギリシア人は私が列挙した限りである。
 アテナイは援軍として市民兵で歩兵五〇〇〇人と騎兵五〇〇騎、そして傭兵二〇〇〇人をレオステネスのところへと送った。彼らはボイオティアを通って進んだが、ボイオティア人は以下に挙げる理由のためにアテナイ人に敵対していた。テバイを破壊した後にアレクサンドロスは隣接するボイオティア人にその土地を与えた。その不幸な人々の財産を分配されたため、彼らはその土地から莫大な収益を上げた。したがって、もしアテナイ人に戦争で勝ったならば、父祖の土地とテバイの土地を取り返せるだろうと分かると、彼らはマケドニア人になびいた。ボイオティア人がプラタイアの近くに陣を張った一方でレオステネスは軍の一部を率いてボイオティアへと侵入した。その住民にアテナイ軍〔の一部〕を付けて部下を差し向け、彼は後者を戦いで破って戦勝記念碑を立てた後、テルモピュライへと急いだ。そこで彼は敵の進軍通路を占領するのに幾ばくかの時間を費やし、マケドニア軍と一戦交えようと目論んだ。
12 アレクサンドロスによってヨーロッパの司令官として残されたアンティパトロスはバビュロンでの王の死と州の分配を聞くと、可及的速やかに助けに来るよう求める手紙をクラテロス宛でキリキアへと送った(というのもクラテロスは、以前にキリキアへと派遣されており、マケドニアへと除隊した一〇〇〇〇人以上のマケドニア人を帰す途上にあったのだ)。また彼はヘレスポントス・フリュギアを太守領として受け取ったフィロタス(14)へも同様に助けにを求め、娘の一人を嫁としてやると約束する手紙を送った。かくして、アンティパトロスはギリシア人が彼に対して計画した動きを知るとすぐに十分な兵士を与えて将軍としてシッパスをマケドニアに残してできる限り多くの兵士を動員するよう命じ、その一方で自らは一三〇〇〇人と騎兵六〇〇騎のマケドニア軍を率い(というのも、多くの者が援軍としてアジアへと送られたためにマケドニアには市民兵が乏しかったのだ)、アレクサンドロスがマケドニアへと王の宝物庫からの金を運ぶために送っていた全部で一一〇隻の艦隊を伴ってマケドニアからテッサリアへと進んだ。当初テッサリア人はアンティパトロスの同盟国で、彼に多くの優良な騎兵を送っていたが、後になってアテナイ人の味方についてレオステネスの方に走り、アテナイ人と並んでギリシア人の自由のために戦った。この大部隊がアテナイ人に加わったため、数で勝るギリシア軍は勝利を得た。アンティパトロスは戦いで敗れ、その結果あえて戦おうとはしなくなり、また無事にマケドニアに帰ることもできなくなってラミアに逃げ込んだ。彼は兵士をこの都市に置いて城壁を補強し、そして武器、投擲兵器、食料を準備してアジアからの同盟者の助けを心配しつつ待った。
13 レオステネスは全軍を率いてラミア近郊に来て、深い堀と柵によって野営地を防備した。まず彼は軍を整列させて都市に近づき、マケドニア軍に戦いを挑んだ。アンティパトロスは会戦の危険を冒そうとしなかったので、レオステネスは兵士を交代させつつ毎日城壁を攻撃した。マケドニア軍が頑強に守ったため、向こう見ずに押しかけたギリシア軍は多くの者が殺された。包囲の間、市内にはかなりの軍勢とあらゆる潤沢な投擲兵器があり、その上城壁は多額の費用を用いて構築されており、戦いに利した。レオステネスは市の攻撃による占領の望みを諦め、飢餓によって易々と都市に籠城軍を弱めようと考えて、都市の内に入っていた全ての補給路を遮断した。彼は壁を築いて深く広い堀とをめぐらしもし、これによって包囲された軍の退路を断った。
 この後アイトリア軍は、さしあたっての国家の用事のためにレオステネスに帰国の許可を求め、全員がアイトリアに戻った。しかし、アンティパトロスとその軍は消耗し尽くしており、予想された飢饉のために都市は落城の危険に晒されていたが、予想だにしなかった幸運な逆転の機会がマケドニア人に与えられた。アンティパトロスが堀を掘っていた兵士に攻撃を仕掛けた時に戦いが起こり、救援に向ったレオステネスは石で頭を打たれて倒れ、気絶して野営地まで運ばれた。それから三日目に彼は死に、戦争で得た栄光によって英雄の名誉を以って埋葬された。アテナイの人民は、雄弁とマケドニア人への敵意において第一の弁論家であったヒュペレイデスに追悼演説をさせた。その時、アテナイの弁論家の領袖デモステネスはハルパロスの金の横領で有罪を宣告されて追放されていた。レオステネスの代わりに、軍事の才能と勇気にて秀でていた男であったアンティフィロスが将軍になった。
 ヨーロッパの状況は以上のようなものである。
14 アジアでは、州の分割で分配を受けた者のうち、プトレマイオスは難なくエジプトを得てそこの住民を優しく扱った。彼は宝物庫で八〇〇〇タラントンを見つけて、傭兵集めて軍を編成し始めた。彼の友人たちの多くもまた彼の公平さのためにその周りに集まってきた。彼はペルディッカスがエジプト州を自分から奪おうとしているのを良く知っていたためにアンティパトロスとの〔対ペルディッカスの〕共同作戦の協定の文書に調印した。
 リュシマコスがトラキア地方に侵入すると、その国の王セウテスが二〇〇〇〇人の歩兵と八〇〇〇騎の騎兵を率いてやってきたが、リュシマコスはその軍の規模に怯えはしなかった。彼には全部で歩兵四〇〇〇人と騎兵二〇〇〇騎未満しかいなかったが、夷狄との戦いに突入した。実のところ彼は兵士の数では劣っていたが質では勝っており、頑強に戦った。軍の大部分を失ったもののその何倍もの数を殺して、彼は陣営に戻って疑わしい勝利を主張した。したがって、さしあたりは両軍共にその場所から撤退し、最終決戦のためのより大きな準備をした。
 レオンナトスに関しては、ヘカタイオスが彼のところへ使節としてやってきてアンティパトロスとマケドニア人を可及的速やかに助けるよう請うと、軍事的援助を約束した。彼はヨーロッパ、そしてマケドニアに渡り、そこで追加の多くのマケドニア兵を徴募した。彼は全軍で歩兵二〇〇〇〇人と騎兵一四〇〇騎以上を集め、テッサリアを通って敵へと向った。
15 包囲に耐えかねて野営地を焼き払っていたギリシア人は激化した戦いにおいて足手まといになった非戦闘員と荷物運びの従者をメリテイアの町へと送り出し、その一方でアンティパトロスと合流する前にレオンナトスの軍と戦おうと準備をし、軽装備で向った。全アイトリア軍が以前国へと去っており、他の少なからぬギリシア軍はその時母国に散っていたため、全部で歩兵は二二〇〇〇人であった。三四〇〇騎以上の騎兵が戦争に参加しており、〔そのうちの〕二〇〇〇騎は勇気において際立っていたテッサリア人であった。特にこの点によってギリシア人は勝利を信じていた。苛烈な騎兵戦がしばらく続いてテッサリア軍がその勇気によって優勢に立つと、レオンナトスは見事な戦いの後に沼沢地に孤立させられ、あらゆる点で最悪の状況に陥った。死に際に多くの傷を受けた彼は味方によって抱き上げられて荷物の方まで運ばれたが、すでに事切れていた。騎兵戦ではテッサリア人メノン指揮の下でギリシア人は輝かしい勝利を得て、マケドニアのファランクスは騎兵への恐怖のためにすぐに平野から〔騎兵の活躍が〕困難な地形へと引き、その場所的な強みによって安全を得た。攻撃を続行していたテッサリア騎兵はでこぼこの地形のために何もできなくなると、戦勝記念碑を立て死者の支配権を得たギリシア軍は戦場を去った。
 翌日、アンティパトロスが自身の部隊を敗軍と合流させたると、全マケドニア軍が一つの野営地に集まることとなり、アンティパトロスは全軍の指揮権を得た。彼はさしあたりは戦闘を避けることに決め、敵は騎兵において優勢であるという事実を鑑みて平地を通っては撤退しないことにした。代わりに、荒地を通ることによってあらかじめあらゆる利点を確保してその地域からの撤退を果たした。輝かしい戦いでマケドニア軍を破ったギリシアの指令官アンティフィロスは持久戦に出て、テッサリアに留まって敵の動向を見た。
 ギリシアの情勢はこのように好調であったが、海はマケドニア人の支配下にあったためにアテナイ人は既にあるのとは別に追加の船の準備し、それは全部で一七〇隻にもなった。クレイトスが二四〇隻のマケドニア艦隊の指揮権を持っていた。アテナイの提督エエティオンと戦ったクレイトスは二度の海戦で彼を破り、エキナデスと呼ばれた島々近海で多数の敵船を破壊した。
16 それらのことが進行している一方でペルディッカスはフィリッポス王と王軍を率いてカッパドキアの支配者アリアラテスに対する遠征を行った。アリアラテスがマケドニア人の指図を受けるという条項が履行されなかったはダレイオスとの戦いと〔他の〕注意をそらすような事柄のためにアレクサンドロスによって見逃されたためであり、彼はカッパドキア王としての長い猶予を享受していた。その結果、彼は歳入から莫大な金を溜め込んで現地兵と傭兵の大軍を擁していた。したがって彼は歩兵三〇〇〇〇人と騎兵一五〇〇〇騎を擁しており、王国の防衛のためにペルディッカスと矛を交える用意ができていた。ペルディッカスは彼と交戦して戦いで破り、四〇〇〇人もの兵士を殺してアリアラテス自身を含む五〇〇〇人以上を虜とした。そして王と全ての縁者がペルディッカスによって拷問にかけられて串刺しの刑に処された。しかし征服された人々は彼によって許され、カッパドキアの他の案件を適切に処理した後に彼は〔太守として〕本来任命されていたカルディアのエウメネスに太守領として与えた。
 同じ頃にクラテロスもまたアンティパトロスを援軍してマケドニア人が被った敗勢を好転させるためにキリキアを発ってマケドニアに到着した。彼はアレクサンドロスと共にアジアへと渡った歩兵六〇〇〇人、進軍中に入隊した歩兵四〇〇〇人、ペルシア人の弓兵と投石兵一〇〇〇人、そして一五〇〇騎の騎兵を引き連れていた。テッサリアに入ってアンティパトロスに順調に総司令権を譲渡して彼はペネイオス川近くで彼と一緒に野営した。レオンナトスの指揮下にいた兵も含むと全軍で重装歩兵四〇〇〇〇人、弓兵と投石兵三〇〇〇人、そして騎兵五〇〇〇騎以上にもなった。
17 この時マケドニア人に対陣していたギリシア軍は数で相当に劣勢だった。ギリシア軍の多くは以前の幸運のために敵を見くびり、私的な事柄のために自分の都市に帰ってしまっていた。このために多くの兵士が義務から離れたため、野営地には二五〇〇〇人の歩兵と三五〇〇騎の騎兵しか残っていなかった。兵士たちは〔騎兵たちが〕勇敢で地面が平らであったために、騎兵の勝利に主たる希望を持っていた。
 最後にアンティパトロスは軍を編成し、ギリシア軍に戦いを挑んだ。一方でギリシア愚は都市から戻ってくる軍を待ったが、時間が押してきたために打って出て全て〔戦いに〕賭けることを強いられた。彼らは戦列を組んでこの戦力〔騎兵〕によって戦いを決めようと望んで、歩兵のファランクスの前面に騎兵を配した。騎兵が戦いに入ってテッサリア騎兵がその勇敢さのゆえに優位に立つとアンティパトロスは自らファランクスを率いて敵の歩兵に突撃し、大虐殺を開始した。ギリシア軍は敵の〔戦列の〕重厚さと数に抗し得なかったために注意深く戦列を維持しつつも、すぐさま荒地を通って退却した。そして彼らは高地を占領し、有利な地点を占拠したことによって易々とマケドニア軍を撃退した。ギリシア騎兵は優位に立っていたにもかかわらず、歩兵の撤退を知るやすぐに歩兵の方へ退いた。そして、上述の戦闘の後、勝利の目盛りがマケドニア人の方に揺れていたために戦いは打ち切れた。五〇〇人以上のギリシア人と一三〇人のマケドニア人が戦いで死んだ。
 翌日、ギリシア軍の将軍メノンとアンティフィロスは他の同盟軍の到着を待って最終決戦の危険を冒すべきか、あるいは状況に屈して休戦の交渉のために使節を送るべきかを話し合うために集まった。彼らは和平の交渉のための使者を送ることを決定した。使者たちはその命令を実行したが、アンティパトロスは都市は個々で交渉すべきであり、自分は決してまとめて和解するつもりはないと答えた。ギリシア人は都市ごとの和平の条項への同意を拒絶したために、アンティパトロスとクラテロスはテッサリアの諸都市の包囲を開始し、ギリシア人はそちらに助けを送ることができなかったためにそれらはすぐに陥落した。したがって諸都市がひどく怯えてそれぞれが和解のための使節を送り始めると、アンティパトロスは寛大な条件での講和を認めてその全員を受け入れた。これはすぐに諸都市が個々で自らの安全を確保するという結果を招き、全てが早々と講和した。しかし最もマケドニア人に敵対的だった人々であったアイトリア人とアテナイ人は同盟国によって見捨てられることになって、彼らの将軍たちと共に戦争について相談をした。
18 この策によってギリシア人の同盟を破壊した後にアンティパトロスはアテナイ人に向けて全軍を進めた。同盟国の助けを失って人々は大混乱に陥った。皆がデマデスへと向き直り、彼をアンティパトロスのところへ講和を申し込む使節として送るべきだと叫んだ。しかし、名指しで忠告を求められたものの、彼は応じなかった。彼は違法な法令を創案したために三度有罪判決を受けており、そのために市民としての権利を剥奪されており、法のために何も言えなかったのである。人々が彼の権利を十分に回復すると、すぐに彼はフォキオンと他数名と共に使者として送られた。アンティパトロスは彼らの言う事を聞くと、彼らが全面的に自分の指示に従う以外の他の条件でアテナイ人に対する戦争を終わらせるつもりはないと答えた。というのも、彼らがアンティパトロスをラミアに封じ込めた後に彼が和平の使者を送った時に彼らは同じ答えを返したからだ。人々は戦わずしてアンティパトロスの命令と市における絶対権力を受け入れざるを得なくなかった。彼は彼らを慈悲深く扱い、市と財産、他のあらゆるものを保持することを許した。しかし彼は政府の政体を民主制から〔寡頭制へと〕変え、二〇〇〇ドラクマ以上を持つ者が政府と票決の決定権を持つようにした。彼はこの額以下の財産しか持っていなかった全市民のうちの大多数を和平の妨げになる主戦論者だったために締め出し、望む者はトラキアに移住するよう提案した。一二〇〇〇人以上の者が父祖の地から移動させられた。しかしおよそ九〇〇〇人の一定の格の者は市と領土の主とされ、ソロンの法令に従って政府を運営した。全員がその財産を減らされることなく保つことを許された。しかし、彼らはメニュロスを指揮官とした守備隊の受け入れさせられてしまい、その目的は政府の改変を防ぐことであった。サモス島に関する決定は王たちに委ねられた。したがってアテナイ人は彼らの望んだ以上に慈悲深く扱われて和平を手にした。その時以来その政府は平穏を享受し、彼らは何も恐れることなく暮らし、急速な繁栄を遂げた。
 マケドニアへと戻ると、アンティパトロスはクラテロスにしかるべき名誉と贈り物を授けて長女のフィラを嫁がせ、彼がアジアに戻る準備を手助けした。同様に彼は他のギリシア都市への扱いにおいても寛大さを示し、〔参政権を持つ〕市民を減らして賢明な改革を行い、そのために賞賛と栄誉を受けた。サモス人に彼らの都市と領地を取り戻してやったペルディッカスは、四三年間の亡命の後に彼らを生まれた土地に帰した。

ハルパロスの死とティブロンのキュレネ遠征
19 我々はラミア戦争の全経過を話し終えたので、〔以下の〕歴史の経過は年代の順序からはあまりにも外れてはいないことなので、キュレネで起こったことへと転じよう。しかし一連の出来事をよりはっきりさせるために少し時を遡る必要がある。我々が前の巻で示したように、ハルパロスがアジアから逃げ出して傭兵と共にクレタ島へと航行した時(15)、彼の友人の一人とされていたティブロンが彼を裏切って殺して金と七〇〇〇人の兵士を掌握した。また彼は船も持っており、それに兵士を乗り込ませてキュレネ人の土地へと航行した。彼はキュレネの亡命者を伴っており、土地勘があった彼らをこの事業での水先案内人として使った。キュレネ人が彼と対陣して戦うと、ティブロンは勝利して多くの敵を殺して少なからぬ数の捕虜を得た。港の支配権を奪取してキュレネ人を包囲して怯えさせることによって彼は彼らに五〇〇タラントンの銀を差し出し、彼の遠征には戦車の半分を提供するという協定の締結を強いた。さらに彼は他の都市にもリビュアに隣接する地域を服属させるという旨の同盟を締結するよう求める使節を送った。また彼は港で捕らえた貿易商の財産を略奪し、戦争への熱意を呼び起こすために戦利品として兵士に与えた。
20 したがってティブロンの事業はうまくいっていたにもかかわらず、運命は突然の変転によって以下のような状況で彼を打ち負かした。彼には指揮官の一人でクレタ島生まれで戦争経験豊富なムナシクレスなる者がおり、戦利品の分配をめぐって彼はティブロンと言い争った。そして喧嘩っ早く厚かましい性分だったムナシクレスはキュレネ人のところに逃亡した。さらにその上、彼はティブロンを残忍で不実であるとして弾劾し、彼に対する多くの不平を言ってキュレネ人に協定を破って自由を手にするよう説得した。そして六〇タラントンだけが支払われ、残りの金が与えられないでいるとティブロンは叛徒を非難して港にいた数にして八〇人のキュレネ人を捕らえ、真っ直ぐに市に向けて軍を率いてゆき、包囲した。何も成し遂げることができなかったため、彼は港へと戻った。バルケとヘスペリスの人々がティブロンと同盟を結んだため、キュレネ人はキュレネに軍の一部を残して一部を率いて出撃し、近隣の土地を略奪した。彼らがティブロンに救援を求めると、彼は同盟者へと全軍を率いていった。このために彼のクレタ人は港はがら空きだと推断してキュレネに残っていた人々にそこを攻撃するよう説得した。彼らが彼に従うと、彼は自ら陣頭指揮をしてすぐに港に攻撃を仕掛けた。そしてティブロンの不在のために易々とそこを奪取して残されていた船荷を商人に返して熱心に港を守った。
 最初、有利な位置と兵士の装備を失ったためにティブロンは意気阻喪した。しかし後になって覇気を取り戻して包囲によってタウキラという都市を占領し、再び希望の炎を灯した。しかし、事態は変転してすぐに彼は再び大きな不運に見舞われた。船の乗組員たちは港が奪取されて食料難に陥ると、日々地方へと出て行ってそこで食料を集めた。しかしリビュア人は地方で迷った彼らを待ち伏せして多くを殺し、少なからぬ数の捕虜を得た。危険から逃れた者は船へと逃げ込んで同盟市へと去った。しかし大嵐が彼らを襲って船の大部分は海に飲み込まれた。生き残りに関しては、一部はキュプロス沿岸に、他はエジプトに打ち上げられた。
21 ティブロンはかような不運に見舞われたにもかかわらず、遠征を諦めようとはしなかった。その仕事に適している友人たちを選ぶと、彼はタイナロン岬近くに待機していた傭兵を雇うためにペロポネソスへと送った。というのも解雇された多くの傭兵がまだ雇い主を探してふらついており、その時には二五〇〇人以上がタイナロン岬にいたからだ。使者たちは彼らを雇ってキュレネへの船旅に出発した。しかし彼らが到着する前に、キュレネ人は彼らの成功に元気付けられてティブロンと戦ってそれを破り、多くの兵士を殺した。その失敗のためにティブロンはキュレネに対する作戦を放棄しようとしていたが、予期せず勇気を取り戻した。タイナロンからの兵士が港に入って大軍が戦力に加わるとすぐに彼は自信を持った。再び戦争が起こったことを知ると、キュレネ人は近隣のリビュア人とカルタゴ人から同盟軍を呼び、彼ら自身の市民兵を含めて全部で三〇〇〇〇人を集めて最終決戦への準備をした。大会戦が起こってティブロンは多くの敵を殺して勝利を得て、狂喜してすぐに近隣の諸都市を占領できるのではないかと信じた。しかし戦いで全ての指揮官を失ったキュレネ人はクレタ人のムナシクレスを他の人たちと一緒に将軍に選んだ。ティブロンは勝利に有頂天になってキュレネ人の港を包囲してキュレネに毎日攻撃を仕掛けた。戦争が長時間続いたため、食料が入用になったキュレネ人は互いに争うようになった。そして平民が優位に立つと、彼らの父祖の土地を奪っていた金持ちを追い出し、一部はティブロンのところに、他の者はエジプトに逃げた。プトレマイオスを復帰のために説得した後に後者は将軍のオフェラス率いる陸海の大軍と共に帰国した。ティブロンと共にいた追放者たちはその軍の接近を聞き知って夜のうちに密かに彼らのところに向かおうとしたが、見つかって殺された。キュレネの民主派の指導者たちは追放者の帰国に警戒してティブロンと協定を結んで彼と共同でオフェラスと戦う準備をした。しかしオフェラスはティブロンを破って捕らえて諸都市の支配権も得た後、諸都市とプトレマイオス王支配下の地方の両方に手紙を送った。したがってキュレネ人と投降した諸都市は自由を失ってプトレマイオスの王国に付け加えられた。

ペルディッカスの動向
22 ペルディッカスとフィリッポス王はアリアラテスを破ってエウメネスに太守領を与え、カッパドキアを去った。そしてピシディアに到着すると彼らはラランディア人とイサウリア人の二つの都市を滅ぼそうと決めた。というのもアレクサンドロスがまだ生きていた間にそれらの都市はニカノルの子で、将軍と太守に任じられていたバラクロスを殺していたからだ。さてラランディア人の都市を彼らは強襲で落として戦える年齢の男を殺して残りを奴隷にした後に灰燼に帰した。しかしながら、イサウリア人の都市は強固に要塞化されていて大きく、さらに頑強な兵士で溢れていた。住民には投擲兵器と包囲戦に耐え抜くのに必要な他の物が行き渡っており、捨て身の勇気ですさまじい経験に耐え、自由のために死ぬ準備が既にできていた。三日目に多くの者が殺されて城壁には兵員の不足のために少数の防衛兵しかいない状態となると、市民は英雄的で記憶に値する行為をした。課される懲罰が不可避だと見て取ると、敵を食い止められるだけの戦力を有していなかった彼らは都市を明け渡さずに運命を敵の手に委ねまいと決めたのであるが、かように彼らの罰は〔敵ペルディッカスの〕憤激と結びつき、確実であったのである。かくして夜に全員が一斉に高貴な死に方をしようとして妻子と親を家の中に閉じ込めて家に火を放ち、火による死と埋葬を選んだ。炎が突如空高く燃え上がったためにイサウリア人は火の中に勝者の役に立つであろう財物とあらゆるものを投じた。ペルディッカスと彼の部下たちは起こったことに仰天して兵士を市の周りに配置して全ての方向から市に押し入ろうと遮二無二頑張った。住民たちが城壁で自らを守って多くのマケドニア兵を倒していると、ペルディッカスはさらに驚いて家とその他全てのものを火に投じた者が何ゆえに城壁をかくも守ろうとしているのかと不思議に思った。結局ペルディッカスとマケドニア軍は市から後退し、イサウリア人は火に飛び込んで家族と共に家の中に自らを埋葬した。夜が明けるとペルディッカスは市を兵士に戦利品として与えた。彼らは火を消すと大量の金銀を見つけたのであるが、それは長年繁栄していた都市にとっては自然なことであった。
23 それらの都市を破壊した後にペルディッカスは自ら求婚していたアンティパトロスの娘のニカイア、アレクサンドロス〔三世〕の姉妹であり、アミュンタス〔三世〕の子フィリッポス〔二世〕の娘のクレオパトラという二人の女性と結婚することになった。ペルディッカスは以前はアンティパトロスと協調してやっていこうと計画し、地位がまだ強固にはなっていない時は〔ニカイアに〕求婚していた。今や王権に手を伸ばしていたため、マケドニア人に彼が最高権力を握ることを説得するにクレオパトラを使えるのではないかと信じて彼は彼女との結婚に心変わりした。しかし計画が明るみに出ることを望まなかったため、彼はさしあたりはニカイアと結婚し、アンティパトロスに自身の計画に対する敵意を生じさせまいとした。しかし、間もなくアンティゴノスが彼の意図を感知し、彼がアンティパトロスの友人であり最も精力的な指揮官であったために、ペルディッカスは彼を妨害しようと決めた。かくしてアンティゴノスに対する虚偽の中傷と不正な告発を行うことでペルディッカスは明白に彼を滅ぼそうという意図を暴露した。しかし、鋭敏さと大胆さに優れていたアンティゴノスは表面上はそれらの告発に対して弁明をしようと望んでいると知らせたが、密かに脱走の手はずを整えて私的な友人たちと息子デメトリオスと共に夜陰に紛れてアテナイの船で出航した。そしてヨーロッパに向うと、アンティパトロスと軍を合流させるために移動した。

アンティパトロスとクラテロスのアイトリア遠征、そして彼らとペルディッカスとの戦争の勃発
24 この時アンティパトロスとクラテロスは歩兵三〇〇〇〇人と騎兵二五〇〇騎を率いてアイトリア人と戦った。というのもラミア戦争に参加していた者のうちでアイトリア人だけが未だ征服されていなかったからだ。このような大軍が自分たちに向けて送られたにもかかわらず、彼らは狼狽することなく精力に満ちた青年男子を全部で一〇〇〇〇人集めて山岳地帯と凸凹した地域に後退し、そこに妻子と老人を財産の大部分と共に移した。防衛しきれない諸都市を彼らは放棄したが、特に強力な都市はかなりの守備隊で守り、敵の接近を大胆にも待ち構えた。
25 アンティパトロスとクラテロスはアイトリアに入って占領が簡単な都市が放棄されていたのを見て取ると、一筋縄ではいきそうにない地方に撤退したアイトリア人の方へと向った。最初、マケドニア軍は強固に防備が施されて峻険な地形の場所を激しく攻撃したために多くの兵士を失った。アイトリア人の豪胆さは彼らの場所の強固さと相まって向こう見ずにも危険に飛び込んだ敵を救援が到着する前に撃退した。しかし、後になってクラテロスが地下壕を作って冬を通して同地に留まり、雪と食料の欠乏に見舞われてもその地方に留まって敵と戦うと、アイトリア人は窮地に追い込まれた。彼らは山から下りてきて何度もその高名な将軍たちと戦って粘り続けたため、困窮と寒さによって壊滅してしまった。彼らが既に救出の希望を諦めていた時、あたかも神々の一人が彼らの優れた勇気に慈悲心を動かされたかのように、自然に彼らは苦境から開放されることになった。アジアから逃げてきたアンティゴノスはアンティパトロスと合流して彼にペルディッカスの陰謀の一切合切を、つまりペルディッカスがクレオパトラと結婚した後にすぐに軍を使って王としてマケドニアに君臨して最高指揮権を握っていたアンティパトロスを追い落とそうとしていると話した。クラテロスとアンティパトロスはこの予期せぬ知らせに唖然として部将たちと会議を開いた。そのあらましが協議によって提示されると、満場一致で可能などんな条件であってもアイトリア人と講和して軍をアジアに速やかに輸送し、クラテロスにアジアの、アンティパトロスにヨーロッパの指揮権を委任し、ペルディッカスと不仲であったが彼らとは仲が良く、彼らと同じようにその陰謀の対象であったプトレマイオスに共同作戦を協議するための使節を送ることが決定された。かくして彼らは即座にアイトリア人と協定を結び、今後絶対に彼らを征服せず、彼ら全員――男子、女子供――をアジアの最も遠い砂漠まで移動させない(16)ように取り決めた。彼らがそれらの計画〔つまり対ペルディッカス戦争とアイトリア人に対する処遇〕を示してその内容に賛同すると、遠征の準備をした。
 ペルディッカスは友人と将軍たちを集め、マケドニア人に対抗するのとプトレマイオスに戦いを挑むのとではどっちが良いのかという問題を諮った。皆がマケドニア遠征への途を邪魔する者がいなくなるとしてプトレマイオスをまず倒すことを支持すると、彼はヘレスポントス地方を監視して〔敵がアジアへと〕渡ってくるのを防ぐよう命じてエウメネスに相当の軍を付けて送り出した。そして自身はピシディアから軍を動かし、エジプトへと進んだ。
 この年の出来事は以上のようなものである。

アレクサンドロスの遺体の行方
26 フィロクレスがアテナイでアルコンだった時(17)、ローマではガイウス・スルピキウスとガイウス・アエリウスが執政官に選出された(18)。この年にアレクサンドロスの遺体を輸送する任についていたアリダイオスは王の遺体を運ぶ車両を完成させ、旅路の準備をした。既に出来上がっていたその構築物はアレクサンドロスの栄光に相応しく費用において他の全てを上回っていたのみならず――何タラントも費やして作られていた――その職人芸の素晴らしさでも有名であり、私はそれは述べるに値すると信じるものである。
 まず彼らは遺体に相応しい大きさの棺を準備して金で鍛造し、遺体の周りの空間を遺体が甘い香りを発して腐敗しないようにとあらゆる種類のもので満たした。この木製容器〔棺〕には金の覆いがつけられて念入りに〔採寸を〕合わせられ、そしてその上部の縁の周りに〔大きさを〕一致させた。この上には金で刺繍された壮麗な紫の礼服がかけられ、その傍らに全ての計画が彼の偉業にあやかって上手くいくように望み、故人の武器を置いた。次いで彼らは覆いがつけられたそれを運ぶための馬車をその隣に置いた。馬車の天井は幅八ペキュス、長さ一二ペキュスで金の遺体安置室が設えられ、宝石の幾重もの鱗がつけられた。高い場所の浮彫にある突出した雄山羊の頭からは屋根の下の全域に沿って金の正方形の軒蛇腹が出ていた。金の指輪が〔山羊の角の〕二つの掌状部からぶら下げられ、それらの指輪からあらゆる色で輝く美しく飾られたまるで祭にあるような花冠がぶら下げられた。最後に大きな金をぶら下げた綱細工の飾り房があり、そのために誰であれ近づく者は遠くからもその音を聞くことになるのである。遺体安置室のそれぞれの角には戦利品を持ったニケ女神の黄金の像がつけられた。遺体安置室を支える柱はイオニア式の黄金の柱であった。柱には黄金の網が着けられ、それは指ほどの太さの紐からできており、四枚の絵が描かれた長い板がついており、それらの端は隣り合っており、それぞれの長さは柱と等しかった。
27 それらの板の最初のものは、浮彫の作品で飾られており、立派な笏を手に持ったアレクサンドロスが座る戦車であった。その中で王は一人がマケドニア人、二人目がペルシア人のリンゴ持ち(19)、そして彼らの前に武装した兵士という武装した従者の一団を引き連れていた。二つ目の板には護衛がそれに続いていた武装した象たちが描かれていた。前にいる象たちはインドの象使いを乗せており、その後ろには通常装備に完全武装したマケドニア人がいた。三つ目の板にはまるで戦闘隊形にあるかのような騎兵部隊が、四つ目の板には海戦の準備をしている船団が描かれていた。部屋の入り口の近くには入る者に目を向けた黄金のライオンがあった。柱頭の下の方からそれぞれの柱の中心へと少しずつ伸びた黄金のアカンサスの葉飾りがあった。天井の真ん中、部屋の上には、大きな黄金のオリーブの冠と一緒に紫の幕が飾られていた。その上へは太陽光が放たれており、離れたところからまばゆい輝きを放っていた。
 有蓋付きの戦車の車体には四つのペルシア風の車輪が回る二つの車軸、金で鍍金された轂と輻があるが、外輪は鉄だった。車軸の突き出た部分は金でできており、ライオンの頭の形をしていて、その歯には各々槍がついていた。それらの真ん中に沿って車軸には巧妙に〔戦車の〕部屋の真ん中と一致した軸受けがあり、その部屋は粗い道からの衝撃を受けなかった。四つの棒があり、それぞれは各々の組で馬具を着けられた四頭の馬と四頭のラバへと固定されており、全部で三四頭のラバがいて、それらは強さと大きさによって選ばれていた。その各々には金鍍金された冠が被さっており、頬から金の鐘がぶら下げられ、首の辺りには高価な石の着いた首飾りがあった。
28 このようにして出来上がり、飾られた車は筆舌に尽くしがたいほどに壮麗であった。普く有名であったためにそれは多くの見物人を惹きつけた。それが来た都市からは常に全ての人々が付き添って再び見送り、彼らは見物の喜ぶだけでは満足しなかった。この壮麗さに相応しく、多くの道の整備人と技師とそれを警護するために送られた兵士が随行した。
 アリダイオスはこの仕事の準備のために二年近くを費やし、バビュロンからエジプトへと王の遺体を輸送した。さらに、アレクサンドロスに敬意を抱いていたプトレマイオスはシュリアまで軍を進めて遺体を受け取り、それが最大の尊重になると考えた。彼はさしあたり遺体をアモンの所まで輸送せずに人の住む都市の中で最も名高い都市としては不足のない、アレクサンドロスその人によって建設された都市に埋葬するよう決めた。そこで彼は規模と構成においてアレクサンドロスの栄光に相応しい場所を準備した。ここに彼を埋葬してあたかも半神に対してするかのように犠牲を捧げ、素晴らしい競技によって讃え、彼は人間からのみならず神からも相応しい報酬を得た。プトレマイオスの寛大さと気高さのために、人々は熱烈にアレクサンドレイアの全域から馳せ参じ、王軍がプトレマイオスと戦おうとしていたにもかかわらず、喜んで遠征のために軍に入った。そして、危険は明らかで大きかったにもかかわらず、それでも皆は進んでプトレマイオスの安全を守るために個人的に危険を冒した。また神々は彼の勇気と全ての友人への彼の公正な扱いのために最大の危険から彼を予期せずして守りもした。

小アジア戦線、エウメネス対クラテロス
29 プトレマイオスの勢力拡大を疑ったペルディッカスは自らと王たちでほとんどの軍を率いてエジプト遠征を行うことを決定したが、アンティパトロスとクラテロスがアジアに渡るのを阻止するために適当な数の軍を与えてエウメネスをヘレスポントスへと送っていた。またペルディッカスはエウメネスと共に十分な数の高名な将軍たちを送ったが、そのうちで最も著名なのはペルディッカスの弟アルケタスとネオプトレモスであった。彼はエウメネスの将軍としての実力と確かな忠誠心のために、彼らに万事においてエウメネスに従うよう命じた。与えられた軍を率いてエウメネスはヘレスポントスへと向かった。自らの州から騎兵の大部隊をすでに準備していた彼はそこで前もってその兵科〔歩兵〕が不足していた軍を位置につかせた。
 クラテロスとアンティパトロスがヨーロッパから彼らの軍を移動させると、エウメネスに嫉妬していて自らに続くかなりの数のマケドニア軍を擁していたネオプトレモスは密かにアンティパトロスと交渉して同意に至り、エウメネスに対して陰謀を企んだ。それが〔エウメネスに〕露見して戦うことになると彼は自ら死の危機に陥り、軍のほとんどを失った。エウメネスは勝利して多数を殺傷して残余の兵士を味方に引き入れ、勝利のみならず、逞しい多くのマケドニア兵を獲得することによって自らの戦力をも増やした。しかし騎兵三〇〇騎と共に戦いから逃げ延びたネオプトレモスはアンティパトロスのところへと奔った。軍議が開かれて軍を二手に分けることが決定された。アンティパトロスは一隊を率いてペルディッカスと戦うためにキリキアへと出発し、もう一方を率いるクラテロスはエウメネスと戦い、彼を破った後にアンティパトロスと合流することになった。このようにして彼らが軍を合わせてプトレマイオスを同盟に加えれば、王軍に優越することができるであろうというわけであった。
30 敵が向ってくるのを聞くやすぐにエウメネスは方々から軍、特に騎兵をかき集めた。彼は自らの歩兵をマケドニアのファラクスと渡り合うようにはできなかったため、騎兵によって敵を破ろうと望んで注目に値する騎兵部隊を準備した。両軍が互いに近づくとクラテロスは全軍を集会に召集し、兵士たちが戦いで勝利したならば敵の荷物を全て戦利品として与えると言い、相応しい言葉で戦いへと鼓舞した。さて全員が戦いへの意欲を持つと彼は軍を整列させ、自らは右翼の指揮を執って左翼の指揮をネオプトレモスに執らせた。クラテロスは勇敢さで知られ、とりわけ勝利への期待を寄せていたマケドニア兵が主であった全部で二〇〇〇〇人の歩兵と、補助部隊としての二〇〇〇人以上の騎兵を有していた。エウメネスはあらゆる人種の兵士からなる歩兵二〇〇〇〇人、彼にその遭遇戦を決定させた騎兵五〇〇〇騎を有していた。
 双方の指揮官たちが騎兵を翼に配して歩兵の戦列を配置すると、まずクラテロスは選り抜きの部隊と共に敵へと攻撃を仕掛けて見事な戦いぶりを示した。しかし馬が躓いて彼は落馬して足で踏みにじられて人知れず命を落としてしまい、そのことは混乱と部隊の密集のために気付かれなかった。彼の死によって敵は奮い立って方々から殺到し、大殺戮が起こった。右翼はこのようにして壊滅し、歩兵のファランクスの方へと逃げる他なくなって完全に敗れた。
31 しかし、左翼にはネオプトレモスがエウメネス自身に対して陣取り、功名心に燃えて敵愾心を露わにしていた両将は互いへと突進した。馬と記章のために互いを認識するやすぐに彼らは接近して戦い、一騎打ちによって勝利を得ようとした。最初の剣戟を交わした後に彼らは奇妙で最も異様な決闘を行った。というのも、怒りと互いへの憎悪に駆り立てられた彼らは手綱から左手を離して格闘したからだ。この結果、彼らの馬はそのはずみで彼らから離れ、彼らは地面に落ちた。突然のことと落下の衝撃、特に鎧が体の自由を奪ったために彼らが立ち上がるのは困難であった。にもかかわらず、エウメネスが最初に立ち上がってネオプトレモスの膝の後ろを打ってネオプトレモスの出鼻をくじいた。怪我が重くなって足が崩れたため、攻撃を受けた者は力を失って傷によって立てなくなった。にもかかわらず勇敢にも体の傷に打ち勝って肘をつき、腕と腿への三度の打撃で敵を負傷させた。それらの打撃はどれも致命的ではなく、傷は真新しかったために、エウメネスはネオプトレモスの首に二度目の打撃を食らわせて殺した。
32 一方残りの騎兵は戦いに参加して激戦を戦った。そうして一部は倒れて他は負傷するなどして当初戦いは五分であったが、ネオプトレモスの死と他の翼の敗走を知った後に全員が逃げ出し、あたかもそれが強固な要塞であるかのように歩兵のファランクスの方へと逃げた。エウメネスは自らの優位と両将軍の遺体の所有者となることで満足し、トランペットの音で兵士を呼び戻した。戦勝記念碑を建てて死者を埋葬した後、彼は降伏したファランクスに使いを送って彼に与するよう提案し、各自がどこなり望むところへ退去することを許可した。マケドニア兵たちは降伏の条件を呑んで宣誓によって誓約し、近くにある若干の村々に食料を調達するために行く許しを得た。彼らはエウメネスを騙した。彼らは体力を回復して物資を集めると、夜のうちに出て行って秘密裏にアンティパトロスのところに合流しに行った。エウメネスは誓いを破った者たちの不実を罰しようとしてファランクスの末尾に追いすがった。しかし退却していた者たちの大胆さ、そして傷によって衰弱していたために彼は何も成し遂げることができず、追撃を諦めた。ともあれ、目覚しい勝利と二人の将軍の殺害とによって、エウメネスは素晴らしい栄誉を得た。

エジプト戦線、ペルディッカス対プトレマイオス
33 敗走してきた逃亡兵を収容して〔軍に〕編入するとすぐにアンティパトロスはキリキアへと向い、プトレマイオスの救援へと急いだ。エウメネスの勝利を知るとペルディッカスはエジプト遠征でさらに大胆になった。そしてナイル川へと至ると、彼はペルシオン市からそう遠くない場所に野営した。しかし彼が古い運河の清掃に着手すると、川は激しく荒れ狂って彼の事業をぶち壊し、彼の多くの友人が彼を見捨ててプトレマイオスについた。実際、ペルディッカスは冷血漢で他の部将たちの権限を無理やりに奪い、概して力づくで全ての人を支配しようと欲していた。しかし反対にプトレマイオスは寛大で公正で、全ての部将たちに率直な物言いをする権利を認めていた。その上、彼はエジプトの最も重要な地点の全てにあらゆる投擲兵器とその他で武装させたかなりの規模の守備隊を置いていた。このことがなぜ〔部下の〕支配において彼が有利な立場にいるのかを説明している。というのも、彼には彼を好いていて彼のためなら喜んで危険に飛び込む多くの部下がいたからだ。ペルディッカスは自らの欠点を直す努力をし、将軍たちを集めて贈り物によって一部を、過大な約束で他の者を、そして皆との親しみのこもった交際によって自らの事業に彼らを加わらせ、来るべき危険に対して彼らを奮い立たせた。陣営を引き払う準備をするよう彼らに知らせた後、彼は行こうとしている場所を誰にも明かさずに夜のうちに軍を出発させた。夜通し全速で行軍した後に彼はナイル川近くの「ラクダの砦」と呼ばれる防備が敷かれたある砦に野営した。夜が明けると、彼は軍に川を渡らせ始め、象を前衛に、それに続いてヒュパスピスタイと梯子及び砦の攻撃に使えると思った他の物を運ぶ兵士たちを渡らせた。全軍の殿は騎兵の中の最も勇敢な者たちであり、もしプトレマイオスの兵が現れたら、彼らをプトレマイオスの兵士に差し向けようとペルディッカスは計画していた。
34 彼らが中ほどに差し掛かった時、プトレマイオスとその部隊が現れて駆け足で砦を守りにやって来た。プトレマイオスの兵士は敵へと進み出でて突進し、ラッパと叫び声によって自分たちの出現を知らせた。ペルディッカスの兵士は怯えずに果敢に陣地に攻撃をかけた。すぐにヒュパスピスタイは攻城梯子をつけてそれに乗り、その間象は柵を粉々に引き裂いて胸壁を打ち壊した。しかし、手元に最良の兵士を有し、他の将軍と友人たちを危険へと立ち向かうよう奮い立たせようと望んでいたプトレマイオスはサリッサを掴んで外塁の上に上り、先頭の象の目を潰してインド人の象使いを負傷させた。そして、危険をものともせずに梯子を上ってきた兵士を攻撃し、彼らを鎧を着けたまま川へと突き落とした。彼の例に倣って彼の友人たちは果敢に戦い、〔プトレマイオスが攻撃した象の〕次の列をなした獣を操るインド人を射撃して完全に無力化した。城壁での戦いは長時間続き、ペルディッカスの部隊は交代で攻撃して力づくによって砦を落とそうとし、一方でプトレマイオスの個人的武勇、忠誠と勇気を示せという友人たちへの激励のために多くの英雄的な戦いが起こった。双方多くの兵士が倒れ、将軍たちの尋常ならざる競争が起こり、プトレマイオスの兵士たちが高所に寄ったのに対し、ペルディッカスの兵士は数で勝っていた。最終的に、双方はその日全てを戦いに費やし、ペルディッカスは包囲を諦めて野営地へと戻った。
 夜のうちに野営地を引き払ったペルディッカスは密かに進軍して対岸にメンフィスがある場所へと来た。そこではナイル川が分岐しており、大軍の野営地の安全を図るのにも十分な大きさの川中島(20)があった。この島へと彼は部下を移し、川の深さのために兵士たちは苦労して渡った。水は渡る者の顎にまで来て、彼らの体はもまれ、特に装備が邪魔になった。
35 しかし今に困難に陥るだろうと見たペルディッカスは川下への流れを遮るために左の列に象を置き、流れの強さを和らげた。そして彼は川に流されて対岸に運ばれるであろう者を取り押さえるために右側に騎兵を配置した。奇妙で驚くべきことがこの軍の渡河の間に起こった。つまり、最初の者は安全に渡ったが、その後に渡ろうとした者は大きな危険に陥ったのである。見たところ原因はなかったにもかかわらず、川が深くなって彼らの体は完全に水に沈み、誰一人として何もできなかった。彼らがこの出来事の原因を探しても本当のことを推論によって見つけることはできなかった。幾人かはどこか上流の閉じられていた運河が開かれて川と合流したために深い淵になったのだと言った。他の者はその地方での雨によってナイル川が増水したのだと言った。しかし、起こったのはそれらのどちらでもなく、渡河地点の砂がそのままだったために浅瀬の最初の渡河には比較的危険がなかったが、まず馬と象、次いで歩兵による他の渡河の場合は、砂が足で踏まれ、流れによる運動が起こって〔彼らは〕流れにはまり、このようにして渡河地点がくぼんで浅瀬が川の中頃で深くなったのである。
 残りの軍がこのために河を渡ることができず、ペルディッカスは大きな困難にぶつかった。そして渡った者は敵と戦うのには十分ではなく、近くの岸にいた者は味方を助けに行くこともできず、彼は全軍に再び戻るよう命じた。したがって全軍がその流れを渡らせられたのであるが、泳ぎを知っていて強靭な体を持っていた者は装備を投げ捨てた後に大変苦労しながらもナイル川を泳いで渡り切った。しかし残りの者は泳ぎを知らなかったために一部は川に飲み込まれ、他は敵側の岸に打ち上げられ、ほとんどの者はしばらくの間水と格闘した後に川の獣〔ワニ〕の餌食になった。
36 二〇〇〇人以上が失われたために軍の高官の一部はペルディッカスに悪感情を抱くようになった。しかし、プトレマイオスは川の彼の側に打ち上げられた者たちを火葬して真っ当な葬儀を上げ、遺灰を遺族と死者の戦友へと送った。
 これらの出来事によってマケドニア兵はペルディッカスにさらに憤慨し、プトレマイオスには好意を持つようになった。夜が来ると野営地は嘆きと悲しみに包まれた。あまりにも多くの兵士が敵からの攻撃によらずに徒に失われ、一〇〇〇人を下らぬ者が獣の餌食になったのだ。したがって多くの将軍たちが団結してペルディッカスを非難し、歩兵の全ファランクスは彼に反発して脅迫するような大声を上げて反感を明らかにした。したがって約百人の将官たちが最初に彼に対する反乱を起こした。そのうち最も高名だったのはピトンであり、彼は反乱を起こしたギリシア人を鎮圧し、勇気と名声において並ぶ者のいないアレクサンドロスの友人であった。次に騎兵の一部もまた加わってペルディッカスの天幕へと行き、一斉に襲い掛かって彼を殺した。
 翌日兵士たちの集会が開かると、プトレマイオスが来てマケドニア兵に挨拶して自らの態度を弁明した。そして彼らの物資が少なくなってきていたので、彼は自腹を切って軍に十分な穀物を提供して他の必要物資で野営地を満たした。大歓声を受けて将官たちに王たちの後見人の地位に就くよう賛同を受けていたにもかかわらず、彼は後見人の地位に就かず、むしろピトンとアリダイオスへの感謝のために自らの影響力でもって彼らに最高指揮権を与えた。最高位についての問題が集会において起こるとプトレマイオスはこの方針を提唱し、マケドニア人は反対することなく熱狂的にピトンと、アレクサンドロスの遺体を運んだアリダイオスを王たちの後見人兼摂政に選んだ。かくして三年間の間統治した後にペルディッカスは上述のようにして指揮権と命の両方を失ったのである。
37 カッパドキア近くで戦われた戦いでエウメネスがクラテロスとネオプトレモスに勝利して敗死させたことは人々に知られた。もしこれがペルディッカスの死の二日前に知られていたなら、彼の大きな幸運のために誰も彼に手向かおうとはしなかっただろう。しかし、今やエウメネスについての知らせを知ったマケドニア人は彼とペルディッカスの弟アルケタスを含むその主たる仲間五〇人に死を宣告した。彼らはまたペルディッカスの忠実な友人たちと、艦隊の指揮権を持っていたアッタロスの妻であり、ペルディッカスの姉妹アタランテをも殺害した。
 ペルディッカス殺害の後、艦隊を指揮していたアッタロスはペルシオンに待機していた。しかし妻とペルディッカスの殺害を知ると彼は艦隊と共にテュロスへと向った。その市の守備隊長であったマケドニア人アルケラオスはアッタロスを迎え入れて彼に市を明け渡し、また保管のためにペルディッカスによって自らに与えられていた八〇〇タラントンの額になる蓄えをきちんと返した。メンフィスの前の陣営から無事に逃げてきたペルディッカスの友人たちを受け入れるためにアッタロスはテュロスに留まった。
38 アジアへのアンティパトロスの出発の後、アイトリア人はペルディッカスとの協定に従ってアンティパトロスの注意を逸らすためにテッサリア遠征を行った。彼らは一一〇〇〇人の歩兵と四〇〇騎の騎兵で向かい、アイトリア人アレクサンドロスを将軍とした。進軍中に彼らはアンフィッサのロクリス人の都市を包囲して郊外を荒らし、近隣の町を幾つか占領した。彼らはアンティパトロスの将軍ポリュクレスを戦いで破り、彼自身と少なからぬ兵士を殺した。その一部は捕らわれて〔奴隷として〕売り払われ、他は身代金を受け取って解放された。続いてテッサリアに侵攻した彼らはテッサリア人のほとんどをアンティパトロスとの戦争で彼らの側につくよう説得してすぐに軍を合流させ、全部で二五〇〇〇人の歩兵と一五〇〇騎の騎兵にもなった。彼らがいくつかの都市を獲得した一方で、アイトリア人と敵対していたアカルナニア人はアイトリアに侵攻して土地の略奪と諸都市の包囲を開始した。アイトリア人は自国への危機を知ると、テッサリアにファルサロスのメノンに指揮を執らせた他の部隊を残し、市民軍と共に迅速にアイトリアへと向ってアカルナニア人を恐怖に陥れて生地を解放した。彼らがその問題に取り組んでいるその一方で、将軍としてマケドニアに残されたポリュペルコンはテッサリアに大軍を率いてやってきて戦いで敵を破り、将軍のメノンを殺して軍の大部分を散り散りにし、テッサリアを回復した。

トリパラデイソスの会議
39 アジアにてアリダイオスとピトンという王の後見人たちはナイル川から王たちと軍と共に出発し、高地シリアのトリパラデイソスにやって来た。そこで王妃のエウリュディケは多くの問題に干渉して後見人たちのすることなすことに反対した。ピトンとその同僚はこれに辟易し、マケドニア人たちがよりいっそう彼女の命令に注意を向けているのを見て、会議を招集して後見人を辞任した。そこでマケドニア人たちはアンティパトロスを全権を持った摂政に選んだ。数日後にアンティパトロスがトリパラディソスに着くと、彼はエウリュディケが不和を醸して自分からマケドニア人たちの目を彼から背けさせているのを見て取った。軍にはより大きな不和があったが、会議が招集されるとアンティパトロスは群集に呼びかけ、エウリュディケを完膚なきまでに怯えさせることによって騒擾を終わらせ、彼女に静かにするよう説得した。
 その後アンティパトロスは新たに州を配分した。あたかもプトレマイオスが彼の勇気への戦利品であるかのようにエジプトを保持しているかのようであり、移し変えることが不可能であったためにプトレマイオスにはすでに彼のものであったものを割り当てられた。アンティパトロスはシュリアをミュティレネのラオメドンに、フィロクセノスにキリキアを与えた。高地メソポタミア州とアルベラ地方はアンフィマコスに、バビュロニアはセレウコスに、スシアナはペルディッカスへ真っ先に攻撃を行ったためにアンティゲネスに、ペルシスはペウケステスに、カルマニアはトレポレモスに、メディアはピトンに、パルティアはフィリッポスに、アレイアとドランギアナはキュプロス島のスタサンドロスに、バクトリアとソグディアナは〔スタサンドロスと〕同じ島の出身であったソロイのスタサノルに与えた。彼はパラパニサダイをアレクサンドロスの妻ロクサネの父オクシュアルテスの領地とし、パロパニサダイと境を接するインドの一部をアゲノルの子ピトンに加えた。それらの王を王軍と優れた将軍を用いることなしに追い出すことができなかったために、この二つの隣の王国については、インドス川流域の一部はポロスに、ヒュダスペス川流域はタクシレスに割り当てらた。北に面した州については、カッパドキアはニカノルに、大フリュギアとリュキアは前通りアンティゴノスに、カリアはアサンドロスに、リュディアはクレイトスに、ヘレスポントス・フリュギアはアリダイオスに割り当てられた。王軍の将軍にはアンティゴノスが任じられ、彼にはエウメネスとアルケタスとの戦争を終わらせるという仕事が割り当てられた。しかし、アンティパトロスは息子のカッサンドロスをアンティゴノスのところに、アンティゴノスが気付かれずに自身の野心を追求することができないように千人隊長として配置した。王と自らの軍と共にアンティパトロスその人は本土に王を戻すためにマケドニアへと向かった。

アンティゴノスによる旧ペルディッカス派討伐戦その一、対エウメネス
40 エウメネスとの戦争を終わらせるためにアジアの将軍に任命されたアンティゴノスは冬に方々から兵を集めた。戦いの準備をした後に彼はまだカッパドキアにいたエウメネスに向って進んだ。さて、ペルディッカスという名のエウメネスの有能な部将の一人は彼を見捨てており、三日間進軍した距離に反エウメネスの暴動に参加していた兵士、歩兵三〇〇〇人と騎兵五〇〇騎と共に野営していた。したがって、エウメネスはテネドスのフォイニクスを四〇〇〇人の選り抜きの歩兵と一〇〇〇騎の騎兵と共に彼に対して送った。夜間の強行軍の後にフォイニクスは二人目の夜警が眠っていた時に突如攻撃をしかけ、ペルディッカスを生け捕りにしてその兵士の支配権を手にした。エウメネスは職務放棄に最も責任がある隊長たちを処刑したが、一般の兵士は他の部隊に配して懇ろに扱って忠実な支持者としてつなぎとめた。
 その後アンティゴノスはエウメネス軍の騎兵隊長であったアポロニデスなる者に手紙を贈り、密かに裏切って戦いの時に寝返るよう多くの見返りを使って説得した。一方でエウメネスは騎兵が戦うのに好都合なカッパドキアの平地に野営しており、全軍と共に現れたアンティゴノスはその平地を見下ろす高地を占領した。この時アンティゴノスはその半分が強健さに秀でたマケドニア兵であった一〇〇〇〇人以上の歩兵、二〇〇〇騎の騎兵、三〇頭の象を有していた。一方エウメネスは二〇〇〇〇人を下らない歩兵と五〇〇〇騎の騎兵を指揮していた。かくして激しい戦いが起こるとアポロニデスは騎兵もろともにエウメネスの側へと予想だにせぬ裏切りを行い、アンティゴノスはその日に勝利して敵兵八〇〇〇人を殺傷した。また彼は敵の全ての物資も征圧し、エウメネスの兵士は敗北に落胆した上に物資の喪失に意気消沈した。
41 この後エウメネスはアルメニアへと逃げてその地の住民の一部を同盟者とした。しかしアンティゴノスに追いつかれて兵士たちがアンティゴノスの方に走ったので、ノラと呼ばれる砦に籠った。その砦は周囲が二スタディオンもないほど非常に小さかったが、高い岩山の頂上に面して立てられて、良く防備を施されており、一部は自然の、もう一部は人の手になる仕事のために優れて強固であった。さらに、彼らがそこへと避難した時には何年分もの糧秣、松明、そして塩といった全ての必要物資十分な蓄えがあった。エウメネスには彼の逃避に同行した例外的に忠実で、最悪の状況に陥ろうとも彼と命運を共にすると決めていた友人たちがいた。それは歩兵と騎兵を合わせて全部で約六〇〇人であった。
 今やアンティゴノスはエウメネスの軍を取り込んでエウメネスの州をその歳入ともども支配するようになっており、さらにその上多額の金を得ていたためにさらに大きな望みを持った。というのも、彼と覇権を競えるのに十分で強力な軍を持った将軍は全アジアにはもはやいなかったからだ。したがって、その時はアンティパトロスに好意的なふりをしつつも、彼はすぐに彼自らの地位を固めてもはや王からもアンティパトロスからも命令を受けまいと決めた。したがって彼はまず砦に逃げ込んだ者を二重の壁、堀、そして驚くほどの柵で包囲した。しかし彼はエウメネスと停戦会談をし、アンティゴノスの〔エウメネスへの〕友情を再確認し、エウメネス自身についての一切合財を自らに委ねるよう説得しようとした。しかし、エウメネスは運命はすぐに変わるものだとよく知っており、現状が許すよりもさらに大きな譲歩を主張した。現に、彼は元々彼に割り当てられた州を返還され、全ての責任は放免されるべきだと考えていたのだ。しかしアンティゴノスは砦に十分な監視兵を置いた後にその問題〔エウメネスの処遇〕をアンティパトロスに委ね、残党を率いていた敵将たち、ペルディッカスの弟アルケタスと全艦隊を指揮していたアッタロスと戦うために出発した。
42 その後エウメネスはアンティパトロスへと降伏の条件を話し合うための使者を送った。その主席は後継者たちの歴史を書いたヒエロニュモスであった。人生における状況の多くの、そして様々な変化を経験していたエウメネスその人は運命はどちらの方向にも突然変わるということをよく知っていたために落ち込んではいなかった。彼は一方でマケドニア人たちの王への忠誠は中身がない見せかけのものであり、その一方で大きな野心を持っていた多くの者は将軍の地位にあり、その各々は自らの利害で行動しようとしていたことを見て取っていたのだ。したがって、彼は戦争での自らの判断力と経験、さらに誓約への並外れた誠実さために多くの人が彼を必要とするということが本当に起こることを望んでいた。
 荒く狭い場所のために馬たちの訓練ができず、これでは騎乗しての戦いには使えないだろうと見て取ると、エウメネスはある奇妙で尋常ではない訓練法を考案した。〔少し高いところの〕梁や釘に縄を結んでそれを馬の頭へと結びつけて二、三の足の裏を対にして吊り、前足を地面と丁度離れさせて馬に体重を後ろ足にかけることを強いた。すぐにそれぞれの馬は前足で歩こうとしては全身と足で奮闘し始め、全ての馬が激しい動きをした。このような動きでふんだんに体から汗を流し、こうして極度の運動によってその獣たちは最高の状態で維持された。彼は全ての兵士に同じだけの食料を与え、自身も粗末な食べ物を共にした。そして彼の愛想のよさは変わらなかったために大きな好意を得て、全ての仲間の避難者たちの間での調和を守った。エウメネスと彼と共にその岩城へと逃げた者たちの状況は以上のようなものであった。
43 エジプトに関しては、予期せずペルディッカスと彼の王軍から解放されたプトレマイオスはそれがあたかも戦争の賞品であるかのようにその土地を領した。フォイニキアとコイレ・シュリアと呼ばれた地域がエジプトへの攻撃に都合が良い位置にあることを見て取ると、彼はそれらの地方の支配者になろうと望んだ。したがって彼は十分な軍と共に友人の中からニカノルを選んで将軍として派遣した。後者はシュリアへと進撃して太守ラオメドンを捕えて全域を制圧した。同様にフォイニキアの諸都市の忠誠を確保してそれらに守備隊を置いた後、素早く効果的な遠征を終えて彼はエジプトに戻った。

アンティゴノスによる旧ペルディッカス派討伐戦その二、対アルケタス
44 アポロドロスがアテナイでアルコンだった時(21)、ローマ人は執政官にクィントゥス・ポピリウスとクィントゥス・ポプリウスを選んだ(22)。彼らの任期の間、エウメネスを破ったアンティゴノスはペルディッカスの友人であり家族であったアルケタスとアッタロスが十分な兵士を持つ強力で侮れない将軍であったため、アルケタスとアッタロスとの戦争に着手しようと決めた。したがってアンティゴノスは全軍を率いてカッパドキアからアルケタスとその軍がいたピシディアへと向った。彼は兵士に最大限の忍耐力を発揮させて強行軍を行い、七日と同じ日数の夜で二五〇〇スタディオンを踏破してクレトポリスと呼ばれる場所に着いた。彼は素早い進軍によって敵の虚を突いて敵がまだ彼の到着に気付かないうちに近づき、ある凸凹した峰々を占領することによって彼らを出し抜いた。すぐにアルケタスは敵が近くにいることを知り、ファランクスと騎兵を率いて大急ぎで出撃して峰を占領していた兵士を攻撃し、全力で戦って勝利を得ようと丘から彼らを罵倒した。激しい戦いが起こって双方多くの者が倒れた。そこでアンティゴノスはアルケタスの戦列を切り裂いて退却させようと六〇〇〇騎の騎兵を率いて敵のファランクスへと猛攻をかけた。この機動は成功し、数ではずっと勝っておりさらに地形の困難さのために優位にあった峰の軍は、攻撃軍を敗走させた。分断された歩兵を退却させたアルケタスは数において優勢な敵によって罠にはめられ、破滅へといざなわれた。したがって生き残ること自体が難しくなった今、彼は多くの部下を見捨てて辛くも歩兵のファランクスの方へと逃げた。
45 しかし、アンティゴノスは象と全軍を率いて高地から下ってきて数においてかなり劣勢であった敵を恐慌状態に陥れた。というのも、アルケタスの全軍は一六〇〇〇人の歩兵と九〇〇騎の騎兵で、一方アンティゴノスは象に加えて四〇〇〇〇人以上の歩兵と約七〇〇〇騎の騎兵を持っていたたからだ。象は今やアルケタス軍を正面から攻撃しようとし、同時に騎兵は数の優勢のために方々へと雪崩込み、一方で数で圧倒的に、そして勇気においても勝っていた歩兵は彼らより高い場所を占めていた。そして混乱と動揺がアルケタスの兵士を覆い始め、攻撃の大変な速さと勢いによって彼はきちんとファランクスを形成することができず、総崩れとなった。アッタロス、ドキモス、ポレモン、そして多くのより重要な部将たちが捕らえられたが、アルケタスは護衛兵と随行員を伴ってピシディアの同盟者、テルメッソスと呼ばれたピシディアの都市へ逃げた。アンティゴノスは交渉によって残りの全軍を降伏させて自軍に彼らを引き入れた。寛大な扱いによって彼は自軍に少なからぬ追加を得た。しかし、六〇〇〇人を数える〔戦いで〕勇気を示したピシディア人はアルケタスの素晴らしい勇気を語り、以下の理由によって彼に非常に好意的であったために決して彼を見捨てまいと約束した。
46 ペルディッカスの死後、アルケタスはアジアでは孤立無援になっていったために好戦的で難攻の土地を領し、砦を有していた同盟者たちを繋ぎとめようと考えてピシディア人に情け深さを示すことにした。このために戦争の間、彼は全ての同盟者に並々ならぬ敬意を払って彼らに敵地からの戦利品を分配し、戦利品の半分を渡した。彼らとの会話においては最も慇懃な言葉を用いては日毎に彼らの中で最も重要な人物を順に宴会の席に招待し、最後に相当の価値がある贈り物によって彼らの多くに敬意を表し、忠実な支持者として確保した。したがってこの時でさえアルケタスは彼らに期待し、彼らもまた彼の期待に背かなかった。アンティゴノスが軍と共にテルメッソスの近くに野営してアルケタス〔の引渡し〕を求めた時、老人たちは彼を引き渡すべきだと言い、若者たちは親たちに反対する一党を形成して彼の身の安全のためにはどんな危険も冒すと決めた。
 年長者たちはまず、生まれ故郷を一人のマケドニア人のために戦争に晒すことを許さないよう若者たちを説得しようとした。しかし若者たちの決意は動かせないと理解すると、密かに相談した後に夜にアンティゴノスに使者を送り、生かすか殺すかしてアルケタスを引き渡すことを約束した。彼らはアンティゴノスに何日間も市を攻撃して軽い小競り合いによって防衛軍を引き付け、あたかも逃げるかのように退却することを求めた。もしそうなって若者たちが市から離れた場所で戦うことになれば、彼らは計画の好機を得るだろうと言った。彼らによって説き伏せられたアンティゴノスは野営地を市から離れた場所に移し、小競り合いによって若者たちを市外での戦いに釘付けにした。年長者たちはアルケタスが一人取り残されているのを見て取ると、最も信頼できる奴隷たちとアルケタスに加担していなかった年齢の盛りにいる市民たちを選び、若者たちがまだ遠くにいる間に策略を実行した。実のところ、彼らは彼を生け捕りにすることができなかった。というのも、彼は敵の懐へと生きたまま曳き立てられないようにと自ら命を絶ったのである。かくして彼の遺体は棺に入れられてきめの粗いマントで覆われ、彼らは門を抜けて小競り合いをしている者たちに気付かれることなくアンティゴノスの方へと届けた。
47 かくして彼らは自らの計略によって危機を脱出したことによって戦争を防ぎはしたが、若者たちの不満からは逃げることができなかった。というのも、戦いから帰還して起こったことを聞くやすぐに彼らはアルケタスへの過度の心酔のために親族に激怒した。まず彼らは町の一部を占拠して建物に火を放ち、武器を取って町を出て、アンティゴノスに服従した地方を略奪するために山々に拠ることを提議した。しかし、後になって彼らは心変わりして市への放火を止めたが、敵対者の領地を荒らして山賊行為とゲリラ戦を行うことを票決した。アンティゴノスはアルケタスの遺体を引き取ると三日間に亘りいたぶった。そして、死体が腐り始めると埋葬もせずに投げ捨て、ピシディアを発った。しかしテルメッソスの若者たちはまだこの敗者への好意を持ち続けており、遺体を取り戻して豪華な葬式を挙げて弔ってやった。まさにその本性において親切とは恩を受けた者へと恩人を心酔させる愛情という特有の力を持っているのであり、そのためにその男たちの彼への好意は変わらずにいたのである。そのように事が進むと、アンティゴノスはピシディアを発って全軍を率いてフリュギアへと進軍した。彼がクレトポリスへと来た時、ミレトスのアリストデモスが彼にアンティパトロスが死んだこと、最高指揮権と王たちの後見人の地位はマケドニア人のポリュペルコンのものになったことを知らせていた。その出来事に喜んだ彼は希望に気分を高ぶらせてアジアの統治権を固く掌握し続け、誰にもその大陸の支配権を渡すまいと心に決めた。
 アンティゴノスの状況は以上のようなものである。

アンティパトロスの死
48 マケドニアではアンティパトロスが老齢が致命的になるほどの重病を患った後、アテナイ人はアンティパトロスへの使節としてマケドニアとの関係において市に貢献していると評されていた男、デマデスを送った。彼らはアンティパトロスに対して彼が最初から同意したように、ムニュキアから守備隊を立ち退かせることを求めた。当初アンティパトロスはデマデスを快くもてなしたが、ペルディッカスが死んだ後に或る手紙が王の公文書で見つかり、その中でデマデスはペルディッカスにアンティパトロスに対抗してヨーロッパへと早く渡ってくるよう求めていた。その手紙の中ではアンティパトロスは彼から親しからぬ者とされており、デマデスの密かな憎悪がちらついていた。したがって与えられた指示に従ってデマデスが約束の遂行を要請し、守備隊に関してはむしろ脅しによって好き放題していたので、アンティパトロスはデマデスに返答をせずにデマデスその人と、使節として父に同行していたデマデスの息子デメアスを獄吏へと送った。彼らは投獄されて上述の理由で処刑された。
 今際の際にアンティパトロスは王の後見人兼最高司令官に、アレクサンドロスの遠征に付き従った者のうちで最年長であり、マケドニア人から尊敬されていたポリュペルコンを指名した。また、アンティパトロスは自身の息子であるカッサンドロスを権威において二番目の千人隊長とした。千人隊長の地位と階級は最初はぺルシア王によって名声と栄誉を与えられたものであり、後にアレクサンドロスの下で彼がこれと他の全てのペルシアの慣習の賛美者となった時に強権と名誉を得た。このためにアンティパトロスはカッサンドロスは千人隊長の地位には若かったものの、同様の方針を踏襲して息子のカッサンドロスを任命した。
49 しかし、カッサンドロスは血縁にない者が父の権限を継承するというのはけしからぬことであり、そうではなく公事を主導でき、すでに能力と勇気の十分な証拠がある息子たる自分こそが相応しいと思った。まず友人たちと共に彼はある地方へと赴いてそこでたっぷりと機会と時間を得て、最高指揮権について彼らと話し合った。次いで一人ずつ別々に、個人的に彼らに彼の統治権を打ち立てる時には味方するよう説き、大それた約束をして味方に引き入れ、計画遂行の準備をさせた。また彼はプトレマイオスに秘密裏に使者を送り、友好を更新し、同盟に参加してフォイニキアからヘレスポントスまで可及的速やかに艦隊を送るよう求めた。同様に彼は他の将軍と都市にも自分と同盟を結ぶよう求める使者を送った。しかし、彼自身は狩の名目で何日もの間準備をし、反乱を企てているという疑いを避けた。ポリュペルコンは王たちの後見人の地位を得て友人たちと相談をした後に彼らの同意を得てオリュンピアスを呼び寄せて王に相応しい気品でマケドニアで暮らさせ、そしてまだ子供だったアレクサンドロスの息子の世話を見させた。この少し前にオリュンピアスは、アンティパトロスとの争いのためにエペイロスへと亡命者として逃げ込んでいたのである。
 マケドニアの情勢は以上のようなものであった。

小アジアでのアンティゴノスの勢力拡大
50 アジアでは、アンティパトロスの死が広く知れ渡るとすぐに各々有力者たちは己が目的のために動こうとしたために変革の機運が起こった。そのことを予測していたアンティゴノスはすでにカッパドキアでエウメネスに勝利して彼の軍を引き継いでおり、またピシディアでアルケタスとアッタロスを完全に打ち破って彼らの兵士をも軍門に加えていた。さらに彼はアンティパトロスによってアジアの最高司令官に選ばれ、同時に大軍の将軍となってもいたために自尊心が強くなって高慢になってもいた。すでに覇権への野望を抱いていたために彼は王たちからもその後見人からも一切の命令を受けまいと決めた。彼は良質の軍を持っており、誰も彼に太刀打ちできないために全アジアの富を手にすることは当然のことだと思った。というのもその時の彼は六〇〇〇〇人の歩兵、一〇〇〇〇騎の騎兵、三〇頭の戦象を有していたからだ。アジアは彼が集めるであろう傭兵のための無尽蔵の報酬を提供できたため、さらにそれに加えて彼はもし必要とあらば既に他の軍の動員をも期待できる状況にいた。それらの計画を胸に抱きつつ彼はノラと呼ばれた砦に非難していたカルディアのエウメネスの友人で同胞の市民であった歴史家ヒエロニュモスを召還した。莫大な贈り物でヒエロニュモスを手なずけた後に彼はカッパドキアでアンティゴノスに対して戦われていた戦いをやめ、彼の友人、同盟者となり、エウメネスが以前に持っていたものの何倍もの価値の贈り物と強大な州を受け取り、概してアンティゴノスの第一の友人、全ての試みにおける盟友となるようエウメネスを説得するたべくヒエロニュモスを使節としてエウメネスのところへと送った。また、アンティゴノスはすぐに友人たちを会議に招集して覇権を獲得するための計画を知らせ、州を最も重要な友人たちに、他の者には軍の指揮権を割り当てた。そして大きな期待をその全員に持たせて覇業への情熱で彼らを満たした。現に彼はアジアを制覇し、現存する太守たちを排除して彼の友人たちのために指揮権の再配置をする腹づもりであった。
51 アンティゴノスがそれらのことにかかずらっていた間、彼の計画を知ったヘレスポントス・フリュギアの太守アリダイオスは自身の太守領の安全を図り、守備隊によってほとんどの都市を確保しようと決めた。キュジコス人の都市は戦略的に最も重要で非常に大きかったため、彼はそこへと一〇〇〇〇人以上の傭兵、一〇〇〇人のマケドニア兵、そして五〇〇人のペルシア人弓兵と投石兵からなる歩兵部隊を率いて攻め寄せた。また彼は八〇〇騎の騎兵、全ての種類の投擲兵器、石弓の矢にも石にも対応していたカタパルト、そして市の強襲のための他の全ての装備を有していた。市に出し抜けに攻撃を仕掛けて周辺の領地の多くを奪取した後に彼は自ら市の包囲に取り掛かり、市内の人々を恐れさせて守備隊を受け入れさせようとした。攻撃は予期せぬものだったためにキュジコス人のほとんどは地郊外へと去っっていった。少数の人々だけが市に残ったが、彼らは全く包囲戦の準備をしていなかった。にもかかわらず、自由を守ろうと決めた彼らは公然とアリダイオスへと包囲を解くことについて協議する使節を送り、市は守備隊を受け入れる以外ならば何だろうと受け入れると言った。しかし彼らは密かに若者を集めて目的に適う奴隷を選抜した後に彼らを武装させて城壁に防衛軍を置いた。アリダイオスは市が守備隊を受け入れることを主張したので、使節はこのことに関して人々と相談したいと言った。太守が同意すると彼らは休戦し、彼らはその昼と夜の間中ずっと包囲戦に耐え抜くための準備を改めて行った。出し抜かれたアリダイオスは好機を失って期待されていた勝利を挫折させられた。キュジコス人は強力で半島ゆえに陸での攻撃から非常に守りやすい市を保持しており、制海権を持っていたために易々と敵を打ちひしいだ。さらに彼らはビュザンティオンから兵士、投擲兵器、そして攻撃に持ち堪えるのに使えるあらゆるものを取り寄せた。ビュザンティオンの人々が素早くそして進んでこの全てを提供すると、キュジコス人は大胆になって勇敢に危険を冒すようになった。また彼らはすぐに軍船を進水させて沿岸を回り、地方にいた人々を確保して再び市へと連れ戻した。十分な兵士を手にして多くの攻囲軍を殺すとすぐに彼らは包囲を破った。かくして、アリダイオスはキュジコス人に出し抜かれ、何も成し遂げることなく自身の太守領へと戻っていった。
52 アンティゴノスがキュジコスが包囲されたいるのを知ったのはケライナイに留まっていた時であった。来るべき計画のために危機に陥っている都市を手中に収めようと決めた彼は全軍のうち最良の兵、歩兵二〇〇〇〇人と騎兵三〇〇〇騎を選抜した。彼らを率いて彼はキュジコス人救援へと急いだ。彼はいささか遅すぎたが、仮に全ての目的を達成し損ねたにせよ市への好意をはっきりと示した。彼はアリダイオスに向けて彼を非難する使節を送った。〔その理由としては〕第一に、彼は同盟者であり攻撃されるべき罪のないギリシア人の都市を敢えて包囲し、第二に彼は明らかに反逆を意図し、彼の州を最初の支配地にしようとしていた〔というものであった〕。最終的にアンティゴノスはアリダイオスに太守領を退去し、居住地として一つの都市を残して静かに暮らすよう命じた。しかしアリダイオスは使節の話を聞いてこの文言の傲慢さを非難した後、太守領から立ち退くことを拒んで守備隊で以って諸都市を占めてアンティゴノスの破滅のための戦争で最初に動こうと言った。この決定に従って彼は諸都市を確保した後に軍の一部とそれを率いる将軍を送った。彼は後者にエウメネスと接触し、砦の包囲を解いてエウメネスを危険から解放し、彼を同盟者とするよう命じた。アリダイオスへの報復をしようと思っていたアンティゴノスは彼との戦争を行わせるべく一軍を送ったが、自身は十分な軍と共に太守のクレイトスを追い出そうと望んでリュディアへと出発した。後者は攻撃を予測してより重要な都市を守備隊で固めていたが、彼自身はアンティゴノスの思い切った謀反を王たちとポリュペルコンに知らせ、助けを請うべく船でマケドニアへと向かった。アンティゴノスはエフェソスを市内の共謀者の助けを受けつつ最初の攻撃で落とした。この後にロドスのアイスキュロスがキリキアから四隻の船で王たちのためにマケドニア人へと送られた六〇〇タラントンの銀を運ぶためにエフェソスへと航行してきて、アンティゴノスは傭兵に給与を支払わなければならないと言ってそれを手にした。これによって彼は彼が自らの目的のために行動しており、王たちに反逆し始めたことを明らかにした。次いでシュメを攻撃した後に彼は整然と諸都市へ向けて進軍し、そのいくつかを力づくで、他のものを説得によって味方にした。
53 さて、ここでアンティゴノスの活動については筆を置き、我々はエウメネスの命運へと話を移そう。この男は甚だしく、そして信じられないほどの運命の変転を経験し、期待できぬほどの良いものと悪いものとを絶え間なく分け持っていた。例えば、これらの出来事の以前に彼はペルディッカスと王たちのために戦って太守領としてカッパドキア及びそこと隣接する地域を受け取り、そこでは大軍と多額の富の主として彼の幸運で有名であった。彼は無敵のマケドニア軍を指揮していた高名な将軍たち、クラテロスとネオプトレモスを激戦で破り、戦場で彼らを殺した。しかし彼は非常な声望を勝ち得たにもかかわらず大会戦でアンティゴノスに破れて少数の友人と共に非常に小さなある砦に非難することを余儀なくされるという運命の変転を経験した。そこに封じ込められて二重の壁で敵に囲まれたため、彼には自身を不運から助けてくれるものは何もなかった。包囲が一年に及んで安全の望みがなくなっていた時に彼は突如予期せずして窮状から救われるに至った。というのも彼を包囲していて彼を倒そうとしていたアンティゴノスは計画を変えて自らの計画に加わるよう彼を求め、誓約を受けて包囲を解いて彼を自由にした。したがって、かなりの時間が経った後に予期せずに助かったために彼はさしあたりカッパドキアに滞在し、そこで以前の友人たちと一度は彼につき従っていて今は地方を彷徨っていた者たちを集めた。というのも彼は非常に評価されていたために素早く彼と希望を同じくし、彼との遠征に参加する大軍を見出すことができた。最終的に、数日間のうちに彼と共に砦で包囲を受けていた五〇〇人の友人に加えて自らの意志で彼につき従う二〇〇〇人以上の兵士を得た。運命に助けられた彼は王軍を引き継ぎ、大胆にも王たちの支配を終わらせようとする者たちから王たちを擁護し、戦力を非常に増大させた。しかし我々はそれらの出来事の仔細については少し後にしかるべき場所に取っておくつもりである。

カッサンドロス対ポリュペルコン
54 さて我々は十分にアジアでの情勢について語ったので、同時にヨーロッパで起きていたことに目を向けてみることにしよう。マケドニアでの支配的地位に就き損ねたにもかかわらずカッサンドロスは狼狽えなかった。しかし彼は父の官職が他人に運営されるのは不名誉だとして支配的地位への主張を続けようと決めた。マケドニア人の支持はポリュペルコンに傾いていたことを知ったために彼は疑うことなくヘレスポントスへと送った最も信頼する友人たちと個人的に相談した。そして彼自身は空いていた数日を地方で過ごして狩猟を計画し、あらかたの世論を彼が官職を得ようとはしていないだろうというものとした。しかし出発に必要なあらゆることを終えると彼はひっそりとマケドニアを発った(23)。彼はケルソネソスへと来てそこを経ち、ヘレスポントスに到着した。アンティゴノスのいるアジアへと渡ると彼は自分はプトレマイオスとも同盟者になると約束をしたと言って救援を請うた。アンティゴノスは熱心に彼の発言を受け入れて実際どのような場合でも彼と共同行動をとり、すぐに歩兵の一軍と艦隊を与えることを約束した。自身のアンティパトロスとの友情のため、これを行う際にアンティゴノスは彼を助けるふりをしたのであるが、本当のところは自らが危険なくアジアで事を進め、覇権を握ることができるように、そしてポリュペルコンが多くの混乱に取り囲まれることを望んでいた。
55 一方マケドニアでは、カッサンドロスが去った後に王たちの後見人ポリュペルコンは自分が戦うことになる戦争は深刻になるだろうと予測し、友人の忠告なしに何も決めずに全ての将軍と最も重要な他のマケドニア人たちを呼び寄せた。いくつかの都市はカッサンドロスの父の守備隊によって守られており、アンティパトロスの友人と傭兵によって支配されていた他の都市は寡頭制で支配されており、さらにはカッサンドロスはエジプトの支配者プトレマイオス及び既に公然と王たちに反旗を翻していたアンティゴノスの両方と同盟を結んでおり、その各々は大軍勢と豊富な富を有し、多くの民族と重要な都市の支配者であったためにアンティゴノスに支援されたカッサンドロスが彼らに対抗してギリシアの諸都市を掌握するだろうことは明らかであった。いかにして彼らと戦うかという問題が降って湧いてきた戦争についての多くの懸命な提案がなされた後、ギリシア中の都市を解放してアンティパトロスによって樹立された寡頭制を打倒することに決まった。したがって、すぐに諸都市から送られた使節を集めて励ました後にポリュペルコンたちは諸都市に民主政体を復興させることを約束した。採用された合意案を起草してすぐに、そして素早く彼らが生まれた都市に戻って民会に王たちと将軍たちがギリシア人に呈した好意を伝えるようにと彼らは合意案を使節たちに与えた。その勅令は以下のような条項であった。
56「我々の先祖はよくギリシア人に恩恵をもたらしたものである。我々もまた同じ思いを保っており、全ての者に我々が常日頃ギリシア人に対して抱いている特別な愛情を知らしめることを望んでいる。先にアレクサンドロスが崩御して王権が我々の元に落ち着いた時、我々は平和とフィリッポス陛下が打ち立てた政体を復帰させるのが必要だと信じていたため、全ての都市にその問題について手紙を送ったのだ。しかし我々が遠く離れていた間に或るギリシア人たちが悪しき忠告を受けたためにマケドニア人との戦争に踏み切って我々の将軍たちに敗れ、多くの苦難が諸都市に降りかかったものであり、将軍たちにはそれらの苦難の責任があったが、我々は元々の政策に拘っていたのであなたたちとその政府のために、あなたたちがフィリッポスとアレクサンドロス治下で享受したような和平をもたらし、我々はあなたたちが全ての他の問題について彼らによって以前発布された同意に従って処理することを許したことをまだ知っている。さらに、我々はアレクサンドロスがアジアに渡った時以来、我々の将軍によって都市から追放されたり亡命していた者を復帰させた。そして我々は我々によって復帰した者は、その財産の全てを党派抗争から保障され、完全な恩赦を享受し、母国での市民権を行使するということに同意した。そしてもし何らかの措置が彼らの不利に働けばそれは無効とされるが、法に従って殺人罪ないし不敬のために追放された者に関する者はその例外となる。ポリュアイネトスと共に反逆したために追放されたメガロポリス人、アンフィッサ、トラッカ、ファルカドン、あるいはヘラクレイアの人は今は復帰されない>。しかしそれらの都市はクサンティコス月の三〇日目までに他の者に引き渡されることとする(24)。もしフィリッポスないしアレクサンドロスの法令が諸都市間の利益に反していれば、彼らの意見を裁定するために我々は使節を送るだろう。アテナイ人はフィリッポスとアレクサンドロスの時代に有していた全てのものを保持し、オロポスは今もアテナイの人々に帰属し続けるべきである。また、フィリッポス陛下が彼らに与えて以来、サモスを我々はアテナイのものとして認める。全てのギリシア人は何人たりとも戦争だろうと公の事柄だろうと我々に反対すべきではなく、違反すれば彼とその家族は追放され、財産は没収されるという布告を受けるものとする。我々はポリュペルコンにそれらの問題と他の問題を処理するよう指示しておいた。また前に我々があなたたちに手紙に書いたように、あなたたちは彼に従うのか? もしそれらの禁令を実行に移さなければ、我々はそれを見過ごすことはないであろう」
57 この勅令が公布されて全ての都市に送られるとポリュペルコンはアルゴスとその他の諸都市にアンティパトロス時代の政府の指導者であった者たち――ある者は死刑宣告を受け、財産を没収されさえした――を追放するよう命じる手紙を書いた。それはその人々の力を完全に殺ぎぐためであり、このようにしてカッサンドロスとの共同行動をさせまいとするためであった。また彼はアレクサンドロスの母でカッサンドロスとの争いのためにエペイロスにいたオリュンピアスに、できるだけ早くマケドニアへと戻ってアレクサンドロスの息子の世話をし、彼が年齢に達して父の王国を受け取るまでの責任を持つよう頼む手紙を書いた。また彼はアンティゴノスへの敵意を捨てはするが、彼の側から王たちの側へと戻ってマケドニアに渡り、エウメネスが望むならばポリュペルコン自身と共同で王たちの後見人になり、あるいはもしアジアに留まる方が良いというのならば、軍と資金を受け取った後にすでに明白に王たちへの反乱を起こしているアンティゴノスと戦うよう説くという内容の手紙を王たちの名の下に書いてエウメネスに向けて送った。王たちはエウメネスにアンティゴノスがいなくなった全ての州と彼がアジアで持っていた特権を回復させるだろうとポリュペルコンは言った。最後に、このことはかねてより王家のために働き、王家を気にかけ案じてくれているエウメネスには特に当然のことだと彼は述べた。もしより大きな軍事力を必要とするというのならば、ポリュペルコンは自らと王たちがマケドニアから王軍の全軍を率いて向うと約束した。
 この年に起こったことは以上のようなものである。

エウメネスの巻き返し
58 アルキッポスがアテナイでアルコンだった時(25)、ローマ人はクィントゥス・アエリウスとルキウス・パピリウスを執政官に選んだ (26)。彼らの任期中、丁度要塞からの退避を成功させた後にエウメネスはポリュペルコンから送られた手紙を受け取った。その手紙は上述の内容の他に、王たちは彼が経験した損失への報いとして五〇〇タラントンを彼に贈り与え、これを実施するために王たちはキリキアの将軍と宝物保管係たちに彼に五〇〇タラントンと、傭兵を雇って差し迫った他の必要のために要求する追加の金を与えるよう指示する手紙を書いた、という内容であった。またその手紙には、エウメネスは全アジアの最高指揮官に任じられたため、三〇〇〇人のマケドニア人の銀楯隊の指揮官たち(27)は概ねエウメネスの裁量に従って彼に真面目に協力すべしという命令もまた王たちは書いた、と付け足されていた。最も信頼できる友人、王家の孤立を改善することができる者としては彼を措いて他には誰もいないと述べ、王たちと自らを助けるよう請い懇願したオリュンピアスからの手紙もまた彼に届いていた。オリュンピアスはエペイロスに留まって王たちの後見人であると考えられているが、本当は王国を自らのものにしようとしている者に信用を置けば良いのか、あるいはマケドニアに帰るべきなのか忠告してくれるよう彼に頼んだ。エウメネスはすぐにオリュンピアスに返信し、戦争の決着が着くまで当面はエペイロスに留まるよう忠告した。彼自身は、常に最もきちんと王たちへの忠誠を守っていたため、自らのために王権を私有しようとしていたアンティゴノスの命令に服すまいと決意した。しかしアレクサンドロスの息子がその孤児状態と将軍たちの貪欲のために助けを必要としていたため、彼は自らには王たちの安全のためにあらゆる危険を冒す責務があると信じた。
59 したがって、すぐにエウメネスは兵士に陣を畳ませておよそ五〇〇騎の騎兵と二〇〇〇人以上の歩兵を率いてカッパドキアから出発した。彼には彼に合流すると約束した者のうち遅れた者を待つ時間がなかった。それというのも今やアンティゴノスの敵となったエウメネスがカッパドキアに滞在するのを防ぐためにアンティゴノスによって送られた将軍メナンドロス配下の相当数の軍が迫っていたためである。事実、三日後に到着した時にこの軍は機を逸したにもかかわらず、エウメネスと共に向った者たちの後を追った。しかし彼らに追いつけなかったためにカッパドキアに戻った。エウメネスは強行軍で素早くタウロス山脈を渡ってキリキアに入った。銀楯隊の指揮官、アンティゲネスとテウタモスは王の手紙に従ってエウメネスと彼の友人たちに会うために遠方から遥々やって来た。彼を迎え入れて非常に大きな危険からの予期せぬ脱出への祝詞を述べた後、彼らは彼には何にせよ喜んで協力することを約束した。およそ三〇〇〇人からなるマケドニア人の銀楯隊は同様にして友情と熱意をもって彼を迎えた。少し前に彼らは王たちとマケドニア人がエウメネスと彼の友人たちに死刑判決を下したものの、今は自らの決定を忘れて彼を放免しただけでなく、王国全土の最高指揮権を彼に委ねていることに思いを致すと、皆が信じがたい運命の変転に驚いた。そしてその感情がエウメネスの運命の変転を眺めていた皆のうちに共有されていたのは尤もな理由があった。人生の移り変わり易さを考える者は移り変わる衰退と運命の流れに驚かないことがあろうか? あるいは運命が彼を気に入っていた時に享受した優勢に信頼を置く者は、死すべき者の弱さのために度を越して高慢な態度をするだろうか? 人生は、言わば神によってその舵取りがなされているのであり、良いことと悪いこととは交替にいつも循環している。予期せぬ出来事が起こること、否むしろ全てのことは驚くべきものではないということは奇妙なことではない。このこともまた歴史についての以下のような主張を許す尤もな理由であ。つまり、出来事の変わりやすさと不規則性のために歴史は順境にあっては尊大さを、貧しい中にあっては絶望の両方への矯正手段を与えるのである。
60 この時に以上のようなことを胸に抱いてもいたエウメネスは、運命は再び変転するだろうと予想して慎重に地位を確保した。彼は自らが外国人であって王権の請求権を持たず、今彼に従っているマケドニア人は以前は彼に死を宣告し、軍の指揮権を持っている者は驕りたかぶり大掛かりなこと目指していることを知っていた。したがって彼は自分はすぐに見下されると同時に嫉妬され、結局のところ命が危険に曝されることになるだろうと理解した。というのも誰も自分より劣っていると思う者によって与えられた命令は心から実施せず、他の者に従うべき者が支配者として上に立つことに我慢ならないだろうからである。自分らそういった事柄について考えてみて、自身の問題を解決するために五〇〇タラントンが王の手紙に従って提供されると、彼は自分には統率者の地位を得ようという望みはないのでそのような贈り物の必要はないと言って最初はその受け取りを断った。今でさえ彼は目下の任に従うこと〔金を受け取って指揮権を握ること〕は自分の意志ではないが、王によってこの大仕事を遂行するよう強いられてしまったのだと言った。いずれにせよ長らく軍務についていたために彼は戦争の小競り合いと行軍に耐えることがはもはやできず、とりわけ外国人の資格ではマケドニア人の特権から除外されていたので、彼は最高権を握る権利を持つだろうとは思ってもいなかった。〔以上がエウメネスの逃げ口上であったが、〕しかし、彼は眠っている時に奇妙なものを見たと公言し、それを皆に明らかにする必要があると考えた。それというのもそれは和合の役に立ち、全般的に良く役に立つと考えたからだ。彼は眠っている時、会議を主催して将軍たちに命令を与え、君主制における全ての事柄を実際に執り行う、王らしい服を纏った生きたアレクサンドロス王を見たと言った。「だから」と彼は言った。「私は、我々は黄金の王冠を王の宝物庫から取り出すべきであり、ダイアデム、笏、王冠、そして残りの印を置いた後、全ての将軍は夜明けにアレクサンドロスに香を供して御前会議を開き、あたかも王が御存命で王国の主であるかのようにその名の下に命令を受けるべきだと考える次第である」
61 彼の提案に皆が賛成し、王の宝物庫は黄金で満ちていたためにあらゆる必要事は速やかに準備された。それからすぐに堂々たる天幕が建てられ、玉座が立てられてその上にはダイアデム、笏、そしてアレクサンドロスが使っていた鎧が乗せられた。次いで火を灯した祭壇が置かれ、将軍全員が乳香と他の最も高価な香料を供し、あたかも神にするかのようにアレクサンドロスに敬礼して黄金の棺に犠牲を捧げた。この後に将軍たちは周りに置かれていた多くの椅子に座って会議を行い、その時々で検討すべき問題について議論した。エウメネスは全ての議題において自らを他の将軍たちと同等の位置に置き、最も親しい交際を通して彼らの支持を得ようとし、憂慮していた嫉妬をなくして将軍たちの間でかなりの支持を確保した。王への敬意がより強くなったためにまさに神が彼らを導いているかのように彼らは皆幸福な期待で満たされた。同様にして自らマケドニアの銀楯隊を掌握することによってエウメネスは王たちの配慮を受けるに相応しい男として彼らの間で多くの支持を得た。
 エウメネスは友人のうちで最も有能な者を選抜して十分な資金を持たせ、かなりの日当を出して傭兵を雇うべく送り出した。彼らの一部はピシディア、リュキア、そして隣接する地域へとすぐに向い、そこで精力的に部隊を集めた。他の者はキリキア、他の者はコイレ・シュリアとフォイニキアを、またある者はキュプロス島の諸都市へと向った。この召集の知らせが広がって相当の額の賃金が提示されると、多くの者が、ギリシアの諸都市からでさえ自発的に集まってきて遠征に加わった。間もなく、銀楯隊とエウメネスに付き従っていた者を除けば、ギリシアの諸都市から歩兵一〇〇〇〇人と騎兵二〇〇〇騎以上が集まってきた。
62 エウメネスの予期せぬ突然の勢力拡大を受け、艦隊を率いてキリキアのゼヒュリオンへと航行していたプトレマイオスは全てのマケドニア人が死を宣告したエウメネスを無視するように勧める手紙を銀楯隊の指揮官たちに送り続けた。似たようにして彼はエウメネスに金を与えることに厳しく抵抗するようキュインダの守備隊長に手紙を送り、彼らの安全を保障すると約束した。しかし誰もそれに耳を貸さず、それというのも王たちとその後見人ポリュペルコン、アレクサンドロスの母オリュンピアスは、エウメネスこそが王国の総指令官であるがゆえにあらゆる仕方でエウメネスに奉仕するようにと彼らに手紙を書いていたからだ。アンティゴノスは特にエウメネスの躍進と彼の許に集まってきた戦力の大きさを不快に思った。というのもポリュペルコンの手によってエウメネスが君主に対して反旗を翻した自らの最も強力な対抗者となっていたからだ。したがってエウメネスに対する陰謀を企もうと決めて彼は友人の一人フィロタスを選んで彼に銀楯隊とエウメネスと共にいた他のマケドニア人に宛てた手紙を持たせた。ポリュペルコンはエウメネスの他におせっかいで話好きな人々であった三〇人の他のマケドニア人にも手紙を送り、銀楯隊の指揮官のアンティゲネスとテウタモスに、彼らは多くの贈り物とより強大な州を約束されてエウメネスに対するいくつかの陰謀を企んでいたにもかかわらず、個々に彼に会うよう指示した。アンティゴノスもまた、彼らに対して銀楯隊の中の知人と仲間の市民と連絡を取り、賄賂で買収してエウメネスに対する陰謀における彼らの支援を保障するよう述べた。さて、彼らは他の者を説得できなかったにもかかわらず、銀楯隊の指揮官のテウタモスだけは買収されて同僚指揮官のアンティゲネスをその試みに参加するよう説得しようとした。しかし、非常に聡明で信頼できる男だったアンティゲネスはこれに反対しただけでなく、買収されたその男を引き戻しさえした。というのも彼はエウメネスがアンティゴノスよりも生き続けることが自分たちの利になると見ていたからだ。現にもしより強力になれば後者は彼らの州を取り上げて数人の彼の友人たちにその地位を与えることになるだろう。しかし、外国人であったためにエウメネスは自身の利害を敢えて推し進めることはないが、将軍の地位を維持するために彼らを友人として扱うだろうし、彼らが彼と協調するならば、彼らのために彼らの州を守ってひょっとしたら他の州もまた彼らに与えてくれるかもしれない。〔その結果テウタモスは説き伏せられ、〕かくしてエウメネスに対する陰謀を目論んだ者たちは以上のようにして失敗した。
63 しかし、フィロタスが将軍たちに共通に全ての人へと宛てられていた手紙を渡すと、銀楯隊と他のマケドニア人に対してエウメネス抜きで私的に手紙を読むよう指示した。その中にアンティゴノスはエウメネスを弾劾する内容を書き記し、マケドニア人に速やかにエウメネスを捕らえて殺すよう説いていた。もし彼らがそれを行わないならば、彼は全軍で彼らに対して戦争を起こし、従うことを拒否する者にはしかるべき罰を与えると言った。この手紙を読んで将軍たちと全てのマケドニア人たちは、王の側につけばアンティゴノスから罰を受けることは必定であるし、もしくはアンティゴノスに従えばポリュペルコンと王たちによって懲らしめられることになるために非常に困惑した。兵士たちがこのように困惑していると、エウメネスが入ってきて、彼は手紙を読んだ後にマケドニア人たちは王たちの法令に則り、叛徒となった者の言うことに耳を傾けるべきではないと説いた。彼は当面の問題に関係ある多くの問題を論じ、切迫した危機から脱出しただけでなく群集から以前より大きな好意を得た。したがってさらにもう一度、予想だにせぬ危険に陥った後にエウメネスは予期せしてず自らの勢力をより強くすることになった。そこで彼は兵士たちに陣を畳むよう命じ、全ての都市から船を集めて大艦隊を結成することを目論んでフォイニキアへと率いていき、そうすればポリュペルコンはフォイニキア船を加えることで制海権を手中に収め、望む時にアンティゴノスに向けてマケドニア軍を安全にアジアへと輸送することができるだろう。したがって彼は海軍を準備するためにフォイニキアに留まり続けた。

アテナイの状況
64 一方、ムニュキアの将軍ニカノル(28)はカッサンドロスがマケドニアからアンティゴノスの許へと向かい、ポリュペルコンが軍を率いて速やかにアッティカへと入ってくることが予測されることを聞き知ると、アテナイ人にカッサンドロスに好意を持ち続けるよう頼んだ。誰も賛成しなかったが、全ての人は可能な限りすぐに守備隊を追い払う必要があると考えていた。したがってまずニカノルはカッサンドロスは市のためになることをするつもりだと言い、民会を騙して数日の間待つよう説得した。しかし、アテナイ人がしばしじっとしている間に彼は密かに夜のうちに兵士を一度に少しづつムニュキアへと導き入れ、その結果、守備隊を包囲しようとする者がいれば防衛し戦い続けられるだけの強力な兵力になった。アテナイ人はニカノルが彼らに対して公正に振舞っていないと見て取ると、王たちとポリュペルコンに使節を送ってギリシア人の自治に関する勅令に従って助けを送るよう頼んだ。そして彼ら自身は頻繁に民会で会議を開き、ニカノルとの戦争に関して何をすべきか考えた。彼らがまだこの議論を行っていた一方で、多数の傭兵を雇っていたニカノルは夜に密かに出撃してペイライエウスの城壁と港の防波堤を占領した。ムニュキアの再占領に失敗しただけでなくペイライエウスもまた失い、アテナイ人は怒った。したがって彼らは衆に秀で、ニカノルの友人であった数人の市民――フォコスの子フォキオン、ティモテオスの子コノン、そしてナウシクレスの子クレアルコス――を使節に選び、ニカノルが行ったことに抗議をして勅令が定めた自治の回復を要求するためにニカノルの許へと送った。しかしニカノルは、カッサンドロスに任命された守備隊指揮官である以上、自分には独自行動をとる権能がないので、カッサンドロスに彼らの任務を伝えてほしいと答えた。
65 この時、一通の手紙がオリュンピアスからニカノルの許へとすぐに届き、その中で彼女は彼にムニュキアとペイライエウスをアテナイ人に返還するよう命じた。王たちとポリュペルコンがオリュンピアスをマケドニアに帰したことを聞き知ると、ニカノルはその少年〔アレクサンドロス大王の息子〕の教育を彼女に委ね、そして彼女を国に復帰させてアレクサンドロスの生前に彼女が享受していた栄誉を認め、怯えながら返還すると約束したが、絶えず口実を弄して約束の遂行は避けた。オリュンピアスを以前は非常に尊重していて今は彼女のために実際に宣言されていた栄誉を認めていたアテナイ人は、彼女の好意によって危険を犯すことなく自治の復活が成し遂げられると期待して喜びで満たされた。しかしながら約束が未だ果たされていなかった時にポリュペルコンの息子アレクサンドロスが軍を率いてアッティカに到着した。実際、アテナイ人は彼がムニュキアとペイライエウスを人々に返してくれると信じていた。しかし、これは事実ではなく、逆に彼は利害関心を動機として戦争に使うために両方を自らの手中に収めた。今やアンティパトロスと友人同士であり、フォキオンがその一人だったあるアテナイ人たちは法に則った相応の罰(29)を恐れてアレクサンドロスの許へと行き、彼にとって有利になることを提示し、砦を奪取してカッサンドロスが負けるまで彼らをアテナイ人たちに引き渡さないよう説得した。ペイライエウス近くに野営していたアレクサンドロスはアテナイ人がニカノルと彼との話し合いに加わることを許さなかった。しかし個人的にニカノルと話して密かに交渉すると、ニカノルがアテナイ人を公平に扱おうと思っていないことが明らかになった。人々は集会にやってきて、現職の行政官たちを罷免し、極端な民主派で役職を満たした(30)。そして彼らは寡頭制の下で役職にあった者を告訴し、その一部に死刑を宣言して他は追放して財産を没収し、その中にはアンティパトロスの下で最高権力を持っていたフォキオンも含まれていた。
66 その人たちは市から追い出されると、ポリュペルコンの息子アレクサンドロスの許に逃げ込んで彼の尽力によって身の安全を確保した。彼らは彼の利害を支持し、今は彼といかなる場合も共同行動をとることを約束しため、彼らは彼に快く受け入れられ、彼の父ポリュペルコンへフォキオンと彼の友人たちが危害を被るべきではないと説く手紙が渡された。アテナイの人々もまたポリュペルコンにフォキオンを弾劾し、ムニュキアと自治を回復するよう懇願するための使節を送った。今やポリュペルコンは、その港は戦争の必要にあっては非常に有用であったために守備隊によるペイライエウスの占領に熱意を示した。しかし彼はもし最も有名なその都市に対して約束を破ればギリシア人から不実だと思われると信じ、自身が布告した勅令に反する行いを恥じたために目的を変えた。使節たちの話を聞くと、彼は人々によって送られた者に友好的な言葉で好意的な返答を与えてフォキオンと彼の仲間たちを逮捕してアテナイ領に送り、彼らの好きなように彼らを処刑するなり、責任を放免するなりする権限を人々に認めた。
 アテナイで民会が招集されてフォキオンと彼の仲間たちの問題が俎上に上がった時、アンティパトロス時代に追放されていた多くの者とその囚人たちの政敵の多くは死刑を要求した。基本的に全ての罪状はラミア戦争の後の彼らは祖国の隷属と民主政府と法の転覆の責任があるというものであった。被告人に弁明の機会が与えられると、フォキオンは弁明を始めたが、騒然とした群集は彼の弁解を拒絶し、そのために被告人たちは何もできなかった。騒ぎが収まると、フォキオンは再び弁明をしようとしたが、群集は大声で反対して被告人の声を完全に遮断した。というのも民主政支持者の多くは市民権を剥奪され、妨害の帰国をしており、独自の法によって統治する権利を市民から奪った者たちに憤っていたからだ。
67 フォキオンは反対者を打倒しようとして必死に命懸けで戦い、近くにいた者は彼の正義の嘆願を近くで聞いたが、遠くにいた者は暴徒によって大騒動が起こったために何も聞こえず、彼の非常な危険状態のために様々な仕方でなされた熱烈な彼の身振りだけしか見れなかった。結局、一身の安全の望みを捨ててフォキオンは大声を上げ、彼らに自分を有罪とするのはよいが他の人は免ずるよう請願した。暴徒の憤激と暴力は依然として変わらなかったため、フォキオンの友人の一部は彼の嘆願に彼らの嘆願を追加するよう申し出た。群衆は彼らの最初の言葉を聞きはしたが、彼らが〔発言を〕続けて自分たちは弁明を要するようなやましいことはしていないとすると、彼らを出迎えた騒動と野次によって追い出された。結局のところ全会一致で被告人たちは有罪判決を下されて死刑のために投獄されることになった。彼らには彼らの大きな不幸を嘆き悲しみ同情する多くの良き人々が加わった。その多くの人は名声と生まれにおいて誰にも劣らず、生きていた間に多くの人道的な親切な行いをしていた彼の人たちは弁明も公正な裁判の機会も与えられず、運命は変わりやすいが全ての似た人にとって偏らないものであるという考えと恐怖を抱くようになった。しかし大集派の多くの人々はフォキオンと対立して辛酸を舐めていた人々であり、自分たちの不運を彼のせいにして彼を情け容赦なく罵り続けた。憎悪は繁栄している時には声に出ず、運命の変転が敵に起こった時にその標的に対する怒りによって全ての人間らしい体裁を失わせるものである。かくして昔からの慣わし通りドクニンジンを呷ってその人たちは命を絶ち、その全員がアッティカの国境地帯に埋葬されずに投げ捨てられた。このようにしてフォキオンと不当にも彼と共に告訴された人たちは死んだのである。

メガロポリス包囲戦
68 カッサンドロスはアンティゴノスから三五隻の戦艦と四〇〇〇人の兵士を受け取った後、ペイライエウスへと航行した。守備隊長ニカノルに迎えられ、彼はペイライエウスと港の防壁を引き継ぎ、一方でムニュキアは砦に篭らせるのに十分な兵力を有していたニカノル自身が保持し続けた。ポリュペルコンと王たちはフォキスに滞在していたが、カッサンドロスのペイライエウス入りを知るとポリュペルコンはアッティカに行き、ペイライエウスの近くに野営した。彼は二〇〇〇〇人のマケドニア人歩兵とおよそ四〇〇人のその他の同盟国軍、騎兵一〇〇〇騎、そして六五頭の象を連れていた。彼はカッサンドロスを包囲する腹積もりであったが、彼の持っていた必要物資は僅かであり、包囲は長期化すると思われたため、軍のうち食料に見合った一部分を息子のアレクサンドロス指揮の下にアッティカに残さざるを得なくなり、一方自身は軍の大部分と共にカッサンドロスに共感を抱き、アンティパトロスに樹立された寡頭政権によって治められていたメガロポリスの人々に王への服従を強制するためにペロポネソスに向った。
69 ポリュペルコンがそれらの事柄にかかずらっていた一方、カッサンドロスは全艦隊を率いてアイギナの人々の忠誠を確保して彼と敵対していたサラミス人を密かに包囲した。彼は来る日も来る日も続けざまに攻撃をかけ、彼には物資と兵士が良く補給されていたため、サラミス人は最も絶望的な苦境に陥った。その市は既に強襲による陥落の危機に瀕しており、ポリュペルコンは相当数の歩兵戦力と船を篭城軍攻撃のために送った。カッサンドロスはこれを警戒して包囲を解き、ペイライエウスへと戻った。しかしポリュペルコンは彼有利にペロポネソス情勢を解決しようと憂慮し、そこへ向かい、諸都市から集めた使節と彼との同盟について話し合った。また彼は諸都市にアンティパトロスの影響下で寡頭政権の行政官の地位についていた者は処刑され、人々は自治を回復すべしと命じる使節を送った。事実多くの人が彼に従い、諸都市では殺戮の嵐が吹き荒れ、ある者は亡命を余儀なくされた。アンティパトロスの友人たちは破滅し、政府では自治権による行動の自由が復活し、ポリュペルコンとの同盟が結ばれ始めた。メガロポリス人だけがカッサンドロスとの友好関係を持ち続けたため、ポリュペルコンはその都市を攻撃しようと決めた。
70 ポリュペルコンの目論見を知ると、メガロポリス人は地方から市へと全ての財産を運ぶことを票決した。市民、外国人、そして奴隷の調査を行い、彼らは一五〇〇〇人の兵士を軍事奉仕に使えることが分かった。そのある者を彼らはすぐに戦闘状態にさせ、他の者を一つに固まって行動するようにさせ、さらに他の者には市壁を守らせた。すぐにそして同時に兵士の一隊が市の周りに深い壕を掘り、もう一隊は武器を製造して矢を放つ投射兵器を準備し、人々の精神と予想される危機の両方のために都市全体が非常に活気付いた。現に、大規模な王の軍とそれに伴う戦象についての噂が広がり、それらは闘志と避けがたい勢いづいた部隊を有しているという評判であった。
 皆が急いで準備をすると、ポリュペルコンは全軍と共に到着して市の近くの場所に陣取り、一つはマケドニア軍、他方は同盟軍という二つの陣営を設営した。城壁より高い木の塔を作り、彼はそれらを市のうち目的に適うような箇所まで運び、多数の種類の投擲兵器とそれらを放つ兵士を乗せ、銃眼のついた城壁に陣取り、彼に対して整列した〔敵の〕兵士のところまで向わせた。一方その頃彼の工兵は城壁の下に地雷を仕掛けて地雷のつっかえ棒に火をつけ、三つの非常に大きな塔の間の城壁の多くの箇所を倒壊させた。この大きく予想外の倒壊でマケドニア軍の群集は喜びの叫び声を上げたが、市内の人はその出来事の深刻さに呆然とした。すぐにマケドニア軍は市内への突破口を通って殺到し始めた。一方メガロポリス人は分かれ、そのある者は敵と戦って鬨の声を上げつつ突破口から敵が入りにくくして援護をし、残りの者は裂け目の内側の区画を柵で切り離して二つ目の壁を作り、昼夜を徹して休むことなく作業を行った。人夫の多さと全ての必要物資の豊富な供給のためにこの作業はすぐに終わったため、メガロポリス人は迅速に城壁の突破によって被った喪失分を埋め合わせた。さらに木の塔で戦っていた敵に対して彼らは矢を放つカタパルト、投石兵、弓兵を使い、多くの敵に致命傷を負わせた。
71 多くの人が死ぬか負傷し、夜が来るとポリュペルコンはラッパの信号で部隊を陣営へと呼び戻した。翌日彼は裂け目のある区画から障害物を取り除き、彼は市をそれを使って占領しようと計画していた象が通れるようにした。しかし、メガロポリス人はアジアでアレクサンドロスに同行し、それらの動物の特性と使い方を経験から知っていたダミスの指導の下で完璧に彼に打ち勝った。現に彼の生来の機知で以って象軍に対抗し、ダミスはそれらの身体的な強さを無力化した。彼は鋭い釘のついた多くの資材をちりばめて浅い壕にそれらを埋め、目論見を隠した。その上彼はそこに直接対する兵士を置かずに市への道を空けておいたが、両翼に多くの投槍兵、弓兵、そしてカタパルトを置いた。ポリュペルコンはゴミを裂け目の全域から一掃して一丸となって全ての象で攻撃を仕掛けたため、ほとんど予想できなかったことがそれらの身に起こった。正面には抵抗する者がいなかったため、インド人の象使いは市内に全員揃っての突入に参加したが、動物たちは乱暴に突っ込んだため、とげのついた鋲の資材に遭遇した。鋲によって足を負傷して体重が重心にかかって動こうとするとそこが痛むため、それらはこれ以上前に進むことができず、かといって戻ることもできなくなった。同時に像使いのある者は両翼から放たれたありとあらゆる投擲兵器で殺され、他の者は怪我のために行動不能になって象を御す術を失った。象は雨霰と降り注ぐ矢玉と鋲による怪我のために強い痛みを感じ、友軍へと向きを変えて多くの味方を踏みつけた。最終的に最も勇気があり手ごわかった象は倒れ、その残りについては、あるものは完全に役に立たなくなり、他は多くの友軍を殺した。

ポリュペルコン派の動き、クレイトスの死とエウメネスの活動
72 この幸運の後メガロポリス人はさらに自信を持つようになったが、ポリュペルコンは包囲を悔いた。そして長時間そこでじっとしていることができず、包囲のために軍の一部を残し、一方自身はより重要な他の事業のために去った。彼はヘレスポントス地方で待機し、アジアからヨーロッパへと渡ってきた軍を封鎖するよう命じて提督のクレイトスを全艦隊と共に送った。また、アンティゴノスの敵であったために全軍と共にキアノイ市まで逃げていたアリダイオスをクレイトスは迎えにいった。クレイトスがヘレスポントスへと航行してプロポンティスの諸都市の忠誠を獲得してアリダイオスの軍を受け入れた後、かねてカッサンドロスが全艦隊と共に送っていたムニュキアの指揮官ニカノルがその地方に到着した。また、ニカノルはアンティゴノスの船団を引き継ぎ、かくして総数一〇〇隻以上の船を有することになった。海戦がビュザンティオンから程遠からぬ地点で起こってクレイトスが勝利し、敵船一七隻を沈めて四〇隻を下らない船を乗組員もろとも拿捕したが、残りはカルケドンの港へと逃げ込んだ。
 その勝利の後クレイトスは敗北の深刻さのために敵は最早敢えて海で戦おうとするということはあるまいと信じたが、アンティゴノスは艦隊が被った損失を知った後、予期せぬ形で自身の鋭い機知と将軍としての才覚によって目下の状況に対する巻き返しに成功した。補助の船舶をビュザンティオンから夜のうちに集め、彼は弓兵、投石兵、そして十分な数の他の軽装兵の対岸への輸送にそれらを使った。夜明け前に彼らは敵船から上陸して陸に陣営を張っていた兵士の許へと向かい、クレイトス軍を混乱状態に陥れた。すぐに恐慌状態が生起し、彼らが船に飛び乗ると荷物と多数の捕虜のために大混乱が起こった。そこで軍艦を準備万端にしていて、最も勇敢な歩兵の多くを海兵としてそれらに乗せていたアンティゴノスは勝利は諸君の手に全面的かかっているから自信を持って敵を攻撃せよと述べ、それらを戦いに投入した。夜の間ニカノルは海へと漕ぎ出しており、日が昇ると彼の艦隊は混乱した敵に出し抜けに攻撃を仕掛けて最初の攻撃ですぐに敗走させ、衝角で突っ込んで数隻の船を破壊し、他の船の櫂を押し流し、それらが乗組員もろとも投降してくると、危険を冒すことなく手にした。最終的に彼らは全ての船を乗組員もろとも拿捕し、そのうち一隻には指揮官が乗っていた。クレイトスは浜まで逃げ延びて船を捨て、身の安全のためにマケドニアへと向おうとしたが、リュシマコスのある兵士の手に落ちて殺された(31)
73 アンティゴノスについていえば、敵に大打撃を与えたために軍事的才能で大きな名声を馳せた。彼は今や制海権を奪取して異論なくアジアの支配権を手中にした。これが終わると彼はエウメネスを彼がより強力な軍勢を集める前に破ろうと臨み、全軍の中から二〇〇〇〇人の軽装歩兵と四〇〇〇騎の騎兵を選び出してキリキアへと送った。アンティゴノスの動きを知った後、エウメネスはプトレマイオスに不正に占領されていたフォイニキアの諸王を復位させようと考えた。しかし事の成り行きに先を越され、彼はフォイニキアを離れ、コイレ・シュリアを通って高地諸州と呼ばれた地域と連絡を取ろうと考えて軍と共に進んだ。しかし、ティグリス川近くで住民たちが彼に夜襲を仕掛け、そのために幾らかの兵士を失った。似たようにしてバビュロニアではセレウコスがエウフラテス川近くで彼を攻撃して全軍を失う危機に陥った。運河が決壊して彼の全陣営が水浸しになったが、持ち前の軍略を発揮して彼は山に逃げ、古い通路へ運河を逸らして自身とその軍の安全を得た。したがってセレウコスの手から予期せぬ形で逃れたため、彼それを切り抜けて歩兵一四〇〇〇人と騎兵三三〇〇騎からなる軍と共にペルシア入りした。その苦境から軍を復活させた後、彼は高地諸州の太守と将軍たちに兵士と資金を求める手紙を送った。
 この年の間のアジアの情勢は以上のようなものである。

ギリシアにおけるカッサンドロスの勢力増長
74 ヨーロッパでは、メガロポリス攻囲の失敗のためにポリュペルコンが見くびられるようになったため、ギリシア都市のほとんどは王たちを見捨ててカッサンドロスになびいた。アテナイ人がポリュペルコンやオリュンピアスの援助によって守備隊を追い払うことができずにいた時、その指導者たちを受け入れた市民の一人がカッサンドロスと協定を結ぶことが市にとっては有利であると民会で危険を冒して述べた。まず騒々しい声が起こり、彼の提案を或る者は反対して或る者は支持したが、彼らは都合の良い方針をより注意深く考え、満場一致でカッサンドロスに使節を送り、彼らができる限り最良の仕方で彼と諸事を処理すべしと決めた。数度の話し合いの後、講和が以下の条件で成立した(32)。アテナイ人は都市と領土、歳入、艦隊およびその他あらゆるもの、カッサンドロスとの友好と同盟を保持すること。ムニュキアは王たちに対する戦争の決着がつくまで一時的にカッサンドロスの統制下に入り続けること。政権には少なくとも一〇ムナの財産を持つ人が携わること。そして何であれ一人のアテナイ市民がカッサンドロスの任命する市の監督者となること。ファレロンのデメトリオスが任命されて監督者になり、市を平和裏に、そして市民への親切さで以って支配した。
75 その後ニカノルは勝利に乗じて衝角を装備した艦隊を率いてペイライエウスへと航行した。まずカッサンドロスは彼にその勝利のために非常な好感を持ったが、後になって彼が横柄になって得意になり、さらに自身の兵士でムニュキアに駐留しているのを見て取ると、彼が裏切りを目論んでいるのだと結論して暗殺した。また彼はマケドニアへも遠征し、そこで多くの住民を味方につけた。ギリシア諸都市もまたカッサンドロスと同盟を結びたいと思った。ポリュペルコンには王たちと同盟者を代表するだけの精力と知恵の両方が欠けているように見えたが、皆を公正に扱って事業の実行において活動的であったカッサンドロスは彼の指導力への多くの支持者を得ていた。
 翌年アガトクレスが僭主になったので、我々は最初に計画した通りこの巻をここで終えることにしよう。我々は次巻をアガトクレスの僭主制から始め、我々の説明の中には祝われるに値する出来事が含まれている。




(1) 紀元前323年から紀元前318年まで。
(2) 紀元前323-322年。
(3) 紀元前325年。
(4) アゲノルの子として知られる人物。メディアを割り当てられたピトンとは別人。
(5) ピトンに割り当てられた分とは別の土地で、現在のアゼルバイジャンあたり。
(6) ヘタイロイを指す。
(7) 将軍の一人で、王位についたアリダイオスとは別人。
(8) 現在のイラン北東部や中央アジアの州を指す。
(9) 紅海を指す。
(10) カスピ海を指す。
(11) メソポタミアというギリシア語は日本語では「川の間」の意となる。
(12) 一七巻一〇八章。
(13) テバイ人はアレクサンドロスが即位したばかりの時にマケドニアに反乱を起こしたが敗れ、詩人ピンダロスの生家を除いて市を徹底的に破壊されていた。
(14) レオンナトスの間違い。
(15) 紀元前323年。
(16) 生まれ故郷から遠いアジアの辺境に送って事実上の棄民にしないということ。
(17) 紀元前322-321年。
(18) 紀元前323年。
(19) アケメネス朝ペルシアの親衛隊のことで、金のリンゴがついた槍を持っていたことからこのように呼ばれている。
(20) 今日のゲジーラ島。
(21) 紀元前319-318年。
(22) 紀元前320年。
(23) 紀元前319-318年。
(24) 紀元前318年。
(25) 紀元前318-317年。
(26) 紀元前319年。
(27) 彼らは王の宝物を守るべくキリキアへと送られていた。
(28) アレクサンドロスの死の直後、カッサンドロスはメニュロスに代わってニカノルをムニュキアの司令官に任命していた(プルタルコス, 「フォキオン」, 31)。
(29) 国益を損ねたこと。
(30) 紀元前318年5月。
(31) 紀元前318年夏。
(32) 紀元前317年春。




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