13巻→ディオドロス『歴史叢書』14巻→15巻

1 全ての人は自然的に自分に対する悪口を聞くように躾られているのかもしれない。なるほど悪事を働く人たちでさえあらゆる点においてそれを否定できないことは明白であり、深く憤っていようとも非難の的になった時にはその非難に応答しようとするものである。したがって全ての人はできる限り何らかの悪事に手を染めないように気をつけるはずであり、指導的な立場への野心を抱く人や、運命の贈り物によってもたらされる人々からの支持を得ようとする人はとりわけそうである。というのもそのような人たちの人生は彼らの特質のために万事公然たるものであり、その無思慮を隠し立てできないからである。したがって何らかの卓越性を持った者は誰も自分が大罪を犯してもずっと知られずに済んで非難されないだろうという希望を抱くことはないだろう。というのも存命中は譴責の判決を避けたとしても、後に真実が彼のことを明るみに出して長らく述べられずに隠されていた事柄を大っぴらに公言するだろうと予期するはずだからだ。したがって悪人たちにとっては死に際して後世に永遠の絵を、つまり彼の全生涯を残すことは酷い運命であることになる。死後に起こることが我々と関係がないとしても、或る哲学者たちが喧伝し続けているところでは、それにもかかわらず、死より前にある生はそれが受ける悪しき記憶の故にあらゆる時にずっと悪しきものになる。このことの顕著な例がこの巻に収められている詳細な話を読む者に明らかになるであろう。
2 例えば、アテナイ人のうちで利益への欲望から僭主になった三〇人は祖国に大きな不幸をもたらしただけでなく、すぐに自らもまたその権力を失って不死なる不名誉な記憶を後世に残すことになった。ラケダイモン人はギリシアの押すに押されぬ覇権を勝ち得て以降は同盟者を犠牲にして不正な計画を実行に移そうとしたために覇権を奪われた。というのも覇権を享受するのを喜ぶ者の卓越性は善意と正義によってこれを維持することに存し、覇権は不正と従属者の憎悪とによって覆されるからだ。似たようにしてシュラクサイの僭主ディオニュシオスはそのような支配者のうちで最も運に恵まれた支配者だったにもかかわらず、絶えずその生命に対する陰謀に晒され、恐怖のために下着の下に鉄の胴鎧を着ることを余儀なくされ、生涯を終えるまで一生の間、人々からその顕著な例としての悪口を言い伝えられることになった。
 しかし我々は然るべき時代との関連によってより詳細にその各々の有様を記録すべきであり、目下のところは我々の〔書かんとする〕時代を設定するのを中断するだけにしておき、説明を継続するのがよいだろう。これまでの巻で我々はトロイアの占領からペロポネソス戦争とアテナイ帝国の終焉に至る七七九年間に起こった出来事の記録を書き留めてきた。この巻では、次に起こる出来事を我々の話に付け加えるために三〇人僭主制の樹立で始めてガリア人によるローマの占領でもって止め、一八年間の年月を収めることにしよう。
3 アテナイでは政府の転覆のためにアルコンが不在で、この時はトロイア占領から七八〇年目で(1)、ローマではガイウス・フルウィウス、ガイウス・セルウィリウス、ガイウス・ウァレリウス、そしてヌメリウス・ファビウスといった四人の軍務官が執政官の職権を引き継ぎ(2)、この年は九四回目のオリュンピア会期が祝われてラリサのコルキナスが優勝者となった。この時、完全に疲弊し切っていたアテナイ人はラケダイモン人と条約を結び、これに則って市の城壁を破壊して父祖の政体を営むよう縛られた。彼らは城壁を破壊したが、政治組織(3)については同意に至らなかった。というのも寡頭制に拘っていた人たちは非常に僅かな人たちが国家を代表するという古の政体を復古すべしと主張し、より多数の人々は民主制の支持者で、自らの父の政治組織をよりどころとし、広範な支持を得てこれこそが民主制だと明言した。
 この対立が数日間続いた後、寡頭派は当然リュサンドロスが自分たちの計画を支援してくれるだろうと期待し、戦争を終結させて諸都市の政府を監督するために派遣されていて非常に多くの都市に寡頭制を樹立していたスパルタ人リュサンドロスに使者を送った。したがってリュサンドロスが丁度サモスに滞在してこの都市を掌握していたために彼らはサモスへと航行した。彼は協力の要請に同意し、スパルタ人トラクスをサモスの代官に任命して自ら一〇〇隻の船を連れてペイライエウスに投錨した。彼はアテナイ人の民会を召集し、政府を指導して国事の全てを取り仕切る三〇人を選ぶよう勧めた。テラメネスが彼に反対し、アテナイ人は父祖伝来の政府を運営することに同意するという和平条項を彼に読んで聞かせ、宣誓に反して自由を奪われるならばこれはけしからぬことだと明言すると、リュサンドロスはアテナイ人が猶予期日より遅れて城壁を破壊したと主張し、和平条項はアテナイ人によって破棄されたと述べた。彼はもしテラメネスがラケダイモン人に楯突くのを止めないならば自分は彼を処刑することになるだろうと言ってテラメネスに最も酷い脅しをかけた。したがってテラメネスと人々は恐怖して挙手によって民主制の解体を余儀なくされた。かくして三〇人の人たちが国事を運営するために力づくで選ばれたわけであるが、これは表向きは指導者だが、事実上は僭主でしかなかった。
4 人々はテラメネスの立派な振る舞いを見て彼の名誉ある理念が彼に指導者たちの悪行をある程度食い止める行動をとらせるだろうと信じ、三〇人の役人のうちの一人に選出した。評議会と他の行政官たちを任命し、国家を治める尺度となる法を制定することがこの選ばれた人々の義務であった。今や彼らはいつも尤もらしい口実を弄しては法の制定を遅延させたが、評議会と他の行政官たちを私的な友人の中から任命したため、その人たちは行政官の名を冠してはいるものの、実のところその三〇人の手下に成り下がっていた。まず彼らは市で最も下卑た連中を裁判に引きずり出して死を宣告した。したがって最も名誉ある人たちは彼らの行いに賛同した。しかしこの後、より乱暴で無法な行いに手を染めようと望み、ラケダイモン人の利害に適う政体を樹立するつもりであると言ってラケダイモン人に駐留軍を求めた。というのも彼らの知るところでは全ての人たちは共同での防衛のために一致団結するため、彼らは外国の軍の助力抜きでは殺人を行うことはできないだろうと分かっていたからだ。ラケダイモン人が駐留軍とこれを指揮するカリビオスを送ってくると、三〇人政権は賄賂を送って彼の便宜を図ることで彼を味方につけた。次いで彼らの目的に適うような最も富裕な人たちを選び出すと、革命を企てたとして逮捕して殺し、財産を没収した。テラメネスが彼の同僚たちに反対して権利の保証を訴える仲間に加わるよう脅すと、三〇人政権は評議会を招集した。クリティアスが彼らの代弁者となり、長い演説で自分からその一員となったところのこの政府に対する裏切りを働いたとしてテラメネスを弾劾した。しかしテラメネスはこれへの応答で身の潔白を示して評議会の皆の同情を得た。クリティアスはテラメネスが寡頭制を転覆させるのではないかと恐れて抜き身の剣を持った兵士の一隊を彼に差し向けた。彼らが彼を拘束しようとしたが、彼らが来ることを予測していたテラメネスは議事堂のヘスティアの祭壇へと飛び込んでこう叫んだ。「私は自分が助かると考えてではなく、私を殺す者が神々に対する不敬虔な行為に手を染めることになるのを確実にするために神々の下へと逃げ込むのだ」
5 参加者たち(4)がやってきて彼を引きずり出そうとすると、ソクラテスと一緒に少なからず哲学に親しんでいたためにテラメネスは立派な精神でもって自らの悪しき運命に耐えた。しかし大衆はテラメネスの悲運を嘆きはしたが、武装した強力な衛兵が彼の周りに立っていたために彼を助けにいく勇気を持てなかった。この時、哲学者のソクラテスと彼の二人の親友たちが駆け寄って護送者の邪魔をしようとした。しかしテラメネスは何もしないでくれと彼らに懇願した。しかし彼自身は自分が非常に懇意にしていた人たちの死の原因になれば、これほど悲しいことはないと思っていた。ソクラテスと彼の支援者たちは誰の助けも得られず、権勢を増していく人たちの頑迷さを理解したために動こうとはしなかった。それから彼らの命を受けた者たちはテラメネスを祭壇から引きずり出してアゴラの中心を通って彼を処刑場へと急き立てていった。そして駐留軍の武器を恐れていた人々は不運なこの男への憐憫で満たされ、彼の運命のみならず彼ら自身の隷属に涙を流した。一般の人々は有徳の士であるテラメネスがこれほどまでに不躾に扱われていることを知ると、考えるまでもなく自分たちはその弱さから犠牲になるだろうと結論付けていたからだ。
 テラメネスの死後、三〇人政権は金持ちの一覧を作成して彼らに対してでっち上げの起訴を行い、これを殺して土地を奪った。彼らはシュラクサイ人に対する遠征を指揮したニキアスの息子であり、公正且つ寛仁な態度で全ての人に接しており、恐らく全アテナイ人第一の富と名声を持っていたニケラトスさえ殺した。したがってどの家もその男の最期への慈悲で満たされることになり、彼の正直な生き方の記憶へと思いをいたす度に彼らの涙を誘った。にもかかわらず、僭主たちは無法行為を止めなかったどころかその悪逆非道は輪をかけて過酷になり、財産を奪うために六〇人の金持ちの在留外国人が殺戮され、市民が毎日殺されて裕福な者はそのほとんどが市から逃げた。彼らは正直者のアウトリュコスも殺してしまった。つまるところ最も尊敬に値する市民たちを〔犠牲者に〕選んでしまったというわけである。かくしてアテナイ人の半分以上が逃げ出すほどに市は荒れ果ててしまった。
6 アテナイ人の都市が力を落としたことを見て取り、そしてアテナイ人が更なる力を得ることを望んでいなかったラケダイモン人は喜んで旗色を明確にした。このためにアテナイ人亡命者〔民主派の亡命者。〕はギリシアの全域から三〇人政権のもとへと送還されねばならず、これを妨げようとする者は誰であれ五タラントンの罰金を課されるべしとラケダイモン人は票決した。この布告は衝撃的ではあったものの、残りの全ての都市はスパルタ人の権勢に意気阻喪してこれに従った。例外はラケダイモン人の残酷さを憎んで不運な人たちの巡り合わせを哀れんだアルゴリス人であり、彼らが人道精神の下に亡命者たちを受け入れた最初の人となった。テバイ人もまた、亡命者を目撃しても彼らを連れて行ってできる範囲内で助けを与えない者は罰金の対象となるべしと票決した。
 アテナイ人の状況は以上のようなものであった。
7 シケリアでは、シケロイ人(5)の僭主ディオニュシオスはカルタゴ人と講和条約を結んだ後、僭主制の強化にますます邁進していた。というのも彼は今や戦争から解放されたシュラクサイ人は自由を取り戻す時間をたっぷりと得ることになるだろうと考えたからだ。〔オルテュギア〕島が市内で最も強力な区画で守りやすいことを見て取ると、彼は多額を投じて作った城壁で市の残りの部分からそこを分離し、隙間の狭い高い塔をいくつか建て、一方でその前面には大勢の人を収容できる取引場と柱廊を建てた。彼はその島に巨額を投じて退っ引きならなくなった時の避難先として要塞化したアクロポリスも建設し、その城壁の内側に彼はラキオンの名で知られる港に造船所を連結して囲い込んだ。その造船所は六〇隻の三段櫂船を収容でき、一度に一隻の船しか入れないようになるまでその入り口を閉めることができた。彼はシュラクサイ領の最良の場所を選んで友人ら及び高官らに贈り物として分配し、残りの区画は「新市民」と名付けられた人たちを含む外国人と市民の両方に等しく分けた。また彼は島内の友人と傭兵たちに与えた住居を除き、一般民衆に住居を分配した。
 ディオニュシオスは今の自分は僭主制をうまく組織していると考えるようになると、特にカルタゴ人とかねてより同盟を結んでいたシケロイ人をはじめとし、独立していた人々をことごとく自らの支配下に置こうとしてシケロイ人に向けて軍を率いていった。したがって彼はヘルビタ人の都市に進軍して包囲戦の準備をした。しかし軍内のシュラクサイ人は武器を手にする段になると徒党を組み、騎兵の味方をして僭主打倒に加わらなかったとして互いに誹りあった。ディオニュシオスによって兵の指揮権を委ねられた人たちはまず自由にものを言うことができた人たちの一人に〔やめるように〕警告し、この男が口答えすると、将軍は彼に一撃食らわせるべく大胆に近づいた。兵士たちはこれに怒ってドリコスという名のこの将軍を殺し、大声を出して市民に自由のために戦うよう求め、騎兵に向けてアイトネからの出馬を願う手紙を送った。というのも僭主制が始まった時に追放されていたその騎兵たちはこの前哨基地を占領していたからだ。
8 シュラクサイ人の反乱に狼狽したディオニュシオスは市(6)を確保すべく包囲を解いてシュラクサイへと急いだ。彼の逃走に際して反乱を起こした兵たちは将軍を殺した人たちを将軍に選出し、アイトネから来た騎兵を兵数に加えてエピポライと呼ばれる高地に陣を張って僭主と対陣し、郊外までの道を封鎖した。そしてすぐに彼らはメッセネ人とレギオン人に使節団を送ってそれらの人々に海で行動を起こして自由のための戦いへと参加するよう求めると、それらの都市は八隻を下らない三段櫂船に人員を乗せた。その時にそれらの都市は自由の大義を支持して三段櫂船をシュラクサイへと派遣した。また、反乱軍は僭主を殺した者には多額の報償を与えると発表し、彼らの側についた傭兵には市民権を与えることを約束した。彼らは城壁を粉砕して破壊するための兵器を建造し、島に日夜攻撃をかけ、彼らの側に寝返ってきた傭兵を懇ろに受け入れもした。
 ディオニュシオスは郊外から閉め出されて絶えず傭兵から見捨てられ続けたため、目下の状況について諮るために友人たちを集めた。彼は僭主権力を完全に見限っていていたためにどうやってシュラクサイ人を破るかよりもむしろ支配を不名誉なものとしないためにどのような死に方をすればよいかを諮った。彼の友人の一人ヘロリス、あるいは幾人かの言うところでは彼の養子は「僭主権力は素晴らしい死に装束です」と言い放った。しかし彼の義弟ポリュクセノスは一番速い馬を使ってカルタゴ人の支配地の、ヒミルコンがシケリアの土地を守るために残したカンパニア人のところへと向かうよう彼に勧めた。しかしそれらの出来事の後に歴史書を編んだピリストスはポリュクセノスに反対し、馬に乗って駆け足で僭主政治から逃げ出すのは適当ではないし、それは僭主政治から追われて足から引っ張られることだと述べた。ディオニュシオスはピリストスの言うことに賛成して自分から王位を放棄するよりもむしろ何かしらのものを屈服させようと決めた。したがって彼は反乱軍に使節団を送って自分とその仲間たちが市を退去するのを許してほしいと訴える一方で、密かにカンパニア人に使者を送って包囲の続く間は報償を出すと約束した。
9 上述の出来事の後にシュラクサイ人は僭主に五隻の船で去ることをあまり用心することなく許した。騎兵たちは包囲戦では役に立たなかったために解散した一方で、僭主の命運はすでに尽きたものと思った歩兵の大部分は郊外をうろつくようになった。カンパニア人は彼らが受けた約束で奮い立ち、手始めにアギュリオンに来て市の支配者アギュリスのもとに荷物を残し、騎兵一二〇〇騎の兵力で何にも妨げられることなくシュラクサイへと向かった。速やかに旅程を消化すると彼らはシュラクサイ人に奇襲をかけてその多くを殺して押し通り、ディオニュシオスの方へと向かった。これと時を同じくして三〇〇人の傭兵もまた僭主の救援のために上陸してきたため、彼の希望は息を吹き返した。独裁権力に再び戦力が集まってきたため、シュラクサイ人のある者は包囲を続けるべきだと考え続け、他の者は軍を解散して市を放棄すべきだと思った。
 これを知るとすぐにディオニュシオスは彼らに向けて軍を率いて出撃し、無秩序な彼らに襲いかかり、いわゆる新市街まで易々と敗走させた。しかし彼らの間を馬に乗って駆けていたディオニュシオスが逃亡兵の殺戮を止めさせたために死者はあまり多くなかった。シュラクサイ人は郊外へと散り散りになったが、少し後に彼らのうち七〇〇〇人以上がアイトネの騎兵と一緒に集まってきた。ディオニュシオスは死んだシュラクサイ人を埋葬すると、アイトネへと使節団を派遣し、協定を受け入れて生まれ故郷に戻ってくるよう亡命者に求め、彼らに害を及ぼさないことを誓った。その時、その中のある者は妻子を後に残していてその申し出を受け入れざるを得なかった。しかし使節が死者の埋葬においてディオニュシオスがもたらした恩恵を引き合いに出すと、残りの者が答えて言うに、彼は同じ好意(7)に値する、彼を見ているであろう神々から早ければ早いほどその好意を得られることを祈ると答えた。したがって何があろうと僭主を信頼するつもりがない人たちはアイトネに留まり、彼に対抗する好機を窺った。ディオニュシオスは残りの人たちも故郷に戻ってくる気になるようにと望み、戻ってきた追放者たちを丁重に扱った。彼はカンパニア兵を相応の贈り物で讃え、彼らの気まぐれを知っていたために次に彼らを市から出した。彼らはエンテラへと向かってその市の人たちに自分たちを同胞市民として受け入れるよう説得した。次いで彼らは彼らに夜襲をかけて多くの軍事適齢男子を殺し、彼らが信義を破った人たちの妻と結婚して市を我がものとした。
10 ギリシアでは今やペロポネソス戦争を終結させたラケダイモン人が全面的な証人の下で陸海の覇権を振るうことになった。彼らはリュサンドロスを提督に任命し、諸都市を訪れてその各々に彼らが総監と呼ぶ行政官を置くよう命じた。なぜなら民主制を嫌っていたラケダイモン人は諸都市に寡頭制体を敷こうとしていたからだ。また彼らは自分たちが勝利した人々に貢納を納めさせ、これ以前は鋳造した貨幣を使っていなかったにもかかわらず、今や毎年貢納から一〇〇〇タラントン以上を集めるようになった。
 ラケダイモン人はギリシア情勢を自分たちの意に添うように解決すると、表向きは政権〔ディオニュシオス政権。〕を転覆するつもりと見せかけて、本当は僭主権力を増強しようとし、優れた人の一人であったアリストスをシュラクサイへと派遣した。というのも彼らはディオニュシオスの支配権の確立を支援することで彼に貸しを作り、彼の自発的な奉仕を得ようと期待していたからだ。アリストスはシュラクサイの沿岸にやってきて密かに僭主と上述の事柄について協議した後、シュラクサイ人を激励し続けて自由の回復を約束した。次いで彼はシュラクサイ人の指導者であったコリントス人ニコテレスを殺し、彼を信頼していた人たちを買収することで僭主を強化し、このような工作によって自身とその故国に不名誉をもたらした。ディオニュシオスが農作物の収穫のためにシュラクサイ人を送り出すと、彼らの家に侵入して全員の武器を運び出した。この後、彼はアクロポリスの周りに二つ目の城壁を建設して軍船を建造し、傭兵の大軍を集めた。そしてシュラクサイ人が奴隷となることを回避するためにあらゆることをするつもりであることを経験によって知っていたため、彼は僭主制を盤石なものとするために他のあらゆるものを蓄えた。
11 それらの出来事が起こっていた一方で、ダレイオス王の太守パルナバゾスがアテナイ人アルキビアデスを捕えて殺した。しかしエポロスは彼の死は他の理由によると述べているため、この歴史家が述べているアルキビアデスに対する陰謀へと話を進めることは無益ではあるまい。彼は七巻目でキュロスとラケダイモン人はキュロスの兄アルタクセルクセスに対する共同戦争のための計画を密かに練り、キュロスの企みをその一党の或る人たちから知ったアルキビアデスはパルナバゾスのもとへと向かい、その詳細を話した。そして王にいの一番に陰謀を打ち明けた者になろうとしたアルキビアデスはアルタクセルクセスにこれを教えるという使命のための案内人を〔用意するよう〕パルナバゾスに頼んだ。しかしパルナバゾスはこの話を聞いて報告者の役目を奪い、王にその件を報せるべく自分の腹心を送った。パルナバゾスが都への護衛隊(8)を寄越さないでいると、エポロスが続けるように、アルキビアデスはパプラゴニア太守のもとへ向かってその支援を得〔都へと〕ようとした。しかし王が事の真相を聞くのを恐れたパルナバゾスはアルキビアデスを途上で殺すべく手下たちに彼を追わせた。彼らは彼が隠れ家としていたプリュギアの村に来ると、夜にその場所を多くの可燃物で囲んだ。火が強く燃え上がるとアルキビアデスは逃れようとしたが、火からは逃げられても襲撃者の投槍からは逃げられなかった。
 およそ同時期に哲学者デモクリトスが九〇歳で死んだ。伝えられるところでは、この年のオリュンピア競技祭の優勝者だったテバイ人ラステネスがテバイ人の都市からコロネイアまでの走路での競争で競争馬に勝利した。
 イタリアでは、ウォルスキ人の都市エルカ(9)のローマ軍駐留軍が敵の攻撃を受け、都市は落とされて防衛軍の大部分が殺された。
12 この年の出来事が終わった時のアテナイではエウクレイデスがアルコンであり(10)、ローマではプブリウス・コルネリウス、ヌメリウス・ファビウス、そしてルキウス・ウァレリウスの四人の軍務官が執政官の職を引き継いだ(11)。それらの行政官が官職に就いた後、ビュザンティオン人は党派抗争と近隣のトラキア人との戦争のために深刻な苦境に陥っていた。彼らは〔市民の〕内紛を解決に持っていくことができなかったためにラケダイモン人に将軍〔の派遣〕を求めた。したがってスパルタ人はその都市の問題に秩序をもたらすべくクレアルコスを送った。最高権限を委任された後、彼は傭兵の大部隊を集め、最早彼らの長官ではなく僭主となった。手始めに彼は主たる行政官らをある種の祝祭に出席するよう招いてこれを殺し、この後、その都市の政権をなくして三〇人の傑出したビュザンティオン人を捕えて彼らの首に紐を巻いて絞め殺した。殺した人たちの財産を我が物とした後、彼は残りの市民の中から金持ちを選び出して濡れ衣を着せ、そのある者は殺して他の者は追放した。したがって多額の金を獲得して傭兵の大部隊を集めると、彼は自らの僭主権力を確固たるものとした。
 その僭主の残忍さと権力は海外にまで鳴り響き、ラケダイモン人は手始めに僭主権力を手放すよう説得するべく彼に向けて使節団を派遣したが、彼が彼らの要望に聞く耳を持たないでいると、ラケダイモン人はパントイダスが指揮する軍を彼に差し向けた。クレアルコスは彼の接近を知るとセリュンブリアへと軍を移動させてこの都市の主人にもなったのであるが、それというのもビュザンティオン人に対して働いた多くの罪の後に彼はラケダイモン人のみならずその都市の住民をも敵に回すことになろうと考えていたからだ。かくしてセリュブリアを戦争でのより安全な基地とすることを決めると、彼は自らの財産と軍の両方をその場所へと移した。ラケダイモン軍が間近にいることを知ると、彼は彼らの方へと向かってパントイダスの軍とポロスと呼ばれる場所で会戦した。戦いは長時間続いたが、ラケダイモン軍は見事に戦って僭主の軍勢は撃破された。クレアルコスは少数のお供を連れてまずセリュンブリアに籠って包囲を受けたが、その後に恐怖から夜にそこを抜け出し、イオニアへと渡ってそこでペルシア王の弟キュロスの知古になり、彼の軍勢を指揮するようになった。というのも沿岸諸州での最高司令権を委ねられ野心に燃えていたキュロスは兄アルタクセルクセスに対する挙兵を企んでいたからだ。したがってクレアルコスが果敢さと素早い大胆さを持っていたことを見てとると、彼はクレアルコスが自らの大胆な試みにおける才気ある協力者になると信じて彼に資金を与えて可能な限り多くの傭兵を集めるよう指示した。
13 スパルタ人リュサンドロスは監督官たちの意向に従い、一部の都市には一〇人が支配する体制を、他の都市には寡頭政府を樹立するといったようにしてラケダイモン人配下の全ての都市に政権を敷いた後、スパルタの第一人者となった。ペロポネソス戦争を終結させたことで彼は祖国に覇権を授け、それは陸と海の両方で普く認められた。したがって彼はヘラクレス家の王統に終止符を打ってあらゆるスパルタ人に王に選ばれる資格を与えようという計画を抱いた。というのも非常に偉大で栄光ある自らの業績のために彼は王位がすぐにでも自分のものになるだろうと期待していたからだ。ラケダイモン人は神託の応答に非常に注意を払っていたことを知っていたため、彼は企んでいる計画が神託から好意的な応答を受ければ、いとも容易く計画を成功利に終わらせることができると信じ、デルポイの巫女を買収しようと試みた。しかし彼が多額の金を約束したにもかかわらず神託所の職員たちを味方にすることができず、アポロニア生まれで神殿の職員たちと懇意にしていたペレクラテスなる者を通してドドナの神託所の神官たちと同様の案件の交渉に入った。
 これも成功を見なかったために彼はキュレネへと渡航し、実のところは神託所を買収するためだが、理由としてアモンへの誓約に際しての献金を申し出た。そして神殿の職員たちを味方につけようとして大枚をはたいた。事実のところ、その地方の王リビュスは彼の父の賓客であったためにリュサンドロスの兄弟は王との友情からリビュスと名付けられていた。王の助力と持ってきた金によってリュサンドロスは彼らを味方につけようと望んだが、彼の計画は失敗したのみならず、神託所の予言者たちは神託の買収を試みた廉でリュサンドロスを告発する使節団を送った。リュサンドロスがラケダイモンに戻ると裁判が提議されたが、彼は自身の行いについて説得的な弁明をした。その時のラケダイモン人はヘラクレスの末裔の王たちを廃するというリュサンドロスの目的を知らなかったが、彼の死後しばらくして何かの書類を彼の家で探していた時に、彼が王を全ての市民の中から選ぶべしと人々を説得するために準備していた、最大の費用をかけて(12)作成された演説の原稿が見つかった。
14 シュラクサイ人の僭主ディオニュシオスはカルタゴ人と講和し、市の反乱から解放された後、カルキス人の〔植民した〕諸都市、つまりナクソス、カタネ、そしてレオンティノイを味方につけようとした。それらはシュラクサイとの境界にあり、僭主の勢力をさらに遠くまで延ばすにあたって多くの利点を持っていたために彼はそれらの主になりたがっていた。手始めに彼はアイトネ近くに野営してその要塞を落としたが、アイトネにいた追放者はこの軍に歯が立たなかった。この後に彼はレオンティノイへと進んでテリア川沿いにあったその都市の近くに陣を張った。それからまず彼は戦闘隊形の軍を率いていき、住民を恐れさせたと信じてレオンティノイ人に伝令を送り、市を明け渡すよう命じた。しかしレオンティノイ人が彼の言うことに耳を貸さずに包囲戦に耐え抜くためのあらゆる準備をすると、ディオニュシオスは攻城兵器を持っていなかったために当座はそこを包囲するのを諦めたが、領地の全域を荒らした。そこから彼はカタネ人とナクソス人が彼らの市の防衛を怠けるように仕向けるため、シケロイ人と戦争をしようとしていると見せかけてシケロイ人に向けて進んだ。エンナの近くに留まっている間、彼はその都市で生まれたアエイムネストスに計画への支援を約束して僭主制を敷くよう説き伏せた。しかしアエイムネストスは計画がうまくいってもディオニュシオスを市へと入れず、怒ったディオニュシオスは裏切ってエンナ人に僭主の打倒を説いた。彼らは自由を求めてアゴラへと武器を持って殺到し、市は騒乱で満たされた。ディオニュシオスはその争いを知ると、軽装兵を率いて市内の占拠されていない場所を速やかに突破してアエイムネストスを捕らえ、罰を受けさせるためにエンナ人に引き渡した。彼自身は全ての不正行為を慎んで市を離れた。彼がこのことをしたのは、それを正しいことだと考えていたとの同じくらいに他の諸都市に自分への忠誠を持たせようと望んだためであった。
15 ディオニュシオスはエンナからヘルビタ人の都市へと向かってそこを略奪しようとした。しかし何も遂げられずに彼らと講和してカタネへと軍を向かわせたのであるが、それはカタネ人の将軍アルケシラオスが彼に都市を裏切ることを申し出てきたからだった。したがってアルケシラオスによって夜中に迎え入れられると、ディオニュシオスはカタネの主になった。市民から武器を取り上げた後、彼は市に十分な駐留軍を置いた。この後、ナクソス人の指揮官プロクレスが〔ディオニュシオスが提示した〕大仰な約束によって味方についてディオニュシオスに故郷の都市を引き渡し、ディオニュシオスは約束の贈り物をその裏切り者に渡して彼を自身の縁戚として認めた後、住民を奴隷として売り払って彼らの財産を兵士の略奪に委ね、城壁と建物を徹底的に破壊した。また彼はカタネ人にも同様の扱いを加えており、捕虜を売り払って戦利品をシュラクサイへと持ち帰った。今や彼は近隣のシケロイ人にナクソス人の領地を贈り、カンパニア人にはカタネ人の都市を住処とすることを認めた。この後、彼は全軍を率いてレオンティノイを包囲してその住民に使節団を送り、都市を明け渡してシュラクサイの市民権を得るよう命じた。孤立無援のレオンティノイ人はナクソス人とカタネ人の二の舞になるだろうと予想し、彼らが同じ悲運を辿ることへの恐怖で震え上がった。したがって切迫したこの瞬間に屈した彼らは提案を容れ、都市を離れてシュラクサイへと去っていった。
16 ヘルビタ市民がディオニュシオスと講和した後、ヘルビタの支配者アルコニデスは都市を建設し決めた。というのも彼のもとには多くの傭兵のみならず、ディオニュシオスとの戦争との関連で市へと流れ込んできた寄せ集めの群衆しかおらず、窮乏していた多くのヘルビタ人が植民に参加することを彼に約束してきたからだ。したがって多くの難民を率いた彼は海から八スタディオンのところにある丘を占領し、そこにハライサ市を建設した。シケリアには同じ名前の都市が他にもあったため、彼はそこを自らにちなんでハライサ・アルコニディオンと呼んだ。後にその都市が海上交易、それに貢納を免除したローマ人のおかげで大いに興隆すると、ハライサ人はヘルビタ人との血縁を恥じて否定し、より劣った都市の植民だと思うようになった。にもかかわらず今日に至るまで類縁の多くの繋がりが双方の人たちの間に見て取れ、彼らは同じ周期でアポロンの神殿で犠牲を捧げている。しかしハライサはヒミルコンがディオニュシオスと講和した時にカルタゴ人によって建設されたと述べている人もいる。
 イタリアではローマ人とウェイイの人々との間で以下のような理由で戦争が起こった(13)。この戦争でローマ人は初めて兵士に年毎の給与を支払うことを票決した。彼らは当時アンクソルと、今はタラキネと呼ばれているウォルスキ人の都市を包囲によって落とした。
17 この年の終わりにアテナイではミキオンがアルコンであり(14)、ローマでは三人の軍務官、ティトゥス・クインクティウス、ガイウス・ユリウス、そしてアウルス・マミルスが執政官権限を引き継いだ(15)。それらの行政官たちが任についた後、オロポスの住民は内戦に陥って市民の一部を追放した。しばらくの間、追放者たちは自力での帰国を目指したが、自分たちでは目的を達成できないことを悟ると、援軍を送ってくれるようテバイ人を説き伏せた。テバイ軍はオロポス軍と野戦を行って市を手中に収めると、住民を海からおよそ七スタディオンほどのところに再定住させた。そしてしばらくテバイ人はオロポス人に自治を許したが、後にテバイの市民権を与えて彼らの領土をボイオティアに与えた。
 それらの出来事が起こっていた間、ラケダイモン人はエリス人に対する数多くの告発を行い、最も重要なものはエリス人がラケダイモン人の王アギスが神々に犠牲を捧げるのを妨害してラケダイモン人にオリュンピア祭への参加を許さなかったことであった。したがってエリス人に戦争を起こすことを決定すると、彼らは手始めにエリス人の従属諸都市に独立を許すよう命じて一〇人の使節団を彼らの方へと派遣し、その後に対アテナイ戦争の戦費の割り当て分を要求した。彼らは自分たちにとっての体の良い口実と開戦の尤もらしさのためにこれを行った。エリス人が彼らの言うことに耳を貸さず、さらにギリシア人を隷属化しようとしているとして非難すると、彼らは四〇〇〇人の兵をつけて二人の王のうちもう一人の王パウサニアスを派遣した。彼にはボイオティア人とコリントス人を除く実質的に全ての同盟軍からの多くの兵士も同行していた。彼らはラケダイモン人のやったことで気分を害していたために対エリス遠征に参加しなかったのだ。
 それからパウサニアスはアルカディアを通ってエリス入りし、ただちに最初の攻撃でラシオンの前哨基地を落とした。アクロレイアを経由して軍を率いていった彼はトライストス、ハリオン、エピタリオン、そしてオプスといった四つの都市を味方に引き入れた。そこを発ってすぐに彼はエリスから七〇スタディオンのところにあるピュロス近くに野営してこの地を陥れた。この後、エリスそのものへと進軍すると、彼は川の畔の丘の上に陣を張った。このすぐ後にエリス人はアイトリア人からの援軍の精兵一〇〇〇人を受け取り、彼らに体育場あたりの一角を守らせた。パウサニアスは手始めにこの地の包囲を開始し、エリス人が敢えて出撃してくることはないだろうと不用心にも考えていたが、アイトリア軍と多くの市民が突如市から飛び出してきてラケダイモン軍を恐慌状態へと陥れ、三〇人ほど殺した。パウサニアスは当面のところは包囲を行っていたが、市を落とすのは骨が折れるだろうとこの後に見て取ると、彼はエリス領を荒らして神聖な戦利品だろうとお構いなしに略奪しながら横断し、大量の戦利品を集積した。すでに冬が間近に迫っていたため、彼はエリスにある城壁を巡らされた前哨基地を建設してそれらに十分な戦力を残し、自らは軍の残りと共にデュメで越冬した。
18 シケリアではシケロイ人(16)の僭主ディオニュシオスは政府の進展が満足なものになったため、カルタゴ人に対して戦争を起こそうと決めた。しかし来るべき戦いに必要な準備をしていた時、準備が十分になるまではこの意図を隠した。そしてアテナイ人との戦争で都市が海から海まで続く壁で封鎖されたことを考慮すると、彼は似たような不利な状況に陥って郊外との連絡を絶たれないようにと気をつけた。というのも彼はいわゆるエピポライの地はシュラクサイ人の都市を征する天然の要地と見ていたからだ。したがって大工の棟梁たちに手紙を出して彼らの薦めに従い、今なお六つの門のついた城壁が立つ地点でエピポライを要塞化すべきだと決定した。というのも北に面するこの場所は外側からはほとんど近づけないほどに全体が険しく、急勾配であったからだ。城壁建設を早く終わらせるために彼は郊外から小作人を集め、その中から有能なおよそ六〇〇〇人を選び出し、城壁を建てるべき場所へと彼らを分けた。彼は一スタディオン毎に棟梁を、一プレトロン毎に石工を任命し、一般工夫二〇〇人に一プレトロン毎の仕事を割り当てた。彼らに加えて大量のその他の人夫が荒い石を切り出し、六〇〇〇頭のくびきがつけられた雄牛が指定の場所へと運んだ。これほどに多くの労働者の団結した作業はその全員が割り当てられた仕事を終えようという熱意のためにこれを見る者を大いに驚かせた。というのもディオニュシオスは大勢の人たちの熱意を掻き立てるために最初に終わった者、群を抜いた棟梁、そして他の石工と一般労働者にも相応の贈り物を出していたからだ。彼は友人を集めて作業を必要とされた日の全てを視察し、あらゆる部署を訪れて人夫に手を貸しさえした。概して言えば、彼は官職の権威を脇に置いて庶民に分け入っていた。彼は最も辛い仕事を引き受けて他の労働者と同じ仕事に耐えたため、非常な競争心が生まれて一部の者は日中の仕事の上に夜も働き、仕事に際して多くの者がそのような熱意を持つに至った。その結果、予想とは裏腹に城壁は二〇日で完成した。それは長さが三〇スタディオンで相応の高さを持ち、城壁の補強はこれを難攻不落なものとした。というのも頻繁な間隔で高い塔があり、それは四プースの石から作られて、用心深く組み合わせられていたからだ。
19 年の終わりもエクサイネトスがアテナイでアルコンだった時(17)、ローマではプブリウス・コルネリウス、カエソ・ファビウス、スプリウス・ナウティウス、ガイウス・ウァレリウス、そしてマニウス・セルギウスの六人の軍務官が執政官権限を引き継いだ(18)。この時の沿岸諸州の司令官であったキュロスは長らく兄アルタクセルクセスへの挙兵を計画していた。というのもこの若者は野心に満ち、報いられないことのない戦争での戦いへの熱意を抱いていたからだ。十分な傭兵部隊が彼のもとへと集まって全ての遠征準備が完了すると、彼は兵たちには本当のことを明らかにせず、自分は王に反旗を翻した独裁者へ向けてキリキアへと軍を率いてゆくのだと言い続けた。また彼はラケダイモン人がアテナイ人との戦争をしていた時に自分がラケダイモン人のためにした難儀を思い起こさせ、同盟者として協力するよう説くために使節団を派遣した。ラケダイモン人は戦争が自分たちの利になると考えてキュロスを援助することを決意し、その後にサモスという名のラケダイモン艦隊の提督にキュロスの命じたことは何であれ実行に移すべしとの命令を持たせて使者を送った。サモスは二五隻の三段櫂船を有しており、それらを連れてキュロス側の提督のもとを目指してエペソスへと航行し、あらゆる点で彼と協力することになった。また彼らはケイリソポスに指揮権を与えて八〇〇人の歩兵を送りもした。夷狄の艦隊司令官はタモスであり、彼は大枚をはたいて設えられた五〇隻の三段櫂船を有していた。ラケダイモン軍が到着した後、艦隊はこれに追従してキリキアへと出航した。
 キュロスはサルデイスにアジアで集めた部隊と一三〇〇〇人の傭兵の両方を集めた後、友人のペルシア人たちをリュディアとプリュギアの支配者に任命したが、イオニア、アイオリス、それと隣接する地方はメンピス出身の友人タモスに委ねた。次いで彼は陸軍を率いてキリキアとピシディアへ向けて進みつつ、それらの地方の或る人々が反乱を起こしているという噂を広めた。彼はアジアからそのうち三〇〇〇人が騎兵である全部で七〇〇〇〇人の兵を、ペロポネソス半島と残りのギリシアから一三〇〇〇人の傭兵を集めていた。ペロポネソス半島から来た兵のうちアカイア人以外はラケダイモン人クレアルコスに、ボイオティア兵はテバイ人プロクセノスに、アカイア兵はアカイア人ソクラテスに、テッサリア兵はラリサ人メノンに指揮されていた。全軍のうち夷狄軍の副司令官はペルシア人で、総司令官はキュロス自身であった。彼は指揮官たちに自分が兄に対して進軍していると暴露したが、兵たちに対しては彼らが彼の計画を捨て、計画の規模のためにそれが頓挫するのを恐れて隠し続けた。したがって来たる機会に備えて進軍の間ずっと彼は愛想良く振る舞って物資の十分な蓄えを支給することで兵の好意を得た。
20 リュディアとプリュギア、そしてカッパドキアの境界の地方を踏破した後、キュロスはキリキアの境界にてキリキア門の入り口に到着した。この山道は狭く切り立ち、長さは二〇スタディオンで、〔山道の前後の〕両側で〔カッパドキアとキリキアの〕の境を成しており、非常に高く近づき難い山脈である。壁が〔タウロス〕山脈から一方の側へと道路まで延びており、そこに横切る形で門が建設されていた。それらの門を通って軍を率いていったキュロスはこれほどのものがアジアにはないほど美しい平野に入り、そこを通ってキリキア最大の都市タルソスへと進み、速やかにそこを掌握した。 キリキアの君主シュエンネシスは敵軍が大規模であることを聞くと、戦いでは到底歯が立たなかったために途方に暮れた。キュロスの面前へと召還されて〔敵対の意志なしという〕宣誓を受けると、キュロスのもとへと向かったシュエンネシスは戦争についての真相を聞いて対アルタクセルクセス同盟に参加することに同意した。そしてキュロス軍のためにキリキア人の強力な部隊をつけて二人いた息子のうち一人をキュロスに送った。シュエンネシスは元々節操がなく、運命の不確かさに自らを合わせるような人物だったため、もう一人の息子を密かに王のもとへと送り、集められた軍勢のことを暴露し、自分はやむを得ずキュロスに味方することになったものの未だに王への忠誠を守っており、好機が到来すればキュロスを裏切って王の軍に加わるつもりであることを担保した。
 キュロスがタルソスで軍を二〇日間休ませた後に進軍を再開すると、兵たちはこの遠征はアルタクセルクセスに対するものなのではないかと疑った。各々の兵は課せられた距離の長さと道中の敵の多さについて思いをいたすと、これ以上ないほど深い不安で一杯になった。というのもこの進軍は軍のバクトリアへの四ヶ月の進軍であって四〇万人以上の軍勢が王のもとに集まっているという噂が流れていたからだ。したがって兵たちはこれ以上ないほど恐怖して苛立って自分たちの指揮官に怒りを覚え、自分たちを裏切ったとして指揮官たちを殺そうとした。しかしキュロスが皆に懇願し、自分はアルタクセルクセスにではなくとあるシリア太守に対して軍を率いていくのだと確約すると兵士たちは折れ、給与を増額されると彼に対する以前の忠誠を取り戻した。
21 キュロスはキリキアを通って進軍し、キリキアの最後の都市であり海沿いに位置するイッソスに到着した。同時にラケダイモン艦隊もその都市に入港し、その指揮官たちは海岸に来てキュロスと会談し、彼へのスパルタ人の支持を報告した。そして彼らは上陸してケイリソポス指揮下の八〇〇人の歩兵を引き渡した。口実の上では彼らはキュロスの友人たちによって送られていた傭兵部隊であったが、実際は監督官らの同意によるものであった。ラケダイモン人はまだ戦争への突入をおおっぴらにせず、目的を隠して戦争の風向きを見守っていた。
 キュロスは軍を進発させてシリアを横切ろうとし、提督たちには海から全艦隊と共に随行するよう命じた。 彼らが言うところの「諸門」(19)に到着してその場所に守備隊がいないのを見て取ると、自分が到着する前に敵の部隊がそれらの門を占領するのではないかと非常に案じていたために彼は得意になった。この場所の地勢は狭く険しいために小勢でも簡単に守ることができる。それというのもその道は非常に近接した二つの山に挟まれていて一つはギザギザで非常に切り立っており、他方は道を扼する地点に立っており、その門はアマノスという名を得ていて、最大の地域であるフェニキア沿いに広がっていた。山々の間の場所は長さがおよそ三スタディオンあり、その全体の長さの城壁が走っており、門は狭い道で閉じられていた。さて、戦わずして門を踏破した後、キュロスは内陸部を横断するのに不要になっていた同行中の艦隊の一部をエペソスに帰すために送り出した。二〇日の進軍の後に彼はエウプラテス川沿いに位置するタプサコス市に到着した。ここに彼は五日間留まり、十分な物資と徴発によって得た獲物によって軍を味方に付けた後、集会を召集して遠征の真相を打ち明けた。兵士たちが彼の言葉を好意的に受け取ると、彼は他の多くの報償、バビュロンに来た暁には皆に一人あたり五ムナの銀を授与すると約束し、彼ら皆に自分を見捨てないよう強く求めた。したがって期待を膨らませ兵士たちは彼につき従うよう説き伏せられた。エウプラテス川を軍と共に渡るとキュロスは不休の強行軍を敢行し、バビュロニアの境界に到着するとすぐに兵を休ませた。
22 アルタクセルクセス王はキュロスが自分に対する軍を密かに集めていたことをしばし前にパルナバゾスから聞いており、今やキュロスが進軍していることを聞くとメディアのエクバタナへと方々から軍を集めた。インド人と他の或る人々からの部隊がその地方の遠隔ゆえに遅れていたところ、彼は集まっていた軍を率いてキュロスに向けて出撃した。エポロスの述べるところでは、彼は騎兵を含めて全軍で四〇万人を下らない兵を率いていた。バビュロニアの平野に到着すると、彼はそこに荷を残そうと意図してエウプラテス川の畔に陣を張った。それというのも彼は、敵が遠くないところにいて向こう見ずな果敢さを持っていることを案じていたからだ。したがって彼は六〇プースの幅と一〇プースの深さの塹壕を掘って輜重隊の荷馬車を壁のようにして野営地を囲んだ。野営地に荷と非戦闘員を残すと、彼はそこに十分な守備隊を置き、足手まといのいない軍を自ら率い、すぐ近くにいた敵と戦うべく進軍した。
 王の軍が前進してくるのを見ると、キュロスはすぐに軍に戦闘隊形を組ませた。エウプラテス川に面する右翼はその全隊がラケダイモン人クレアルコス指揮下のラケダイモン軍と傭兵部隊の一部から成る歩兵が占めており、パプラゴニア出身の一〇〇〇騎以上の騎兵が戦いにあたって彼を支援していた。左翼はプリュギアとリュディアの部隊とおよそ一〇〇〇騎の騎兵が占め、アリダイオス(20)が指揮を執った。キュロス自身はペルシア人と他の夷狄からの精兵およそ一〇〇〇〇人と共に戦列の中央に陣取っており、彼の前で先陣を切る最良の装備の騎兵一〇〇〇騎はギリシア風の胸甲と剣で武装していた。アルタクセルクセスは少なからぬ鎌付き戦車を長い戦列の前に置き、両翼はペルシア人に指揮させ、自らは五〇〇〇〇人を下らない精兵と共に中央に陣取っていた。
23 両軍がおよそ三スタディオンの距離に来ると、ギリシア軍はパイアーンを歌いつつ最初はゆっくりと進み、投擲兵器の射程内に入るや否や大急ぎで駆け足を始めた。ラケダイモン人クレアルコスが彼らにこれを命じたわけであるが、それは遠くからは走らないことで戦いにおいて戦闘員に体力を温存させようと目論んだためで、他方でごく近いところから走って進めば弓と他の飛び道具によって頭上から射撃を加えられることになると考えたからだ。キュロスと共にいた部隊は王軍と接近すると、四〇万の大軍から放たれると予想できたような夥しい投擲兵器を浴びせかけられた。にもかかわらず彼らは投げ槍で短時間のみ戦い、それから残りの戦いは白兵戦となった。
 最初の接触でラケダイモン軍と残りの傭兵は見事な武器、技能の顕示によって対陣する夷狄に恐怖を引き起こした。それというのも小さい盾で身を守っていた夷狄たちの部隊は大部分が軽装備であり、その上彼らは戦争の危機を経験したことがなかった一方、ギリシア軍はペロポネソス戦争の長期化のために戦い続けており、経験では遙かに勝っていた。したがって彼らはすぐに敵を敗走させて追撃し、多くの夷狄を殺した。戦列の中央に陣取った者は双方が王権をかけて戦った。したがってこの事実(21)を知ると、彼らは互いに自身の手で戦いの決着をつけようと熱望した。それというのもきっと運命は決闘の結果をこの兄弟の王権をめぐる競争心に委ねたのであり、それはあたかも悲劇で名高いエテオクレスとポリュネイケスの古の向こう見ずな戦いを真似たかのようであった。キュロスは手始めに遠くから投槍を放ち、王に当てて地面に倒した。しかし王の近従たちは速やかに彼を引っ張って距離を取らせた。ペルシア貴族ティッサペルネスが王から総指揮権を委ねられて引き継ぎ、兵に隊伍を組ませただけでなく自らも見事に戦った。そして王の負傷でもたらされた劣勢を覆して精鋭部隊を方々からその場所へと投入して多くの敵を殺し、遠くからも見えるように姿を見せた。キュロスは自軍の成功で気が大きくなっていたために敵の真っ直中へと大胆に突進し、最初は彼の勇気に立ち塞がった多くの兵を殺した。しかしその後、無思慮に戦い過ぎたために彼はペルシア軍の雑兵の攻撃を受けて致命傷を負った。彼が死ぬと王の兵たちは戦いとその結末に自信を得て、数と果敢さを頼んで敵をすり減らしていった。
24 他方の翼では、キュロスの副将だったアリダイオスが当初は夷狄の突撃を頑強に持ち堪えていたが、後になって伸ばされた敵の戦列に包囲され、キュロスの死を知ると指揮下の兵を連れてある地点へと逃亡に転じ、退却において不向きな地形ではなかったその場所で一旦停止した。クレアルコスは同盟軍の中央と他方の翼の部隊が退却したことを知ると、兵を呼び戻して隊伍を組ませた。それというのも彼はもし全軍がギリシア軍に転進してくれば、囲まれて一人残らず殺されることになることを恐れていたからだ。王の軍勢は敵を敗走させた後、まずキュロスの荷物を略奪し、それから夜が来ると軍を集めてギリシア軍に向かっていった。しかしギリシア軍は果敢にその攻撃に立ち向かい、夷狄は短時間しか持ち堪えることができずに敗走へと転じ、勇敢な行いと技量に破れた。クレアルコスの兵は多数の夷狄を殺すと、すでに夜になっていたために戦場へと戻って戦勝記念碑を建て、およそ第二夜警時(22)に野営地へと無事向かった。戦いの顛末は以上のようなものであり、王の軍は一五〇〇〇人以上が殺され、そのほとんどがクレアルコス指揮下のラケダイモン兵と傭兵の手にかかったものであった。他方でキュロスの兵はおよそ三〇〇〇人が倒れた一方で、伝えられるところではギリシア人は僅かな負傷者が出たものの一人も殺されなかった。
 夜が訪れると、停止地点まで逃げていたアリダイオスは沿岸地域まで安全に戻るにあたってクレアルコスに使者を送り、彼の兵を自分のところまで率いてきて合流するように説いた。今やキュロスは殺されて王の軍勢が優勢に立っていたため、アルタクセルクセスを王位から引きずりおろすために敢えて会戦を行った人たちは深い不安に捕らわれていた。
25 クレアルコスは将軍と隊長たちを集めて目下の状況について相談した。話し合いの最中にザキュントス人のパリュノスという名のギリシア人が団長となっていた王からの使節団がやってきた。彼らは集まっていた人たちに自己紹介をして以下のような話をした。「アルタクセルクセス王はこう仰いました。自分は勝利を得てキュロスを殺したので、お前たちは武器を捨てて自分の扉へと来て、どうやれば自分を喜ばせて好意を得られるかを探るように、と」この言葉に各々の将軍たちは、クセルクセスが武器を捨てよと命じる使者を送った時にテルモピュライの道を守っていた時のレオニダスがしたような返答を寄越した。レオニダスはその時、使者に王にこう伝えるように指示していた。「我らはクセルクセス殿の友人になれば、武器を持ち続ける限り良き盟友となるであろうし、彼との戦争を余儀なくされれば、我らが持ち堪えられる限り善戦するだろうと信ずるものである」クレアルコスが伝令に幾分か似たような返事をすると、テバイ人プロクセノスは「目下のところ、我らはありとあらゆるものを失っており、我らに残されている全てのものは勇気と武器です。だから、蓋し、我々が武器を護持するならば、我々の勇気は我々にとって有用でありましょうが、武器を手放せば勇気は我々の役には立たなくなるでしょう」と言った。したがって彼は王に以下のような言伝を与えた。「陛下が我らに何か悪事を企むのなら、我らは陛下の財産を賭けて武器を持って陛下と戦うことでしょう」隊長の一人ソピロスがこう言ったことも述べておこう。「私は王の言葉に驚いております。それといいますのも陛下は自分がギリシア人よりもお強いと信じておられ、軍を率いてやってきては我らから武器を取り上げようとしておられるからです。しかし陛下が説得を用いようと望むならば、陛下が対等の価値のあるものとして何を差し出して我らと交換してくれるつもりなのかを述べられるのがよいでしょう」それらの話者の後にアカイア人のソクラテスが言った。「王はこの上なく驚くべき仕方で我々に対処するおつもりであることは確かでしょうな。それといいますのも、王が我々から取り上げようとお望みのものを王はすぐに必要とするようになり、他方で王が我らに見返りとして与えられるおつもりのものを、後に王ご自身に要求するよう我らに命じることになるでしょうから。つまるところ、あたかも我らが敗れたかのように、我らに服するよう命じる勝者をご存じでないならば、陛下は多くの軍勢を連れて来て勝利がどちらに帰着するのかを見て取るのがよいでしょう。しかしもし我らが勝者であることが十分ご理解いただけるのであれば、王は我らがどうすれば陛下の後々の約束を信じるかに言葉を使うのがよろしゅうございましょう」
 それらの返答を受け取った後に使者たちは去っていった。クレアルコスは停止地点へと前進し、そこには戦いから逃げてきた兵たちが退却していた。全軍が一カ所に集まると、彼らはいかにして海の方まで戻るか、どのような道順を取るのかを相談した。さて、来たのと同じ道は彼らの後を追う敵軍のせいで食料を手に入れることが期待できない荒れた地方だったので、その道から帰るべきではないと合意された。したがって彼らはパプラゴニアへと向かうという結論を出して軍をその方角へと出発させ、ゆったりとした速度で進んで道すがら食料を集めた。
26 敵が撤退しつつあることを知ると、傷が直りつつあった王はギリシア軍が敗走していると信じて軍と共に急いで彼らに追いすがった。彼らの行軍はゆっくりだったために間もなく彼は追いついた。その時には夜になっていたために当面は彼らの近くに野営し、日が昇ってギリシア軍が軍を戦闘態勢につかせると、彼は彼らに使者を送ってさし当たり三日間の休戦に同意した。この期間に彼らは以下のような合意に達した。「王は自分の領土が彼らに対して友好的であるようにし、彼らに海への案内人を、途上では食料を提供する。クレアルコスの傭兵部隊とアリダイオスの全ての部隊は危害を受けることなく彼の領土を通過する」この〔条件が同意された〕後、彼らは旅路につき、王は軍をバビュロンまで退かせた。その都市で彼は戦いで勇敢な行動をした者皆に然るべき栄誉を授け、ティッサペルネスを全員のうちで最高の勇者であると判定した。したがって彼は豪勢な贈り物で彼を称えて自分の娘を娶らせ、それから最も信頼する友人として遇した。そしてまた彼はキュロスが沿岸諸州に有していた命令権を彼に与えた。
 ティッサペルネスは王がギリシア人に怒りを感じていることを見て取ると、もし王が彼に兵力を提供してアリダイオスと協定を結ぶならば、彼らを一人残らず討ち滅ぼしてみせると王に約束したが、それというのもアリダイオスは戦いの経過次第でギリシア人を裏切って寝返ってくるだろうとティッサペルネスは信じていたからだ。王は快くこの提案を受け入れて全軍から最良の兵を好きなだけ選び出すことを許した。(ティッサペルネスはギリシア軍に追いつくと、クレアルコスと)残りの指揮官たちに自分のところに来て、彼が私的にする話を聞くよう(手紙を送った)〔この箇所には明らかにテクストに欠損があり、この二つのカッコ内は補われた語句(N)。〕。したがって将軍のほぼ全員、並びにクレアルコスと二〇数名の隊長がティッサペルネスのところに向かい、一般の兵士の中から市場に行くことを望んでいた二〇〇人程度が彼らに同行した。ティッサペルネスは将軍たちを自分の天幕に招いて隊長たちは入り口で待たせておいた。ほどなくしてティッサペルネスの天幕から赤い旗が揚がると、彼は将軍たちを取り押さえて所定の兵士たちが隊長たちに襲いかかって殺し、他の者たちは市場に来ていた兵士たちを殺した。仕舞には一人が野営地へと逃げおおせて彼らを襲った災難を暴露した。
27 事の次第を知るや兵士たちは混乱状態に陥り、指揮を執る者がいなかったために全員が非常に無秩序に武器へと走った。しかしその後、妨げるものがなかったために彼らは何人かの将軍を選び、ラケダイモン人ケイリソポスの手に最高指揮権を授けた。将軍たちは軍に最善と思えた経路で進軍させ、パプラゴニアへと向かった。ティッサペルネスは将軍たちを鎖に繋いでアルタクセルクセスのもとへと送り、メノンただ一人を除いて他の者たちを処刑していたが、それはメノンだけが彼の同盟者と反目してギリシア軍を裏切る腹だったと考えられていたからであった。ティッサペルネスは軍と共にギリシア軍を追ったが、捨て鉢になった者の勇気と無思慮を恐れていたために正面切って戦おうとはしなかった。そしてその目的に適切な場所で彼らを悩ましたものの、彼は大きな損害を与えることができなかったが、カルドゥコイ人として知られる人の地方あたりまで彼らを追ってわずかばかり苦しめた。
 ティッサペルネスはこれ以上何もできなかったため、軍を率いてイオニアへと向かった。そしてギリシア軍はカルドゥコイ人の山脈を七日間進み、好戦的でその地方に慣れ親しんでいた現地人によって多大な被害を受けた。彼らは王の敵であり戦争の技術に精通した自由民で、とりわけ大変大きな石を投石器や巨大な弓を使って投擲する訓練を積んでおり、この投擲で彼らは優位な場所からギリシア軍を負傷させ、多くの者を殺して少なからぬ者に大怪我を負わせた。それというのもその矢は二ペキュス以上の長さで、盾と胸甲のいずれをも貫通したため、どんな鎧もその威力に耐えられなかったからだ。そして我々が述べたところの彼らが使っていた矢はあまりにも大きく、ギリシア軍は放たれた矢の周りに皮紐を巻いて投げ槍として使って投げ返した。我々が以上で述べた地方を苦労しながら踏破した後、彼らはケントリテス川(23)に到達してそれを渡り、アルメニアに入った。そこの太守はティリバゾスで、彼らは彼と休戦協定を結んで友人として彼の領地を通過した。
28 アルメニアの山脈を通っていた時に彼らは豪雪に遭って全軍があわや壊滅しかけた。それは以下のような具合であった。まず空気がかき回されて空から量はそれほどでもない雪が降った時、行軍中の者たちは前進にあたってさほど難儀をしなかった。しかしこの後に風が吹いて雪がだんだん激しくなると、地面を覆って道のみならず目立つ道しるべすら全く見えなくなった。したがって絶望と恐怖が軍を捕らえ、破滅へと戻るのも気が進まず、豪雪のために前進することもできなくなってしまった。嵐が勢いを増すと強風と強い雹が起こってその突風で彼らの顔を打ち、全軍は休止を余儀なくさせられた。誰もがさらなる前進に伴う困難に耐えられず、どこで何が起ころうとも留まらざるを得なくなった。あらゆる物資がなくなったものの、彼らは広々とした空の下で日中とそれに続く夜の間を突き進み、多くの困難に取り囲まれた。それというのも絶えず降り続ける豪雪のために全ての武器は覆われて体は空気中の霜のおかげで完全に冷えきっていたからだ。彼らが耐えた困難の大きさのために彼らは夜通し一睡もできなかった。ある者は火を点して幾ばくか助かり、冷えで体が侵された者はとりわけ手足の指の全部が駄目になっていたために救援の希望の全てを諦めた。したがって夜が明けた時には荷駄運搬の家畜のほとんどが死んでおり、多くの兵士が死んでおり、まだ意識を持っていたが凍結のために体を動かせなかった者は少なくなかった。そして一部の者の目は寒さと雪のぎらつきのせいで見えなくなってしまった。そう行かないうちに補給物資で満ちた村々を見つけていなければ彼らは確実に全滅していたことだろう。その村々には荷駄運搬の家畜用の地下に埋められた入り口と、梯子で下りてきた人間の住民のための他の入り口があり…〈欠落〉…家の中で動物は干し草を与えられ、他方で人間の住民は生活に必要な全てのものを非常に豊富に享受していた。
29 彼らはそれらの村々に八日間留まった後にパシス川へと向かった。ここで彼らは四日間過ごし、それからカオイ人とパシス人の領地を通って進んだ。攻撃を仕掛けてきた現地人たちを彼らは戦いで破って多数を殺し、蓄えで満ち満ちた彼らの農場を奪取して一五日間留まった。ここから軍を進めた彼らはいわゆるカルダイオイ人の領地を七日間かけて横断し、四プレトラ幅のハルパゴスという名の川に到着した。ここから彼らの前進は平らな道を通ることでスキュティノイ人の領地を抜けて向かうものになり、彼らはここで生活に必要な全てのものを豊富に獲得して三日間休息をとった。この後に出発した彼らは四日目にギュムナシアという名を持つ大都市に到着した。ここでこの地方の支配者は彼らと休戦協定を結んで海への案内人を提供した。一五日目にケニオン山に到着し、先頭を進んでいた兵たちが海を視界に収めると狂喜して大声を上げたため、後続の兵たちは敵襲と思って武器へと走った。しかし海が見えた場所まで皆が来ると、もう安全だと信じて神に向かって手を上げ、感謝を捧げた。そして彼らは一カ所にたくさんの石を集めてそれで巨大な記念碑を建ててその上に夷狄から獲得した戦利品を奉納品にして乗せ、これによって遠征の永遠の記念碑を残そうとした。彼らは銀の杯と一揃いのペルシア風の衣服を贈り物として案内人に渡した。そしてマクロネス人のところまでの道を示した後に案内人は立ち去った。それからギリシア軍はマクロネス人の領地へと休戦協定を結んだ者と一緒に入り、この夷狄が使っていた槍を誠意の証として受け取り、お返しにギリシア人の槍を渡した。それというのもこの夷狄はこのような交換こそが父祖伝来の最も確かな誠意の証であると宣言したからだ。この人々の境界を越すと、彼らはコルキス人の領地に到着した。土着の人々がここで立ち向かって集まってくると、ギリシア軍は彼らを戦いで破って多数の者を殺し、それからある丘の強固な場所を占拠して領地を略奪して丘に戦利品を集め、ゆったりと元気を回復させた。
30 その地方で価値の高い蜂蜜を産するたくさんの蜂の巣箱が見つかった。しかし、それを食べた者はある奇病で倒れ、気を失ってまるで死人のように地面に突っ伏した。その甘さが与える快のために多くの者が蜂蜜を消費していたため、まるで戦争中の逃亡でそうなったかのように多くの者がすぐに地面に倒れてしまった。その日、軍は肝を潰してその奇妙な現象と不幸な人の多さに恐怖した。しかし翌日のおよそ同じ時間にその全員がやってくると、彼らは徐々に意識を取り戻して地面から立ち上がり、その身体の状態は薬を一服飲んだ後に回復した人のようであった。
 三日間かけて元気になると、彼らはシノペ人の植民都市であり、コルキス人の土地にあったギリシア人のトラペゾス市へと進軍した。そこに彼らは三〇日間留まってその間住民からは懇ろにもてなされた。そして彼らはヘラクレスと解放者ゼウスに犠牲を捧げ、伝えられるところではイアソンと彼の仲間を乗せたアルゴ号が停泊した場所で体育の競技祭を開催した。ここから彼らは、自分はビュザンティオン人のところに駐在していた提督アナクシビオスの友人だと言っていた彼らの隊長ケイリソポスをビュザンティオンへと輸送船と三段櫂船を入手させるために送った。ギリシア軍は彼を快速船で送り出し、次にトラペゾス人から櫂を備えた二隻の小型船を受け取り、陸海から近隣の夷狄に略奪を働いた。三〇日の間彼らはケイリソポスが帰ってくるのを待ち、彼が遅れて軍用物資が払底してくると、トラペゾスを発って三日でシノペ人の植民都市であった人のギリシア都市であったケラソスに到着した。ここで彼らは数日を過ごし、モシュノイコイ族の方へとやってきた。その夷狄が彼らに対陣すると、ギリシア軍は彼らを戦いで破って多くを殺した。住居であり、七階立ての高さの木製の塔で守られていた砦へと彼らが逃げると、ギリシア軍は攻撃をかけて強襲によって落とした。この砦は他の全ての部族の城壁で囲まれた首邑であり、そこは最も高く、そこには彼らの王が住んでいた。彼らの父祖から続く習俗は以下のようなものであった。王はその砦で生涯を過ごし、そこから人々に命令を下す。これは最も野蛮な民族であり、兵士たちが言うところではそこを通過した男は公衆の面前で女と交わり、最も富裕な人々の子供たちは煮た木の実で養われて、皆幼い頃から背中と胸に様々な色の入れ墨を彫られていたという。その土地を彼らは八日間で、ティバレネと呼ばれる次の地方を三日で踏破した。
31 そこから彼らはギリシア都市であり、シノペ人の植民都市でもあったコテュオラに到着した。ここで彼らは近隣のパプラゴニア人と他の夷狄から略奪を働きつつ五〇日間を過ごした。ヘラクレイアとシノペの住民は兵士と荷駄運搬の家畜を運ぶ船団を彼らへと送った。シノペはミレトス人が建設した植民都市でパプラゴニアに位置しており、その地方の都市のうちで第一の地位を占めていた。当代にローマ人と戦争したミトリダテスが最大の宮殿を置いていたのはこの都市だった。その都市には派遣されたものの三段櫂船を獲得できなかったケイリソポスも到着していた。にもかかわらずシノペ人は彼らを親切にもてなして海路でメガラ人の植民都市ヘラクレイアへと送った。そして艦隊はアケルシア半島に碇を降ろしたが、そこはヘラクレスがハデスのもとからケルベロスを連れていった所であると言われている地である。彼らはそこから徒歩でビテュニアを通過する過程で、現地人が殿に襲撃をかけてきたために危険に遭った。かくして彼らはカルケドニアのクリュソポリスまで辛うじて到着し、元の一〇〇〇〇人のうち生き残っていたのは八三〇〇人となっていた。そこからギリシア軍の一部は更なる問題に見舞われることなく無事に母国へと戻り、残りはケルソネソス半島辺りに集まり、隣接するトラキア人の領地を荒らした。
 キュロスのアルタクセルクセスに対する遠征の顛末は以上のようなものであった。
32 アテナイでは最高権力を握っていた三〇人僭主が相も変わらず一部の市民たちを毎日追放し続けており、他の者を処刑していた。テバイ人がこれらの出来事に不快感を持って追放者を親切にもてなすようになると、いわゆるスティリア区民で三〇人によって追放されていたアテナイ人トラシュブロスが密かにテバイ人の協力を得てヒュレと呼ばれていたアッティカの砦を占拠した。ここは単に非常に強固であったのみならずアテナイから一〇〇スタディオンの距離しかない前哨地であったため、非常に攻略しやすいのではないかと心配された。三〇人僭主はこの動きを察知すると砦を包囲しようと目論み、手始めにその部隊に向けて軍を率いていった。しかし彼らがヒュレ近くに野営すると豪雪となってある者たちが野営地を移す作業を始めると、兵士の大部分は自分たちは逃げていて、敵軍は間近にいると思い込んだ。そして騒擾が起こって軍は混乱に陥りつつも彼らは他の場所へと野営地を移転させた。
 三〇人政権は政権で政治的権利を持たなかった三〇〇〇人のアテナイ市民が政府の支配の転覆の予兆に元気付けられていたのを見て取ると、ペイライエウスへと彼らを移して傭兵部隊を使って市への支配権を保った。そして追放者に荷担したとしてエレウシス人とサラミス人を告訴し、その全員を処刑した。それらの出来事が起こっていた一方で、追放者の多くはトラシュブロスのもとへとはせ参じ、(三〇人僭主がトラシュブロスに使節を派遣した(24))。これは公式的には一部の囚人ついて取り扱うためで、私的には彼に追放者の部隊を解放させ、市を牛耳る三〇人会のテラメネスに代わる仲間にするためだった。そしてさらに彼らは彼に彼が選ぶ一〇人の追放者を故郷に復帰させる許可を与えるつもりであると約束した。トラシュブロスは、自分は三〇人政権の支配よりも自分たち追放者の政権の方が良いと思うし、全ての市民が追放先から帰国して人々が父祖か引き受けた政体に戻るまでは戦争を止めるつもりはないと答えた。三〇人政権は彼らへの憎悪のためにたくさんの人が反旗を翻していて追放者がますます数を増しているのを知ると、スパルタに救援を求める使節団を送り、一方で自分たちは可能な限り多くの兵士を集めてアカルナイと呼ばれる土地の近くの開けた地域に陣を張った。
33 トラシュブロスは十分な守備隊を砦に残し、一二〇〇人の追放者を率いて敵の野営地に夜襲をかけてその多くを殺し、彼の予期せぬ動きによって残りの者を混乱状態に陥れてアテナイへと敗走させた。戦いの後、トラシュブロスはペイライエウスへと直行して人が住んでいない強固な丘であったムニュキアを占領した。僭主たちは手元にある全軍を引き連れてペイライエウスへと出発し、クリティアス指揮の下でムニュキアを攻撃した。長時間続いた激戦では三〇人政権側は数で、追放者は場所の強固さで勝っていた。しかしついにクリティアスが倒れると、三〇人政権の兵士は落胆してより高い場所へと身の安全のために逃げ、追放者は彼らを追おうとはしなかった。この後に多くの人が追放者側に寝返るとトラシュブロスは敵に奇襲をかけて破り、ペイライエウスの主となった。僭主制から解放されたがっていた市の多くの住民はすぐにペイライエウスに群がってギリシア諸都市に散らばっていた全ての追放者はトラシュブロスの成功を聞くやペイライエウスに集まり、かくしてその時から追放者は戦力で優位に立つことになった。したがって彼らは市の包囲を開始した。
 アテナイの残りの市民は三〇人僭主を官職から解任して彼らを市から退去させ、そして可能な仕方で穏和的な条件の下で何よりもまず戦争を終わらせるための最高権限を一〇人に与えた。しかしその人たちは官職を引き継ぐやたちまち命令を一顧だにもしなくなり、自ら僭主と成り代わってラケダイモン人にリュサンドロスが指揮を執る四〇隻の軍船と一〇〇〇人の兵士を送るよう手紙を送った。しかしラケダイモン人の王パウサニアスはリュサンドロスに嫉妬しており、スパルタがギリシア人のうちで悪評を被っていることことに気付いていたため、強力な軍を連れて進軍してアテナイに到着すると市内の人と追放者の調停を試みた。その結果、アテナイ人は帰国して彼ら自身の法律に則って政府を運営することになり、度重なる過去の犯罪のために刑罰に戦々恐々としながら暮らしていた人たちはエレウシスに住むことが許された。
34 エリス人はラケダイモン人の優勢な勢力を恐れたため、三段櫂船をラケダイモン人に引き渡して近隣諸都市を自由にすることに同意して彼らとの戦争を集結させた。今や戦争を終わらせてもはや心配事がなくなったラケダイモン人のうちある者はケパレニアへ、他の者はアテナイ人が与えた西ロクリスのナウパクトスの前哨基地に住んでいたメッセニア人へと軍を進めた。その地方からメッセニア人を追い出すと、彼らは一方の前哨基地をケパレニアの住民に、他方をロクリス人に返還した。その時にその場所から追い出されたメッセニア人はスパルタ人への昔からの憎悪から武器を持ってギリシアを離れ、その一部はシケリアへと渡ってディオニュシオスのもとで傭兵として働き、他のおよそ三〇〇〇人はキュレネへと渡って追放者の勢力と合体した。というのもその時、アリストンが或る他の人たちと一緒に市を占拠していたためにキュレネ人のうちでは混乱が起こっていたからだ。キュレネ人のうちで最も影響力のあった市民五〇〇人がつい最近処刑されて生き残りのうちで最も尊敬されていた人たちも追放されていた。今や追放者たちはメッセニア人を数に加えて市を掌握していた人たちと戦って双方で多くのキュレネ人が殺されたが、メッセニア人はそのほとんどが死んでしまった。戦いの後にキュレネ人は互いに交渉して和解した後、すぐに過去の加害行為を水に流して市で一緒になって暮らしていくことを誓い合った。
 およそ同時期にローマ人はウェリトラエとして知られる都市で植民者の数を増やしていった。
35 この年の終わりにアテナイではラケスがアルコンであり(25)、ローマではマニウス・クラウディウス、マルクス・クインクティウス、ルキウス・ユリウス、マルクス・フリウス、そしてルキウス・ウァレリウスといった軍務官によって執政官の職能が担われ(26)、九五回目のオリュンピア祭が開催されてアテナイのミノスがスタディオン走で優勝した。この年にアジアの王アルタクセルクセスがキュロス敗北後の海に面する全ての州を引き継がせるためにティッサペルネスを派遣した。したがってキュロスと同盟していた太守たちと諸都市は王に対する攻撃の廉で罰せられるのではないかと大いに不安を抱いた。今や他の全ての太守たちはティッサペルネスに使節を送って伺候し、可能なあらゆることをして彼の意に従うように襟を正した。しかしイオニアを支配していた最も有力な太守であったタモスは、後に王軍の将軍となるグロスという名の息子を除く息子の全員と全財産を三段櫂船に乗せた。次いでタモスはティッサペルネスを恐れてエジプトへと艦隊を連れて航行し、有名なプサンメティコスの子孫であったエジプト人の王プサンメティコスのもとに身の安全を求めた(27)。過去にした好意を頼みとしてその王のもとに逃げ込んだタモスは彼のもとならばペルシア王からの逼迫した危機へ避難所を見いだせると信じていた。しかしプサンメティコスは善行も嘆願者への当然の神聖な義務も完全に無視し、タモスの財産と艦隊を手に入れるために嘆願者であり友であった男をその子供もろとも惨殺した。
 アジアのギリシア諸都市はティッサペルネスが到来しつつあることを知ると未来をいたく不安に思い、ラケダイモン人に使節団を派遣して諸都市が夷狄に蹂躙されるのを座視しないよう嘆願した。ラケダイモン人は彼らの援助に向かうことを約束し、ティッサペルネスにはギリシア諸都市への敵対行動をしないようにと警告する使節団を送った。しかしティッサペルネスは全軍でまずキュメ人の都市へと進軍し、領地の全域を略奪して多くの捕虜を得た。この後、彼はキュメ人を包囲したが、冬が近づいてくると都市の占領ができなくなったために捕虜を高値の身代金と引き替えに解放して囲みを解いた。
36 ラケダイモン人はティブロンを王に対する戦争の司令官に任命し、彼ら自身の市民から一〇〇〇人の兵と同盟諸国から望ましいと考えるだけ多数の兵を登録するよう彼に命じた。ティブロンはコリントスに行ってその都市へと同盟諸国からの兵を呼び集めた後、五〇〇〇人を下らない部隊を連れてエペソスへと航行した。ここで彼は二〇〇〇人の兵をこの都市とその他の都市から徴募し、次いで総勢七〇〇〇人を越す戦力を率いて進軍した。一二〇スタディオン程度を進むと、彼はティッサペルネスの支配下にあったマグネシアに来た。最初の攻撃でこの都市を落とすと、彼はイオニアのトラレスに速やかに向かってその都市の包囲を始めたが、その強固な地形のために何の成功も得られないとマグネシアへと戻った。その都市は城壁がなかったために自分が出発すればティッサペルネスに取られるだろうと案じたティブロンは、トラクス丘と呼ばれる近くにあった丘へと都市を移転させた。次いでティブロンは敵地へと攻め込んでありとあらゆる戦利品で兵士たちを存分に満足させた。しかしティッサペルネスが強力な騎兵隊を連れて到着すると、ティブロンは難を逃れるべくエペソスへと退却した。
37 時を同じくしてキュロスとの遠征に参加していた兵士の一団がギリシアへと無事帰ってきてそれぞれの国へと戻ったが、五〇〇〇人に及ぶその過半数は兵士としての暮らしに慣れきっていたためにクセノポンを自分たちの将軍に選んだ。そしてクセノポンはこの軍と共にサルミュデッソス辺りに住んでいたトラキア人との戦争に突入した。ポントスの左岸にあったこの都市の領地は非常に長い距離に延びており、多くの難破の原因であった。したがってそこのトラキア人は商船を待ち伏せして捕らえた商人を捕虜として陸へと送っていた。クセノポンは兵を連れて彼らの領地に攻め込んで戦いで破り、ほとんどの村を焼き払った。この後、ティブロンがその兵たちのもとへと雇い入れを約束する手紙を送ると、彼らは彼と合流するために撤退してラケダイモン人と共に対ペルシア人戦争を行った。
 それらの出来事が起こっていた一方で、シケリアではディオニュシオスがアイトネ山の麓に都市を建設して或る高名な神殿(28)にちなんでアドラノンと名付けた。マケドニアではアルケラオス王が狩りの最中、寵愛していたクラテロスによって誤射されて七年間の統治の後にその生涯を終えた。彼の後をまだ少年であったオレステスが襲い、彼は後見人のアエロポスに殺され、アエロポスは六年間王座にあった。アテナイではアニュトスとメレトスによって不敬虔と若者を堕落させているという罪状で告発されていた哲学者のソクラテスが死を宣告され、ドクニンジンを飲んで生涯を終えた。しかしその告訴は不適当なものであったため、人々はあまりにも偉大な人を死に追いやってしまったと思ってそれを後悔した。したがって彼らは告発者たちに怒りを向けて最終的には裁判抜きで処刑してしまった。
38 この年の終わりにアテナイではアリストクラテスがアルコン職に就き(29)、ローマでは執政官の職権はガイウス・セルウィリウス、ルキウス・ウェルギニウス、クィントゥス・スルピキウス、アウルス・ムティリウス、そしてマニウス・セルギウスという六人の軍務官に引き継がれた(30)。その行政官らが任期に入った後、ラケダイモン人はティブロンの戦争の仕方が拙いものであることを知ると、将軍としてデルキュリダスをアジアへと派遣した。彼は軍を引き継いでトロイア地方の諸都市へと進軍した。その時にハマクシトスとコロナイとアルスバを彼は最初の攻撃で落とし、次いでイリオンとケルベニアとトロイア地方の他の全ての都市を、あるものは計略によって占領し、他のものは力づくで征服した。この後、彼はパルナバゾスと八ヶ月期限の休戦条約を結び、当時ビテュニアに住んでいたトラキア人に向けて進軍した。彼らの領地を荒らした後に彼は越冬地へと軍を連れていった。
 トラキアのヘラクレイアで内紛が起こり、ラケダイモン人は秩序回復のためにヘリッピダスをそこに送った。ヘラクレイアへの到着直後にヘリッピダスは民会を召集して重装歩兵部隊で彼らを包囲し、およそ五〇〇人に及ぶ内紛の張本人を逮捕して皆殺しにした。そしてオイテ辺りの住民が反乱を起こすと彼は彼らと戦い、非常に苦労しつつも鎮圧して島からの退去を強いた。彼らの大部分は妻子を連れてテッサリアに逃げ、五年後にボイオティア人によって故郷を取り戻した。
 それらの出来事が起こっていた間、トラキア人が大軍でもってケルソネソスに攻め込んでその全域を荒らし、諸都市を包囲した。ケルソネソス半島の住民は戦争で圧迫されたためにラケダイモン人のデルキュリダスにアジアから来てくれるよう手紙を送った。彼は軍を連れて渡ってきてトラキア人をその地方から追い出し、ケルソネソスを海から海へと続く壁で閉ざした。この行動によって彼はトラキア人の今後の来襲を防ぎ、莫大な贈り物で讃えられた後にアジアへと軍を移動させた。
39 ラケダイモン人との休戦が成った後にパルナバゾスは王のもとへと戻り、それから彼は艦隊を設えてアテナイ人コノンをその提督に任命するという計画への賛同を取りつけた。それというのもコノンは戦争の経験、とりわけ目下の敵との戦いの経験が豊富で戦に巧みであったものの、その時はキュプロス島のエウアゴラス王の宮廷に身を寄せる身だったからだ。王を説得した後にパルナバゾスは五〇〇タラントンの銀を使って海軍の準備に取りかかった。キュプロス島ヘと渡ると彼は現地の王たちに一〇〇隻の三段櫂船を準備するよう命じ、次に艦隊の指揮に関してコノンと会談し、コノンの仕事ぶりを大いに期待していた王の名の下に辞令を出して彼を海の総司令官に任じた。コノンはラケダイモン人を戦争で圧すればギリシアの覇権を母国に取り戻すことができるだろうし、それに彼自身が大きな名声を得ることになるだろうと期待して指揮権を受け取った。全艦隊の準備が整う前に彼は手元にあった四〇隻でキリキアへと渡り、そこで戦争の準備を始めた。
 パルナバゾスとティッサペルネスは自分の管轄諸州から兵を集め、敵軍がいたエペソスへと出撃した。その軍は二〇〇〇〇人の歩兵と一〇〇〇〇騎の騎兵であった。ペルシア軍接近の報に接するとラケダイモン軍の将軍デルキュリダスは全部でも七〇〇〇人を上回らない軍を率いて出撃した。しかし両軍が互いに接近すると休戦条約が結ばれ、休戦期間の間にパルナバゾスは王に協定の条件に関する手紙を送って戦争を終わらせる準備をし、デルキュリダスはスパルタ人にその件について説明するものとされた。かくしてこれを了解すると、将軍たちは軍を解散させた。
40 カルキスからの植民者であったレギオンの住民はディオニュシオスの勢力増大を腹立たしく眺めていた。というのも彼は彼らの同族であったナクソス人とカタネ人を奴隷として売り払っており、レギオン人にはこの不運な人たちと同じ血が流れていたことから皆が同じ災難を被るだろうと恐れられていたため、この行動は尋常ならざる関心を向けられた。したがって彼らは僭主が完全にその身を安全にする前に速やかに彼と戦うことを決定した。彼らの戦争の決定はディオニュシオスによって追放されていたシュラクサイ人から強く支持されたが、それというのも彼らのほとんどがその時にはレギオンに住んでいて、この問題について絶えず議論して全シュラクサイ人が攻撃に加わる好機を掴めるだろうと指摘していたからだ。最終的にレギオン人は将軍たちを任命して六〇〇〇人の歩兵と六〇〇騎の騎兵、そして五〇隻の三段櫂船と共に送り出した。将軍たちは海峡を渡ってメッセネ軍の将軍を説得して戦争に加わらせ、ギリシア諸都市とその隣人たちが僭主によって完全に滅ぼされる時を座して待つのは恐るべきことだと宣言した。今や将軍たちは人々の票決を経ずにレギオン軍に靡き、歩兵四〇〇〇人、騎兵四〇〇騎、そして三〇隻の三段櫂船という軍勢を率いていった。しかし我々が述べたその軍勢がメッセネの境界あたりまで進んだところでメッセネ人ラオメドンの熱弁で兵士たちの間で不和が起こった。というのも彼は彼らに何ら害を及ぼしていないディオニュシオスに戦争をふっかけてはならないと忠告したからだ。したがってメッセネ兵は人々が戦争に賛同しなかったためにすぐに彼の忠告に従い、将軍たちを見捨てて帰国した。レギオン軍は単独では戦うには不十分な戦力だったため、メッセネ人が軍を解散させたことを知ると、彼らもまた速やかにレギオンへと戻った。当初、敵の攻撃を待ち受けるためにディオニュシオスはシュラクサイの境界へと軍を進めていた。しかし彼らの撤退を知ると、シュラクサイへと軍を帰らせた。レギオン人とメッセネ人が和平の条件を扱うための使節団を送ると、彼はそれらの国々に対する敵意に終止符を打つのが自分にとっては有利だと結論し、和約を締結した。
41 ギリシア人の一部が市民権と財産を携えてカルタゴ領へと脱走しているのを見て取ったディオニュシオスは出来るだけ長くカルタゴ人と平和状態を維持すれば、彼の多くの臣民は亡命に加わろうとするだろうし、もし戦争が起こればカルタゴ人によって隷属化されていた人たちは彼に寝返るだろうとの結論を下した。また彼は、リビュアの多くのカルタゴ人が猛威を振るっていた疫病の犠牲になっていたことも聞き知った。こういった理由から自分にとって戦争の好機だと考えると、彼はまず準備を決定した。というのもヨーロッパで最も有力な人々との戦いに突入することになるために戦争は大規模で長引くだろうと彼は思っていたからだ。したがってすぐに彼は熟練工を集め、支配下にある諸都市からもカルタゴ領に至るまでのイタリアとギリシアから高給を餌に呼び寄せた。それというのも彼の目的は大量の武器とありとあらゆる投擲兵器を作り、四段櫂船と五段櫂船を建造することであり、後者はその時までついぞ建造されることがなかった大きさの船だったからだ。多くの熟練工を集めた後に彼は彼らをその技能に準じて集団に分け、最も際立った市民たちを彼らに割り当て、軍需品を作った者には多額の報奨金を提示した。鎧に関して言えば、あらゆる民族から傭兵を募っていたために彼は各々の種類の型を配布した。というのもそういった鎧のおかげで彼の軍が敵を大いに驚愕させることができ、戦いにあっては全ての兵が慣れ親しんだ鎧で戦って最高の力を発揮すると考えたため、彼は熱心にそれぞれの人々の武器で武装したあらゆる兵士を持とうとしていたからだ。シュラクサイ人は熱心にディオニュシオスの施策を支持したため、武器の建造で非常な競争が起こった。というのも列柱や寺院の奥の部屋、運動場とアゴラの柱廊などあらゆる場所に工夫が群がっただけでなく、そういった公的な場所を離れてほとんどの貴族の家々でも非常に大量の武器が作られたからだ。
42 事実、最も優れた技能を持った職人が至る所から一カ所に集められたためにカタパルトがこの時代にシュラクサイで発明されることになった(31)。高給と多くの報酬が最も熱意を示したと判断された職人に提示された。そういった要素に加えてディオニュシオスは職人の間を毎日巡回して彼らと親しく言葉を交わし、贈り物によって最も熱心な者を讃えて自分の食卓に招待した。したがって職人たちは見慣れない大いに役立つ多くの投擲兵器と攻城兵器の考案にあたって比類ない専心を示した。また彼は四段櫂船と五段櫂船の建造も始め、そういった船を建造しようと考えた最初の人になった。というのもまず三段櫂船がコリントスで建造されたことを聞くと、彼はそこからの植民が移住した彼の都市で海軍の規模を増大させようと思い立ったからだ。イタリアからの木材の輸送許可を獲得した後に彼は、その時代には優れたモミの木と松の木が鬱蒼と生い茂っていたアイトネ山へと木こりの半分を、もう半分をイタリアへと派遣した。それらの地で彼は木材を海へと運ぶための人員、それからシュラクサイへと加工した木を迅速に運ぶための小舟と乗組員の準備をした。十分に木の蓄えを集めると、ディオニュシオスはすぐさま船の建造を始めて二〇〇隻以上を建造し、すでに持っていた一一〇隻を修繕した。そしてまたいわゆる大港湾の周りに一六〇隻を収容できる船置き場を建設し、既存の一五〇隻を修復した。
43 一カ所で作られていたかくも夥しい武器と船を見た者は驚嘆の念で満たされた。いつなんどきにおいても船の建造で示されていたこの白熱ぶりを見た者はシケリアのあらゆるギリシア人がその建造に従事したと考えた一方で、武器と戦争用の兵器が作られている場所を訪れた者は使うことができる全ての労働者がこの一事に従事させられていたと考えたものである。さらに、上述のようにこの計画に投じられた熱意の比類なさにもかかわらず、一四万枚の盾とそれに近い数の短剣と兜が作られ、それに加えて一四〇〇〇個以上のありとあらゆる形状で最高の技巧が凝らされた胸甲がすでに作られていた。ディオニュシオスはそれらを歩兵の指揮官らと騎兵、並びに彼の親衛隊を形成していた傭兵に分配する腹づもりだった。また彼はあらゆる様式のカタパルトと他多数の投擲兵器も持っていた。建造された軍船の半分のために舵手、弓兵隊長、そして漕ぎ手が市民から動員され、残りの半分の船に充てるためにディオニュシオスは傭兵を雇い入れた。船の建造の武器の製造が完了すると、ディオニュシオスは兵士を集めることに意を転じた。というのも、多額の出費を避けるためにはあまり前から彼らを雇い入れない方が有益だと彼は信じていたからだ。
 この年に悲劇作家のアステュダマスが処女作の劇を書き、彼は六〇年間存命した。
 ローマ人はウェイイを包囲しており、市からの出撃が成されると、ローマ兵の一部はウェイイ軍によって惨殺されて恥ずべき敗走をして逃げた。
44 この年が終わった時、イテュクレスがアテナイでアルコンであり(32)、ローマでは執政官に代わってルキウス・ユリウス、マルクス・フリウス、マルクス・アエミリウス、ガイウス・コルネリウス、そしてカエソ・ファビウスの五人が軍務官になった(33)。シュラクサイ人の僭主ディオニュシオスは武器の製造と艦隊の建造があらかた完了するとすぐに兵士を集めにかかった。彼はシュラクサイから部隊内での軍務に適当な者を徴募し、彼に服属する諸都市から有能な男たちを呼び寄せた。また彼はギリシア、とりわけラケダイモン人のうちから傭兵を集めたが、それはラケダイモン人が彼の権力の確立を助けるために彼が望むだけの傭兵を彼らのうちから徴募することを許可したからだ。概して言えば、彼は多くの国々から傭兵軍を集めるよう特に心がけて高給を約束し、上々の反応を得た。
 ディオニュシオスは大戦争を起こそうとしていたためにシケリアの諸都市に対して丁重に接して彼らの好意を引き出そうと熱心に取り組んだ。海峡辺りに住むレギオン人とメッセネ人が強力な軍勢をかき集めていることを知った彼は、カルタゴ軍がシケリアに渡ってきでもすれば、彼らがカルタゴ軍と合流するだろうと恐れた。というのもそれらの都市は戦争にあって彼らが味方につく側にとっては少なからぬ勢力を加えることになったからだ。それらの考慮がディオニュシオスの大きな不安の種になったため、彼はメッセネ人に彼らの国境沿いの広大な領地を送り、この恩によって彼らを自分に縛り付けた。彼はレギオン人に使節を送り、婚姻関係を結んで彼にそこの市民処ある乙女を花嫁として差し出すよう求めた。そして彼は広大な隣接する領地を彼らに渡し、これに加えて彼らの都市を強くするためならば自分の権限でもって何でもすると約束した。というのもヘルモクラテスの娘でもあった彼の妻は騎兵の反乱時に殺されており、彼の子孫への忠誠が自分の僭主権力に対する最強の守りになると信じていた彼は子供を欲しがっていたからだ。にもかかわらず、ディオニュシオスの提案を議題に上げた民会がレギオンで開かれると、大変な議論の後にレギオン人は婚姻を受けないことを評決した。今やこの計画が失敗に終わったディオニュシオスは同じ目的のためにロクリスの人々へと使節団を派遣した。彼らが婚姻関係への賛成を票決すると、ディオニュシオスはこの時に最も尊敬されていた市民クセネトスの娘ドリスの手を求めた。数日の後に彼は最初に建造していた金銀の飾りで飾った五段櫂船をロクリスへと送った。これに彼はその乙女を乗せてシュラクサイへと連れていき、アクロポリスへと向かわせた。そしてまた彼は市の人々のうちから花嫁を捜し求め、最も高貴な乙女であったアリストマケを彼の家に連れていくために四頭の馬が引く戦車を派遣した。
45 両方の乙女と同時に結婚した後、ディオニュシオスは兵士と大部分の市民のために一連の公費の晩餐会を開催した。今や彼は僭主制の過酷な側面を捨てて公正な扱いへと路線を変更していたために臣下をより人道的な仕方で支配することになり、彼はこれ以上人を殺したり追放したりしなくなった。結婚の後に彼は数日を過ごし、それからシュラクサイ人の民会を召集し、カルタゴ人は普く全ギリシア人最大の敵対者であり、とりわけシケリアのギリシア人〔の打倒〕のあらゆる機会を伺っていると宣言し、彼らに対カルタゴ戦争を呼びかけた。目下のところカルタゴ人は彼らのうちで流行った疫病のために動けず、リビュアの住民の大部分を失いはしたものの、勢力を回復すればシケリアのギリシア人への攻撃を控えることはないだろうし、彼らはずっと前から謀を練っていると彼は指摘した。したがって、彼らが強くなるのを待って挑むよりはまだ弱まっているうちに決戦を挑むのが至当であると彼は続けて言った。同時に彼はギリシア諸都市を夷狄に隷属させるのを許すことがどれほど恐ろしいことであるか、そしてそれらの都市が戦争に熱心に参加すればするほどそれはとりもなおさず自由の獲得に邁進ことになることを示した。自分の施策を支持する長演説をした後、彼は速やかにシュラクサイ人の賛意を得た。第一に僭主からの命令を受けざるを得なくなった原因であるカルタゴ人への憎悪のために、第二に敵への恐怖と彼が奴隷化した市民による攻撃への恐怖のために、そして何よりも彼らはひとたび武器を手にすれば自由のための戦いができて運命がその好機を与えることを期待したため、彼が彼らをより人道的に扱うのではないかと期待していたおかげで実際のところ彼らは彼に劣らず戦争への熱意を持った。
46 民会での話し合いの後、シュラクサイ人はディオニュシオスの許しを得てフェニキア人の財産を略奪品として獲得した。それというのも少なからぬカルタゴ人はシュラクサイに家と豊かな財産を持っており、また彼らの多くは商人で港に財物を乗せた船を持っており、その全てをシュラクサイ人が略奪したからだ。似たようにして残りのシケリアのギリシア人は彼らのもとに住んでいたフェニキア人を追い出して財産を略奪した。それというのも彼らはディオニュシオスの僭主政治を嫌悪してはいたものの、カルタゴ人の残虐さのために彼らとの戦争に喜んで参加したからだ。そっくりそのまま同じ理由でカルタゴ人の支配下にあったギリシア諸都市の人々もまた、ディオニュシオスが戦争を公にするやすぐにフェニキア人への嫌悪を露わにした。彼らは略奪品として財産を奪ったのみならず、自分たちが捕虜だった時代を思い出しては手に落ちた人々を身体へのありとあらゆる拷問と残虐行為によって屈服させた。この時とその後に彼らがフェニキア人に対してぶちまけたこのような復讐のためにカルタゴ人は被征服民に対して法を逸脱するような扱いをしてはならないという戒めを教わった。というのも彼らはまさにこの行いによって学習したため、戦争での運命は両交戦者に対して中立で、敗北に際して双方は彼らが不運な人にやったのと同じことを被るに違いないということを悟ったからだ。
 今や戦争の全ての準備が整うと、ディオニュシオスはカルタゴ人に向け、カルタゴ人が隷属させたギリシア諸都市に自由を回復させなければシュラクサイ人はカルタゴ人に対して宣戦するという宣言を持たせた使者を送った。
 ディオニュシオスは上述のようにしてその問題に足をつっこむこととなった。
 歴史家のクテシアスはこの年でニノスとセミラミス〔の時代〕から書き始めた『ペルシア人の歴史』を完結させた。この年はキュテラのピロクセノス、ミレトスのティモテオス、セリヌスのテレストス、そして絵画と音楽の才能でも秀でていたポリュエイドスといった最も優れた酒神讃歌作家たちの全盛期だった。
47 この年の暮れにはアテナイではリュシアデスがアルコンになり(34)、ローマではポピリウス・マリウス、プブリウス・マエリウス、スプリウス・フリウス、そしてルキウス・プブリウスという六人の軍務官が執政官の職務を遂行した(35)。シュラクサイ人の僭主ディオニュシオスは彼の私的な計画に基づいた戦争の全ての準備が完了すると、カルタゴ人がギリシア諸都市から撤退しなければシュラクサイ人はカルタゴ人に対する戦争を決定するという旨の元老院宛の手紙を持たせた使者をカルタゴへと送った。したがって使者は命に従ってリビュアへと渡って元老院に手紙を渡した。評議会で、続いて人々の前でそれが読まれると、彼らは戦争を考えて少なからず悲しんだ。それというのも疫病で多くの人が死んでおり、準備が全くできてもいなかったからだ。にもかかわらず彼らはシュラクサイ人が先に仕掛けるのを待ち、ヨーロッパ(36)で傭兵を徴募するために多額の資金と共に元老院の多くの者を急派した。
 ディオニュシオスはシュラクサイ軍、傭兵軍、そして同盟軍を連れてシュラクサイから進撃してエリュクスを目指した。それというのもこの丘からそう遠からぬところにカルタゴの植民都市で、彼らがシケリアに対する軍事行動の主要な基地として使っていたモテュエ市があり、ディオニュシオスはこの都市を勢力下に収めれば敵に対して小さくない優位を得ることができると期待していたからだ。進軍の途上で彼は時折ギリシア諸都市からの増援部隊を受け入れ、その各々から武器を余すところなく徴発した。というのも彼らはフェニキアの支配地での苛政を憎んでいて、最終的に得られる自由に胸を躍らせていたたために彼の遠征に全幅の熱意を抱いて参加したからだ。彼はカマリナで最初の徴発を、次いでゲラとアクラガスでも行い、それらの後に彼は祖国がシケリアの他の側(37)にあったヒメラ人に手紙を送り、途上のセリヌスで兵を加えた後に全軍でモテュエに到着した。彼は八〇〇〇〇人の歩兵、三〇〇〇騎を越す騎兵、そして二〇〇隻弱の軍船を有しており、大量の兵器と他の全ての必需品を積んだ五〇〇隻を下らない商船が随行ていた。
48 上述のようにその軍勢の規模は大変なものであったため、エリュクスの人たちはこの大軍勢に肝を潰し、カルタゴ人を憎悪してディオニュシオスに同調した。しかしモテュエの住民はカルタゴ人の救援を待望していたためにディオニュシオスの軍勢に意気阻喪せず包囲戦に耐える準備をした。というのもシュラクサイ軍がモテュエはカルタゴ人に最も忠実だったためにそこを劫掠する最初の都市にしようとしていたことを知らないわけではなかったからだ。この都市はシケリアから六スタディオン離れたところにある島にあり、住民の富のためにこの上なく素晴らしい数々の家々で美しく飾られていた。またシケリアの岸まで広がる狭い人工の土手道もあり、この時にモテュエ人は敵が近づけないようにするためにそれを破壊した。
 ディオニュシオスは技師たちを連れてその地域を偵察した後にモテュエへと続く堤を建設し始め、軍船を港の入り口の岸へと向かわせ、浜に沿って商船を投錨させた。この後、彼はその作業の指揮をレプティネス提督に任せて残し、一方で自らはカルタゴ人と同盟していた諸都市へと軍のうちの歩兵部隊を率いていった。今やその軍勢の大なることを恐れたシカノイ人は諸手を挙げてシュラクサイ人の側につき、残りの諸都市のうちハリキュアイ、ソロス、エゲスタ、パノルモス、そしてエンテラの五都市のみがカルタゴ人への忠誠を保った。そこでディオニュシオスはソロスとパノルモスの領地、それからハリキュアイの領地を略奪して木を伐採したが、エゲスタとエンテラは強力な軍勢で包囲し、力づくでそれらの支配権を得ようとして絶えざる攻撃をかけた。ディオニュシオスの情勢は以上のようなものであった。
49 カルタゴ軍の将軍ヒミルコンは自身が軍勢をかき集めてその他の準備をするのに忙殺されていたため、速やかにそして密かにシュラクサイへと航行して夜のうちに港に入ってそこに停泊している船を破壊するようにという命令を与えて一〇隻の三段櫂船をつけて提督を急派した。ディオニュシオスの注意を逸らして艦隊の一部をシュラクサイへと帰すよう仕向けることを期待して彼はこうしたのだ。派遣された提督は速やかに命令を実行に移して誰もが何が起こったのかを知らないうちに夜にシュラクサイの港に入った。岸沿いに停泊していた船に彼は不意打ちを食らわせて衝角攻撃をし、そのとほんど全てを沈めてカルタゴへと戻った。ディオニュシオスはカルタゴ人が持っていた全ての領地を荒らして敵を城壁内へと追い込んだ後、モテュエへと全軍を率いていった。というのも、この都市を包囲によって落とせば、他の全ての都市も彼に降伏するだろうと期待していたからだ。したがってすぐに彼は兵士たちに何度もその都市と沿岸との間の海峡を埋める作業をさせ、堤が延びてくると少しずつ攻城兵器を城壁へと進めた。
50 一方でカルタゴ軍の提督ヒミルコンはディオニュシオスが軍船を揚陸したことを聞くと、海を制圧している自分が出し抜けに現れれば簡単に港に揚陸されていた艦隊を奪取できるだろうと考えて一〇〇隻の三段櫂船の大艦隊にすぐに人員を乗せた。これに成功するや否や彼はモテュエの包囲と解くのみならず、戦争をシュラクサイに移すこともできるのではないかと信じるようになった。したがって一〇〇隻の艦隊と共に出発してセリヌス領に夜間に到着し、リリュバイオン岬に沿って進んで夜明けにモテュエに到着した。彼の出現は敵を驚かせ、ディオニュシオスは艦隊の防衛に向かうことができなかったためにヒミルコンは沿岸に碇を降ろしていた船の一部を衝角攻撃により、他のものを焼き払うことによって使用不能にした。この後にヒミルコンは港へと航行し、あたかも敵が陸に揚げた船を攻撃するかのように出撃した。その時にディオニュシオスは軍勢を港の入り口に集結させていたが、船が港を離れたところを攻撃するために敵が待ちかまえていることを知ると、隘路ならば少数の艦隊が数倍の敵と渡り合えるようになると考えて港の内側に船を展開させる危険を冒すことを拒んだ(38)。したがって多くの兵士を使って彼は難なく船を引っ張っていって港の外側の海に安全に進水させた。ヒミルコンは最初の艦隊を攻撃したが、大量の投擲兵器で食い止められた。それというのもディオニュシオスは大勢の弓兵と投石兵をその艦隊に乗り込ませ、シュラクサイ軍は陸からも先の鋭く尖った矢玉を発射するカタパルトを用いて多くの敵兵を殺したからだ。なるほどこの兵器はこの時代の新しい発明品だったために大いにヒミルコンを意気消沈させた。結果、ヒミルコンは計画を達成することができず、敵は自軍の二倍の数であるために海戦では目的を達成できまいと信じてリビュアへと去っていった。
51 工夫の大部隊を働かせることで堤を完成させた後、ディオニュシオスは城壁へとありとあらゆる攻城兵器を進めて破城槌を塔へと打ち付け続け、その間もカタパルトで胸壁の戦闘員を倒し続けた。また家の高さに等しくなるように作った車輪の付いた六階建ての高さの塔を城壁へと進めもした。モテュエの住民は今や脅威が目と鼻の先に来ており、その時に彼らを助ける同盟者を持っていなかったにもかかわらず、ディオニュシオスの軍勢に落胆しなかった。栄光の渇望で包囲軍に勝ろうとした彼らは手始めに可能な限り最も高いマストから吊された桁端の上にある帆柱の上の見張り台に兵士を乗せ、その高所から火の点いた松明を投げて敵の攻城兵器の勾配に付いている引き綱を焼き払った。炎はすぐに木に燃え広がったが、シケリアのギリシア軍はその場に急行して消した。その間に破城槌の頻繁な打撃が城壁の一区画を崩した。今や双方がその場所へと一斉に殺到したため、起こった戦いは激しいものになった。シケリアのギリシア軍はその都市はすでに我が方の手に落ちていると信じてフェニキア人を彼らの手によって被った以前の被害への報復から容赦せず、一方市の人たちは生け捕りにされた場合の身の毛もよだつような運命を思い描き、陸でも海でも逃亡の可能性はないことを知っていたために勇敢に死に立ち向かった。城壁の防衛線が寸断されたことを悟ると彼らは狭い通りに障害物を築いて家々を使って惜しみなく壁を作った。これがディオニュシオスの部隊により大きな困難をもたらしさえした。というのも城壁に裂け目ができてすでに市の主になったと思っていた彼らはより良い場所に陣取った兵からの矢玉での掃射を受けたからだ。にもかかわらず彼らは木の塔を最初の家々まで進ませて通路を作った(39)。攻城兵器は住居と等しい高さであったため、残余の戦いは白兵戦になった。シケリアのギリシア軍がその通路を通って家々へと押し入ってきたからだ。
52 途方もない危機にあってモテュエ人は、妻子が眼前にいたために彼らの運命への恐怖からより激しく戦った。ある者は両親が勝者の無法な意志に自分たちを投げ出さないようにと懇願しながら立っていたためにこの上なく自らの命を軽視し、他の者は妻と無力な子供たちの泣き声を聞いて子供が捕虜になるのを見るよりはむしろ男らしく死のうとした。敵が支配する海で市は完全に囲まれていたために市からの脱出は不可能であった。フェニキア人を最も恐怖させ、彼らの絶望の最大の原因となったのは彼らがどれほどギリシア人の捕虜を残忍に扱っていたかという考えと、これと同じ扱いを受けるという予想だった。なるほど現にその勇敢な戦いの暁には征服者と死者以外の何者も残らなかった。かくも頑強な気分が籠城者の心を満たすと、シケリアのギリシア軍は自らが非常に困難な立場にあることを見て取った。というのも木の吊り橋から戦えば彼らはその狭い場所と生命への希望を捨てた敵の捨て鉢の抵抗のために大損害を被ったからだ。その結果、ある者は出会い頭の白兵戦で傷を受けて死んで、他の者はモテュエ人に押し返されて木の橋から転がり落ちて地面に身体をぶつけた。最終的に我々が以上で述べたような包囲戦の様相は数日続き、ディオニュシオスは戦闘員を呼び戻して包囲戦を中断させるラッパが鳴る夜になるまで常にそのように戦わせた。彼はモテュエ人をそのような振る舞いに慣らすと、双方の戦闘員が撤退した時にトゥリオイのアルキュロスを選り抜きの部隊と一緒に送り、夜に彼らは倒壊した家々に梯子をかけて登り、ディオニュシオスの兵を受け入れる有利な地点を占領した。モテュエ人は事の次第を知るとすぐにまったき熱意を持って救援へと殺到し、遅れたものの敵と渡り合った。戦いは激しさを増し、増援が梯子を登ってきて、遂にシケリアのギリシア軍は数の重みを頼んで敵をすり潰した。
53 ディオニュシオスの全軍は早速市内に突入して防波堤からも来て、今やあらゆる場所が大殺戮の場となった。シケリアのギリシア人は残虐行為に対しては残虐行為でもって仕返しをしようと逸っていたため、女子供だろうと老人だろうと容赦せずに出会う者を片っ端から殺しまくったからだ。ディオニュシオスは金を得るのために住民を奴隷として売り払おうと望んでいたために兵士による捕虜の殺戮を抑えようとしたが、彼の言うことに誰も耳を貸さず、シケリアのギリシア人の憤激を制御することはできそうにないことを理解すると、大声で伝えさせるべく伝令を出してモテュエ人にギリシア人に帰属していた神殿に逃げ込むように言った。これがなされると、兵士たちは殺戮を止めて財産の略奪へと転じた。そして略奪は大量の銀と少なからぬ金、並びに高価な衣服と豊富な他のあらゆる幸福の元となる文物をもたらした。ディオニュシオスは欲望を将来の戦いへと煽ろうと望んでいたため、その都市は兵士たちに略奪のために与えられた。この成功の後、彼は城壁に最初に上ったアルキュロスに一〇〇ムナを褒美として与え、勇敢な振る舞いをした他の全員を功労に応じて称えた。また彼は生き残ったモテュエ人を戦利品として売り払いもしたが、カルタゴ人の側に立って戦って捕虜になったダイメネスとその他のギリシア人は磔刑に処した。この後、ディオニュシオスはシュラクサイのビトンが指揮を執り、その大部分がシケロイ人から構成されていた守備隊をその都市に置いた。彼は一二〇隻の艦隊を率いていたレプティネス提督をカルタゴ人によるシケリア渡航の試みに備えて待機させた。彼はエゲスタとエンテラを略奪するという元々の計画に則って彼にそれらの包囲を割り当てもした。次いで夏がすでに間近に迫っていたため、彼は軍を連れてシュラクサイへと戻った。
 アテナイではソポクレスの息子ソポクレスが悲劇の制作を初め、一二回優勝した最初の人となった。
54 その年が終わりにさしかかった時、アテナイではポルミオンがアルコン職に就いて(40)ローマではグナエウス・ゲヌキウス、ルキウス・アティリウス、マルクス・ポンポニウス、ガイウス・ドゥイリウス、マルクス・ウェトゥリウス、そしてウァレリウス・プブリリウスという六人の軍務官が執政官職を代行した(41)。九六回目のオリュンピア祭が開催され、エリスのエウポリスが優勝者となった。それらの行政官たちが職務に入ったこの年にシュラクサイの僭主ディオニュシオスは全軍を率いてシュラクサイを出発してカルタゴ人の支配地へと攻め込んだ。彼が郊外を荒らしていると、意気消沈したハリキュアイ人が大使を彼に送って同盟を結んだ。しかしエゲスタ人は包囲軍に対して夜襲を出し抜けにかけて彼らが野営していた天幕に火を放ち、野営地の兵士たちを大混乱に陥れた。というのも火は大部分に燃え広まって統御が効かなくなったため、救出に来た少数の兵士は命を落として大部分の馬が天幕もろとも焼かれたからだ。今やディオニュシオスはカルタゴ領を何の抵抗も受けずに荒らし、彼の提督レプティネスはモテュエの彼の部署から海からの敵の来寇を監視し続けた。
 カルタゴ人はディオニュシオスの軍勢の強大さを知ると、用意において彼を遙かに凌駕しようと決めた。したがってヒミルコンに法的に支配権を与える〔スフェトへの任命〕と、彼らはある場合は同盟国から、他の場合は傭兵を雇い入れて全リビュア並びにイベリアから軍勢を集めた。最終的に彼らは歩兵三〇万人と騎兵四〇〇〇〇騎を越える兵力と、これに加えて四〇〇台の戦車、四〇〇隻の軍船、そして六〇〇隻を越す食糧と兵器とその他の物資を輸送するその他の船舶を集めた。これはエポロスが述べる数である。他方でティマイオスはリビュアから輸送された兵力は一〇万を越えなかったと述べ、これに加えて三〇〇〇〇人がシケリアで入隊したと明言している。
55 ヒミルコンは出航した後に開けて指示を実行するようにという命令を与えて全ての舵手に封をした命令書を与えた。どこに投錨するのかを間諜がディオニュシオスに報告できないようにするために彼はこの計画を考案したのである。その命令ではパノルモスに投錨するよう彼らに指示された。順風が起こると、全ての船は錨鎖を引き上げて輸送船は航海へと船出したが、三段櫂船はリビュア海へと航行して陸沿いに進んだ。順風が吹き続けて輸送船を先導する船団はすぐにシケリアから見えるようになり、ディオニュシオスは衝角攻撃を行って食い止めて全ての敵船を破壊するよう命じて三〇隻の三段櫂船と共にレプティネスを急派した。レプティネスは即座にそれらへと向かっていって遭遇した最初の船団をすぐに乗組員もろとも沈めたが、残りの船団は全ての帆布を広げて風に乗って航行したためにたやすく逃げ仰せた。にもかかわらず、五〇隻の船が五〇〇〇人の兵士と二〇〇台の戦車と一緒に沈められた。
 パノルモスに到着して軍を上陸させた後、ヒミルコンは自分に沿って航行するよう三段櫂船艦隊に命じて敵へと向かっていった。そしてまず途上でエリュクスを裏切りによって落とすと、モテュエの前にある地区を占領した。ディオニュシオスと彼の軍はこの時エゲスタにいたため、ヒミルコンはモテュエを包囲によって落とした。シケリアのギリシア軍は戦いへの熱意を持っていたものの、自分が同盟諸都市から遠く離れており、食糧の輸送が減ってきたために他の地方で戦争を再開する方がよいだろうとディオニュシオスは考えた。したがって陣を畳むことを決定すると、彼はシカノス人にさし当たり彼らの都市を放棄して彼の遠征軍に加わるよう提案し、その代わりに大体同じ広さのより豊かな領地を与え、戦争集結の暁には望む者は故郷の都市に帰すと約束した。それを拒絶すれば、兵士による略奪を受けるのではないかと恐れてディオニュシオスの申し出に同意したのはシカノス人のうちで僅かであった。ハリキュアイ人は似たようにして彼から離反し、カルタゴ軍の野営地に使節を送って同盟を結んだ。そしてディオニュシオスはシュラクサイへと発ち、進軍の過程で領地を荒らした。
56 今や事態が自身の望むように展開してくると、都合よく簡単にメッセネの支配権を握れるのではないかと思ったヒミルコンはその都市へと軍を進める準備をした。というのも、そこには六〇〇隻以上にもなる彼の全ての船を収容できる良港があり、ヒミルコンは海峡を手中に収めることでイタリアのギリシア人からの救援を遮断してペロポネソス半島から来る艦隊を監視できるだろうと期待していたからだ。この計画を思いつくと彼はヒメラ人とケパロイディオン砦の住民と友好関係を樹立し、リパラ島の都市を奪取するとその島の住民から三〇タラントンを徴発した。次いで彼は全軍を率いて自らメッセネへと向かい、船団を彼に沿って沿岸航行させた。瞬く間にその距離を踏破すると彼はメッセネから一〇〇スタディオンの距離にあるペロリスに陣を張った。この都市の住民は敵が目と鼻の先にいることを知ると戦争についての意見の一致に至ることができなくなった。ある派閥は敵軍が大規模であるという報告を聞いて自分たちには同盟者がいないこと――おまけに彼らの騎兵はシュラクサイにいた――を鑑みて、占領を逃れる道はないと完全に納得した。彼らの絶望は、城壁は倒壊していて目下の状況では修理の時間がないという事実に基づいていた。したがって彼らは妻子と最も価値ある財産を近隣の諸都市に移した。しかしメッセネ人のもう一つの派閥は「カルタゴ人はメッセネの水を持つ者とならぬ」という古の神託を聞き知っていたためにカルタゴ人はメッセネを奴隷として使うことはないだろうと信じ、これが彼らの優位を述べていると解釈した。したがって彼らは希望に満ちた心持ちを持っていただけでなく、他の多くの人に自由のための戦いに挑む熱意を持たせた。それからすぐに彼らは最も有能な兵を若者の中から選び、敵が彼らの領地に侵入するのを阻止すべくペロリスへと派遣した。
57 メッセネ人がこのように忙しくしていた一方で、ヒミルコンは彼らが上陸地点に向けて出撃してきたことを見て取ると二〇〇隻の船をその市に差し向け、これはうまくいけばその部隊(42)が彼の上陸を防ごうとしている間に船の乗組員が防衛軍を剥ぎ取られたメッセネを易々と奪取できるだろうと期待したからだ。北風が吹いて船は全ての帆を広げて入港した一方、ペロリスを守るメッセネ軍は大急ぎで戻ったものの船より先に到着できなかった。したがってカルタゴ軍はメッセネを攻めて倒壊した城壁を突破し、市の主となった。メッセネ人の方はというと、ある者は勇敢に戦って殺され、他の者は最も近い諸都市へと逃げたが、大部分の民衆は周囲の山々を通って逃げ、領地の砦に散り散りになった。残りの者のうち、ある者は敵に捕らえられ、またある者は港の近くの地区へと追いつめられ、海峡の向こう側へと泳いで渡ろうと望んで海へと身を投げた。彼らのほとんど、二〇〇人以上が波に負け、無事イタリアに着けたのは僅か五〇人であった。今やヒミルコンは全軍を市に入れ、手始めに郊外の諸々の砦を落とす仕事に入った。しかしそれらは強固な場所にあってそこに逃げた人たちが勇戦したため、彼はそれらの主になることはできないだろうと悟って市へと撤退した。この後、彼は軍を休息させてシュラクサイ進軍の準備をした。
58 昔も今もディオニュシオスを嫌っていて反乱の好機を得たシケロイ人はアッソロスの人々を除いてぞっそりカルタゴ人の側についた。シュラクサイではディオニュシオスが奴隷を解放して六〇隻の船に乗せた。また彼はラケダイモン人から一〇〇〇人の傭兵部隊を呼び寄せ、諸要塞を強化して物資を貯えるべく郊外へと向かった。しかし彼が最も気にしていたことはレオンティノイ人の諸城塞を強化して原野の収穫物を貯えることだった。また彼はカタネに住んでいたカンパニア人に、群を抜いて強固な要塞であった今のアイトネに移住するよう命じた。この後、彼は全軍を率いてシュラクサイから一六〇スタディオンを進んで所謂タウロスの近くに陣を張った。その時の彼は三〇〇〇〇人の歩兵と三〇〇〇騎以上の騎兵、そしてその中に三段櫂船がほんの僅かしかない一八〇隻の軍船を有していた。
 ヒミルコンはメッセネの城壁を破壊し、兵士には建物を徹底的に破壊して瓦も木材も何も残さずに焼き払って破壊する命令を発した。数多い兵士の手がこの仕事を速やかに完遂すると、その場所が占領されたことを知る者はいなくなった。というのも、その場所は彼の同盟者であったところの諸都市から遥かに離れていて依然としてシケリアにおける戦略上最高の要地であったことを顧みて、彼はそこは人が住まずに打ち捨てられるか、あるいはそこを再建するのは困難で長引く仕事であるとディオニュシオスは見て取るだろうという決定を下したからであった。
59 メッセニア人にぶちまけた惨禍によってギリシア人への憎悪を示した後、ヒミルコンはタウロス(43)として知られる突端へと向かうよう命じて提督マゴンを海上戦力と共に派遣した。この地域は大勢いたものの指導者が欠けていたシケロイ人によって占拠されていた。彼らは以前にナクソス人の領地をディオニュシオスから与えられていたが、目下の時はヒミルコンの申し出を受けてこの突端を占拠していたのであった。そこは強固な場所であったためにこの時も戦後も彼らはそこを住処としてその周りに城壁を巡らし、集まってきた人たちがタウロスにいたために彼らはその都市をタウロメニオンと名付けた。
 陸軍を連れて進軍したヒミルコンはそのあまりに速く進んだためにマゴンが海路で同地に入港したのと同時に到着した。しかし最近になって海辺りまで〔溶岩が流れるほどの〕噴火がアイトネ山で起こって以来、最早そこは陸軍が航行する船を随伴して進軍することができなくなっていた。というのも、その地方は溶岩のために沿岸が荒廃してしまい、いわば陸軍はアイトネ山の頂上の回りの道を通らなければならなくなったかただ。したがって彼はマゴンにカタネに入港するよう命じた一方、自らはカタネ沿岸の艦隊と合流すべくその地方の暑さもものともせずに速やかに移動した。というのも軍が分割されればシケリアのギリシア人は海でマゴンと一戦交えるのではないかと彼は案じていたからだ。これは実際に起こった。というのもマゴンが短い航海をしていた一方で陸軍の進路が長く険しかったことを掴むと、ディオニュシオスはヒミルコンが到着する前に海でマゴンを攻撃すべくカタネへと急いだ。沿岸沿いに布陣した彼の陸軍が自軍の兵を元気付けた一方で敵はさらに恐怖することになるというのが彼の狙いで、最も重要なことは彼が何かしらの逆転を被ったとしても、困難にあっても船団は陸軍の野営地に逃げ込むことができるようになるだろうということだった。この目的を胸に抱いた彼は敵の大軍によって危機に陥らないようにするために密集隊形で艦隊と戦って隊形を崩さないよう命じてレプティネスを全艦隊と共に送り出した。というのも商船と青銅の衝角が付いた櫂船を含めればマゴンは五〇〇隻を下らない船を有していたからだ。
60 カルタゴ軍を追い落とすべく沿岸にギリシア人の歩兵と船団が群がっているのを見ると、彼らはすぐに少なからず警戒して上陸を始めたが、後になって艦隊と歩兵を同時に相手にして戦って破滅する危険を悟るや否や心変わりした。したがって海戦を挑むことを決断した彼らは船を出して敵が近づいてくるのを待った。レプティネスは臆病ではないというよりもむしろ無思慮さでもって三〇隻の最良の船団と共に残りの船の遥か先を先行して進んで戦いを開始した。カルタゴ軍を先導する船に攻撃をかけると、最初に彼は少なからぬ数の敵の三段櫂船を沈めた。しかしマゴンの密集した船団がその三〇隻に向かってくると、レプティネス勢はカルタゴ勢に勇気では勝っていたものの、数で劣ることになった。したがって戦いが激しくなると舵手は舷側を向けて戦い、戦いは陸戦のような体になった。というのも彼らは衝角攻撃のために遠くから敵船に突っ込むようなことはなく、船は組み合って戦いは白兵戦になったからだ。敵船に乗り込んだためにある者は海へと落ち、飛び移るのに成功した他の者は敵船で戦い続けた。最終的にレプティネスは撃退されて開けた海への退却を余儀なくされ、彼の残余の船団は無秩序に攻撃をしたためにカルタゴ艦隊に打ち破られてしまった。提督のせいであったその敗北はフェニキア人の精神を高揚させてシケリアのギリシア人をあからさまに意気消沈させてしまった。
 戦いが我々の述べたような仕方で終わった後、カルタゴ軍はバラバラに逃げていた敵を俄然熱心に追撃し、一〇〇隻以上の敵船を破壊し、岸沿いに快速船を配置して陸軍の方へと泳いでいた水兵たちの一部を殺戮した。陸からそう遠くないところで彼らが死んでいった一方でディオニュシオスの部隊に彼らを助ける手段はなく、その全域が死体と難破船で満たされた。この海戦でカルタゴ軍は少なからぬ死者を出したが、シケリアのギリシア軍の損害は一〇〇隻以上の船と二〇〇〇〇人を越す兵士に上った。戦いの後にフェニキア軍は三段櫂船の艦隊をカタネの港に投錨させて拿捕した船を引いていき、これらを港の中へと運んで修繕したため、彼らはこの成功の大きさを伝聞としてだけでなく、カルタゴ人の目の前にありありと示すことになった。
61 シケリアのギリシア軍はシュラクサイへと進路を取ったが、彼らは自分たちが確実に包囲を受けて難儀な包囲戦に耐えることを余儀なくされるだろうと省みると、彼らの予期せぬ出現は夷狄を恐慌状態に陥らせることができて先の敗北を埋め合わせることができるだろうと言い、ディオニュシオスに彼の過去の勝ち戦のゆえにヒミルコンとの即時の野戦を目指すよう説いた。ディオニュシオスは最初は彼らの忠告に靡いてヒミルコンに向けて軍を率いていったが、幾人かの友人たちからもしマゴンがシュラクサイへと全艦隊を率いて向かえば、都市を失う危険へと飛び込むことになると言われると、すぐに心変わりをした。そして実際、彼はメッセネがに同様にして夷狄の手に落ちたことを知っていた。かくして都市を丸腰にするのは安全ではないと信じた彼はシュラクサイへと向かった。シケリアのギリシア軍の大部分は敵との会戦の回避に憤慨してディオニュシオスを見捨て、その一部は自国へと、他の者は近隣の砦へと脱走した。
 カタネ領の沿岸へと二日間で到着したヒミルコンは強風が吹いたために全ての船を陸へと曳き、軍を数日間休ませる傍らアイトナを掌握していたカンパニア兵へと使節団を送ってディオニュシオスに反逆するよう求めた。彼は彼らに広大な領地を与えて戦利品の分け前に与らせることを約束した。また彼はエンテラに住むカンパニア人はカルタゴ人に楯突かず、シケリアのギリシア人に対抗して自分たちの側についていることを彼らに知らせ、概して種族としてのギリシア人はその他全ての人々の敵であると指摘した。しかしカンパニア人はディオニュシオスに人質を出してシュラクサイへと選り抜きの兵を送っていたため、カルタゴ人に与したがっていたものの、ディオニュシオスとの同盟を守らざるを得なかった。
62 この後、カルタゴ軍を恐れていたディオニュシオスは義理の兄弟ポリュクセノスをイタリアのギリシア人とラケダイモン人の両方、そしてまたコリントス人へと使節として送り、彼らに来援に来てシケリアのギリシア人諸都市を絶滅させないよう求めた。また彼は金に糸目をつけずに可能な限り多くの兵士を集めるよう命じ、傭兵を徴募するために十分な資金を持たせてペロポネソス半島へと人を遣った。ヒミルコンは敵からの戦利品で船団を飾ってシュラクサイの大港湾へと入港し、市の住民たちを大いに意気阻喪させた。整然とし、戦利品によって豪勢に飾られて輝く櫂のついた二五〇隻の軍船が港に入り、それから三〇〇〇隻を超える商船が五〇〇以上の……を載せ……。そして全艦隊はおよそ二〇〇隻に上った。その結果、シュラクサイ人の港は広大だったにもかかわらず船で覆われて帆でほとんど全てが覆われた。その帆がまさに碇を下ろそうとしたのと時を同じくして、幾人かが報じたところでは三〇万人の歩兵と三〇〇〇騎の騎兵から成る陸軍が他方面から進み出てきた。その軍勢の将軍ヒミルコンはゼウスの神殿の区画に陣取り、残りの軍勢は市から一二スタディオンほどの近隣に野営した。この後、ヒミルコンはシュラクサイ人に戦いを挑むべく全軍を率いていって城壁の前で戦闘隊形を組ませた。そしてまた彼は市の住民に恐怖を呼び起こして自分たちは海でも劣勢にあることを認めさせるべく最良の船一〇〇隻を港まで向かわせた。しかし誰も敢えて彼に向けて出撃してこないでいると、やがて彼は兵を野営地へと退かせ、それから三〇日の間、兵士をありとあらゆる略奪品で満足させるのみならず、籠城軍を絶望させるために木々を切り倒して全てを打ち壊して郊外を荒らした。
63 ヒミルコンはアクラディネの郊外を占拠した。また、彼はデメテルとコレの神殿に略奪を働き、神々への不敬虔な行動のためにすぐに然るべき罰を受けた。彼の命運は日に日に悪化していき、他方でディオニュシオスは果断にも彼と小競り合いを行ったためにシュラクサイ軍は優位に立った。また、夜に説明に窮するような騒動が野営地で起こり、敵が柵を攻撃してきたものと思った兵士たちは武器へと殺到した。これに加え、疫病がありとあらゆる被害の原因となった。しかしこれについては、説明が適当な時を先取りしないようにするために少し後に述べたい(44)
 さて野営地の周りに壁を巡らすと、ヒミルコンはゲロンと彼の妻の墓を含むその地域のほとんど全ての墓を破壊した。また彼は海沿いに一つはプレンミュリオン(45)、一つは港の真ん中、一つはゼウスの神殿の近くに三つの砦を築き、包囲戦は長期に亘るだろうと信じてそれらに葡萄酒と穀物とその他全ての物資を運び込んだ。彼は穀物とその他のあらゆる物資を確保するためにサルディニアとリビュアへと商船を派遣した。ディオニュシオスの義兄弟ポリュクセノスがラケダイモン人パラキダス(46)を提督とした同盟諸国からの三〇隻の軍船と共にペロポネソス半島とイタリアから到着した。
64 この後、ディオニュシオスとレプティネスは補給物資を護送する軍船と共に出発した。こうして後事を委ねられたシュラクサイ人は近づいてくる船が食料を乗せているのを偶然知ると、五隻の船で出撃してそれを奪って市へと運んだ。カルタゴ軍が彼らに向けて四〇隻の艦隊で出撃してきくるとシュラクサイ人は全船に人員を載せ、続いて起こった戦いで旗艦を拿捕して残りの二四隻を破壊した。それから彼らは逃げる船を敵の停泊地まで追撃してカルタゴ軍に戦いを挑んだ。この成功で意気揚々の彼らはどういうわけでディオニュシオスが負けたのかとしばしば考えるようになり、それからこの時、彼がいなくてもカルタゴ軍に勝利を得たことで自慢して気を大きくした。そして彼らは一カ所に集まると、ディオニュシオスを引きずり下ろす機会があるにしても、彼への隷属を終わらせるべくどんな手を講じたものかと語らった。この時まで彼らは武器を持っていなかったが、戦争のために今は武器を手中に収めていた。この種の論議が開かれていた時であろうとディオニュシオスは港へと航行してきて民会を召集し、シュラクサイ人を賞賛して彼らに良き勇気を持つよう説き、自分は速やかに戦争を終わらせるつもりだと約束した。そして彼が民会を解散させる段になると、騎兵隊の中で高名を博していて活動的な人物だと考えられていたシュラクサイ人テオドロスが敢えて自分たちの自由に関して以下のようなことを述べた。
65 「ディオニュシオスは間違いをいくつか犯しはしたものの、速やかに戦争を終わらせるつもりだという彼がなした最後の声明は正しいものでした。しばしば敗れてきた彼がもはや我々の将軍でなくなって市民たちにその父祖が享受してきた自由を返してやるならば、彼はこれを達成できることでしょう。目下のところ、勝利が敗北とは少しも違わない限り、我々の中で立派な勇気を持って戦いに赴く者はいません。それというのも、もし征服されれば我々はカルタゴ軍の将軍に従うことになり、征服者となればディオニュシオスを彼らよりももっと苛烈な主人とすることになるでしょうから。カルタゴ人が我々を戦争で破ったとしても、彼らは一定の年貢を押しつけ、我々が古来からの法に則って市を統治するのを妨げはしません。しかしこの男は我々の神殿を略奪し、市民の財産を持ち主の生命もろとも奪い取り、家来たちの主君への隷属を確保するために彼らに賃金を払っているのです。彼はカルタゴとの戦争を集結させると約束しさえしたのに、諸都市に嵐を起こすかのような恐怖が平和な時代にあっては彼によって長引かされました。しかし市民諸君、我々にはフェニキア戦争のみならず我々の城壁の中の僭主に対してけりをつける義務があるのです。というのも、奴隷の武器で守られたアクロポリスは我々の市にある敵の砦であり、傭兵の大軍勢がシュラクサイ人を隷属下に置くために集結させられています。そして彼は平等に関する正義を司る行政官のようにではなく、方針からして自分の利のために全てのことを決定する独裁者らしく市に対して我が物顔で振る舞っております。当面のところ敵は我々の領土のごく少ない部分を有していますが、ディオニュシオスはその全域を荒廃させて彼の僭主制の強化に加わる者に与えました。
 我々への虐待みは勇者が絶えるよりは死を選ぶようなものであるにもかからわず、一体いつまで我慢しなければならないというのでしょうか? カルタゴ人との戦いで我々は勇敢にも決定的な犠牲を払ってきましたが、苛烈な僭主に対して、自由と祖国のために、演説においてさえ我々は敢えて声を上げようとしてはおりません。我々は敵のかくも大きな大軍に立ち向かいますが、優れた奴隷が持つような男らしさを持たず、一人の支配者への恐怖に身震いして立ちすくんでいるのです。
66 ディオニュシオスと古のゲロンとを比較しようなどとは誰も考えないのは確かなことでしょうが、というのもゲロンはその高邁な人柄のためにシュラクサイ人と残りのシケリアのギリシア人と力を合わせてシケリア全土を解放した一方で、諸都市が自由なのを見て取ったこの男、ディオニュシオスは残りの全ての都市を敵の支配へと明け渡して自らは自分の生まれた国を隷属させたからです。ゲロンはシケリアのために戦ったために同盟諸都市を敵に包囲させることすら許さなかった一方で、この男は島の全域を通ってモテュエから逃げ去った後、同胞市民を全面的に信頼して城壁の中に閉じこもったものの、敵を見ることにさえ耐えることができなくなったのです。その結果、ゲロンはその高邁な人柄と偉大な業績のためにシュラクサイ人のみならずシケリアのギリシア人からも自発的に支配権を受け取った一方で、この男の場合は将軍になることで同盟者の壊滅と彼の同胞市民の隷属化をもたらした以上、彼に全ての人の憎悪を逃れられる術などありましょうか? というのも彼は支配権に相応しくないだけではなく、もし正義がなされるならば、万死に値するでしょうから。彼のせいでゲラとカマリナは隷属化し、メッセネは完全に滅び、一二〇〇〇人の同盟軍が海戦で壊滅し、つまるところ我々は一つの都市に封じ込められ、シケリア中の他の全てのギリシア諸都市が滅ぼされたのです。他の悪事に加えて彼はナクソスとカタネを奴隷として売り払い、これらの同盟諸都市、そしてその存在が好都合だった諸都市を完全に滅ぼしたのです。彼はカルタゴ軍と二度の海戦を戦ってその都度破れました。これまで市民によって一度ならず将軍職を委任された時には速やかに彼らから自由を奪い、法律を擁護して大っぴらに語った者を殺してより豊かだった人たちを追放しました。彼は追放された人たちの妻を奴隷や雑多な人たちと結婚させました。彼は市民の武器を夷狄と外人に渡しました。そしてそれらの行いは、ああゼウスと全ての神々よ、公の役人であり自暴自棄の人物(47)のしでかしたことなのです。
67 今この時、シュラクサイ人の自由への愛はどこにあるのでしょうか? 我々の父祖の行いはどこにあるのでしょうか? 私はヒメラで完全に撃滅された三〇万のカルタゴ軍については何も言いますまい。私はゲロンに続く僭主たちの転覆を通り過ぎることにします。しかしつい先日、つまりアテナイ人が大軍勢でもってシュラクサイ人を攻撃した時、我々の父たちは何人たりとも災難の話を蒸し返す自由を許しませんでした。そして父の勇気の偉大な先例を持つ我々はディオニュシオスから命令を、とりわけ手に武器を取る時に受けるべきなのでしょうか? 確かなことに神意の顕現によりここに我々が集まり、我々の周りの同盟者と我々の手にある武器をもってして、我々の自由を取り戻すために、そして勇者の役割を演じて重いくびきを自分から取り除くのは今日の我々の力にかかっている、ということです。というのもこれまで、我々は無防備で同盟者もなく、大勢の傭兵に監視され、私は敢えて言うのですが、状況の重圧に屈服してきたのであります。しかし今、我々は自分たちの手に武器を持ち、我々の勇気の証人となると同時に我々を助けてくれる同盟者を持っているので屈してはなりませんし、我々を奴隷状態へと隷属させているのは状況であって怯懦ではないことを明らかにすべきなのです。我々は自分たちが我々の市の寺院を略奪した男を戦争の司令官とし、自身の私的な事柄の処理を任せる分別ある人物を持たぬ者を重要な問題に関する代表に選んだことを恥じ入らないことがありましょうか? そして戦争の時代にある他の全ての人たちは自らが直面する大きな危機のために神々に対する義務を第一に考えているにもかかわらず、我々はかくも悪名高い不敬虔な男が戦争を終結させると予期できましょうか?
68 実際、もしある人が戦争のこまごまとした点を顧慮するならば、彼はディオニュシオスが戦争よりも平和に用心していることを見て取ることでしょう。というのも彼の信じるところでは、シュラクサイ人は今のところ敵への恐怖の故に彼に反抗しないだけで、カルタゴ人がひとたび破れれば武器を持って自らの行いを誇って自由を主張するものだからです。なるほど、蓋し、これこそがが最初の戦争で彼がゲラとカマリナを裏切ってそれらの都市を孤立させ、交渉においてはギリシア諸都市の大部分を敵の手に渡すことに同意した理由なのです。この後、彼はナクソスとカタネとの平時の信義を破って住民を奴隷として売り払い、一方を徹底的に破壊して他方をイタリアから来たカンパニア人に住処として与えたのです。そしてそれらの人々が滅んだ後、シケリアの残りで彼の僭主制を打倒しようとする多くの試みがなされると、彼は再びカルタゴ人との戦争を宣言しました。というのも自身がなした宣誓を破って協定を破棄することに対する彼の良心の呵責は、シケリアのギリシア人の生き残りに対する恐怖ほど大きくなかったからです。
 さらにその上、彼がいつも彼らを破滅させようと目論んでいたことは明らかです。手始めにパノルモスに敵が上陸して嵐の中の航海の後に這う這うの体にあった時、彼は戦いを挑むことができたはずなのにそれを選びませんでした。彼が無為に過ごしてメッセネに助けを送らなかった後、その戦略上の要地にあって規模が大きかった都市が破壊に晒されたのは、可能な限り多くのシケリアのギリシア人を滅ぼすだけためだけではなく、カルタゴ人がイタリアからの援軍とペロポネソス半島からの艦隊を遮断できるようにするためでした。総仕上げとして彼はカタネの近くで会戦が起こる利点について用心せずにその市の沿岸で戦い、敗軍が自分たちの港で安全を確保しました。戦いの後、強風が吹いてカルタゴ艦隊が陸へと引っ張られると、彼は勝利の絶好の機会を得ました。というのも敵の陸軍はまだ到着しておらず、暴風が敵の船を岸へと動かしていたからです。その時、もし我々が陸から総攻撃をかけていれば、敵が船に留まった場合には敵は易々と捕らえられたでしょうし、彼らが波と戦った場合には難破して岸に散り散りになっていたことでしょう。
69 しかし私が判断しますに、シュラクサイ人のところでくどくどとディオニュシオスを非難するのは不要でしょう。それというのもこのような行いにおいてかくも取り返しのつかない破滅を被った人たちが怒りをかき立てられないとすれば、たしかに言葉によって彼への復讐心をかき立てられるでしょうし、市民のうちで最悪な事柄としての彼の振る舞いを、即ち僭主のこれ以上ない苛烈さ、全ての将軍うちでも最も卑劣な行いを見てきた人たちもそのように怒りを掻き立てられないことがありましょうか? というのも我々は彼の指揮下で戦列を組む度事に破れた一方で、しかしたった今、独立に戦って少数の船でもって敵の全戦力を破りました。したがって我々は、神々の神殿を略奪し、ひいては我々を神々に反する戦争へと駆り立てる将軍の下で戦うのを避けるために他の指導者を探すべきです。それというのも神意は宗教に対する最悪の敵を指揮官に選ぶ者に対立することは明らかだからです。彼がいると我々の全軍は敗北を喫する一方で、彼がいなければ小部隊ですらカルタゴ軍を負かしたことを、全ての人がこの可視的な神の兆しを理解しないということがあるのでしょうか? したがって、市民の皆様、もし彼が自分から官職を捨てるつもりならば、我々は彼が財産を持って都市を去ることを許そうではありませんか。しかしもしそれを選ばなければ、目下のところ我々は自由を主張する絶好の機会にあるのです。我々は集まり、武器を持ち、我々にはイタリア出身のギリシア人のみならずペロポネソス半島からのギリシア人もまた同盟者としているのです。総指揮権は法に則って市民あるいは我々の母都市に住むコリントス人、もしくはギリシアにおいて第一の勢力を持つスパルタ人に与えられるべきです」
70 テオドロスのこの演説の後、シュラクサイ人は気分を高ぶらせ、同盟者に目が釘付けになった。そして同盟軍の提督ラケダイモン人パラキダスが壇上に上がると、彼が自由へと率いてくれるだろうと皆が期待した。しかし僭主と友好関係にあった彼は、ラケダイモン人はカルタゴ人との戦いでシュラクサイ人とディオニュシオスへの援軍として自分を送ったのであり、ディオニュシオスの支配を転覆させるためではないと明言した。期待に反するこの文言で傭兵たちはディオニュシオスの方に群がり、シュラクサイ人はスパルタ人に多くの呪いの言葉を投げかけたものの、失望して動けなかった。それというのも、かつてラケダイモン人アレテス(48)はシュラクサイ人の自由の権利を主張しつつ彼らを裏切り、今回はパラキダスがシュラクサイ人の働きかけを拒否したからだ。その間、ディオニュシオスは大いに恐れて民会を解散させたが、後に一部の人々を贈り物で称えて大きな宴に招待し、大衆の支持を優しい言葉によって得た。
 カルタゴ軍が郊外を掌握してデメテルとコレの神殿を略奪した後、疫病がその軍を襲った。市の影響によってもたらされた災難に加え、たくさんの人が集まったこと、その時は最も疫病が発生する時期であったこと、とりわけ夏が異常に温かい水を生み出したといった原因で疫病が起こった。またその場所そのもののおかげでその災難は大いに増幅されたようであり、それというのもかつて同じ所に陣を張ったアテナイ軍も、その地勢が沼がちでくぼんでいたために疫病で多数の兵を失っていた。第一に、日の出前に風で水が冷えたために体は寒さで打ちのめされたが日中には暑さで息苦しくなり、このような次第で多くの人が狭い場所に密集した。
71 さて、疫病がリビュア人を襲ってその多くが死んだために彼らは当初は死者を埋葬していたが、後に死体が多くなって病人の世話をしていた者が疫病にかかったため、誰も病人には近づこうとしなくなった。看護すら無視されると、その災厄を癒すものはなくなった。埋葬されない遺体の悪臭と沼地の毒気のため、鼻水で始まった疫病では次に喉の腫れが起こり、徐々に熱が上がり、背中の腱が痛み、足に鈍痛が感じられるようになる。そして下痢が併発し、体中に吹き出物が出てくる。異常のような症状がほとんどの場合に起こったこの病気の症状だった。しかしある者は悪化して完全に記憶を失い、心ここにあらずという感じで野営地中を歩き回って会う者に襲いかかった。つまるところ病気の重さと死の速やかさのために医師の助けは効かなかった。それというのも五〇日、あるいはせいぜい六〇日で死が訪れ、酷い苦しみの真っ直中にあって戦争で死ぬのが仕合わせだと皆が思った。実際、病人の近くで監視をしていた全員が疫病にかかり、誰も不運な人の世話をしようとはしなくなったために病人の群は悲惨なものとなった。同族が互いを見捨てたのみならず、兄弟ですら兄弟を見捨てざるを得なくなり、友人たちは我が命を案じて友人を犠牲にした。
72 ディオニュシオスはカルタゴ人を襲った災難を聞き知ると、八〇隻の船に人員を乗り込ませてパラキダスとレプティネスの両提督に敵船を夜明けに攻撃するよう命じ、一方自らは月の出ていない夜を利用して軍と共に回り込み、キュアネの神殿を通って夜明けに彼らが気取る前に敵陣に到着した。騎兵と傭兵の歩兵一〇〇〇人がカルタゴの野営地の内側へ向けて広がっていた区画へと先遣された。その傭兵たちは他の皆よりもディオニュシオスに対して遙かに最も敵対的で、党派抗争と騒擾で繰り返し戦っていた者たちだった。したがってディオニュシオスは騎兵に敵と激突するやすぐに逃げて傭兵を置き去りにするよう命令を与えた。この命令が実行に移されて傭兵たちが一人残らず殺されると、ディオニュシオスは野営地といくつかの砦の両方の包囲を目論んだ。夷狄が予期せぬ攻撃にまだ意気消沈して〔ディオニュシオスが包囲した砦へと〕無秩序に援軍を向かわせていた時、彼はポリクナとして知られる砦を攻め落とした。そして向かい側では騎兵がいくらかの三段櫂船による攻撃で援護されつつダスコン周辺の地域を攻撃した。全ての軍船が一斉に戦いに参加し、軍が砦を落とすべく雄叫びを上げると、夷狄は恐慌状態になった。最初のうち彼らは野営地の攻撃部隊を近づけさせまいと陸軍に対陣していた部隊に突進したが、艦隊も攻撃に向かってくると、海軍の停泊地を救援すべくきびすを返した。しかし、出来事の展開の早さに追いつけず、彼らの急行は空振りになった。彼らが甲板に乗って三段櫂船に人員を乗せつつあった時にすら敵船は船首から向かってきて、多くの場合には斜めに船を攻撃していた。この時に見事な一撃が一隻の船に損傷を与えて沈めたが、繰り返しなされた衝角攻撃は打撃を受けた木材を貫通して敵に恐るべき恐慌を引き起こした。最も強い船の周りにあった全ての船は散り散りになり、打撃による船の粉砕によって大きな音が出て、戦場沿いに広がる岸には死体が散らばった。
73 シュラクサイ兵は勝利のために熱烈に協力し合い、敵船に一番乗りしようと大変な熱意で互いに競い、彼らが直面した危機の大きさを見て恐慌状態に陥った夷狄を包囲して殺した。海軍の停泊地を攻撃していた歩兵は他の者に劣らぬ熱意を示し、とりわけディオニュシオスは馬に乗ってダスコンの周りを駆け回った。五〇本の櫂がある四〇隻の船が岸に泊まっており、その傍らには商船と錨を降ろした数隻の三段櫂船があるのを見て取ると、彼らはそれらに火を放った。すぐに火柱が上がって広い範囲に広がると、船を飲み込み、火の勢いのために商人も船主も指をくわえて見ているしかなかった。強風が吹いたために船から上がった火の手は陸に停泊していた商船に広がった。乗組員は窒息を恐れて水に飛び込み、錨の鉄索が焼き切られると、船は荒波のために互いに衝突し、一部の船は互いにぶつかって壊れ、他の船は風で周りに流されたが、その大部分は炎の餌食になった。かくして炎が商船の帆を一掃して桁端を飲み込むと、市民にはその光景はまるで劇場のように見え、夷狄の破滅は神の天からの雷を受けた人のそれに似ていた。
74 たちどころにシュラクサイ人の成功で気が大きくなったため、最も年長の若者と壮丁たちは全く我慢できなくなり、はしけに乗り込んで港の中にあった船へと隊伍も組まずに近づいた。火が滅した人から彼らは略奪し、無事だった物を片っ端から剥ぎ取り、損傷を受けていなかった物を引きずって市へと運んだ。したがって老齢のために戦争の義務を免じられていた人は自らを押さえることができず、大変喜びつつ年甲斐もなく熱くなった。勝利の知らせが市内をかけめぐると、女子供は家族と連れだって家を出て、城壁へと急ぎ、眺めていた人たちと一緒に皆群がった。彼らのうちある者は両手を天に掲げて神々に感謝を返し、他の者は神殿の略奪のために夷狄は天罰で滅んだのだと言い放った。遠目にはその光景は神々との戦いに似ており、多くの船は炎に包まれ、炎は帆の上に跳ね、ギリシア人は大声を上げてありとあらゆる成功に喝采を送り、夷狄はその災難に仰天して騒ぎ続け、混乱しながら泣きわめいた。しかし夜が来ると戦いは時間切れになって終わり、ディオニュシオスは夷狄に対峙し続け、ゼウスの神殿の近くに陣を張った。
75 今やカルタゴ軍は陸海で敗北を喫すると、シュラクサイ人に知られることなくディオニュシオスとの交渉に入った。彼らは残っている兵をリビュアへと帰す許可を求め、野営地にあった三〇〇タラントンを差し出すと約束した。ディオニュシオスは、全軍が逃げるのを許すことはできないものの、こっそり夜に海路で市民兵だけが撤退するのには賛同すると応じた。それというのも彼はシュラクサイ人と彼らの同盟者は敵とそのような協定を結ぶのを許しはしないことを知っていたからだ。ディオニュシオスは、シュラクサイ人はカルタゴ人への恐怖の故に〔もしその脅威が去れば〕自由を主張するのを控えるべき時と見なさなくなるはずであるため、カルタゴ軍の全滅を避けようと動いていた。したがってカルタゴ軍の逃亡は四日目の夜に行われ、〔カルタゴ人の〕軍を市(49)に帰すのを許すことにディオニュシオスは同意した。
 ヒミルコンは夜の間に三〇〇タラントンをアクロポリスに移し、僭主によって島に配置されていた人たちに渡し、それから指定された時が来ると自身は夜にカルタゴ市民を連れて二四〇隻の三段櫂船に乗り込み、残りの全軍を見捨てて逃走を開始した。彼がすでに港を横切った時、幾人かのコリントス人が彼の逃走に気付いて即座にディオニュシオスに報告した。ディオニュシオスは兵を呼んで指揮官たちを集めるのに時間をかけたが、コリントス人たちは彼を待たずに急いでカルタゴ船に向けて出航し、漕艇で互いに競い、最後のフェニキア船に追いついて衝角で痛めつけて沈めた。この後、ディオニュシオスは陸軍を率いていったが、カルタゴ軍で勤務していたシケロイ兵はシュラクサイ軍を出し抜き、一人に至るまで内陸地を通って逃げて母国へと無事向かった。ディオニュシオスは道に沿ってあちこちに見張りを置き、それからまだ夜だった時に敵の野営地まで軍を率いて向かった。夷狄は彼らの将軍とカルタゴ人、その上シケロイ人にも見捨てられたため、意気消沈して散り散りに逃げた。一部は見張りが先回りしていた道にまんまと来て捕虜になったが、大部分の者は武器を投げ捨てて投降し、命だけは助けてほしいと頼んだ。一部のイベリア兵だけが武器を取って集まり、彼に雇ってくれるよう話すべく使者を派遣した。ディオニュシオスはイベリア兵と講和して彼の傭兵部隊に組み込んだが、大部分の残りの者は捕虜にして残っていた荷物は何であれ兵の略奪に委ねた。
76 運命はかくも目まぐるしい情勢の変化をカルタゴ人にもたらし、度を超して奢る者は自らの弱さを証することになることを全ての人に示した。それというのもシュラクサイを除くシケリアの全ての都市を事実上手中に収め、シュラクサイの占領をも期待していた彼らは突如祖国を案じざるを得なくなったからだ。シュラクサイ人の墓をひっくり返した彼らは山となった一五万の遺体を眺めては疫病のために埋葬もできず、シュラクサイ人の領地を帰路で焼き討ちした彼らの艦隊は何の前触れもなく炎によって奪われた。驕り高ぶって全艦隊と共に港へと航行してシュラクサイ人の前に自らの成功をひけらかしていた者たちは自分が夜にこっそり逃げ出して敵の慈悲に同盟軍を委ねることになろうとはほとんど思ってもいなかった。ゼウスの神殿を司令部として接収して聖域の財物を略奪して自らの懐に納めた将軍その人は、命を失わず自らの涜神行為への当然のつけを免れようとして少数の生き残りと共にカルタゴへと逃げ帰ったが、祖国では轟々たる非難を山のように投げかけられる悪名高い余生を送った。なるほど彼の巡り合わせはこれほど悲惨になったため、彼は粗末な服を着て市の神殿にやってきては自らの不敬虔を責め、涜神の罪に対して天に広く認められていた報いを請うた。ついに彼は自らに死刑判決を下して餓死を科した。運命の女神はさっそく彼らにも同じように戦争の他の悲惨を山ほど与えたため、彼は仲間の市民に宗教への深い尊崇を残すことになった。
77 カルタゴ軍の災難の知らせがリビュア中に広まると、苛烈な支配を長らく憎んでいた彼らの同盟者たちはシュラクサイでの兵に対する裏切りのためにこの時には憎悪をより一層激しくし、彼らに対していきり立った。したがって一面では怒りによって、他面では彼らが被った災難による侮蔑に駆り立てられ、彼らは独立を主張しだした。互いに言伝を交換した後に彼らは兵を集めて進撃し、開けた場所に陣を張った。自由民だけでなく奴隷も急いで彼らに加わったため、短期間で二〇万人が集まった。彼らはカルタゴからほど遠からぬ場所に位置した都市テュネスを奪取するとそこを前線基地とし、彼らは戦闘では上手だったためにフェニキア人を城壁の中へと封じ込めた。神々が明らかに彼らに敵対して戦わんとしていたカルタゴ人はまず大混乱の中でいくつかの小集団で集まり、神々の怒りを静めようとした。その上で都市の全域が迷信じみた恐怖に囚われ、誰もが市の奴隷化を思い描いて予想した。したがって罪を犯した者に敵対する神々をあらゆる手を尽くして宥めることを票決した。彼らは祭儀にコレもデメテルも含めていなかったため、最も名声高い市民たちをそれらの女神を担当する神官に任命し、この上なく厳かに彼女らに像を捧げてギリシア人が行う祭儀に倣った祭儀を行った。また彼らは彼らのところで暮らしていたギリシア人で最も高名な人たちを選び出してそれらの女神への奉仕を任せた。この後、彼らは船を建造し、戦争のために物資の準備を慎重に行った。
 一方で雑多な集団であった叛徒たちは有能な指揮官に恵まれず、そして彼らの人数はあまりにも多かったために第一の重要性を持つところの物資の欠乏に見舞われ、その一方でカルタゴ人はサルディニア島から海路で物資を運んでいた。さらに彼らは最高指揮権をめぐって互いに争い、その一部の者たちはカルタゴの金で〔買収されて〕離脱し、共通の大義を放棄した。その結果、準備不足と彼らの裏切りの双方のために彼らは仲違いして生まれ故郷へと散り散りになり、かくしてカルタゴ人を最大の恐怖から解放することになった。
 この時期のリビュア情勢は以上のようなものであった。
78 ディオニュシオスは傭兵たちが自分に対して最も敵対的であると見て取り、彼らが自分を退位させるのではないかと恐れたため、手始めに彼らの隊長アリストテレスを逮捕した。そこで彼らの部隊が武器を持って駆けつけて給与を幾分か強く要求すると、自分はアリストテレスを彼の同胞市民のもとで裁判を受けさせるためにラケダイモンに送るつもりだったと宣言し、およそ一〇〇〇〇人の傭兵たちに給与支払いの代わりにレオンティノイ人の都市と領地を彼らに差し出した。その良質な土地であった領地を分配した暁には彼らはレオンティノイに家を構えることになったため、これに彼らは喜んで賛同した。ディオニュシオスはそれから他の傭兵部隊を徴募して彼らと自身の解放奴隷に政府の守りを委ねた。
 カルタゴ人を襲った災厄の後、奴隷化されていたシケリア諸都市の生き残りたちは集まって彼らの母国を取り戻して力を回復した。ディオニュシオスは一〇〇〇人のロクリス人、四〇〇〇人のメドナ人(50)、そしてザキュントスとナウパクトスから追放されていたペロポネソス半島出身のメッセネ人六〇〇人をメッセネに住まわせた。しかし自分たちが追放したメッセネ人がその名高い都市に住んでいたことにラケダイモン人が怒ると、彼は彼らをメッセネから追い出して海沿いのある場所を与え、アバカイノン人のある地区を切り取って彼らの領土に加えた。メッセネ人は彼らの都市をテュンダリスと名付け、共に仲良く暮らして多くの人に市民権を認めたため、彼らは速やかに五〇〇〇人以上の市民を擁するまでになった。
 この後、ディオニュシオスはシケロイ人の領土に対して数多くの遠征を行い、その過程でメナイオンとモルガンティオンを落としてアギュリオンの僭主アギュリス、ケントリパ人の君主ダモン、そしてヘルビタ人とアッソロス人と協定を結んだ。また彼はケパロイディオン、ソロス、そしてエンナを裏切りによって獲得し、ヘルベッソス人と和平を結んだ。
 この時期のシケリアの情勢は以上のようなものであった。
79 ギリシアではラケダイモン人は来たるべきペルシア人との戦争がどれほど大きなものになるかを予想し、二人の王のうちの一人アゲシラオスに指揮権を与えた。六〇〇〇人の兵士を徴募して主要な市民の三〇人委員会(51)を設えた後、アウリスからエペソスへと軍を輸送した。ここで彼は四〇〇〇人の兵を徴募し、一〇〇〇〇人の歩兵と四〇〇騎の騎兵から成る軍を連れて出撃した。彼らのもとには市場を提供する者や略奪品目当ての連中といった人たちが群がってきて、少なからぬ人たちがついてきていた。彼はカウストロス平原を横断し、ペルシア人が掌握していたキュメに到るまでの領地を荒し回った。基地としたこの地から彼は夏の大部分をプリュギアと近隣の領地を略奪するのに費やし、軍を略奪品で満足させた後に秋の始めにエペソスへと戻った。
 それらの出来事が起こっていた間、ラケダイモン人は同盟を結ぶために使節団をエジプト王ネペレオスに向けて派遣した。彼は要求された援助の代わりにスパルタ人に対して一〇〇隻の三段櫂船のための装備と五〇〇〇〇〇メディムノスの穀物を贈り物として渡した。ラケダイモンの提督パラクスは一二〇隻の艦隊を率いてロドスから出航し、カウノスから一五〇スタディオンのところにあったカリアの砦、ササンダに投錨した。ここを基地として彼はカウノスを包囲し、王の艦隊の司令官であり四〇隻の艦隊と一緒にカウノスにいたコノンを封じ込めた。しかしアルタペルネスとパルナバゾスがカウノス人救援のために強力な軍勢を引き連れてやってくると、パラクスは包囲を切り上げて全艦隊を連れてロドスへと去った。この後にコノンは八〇隻の三段櫂船を集めてケルソネソスへと出航し、ロドス人はペロポネソス艦隊を追い出してラケダイモン人から離反し、コノンを彼の全艦隊と共々市へと迎え入れた。その時にエジプトからの穀物の贈り物を運んでいたラケダイモン人はロドス人の寝返りを知らずに完全に信頼しきってその島へと近づいた。かくしてロドス人とペルシア艦隊の提督コノンは港にそれらの船を入れて穀物を市に蓄えた。コノンのもとへとキリキアからの一〇隻とシドン人の君主指揮下のフェニキアからの八〇隻、計九〇隻の三段櫂船もやってきた。
80 この後アゲシラオスはカウストロス平原とシピュロス周辺の地方へと軍を率いて向かい、住民の財産を略奪した。ティッサペルネスは一〇〇〇〇騎の騎兵と五〇〇〇〇人の歩兵を集めると、ラケダイモン軍の近くに追い縋り、本隊から分かれて略奪を働いていた兵を切り離した。アゲシラオスは兵に方陣を組ませてシピュロス山の麓にへばりつき、敵を攻撃する好機を待ちかまえた。彼はサルデイスあたりまで郊外を荒らし回り、大金をかけて植物、人生における良きもののうち平時の奢侈と享楽に資するその他のあらゆるものが見事に設えられたティッサペルネスの果樹園と庭園を破壊した。次いで彼は帰路につき、サルデイスとテュバルナイの中間にいた時に夷狄を待ち伏せするためにスパルタ人クセノクレスを一四〇〇人の兵と共に木々が密生した場所へと夜に派遣した。次いでアゲシラオスその人は夜明けに軍を連れて道沿いに動いた。彼が待ち伏せ地点にさしかかり、夷狄が戦闘隊形を組まずに彼を追跡して殿を襲っていると、彼は奇襲のためにペルシア軍に向けて突如反転した。激しい戦いが続いて起こると彼は伏兵に合図を出し、彼らはパイアーンを歌いながら敵に突っ込んだ。ペルシア軍は自分たちが挟み撃ちにあったのに気付くと、意気消沈してすぐに敗走に転じた。幾ばくかの距離を追撃したアゲシラオスは六〇〇〇人を越える敵を殺して夥しい数の捕虜を得て、ありとあらゆる文物が積み上げられていた彼らの野営地を略奪した。ティッサペルネスはラケダイモン軍の大胆さに肝を潰して戦場からサルデイスまで退却し、アゲシラオスはより内陸にある諸州の攻撃を企図したが、犠牲で吉兆が得られずに軍を海の方へと引かせた。
 アジアの王アルタクセルクセスはこの敗北を知るとギリシア人との戦争に不安を感じ、ティッサペルネスこそこの戦争の責任者だと考えて彼に憤慨した。また彼は母パリュサティスからティッサペルネスへの復讐を認めてくれるよう頼まれもいたのであるが、それは宮ロスが兄に攻撃をかけた時に息子のキュロスを公然と非難していたティッサペルネスを彼女は憎んでいたからだ。したがってアルタクセルクセスはティトラウステスをティッサペルネスを拘束するための司令官に任じ、諸都市と諸州に彼が命令することは何であれ実行せよという手紙を送った。ティトラウステスはプリュギアのコロサイに到着すると、太守アリアイオスの助けを受けてティッサペルネスが入浴しているところを拘束し、その首を刎ね、こ件について王に手紙を送った。次いで彼はアゲシラオスを交渉に入るよう解き伏せて六ヶ月期限の休戦協定を結んだ。
81 アジアでそれらの事件が我々が述べたような具合で処理されていた間、或る不満のためにポキス人はボイオティア人との戦争に突入してラケダイモン人をボイオティア人との戦争に加わるよう説き伏せた。まずラケダイモン人は少数の兵士と共にリュサンドロスをポキス人へと派遣し、彼はポキスに入ると軍を集めた。しかし後にパウサニアス王が六〇〇〇人の兵と共にそこへと送られた。ボイオティア人は自分たちに与して戦争に加わるようアテナイ人を説き伏せたが、彼らが単独で出撃すると、ハリアルトスがリュサンドロスとポキス軍に包囲されているのを見つけた。続いて起こった戦いでリュサンドロスがラケダイモン軍とその同盟軍の多くと一緒に殺された。他のボイオティア軍の全部隊は速やかに追撃から戻ったが、およそ二〇〇人のテバイ兵が凸凹した土地へと突進して殺された。この戦争はボイオティア戦争と呼ばれた。ラケダイモン人の王パウサニアスはこの敗北を知ると、ボイオティア人と休戦協定を結んで軍をペロポネソス半島へと引き上げさせた。
 ペルシア軍の提督コノンはアテナイ人のヒエロニュモスとニコデモスに艦隊の指揮を委ねて自らは王にお目通りするべく出発した。彼はキリキア沿岸沿いに航海し、シュリアのタプサコスへと向かうと、次いでエウプラテス川を使ってバビュロンに向かうべく船に乗り移った。ここで王と会ったコノンは、王が資金と彼の計画に必要なその他の物資を提供してくれるならばラケダイモン人の海軍を撃破してみせると請け合った。アルタクセルクセスはコノンの言うことに賛同して豊富な贈り物で彼を称え、コノンが指定する限り十分な資金を提供するための会計官を任命した。またアルタクセルクセスはコノンに彼が選ぶペルシア人を戦争での同僚指揮官とする権限も与えた。コノンは太守のパルナバゾスを選び、それから彼の目的に適うことを取り計らうべく海へと戻った。
82 この年の終わりにアテナイ人のもとではディオパントスがアルコン職になり(52)、ローマでは執政官の代わりに執政官の権限はルキウス・ウァレリウス、マルクス・フリウス、クイントゥス・セルウィリウス、クイントゥス・スルキピウスといった六人の軍務官によって行使された(53)。彼らが権力を得た後、ボイオティア人とアテナイ人はコリントス人及びアルゴス人と互いに同盟条約を締結した。ラケダイモン人はその過酷な支配のために同盟者から憎悪されていたため、最も強い諸国が一致団結すれば彼らの覇権を覆すのは容易いことだとの考えであった。手始めに彼らはコリントスで共同総会を開いて計画を練るべく代表者を送り、戦争の手はずを共同で整えた。次いで彼らは諸都市へと使節を派遣してラケダイモン人の多くの同盟者を離反させるよう仕向け、すぐにエウボイア島全土とレウカス人、それからアカルナニア人、アンブラキア人、そしてトラキアのカルキディケ人が彼らの味方についた。彼らもまたペロポネソス半島の住民をラケダイモン人から離反するよう説得しようとしたが、誰も彼らに耳を貸さなかった。それというのもペロポネソスの側面に沿う位置を占めていたスパルタはペロポネソス全土の砦とも言うべきものだったからだ。
 テッサリアのラリサの君主メディオスはペライの僭主リュコプロンとの戦争を行っており、このメディオスが来援を求めてくると、総会は彼に二〇〇〇人の兵士を送った。その部隊が到着した後にメディオスはラケダイモン軍の守備隊がいたパルサロスを奪取して住民を戦利品として売り払った。この後、ボイオティア人とアルゴス人はメディオスと手を結んでトラキスのヘラクレイアを落とした。或る人たちの手引きで夜に城壁の中に招き入れられた彼らはラケダイモン人を斬殺したが、他のペロポネソス人には財産を持って立ち去ることを許した。彼らはラケダイモン人が祖国から追い出していたトラキス人をその都市に集め、その都市を住処として与えた。なるほど彼らはこの領地に最も古くからいた住民だったわけだ。この後、ボイオティア人の指導者イスメニアスは守備隊として使うためにアルゴス軍を残し、自らはアエニアニア人とアタマニア人をラケダイモン人から離反するよう説き伏せ、彼らと同盟諸国から兵を集めた。六〇〇〇人を下らない兵を集めた後に彼はポキス人と戦った。彼がアイアスの生地であると言われているロクリスのナリュクス地方へと向かおうとしていた時、ラコニア人アルキステネス指揮下でポキス人が武装して立ち向かってきた。激しく長引いた戦いが起こり、ボイオティア軍が勝者となった。夜になるまで逃亡者の追撃を行ったために彼らは一〇〇〇人以上を殺し、彼らは戦いでおよそ五〇〇人の兵を失った。この激戦の後に双方は軍を故郷へと解散させ、コリントス総会の成員たちは事態が彼らの望んだように進展していたため、コリントスに方々から一五〇〇〇人以上の歩兵とおよそ五〇〇騎の騎兵の兵力を集めた。
83 ラケダイモン人はギリシア最大の諸都市が一致団結して彼らに対抗しているのを見て取ると、アゲシラオスと彼の軍をアジアから呼び戻すことを票決した。その間に彼らは自国と同盟諸国から二三〇〇〇人の歩兵と五〇〇騎の騎兵を動員して敵と会戦すべく進撃した。ネメア河畔で起こった戦いは夜になるまで続き、両軍の一部が優位に立ったが、ラケダイモン軍とその同盟軍は一一〇〇人を、一方でボイオティア軍とその同盟軍は二八〇〇人を失った。
 アゲシラオスは軍をアジアからヨーロッパに移動させた後、大軍を擁した或るトラキア人が最初に彼に立ち塞がった。彼はこれを戦いで破って多数の夷狄を殺した。次いで彼はクセルクセスがギリシア人に対する遠征を行った時に通ったのと同じ地方を経由しつつマケドニアを通過した。アゲシラオスはマケドニアとテッサリアを縦断してテルモピュライの峠を抜けると、彼は……を続け……〔欠損〕。
 アテナイ人コノンとパルナバゾスは王の艦隊を指揮してケルソネソスのロリュマに九〇隻以上の三段櫂船と共に滞在していた。敵海軍がクニドスにいることを知ると、彼らは戦いの準備をした。ラケダイモンの提督ペイサンドロスは八五隻の三段櫂船を連れてクニドスを出発し、ケルソネソスのヒュスコスに錨を降ろした。そこから航海した彼は王の艦隊に襲いかかり、先鋒の船団と戦って優位に立った。しかしペルシア艦隊が密集隊形で救援にやってくると、彼の同盟軍の全ては陸へと逃げた。しかし無様な逃亡はスパルタの不名誉であり、スパルタには相応しくないと信じていたペイサンドロスは彼らに対して自らの船を向けた。華々しく戦って多くの敵を殺した後、ついに祖国に相応しく戦った末に彼は敗れた。コノンはラケダイモン艦隊を陸まで追撃して五〇隻の三段櫂船を拿捕した。乗組員はそのほとんどが船外に飛び込んで陸まで逃げたが、およそ五〇〇人が捕らえられた。残りの三段櫂船はクニドスに無事逃げ込んだ。
84 アゲシラオスがペロポネソス半島からより多くの兵士を徴募してボイオティアへと軍を率いて向かうと、ボイオティア人はすぐさま同盟軍を引き連れて一戦交えるべくテバイ領のコロネイアへと出撃した。続いて起こった戦いでテバイ軍は敵軍に敗れて野営地あたりまで追撃されたが、他の部隊はしばしの間持ち堪え、アゲシラオスに攻められると敗走した。したがってラケダイモン軍は自らを勝者と見なして戦勝記念碑を建て、休戦の下で敵に死者を引き渡した。ボイオティア軍とその同盟軍は六〇〇人以上を、ラケダイモン軍とその友軍は三五〇人を失った。重傷を負ったアゲシラオスはデルポイへと運ばれ、そこで療養した。
 海戦の後にパルナバゾスとコノンは全艦隊を率いてラケダイモン人の同盟諸国の方へと向かった。手始めに彼らはコス島の人々を、次いでニシュロス島とテオス島の人々を寝返らせた。この後、キオス人が守備隊を追い出してコノンの側につき、ミテュレネ人とエペソス人とエリュトライ人も同様に寝返った。同じ寝返りの思潮は大体似たようにして全ての都市に伝染し、一部はラケダイモンの守備隊を追い出して自由を保ち、一方で他の都市はコノンに荷担した。ラケダイモン人が海の支配権を失ったのはこの時だった。コノンは全艦隊を引き連れてアッティカへ渡航することを決めて出航し、キュクラデス諸島を味方につけた後にキュテラ島へと向かった。そこを一撃で早々に制圧すると、彼はキュテラ人を休戦条約の下でラコニアへと送り、その都市に十分な守備隊を残してコリントスへと向かった。そこに投錨した後、彼は評議会の委員たちと彼らの希望について相談し、コリントス人と同盟を結んで資金を残し、そしてアジアへと去っていった。
 この後、マケドニア人の王アエロポスが六年間の在位の後に病死し、息子のパウサニアスが後を襲った。キオスのテオポンポスはトラシュブロスのことを書いた『ギリシア史』をこの年とクニドスの海戦でもって完結させた。この歴史家はトゥキュディデスが筆を折ったキュノスセマの海戦から書き初め、一七年間の年月をその著述に収めた。
85 この年が終わった時にはアテナイではエウブリデスがアルコンで(54)、ローマではルキウス・セルギウス、アウルス・ポストゥミウス、プブリウス・コルネリウス、そしてクイントゥス・マンリウスといった六人の軍務官が執政官権限を担った(55)。この時、王の艦隊の指揮を執っていたコノンは八〇隻の三段櫂船を連れてペイライエウスに入港して市民たちに市の防壁の再建を約束した。というのもその時のペイライエウスと長城はアテナイ人がペロポネソス戦争で敗れた時にラケダイモン人と結んだ条件に則って破壊されていたからだ。したがってコノンは多くの熟練職人を雇い入れて乗組員を普くその作業に投入したため、彼は速やかに城壁の大部分を再建した。というのもテバイ人もまた五〇〇人の熟練職人と石工を送っており、他のいくつかの都市も援助を与えていたからだ。しかしアジアの陸軍を指揮していたティリバゾスはコノンの成功を妬み、コノンは王の軍をアテナイ人のために、彼らの都市を勝たせるために使っていると申し立て、彼をサルディスまでおびき寄せて逮捕して拘束し、軟禁するために再抑留した。
86 コリントスでは民主制を支持していた人たちが徒党を組み、劇場で劇の大会が開かれていた時に殺戮を行って市を内紛で満たした。アルゴス人が彼らの冒険を支持すると、彼らは一二〇人の市民を斬殺して五〇〇人を追放した。ラケダイモン人が追放者復帰の準備をして軍勢を集めると、アテナイ人とボイオティア人はその都市との結びつきを確保するために殺戮者を援助した。追放者はラケダイモン軍とその同盟軍と一緒に夜にレカイオン(56)と造船所を攻撃して攻め落とした。その翌日、イピクラテスが指揮するその都市の兵が出撃してくると戦いが起こり、ラケダイモン軍が勝利して少なからぬ敵を殺した。この後、ボイオティア人とアテナイ人はアルゴス人とコリントス人と共にレカイオンへと全軍を進め、手始めにその地を包囲して城壁間の回廊へと押し入った。しかし後にラケダイモン軍と追放者が勇戦してボイオティア軍と彼らと共にいた全軍を撃退した。それから彼らはおよそ一〇〇〇人の兵士を失ってその都市〔コリントス〕へと戻っていった。イストミア祭が間近に迫っていたため、誰がそれを開催するかの論争が起こった。口論の後にラケダイモン人が我を通し、追放者が開催した祭がそうだと認定した。各々が戦争における大部分の戦いをコリントス付近で戦ったためにコリントス戦争と呼ばれたこの戦争は八年間続いた。
87 シケリアでは、レギオンの人々はメッセネを要塞化して彼らに敵対する準備をしているとしてディオニュシオスを非難し、手始めにディオニュシオスに追放された人たちに逃げ場を供出して彼への対抗処置を講じ、生き残りのナクソス人とカタネ人をミュライに住まわせ、軍の準備をしてヘロリスを将軍としてメッセネ包囲へと送った。ヘロリスがアクロポリスへ無謀な攻撃をかけると、メッセネ軍とディオニュシオスの傭兵隊は隊形を密にして彼に向けて前進した。続いて起こった戦いでメッセネ軍が勝利して五〇〇人以上の敵兵を殺した。すぐさまミュライまで進軍すると、彼らはその都市を奪取してそこに住んでいたナクソス人を休戦協定の下で解放した。したがって彼らはシケロイ人とギリシア諸都市の方へと出発して彼らの住居の一部をある箇所に、他のものを別のところに移した。海峡周辺の地域との関係が友好的なものになった今、ディオニュシオスはレギオンに向けて軍を進めることを計画したが、タウロメニオンを保持していたシケロイ人に苦慮していた。したがってまず彼らを攻めるのが得策と結論すると、彼らに向けて軍を進めてナクソス向きの場所に陣を張り、シケロイ人がそこに長くは住んでいなかった丘を放棄するようにするために冬の間包囲を続けた。
88 しかしシケロイ人には島のその地方は自分たちの所有に属するという先祖伝来の古の言い伝えがあった。ギリシア人が最初にそこに上陸してナクソスを建設した時、彼らは当時そこに住んでいたシケロイ人をその丘から追い出していた。したがって彼らは父祖のものであった領土を取り戻してギリシア人が祖先に行った悪事に対して正当に報いることだけを心に抱き続けたため、その丘を奪取するためにありとあらゆる努力を行った。双方のうちで異様な競争心が示されていた間に冬至になり、続いて起こった冬の嵐のためにアクロポリスの周りの地区は雪で覆われた。そのためシケロイ人がその強固さと城壁の尋常ではない高さのためにアクロポリスの防衛を疎かにしていたことを見て取ったディオニュシオスは月のない夜に進軍して最も高い区画に夜襲を仕掛けた。岩壁の障害と雪の深さのために大変な苦労をした後、顔に霜がついて寒さで視界が損なわれていたにもかかわらず、彼は一つの頂点を占領した。この後、彼は他の側も突破して軍を市内に突入させた。しかしシケロイ人が一丸となって立ち向かってくると、ディオニュシオスの兵は押し出されてディオニュシオスその人が敗走中に胸甲に打撃を食らい、一目散に逃げて命辛々逃げ帰った。シケロイ人は有利な場所から彼らを圧迫したため、ディオニュシオスの兵は六〇〇人以上が殺されて彼らの大部分が武装全部を失い、一方ディオニュシオスその人は胸甲のみで守られているという有様だった。この災難の後、アクラガス人とメッセネ人はディオニュシオスの与党を追い出して自分たちの自由を主張し、僭主との同盟を破棄した。
89 ラケダイモン人の王パウサニアスは同胞市民たちによって告訴され、一四年間の支配の後に亡命して息子のアゲシポリスが王位を継承し、父と同じだけの年月支配した。マケドニア人の王パウサニアスも一年間君臨した後にアミュンタス〔三世〕によって暗殺されて死に、アミュンタスが王位を奪って二〇年間支配した。
90 この年の終わりにアテナイではデモストラトスがアルコン職を引き継ぎ(57)、ローマでは停止されていた行政官の職務がルキウス・ティティニウス、プブリウス・リキニウス、プブリウス・メラエウス、クイントゥス・マリウス、グナエウス・ゲヌキウス、そしてルキウス・アティリウスといった六人の軍務官によって運営された(58)。これらの行政官が任に就いた後、カルタゴの将軍マゴンがシケリアに置かれた。彼はカルタゴ人が被った災難の後の劣勢を挽回しようとし、従属する諸都市に寛大さを示してディオニュシオスの戦争の被害者を受け入れた。また彼はシケロイ人の大部分と同盟を結び、軍勢を集めた後にメッセネ領へと攻撃を仕掛けた。郊外を荒らして大量の戦利品を分捕った後、彼はその地へと進軍して同盟者だったアバカイネ市の近くに陣を張った。ディオニュシオスが軍を率いてやってくると両軍は戦いに入り、激戦の後にディオニュシオスが勝者となった。カルタゴ軍は八〇〇人以上の兵を失った後にその都市へと逃げ込み、他方ディオニュシオスは当面のところシュラクサイへと退いた。しかし数日後に彼は一〇〇隻の三段櫂船に人員を乗り込ませてレギオン人に差し向けた。夜間に市の前に出し抜けにやってきた彼は門に火を放って城壁に梯子をかけた。レギオン人は最初は小勢で防衛に駆けつけて消火を試みたが、後にヘロリス将軍が到着して彼らにまったく反対のことをするよう忠告したために彼らは市を救うことになった。彼らが火を消せば兵力が僅かになり、彼らはディオニュシオスの侵入を防げなくなってしまうだろうが、しかし薪と木材を近隣の家々から持ってきて、主力部隊が武器を持って集合して防衛に駆けつけるまで火柱をより高くした。計画が失敗したディオニュシオスは郊外へと転じ、そこを炎で荒廃させて果樹園を切り倒し、それから一年期限の休戦協定を結んでシュラクサイへと航行した。
91 イタリアのギリシア系住民はディオニュシオスの侵略が自らの土地にまで進んでいるを見て取ると、同盟を結成して総会を開いた。彼らの望みはディオニュシオスから簡単に自衛し、隣接するルカニア人に対抗することであった。それというのもこの時にそれらの中の最後の人たち(59)は彼らと戦争状態にあったからだ。
 コリントス領のレカイオンを掌握した亡命者たちは夜に都市(60)へと招き入れられると城壁を手中に収めようとしたが、イピクラテスの部隊が手向かってくると、三〇〇人を失って船着き場へと逃げた。その数日後にラケダイモン軍の分遣隊がコリントス領を通過しようとした時、イピクラテスとコリントスの同盟軍はこれを襲って多数を殺戮した。イピクラテスは麾下の盾兵部隊と共にプレイウス領へと進軍し、その都市の男たちと戦って三〇〇人以上を殺した。それからシキュオンへと進撃すると、シキュオン人は城壁の前で戦いを挑んだが約五〇〇人を失い、安全を求めて市内に逃げ込んだ。
92 それらの出来事が起こった後、アルゴス人は全兵力に武器を取らせてコリントスに向けて進撃し、アクロポリスを奪取して市を保持した後、コリントス領をアルゴス領にした。アテナイ人イピクラテスもまた、コリントスはギリシアの支配に有利であったためにその都市を奪取する計画を持っていた。しかしアテナイの人々がそれに反対すると、彼は地位を退いた。アテナイ人は彼の代わりにカブリアスを将軍に任命してコリントスへと送った。
 マケドニアでは、ピリッポス〔二世〕の父アミュンタス〔三世〕がマケドニアに攻め込んだイリュリア人によって国から追い出され、王位への望みを捨てた彼はオリュントス人に彼らの領土に隣接する自領を贈った。当面のところ彼は王位を失っていたが、間もなくテッサリア人のおかげで王位を取り戻し、二四年間支配した。しかしある人たちは、アミュンタス追放の後にマケドニアはアルガイオスによって二年間支配され、アミュンタスが王位を取り戻したのはその後であったと言っている。
93 同年にスパルタコスの息子でボスポロス王であったサテュロスが四〇年間統治した後に死に、息子のレウコンが支配権を継承して四〇年間統治した。
 イタリアでは、ウェイイ人を一一年包囲していたローマ人はマルクス・フリウスを独裁官に、プブリウス・コルネリウスを騎兵長官に任命した。彼らは兵士に意気を取り戻させ、地下道を作ってウェイイを落とした。彼らはその市を隷属化し、住民を他の戦利品と一緒に売り払った。次いで独裁官は凱旋式を挙行し、ローマの人々は戦利品の十分の一を取っておいて黄金の鉢を作り、デルポイの神託所に奉納した。それを運んでいた使節団はリパラ諸島で海賊と遭遇し、全員が捕らえられてリパラへと送られた。しかしリパラ人の将軍ティマシテオスは事の次第を知ると使節を救出して金の器を返してデルポイまで送ってやった。器を運んでいた彼らはそれをマッサリア人の宝物庫〔「デルポイは個々のギリシア都市によって神託所への奉納品を収容するために建てられた小さい建物で満たされていた」(N)。〕に奉納してローマへと帰った。したがってローマの人々はティマシテオスのこの気前の良い行いを知ると、すぐ公的な歓待を受ける権利を与えて讃え、一三七年後に彼らがカルタゴ人からリパラ島を奪取した時にはティマシテオスの子孫の納税を免除して解放した。
94 この年が終わった時にアテナイではピロクレスがアルコンになり(61)、ローマではプブリウスとコルネリウス、カエソ・ファビウス、ルキウス・フリウス、クイントゥス・セルウィリウス、そしてマルクス・ウァレリウスといった六人の軍務官が執政官権限を行使した(62)。この年に九七期オリュンピア会期が祝われ、テリレスが優勝者となった。この年にアテナイ人はトラシュブロスを将軍に選出して四〇隻の三段櫂船と共に海へと送り出した。彼はイオニアへと航行し、同盟諸国から資金を集めて船を進めた。ケルソネソスに留まっていた間に彼はトラキア人の王メドコスとセウテスを同盟者とした。しばらくして彼はヘレスポントスからレスボス島へと航行してエレソス沖に錨を降ろした。しかし強風が吹いて二三隻の三段櫂船が失われた。他の船を連れて無事出発した彼はレスボス島の諸都市を味方につけようと考えてそちらへと進んでいった。というのもミテュレネを除くそこの全ての都市が反旗を翻していたからだ。手始めに彼はメテュムナの前に現れ、スパルタ人テリマコスが指揮する市兵と戦った。勇戦して彼はテリマコスその人のみならず少なからぬメテュムナ兵を殺して城壁の中へと追いつめた。また彼はメテュムナ人の領地を略奪してエレソスとアンティッサの降伏を受け入れた。この後、彼はキオス人とミテュレネの同盟諸国から船舶を集めてロドス島へと航行していった。
95 カルタゴ人はシュラクサイで被った災難からゆっくりと回復した後、シケリア情勢を手中に収め続けようと決心した。戦争を決意すると、彼らは少数の軍船を渡航させただけでなく、リビュアとサルディニア島の兵士並びにイタリアの夷狄からの兵も連れていった。この兵士たちは彼らが慣れ親しんだ武装を用心深く完璧に供給されてシケリアへと運ばれ、その八〇〇〇〇人を下らない兵力はマゴンの指揮下に置かれた。したがってこの指揮官はシケロイ人の地を経由して進み、ディオニュシオスから諸都市の大部分を離反させ、モルガンティネへ至る道近くのクリュサス河畔のアギュリオン人の領地に陣を張った。彼はアギュリオン人を彼との同盟に加盟させることができず、敵がシュラクサイからやってきたという知らせを受けたため、さらに前進するのをやめた。
 ディオニュシオスはカルタゴ軍が内陸部を通って進んでいることを知ると、速やかに多くのシュラクサイ兵と傭兵をできる限り集め、全部で二〇〇〇〇人を下らない兵力を連れて出撃した。敵に近づくと、彼はアギュリオン人の君主アギュリスに使節を送った。この男はその時代のシュラクサイの僭主のうちでディオニュシオスに次いで強力な武力を有しており、要塞化された近隣全ての地域の実質的な主であり、その当時人口が多かったアギュリオン人の都市を支配していたため、二〇〇〇〇人を下らない市民兵を有していた。アクロポリスの上にはこの都市へと集まった大軍勢のため、かつてアギュリスが最も富裕な市民たちを殺した後に集めた多額の貯金が置かれていた。しかしディオニュシオスは僅かな供回りを連れてその都市へと入った後にアギュリスに真摯な同盟者として自分の味方になるよう説き伏せ、戦争がもし上首尾に終われば近隣の領土の大部分を贈ることを約束した。そしてまずアギュリスは速やかにディオニュシオスの全軍に食料とその他必要なあらゆるものを提供し、自ら一軍を率いてディオニュシオスの遠征に加わり、カルタゴ人との戦争を彼と一緒に戦った。
96 マゴンは敵地に野営していてますます物資が欠乏してきたため、少なからず不利な状況に陥った。それというのもアギュリスの兵はその領地に慣れ親しんでいたために待ち伏せに有利で、絶えず敵の補給路を遮断していたからだ。シュラクサイ人たちは能うる限り早く戦いによって決着をつけようと決意していたが、ディオニュシオスは時間と欠乏で戦わずして夷狄を滅ぼせるだろうと言って彼らに反対した。これに憤慨したシュラクサイ人たちは彼を見捨てた。まずこれを気にかけたディオニュシオスは奴隷に自由を宣言し、後にカルタゴ人が和平を話し合うために使節団を送ってくると彼らと交渉して奴隷を元の主人に送り返して講和した。その条件は、シケロイ人はディオニュシオスに服属し、彼はタウロメニオンを受け取るという点を除いて以前のものと似たものだった。協定締結の後にマゴンは出航し、ディオニュシオスはタウロメニオンの領有権を得るとそこにいたシケロイ人のほとんどを追い出して彼自身の傭兵部隊の中で最も適当な成員を住まわせた。
 シケリアの情勢は以上のようなものであり、イタリアではローマ軍がファリスキ族のファリスクス市を略奪した。
97 その年が終わった時、アテナイではニコテレスがアルコンであり(63)、ローマでは執政官職がマルクス・フリウスとガイウス・アエミリウスの三人の軍務官によって運営された(64)。それらの行政官が任期に入った後、ロドス人の親ラケダイモン派が大衆派に対して蜂起してアテナイ人の支持者を市から追い出した。彼ら〔大衆派〕が武器を持って集まってきて利益を守ろうとすると、ラケダイモン人の同盟者が優位に立って多く人たちを殺し、逃げた人たちを公式に追放した。また、彼らは市民たちが反乱を起こすのではないかと恐れてすぐにラケダイモンに助けを求める使節団を送った。ラケダイモン人は七隻の三段櫂船と事態を収拾するエウドキモス、ピロコドスそしてディピラスの三人を彼らへと派遣した。彼らはまずサモスに到着してアテナイ人から彼らの側へとその都市を味方に引き入れ、次いでロドスに入港してそこでの諸事を監督した。ラケダイモン人は今や自分たちの状況に見込みが出てきたために海の支配権を握ろうと決意し、海上戦力を集めた後に再び少しずつ同盟諸国に対して優勢に立ち始めた。かくして彼らはサモスとクニドスとロドスに入港しては方々から船を集めて選り抜きの海兵を徴募し、二七隻の三段櫂船を立派に艤装させた。
 ラケダイモン人の王アゲシラオスはアルゴス人がコリントスで手一杯になっていたことを知ると、一モラ(65)を除いたラケダイモン人の全軍を率いて向かった。彼はアルゴリスの全域に来ては家屋を略奪して郊外では木々を切り倒し、それからスパルタへと帰国した。
98 キュプロス島では、市の建設者の子孫で最も高貴な生まれだったサラミスのエウアゴラスは党派抗争のために以前に追放されていたが、最近になって少数の仲間と共に帰国し、市の主でペルシア人の王の友人であったテュロスのアブデモンを追放した。その都市の支配権を手に入れたエウアゴラスはまずキュプロスの都市の中で最大最強の都市であったサラミスの単独の王となった。しかし莫大な資源を得るや彼はすぐに軍を動員して島の全域を我がものにしようとした。彼は都市のあるものを力づくで服従させ、他のものを説得によって味方につけた。彼が他の諸都市の支配権を容易く手に入れていた一方で、アマトゥス、ソロイ、そしてキティオンの人々は武力で彼に抵抗し、ペルシア人の王アルタクセルクセスに救援を送ってくれと使節団を派遣した。彼らはエウアゴラスをペルシア人の同盟者であったアギュリス王殺害の廉で非難し、〔ペルシアの〕王が島を手に入れることに協力すると約束した。王はエウアゴラスの勢力拡大を望んでいなかっただけでなく、キュプロスの戦略的な立地の真価、そしてアジアを正面から守ることができるであろうキュプロスの強力な海軍力を認めていたため、同盟を受け入れることを決心した。彼は使節団を帰して沿海地の諸都市とそれらを支配する太守たちへ向けて三段櫂船を建造してすぐさま艦隊が必要とするあらゆるものを用意するよう命じる手紙を送り、カリアの支配者ヘカトムノスにエウアゴラスとの戦争を行うよう命じた。ヘカトムノスは内陸諸州の諸都市を横断し、強力な軍を連れてキュプロス島へと渡った。
 アジアの情勢は以上のようなものであった。イタリアではローマ人がファルスキ人と講和してアエクィ族と四度目の戦争を起こした。また彼らはストリウムに植民団を送ったが、ウェルゴ市から来た敵に追い払われた。
99 この年の終わりにアテナイではデモストラトスがアルコンであり(66)、ローマでは執政官のルキウス・ルクレティウスとセルウィリウスが在任中だった(67)。この時にアルタクセルクセスはラケダイモン軍との戦争を遂行させるために軍を付けてストルタスを将軍として沿岸部へと送り、スパルタ人は彼の到着を知るとティブロンを将軍としてアジアに派遣した。ティブロンはイオニアのある城砦、コルニッソス山というエペソスから四〇スタディオンの距離にある高い山を占拠した。次いで彼は八〇〇〇人の兵とアジアから集められた兵を引き連れて進軍し、王の領地を略奪した。ストルタスは強力な夷狄の騎兵隊と重装歩兵五〇〇〇人、そして軽装歩兵一二〇〇〇人以上を率いてラケダイモン軍からそう遠くない場所に設営した。最終的にティブロンが一旦分遣隊と共に出発して大量の戦利品を獲得すると、ストルタスは彼を攻撃して戦死させ、より多くの敵兵を殺して他の者は捕虜にした。少数の者が前哨基地のクニディニオンに逃れた。
 アテナイの将軍トラシュブロスは艦隊を率いてレスボスからアスペンドスへと向かい、エウリュメドン川に三段櫂船を停泊させた。彼はアスペンドス人から年貢を受け取っていたにもかかわらず、一部の兵士が国土を略奪した。夜が来るとアスペンドス人はかような不実な行為に怒り、アテナイ軍を攻撃してトラシュブロスと他の多数の兵士を殺した。一方でアテナイ船の船長たちは非常に驚いて素早く船に人員を載せてロドスへと去った。この都市は反乱を起こしていたため、アテナイ軍は或る前哨基地を奪取していた亡命者たちと合流し、都市を掌握していた人たちとの戦端を開いた。トラシュブロス将軍の死を知ると、アテナイ人はアギュリオスを将軍として送り出した。
 アジアの情勢は以上のようなものであった。
100 シケリアでは、シュラクサイ人の僭主ディオニュシオスが島で掴んだ覇権をイタリアのギリシア人にも広げようと企んでおり、彼は彼らに対する全面戦争を後日に延期していた。レギオン人の都市はイタリアの前線基地であったために彼はそこを最初に攻撃するのが名案だと判断してシュラクサイから軍を率いて出撃した。彼は歩兵二〇〇〇〇と騎兵一〇〇〇と一二〇隻の軍船を率いていた。彼は軍と共にロクリスの国境へと渡ってそこから内陸部を通って進み、木々を切り倒してレギオン領を焼き討ちし、破壊した。彼の艦隊は海から他の地方沿いに進み、彼は海峡に全軍と共に野営した。イタリア人はディオニュシオスがレギオン攻撃のために海を越えてきたことを知ると、クロトンから六〇隻の艦隊をレギオン人に渡すべく派遣した。この艦隊が外洋を航行していると、ディオニュシオスはそれらに向けて五〇隻の艦隊を差し向け、その艦隊が陸の方へと逃げると猛攻をかけつつ追跡し、沖にいた船を繋いで曳き始めた。六〇隻の船があわや捕らえられそうになったため、レギオン人は全軍で救援に向かって矢玉を雨霰と降らせて陸からディオニュシオスを撃退した。大嵐が起こると、レギオン人は船を陸の高い場所へと曳いて乾かしたが、ディオニュシオスは強風で七隻と一五〇〇人を下らない兵を失った。舵手たちはレギオン領に船もろとも岸へと投げ出されたため、その多くがレギオン人に捕らえられた。沈みそうになりながらも五段櫂船で長時間逃げていたディオニュシオスは真夜中に辛うじてメッセネの港に無事逃げ込んだ。すでに季節は冬になっていたため、彼はレウカノイ人と同盟条約を結んで軍をシュラクサイへと引き上げさせた。
101 この後、ルカニア人がトゥリオイ領を荒らすと、トゥリオイ人は武装して速やかに集まるよう同盟諸国に手紙を出した。それというのもイタリアのギリシア諸都市は、もしどこかの都市の領地がルカニア人の略奪を受ければ皆で救援に向かい、どこかの都市の軍が支援を行える位置になければその都市の将軍たちは死罪に処せられるべしという協定を定めていたからだ。したがってトゥリオイ人が諸都市に敵の接近を知らせる伝令を送ると、それら全てが出撃の準備をした。しかし彼らの行動は最初は的外れなものとなった。トゥリオイ人は同盟軍を待たずに歩兵一四〇〇〇人強と騎兵およそ一〇〇〇騎でもってルカニア人に向けて出撃した。ルカニア人は敵の接近を聞くと自領へと撤退し、トゥリオイ軍は急いでルカニアに襲いかかったために最初の前哨基地を占領して多数の戦利品を集め、かくしていわば自分の破滅への餌に食いつくことになった。その成功で得意になった彼らは栄えていたラオス市を包囲するべく浅はかにも狭く険しい道を通って進軍した。彼らが高い丘と険しい崖に囲まれたある平地に到着すると、ルカニア人が全軍でもって彼らの故郷への退路を断ってきた。彼らが突如として高台に姿を現すと、その軍勢の規模の大きさとその地勢の険しさのためにギリシア軍は肝を潰した。それというのもルカニア人はその時に三〇〇〇〇人の歩兵と四〇〇〇騎を下らない騎兵を有していたからだ。
102 不意を突かれたギリシア軍が我々が述べたような希望のない危機に突き落とされると、夷狄は平地へと下ってきた。戦いが起こり、ルカニア人は一人も生かすなという命令を出していたためにイタリアのギリシア軍はルカニア人の多さで圧倒されて一〇〇〇〇人以上を失った。生き残りの一部は海近くの高台に逃げ、他の者は彼らの方に航行してくる軍船の船団を見てレギオン人の船だと考え、海に身を投じて三段櫂船まで泳いだ。彼らが近づいたのは僭主ディオニュシオスの弟レプティネスが指揮する艦隊であり、これはルカニア人の援助のために送られたものだった。レプティネスは泳いできた者たちを親切に受け入れて陸まで送り、数にして一〇〇〇人以上いた捕虜一人につき銀一ムナを彼から受け取るようルカニア人を説き伏せた。レプティネスは身代金の確約を取り、イタリアのギリシア人とルカニア人とを和解させた。彼はイタリアのギリシア人から大喝采を浴びたわけだが、彼がした戦争状態の解消は彼のためにはなりはしたが、ディオニュシオスには何の利益ももたらさなかった。それというのもディオニュシオスの望むところでは、もしイタリアのギリシア人がルカニア人と反目して戦争をしていれば、そこに現れるや彼はいとも容易くイタリアの主になれていたろうが、彼らが危険な戦争から解放されれば、彼の成功はおぼつかなくなってしまうからだ。したがって彼はレプティネスから指揮権を剥奪し、他の兄弟のテアリデスを艦隊司令官に任命した。
 それらの出来事に続き、ローマ人はウェイイ人の領地を籤で分配し、各々が四プレトロンの、あるいは他の人たちの説明によれば二八プレトロンの土地保有者になった。ローマ人はアエクィ人と戦争をしてリフルス市を強襲によって落とした。そして彼らは反乱を起こしたウェリトラエの人々と開戦した。サトリイクムもまたローマ人に反旗を翻し、彼らはケルキイに植民団を送った。
103 この年が終わった時、アテナイではアンティパトロスがアルコンであり(68)、ローマではルキウス・ウァレリウスとアウルス・マリウスが執政官の権限を担った(69)。この年にシュラクサイ人の君主ディオニュシオスは公然とイタリア攻撃計画を露わにし、最も恐るべき軍勢と共にシュラクサイから出撃した。彼は二〇〇〇〇人以上の歩兵とおよそ三〇〇〇騎の騎兵、四〇隻の軍船、三〇〇隻以上の食料輸送船を投入した。五日目にメッセネに到着すると彼はその都市で兵を休ませ、その間に一〇隻のレギオン船がその近海にいることを知ると、兄弟のテアリデスを三〇隻の艦隊と共にリパラ人の島へと送った。出航したテアリデスは目的に好都合な場所にいた一〇隻のレギオン船に向かっていき、それらの船を乗組員共々拿捕して速やかにメッセネのディオニュシオスに戻った。ディオニュシオスは拘束した捕虜をメッセネ人に引き渡して彼らの管理下に置かせ、それから軍をカウロニアへと輸送してその都市を包囲し、攻城兵器を前進させて攻撃を頻繁にかけた。
 イタリアのギリシア人はディオニュシオスの軍勢が境界となる海峡の渡航を始めつつあるのを知ると、続々と軍を集めた。クロトン人の都市が最も人口稠密で最も多くのシュラクサイからの亡命者を擁していたため、クロトン人は戦争の指揮権を亡命者に渡し、クロトンの人々は方々から兵を集めてシュラクサイ人ヘロリスを将軍に選んだ。この男はディオニュシオスに追放されていた人物で、皆から行動と企図の人だと考えられていたため、ディオニュシオスへの憎悪のために僭主に対する戦争を指導するにあたって最も信頼できる人物だと信じられていた。全ての同盟軍がクロトンに集まると、ヘロリスは彼らを自分の思い通りに編成し、カウロニアに向けて全軍で進軍した。彼は、自分が出現するのと同時に包囲は解かれ、また敵との戦いにあたって〔敵は〕毎日の攻撃のためにすでに疲弊しているだろうと計算していた。彼は全部でおよそ二五〇〇〇人の歩兵と二〇〇〇騎の騎兵を有していた。
104 イタリアのギリシア軍が進路の大部分を消化してエレポロス河畔(70)に野営していた時、ディオニュシオスは市を発って彼らと会戦すべく進軍した。 さてヘロリスは五〇〇人の選り抜きの兵と共に軍の先頭に陣取っており、ディオニュシオスはというと敵から四〇スタディオンのところに陣を張った。斥候から敵が近くにいることを知ると、早朝に彼は軍を出撃させた。夜明けに小勢のヘロリス隊と遭遇すると、ディオニュシオスは彼らに予期せぬ戦いを挑み、彼の軍はすでに戦いに準備万端だったために態勢を立て直す暇を与えなかった。ヘロリスは自らが絶望的な苦境にいることを悟ったものの、兵と共に攻撃者に対して踏み止まり、その間に数名の友人たちを野営地へと送って本隊を突撃させるよう求めた。彼らは速やかに命令を実行に移し、イタリアのギリシア軍は彼らの将軍とその部隊が直面する危機を知ると救援へと急いだ。一方、ディオニュシオスは密集隊形を組んだ兵でヘロリスと彼の部下を包囲し、ヘロリスたちは見事な抗戦ぶりを示したもののこれを一人残らず殺した。イタリアのギリシア軍が算を乱して大急ぎで戦いへと入ったため、無傷で隊列を維持していたシケリアのギリシア軍はそう苦労することなく敵を打ち破った。とはいえ自軍の多くが壊滅するのを見はしたものの、イタリアのギリシア軍はしばらくの間は戦いを続けた。しかし彼らは将軍の死を知ると、混乱の最中で互いに身動きが取れなくなって大いに妨げられ、それからついに完全に闘志を失って敗走に転じた。
105 原野を通る敗走の過程で多くの者が殺されたが、本隊は包囲に耐え抜けるほどに堅牢だが水がなく、いとも容易く敵に押さえ込まれるであろうある丘へと無事退却した。ディオニュシオスはその丘を囲んで昼夜を問わず武装したまま野営し、用心深く監視の目を光らせた。翌日に守手側は暑さと水の欠乏でひどく衰弱した。そこで彼らはディオニュシオスに使者を送って身代金の受け取りを申し入れた。しかし成功における中庸をわきまえない彼は彼らに武器を手放して勝者の扱いに身を委ねるよう命じた。これは過酷な命令であり、彼らは〔決定にあたって〕しばしの時間をかけた。しかし身体的な必要に押し潰されておよそ八刻目(71)に今や衰弱しつつあった身柄を引き渡した。ディオニュシオスは軍議を開いて降ってきた捕虜を数え、それが一〇〇〇〇人を越えると仰天した。皆が彼の残忍さを知ってはいたが、逆に彼はこの上ない親切さを示した。それというのも彼は捕虜たちに権柄に従属しないでいることを身代金なしで許し、諸都市のほとんどと和平を結んで独立を保たせた。この見返りとして彼は彼が親切にしてやったそれらの諸都市の支持を得て黄金の冠で栄誉を讃えられた。そしてこれは彼の人生における最も立派な行いだと人々は信じた。
106 さて、ディオニュシオスは結婚の申し出に関して受けた侮蔑のためにレギオンに向けて進軍し、軍勢による包囲の準備を行った。レギオン人には同盟者も彼と渡り合えるだけの軍勢もおらず、その上、もし市が陥落すれば慈悲も懇願も期待できないことを知っていたため、レギオン人は深刻な苦境に陥った。したがって彼らは穏健な扱いを嘆願し、人間らしい行いを越えたような敵対的な決定をしないよう説くために使節団を派遣することを決定した。ディオニュシオスは彼らに三〇〇タラントンを要求し、七〇隻に上った彼らの船の全てを取り上げて一〇〇人の人質の引き渡しを命じた。それらの全てを受け取ると、彼はカウロニアへと向かった。この都市の住民を彼はシュラクサイへと移住させ、市民権を与えて五年間の免税特権を許した。次いで彼はその都市を更地にし、ロクリス人にカウロニア人の領地を与えた。
 ローマ人はアエクイ人からリフォエクア市を奪った後、執政官たちの誓約に則ってゼウスを讃える大競技祭を開催した。
107 その年がの終わりにアテナイではピュルギオンがアルコンで(72)、ローマではルキウス・ルクレティウス、セルウィウス・スルピキウス、ガイウス・アエミリウス、そしてガイウス・ルフスといった四人の軍務官が執政官職を引き継ぎ(73)、九八回目のオリュンピア会期が祝われてアテナイのソシッポスが優勝者となった。それらの人たちが官職に就いた時、シュラクサイ人の君主ディオニュシオスはヒッポニオンへと軍を進めてそこの住民をシュラクサイへと移住させ、その都市を徹底的に破壊して領地をロクリス人に分け与えた。それというのも彼はロクリス人が同意した結婚のために彼らに対して絶えず好意的に振る舞っており、他方でレギオン人に対しては縁組みの申し出への侮辱のために彼らへの復讐を追求していたからだ。彼がレギオン人に彼らの都市のある娘との結婚を認めてくれよう求める使節団を送った折、レギオン人は公費で仕事をする死刑執行人の娘だけとしか結婚を認めないと、所謂人民の行動でもってその使節団に応じた。これに怒り自分が手酷く侮辱されたと信じた彼は彼らへの復讐に心を向けることになった。なるほど以前に彼が彼らと結んだ和平は友好関係への参与への彼の熱意から来たものではなく、彼は彼らから七〇隻の三段櫂船から成っていた海軍を剥ぎ取る腹づもりから来たものだったのだ。というのもその都市は海によって援助から切り離されれば、包囲によって易々と倒すことができるだろうと彼は信じていたからだ。したがってイタリアをうろついていた間、彼は自分の立場を損なうことなく協定を破棄したように見える尤もらしい口実を探した。
108 そこでディオニュシオスは海峡へと軍を進めて渡航の準備を行った。手始めに彼は、すぐにシュラクサイから返すと約束してレギオン人に販売用の食料の提供を求めた。彼がこの要望をしたのは、その人たちが食料を提供しなければその市の占領を正当化できると踏んでのことであり、他方で彼らがそうすれば、彼らの食料は使い切られて市の前に陣取れば飢餓によって速やかにそこの主になれるだろうと信じてのことだった。レギオン人は何の疑いも持たずに当初は数日分の食料を気前よく提供したが、ある時は病気を、またある時は他の口実を持ち出して彼の滞在が長引くと、彼らは彼の心中を疑って最早彼の軍に物資を提供しなくなった。今やディオニュシオスはこれに怒ったふりをしてレギオン人に人質を返し、市の包囲に取りかかって毎日攻撃をかけた。また彼は信じられない大きさの攻城兵器を多数作り、その都市を強襲で落とそうと決意していた彼はそれらによって城壁を揺るがした。レギオン人はヒュトンを将軍に選び、武器を持てる者全員を武装させて見張りを密にし、機が訪れると出撃して敵の攻城兵器に火を放った。城壁の上でたびたび祖国のために立派に戦ったために彼らは敵の怒りを呼び起こし、多くの兵を失ったものの彼らもまた少なからぬシケリアのギリシア人を殺した。ディオニュシオスその人は腿の付け根に槍の一撃を受け、やっとのことで傷を治して辛うじて死を免れるという一幕が起こった。包囲はレギオン人が自由を守るために示したこの上ない熱意のために難航したが、ディオニュシオスは軍に連日攻撃をかけさせ、元々自分で自分に課した仕事を放棄しなかった。
109 オリュンピア祭が間近に迫り、ディオニュシオスは早さでは他の全てのものに勝った四頭立て戦車の一団を何組か、そしてまた金を織り込んだ多額の派手な、それでいて様々な色の衣服で飾られた祭用の天幕を競技祭に送った。彼は集まって彼の詩を読む本職の最良の朗読者たちも送り、かくして詩では下手の横好きだったディオニュシオスの名に栄誉をもたらした。これら全ての任に彼は兄弟のテアリデスを付き添わせた。集まりに到着した時、テアリデスは美く魅力的な天幕と大勢の馬の一団の中心にいた。そして朗読者がディオニュシオスの詩を読み始めると、当初は俳優たちの心地よい声のために群衆は群がって驚嘆に満たされた。しかし彼らは考え直してみたところ、彼の詩がいかに貧相であるかを見て取り、ディオニュシオスをあざ笑って拒絶のあまり天幕の物色すらするようになった。なるほどその時オリュンピアにいた弁論家リュシアスはその時に彼の『オリュンピア大祭弁論』を著し、群衆は聖なる祭に最も不敬虔な僭主からの代表団を認めなかったと論じた。競技祭の過程でディオニュシオスの戦車のあるものが進路を外れ、他の戦車が互いにぶつかってひっくり返るという事故が起こった。同様に競技祭からシケリアへ代表団を運ぶ針路上にあった船がイタリアのタラス近くで強風にあって難破した。したがってシュラクサイに無事たどり着いた舵手たちは、伝えられるところでは、詩の下手さが朗読者のみならず〔戦車競争の〕一団と彼らの乗る船の災難の原因であるとの話を市中に広めた。ディオニュシオスが彼の詩に山と積まれた嘲りを知ると、彼の太鼓持ちたちはあらゆる立派な行いは最初は賞賛よりも嫉妬の対象となるものだと彼に言った。したがって彼が文学への熱中をやめることはなかった。
 ローマ人はグラシウムでウォルスキ人と戦って多数の敵を殺した。
110 それらの出来事の顛末にあってその年は終わりを迎えた時にアテナイ人のうちではテオドトスがアルコンであり(74)、ローマでは執政官権限はクイントゥス・カエソ・スルピキウス、アエヌス・ガエソ・ファビウス、クイントゥス・セルウィリウス、そしてプブリウス・コルネリウスといった六人の軍務官が担った(75)。それらの人たちが任についた後、ギリシア人との戦争とペルシア人との戦争という二重の戦争で苦戦していたラケダイモン人は和平を論じるべく提督アンタルキダスをアルタクセルクセスのもとへと送った。アンタルキダスは能うる限り任務上の事柄について議論し、王は以下のような条件の和平に同意した。「アジアのギリシア諸都市は王に従属するが、他の全てのギリシア人は独立するものとする。それらの条項の遵守を拒んで受け入れぬ者に余はそれらに同意した者たちの助力を得て戦争を仕掛けるものとする」。今やラケダイモン人はそれらの条件に同意して異論を申し立てず、アテナイ人とテバイ人とその他のギリシア人たちはアジアの諸都市が見捨てられたことを深く案じた。しかし彼らは戦争では歯が立たなかったためにその必要性に屈して和平を受け入れた。
 王はギリシア人との反目が解決したために対キュプロスの大戦争の準備を行った。それというのもアルタクセルクセスがギリシア人との戦争で注意を逸らされていたためにエウアゴラスはキュプロスのほぼ全域を領有して強力な軍勢を集めていたからだ。
111 ディオニュシオスによるレギオン包囲が一一ヶ月目にさしかかろうとしており、彼が方々からの救援を遮断したためにその都市の住民は生活必需品の酷い欠乏に追い込まれた。現にその時のレギオン人のうちでは小麦一メディムノスが五ムナになっていたほどである。かくして食糧不足によってまず彼らは馬とその他の荷運びの動物を食べ、それから茹でた獣皮となめし革を食べ、ついにそれらが市内から一掃されると群れた牛のように城壁近くの草を食べるに至った。このように自然的な必要性は人々の欲求を口の利けない動物の食べ物で満足するように強いた。ディオニュシオスは事の次第を知ると、人間の忍耐を越えた被害を必然的に受けた人たちへの慈悲を毛ほども示すことなく、それどころか逆に草が青青と広がる場所を一掃するために牛を放ち、その結果そこは完全に丸裸になった。したがってレギオン人は度を超した苦境に負け、彼らの生命への絶対的な権力を僭主に渡して市を彼に明け渡した。市内でディオニュシオスは食料の欠乏で死んだ死体の山を見つけ、彼が捕らえた生者もまるで死体のようで体が弱りきっていた。彼は六〇〇〇人を越す捕虜を得て、銀一ムナを身代金として払える者は解放し、その額を出せない者は奴隷として売り払えという命令と共にこの人々をシュラクサイへと送った。
112 ディオニュシオスはレギオン軍の将軍ヒュトンを捕らえて彼の息子を海で溺死させたが、ヒュトンその人をまず一番高い攻城兵器に縛り付け、このような悲劇のように見える場面で復讐心をぶちまけた。またディオニュシオスがヒュトンの息子を先日海で溺死させたと伝えさせるために家来の一人を送ると、ヒュトンはこう答えた。「あやつは父よりも一日多く幸福だったものよ」この後ディオニュシオスは彼を鞭打ちながら市の周りを引きずり回してありとあらゆる屈辱を与え、使者を彼に同行させてこの男が戦争をするよう市を説得したがためにディオニュシオスは彼にこの異常な復讐を与えたのだと触れ回らせた。しかし包囲戦の時には勇敢な将軍ぶりを発揮して他の全ての賞賛を勝ち得ていたヒュトンは生来の卑しからぬ精神で命に関わる罰に耐えた。むしろ彼はその精神を不動のまま保ち、自分は市を裏切ってディオニュシオスに渡さなかったがために罰せられているのであり、天はすぐにディオニュシオスその人に罰を下すだろうと叫んだ。この男の勇気はディオニュシオスの兵の間にすら同情の念を呼び起こし、その一部は反抗し始めた。ディオニュシオスは兵の一部が敢然とヒュトンを彼の手からひったくるのではないかと恐れ、彼を罰するのをやめてこの不運な男をこの近親ともども海で溺死させた。かくしてこの男はその価値に相応しからぬぞっとするような拷問を受けるに至った。彼はその時代には多くのギリシア人から感嘆を、後には多くの詩人から彼の運命の変転の悲話への哀悼を寄せられた。
113 ディオニュシオスがレギオンを包囲していた時、アルペス山脈の向こう側の地方に住んでいたケルト人が大兵力で峠を越えて押し寄せてきてアペンノス山脈とアルペス山脈の間に横たわる土地を奪取してそこに住んでいたテュレニア人を追い出した。一部の人たちによれば、テュレニア人はテュレニアの一二の都市からの植民者であったが、トロイア戦争の前にテッサリアから追い出されてデウカリオンの時代の洪水を逃れたペラスゴイ人がこの地方に住み着いたものだと他の人たちは述べている。さて、ケルト人が部族ごとに領地を分けると、セノネス族として知られる部族が山脈から一番遠いところにあって海に沿っていた地域を受け取った。しかしこの地方は焼け付くような暑さであったために彼らは難儀をして移動を望んだ。そこで彼らは若者を武装させてどこか移住できそうな領地を探すべく送り出した。その時には数がおよそ三〇〇〇〇人いた彼らはテュレニアに攻め込んでクルシウム人の領土を略奪した。
 まさにこの時にローマ人はケルト軍を探るべくテュレニアに使節団を送った。使節団はクルシウムに到着し、戦いが交わされたのを見て取ると、知恵よりも勇気から攻囲軍に対してクルシウムの人々に加勢し、使節の一人(76)がいくらか重要な指揮官の殺害に成功した。これを知ったケルト人はローマへと不正な戦争に手を染めた使節の身柄を要求すべく使節団を送った。当初、元老院はケルト人の使節を被害への賠償金を受け取るよう説得しようとしたが、彼がこれを一顧だにしないでいると、被告の引き渡しを票決した。しかし引き渡されるべき男の父は執政官権限付軍務官の一人でもあったこともあって平民に判断をするよう訴え、彼は平民のうちで影響力のある人物であったために元老院の決定を無効にするよう説き伏せた。この時以前の平民は全ての事柄で元老院に従っていたが、これが彼らがその機関の決定を取り消す端緒となった。
114 ケルト人の使節団は彼らの野営地へと戻ってローマ人の返答を報告した。ここで彼らは大いに怒って同胞民族からの軍を追加すると、速やかにローマ自体へ向けて進撃したわけであるが、その数は七〇〇〇〇人以上であった。ローマ人の軍務官たちはケルト軍の進撃を聞くと彼らの特権を振るい、軍務適齢期の男全員を武装させた。それから彼らは全軍で進撃し、ティベリス川を渡って兵を河畔八〇スタディオンまで率いていった。そしてガラティア人(77)接近の報を受けると彼らは軍を戦いへと向かわせた。数が二四〇〇人の最良部隊を彼らは川から丘あたりまで整列させ、最も高い丘の数々に最弱の部隊を配置した。ケルト軍は長い戦列に兵を展開し、幸運か計画のいずれかのおかげで丘に選り抜きの部隊を配置した。双方でラッパが同時に鳴って突撃を告げ、両軍は大いにざわめきつつ戦いに入った。ローマ軍の最弱部隊に対峙していたケルト軍の精鋭部隊は易々と彼らを丘から駆逐した。したがって彼らは大挙して平地のローマ軍の方へと逃げ、隊列は混乱に陥ってケルト軍が攻撃するより前に総崩れになった。大勢のローマ兵が川沿いに逃げて混乱のために互いを妨害しあうことになったため、ケルト軍は隊列の末尾にいた者を遅れることなく幾度も殺戮した。かくして平野全域に死体が散乱すことになった。川に逃げた兵のうち最も勇敢な者たちは命と同等に鎧を大事にしていたために武具をつけて川を泳いで渡ろうとした。しかし流れが急だったために彼らの一部は武具の重さのおかげで溺れ死に、ある者はしばしの距離を流された後に大変な思いをしてやっと無事逃れた。しかし敵は彼らを激しく追撃して川辺で大勢の者を殺戮したため、生き残りの大部分は武具を捨ててティベル川を泳いで渡った(78)
115 ケルト人は川岸で夥しい数の敵を殺したにもかかわらず栄光への熱意を失わず、泳ぐ者たちに投槍を浴びせた。そして多くの投擲兵器が投ぜられて多くの者が川に密集していたたため、投げた者は的を外すことがなかった。かくしてある者は致命傷を受けて即死し、負傷しただけの他の者も出血多量と急流のために意識を失った。かような災難に見舞われると、逃げたローマ兵の大部分は、後に彼らによって完全に破壊されることになるウェイイ市を占拠し、その地にできる限りの防備を施して逃げてきた生き残りを受け入れた。川を泳ぎきった僅かな者だけが武器を捨ててローマへと逃げおおせ、全軍の壊滅を報告した。我々が述べたようなこの非運についての知らせが市内に残されていた者に伝えられると、誰もが絶望を感じた。それというのも全ての若者が死んだ今、彼らは抗戦の見込みはないと思っていたし、そして敵が間近に迫っているために妻子を連れて逃げることにはこの上ない苦難が伴っていたからだ。今や多くの一般市民が家財を持って近隣諸都市に逃げたが、市の行政官たちは人々を激励し、速やかにカピトリヌスへと穀物と他のあらゆる必需品を持って来るよう布告を発した。これがなされると、値打ちのある財産が市の全体から一カ所に集められたためにアクロポリスとカピトリヌスには物資の蓄えだけでなく金銀と最も高価な衣服が溜め込まれた。彼らはできる限りこういった値の張るものを集めて我々がすでに述べた場所に三日間の猶予のうちに防備を施した。それというのもケルト人は最初の日を彼らの習俗に則って死者の首を切るのに費やしていたからだ。それから二日間彼らは市の前に野営し、遺棄された城壁を見てアクロポリスに最も有用な財産を移していた者が出す音を聞きさえしていたが、彼らはローマ人が罠を張っているのではないかと疑った。しかし四日目に事の真相を知った後に彼らは門を破ってパラティヌスの少数の住居を除いて市を略奪した。この後に彼らは強固な場所に毎日攻撃をかけたが、敵に負傷者を出させることなく自軍に大きな被害を受けた。にもかかわらず、力攻めで征服できなければ自分たちは時の経過とともにすり減っていくだろうと予想したため、生活必需品が完全に底をついても彼らは熱意を失わなかった。
116 ローマ人がこのように苦しんでいた時、近隣のテュレニア人が進軍してローマ人の領地を強力な軍で襲撃し、多くの捕虜と少なからぬ戦利品を分捕った。しかしウェイイに逃げていたローマ人はテュレニア軍に出し抜けに襲いかかって彼らを敗走させ、戦利品と野営地を取り戻した。十分な武器を手中に収めると彼らは非武装の者にそれらを配り、郊外から男たちを集めて彼らを武装させたわけでもあるが、それはカピトリヌスに逃げ込んだ兵に対する包囲を解かせるという意図のためであった。ケルト軍が強力な部隊で籠城軍を取り囲んでいたためにどうやって彼らにその計画を打ち明けたものかと途方に暮れていた時、コミニウス・ポンティウスなる者がカピトリヌスの兵にその愉快な知らせを届けようと試みた。彼は一人で出発して夜に川を泳ぎ、上るのが困難なカピトリヌスの崖へと気付かれることなく向かって苦労しつつ登り、カピトリヌスの兵たちにウェイイに集結した部隊のことと彼らが機を見計らってケルト軍に攻撃をかけるつもりだと話した。それから登ってきた道を引き返してティベリス川を泳ぎ、彼はウェイイへと戻った。ケルト軍は彼が最近登った道に気付くと、夜に同じ崖を登る計画を立てた。したがって真夜中頃、地形の堅固さのために見張りが仕事を怠けていた時、数人のケルト兵が崖を登り始めた。彼らは見張りの目をかいくぐったが、そこにいたヘラの聖なるガチョウたちが登っていた者に気付いて鳴き声をあげた。見張りはその場へと急行し、ケルト兵たちは敢えてさらに進もうとはしなかった。高名な人物であったマルクス・マリウスはその地の防衛へと急行し、登った者の一人の手を剣で切り伏せ、盾で胸を打ち、転げ落とした。似たようにして二人目の登った者も死を迎え、残りの全員が敗走に転じた。しかしその崖は急だったために彼らは皆真っ逆様に落ちて死んだ。この結果、ローマ人が和平交渉のために使節団を送ると、ケルト軍は黄金一〇〇〇リトラ(79)の受領で市を去ってローマ領から撤退するよう説き伏せられた。
 今や家が完全に破壊されて市民の大部分が殺されたため、ローマ人は選んだ場所に家を建てたいと望む者にその許可を与え、屋根瓦を公費で提供したが、これらは今に至るまで「公費の瓦」として知られているものである。当然誰もが思い思いの場所に家を建てたため、その結果、市の街路は狭く曲がりくねったものになった。そのため後に人口が増えると街路を真っ直ぐに整えることができなくなった。また幾らかの人たちはローマの婦人たちは共通の安全のために黄金の装飾品を提供したために人々から褒美として戦車で市を乗り回す権利を受け取ったと述べている。
117 我々が記述したような悲運のためにローマ人が衰弱した状況にあった時、ウォルスキ人が彼らに戦争を仕掛けた。したがってローマの軍務官たちは兵を徴募し軍を出撃させ、ローマから二〇〇スタディオンの距離にあるいわゆるマルスの野に陣を張った。ウォルスキ軍が大兵力で彼らに対陣して野営地に攻撃をかけようとすると、ローマにいた市民たちは野営地の兵を案じてマルクス・フリウス〔・カミルス〕を独裁官に任命し…〔欠損〕…。軍務適齢期の男子は皆武装して夜の間に進軍した。夜明けに彼らは野営地に攻撃をかけようとしていたウォルスキ軍と接触し、背後に現れて易々と敗走させた。それから野営地の部隊が出撃すると、挟み撃ちにあったウォルスキ軍はほとんどが斬殺された。したがってこれ以前には有力だったこの人々はこの災難のために近隣諸部族ぬちで最弱の部族になった。
 戦いの後、今ではアエクイコリ族と呼ばれているアエクラニ族によってボラが包囲されているのを聞くと独裁官は兵を率いて向かって包囲軍のほとんどを殺した。ここから彼はローマの植民地であり、テュレニア人が力ずくで占拠していたストリウムの領地へと進軍した。彼はテュレニア軍に出し抜けに襲いかかってその多くを殺してストリウムの人々に市を返還した。
 ガリア人はローマからの帰路でローマ人の同盟市であったウェアスキウム市を包囲した。独裁官は彼らを攻撃してその過半数を殺戮し、彼らがローマで受け取った黄金と市を奪取した際の戦利品の実質全てを含めた彼らの荷物の全てを手中に収めた。これほど偉大な功績にもかかわらず、幕僚たちの一部の嫉妬のために凱旋式の挙行が阻止された。しかし彼はトゥスカナ人への勝利で四頭の白馬に曳かれた戦車で凱旋式を開催し、このために人々は二年後に多額の罰金刑を科したと述べる人たちもいる。しかし我々は適切な時期にこれに戻ることにしたい(80)。イアピュギア(81)へと向かっていたケルト軍はローマ人の領土へと戻ってきた。しかしすぐ後にケリイ人(82)が彼らに巧みな夜襲をかけてトラウシア平原で全滅させた。
 歴史家のカリステネスは彼の歴史書をこの年のギリシア人とペルシア人の王アルタクセルクセスの間での講和で始めた。彼の説明には一〇巻本で三〇年の年月が収まっており、歴史書の最後の巻をポキス人ピロメロスによるデルポイの神殿の占拠で終えた。しかし我々の場合、我々はギリシア人とアルタクセルクセスの講和とガリア人によるローマ人への脅威に至ったので、始めに申し出た通りここでこの巻を終えることにしたい。




(1)紀元前404/403年。実際のところこの年にはピュトドロスという名のアルコンがいたが、彼は合法的に選出されたわけではなかったため、アテナイ人はこの年を「某がアルコンだった年」という慣例通りの呼び方をしなかった(N)。
(2)紀元前407年。
(3)つまり「父祖の政体」の何たるか。
(4)被告に刑を下し、死刑の時には処刑を行う役目を持つ「十一人官」を指す(N)。
(5)「シュラクサイ人」の間違い(N)。
(6)シュラクサイを指す。
(7)ディオニュシオス自身の埋葬を指す。遠回しに死ねと言っている。
(8)上京するアルキビアデスの護衛。
(9)リウィウス(4. 58)ではウェルゴ。
(10)紀元前403/402年。
(11)紀元前406年。
(12)「大変入念に」のほうが尤もらしい(N)。
(13)その理由が書かれていないため、多分ここには欠落がある(N)。
(14)紀元前402/401年。
(15)紀元前405年。
(16)明らかに「シュラクサイ人」の間違い。
(17)紀元前401/400年。
(18)紀元前404年。
(19)キリキアとシリアの境界(N)。
(20)アリアイオスの間違い。
(21)自分の部署と対峙しているのが兄弟であるという事実。
(22)日の入から真夜中までの時間帯の後半。
(23)ティグリス川の支流で、現在のボタン川。
(24)このカッコ内は後世の補いらしい(N)。
(25)紀元前400/399年。
(26)紀元前403年。
(27)前者のプサンメティコスはエジプト第26王朝のサイス王朝の創設者プサンメティコス1世(紀元前664-610年)を指す(N)。後者は前者の子孫でエジプト第28王朝の唯一の王アミュルタイオス(在位:紀元前404-398年)。
(28)アドラノス神を指す(N)。アドラノスはシケロイ人から崇拝されていた神。
(29)紀元前399/398年。
(30)紀元前402年。
(31)重い矢玉を放つ装置はこれより数世紀前にアッシリアで知られており、おそらくカルタゴ人によって西方にもたらされ、西方のギリシア人は彼らからこれらについて学んだのであろう(N)。
(32)紀元前398/397年。
(33)紀元前401年。
(34)紀元前397/396年。
(35)紀元前400年。
(36)おそらくはイベリア半島。同地では13巻44章でハンニバル・マゴが兵を徴募していた(N)。
(37)ゲラとアクラガスは島の南岸で、ヒメラは北岸側。
(38)「狭い入り口ではディオニュシオスは自軍の数の大きな優位を活かせなかった」(N)。
(39)塔から同じ高さの家の上まで橋を渡したことを指す(N)。
(40)紀元前396/395年。
(41)紀元前399年。
(42)メッセニア軍。
(43)ここは前章でディオニュシオスが着陣したタウロスとは別の場所(N)。
(44)しかしこの説明に相当する箇所はない。
(45)大港湾の入り口の南側を成す岬(N)。
(46)ベロッホはこの人物を紀元前397年のスパルタの海軍司令官パラクスだと考えている(N)。
(47)ディオニュシオス自身。
(48)10章で「アリストス」とある人物(N)。
(49)カルタゴ市。
(50)ロクリス人が建設したブルッティイの都市の住民(N)。
(51)「クセノポン, 『ギリシア史』3. 4. 20からも明白なように、これは明らかに彼が戦争の遂行に際して幹部として使うための幕僚団である」(N)。
(52)紀元前395/394年。
(53)紀元前398年。
(54)紀元前394/393年。
(55)紀元前397年。
(56)コリントス湾におけるコリントスの外港で、長城によってコリントスとつながっていた(N)。
(57)紀元前393/392年。
(58)紀元前396年。
(59)ルカニア人。
(60)コリントス。
(61)紀元前392/391年。
(62)紀元前395年。
(63)紀元前391/390年。
(64)紀元前394年。
(65)スパルタ軍の単位。時代によって変わるが定員は400から900。
(66)紀元前390/389年。
(67)紀元前393年。
(68)紀元前389/388年。
(69)紀元前392年。
(70)現代のスティラロ川。イタリア半島につま先の南岸から海へと注ぎ込む。
(71)日出からの日中を12等分した中の8時目。およそ午後2時前後。
(72)紀元前388/387年。
(73)紀元前392年。
(74)紀元前387/386年。
(75)紀元前391年。
(76)クイントゥス・ファビウス・アンブストゥス。
(77)前出のケルト人を指す。
(78)紀元前390年のアッリアの戦い。
(79)1リトラはおよそ328.9gなので1000リトラは328.9kgになる。
(80)この約束は果たされていない(N)。
(81)アプリア地方の別称。
(82)エトルリアのカエレ市の人。




戻る