15巻→ディオドロス『歴史叢書』16巻→18巻

フィリッポスの生い立ちと王位継承
1 全ての体系的な歴史書において歴史家が彼の本に国家や王たちの事績を始めから終りまでを完璧に収めるのは当然である。というのもこうすれば読者に歴史を最も易々と覚えさせ、最も分かりやすいようにすることができると私は考えているからだ。今や未完の事績、始まりから述べられていないような結論は興味を持った読者の関心を失せさせ、一方で自然に頂点に達するような発展の継続性が事績に収められるならば、諸々の出来事の話は均整のとれた仕上がりになるだろう。出来事の自然的な様式それ自体が歴史家の課題と調和すれば、その点においてその歴史家はこの原則から逸脱することは絶対にない。したがって私はアミュンタス〔三世〕の息子フィリッポス〔二世〕の事績〔の時代〕に到着したので、目下の巻の範囲にこの王が成した行いを収めることにしよう。フィリッポスは二四年間マケドニア人の王であり(1)、ごく僅かな元手から初めて王国をヨーロッパの国のうちで最大の国にし、イリュリア人に隷属していた当時のマケドニアを引き受けて多くの強力な民族と諸国の主人にまでした。彼が諸国の賛同によって全ギリシアの覇権を得たのは彼自身の勇気によるものであり、諸国は進んで彼の権限に服従した。戦争でデルフォイの神殿を略奪した人々を征服して神託を助けたために彼は隣保同盟に一議席を得て、神々への彼の崇敬のために、そして戦いの褒賞としてフォキス人を成敗した後に彼らのものであった投票権を得た。次いで戦争でイリュリア人、パイオニア人、トラキア人、スキュタイ人、そして隣接する全ての人々を征服すると、彼はペルシア王国を打倒しようと計画してアジアへと軍を輸送したのであるが、それはギリシア諸都市を解放のための作戦であった。しかし運命によってその志を半ばにして急に終わらせられ、彼は非常に数が多く強力な軍を残すことになったために息子アレクサンドロスはペルシアの覇権を打倒する試みにおいて同盟軍を当てにする必要がなくなった。彼が成し遂げた事績は運命の女神の好意によってではなく、彼自身の勇気によって成し遂げられたものであった。というのもフィリッポス王は戦争の技術における抜け目なさと人格の均衡で秀でていたからだ。しかしこの序論では彼の事績を先取りせず、私は彼の早年時代を簡潔に辿り直した後に続きの話を進めたい。
2 アテナイでカリメデスがアルコンだった時(2)、一〇五回目のオリュンピア祭が開催されてキュレネのポロスがスタディオン走で優勝し、ローマ人はグナエウス・ゲヌキウスとルキウス・アエミリウスを執政官に選出した(3)。彼らの任期の間、アミュンタスの息子で、戦争でペルシア人を破ったアレクサンドロスの父フィリッポスが以下のようにしてマケドニアの王位を継承した。アミュンタスがイリュリア人に破れて勝者に貢納を支払わされた後、イリュリア人はアミュンタスの末子フィリッポスを人質にして彼をテバイ人に預けた(4)。その代わりに彼らはエパメイノンダスの父にその少年を委ねて彼の言動を監視し、養育を監督するよう指示した。エパメイノンダスはピュタゴラス派の哲学者を教師としていたために彼と一緒に育てられたフィリッポスはピュタゴラス哲学に精通することになった。二人の生徒は天性の才能と勤勉を示したため、勇敢な行いにおける優秀さを証明することになった。その二人のうちエパメイノンダスは最も厳しい試練と戦いを経験し、祖国にギリシアの覇権を奇跡的にもたらし、一方のフィリッポスは同じ初等訓練を役立たせてエパメイノンダスに劣らぬ名声を得た。アミュンタスの死後、アミュンタスの長子アレクサンドロス〔二世〕が王位を継いだ。しかしアロロスのプトレマイオスが彼を暗殺して王位に就き、次いで似たようなやり方でペルディッカス〔三世〕が彼を殺して王として支配した。しかし彼が大会戦でイリュリア軍に敗れて戦死すると、その弟で人質としての抑留から脱走してきたフィリッポスが危機に瀕した王国を継承した(5)。というのもマケドニア人はその戦いで四〇〇〇人以上を失っており、生き残った者は狼狽してイリュリア軍を極度に恐れるようになって戦争を続ける意気を失ってしまっていたからだ。およそ同時期にマケドニアの近くに住んでいたパイオニア人はマケドニア人の領地を略奪し始めて彼らへの侮蔑を示し、イリュリア人は大軍を集めてマケドニア侵攻の準備を行い、一方でマケドニアの王族と言われるパウサニアスなる者がトラキア王の援助によってマケドニアの王位争奪に加わろうと計画していた。それと似たように、フィリッポスと敵対していたためにアテナイ人もまたアルガイオスを王位に復位させようとし、マンティアスを将軍として三〇〇〇人の重装歩兵と相当数の海軍を派遣した。

フィリッポスの改革とイリュリア遠征
3 マケドニア人は戦いで被った災難と危険の大きさのためにこの上なく狼狽していた。かような恐怖と危機に彼らは脅かされていたため、フィリッポスは予想される危機の大きさに動じずにマケドニア人と共に幾度も集会に出ては人々に向けて雄弁な演説をし、士気を高めて軍組織を改革して男たちを然るべき仕方で武器で武装させ、武器と競争的な訓練をさせ、絶え間ない軍事行動を行った。現に体を部分的に覆うトロイアの戦士の盾を使った密集方陣戦法を真似て彼は密集方陣とファランクスの装備を考案し、マケドニア式ファランクスを組織した最初の人となった。彼は人との交際では礼儀正しく贈り物と約束で人々から最大の忠誠を得ようとしており、賢明な行いによって危機を防ごうと心がけた。例えば、アテナイ人が彼らの全ての野心をアンフィポリス奪回に集中させてアルガイオスを王位に復帰させようとした時、彼は自治権をまず与えた後に自発的にその都市から撤退した。次いで彼はパイオニア人に使節を送って贈り物で一部を籠絡して他の者を気前の良い約束で説き伏せることによって目下の平和を維持することに同意させた。似たような仕方で彼は贈り物によってパウサニアスの復位を目論んでいた〔トラキアの〕王を味方につけてパウサニアスの帰国を妨げた。メトネへと航行したアテナイの将軍マンティアスはそこに留まっていたが、アルガイオスを傭兵部隊を付けてアイガイへと送った。そしてアルガイオスは市に近づいてアイガイの人々に彼の帰国を迎え入れて彼の王権の樹立者になるよう求めた。誰も彼の言うことに聞く耳を持たないでいると、彼はメトネへと戻ったが、兵を率いて突如現れたフィリッポスは彼と戦って多くの彼の傭兵を殺し、或る丘に逃げ込んだ残りの者を、まず亡命者たちを引き渡させた得た後に休戦条約の下で解放した。
 さてフィリッポスはこの最初の戦いでの勝利によってより大きな蛮勇を競うようにマケドニア人を勇気付けた。これらの事が起こっていた一方でタソス人はその王が後に自身にちなんでフィリッポイと名付けたクレニデスと呼ばれる場所へと移住し、人口の多い入植地にした。
 歴史家のうちでキオスのテオポンポスは彼のフィリッポスについての歴史書をこの時点から初めて五八巻を編んだが、そのうち五つの巻は失われている(6)
4 エウカリストスがアテナイでアルコンだった時(7)、ローマ人はクィントゥス・セルウィリウスとクィントゥス・ゲヌキウスを執政官に選出した(8)。彼らの任期の間にフィリッポスはアテナイに使節団を送って彼がアンフィポリスに関する全ての要求を放棄するという条件で民会に和平を結ぶよう説き伏せた。今やアテナイ人との戦争から解放された彼はパイオニア人の王アギスが死んだことを知ると、パイオニア人を攻める好機だと考えた。したがってパイオニア遠征を行って戦いで夷狄を破ると、彼はマケドニア人への忠誠を認める貢納を呑ませた。イリュリア人が未だに敵のままだったため、彼は彼らも戦争で破ろうという野心を抱いた。かくして速やかに集会を召集して適切な演説で兵士たちに戦争を勧告すると、彼はイリュリア領への遠征へと一〇〇〇〇人を下らない歩兵と六〇〇騎の騎兵を率いていった。イリュリア人の王バルデュリスは敵の出現を知るとまずは双方は支配下にある都市を保持するという条件で敵対行動の停止を論じる使節を送った。しかしフィリッポスが実際のところ自分も和平を望んでいるのであるが、イリュリア人が全てのマケドニア人の都市から撤退しない限りはその提案を呑むつもりはないと言うと、使節たちは目的を何一つ達成することなく帰り、バルデュリスは以前の勝利とイリュリア人の勇敢な振る舞いを頼んで敵と会戦した。彼は一〇〇〇〇人の選り抜きの歩兵とおよそ五〇〇騎の騎兵を率いていた。両軍が互いに接近して雄叫びを上げながら戦いに突入すると、マケドニア人の花ともいえるフィリッポスに奉仕するマケドニア人から構成される右翼を指揮していたフィリッポスは騎兵部隊に夷狄の隊列に突撃してそれを突破して側面から攻撃をかけるよう命じ、一方自らは敵に正面攻撃をかけて激しい戦いが始まった。しかしイリュリア軍は正方形の隊列を組んで勇敢に戦った。双方が示した素晴らしい勇気のために当初、戦いは長らく互角であり、多くの死者とそれ以上の負傷者が出て、戦いの結末は当初は一方に、その後他方にという風に兵士の勇敢な行いのために絶えず動揺していた。しかし後になって騎兵が側面と背後から圧迫してきてフィリッポスが彼の部隊の花ともいえる部隊と共に誠の英雄さながら戦ったため、多くのイリュリア兵は慌ただしい敗走へと追い込まれた。追撃がかなりの距離続けられて敗走の過程で多くの死者が出ると、フィリッポスはマケドニア軍をラッパで呼び戻して勝利の記念碑を建てて死者を埋葬し、一方イリュリア軍は使節団を送ってきてマケドニア人の都市の全てから撤退し、和平を得た。この戦いでイリュリア軍は七〇〇〇人以上の死者を出した。

ディオンの亡命と反乱
5 マケドニアとイリュリアの情勢については〔述べ〕終えたので、我々は今度は別種の出来事へと向かうことにしよう。シケリアではこれ前に王国を継承したが、怠惰で、父より遥かに劣っていた若ディオニュシオス〔2世〕は僭主としての気風の欠如のために平和的な性向で穏やかな気質であるかのような振りをしていた。したがって彼はカルタゴ人との戦争を受け継がずに彼らと講和し、似たようにして中だるみで数年間続いていたルカニア人との戦争を続け(9)、そして最後の戦いで優位に立つと彼は喜んで彼らとの戦争を終結させた。航海者のためにイオニア海を渡る海路を安全を確保しようとしたために彼はアプリアに二つの都市を建設した。というのも沿岸沿いに住んでいた夷狄が数多くの海賊船を繰り出すのを習わしとしていてアドリア海沿いの全ての沿岸部が商船にとって安全でなかったからだ。その後、自らを平和な状態に置くと彼は兵士を戦争訓練から解放し、ヨーロッパで最大の王国を継承したにもかかわらず、父によって堅固無比な鎖によってしっかりと括られたと言われていた僭主制の全てを彼は奇妙なことに自らの怯懦によって失ってしまった。その解体の原因と様々な出来事を私はこれより記録するつもりである。
6 アテナイでケフィソドトスがアルコンだった時(10)、ローマ人はガイウス・リキニウスとガイウス・スルピキウスを執政官に選出した(11)。彼らの任期の間ヒッパリノスの子で、最も優れたシュラクサイ人であったディオンがシケリアから逃亡し、そして彼の高貴な魂のために以下のようにしてシュラクサイ人と他のシケリアのギリシア人を解放した。老ディオニュシオスは二人の妻から子供を儲けており、ロクリス出身の最初の女から僭主の地位を継承したディオニュシオスを、高名なシュラクサイ人ヒッパリノスの娘であった二人目の妻からはヒッパリノスとニュサイオスという二人の息子を得た。二人目の妻の兄弟は哲学が非常に得意なディオンであり、彼は勇気と戦争の技術における技能のために当代の他のシュラクサイ人より遥かに優れていた。ディオンは高貴な生まれと魂の高潔さのために僭主の猜疑を招き、僭主制を転覆するだけの力を持っているのではないかと思われた。かくして彼を恐れたディオニュシオス〔二世〕は彼を逮捕して死罪に処し、排除することを決定した。しかしディオンはこれを知るとまず数人の友人の家に隠れ、次いで弟のメガクレスと僭主によって守備隊の指揮を任されていたヘラクレイデスと共にシケリアからペロポネソス半島へと逃亡した。コリントス(12)に上陸すると、彼はシュラクサイ人の解放に協力してくれるよう求め、彼自身は傭兵部隊と一揃いの鎧を集め始めた。すぐに多くの者が彼の請願を耳にして彼は次第に多くの鎧と傭兵を集め、そして二隻の商船を雇って鎧と兵士を積み込んだ(13)。自身はケファレニア島の近くのザキュントスからそれらの輸送船と共にシケリアへと航行した一方で、ヘラクレイデスをシュラクサイへ向けた商船に加え、多くの三段櫂船を後に向わせるために残した。

エウボイア戦争と同盟市戦争
7 それらの出来事が起こっていた間、歴史書を書いたティマイオスの父であり富と高貴な精神のために高い地位にいたタウロメニオンのアンドロマコスがディオニュシオスによるナクソス劫掠の生き残りを糾合した。ナクソスの「牛」と呼ばれた丘に住んでかなりの時間がたっていたため、彼は彼の「牛への逗留」からそこをタウロメニオンと呼んだ。そしてその市はすぐに発展したために住民は多くの富を得て市は名声を馳せ、最終的に我々の時代にカエサルがタウロメニオンの住民を彼らの生まれ故郷から追い出してローマ市民を殖民させたほどであった(14)
 それらのことが起こっていた一方で、エウボイア島の住民の一派はボイオティア人、他方はアテナイ人の援軍を呼び寄せようとし、内紛に陥ってエウボイア全域が争いの渦に巻き込まれた。多くの抗争と小競り合いが起こって時にはテバイ人が優位に立ち、時にはアテナイ人が勝利を得た。重要ではない戦いが決着をつけたにもかかわらず、島は内紛によって荒廃して双方で多くの人が殺され、やっとのことでその災難を肝に銘じた党派は互いに和解して講和した(15)
 さてボイオティア人は帰国してからは平穏だったが、キオス、ロドス、そしてコス、さらにビュザンティオンの反乱に遭ったアテナイ人は同盟市戦争と呼ばれた三年間続いた戦争にかかずらうことになった。アテナイ人はカレスとカブリアスを将軍に選び、彼らを軍と共に派遣した。キオスに航行した二人の将軍はビュザンティオン、ロドス、そしてコス、さらにまたカリアの僭主マウソロスからキオス人を助けるために同盟軍が到着したのを見て取った。そして彼らは軍を出撃させて陸海から〔キオス〕市を包囲した。さて歩兵部隊を指揮していたカレスは城壁へと陸から進撃して市から出撃してきた敵と戦った。しかしカブリアスは港へと航行して激しい海戦を戦い、彼の船が衝角攻撃で被害を受けて最悪の事態に陥った。他の船の兵士が間一髪で退却して生きながらえた一方で、彼は敗北の代わりに栄光ある死を選び、船で戦って傷が元で死んだ。

フィリッポスによるトラキア諸都市の制圧
8 およそ同時期にイリュリア人に大勝してリュクニティス湖と呼ばれた湖あたりに住んでいた人々を皆服属させたマケドニア人の王フィリッポスは今やマケドニアに帰国し、イリュリア人と注目すべき講和をなし遂げてその勇気に相応しい成功のためにマケドニア人からは拍手喝采で迎えられた。その後すぐに彼はアンフィポリスの人々が彼に敵対心を持っていて戦争のための多くの口実を与えていたのを見て取ると、大兵力で彼らに対して遠征を行った。城壁に攻城兵器を曳いてきて激しく継続的な攻撃を敢行して破城槌の打撃で城壁の一部に裂け目を作り、その裂け目から市内に侵入して多くの敵兵を倒した。市を手に入れて彼に不満を持っていた者を追放したが、残りの者は情け深く扱った。この都市はトラキアと近隣の地方に対する要地を占めていたため、フィリッポスの興隆に大いに貢献した。現に彼はすぐにピュドナを獲得し、オリュントス人がその所有を熱望していた都市だったポテイダイアを引き渡すという条件でオリュントス人と同盟を結んだ。オリュントス人は重要な都市に住んでおり、その大きな人口のために戦争において大きな影響力を持っていたため、彼らの都市は覇権を追い求める者たちの争奪の対象となっていた。このためにアテナイ人とフィリッポスは互いにオリュントスとの同盟を結ぼうと競った。しかしながらフィリッポスはポテイダイアを降伏させるとアテナイの守備隊を寛大に扱って彼らは市を退去してアテナイに送り返されたが――彼はとりわけアテナイの人々をその都市の重要性と名声のために気にかけていた――しかし彼は住民を奴隷に売ってオリュントス人にそこを引き渡し、ポテイダイア領の全ての資産も同時に与えた。この後に彼はクレニデス市まで向かい、住民数を増加させて自身の名前にちなんで名前をフィリッポイに改め、次いで非常に僅かで微々たるその領地の金山へと方向を転じ、彼は改善によって生産量を増やしてその金山は彼に一〇〇〇タラントン以上の歳入を彼にもたらした。そしてその鉱山から彼はすぐに大金を蓄積し、その潤沢な資金によってマケドニア王国を高く高く大いに優れた地位へと興隆させ、彼が鋳造したフィリッペイオイという名で知られる金貨によって傭兵の大軍を組織し、その硬貨を賄賂に使って多くのギリシア人が祖国への裏切り者にした。しかしそれらの事柄〔売国奴の誕生〕に関しては、いくつかの出来事が記録されるならば詳細に説明するつもりであるが、目下は然るべき順序で出来事へと説明を転じることにしよう。

ディオンのシュラクサイ入城と僭主との戦い
9 アガトクレスがアテナイでアルコンだった時(16)、ローマ人はマルクス・ファビウスとガイウス・ポプリウスを執政官に選出した(17)。彼らの任期中、ヒッパリノスの子ディオンがディオニュシオスの僭主制転覆を胸にシケリアへと航行し、以前のどんな征服者よりも乏しい資源で全ヨーロッパの最大の王国の転覆をあらゆる予想を裏切って成功させた。二隻の商船と一緒に岸に来た彼が、四〇〇隻の軍船、一〇万近い数の歩兵、一〇〇〇〇騎の騎兵、武器、食料の大きな蓄えと資金、そして有り余る前述の軍を維持することができるあらゆる物資、そして我々が述べたあらゆるものとは別に、ギリシアの諸都市の中でも最大の都市を手に収めており、港と埠頭と防備を施された難攻不落の砦、数多くの強力な同盟軍を有していた独裁者を破ると誰が信じただろうか? ディオンの成功の秘訣は他の全てにもまして彼の高邁な精神、勇気、そして解放されたいと思っていた人たちの自発的な支持であり、それらは僭主の臆病と彼の臣下に対する嫌悪よりも重要であった。れら全ての特徴が一つの致命的な瞬間に混ぜ合わされたため、彼らは予期せず、不可能だと思われていた成功を成し遂げた。
 しかし我々はそのことをこれ以上考えることは控え、彼らが各々で行った事柄の話の詳細に転じるべきだろう。ディオンはケファレニア島の近くのザキュントスから二隻の商船と一緒に航行し、ミノアという名のアクラガスの港に着いた。ここは昔クレタ人の王ミノスによって建設された都市で、ダイダロスの探索の折に彼はシカノス人の王コカロスによってもてなされたが、我々が問題にしている時代にはこの都市はカルタゴ人に服属していた。そして同地のパラロスという名の支配者はディオンの友人であり、彼を熱狂的に歓迎した(18)。ディオンは商船から五〇〇個の一揃いの鎧を下ろすと、それらをパラロスに委ねてシュラクサイへと馬車に乗せて運んでくれるよう求め、一方自らは一〇〇〇人の傭兵だけを率いてシュラクサイへと進んだ。進軍中彼はアクラガス、ゲラの人々、そして内陸部のシカノス人とシケロイ人、そしてカマリナの人々にもシュラクサイ人の自由のために味方になるよう説得し、僭主打倒のために進軍した。あらゆる場所から武装した多くの人が流れ込み、すぐに二〇〇〇〇人を超す兵士が集まった。同様に多くのイタリアのギリシア人とメッセネ人も参上し、皆が熱狂的に先を争った。
10 ディオンがシュラクサイ領の国境に行くと、郊外と都市から来た非武装の群集と会った。ディオニュシオスはシュラクサイ人を猜疑して彼らの多くから武器を取り上げていたのだ。この時僭主は大軍と共にアドリア海沿岸に新たに建設された都市に逗留しており、シュラクサイに駐留していた指揮官たちは最初反乱を収めようとしたが暴徒の勢いがとどまるところを知らず、彼らは絶望して諦めて〔僭主に使えていた〕傭兵と僭主の主張を支持していた者たちを集め、戦列を組んで暴徒を攻撃しようとした。ディオンは五〇〇〇個の鎧を非武装のシュラクサイ人に分配して残りの者は彼と同様に手元の武器で装備させた。そして彼らを皆民会に向わせた彼はシケリアのギリシア人の自由のために自らはやってきたのだと明らかにし、彼らの独立の回復と僭主制の解体を成し遂げるだけの素質を持った将軍を選ぶよう説いた。群集は満場一致でディオンとその兄弟のメガクレスを全権将軍として選ぶことを大声で叫んだ。したがって彼は民会が終わるとすぐに軍に戦列を組ませて市内を進軍した。誰も平野で彼に抗することはなかったため、彼は大胆にも城壁内に入ってアクラディネを通過して市場に野営し、敢えて彼に手向かうものは誰もいなかった。ディオンに付き従った兵士は全部で五〇〇〇〇人を下らなかった。全員が花冠を頭に乗せていた彼らはディオンとメガクレス指揮の下で市内へと入り、彼らと共にペロポネソス半島に追放されていた三〇人のシュラクサイ人が仲間のシュラクサイ人と共に戦いに自発的に参加していた。
11 都市中が奴隷の装いから自由のそれへと変わり、運命は僭主の陰気な色合いを陽気な祭へと変え、あらゆる家は〔神々に捧げる〕生贄と歓喜で満ちた。そのため、市民たちは暖炉に香を焚いて神々に今の恩恵を感謝し、来るべき恩恵への希望を胸に祈った。女性たちは予期せぬ幸運に喜びの大声を上げて都市中の群集で溢れかえった。自由人、奴隷、外国人もディオンに視線を向けない者はおらず、皆がその男の単なる人間にはあまる気高さと勇気に喝采を送った。そして彼らのそのような感情には彼の偉大さと変転における予期せぬ本性という尤もな理由があった。五〇年の隷属を経験し、転落して自由の意味を忘れた後、彼らは突如として勇敢な一人の男によって不幸から解放されたのだ。
 ディオニュシオス自身はこの折にイタリアのカウロニア近くに滞在しており、アドリア海を巡航していた将軍のフィリストスに艦隊を率いてシュラクサイに来るよう命令した。どちらの男も同じ地点に到達しようと急いだが、ディオニュシオスはディオンの帰還から七日後に到達した。到着してすぐ、彼はシュラクサイ人の裏をかこうとして講和の使節を送り、人々に僭主としての権力を明け渡し、代わりに人々の政府に重要な特権を受け入れるなど多くの指示をした。彼は話し合いをし、戦争を終わらせるために彼らに使節を遣すよう求めた。したがって、シュラクサイ人は希望が湧き、使節として最も重要な人たちを送った。しかし、ディオニュシオスは彼らを監視下に置いて話し合いを延期し、シュラクサイ人が和平への希望のために守備隊に関して気を緩め、戦いの準備を怠っていたのを見て取ると、突如島の砦の門を開けて戦列を組んだ軍を差し向けた。
12 シュラクサイ人が海から海へと独自の城壁を築いていたため、〔僭主の〕傭兵部隊は大声を上げながら城壁へとやってきて怒号で脅かし、多数の守備隊を殺し、城壁の内側に入って救援にやってきた者と戦った。ディオンは協定への違反によって予期せずたばかられたため、最良の兵士を引き連れて敵へと向かって戦い、大虐殺を引き起こした。戦いが起こるとまるで競技場のように内壁によって出来た狭い幅へと多くの兵士が密集した。このために双方共に振る舞いにおいて際立った勇敢さを示した。ディオニュシオスの傭兵は約束された褒美のために、シュラクサイ軍は自由への希望のために激しい競争心を示し、最初戦いは互角で、戦いにおける双方の勇気は拮抗していた。多くの者が倒れて少なからぬ者が負傷し、正面では全員が打撃を受けた。一方で正面に並んでいた者は残りの者を守って勇敢に死を迎え、彼らの後ろに並んでいた者は彼らが倒れると盾で彼らを覆って持ち場を保持し、勝利を得るために最も危険を捨て鉢で犯した。この戦いの後、ディオンは戦いで自らの勇気を示して自らの行いでもって勝利を得ようと望み、敵の真っ只中に飛び込んでそこで英雄的に戦って多くの者を殺し、傭兵の線列全体を混乱させ、そして突如として分断されて敵の中に孤立した。多くの投擲兵器が盾と兜で身を覆った彼へと投げられ、彼は鎧で身を守ったが、右腕に傷を受けてその一撃を堪えて辛うじて敵の手から逃れた。シュラクサイ人は将軍の安否を気遣い、傭兵の厚い戦列を粉砕して危機に瀕して苦しむディオンを救い出し、敵を破って敗走させた。同様に城壁の他の部分でもシュラクサイ軍が優位に立ち、僭主の傭兵軍は島の門の内側から追撃された。重要な戦いで勝利し、自由を回復したシュラクサイ軍は僭主の敗北を有名にするために戦勝記念碑を立てた。
13 この後、自分の失敗続きの僭主政治に今まで絶望しつつもディオニュシオスは砦に相当の守備隊を残しており、一方で自らは彼らが黄金の王冠を被せて立派な紫衣で包んでいたため、数にして八〇〇人の遺体を拾い上げる許可を得て、豪勢な葬儀を挙げた。それというのも彼は彼らへのこの気遣いで生き残った者たちが僭主を守るために熱烈に戦うよう掻き立てることを期待していたからだ。そして彼は勇敢な振る舞いをした者を豊かな贈り物で賞した。そして彼はシュラクサイ人に和解条件について論ずるために使者を送り続けた。しかしディオンは彼の大使たちのにその問題において、尤もらしい言い訳を繰り返し弄して延期し続け、一方で都合のいい時に城壁の残りを建設して大使を呼び寄せ、和平への期待を促すことで敵の裏をかいた。和解の条件について話し合いの場がもたれると、ディオンは唯一の和解は可能である、それはつまりディオニュシオスが僭主の地位を降りてその栄誉を受け入れることだ、と使節たちに返答した。しかしディオンの回答が尊大だったため、ディオニュシオスは将軍たちを集めてシュラクサイ人から彼の身を守る最善の策を協議した。穀物以外のあらゆるものが豊富にあって制海権を持っていたので郊外を略奪し始めても、略奪部隊から十分な食料を得ることが難しいと分かると、商人と金を穀物を買い付けるために送り出した。しかし多数の戦艦を有して好都合な場所にいたシュラクサイ人は商人が持ってきた多くの物資を持ち逃げした。
 シュラクサイの情勢は以上のようなものであった。

フェライの政変、ブルッティオイ人の起源
14 ギリシアでは、フェライの僭主アレクサンドロスが、妻のテベと彼女の兄弟のリュコフロンとティシフォノスによって暗殺された。最初この兄弟たちは僭主殺害者として大喝采を浴びたが、後になって目的を変えて傭兵を買収して自らが僭主であることをあらわにし、多くの反対者を殺して力で威圧し、暴力によって政府を保持した。さて、テッサリア人のうちアレウアス家と呼ばれ、貴い生まれのために遠方にまで及ぶ名声を有した党派が僭主に反抗し始めた。しかし彼らには戦うのに十分な戦力がなかったため、マケドニア王フィリッポスを同盟に迎え入れた。彼はテッサリアに入って僭主たちを破り、彼らの諸都市の独立を回復してテッサリア人に好意的に振舞った。それゆえにその後の事柄においてフィリッポスのみならず彼の子アレクサンドロスは常にテッサリア人を同盟者とし続けた。
 歴史家たちのうち、年代記作家でエフォロスの子デモフィロスは彼の歴史作品において、父が無視した神聖戦争として知られる戦争を扱い、フォキス人のフィロメロスによるデルフォイの神殿の占領と神託所の略奪から筆を取った。この戦争は神聖な財物を自分たちの間で分け合った者たちの全滅までの一一年に及んだ。そしてカリステネスはギリシア世界での出来事の歴史書を一〇巻書き、神殿の占領とフォキス人フィロメロスの不敬な行いで以って終えた。アテナイ人のディユロスは彼の歴史書を神殿の略奪から書き始めて二六巻書き、その中にはこの時代にギリシアとシケリアの両方で起こったこと全てが含まれている。
15 エルピネスがアテナイのアルコンで(19)、ローマ人が執政官にマルクス・ポプリウス・ラエナスとグナエウス・マエミリウス・インペリオススを選んだ時(20)、マリエイス人のポロスがスタディオン走で優勝した一〇六回目のオリュンピア祭が開かれた。彼らの任期の間、イタリアではあらゆる地域から様々な人、あらゆる種類の人の混成がルカニアに集まったが、ほとんどは逃亡した奴隷であった。彼らは最初は略奪で生計を立て、野外生活と襲撃に慣れると戦争の修練を積んだ。結果、彼らは居住民との戦いではいつも優勢に立ったため、重要性をかなり増すようになった。まず、彼らはテリナ市を包囲によって攻略して完全に略奪した。それから、ヒッポニオン、トゥリオイ、さらに他の多くの都市を攻略し、共通の政府を作った。そのほとんどが奴隷であり、その地方の訛りで逃亡奴隷のことは「ブルッティオイ」と呼ばれていたことから彼らはブルッティオイ人と呼ばれた。
 イタリアのブルティオイ人の起源は以上のようなものである。

シュラクサイ人内部での不和と僭主の反撃
16 シケリアではディオニュシオスの将軍フィリストスがレギオンへと航行してシュラクサイに五〇〇騎以上の騎兵を輸送した。これにさらに多い他の騎兵と二〇〇〇人の歩兵を加えると、彼はディオニュシオスに歯向かっていたレオンティノイに対する遠征を行い、夜間に城壁内部に成功裏に侵入して市の一部を占領した。激しい戦いが起こってシュラクサイ軍がレオンティノイ軍の助けに回ったために彼は敗れてレオンティノイから追い出された。軍船の指揮官としてディオンによって残されていたヘラクレイデスはペロポネソスで嵐によって妨げられ、ディオンの帰還とシュラクサイ人の解放には遅れて間に合わなかったが、今や二〇隻の軍船と一五〇〇人の兵士を率いてやってきた。この男は非常に大きな名声を博しており、その地位の価値を考慮したシュラクサイ人によって提督に選出されてディオンと共同で軍の最高指揮権を与えられ、ディオニュシオスに対する戦争に参加した。この後、将軍に任じられていて六〇隻の三段櫂船を率いていたフィリストスはおよそ同数のシュラクサイ軍と海戦を行った。戦いは激しくなり、勇気のために最初フィリストスが優勢に立ったが、後になって敵の反撃を受けた。シュラクサイ軍が方々から船団を包囲して将軍を生け捕りにするために奮闘したが、フィリストスは捕らえられた後の拷問を思い、僭主に対する大変重要で数多い貢献を行い、その権勢下で最も信頼された友人であったことを証明した後に自害した。海戦で勝利した後、シュラクサイ軍はフィリストスの遺体を切り刻んで市中を引き回し、埋葬せずに投げ捨てた。そして最も有能な友人を失い、他に名声高い将軍を持たなかったディオニュシオスは戦争の重課に耐え切れずにディオンに使節を送り、最初は自身の権力の半分を渡すと申し出たが、後には彼に全権を渡すことを認めた。
17 ディオンが唯一の良策は財産と特権を保持した上でシュラクサイ人にアクロポリスを引き渡すことだと返答すると、ディオニュシオスは傭兵と財産を携えてイタリアに退去するという条件で砦を人々に明け渡す準備があるとし、ディオンはシュラクサイ人にその申し出を受け入れるかと問うた。しかし時機を失した民衆指導者に説得された人々は包囲戦で僭主を強引に降伏させることができると信じてそれを拒絶した。したがってディオニュシオスは砦を守るために傭兵のうちの最良の者を残した一方で自らは護衛船に財産と全ての王の手回り品を積んで密かに出航してイタリア沿岸へと向った。しかしシュラクサイ人は二つの党派に分かれ、一部はヘラクレイデスが僭主権力を狙わないだろうと信じて彼に将軍の権限と最高権力を委託するという意見を持ち、他方はディオンが政府の最高権力を持つべきだと言明した。その上、多額の給与がシュラクサイを解放したペロポネソス人傭兵に支払われる必要があり、市には資金が乏しかったために傭兵たちは金を与えられていなかった。彼ら三〇〇〇人以上が一箇所に集まり、全員が賞賛に値する行動のために選抜された者たちであり、現に戦闘訓練によって老練兵に鍛え上げられていたため、彼らは勇気においてシュラクサイ人に大きく水をあけていた。傭兵から反乱に加わってシュラクサイ人を共通の敵とするよう求められたディオンは、最初はそれを拒んだが、後になってのっぴきならない状況に追い込まれて傭兵の指揮権を受け取り、レオンティノイへと彼らを率いて進撃した。シュラクサイ人は一丸となって傭兵を追撃してその途上戦いが起こって多くの兵士が倒れたために退却した。素晴らしい戦いぶりで彼らを破ったディオンはシュラクサイ人を恨むことなく、彼らが死者の移動を行うために使者を送ってくると、それを認めて多数にのぼった捕虜を身代金なしで解放した。敗走の過程で殺されそうになった多くの者は、自分たちはディオンの側につくと宣言したために死を免れた者たちだった。
18 この後ディオニュシオスはシュラクサイに将軍として勇気と軍略に秀でたネアポリス人ニュプシオスを派遣した。そして彼に穀物と他の必要物資を乗せた商船をつけて送った。それからニュプシオスはロクリスを出航してシュラクサイへ到着した。僭主の傭兵はアクロポリスに拠っており、糧秣の補給が失敗していたために物資の欠乏による切迫した苦境に陥っていたが、しばらくの間は高邁な精神で食料の欠乏に耐えた。そして人間本性が必要性に屈服して彼らは生に絶望し、夜に集会を開いて夜明けに砦と彼ら自身をシュラクサイ人に引き渡すことを評決した。夜が明け間近に傭兵はシュラクサイ人に協定を締結するための使者を送ったが、夜明けと共にニュプシオスが艦隊を率いて航行してきてアレトゥサに投錨した。したがって欠乏状態が突如物資が豊富な状態へと変化したため、将軍のニュプシオスは兵士を上陸させた後、共同の集会を開いて時宜に適った話をして差し迫った危機に直面している兵士の支持を得た。今や既にシュラクサイ人に引き渡されそうになっていたアクロポリスは予期せず上記のような仕方で守られたわけだが、シュラクサイ人は全ての三段櫂船に人員を乗せて既に物資の輸送を行っていた敵へと向っていった。攻撃が予期せぬもので砦内の傭兵は敵の三段櫂船に狼狽したため、海戦が起こってシュラクサイ軍が有利に立ち、彼らは数隻の船を沈めて他を拿捕し、海岸まで残りを追撃した。成功に励まされた彼らは勝利を讃えて大仰な犠牲を神々に捧げ、勝利した兵士は満足して宴会を開いて酒を飲み、警備を疎かにした。
19 傭兵部隊の指揮官ニュプシオスは戦いを再開して敗北を挽回しようと思い、夜のうちに整列させた軍を率いて建設されていた城壁に予期せぬ攻撃を仕掛けた。そして守備兵が油断と飲酒で眠りこけていたのを見て取ると、彼は城壁に必要な場合に備えて作っていた梯をかけた。最も勇敢な傭兵が城壁に登り、守備兵を殺して門を開けた。市内に兵士が殺到したため、シュラクサイ人の将軍たちは酒を飲んでおらずしらふであったので助けを送ろうとしたが、彼らの試みは葡萄酒のために失敗し、ある者は殺され、またある者は逃亡した。市は占領されて砦からほとんど全ての兵士が城壁の内側へと突進すると、シュラクサイ人は攻撃の混乱と唐突さのために恐慌状態に陥ったため、大殺戮が起こった。僭主の兵士は数にして一〇〇〇〇人以上おり、その戦列は誰もその槍衾に抗することが出来ぬほど良く並べられており、騒音と無秩序、さらに指揮官不在のために敗勢のシュラクサイ人〔の抗戦〕を防いだ。アゴラはすぐに敵の手に落ちて勝者はさっそく抵抗勢力を攻撃した。彼らは多くの財産を獲得して多くの女子供、それらに加えて使用人を奴隷にした。シュラクサイ人が隘路と他の通りで戦闘隊形を取って抗戦の構えを見せると、そこで絶え間ない戦いが起こって多くの者が殺されて少なからぬ負傷者が出た。夜が来ると彼らは闇の中手当たり次第に殺し合ったため、町中が死体で埋め尽くされた。
20 夜明けにその災難の大きさが完全に知れ渡ると、生き残る希望はディオンの助けによって得られると思ったシュラクサイ人はレオンティノイに早馬を送り、ディオンに敵の槍の切っ先によって占領されんとしている祖国を苦しめないようにし、彼らがしでかした過ちを許し、目下来たらんとする不幸を哀れんで国難から救い出してくれるよう請うた。高貴な精神の持ち主であり、哲学の訓練のために洗練された判断力を持った人物であったディオンは同胞市民に恨みを抱いておらず、傭兵を説得すると早速出発し、シュラクサイへの道を迅速に越えてヘクサピュラに到着した。彼は全速で進軍してある地点で兵士を止まらせた後、市から逃げてきた一〇〇〇〇人を越える女子供と老人と遭遇した。その全ての人々は彼と会するや自身の不運の仇を討ってくれるよう涙ながらに彼に嘆願した。砦から出てきた傭兵は既に目標を達成しており、アゴラまでの家々を略奪して火を放った後、住民の生き残りを攻撃してその財産への略奪を働いていた。まさにこの時、ディオン〔の兵〕が数か所から市へと突入して略奪に熱中していた敵を攻撃し、様々な種類の家具調度品を肩に背負っていた敵の全てを出会い頭に皆殺しにした。そして彼の出現が予想だにしなかったものであったことと無秩序と混乱のため、略奪に勤しんでいた者たちは皆容易く圧倒された。そしてついに四〇〇〇人が殺された後、ある者は馬に乗り、他は徒歩でという風に生き残りは身一つで砦まで逃げて門を閉じて危機を脱した。
 ディオンはかつて彼がした全ての行いのうちで最も立派な行いをした。火を消して燃えていた家を守り、円形の城壁を最良の状態に戻し、市に防備を施して敵を城壁で切り離して本土への出口を封鎖した。彼は死体だらけの市を清掃して勝利の記念碑を立て、市の解放を感謝して神々に犠牲を捧げた。集会が召集され、人々はディオンに感謝を表して彼を全権将軍に選出し、英雄に相応しい栄誉を授けた。ディオンは彼の以前の行いに相応しく寛大にも彼らに対して際立った罪状があった私敵の全てを放免し、大衆を安心させて彼らに全面的な調和状態をもたらした。シュラクサイ人は全面的な賞賛と精巧な同意書で彼らの恩人を母国の唯一の救い主として讃えた。
 シケリアの情勢は以上のようなものである。

同盟市戦争の終結
21 ギリシア本土では、キオス人、ロドス人、コス人、そしてビュザンティオン人がアテナイに対する同盟市戦争を続けており、海戦で戦争の決着をつけようとして双方で大規模な準備をした。アテナイ人は既にカレスを六〇隻の船と共に送っていたが、今やさらに六〇隻の船に人員を乗り込ませて市民のうちで最も高名な人物だったイフィクラテスとティモテオスに指揮権を与えて将軍とし、反乱を起こした同盟諸国との戦争を続行するため、この遠征軍をカレスに加えて送った。キオス人、ロドス人、そしてビュザンティオン人は彼らの同盟国と共に一〇〇隻の船に人員を乗り込ませてアテナイの島であるインブロス島とレムノス島を荒らし、サモス島に大部隊を上陸させて田園地帯を荒らし、陸海から都市を包囲した。そしてアテナイに服属していた多くの土地を略奪した彼らは戦争に必要な資金を集めた。アテナイの将軍の全員が今や合流してビュザンティオン人の都市を手始めに包囲しようと計画してその後にキオス人とその同盟諸国がサモス包囲を放棄してビュザンティオン人の救援に向うと、全艦隊がヘレスポントスに集結した。しかし海戦が起こったまさにその時強い風がアテナイ軍の方へと吹き、彼らの計画は頓挫した。しかし、カレスは悪天候にもかかわらず戦おうと望んだが、イフィクラテスとティモテオスは海が荒れているとして反対し、カレスは自身の証人とするために配下の兵士を呼んで同僚たちを裏切りの廉で告訴し、彼らは海戦から故意に逃げたとの罪状で彼らについて民会に手紙を書いた。かくしてアテナイ人はイフィクラテスとティモテオスの起訴に非常に憤慨し、何タラントンもの罰金を科して将軍の権限を剥奪した。
22 カレスは今や全艦隊の指揮権を継承してアテナイ人をその支出から解放しようと熱意を燃やし、一つの危険な作戦を採った。当時アルタバゾスがペルシア王から離反しており、寡兵で七〇〇〇人以上の兵を有した太守たちと戦っていた。カレスは全軍を率いてアルタバゾスに加勢して戦いで王の軍勢を破った。そしてアルタバゾスは彼の厚意への感謝から多額の資金を彼に送り、これによって彼は全軍に物資を供給することができるようになった。最初アテナイ人はカレスの行動を支持していたが、後になって王が使節を送ってカレスを非難すると心変わりした。というのも王がアテナイの敵にアテナイ人との戦争において三〇〇隻の艦隊で以って彼らの側で参戦すると約束したという言葉が広く広まったからだ。かくして危険な状態に置かれたために民会は反乱を起こした同盟者に対する戦争をやめることを決定した。そして彼らが平和を求めているのを見て取ると、彼らはたやすく条約を締結した。
 かくして所謂同盟市戦争は四年間続いた後に終わった。
 マケドニアでは三人の王、トラキア人、パイオニア人、そしてイリュリア人の王がフィリッポスに対して連合していた。それらの人々はマケドニアと境を接していたためにフィリッポスの勢力拡大を猜疑の目で眺めていた。しかしながら各々は過去に敗北を喫していたために単独では戦いに耐えることができなかったが、もし戦争で彼らが力を合わせれば易々とフィリッポスを圧倒できると考えていた。かくして彼らがまだ軍を集めていた一方で、フィリッポスは彼らが事をなす前に恐怖を呼び起こし、〔準備ができていないうちに〕マケドニア軍と矛を交えるように追い詰めた。

第三次神聖戦争勃発
23 カリストラトスがアテナイでアルコンだった時(21)、ローマ人は執政官にマルクス・ファビウスとガイウス・プラウティウスを選んだ(22)。彼らの任期中に神聖戦争と呼ばれた九年間に及んだ戦争が開始された。フォキス人フィロメロス、この並外れた権勢を持った無法者はデルフォイの神殿を占領して以下に述べる理由のために神聖戦争を起こした。ラケダイモン人がレウクトラ戦争でボイオティア人と戦って敗れた時、テバイ人はラケダイモン人をカドメイア占拠の廉で隣保会議において重大な容疑で告発して多額の賠償金支払いを決議した。そしてフォキス人はキラと呼ばれていた神域の大部分を耕作していたためにその会議で問責され何タラントンもの多額の罰金を科せられた。彼らはその額を支払わなかったために隣保会議のヒエロムネモンたち(23)はフォキス人を告訴してフォキス人が神に罰金を支払わなければ、神から財物を奪い取った者たちの国は呪われることになるだろうと会議で詰問した。彼らは罰金を払うよう判決を下された他の者に対しても同様の宣言をし、そちらに分類されていたラケダイモン人には、もし従わなければ彼らの悪事のために遍くギリシア人の敵意を招くだろうと宣言した。全ギリシア人が隣保会議の決定に批准してフォキス人の領地が今まさ呪われようとしている時、フォキス人の中で最も高い名声を持つフィロメロスは、彼らはこの莫大な罰金を金を払うことができないし、領土が呪われることを許すことは臆病なだけでなく、彼ら全員が生きるための手段を破壊されるほどの危険に晒されることであると説明し、彼の同胞たる国民たちに熱弁を振るった。また、隣保会議はとても小さい区画の土地の耕作に多額の罰金を貸したとして、彼は隣保会議の判決は全くもって不当であると証明しようとしもした。したがって彼は彼らに罰金をないものと見なすよう忠告してフォキス人は隣保同盟に対する申し立てをするだけの大儀があり、古に彼らは神託の支配権と守護を担っていたと宣言した。証人として彼は全ての詩人の中で最も古くそして偉大なホメロスの言っていることを持ち出した。
そしてフォキス人のスケディオスとエピストロフォスは等しく支配し、
彼らはキュパリッソスと岩地のピュトに住まう。
 こう説明して彼はフォキス人は父祖伝来の相続財産として彼らに属している土地の神託所の守護の主張をするべきだと言った。彼は彼らが彼を全ての計画の全権将軍に任命して全面的な権力を与えるならばその試みを成功させると約束した。
24 フォキス人はその判断を恐れずに彼を全権将軍に選び、フィロメロスは彼のした約束を果たすために精力的に動いた。始めに彼はスパルタに赴いてラケダイモンの王アルキダモスと直接会談し、王は〔隣保〕会議のラケダイモン人をも侮辱するその重大で不正な宣言のために同じだけの関心を持って隣保同盟の判決を無効しようと努力していると示した。したがってフィロメロスは自分がデルフォイの占領を決意しており、もし神殿の保護権を得るのに成功したなら隣保同盟の決議を無効にするとアルキダモスに打ち明けた。アルキダモスはその提案に賛同したが、公然とは援助を行わないものの秘密裏にあらゆる面で力を貸し、金と傭兵の両方を提供すると言った。彼から一五タラントンを受け取り、彼の説明では少なくともさらに同じ位の額を加えたフィロメロスは、外国人の傭兵を雇い入れて彼がフォキス人の中から一〇〇〇人を選抜し、これをペルタスタイと呼んだ。そこで多数の傭兵を集めて神託所を占領した後、彼は自分に抵抗しようとしたトラキダイと呼ばれるデルフォイ人の一団を殺戮して彼らの財産を没収した。しかし他の者が恐怖に囚われていたのを見た彼は彼らに危害は加えないから気を落とさないよう言った。神域の占領の知らせが国外に知れ渡ると、近くに住んでいたロクリス人は直ちにフィロメロスに対して矛を取った。デルフォイの近くで戦いが起こり、ロクリス人は兵士の大部分を失うという敗北を喫して彼らの領地まで逃げた。そして勝利によって得意になったフィロメロスは隣保同盟の宣言の石版を壊してその判決の記録を消し、彼自身は神託所を略奪しなかったし他の無法な諸行も犯さなかったとされたと記録し、隣保同盟の不正な決議を取り消そうと望んで〔神託所の〕守護という父祖伝来の主張を弁護し、フォキス人の父祖伝来の法を弁明した。
25 ボイオティア人は会議を招集し、神託所の救援を決議してすぐに兵を送った。そのことが進行している一方でフィロメロスは神域の城壁を取り払い、一倍半の穀物を払って傭兵の大軍を集め始めた。そしてフォキス人から勇敢な者を選抜して軍に編入し、早々とかなりの規模の軍を得た。五〇〇〇人を下らないの兵と共に彼はデルフォイの防衛を行い、彼との戦争を望む敵にとって既に手強い敵となった。その後で、彼はロクリス人の領地への遠征を指揮して敵地のほとんどを荒らし回り、砦を貫通して流れる川の近くで野営した。彼はそこに攻撃を仕掛けたものの、占領することができず結局包囲を断念したが、ロクリス人と戦って二〇人の兵士を失い、その遺体を収容することができなかったので、彼らに使者を送ってその権利を求めた。ロクリス人はギリシア人の間の普遍法では神殿略奪者は埋葬せずに投げ捨てられるものだと答え、許可を出さなかった。これに怒ったフィロメロスはロクリス人と戦ってあらゆる手を使って敵の一部を殺し、その死体を手にしてロクリス人に死体の交換を強いた。田園の支配者となった彼はロクリスの大部分を略奪してデルフォイへと帰り、兵士に戦争で得た膨大な略奪品を与えた。この後、彼は戦争のための神託を請うことを望み、無理矢理にピュティアの巫女を三脚台に乗らせて神託を伝えさせた。
26 この三脚台について言及したので、これについて伝えられている昔話についてここで詳述するのは不適当ではないものと私は思う。昔、ある山羊が神託の聖域を見つけてこの時よりデルフォイ人は神託に伺いを立てる時には山羊を好んで使ったと言われている。彼らはこの発見の仕方は以下のようなものだと言っている。今は「立ち入り禁止の」聖域として知られるこの地には裂け目があり、デルフォイには〔人が〕まだ住んでいなかったために山羊がいつもそこへ餌を食べに行っていた。いつも山羊はその裂け目に近づいてそれを見つめ、異常な仕方で飛び跳ね、以前に出していたのとは全く異なった声を発する。山羊の面倒を見ていた牧夫はこの奇妙な現象に驚き、何があるのかを見ようとして近づくと山羊と同じ経験をし、山羊たちが何かに憑りつかれたかように動き始めてこの山羊飼いも未来の出来事を予言するようになったという。この後、記録では近辺の人々の間で裂け目で起こった体験についての噂が立ち、多くの人がその場所を訪れてはその奇跡性のために皆それを試し、地点に近づく者は誰であれ直感を得た。このために神託は驚異的なものであると考えられるようになり、地上の予言を与える神域であると見なされた。幾時の間、予言を得ようとした者は皆裂け目に近づいて予言の回答を得た。しかし後に、狂乱してたくさんの人が裂け目へと飛び込んでそのことごとくが帰ってこなかったため、その地域の住民たちは危険をなくすため、最善策であると思って全ての人のために単独の予言者として一人の女性をそこに置いて彼女を通して予言を聞かせることにした。そして彼女が安全に登ることができるようにと一つの仕掛けが設えられ、彼女は直感を受けては望む者に予言を与えるようになった。この仕掛けは三つの支えであったために三脚台と呼ばれ、おそらく全ての青銅の三脚台は今でさえこの仕掛けの模倣で作られている。このようにして神託所は発見され、三脚台は考案された。私は以上で十分な長さで語ったものと思う。昔はアルテミスと同じような穢れない自然な無垢さを持っていたために乙女たちが神託をもたらすものだと思われていたと言われている。というのも現に乙女たちは神託によって開示された秘密を守ることに適しているものとされていたからである。しかし、後になって神域にやってきたテッサリア人エケクラテスが神託を述べるある乙女を見て、彼女の美しさのために心を奪われて力ずくで彼女を連れ去ったと言われる。そしてデルフォイ人はこの嘆かわしい事件のために、今後乙女は予言をすべきではなく、五〇歳の年を経た女性が神託を述べ、昔の預言者の再来のように彼女は乙女の服装をするものとする法を定めた。
 以上が神託の発見とされている伝説の詳細である。さて、ここで我々はフィロメロスの行いへと話を戻すべきだろう。
27 神託所を支配したフィロメロスはピュティアに祖先伝来の仕方で三脚台から予言をするよう命じた。しかし彼女がこのようなことは祖先伝来の仕方ではないと答えると、彼は彼女を脅して無理矢理に三脚台に上らせた。そこで彼女は暴力に訴えるこの力で勝る男を指しつつ「あなたの力であなたの好きなようにすれば良いではないですか」と率直に断言した。彼は嬉しそうに彼女の言い分を受け入れ、自分は都合の良い神託を得たのだと宣言した。彼はすぐに神託を刻み、神は彼に彼の喜ぶような権力を与えたのだと皆に公言した。彼は会議を開いて群集にその予言を明らかにして激励し、戦争の仕事へと戻った。また彼はアポロンの神殿でもある前兆を得た。一羽の鷲がその神の神殿の上を飛んだ後に地上に降りて、祭壇で神殿の境内にいた鳩たちを捕食した。そのような事柄に精通していた人々はこの予兆はフィロメロスとフォキス人がデルフォイを支配すること暗示していると言った。したがってそれらの出来事によって元気付けられた彼は大使に適任とされた彼の最良の友人たちを選び、数人をアテナイに、数人をラケダイモン、数人をテバイに送った。そして彼は同様にギリシア世界において他の最も名高い諸都市にも使節を送り、自分はデルフォイを占領してその聖なる財物を狙っているためではなく、神域の保護権を主張している、というのもその保護権は最初にフォキス人に属するものとして命じられたものだからだと説明した。彼は全ギリシア人にその財物の正確な量を明らかにし、彼自身は奉納品の重さと数の報告をしてそれを望む者に与えるつもりだとした。しかし、もし敵愾心ないし嫉妬のためにフォキス人と戦争する者があれば、そのような都市はむしろ彼の軍に加わるべきであり、そうでなければ少なくとも平和的関係を維持すべきだと要求した。使者たちが割り当てられた任務を果たすと、アテナイ人、ラケダイモン人とその他の人々は彼との同盟を取り決めて援助を約束したが、ボイオティア人、ロクリス人、及びその他の人々はそれとは反対の趣旨への合意に至り、神のための対フォキス人戦争を再開した。
 この年の出来事は以上のようなものであった。
28 ディオティモスがアテナイでアルコンだった時(24)、ローマ人はガイウス・マルキウスとグナエウス・マンリウスを執政官に選んだ(25)。彼らの任期の間、大戦争を予想したフィロメロスは傭兵の大軍を集めて優秀なフォキス人たちを軍務に就かせた。戦争のために追加予算が必要になったので、彼は神聖な奉納品には手をつけずに群を抜いて繁栄して富裕だったデルフォイ人から傭兵に支払うのに十分な額の金をを取り立てた。このようにして大軍を編成した彼はそれを広々とした地区まで率いて行き、言うまでもなくフォキス人への敵対者との問題に取り掛かった。ロクリス人が彼に対して挑んでくると、ファイドリアデスと呼ばれた崖の近くで戦いが起こってフィロメロスはこれに勝利し、多くの敵を殺傷して少なからぬ数の敵を捕え、そして彼らに崖から身を投げさせた。この戦いの後にフォキス人はこの成功で元気付けられたが、ロクリス人は相当意気消沈し、ボイオティア人に向けて神の助けを求めるために使節をテバイへと送った。神への崇敬と隣保同盟の決定が施行されたならば得られるであろう優位のためにボイオティア人は彼らと同様にフォキス人との戦争を起こすよう求めるためにテッサリアとその他の隣保同盟の加盟国へと使節を送った。こうして隣保同盟の加盟諸国による対フォキス戦争の票決によってギリシアは混乱と争乱で覆われた。一部は自分たちには神が味方しており神殿略奪者たるフォキス人には罰が下されるだろうと判断し、その一方で他の者たちはフォキス人に援助を与えようとした。

第三次神聖戦争への諸国の参戦
29 諸民族と諸都市が彼らの選択によって〔両陣営に〕分かれ、ボイオティア人、ロクリス人、テッサリア人、そしてペライビア人、それに加えてドリス人とドロペス人、同様にアタマニア人、フティオティスのアカイア人、そしてマグネシア人、アイトリア人とその他もまた神域を救出することを決定した。一方でアテナイ人、ラケダイモン人およびその他のペロポネソス人はフォキス人の側で戦った。レウクトラ戦争でテバイ人は敵を破った後、スパルタ人のフォイビダスがカドメイアを占領したとしてスパルタを隣保同盟へと告訴し、隣保同盟は五〇〇タラントンの罰金を課した。ラケダイモン人は法によって定められた期間内に罰金を支払えず、テバイ人は二倍の賠償のために彼らを告訴した。隣保同盟が一〇〇〇タラントンの判決を下すと、ラケダイモン人は自分たちは多額の罰金のために隣保同盟によって不当な判決が下されたのだと言い、フォキス人と似たような宣言を行った。こういうわけで、彼らの利害は今や共通のものとなり、ラケダイモン人は不利な判決のため、これはより時宜にかなったことであるが、フォキス人の力によって隣保同盟の判決を無効にしようとして開戦を急いだ。それらの個別の理由のために彼らはフォキス人の側に立っての戦いの準備をし、聖域の保護権を守るために協力することになった。

フィロメロスとディオンの死
30 ボイオティア人が大軍で以ってフォキス人に挑むつもりであることが明らかになると、フィロメロスは傭兵の大部隊を集めることを決定した。さらに多額の資金が戦争に必要になったために、彼は聖なる財物に手を付けて神託所を略奪するよう強いられた。傭兵に通常の給料にさらに半分増額した基本給を払ったため多くの者が高給に惹かれて戦争の呼び出しに応じたため、彼は素早く傭兵の大軍を集めるに至った。さて、立派な人柄の人は誰一人として神々への畏敬の念のためにこの遠征には参加しなかったが、最悪のならず者たちと神々を見下していた連中は欲望のために熱意を持ってフィロメロスの許に集まり、強力な軍が神域を略奪するという目的のために早々に編成された。そうしてフィロメロスは彼の大きな財力によって速やかに大軍を用意るに至ったわけである。彼はすぐにロクリス人の領地へと歩騎の軍二〇〇〇人以上を率いて進撃した。ロクリス人が彼と戦うために軍を集結させてボイオティア人がロクリス人を助けるためにやって来ると、騎兵戦が起こってフィロメロスが優勢を占めた。この後テッサリア人が近隣地域の同盟軍と一緒になって六〇〇〇人を集めてロクリスに到着し、フォキス軍と戦ってアルゴラスと呼ばれた丘でそれを破った。ボイオティア軍が三〇〇〇人で現れ、ペロポネソスからのアカイア軍が一五〇〇人でフォキス軍の援軍に来ると、両軍は対面して野営して一つの所に集まった。
31 この後、食料調達中の多数の傭兵の部隊を捕えたボイオティア人は彼らを市の前へと連れて行き、隣保同盟は神殿略奪者に協力した者は死を以って罰すると使者に告知させた。そしてすぐに言葉通りに彼らを皆殺しにした。フォキス人に雇われていた傭兵たちはこれに激怒し、フィロメロスに敵に同様の罰を下すよう求めた。そして手を尽くし、敵がいる田園地方のあちこちで戦っていた多くの兵士を捕えると、彼らを連れて帰ってその全員をフィロメロスは殺した。この罰によって彼らは敵の側にその尊大で残酷な復讐を諦めさせた。この後、両軍が他の地方に侵攻してその地方の大量に材木を乱暴に伐採しつつ進軍したため、両方の前衛は突如混ざり合うことになった。戦いが起こって激戦となり、その中でフォキス人に数で勝っていたボイオティア人は彼らを破った。切り立って通り抜けられない場所であるにもかかわらず敗走しようとしたフォキス兵と傭兵の多くが敗れた。勇敢に戦って多数の負傷者を出した後、フィロメロスは切り立った地帯へと敗走してそこで囲まれて逃げ道を失った。捕らわれた後の運命を恐れていた彼は絶壁から身を投げて命を絶ち、神々への償いをした。将軍職での同僚のオノマルコスが指揮権を継承して生き残っている限りの軍を撤退させ、敗走から戻ってきた者たちを集めた。
 それらのことが起こっていた一方で、マケドニア人の王フィリッポスはメトネを強襲によって占領して略奪した後に破壊し尽くし、パガサイを征服して服従を強いた。エウクセイノス海地方ではボスポロスの王レウコンが四〇年の統治の後に死に、息子のスパルタコス〔二世〕が王位を継承して五年間君臨した(26)。ある戦争がローマ人とファリスキ人との間に起こったが、それは重要でも記憶に値するものでもなかった。ファリスキ人の領土へのただの一度の襲撃と略奪が起こっただけであった。シケリアでは将軍のディオンがザキュントスからの傭兵たちによって殺害され、暗殺を唆したカリッポスが彼の地位を継承して一三ヶ月統治した。

オノマルコスの戦争指揮
32 トゥデモスがアテナイでアルコンだった時(27)、ローマ人は執政官にマルクス・ポプリウスとマルクス・ファビウスを選んだ(28)。彼らの任期の間、フォキス人に勝利を得ボイオティア人は、神殿の略奪の首謀者であり、神々と人々によって罰せられたフィロメロスの運命は残りの者たちに似たような極悪行為を思いとどまらせるだろうと思った。しかし、そこで戦争から解放されたフォキス人はさしあたりデルフォイに戻り、戦争について考える一般総会で同盟者たちと会った。穏健派は和平へと傾いていたが、不敬な者、短気で貪欲な者たちは意見の反対であり、無法な狙いを支える適切な代弁者を見つけようと探して回った。オノマルコスが立ち上がって彼らの元々の目的を固持するよう主張する注意深く述べられた演説をすると、主戦派の感情を揺り動かした。というのも彼は自身の利害ほどには一般の福祉を考えてはいなかったが、彼は隣保同盟から残りの者たちと同様、頻繁にそして厳しい有罪判決を下され、その罰金を払えずにいたからである。したがって、平和よりも戦争の方が自分にとって望ましいことを見て取ると、彼はフォキス人とその同盟者たちにフィロメロスの計画に忠実であることを実に理路整然と説いた。最高指揮権を持った将軍に選出されると、彼は傭兵の更なる大軍を集め始め、そして犠牲者による階級の穴を埋めて多くの外国人を入隊させて軍を増やし、同盟者たちと戦争に使える他のあらゆる物の大準備に取り掛かった。
33 この試みにあたり、勢力と栄光の甚だしい増大が知らしめられるという夢で彼を大層元気付けた。つまり彼は眠っている時、隣保同盟がアポロンの神殿に奉納した青銅の像を彼自身の手でより高く大きく作り直していたというのである。したがって彼はその徴候は神々から与えられ、将軍としての彼の働きのおかげで栄光を増大させることだと思った。しかし真実は違っており、逆であった。これは神域に対して無法な行動をしたために課されたフォキス人への罰金によって隣保同盟がその像を奉納するという事実を示していたのである。示されていたものはフォキス人の罰金がオノマルコスの手で増やされるということであり、実際にそのようになった。オノマルコスは最高指令権を持った将軍に選ばれると、青銅と鉄からかなりの量の兵器の準備をし、銀と金から貨幣を鋳造して同盟諸国に分配して主にそれらの都市の指導者たちへの賄賂として送った。現に彼は多くの敵を買収するのに成功して彼らを彼の側で戦うよう説得し、他の者には平和を維持するよう求めた。人間の持つ欲望のために、彼はいとも簡単にあらゆることを成し遂げた。事実、彼は同盟国の中で最も高い評価を得ていたテッサリア人さえも賄賂によって平和を維持するよう説得した。フォキス人への振る舞いにおいて、彼は反対者を逮捕、処刑してその財産を没収しもした。敵の領地に侵攻した後、彼はトロニオンを強襲によって落としてその住民を奴隷とし、アンフィッサ人を脅迫して服従を強いた。彼はドリス人の諸都市を略奪して領地を荒らし回った。彼はボイオティアに侵攻してオルコメノスを占領し、そしてカイロネイアを包囲攻撃によって落とそうとしたが、テバイ人に敗れて自らの領地へと戻った。

アルタバゾスの乱、ギリシア各地での紛争
34 それらのことが起こっていた一方、ペルシア王に反旗を翻したアルタバゾスは、王から彼との戦争を命じられて送られた太守たちとの戦争を続行していた。最初にアテナイの将軍のカレスと共に戦った時のアルタバゾスは太守たちに勇敢に抗戦していたが、カレスが去って一人取り残されるとテバイ人に援軍を送るよう説いた。彼らはパンメネスを将軍に選んで彼に五〇〇〇人の兵士を与えてアジアへと派遣した。パンメネスはアルタバゾスを助けて二度の大会戦で太守たちを破り、彼自身とボイオティア人は大きな栄光を得た。さて、〔オノマルコスに買収された〕テッサリア人が彼らを見殺しにして捨て置いた後にボイオティア人が、フォキス人との戦争での切迫した危機が彼らを脅かしている時にアジアへと海を越えて軍を送り、戦いでの勝利をほとんど証明したというこのことは驚くべきことであった。
 このことが起こっていた一方で、アルゴス人とラケダイモン人の間で戦争が起こり、オルネアイ市の近くで起こった戦闘でラケダイモン軍は勝利し、その後にオルネアイを包囲攻撃によって占領してスパルタへと戻った。アテナイの将軍カレスはヘレスポントスへと航行してセストスを占領し、住民のうち成人は殺して残りは奴隷に売った。そしてコテュスの子ケルソブレプテスは、フィリッポスへの敵意とアテナイ人との友情の同盟のためにカルディアを除くケルソネソス諸都市をアテナイ人に渡し、民会はそれらの都市に植民団を送った。メトネの人々が彼らの市を敵の作戦基地にするのを許したと知ったフィリッポスは攻囲を開始した。そして一時メトネの人々は持ち堪えたが、やがて圧服させられて市民は着物一つでメトネを去るという条件で王への市の明け渡しを強いられた。そこでフィリッポスはその都市を破壊し尽くしてマケドニア人にその領地を分配した。この包囲でフィリッポスが矢で目を射られて視力を失うということが起こった。

ギリシアへのフィリッポスの介入とオノマルコスの敗北、諸国の君主たちの死
35 この後にフィリッポスはテッサリア人からの呼びかけに応えて軍と共にテッサリアに入り、テッサリア人の助けを受けつつまずフェライの僭主リュコフロン〔二世〕に対する戦争を起こした。しかしその後、リュコフロンは同盟者のフォキス人から援軍を呼び、オノマルコスの弟ファウロスが七〇〇〇人の兵士と共に送られた。しかしフィリッポスはフォキス人を破ってテッサリアの外へと追い払った。そこで全テッサリアを支配できると信じたオノマルコスは急いで全軍を率いてリュコフロンの救援に赴いた。フィリッポスがテッサリア人と手を組んでフォキス軍と戦った時、オノマルコスと数で勝る彼の軍は二度の戦いでフィリッポスを破って多くのマケドニア兵を殺傷した。フィリッポスは最大の危機に陥り、彼の兵士たちはあまりにも落胆したために彼を見捨てたが、彼は大部分の者の勇気を揺り起こして、自らの命令に従って大きな困難に取り組ませた。その後フィリッポスはマケドニアへと引き、オノマルコスはボイオティアへと進軍して会戦でボイオティア人を破ってコロネイア市を占領した。しかし、テッサリアでは、丁度その時に軍をマケドニアから戻してきたフィリッポスがフェライの僭主リュコフロンに挑戦した。しかし然るべき戦力がなかったリュコフロンは共同で全テッサリア政府を組織することを約束して同盟国のフォキスから援軍を呼んだ。そこでオノマルコスは急いで歩兵二〇〇〇〇人と騎兵五〇〇騎と共に救援に向い、フィリッポスは共同で戦争を遂行するようテッサリア人を説得して彼らの全軍を集め、その数は歩兵二〇〇〇〇人と騎兵三〇〇〇騎以上になった。激しい戦いが起こり、テッサリア騎兵の数と勇気で勝ったためにフィリッポスが勝利した。オノマルコスは海の方へと逃げたが、その時アテナイ人カレスが偶然多数の三段櫂船で航行していた(29)ためにフォキス人は多数の戦死者を出しながらも逃亡を試みた。彼らは鎧を脱ぎ捨てて三段櫂船へと泳いで行こうとし、その中にオノマルコスも含まれていた。最終的に将軍自身を含む六〇〇〇人以上のフォキス人と傭兵が殺された。そして捕虜は三〇〇〇人を下らなかった。フィリッポスはオノマルコスを吊し上げ、神殿略奪者として海へと投げ捨てた。
36 オノマルコスの死後、彼の弟のファウロスがフォキス人の指揮権を継承した。惨事を埋め合わせようとして彼は通常の倍の給与を提示して相当数の傭兵を集めるのを始めて同盟国に助けを求めた。また、彼はかなりの武器の蓄えを準備し、金と銀を貨幣に鋳造した。
 およそ同じ時に、カリアの僭主マウソロスが二四年の統治の後に死に、彼の姉妹で妻だったアルテミシアが王位を継いで二〇年間君臨した。ヘラクレイアの僭主クレアルコスが一二年の統治の後、ディオニュシオス祭で見世物を見に行った時に殺され、彼の子のティモテオスが王位を継いで一四年間君臨した。ローマ人との戦争を継続していたエトルスキ人は敵の領地を略奪してティベル川あたりまで略奪した後に彼らの国へと帰った。シュラクサイでは、ディオンの友人たちとカリッポスとの間で内紛が起こり、ディオンの友人たちは敗れてレオンティノイへと逃げ、そしてすぐ後にディオニュシオス〔一世〕の子ヒッパリノスが兵士と共にシュラクサイ沖に来ると、カリッポスは敗れて市を追われ、ヒッパリノスが父の王国を回復し、二年の間君臨した。

頽勢のフォキス、ペロポネソス半島での紛争
37 アリストデモスがアテナイでアルコンだった時(30)、ローマ人は執政官にガイウス・スルピキウスとマルクス・ウァレリウスを選出し(31)、一〇七回目のオリュンピア祭が開催されてタラスのミクリナスがスタディオン走で優勝した。彼らの任期の間、兄の敗死後にフォキスの将軍になったファウロスはフォキス人の状況を今一度の打開しようと試みたが、その時〔フォキスは〕は軍の敗北と壊滅のために衰弱していた。彼には無尽蔵の金の蓄えがあったため、傭兵の大軍を集め、継続中の戦争において共同作戦を取るよう少なからぬ同盟国を説得した。事実、金を惜しみなく使って彼は多くの人を熱狂的な支持者としたのみならず、最も高名な都市を彼の試みに参加するよう惹きつけた。例えばラケダイモン人は彼に一〇〇〇人の兵士、アカイア人は二〇〇〇人を送り、アテナイ人はナウシクレスを将軍とした五〇〇〇人の歩兵と四〇〇騎の騎兵を送った。オノマルコスの死後同盟者を失ったフェライの僭主リュコフロンとペイトラオスはフィリッポスにフェライを渡し、その一方で彼ら自身は和約の条項によって身の安全を確保し、二〇〇〇人の傭兵と共にファウロスのもとへと逃げ、同盟者としてフォキス人に加わった。分配された潤沢な資金のために少なからぬ数の重要性では劣る諸都市も同様に活発にフォキス人を支援した。というのも人間の欲を掻き立てる黄金が彼らを利益を得ることができる側へと向わせたからだ。したがってファウロスは軍を率いてボイオティアへと遠征したが、オルコメノス市の近くで多くの部下を失う敗北を喫した。その後もう一つの戦いがケフィソス川近くで起こり、ボイオティア軍が再び勝利を得て敵兵五〇〇人以上を殺傷し、四〇〇人を下らない捕虜を得た。数日後、コロネイア近くで起こった戦いでボイオティア軍は勝利を得てフォキス人五〇人を殺傷し、一三〇人の捕虜を得た。
 今やボイオティア人とフォキス人の事件について述べたので、フィリッポスへと話を戻そう。
38 目覚しい戦いでオノマルコスを破った後にフィリッポスはフェライで僭主制を終結させ、その市の自由を回復し、テッサリアの他の全ての問題を解決した後にフォキス人と戦うべくテルモピュライへと進んだ。しかしアテナイ軍がその隘路を通るのを妨げたために彼はマケドニアに戻り、自身の行いによってのみならず神への畏敬によって彼の王国を拡大させた。ファウロスはエピクネミディオイとして知られるロクリスへと遠征し、ナリュクスと呼ばれた都市以外の全ての都市を成功裏に占領した。彼はナリュクスを裏切りによって夜に奪取したものの、部下二〇〇人の損害を被って再び撃退された。その後彼はアバイと呼ばれた場所の近くで野営したが、ボイオティア軍がフォキス軍に夜襲を仕掛けてその多くを殺傷した。かくして勝利によって得意になったボイオティア軍はフォキス領をその大部分を略奪しながら通り、大量の戦利品を集めた。帰路についた彼らが包囲下にあったナリュクス人の市を助けに来ると、突然ファウロスが現れてボイオティア軍は逃げ出した。彼は強襲によってその市を奪取し、略奪して破壊し尽くした。しかしファウロス自身は消耗性疾患の病にかかって長く病んだ後、彼の不敬虔な人生に相応しい苦しみを味わって死んだ。後には神聖戦争に火をつけたオノマルコスの息子ファライコスが残ったが、フォキス人の将軍としては若者だったので友人の一人である将軍ムナセアスが後見人となって補佐した。この後、フォキス人への夜襲でボイオティア軍はムナセアス将軍と彼の兵二〇〇人を殺傷した。それから少ししてカイロネイア近くで騎兵戦が起こって、ファライコスは破れて多数の騎兵を失った。
39 それらのことが起こっていた間、以下のような理由でペロポネソス中が騒乱と無秩序で覆われた。メガロポリス人と対立していたラケダイモン人はアルキダモス〔三世〕指揮下で彼らの領土へと攻め込んだ。メガロポリス人は彼らの行いに憤慨したが戦うに十分な戦力がなく、同盟国に助けを求めた。そこでアルゴス人、シキュオン人、そしてメッセニア人が全軍でもって大急ぎで救援に来た。テバイ人はケフィシオンを将軍の任につかせて彼の指揮下で歩兵四〇〇〇人と騎兵五〇〇騎を送った。かくした同盟軍と共に打って出てたメガロポリス軍はアルフェイオス川上流のほとりに野営した。一方ラケダイモン軍はフォキス人から歩兵三〇〇〇人、追放されたフェライの僭主リュコフロンとペイトラオスから騎兵一五〇騎の援軍を受けて戦えるだけの軍が集まり、マンティネイアあたりに野営した。そこで彼らはアルゴスのオルネアイ市へと進み、メガロポリス人の同盟国だったために同地を敵の到着前に占領した。アルゴス人は彼らに戦いを挑んで破り、二〇〇人以上を殺傷した。次いでテバイ軍が現れ、彼らは規律では劣っていたが二倍の数だったために、激しい戦いが起こった。不確かではあるが勝利を得たアルゴス軍とその同盟軍は自分たちの市へと退き、一方ラケダイモン軍はアルカディアに侵入してヘリソス市を強襲によって占領して略奪した後にスパルタへと戻った。この後少ししてテバイ軍は同盟軍と共にテルヒュサ近くの敵を破って多数を殺傷した後、指揮官のアナクサンドロスと他六〇人以上を捕虜とした。その後すぐに彼らは他の二つの戦いで優位に立って多くの敵を殺した。最終的にラケダイモン軍が重要な戦いで勝利し、両軍は自分たちの都市に引き上げた。ラケダイモン人がメガロポリス人と休戦すると、テバイ軍はボイオティアへと引き上げた。しかしボイオティアに留まっていたファライコスはカイロネイアを奪取したが、テバイ軍が救援に来ると同市から追い払われた。次いでフォキスに大軍で侵攻したボイオティア軍はその大部分を荒らして田園中の農地を略奪した。そしてまたいくつかの小さい町々を落として豊富な戦利品を集め、ボイオティアに戻った。

ペルシア王アルタクセルクセスによるフェニキア・キュプロス鎮圧戦
40 テエロスがアテナイでアルコンだった時(32)、ローマ人はマルクス・ファビウスとティトゥス・クインティウスを執政官に選んだ(33)。彼らの任期の間、テバイ人はフォキス人との戦争で消耗して資金が足りなくなってくると、多額の資金を自分たちの都市に渡すよう説くためにペルシア人の王へと使節を送った。アルタクセルクセス〔三世〕は快く要求に応じて三〇〇タラントンの銀を彼らに贈った。ボイオティア人とフォキス人の間で互い領土への小競り合いと襲撃は起こっていたが、この年にとりたてて語る価値のある作戦行動は起こらなかった。
 アジアでは、以前に大部隊でエジプト遠征を行って不成功に終わっていたペルシア人の王はエジプト人との戦争を行い、自らの精力的な活動によっていくつかの顕著な功績を挙げた後にエジプトとキュプロスの領有権を回復した。それらの出来事の話を明らかにするため、私はまず再び手短にそれらの出来事が当然属するところの時期を再検討することによってその戦争の原因を示しておきたい。思い出してもらいたいが、エジプト人は以前ペルシア人に反乱を起こしており、オコスとして知られ、争いを好まないアルタクセルクセス自身は何もせずに軍と将軍を何度も送ったものの、その試みは失敗し、それは指揮官の臆病と無経験のためであった。そして、エジプト人による侮蔑を考えはしたものの、彼は自らの無気力と平和を愛する気性のために辛抱を強いられた。しかし問題になっている目下の時代、フォイニキア人とキュプロス諸王がエジプト人に倣って彼を見くびって反乱に踏み切ると、彼は叛徒に激怒して戦争を行うことを決意した。そこで彼は将軍を送るのをやめて王国を守るための戦いに親征する計画を選び取った。そのために兵器、投擲兵器、食料、そして軍隊の大掛かりな準備を行い、彼は三〇万人の歩兵、三〇〇〇〇騎の騎兵、三〇〇隻の三段櫂船、そして物資を運ぶための五〇〇隻の商船とその他の船を集めた。
41 彼はフォイニキア人とも以下のような理由で戦争を始めた。フォイニキアにはトリポリスと呼ばれる重要都市があり、その名はアラドス人の都市、シドン人の都市、テュロス人の都市という名の三つの都市からそれぞれ一スタディオンの距離があったというその性質に相応しいものであった。この都市はフォイニキアの都市のうちで最高の声望を享受しており、そのためにフォイニキア人は総会をそこで開いて最も重要な問題を論じていた。王の太守と将軍たちはシドン人の都市に住んでいて、すべきことを命令するにあたってシドン人に対しては傲慢且つ高圧的な仕方で振る舞っており、この扱いの犠牲者たちは彼らの横柄さに憤慨してペルシア人に反乱を起こそうと決意した。独立を得ようとするにあたって残りのフォイニキア人を説得した彼らはペルシア人の敵であったエジプト王ネクタネボスへと使節団を送って同盟を受諾するよう説得した後に戦争の準備を始めた。シドンは富裕で秀でていて個々の市民らは海運業で莫大な富を溜め込んでいたため、多くの三段櫂船が迅速に揃えられて多くの傭兵が集まり、さらに武器、投擲兵器、食料、そして戦争に有用な他の全ての物が至急提供された。最初の敵対行動はペルシア王が娯楽に使っていた御用庭園を切り倒して破壊することであり、二つ目は太守によって戦時のために蓄えられていた馬の飼い葉を焼き払うことであり、仕上げに彼らは横柄な行いをしていたペルシア人を逮捕して復讐を果たした。このようにしてフォイニキア人との戦争が始まり、アルタクセルクセスは謀反人たちの無分別な行いを知ると、全フォイニキア人、とりわけシドンの人々を警戒した。
42 バビュロンで歩兵と騎兵を集めた後、王はすぐに彼らを率いてフォイニキア人へ向けて進軍した。彼がまだ途上にあった時にシュリア太守ベレシュスとキリキアの支配者マザイオスが軍を合流させ、フォイニキア人との戦端を開いた。シドン王テンネスはエジプト人からロドス人メントルを将軍とした四〇〇〇人のギリシア人傭兵を受け取っていた。彼らと市民兵を使って彼は前述の太守たちと戦って彼らを破り、フォイニキアから敵を撃退した。
 それらの事が進行していた一方でキュプロスでも戦争が勃発し、それは我々がまさに述べた戦争と絡み合った出来事であった。この島には九つの人口稠密な都市があり、それら九つの都市の下に服属する形で小さな町々があった。それらの都市の各々は都市を統治してペルシア人の王に服属する王を戴いていた。それらの王の全員が共同で〔戦争を〕取り決め、フォイニキア人に倣って反乱を起こし、戦争の準備をして王国の独立を宣言した。その行いに激怒したアルタクセルクセスは丁度地位に就いたばかりで、先代から引き続きペルシア人の友であり同盟者であったカリアの独裁者イドリエウスにキュプロス諸王との戦争を遂行するために歩兵の軍勢と海軍を集めるようにと手紙を書いた。イドリエウスはすぐさま四〇隻の三段櫂船と八〇〇〇人の傭兵部隊を準備した後、アテナイ人フォキオンと以前この島の王だったエウアゴラスを将軍として指揮を執らせ、キュプロスへと送った。かくしてこの二人はキュプロスへと航行してすぐさま最大の都市であったサラミスへと軍を進めた。柵を立てて野営地を要塞化すると彼らは陸海からサラミス人を包囲し始めた。島の全域は長らく平和を享受していてその領地は富裕だったため、開けた地方を奪取した兵士たちは大量の戦利品を集めた。彼らの富の噂が広まるとシュリアとキリキアの対岸から多くの兵士が金儲けを期待して自分から群がってきた。最終的にエウアゴラスとフォキオンの軍は二倍に膨れ上がり、キュプロス中の諸王は大いに不安を感じ、恐怖した。
 キュプロスの状況は以上のようなものであった。
43 この後にペルシア人の王はバビュロンから行軍を初めてフォイニキアへと軍を率いて向った。シドンの支配者テンネスはペルシア軍が大規模であることを知らされると反乱軍では歯が立たないだろうと考え、自身の身の安全を図ろうと決めた。したがってシドンの人々の与り知らぬうちに彼は、自分はシドンを裏切ってアルタクセルクセスの側につくつもりであり、エジプトの地勢に通じていてナイル川の上陸地点を正確に知っているのでエジプトの征服を手助けするつもりであるという約束を携えさせ、最も信頼する腹心テッタリオンをアルタクセルクセスのところへと送った。王はテッタリオンから事の顛末を聞くと大喜びしてテンネスを反乱に関連する罪から放免すると言い、もし彼が同意した全ての事を成し遂げれば彼に豊富な褒賞を与えると約束した。しかしテッタリオンがテンネスは〔ペルシア王が〕右手を差し出すことで約束を確約することも望んでいると追加すると、王は自分が信用されていないと思って激怒し、テッタリオンを家来に引き渡して首を刎ねるよう命じた。しかし処刑場へと引き立てられるとテッタリオンは「おお陛下、陛下のなさりたいようにすればよろしい。ですが、陛下は完全な勝利を成し遂げることができるというのに、陛下が誓約を拒むならばテンネス様は確実にどの約束も履行しますまい」と率直に言った。王は彼の言うことを聞くと再び心変わりして家来を呼び戻してテッタリオンを解放するよう命じ、次いで右手を差し出した。これはペルシア人にとって最も確実な誓約であった。かくしてテッタリオンはシドンへと戻ってシドンの人々には知られないように事の次第をテンネスに報告した。
44 ペルシア王は事の重大性を鑑みて以前の敗北を顧慮し、エジプトを打倒するためにギリシアの諸都市の大部分へと使節を送ってエジプト人に対する遠征でペルシア軍に加わるよう求めた。アテナイ人とラケダイモン人は、自分たちはペルシア人との友情を保っていると応答したが、同盟者として軍を送ることには反対した。しかしテバイ人は将軍としてラクラテスを選出して一〇〇〇人の重装歩兵と共に派遣した。アルゴス人は三〇〇〇人の兵を送った。彼らは一人の将軍を選ばなかったものの、王が特別にニコストラトスを将軍として求めるとそのようにした。このニコストラトスは行動と思慮の両方で優れた人物であったが、彼の知性には狂気が混じっていた。というのも彼は身体の強靭さで秀でていたためにヘラクレスの真似をして遠征ではライオンの皮を被り、戦場では棍棒を持ち歩いた。それらの諸国の例に倣って小アジア沿岸に住んでいたギリシア人は六〇〇〇人の兵を派遣し、同盟軍として働くことになったギリシア軍の総計は一〇〇〇〇人になった。ペルシア王のところへと彼らが到着する前に彼はシュリアを横切ってフォイニキアへと到着し、シドンからそう遠からぬ場所に野営した。王がゆっくりと移動していた間にシドン人は根気強く食料、鎧、そして投擲兵器の準備に勤しんだ。同様に彼らは市を巨大な三重の壕で囲んで高い城壁を建設した。また彼らは鍛錬と苦難でよく鍛えられ、身体的な状態と強さで優れた兵士として有り余るほどの数の市民を有していた。富と他の資源においてその市はフォイニキアの他の都市に大きく水をあけており、全てのことのうちでもっとも重要なことはシドンが一〇〇隻以上の三段櫂船と四段櫂船を有していたということであった。
45 テンネスは裏切りの計画をエジプトから来た傭兵の隊長メントルに打ち明け、市の一区画を守って代理人と連携して裏切りを行うために彼を残し、一方自らはフォイニキア人の総会に行くと見せかけて最も高名な市民たち一〇〇人を顧問として同伴しつつ五〇〇人の兵を連れて市を出た。彼らが王の近くに近づくとテンネスは突如その一〇〇人を捕らえてアルタクセルクセスに引き渡した。王は彼を友人として迎え、反乱の首謀者としてその一〇〇人を射殺し、指導的なシドン人五〇〇人が嘆願者としてオリーブの枝を持って彼に近づくと、彼はテンネスを召還して彼に都市を自分に引き渡すことができるかどうか尋ねた。というのも王はシドン人を情け容赦ない災難で打ちひしぎ、他の諸都市を彼らの受けた罰によって威嚇しようと狙っていたため、シドンからの条件付き降伏を受け入れたくないと思っていたからだ。テンネスが自分が都市を引き渡すと請け合うと、王は冷酷な憤怒を保ったまま未だ嘆願者の枝を持っていた五〇〇人全員を射殺した。その結果テンネスはエジプトから来た傭兵部隊に近づき、彼らに自分と王を城壁の中に導くよう説得した。かくしてこのような裏切りによってシドンはペルシア人の勢力下に移り、王は最早用済みだと考えてテンネスを処刑した。しかしシドンの人々は王が到着する前に全ての船を焼き払っており、そのために町の中の人は誰も身の安全を得るために密かに出航することができなかった。かくして市と城壁が占領されて無数の兵士が登っているのを見て取ると、彼らは家の中に妻子もろとも閉じこもって全てに火を放った。召使もろとも炎の中で死んだ者は四〇〇〇〇人以上であったと言われている。この災難がシドン人に降りかかって市の全域が住民もろとも炎によって消し去られた(34)後、王は家主の繁栄の結果であった炎で溶けた大量の金銀を何タラントンもの葬儀用の薪のために売り払った。かくしてシドンに降りかかった災難はこのような終末を迎え、残りの諸都市は恐慌状態に陥ってペルシア人に靡いた。
 この少し前にカリアを独裁的に支配していたアルテミシアが二年間の統治の後に退き、弟のイドリエウスが独裁権を継承して七年間支配した。イタリアではローマ人がプラエネステの人々と休戦し、サムニウム人と協定を結び、そして広場で政府の処刑人の手でタルクィニイの住民二六〇人を処刑した。シケリアでは権力を握っていたシュラクサイ人のレプティネス(35)とカリッポスが僭主の若ディオニュシオスによって守備隊が置かれていたレギオンを包囲し、守備隊を駆逐してレギオンの人々の独立を回復した。

アルタクセルクセスのエジプト遠征
46 アポロドロスがアテナイでアルコンだった時(36)、ローマ人はマルクス・ウァレリウスとガイウス・スルピキウスを執政官に選出した(37)。彼らの任期の間、キュプロスでは残りの諸都市の全てがペルシア軍に下った一方でサラミスの人々はエウアゴラスとフォキオンによって包囲され、サラミス王プニュタゴラスだけが包囲に耐え続けていた。今やエウアゴラスはサラミス人に対する先祖の支配権を回復し、ペルシア王の助けによって王位に復帰しようとした。しかし後に彼の試みが誤ってアルタクセルクセスに漏れると王はプニュタゴラスを支持し、エウアゴラスは復位の希望を捨てて自身への告発に対して弁明し、アジアでの別のより高位の指揮権を与えられた。しかしその地方で失政をすると彼は再びキュプロス島へと逃げてそこで逮捕され、罰を受けた。自発的にペルシア人に服従したプニュタゴラスはそれからもサラミス王として好き勝手に支配し続けた。
 シドンの占領、そしてアルゴスとテバイとアジアのギリシア諸都市からの同盟軍の到着の後、ペルシア王は全軍を集結させてエジプトへと攻め込んだ。バラトラ、つまり窪みと呼ばれる大きな湿地に差し掛かると、彼はその地方に不案内だったために軍の一部を失った。その湿地の特性とこの歴史書の最初の巻の箇所で起こった特有の災難については我々は前に論じておいたので、それについて二度言うのは差し控えることにしよう。バラトラを軍と共に抜けると王はペルシオンへとやってきた。ここはナイル川が海へと流れ出る〔エジプトに攻め込む進路のうち〕一つ目の河口にあった都市である。ペルシア軍はペルシオンから四〇スタディオン離れた場所に、ギリシア軍は町そのものの近くに野営した。ペルシア軍が準備のための豊富な時間を与えてしまったためにエジプト軍は既にナイルの全ての河口、とりわけ最初のもので最も有利な地点であったペルシオン近くの河口を要塞化していた。五〇〇〇人の兵士がその場所に駐屯し、スパルティアタイのフィロフロンが指揮権を持つ将軍になっていた。テバイ軍は自分たちこそがその遠征に参加したギリシア軍のうちで最良の者であることを示そうと躍起になり、狭く深い運河を渡ろうとして向こう見ずにも真っ先に危険を冒した。彼らはそこを渡って城壁に攻撃をかけ、ペルシオンの守備隊は市から漕ぎ出してテバイ軍と戦った。双方の激しい競争心のために戦いが激化したために彼らはその日一杯を戦いに費やし、夜だけが彼らを別れさせた。
47 翌日、王はギリシア軍を三部隊に分けてそれぞれの部隊にギリシア人の将軍一人を置き、その者に勇気と忠誠心のために他の人より好ましかったペルシア人の将官を付けた。前衛にはテバイ人ラクラテスとペルシア人将官ロサケスを将軍とするボイオティア軍が置かれた。後者はマゴス僧を廃した七人のペルシア人の一人の子孫であった。彼はイオニアとリュディアの太守で、騎兵の大軍と夷狄から構成される少なからぬ歩兵隊を引き連れていた。次の列はアリスタザネスをペルシア人同僚とするニコストラトスが将軍となっていたアルゴス人部隊であった。アリスタザネスは王の先導役であり(38)、王の友人のうちでバゴアスに次いで最も信頼された人物であり、彼には五〇〇〇人の精鋭歩兵部隊と八〇隻の三段櫂船が割り当てられていた。三つ目の部隊はメントルが将軍であり、シドンを裏切った彼は以前に自分の指揮下にいた傭兵部隊を率いていた。その作戦において彼と提携したのは王が最も信し、際だって勇敢で礼儀にうるさいバゴアスであった。彼は王のギリシア人部隊と夷狄の大部隊、そして少なからぬ艦隊を率いていた。王自身は残りの軍と共に全作戦のための予備となった。ペルシア側の軍の配列は以上のようなものであり、エジプト人の王ネクタネボスは兵力で劣っていたにもかかわらず、敵の多さにもペルシア軍の隊列にも意気消沈しなかった。事実、彼は二〇〇〇〇人のギリシア人傭兵、およそ同数のリビュア兵、「戦士」として知られる階級の六〇〇〇〇人のエジプト兵、それらに加えてナイル川での戦いに適した信じられないほどの数の川舟を有していたのだ。アラビアに面するその川の川岸は彼によって強固に要塞化され、そこにあった沢山の町はその全てが城壁と壕で区切られていた。彼は戦争に十分なその他全ての準備も既にしていたにもかかわらず、判断力の乏しさのためにどうしようもない災厄に見舞われた。
48 彼の敗北の理由は主に将軍としての経験の足りなさとペルシア軍が以前の遠征で彼に破られたという事実であった。というのも彼は勇気と戦争の技術において知略で秀でた人物であったアテナイ人ディオファントスとスパルタ人ラミオスを将軍にしており、彼が得た勝利は全面的に彼らのおかげであったからだ。しかしこの時の彼は自分こそが有能な将軍だと思って誰とも指揮権を分け合わず、そのために経験のなさによってこの戦争で有用であったであろう機動を行うことができなかった。あちこちの町々に相当数の守備隊を置いた彼は彼らに〔持ち場を〕厳重に守らせ、自らはエジプト兵三〇〇〇〇人、ギリシア兵五〇〇〇人、そしてリビュア兵の半分を率いており、最も無防備ないくつかの入り口を守るべく彼らを手元に置いていた。双方の配置は以上のようなもので、アルゴス兵の将軍ニコストラトスは妻子を人質としてペルシア人に握られていたエジプト人を道案内に使い、艦隊を率いて気付かれずに地区へと運河を航行し、兵を上陸させてその場所を野営地とするために要塞化して野営した。近隣を厳重に守り続けていたエジプトの傭兵部隊は敵の出現に気が付くと、すぐさま七〇〇〇人を下らない兵力でもって出撃した。彼らの指揮官であったコス人のクレイニオスは軍を戦闘隊形にした。そこへ航行してきた兵が対陣すると、ペルシア人と共に働いていたギリシア軍との間で激しい戦いが起こり、彼らは勇戦して将軍クレイニオスを殺し、残りの兵五〇〇〇人以上を切り伏せた。エジプト王ネクタネボスは部下の敗北を知ると、残りのペルシア軍もまた易々と川を渡ってくるだろうと考えて恐慌状態に陥った。敵が全軍でメンフィスの門へと押し寄せてくると考えた彼はまずは市の防衛のための予防策を取ろうと決めた。したがって彼はメンフィスへと軍を連れて戻り、ここを確保して包囲戦に備え始めた。
49 第一部隊を率いていたテバイ人ラクラテスはペルシオン包囲を急いで始めた。まず彼は運河の流れを他の方向へと逸らし、それから運河が干上がると土で埋めて市へと攻城兵器を運んだ。城壁の大部分が崩れ落ちると、ペルシオンの守備隊は進撃に対抗すべく速やかに他の城壁を建設して木の大きな塔を建てた。城壁を巡る戦いは幾日も続き、当初はペルシオンのギリシア軍が勝利して包囲軍を食い止めたが、王のメンフィス撤退を知ると彼らは恐慌状態に陥って和解のための使節を送った。ラクラテスはペルシオンを引き渡せば全員がギリシアに帰国できるように取り計らうと誓って彼らを返したため、彼らは砦を引き渡した。この後アルタクセルクセスはバゴアスを夷狄の兵士と共にペルシオン接収のために送り、その部隊はギリシア軍が出発しようとしていたところでこの地に到着し、持ち込まれていた多くの物品を分捕った。この不正の犠牲者たちは憤慨して声高に宣誓の守護者であるところの神々に訴え、かくしてラクラテスは激怒して夷狄を敗走させて殺し、したがって反故にされた誓いの被害者たるギリシア軍の味方をした。しかしバゴアスは王のところに逃げてラクラテスを弾劾し、アルタクセルクセスはバゴアスの部隊に然るべき賞罰を受けさせ、強盗行為の責任者のペルシア人を処刑することを決定した。かくしてこのようにしてペルシオンはペルシア軍に引き渡されたのであった。
 第三部隊の指揮を執っていたメントルはブバストスと他の多くの都市を占領して彼一人の軍略の冴えで以ってそれらを王の支配下に置いた。それら全ての都市にはギリシア軍とエジプト軍という二つの人の守備隊が置かれていたため、メントルは兵士の間にアルタクセルクセス王は自発的に市を引き渡した者を寛大に扱うが、力づくで制圧された者にはシドン人に加えたのと同じ罰を加えると決めたという噂を流した。彼は門の守兵に別の側の門から脱走したいと望む者に道を空けるよう指示した。したがって捕えられたエジプト人は妨げられることなく兵舎を後にし、上述の噂は速やかにエジプトの全都市に広まった。かくしてすぐに傭兵はどこであれ土着の人や都市と不仲になって内紛に陥った。というのも双方が密かに持ち場を明け渡そうとしてこの好意と引き換えに得られる密かな希望を抱くことになり、これが最初に起こったのはブバストス市であった。
50 すなわちメントルとバゴアスの軍がブバストス近くに野営すると、ギリシア軍に知られることなくエジプト人は、バゴアスがもし身の安全を保障するならば市の引き渡しをしても良いと申し出る使節を送った。ギリシア軍はこの使節派遣を知ると、使節に追いついて脅迫して真実を引き出し、エジプト人に攻撃をかけて一部を殺して他を負傷させ、残った者を市の一角に集めた。当惑した〔エジプト人の〕兵士たちはバゴアスのところに全速力で来て起こったことを知らせ、市を自分たちから受け取るよう求めた。しかしギリシア軍は秘密の激励を与えていたメントルと独自に接触し、バゴアスがブバストスに入るやすぐに夷狄を攻撃した。その後にバゴアスがペルシア軍を引き連れてギリシア軍の許可なしに入ろうとし、彼らの一部が内側に入ると、ギリシア軍は突如門を閉ざして城壁の内側にいた者を攻撃し、皆殺しにしてバゴアスその人を捕虜とした。後者は自身の身の安全がメントルにかかっていることを知ると、彼に命乞いをして今後は彼の忠告抜きに何もしないと約束した。そこでギリシア軍にバゴアスを解放して彼を通して降伏の打ち合わせをしようと説得したメントルは勝利のために信頼を得たが、バゴアスの命を好きにできるようになるとメントルは共同の行動に関してバゴアスと合意し、この事柄に関する宣誓を交換した後に死ぬまで誠実に同意内容を遵守した。この結果王への奉仕における協調によってその二人は後にアルタクセルクセスの宮廷の全ての友人と親戚のうちで最大の勢力を持つことになった。事実、メントルはアジアの沿岸地域の最高司令権を与えられてギリシアからの傭兵徴募とアルタクセルクセスのところへの彼らの輸送、そして全ての義務の遂行の過程で勇敢にそして忠実に王のために大いに貢献した。バゴアスに関して言えば、彼は高地諸州における王の全ての事柄を取り仕切り、メントルとの協調によって権力を増大させたために王国の主となり、アルタクセルクセスは彼の助けなくして何もしなくなった。アルタクセルクセスの死後、彼はどのような場合であろうと王位の後継者を指名し、称号以外の王権の全ての権能を持った。しかしそれらの事柄については適切な年代の章で詳細に記録することにしよう。
51 当該主題における時、ブバストスの明け渡しの後に残りの諸都市は恐怖に駆られてペルシア人に条件付きで投降した。しかし未だメンフィスに留まっていたネクタネボス王は諸都市の裏切り動向の知らせを受けると、もはや自らの支配地のために戦いで危険を冒そうという気概を失った。かくして王座への希望を捨てて財産の大部分を運んだ彼はエティオピアへと逃げた。アルタクセルクセスは全エジプトを手に入れて重要都市の大部分の城壁を壊すと、神殿の略奪によって大量の金銀を集め、古の神殿から後にバゴアスが大金と引き替えにエジプト人の神官たちに返還することになる碑文の記録を運び去った。次いで遠征に参加したギリシア人たちを当然の報いであるところの気前の良い贈り物で賞して故郷へと帰した。そしてフェレンダテスをエジプトの太守とし、アルタクセルクセスは多くの財物と戦利品を携えて勝利の名声と共にバビュロンへと軍を連れて戻った。

メントルによる小アジアの安定化
52 カリマコスがアテナイのアルコンだった時(39)、ローマ人はガイウス・マルキウスとプブリウス・ウァレリウスを執政官に選出した(40)。彼らの任期の間にアルタクセルクセスはメントル将軍がエジプト人との戦争で自らのために大きな功績を挙げたのを見て取ると、彼を他の友人よりも上位に置いた。彼をその素晴らしい作戦行動のために賞賛の価値ありと見なした彼は一〇〇タラントンの銀と最も高価な勲章を贈り、アジア沿岸部の太守に任命して最高指揮権を帯びた将軍に指名し、反乱軍との戦争を委ねた。メントルは以前ペルシア人と戦っていて目下の時はアジアからフィリッポスの宮廷へ亡命していたアルタバゾスとメムノンの両者と縁繋がりであっため、王に彼らへの告発を取り下げるよう願って説得した。また、その直後に彼は〔王宮に〕出頭させるために両者を一族全員もろとも呼び寄せた。というのもアルタバゾスはメントルとメムノンの姉妹との間に一一人の息子と一〇人の娘を儲けていたからだ。そしてメントルはその結婚で生まれたたくさんの子供たちに魅了されたために彼らに軍の上位指揮権を与えた。メントルはまず王に反乱を起こして多くの砦と都市を支配していたアタルネウスの僭主ヘルミアス(41)に対する遠征を行った。メントルはヘルミアスに自分は彼の責任を晴らすよう王を説得するつもりだと約束して会談の席で彼と会い、そして騙された彼を拘束した。彼の印鑑付きの指輪を手に入れたメントルは諸都市に王との和解がメントルの仲介を通してなされたという手紙を書いた後、ヘルミアスの指輪で手紙に封をし、その地方を引き継ぐことになっていた代理人と共にその手紙を送った。諸都市の人々はその文書を信頼して和平の受け入れに完全に賛同したため、その全員が砦と都市を引き渡した。今やメントルは詐術によって迅速且つ危険を冒すことなく叛徒の町々を併呑したため、彼を将軍の義務の遂行では真に有能な人物だと思った王からの非常な好意を得た。似たようにして彼はペルシア人と反目していた他の指揮官たちの全員を武力あるいは計略によってすぐに制圧した。
 アジアの情勢は以上のようなものであった。
 ヨーロッパではマケドニア王フィリッポスがカルキディケの諸都市へと進軍して包囲によってゼレイアの要塞を落としてこれを破壊した。次いで彼は他のいくつかの町を脅迫して服属させた。そしてテッサリアのフェライへと来ると彼は市を牛耳っていたペイトラオスを追放した。それらのことが起こっていた一方で、ポントスではポントス王スパルタコス〔二世〕が五年間の統治の後に死に、弟のパイリサデス〔一世〕が王位を継承して三八年間君臨した。

フィリッポスによる有力者たちの買収
53 この年が終わった時(42)にアテナイではテオフィロスがアルコンであり、ローマではガイウス・スルピキウスとガイウス・クインティウスが執政官に選出され(43)、一〇八回目のオリュンピア祭が開催されてキュレネのポリュクレスがスタディオン走で優勝した。彼らの任期の間、ヘレスポントスの諸都市の制圧を狙っていたフィリッポスはメキュベルナとトロネを裏切りによる引き渡しで戦わずして獲得し、次いでこの地方の最重要都市オリュントスへと大軍を率いて向かい、手始めに二度の戦いでオリュントス軍を破って城壁防衛にまで追い込んだ。そして連続の攻撃で彼は城壁で多くの兵を失ったものの最終的にエウテュクラテスとラステネスというオリュントス人の上級隊長を買収し、彼らの裏切りによってオリュントスを占領した。そこを略奪して住民を奴隷にした後、彼は人と財産の両方を戦利品として売り払った。このようにして彼は多額の戦費を獲得し、対立する他の諸都市に〔彼に刃向かえばこのような目に遭うと〕ほのめかした。戦いで立派な行いをした兵士を適切な贈り物によって誉め称えて諸都市の影響力のある人たちに金をばらまき、彼は彼らの国々を裏切らせる準備のための道具を手にした。なるほど彼は武器を使うよりは黄金を使って王国を拡大する方がずっとよいと公言していたのである。
54 アテナイ人はフィリッポスの勢力増大を警戒の目で見ていたために王から攻撃を受けた人たちを助け、諸都市に使節を送って彼らに対して彼らの独立を気にかけ、裏切りを決めた市民を死によって罰し、皆に対して自分たちは彼らの同盟者として戦うと約束し、自らを王の敵対者として宣言した後にフィリッポスとの徹底的な戦争を戦った。誰よりもギリシアの大義を論じて彼らを駆り立てていた人は当時のギリシア人のうちで最高の雄弁家であった弁論家デモステネスであった。しかし彼の都市さえ市民の裏切りへの欲望を押さえることができず、裏切り者の収穫物はその時代にはギリシア中から湧き出てきた。したがってフィリッポスが或る非常に堅牢な防備が施されていた都市を落としたいと思っていて一人の住民がそこは難攻不落だとうそぶいた時、黄金ならばその城壁を上ることはできるかと尋ねたという逸話があるほどであった。というのも彼は軍事力で屈服させることはできないが、黄金によってなら容易く負かすことができることを経験によって学んでいたからだ。かくして賄賂によっていくつもの都市に裏切り者の徒党を形成し、黄金を受け取った人を「客人」や「友人」と呼び、邪悪なやりとりによって人々の道徳心を堕落させた。
55 オリュントス占領の後、彼は戦勝を感謝して神々のためにオリュンピア祭(44)を開催し、盛大な犠牲を捧げた。そして彼は祭りに相応しい大仰な集まりを開き、見事な競技会を開いて宴に滞在していた多くの外国人を招待した。酒盛りの際に彼は多くの会話に参加し、乾杯を提案してたくさんの客人に酒杯を贈って相当数の人を贈り物で讃え、そして寛大にも彼ら全員に対して自分は自分との友情を打ち立てるよう多くの人を説得するつもりだという気前の良い約束をした。
 酒飲み競争の時に俳優のサテュロスが暗い表情をしているのに気付くと、フィリッポスは彼になぜお前だけが自分の好意の相伴に与ることを潔しとしないのかと尋ねた。そしてサテュロスが自分は彼からの恩恵に与ることを望んでいるが、自分が決めた要望を明らかにすれば拒絶されるのではないかと恐れているのだと言うと、王はいたく喜んで彼が求める好意の証を聞き入れてやると認めた。サテュロスはフィリッポスが捕らえた婦人の中に自分の友人の結婚適齢期の未婚の娘二人がいて彼はその娘たちを望んでおり、もし贈り物を認められるのならば自分の利益のためではなく、彼女らに持参金と夫を与えてその年齢に相応しからぬ恥を受けないようにしてほしいと答えた。そこでフィリッポスは喜んで彼の要望を聞き入れ、すぐにその娘たちをサテュロスに与えた。他にも多くの善行を施してあらゆる贈り物を与えることで彼は自らの好意の何倍もの大きな収穫を得た。というのも彼の善行への希望をかき立てられた人たちは互いに競ってフィリッポスに奉仕し、国を彼に引き渡そうとしたからだ。

フォキス人の涜神行為とそれらへの報い
56 テミストクレスがアテナイでアルコンだった時(45)、ローマではガイウス・コルネリウスとマルクス・ポピリウスが執政官職を継承した(46)。彼らの任期の間、ボイオティア人はヒュアという名の都市の周りのフォキスの領地を荒らした後、敵を破っておよそ七〇人を殺した。この後ボイオティア軍はフォキス軍とコロネイア近くで戦い、破れて多くの兵を失った。フォキス軍がその時ボイオティアのかなりの規模の諸都市を奪取すると、ボイオティア軍は出撃しては敵地で穀物を台無しにしたが帰路で破れた。それらのことが起こっていた一方で、フォキスの将軍であり多くの神聖な財物を強奪していたとして告訴されていたファライコスは指揮権を剥奪された。デモクラテス、カリアス、そしてソファネスという三人の将軍が彼に代わって選ばれ、神聖な財物の調査が行われてフォキス人は会計を管理していた人たちを召還した。その中で最も責任があったのはフィロンであった。適切な説明ができなかったために彼は有罪判決を下され、将軍たちによって拷問を受けて盗みの共犯者の名前を白状し、これ以上ない苦痛を受けた後に不敬虔に相応しい死に方をした。私用のために財産を流用した人たちはまだ持っていた盗品に釣り合うだけのものを返還し、神殿略奪者として処刑された。以前任にあった将軍たちに関しては、最初に任にあったフィロメロスは奉納品を手放していたが、二人目の〔将軍〕オノマルコスという名のフィロメロスの弟は神の金の多くを浪費し、他方オノマルコスの弟であった三人目の〔将軍〕ファウロスは将軍だった時には傭兵の給料とするために大量の奉納品を硬貨に鋳造していた。彼は貨幣にするためにリュディアのクロイソス王が奉納した重さが二〇〇タラントンにもなる一二〇個の黄金の煉瓦、そしてそれぞれ重さが二ムナの三六〇個の黄金の杯、全部で金三〇タラントンの重さの黄金の獅子と婦人の像を使った。貨幣に鋳造された金の合計は銀に換算すれば四〇〇〇タラントンにもなると見られ、一方クロイソスと他の全ての人の奉納品であった銀の奉納物については、三人の将軍全員が重さにして六〇〇〇タラントン以上を消費し、黄金製の奉納品と合わせればその合計は一〇〇〇〇タラントンを越えたであろう。幾人かの歴史家は略奪された財物はアレクサンドロスによってペルシア人の宝物庫から獲得された額に勝るとも劣らないと言っている。ファライコスの陣営の将軍たちは、幾人かの人たちがそこには大量の金銀を収めた宝物庫があると言っていたためにさらに神殿を掘り起こすところまでいき、暖炉と三脚あたりの地面を熱心に掘った。宝物のことを教えた男は或る節を述べた最も有名な古の詩人ホメロスをその証言として提出していた。
石の床の下に全ての富がある
弓神フォイボスのおわすところ、その岩にピュトは住まう。
 しかし三脚のあたりを兵士たちが掘ろうとすると大きな地震が起こってフォキス人の心に恐怖を引き起こし、神々が先立って神殿略奪者への明らかな罰を下したために兵士たちはその試みを諦めた。この冒涜行為の指導者、つまり前述のフィロンは神に対して犯した罪当然のべき罰を受けたのであった。
57 神聖な財物の喪失は完全にフォキス人のせいではあったが、アテナイ人とラケダイモン人はフォキス人の側に立って戦って彼らが送り出した兵士の数に応じた給与を全額受け取り、差し押さえられた物を分け合っていた。この時代にアテナイ人は神聖な権力者に対して罪を犯した。デルフォイの事件の直前にイフィクラテスがコルキュラ近くに海軍と共に留まっていた時、シュラクサイの僭主ディオニュシオス〔一世〕が船でオリュンピアとデルフォイへと金と象牙で見事に作られた像を輸送しており、イフィクラテスは艦隊でもってそれらの像を運んでいた船を襲って強奪し、アテナイの人々にどうすべきかを問う手紙を送った。そこでアテナイ人は彼に神々に関することは問わず麾下の兵士にきちんと食べさせることをを気にするよう指示した。そこでイフィクラテスは国の決定に従って戦利品として神々の物であった芸術品を売り払った。僭主はアテナイ人に激怒し、以下のような要旨の手紙を書いた。
「ディオニュシオスよりアテナイの評議会並びに民会へ。汝らは神々に奉納されるべく我々が送った像を持ち去って貨幣に変え、神々のうちで最も偉大な神、デルフォイにおわすアポロンとオリュンピアのゼウスに不敬虔な行いをしたのであり、陸と海で神々への冒涜行為を行ったわけだから、汝らに良く行動することを望むのは妥当ではあるまい」
 さて、アテナイ人はアポロンが自分たちの守護神であり祖先であると自慢していたにもかかわらず、神聖な権力者へのこのような行いをしたのであった。そしてラケダイモン人はデルフォイのアポロンの神託に伺いをたててそれによって全世界で最も賞賛される国制を持つに至り、今でもなお最重要案件については神に伺いをたてているにもかかわらず、聖域の略奪者の罪の共犯者になるほどに厚かましくなったのであった。
58 ボイオティアにオルコメノス、コロネイア、そしてコルシアイという三つの要塞化された都市を保持していたフォキス人はそれらからボイオティアへの遠征を行った。たくさんの傭兵を準備していたために彼らは郊外を略奪してその進出と戦いでそれらの場所の住民に優越を示した。その結果、ボイオティア人は戦争で危機に陥っていて多くの兵士が失われたと感じたが、財源がなかったためにフィリッポスに救援を要請すべく使節を送った。王は彼らの挫折を喜んでボイオティア人のレウクトラでの誇りを台無しにしてやろうと思い、彼が神託所の略奪に無関心だと思われるのではないかという一事を顧慮して少数の兵を送った。フォキス人はアポロンの聖域であったアバイという名の地の近くに要塞を建設すると、ボイオティア軍が彼らと戦った。フォキス軍の一部は近くの諸都市へとすぐに逃げて四散し、その他の者はアポロンの神殿に逃げ込んで五〇〇人が殺された。今や他の多くの神罰がこの時代に多くのフォキス人に降り懸かったのだが、とりわけ私は以下のものについて語ろうと思う。
 神殿に逃げ込んだ兵士は神々の介入によってその生命が助かるのではないかと考えたが、逆に神慮によって彼らは神殿略奪者に相応しい罰を受けた。神殿の周りには多くのイグサがあり、逃げた兵士の天幕には火が残っていた。その結果、イグサに火がついて奇跡的に大火災が起こって神殿は焼き尽くされてそこへ逃げ込んでいたフォキス兵は生きながら焼かれた。なるほどそれは神々が嘆願者に一般的に認められる保護を神殿略奪者にまで及ぼさないことを明らかにしたわけである。

神聖戦争の終結
59 アルキアスがアテナイでアルコンだった時(47)、ローマ人はマルクス・アエミリウスとティトゥス・クィンクティウスを執政官に選出した(48)。彼らの任期の間にフォキス戦争は一〇年間続いた後に以下のようにして終結した。ボイオティア人とフォキス人は戦争の長さのために完全に意気を失ったため、フォキス人はラケダイモンに援軍を求める使節を送り、スパルタ人はアルキダモス王を将軍とした一〇〇〇人の重装歩兵を送った。似たようにしてボイオティア人はフィリッポスに同盟を申し込む使節を送り、フィリッポスはテッサリア人を支配下に置いた後に大軍を率いてロクリスへと入った。再び将軍として認められて傭兵の大部隊を率いていたファライコスに追いつくと、フィリッポスはこの一戦で戦争を終結させようと目論んだ。しかしニカイアへと向かう途中にあり、フィリッポスには敵わないと見て取ったファライコスは王に使節団を休戦条約を締結すべく送った。兵を連れてどこであれ望むところへと去るという同意に至ると、ファライコスは停戦条件の下でペロポネソス半島へと八〇〇〇人にのぼる傭兵を連れて撤退したが、〔降伏のために慈悲を加えられる〕希望を完全に失ってはいなかったフォキス人はフィリッポスに降伏した。王は予期せず戦わずして神聖戦争を終結させる次第となったため、ボイオティア人とテッサリア人と相談した。その結果、彼は隣保同盟会議を招集することに決めてそれに目下の全ての問題の最終的な決定権を委ねた。
60 会議の委員はフィリッポスと彼の子孫に隣保会議への出席、したがって今や戦争に敗れたフォキス人が以前持っていた二票を彼に認める布告を発した。また彼らはフォキス人が所有していた三つの都市はその城壁を取り除き、フォキス人はデルフォイの神殿と隣保会議に関与してはならず、彼らが略奪した金を神々に払い戻すまでは馬と武器の入手は許されず、フォキス人のうちで逃亡した者と聖域の略奪に関与した他の者は呪いをかけられ、どこであれ逮捕され、フォキス人の全ての都市は破壊されて人々は村々に移り、村の家は五〇戸を越えてはならず、村々の互いの距離は一スタディオン未満であってはならず、フォキス人は土地を所有して聖域の略奪時に記帳された額を返済し終えるまで年毎に神に六〇タラントンを納めなければならないと票決した。その上、コリントス人が神への冒涜行為に際してフォキス人に味方していたため、フィリッポスがピュト祭をボイオティア人とテッサリア人と共同で開催することになった。隣保委員とフィリッポスはフォキス人と彼らの傭兵の武器を岩壁へと投げ捨てて残りの武器を焼いて馬を売り払った。似たような調子で隣保委員は神託所保護と神々についての他の問題と普遍平和とギリシア人の和合の規則を規定した。その後にフィリッポスは隣保委員がそれらの布告を発効させるのを手助けして全てのことを丁寧に処理すると、敬虔さと名将としての声望を勝ち得たのみならず、来る勢力拡大のための重要な下準備も行ってマケドニアに帰った。というのも彼はギリシアの総司令官に任命されてペルシアとの戦争を行おうという野心を持っていたからだ。そしてこれは実際に実行に移された。しかしそれらの出来事は然るべき時にきちんと記録することにして、今は目下の話の筋道を進めることにしよう。

涜神者たちの末路
61 しかし蓋し、まずは神託を冒涜した者たちへと彼らに対して神々によってもたらされた罰を記録するのが唯一適当なことだろう。概して言うならば、冒涜を企んだ者のみならず冒涜にほとんど荷担しなかった全ての人もまた天の送った防ぎようのない報いによって苦しんだ。事実、最初に神殿の占拠を計画したフィロメロスは戦争の危険の中で崖へと自ら身を投げ、一方で彼の後に人々の指揮権を引き継いだ彼の弟オノマルコスはやけくそになったテッサリアでの戦いで指揮していたフォキス軍と傭兵もろとも斬殺されて磔にされた。後を継いだ三人目であり、奉納品の大部分を貨幣に鋳造した人であったファウロスはなかなか治らない病に倒れて罰からなかなか早く解放されなかった。全員のうちの最後の人であり、略奪品の残りを集めたファライコスは非常に大きな恐怖と危険の中を彷徨いながらかなりの時間生きながらえた。彼が彼と共に冒涜に参加した人たちよりも幸運であるということではなく、より長く苦しんで彼の不運を多くの人に知られ、彼の悲しい運命を悪名高くするということが天の意志であった。というのも傭兵と共に以上のような同意(49)の下で逃げると、彼はまずペロポネソス半島に滞在してその手勢を残りの略奪品で養っていたが、後に彼はイタリアとシケリア行きのために準備されていた船をその地方でどこかの都市を奪取するなり給料のために雇われるなりしようと考えて借りたのであるが、それは偶然イタリアではルカニア人とタラス人との戦争が進行中であったからだ。彼はイタリアとシケリアの人々から仲間の使者のもとへと呼ばれた。
62 彼が港を出港して海原にいた時、ファライコスその人が乗っていた最も大きい船の兵士の一部が〔救援を求めてきた人から〕誰も彼らのところへと送られてこないのではないかと疑って互いに相談した。というのも彼らは救援を求めた人々が送ってきた役人を船の上で見つけることができず、航海の見通しは短くはなく、長く危険であったからだ。したがって彼らは自分たちが言われたことを疑ったのみならず外国への遠征を恐れたため、とりわけ傭兵隊長たちが一緒に陰謀を練った。最終的に彼らは剣を抜いてファライコスと舵手を脅して進路を引き返させた。他の船で航行していた者も同じことをすると、彼らは再びペロポネソスの港へと投錨した。彼らはラコニアのマレア岬に集まり、そこで傭兵を徴募するためにクレタ島から航海してきたクノッソスからの使節を見つけた。その使節たちがファライコス及び指揮官たちと会談して高給を申し出ると、彼らは彼らと共に出航した。クレタ島のクノッソスの港に着くと彼らはすぐに強襲によってリュクトスと呼ばれる都市を落とした。しかし祖国を追われたリュクトス人には奇跡的にして突然の援軍が現れた。およそ同じ頃にルカニア人との戦争を行っていたタラスの人々は彼らの祖先であった(50)ラケダイモン人に救援を要請する使節団を送っており、縁戚の故にスパルタ人は喜んで彼らの味方になってすぐに陸海の軍を集めてアルキダモス王をそれを率いる将軍に任命した。しかしイタリアを目指している時に間もなく彼らはリュクトス人〔タラスと同じくスパルタ人の植民都市〕から救援を求められた。これに賛同したラケダイモン軍はクレタへと航行し、傭兵軍を破ってリュクトス人に祖国を取り戻させた。
63 この後アルキダモスはイタリアへと航行してタラス人と軍を合体させたが、立派に戦って命を落とした。彼は将軍としての有能さとあらゆる立ち振る舞いで賞賛されており、フォキスとの同盟においてのみデルフォイ占拠の主たる責任者として手酷く批判された。この時アルキダモスは二三年間ラケダイモン人の王であり、息子のアギス〔三世〕が王位を継承して一五年間統治した(51)。アルキダモスの死後、神殿の略奪に荷担した彼の傭兵たちはルカニア人によって射殺され、一方でファライコスはリュクトスから撃退されたためにキュドニアを包囲した。彼が攻城兵器を組み立ててそれらを市へと運ぶと、雷が落ちてきて神の火によってその構築物は焼き尽くされて攻城兵器を救おうとした多くの傭兵が焼死した。その中にはファライコス将軍もいた。しかしある人たちは彼が傭兵の一人を傷付けてその者に殺されたと述べている。生き延びた傭兵たちはエリス人亡命者に雇われてペロポネソスへと運ばれ、この亡命者たちと共にエリスの人々との戦争を行った。戦いでアルカディア軍がエリス軍と合体して亡命者を戦いで破ると、多くの傭兵が殺されておよそ四〇〇〇人の生き残りは捕虜になった。アルカディア人とエリス人は捕虜を分け合った後、アルカディア人は配分された全員を戦利品として売り払い、一方エリス人は神託所に対する冒涜行為のために彼らの割り当て分を処刑した。
64 さて、涜神行為への参加者たちは以上のようにして神からの然るべき報いを受けた。その暴挙への荷担のために最も高名な諸都市は後にアンティパトロスによって戦争で破られ、一挙に覇権と自由を失った。デルフォイから得た黄金の首飾りを身に着けていたフォキスの将軍の妻たちは不敬虔に相応しい罰を受けた。トロイアのヘレネのものであった鎖を身に着けていた彼女らの一人は娼婦としての恥ずべき生へと落ちぶれてその美をぞんざいに酷使する連中に投げ出し、エリヒュレの首飾りを着けていたもう一人の妻は急に発狂した長男によって家に火を放たれて生きながら焼け死んだ。かくして神を無視するほどに厚かましかった者たちは神々の手によってそれに相応しい上述のような罰を受け、他方で神託の守護のために駆けつけたフィリッポスはその時から絶えずその勢力を増していいき、ついには神々への崇敬のために全ギリシアの将軍に任命されてヨーロッパ最大の王国を築き上げた。
 今や我々は十分詳細に神聖戦争の出来事について記録したので、趣を異にする出来事へと向かうことにしよう。

ティモレオンのシケリア戦争
65 シケリアで内戦を戦っていて様々な多くの僭主政治の下で奴隷のように生きることを強いられていたシュラクサイ人はコリントス人に対してシュラクサイ人の都市を治めて僭主になろう目論む野心家たちを抑えてくれる人を将軍として派遣してほしいという要望を持たせてコリントスに使節団を送った。コリントス人は分家筋の人々(52)を支援することは当然のことだと結論し、ティマイネトスの息子であり、同胞市民のうちで勇気と将軍としての賢明さで最高の名声を博していた、つまりあらゆる徳を豊富に兼ね備えていた人物であったティモレオンを送ることを票決した。彼に降り懸かったある事件のために彼は将軍に選ばれることになった。彼の兄でコリントス人のうちで富と厚かましさで群を抜いていたティモファネスはしばし前に明らかに僭主になろうと目論み、その時に貧者を彼の考えになびかせて人揃いの鎧を蓄えてごろつきの一団を連れてアゴラを行進していたが、実際のところは僭主になることを要求していたのではなく、僭主制の技術の練習をしていたのであった。独裁を激しく憎んでいたティモレオンは当初は兄にあからさまなことを思いとどまらせようとしたが、後者がそれに耳を貸さず万事につけより頑固に邁進し続けると、ティモレオンはこのやり方で改心させることはできないと考えてアゴラを散歩していた兄を殺した。取っ組み合いの乱闘が起こり、その死者の驚くべき性格と乱暴さに触発されて多くの市民が押し寄せてきて争いが起こった。一方の側は親族殺しの犯人としてティモレオンは法に則って罰を受けるべきであると主張し、他方の派は僭主殺しとして彼を讃えるべきであるとして真反対の主張をした。長老会が会議の席での検討に入ってこの論題が審議にかけられると、ティモレオンの個人的な敵対者は彼を非難し、一方より好意的だった人たちは彼の主張に与して彼の解放を提案した。検討がまだ解決していないうちにシュラクサイからの使節団が入港してきて長老会に使命を知らせ、早急に彼らが求める将軍を送ってくれるよう要求した。したがって会議ではティモレオンを送ることに決まり、その事業を成功させるために彼らは奇妙であり驚くべき対案を彼に提案した。彼らはもし彼がシュラクサイ人を公正に統治すれば、彼らは彼を僭主殺しとして、もし野心を見せれば兄殺しとして裁定するときっぱりと認めた。ティモレオンは生来の美徳のために長老会による彼への脅しを全く恐れることなくシケリアの政府を公正且つその利益になるように統治した。それというのも彼はカルタゴ人を征し、夷狄によって破壊されていたギリシア諸都市を元々の政体に戻してシケリア全域に独立をもたらしたからだ。つまりシュラクサイと人がいなくなった他のギリシア諸都市を支配するとそれらを建設し、著しくその人口を増やしたのだ。
 しかしそれらの話について我々は以下でしかるべき年代に別々に記録するつもりであるから、ここでは話の本筋に戻ることにしよう。
66 エウブロスがアテナイでアルコンだった時(53)、ローマ人はマルクス・ファビウスとセルウィウス・スルピキウスを執政官に選出した(54)。この年に同胞市民によってシュラクサイでの指揮に選出されていたコリントス人ティモレオンはシケリア遠征の準備をした。彼は七〇〇人の傭兵を徴募して兵を四隻の三段櫂船と三隻の快速船に乗せてコリントスを出航した。沿岸航行中にレウカス人とコルキュラ人から三隻の船を追加し、一〇隻の船と共に彼はイオニア湾を渡ることになった。
 この船旅の間、特異で奇妙な出来事がティモレオンに降り懸かった。夜通し空で燃える火が船団がイタリアの港に入る時まで彼を先導したため、天が彼の冒険を支えて彼の行いでの来る名声と栄光を予告することになった。その時ティモレオンはコリントスでデメテルとペルセフォネの巫女たちから彼女たちが眠っている時に彼女たちにそれらの女神が船旅において彼女らの聖なる島へとティモレオンに同行するつもりだと話しかけてきたと聞いた。そのために彼とその仲間はその女神たちが実際に彼らを支えているのだと認識して喜んだ。彼は最良の船を「デメテルとペルセフォネの聖なる船」と呼んで彼女らに奉納した。
 危機に陥ることなく船団はイタリアのメタポンティオンに投錨し、その少し後に一隻のカルタゴの三段櫂船がカルタゴの使節団を運んできた。そこで彼らはティモレオンに戦争を始めたり、それどころかシケリアに足を踏み入れないよう警告した。しかしレギオンの人々は彼を呼んで同盟者として協力することを約束し、そのためにティモレオンは彼の到来の報告に先んじようとしてすぐさまメタポンティオンを出発した。カルタゴ人は海を支配していたために彼は彼らがシケリア行きを邪魔することを案じていたのだ。次いで彼は急いでレギオンへと向かうよう強いられた。
67 このすぐ後にカルタゴ人はシケリアで深刻な戦争が起こるだろうと知り、島内の同盟諸都市に友好的な振る舞いをし始めた。島中の僭主たちとの対立を捨てると彼らは彼らと友好関係を樹立し、とりわけシュラクサイ人を支配していたために最も強力な人物であったヒケタスと接触した。彼らは陸海の大軍を準備してシケリアへと輸送し、ハンノが将軍として指揮権を委ねられた。彼らは一五〇隻の軍船、五〇〇〇〇人の歩兵、三〇〇台の戦車、二〇〇〇騎以上の騎兵の追加部隊、そしてこの全軍に加えて鎧とありとあらゆる投擲兵器、夥しい攻城兵器、莫大な食料と他の軍需物資もあった。
 手始めにエンテラへと進んだ彼らは郊外を荒廃させてその地方の人々を都市の内側へと封じ込めた。その都市を占拠していたカンパニア人は警戒してカルタゴ人と対立していた他の諸都市に助けを求めたが、ガレリア市を除いてどこも返答を返さなかった。その人々は一〇〇〇人の重装歩兵を送ったが、フォイニキア軍はそれを妨害して大軍で圧倒して殲滅した。アイトナに住んでいたカンパニア人は同族の誼から当初はエンテラへ援軍を送る準備をしていたが、ガレリア部隊の惨劇を聞くと動かないことを決めた。
68 その時はディオニュシオス〔二世〕が未だシュラクサイの支配者であり、これに対して大軍で戦いを始めたヒケタスはまずオリュンピアイオンに砦柵のある野営地を建設して市の僭主に対する戦争を始めたが、包囲が長引いて物資が底をついたために彼は基地として用いていたレオンティノイへと戻った。ディオニュシオスは猛追して彼の殿に追いつき、すぐにそれを攻撃したが、ヒケタスは反転して戦って三〇〇〇人以上の傭兵を殺して残りを敗走させた。激しい追撃をして逃亡兵と一緒に市へと突入すると彼は島を除いたシュラクサイ全域を手中に収めた。
 ヒケタスとディオニュシオスに関する情勢は以上のようなものであった。
 シュラクサイ占領の三日後にティモレオンはレギオンに投錨してその市を出航した。カルタゴ軍は迅速に二〇隻の三段櫂船と共に現れたが、レギオンの人々はティモレオンがその罠を免れるのを助けた。彼らは将軍を市の民会に呼んで和解を主題とした公の討論を実施した。カルタゴ人はティモレオンはコリントスに戻るよう説得されて見張りを怠るだろうと予想した。しかし彼はこっそり去るという意図を表に出さずに法廷の近くに留まっていたが、密かに自分の九隻の船にすぐに海に出るよう命令した。次いでわざと話を長引かせているレギオン人にカルタゴ人が注意を向けている間に気付かれることなくティモレオンは停泊していた船に乗り込んで素早く港を出港した。カルタゴ人は裏をかかれたものの追撃に向かったが、彼の艦隊はかなりの距離を稼いでおり、追いつかれる前に夜にはタウロメニオンに到着できた。この都市の指導的な人物であったアンドロマコスはシュラクサイの考えをずっと支持しており、逃亡者を懇ろに迎えて安全を保障してやっていた。
 今やヒケタスは自ら五〇〇〇人の最良の兵を率いて彼に敵対していたアドラノン人へ向けて進軍し、その市の近くに陣を張った。ティモレオンはタウロメニオンで幾ばくかの兵を加え、せいぜい全部で一〇〇〇人程度でその都市へと進軍した。夜に出発した彼は二日目にアドラノンに到着し、夕食を摂っていたヒケタスの兵を奇襲した。彼は守りを突破して三〇〇人以上を殺し、およそ六〇〇人を捕らえて野営地を制圧した。今一度の戦いでこの軍事行動を締めくくると彼はシュラクサイへと進んだ。大急ぎで道のりを踏破した彼は無警戒のその都市に襲いかかり、敵を敗走させた。
 この年に起こった出来事は以上のようなものであった。
69 リュキスコスがアテナイでアルコンだった時(55)、ローマ人はマルクス・ウァレリウスとマルクス・プブリウスを執政官に選出し(56)、一〇九回目のオリュンピア祭が開催されてアテナイ人のアリストロコスが徒競走で優勝した。この年にローマ人とカルタゴ人との間で最初の協定が結ばれた。カリアではカリア人の支配者イドリエウスが七年間統治した後に死んで彼の姉妹であり妻のアダが彼の後を襲って四年間統治した。
 シケリアではティモレオンがアドラノン人とテュンダリス人と同盟して彼らから少なからぬ増援を受け取った。シュラクサイを大混乱が覆っており、ディオニュシオスが島を、ヒケタスがアクラディネとネアポリスを、ティモレオンが市の残りを保持しており、その一方でカルタゴ軍が一五〇隻の三段櫂船で大港湾に投錨して五〇〇〇〇人の兵を岸に野営させていた。ティモレオンと彼の部下たちは彼らの障害を落胆しつつ見たが、その見込みは突然の、そして驚くべき変化が起こって好転した。まずカタニアの僭主マルコスがかなりの軍と共にやってきて、次いで辺境のシュラクサイのいくつかの要塞が独立を得るためにティモレオンを支持すると宣言した。これら全てに加えてコリントス人が資金を彼らに提供するために一〇隻の船に人員を乗り込ませてシュラクサイへと派遣した。したがってティモレオンは勇気を奮い起こしたが、警戒したカルタゴ人は不可解なことに港を去って自国へと全軍を帰らせた。ヒケタスが孤立したままであった一方でティモレオンは勝ち誇りながらシュラクサイを占領した。次いで彼はカルタゴ人の側についていたメッサナへと向かった。
 以上がシケリアの情勢である。
 マケドニアでは、父からイリュリア人との争いを受け継いでいたフィリッポスはその反目を解く手段はないことを悟った。したがって彼はイリュリアに大軍を率いて攻め込んで郊外を荒らし、多くの町を占領して戦利品を携えてマケドニアへと戻った。次いで彼はテッサリアへと進軍し、諸都市から僭主を追い出すことで感謝され、テッサリア人の支持を得た。彼らを同盟者とした彼はギリシア人もまた簡単に自分の味方にできるのではないかと期待し、まさにその通りになった。近隣のギリシア人はすぐにテッサリア人の決定に倣い、彼の熱狂的な同盟者となった。
70 ピュトドトスがアテナイでアルコンだった時〔(57)、ローマ人はガイウス・プラウティウスとティトゥス・マンリウスを執政官に選出した(58)。この年にティモレオンは僭主のディオニュシオスを脅して砦を引き渡して地位を辞任させ、ペロポネソス半島へと安全に退かせたが、彼の私財は保有させた。したがって怯懦と恫喝のおかげでディオニュシオスは人々が言うところの鋼の足かせの着いた輝かしい僭主の地位を失い、余生をコリントスで貧困のうちに過ごし、その人生において自らの成功を浅はかにも鼻にかけている全ての人に不運の実例を示した。かつては四〇〇隻の三段櫂船を保有していた彼のコリントス到着直後の持ち物は貨物船にあった一個の小さな桶であり、これは彼の幸運の変転の凄まじさを顕著に示した。
 ティモレオンは島と以前はディオニュシオスに属していた要塞を接収した。彼は島にあった砦と僭主の宮殿を破壊し、要塞化された町々に独立を取り戻させた。すぐに彼は新しい法典の制定作業に入り、都市〔シュラクサイ〕に民主制を敷いて平等に格段の注意を払い、契約をはじめとする全ての事柄について正確で詳細な法律を定めた。また彼は最高の名誉を持ち、シュラクサイ人がゼウス・オリュンピオスの「アンフィポリュ」と呼ぶ年毎の官吏も定めた。この神官職の初代にはアルカダスの息子カリメネスが選ばれ、それ以降シュラクサイ人は私がこの歴史書を書き、政体が変化したこの時代に至るまでそれらの官吏によって年を〔「誰それがアンフィポリュだった年」というように〕示し続けている。ローマ人がシケリアのギリシア人と彼らの市民権(59)を分け合うようになると、それ以前の三〇〇年の間重要なものであったその神官職は無意味なものになった(60)
 シケリアの情勢は以上のようなものであった。
71 マケドニアではフィリッポスがトラキアのギリシア人都市を自身の味方につけようと計画してその地方へと進軍した。トラキア人の王ケルソブレプテスは彼の領地と境を接するヘレスポントスの諸都市を減殺してその領地を略奪するという施策をとっていた。夷狄の攻撃に待ったをかけようとしたフィリッポスは大軍を率いて彼らに向けて進んだ。彼はトラキア人を何度かの戦いで破って破れた夷狄にマケドニア人への十分の一の税の支払い義務を押しつけ、要地に強力な諸都市を建設してトラキア人の将来の報復に備えた。かくしてギリシア諸都市はこの恐怖から解放され、喜んでフィリッポスとの同盟に加わった。
 歴史家のキオスのテオポンポスは彼のフィリッポス史のうちの三つの巻にシケリアでの出来事を収めた。老ディオニュシオスの僭主制から始めて彼は五〇年の年月を収め、若ディオニュシオスの駆逐で締めている。その三つの巻は四一から四三巻である。
72 ソシゲネスがアテナイでアルコンだった時(61)、ローマ人はマルクス・ウァレリウスとマルクス・グナエウス・プブリウスを執政官に選出した(62)。この年にモロシア人の王アリュンバスが彼の息子でピュロスの父となるアイアキデスを残して一〇年間の統治の後に死んだが、オリュンピアスの兄弟アレクサンドロスがマケドニアのフィリッポスの後ろ盾によって王位を継承した(63)
 シケリアではヒケタスが主力軍と共に逃げ込んでいたレオンティノイ向けてティモレオンが遠征を行った。彼はネアポリスと呼ばれる地区に攻撃をかけたが、市内の兵士は数が多く城壁を頼んで有利に戦ったため、彼は何も成し遂げることなく囲いを解いた。僭主のレプティネスによって支配されていたエンギュオンへと向かったティモレオンはレプティネスを追い出してその都市に自由をもたらそうとして繰り返し攻撃をかけた。彼の没頭に乗じてヒケタスは全軍を率いていってシュラクサイを包囲しようとしたが、多くの損害を被って大急ぎでレオンティノイへと退却した。怯えたレプティネスは降伏してティモレオンは彼をペロポネソス半島へと無事に船で送り、ギリシア人に僭主たちを破って追放するという彼の計画の結果の明白な証拠を与えた。
 アポロニア市もまたレプティネスの支配下にあった。そこを落とすとティモレオンはエンギュオン市と同じように自治を回復させた。
73 傭兵の給与支払いに充てる資金がなかったために彼は一〇〇〇人の兵を最良の将官らと共にカルタゴ人によって支配されていたシケリアの地域へと送った。彼らは広大な地域を略奪して大量の戦利品を運び出し、ティモレオンのところまでそれを持ってきた。これを売却して多額の金を得ると彼は長期の奉仕に対する給与を傭兵に支払った。彼はエンテラも落としてカルタゴ人の最も強力な支持者だった一五人を処刑した後に残りの人たちに自治を回復させた。彼の強さと軍事的名声が増してくると、シケリアの全てのギリシア都市は進んで彼に服属し始め、それら全てに自治を回復するという彼の施策に感謝した。非常に多くのシケロイ人とシカノス人とカルタゴ人に服属する残りの人たちの都市が使節を通して彼の同盟に加わろうと彼に申し込んできた。
 カルタゴ人はシケリアにいる彼らの将軍たちが意気地なく戦争を行っていると認識し、大勢の援軍と共に新しい将軍を送ろうと決定した。すぐに彼らは最も高貴な市民たちから遠征のための税を徴収してリビュア人から適当な兵を徴募した。さらに多額の資金を投じて彼らはイベリア人、ケルト人、そしてリグリア人から傭兵を集めた。彼らは軍船の建造も行った。彼らは多くの輸送船をかき集めてその他の物資を大量に製造した。

フィリッポスによるペリントス包囲
74 ニコマコスがアテナイでアルコンだった時(64)、ローマ人はガイウス・マルキウスとティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスを執政官に選出した(65)。この年にアテナイ人フォキオンがフィリッポスによって擁立されていたエレトリアの僭主クレイタルコスを破って追い出した。カリアでは、末弟ピゾダロスがアダを君主としての支配権から蹴落とし、アレクサンドロスがアジアに渡ってくるまで五年間支配権を振るった。
 幸運が絶えず増していたフィリッポスは、彼に抵抗してアテナイ人の側に傾いていたペリントスに対する遠征を行った(66)。彼はその市を包囲し、攻城兵器を引き具して毎日毎日交代で城壁を攻撃した。彼はペリントスの塔よりもずっと高い八〇ペキュスの高さの塔を建造し、その高みから守兵を疲弊させ続けた。彼は破城槌で城壁を揺らして樹液〔とりわけ松脂〕の地雷で下から崩して城壁の長大な強靱さを損じた。ペリントス人は防衛に際して激しく戦って速やかに二つ目の城壁を築いた。多くの称賛に値する行いが開けた場所と防備が施された場所でなされた。双方は見事な決意を見せつけた。王は夥しく多様なカタパルトで胸壁に沿って頑強に戦う兵士に破壊の雨を降らせ、一方のペリントス人は毎日の夥しい損害にもかかわらずビュザンティオンから兵士と投擲兵器の来援を受けた。再び敵と互角になると彼らは勇気を持って決然と祖国のための戦いの矢面に立った。それでも王は決意を翻さなかった。彼は軍をいくつかの部隊に分けて頻繁に交代させつつ城壁へと朝な夕な絶え間ない攻撃を浴びせた。彼は三〇〇〇〇人の兵と投擲兵器の蓄えと攻城兵器、さらにはその他の豊富な装置を有しており、籠城した人々を絶えず圧迫し続けた。
75 かくして包囲は長引いた。市内の死傷者は数を増して物資は欠乏し、市は陥落寸前になった。しかし運命は危機に瀕した人たちの無事を無視することなく、予期せぬ解放を彼らに贈った。かねてよりフィリッポスの勢力増大はアジアにも伝えられており、ペルシア王はこの大国に警戒の念を抱いて沿岸地帯の太守たちにできる限りペリントス人を支援するよう手紙を書いた。かくして彼らは相談してペリントス人のために傭兵部隊、豊富な資金、十分な食料、投擲兵器、そしてその他軍事行動に必要な物資を送った。
 似たようにしてビュザンティオンの人々も彼らに最良の将官と兵士を送った。かくして両軍は再び拮抗することになり、戦いが再開すると包囲戦はこの上ない決意によって断行された。フィリッポスは絶えず城壁を破城槌で揺らして隙間を作り、彼のカタパルトは胸壁から守兵を一掃したため、ちょうど同じ瞬間に彼は密集隊形の兵と共に裂け目のできた城壁を突破して彼が一掃した城壁のあちこちの部分に梯子がかけられた。次いで白兵戦が起こって一部の者は真っ先に殺されて他の者は多くの傷を受けて倒れた。勝利の報償が参加者の果敢さを試し、マケドニア人は富裕な都市を略奪してフィリッポスから贈り物で讃えられるだろうと期待したため、その利益への希望が彼らを危険への覚悟を固めさせ、一方のペリントス人は眼前の占領の恐怖にあって解放のための戦いにおいて大変な勇気でもって踏みとどまった。
76 その都市の天然の地形は決定的な勝利のためにペリントス人を大いに助けた。そこは海によって横幅一スタディオンの地峡がある高い半島になっており、家々は互いに密集して非常に高くなっていた。丘の斜面沿いの建物は互いに高さを競い、概して言えばこの都市の面影はさながら劇場のようであった。防壁に絶えず生まれる割れ目にもかかわらず、路地を封鎖してさながら防壁のように家々の最も低い階層を適宜利用したためにペリントス人は打ち負かされなかった。フィリッポスはかなりの骨折りと激戦によって市壁を制圧すると、運命によってすでに家々が侵入者を待ち構えているのを見て取った。その上、市のあらゆる需要はビュザンティオンからペリントスにやってくる物資によって迅速に満たされたため、彼は軍を二手に分けて彼の一方の部隊をペリントス人を前にした作戦の続行のために最良の将官の指揮下で残し、他方をビュザンティオンに奇襲を仕掛けるべく彼が直率してその都市にも厳しい包囲を行った。ビュザンティオンの人々は兵と武器と兵器は全てペリントスにあったためにひどく困惑した。
 ペリントスとビュザンティオンの状況は以上のようなものであった。
 歴史家キュメのエフォロスはヘラクレイダイの帰還以来のギリシア人と夷狄の事績を彼の著作に収め、彼の歴史書をペリントス包囲のこの時点で終わらせた。彼は三〇巻を書いてそのそれぞれに序言を書き、ほとんど七五〇年の歳月を収めた。アテナイ人ディユロスは彼の歴史書の第二部をエフォロスが筆を折ったところから初めてフィリッポス(67)の死までのギリシア人と夷狄の歴史を物語った。
77 テオフラストスがアテナイでアルコンだった時(68)、ローマ人はマルクス・ウァレリウスとアウルス・コルネリウスを執政に選出し(69)、一一〇回目のオリュンピア祭が開催されてアテナイ人アンティクレスが徒競走で優勝した。この年にフィリッポスがビュザンティンを包囲していることを知ったアテナイ人は票決を行って強力な艦隊をその都市の支援のために速やかに派遣した。彼らの他にキオス人、コス人、ロドス人、その他のギリシア人もまた援軍を送った。フィリッポスはこの共同行動を恐れて二つの都市の囲みを解き、アテナイ人及び彼と敵対していたその他のギリシア人と和平協定を結んだ。
 西方では、カルタゴ人が戦争物資の大量の備えを準備してシケリアへと軍勢を輸送した。その戦力はその島に以前からいる軍を含めれば全部で七〇〇〇〇人以上の歩兵、騎兵、戦車、そして一〇〇〇〇騎を下らない予備の騎馬部隊、二〇〇隻の軍船、馬、武器、食料並びにあらゆるものを乗せた一〇〇〇隻以上の輸送船にも上った。しかし、ティモレオンは手持ちの兵の少なさに対して敵軍の規模の大きさを知っても怯えなかった。彼は未だにヒケタスと戦争状態にあったが、彼と協定に漕ぎ着けて彼の兵を引き継ぎ、かくして自軍を実質的に増やすことになった。

クリミソス川の戦い
78 彼は同盟諸国の土地を無傷に保つ一方で夷狄に従属する諸国を荒廃させるべく、カルタゴ領でカルタゴ軍との戦闘を開始することを決定した。彼はすぐさまシュラクサイ軍と同盟軍並びに傭兵を集め、民会を招集して適切な言葉で決戦に挑むよう群衆を激励した。皆が賛同して大声を上げ、夷狄に向けてすぐに自分たちを率いていくよう求めると、彼は全部で一二〇〇〇人しかいない兵を連れて出撃した。
 彼はアクラガス領に到着すると、予期せぬ混乱が彼の軍に起こった。フォキス人がデルフォイの神殿を略奪していた時に彼らと一緒にいて無思慮ぶりで目を引いていたトラシオスという名の傭兵がこの時に以前の狼藉に匹敵する所行を犯したのだ。神託所への涜神行為に参加した残りのほとんど全員が我々が少し前に記録したように当然の罰を神から受けていた一方で、ただ一人神の復讐を免れていた彼は傭兵たちに脱走を扇動しようとした。彼はティモレオンは正気を失って破滅へと兵士たちを導いていると言った。カルタゴ軍は彼らの六倍の兵力であらゆる装備の面で圧倒的に優勢だが、それにもかかわらずティモレオンは自分たちが勝つと約束し、資金不足のために長らく給料を払えていない傭兵の命を使って一か八かの賭けをしているというのだ。トラシオスは彼らはシュラクサイに戻って給料を要求すべきで、今や希望のない遠征でこれ以上ティモレオンにつき従うべきではないと忠告した。
79 傭兵たちは熱狂的に彼の演説を受け入れて暴動を起こしそうになったが、ティモレオンは執拗な弁明と贈り物の申し出によっていささか苦労しながらも騒動を鎮めた。それでも一〇〇〇人の兵士がトラシオスと共に立ち去りはしたが、彼は罰を下すのを後まで遅らせ、シュラクサイにいる友人宛に彼らを暖かく迎えて未払いの給与を支払うよう手紙を書くことによって動揺を終焉させたが、不従順な部下から勝利への完全な信頼をも奪った。如才ない処置によって忠誠を取り戻した残りの兵と共に彼はそう遠からぬ所に野営している敵へ向けて進軍した。兵士の集会を召集すると彼は演説で彼らを激励し、フェニキア人の怯懦を述べたててゲロンの勝利(70)を思い出させた。
 皆が一体となって夷狄への攻撃と戦いの開始を要求したまさにその時、荷駄獣の群が敷き藁用の草本を運んでくるという事件が偶然起こってティモレオンは勝利の兆候を受けたと明言し、このためにイストミア競技祭の冠がこれから編まれることになった。彼の提案で兵士はミツバから冠を編んでそれを頭に被り、神が勝利を予告したと自信を持って上機嫌で前進した。そして実のところこのようにして予想だにせず、話しても信じられないような仕方で彼らは勇気のみならず神の格別の助力によって敵に対して優勢に立つことになったわけである。
 ティモレオンは軍を展開して隊列を組ませてある小さな丘から、一〇〇〇〇人の敵軍がすでに渡っていたクリミソス川へと下らせた。戦列の中央に陣取った彼は初撃で彼らを四散させた(71)。激しい戦いが起こったが、ギリシア軍は勇気と技能の両方で勝っていたために夷狄の大殺戮が起こった。残りの敵は逃げ始めたが、カルタゴ軍の主力部隊はその間に川を渡って状況を挽回した。
80 戦いが再開されてフェニキア軍が優勢な兵力によってギリシア軍を圧倒すると、突如天から雨と雹の大嵐が激しく降り、稲妻が光り、雷が鳴り響いて激しい風が吹いた。この嵐の全てがギリシア軍の背後で起こったが、夷狄にとって正面で起こることになったため、ティモレオンの兵はその出来事に難儀しなかったが、フェニキア軍はその状況の重圧に耐え切れず、ギリシア軍が攻撃をかけると彼らは壊走した。
 皆が一斉に川を目指して――騎兵と歩兵が混ざって戦車が混乱に拍車をかけた――ある者は為す術もなく踏み潰され敵の剣と槍で斬殺され、他の者はティモレオンの騎兵によって河床へと追いやられて後ろから襲われた。敵の攻撃によらずに多くの者が死に、混乱の中で死体の山が築かれた。川の中はごった返していて立ち続けることは難しかった。最も悪いことに豪雨のために川は急流となってその中の兵士もとろも下流へと流れていき、重い鎧のために泳げなかった彼らを溺死させた。
 最終的に神聖隊を構成し、勇気と声望並びに富でも卓越していた市民から構成されていた数にして二五〇〇人のカルタゴ兵が勇戦の後に全滅した。〔カルタゴ〕軍の中の他の部隊のうち一〇〇〇〇人以上が殺され、捕虜は五〇〇〇人を下らなかった。戦車の大部分は戦いで破壊されたが、二〇〇台が鹵獲された。輜重は荷駄獣と荷物の大部分共々ギリシア軍の手に落ちた。大部分の鎧が川で失われたが、一〇〇〇個の胸甲と一〇〇〇〇個の盾がティモレオンの天幕へと運ばれた。その一部は後にシュラクサイの神殿に奉納され、また一部は同盟軍に分配され、さらに他の一部はティモレオンによってポセイドンの神殿に奉納するようにという指示と共に祖国コリントスへと送られた。
81 カルタゴ人は莫大な富並びに多くの銀金の杯を持っていたために戦いは莫大な富もたらし、それらと遺棄された私有財産はカルタゴ人の富のために夥しかったため、ティモレオンは兵士に勇気の褒賞としてそれらを保持するのを許した。戦いから逃げたカルタゴ人はリリュバイオンまで安全を求めて苦労しながら向かった。神々が彼らを見捨てたがためにリビュア海は彼らを飲み込むのではないかと思い、驚きと恐怖のあまり彼らは船を出してリビュアへと航行しようとしなかった。
 カルタゴそのものではその災難の規模についての知らせが来ると、全ての人が心を砕かれてティモレオンが軍を率いて直接乗り込んでくるのではないかと決めてかかった。彼らは時を無駄にせず、大胆な資質と軍事的技術を最も良く兼ね備えていたと考えていたためにハンノの息子ギスコを亡命から呼び戻して将軍に任命した。彼らは未来永劫市民の命を危険に曝さすことなく、外国人の傭兵、とりわけ高給とカルタゴの富のために呼びかけに多くの人数で答えるだろうと考えられたギリシア人を募ることにすると票決した。そして彼らは可能であると示されればどんな条件であれ講和するようにという指示を与えて熟練の使節をシケリアに送った。

シケリアでの平和の確立と繁栄
82 この年が終わった時にリュシマキデスがアテナイでアルコンになり(72)、ローマではクィントゥス・セルウィリウスとマルクス・ルティリウスが執政官に選出された(73)。この年にティモレオンはシュラクサイに戻ってトラシオスに率いられて自分を見捨てた全ての傭兵を裏切り者として即座に市から追い出した。彼らはイタリアに渡り、ブルッティオイ沿岸の町に来てそこを略奪した。ブルッティオイ人は憤慨して即座に彼らに向けて大軍で進軍してその地を強襲し、投げ槍で全員を討ち果たした。ティモレオンを見捨てた者たちは自らの邪悪さのために不運によって報いられた。
 一二隻の海賊船で海上の船を襲撃し、友好都市としてシュラクサイに投錨していたエトルリア人のポストゥミウスをティモレオンは自ら捕えて殺した。彼はコリントスから送り出されていた五〇〇〇人に上る新たな移住者を快く受け入れた。次いでカルタゴ人が使節を送ってきて彼らに嘆願してくると、彼は全てのギリシア人諸都市を自由(74)にしてリュコス川を双方の境界線とし、カルタゴ人はシュラクサイと戦争をしていた僭主を援助しないという条件で和平を認めた。
 この後、彼はヒケタスとの戦争に決着をつけて彼を殺し、次いでアイトナのカンパニア人を攻撃して掃討した。同様にして彼はケントゥリパの僭主ニコデモスを打倒して市から追い出した。そしてアギュリオンのアポロニアデスの僭主制を終焉させ、解放されたそこの市民にシュラクサイの市民権を与えた。つまり島中の全ての僭主が根こそぎにされて諸都市は開放され、彼と同盟を結んだのである。彼はシュラクサイ人は彼らの国に来て彼らの仲間になりたいと望む者には土地と家を与えるつもりであるとギリシアで声明を発し、多くのギリシア人が土地の割り当てを受けるためにやってきた。結局のところ四〇〇〇人の移住者がそれらの広さと質のためにシュラクサイの空き地を、一〇〇〇〇人がアギュリオンの空き地を割り当てられた。
 また、この時にティモレオンはディオクレスが制定したシュラクサイの現行の法を改めた。私的な契約と相続に関する法を彼は手つかずのままにしておいたが、国事に関する法は彼自身の考えに沿うように改正した。責任者兼立法委員は教養と知性に優れていたコリントス人のケファロスであった。彼の手に全権を与えるとティモレオンはレオンティノイの人々をシュラクサイに移住させたが、カマリナには追加の移民を送って都市を拡大した。
83 かくしてシケリア全土で平和が確立し、彼は諸都市に隆盛による成長をもたらした。長年にわたる内紛と国境紛争、そしてさらに絶えず現れ続けた多くの僭主ために諸都市は住民が不足して平野は耕作がなされず荒れ地となり、有益な作物を生産しなかった。しかし今や新たな移住者が大挙してその土地に流入して長らく平和が続いたため、原野は農耕のために開拓されてあらゆる種類の豊富な農産物を産した。シケリアのギリシア人は商人に適正価格でそれらを売ってすぐに富を殖やした。
 その資金によって多くの大きな建築物がその時代に完成された。まず、島には「六〇個の長椅子の間」と呼ばれるシュラクサイの建築物があり、それはシケリアの全ての建物に対して大きさと壮大さで勝っていた。これは独裁者アガトクレスによって建てられ、思い上がりのあまりそれは神々の神殿を凌いだため、雷に打たれて天の不興の印を受けた。そして小港湾沿岸にそれらを建てたのがアガトクレスであることを示す様々な石のモザイクの碑文がある塔があった。それらに匹敵するものが少し後のヒエロン〔二世〕王の時代にアゴラと劇場の脇にある祭壇のオリュンピエイオンに建てられ、それは長さが一スタディオンで、高さと幅はそれに釣り合っていた。
 より小さい都市はアギュリオンであると思われるが、この農業の興隆のおかげで住民の増加を経たため、シケリアにシュラクサイのものに次ぐ最も素晴らしい劇場および神々の神殿、議事堂、そしてアゴラを建てた。また、記憶に値する塔と同様、墓を際立たせた多くのそして大きな建築上の特質の角錐形の記念建造物があった。

カイロネイアの戦い、フィリッポスのギリシアでの覇権確立
84 カロンデスがアテナイでアルコンだった時(75)、ルキウス・アエミリウスとガイウス・プラウティウスが執政官職を引き継いだ(76)。この年にフィリッポス王はほとんどのギリシア人と友誼を結び、アテナイ人を恐怖で屈服させることでギリシアでの競う者のいない覇権を得ようと野心を燃やした。したがって彼は突如エラテイア市を奪取し、軍をそこに集結させて対アテナイ戦争へと踏み切った。その時、平和条約への信頼のためにアテナイ人は敵対行為のための準備をしていなかったし、事態はこのようになってしまった以上、彼は彼らの打倒にあたっては何の問題もないだろうと予想した(77)。エラテイアが占領された後、〔エラテイアの〕人々は占領のこととフィリッポスはすぐに軍を率いてアッティカに攻め込んでくるはずだと知らせるべく夜にアテナイにやってきた。この予想だにせぬ新しい状況に不意を突かれ、アテナイの将軍たちはラッパ手を集めて彼らに夜を徹して警報を発し続けるよう命じた。
 その知らせがあらゆる家庭に広まって市は恐怖で張りつめ、アルコンたちが通例の布告を発するより前に全ての人が劇場に押し寄せた。将軍たちがやってきて知らせを発表して彼〔エラテイアからの伝令〕が話をすると、沈黙と恐怖が民会を覆い、平時の雄弁家ではあっても行動指針を敢えて提案する者はいなかった。伝令は何度も何度も誰か全般的な安全について話す人はいないかと呼んだが、誰も提案を提議しなかった。完全に当惑して落胆した群衆はデモステネスに目を向けた。最終的に彼は椅子から下り、すぐさまテバイ人に使節を送って自由のための戦いにボイオティア人を加えるよう求めるという自分の意見に意を向けるよう人々に求めた。あと二日で王がアッティカに侵入すると予想されたため、同盟条約に訴えて他の同盟国に使節を送る時間はなかった。ボイオティアが彼の進軍進路にあったため、ボイオティア人の支援が唯一の頼みの綱であり、とりわけフィリッポスはその時ボイオティア人とは友人であり同盟者であり、明らかに彼はかつて対アテナイ戦争で軍を進めたように彼らと事を共同で事を行おうとしていた。
85 人々はその提案とデモステネスによって起草された使節に〔外交に関しての〕権限を与える布告を容れ、最も雄弁な代表者を探した。デモステネスは任務への要請に喜んで応じた。彼はその任務を真剣に遂行してついにアテナイにテバイ人の賛同の確約を持って帰った。
 今や現有の兵力を外国の同盟者によって倍加させたためにアテナイ人は自信を取り戻した。 すぐに彼らはカレスとリュシクレスを将軍に任命して武装させた全軍をボイオティアへと送った。全ての若者が戦いへの意欲を口にし、ボイオティアのカイロネイアあたりまで進軍した。アテナイ軍の到着の素早さに感動したボイオティア人は自分たちが事を決するべく同等の準備をし、武器を持って彼らと軍を合体させ、全員で敵の到着を待った。フィリッポスの最初の動きはボイオティア同盟にその中では最も著名であった人物がピュトンであった使節を送ったことであった。彼はその雄弁さで賞賛されていたが、ボイオティア人からはこの説得争いでデモステネスに対立する〔フィリッポスへの〕忠誠だと判断され、彼が他の弁士全員に勝っていたことは確実だが、明らかにデモステネスより下位に置かれた。そしてデモステネス自身は演説でこの弁論家に対する成功を大それた偉業として誇示して言った。「私はピュトンへの信頼と彼があなた方へ向けた言葉の激流にもかかわらず、彼に屈することはなかった」と。
 かくしてフィリッポスはボイオティア人の支持を失ったが、にもかかわらず〔他の〕同盟諸国と共に戦うことを決心した。彼は到着が遅れてた最後の同盟軍を待ち、ボイオティアへと進撃した。彼の軍は三〇〇〇〇人以上の歩兵と二〇〇〇騎を下らない騎兵であった。双方は戦いに逸って精神を高揚させて熱意を燃やし、勇気では拮抗していたが、王は兵力と将軍としての能力で優位に立っていた。彼は多くの困難な戦いをしてそのほとんどで勝利しており、そのために軍事作戦において広範な経験を有していた。アテナイ人の方はというと、最良の将軍たち――イフィクラテス、カブリアス、そしてさらにティモテオス――は死に絶え、残っていた最良の将軍であるカレスは指揮官に必要な活気と慎重さにおいては凡庸な戦士と大して変わらなかった。
86 両軍は夜明けに配置に付き、王は年若かったが特筆すべき勇気と行動の素早さを持っていた息子アレクサンドロスに一翼を任せ、彼に最も熟練した将軍たちをつけ、他方自らは精鋭部隊を直率しつつ他の部隊の指揮を執った。個々の部隊は必要に応じて配置された。もう一方〔アテナイ・ボイオティア連合軍〕は国に応じて戦列を分け、アテナイ人はボイオティア軍に一翼を割り当てて他方を彼ら自身が指揮した(78)。一旦激突すると戦いは長い間熱戦となって双方で多くの死者が出て、そのために戦いでは双方が勝利の希望を持った。
 そこでアレクサンドロスは父に自らの勇気を示して自らの手で勝利をものにしようと逸り、部下にうまく助けられつつ敵〔ボイオティア軍〕の強固な戦列に裂け目を作って多くの敵を倒し、前面の部隊へと激しい突撃をかけた。彼のヘタイロイがそれと同じ成功をし、正面の割れ目は次第に開いていった。死体の山が築かれ、やがてアレクサンドロスは戦列を突破して敵を敗走させた。そして王もまた自ら前進してアレクサンドロスにさえ勝利の手柄を渡すまいとした。彼はまず前面の部隊を後退させて次いで〔逆襲をかけて〕敗走させ、勝利の立役者となった。一〇〇〇人以上のアテナイ人が戦死して二〇〇〇人を下らない捕虜を出した。同様に多くのボイオティア人が殺されて少数が捕虜になった。戦いの後フィリッポスは戦勝記念碑を建てて戦死者を弔い、神に勝利を感謝する犠牲を捧げ、際立った働きを見せた者に功績に応じて褒賞を与えた。
87 晩餐の後の酒宴でフィリッポスは生の葡萄酒を大量に飲み、勝利を祝って友人たちと一緒にお祭り騒ぎをし、捕虜の真っただ中を行進して不運な人たちの悲運を常々嘲っていたという話が伝えられている。今、捕虜の一人であった弁論家デマデスは大胆にも言葉によって王にこのうんざりするような有様を抑制させた。彼は以下のようにして王をはっとさせたと言われている。「おお陛下、運命が陛下にアガメムノンの役を割り当てたのなら、なぜテルシテスの役を演じるのを恥じないのでしょうか?」この正鵠を射た叱責の論鋒にはっとしたフィリッポスは全ての振る舞いを完全に改めた。彼は花冠を外してお祭り騒ぎでの自慢げな装飾を払いのけ、かくも率直にものを言ったこの男への賛意を示し、彼を虜囚の身から解放してあらゆる栄誉の印を与えて友人とした。アッティカ的な魅力を持ったデマデスに言われ、彼は結局のところアテナイ人捕虜の全員を身代金なしで解放し、勝利の傲慢を捨て去ってアテナイの人々に使節団を送って彼らと友好および同盟の条約を結んだ。彼はボイオティア人と講和したがテバイに守備隊を置き続けた。
88 この敗北の後、アテナイ人は弁論家リュクルゴスの告訴で将軍のリュシクレスに死刑判決を下した。リュクルゴスは一二年間(79)市の財政運営で賞賛を勝ち得てその生き方は概して公正で名高かったたため、彼の時代で最も評価が高い政治家であり、自身が非常に厳しい追訴者であることを証明した。彼が「リュシクレス、貴殿は将軍であります。一〇〇〇人の市民が倒れて二〇〇〇人の市民が捕虜になりました。貴殿の都市の敗北で戦勝記念碑が立ち、全ギリシア人が隷属に置かれるのです。これら全てが貴殿の指導と指揮の下で起こったのでありますが、未だ貴殿はおめおめと命を永らえて太陽を拝み、市場に顔を出し、祖国の恥と不名誉の瞬間に生き延びているのです」と言ったことから彼の性格と起訴における厳格さを判断できるだろう。
 時代を見返すなかでも奇妙な出来事が起こった。カイロネイアで戦いが起こったのと時を同じくして、同じ日時にイタリアでタラス人とルカニア人の間でもう一つの戦いが起こった。タラスでのこの事件においてラケダイモンの王アルキダモスが殺された。彼はラケダイモン人を二三年間統治し、息子のアギスが王位を継承して九年間統治した。
 この頃、ヘラクレイア・ポンティカの僭主ティモテオスが一五年間権力の座にあった後に死んだ。弟のディオニュシオスが僭主の地位を継承して三二年間統治した。
89 フリュニコスがアテナイでアルコンだった時(80)、ローマ人はティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスとプブリウス・デキウスを執政官に据えた(81)。この年にフィリッポス王はカイロネイアでの勝利を自慢に思って指導的なギリシア都市の自信を打ち砕いたと見て、全ギリシアの指導者になろうという野心を抱いた。彼は自分はギリシア人のためにペルシア人と戦争をして彼らの神殿への冒涜を懲らしめるつもりであるという知らせを広め、これによって彼はギリシア人の忠実な支持を得た。彼は私的及び公的に全ての人に優しげな顔を見せ、全般的な利益に関する問題を共に話そうと諸都市に申し立てた。したがってその総会がコリントスで開催された。彼は対ペルシア戦争について話して大仰な予想をぶちあげて戦争にあたって代表者たちを味方につけた。ギリシア人は彼をギリシアの全権将軍に選出し、彼は遠征のための物資の貯蔵を始めた。彼は多くの兵士を各々の都市は事業への参加のために送るべしと定め、そしてマケドニアに戻った。
 フィリッポスに関する情勢は以上のようなものであった。

ティモレオンの死
90 シケリアではコリントス人ティモレオンが死んだ。彼はシュラクサイ人と他のシケロイのギリシア人の全ての情勢に秩序をもたらし、八年間将軍となっていた。シュラクサイ人は彼の能力と彼らへの奉仕の大きさのために彼を非常に尊敬して彼のために壮麗な葬儀を挙げた。当代の触れ役で最も声が大きかったデメトリオスによって発表された布告を受けた全ての人の立会いの下で彼の遺体は運ばれた。〔その布告は以下のようなものであった〕「シュラクサイの人々はコリントスのティマイネトスの息子のこのティモレオンを、僭主を滅して夷狄を破り、最も強いギリシア諸都市に再植民を行い、かくしてシケリアのギリシア人を自由なる人ならしめたため、彼を二〇〇ムナの費用を使って埋葬し、音楽祭、馬術大会、体育祭で時の終わりまで彼を讃えることを票決した」
 またこの年にはアリオバルザネスが二六年の統治の後死んでミトリダテスが後を継ぎ、三五年間統治した。ローマ人がスエッサ近くでのラテン人とカンパニア人との戦いで勝利し、敗者の領土の一部を〔ローマ領に〕加えた。勝利した執政官マンリウスは凱旋式を祝った。

フィリッポスの死
91 ピュトドロスがアテナイでアルコンだった時(82)、ローマ人はクィントゥス・プブリウスとティベリウス・アエミリウス・マメルクスを執政官に選出し(83)、一一一回目のオリュンピア祭が開催されてクレイトルのクレオマンティスが徒競走で優勝した。この年にフィリッポス王はギリシア人の指導者となり、アッタロスとパルメニオンに軍の一部を委ねてギリシア諸都市を解放するよう命じて先遣隊としてアジアに送ることでペルシアと戦端を開き、一方自らは神の支持の下に戦争を開始しようと望んでピュティアに自分がペルシア人の王を征服することになるのかどうかを諮った。彼女は彼に以下のような答えを与えた。
花輪で覆われしは雄牛。全てはなされる。彼を襲わんとする者もまた。
 さてフィリッポスはこの返答は曖昧だと思ったが、自分に都合のいいように、つまり神託はペルシア人が儀式の犠牲のように殺されるということを予期しているのだと受け取った。しかし実際のところそれは間違いであり、それはフィリッポスその人が祭典と神聖な犠牲式の真っ直中で冠を被ったまま雄牛のように刺し殺されるということを意味していた。その出来事に際して彼は神々は彼の味方になってくれたと思い、アジアはマケドニア人のものになるとおめでたくも考えた。
 すぐに彼は実行中の計画を進め、神々のために豪勢な犠牲を捧げてオリュンピアスを母とする娘クレオパトラの婚儀に参加した。彼は彼女をエペイロス王でオリュンピアスの弟であったアレクサンドロスに嫁がせた。彼はできるだけ多くのギリシア人を神々を讃えるその祭典に出席させたいと思って友人と客人のために素晴らしい音楽の大会と気前の良い宴を計画した。全ギリシアから彼は個人的な賓客を招いて宮廷の家来には外国から知り合いを連れてこれるだけ連れてくるよう命じた。彼は自分を人好きのする人物としてギリシア人に見せつけ、素晴らしい娯楽でもって最高指揮権を与えられた時に贈られた栄誉に報いようと決めた。
92 多くの人が方々からその祭典へと集まってきて、競技祭と結婚式がマケドニアのアイガイで開催された。私人の貴族のみならずアテナイを含む重要な諸都市が彼に黄金の冠を被せた。この授与が伝令によって発表されると、彼はもしフィリッポス王に対して陰謀を企んでアテナイへと逃げ込む者がいれば、その者は引き渡されるべしとの宣言で締めた。何気ないその言葉はまるで神意よりフィリッポスへと陰謀がすぐそこまで迫っているということを知らせるために送られた兆しであるかのようであった。神が直観を与えたかのように他にも王の死を予言する似たような言葉が述べられた。
 宴会の席でフィリッポスは声の強さと人気では右に出る者のいない俳優ネオプトレモスに何か気の利いたこと、とりわけペルシア遠征について何か言うよう命じた。その芸人は彼の話をフィリッポスの〔アジアへの〕渡航に相応しいものにしようと考え、莫大であり有名であったペルシア王の富を罵ろうとし、しばらくのうちにそれは運命によって覆されることになるだろうと主張した。彼がまず歌ったのはこのような文言であった。
汝の考えは空気よりも高邁で、
汝の夢は原野の耕作よりも広い。
汝が謀りたる家はどの家にも勝り、
人々が知ることを汝だけが過ち、
それが汝の人生を導く。
しかしアマツバメを掴むのはただ一人、
誰が暗がりで見えぬ道を行き、
思いがけず、見えもせず、不意に襲いかかる道、
して我らの明らかな希望を奪うは誰ぞ?
死、この死すべき者の多くの悲哀の源よ。
 彼はその全てが同じ主題を扱う歌の残りを続けた。フィリッポスはその文言に魅了され、その悲劇俳優の綴った言葉と同じ意味を示したピュティアの神託のことを覚えていたためにペルシア王の打倒という考えで頭が一杯になった。
 かくして酒宴は終わり、翌日には競技祭の始まりと相成った。まだ暗いうちに多くの観客が劇場へと急ぎ、夜明けに行進が行われた。種々の気前の良い見世物に加えてフィリッポスは素晴らしい技芸で作られ、観衆に恐れを抱かせるほどに眩く贅沢に飾られた一二柱の神々の像の列に、護送されたさながら神のようなフィリッポスその人の一三番目の像を加え、こうして王は一二人の神々のうちに自らを据えたことを表現した。
93 劇場のどの席も埋まると、フィリッポスが白い外套を身に纏って現れ、彼のはっきりとした命令で護衛は彼から少し距離を空けてその後に続いたのであるが、そのようにしたのは彼は自分が全ギリシア人の支持によって守られていて槍を持った一人の護衛も必要としないと公に示したがったためであった。このように彼は獲得した成功の絶頂にあったが、全員の賞賛と祝辞が彼の耳に響く中で予期せぬ王への陰謀が突如、彼の死という形で露わになった。我々の話を明らかにするためにこの理由について述べよう。
 オレスティス地方出身の家系のパウサニアスなるマケドニア人がいた。彼は王の側近護衛官であり、その美しさのために彼の寵愛を受けていた。王がもう一人の同名のパウサニアスなる者に夢中になっていることを知ると、彼は口汚い言葉を吐いて彼〔後に出た方のパウサニアス〕をおとこおんな、手が早く誰であれ望む者の性愛を受ける奴だと非難した。パウサニアスはその嘲弄に耐えることができず、他の人たちはしばらく沈黙を保っていたものの、友人の一人アッタロスに自分がやろうとしていることを打ち明けた後に自分から、そして見せ物のように死を招くことになった。この数日後にフィリッポスはイリュリア人の王プレウリアスと戦い、パウサニアスは彼の前に飛び出して王に向けられた攻撃で体中に傷を受けて死んだ。
 この事件は広く噂に上り、宮廷の取り巻きの一員で王に対して影響力を持っていたアッタロスは最初の方のパウサニアスを晩餐に招き、彼に生の葡萄酒を酔っぱらうまで飲むよう勧め、彼の意識のない体をラバ追いたちに渡し、その下卑た酔っぱらいたちに陵辱させた。かくしてほどなくして彼は酔いの前後不覚から醒めて彼の身への暴挙に深く憤り、王の前でアッタロスの暴挙を告発した。フィリッポスはその行いの野蛮さについては彼の怒りを理解したが、縁戚関係と差し迫ってアッタロスの働きが必要であったために当座はアッタロスを罰しようとは思わなかった。アッタロスは王が丁度新しい妻として結婚していたクレオパトラの甥であり(84)、戦いでは果断であったためにアジアに送られた先遣隊の将軍に選ばれていた。このような理由で王はパウサニアスに相当な贈り物を与えて側近護衛官に出世させるという名誉を与えることで彼への扱いに対する真っ当な怒りを宥めようとした。
94 にもかかわらずパウサニアスは執念深く怒りを抱き続け、彼に悪事を働いた者のみならずその者への復讐をしなかった者への復讐を渇望した。この計画に際して彼はとりわけソフィストのヘルモクラテスに激励された。パウサニアスは彼の弟子であり、彼が最も有名になるにはどうすればよいのか教えてほしいと訪ねると、そのソフィストは一番偉い人を殺すことだと答え、彼は長らくそのことを覚えていたのだ。パウサニアスがこの言葉を私怨と結びつけ、不満のために計画を遅らせるを良しとせず以下のようにしてその祝祭を隠れ蓑にして実行に移そうと決意した。彼は馬を市門に繋いでおいて外套の下にケルト風の短刀を忍ばせて劇場の入り口までやってきた。フィリッポスは付き添っていた友人たちに劇場に先に行くよう指示して護衛に距離をとらせると、彼は王が一人になったのを見計らって彼に突進してあばらを突き刺し、死に至らしめた。次いで逃亡のために準備していた門の馬へと走った。すぐに側近護衛官の一団が王の遺体へと駆け寄った一方で残りの者は暗殺者を追いかけた。その最後の者はレオンナトスとペルディッカスとアッタロス(85)であった。当初は上手くいっていたものの、彼らが追いつく前に馬に乗るつもりだったパウサニアスは葡萄の蔓に足を取られてしまった。彼が足を絡ませたためにペルディッカスと残りの者たちは彼のところまでやってきて槍で突き刺して殺した。
95 一代に自力でヨーロッパの最も偉大な王となったフィリッポスの最期は以上のようなものであり、王国の広さのために彼は一二人の神々の、王冠を被った仲間をもって自ら任じていた。彼は二四年間統治した。彼は王位への主張を支えるために最も乏しい資財のみでギリシア人世界で最大の帝国を手に入れた者としての名声で知られており、彼の立場の向上は軍の勇気だけではなく外交における機転と誠実さのために得られたものであった。フィリッポスその人は実戦での勇気よりも戦略の理解と外交的な成功の方を誇っていたと言われている。戦場で勝ち得た成功は軍の誰もが分け合うことになるが、交渉によって得た勝利の名誉は彼一人のものであったというのだ。
 今やフィリッポスの死に至り、我々は当初の言明の通りこの巻を締めくくることにしよう。次の巻はアレクサンドロスの即位から初めてその一巻に彼の業績の全てを収めることにしよう。




(1)紀元前359-336年。
(2)紀元前360-359年。
(3)紀元前363年。
(4)フィリッポスは紀元前383年頃に生まれているので、人質になった頃の彼は年端もいかない子供であった。ユスティヌスの述べるところでは、フィリッポスはアレクサンドロス2世によって人質として送られて後にテバイに送られたという(ユスティヌス, VII. 5)。しかし、ベロッホやグロッツといった現代の学者たちは、アイスキネスの「使節職務不履行について」での説明に基づき、アミュンタス3世の寡婦エウリュディケの愛人で後に夫となったアロロスのプトレマイオスこそフィリッポスをテバイに送った人物であるという点で一致している。フィリッポスは恐らく紀元前368年から紀元前365年までテバイにおり、エパメイノンダスからの「斜線陣」の採用はおそらくテバイ逗留の最も際立った成果であろう(N)。
(5)ユスティヌスによれば、最初はペルディッカスの息子でフィリッポスには甥にあたるアミュンタス4世の摂政として政権を取っていが、後に人々の支持を受けてフィリッポスが王として即位した(ユスティヌス, VII, 5)。
(6)現在では全篇が失われているが、フォティオスによる要約が残っている。
(7)紀元前359-358年。
(8)紀元前362年。
(9)「ルカニア人とのこの戦争についてこれ以前の言及はなされていない。14巻100章でディオニュシオス1世はルカニア人と同盟を結んでいると述べられており、イタリアのギリシア人に対抗してルカニア人を支援する彼の施策はその巻の101章で明らかに示されている」(N)。
(10)紀元前358-357年。
(11)紀元前361年。
(12)「コリントスが選ばれたのは、好都合な位置だっただけでなく、そこがシュラクサイの母都市であり、ディオンが樹立を計画していた寡頭制を十中八九支持していたからであろう」(N)。
(13)ディオンのギリシア逗留は紀元前366年から紀元前357年までの約十年(N)。
(14)タウロメニオンはセクストゥス・ポンペイウスが要塞として使っていたが、この地がシュラクサイ・メッセネ間の航路を扼する要地であったことを警戒したアウグストゥスによって紀元前21年にそれまで住んでいた住民は新しい植民地へと移された(カシウス・ディオ, 54. 7. 1)(N)。
(15)この戦争が起こり、終わったのはケフィソドトスの任期(紀元前358-357年)ではなく、アガトクレスの任期(紀元前357-356年)にあったというのが正しく、アイスキネス(「クテシフォン弾劾」, 85)によれば戦われたのは僅か三〇日間であった(N)。
(16)紀元前357-356年。
(17)紀元前360年。
(18)パラロスによるディオンの支持はこれを機にシュラクサイの軍事力を弱体化させることを期待してのものかもしれない(N)。
(19)紀元前356-355年。
(20)紀元前359年。
(21)紀元前355-354年。
(22)紀元前358年。
(23)隣保同盟の会議での神事における用務を任された記録係ないし役人で、それぞれの国から二人いた(N)。
(24)紀元前354-353年。
(25)紀元前357年。
(26)紀元前353-348年。
(27)紀元前353-352年。
(28)紀元前356年。
(29)ベロッホ(『ギリシア史』2巻3.1.476と注釈3)によれば、この作戦行動が行われていた時にカレスが偶然パガサイ湾近くを航行していたというのはほとんどありえず、アテナイ人がフィリッポスがパガサイを取るのを防ぐためにカレスを送ったが、カレスの到着が遅れたのだと考えている(N)。
(30)紀元前352-351年。
(31)紀元前355年。
(32)紀元前351-350年。
(33)紀元前354年。
(34)ベロッホ(『ギリシア史』2巻3.1.535、注釈2)はシドンの破滅がディオドロスが報告するように完璧なものであったとすれば、なぜ12年後のアレクサンドロスの遠征時にシドンが有力な都市であったのかを疑問視している(N)。
(35)ディオニュシオス一世の弟レプティネスの息子。
(36)紀元前350-349年。
(37)紀元前353年。
(38)王への取り次ぎ、外国の使節や謁見を望む人たちを王のもとへと案内するのがこの役職の仕事であった(N)。
(39)紀元前349-348年。
(40)紀元前352年。
(41)ヘルミアスは哲学者にして宦官、ビテュニアの金融家エウブロスの奴隷であり、アリストテレスとはアカデメイアで知り合っていた。ヘルミアスの死後、彼の養女ピュティアスをアリストテレスが娶った。アリストテレスがプラトンの死(紀元前348年ないし347年)から三年間ヘルミアスの宮廷で過ごしていたと伝えているため、ヘルミアスの捕縛に関するここでの出来事はより後に起こったものである(N)。
(42)紀元前348-347年。
(43)紀元前351年。
(44)エリスで開催されるオリュンピア祭ではなく、マケドニアのディオンで開催される同名の祭(N)。
(45)紀元前347-346年。
(46)紀元前350年。
(47)紀元前346-345年。
(48)紀元前349年。
(49)59章参照。
(50)タラスはスパルタ人の植民都市。
(51)正しくは紀元前338年-紀元前331年の九年間。
(52)シュラクサイはコリントスの植民都市。
(53)紀元前345-344年。
(54)紀元前345年。
(55)紀元前344-343年。
(56)紀元前348年。
(57)紀元前343-342年。
(58)紀元前347年。
(59)ラテン市民権のこと。
(60)訳注によれば「アンフィポリュ職の衰微はもはやそれが毎年のものではなくなったということであり、この地域的な神官職の代わりに後にシュラクサイ人はローマの執政官で年を示すようになった。そのことはカエサルによるシケリア人へのラテン市民権の承認か(紀元前44年)、あるいはもっと後のアウグストゥスによる承認のことであろう」(N)。
(61)紀元前342-341年。
(62)紀元前346年。
(63)紀元前351あるいは350年。
(64)紀元前341-340年。
(65)紀元前344年。
(66)紀元前340年。
(67)このフィリッポスはフィリッポス二世ではなくカッサンドロスの息子のフィリッポス四世で、彼は紀元前298/297年に死んだ(N)。
(68)紀元前340-339年。
(69)紀元前343年。
(70)シュラクサイの僭主ゲロンによる紀元前480年のヒメラの戦いでのカルタゴ軍に対する勝利を指す。11巻21-22章を参照。
(71)クリミソス川の戦いは339年の夏至頃に起こった。
(72)紀元前339-338年。
(73)紀元前342年。
(74)「ギリシアの政治用語としての『自由』ではカルタゴやシュラクサイのような覇者の可能性は排除されていない」(N)。
(75)紀元前338-337年。
(76)紀元前341年。
(77)これはビュザンティオン包囲の放棄の際に和平が締結されたという77章での記述に合致しているが、この時の実際の事情は逆で、アテナイ人のほうがこの時にフィロクラテスの和約を破った(N)。
(78)「ディオドロスの戦いの説明はあいまいで、分散した部分的な参照からの出来事の再構成ではかなり不正確である。マケドニア軍右翼のフィリッポスは同盟軍右翼のテバイ軍がアレクサンドロスによって散り散りになるまでアテナイ軍とは戦わなかったことは確実なようである。アレクサンドロスは後の数々の戦いでは自ら右翼で騎兵親衛隊を指揮するのを常としており、ここでのフィリッポスはマケドニア王の伝統的な位置を占めていたに違いない。しかしディオドロスは『精鋭部隊』が何者なのかを述べていない」(N)。
(79)リュクルゴスの財政管理は紀元前338/7年から327/6年までなので、ディオドロスは話を先取りしていることになる(N)。
(80)紀元前337-336年。
(81)紀元前340年。
(82)紀元前336-335年。
(83)紀元前339年。
(84)17巻2章ではアッタロスはクレオパトラの兄弟とされているが、おじである可能性の方が高い(N)。
(85)このアッタロスはクレオパトラのおじのアッタロスではなく、アンドロメネスの子として知られる人物で、レオンナトス及びペルディッカス同様アレクサンドロスの側近の一人であったと考えられている(N)。また、後継者戦争の序盤に義兄弟ペルディッカスの盟友として現れている。




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