14巻→ディオドロス『歴史叢書』15巻→16巻

この巻の内容の予告
1 我々の論考の全体を通して我々がやっていることは歴史の述べ方における通例の自由の行使であったわけであるが、我々は良き行いのために良き人への賞賛を付け加え、悪しき人が悪事を働いた時はこれを何時であれ非難を課してきた。我々の信じるところでは、こうすることで我々は名声が彼らにもたらす不死、最も見事な偉業により、幸運なことに美徳の実行への傾向を持つ心根の人々を導くべきであり、一方で適当な悪評によって悪への衝動とは反対の性格へと人々を矯正するのである。したがって我々はラケダイモン人がレウクトラでの予期せぬ敗北で深刻な苦境へと陥り、そして再びマンティネイアでの思いがけない敗退でギリシアの覇権を失った時代についての著述へと向かう以上、著述にあたってこの原則を維持すべきであると信じ、ラケダイモン人に対して適当な非難をするものである。
 というのもかくも確固たる基礎を持ち、五〇〇年以上の間祖先の高邁な精神によって保たれてきた覇権を祖先から受け取ったこの時代のラケダイモン人のように、自身の愚かさのためにその覇権を覆された人が非難に値すると判断しない人がいるであろうか? これは理解易いことである。彼らより以前に生きていた人たちは臣下を公正に人道的に扱いつつ、多くの苦難と大戦争によって栄光を得たが、彼らの後継者たちが同盟者をぞんざい且つ苛烈に使い、さらにその上同じギリシア人に対して不正で無礼な戦争を起こしたため、彼ら自身の愚行のために支配権を失ったことを了解することは全く尤もなことであるからだ。不正を働いた者への憎悪は彼らの災難を侵略者への報復の好機と捉えらせ、尤もなことであるが、彼らの祖先の時代以来征服されていなかった者は今や彼らの祖先を特徴付けた美徳を失ってしまったに違いないとの軽蔑の念を持たせられたわけである。このことは、なぜ何世代もの間盟主に服属していたテバイ人が彼らを破って皆を驚愕させてギリシア人への覇権者となったが、ラケダイモン人はひとたび覇権を失うや祖先が享受していた高い地位をついぞ取り戻すことができなくなったことを説明する。
 今や我々はラケダイモン人を十分に非難したので、手始めにこの巻での時代の区切りを設定した後に我々の歴史のさらなる筋道に立ち戻ることにしよう。我々の話の一四巻目であった前巻は、エウアゴラス王に対するペルシア人のキュプロス遠征の前年に起こったディオニュシオスによるレギオン人の隷属化とガリア人によるローマの占領でもって終わっていた。この巻を我々はこの戦争でもって初め、アミュンタスの息子フィリッポスの即位の前年でもって終えることにしよう(1)

キュプロスの反乱のペルシア軍のキュプロス遠征
2 ミュスティキデスがアテナイでアルコンだった時(2)、ローマ人は執政官の代わりにマルクス・フリウス、ガイウスとアエミリウスの三人を軍務官に選出した(3)。この年にペルシア人の王アルタクセルクセスはキュプロスの王エウアゴラスに対して戦争を起こした。アルタクセルクセスは戦争の準備に長らく取り組んで陸海の大軍勢を集めた。陸軍は騎兵を含めて三〇万人から成り、三〇〇隻以上の三段櫂船を艤装した。彼は義理の兄弟オロンテスを陸軍の司令官に、ペルシア人のうちで高い支持を得ていたティリバゾスを海軍の司令官に選んだ。両司令官はフォカイアとキュメで軍勢を引き継いでキリキアへと向かい、それからキュプロス島へと渡って精力的に戦争を遂行した。
 エウアゴラスはエジプト人の王であり、ペルシア人の敵であったアコリスと同盟を結び、このアコリスとカリアの君主で密かにエウアゴラスと協力していたヘカトムノスから強力な軍勢を受け取り、傭兵を支えるための多額の資金を得た。同様に彼は内密にせよ公然とにせよペルシア人と不仲だった他の人たちを対ペルシア戦争に参加させた。彼は実質的にはキュプロスの諸都市とテュロス及びフェニキアの他の諸都市の総帥となった。また彼はうち二〇隻がテュロス船で七〇隻がキュプロス船の九〇隻の三段櫂船、彼自身の臣下〔サラミス〕の六〇〇〇人の兵、そして同盟諸国からのこれ以上の数の兵をも有してもいた。それらに加え、豊富な資金を持っていたために彼は多くの傭兵を徴募していた。そして少なからぬ兵がアラビア人の王とペルシア人の王から猜疑されていた他の人たちによって送られてきた。
3 エウアゴラスはこのような優位を持っていたために自信を持って戦争に突入した。まず少なからぬ数の海賊が使うような小舟を有していたために彼は敵に向かう輸送船を待ち伏せし、ある船は海に沈めて他のものは追い払い、また他のものは拿捕した。したがって商人たちはキュプロス島へと食料を運ばなくなり、その島には大軍勢が集まっていたためにペルシア人の陸軍はすぐに食料と必需品の不足に陥って反乱を起こし、ペルシア軍の傭兵は将官たちを攻撃して一部を殺し、野営地を混乱と謀反で満たした。ペルシア軍の将軍たちとグロスとして知られる海軍の指揮官は反乱の鎮圧に手を焼いた。全艦隊を出航させることで彼らはキリキアから大量の穀物を運んできて大量の豊富な食料を提供した。エウアゴラスはというと、アコリス王がエジプトから十分な穀物の蓄えを輸送してきて、彼に資金と他のあらゆる必需品の豊富な蓄えを送ってきていた。エウアゴラスは海軍力で自分が遙かに劣勢だと見て取ると、六〇隻の追加の船を艤装し、エジプトのアコリスに五〇隻の船を求める手紙を送り、全部で二〇〇隻の三段櫂船を有するようになった。彼はそれらに戦闘用の恐怖を引き起こるような艤装を施して繰り返し鍛錬と反復訓練を行わせることで海戦の準備をした。したがって〔ペルシア〕王の艦隊がキティオンから向かってくると、彼はその艦隊に奇襲をかけてペルシア軍に対して圧倒的優位に立った。というのも彼は密集隊形の自らの艦隊でもって無秩序な艦隊に攻撃をかけ、準備ができていない兵に対して準備万端の兵で戦ったため、最初の遭遇からすぐに事前に定められていた通りの勝利を得た。というのも彼は密集隊形の三段櫂船でもって、分散して混乱状態にあった三段櫂船に攻撃をかけたためにその一部を沈めて他を拿捕したのであった。ペルシアの提督グロスと他の指揮官たちは未だ勇敢に抵抗を続けており、エウアゴラスが優勢に立った当初には激しい戦いが展開された。しかし後にグロスが猛攻をかけて勇戦すると、その結果、エウアゴラスは敗走に転じて多くの三段櫂船を失った。
4 海戦での勝利の後、ペルシア軍は陸海の軍勢をキティオン市に集めた。ここを基地として彼らはサラミスに包囲陣を敷いて陸と海からその都市を囲んだ。一方ティリバゾスは海戦の後にキリキアへと渡ってそこから勝利の報告をして王のもとに留まり続け、戦争遂行のための二〇〇〇タラントンを〔前線へと〕持ち帰った。海戦の前には海の近くの陸軍の一部隊を襲ってはこれを破っていたエウアゴラスは勝利に自信を持っていたが、海戦で敗北を喫して自らが包囲されてしまったことを悟ると意気を失った。とはいえ戦争の続行を決意していた彼は息子のプニュタゴラスをキュプロス島での最高司令官として残して自らは一〇隻三段櫂船を連れ、敵を避けてサラミスを去った。エジプトに到着すると彼は王と会談し、戦争を精力的に続行してペルシア人に対する戦争を共通の企図と考えるよう求めた。

ラケダイモンの覇権の実態とマンティネイアへの攻撃
5 それらの出来事が起こっていた間、ラケダイモン人は効力を持っていた協定(4)を省みずに以下のような理由でマンティネイアの戦争を決定した。ギリシア人はアンタルキダスの普遍平和条約を享受しており、それに則って全ての都市は守備隊から解放されて自治を回復していた。しかし、元来指図をすることが好きで施策からして好戦的だったラケダイモン人はその平和条約を重荷と考えており、この平和には我慢がならなかった。彼らは過去長らくギリシアを支配していたために新たな動きが始まるのに身構えてこれに警戒していた。彼らは諸都市を扇動し、友人たちの助けを得つつ一部の都市へは介入のための尤もらしい大義名分を得ては熱狂的な支持党派を形成した。というのも諸都市は自治を回復した後、ラケダイモンの覇権の支配下にいた人たち(5)への清算を要求しており、人々は過去の被害への反感を抱いて多くの人が追放されており、ラケダイモン人が破れた党派に支援を与えるのを引き受けてからというものの彼らの〔介入の〕やり方は苛烈なものとなっていたからだ。そういった人たちを受け入れて彼らを母国に復帰させるべく軍と一緒に送ることによって彼らは最初に比較的弱い諸都市を隷属化させたが、普遍講和を二年も維持せずにこの後により重要な諸都市に戦争をふっかけて服属させた。
 マンティネイア人の都市が自分たちの国境地帯にあって勇敢な兵士で満ちていることを知ると、ラケダイモン人は平和の結果もたらされた〔マンティネイアの〕興隆を嫉視してその市民たちの自尊心を貶めてやろうと思った。したがって手始めに彼らはマンティネイアに使節団を送って城壁を破壊し、彼らの全員がマンティネイアを形成するために昔にそこから集まってきた元々住んでいた五つの村に移住するよう命じた。彼らが耳を貸さないでいると、彼らは軍を送って市を包囲した。マンティネイア人はアテナイに使節団を送って救援を求めた。アテナイ人は普遍平和の破棄を選ばなかったものの、マンティネイア人は彼らの大儀のために包囲に持ち堪えて敵に激しく抵抗した。かくしてこのようにして新たな戦争がギリシアで勃発した。

ディオニュシオスの文学好み
6 シケリアでは、今やカルタゴ人との戦争から解放されたシュラクサイ人の僭主ディオニュシオスが平和と余暇を大いに享受していた。したがって彼は詩作に熱中してこの方面で名高い人たちを招聘し、彼らに格別の栄誉を与えて彼らのところへと足しげく通い、彼らを詩の師匠であり校正者とした。彼らが彼の恩恵へのお返しにしたご機嫌取りの言葉で思い上がったディオニュシオスは戦勝よりも一層詩を自慢するようになった。彼の友人の詩人の中にはディテュランボス詩作家であったフィロクセノスがおり、彼はその分野では作者として非常に名声を博していた。ある晩餐の後に僭主の下手な作品が読まれると、彼はその詩をどう判断するかを問われた。彼が実に率直な答えを返すと、僭主は彼の言葉に気分を害して彼の粗探しをし、嫉妬のために悪口雑言を使うよう駆り立てられたディオニュシオスは家来に彼を採石場へと彼を曳いていくよう命じた。しかし翌日にフィロクセノスの友人たちが放免の嘆願をすると、ディオニュシオスは彼と和解して再び晩餐の後の友人の同じ面々の中に加えた。飲酒が進むと、ディオニュシオスは自作の詩を自慢し、上々の出来と思った数行を朗吟して尋ねた。「この詩句について君はどう思うかね?」これに対してフィロクセノスは一言も言わず、ディオニュシオスの家来たちを呼んで自分を採石場に送るよう命じた。この時ディオニュシオスはその言葉の機転で笑い、その冗談は譴責の刃を鈍らせたために自由な発言を許した。しかし、しばしの後に知人たちとディオニュシオスがフィロクセノスに彼の時宜を得ない率直さを抑えるよう頼むと、フィロクセノスは逆説的な申し出をした。彼は敬意と真実を両立させた答えを述べてディオニュシオスの好意を保った。彼が褒め言葉を言うことはなかった。僭主が痛ましい出来事を述べた数行を作って「この詩行でお前は苛まれたか?」と尋ねると、彼は「悲惨ですとも!」と答え、どちらともとれる両義的な言葉によって二重の約束を守った。ディオニュシオスは「悲惨」という言葉を痛ましく深い感動を意味し、巧い詩を作るのに成功したと解したため、彼はそれらを賞賛しているのだと思った。しかし、真意を悟った残りの人たちはその「悲惨」という語は失敗作を示唆することのみに使われていたと考えた。
7 たまたま同じことが哲学者のプラトンの場合にも起こった。ディオニュシオスはこの人を自分の宮廷へと招聘し、プラトンはディオニュシオスが哲学がその資格を授けられるところの言論の自由を実践していたと見ていたために最初は喜んで最高の好意を示した。しかし後になってプラトンの発言のいくつかが癪に障ったためにディオニュシオスは彼を完全に遠ざけるようになり、市場へと連れて行って奴隷として二〇ムナで売り払った。しかし哲学者たちは皆で協力して彼の自由を購い、賢者は僭主とはできるだけ付き合わないか、あたうる限り最高の礼儀で付き合うべきだという親切な忠告を与えて彼をギリシアへと送った。
 ディオニュシオスは詩作への熱意を捨てなかったばかりかオリュンピア祭へと集まっていた大勢の人たちのところへと、自分の詩を音楽に合わせて朗読する最も心地よい声を持った俳優たちを派遣した(6)。まず彼らの心地よい声は利き手の喝采を浴びたが、後になって顧みられると朗読者たちは蔑まれて笑いものになった。ディオニュシオスは彼の詩に浴びせられた侮蔑を知ると塞ぎこむようになった。彼の状態は絶えず悪化して彼の心は狂気に捉えられたため、彼は自分は嫉妬の犠牲になっていると言い続け、全ての友人が自分への陰謀を企てているのではないかと疑った。最終的に彼の乱心と狂気のためにでっち上げの罪状で多くの友人が殺され、フィリストス、そしてディオニュシオスその人の兄弟で卓抜の勇気を持っていてディオニュシオスの戦争にあたって多くのそして重要な貢献をしてきた人物であったレプティネスを含む少なからぬ人たちを追放するまでになった。それからその人たちはイタリアのギリシア人によって懇ろに迎えられてイタリアのトゥリオイで追放期間を過ごした。後にディオニュシオスの希望で彼らは彼と和解してシュラクサイへと帰国して以前の好意を享受し、レプティネスはディオニュシオスの娘と結婚した。
 かくしてこの年の出来事は以上のようなものであった。

ティリバゾスへの讒言とキュプロス戦争の終結
8 デクシテオスがアテナイでアルコンだった時(7)、ローマ人はルキウス・ルクレティウスとセルウィウス・スルピキウスを執政官に選出した(8)。この年にサラミス人の王エウアゴラスが期待以下ではあったもののエジプト王アコリスから受け取った資金を持ってエジプトからキュプロス島へと到着した。サラミスが綿密に包囲されていて自身が同盟者たちから見捨てられていたことを悟ると、彼は和解の条件を論議せざるを得くなった。総指揮権を握っていたティリバゾスはエウアゴラスがキュプロスの全都市から撤退し、サラミスのみの王としてペルシア王に一定の年貢を払い、奴隷が主人に従うかのように命令に従うという条件での和解に同意した。それらは過酷な条件であったものの、エウアゴラスは自分は王として王に服属するつもりだと言い、奴隷が主人に従うかのように命令に従うことを拒否したことを除いてそれら全てに同意した。ティリバゾスはこれに賛同せず、ティリバゾスの高位を妬んでいた別の将軍オロンテスがティリバゾスを悪し様に書いた手紙を密かにアルタクセルクセスへと送った。その彼に対する告発の最初のものは、彼はサラミスを落とせたにもかかわらずそうせず、エウアゴラスからの使節団を受け入れて共通の目標を成す問題について論議したということであった。〔それに続く告発内容は〕それから彼はラケダイモン人との私的な同盟を締結するかのように彼らの友人となり、ピュト(9)へと反乱計画について神々に諮る手紙を送ったという。そして最も重大なことは、彼は親切な行いによって部隊の指揮官たちを自分になびかせ、栄誉と贈り物と約束を彼らに与えたということであった。この手紙を読むと王はその非難を信じきってオロンテスにティリバゾスを捕縛して自分のもとへと送るように手紙を書いた。その命令が発せられるとティリバゾスは王のもとへと移送され、裁判と時間を求めたものの幽閉された。この後に王はカドゥシオイ人との戦争をして裁判を延期し、法的手続きは先送りになった。
9 オロンテスがキュプロス方面軍の司令権を継承した。しかしエウアゴラスが包囲に対して再び果断な抗戦をするようになり、さらにその上兵士たちがティリバゾスの逮捕に憤慨して不従順になって包囲を締めてやる気をなくしたのを見て取ると、オロンテスはこの組織での〔自分に対する〕出し抜けの告発を警戒するようになった。したがって彼はエウアゴラスと和解について話し合って彼にティリバゾスと同意したのと同じ条件での和平に同意するよう説きつけるべく彼に向けて部下を送った。するとエウアゴラスは驚くべきことに陥落の危機を払いのけることができ、彼はサラミス王となり、所定の年貢を払って王の命令に王として従うという条件での和平に同意した。かくしてその年月の大部分は準備に費やされて継続的な戦争状態にあったのは全部で二年足らずではあったものの、約一〇年間続いたキュプロス戦争は我々が述べたようにして終結した。
 艦隊を指揮し、ティリバゾスの娘と結婚していたグロスは、自分はティリバゾスの計画に協力していて王から罰を受けることになるだろうと考えて恐怖し、新たな行動の計画で地位を守ろうと決めた。彼は金と兵士を潤沢に持っていてさらに数々の親切な行いによって三段櫂船の指揮官たちを味方につけていたため、王から離反することを決意した。そしてすぐに彼はエジプト人の王アコリスに使節団を送って王に対抗する同盟を締結した。また彼はラケダイモン人にも手紙を書いて多額の金を与えると約束し、その他多くの誘惑を申し出て王との対峙を煽り立てた。彼はギリシアで彼らと全面的に協調して彼らの父祖が行使していた覇権を回復するにあたって彼らと共同行動をとると誓った。これ以前でさえ自分たちの覇権を回復しようと志していたスパルタ人はこの時には、全ての人には明白なことであったが、すでに諸都市を混乱へと陥れてそれらを隷属させつつあった。その上彼らは王と共謀してアジアのギリシア人を裏切ったと一般に信じられていたために悪評を被っており、そのために彼らは自分たちがしたことを後悔してアルタクセルクセスに対する戦争の尤もらしい口実を探していた。したがって彼らは喜んでグロスと同盟を結んだ。
10 カドゥシオイ人との戦争を終結させた後、アルタクセルクセスはティリバゾスを裁判へと曳きたててペルシア人のうちで最も評判高かった三人を判事に任命した。この時、買収されていたと信じられていた他の判事たちは生皮を剥がれてその皮は伸ばされて判事席に敷かれた。判事たちは堕落した判決を下した罰の実例を自らの眼前にしながらその椅子の上で判決を下した。今や原告はオロンテスが送った手紙を読んでこれは告訴の十分な理由になると述べた。エウアゴラスに関する罪状についてティリバゾスは、オロンテスの主張では〔ティリバゾスが同意したというのは〕エウアゴラスは王として王に従う協定であった一方で、自身はエウアゴラスは主に対する奴隷として王に従うという条件で和平に同意したと主張した。神託に関して彼は一般的な事柄として神は市についての回答は与えなかったと述べ、事の真実について彼は現在の全ギリシア人が証人だと訴えた。ラケダイモン人との友情については、彼は自分のためではなく王の利益のためを思って友誼を結んだと弁明した。そしてそうすればアジアのギリシア人の心はラケダイモン人から離れて王の虜になると指摘した。弁明の結果、彼は王に為してきた以前からの良き奉仕への判断を保った。
 ティリバゾスは王に向かい、あるものは大仰なそしてあるものは立派な多くの奉仕を列挙し、その結果大いに重んじられて大親友になったと言われている。狩りの時に一度、王が戦車に乗っていると、二頭のライオンが王の方へと向かってきて戦車を引いていた四頭の馬のうち二頭を引き裂き、王その人へと突進してきた。しかしまさにその瞬間ティリバゾスが現れてそれらのライオンを殺して王を危機から救った。戦争でも彼は勇気において秀でており、会議で彼の判断は王が彼の進言に従えば過つことがないほど素晴らしいものであったと人々は言っている。こういった弁解によってティリバゾスは全会一致の票決で無罪放免になった。
11 王は一人一人判事を召還してその各々に被告を放免するにあたって彼らが従った裁判での方針とはどのようなものであったかを尋ねた。最初の者は、自分にはその起訴内容は議論の余地があると見えるが、〔これまでにティリバゾスが行ってきた〕善行は議論の余地がないと言った。二人目は、起訴内容は真実だと認められたものの、善行が犯罪を凌いだと述べた。三人目は、ティリバゾスはそれらの善行の見返りとして王から好意と栄誉をたくさん何度も受け取ったために彼の善行を勘定に入れなかったが、起訴内容をこれとは別にそれ自体で検討したところ被告は有罪であるとは見えなかったと述べた。王は正しい判決を下したとして判事たちを褒め、通例通りティリバゾスに最高の栄誉を与えた。しかし彼はオロンテスをでっち上げの告発をしたとして非難し、友人の輪から追い出して降格の最大限の印を与えた。
 アジアの情勢は以上のようなものであった。

マンティネイア人の強制移住
12 ギリシアではラケダイモン人がマンティネイアの包囲を続けており、マンティネイア人は夏を通して敵に対する見事な抗戦を続けていた。彼らは勇気において他のアルカディア人より勝っていたと考えられていたため、このためにラケダイモン人はこれまでの戦いでは最も信頼する同盟者としてマンティネイア人を翼に配置するのが常となっていたほどであった。しかし冬の到来によってマンティネイアの傍を流れる川が雨水で非常に増水し、ラケダイモン軍は大きな水路によって川の流れを逸らして市へと転じさせ、辺り一面を水浸しにした。したがって家々が倒壊し始めると、マンティネイア人は絶望して市をラケダイモン軍に引き渡さざるを得なくなった。降伏を受け入れた後、彼らは彼らの以前の村々に戻るべしとの命令の他に何の苦難もマンティネイア人に押しつけなかった。したがって彼らは自身の都市の徹底的に破壊し、村々へと戻ることを余儀なくされた。

ディオニュシオスの対外諸政策
13 それらの出来事が起こっていた間、シケリアではシュラクサイの僭主ディオニュシオスがアドリア海沿いに都市を建設することを決意した。彼の狙いはイオニア海の支配権を得ることであり、それは彼がエペイロスへの航路を安全にして諸都市を安全に渡航できる場所にするためであった。それというのもエペイロスあたりの地方に大兵力で出し抜けに上陸し、莫大な富で溢れていたデルフォイの神殿を略奪することが彼の狙いだったからだ。したがって彼は、当時は亡命の身となっていてシュラクサイで日々を過ごしていたモロシア人アルケタスの助力によってイリュリア人と同盟を結んだ。イリュリア人は戦争状態にあったため、彼は二〇〇〇〇人の同盟軍兵士と五〇〇揃いのギリシア風の鎧を彼らに送った。イリュリア人は一揃いの鎧を選り抜きの戦士たちに分配し、兵士たちを彼らの部隊に組み入れた。さて彼らは大軍を集めるに至ったわけだが、仮に彼らがエペイロスに攻め込めばたちまちアルケタスをモロシア人の王位へと復位させただろう。しかし誰も彼に耳を傾けずに手始めにその地方を略奪し、その後にモロシア人が彼らに向けて出撃してくると、激しい戦いが起こってイリュリア人が勝利し、一五〇〇〇人以上のモロシア人を殺した。かような災難をエペイロスの住民が襲った後、ラケダイモン人はその事実を知るやすぐにモロシア人を助けるべく軍を送り、これによって夷狄の相当な大胆不敵を押さえ込んだ。
 それらの出来事が起こっていた間、パロス人は神託に従ってアドリア海の方へと植民団を送り出し、僭主ディオニュシオスの協力によっていわゆるファロス島に植民地を建設した。彼はほんの数年前にすでにアドリア海へと植民団を送ってラッソスとして知られる都市を建設していた。ここを基地としてディオニュシオスは…〔欠損〕…。余暇があったために彼は二〇〇隻の三段櫂船を収容できる造船所を建設して市の周りにギリシア人の都市でも最大の外周を持つ城壁を巡らした。また、彼はアナポス河畔に巨大な体育場を建設し、これと同様にどこであろうと市の拡大と名声に寄与することになる神々の神殿を作った。
14 この年が終わるとアテナイではディオトレフェスがアルコンになり(10)、ローマではルキウス・ウァレリウスとアウルス・マリウスが執政官に選出され(11)、エリス人が九九回目のオリュンピア祭を開催してシュラクサイのディコンがスタディオン走で優勝した。この年、ファロス島に住んでいたパロス人は以前に住んでいた夷狄に非常によく防備を施された場所に大人しく居続けることを許し、他方で彼ら自身は海の近くに都市を建設して城壁を巡らした。しかし後に島の古くからの夷狄の住民は駐留していたギリシア人のに攻撃をかけ、対岸の本土のイリュリア人を呼び寄せた。兵力一〇〇〇〇人を越える彼らは多くの小舟でファロスへと渡って荒らし、多くのギリシア人を殺戮した。しかしディオニュシオスに任命されていたリッソスの統治者がイリュリア人の快速船に対して多数の三段櫂船の船団で航行してきてその一部を沈めて他は拿捕し、五〇〇〇人以上の夷狄を殺して二〇〇〇いくらの捕虜を得た。
 金が必要になったディオニュシオスは六〇隻の三段櫂船でもってテュレニアに戦争を仕掛けた。彼が申し出た口実は海賊の鎮圧だったが、実際のところ彼は奉納品が豊富に寄進されていた、アギュレというテュレニア人の都市のピュルゴイという名の海港にあった神聖な神殿を略奪するつもりであった。夜になると彼は兵を上陸させて夜明けに攻撃をかけ、目標を達成した。彼はその場所にいた僅かな守兵を圧倒してその神殿を略奪し、略奪品は一〇〇〇タラントンを下らなかった。アギュレの兵が救援にやってくると、彼は彼らを戦いで打ちひしぎ、多くの捕虜を得て彼らの領地を荒らし、それからシュラクサイへと戻った。戦利品を売却して彼は五〇〇タラントンを下らない額を得た。今や十分に資金を得たディオニュシオスは方々から多数の兵を雇い入れ、相当な大軍勢を集めた後、カルタゴ人に対する戦争の準備を公然と行った。
 この年の出来事は以上のようなものであった。

再開されたディオニュシオスの対カルタゴ戦争
15 ファノストラトスがアテナイでアルコンだった時(12)、ローマ人は執政官の代わりにルキウス・ルクレティウス、センティウス・スルピキウス、ルキウス・アエミリウス、そしてルキウス・フリウスといった四人の軍務官を選出した(13)。この年にシュラクサイの僭主ディオニュシオスはカルタゴ人との戦争の準備をした後、戦争のために対立の尤もらしい口実を探した。カルタゴ人に服属していた諸都市が反乱に前向きであることを見て取ると、彼は我が意を得たりとばかりに彼らと同盟を結んで彼らを公正に扱った。カルタゴ人はまずこの統治者に使節団を派遣して諸都市の返還を求め、彼が聞く耳を持たないでいると、開戦と相成った。
 さて、カルタゴ人はイタリアのギリシア人と同盟を結んで彼らと一緒に僭主に対する戦争へと突き進んだ。カルタゴ人は賢明にも予めこれが大戦争になるであろうと認識していたため、自分たちの市民のうちから若者を可能な限り徴兵し、次いで大枚を叩いて傭兵の大部隊を雇い入れた。彼らは彼らの王(14)マゴンを将軍に選出し、この二正面で戦争を行おうと計画して数万の兵をシケリアとイタリアへと渡らせた。ディオニュシオスはというと、彼もまた一方の正面ではイタリアのギリシア軍と、他方ではフェニキア軍と戦うべく軍を分割した。今やあちこちで両軍の間に数多くの会戦とより小規模で継続的な戦闘が起こり、それらは何の成果も生み出さなかった。しかし二つの重要で有名な激戦が起こった。最初のものは、いわゆるカバラの近くのもので、見事な戦いぶりを示したディオニュシオスが勝利して一〇〇〇〇人以上の夷狄を殺し、五〇〇〇人以上の捕虜を得た。また彼は軍の生き残りを堅牢だが水の全くない丘へと逃げ込ませた。見事な戦いの後に彼らの王マゴンも倒れた。フェニキア人は災難の大きさに意気阻喪し、すぐに講和の条件を議論する使節を送り出した。しかしディオニュシオスは唯一の条件はシケリアの諸都市からの彼らの撤退と戦費の支払いであると宣言した。
16 この返答はカルタゴ人からは苛烈で尊大であると見なされ、彼ら〔シケリアに派遣されていた将軍〕は彼らの慣例的な悪行によってディオニュシオスを出し抜いた。彼らは条項に満足してるふりをしつつ自分たちには諸都市を引き渡す権限がない述べた。そして〔カルタゴ本国の〕政府とこの問題について相談するために数日の休戦に同意してくれるようディオニュシオスに求めた。休戦の発効に同意すると、ディオニュシオスはシケリア全土を手にすることになるだろうと思って大喜びした。一方でカルタゴ人は彼らの王マゴンのために豪勢な葬儀を行って彼の息子を将軍に代えたわけであるが、彼は若かったものの野心に溢れ、勇気では群を抜いていた。彼は休戦期間の全てを兵の鍛錬に費やし、入念な訓練、激励の演説、そして武器の修練によって軍を従順で満足のいくように仕上げた。双方で合意された期間の満了期に彼らは兵を展開させて高邁な精神でもって戦いに入った。続いてクロニオンで会戦が起こり、神意は勝利によってカルタゴ軍の敗北を代わる代わる矯正した。軍事的成功のために声高に思い上がっていた以前の勝者は予期せずして躓き、敗北のために前途に意気消沈していた者は予想だにしなかった重要な勝利を得た。
17 片翼に陣取り、勇気において秀でていたレプティネスは英雄的に戦って多くのカルタゴ人を殺した後に栄光に包まれながら生を終えた。彼が死ぬとフェニキア軍は大胆になり、激しく敵を圧迫して敵を敗走させた。選り抜きの部隊を持っていたディオニュシオスは最初は敵に対して優勢に立っていた。しかしレプティネスの死が知られて他方の翼が粉砕されると、彼の兵は意気消沈して逃げ出した。総崩れになるとカルタゴ軍はより熱烈に追撃し、他の者には捕虜を取るなと呼びかけた。かくして捕らえられた者全員が殺されて付近の地域の全域に死体の山が築かれた。フェニキア軍が過去の損害を思い出すほどに殺戮は大きなものであり、シケリアのギリシア人の死者は一四〇〇〇人以上にのぼった。野営地に無事逃げ込んだ生き残りは夜が来たために助かった。その会戦での大勝利の後、カルタゴ軍はパノルモスへと退いた。
 勝利を得たカルタゴ人はディオニュシオスに使節団を送って戦争の終結の機会を彼に与えた。僭主は喜んでその申し出を受け入れ、双方は以前に有していたものを保持し、カルタゴ人はセリヌス人の都市とその領地、ハリュコスと呼ばれる川までのアクラガスの領地を受け取ることを唯一の例外とするという平和条約が締結された。そしてディオニュシオスはカルタゴ人に一〇〇〇タラントンを支払った。
 シケリアの情勢は以上のようなものであった。

レウケ市のいきさつ
18 アジアでは、キュプロス戦争でのペルシアの提督グロスが王を見捨ててラケダイモン人と、エジプト人の王を対ペルシア戦争に引き入れたが、或る人たちに暗殺されて目的を達成しなかった。彼の死後、タコスが彼の作戦を引き継いだ。彼は自分の許に部隊を集め、海の近くの岩地にアポロンの聖なる神殿が収まる都市を建設し、レウケと名付けた。彼の死から少し後にこの市を巡ってクラゾメナイの市民とキュマイの市民との間で争いが起こった。その時まずそれらの都市は戦争に訴えてその問題を解決しようとしたが、後になって誰かが二つのと市のうちどちらがレウケの主たるべきかは神に訪ねられるべきであると提案した。ピュティアはそれ〔レウケの主〕はレウケで最初に犠牲を捧げる方であり、双方は自分の都市から取り決められた日の出に〔走り〕始め〔て先についたほうがレウケを取〕るべきであると決定した。日が出るとキュマイ人が彼らの都市の方が近かったために優位に立ったが、クラゾメナイ人は彼らの方が距離が大きかったものの、勝利を得るために以下のような策を講じた。市民の中からくじ引きで人を選ぶと、彼らはレウケの近くに都市を建設し、日の出にそこから走り始めてキュマイ人の機先を制して犠牲を捧げた。この計画でもってレウケの主になると、彼らはプロフタセイア祭(15)という名で呼んだ毎年祭りを開催した。それらの出来事の後、アジアでの反乱は終結した。

オリュントス戦争
19 グロスとタコスの死後、ラケダイモン人はアジアでの事業を諦めたが、いくつかの都市を説得で味方に付け、他の者を亡命者の帰還を通して力づくで手にすることでギリシアでの情勢を彼ら自身の利害に適うように整えようとした。この時点から彼らは、ペルシア人の王の仲介の後にアンタルキダスの頃に採用された普遍条約に反して公然とギリシアの覇権を手中に収めようとし始めた。マケドニアでアミュンタスがイリュリア人に破れて権力を失った。その上で彼は自らの政治権力の放棄のために(16)オリュントスの人々に国境地帯の大部分を割譲した。最初オリュントスの人々は譲渡された土地から歳入を得ていて、後に予期せずして王が勢力を回復させて王国全土を取り戻すと、彼が要求しても土地を返そうとはしなかった。したがってアミュンタスは自身の臣民のうちから軍を集め、ラケダイモン人と同盟を結ぶことでオリュントスに対して将軍と強力な軍勢を送ってくれるよう彼らを説き伏せた。ラケダイモン人はトラキア一帯の地域を支配下に収めることを決定すると、市民と同盟国から兵を徴募し、全部で一〇〇〇〇人以上に上った。彼らはアミュンタスと軍を合流させて彼と共にオリュントス人と戦争を行うよう命じてスパルタ人フォイビダスに軍を委ねた。また彼らはフレイウスの人々に向けてもう一つの軍を送り、彼らを戦いで破ってラケダイモン人の支配を受け入れさせた。
 この時、ラケダイモン人の王たちは施策をめぐって互いに争った。平和的で公正な人物で、その上知恵で秀でていたアゲシポリスは宣誓を遵守すべきであって普遍条約を反故にしてギリシア人を隷属化すべきではないと明言した。彼は諸都市の自治を順守するという普遍条約を宣誓したにもかかわらずスパルタがアジアのギリシア人をペルシア人に渡してギリシアの諸都市を彼らの利害の下で差配するならば悪名を被ることになると指摘した。しかし元来行動の人であったアゲシラオスは戦争を好んでギリシア人への支配に憧れていた。
20 エウアンドロスがアテナイでアルコンだった時(17)、ローマ人はクイントゥス・スルピキウス、ガイウス・ファビウス、クイントゥス・セルウィリウス、プブリウス・コルネリウスの六人を執政官権限付軍務官に選出した(18)。彼らの任期中にラケダイモン人はテバイのカドメイアを以下のような理由で手中に収めた。ボイオティアには多数の都市があってその住民は類い稀な勇気を持った人たちであり、テバイは未だに古の声望を保っており、概して言えばボイオティアの砦(19)であったことを見て取ると、彼らはもし適当な機会に恵まれればテバイはギリシアの覇権を求めるだろうという危機感を抱いた。したがってスパルタ人は指揮官たちに好機を見つけ次第カドメイアを奪取するようにという密命を与えた。その命を受けると、指揮官に任じられてオリュントス遠征軍を率いていたスパルタ人フォイビダスはカドメイアを奪取した。これに憤慨したテバイ人が武装して集まってくると、彼は一戦交えて彼らを破った後、最も優れたテバイ人三〇〇人以上を追放した。それから残りの者を恐怖させてカドメイアに強力な守備隊を置いた後、彼は自らの仕事に向かった。この行動のためにラケダイモン人は今やギリシア人から不信の視線を受けることになったためにフォイビダスに罰金刑を課したが、テバイから守備隊を引き揚げさせなかった。かくしてテバイ人はこのようにして独立を失ってラケダイモン人の指図を受けざるを得なくなった。オリュントス人はマケドニア人の王アミュンタスとの戦争を続けていたため、ラケダイモン人はフォイビダスを指揮から解任し、フォイビダスの兄弟エウダミダスを将軍に据えた。彼に三〇〇〇の重装歩兵を与えてオリュントス人との戦争を遂行すべく派遣した。
21 エウダミダスはアミュンタスと連携してオリュントス人の領地を襲い、オリュントス人との戦争を継続した。そこで大軍を集めたオリュントス人は敵よりも兵力で勝っていたために原野では優位に立った。しかしラケダイモン人は相当な数の軍勢を既に集めていたテレウティアスを将軍に指名してその軍を任せた。テレウティアスはアゲシラオス王の兄弟で、仲間の市民からその勇気のために大いに称賛を受けていた。かくして彼はペロポネソス半島を軍を連れて発ってオリュントス人の領地の近くに到着し、エウダミダスが指揮していた兵を引き継いだ。今や敵と互角になったため、彼は手始めにオリュントス領を略奪して集めた戦利品を兵に分配した。しかしオリュントス人とその同盟者が全軍をあげて出撃してくると彼は戦った。当初彼は互角に戦い、その後に物別れになった。しかしその後に激しい戦いが起こり、見事に戦った後にテレウティアスその人が倒れてラケダイモン軍は一二〇〇人以上を失った。オリュントス人がかくも目覚ましい成功を得た一方でラケダイモン人は被った損失を埋め合わせようと望んでさらに数の多い軍を送ろうと準備し、他方でオリュントス人はスパルタ人はさらなる大軍で来るつもりであり、戦争は長期化するだろうと判断し、大量の穀物を準備して同盟諸国から追加の兵を集めた。
22 デモフィロスがアテナイでアルコンだった時(20)、ローマ人はプブリウス・コルネリウス、ルキウス・ウェルギニウス、ルキウス・パピリウス、マルクス・フリウス、ウァレリウス、アウルス・マンリウス、ルキウスとポストゥミウスを執政官権限付軍務官に選出した(21)。彼らの任期の間、ラケダイモン人は彼らの王アゲシポリスを将軍に任命し、十分な軍を与えてオリュントス人との戦争を行うことを票決した。オリュントス領に到着すると彼はそこに前から野営していた兵を指揮下に置いて住民との戦争を続行した。しかしオリュントス人はこの年に重要な戦いを起こさず、王の軍をの強さを恐れたために結局のところ戦われたのは投擲兵器の応酬と小競り合いだけであった。
23 この年の終わりにはピュティアスがアテナイでアルコンであり(22)、ローマではティトゥス・クインクティウス、ルキウス・セルウィリウス、ルキウス・ユリウス、アクィリウス、ルキウス・ルクレティウス、そしてセルウィウス・スルピキウスの六人が執政官権限付軍務官に選出された(23)。この年にエリス人は一〇〇回目のオリュンピア祭を開催し、タラスのディオニュシオスがスタディオン走で優勝した。彼らの任期の間、ラケダイモン人の王アゲシポリスが一四年間の治世の後に病死した。弟のクレオンブロトスが王位を継いで九年間統治した。ラケダイモン人はポリュビアダスを将軍に任命して対オリュントス戦争に送った。彼は軍を引き継ぎ、戦争を激しく、そして有能な将軍ぶりで遂行したためにしばしば優位に立った。増え続ける成功により、そして幾度もの勝利の後、彼はオリュントスを包囲するに至った。ついに彼は敵を彼らを徹底的に威圧し、ラケダイモン人の属国にならざるを得なくさせた。スパルタの同盟へのオリュントス人の加入によって多くの国も同様にラケダイモンの軍旗の下に先を争って入った。その結果ラケダイモン人は特にこの時期に最大の権勢を持つに至り、陸海でギリシアの覇権を握った。それというのもテバイ人は駐屯軍で押さえられ、コリントス人とアルゴス人は先の戦争の結果大人しくしており、アテナイ人は彼らが支配していた人たちの土地を植民団で占めるという施策のためにギリシア人から悪評を受けていたからだ(24)。しかるにラケダイモン人は多くの人たちを押さえることと武器の使用の実践に絶えず注意を向けていたため(25)、このような彼らの勢力のために全ての人たちにとって恐怖の的となった。したがってペルシア王とシケリアの僭主ディオニュシオスといったその時代の最も強大な支配者たちはスパルタの覇権に媚びを売り、彼らとの同盟を求めるという始末だった。

カルタゴを襲った災害
24 ニコンがアテナイでアルコンだった時(26)、ローマ人はルキウス・パピリウス、ガイウス・セルウィリウス、ルキウス・クインクティウス、ルキウス・コルネリウス、ルキウス・ウァレリウス、そしてアウルス・マンリウスの六人を執政官権限付軍務官に選出した(27)。彼らの任期の間、カルタゴ軍はイタリアに攻め込んで追放されていたヒッポニオン人(28)を彼らの都市に復帰させ、全ての難民を集めて自分たちがその繁栄を非常に気遣っていることを示した。この後、疫病がカルタゴの住民を襲い、その猛威と多くのカルタゴ人の感染のために彼らは彼らの指導的な地位を失う危機に陥った。それというのもリビュア人は彼らを見くびって離反し、サルディニア人は今やカルタゴ人に反抗する好機を得たと考えて反乱を起こし、共通の利害をこしらえてカルタゴ人を攻撃したからだ。およそ同時期に尋常ならざる災難がカルタゴを襲った。動揺と恐怖と恐慌が説明を許さないほどに都市を絶えず占めたのだ。敵が市内へと突入してきたという印象を持った多くの男が家から武器を取って飛び出し、彼らは絶えず同士討ちを起こしてある者を殺し、他の者を負傷させた。最終的に犠牲によって神を宥めて苦心して彼らの不運を取り除いた後、彼らは速やかにリビュア人を鎮圧してサルディニア島を取り戻した。

ボイオティア戦争の勃発、テバイの独立回復
25 ナウシニコスがアテナイでアルコンだった時(29)、ローマ人はマルクス・コルネリウス、クイントゥス・セルウィリウス、マルクス・フリウス、そしてルキウス・クインクティウスの四人を軍務官に選出した(30)。彼らの任期の間にボイオティア戦争と呼ばれる戦争がラケダイモン人とボイオティア人との間で以下のような理由で勃発した。ラケダイモン人がカドメイアに不正に守備隊を置いて多くの重要な市民を追放していた時、追放者たちは集結し、アテナイ人の支持を確保して彼らの生まれた市へと夜に戻ってきた。彼らはまず眠りこけていたラケダイモン支持者に奇襲をかけてその家で殺すと、次に自由を求める市民を集めて全テバイ人に共同行動を起こさせた。大衆が即座に武器を集めると、夜明けに彼らはカドメイアに攻撃をかけた。砦の守備隊を構成していたラケダイモン軍は同盟軍を入れても一五〇〇人ぽっちであったため、スパルタに人を遣ってテバイ人の蜂起を知らせて可及的速やかな救援を送るよう求めた。状況が味方したために彼らは多くの攻撃者を殺して少なからぬ数の重傷者を出させた。テバイ人はギリシアからラケダイモン人を助けるための大軍がやってくるのではないかと予想すると、彼らもまたアテナイへと使節を送り、アテナイ人が三〇人僭主に隷属していた時に一度アテナイ人の民主制を復活させるために助けたことを思い出させ、アテナイ人に全軍でやってきてラケダイモン軍が到着する前にカドメイアを落としてくれるよう求めた。
26 アテナイの人々は使節団の話を最後まで聞いてすぐにテバイ解放のためにできる限りの大軍を急派することを評決したわけであるが、それは以前の助力への義務に応え、それと同時にボイオティア人を自分の側に引き込んでラケダイモン人の優位に対抗する強力な仲間としようと望んでのことであった。というのもボイオティア人は人口と戦争での勇気の点でどのギリシア人も右に出ないと評されていたからだ。最終的に将軍に得ればれたデモフォンはすぐに五〇〇〇人の重装歩兵と五〇〇騎の騎兵を動員し、翌日の夜明けに彼らを市から率いてゆき、ラケダイモン軍を追い抜こうとして大急ぎで強行軍をした。しかしそれにもかかわらずアテナイ人はこと食料に関しては全力を尽くしてボイオティアへの遠征の準備を進めたた。デモフォンは郊外の道を通って予想を裏切ってテバイ人の前に現れた。似たようにして多くの兵士がボイオティアの他の都市から急いで集まってきたため、すぐにテバイ人を救援する大軍が集まることになった。一二〇〇〇人を下らない重装歩兵と二〇〇〇騎以上の騎兵が集まった。彼らは包囲を試みて交代で攻撃を続けるために軍を分割し、朝な夕な四六時中絶えず攻撃を掛け続けた。
27 指揮官の激励を受けたカドメイアの守備隊はラケダイモン人がすぐに大軍を引き連れてやってくると期待して敵に対して激しく抗戦した。十分な食料がある限り彼らは攻撃に頑強に耐え続け、砦の堅牢さを頼んで多くの包囲軍を殺傷した。しかし物資の欠乏が甚だしくなり、ラケダイモン人が軍を集めるのに手間取って到着が長引くと、彼らのうちで不和が広がっていた。彼らのうちラケダイモン人は自分たちは死ぬまで踏みとどまるべきだと考えていた一方で、戦時に同盟諸都市から来ていて数ではラケダイモン人の数倍であった友軍はカドメイアの明け渡しを宣言した。そのような強制の下、僅かしかいなかったスパルタ出身の兵士でさえ砦の明け渡しに加わることになった。したがって彼らは条件付きで降伏してペロポネソス半島に帰ったわけであるが、ラケダイモン軍は大軍でテバイへと進んで来はしたものの来たのがあまりにも遅すぎたためにその攻撃は失敗に終わった。彼らは守備隊の三人の将官を裁判にかけ、二人に死刑判決を下し、三人目には彼の所領では支払えないほど重い罰金を科した。それからアテナイ人は帰国し、テバイ人はテスピアイを攻撃したが失敗に終わった。
 それらのことがギリシアで起こっていた間、ローマ人は税を免除された五〇〇人の植民団をサルディニア島へと送り出した(31)

アテナイ勢力の復活
28 カレアスがアテナイでアルコンだった時(32)、ローマ人は執政官権限付軍務官としてルキウス・パピリウス、マルクス・プブリウス、ティトゥス・コルネリウス、そしてクィントゥス・ルキウスの四人を選出した(33)。彼らの任期の間、ラケダイモン人のテバイでの蹉跌に続き、ボイオティア人は一致団結して同盟を結成し、ラケダイモン人が大軍でもってボイオティアにやってくるだろうと予想してかなりの軍を集めた。アテナイ人は最も尊敬されていた市民たちを使節団としてラケダイモン人に服属していたその都市へと送って自由についての共通の大義を守り抜くことを主張した。というのもラケダイモン人は彼らの手足となる勢力を頼んで従属する人たちを粗末且つ苛烈に支配しており、そのためにスパルタの影響圏にいた多くの人々はアテナイ人の側へと奔っていたからだ。離脱の口実に最初に応じたのはキオスとビュザンティオンの人々であり、彼らにロドスとミュティレネの人々と他の島嶼民が続き、その動きはギリシアから徐々に力を持つようになり、多くの都市がアテナイ人に与した(34)。その民主主義国〔アテナイ〕は諸都市の忠誠によって得意になって全同盟国の一般総会を樹立してそれぞれの国に代表者を任命した。共同の賛意によって総会はアテナイで開会されて大きいものも小さいものもどの都市であろうと平等の原則によって一票のみを持ち、そしてその全都市は独立を維持し、アテナイを盟主として受け入れることが同意された。ラケダイモン人は諸都市の離反の動きを抑えることができないことに気付いたものの、外交使節、友好的な手紙そして戻ってくる疎遠になっていた人たちへの恩恵の約束によって真剣に収拾を図った。同様に彼らは入念に戦争の準備をすることを決議したわけであるが、というのもそれはアテナイ人と総会に参加した残りのギリシア人がテバイ人と同盟を結んでいたためにボイオティア戦争は難しく長引くものになるだろうと予期していたためであった。
29 それらのことが起こっていた一方で、エジプト人の王アコリスはペルシア王とは非友好的な関係であったために傭兵の大軍を集めた。入隊する者には高給を出してその多くに優しく接したため、彼はすぐに多くのギリシア兵に彼と共に出征したいと思わせた。しかし有能な将軍がいなかったために彼は将軍としての思慮と戦争の技術における巧みさの双方で優秀な人物であり、また個人的な勇気も高い評判を持っていたアテナイ人カブリアスに手紙を書いた。さてカブリアスは前もってアテナイの人々の許可を得ることなしにその任用を受け入れ、エジプトでの軍指揮権を得て速やかにペルシア人との戦いの準備をした。しかし王からペルシア軍の将軍に任じられていたファルナバゾスは軍事物資の大量の備蓄を準備をし、使節団ををアテナイへと送って第一にエジプト人の将軍となったことによってカブリアスが、彼の言うところではアテナイの人々を王の温情から裏切らせることになったことを非難し、第二にイフィクラテスを将軍として与えてくれるよう求めた。アテナイ人はペルシア王の歓心を買ってファルナバゾスを自分たちの方へと引っ張ろうと思って速やかにカブリアスをエジプトから呼び戻し(35)、ペルシア人との同盟を実行するためにイフィクラテスを将軍として急派した。
 ラケダイモン人とアテナイ人が以前締結した和平はこの時まで揺るぐことなく続いていた。しかし指揮を執る地位にいて、その性格が浅薄で軽率だったスパルタ人スフォドリアデスは今や監督官の同意抜きでラケダイモン人の王クレオンブロトスからペイライエウスを占領するよう説得された。スフォドリアデスは一〇〇〇人以上の兵と共にペイライエウスを夜に占領しようとしたが、アテナイ人に察知されて何も成し遂げることなく帰国した(36)。次いで彼はスパルタ人の評議会の前で告発されたが、王を味方としていたために正義の流産によって逃れた。その結果アテナイ人はその事件に憤慨して和平がラケダイモン人に破られたと票決した。そして彼らは開戦と最も優れた三人の市民、ティモテオス、カブリアス、そしてカリストラトスを将軍に選ぶことを決定した。彼らは二〇〇〇〇人の重装歩兵と五〇〇騎の騎兵を動員し、二〇〇隻の船に人員を乗せることを票決した。同様に彼らは全てのことに関して同等の条件を認める共同の会議をテバイ人に認めた。彼らは植民団派遣による移民がなされていた土地を以前の所有者に返還することも票決し、アテナイ人は何人たりともアッティカの外の土地を耕作してはならないという法律を通過させた。この全般的な行動によって彼らはギリシア人の好意を取り戻して指導者としての地位をより確固たるものとした。
30 他の都市の多くは前述のような理由でアテナイに寝返るよう駆り立てられたわけであるが、最初に同盟に加わり、最も熱心であったのはヘスティアイアを除くエウボイア島の諸都市であった。ヘスティアイアはアテナイ人との戦争を恐れていた時にラケダイモン人によって最も親切に扱われていたため、アテナイへの敵意を緩まないでいる格好の理由とスパルタとの約束を守ると言い続けるだけの力があった。にもかかわらず七〇の都市が最終的にアテナイ人との同盟に加入して平等の原則の下で総会に参加した。かくしてアテナイ人の勢力の絶えざる伸張とラケダイモン人の勢力の縮小によってそれら二都市は今や互角になった。アテナイ人は事態が彼らの思うように進展しているのを見て取ると、すぐさま同盟国を保護して敵を圧するためにエウボイアに軍を急派し、エウボイアではこの直前にネオゲネスなる者がフェライのイアソンの援助によって兵士を集めてヘスティアイアの砦を占拠して自らをこの国とオレオス人の都市の僭主と号していた。彼の乱暴で横柄な統治のためにラケダイモン人は彼に向けてテリピデスを派遣した。まずテリピデスは理によって砦から去るよう僭主を説得しようとしたが、僭主は彼の言うことに耳も貸さず、テリピデスは自由を大儀として掲げてその地方の人々を集めて強襲によってその場所を落とし、オレオスの人々に自由を取り戻してやった。このためにヘスティアイア人の国として知られる場所に住んでいた人々はスパルタ人への忠誠を保持して友情を無傷のまま保った。アテナイ人によって送られていた軍の指揮を執っていたカブリアスはヘスティアイオティスに留まっており、自然的に切り立った丘の上にあったメトロポリスを要塞化しそこに守備隊を残し、次いでキュクラデス諸島へと航行してラケダイモン人に服属していたペパレトス島とスキアトス島と他のいくつかの島を味方につけた。

アゲシラオスのボイオティア遠征
31 スパルタ人は同盟諸国の雪崩を打って起こる離脱を食い止められないことを知ると、以前の苛烈さをやめて諸都市を丁重に扱い始めた。 このような扱いと善行によって彼らは全ての同盟諸国をより忠実にした。そして今や戦争がより深刻になって厳しい配慮を要することを知ると、彼らはそのために大がかりで様々な準備を行い、とりわけ兵士と兵役の組織及び配給をより完璧にした。実際、彼らは戦争を課す諸都市と兵士を一〇管区に分割した。第一の管区はラケダイモン人、第二と第三はアルカディア人、第四はエリス人、第五はアカイア人から成っていた。コリントス人とメガラ人は第六、第七はシキュオン人とフレイウス人とアクテと呼ばれていた岬の辺りの住民、第八はアカルナニア人、第九はフォキス人とロクリス人、そして全ての最後はオリュントス人とトラキアに暮らしていた同盟諸国が占めた。彼らは一人の重装歩兵は二人の軽装歩兵に、一騎の騎兵は四人の重装歩兵に匹敵すると考えていた。組織は以上のようなものであり、アゲシラオス王が遠征軍の指揮権を与えられた。彼は勇気と戦争技術の冴えで評判を得ており、それ前の時代にはほとんど無敵だった。というのも彼の全ての戦争、とりわけラケダイモン人がペルシア人と戦った時に賞賛を勝ち得ており、彼は戦う度に何倍もの敵に勝利を得てアジアの大部分を制圧して平野を支配し、あわや最終的な勝利を得るところだった。このように彼はペルシア帝国全域を窮地に陥れたものの、政治情勢のためにスパルタ人が彼を呼び戻した。というのも彼は精力的で果敢であったが、非常に知恵があり、冒険的なことをする人物であったからだ。したがってスパルタ人はこれほどに大規模な戦争は第一級の将軍を要することに気付くや再び彼を戦争の総司令官に任命した。
32 アゲシラオスは八〇〇〇人以上の軍を率いて出撃し、ラケダイモン人の五個師団〔モラ〕を含む全軍を連れてボイオティアに到着した(37)。それぞれの師団は五〇〇人であった。スパルタ人のうちでスキリタイとして知られる中隊〔ロコス〕が残りの部隊とは別に王の傍をその持ち場としており、折に触れて危機にある持ち場の支援へと赴くことになっていた。そして彼らは精鋭から構成され、会戦の場面を好転させるにあたっての重要な要素であり、概ね勝利の立役者となった。アゲシラオスは一五〇〇騎の騎兵も有していた。そしてラケダイモン人によって駐留軍が置かれていたテスピアイ市へと向かって彼はその近くに陣を張り、兵を進軍の苦難から解放して数日間休ませた。アテナイ人はボイオティアへのラケダイモン軍の到着を知るとすぐにテバイ人救援のために五〇〇〇人の歩兵と二〇〇騎の騎兵を向かわせた。両軍が合流するとテバイ軍は〔テスピアイ〕市からおよそ二〇スタディオン離れた長方形の山の山頂を占領してその持ち場に遮蔽物を築いて敵の攻撃を待ち構えた。というのも、アゲシラオスの名声で威圧されてしまったために彼らは平地において同条件で彼からの攻撃を迎え討つことができないほどに臆病になってしまったからだ。アゲシラオスの方はというとボイオティア軍に向けて軍を戦闘隊形で進め、距離が近くなると敵の戦闘配置を調べるため、手始めに軽装兵を敵に差し向けた。しかしテバイ軍が高台を頼んで易々と彼の攻撃を押し返すと、彼は敵を恐怖させるために密集隊形にして全軍を率いていった。しかし、傭兵部隊を率いていたアテナイ人カブリアスは戦闘隊列を全員で維持しつつ、部下に敵を馬鹿にした調子で迎え、盾を膝に立てかけつつ槍を高く掲げて待ち構えるよう命じた。彼らは一度の命令で命令通りに動いたため、アゲシラオスは敵の見事な規律と侮辱の姿勢に驚愕し、高台へと軍を進ませて敵に白兵戦でその勇気を示すよう強いるのは得策ではないと判断し、彼らは試されて強いられれば勝利を競ようと奮戦するだろうと知ると、彼らに平地で挑むことにした。しかしテバイ軍が彼に手向かってこないでいると、彼は歩兵のファランクスを退かせて騎兵と軽装兵を邪魔者のいない郊外を略奪するために送り出して大量の戦利品を獲得した。
33 アゲシラオスに随行していたスパルタ人の相談役と彼の将官たちはその活力で評判高い人たちであり、より強力でより多い軍を率いているはずのアゲシラオスが敵との決戦を避けていることへの驚きを彼に伝えた。彼らに対してアゲシラオスはラケダイモン人は危険を冒すことなく勝利するものでだと答えた。というのも、郊外が略奪されている時にボイオティア軍は防衛のために集まろうとはしなかったが、勝利を譲ってくれた敵を彼が戦いの危険へと引きずり出してたとしても事の次第によっては運命の変わり易さのためにラケダイモン軍は戦いで嘆き悲しむことにさえなるであろうからだ。今この時彼はこの応答によってありうる結果をうまく見積もることを言いたかったのだと思われたが、出来事に照らし合わして後に彼は単なる人間が言うようなことではなく、神が神託で示すようなことを言ったと信じられるようになった。というのもラケダイモン人は強力な軍を持ったテバイ人と対陣して彼らに自由のための戦いを強制したために大きな災難に見舞われたからだ。彼らはまずレウクトラで敗れてそこで多くの市民兵を失ってクレオンブロトス王が倒れた。その後、マンティネイアで戦った時に彼らは完全に敗走させられて覇権を完膚なきまでに失った。幸運は一つの傾向を持っているのであり、あまりにも驕り高ぶる者がいれば予期せずして引きずりおろし、それによって過剰な望みを持たないことを教えるのである。いずれにせよアゲシラオスは賢明にも最初の成功で満足して軍を損なわなかった。
 この後アゲシラオスは軍を連れてペロポネソスへと戻り、一方テバイ人はカブリアスの将軍といしての才能によって守られた。戦争において多くの偉業を成し遂げていたものの、彼は軍略のこの一片を自慢に思い、人々に像を建てるのが至当と認められてその体勢の像を建てられるようにした。アゲシラオスの出発の後、テバイ軍はテスピアイに対する遠征を行って二〇〇人がいた前哨基地を破壊したが、市への連続攻撃をして何も語るに足ることを成し遂げられずにテバイへと撤兵した。ラケダイモン人で、テスピアイを守備をしていた大部隊を指揮していたフォイビダスは市から出撃して撤退するテバイ軍五〇〇人以上を軽率にも倒したが、一方で自らは勇戦して正面に多くの傷を受けた後に英雄的な死を遂げた。

ナクソスの海戦
34 この少し後(38)にラケダイモン人は再びテバイ人と前と同じ兵力で戦ったが、テバイ人は新たな障害物のある場所に陣取ることで敵全軍との平地での白兵戦に打って出ることなく敵が国を荒らすのを防いだ。アゲシラオスが攻撃のために前進したため、彼らは徐々に彼と戦うべく出てきた。長時間激しい戦いが戦われたが、後になってテバイ軍が市から全軍で出撃してくると、自分の方へと大軍が流れ出てきたのを見たアゲシラオスは戦場から撤退すべくラッパで兵を召集した。今や初めて自分たちがラケダイモン軍に不利でなくなったのを見て取ったテバイ人は戦勝記念碑を建て、それからは自信を持てスパルタ軍に立ち向かうようになった。
 陸軍の戦いについてのあらましは以上のようなものであった。海ではおよそ同時期にナクソス島とパロス島の間で以下のような原因によって大海戦が起こった。ラケダイモン人の提督ポリスは大量の穀物の積み荷を載せた輸送船がアテナイへと向かっていることを知ると輸送船を攻撃しようとし、港へと入る穀物輸送船団を待ち伏せた。アテナイ人はこれを知ると、輸送中の穀物を守るために護送船団を送り、ペイライエウスへと無事に向かわせた。その後、アテナイの提督カブリアスは全海軍を率いてナクソスへと航行してそこを包囲した。攻城兵器を城壁へと運んで城壁を揺るがし、彼は強襲によってその都市を落とすためにあらゆる手を使った。このことが起こっていると、ラケダイモン人の提督ポリスはナクソス人を救援するために港へと航行してきた。海戦において双方で激しい競争が起こり、双方は互いに戦列を組んで戦った(39)。ポリスは九五隻を、カブリアスは八三隻の三段櫂船を率いていた。艦隊が互いに近づいてくると、右翼を率いていたポリスは対陣するアテナイ人ケドンが率いていた左翼の三段櫂船を攻撃しようとした。勇戦した彼はケドンその人を殺して彼の船を沈めた。似たようにしてケドンの他の船と戦って舳先を向けて恐れさせ、彼は数隻を破壊して他を敗走させた。事の次第を知るとカブリアスは指揮下の船の一隊を派遣して圧迫されていた部隊を支援させて自軍を敗北から救い出した。彼は自ら艦隊のうちで最強の部隊を連れて勇戦して多くの三段櫂船を破壊し、多くの捕虜を得た。
35 かくして優位に立った彼であったが、全ての敵船を敗走させていたにもかかわらず完全な追撃を差し控えた。というのも彼はアルギヌサイの海戦とその際に人々の民会が勝利した将軍たちによって成し遂げられた偉業の見返りとして彼らが戦死者を埋葬しなかったとして彼らに死を宣告したことを思いだしたからだ。したがって彼はこの状況はそれと同じであったために自分が似たような運命を辿る危険に瀕していると恐怖した。したがって追撃を差し控えた彼は漂っていた同胞市民の遺体を集め、生存者を救出して死者を埋葬した。この作業をしていなければ彼は敵の全艦隊を容易く壊滅させていたことだろう。この戦いでアテナイ側では一八隻の三段櫂船が破壊され、ラケダイモン側では二四隻が破壊されて八隻が乗組員もろとも拿捕された。次いで素晴らしい勝利を得たカブリアスはペイライエウスへと戦利品を携えて戻り、熱狂的に同胞市民から迎え入れられた。これはペロポネソス戦争以来初めてアテナイ人が勝利した海戦であった。というのも彼らはクニドスの海戦では自分の艦隊で戦わず、王の艦隊を使って勝利していたからだ。
 それらのことが起こっていた間、イタリアではローマで僭主になろうという野心を持っていたマルクス・マンリウスが打ち負かされて殺された。

アブデラとトラキア人の戦争
36 カリサンドロスがアテナイでアルコンだった時(40)、ローマ人はセルウィウス・スルピキウス、ルキウス・パピリウス、ティトゥス・クィンクティウスの四人を執政官権限付軍務官に選出した(41)。そしてエリス人が一〇一回目のオリュンピア祭を開催し、トゥリオイのダモンがスタディオン走で優勝した。彼らの任期の間、トラキアではトリバロイ族が飢餓で苦しんだために全戦力で隣国の領地へと移動してその土地から彼らのものではない食料を得た。三〇〇〇〇人以上がトラキアの隣接領域に侵入してアブデラの領地を咎められることなく略奪した。大量の戦利品を分捕った後、彼らが軽蔑しながら無秩序に帰路につくと、アブデラの住民は全軍で彼らに向けて出撃して列を乱して帰っていた彼らのうち二〇〇〇人以上を殺した。そこで夷狄は起こったことに憤慨してアブデラ人への報復を望み、再び彼らの土地へと侵攻した。先の戦いでの勝者は勝利で得意になり、彼らを助けるために一部隊を送ってきた隣接地域のトラキア人の到来に助けられつつ戦列を夷狄に対して組んだ。激しい戦いが起こったが、トラキア人が突如寝返ったためにアブデラ軍は単独で戦う羽目に陥って数で勝る夷狄に包囲され、戦いに参加していた者のほとんどが殺戮された。しかしアブデラ人がかくも大きな災難に見舞われた後に包囲されると、アテナイ人カブリアスが突如兵を連れて現れて彼らを危機から救い出した。彼はその国から夷狄を撃退して市に相当数の守備隊を残し、自らは或る私人らに暗殺された(42)。ティモテオスが彼の後を襲って提督となり、ケファレニアへと航行してそこの諸都市を味方につけ、同様にアカルナニアもアテナイの側になびかせた。彼はモロシア人の王アルケタス〔一世〕の友人となった後にその地方の諸都市に属する地域をあらかた味方につけ、レウカスの海戦でラケダイモン軍を破った。これら全てのことを彼は迅速且つ容易に、そして雄弁によって人々を説得することによってだけでなく、勇気と将軍としての立派な能力でもって戦いで勝利することによっても成し遂げた。したがって彼は同胞市民のみならずギリシア人からも遍く大きな喝采を浴びた。ティモテオスの運命は以上のようなものであった。

ラケダイモンの覇権へのテバイ人による挑戦
37 それらの事が起こっていた間、テバイ人は五〇〇人の選り抜きの兵士でオルコメノス遠征を行い、記憶に値する作戦行動を行った。ラケダイモン人はオルコメノスに多くの守備隊を置き続けており、彼らがテバイ軍に向けて軍を向けたために会戦が起こり、テバイ軍は二倍の敵を攻撃してラケダイモン軍を破った(43)。このようなことはついぞ起こったことがなく、彼らは大軍で以って少数の軍を破ればそれで十分だと思われていた。その結果、テバイ人は驕って得意になって勇敢な評判を得て、明らかにギリシアの覇権を争う地位についた。
 歴史家のうちでメテュムネのヘルメイアスはこの年で一〇巻、あるいは幾人かが一二巻に分けているのシケリアの出来事の著述を終えた。
38 ヒッポダマスがアテナイでアルコンだった時(44)、ローマ人は四人の執政官権限付軍務官にルキウス・ウァレリウス、ルキウス・マンリウス、セルウィウス・スルピキウス、そしてルクレティウスを選出した(45)。彼らの任期の間にペルシア人の王アルタクセルクセスはエジプト人と戦争を目論んで相当規模の傭兵軍の組織に着手し、ギリシアで起こっている戦争を調停しようと決めた。彼はこのようにしてギリシア人が一旦内戦をやめれば、傭兵の仕事を受けようとするだろうと期待していたからだ。したがって彼はギリシアに使節を送って諸都市に協定による普遍平和を説いた。ギリシア人は絶え間ない度重なる戦争に厭いていたために彼の申し出を歓迎し、皆が全ての都市が独立して外国の守備隊から解放されるという条件で講和した。したがってギリシア人は市から市へと向かって全ての守備隊を立ち退かせる代表者を任命した。しかしテバイ人だけは和平の批准が市ごとになされるべきであるということに賛同せず、全てのボイオティア人はテバイ人の連邦に属するものとされるべきであると主張した。アテナイ人が最も喧嘩腰にこれに反対して民衆指導者カリストラトスが彼らなりの理由を述べると、一方でエパメイノンダスはテバイ人のために総会で最も上手く演説をした。その結果、和平条件は一致して他の全てのギリシア人で批准されたにもかかわらず、テバイ人だけが加わるのを拒んだ。個人的美点により、愛国心に訴えて同胞市民を鼓舞したエパメイノンダスの影響下で彼らは残りの全員の決定に反対するほどに大胆になった。絶えず覇権を争う競争者だったラケダイモン人とアテナイ人は、一方は陸に価値を置き、他方は海に価値を置いていたために今や互いに対して譲歩していた。その結果、彼らは第三の挑戦者が進める主導権の主張に悩まされてボイオティアの都市をテバイの連邦から切り離そうとしていた(46)
39 身体の頑健さと勇気に秀で、数々の戦いですでにラケダイモン人を打破していたテバイ人は得意になって陸での覇権を争おうと逸った。今や彼らは上記の理由のために、そして目下の時代のうちでより優れた指揮官と将軍を有していたために自らの希望を偽った。最も有名な将軍はペロピダス、ゴルギダス、そしてエパメイノンダスであった。なるほどエパメイノンダスは彼の同族、否全てのギリシア人からさえ勇気と戦争の技術における聡明さの面でずっと優っていた。彼は幅広い教養を身につけており、とりわけピュタゴラス哲学に関心を持っていた。これに加えて素晴らしい身体を持っていたために彼が非素晴らしい偉業に貢献したのは自然的なことであった。そこで非常に少数の市民兵でラケダイモン軍と彼らの同盟軍の全ての戦う羽目になった時でさえ、彼は今まで無敵だった戦士に対して優位に立ち、スパルタ王クレオンブロトスを殺して多数の敵をほぼ殲滅した(47)。これは機微さと彼が教育から得た精神修養のために予想を裏切って彼が成し遂げた、注目に値する偉業である。
 しかし、我々は幾分か後に専用の章でより完全にその事柄を説明することにし、目下は我々の話の筋道へと向かうことにしよう。

諸都市を襲った内戦
40 自治が様々な人々に承認された後、諸都市、とりわけペロポネソスの諸都市は大騒乱と内紛に陥った。寡頭政体を採っていたが、今や民主制がもたらす自由の取るに足らない利益を得るために彼らは罪をでっち上げて多くの良き市民を追放して告訴した。かくして内戦に陥ると彼らはとりわけスパルタの覇権の時に故郷の都市の指導者であった人たちの追放と財産没収を行った。実際その時に寡頭政府は正式な支配を同胞市民に及ぼしていたが、後になって民主派が待望の自由を復活させたのである。しかし、最初にフィアレイアの亡命者たちは軍を集めてヘライアと呼ばれる砦を取り戻した。そこから出撃して彼らはフィアレイアを襲い、そして同時にディオニュソスの祭が開催されていた時に出し抜けに劇場の見物人に襲いかかってその多くを殺し、少なからぬ者を彼らの暴挙に加担するよう説き伏せてスパルタへと撤退した。アルゴス人のところに住んでいた多数に上るコリントスからの亡命者は帰国を試みて親族と友人の一部から市に入ることを認められたものの、糾弾されて取り囲まれ、逮捕されれば捕虜にありがちな虐待を受けることになるだろうと恐れたために互いに差し違えた。コリントス人は攻撃をした亡命者を援助した多くの市民を告訴し、その一部を処刑してその他の者は追放した。再びメガラ人の都市では一部の人たちが政府を転覆させて民主制を打倒しようとすると、多くの人が殺されて少なからぬ人が亡命へと追いやられた。似たようにシキュオン人のうちでも革命を起こそうとしたが失敗した多くの人が殺された。フレイウス人のところでは追放された多くの人たち〔寡頭派〕がその国の砦を占拠して相当数の傭兵部隊を集めると、都市派〔民主派〕の人との戦いが起こって亡命者が勝利し、フレイウス人三〇〇人が殺された。後に見張りが亡命者側へと裏切ったためにフレイウス人は優位に立って六〇〇人以上の亡命者を処刑し、一方彼らは残りを国から追いだして彼らはアルゴスへと避難せざるを得なくなった。ペロポネソス諸都市が見舞われた災難は以上のようなものであった。

ペルシア軍のエジプト遠征
41 ソクラティデスがアテナイでアルコンだった時(48)、ローマ人は四人の執政官権限付軍務官にクイントゥス・セルウィリウス、セルウィウス・コルネリウス、そしてスプリウス・パピリウスを選出した(49)。彼らの任期の間、アルタクセルクセス王はペルシア人に反旗を翻したエジプト人に向けて遠征軍を送った。軍の指揮官のうち夷狄の部隊を率いたのがファルナバゾスで、二〇〇〇〇人の傭兵を率いたのがアテナイ人イフィクラテスであった。王から遠征を委ねられていたイフィクラテスはその軍事的手腕のために任命されていた。ファルナバゾスが準備に数年も費やしていると、イフィクラテスは彼は口ぶりでは小利口だが行動は鈍いことに気が付き、彼に向けてこれほど早く話す人が行動ではのろのろしていることに自分は驚いたとあからさまに言った。ファルナバゾスは、それは自分は自分の言葉の主ではあるが、王が彼の行動の主であるからだと言い返した。ペルシア軍がアケという都市に集結すると、軍はファルナバゾス指揮下の夷狄二〇万人とイフィクラテスに率いられたギリシア人傭兵二〇〇〇〇人になった。三段櫂船が三〇〇隻で三〇櫂船が二〇〇隻であった。食料とその他の物資の運搬者の数は膨大であった。夏の始めに王の将軍たちは全軍で陣を畳み、沿岸を航行する艦隊を伴ってエジプトへと進んだ。ナイル川の近くまで来ると彼らはエジプト軍が明らかに戦争準備を完了させていたのを見て取った。というのもファルナバゾスがゆっくりと進軍していたために敵に準備のための豊富な時間を与えてしまったからだ。実際のところペルシアの将軍というものは戦争の全般的な遂行において自律的な存在ではなく、全ての問題を王に問い合わせてあらゆる詳細な応答を待つことが彼らにとって当たり前の習慣であったのだ。
42 エジプト王ネクタネボスはペルシア軍の規模を知ったが、エジプトは非常に接近し難いところであり、第二に陸海からの全ての侵攻場所は用心深く封鎖されたという事実によって励まされた。ナイル川は七つの河口からエジプトの海に注いでおり、それぞれの河口には河畔沿いの大きな塔とその入り口を制する木製の橋を備えた都市が建設されていた。彼はとりわけシュリアから近づく相手と最初にぶつかり、敵の通り道の最有力候補であったペルシオン河口を要塞化した。彼はここに繋がる運河を掘り、船の最も入りやすい入り口を要塞化し、陸の通り道を水浸しにし、一方で海からの接近路を堤防で封鎖した。したがってそう簡単にそこへは船で入れなくなり、あるいは騎兵は近づけなくなり、歩兵は通れなくなった。ファルナバゾスのある幹部はペルシオン河口がこのように要塞化されて大量の兵士によって守られているのに気付くと、そこへと強行突入する計画を完全に捨てて他の河口から船で攻め込むことに決めた。したがって開けた海を航行したために艦隊は敵に気付かれることなくかなり広い浜が広がっているメンデスとして知れられる河口から入り込んだ。そこに三〇〇〇人の兵と共に上陸すると、ファルナバゾスとイフィクラテスは河口にあった城壁のある砦へと殺到した。エジプト軍が歩騎三〇〇〇人で出撃して激しい戦いが起こったが、船から多くの兵士がやってきてペルシア軍はその数を増し、エジプト軍は最終的に包囲されて多くの兵士が殺されて少なからぬ兵士が生け捕りにされた。残りは市内へと乱雑に入った。イフィクラテスの兵が城壁内の守備兵と共に突入して砦を落として破壊し、住民を奴隷にした。
43 この後、計画の失敗に起因する指揮官間の仲違いが起こった。イフィクラテスはエジプトの諸都市のうちで最も重要な戦略上の要地であったメンフィスが無防備であることを捕虜から知ると、エジプト軍がそこに到着する前にすぐにメンフィスへと航行することを勧めたが、ファルナバゾスはペルシア軍の全軍〔の到着〕を待つべきだと考えていた。それはこうすればメンフィスへの遠征は危険を抑えられるためであった。イフィクラテスが自分に手持ちの傭兵を与えるよう求めて自分がその都市を占領してみせると約束すると、ファルナバゾスは彼がエジプトを自分のものにするのではないかと恐れ、彼の大胆さと勇気を猜疑した。したがってファルナバゾスが譲歩しないでいると、イフィクラテスはもし彼らがこの機を逸すれば、遠征全体が失敗に終わるだろうと抗弁した。数人の将軍たちは実際のところ彼に対して恨みを持っていて彼に無実の罪を被せようと画策していた。一方エジプト軍は立ち直る時間をたっぷりと得たため、まずメンフィスへと十分な守備隊を送り、次いで全軍でナイル川のメンデス河口の破壊された砦へと向かって強力な位置を占めることで非常に優位に立ち、敵と絶えず戦った。変えず増える軍勢によって彼らは多くのペルシア兵を殺して自信を得た。この砦をめぐる遠征がだらだら続いたため、エテシアの風(50)がすでに吹き始め、大量の水で満ちて全域を水浸しにしたナイル川のおかげでエジプトはより安全になった。ペルシアの指揮官たちは彼らを絶えず不利にするこの状況のためにエジプトからの撤退を決定した。したがってアジアへの途上でファルナバゾスとの中が悪化すると、イフィクラテスは自分が逮捕されてコノンのように処刑されるのではないかと疑い、密かに野営地から逃げ出そうと決めた。かくして船を確保した彼は夜に密かに出発してアテナイの港に到着した。ファルナバゾスはアテナイに使節団を送ってエジプトを占領し損なったのはイフィクラテスのせいであるとして彼を弾劾した。しかしアテナイ人はペルシア人にもし自分たちが彼が間違ったことをしたと発覚させたならば彼にはしかるべき罰を与えると応答し、その直後速やかにイフィクラテスを艦隊を指揮する将軍に任命した。

イフィクラテスによる武装の改良
44 私がイフィクラテスの際だった性格について知ったことを示すのは場違いなことではあるまい。というのも彼は諸事において巧みであり、あらゆる種類の有用な創意工夫における例外的な天賦の才を持っていたと記録されているからだ。それ故にペルシアの戦争での長い軍事行動の経験を得た後に彼は戦争の道具に多くの改良によって工夫を凝らし、とりわけ武器の改善に専心したと言われている。例えば、ギリシア人は大きくてそのために扱い難い盾を使っていたが、彼はそれを捨てて丁度よい大きさの小さい楕円形の盾を作り、これによって体を十分覆いつつも小さな盾を使用う者はその軽さのために完全に自由に動くという双方の目的で成功を収めた。新たな盾の取り組みの後、その簡単な操作は採用され、以前は〔ホプロンという名の〕重い盾の故にホプリタイと呼ばれていた歩兵は今度は彼らの持つ軽いペルタ〔という名の盾〕の故にペルタスタイと呼ばれた。標準的な槍と剣については彼は逆の方向に変化をもたらした。つまり、彼は槍の長さを半分の長さだけ伸ばし、剣の大きさをほとんど二倍にした。それらの武器の実際の使用は初期の試験を裏付け、その実験での成功からこの将軍の創意工夫の才への大きな名誉をもたらした。彼は兵士の靴を脱ぎやすく軽くし、それらは今日に至るまで彼にちなんでイフィクラティダスと呼ばれている。また彼は戦争へと多くの有用な改良を導入したが、それらについて述べるのは退屈なことであろう。かくしてペルシア人のエジプト遠征はその実に大きな準備にも関わらず期待を裏切って最終的な失敗を証明したのであった。

諸都市の内戦と大国によるそれらへの介入
45 望まぬ政体のためにギリシア中の諸都市が混乱に陥り、全くの無政府状態の真っ直中で多くの暴動が起こった。ラケダイモン人は寡頭制を打ち立てようとした人たちを援助し、その一方でアテナイ人は民主制に固執していた党派を支援していた。両国は短期の休戦状態にあったが、提携した都市と共に活動し、もはや同意されていた普遍平和条約を顧慮することなく戦争を再開した。かくしてザキュントスでは大衆派がラケダイモン人支配の間政権を牛耳っていた人たちに対して憤慨してその全員を追放し……(51)。そのザキュントス人たちは艦隊指揮の任にあったアテナイ人ティモテオスのところへと逃げ込み、彼の海軍に加わって共に戦った。したがって彼らは彼を同盟者とし、その島へと彼によって運ばれて海に面したアルカディアと彼らが呼ぶ砦を奪取した。ここを基地としつつティモテオスの支援を受けて彼らは市内の人たちに被害を与えた。ザキュントス人がラケダイモン人に助けを求めると、後者はまずアテナイにティモテオスを弾劾する使節を送った。しかし、アテナイの人々が追放者を支持しているのを悟ると彼らは艦隊を組織し、二五隻の三段櫂船に人員を乗せてアリストクラテスに指揮権を与えてザキュントスへと送った。
46 それらのことが起こっていた一方でコルキュラのラケダイモン派が民主政府に反乱を起こし、コルキュラを裏切って引き渡すと約束してスパルタ人に艦隊を派遣するよう求めた。ラケダイモン人はコルキュラが海軍大国への野望を抱いていることの非常な重要性に気付き、この市を手中に収めようと逸った。かくして彼らはすぐにアルケタスに指揮権を与えて二二隻の三段櫂船をコルキュラに急派した。コルキュラ人に友人として受け入れられ、そして亡命者の援助によって市を占領するために彼らはこの遠征軍はシケリアへと送られたと見せかけた。しかしコルキュラ人はスパルタ人の計画を悟ると、市を厳重に警戒してアテナイ人に助けを求める使節を送った。アテナイ人はコルキュラ人とザキュントス人の追放者を助けることを票決し、ザキュントスにクテシクレスを追放者を指揮する将軍として送り、コルキュラへ海軍を派遣する準備をした。
 それらのことが起こっていた一方で、ボイオティアのプラタイア人がアテナイ人との同盟に固執していたためにアテナイ人に自分たちの都市を引き渡そうと決定して兵士を求める手紙を送った。これを受けてボイオタルコスたちはプラタイア人に憤慨し、アテナイからの同盟軍を予想するとすぐにプラタイアへと大軍を差し向けた。攻撃が予期せぬものであったために彼らはプラタイアの近隣に到達し、そのために多くのプラタイア人が畑で捕らえられて敵兵によって連れて行かれ、一方市まで逃げた残りの者は同盟軍を頼ることができないために敵との協定に同意せざるを得なくなった。つまり彼らは動産を持って市から退去し、今後一切ボイオティアの土を踏まないよう強制された。その上でテバイ人はプラタイアを完全に破壊し、彼らと反目していたテスピアイも似たようにして略奪した。プラタイア人は妻子と共にアテナイへと逃げ、アテナイの人々への支持の証のために〔生粋のアテナイ市民と〕同等の市民権を与えられた。
 ボイオティアの情勢は以上のようなものであった。
47 ラケダイモン人はムナシッポスを将軍に任命して六五隻の三段櫂船と共にコルキュラへと向かうよう命じ、彼の軍が一五〇〇人の兵士から編成された(52)。島に来ると彼は追放者たちを拾って港へと航行して四隻の船を分捕り、岸まで逃げた残りの三隻はコルキュラ人によって敵の手に落ちないようにするために焼き払われた。また彼は歩兵部隊によって或る丘に陣取っていた陸上部隊を破り、概して言うならばコルキュラ人を恐怖のどん底に陥れた。アテナイ人は予めコノンの息子ティモテオスを六〇隻の船と共にコルキュラ救援のために派遣していた。しかし彼は友好国に介入する前にトラキア地方へと航行していった。そこで彼は多くの都市を同盟加入へと引き入れ、三〇隻の三段櫂船を自らの艦隊に加えた。このことで彼はコルキュラへの救援にあまりにも遅れてしまい、まず人気を喪失し、その結果として指揮権を剥奪された。しかしその後、彼がアテナイとの盟約をすでに締結していた諸国からの大人数の使節を連れ、三〇隻の船を艦隊に加えて全艦隊を戦争のために準備万端にした状態でアテナイへとアッティカ沿岸沿いに航行してくると、人々は後悔して指揮に復職させた。その上で彼らは追加で四〇隻の三段櫂船を艤装したため、彼は合計一三〇隻を有することになった。彼らは食料の潤沢な蓄え、攻城兵器、そしてその他戦争に必要な物資も提供した。差し迫った危機に対応すべく彼らはクテシクレスを将軍に選出して五〇〇人の兵士と共に彼をコルキュラ人を援助するために送った。市の住民が相互の内戦状態にあって軍事的手段を悪用しているのを見て取ると、彼は争いを調停して市の事柄に熱心に取り組んで籠城軍を励ました。彼は手始めに籠城軍に奇襲をかけておよそ二〇〇人を殺し、その後の大規模な戦いでムナシッポスと他の少なからぬ者を殺した。最終的に彼は包囲軍を包囲して大幅な同意を得た。コルキュラで起こった戦争はアテナイ艦隊が将軍ティモテオスとイフィクラテスと供にやってきた時に実質的に集結した。彼らは決定的な瞬間に遅れて到着したために何ら語るに足ることを成し遂げず、ディオニュシオスがキッシデスとクリニッポスの指揮下で彼らの同盟者であったラケダイモン軍を援助するために送っていた数隻のシケリアの三段櫂船を襲って全部で九隻の船を乗組員もろとも拿捕した。捕虜を戦利品として売り払うことで彼らは六〇タラントン以上を集め、それを使って軍に給与を払った。
 それらの出来事が起こっていた一方で、キュプロスでは宦官ニコクレスがエウアゴラス〔一世〕王を暗殺してサラミス人への王権を我が物とした。イタリアではローマ人がプラエネステ人と戦って彼らを破り、敵のほとんど全員を殺した。

ペロポネソス半島を襲った地震と津波
48 アステイオスがアテナイでアルコンだった時(53)、ローマ人は六人の執政官権限付軍務官にマルクス・フリウス、ルキウス・フリウス、アウルス・ポストゥミウス、ルキウス・ルクレティウス、マルクス・ファビウス、そしてルキウス・ポストゥミウスを選出した(54)。彼らの任期の間にペロポネソスで古の言い伝えにもあるような開けた土地と諸都市を飲み込んだ津波を伴った大地震が起こった。これほどの災害がギリシアの都市を襲ったことはこれ以前にはなく、破壊をもたらし人類を破滅させる何らかの神の力の結果、全ての都市が住民もろとも消え去った。破壊の範囲はその事件の時までに増した。地震は日中には起こらずに被災者は自衛することができず、その打撃が夜に到来したために家々はその衝撃で倒壊し、人々は暗闇と驚愕、そしてその出来事による困惑のために生命を守るための力をなくした。大部分の人は倒壊した家の下敷きになって壊滅したが、日が明けると生き残りは破滅で打ちひしがれ、彼らは自分たちが危険を免れたと考えたが、より大きくさらに信じ難い危機に見舞われた。海は非常に荒ぶり、非常に高い波は全ての住民並びにその故郷を押し流して溺死させた。この災害の矢面に立ったアカイアの二つの都市はヘリケとブラであり、前者は地震の前にはアカイアの都市のうちで第一の地位を占めていた。その災害は多くの議論の的となった。自然学者たちは神の理ではなく必然的な原因により決定された何かしらの自然現象にその責任を求め、一方で神の権能を尊敬していた人々はその災害は冒神行為に荷担した人々への神々の怒りによって起こったのだと主張し、その事件に都合のいい理由を帰した。この問題について私は私の歴史書のそれ専用の章の中で詳細に扱うつもりである。
49 イオニアの九都市は非常に古い時代にはポセイドンのために大量の供物をミュカレと呼ばれる地の近くだけで捧げるという習慣を持っていた。しかし後になってこの近隣での戦争の勃発の結果、彼らはそこを全イオニアの手にとどめることができなくなったため、エフェソスの近くの安全な場所へと祝祭地を移転した。デルフォイへと使節を送った彼らは、ヘリケにある以前はイオニアにあったが今ではアカイアとして知られているところにある古の先祖の祭壇の複製を運べと述べる神託を受けた。そこでイオニア人は神託に従ってアカイアへと複製を作るために人を送り、アカイア人の民会の前で話して頼みを聞いてくれるよう説き伏せた。しかし、イオニア人がポセイドンの祭壇に犠牲を捧げる時には危機が降り懸かるだろうという言い伝えがあったヘリケの住民は神託を考慮しつつ、聖域はアカイア人共通の財産ではなく、彼らだけのものであると言って複製の問題についてイオニア人に反論した。ブラの住民もまたこの件については彼らの側に立った。しかしアカイア人は共同布告でもって〔イオニア人の要求に〕賛同し、イオニア人は神託が指示した通りにポセイドンの祭壇に犠牲を捧げたが、ヘリケの人々はイオニア人の神聖な財物をばらまいて代表者の身柄を拘束し、冒涜行為を行った。彼らの言うところではこれらの行いがポセイドンをして怒らせ、破戒都市に地震と洪水によって破滅をもたらさせた理由であった。明らかな証拠を持っていると主張していた都市にポセイドンの怒りは向けられた。まずこの神が地震と洪水の主であり、またペロポネソスがポセイドンの住まいであったという古の信念がはっきりと理解された。この地方はある意味ではポセイドンに捧げられたと考えられており、概して言うならばペロポネソスの全ての都市は他のどの不死なる者(55)よりもこの神に敬意を払っていたのである。その上、ペロポネソスの下には水に面した大きな洞窟があり、その地下には水が流れていた。現にペロポネソスには明らかに地下を通る二つの川があり、事実フェネオスの近くにあるそのうちの一つは地面の下へと吸い込まれていて、より前の時代には完全に消えて地下の洞窟に吸い込まれており、他方の川はステュンファロスの近くにあり、それは亀裂へと吸い込まれてその二〇〇スタディオンが地面に隠れ、そしてアルゴス人の都市へと注いでいる(56)。それらの記述に加えて敬虔な人はさらに冒涜行為をした人を除けば誰も災厄では死なないとも言っている。起こった地震と洪水に関して我々は以上で述べたことで満足すべきであろう。

「燃える輝き」と名づけられた隕石、ラケダイモンとテバイの反目
50 アルキステネスがアテナイでアルコンだった時(57)、ローマ人は八人の執政官権限付軍務官にルキウスとプブリウス・ウァレリウス、ガイウス・テレンティウス、ルキウス・メネニウス、ガイウス・スルピキウス、ティトゥス・パピリウス、そしてルキウス・アエミリウスを選出し(58)、エリス人が一〇二回目のオリュンピア祭を開催してトゥリオイのダモンがスタディオン走で優勝した。彼らの任期の間、ラケダイモン人がギリシアの覇権をほとんど五〇〇年の間握った後、神意の兆候が彼らの帝国の喪失を予告した。というのも、何日もの夜の間にその鋭さから「燃える輝き」と名づけられた眩い大きな明かりが天に見られ、その少し後に、全ての人が驚いたことであるが、スパルタ人は大会戦で敗北を喫して取り返しのつかない覇権の喪失を経験したからだ。自然学の徒のある人たちはその明かりの出所を自然的な原因に帰し、そのような現象は定められた時間に必然的に起こるものであり、そのような問題に関してバビュロンのカルデア人とその他の占星術師たちは正確な預言をするのに成功しているという意見を述べている。彼らの言うところでは、そのような人たちはこういった現象が起こることには驚かず、各々の特定の星位は特別な円環をなし、それらは決まった軌道で長年の運動を通して完全な円を形成しているためにむしろそのようにならないはずがないと言っている。いずれにせよこの明かりが輝いたと彼らは記録し、その光は月が投げかける影に相当類似した影を投げかけるほどの強さであった。
 この時にペルシア王アルタクセルクセスはギリシア人が再び混乱の極みにあったであろうことを見て取ると、使節を送り、ギリシア人の共倒れの戦争を解決して彼らが前にした盟約〔アンタルキダスの和約〕に従って普遍平和を樹立するように呼びかけた。全てのギリシア人はこの提案を喜んで受け入れ、テバイ以外の全ての都市は普遍平和に賛成した。というのも単一の連邦の下にボイオティアを置いていたたテバイだけが都市ごとに宣誓をして協定を結ぶという全般的な決定に関してギリシア人に賛成しなかったからだ。かくしてかねてからの協定から外れ続けたため、テバイ人はボイオティアを彼らに従属する単一の連邦の下に置き続けた。ラケダイモン人はこれに憤慨して彼らを共通の敵として大軍を送ることを決定した。それというのもラケダイモン人はテバイ人の勢力増大に過度の嫉妬の眼差しを向けていて全ボイオティアの主導権によって彼らがスパルタの覇権を打倒するのではないかと恐れており、ここで好機を得た形になったからだ。というのもテバイ人は絶えず鍛錬をして非常に強靭な肉体を持ち、戦争を愛する自然的な性向を持っていたため、勇敢な行いに関してはどのギリシアの国にも劣らなかった。彼らは徳性においてずば抜けた指導者たちをも有しており、そのうちで最も偉大な三人はエパメイノンダス、ゴルギダス、そしてペロピダスであった。英雄時代の先祖の栄光でテバイ人の都市は誇りで満ち、力強い行動への大志を抱いた。そしてこの年にラケダイモン人は戦争の準備をして自国の市民と同盟諸国から軍を召集した。

レウクトラの戦い
51 フラシクレイデスがアテナイでアルコンだった時(59)、ローマ人はプブリウス・マニウス、ガイウス・エレヌキウス、ガイウス・セクストゥス、ティベリウス・ユリウス、ルキウス・ラウィニウス、プブリウス・トリボニウス、そしてガイウス・マンリウスをルキウス・アンテスティウスと共に八人の執政官権限付軍務官を選出した(60)。彼らの任期の間にテバイ人は講和条約に参加しなかったために単独でラケダイモン人と戦う羽目になった。それというのも全ての都市が普遍講和に賛同していたために法的に彼らに味方する都市はなかったからだ。ラケダイモン人はテバイ人が孤立したために彼らと戦って完全に隷属させようと決定した。そしてラケダイモン人は憚ることなく準備をし、テバイ人は同盟者に事欠いたため、誰もが彼らは易々とスパルタ人に負けるだろうと思った。したがってテバイ人に友好的だったギリシア人は敗北の見込みから彼らに同情し、一方彼らと不仲だった他の者はテバイ人はたちどころに完全な隷属状態に置かれることになるだろうと考えて狂喜した。最終的にラケダイモン人は大軍を準備して彼らの王クレオンブロトスにその指揮権を与え、手始めにテバイ人へと使節を送ってテバイ人にボイオティア諸都市の独立を認め、プラタイアとテスピアイの人々には以前彼らのものだった土地を返すよう命じた。自分たちはラコニアの問題には干渉しておらず、スパルタ人はボイオティアの問題に口を出す権利はないという趣旨の応答をテバイ人が寄越すと、ラケダイモン人はクレオンブロトスにすぐにテバイへと軍を向けるよう手紙を送った。そしてスパルタの同盟者たちは戦いは起こらずに一戦もせずにボイオティアの主になれるだろうと期待して戦争に熱意を燃やした。
52 したがってスパルタ軍はコロネイアに着くまで進軍し、そこに野営して同盟軍をぐずぐずと待った。テバイ人は敵の到来を知ると最初に妻子をアテナイへと疎開させることを票決し、次いでエパメイノンダスを将軍に選んで戦争の指揮権を委ね、六人のボイオタルコスを彼の相談役とした。エパメイノンダスは戦いのために軍務に耐える全テバイ人とその意があって適切な他のボイオティア人を徴兵し、テバイから全部で六〇〇〇人を上回ることのない軍を率いて向った。兵士たちが市から進軍していると軍に多くの不吉な前兆が現れた。門あたりでエパメイノンダスは逃亡奴隷を通常のように取り戻そうとしている盲目の伝令と会い、彼はテバイから彼らを連れ出さずに家に帰して安全を保つべきだという警告を叫んだ。この時、伝令の言ったことを聞いた人の中の老人たちはそれは未来のことについての兆しだと考えたが、若者たちはエパメイノンダスが臆病風に吹かれて遠征を控えるだろうとは夢にも思っていなかった。そこでその兆しを気にすべきだと言った人にエパメイノンダスは答えた。
国土のために戦うことが唯一最良の兆しである。
 エパメイノンダスが慎重な人たちを単刀直入な答えで驚かせたにもかかわらず、二つ目の兆しは一つ目のものよりもより好ましからぬものであるようだった。神官が飾り紐のついた槍を持って進み出て、司令部から命令の信号が発せらせるとそよ風が吹き、飾り紐が槍から外れてその上に墓が立っていた死体置き場を覆った。この場所にはアゲシラオスの遠征で死んだラケダイモン人とペロポネソス人が葬られていた。老人の一部は神々の明白な反対に直面しての出征に反対する機会を再び得たが、エパメイノンダスは彼らに応えず、高貴さの顧慮と正義への配慮でもって彼は問題になっている兆しは原動力として見なされるべきだと考えて軍を率いて出撃した。したがって哲学の鍛練を積んでその鍛錬の原則を賢明にも応用していたエパメイノンダスはその時には広く批判されたが、後になって彼の成功の光の下で軍事的な抜け目なさで卓越し、国に最大の利益をもたらしたと考えられた。すぐに彼は軍を率いて出撃し、コロネイアの峠を先んじて占領し、そこで野営した。
53 敵が先んじて峠を占領したのを聞いたクレオンブロトスはその道を無理に通るまいと決め、代わりにフォキスを通って進み、困難な沿岸の道を通ると彼は危険を冒すことなくボイオティアに入った。途上彼はいくつかの要塞を落として一〇隻の三段櫂船を拿捕した。その後彼らがレウクトラと呼ばれる場所に着くと、彼はそこに野営し、兵士たちに進軍の後に武器を置くことを許した。ボイオティア軍は進軍して敵に近づくと、いくつかの峰を超えた後にレウクトラの平野を覆っていたラケダイモン軍の前に突如姿を現し、目に入った敵の大軍に仰天した。ボイオタルコスたちが留まって何倍もの軍勢と戦うべきか、撤退して地の利を占めて戦うべきかを決めるべく相談すると、将軍たちの票は真っ二つに割れた。六人のボイオタルコスのうち三人が軍を引くべきだと考え、エパメイノンダスを含む三人が留まって戦うべきだと考えた。この大きく当惑するような行き詰まりにあって或るボイオタルコスが票を入れる段になると、エパメイノンダスは彼を自分の側に票を入れるよう説き伏せてその日にそうさせた。かくして全軍をあげて戦いに打って出るという決定が承認された。しかし起こった兆しのために兵士たちが疑心暗鬼になっているのを見て取ったエパメイノンダスは自らの創意と計略で兵士たちの躊躇を逆転させようと望んだ。かくして多くの兵士がテバイから到着したばかりのところで彼は彼らにヘラクレスの神殿の武器が不思議なことに消えてしまったと言うよう説得し、テバイで古の英雄たちがそれらを取ってボイオティア人を助けるために持ち出したという噂が広まった。彼はトロフォニオスの洞窟(61)から最近上ってきた男としてもう一人の兵士を彼らの前に出し、彼はレウクトラで勝利した暁には王たるゼウスの栄誉の冠が報償として得られると神が命じたと言った。これがボイオティア人が今レバデイアで催しているこの祭の起源である。
54 この計略の助力者で支持者はラケダイモン人によって追放され、その時はテバイの遠征軍の一員だったスパルタ人レアンドリアスであった。彼は集会に招かれると、スパルタ人には古くからレウクトラでテバイ人に敗れた時に覇権を失うだろうという言い伝えがあると明言した。似たように或る土着の触れ役がエパメイノンダスのところまで来て、ラケダイモン人はレウクトロスとスケダソスの娘たちの墓のために以下のような理由で大きな災難に見舞われる運命なのだと言った。レウクトロスはこの平地の名の由来となった私人であった。処女であった彼の娘とスケダソスの娘はあるラケダイモン人の使節団に犯された。娘たちは憤慨して自分たちの不幸に耐えることができず、強姦者らを送った国を呪って自ら命を絶った。他にも多くの出来事が報告されており、エパメイノンダスが集会を召集して適切な請願によって目下の問題に対処するよう兵士たちに強く求めると、彼らは決心して迷信から逃れ、勇気を持って戦いの準備をした。またこの時にイアソン率いるテッサリアからの同盟軍の増援歩兵一五〇〇人と騎兵五〇〇騎がテバイ軍にやってきた。彼はボイオティア軍とラケダイモン軍双方に休戦して運命の女神の移り気から身を守るよう説得した。停戦条約が発効されてクレオンブロトスがボイオティアから軍と共に去った時、アゲシラオスの息子アルキダモス率いるラケダイモン人とその同盟者のもう一つの大軍がそこへとやってきた。スパルタ人はボイオティア人の準備不足を見て取ると戦いで大胆で向こう見ずになっていたため、敵の果敢さを優位な兵力で打ちひしぐために二つ目の軍を派遣したのだ。一旦軍が合体すると、ラケダイモン人はボイオティア人の勇気を恐れるのは臆病なことだと考えた。かくして彼らは停戦を省みずに意気揚々とレウクトラへと戻った。ボイオティア軍もまた戦いの準備をして双方は軍を整列させた。
55 今やラケダイモン側ではヘラクレスの子孫たち、つまりクレオンブロトス王とアゲシラオス王の息子アルキダモスが両翼の指揮官として陣取り、一方ボイオティア側ではエパメイノンダスが珍しい配置をして自らの戦略によって名高い勝利を成し遂げることになった。彼は全軍から最も勇敢な兵士を選んで一方の翼〔左翼〕に置き、彼らを使って決着をつけようとした。最も弱い兵士を彼は他方の翼〔右翼〕に置き、戦いを避けて敵の攻撃に際しては徐々に後退するよう指示した。次いでファランクスを斜めの陣形に調整することで彼は選り抜きの翼によって戦いの決着を付けようと計画した。双方でラッパ手が攻撃の合図を出して軍がまず同時に鬨の声を上げると、ラケダイモン軍は半月状の陣形のファランクスでもって両翼に攻撃をかけ、一方ボイオティア軍は一方の翼では後退したが、他方の翼では大急ぎで敵と戦った。彼らが白兵戦に入ると、当初双方は激しく戦い、戦いは互角だった。しかしすぐにエパメイノンダスの兵士が勇気と戦列の密度のために優位に立ち、多くのペロポネソス兵が倒れた。というのも彼らは選り抜きの部隊の勇戦の重みに耐えることができず、全員が正面から打撃を受けたために抵抗した者のうち一部は倒れて他は負傷したからだ。ラケダイモン人のクレオンブロトス王は生きていている限り彼を守るために死ぬことを厭わない武器を持った多くの仲間に囲まれており、勝利がどちらに傾いているのかは確実ではなかった。しかし危険に尻込みしていなかったにもかかわらず彼は敵を打ちひしぐことができないことを示すことになり、多くの傷を受けた後、英雄的な抗戦の中で死に、彼の死体めがけて多くの兵士が殺到したために死体の山が築かれた。
56 翼の指揮官がいなくなってエパメイノンダスに率いられた分厚い縦隊がラケダイモン軍を圧迫すると、まず敵の戦列はその薄さのために幾分か歪んだ。しかし、ラケダイモン軍は王をめぐって勇敢に戦って遺体を奪取したが、勝利を得るだけの力はなかった。選り抜きの部隊が勇戦によって彼らを圧倒すると、エパメイノンダスの勇気と激励は大いにその武勇に寄与し、ラケダイモン軍は非常な苦境に陥って退却を強いられた。当初、彼らは隊列を崩すことなく後退していたが、最終的には多くの者が倒れて彼らを激励していた指揮官は死に、軍は背を向けて完全に敗走した。エパメイノンダスの部隊は逃亡兵を追撃して多くの敵を殺し、最も光栄ある勝利を得た。彼は寡兵でもってギリシア最大の勇者と戦って奇跡的に何倍もの敵を打ち破り、勇敢さで非常な名声を得た。最高の賛美が将軍エパメイノンダスに寄せられ、彼は主として自らの勇気と指揮官としての賢明さによってギリシア無敵の覇者を戦いで破ったのだ。四〇〇〇人以上のラケダイモン人が戦死したが、ボイオティア人は三〇〇人しか戦死者を出さなかった。その戦いの後に彼らは戦死者の遺体を引き渡し、ラケダイモン軍はペロポネソス半島へと去るという講和条約を結んだ。
 レウクトラの戦いに関連する出来事の結果は以上のようなものであった。

フェライの勢力拡大と各地での紛争
57 この年が終わった時(62)、アテナイではデュスニケトスがアルコンであり、ローマでは執政官権限付軍務官にクイントゥス・セルウィリウス、ルキウス・フリウス、ガイウス・リキニウス、そしてプブリウス・コエリウスの四人が選出された(63)。彼らの任期の間にテバイ人はオルコメノスを隷属化しようとしてその市に向けて大軍を出撃させたが、エパメイノンダスは彼らにギリシアに覇を唱えんとする者は寛大な扱いでもって勇気で獲得したものを守るべきであると忠告し、彼らは心変わりした。したがって彼らはオルコメノスの人々に彼らの同盟者として傘下に入るよう言って後にフォキス人、アイトリア人、そしてロクリス人を友人とすることで再びボイオティアに戻った。勢力を絶えず増大させていたフェライの僭主イアソンはロクリスに攻め込んでまずトラキニアのヘラクレイアを裏切りによって落として荒し尽くし、オイタイア人とマリス人にその土地を与え、次いでペライビアへと向かい、気前の良い約束によって一部の都市を味方につけ、他は力づくで服属させた。彼の影響力ある地位が速やかに樹立されると、テッサリアの住民は彼の拡大と侵犯を疑いの目で見るようになった。
 これらのことが起こっていた一方で、アルゴス市ではギリシアの他の場所で記録されたものよりも大きな殺戮を伴った内戦が起こった。ギリシアでこはの革命の動きは暴力支配と呼ばれ、この名称は処刑の仕方のためについたものであった。
58 さて、争いは以下のような原因から生じた。アルゴス市は民主政体であり、或る民衆指導者らが財産と名声で群を抜いていた市民と敵対するよう大衆を扇動した。そこで敵意ある非難の犠牲者たちは集まって民主政の転覆を決意した。関わりを持ったと思われた者が拷問にかけられると他の全員が拷問の痛みを恐れて自殺に及んだが、一人は拷問の際に取引をして免除の特権を受け、触れ役が最も優れた三〇人を宣言すると、民主政府は徹底的な調査をすることなく告訴された全員を処刑して財産を没収した。しかし他にも多くの者が疑われ、民衆指導者らが誤った告訴内容を支持して群衆は人数が多く、富裕だった被告の全員を処刑するという蛮行に及ぶほどに取り乱した。しかし一二〇〇人以上の影響力ある人たちを排除し終わると、大衆は民衆指導者自身も容赦しなかった。惨事の大きさのために民衆指導者たちは何か運命の予期せぬ変転が自分たちの身に降り懸かるのではないかと恐れて告発を止め、一方の大衆はそこで自分たちが彼らから見捨てられていると考えるに至り、これに憤慨して民衆指導者の全員を処刑した。そのようにしてその人たちはあたかも神々が彼らに正当な怒りを覚えたかのように罪に相応しい罰を受け、人々は気の触れたような憤激を収めて我に返った。
59 およそ同時期にテゲアのリュコメデスはアルカディア人に対し、和戦の決定権を与えられた一〇〇〇〇人から成る総会を備えた単一の連邦を結成するよう説得した。しかしアルカディアで大規模な内戦が勃発してその党派抗争は武力で決着が付けられたため、多くの人が殺されて一四〇〇人以上がある者はスパルタへ、他の者はパランティオンへと逃げ去った。後者の難民たちはパランティオン人に引き渡されて勝利した党派によって殺戮され、一方スパルタへ避難した人たちはアルカディアへと攻め込むようラケダイモン人を説得した。したがってアゲシラオス王が軍と亡命者の部隊と共に反乱と追放の原因だと信じられていたテゲア人の領地へと攻め込んだ。田園地帯の略奪と市への攻撃によって彼は敵対党派のアルカディア人を脅かした。

諸国での代替わり
60 それらの事柄が起こっていた一方でフェライの僭主イアソンは将軍としての抜け目なさと多くの隣国の同盟への誘引の成功のためにテッサリア人にギリシアに覇を唱えようと説得した。というのも覇権というものはこれを競う力を持つ者にとっては勇気への一種の報償であったからだ。今やラケダイモン人はレウクトラで大災厄を被り、アテナイ人は海の主であることしか主張しておらず、テバイ人は第一の地位には相応しくなく、アルゴス人は内戦と共倒れの殺戮で零落していた。かくしてテッサリア人はイアソンを全国の指導者とし、戦争の最高指揮権を与えた(64)。イアソンは指揮権を受け取り、周辺の諸部族を味方につけてマケドニア人の王アミュンタス〔三世〕と同盟を結んだ。
 およそ同時に権力の座にあった三人の人が死ぬという奇妙な偶然の一致がこの年に起こった。アリダイオスの息子でマケドニア王であったアミュンタスはアレクサンドロス〔二世〕、ペルディッカス〔三世〕、そしてフィリッポス〔二世〕という三人の息子を残して二四年間の統治の後に死んだ。息子のアレクサンドロスが王位を継承して一年間統治した。似たようにしてラケダイモン人の王アゲシポリス〔二世〕が一年間の統治の後に死に、王権は弟のクレオメネス〔二世〕が継承して三四年間統治した。第三に、テッサリアの支配者に選ばれて穏健に臣下を統治して名声を得ていたフェライのイアソンがエフォロスの書くところでは名声を得るために陰謀を企んだ七人の若者によって、あるいは幾人かの歴史家の言うところでは弟のポリュドロスによって暗殺された。このポリュドロスその人もまた指導者の地位を襲った後に一年間統治した。歴史家のサモスのドゥリスは彼のギリシア人についての歴史書をこの地点から始めた。
 この年の出来事は以上のようなものであった。

テッサリアでの紛争
61 リュシストラトスがアテナイでアルコンだった時(65)、ローマ人の間で内紛が起こってある派は執政官がいるべきだと、他方の派は軍務官が選出されるべきだと考えた。そしてその時の無政府状態が内戦を誘発し、後に彼らは六人の軍務官を選出することに決定してルキウス・アエミリウス、ガイウス・ウェルギニウス、セルウィウス・スルピキウス、ルキウス・クィンティウス、ガイウス・コルネリウス、そしてガイウス・ウァレリウスを選んだ(66)。彼らの任期の間にテッサリアの支配者であったフェライのポリュドロスは彼を酒宴に招いた甥のアレクサンドロスによって毒殺され、甥のアレクサンドロスが君主としての支配権を継承して一一年間保持した。支配権を違法に、そして力づくで獲得したため、彼は以下のような政策を選び、これによって絶えず政府の運営をした。彼以前の支配者たちは人々を穏健に扱い、それ故に愛されていた一方、彼は強引で惨い統治のために憎まれた。したがって彼の無法を恐れて幾ばくかのラリサ人はアレウアス家を高貴な家系の故に呼び寄せてこの君主を転覆しようと謀った。ラリサからマケドニアへと向かって彼らはアレクサンドロス王を僭主打倒に加わるよう説き伏せた。しかし彼らがそれらのことに忙殺されていた間、フェライのアレクサンドロスは自らに対抗する準備を知ると、マケドニアで戦うべく遠征に都合の良い場所にいた兵を集めた。しかしマケドニア王はラリサから難民を同行させ、軍を率いてラリサへと侵攻することで敵の先手を打って密かにラリサ人に要塞へ招き入れられたため、砦を除いた〔ラリサ〕市を掌握した。その後、彼は攻囲によって砦を落としてクランノン市もまた味方につけると、当初はテッサリア人に諸都市を返還すると誓約していたにもかかわらず世論を無視して相当な兵力の守備隊をそれらに駐屯させ、自らの手中に置き続けた。フェライのアレクサンドロスは同時に激しく追撃され、恐怖に駆られてフェライへと戻った。
 テッサリアの情勢はこのようなものであった。

エパメイノンダスの第一次ペロポネソス遠征
62 ペロポネソス半島では、ラケダイモン人がポリュトロポスを将軍とし、アルカディアへと一〇〇〇人の市民重装歩兵と五〇〇〇人のアルゴス及びボイオティアの亡命者と共に送った。彼はアルカディアのオルコメノスに到達し、スパルタとの友好条約のためにそこを厳に守った。アルカディア人の将軍であったマンティネイアのリュコメデスは五〇〇〇人の精兵と共にオルコメノスへとやってきた。ラケダイモン軍が彼らに向けて市から軍を出撃させると大会戦が起こってラケダイモンの将軍と二〇〇人が殺され、残りは市へと追い返された。勝利にもかかわらずアルカディア人はスパルタの勢力を賢明に顧慮して自分たちは自力でラケダイモン人には歯が立たないだろうと信じていた。したがってアルゴス人とエリス人と連合し、当初は彼らはアテナイへと対スパルタ同盟に加わるよう求める使節を送ったが誰も聞く耳を持たず、それから彼らはテバイ人に使節を送って対ラケダイモン人の同盟に加わるよう説得した。そしてすぐにボイオティア人はロクリス人とフォキス人を連れて軍を向かわせた。今やその軍はボイオタルケスのエパメイノンダスとペロピダスの下でペロポネソス半島へと進撃し、他のボイオタルケスらは彼らの戦争での技術の巧みさと勇気を認めて自発的に指揮権を彼らに譲渡した。彼らがアルカディアに到着すると、アルカディア人、エリス人、アルゴス人、その他全ての同盟者は全軍を挙げて彼らと合流した。五〇〇〇〇人以上が集まると、彼らの指導者たちは会議の場でスパルタそのものへと進軍してラコニア全域を荒らすことを決定した。
63 ラケダイモン人はレウクトラでの災難に多くの若者を投入して他の敗北でも少なからぬ人数を失っており、それら全てを合わせた将来への打撃は少数の市民兵だけに限定されず、さらに同盟者の一部が離脱し、他の同盟者は彼らと似たようにして兵数が不足することになってしまたために彼らは非常に弱体化してしまった。そこで彼らはかつて三〇人僭主をその人たちの上に置き、市の城壁の再建を禁じてその市を完全に滅ぼそうとし、さらにそのアッティカ領を牧草地にしようとしていたアテナイ人に助けを求めざるを得なくなった。しかし、つまるところ必然と運命よりも強いものはなく、それらがラケダイモン人をして彼らの最大の難敵の助けを求めさせたのであった。それにもかかわらず彼らは未だ希望を捨ててはいなかった。度量が大きく寛大なアテナイの人々はテバイ人の勢力を恐れていなかったために全軍を挙げて今や隷属化の危機にあったラケダイモン人を助けることを票決した。すぐに彼らはイフィクラテスを将軍に任命して一二〇〇〇人の若者と一緒に同日に急派した。イフィクラテスの兵の志気は高く、彼は大急ぎ軍を連れて進軍した。一方ラケダイモン人は敵がラコニアの境界に陣取っていたためにスパルタから全軍を挙げて彼らと戦うべく進んだが、彼らは軍事力のみならず内面的な勇気の強さでも弱くなっていた。さてエパメイノンダスと他の者たちはラケダイモン人の国への侵入は困難であることに気付くと、大軍で一丸となって侵入しない方が有利だと考え、軍を四隊に分割してそれぞれの地点から入ることに決定した(67)
64 ボイオティア軍から成る第一部隊はセラシアとして知られる都市への本道を占領してそこの住民をラケダイモン人から離反させた。アルゴス軍はテゲアティスの境界から侵入し、その道を守るために置かれた守備隊と戦い、指揮官のスパルタ人アレクサンドロスとボイオティアの難民を含む残りのおよそ二〇〇人を殺した。アルカディア軍から成り、最も数の多い第三部隊は勇気と明敏さで際立っていたイスコラス麾下の大規模な守備隊がいたスキリティスと呼ばれる地方へと攻め込んだ。自ら最も優れた戦士の一人であった彼は英雄的で記憶に値する偉業を成し遂げた。敵の数が圧倒的であったために戦いに参加すれば全滅してしまうだろうと見て取ると、彼は持ち場を放棄することでスパルタの尊厳を損なうことなく、それでいて兵士を温存することで自らの国のために奉仕しようと決めた。したがって彼はテルモピュライでのレオニダス王の勇敢な偉業に倣い、驚くべきやり方でその二つの目的を果たした。彼は若い兵士を選んでスパルタのために奉仕するために危機的状況にあったそこから帰らせた。彼自身は老兵と共に持ち場に留まって多くの敵兵を殺したが、最終的にアルカディア軍に包囲されて全滅した。第四部隊を成したエリス軍は無防備な他の地方から進み、全軍の集結地点として指定されていたセラシアに到着した。全軍がセラシアに集結すると、彼らは郊外を略奪し、焼き討ちしながらスパルタ本体へと進んだ。
65 今や五〇〇年の間ラコニアを破壊されずにいたラケダイモン人は敵による破壊を見ることに耐え切れずに軽率にも市からの出撃の準備をした。しかし年長者たちから故郷から離れたところへと進撃することを抑えられ、最終的にじっと市の安全を守るよう説得された。エパメイノンダスがタユゲトス山脈を抜けてエウロタス渓谷へと下ってきて冬季から流れが速くなる川を渡ろうとした時、ラケダイモン人は敵軍が渡河の困難さにまごついているのを見て取ると、攻撃の好機を得た。女子供と老人をスパルタ防衛のために市に残して彼らは戦える年齢の男を総動員して全軍で出撃して敵へと殺到し、渡河をしていた敵に突如攻撃をかけて大勢を殺傷した。しかしボイオティア軍とアルカディア軍は反撃に転じて数の優勢を頼んで敵を包囲し始めると、スパルタ軍は多くの敵を殺して勇気を明らかに見せつけて市へと引いた。この後エパメイノンダスが全軍を率いて市へと凄まじい攻撃をかけてきたためにスパルタ人は天然の要害に助けられつつ彼らに向けて殺到してきた多くの者を殺したが、最終的に包囲軍は猛攻をかけて最初にスパルタ人を力責めで打倒しようと考えた。しかし突破口を開こうとした者のある者は殺され、またある者は負傷したためにエパメイノンダスはラッパで兵を呼び戻したが、兵士たちは自ら市へと近づいてスパルタ人に会戦を挑み、さもなくば敵に劣っていることを認めよと言った。その結果スパルタ人はしかるべき機会を見つければ自分たちは一度の戦いに全てを賭けると答えると、彼ら〔エパメイノンダス軍〕は市を発った。彼らは全ラコニアを荒らして無数の戦利品を山と積んでアルカディアへと撤退した。
 したがって現場に遅れて到着してしまったアテナイ軍はアッティカへと何ら語るに足ることを成すことなく戻った。しかし数にして四〇〇〇人になる他の同盟軍がラケダイモン人の援軍へとやってきた。彼らの他にラケダイモン人は新たに自由にしたヘロット一〇〇〇人、ボイオティア人亡命者二〇〇人を加えて近隣諸都市から少なからぬ数の兵を呼び集めたため、彼らは敵に匹敵する軍勢を作り上げた。彼らを一カ所に固めて訓練させたために彼らはますます自信を持つようになり、決戦の準備をした。
66 さて、生来偉業を志して不朽の名声を渇望していたエパメイノンダスは長年ラケダイモン人によってそこの住民から奪われ続けていたメッセネの再建を、そこが対スパルタ作戦に都合の良い土地を占めていたためにアルカディア人と他の同盟者に諮った。彼ら全員が賛同すると、彼らはメッセニア人の生き残りを捜索し、彼はメッセネを再建することを望んだ他の人たちを市民として記帳して人口の多い都市とした。彼は彼らに土地を分配し、建物を再建することで立派なギリシア風都市を復活させて全ての人の間に広くゆきわたった賞賛を獲得した。
 ここで私はメッセネは非常に頻繁に占領されては破壊されていたためにその歴史をその始まりから述べてみることは不適当ではないと考えるものである。昔、ネレウスとネストルの血統がトロイア時代まで、次にアガメムノンの息子オレステスとヘラクレス一族の帰還までアガメムノンの子孫がそこを領していた。その後クレスフォンテスがメッセネを取り分として受け取って彼の家系がそこをしばらく支配した。その後、クレスフォンテスの子孫は王権を失ってラケダイモン人がそこの主となった。この後、ラケダイモンのテウクロス王の死に際してメッセニア人はラケダイモン人との戦争に敗れた。この戦争はラケダイモン人がメッセネを落とすまではスパルタには戻らないと誓っていたために二〇年続いたと言われている〔第一次メッセニア戦争(68)。次いでパルテニアイ(69)の子供たちが生まれてタラス市を建設した。しかし、その後メッセニア人がラケダイモン人の奴隷になると、アリストメネスがメッセニア人を説得してスパルタ人への反乱へと踏み切らせてスパルタ人を何度も破り、その時に詩人テュルタイオスがアテナイ人からスパルタへと指揮官として差し向けられた(70)。ある人たちはアリストメネスは二〇年間の戦争の間生きていたと述べている。彼らの最後の戦争は大地震を機に起きた。とりわけ全スパルタが破壊されて人々は裸一貫で残され、メッセニア人の生き残りは反乱に加わったヘロットの援軍を受けて長らく朽ちる間がままにしてあったイトメ山に陣取った(71)。しかし彼らは全ての戦争に敗れて最終的に故郷を追われ、アテナイ人が彼らの住まいとして与えた都市ナウパクトスに移住した。さらに彼らのうち一定数はケファレニアに追放され、他の者は彼らが(72)名付けたシケリアのメッセネに住み着いた。最終的に目下の時代にテバイ人がメッセニア人を方々から集めたエパメイノンダスの動議によってメッセネを建て、彼らに昔の土地を返してやったのであった。
 メッセニア人の歴史の多くの重要な変転は以上のようなものであった。

アルカディア連邦によるペレネ奪取とボイオティア連邦のテッサリアへの介入
67 テバイ人は八五日間のうちに上述の全てを成し遂げてメッセネに相当数の守備隊を残して故郷へと戻っていった。敵から予期せずして逃れたラケダイモン人はアテナイへと最も優れたスパルタ人特使を送り、覇権に関する同意に至った。アテナイ人は海の、ラケダイモン人は陸の主たるべく、これ以降両市は共同で支配をするものとすることとなった。さて、アルカディア人はリュコメデスを将軍に任命して彼に五〇〇〇人のエピレクトスと呼ばれた部隊を与え、ラコニアのペレネへと向かわせた。力づくでその都市を落として守備隊として残されていた三〇〇人以上のラケダイモン人を殺し、市を隷属化して郊外を荒らし、彼らはラケダイモン人から援軍がやってくる前に帰国した。ボイオティア人はテッサリア人に彼らの都市を解放してフェライのアレクサンドロスの僭主制を打倒するために呼ばれると、テッサリア情勢をボイオティア人の利害にかなうよう処理するよう指示を与えてペロピダスをテッサリアへと軍と共に急派した。ラリサに到着してマケドニアのアレクサンドロスによってアクロポリスに守備隊が置かれているのを見て取ると彼はそこを降伏させた。次いでマケドニアまで進み、そこで彼はマケドニア王アレクサンドロスと同盟を結んで彼から人質として弟のフィリッポスを預かってテバイへと送った。テッサリアの情勢をボイオティア人の利害に沿うと思うように解決すると、彼は帰国した。

エパメイノンダスの第二次ペロポネソス遠征
68 それらの出来事の後、アルカディア人、アルゴス人、そしてエリス人は共通の目的を抱いてラケダイモン人と決着をつけようと決め、ボイオティア人に特使を送って戦争に参加するよう説得した。彼らはエパメイノンダスを将軍に任命して他のボイオタルコス共々歩兵七〇〇〇人と騎兵二〇〇〇騎を派遣した。アテナイ人はボイオティア軍がペロポネソス半島へと向かっていることを聞き知ると、カブリアスを将軍として彼らに向けて軍を急派した。コリントスに到着し、メガラ軍、ペレネ軍、そしてまたコリントス軍を加えたカブリアスは一〇〇〇〇人の兵力を集めた。その後ラケダイモン軍とその他の同盟軍がコリントスに到着すると、そこには全部で二〇〇〇〇人を下らない兵力が集まった。彼らは入り口を要塞化してボイオティア軍がペロポネソス半島に侵入するのを防ごうと決定した。ケンクレアイからレカイオンまでの地域に彼らは柵と深い壕を巡らし、その作業は兵士の数と彼らの熱誠のために素早く完了したため、彼らはボイオティア軍が到着する前にあらゆる地点に防備を巡らすことになった。軍を連れてやってきたエパメイノンダスはその防塞を調査してラケダイモン軍が守っている場所で簡単に抜けることができる地点はないことを悟ると、敵がほとんど三倍であったにもかかわらず、まず打って出るよう戦いを挑み、そして誰も防衛線を越えて進み出てこずに全軍が柵付きの野営地に留まっていると、彼らに激しい攻撃をかけた。したがって全域、とりわけラケダイモン軍に対して激しい攻撃がかけられることになり、それはその地点が攻め易く守り難い場所であったからであった。両軍の間で凄まじい競争が起こり、テバイ軍のうちで最も勇敢だったエパメイノンダスは苦労の末にラケダイモン軍を退却させ、防衛線を切り裂いて全軍で突破してペロポネソスへと入り、これによって彼の以前の軍事行動にいささかも劣らぬ偉業を成し遂げた。
69 トロイゼンとエピダウロスへと真っ直ぐに進んだエパメイノンダスはその郊外を荒らしたが、相当な戦力の守備隊がいたためにそれらの都市を占領することはできなかったので、すでにシキュオン、フレイウス、その他の諸都市が彼の側に寝返っていることをほのめかした。コリントスへと攻め込んでコリントス人が彼と戦うべく出撃してくると、彼は戦いで彼らを破って城壁内へとその全員を撃退したが、ボイオティア軍が彼の成功で得意になったためにその一部が逸って思い切って門を通って市内へと押し入ろうとすると、コリントス人は怯えて家へと逃げ込んだが、アテナイの将軍カブリアスはそれを知って抗戦を決め、多くのボイオティア兵を殺してボイオティア軍を市から撃退するのに成功した。続いて起こった戦いでボイオティア軍は全軍を戦列に集めてコリントスに大打撃を与えようとした。しかしアテナイ軍と共に市外へと出撃してきたカブリアスは有利な地点を占めて敵の攻撃に持ち堪えた。しかしボイオティア軍は自らの肉体の強健さと度重なる戦いでの経験を頼んで力だけではアテナイ軍は最も劣っていると予想していたが、カブリアスの部隊は戦いで優位な場所を占めていて市から十分な補給を受けていたため、攻撃軍の一部を殺して他を酷く痛めつけた。ボイオティア軍は何も成し遂げることなく大損害を被ったために破れて撤退した。かくしてカブリアスはその勇気と将軍としての巧妙さによって大きな賞賛を勝ち得てこのようにして敵を追い払ったのであった。
70 ラケダイモン人と同盟していた僭主ディオニュシオスから戦闘のために送られていたシケリアからの二〇〇〇人のケルト兵とイベリア兵がコリントスへと航行してきて、五ヶ月分の給料を受け取った。ギリシア人は彼らの企てを実行に移すために彼らを率いていった。そして彼らは白兵戦で多くのボイオティア軍とその同盟者を殺して自らの価値を証明した。したがって優れた敏捷さと勇気で名声を勝ち得て様々な軍務に従事した彼らはラケダイモン人から称賛を受けて夏の終わりにシケリアへと送り返された。これに続き、アルタクセルクセス王によって任務のために送られていたフィリスコスが争いを調停して普遍平和に賛成させるためにギリシアへと航行した。テバイ人以外の皆がそれを喜んで受け入れた。しかし彼らは全ボイオティアを一つの連邦とするという自分たちの計画に拘っていたために協定から閉め出された(73)。普遍平和が同意されなかったため、フィリスコスは給料を前払いした二〇〇〇人の選り抜きの傭兵をラケダイモン人のために残してアジアに戻っていった。
 それらの出来事が起こっていた間、特に性急で無分別だったシキュオンの私人エウフロンがアルゴスから来た仲間と共に僭主制を樹立しようとした。計画が成功すると、まず彼は最も富裕なシキュオン人四〇人から財産を没収した上で追放して大金を手に入れると、傭兵軍を集めてその都市の主となった。

ペロピダスの拘束とテバイによるテッサリア遠征
71 ナウシゲネスがアテナイでアルコンだった時(74)、ローマでは四人の執政官権限付軍務官にルキウス・パピリウス、ルキウス・メネニウス、セルウィウス・コルネリウス、そしてセルウィウス・スルピキウスが選出され(75)、エリス人が一〇三回目のオリュンピア祭を開催してアテナイ人のピュトストラトスがスタディオン走で優勝した。彼らの任期の間、アロロスのプトレマイオスというアミュンタスの息子(76)が義兄弟のアレクサンドロスを暗殺して三年間マケドニア王となった。ボイオティアではエパメイノンダスに匹敵する軍事的な名声を得ていたペロピダスが、エパメイノンダスがペロポネソスでの問題をボイオティア人に優位になるように解決したことを知ると、ペロポネソスの外をテバイ人の味方とする立役者になろうと熱意を燃やした。同志であり友人で、勇気によって称賛を受けていたイスメニアスを伴ってペロピダスはテッサリアに入った。そこで彼はフェライの僭主アレクサンドロスと会談したが、いきなりイスメニアスもろとも拘束されて監視下に置かれた。テバイ人は事の次第に憤慨し、重装歩兵八〇〇〇人と騎兵六〇〇騎をテッサリアへと速やかに派遣してアレクサンドロスを脅したため、彼はアテナイへと同盟を求める使節団を送った。アテナイ人はすぐに彼にアウトクレス指揮の下に三〇隻の艦隊と一〇〇〇人の兵士を送った。アウトクレスがエウボイア島を周航しているうちにテバイ軍はテッサリアに入った。アレクサンドロスは歩兵を集めてボイオティア軍の何倍もの騎兵を有していたものの、ボイオティア軍はテッサリア人の支持を得ていたために当初は戦いによって戦争の決着をつけようと決めた。しかしテッサリア人は彼らを見捨ててアテナイ軍とその他の同盟軍がアレクサンドロスに合流し、さらにボイオティア軍の食料と飲み物の蓄えと他の全ての物資が尽きると、ボイオタルコスたちは帰国を決意した。彼らが陣を畳んで平坦な土地を通っていると、アレクサンドロスが騎兵の大部隊と共に追跡してきて背後から襲いかかった。多くのボイオティア兵が引き続いた矢の雨で殺されて他の者は負傷して進退窮まり、僅かな物資も尽きた自然的な結果とし、遂になす術を失った。彼らが希望を捨てたまさにその時、一兵卒とし従軍していたエパメイノンダスが兵士たちによって将軍に任命された。軽装兵と騎兵を素早く選出すると、彼は彼らを率いて打って出て自ら殿となり、彼らに助けられつつ敵の追撃を食い止めて前衛の重装部隊に完全な安全をもたらした。反転して戦いを挑み、見事な陣形を用いて彼は軍を救った。幾度にわたる成功のために彼はますます名声を高め、同胞市民と同盟者双方からの熱烈な賞賛を得た。しかしテバイ人はその日の〔指揮を担当した〕ボイオタルコスたちを裁いて重い罰金で罰した。

エパメイノンダスへの告発、ペロポネソス情勢
72 なぜこの男がテッサリアに送られた遠征軍に一兵卒として参加して働いていたのかという理由を問われるならば、我々は弁明における彼自身の弁を挙げるべきであろう。コリントスでの戦いでエパメイノンダスは陣取っていたラケダイモン軍の守備隊を突破したために多くの敵兵を殺したでのであろうが、彼はその優位で満足してさらなる戦いを差し控えた。そのおかげで彼に個人的な友誼のためにラケダイモン人を見逃したのではないかという重大な疑義がもたらされ、彼の名声に嫉妬していた人たちは彼を告発する丁度良い機会を見いだした。したがって彼らは彼を裏切りの廉で告訴し、人々は憤慨して彼をボイオタルコスの官職から外して一兵卒にして残りのボイオタルコスらと共に送り出していた。彼が自らの行いによって自らに対する良からぬ感情を払拭すると、人々は彼を以前の名誉ある地位に戻した。この少し後にラケダイモン人はアルカディア人と大会戦を戦って散々に打ち破った。これはレウクトラでの敗北以降の彼らの幸運の最初のとっかかりになり、それは驚くべきものであった。というのも一〇〇〇〇人以上のアルカディア兵が死に、ラケダイモン人は一人の犠牲者も出さなかったからだ。ドドナの神官たちはこの戦争でラケダイモン人が涙を流さないだろうと彼らに予言していた。この戦いの後、アルカディア人はラケダイモン人の侵略を恐れ、マイナロス人とパラシア人として知られるアルカディア人の二〇の村落を合併させて丁度良い場所に「大きい」と呼ばれる都市、つまりメガロポリスを建設した。
 この時のギリシアでの出来事は以上のようなものであった。

ディオニュシオスの死
73 シケリアでは、カルタゴ人が彼らの間に広がっていた疫病とリビュア人の離反のために戦争ができるような状況にはないことを知ると、僭主のディオニュシオスが大軍を集めて彼らと一戦交えようと決意した。今や彼は戦いのための理に適った口実を弄してカルタゴ帝国のフェニキア人は彼に服属する領地を侵したと述べ立てた。したがって彼は三〇〇〇〇人の歩兵と三〇〇〇騎の騎兵という兵力と軍用物資の蓄えを準備してシケリアのカルタゴ領へと攻め込んだ。彼はすぐにセリヌスとエンテラに勝利して郊外の全域を荒らし、エリュクス市を占領してリビュバイオンを包囲したが、その地には多くの兵士が陣取っていたために包囲を断念した。カルタゴ人の造船所が焼き払われたことを聞いて全艦隊が破壊されたと考えると、彼は彼らを侮って一三〇隻の最良の三段櫂船だけをエリュクスの港へと派遣して残りの全部をシュラクサイへと返した。しかしカルタゴ軍は出し抜けに二〇〇隻の船に人員を乗せてエリュクスの港に錨を降ろしていた艦隊に襲いかかり、その攻撃は予期せぬものであったために〔シュラクサイ船の〕三段櫂船の大部分を運び去った。その後、冬が到来すると、両国は休戦に同意してそれぞれの都市へと別れて去った。少し後にディオニュシオスは君主として三八年間支配した後に病に倒れて死んだ。彼の息子ディオニュシオスが後を襲って一二年間僭主として支配した。
74 この君主の死因と死に際して彼に降り懸かった出来事について述べることは目下の話からの逸脱にはなるまい。ディオニュシオスはアテナイのレナイア祭で悲劇を上演して優勝しており、合唱隊で歌っていた一人がもし勝利の知らせを最初に届ければ自分は気前よく誉められるだろうと思ってコリントスへと航行していった。そこでシケリア行きの船を見つけた彼はそれに乗り換え、順風に恵まれて速やかにシュラクサイに上陸して優勝を僭主に知らせた。ディオニュシオスは彼に褒美を与え、神々に順境を感謝する犠牲を捧げて酒飲み競争と大仰な宴を催すほど大喜びした。彼は友人たちを惜しみなくもてなし、彼自身も熱烈に酒飲み競争に参加してその競争の間に蒸留酒を大量に摂取したために病を得た。彼は「彼の上手の人たち」に勝利した時に彼は死ぬことになるという神々の神託を受けていたが、彼はカルタゴ人が「上手の人たち」であると思ってその神託はカルタゴ人についてのものとして解釈していた。そのようなわけで何度も彼らと行った戦争で彼はより強力な敵よりも自らを「上手の人」であると示さないようにするために勝利した時には撤退するようにして自分から負けるようにしていた。それにもかかわらず彼は運命の女神が彼に定めた宿命を出し抜く詐術によっては目的を果たすことはできず、それどころかアテナイでの競技にて彼は自分よりも「上手の」詩人たちに勝ってしまった。このようにして神託の宣言と文字通り符合した形で彼は「上手の人たち」への勝利を直接の原因として死を迎えることになったのだ。
 若ディオニュシオスは僭主の地位の継承に際して最初は民会に大衆を集め、父から遺産と共に彼が受け継いだ忠誠を維持するように適当な言葉で彼らに説いた。次いで王者のものと呼ばれる門の近くの砦に豪勢な葬儀でもって父を葬ると、政府の統治権を自らのものとした。

諸々の出来事と紛争
75 ポリュゼロスがアテナイでアルコンだった時(77)、ローマには内戦のために無政府状態が蔓延しており、ギリシアではテッサリアのフェライの僭主アレクサンドロスがスコトゥサ市を或る問題で非難し、市民を集会に集めて傭兵を使って包囲し、皆殺しにして遺体は城壁の正面の壕へと投げ捨てて市を隅々まで略奪し尽くした。テバイ人エパメイノンダスは軍を率いてペロポネソスに侵入し、アカイア人と他のいくつかの都市を味方に引き入れてデュメ、ナウパクトス、そしてカリュドンを解放してそれらにはアカイア人によって駐留軍が置かれた。ボイオティア軍はテッサリアにも侵攻してペロピダスをフェライの僭主アレクサンドロスによる軟禁から解放した。そしてアルゴス人と戦争をしていたフレイウス人へと、アテナイ人によって彼が指揮する軍と共に送られたカレスが援助を行った。彼はアルゴス人を二度の戦いで破り、フレイウス人の立場を守ってアテナイへと戻った。
76 この年が終わった時にアテナイではケフィソドロスがアルコンであり(78)、ローマでは大衆がルキウス・フリウス、パウルス・マンリウス、セルウィウス・スルピキウス、そしてセルウィウス・コルネリウスの四人を執政官権限付軍務官に選出した(79)。彼らの任期の間、エレトリアの僭主テミソンがオロポスを占拠した。しかしこの都市はアテナイに属しており、彼はそこをすぐに予期せずして失うことになった。というのもアテナイ軍が圧倒的に優勢な兵力で彼に戦いを挑み、彼の救援にやって来てその都市の保護を彼から引き継いだテバイ軍はそこを返還しなかったからだ。
 それらのことが起こっていた間、コス人は現在彼らが住んでいて、彼らが著名な土地ならしめた都市へと居を移した。というのも、多くの人がそこへと集まって城壁とたくさんの港が大金をかけて建設されたからだ。この時代からそこの歳入と個人資産は絶えず増加し、ギリシアの指導的な諸都市に匹敵するほどにまでなった。
 それらのことが起こっていた間、ペルシア王はギリシア人に使節を送って彼らの戦争を解決して互いに普遍平和条約を結ぶよう説き伏せた。したがって、スパルタ・ボオイティア戦争と呼ばれる戦争はレウクトラ遠征から五年間以上続いた後に調停された。
 この時代は弁論家イソクラテスと彼の弟子たち、哲学者アリストテレス、さらにランプサコスのアナクシメネス、最期のピュタゴラス派哲学者であったアテナイのプラトン、非常に年を取ってから歴史書を編み、数年後のエパメイノンダスの死について語ったクセノフォンなど記憶に値する文人を輩出した。ソクラテス派の哲学者としてはアリスティッポスとアンティステネス、スフェットスのアイスキネスがいた。
77 キオンがアテナイでアルコンだった時(80)、ローマではクイントゥス・セルウィリウス、ガイウス・ウェトゥリウス、アウルス・コルネリウス、マルクス・コルネリウス、そしてマルクス・ファビウスが軍務官に選出された(81)。彼らの任期の間、ギリシア中が平和であったにもかかわらず、戦雲が再びいくつかの都市に立ちこめ、新たな、そして奇妙な革命が勃発した。例えばアルカディア人亡命者がエリスを出発してトリヒュリアと呼ばれる地方のラシオンとして知られる砦を占拠した。長年アルカディアとエリスはトリヒュリア地方の領有権をめぐって争っており、一方の国から他方の国へと優位が移り変わるごとにその地方は取ったり取られたりしていた。しかし問題の時代にはアルカディア人がトリヒュリアを支配していたものの、エリス人はその難民を口実としてアルカディア人から奪い返した。その結果アルカディア人は憤慨してまずその地方の返還を求める使節を派遣した。しかし誰も耳を貸さず、彼らはアテナイから同盟軍を呼び寄せて共同でラシオンに攻撃をかけた。エリス人は難民救出へと向かってラシオンで戦いが起こり、何倍もの兵力のアルカディア軍にエリス軍は破れて二〇〇人を失った。戦争がこのようにして起こると、戦勝で得意になったアルカディア人はすぐにエリスへと攻め込んでマルガナとクロニオン、そしてキュパリッシアとコリュファシオンといった諸都市を落としたためにアルカディア人とエリス人の不和はその範囲を拡大した。
 それらの出来事が起こっていた一方で、マケドニアではアロロスのプトレマイオスが三年間の統治の後に義兄弟のペルディッカスに暗殺された。ペルディッカスは王位を継承して五年間マケドニアを支配した。

オリュンピア祭をめぐる戦争とエパメイノンダスによる海上覇権奪取の計画
78 ティモクラテスがアテナイでアルコンだった時(82)、ローマでは三人の執政官権限付軍務官にティトゥス・クインクティウス、セルウィウス・コルネリウス、そしてセルウィウス・スルピキウスが選ばれた(83)。一〇四回目のオリュンピア祭がピサ人とアルカディア人により開催され、アテナイ人フォキデスがスタディオン走で優勝した。彼らの任期の間、ピサ人は彼らの国の古の特権を回復して神代の古い証拠に訴えるため、オリュンピア祭を開催する名誉は彼らの特権であると主張した。今こそがその競技祭〔の権利〕を訴える好機だと判断した彼らはエリス人の敵であったアルカディア人と同盟を締結した。彼らを支援者とし、彼らは競技祭を開催していたエリス人と戦った。エリス人は全軍で受けてたって戦いが起こり、彼らは競技祭のために出席していて花輪を手に掛けて双方の勇敢な行いに喝采を送るギリシア人を聴衆として危機に臨んだ。最終的にピサ人がその日に勝利して競技祭を開催したが、後にエリス人はこれは無理矢理に正義に反してなされていたと考えたためにこのオリュンピア祭を記録しなかった。
 それらのことが起こっていた間、同国人の間で最高の地位にあったテバイ人エパメイノンダスが集会の議場で同胞市民に向けて熱弁を振るって海上覇権を得るために戦うよう訴えた。長々と続いたその演説の中で彼は陸の覇権を持つ者が海の支配権を得るのは簡単であると特に述べたて、この試みは都合が良く、可能でもあると指摘した。例えばアテナイ人はクセルクセスとの戦争で二〇〇隻の船に乗り込んで一〇隻しか提供しなかったラケダイモン人の命に服していた。これと彼の主題に適うその他多くの立論によって彼は海上支配を試みるようテバイ人を説き伏せた。
79 したがって人々はすぐに一〇〇隻の三段櫂船とそれらを収容する造船所を建設し、ロドス、キオス、ビュザンティオンの人々にその計画を手伝うよう求めることを票決した。一軍と共に上述の諸都市へと派遣されたエパメイノンダスは、テバイ軍を避けて大艦隊と共に送られていたアテナイの将軍ラケスを威圧して追い払い、諸都市をテバイの友好国とした。この男がもっと長く生きていれば、テバイ人はなるほど陸の覇権に加え海の支配権を確保していただろう。しかし、少し後にマンティネイアでの戦いで彼の国に最も栄光ある勝利をもたらした後に彼が英雄として死ぬと、すぐにテバイの勢力は彼と共に死に絶えた。しかしこの主題を私は少し後にきちんと詳述するつもりである。その時テバイ人は以下のような理由でオルコメノスと戦うことを決めた。テバイの政体を貴族制に変えたがっていたある逃亡兵たちは全部で三〇〇騎のオルコメノスの騎士にその試みへの参加を促した。それらの騎士は閲兵のための規定の日について数人のテバイ人と会議するのが習わしになっており、彼らはその運動に加わって力添えをした他の多くの人と指定時に会った。今や行動を目論んで決意した人たちはボイオタルコスたちに攻撃計画を暴露して共謀を裏切り、この奉仕によって彼らは身の安全を購った。その官吏たちはオルコメノスの騎士を逮捕して民会の前に出し、そこで人々は彼らを処刑してオルコメノスの住民を奴隷として売り払い、市を破壊することを決議した。というのも最近までテバイ人は彼らとは険悪な仲であり、英雄時代にはミニュアイ人(84)に貢納をしていたが、後にヘラクレスによって解放されていたからだ。かくしてテバイ人は自分たちは好機を得たと考えて懲罰の都合の良い口実を得て、オルコメノス人と戦って市を占領し、男の住民は殺して女子供は奴隷として売り払った。

キュノスケファライの戦い、ペロピダスの死
80 この時、フェライの僭主アレクサンドロスとの戦争を続けてほとんどの戦いで敗北を喫していたために多くの戦士を失っていたテッサリア人はテバイ人に援助とペロピダスを将軍として派遣してくれるようを求める使節を送った。それは彼がアレクサンドロスに拘束された次第と彼がこの支配者とは不倶戴天の敵であったこと、それに加えて彼が戦争の技術での抜け目なさで広く評判を得ていた優れた勇者であったことを彼らが知っていたためである。ボイオティア人の一般総会が招集されて使節が〔本国から述べるように〕指示されていたことを説明すると、ボイオティア人は万事においてテッサリア人に賛同し、ペロピダスに七〇〇〇人の兵士を与えて速やかに要望に従って援助を行うよう命じた。しかしペロピダスは軍と共に出立しようと逸っていた時に太陽が日食を起こした(85)。多くの人はその現象について迷信深く、預言者は兵士の撤退のために市の「太陽」は日食を起こしたのだと宣言した。この解釈で彼らがペロピダスの死を予言したにもかかわらず、彼は遠征へと出発して運命に導かれて突き進んでいった。テッサリアに到着し、アレクサンドロスが先手を取って見通しの良い場所に陣取って一二〇〇〇人以上の兵士を率いているのを見て取ると、彼は敵に対陣してテッサリア人からの同盟軍で軍を強化して敵との戦いに入った。アレクサンドロスは有利な場所のために優勢に立ったものの、ペロピダスは自身の勇気で戦いの決着をつけようとして自らアレクサンドロスに攻撃をかけた。選り抜きの親衛隊を連れていたこの支配者は抗戦して激しい戦いが起こり、その過程でペロピダスは勇敢な戦いぶりを示して自身の周りに死体の山を築き、戦いで肉薄して敵を敗走させて勝利を得たものの、多くの傷を受けて英雄的な死に様でもって命を落とした。しかしアレクサンドロスは二度目の戦いで酷い目に遭って完全に粉砕された後、テッサリア人に彼が屈服させた諸都市を返還し、マグネシア人とフティオティスのアカイア人をボイオティア人の側に引き渡し、未来永劫フェライの支配者は同盟者としてはボイオティア人しか持たないことに同意することを強いられた。
81 有名な戦いに勝利したにもかかわらず、テバイ人はペロピダスの死によって敗者になったと世界に宣言した。ずば抜けた男の喪失のため、彼らは正当にもこの勝利はペロピダスの名声よりも価値の劣ったものだと判断した。なるほど彼は国家に対して多くの奉仕を行い、テバイの興隆に他の誰よりも貢献した。難民の帰還の問題において、彼はカドメイアを再占領したことで、全ての人はその成功の主な栄誉を彼に帰することに賛成している。そして良き運命のこの欠片が続いて起こった全ての幸運な出来事の原因になった。テギュラ近くの戦いでペロピダスはボイオタルケス一人でラケダイモン軍に勝利した。レウクトラの戦いで彼は神聖隊を率いて最初にスパルタ軍を攻撃し、したがって勝利の立役者になった。ラケダイモンあたりでの作戦行動で彼は七〇〇〇〇人の兵士を率い、これまで一度も土地を略奪されたことのないラケダイモン軍に対する戦勝記念碑をスパルタ領に立てた。ペルシア王へと使節として彼は個人の責任において全般的な和解(86)にメッセネを加入させ、三〇〇年の間住民がいなかったにもかかわらず、これをテバイ人が再建した。人生の最後に彼よりずっと数の多い軍を持っていたアレクサンドロスと戦い、輝かしい勝利を得たのみならず名高く勇敢に死んだ。同胞市民との関係で彼はテバイへの亡命者の帰還から死まで非常に好意的に扱われたために毎年ボイオタルケスの地位についており、名誉において彼の右に出る市民はいなかった。したがってペロピダスの個人的な長所は全ての賞賛を受け入れ、歴史の賞賛もまた我々から受け入れている。
 同時に、エウクセイノス海のヘラクレイアの生まれのクレアルコスは僭主制を打ち立て、目的を達成するとシュラクサイの僭主ディオニュシオスのやり方を真似し、ヘラクレイアの僭主になった後、目覚ましい成功でもって一二年間統治した。それらの事柄が起こっていた一方でアテナイの将軍ティモテオスは歩兵と船の両方の軍を指揮してトロネとポテイダイアを包囲して落とし、包囲を受けていたキュジコスへと救援を送った(87)

マンティネイアの戦い
82 この年が終わった時(88)、アテナイではカリクレイデスがアルコンになり、ローマではルキウス・アエミリウス・マメルクスとルキウス・セクスティウス・ラテラヌスが執政官に選ばれた(89)。彼らの任期の間、アルカディア人はピサ人と共同でオリュンピア競技祭を行い、そして神殿の主となってそこに捧げ物が置かれた。多額の捧げ物を私的なことに使ったマンティネイア人は平和が回復した時に費用の説明をすることになるのを避けるため、エリス人に対する戦争を違犯者として続行することに熱心になった。しかし残りのアルカディア人は平和を望んでいたため、彼らは同胞と対立するようになった。したがって二つの党派が出現し、一つはテゲアによって、一方はマンティネイアによって主導されることになった。彼らの論争は軍隊による決着に訴えるほどになり、テゲア人はボイオティア人に使節を送って援助を獲得したため、ボイオティア人はエパメイノンダスを将軍に任命して大軍を授け、テゲア人を援助するために派遣した。マンティネイア人はボイオティアからの軍とエパメイノンダスの名声を恐れ、ボイオティア人の最も手強い敵であるアテナイ人とラケダイモン人に使節を送り、彼らの側に立って戦うよう説き伏せた。そして両方の人々はすぐさま返事として強力な軍を送り、ペロポネソスで多くの大規模な戦いが起こった。現に目と鼻の先に暮らしていたラケダイモン人はすぐにアルカディアへと侵入したが、この時軍と共に進撃していてマンティネイアからそう遠くにいなかったエパメイノンダスは、ラケダイモン軍が全軍でテゲア領を荒らしていると住民から知った。そこでスパルタには兵士がおらず丸裸だと見るや彼は大打撃を与えようと計画したが、運命は彼の思うようにはいかなかった。彼は自ら夜にスパルタへと向かったが、ラケダイモンの王アギス(90)はエパメイノンダスの策略を疑って抜け目なく彼のすることを読み、何人かのクレタ人走者を送って彼らを通じてエパメイノンダスに先んじ、後方のスパルタに残っていた者にボイオティア軍は間もなくラケダイモンにその都市の略奪しようと現れるだろうが、彼自身はできる限り早く軍を率いて郷土の救援に駆けつけるつもりだと言った。そして彼はスパルタにいた者に市を守って何も恐れぬよう命じ、自らはすぐに救援にやってきた。
83 クレタ人はすばやく命令を実行し、ラケダイモン軍は奇跡的に故郷の占領を避けることができた。攻撃が事前に伏せられていたためにエパメイノンダスは気付かれることなくスパルタに急に現れた。我々は正当に両将の才能を賞賛することができるだろうが、ラコニア人の戦略がより賢明であると思われる。エパメイノンダスが夜に全く休憩せずに大急ぎで距離を踏破して夜明けにスパルタを攻撃したことは真実である。しかし防衛に残され、敵の計画についての全てをクレタ人から少し前に知らされていたアゲシラオスはすぐさま市の防衛のために彼の精力のほとんどを傾注した。彼は年長の子供たち(91)と老人を家の屋根に上がらせて、もし彼が市内へと進んできたらそこから敵に防戦するよう指示し、一方自身は壮年の男たちを整列させて彼らを市の正面での妨害と接近戦に割り当て、通ることのできる全ての道を封鎖して敵の攻撃を待ち構えた。エパメイノンダスは兵士をいくつかの縦隊に分けた後、すぐさまいたる場所を攻撃したが、スパルタ人の配置を知るとすぐに自分の動きは筒抜けだったと悟った。にもかかわらず彼は相次いで全ての場所を攻撃し、障害物のために不利だったにもかかわらず、接近戦になった。彼は大打撃を受け、ラケダイモン軍がスパルタに再び入ってくるまで激しい対抗意識を抑えなかった。そして篭城軍に多くの援軍が来て夜になったため、彼は包囲を解いた。
84 マンティネイア人が全軍を挙げてラケダイモン軍を支援していることを捕虜から聞き知ると、エパメイノンダスは市から少し後退して野営し、〔兵士に〕食事の準備をするよう命じた。そして騎兵の一部を残して朝の哨戒時までに陣地に火を放つよう命じ、一方自らは軍と共に出発してマンティネイアに残されていた部隊を出し抜けに襲撃すべき急行した。翌日にかなりの距離を踏破した彼はこれを予想していなかったマンティネイア軍に突如襲いかかった。しかし遠征の計画によってあらゆる偶然に備えていたにもかかわらず彼は試みを遂げることができず、運命が自らに対立していることを悟ったために予想に反して勝利を失った。無防備な都市に接近したまさにその時、マンティネイアの逆側に同胞市民のうちで当時名声を博していたヘゲシレオスを将軍とする数にして六〇〇〇人のアテナイから送られた援軍が到着した。彼は市内へと十分な軍を入れ、決戦を期して残りの軍を配置した。間もなくラケダイモン軍とマンティネイア軍が現れ、全軍が雌雄を決する戦いのために準備をし、方々から同盟軍を呼び寄せた。マンティネイア軍の側にはエリス軍、ラケダイモン軍、アテナイ軍および他の幾らかの諸都市がつき、数にして総勢歩兵二〇〇〇〇人と騎兵二〇〇〇騎以上になった。テゲア人の側には最も数が多く勇敢なアルカディア軍が同盟軍として加わり、またアカイア軍、ボイオティア軍、アルゴス軍、その他のペロポネソス軍と外部からの同盟軍もおり、総勢で三〇〇〇〇人を上回る歩兵と三〇〇〇騎を下らない騎兵が集まった。
85 双方は決戦で一致しており、戦闘隊形を組んだ両軍で預言者が犠牲を捧げ、神々による勝利の予兆を宣言した。配置ではマンティネイア軍と残りのアルカディア軍がその隣人であり支援軍であるラケダイモン軍と共に右翼に陣取った。比較的弱い残りの軍が中央に、アテナイ軍が左翼に陣取った。テバイ軍が左翼に陣取ってアルカディア軍がそれを支援し、一方で彼らはアルゴス軍に右翼を任せた。その他大勢、エウボイア軍、ロクリス軍、シキュオン軍、メッセニア軍、マリス軍、アエニアニア軍、テッサリア軍、そして残りの同盟軍は戦列の中央を占めた。双方とも騎兵を分割して両翼に置いた。軍の配列は以上のようなもので、彼らが互いに接近すると戦いを指示するラッパが鳴り響き、両軍は自らの勝利を示す大きな叫び声でもって鬨の声を上げた。アテナイ騎兵がテバイ軍に攻撃を仕掛けると彼らは敗れたが、それは騎兵の質のためでも乗り手の勇気や騎兵としての経験のためでもなく、アテナイ騎兵が不足していたからだ。さらに数と軽装部隊の装備、そして戦術的能力では彼らは敵に比べてずっと劣っていた。現に彼らには少数の投槍兵しかおらず、一方でテバイ軍にはテッサリア地方から送られていた三倍の投石兵と投槍兵がいた。彼らは少年の頃から間断なくこのような戦闘法の訓練を積んでおり、その結果、その投擲兵器の扱いでの経験のために戦いでは最大の影響力を行使していた。したがって〔敵の〕軽装兵によって負傷し、正面の敵によって疲弊していたアテナイ軍は全員が反転して敗走に転じた。側面の部隊の後ろへと逃げたが、彼らはなんとか敗北を挽回した。彼らは後退の際に味方のファランクスを突破せず、同時にエウボイア軍と高地を奪取するために派遣されてきた傭兵と戦ってこれを皆殺しにした。テバイ騎兵は逃亡兵を追わずに敵のファランクスを攻撃し、歩兵を翼包囲しようと躍起になった。戦いが白熱してくると、アテナイ軍は疲弊して敗走に転じ、後方に配されていたエリス人の騎兵指揮官は逃亡兵を支援し、多数のボイオティア兵を倒して戦況をひっくり返した。エリス騎兵がこのように左翼で同盟軍が被っていた敗北を挽回していた一方で、他方側面では双方の騎兵が互いに激しく戦っており、戦いは短時間の間は拮抗していた。しかしボイオティアとテッサリアの騎兵の数と勇敢さのためにマンティネイア側の援軍は後退を強いられ、かなりの損害を被りつつファランクスへと逃げ込んだ。
86 この時、騎兵戦は前述のような結末を迎えた。しかし歩兵部隊は敵と密接して白兵戦を演じ、驚くべき戦いが繰り広げられた。他のギリシア人の戦いでもかくも多くのギリシア人が整列して戦ったことはなく、大きな名望を博していたり有能だったりした将軍も戦いでこれほどの勇敢さを示さなかった。その時の歩兵として最も有能で、戦列は互いに対陣していたボイオティア軍とラケダイモン軍はあらゆる危険に命を晒して競い合った。投擲兵器の非常な密度のためにそのほとんどの者が粉砕された最初の槍の交差の後、彼らは剣で戦った。そして両部隊は互いを拘束してあらゆる傷を与えたにもかかわらず、〔戦いを〕やめようとはしなかった。長時間彼らは激しく粘り、無比の勇気が双方で示されたために戦いは伯仲した。彼らは個々の負傷の危険は軽んじたが、むしろ何か素晴らしい振る舞いをしようとし、栄光の代価として死を堂々と受け入れた。戦いが長時間激しく続いてどちらも優勢にもならなかったため、エパメイノンダスは勝利は自身の勇気を示すことで得られると考え、武器を手に決着をつけようと決めた。彼はすぐに最良の兵士を引き連れて密集隊形を組ませて敵の真ん中に攻撃を仕掛けた。彼はその軍を率いて攻撃をかけ、まず投槍を投げてラケダイモン軍の指揮官に的中させた。そして残りの彼の兵士はすぐに敵との接近戦に入ったため、彼は数人を殺して他を恐慌に陥れ、敵のファランクスを突破した。ラケダイモン軍はエパメイノンダスの声望と彼の率いる部隊の重圧で威圧されて戦いから引いたが、ボイオティア軍は攻撃を続けて後列にいた者をひっきりなしに殺し、その結果死体の山ができた。
87 ラケダイモン軍は、エパメイノンダスが戦いの激しさに身を曝してあまりに熱中して前線に出ているのを見て取ると、一丸となって彼を攻撃した。投擲兵器が彼に向けて雨霰のように早く投げられたため、彼はその一部を避けて他のものは払いのけ、さらに他のものは体から抜き取って攻撃者を撃退するのに使った。しかし勝利のために英雄的に戦ったものの、彼は胸に致命傷を負った。槍が抜かれて彼の体に鉄の切っ先が残ったために彼は突如として倒れ、傷によって力を奪われた。彼の体の回りで争いが起こって双方多く者が殺されたが、ついに苦心しつつも身体の強さでの優越によってテバイ軍がラケダイモン軍を破った。後者が取って返して敗走したため、ボイオティア軍は短時間追撃したが、遺体の所有権を得ることが最重要だと考えて考えて反転した。かくしてラッパ手がラッパを吹いて兵士を呼び寄せ、全員が戦いから戻ってきて双方が戦勝記念碑を作って勝利を主張した。実際アテナイ軍はエウボイア軍と傭兵を高地での戦いで破り、死者の所有権を有していた。一方で、ボイオティア軍はラケダイモン軍を破ってその死者の所有権を有し、自らに勝利を授与した。長らく双方とも優位を手放したように見えないように死者を取り戻すための使節を送らなかった。しかし後にラケダイモン人が最初に死者の引渡しを求めるための軍使を送り、双方で埋葬した。しかしながらエパメイノンダスはまだ息のあるうちに陣営に担ぎ込まれて医者たちが呼ばれたが、彼らは間違いなく槍の先が胸から抜かれるとすぐに死んでしまうと明言し、最高の勇気でもって彼は死に対峙した。まず彼は鎧持ちを呼んで盾を守っていたかどうか訊ねた。彼が是と答えて目の前に盾を置くと、エパメイノンダスは今度はどちらが勝利したのか訊ねた。少年の答えはボイオティア軍が勝利したというものであり、彼は「死ぬ時が来たようだ」と言い、医者らに槍の先を引き抜くよう指示した。彼の友人たちは大声で異議を唱え、その一人が「あなたには子供がいないではないですか、エパメイノンダス」と言い、涙を流した。これに彼は「いいや、ゼウスに誓い、それは違う。私は自らの勝利を、即ちレウクトラとマンティネイアという二人の娘を残すのだ」と答えた。そして槍の先を引き抜くと、狼狽えることなく息を引き取った。
88 我々としてはこの偉人の死に様に然るべき賞賛という褒賞を与えることに賛成するだろうし、かように名声高い人の死を何も書かずに通り過ぎるというのは最も不適当なことであろうと考えるものである。というのも彼は戦争の技能と経験、戦争の技術だけでなく、思慮分別と度量の大きさでも同時代人の中でも群を抜いていると私には思えるからだ。テバイ人ペロピダス、以下は全員アテナイ人であるがティモテオスとコノン、カブリアスとイフィクラテス、そしてさらにいささか古い世代ではあるがスパルタ人のアゲシラオスなどエパメイノンダスの世代には有名な人たちがいる。さらにこれより前、メディア人とペルシア人の時代にはソロン、テミストクレス、ミルティアデス、キモン、ミュロニデス、そしてペリクレスとアテナイの他の人たち、デイノメネスの子でシケリアのゲロンおよびその他の人がいた。もし同様の全ての人たちとエパメイノンダスの将軍としての資質と名声を比べるならば、エパメイノンダスがずっと優れた資質を持っているとあなたは見て取るだろう。各々の他の人々の中にあなたは名声の主張のために一つの特有の卓越性しか見つけないだろう。しかしながら彼の中では全ての資質が関連している。体の頑健さと演説の巧みさ、さらに精神の高邁さ、金儲けへの軽蔑、公正、そして他の全ての資質、そして勇気と聡明さ、戦争の技術において彼は全ての人に勝っていた。かくして彼の人生において彼の祖国はヘラス第一の地位を獲得したが、彼が死んでそれが失われると、絶えずより一層酷い状態に変わり、最終的には指導者の愚かさのために隷属と蹂躙を経験した。かくしてその勇気が全ての人の間で認められていたエパメイノンダスは、我々が示したようにして死を迎えたのであった。
89 この戦いの後のギリシア諸国はこの勝利は自らの物だと言い立てて勇気において互角であることを証明し、そしてさらに戦いの連続で消耗していたために互いに協定を結んだ。全面的な和平と同盟に同意すると、彼らはその協定にメッセニア人を入れようとした。しかしラケダイモン人が妥協しなかったため、その和平に加わらずギリシア人で唯一それから外れた。
 歴史家のうちでアテナイ人クセノフォンは『ギリシア史』の叙述をこの年のエパメイノンダスの死によって終え、一方で『ギリシアの出来事の最初の研究』をランプサコスのアナクシメネスは神々の死と人間の最初の世代によって始めてマンティネイアの戦いとエパメイノンダスの死によって筆を置いている。彼は事実上ギリシア人と非ギリシア人の全ての事績を一二巻の中に入れている。そしてフィリストスは二巻で五年間の出来事を語ったこの年で終わる小ディオニュシオスの歴史を上梓した。

太守たちの反乱
90 アテナイでモロンがアルコンだった時(92)、ローマではルキウス・ゲヌキウスとクイントゥス・セルウィリウスが執政官に選出された(93)。彼らの任期の間にアジア沿岸の住民がペルシアに反乱を起こし、何人かの太守と将軍が反乱を起こしてアルタクセルクセスとの戦争を起こした。時を同じくしてエジプトの王タコスはペルシア人と戦うことを決意して船を準備して歩兵戦力を集めた。ギリシア諸都市から多くの傭兵を入手し、同様にラケダイモン人を自分と共に戦うよう説得したのであるが、それはメッセニア人が他のギリシア人のように全面的和平の同じ条項に王によって含まれていたためにスパルタ人はアルタクセルクセスと仲違いしていたからだ。ペルシア人に離反した将軍がかくも大きな規模に至ると、王もまた戦争の準備をした。同時に彼はエジプト王、アジアのギリシア諸都市、ラケダイモン人とその同盟国、沿岸地帯を支配して共通の目的に賛同していた太守と将軍たちと戦う必要があった。そのうち最も著名なのはミトリダテスの死後王国を継承したフリュギア太守アリオバルザネス(94)、多くの砦と重要な諸都市の主であり、有名なアクロポリスとカリアの王宮があるハリカルナッソスを本拠地としていたカリアの君主マウソロスである。上述の二人に加え、ミュシア太守オロンテス(95)、リュディア太守アウトフラダテス(96)がいる。イオニア人の他にリュキア人、ピシディア人、パンヒュリア人、そしてキリキア人、同様にシュリア人、フェニキア人、そしてほぼ全ての沿岸の人々もいた。反乱の拡大のために、王の歳入の半分が切り取られ、残りは戦争を賄うのには不十分になった。
91 王から離反した人たちは万事を進める役目を持った彼らの将軍にオロンテスを選出した。彼は指揮権と傭兵を雇うのに必要な、二〇〇〇〇人の兵士の一年分の給与の相当する資金を引き継ぐと、その信頼を裏切った。ペルシア人の手に反徒を引き渡せば王から莫大な恩賞を得られるのみならず沿岸地帯の全太守領を引き継げるのではないかと思った彼は最初に金を持ってきた人たちを逮捕してアルタクセルクセスに引き渡した。次いで多くの都市と雇われていた兵士を王によって送り込まれていた指揮官たちに引き渡した。同様にしてカッパドキアでも裏切りが起こり、そこでは奇妙で予想だにせぬことが起こった。王の将軍アルタバゾスは大軍を率いてカッパドキアに攻め込み、同地の太守ダタメスは彼につき従う多数の騎兵と一二〇〇〇人の歩兵の傭兵を集めて彼と矛を交えた(97)。しかし騎兵を指揮していたダタメスの義父(98)は〔アルタバゾスからの〕歓心を買うと同時に身の安全を得ようとし、夜に脱走して騎兵と共に敵へと駆け、アルタバゾスと翌日の裏切りの手はずを整えた。ダタメスは傭兵を呼び寄せて気前の良い贈り物を約束し、脱走者の攻撃に乗り出した。〔裏切った騎兵たちが〕まさに敵と合流するという時を見計らって彼はアルタバゾスの親衛隊と騎兵隊を同時に攻撃し、近づく者を皆殺しにした。アルタバゾスは当初は本当のことを知らず、ダタメスを見捨てた者たちは偽の寝返りをしようとしているのだと疑った配下の兵士に近づいてくる騎兵を皆殺しにするよう命じた。そしてミトロバルザネスは両軍の挟み撃ちに遭い、その一団は裏切り者としての復讐を受けた。偽の裏切りのためにもう一つの罰が加えられようとしため――窮地にあったが、しかし状況が深く考える時間を与えなかったためにミトロバルザネスは兵力を頼みとして双方と戦って凄惨な虐殺が起こった。最終的に一〇〇〇〇人以上が殺され、ダタメスはミトロバルザネスの残りの兵士を敗走させてその多くを殺し、ラッパで追撃中の兵を呼び戻した。生き残った騎兵のうち一部はダタメスのところに戻って許しを請うた。残りは何もせずどこへも行かず、そして最終的に数にしておよそ五〇〇人が投降してダタメスから難じられた。ダタメスはこれ以前でさえ将軍としての技量で賞賛を受けさえしたものの、その時の彼は勇気と戦争の技術における知恵の両方で絶賛された。しかしアルタクセルクセス王はダタメスの将軍としての偉業を知ると、彼から解放されようと望んで暗殺を企てた(99)
92 それらの出来事が起こっていた一方でエジプトのタコス王のもとへと反乱軍によって送られていたレオミトレスは五〇〇タラントンの銀と五〇隻の軍船を受け取り、レウカイという都市へ向けてアジアへと航行した。彼は反乱軍の多くの指導者をこの市へと呼び寄せた。彼は彼らを逮捕して枷を付けてアルタクセルクセスのところに送って自分自身が裏切り者となり、その裏切りによって得た好意によって王と和平を結んだ。エジプトではタコス王が戦争の準備を完了し、今や高価な装備を施された二〇〇隻の三段櫂船と一〇〇〇〇人のギリシアからの選り抜きの傭兵、それらに加えて八〇〇〇〇人のエジプト人歩兵を有するに至った。彼は一〇〇〇人の重装歩兵と共に同盟者として戦うためにラケダイモン人によって派遣されてきたスパルタ人アゲシラオスに傭兵の指揮権を与えたわけであるが、それはこの人が兵の統率に優れて勇気と戦争の技術における賢明さで名をはせていたためであった(100)。海軍の指揮権をタコスは国から公式に送られていたが、遠征に加わるよう個人的に王によって説き伏せられていたアテナイ人カブリアスに委ねた。王自身はエジプト軍を指揮して全軍の総帥となり、エジプトに留まって将軍たちに代理で戦争をさせるべきだというアゲシラオスの忠告に、その忠告は尤もであったにもかかわらず耳を貸さなかった。事実、軍が遠く離れて出征してフェニキア近くに野営していると、エジプトに残されていた将軍が王に反旗を翻し、〔その将軍は〕自身の息子のネクタネボス(101)に手紙を送ってエジプトの王位につくよう説得し、かくして大戦争が起こった。王によってエジプト出身の兵士の指揮官に任命されていたネクタネボスはフェニキアからシュリアの諸都市の包囲のために送られており、父の計画に賛成した後に彼は家臣たちを賄賂で、一般兵卒を約束で懐柔して同志になるよう説き伏せた。結局エジプトは反徒の手に渡り、タコスは恐慌状態に陥ってアラビアを経由して大胆にも王のところへと向かって過去の過ちへの許しを乞うた。アルタクセルクセスは彼の責任を不問にしただけでなく対エジプト戦争の将軍に任命しさえした。
93 少し後に四三年間統治したペルシア王が死に、今やアルタクセルクセス〔三世〕に名を改めたオコスが王国を継承して二三年間統治した。というのも一人目のアルタクセルクセス〔二世〕は善政を敷いて徹頭徹尾平和を愛して幸運な様を呈していたため、ペルシア人たちは彼の後に支配した人の名を改めてその名を使うように規定していたからだ。タコス王がアゲシラオス軍の方へと戻ってくると、一〇万人以上の兵を集めたネクタネボスはタコスに手向かって王権をめぐる戦いを挑んだ(102)。今やアゲシラオスは王が怯えていて戦いの危険を冒す勇気を持っていないことを見て取ると、彼を元気付けた。「といいますのも」彼は言った。「勝利を得る者は数で勝る者ではなく、勇気で勝る者なのですから」。しかし王はアゲシラオスの言うことに耳を貸さずにある大都市へと彼を連れて撤退した。最初エジプト軍(103)は一旦彼らへの攻撃を開始して彼らはそこに封じ込められたが、城壁への攻撃で多くの兵を失うと城壁と壕でその都市を包囲した。その作業が多くの工夫のためにほとんど完成しかけると、市内の物資が底を尽いてタコスは身の安全を絶望したが、アゲシラオスは予想だにせぬ出撃を行って全ての兵を率いて無事脱出させた。エジプト軍は末端の作業を続けており、その地域は平坦だったためにエジプト軍は敵が優勢な兵力に包囲されていて完全に彼らは壊滅するだろうと推測したが、アゲシラオスはその両側に運河があって川から水を供給されていたたために敵の攻撃を免れていた一カ所を占領した。次いで地形に従って軍を置いて運河で軍を守ると、彼は戦いに加わった。エジプト軍の優勢な兵力は無用になり、勇気で勝っていたギリシア軍は多くのエジプト兵を殺して残りを敗走させた。その後タコスは易々とエジプトの王権を回復し、アゲシラオスは独力で王国を取り戻したために然るべき贈り物で讃えられた。母国への帰国の途中、キュレネでアゲシラオスは死に、彼の遺体は蜂蜜漬けにされてスパルタへと運ばれ、そこで彼は王に相応しい葬儀と栄誉を与えられた。
 この年の終わりまでのアジアでの出来事は以上のように進展した。

メガロポリスの住民の帰属問題
94 ペロポネソス半島ではアルカディア人がマンティネイアの戦いの後に普遍平和に同意したにもかかわらず、僅か一年前の約定を遵守せずに戦争を再開した。その約定には各々の人は戦いの後にそれぞれの母国に帰るが、新たな家へとやってきて母国から苦労しながら移ってきたと見られていた近隣諸都市の住民はメガロポリス市に来るものと書かれた。したがって彼らが以前の諸都市へと帰ると、メガロポリス人は彼らに母国を放棄させようとした。このために諍いが起こると町の人々はマンティネイア人と他のアルカディア人、さらにエリス人とマンティネイア人との同盟の加盟国であった他の人々にも助けを求め、一方メガロポリス人は同盟者としてテバイ人を自分たちと共に戦わせようとした。テバイ人は速やかに彼らへと将軍としてパンメネスを三〇〇〇人の重装歩兵と三〇〇騎の騎兵と共に急派した。彼はメガロポリスに来て、いくつかの町を略奪して他の町を恐れさせることで無理矢理にそれらの住民に住居をメガロポリスに移させた。かくして諸都市の合併問題はこのような混乱状態に至った後にできる限り穏健に解決された。
 歴史家のうちシュラクサイのアタナス(104)はディオンの遠征に伴う出来事とそれに続く出来事から始まる一三巻の歴史書を書いたが、彼は一巻の前にフィリストスの論考に記録されなかった七年間の説明を置き、それらの出来事を要約の形で記録することで自分の歴史書をフィリストスの歴史書の続きの話とした。

メガロポリスの住民の帰属問題
95 ニコフェモスがアテナイでアルコンだった時(105)、ローマではガイウス・スルピキウスとガイウス・リキニウスが執政官職を引き受けた(106)。彼らの任期の間にフェライの僭主アレクサンドロスはキュクラデス諸島へと海賊の船団を送ってそのいくつかを襲って多くの捕虜を獲得し、次いで傭兵をペパレトスに上陸させてその都市を包囲した。アテナイ人がレオステネスをその任に就かせてペパレトス人に救援を向かわせると、アレクサンドロスはアテナイ軍を攻撃した。実際には彼らはアレクサンドロスの兵を封鎖してパノルモス(107)にいた。僭主の兵が奇襲をかけると、アレクサンドロスは驚くべき勝利を得た。彼はより大きな危険からパノルモスの分遣隊を救い出したのみならず五隻のアッティカ船と一隻のペパレトス船を拿捕し、六〇〇人を捕らえた。アテナイ人は憤慨してレオステネスを裏切り者として処刑して財産を没収するよう告訴し、次いでカレスを艦隊を指揮する将軍に選び出して艦隊を与えて送り出した。しかし彼は敵を避けて同盟者を傷付けながら時を過ごした。というのも彼は同盟都市であったコルキュラへと航行して多くの殺人と没収が起こった暴力的な内戦を扇動し、その結果として同盟者の目にはアテナイ民主制への信用が下落したように見受けられた。かくして他の多くの無法行為を行ったカレスは何も良いことをせずただ国への信用を下げることしかしなかった。
 ボイオティア人の歴史家ディオニュソドロスとアナクシスは彼らのギリシア史の話をこの年で終わらせた。しかし我々はフィリッポス王の時代以前の出来事を語ったのでこの巻を当初に述べた計画に則ってここで終えることにする。フィリッポスの王位継承から始まる次巻で我々は世界において〔ギリシア人らに〕知られている地方で起こった他の出来事を含む、この王が死ぬまでの全ての事績を記録することにしよう。




(1)紀元前386年から紀元前361年まで。
(2)紀元前386-385年。
(3)紀元前394年。
(4)アンタルキダスの和約(14巻110章参照)。
(5)ラケダイモンの援助の下で権力を握っていた寡頭派。
(6)ディオニュシオスはレナイア祭に「ヘクトルの解放」という劇を上演して優勝したのが実際のようである(N)。
(7)紀元前385-384年。
(8)紀元前393年。
(9)デルフォイの神託のこと。
(10)紀元前384-383年。
(11)紀元前392年。
(12)紀元前383-382年。
(13)紀元前391年。
(14)正確には王ではなくスフェト
(15)「先取り」の意。
(16)権力を失った以上は領地のことなどどうでもよいと考えたためであろうか。
(17)紀元前382-381年。
(18)紀元前390年。
(19)ここを支配するならばボイオティア全土も支配できる要地ということ。
(20)紀元前381-380年。
(21)紀元前389年。
(22)紀元前380-379年。
(23)紀元前388年。
(24)「守備隊としての利用と土地の取得のためのアテナイからその属国の領土へのクレルコイつまり移住者の発進はアテナイの4世紀の帝国の期間にはその属国の目にはアテナイへの不平不満の一つとして映っていた」(N)。
(25)スパルタはその社会システム上、少数の完全市民であるスパルティアタイでペリオイコイやヘイロータイの不満や反乱を抑えつけなければならなかったため(N)。
(26)紀元前379-378年。
(27)紀元前387年。
(28)ディオニュシオスがヒッポニオンを落とした際、市民をシュラクサイへと移住させ、土地をロクリス人に与えたため。14巻107章を参照。
(29)紀元前378-377年。
(30)紀元前386年。
(31)ローマ人は第一次ポエニ戦争以前はほとんどサルディニア島に関心を持っていなかったので、ここはラティウムの都市、サトリクムと読むのが正しいだろう(N)。
(32)紀元前377-376年。
(33)紀元前385年。
(34)これが所謂第二次アテナイ海上同盟の結成であり、この目的はスパルタのギリシアでの覇権を覆すことであった(N)。
(35)おそらく紀元前380-379年の冬(N)。
(36)おそらく紀元前378年春(N)。
(37)紀元前378年(N)。
(38)紀元前377年。
(39)紀元前376年。
(40)紀元前376-375年。
(41)紀元前384年。
(42)暗殺は情報としては間違いで、16巻7章にあるようにカブリアスはキオスでの海戦で戦死した。
(43)紀元前375/374年、
(44)紀元前375-374年。
(45)紀元前383年。
(46)ボイオティア連邦は394年にテバイ指導下で再建されたが、387年からこの時までは途絶していた。371年にテバイの使節はボイオティアの残りの地域に関することをテバイが署名する権利はスパルタがラコニアに対して持つのと同じ権利であると主張した(N)。
(47)レウクトラの戦い。
(48)紀元前374-373年。
(49)紀元前382年。
(50)地中海東部で毎年夏におよそ四〇日の間吹く乾いた北西風。
(51)英訳ではこの欠損部分には「ラケダイモン人のおかげで復帰したその亡命者たちは今度は彼らの政敵を追放した」というような文言があったと推測、捕捉されている(N)。
(52)紀元前373年の夏の終わり頃。
(53)紀元前373-372年。
(54)紀元前381年。
(55)神々のこと。
(56)前者はアルフェウス川の支流であるラドン川、フェネウス川に注ぐ。後者はステュンファロス川である(N)。
(57)紀元前372-371年。
(58)紀元前380年。
(59)紀元前371-370年。
(60)紀元前379年。
(61)レバデイア近くの地下にあり、神託を与えるゼウスの聖所。
(62)紀元前370-369年。
(63)紀元前378年。
(64)イアソンが得た官職は「タゴス」。しかし後述されるイアソンの死はテッサリアの統一を突如瓦解させ、テバイによる侵略に道を開くことになった(N)。
(65)紀元前369-368年
(66)紀元前377年。
(67)紀元前370/369年の冬。
(68)第一次メッセニア戦争(紀元前743年-紀元前733年)。
(69)「乙女の子供」の意。メッセニア戦争で出征せずにスパルタに留まり、市民権を剥奪されたスパルタ市民。
(70)第二次メッセニア戦争(紀元前685年-紀元前668年)。
(71)第三次メッセニア戦争(紀元前464年-紀元前455年)。
(72)ザンクレと呼ばれていた都市を故郷にちなんでメッセネと名付けた(N)。
(73)紀元前368年の春。
(74)紀元前368-367年。
(75)紀元前376年。
(76)正確にはアミュンタス三世の娘エウリュノエの夫で、アミュンタスに対しては婿になる(ユスティヌス, VII. 4, 5)。
(77)紀元前367-366年。
(78)紀元前366-365年。
(79)紀元前370年。
(80)紀元前365-364年。
(81)紀元前369年。
(82)紀元前364-363年。
(83)紀元前368年。
(84)中央ギリシアの大部分をオルコメノスから支配していた先史時代のギリシアの民族(N)。
(85)紀元前364年6月13日(N)。
(86)おそらくアンタルキダスの和約のことであろう。
(87)エパメイノンダスのテバイ艦隊が紀元前364年の夏にマルマラ海で活動してビュザンティオンをアテナイの連邦(第二次アテナイ海上同盟)から離脱させていたが、同地にティモテオスが到着するとエパメイノンダスは撤退し、前者はビュザンティオンを取り戻し、キュジコスの包囲を解いた(N)。キュジコスの包囲についてはネポスの「ティモテオス伝」1節に記述があるが、当該箇所からは誰が包囲していたのかは明らかではない。ウィリアム・スミス編『ギリシアとローマの伝記と神話の辞典』(A Dictionary of Greek and Roman biography and mythology)のティモテオスの項ではペルシアの守備隊からと推定されている。
(88)紀元前363-362年
(89)紀元前367年。
(90)この時代のスパルタにはアギスという王はいないので、これはアゲシラオスの間違いであろう。
(91)おそらくこれは兵役年齢に満たない少年だろう。
(92)紀元前362-361年。
(93)紀元前366年。
(94)「アリオバルザネスとミトリダテスの同定の困難さは以下の諸事実にかかっている。(1)407年にアリオバルザネスはダスキュレイオン太守ファルナバゾスの下位にいた(クセノフォン, 『ギリシア史』, 1. 4. 7)。(2)ファルナバゾスがアルタクセルクセスの娘と結婚するために王宮に召喚された時、387年頃にアリオバルザネスはダスキュレイオン州をファルナバゾスから引き継いだ(クセノフォン, 前掲書, 5. 1. 28)。(3)アリオバルザネス〔原文では「アルタバゾス」とあるが、これでは文意が通らないので独自に訂正〕はファルナバゾスと王の娘との間に儲けた息子アルタバゾス(〔ディオドロスの15巻〕91章2節)が育った時、彼に地位を譲るのを拒み、かくして太守たちの反乱の指導者となった(ネポス, 「ダタメス伝」, 2. 5、トログスの序文, 10、デモステネス, 15. 9、イソクラテス, 15. 111、ネポス, 「ティモテオス伝」, 1. 2-3も参照)。(4)アリオバルザネスは息子のミトリダテスに裏切られて362年頃に野営地に送られて磔刑に処された(ハルポクラティオンも見よ。クセノフォン, 『キュロスの教育』, 8. 8. 4; アリストテレス, 『政治学』, 5.1312A; ウァレリウス・マクシムス, 9. 11, ext. 2)。(5)(この節の)アリオバルザネスは(ポントスの)王になるミトリダテスが後を継いだ。(6)アリオバルザネスは(ポントスで)26年間(この節と合致する)支配した後に337/6年に死に(16巻90章2節)、ミトリダテスが後を継いだ。ハルポクラティオンだけがアリオバルザネスの磔刑について述べていることは特記に値する。ミトリダテスによるアリオバルザネスへの攻撃についてのアリストテレスの言及はラカム, L. C. L.450頁 〔ラカムによるアリストテレスの『政治学』の英訳の注〕では躊躇いがちに337/6年に置かれている。クセノフォンは『キュロスの教育』の中でレオミトレスとタコスと並べて〔アリオバルザネスの〕殺害を述べているため、アリオバルザネスの死は、クセノフォンがおそらく死んでいて『キュロスの教育』が確実にほぼ完成していた337/6年ではなく362年に置かれることになる。したがって(1)、(2)、(3)、そして(4)は同一人物を指し、(5)と(6)のアリオバルザネスとは別人であるとするユデイヒ(P.W. Realencyclopadieのアリオバルザネスの項)に同意するだろう。ベロッホ(Beloch, Griechische Geschichte2, 3.2 § 60)はこの結論に至っており、ディオドロスはここではミトリダテスから王位を継ぐと述べているのは間違いであると述べている。これがポントスのミトリダテス1世だとすれば、息子で、十中八九ここで問題になっている太守のアリオバルザネスの甥であるアリオバルザネスが彼の後を襲ったことになる。甥の方のアリオバルザネスはキオス(そしてアリネ(?)、〔『歴史叢書〕20巻111章4節)のアリオバルザネスとしておそらく知られている者で、息子のミトリダテス2世が後を襲った。おじの方は反乱を起こした太守で、彼を裏切って彼の死を招いたミトリダテスを息子に持つ方である」(N)。
(95)オロンテスはアルタスラスの息子で、王の娘ロドグネの夫である(クセノフォン, 『アナバシス』, 2. 4. 8; プルタルコス, 『アルタクセルクセス』, 27. 4)。紀元前401年のアルメニアの太守だったにもかかわらず((クセノフォン, 前掲書, 3. 5. 17; 4. 3. 4)、(トログス, 序文, 10でを無視すれば)アルメニアを失ったことでこの時にはミュシアだけの太守であったが、ディオドロスが言うように今は王に対する反乱を裏切ったことでアウトフラダテスの支配下にある全ての沿岸諸都市の州(つまりサルデイス州)を獲得しようと望んでいた。アウトフラダテスもまた彼の味方に戻ってきたため、王の軍は355年に復活するまで苦しめられた。彼は恐らく344年頃に死んだ(Beloch, Griechische Geschichte 2, 3. 2. 138-140; 上記のchap. 2. 2を見よ)
(96)アウトフラダテスはおそらく392年にサルデイス、388年には沿岸諸都市のみの太守で、後にティリバゾスの死後に再びサルデイスを取り戻して死ぬまで保持した(彼についてのBeloch, Griechische Geschichte 2, 3. 2. 135-136での説明を見よ)。
(97)紀元前359年夏。
(98)ネポス(「ダタメス」, 6)によれば、名前はミトロバルザネス。
(99)王の企ては成功し、投降者を装ったミトリダテスという将軍によってダタメスは謀殺された(ネポス, XIV. 10)。
(100)アゲシラオスはマンティネイアの戦いの後の紀元前362年の秋ないしその次の春にエジプトへと来たはずで、この遠征は紀元前361年の夏に行われたものであると推測される。タコスが覆された後アゲシラオスはネクタネボスを支持して彼の下で戦った(N)。
(101)プルタルコスによればネクタネボスはタコスの従兄弟(プルタルコス, 「アゲシラオス」, 37)。
(102)この章の記述は他の史料とは真逆のことを言っている。ディオドロスはアゲシラオスは終始一貫してタコスの側で戦ったとしているが、クセノフォンやプルタルコスはアゲシラオスはネクタネボスに寝返って戦い、ネクタネボスを勝利させたとしている。
(103)ネクタネボス軍。
(104)アタナスはディオンの時代にシュラクサイで政治的に大きな役割を果たした人物で、本文にある年はフィリストスが筆を折った紀元前363年から紀元前357年までの7年間(N)。
(105)紀元前361-360年。
(106)紀元前364年。
(107)シケリアにあるパノルモスではなく、キュクラデス諸島のティノス島にある村。




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