12巻→ディオドロス『歴史叢書』13巻→14巻

シケリア遠征
1 もし我々が他の歴史家たちのしたように歴史を編むならば、蓋し我々はそれぞれの巻の導入部分においてしかるべき長さで〔当該巻で述べられる〕主題について論じ、これによって我々の議論をそれ以下の出来事へと転じるべきであろう。確実なことであるが、もし我々の著書のために歴史の短い期間を取り上げるとするならば、我々はそのような導入が産する果実を楽しむために時間を使うべきである。しかし我々は力の及ぶ限りにおいて僅かな巻数で出来事を扱うだけでなく、〔その中に〕一一〇〇年以上の年月を収めることとなるため、序文のつもりのこの文章だけで、その導入が関わり、出来事それ自体へと続くところの長々とした議論をすることになるに違いない。つまりその出来事とは先立つ六巻において我々はトロイア戦争からアテナイ人がシュラクサイ人に対して人民の宣言によって発令した戦争までの出来事であり、これらの記録を行ったわけであるが、トロイアの占領からこの戦争までの期間は七六八年にもなる(1)。そしてこの巻では我々はその次の時代の話を付け加え、シケリア遠征から始めてカルタゴ人とシュラクサイの僭主ディオニュシオスとの二度目の戦争の始まりで締めくくることであろう。
2 アテナイでカブリアスがアルコンだった時(2)、ローマ人は三人の軍務官、ルキウス・セルギウス、マルクス・パピリウス、そしてマルクス・セルウィリウスを執政官の代わりに据えた(3)。この年にアテナイ人はシュラクサイ人との戦争決議に従って船を準備して資金を集め、そして遠征のあらゆる準備を非常に熱心に行った。彼らは三人の将軍、アルキビアデス、ニキアス、そしてラマコスを選出し、彼らに戦争に関する全ての事柄における全権を与えた。財産を持った市民は民衆の熱狂に自らも身を委ね、ある場合では自費で三段櫂船を設えて他の場合では軍の維持のための資金を寄付した。そして多くの人、市民と民主制を支持していたアテナイ在住の外国人だけでなく、同盟国からも自発的に将軍たちの許に行き、兵士にしてくれるよう求めた。そのような感じで彼らは皆すぐにでもシケリアの地を分配できるという期待に胸膨らませたのである。
 そして遠征軍が既に完全に準備を済ませた頃、一晩で市内のあらゆる場所に立っていたヘルメス像が破壊されるという事件が起こった。そこで人々はこれをしたのは並大抵の人物ではなく、民主制の転覆を目論んでいる高名な人物だと信じ、その冒涜行為に激怒して情報の提供者には多額の褒賞を与えるとして犯人を捜した。そしてある私人が評議会の前に現れてある者たちが新月の最初の日の真夜中に外国人の家に入り、その一人はアルキビアデスだったと述べた。評議会によって詰問されて夜の様子をどのようにして確認できたのか問われると、彼は月明かりで彼らを見たのだと答えた。次いでその男は偽証罪を宣言されたのであるが、彼の話には信憑性がなく、他の調査官たちはその男の話からはその行いのきっかけを一つも見つけることができないとした。
 一四〇隻の三段櫂船が装備を施され、馬、糧秣そして他の全ての装備を運ぶ船はかなりの数であった。そして重装歩兵と投石兵と騎兵もおり、それらに加えて乗組員は含まなければ同盟国からの七〇〇〇人以上の兵士がいた。この時に将軍たちは評議会との密議でもし島の支配権を得た場合にシケリア問題をどう処理すべきか議論した。そしてセリヌス人とシュラクサイ人を奴隷にすることで同意が成ったが、他の人々は各々でアテナイ人に年毎に貢物を納めさせるだけでよいとした。
3 翌日、将軍たちは兵士と共にペイライエウスに向かい、全市民と外国人がこぞって彼らに同行して親戚と友人の幸運を祈った。三段櫂船は港全域に停泊しており、船首を記章と鎧の輝きで飾られていた。港の全外周は吊り香炉と銀の混ぜ鉢で満たされ、人々は神酒を黄金の杯に注ぎ、神々への尊崇を示して今しがたペイライエウスを発った遠征軍の大成功を祈願した。艦隊はペロポネソス半島を周航してコルキュラに向かい、その地方からの同盟軍を追加するために待機する命令を受けた。そして同盟軍が終結すると、イオニア海峡を通ってイアピュギアの頂に上陸し、そこから彼らはイタリア沿岸を周航した。彼らはタラス人からは受け入れられず、メタポンティオン人とヘラクレイア人のところを通過した。しかしトゥリオイに着くと慇懃に扱われた。艦隊はそこからクロトンへと航行し、そこの住民から市場を提供され、ヘラ・ラキニアの神殿を通過してディオスクリアスとして知られる岬を回った。この後艦隊はスキュレティオンとロクリスを通過し、レギオンの近くに投錨してレギオン人を同盟者にしようと説得した。しかしレギオン人はイタリアの他のギリシア諸都市と協議すると応答した。
4 アテナイの兵力が〔メッセネ〕海峡にあると聞き知ると、シュラクサイ人は大軍を与えてヘルモクラテス、シカノス、そしてヘラクレイデスの三人を将軍に任命し、シケリアの諸都市に共通の自由のために力を合わせるよう説くために使節を送った。彼らはアテナイ人について、アテナイ人はシュラクサイ人への戦争を始めつつ、実際は島の全域を服従させる意図を持っていると指摘した。さて今やアクラガス人とナクソス人はアテナイ人と同盟を結ぶことを宣言しており、カマリナ人とメッセネ人は平和の維持を保証して他方で同盟の要求への返事を延期した。しかしヒメラ人、セリヌス人、ゲラ人、そしてカタネ人はシュラクサイ人の側で戦うことを約束した。シケロイ人の諸都市はシュラクサイ人への好意へと傾きつつも、中立を維持して様子見を決め込んでいた。
 エゲスタ人が三〇タラントン以上の額(4)を差し出すのを拒否した後、アテナイの将軍たちは彼らに抗議し、レギオンから軍と共に出航してシケリアのナクソスに航行した。彼らはその都市の住民に友好的に受け入れられてそこからカタネへと航行した。カタネ人は兵士を都市の中に受け入れなかったが、将軍たちには市内への立ち入りを許して民会を召集し、アテナイの将軍たちは同盟の提案を行った。しかしアルキビアデスが議会で演説していた間、幾人かの兵士が裏門を押し開けて市内に突入してきた。カタネ人がシュラクサイ人に対する戦争に参加させられたのはこれが原因である。
5 それらの出来事が起こっていた間、アテナイではアルキビアデスを私怨のために嫌っていた人たちは像の破壊を受けて民会を前にして演説を行い、民主制への陰謀を企んだとして彼を告訴した。彼らの告訴はアルゴス人の間で同時に起こった事件からして尤もらしく見えた。アルゴスの町にいた彼の個人的な友人たちはアルゴスでの民主制の転覆に賛同していたが、市民によって全員処刑された。かくして人々は告発内容を信じてデマゴーグたちによって掻き立てられたその感情を深くし、アルキビアデスを速やかに帰国させて裁判を受けさせるよう命じてサラミニア船(5)をシケリアへと派遣した。その船がカタネに到着し、アルキビアデスは使者から人々の決定を知ると、彼と一緒に告発されていた他の者たちを自身の三段櫂船に乗せてサラミニア船と共に出航した。しかしトゥリオイに到着するとアルキビアデスは〔アテナイで起こった〕涜神行為を知らされて自らを脅かす危険を感じたために告訴された他の人たちと共に逃亡した。サラミニア船で来た使者たちは最初アルキビアデスを追跡したが、彼を見つけることができずにアテナイへと戻って事の次第を人々に報告した。かくしてアテナイ人はアルキビアデスと他の脱走者の名を正義の法廷に出すことなく死罪を宣告した。そしてアルキビアデスはイタリアからペロポネソス半島へと渡り、そこでスパルタに避難してラケダイモン人にアテナイ人への攻撃を煽り立てた。
6 シケリアにいた将軍たちはアテナイ軍を率いてエゲスタへと向かってシケロイ人の小さな町ヒュッカラを占領し、獲得した戦利品は一〇〇タラントンに上った。そしてエゲスタ人から追加で三〇タラントンを受け取った後、彼らはカタネへと船旅を続けて危険を犯すことなく同地を奪取しようと望んだ。彼らはシュラクサイ人の大港湾〔オリュンピエイオンの近く〕に陣取り、彼らに忠実であると同時にシュラクサイの将軍から信任されてもいたカタネ人の一兵士を送り、シュラクサイの指揮官たちにカタネ人の一隊が団結してアテナイ人の大部隊に気付かれることなく襲撃する準備をしており、そのカタネ兵たちはアテナイ軍が兵舎を離れて市内へと入っているうちにそれを実行に移し、港内の船に火を放つつもりであると言うよう指示を与えた。そして彼は将軍たちにこれを成功させるために自ら部隊と共にその場所に行くよう求め、そうすれば計画が失敗することはないとした。そのカタネ人がシュラクサイの指揮官たちの許へと向って我々が既に述べたことを話すと、将軍たちは彼の話を信じて兵を率いて向うのを夜に決めてカタネへとその男を送り返した。
 今や指定された夜となり、シュラクサイ軍はカタネへと軍を進め、他方アテナイ軍はシュラクサイ人の大港へと静かに航行し、オリュンピエイオンだけでなくその全域を奪取して陣を張った。しかしながらシュラクサイの将軍たちは騙されたことを知るやすばやく取って返してアテナイの陣営を襲撃した。敵が向ってくると戦いが起こり、アテナイ人は敵兵四〇〇人を殺してシュラクサイ軍を敗走させた。しかしアテナイの将軍たちは敵が騎兵戦力において優勢であることを見て取って市の包囲のために装備を改良しようと望み、カタネへと戻った。そして彼らはアテナイへと人を遣って人々に騎兵と資金を送ってくれるよう頼む手紙を書いた。包囲が長引くであろうと信じたアテナイ人は三〇〇タラントンと騎兵の増援をシケリアに送ることを決議した。
 それらの出来事が起こっていた一方で、「無神論者」とあだ名されていたディアゴラスが〔アテナイで〕不敬の廉で告訴され、彼は人々を恐れてアッティカから逃亡した。そしてアテナイ人はディアゴラスを殺した者には一タラントンの銀を褒美として与えると発表した。
 イタリアではローマ人がアエクィ人との戦争に突入し、包囲によってラビキを落とした(6)
 以上がこの年の出来事である。

休戦の破棄とデケレイア戦争の開始
7 ティサンドロスがアテナイでアルコンだった時(7)、ローマ人は執政官の代わりに四人の軍務官、プブリウス・ルクレティウス、ガイウス・セルウィリウス、アグリッパ・メネニウス、そしてスプリウス・ウェトゥリウスを選んだ(8)。この年にシュラクサイ人はコリントスとラケダイモンの両方に使節を送り、それらの都市に救援に来るよう、完全な破滅がシュラクサイ人を脅かしている時にこれを座視せぬよう説いた。アルキビアデスが彼らの要求を支持したためにラケダイモン人はシュラクサイ人に救援を送り、ギュリッポスを将軍として送ることを票決し、コリントス人は送り出す多数の三段櫂船の準備をしたが、当座はギュリッポスに同行する二隻の三段櫂船と共にピュテスをシケリアに先に送った。そしてカタネでアテナイの将軍、ニキアスとラマコスは二五〇騎の騎兵と三〇〇タラントンの銀がアテナイから来た後に軍を動かしてシュラクサイへと航行した。彼らは夜に市に到着してシュラクサイ人に気付かれずにエピポライを占領した。これを知るとシュラクサイ人はすぐさま防衛に向かったが、三〇〇人の兵士を失って市内へと追い立てられた。この後、エゲスタから騎兵三〇〇騎、シケロイから二五〇騎のアテナイ軍に到着し、彼らは全部で八〇〇騎の騎兵を集結させた。次いでアテナイ軍はラブダロンに砦を築き、シュラクサイ人の都市の周りに壁を建設して民衆を大いに恐れさせた。したがってシュラクサイ人は市から出撃して壁の建設を妨害しようとした。しかし、騎兵戦が起こってそれで敗れ、敗走を強いられた。今や部隊の一部でアテナイ軍は港の上流にある地域を奪取し、ポリクネを防備することでゼウスの神殿を取り囲んだだけでなく双方からシュラクサイを包囲しもした。かような敗北がシュラクサイ人の身に降りかかったため、都市の住民たちは意気阻喪した。しかしギュリッポスがヒメラに入って兵士を集めていることを知ると元気を取り戻した。ギュリッポスは四隻の三段櫂船と共にヒメラに入ると海岸に船を曳き、ヒメラ人にシュラクサイ人と同盟を結ぶよう説得し、彼らとゲラ人、同様にセリヌス人とシカノス人から兵士を集めた。全部で三〇〇〇人の歩兵と三〇〇騎の騎兵を集めた後、彼はシュラクサイへ向けて内陸を進んで彼らを率いていった。
8 数日後にギュリッポスはシュラクサイ軍と共に彼の兵士をアテナイ軍へと率いていった。激しい戦いが起こってアテナイの将軍ラマコスが戦死した。そして双方多くの者が殺されたにもかかわらず、勝利はアテナイ軍のものになった。戦いの後に一六隻の三段櫂船がコリントスから到着し、ギュリッポスは船の乗組員を上げた後に彼らとシュラクサイ軍と共に敵の陣営を攻撃してエピポライを強襲しようとした。やってきたアテナイ軍は戦いに移り、多くのアテナイ軍を殺した後にシュラクサイ軍が勝利し、エピポライ一帯の壁を破壊した。ここでアテナイ軍はエピポライ一帯を放棄して他の陣営へと全軍を引かせた。
 それらの出来事の後にシュラクサイ人はコリントスとラケダイモンに助けを求める使節を派遣した。そしてコリントス人はボイオティア人とシキュオン人と共に一〇〇〇人を、スパルタ人は六〇〇人を彼らの許に送った。そしてギュリッポスはシケリアの諸都市を回って多くの人々を同盟に加わるよう説得し、ヒメラ人とシカノス人から三〇〇〇人以上の兵士を集めた後、彼らを島の内陸を通って率いていった。その部隊が近くにいるのを知ると、アテナイ軍は攻撃を仕掛けて半数を殺した。しかし、生き残りはシュラクサイ軍の許に無事到着した。
 同盟軍の到着でシュラクサイ軍は海戦にも踏み切ろうとし、既に持っていた分と追加分を揃えて船を水上に降ろし、小さい港で実験した。そしてアテナイの将軍ニキアスは多数の同盟軍が今やシュラクサイ軍と共にあり、彼らは少なからぬ数の船団を備え、海戦を挑むことを決めたということを知ったとアテナイへと手紙を送った。したがって彼は即座に三段櫂船と資金を、そしてアルキビアデスの逃走とラマコスの死によって彼が残された唯一の将軍になっており、自分は体調が良くないと説明し、戦争遂行において彼を補佐する将軍を送るよう頼んだ。冬至の時にアテナイ人はシケリアに将軍エウリュメドンと共に一〇隻の船と一四〇タラントンの銀を送った。一方で彼らは大艦隊を春に送る準備に励んだ。したがって彼らはどの同盟国からも金を集めると同時に兵士を入隊させた。
 ペロポネソスではラケダイモン人がアルキビアデスに煽られてアテナイとの休戦を破棄し、一二年間続いた戦争が起こった(9)
9 この年の終わりにはクレオクリトスがアテナイ人のアルコンであり(10)、ローマでは四人の軍務官、アウルス・センプロニウス、マルクス・パピリウス、クィントゥス・ファビウス、そしてスプリウス・ナウティウスが執政官の地位にいた(11)。この年にラケダイモン軍は同盟軍と共にアギスとアテナイ人アルキビアデス指揮の下にアッティカに侵攻した。デケレイアの要塞を奪取してそれを彼らはアッティカ攻撃の基地とし、結局のところこれがこの戦争がデケレイア戦争と呼ばれるようになった理由であった。アテナイ人は三〇隻の三段櫂船をカリクレスを将軍としてラコニアへと派遣して八〇隻の三段櫂船と五〇〇〇人の重装歩兵をシケリアへと送ることを票決した。そしてシュラクサイ人は海での戦いに参加することを決め、八〇隻の三段櫂船を用意して敵へと航行した。アテナイ軍は彼らに対して六〇隻の船を差し向け、戦いががたけなわの時に砦の全アテナイ軍が海に下りてきた。一部は戦いを見ようと望み、その一方で他の者は海戦で負けた場合に逃げる者を助けることができるだろうと思っていた。しかし実際に事の次第を見通したシュラクサイの将軍たちは金と海軍の必要物資と他のあらゆる種類の装置でいっぱいだったアテナイ軍の要塞に向けて都市の部隊を派遣し、それらを奪取して海から守備のためにやって来た多くの者を殺した。砦と陣営で大混乱が起こったため、海戦で戦っていたアテナイ軍は狼狽して反転し、砦を保持している最後の場所へと逃げた。シュラクサイ軍は彼らを無秩序に追撃したが、シュラクサイ軍が二つの砦を制圧していたためにアテナイ軍は陸で無事ではいられないと見ると、反転せざるを得なくなって海戦を続行した。そしてシュラクサイ軍が戦列を乱して追撃でばらばらになったため、アテナイ軍は船で一丸となって攻撃し、一一隻の三段櫂船を沈めて残りを〔オルテュギア〕島まで追撃した。戦いが終わると、アテナイ軍は海戦のために、シュラクサイ軍は陸での勝利のために、双方共に戦勝記念碑を立てた。
10 上述のように海戦が終わった後、アテナイ軍はデモステネス指揮下の艦隊が数日のうちにやってくることを知り、その軍が合流しないうちはこれ以上の危険を冒すまいと決めたが、一方でシュラクサイ軍は逆にデモステネスとその軍が到着する前に決着をつけようと思い、毎日アテナイ船へと出航しては戦い続けた。舵手のアリストンなるコリントス人が船の船首をより短く低くするよう忠告すると、シュラクサイ人は以下のような戦いにおける大きな利点のために彼の忠告に従った。アッティカの三段櫂船はより脆弱で高い船首で建造されており、そのためにぶつかると船体の水の上に広がっている部分だけが損傷を受け、その結果として敵の受ける損傷はより小さくなる。一方シュラクサイ人の船は船首を強く低く建造されており、しばしばぶつかって衝撃を受けても、アテナイの三段櫂船が一方的に衝撃を受けて沈むことになる。
 翌日にシュラクサイ軍は敵の陣営へと陸と海の両方から攻撃を仕掛けたが、アテナイ軍が動かなかったために効果はなかった。しかし三段櫂船の数人の船長がシュラクサイ人からの軽蔑にこれ以上耐え切れなくなって大港の敵に向けて出撃した。全ての三段櫂船が加わって海戦が始まった。アテナイ軍は高速の三段櫂船を有し、乗組員の技量と同様に海での長年の経験からの優位を持っていたにもかかわらず、狭い海域での海戦だったためにそれらの点での優位を活かせなかった。そしてシュラクサイ軍は肉迫して戦って〔アテナイ軍が船首を〕ぶつけるために回転する暇を与えず、甲板の兵士に槍を投げるだけでなく、石を投げつけて船首を離れさせ、そして多くの場合、単に彼らを乗せる船をぶつけ、次いで敵船に乗り込んで船の甲板で陸戦を行った。アテナイ軍はあらゆる方向から押されて敗走に転じた。そしてシュラクサイ軍は追撃を行い、七隻の三段櫂船を沈めただけでなく多数を使用不能にした。
11 敵に対する陸海での勝利のためにシュラクサイ人の心は希望で高ぶっていた時、アテナイから大軍と共に航行してきて、その途上でトゥリオイ人とメッサピア人からの同盟軍と合流したエウリュメドンとデモステネスが到着した。彼らは八〇隻以上の三段櫂船と、乗組員を除いて五〇〇〇人以上の兵士を連れてきた。そしてまた彼らは商船で武器と資金、攻城兵器と他に必要なあらゆる物資を運んできた。その結果、シュラクサイ人は今や敵と互角にやり合う術を易々と見つけ出せないだろうと信じたために、再び希望を失った。
 デモステネスは同僚の指揮官たちにエピポライ攻撃を説得した。というのも市を壁で封じ込めるために他にとるべき道はなかったからだ。重装歩兵一〇〇〇〇人とそれよりも多い軽装歩兵を率いて彼は夜にシュラクサイ軍を攻撃した。攻撃は予期せぬものだったために彼らはいくつかの堡塁を抜き、エピポライの砦を落とし、防壁の一部を打ち壊した。しかしシュラクサイ人はあらゆる場所からその現場へと向かい、ヘルモクラテスもまた選り抜きの部隊を引き連れて助けに来たのでアテナイ人は撃退され、その地域の地理に不慣れだったために彼らは散り散りになり、夜になった。シュラクサイ人とその同盟軍は彼らを追撃して敵兵二五〇〇人を殺して少なからぬ負傷者を出させ、多くの鎧を鹵獲した。戦いの後にシュラクサイ人は同盟国に勝利を報告しつつ救援を求めるために一二隻の三段櫂船と共に他の諸都市へと将軍の一人シカノスを送った。

アテナイ軍の敗北と降伏
12 状況が悪化し、辺りを囲む地方はじめじめしていたおかげで伝染病が野営地を襲ったため、アテナイ軍はこの状況にどう対処すべきか話し合った。デモステネスは速やかにアテナイに戻るべきだと考え、シケリアに留まって無為に過ごすよりは母国の防衛においてラケダイモン人に対して彼らの命を危険に晒すべきだと述べた。しかしニキアスは彼らは不面目に包囲を諦めるべきではないし、彼らには三段櫂船、兵士、そして資金が良く供給されていると述べた。さらに彼は、もし彼らがアテナイの民衆の承認なくシュラクサイ人と講和して国に戻るならば、将軍たちにあべこべに責任を被せる者たちによって彼らは危険に晒されるだろうと付け加えた。話し合いの参加者たちのうち一部は海へと向かうことについてデモステネスの言うことに賛同したが、他はニキアスと意見を同じくした。〔その結果無為に〕アテナイ人は態度をはっきりせずに行動を起こさなかった。そしてシケロイ人、セリヌス人、そしてゲラ人、ヒメラ人とカマリナ人からもシュラクサイ人へと救援が着てシュラクサイ人は元気付けられたが、アテナイ軍は不安に襲われた。また、感染がかなり拡大して多くの兵士が死にだし、皆が長びかないうちに戻らなかったことを後悔した。したがって群集はわめき叫び、他の全員は船へと向かおうとしたためにニキアスは帰国する他あるまいと見て取った。将軍たちがこれに賛同すると、兵士たちは備品を集め始めて三段櫂船に積み込み、桁端をかけた。そして〔全員が乗り終えると〕将軍たちは、最後まで残っていた者による合図で野営地に残されている兵士はいないと公表した。しかし彼、らが次の日に出航しようとすると、その前日の夜に月が食を起こした(12)。したがって元々迷信深いほどに敬虔な者であっただけでなく、野営地での病の蔓延のために用心深くなっていたニキアスは予言者たちを呼んだ。彼らが出発は慣習通り三日間延期すべきだと述べると、デモステネスおよびその他は神への尊重の念からこれに従わざるを得なかった。
13 シュラクサイ人は数名の脱走兵からなぜ出発が延期されたのかを知ると、全三段櫂船、七四隻に兵士を乗せ、大軍で陸海の敵を攻撃した。アテナイ人は八六隻の三段櫂船に人員を乗り込ませ、シュラクサイ人の将軍が陣取る部署に対陣する右翼の指揮を執る将軍にエウリュメドンを任命した。〔アテナイ軍の将軍〕アガタルコスは、エウリュメドンの他の翼に陣取ってシュラクサイ軍を指揮するシカノスと対峙した。そして中央の戦列ではアテナイ軍を率いるメナンドロスに対してコリントス人のピュテスがシュラクサイ軍を率いた。アテナイの戦列は三段櫂船の数の優位のためにより長かったが、彼らが優位に働くだろうと考えたまさにその要因は少しも効果を示さなかった。エウリュメドンは対峙する翼を包囲しようとした。しかし彼が彼の戦列から突出した時、シュラクサイ人は彼の方に方向転換してそれを切り離し、シュラクサイ軍の保持していたダスコンと呼ばれた入り江に入らしめた。彼らは狭い場所に入ったために孤立無援になって彼は浅瀬に乗り上げてしまい、そこでシュラクサイ兵士たちが彼に致命傷を与えて彼は命を落とし、七隻の彼の艦船がこの場所で破壊された。そして戦いは両艦隊の方々に広がり、将軍が殺されていくつかの船が失われたという知らせが広がると、最初は破壊された船に最も近い所にいた船が引いただけだったが、その後、得た成功のためにシュラクサイ軍は勇躍して果敢に戦いを押し進め、アテナイの全軍は圧倒されて敗走する羽目になった。そして追撃は港の浅い部分へと達したため、かなりの三段櫂船が浅瀬で座礁した。シュラクサイの将軍はいの一番に商船を薪と松の木と松脂で満たし、浅瀬で揺れていたそれらの船に火を放った。しかし火を放たれたにもかかわらず、アテナイ軍は速やかに消火したのみならず、思いついた安全を確保する他のあらゆる手段も施し、また乗り込んできた兵士を船から精力的に撃退した。そして陸上部隊は彼らを助けようと船が浅瀬に乗り上げている海岸へと向った。彼らが完全と攻撃を食い止めたために陸上のシュラクサイ軍は撃退されたが、海では彼らは決定的な勝利を収めて市へと帰航した。シュラクサイ人の損害は軽微だったが、アテナイ人の損害は兵士二〇〇〇人と三段櫂船一八隻を下らなかった。
14 シュラクサイ軍は市から最早危険は去り、戦いは敵との陣営の鹵獲如何の話になったと信じ、防壁を築いて港への入り口を封鎖した。彼らは小さい船舶と三段櫂船を商船と同じように停泊させ、それらの間に鉄鎖をかけて船に板橋をかける作業を三日間で完成させた。アテナイ軍はあらゆる方面からの救出の希望が絶たれたことを見て取ると、全ての三段櫂船に最良の陸軍を乗り込ませることを決め、したがって多くの船と自身の生命のために戦う死にもの狂いの兵士によってシュラクサイ軍を恐れさせた。かくして彼らは将官と全軍の中の選り抜きの部隊を甲板の上に乗せて一一五隻の三段櫂船に乗り込み、他の兵士は陸に沿岸沿いに配置した。シュラクサイ軍は市から歩兵と乗組員を乗り込ませた七四隻の三段櫂船を出撃させた。そしてその三段櫂船には成年に達してておらず、父の傍らで戦う自由民の少年が乗り込んだ小船が伴っていた。そして港の周りの城壁と市内のあらゆる高地には人々が詰めかけており、戦争の全体が決着へと向っていたために妻子と年齢のために戦争に参加できなかった者皆が大いに苦悩しながら観戦していた。
15 この時アテナイの将軍ニキアスは船団を眺めて戦いの大きさを見積もり、陸に自らが陣取ることはせずに陸軍を〔陸に〕残して彼自身は船に乗り込み、アテナイの三段櫂船に戦列を組ませた。それぞれの船長の名前を呼んで彼らへと手を伸ばすと、我らは今やかつてない状態にあり、戦いに臨まんとする者たちの勇気に彼ら皆と祖国の存続がかかっており、残されたたった一つの希望を掴み取るよう彼ら全員に懇願した。子供を持つ父に彼は息子たちのことを思い出させ、優れた父を持つ息子たちには父祖の勇敢な行いに恥じぬよう勧め、同胞市民から栄誉を与えられていた者には彼らが自身の冠に相応しいことを示すよう説いた。そして全員にサラミスに立てられた戦勝塚を思い出させ、父祖の土地のかくも名高い栄誉を辱めず、シュラクサイ人に奴隷同然に投降せぬよう求めた。
 この結語を述べた後、ニキアスは基地に戻り、そして艦隊の兵士はパイアーンを歌いながら前進して敵に防がれる前に船の壁を突破した。しかしシュラクサイ軍は素早く海へと出航して三段櫂船を戦闘隊形に組ませ、敵に船の壁からの後退を強いて激しい戦いを演じた。そして船が水上でひっくり返ると、ある者は浜へと、他の者は港の真ん中、そしてそのまた他の者は城壁の方へと向かった。全ての三段櫂船はすぐに互いに離れ離れになり、港の入り口と交差する〔帆の〕下桁を離した後、港は戦闘中の小船団で覆われた。その結果双方が勝利のために無我夢中で戦った。アテナイ軍は喚声を上げ、多くの船に安全の他の希望はないと見て取ると、果敢に戦って勇敢に戦死し、そしてシュラクサイ軍は両親と子供が観戦していたために互いに競い合い、双方の兵士は自らの働きによって自身の国に勝利をもたらさんとしていた。
16 したがって多くの者が敵船の船首に飛び乗り、他の船によって自分の船が損傷すると敵中に孤立した。いくつかの場合において彼らは鉄の固定具を落として船上で陸戦を戦うよう敵に強いた。しばしば自身の船が破壊された兵士は敵船に飛び乗ってそれを守る軍を殺すなり海に突き落とすなりしてその三段櫂船の主となった。要するに、港の全域が船がぶつかる凄まじい音と、必死に戦っては殺し殺される兵士の叫び声に覆われたのである。一隻の船が数隻の三段櫂船に捕まってあらゆる方向から衝角で攻撃を受けると、浸水して全ての乗組員もろとも海に飲み込まれた。船が沈められて泳いでいるところを弓で射殺されたり投槍を投げられて殺されたりした者もいた。乗組員たちは戦いの混乱、いたる所がしっちゃかめっちゃかになっている様、そしてしばしばたくさんの船が一隻の船を集中攻撃しているのを見ると、同じ命令はあらゆる状況に対して適切でも実行可能でもなく、漕ぎ手が命令者に目を向けるにしても多くの投擲兵器のために、信号が発せられたのかも分からなかった。すぐに一人の男が粉々になった船と流れてゆく櫂、戦場で戦っている兵士と熱狂した陸の友軍の騒動〔の音〕の中から指揮の声を聞くことができた。海岸のある区画にはアテナイ歩兵に、またある区画にはシュラクサイ軍が陣取っており、海戦が戦われていた時に〔陸軍の〕兵士は援軍として沿岸沿いに戦列を組んだ。城壁の上の観戦者たちは闘士たちが勝っているのを見るたびに勝利の歌を歌ったが、負かされているのを見ると、呻き声を上げ、涙を流し神々に祈った。その瞬間、数隻のシュラクサイの三段櫂船が城壁の縁で破壊されて乗組員は親類の目の前で殺され、親たちは子供の死を、姉妹と妻たちは夫と兄弟の哀れな最後を目の当たりにした。
17 長らく多くの兵士が瀕死状態にあったにもかかわらず戦いは終わらず、絶体絶命の状況にあった者さえも陸へと敢えて逃げるということはなかった。アテナイ軍は戦いをやめて陸に戻ろうとする者に問うた。「陸からアテナイへと行こうというのか?」そして〔陸にいた〕シュラクサイの歩兵は船を彼らの方へと向わせようとする者に問うた。「我らが三段櫂船に乗って行きたいと思っている時にお前たちが今祖国を裏切るというのならば、なぜ、お前たちは我らの戦いの邪魔をしようというのか?」「港の入り口を封鎖するどんな理由がお前たちにあるというのか? 敵が出て行くのを防いだ後にお前たちは浜へと逃げようとでもいうのか?」「全ての兵士が死すべき者であり、お前たちの求めているより良い死は、お前たちの戦いぶりの証人であるにもかかわらず、おまえたちが不名誉にも見捨てつつある祖国のために死ぬことだ!」陸の兵士たちが近くにいた船員にこのような叱咤の声を上げると、船は粉砕されて自身は傷で消耗していたにもかかわらず、浜に逃げ込もうとしていた逃亡兵は再び引き返した。しかし市の近くで戦っていたアテナイ軍が押されて敗走を始めると、戦列の隣のアテナイ船は時折退却し、徐々に全員が敗走した。その上シュラクサイ船は大声を上げながら船を陸へと追撃した。そして海で殺されなかったアテナイ軍は浅瀬へと向かって船から飛び降り、陸軍の許へと逃げた。そして港は武器と難破船で溢れ、アッティカ船六〇隻が失われてシュラクサイ船八隻が完全に破壊され、一六隻が大きな損傷を受けた。シュラクサイ軍は多くの三段櫂船をできる限り浜へと曳いていき、市民の遺体と戦死した同盟軍を回収し、国葬にして栄誉を示した。
18 アテナイ兵は将軍たちの天幕に殺到して船ではなく自分たちの安全について考えてくれるよう将軍たちに懇願した。したがってデモステネスは〔敵の〕船の壁が破られたのですぐにさっそく三段櫂船に人員を乗り込ませるべきであると言い、もし彼らが予期せぬ攻撃を仕掛ければ、簡単に計画を成功させることができるという所見を述べた(13)。しかしニキアスは船を後に残して内陸を通り、同盟を結んでいた諸都市へと撤退するよう勧めた。この計画は皆に支持され、彼らは船の一部を焼き払って撤退の準備をした。
 アテナイ軍が夜間撤退することが明らかになると、ヘルモクラテスはシュラクサイ人に全軍で夜間に出撃して先手を打って全ての道を占拠するよう勧めた。将軍たちはそれに賛同せず、彼はシュラクサイ軍は前もって道と最も重要な地点を占拠するために兵を既に送っていると伝えるためにアテナイ軍の野営地へと数騎の騎兵を送った。騎兵たちが命令を実行した時には既に夜になっており、アテナイ軍はそれは友好的だったレオンティノイが伝令に送った兵士だと信じ、何も心配せずに出発を延期した。もし彼らがこの策略に騙されていなければ、彼らは安全に去っていたことであろう。シュラクサイ人は夜明けに前もって隘路を占拠しておくために兵士を送った。アテナイの将軍たちは兵を二隊に分け、荷駄獣と病人と負傷者を中央に置き、戦える状態の者を前衛と後衛に配置してカタネへと出発し、デモステネスが一隊を、他方をニキアスが指揮した。
19 シュラクサイ軍は遺棄された〔アテナイ軍の〕五〇隻の船を曳いて市へと運び、次いで三段櫂船の乗組員を下ろして武器を与え、全軍でアテナイ軍の後ろに追いすがって前進を妨害した。三日間後衛に追いすがってあらゆる方向からそれを囲み、彼らは同盟国のカタネへと向うのを邪魔した。〔カタネに向かう〕代わりにアテナイ軍はエロリオンの平野を通って引き返さざるを得なくなってアイナロス川近くで包囲され、一八〇〇〇人が殺されて七〇〇〇人が捕虜になり、その中にはデモステネスとニキアスも含まれていた。残りの者は兵士によって略奪の過程で捕らえられた。アテナイ軍は逃走路があらゆる方向で塞がれていたため、武器と身柄を敵に委ねざるを得なくなった。このことが起こった後、シュラクサイ人は二つの戦勝記念碑を立ててそのそれぞれに一人の将軍の武器を据え、市へと戻った。
 その時シュラクサイ市全体が神々に犠牲を捧げた。翌日には民会を召集し、捕虜の処遇について検討した。最も傑出した民衆の指導者であったディオクレスなる男はアテナイの将軍たちは拷問を加えた上で処刑し、他の捕虜は全員採石場に投げ込むきであるが、しかし後にアテナイの同盟軍は戦利品として売り払い、アテナイ人は監視をつけて捕虜として働かせ、二コテュレの大麦を食事として与えるべきだという意見を表明した。この動議が読み上げられると、ヘルモクラテスが立ち上がって演説を始め、中庸を以って勝利を扱うことが勝利よりも公正なことであると示した。しかし人々は反対の声を上げて彼が話し続けるのを遮り、戦争において二人の息子を失ったニコラオスなる男が高齢のために奴隷に支えられながら演壇に進み出た。彼を見ると、彼が捕虜を弾劾するのだと信じて人々は叫び声を上げるのを止めて沈黙し、その老人は話し始めた。

ニコラオスの演説
20 「シュラクサイの皆様、戦争での不運について私は一部では少なくとも共有してるつもりです。私は二人の息子を持つ父だったのですが、その故に私は父祖の土地のための戦いに彼らを送って彼らの帰還の代わりに死の知らせを受けました。したがって私は親しい交わりを失ったために毎日、そして何度も彼らが死んだことを思い出したものですし、彼らは幸せだとは思うのですが、私は自分こそが最も不幸な人間だと信じていますので、私自らの何もかもが哀れだと思うのです。彼らは父祖の土地を救い出すために人間の本性としての死に殉じ、不滅の名声を残したのでありますが、その一方で彼らから老年期の世話を受ける日々を失った私は二重の悲しみを味わう羽目になり、二人の子供と彼らの勇気を失ったのです。彼らの死が勇敢であればあるだけ、彼らが残した記憶の悲痛さもひとしおになっております。私の息子だけではなく、蓋し、奴隷によって私はここへと導かれたので、私にはアテナイ人を憎む十分な理由がありましょう。さて、シュラクサイの皆様、もし議論によって目下の問題でアテナイ人贔屓の結論しか出されないのを見れば、私は尤もな理由によって、つまり全ての人が被ったような我々の国の不幸と私の個人的な苦渋の両方を以って彼らを厳しく扱うことになるでしょう。しかしながら、ここでは不運な者に示される哀れみを考量し、国益と全ての人類にまで広がるであろうシュラクサイの人々の名声に関する目下の問題には私は自身の提案を延べるだけにしておくことにしましょう。
21 アテナイの人々は手始めに神々の手から、次いで彼らが不当に扱った我々から彼らの愚かさがもたらした罰を受けました。全く尤もなことなのですが、神意は不正な戦争を始めた者を予期せぬ災厄へと巻き込み、そのような連中に対しては人間としてしかるべき優越を与えませんでした。といいますのも、デロス島からアテナイまで一〇〇〇〇タラントンを運び去ってシケリアへと二〇〇隻の三段櫂船と四〇〇〇〇人以上の兵を戦うために送ってきたアテナイ人がよもやこれほど大きな災難に出逢うなどといったい誰が予想できたでしょうか? これほどの規模でなした軍備で船も兵も国に帰らず、その生き残りとてその災難の噂を彼らに伝えるために残されているにすぎません。したがってシュラクサイの皆様、そのような傲慢が神々と人々から憎まれていることを知れば、あなた方は自ら運命の前にへりくだり、人間の力を越えようなことをしないのではないですか。あなた方の足下にひれ伏す者を殺すことのどこに気高さがあるというのでしょうか? 彼に復讐を加えることにどんな栄光があるというのでしょうか? 不幸な人にあいも変わらず残忍であり続ける者もまた人類に共通の弱さのために宜しきを得ることはありません。なんとなれば、人の苦しみを喜び、栄光を瞬く間に転化させてひっくり返す喜ぶ本性を持つ運命の女神に打ち勝つことができるほど賢い人などいないからです。
 しかし、『彼らは悪事を働いたのであって、我々は彼らを罰する権能があるではないか』と言う方もおられるでしょう。しかしあなた方はアテナイの人たちに何倍もの大きさの罰を与えていないと、そして捕虜への折檻で満足していていないのでしょうか? 彼らは勝者の思慮分別を信頼して武器もろとも投降したのであって、それ故に我々に期待された人道性は欺かれるべきだとは私には思えません。我々への変わらぬ敵意を持ち続けた人たちは戦いですでに死にましたが、我々の手にその身を差し出した人たちは嘆願者となったのであって、もはや敵ではありません。戦いでその身柄を敵の手に委ねた人は助命の希望を持っており、このような信頼を示した人は不運の犠牲者ではあろうとも非常に厳しい罰を受けるべきですが、それでもなお罰を与える者は冷酷呼ばわりされることでしょう。しかし覇権を求めるシュラクサイ人は自らを軍事力で強くするのではなく、その性格のうちの思慮分別を示すべきです。
22 被支配者は彼らを恐怖によって支配する人たちに反抗する時を待って憎悪のために彼らに報復するものですが、人道的に支配権を振るって覇権の強化にあってはそれによっていつも彼らを助けてくれる支配者をきちんと大事にするというのは事実です。一体何がメディア人の王国を滅ぼしたのでしょうか? それは弱者への残虐です。なんとなればペルシア人が彼らに反旗を翻した後、彼らの王国はほとんどの国からも攻撃を受けたものです。他の何によってキュロスが一私人の地位からアジア全土の王へとのし上がったというのでしょうか? それは被征服者への思いやりのある扱いです。例えば、彼はクロイソス王を虜とした時にはいかなる不正なこともせず、まこと彼は彼への恩恵者となったのです。そしてまさに同じやり方で彼は他の全ての諸王も人々も扱ったのです。そのようなわけで彼の慈悲深さの名声があらゆる地域に広まると、アジアの全ての住民が先を争ってその王と同盟を結んだのです。
 しかしなぜ私は場所も時間も隔たったこのようなことを言っているのでしょうか? 我が都市ではそう昔というわけもないうちにゲロンが私人からシケリア全域の主にまでのし上がり、諸都市は喜んで彼の支配下に入ったものです。というのも、それは不運な人への同情と結びついたその男の公正さが全ての人を彼へと惹きつけたからです。そしてその時から我々の都市はシケリアの覇権を主張してきましたし、それ故に父祖が残忍さや人間の不運への執念深さを示さないことで獲得した令名を我らが不名誉ならしめるべきではありません。まったくもって、幸運を悪用したと言って嫉妬の女神に我々を批判する機会を与えるのは良からぬことでしょう。といいますのも、幸運が我々に敵対して我々の成功の変転を喜べば、それは我々にとっては結構なことだからです。武器で得た優位はしばしば運命とふとしたきっかけによって決まるものでありますが、絶えざる成功にあっての慈悲こそが繁栄の真っ只中にある人の美徳の顕著な証です。そのようなわけですから、どうか我々の国に全ての人類からの喝采を受ける機会を逃させないでいただきたい。なんとなれば、それは武器による偉業のみならず人道性でもアテナイ人の上をいくことになるのですから。他の全ての人に対して開明さにおいて優越を誇る人々が我々の全ての親切な配慮を認め、慈悲の神の祭壇にいの一番に上る(14)アテナイ人がシュラクサイ人の都市のその慈悲に気付くことは明白でしょう。このことから、彼らは然るべき敗北を喫して我々はそれに相応しい勝利を得ることになるわけであり、さればこそ彼らは敵さえ親切に扱う人に悪事をなそうとしたものの、それとは逆に最も苦々しい敵にさえ慈悲をかける人々を騙したことになり、挑んで攻撃をかけた相手を我々は破った次第でありますし、以上全てのことは明白です。だからこそアテナイ人はそのような人に悪事を試みたとして全世界から非難されるだけでなく、自らを罰することになりさえするでしょう。
23 シュラクサイの皆様、不運な人に慈悲を示すことで友情の確立をもたらし、争いを仲裁する事ことこそが素晴らしきことなのです。といいますのもこれを実践すれば同盟者の数を増やして敵の数を減らすことになるため、我々の友情への善意は不滅なものとなり、我々の敵への憎悪はなくなりやすくなることでしょう。しかし我々が永遠に争い続けて子供の子供の代までそれが続くことは親切なことでも安全なことでもありません。より強力な者として見られている者が以前の臣下よりも時間の経過によって弱くなってしまうこともあるのですから。この度起こった戦争こそがこのことの証左です。ここに優越した兵力でこの都市を包囲した者は運命の変転によってそこから追い落とされ、あなた方がご覧になっています通り捕虜となったのです。それゆえ、我々が他人の不幸に対して寛大であることを見せることによって、死すべき人間に来る困難が降り懸かった場合のため、全ての人々からの慈悲の希望を我々に取っておくことは素晴らしいことです。多くの人は予期せぬことがその人生において起こるものであり、内戦、略奪、戦争、人間である限りはそれらの危機をそう簡単に避けることはできません。したがって我々は敗者を寛容から除外するならば、自らに永久に苛酷な法をもたらすことになるでしょう。他の人に哀れみを示さない者が他の人の手によって人道的な扱いを自らに招き、他人に憤慨する者が寛大に扱われ、あるいはギリシア人の習わしに背いてこれほど多くの人を殺した後に我々が人生に付き物の逆境の時に全人類に共通の利便に訴えることは不可能です。どんなギリシア人がこれまで投降して征服者の優しさを信頼した者を容赦ない罰に値するとして裁いたというのでしょうか? あるいはこれまで誰が残忍よりも無力な慈悲、無分別よりも無力な用心を持っていたというのでしょうか?
24 全ての人は頑強に戦列を敷いた敵と戦いますが、敵が降伏すると、前者の大胆さに打ち勝って後者の不運への慈悲を示したものです。戦意は以前には敵だった者が運命の変転によって嘆願者となって屈服し、何であれ勝者の喜びがもたらす被害を受けることになった時にはなくなってしまうものです。そして私の信じるところでは、文明化された人間の精神というものは、自然が全ての人に植え付けた同情心のために大方は慈悲に捕えられるものです。例えば、アテナイ人はペロポネソス戦争でスファクテリア島で大勢のラケダイモン人を封鎖して捕らえたにもかかわらず、身代金支払いの下でスパルタ人を解放してやりました。またの機会にラケダイモン人は大勢のアテナイ人とその同盟者たちを捕虜とし、その時には同じように彼らを遇しました。このような行動に際して彼らはいずれも立派に振る舞ったものです。というのもギリシア人の間での憎悪は勝利が得られた時まで、罰は敵が破れるまでに留めるべきだからなのです。これ以上のことをして勝者の慈悲に身を委ねてもはや敵ではなくなった敗者に復讐を果たす者は誰であれ人間の弱さに対して罪があるのです。このような苛烈さに反対する者は古の賢者のこの格言を引くことでしょう。「おお人間よ、思い上がるなかれ」、「汝自身を知れ」、「運命が万物の主たることを悟れ」。しからばいったい何故に全ギリシア人の先人は戦勝を祝うために建てた記念碑は鉄ではなく身近な木で建てられるべしと定めたのでしょうか? これはそれが短時間しかもたないように、敵意の記憶が早くなくなるためなのではないのでしょうか? 概して言うならば、もしあなた方が全ての時代に亘って争いを生み出そうと望むのであれば、あなた方のその行動は軽蔑を込めて人間の弱さを扱うことであり、ほんの一時の運命の微々たる変転はしばしば高慢の鼻をへし折るものであるとを知っておいてください。
25 もしあなた方が戦争を終わらせたいというのであれば、ひれ伏した者への人道的な扱いを友情を得る機会とするという今以上の好機はないのではないでしょうか? アテナイ人がギリシア全土で実質的な支配権を握ってヨーロッパとアジア両方の沿岸部の覇権を保っていたのを見ていれば、アテナイ人はシケリアでの惨事によって完全に打倒されたものとは思えないでしょう。現に前に一度、三〇〇隻の三段櫂船を乗組員もろともエジプトで失った後、彼らは優位に立っていた〔ペルシアの〕王に不名誉な講和条約の受諾を強いたものですし、さらに彼らの都市がクセルクセスによって灰燼に帰された時、すぐに彼らは彼もまた打ち破ってギリシアの覇権を手にしました。といいますのも、それはこの都市は最大の不運の中にあって勢力の最大の隆盛を成し、不寛容な政策をとることなく賢明な道を取ったからです。したがって憎悪を増やす代わりにアテナイ人を虜囚の身から解放して同盟者として持つことは素晴らしいことになることでしょう。といいますのも私たちが彼らを殺してもただ怒りに耽って不毛な情念を満たすだけにしかなりませんが、一方で彼らを保護下に置けば私たちは私たちが助けた人々からの感謝と他の全ての人々からの賞賛を得ることでしょう。
26 しかし捕虜を処刑したギリシア人もいるではないかと答える方もいることでしょう。でもそれがどうしたというのでしょうか? もしそのような行いによって賞賛が彼らにもたらされたというのであれば、我々もそれを繰り返して倣うことにしましょう。しかし、もし我々が彼らを告発する第一の人であるならば、当人が認めるところのそのような罪を犯したような人と同じ罪を犯すのはやめておこうではありませんか。長らく己が生命を我々の善意に委ねた者で取り返しのつかない罰を受けた者はいませんでしたし、誰もがアテナイの人々を正当にも非難することでしょう。しかしもし一般に受け入れられている人間の習慣とはうらはらに、信頼は捕虜とは無関係であるというのを聞くならば、彼らは我々に対して非難の目を向けることでしょう。真実として、誰か他の人々がアテナイ人の都市の名声は我々からの尊敬を受けるに値すると言えるのならば、我々はアテナイ人がその人に与えた恩恵への我々の感謝に人々の目を転じさせることになりましょう。最初に土地の耕作によって得られた食料〔小麦の発見〕の分け前をギリシア人に与えたアテナイ人は独占的な使用を神々から許されていたにもかかわらず、それを全ての者が使えるようにしました。彼らは法律を発見し、それを人間の生き方へと適用することによって未開で不公平な暮らしぶりから文明的で公正な社会へと進歩させました。彼らは彼らのところに逃げ込もうとした人々の命を助けたことによって全ての人の間で広まった嘆願者の法律の先駆けとなったのであり、彼らがそれらの法律の制定者であるがゆえに、我々は彼らからその許可を奪うべきではありません。だからあなた方の全て、いやあなた方のうち一部にでも私は人間らしい優しさを思い出させたいのです。
27 雄弁と見識をその市と同じくしているあなた方皆は人間の共通部分のための学校として国を提供するその人々に対しては慈悲を示すべきなのです。そして最も聖なる秘儀(15)に与るあなた方は、一部の人は既に受けた親切な行いへの感謝を示すことで、そらの相伴に与ることを期待する他の人は怒りに任せて彼らから希望を奪うことなく、あなた方を入信させた人々の命を助けるべきでなのです。なんとなれば、アテナイ人の都市が破壊された暁に、〔エレウシスの秘儀への入信において〕外国人が頼ることのできる場所が一体どこにあると言うのでしょうか? つまり、彼らが行った悪事によって起こった憎悪は確かにありはしますが、重要であり多いことは善意を要求するに足る彼らの事績の方なのです。
 しかし市のことはさておき、個々で捕虜を尋問すれば、公正にも慈悲を受けるに値する者を我々は見つけることでしょう。アテナイの同盟者は彼らの支配者の優勢な力のために強制されて遠征への参加を強いられていたのです。そして、もし悪心から悪事を行った者への復讐が正しいというのならば、思いに反して悪事を行った者は寛大に扱うことが適当でしょう。最初からシュラクサイ人の利害を考えて施策を講じ、シケリア遠征に反対していた唯一の人物であり、絶えずアテナイのシュラクサイ人居住者のことを気にしてプロクセノスとして働いていたニキアスのことを私は何と言えばよいのでしょうか? アテナイで政治家として我々の主張を発起したニキアスは罰せられるべきであり、彼が我々に示した善意のために人道的な扱いを受けるべきではなく、そして自国の事業への彼の奉仕のために無慈悲にも罰を受けるべきであり、そしてシュラクサイ人との戦争を起こしたアルキビアデスが我々とアテナイ人の双方からの然るべき罰から逃げ、一方で世論によって最も人の道に則った公人であることを証明したニキアスが、そしてアテナイ人たちが全ての人から認められた寛大さを享受すべきではないというのは奇妙なことです。したがって私としては、彼の状況の変転を考えるならば、その不運に対して憐憫を感じるものです。以前は全ギリシア人のうちで最も優れ、高潔で武勇に優れた性格を賞賛された人の中の一人であった彼は幸福だと見なされ、あらゆる都市で賞賛されていました。しかし今はみすぼらしい上着を着て後ろ手に縛られた痛ましい虜囚の身にあり、それはあたかも運命がこの人の人生でもってその力の実例を与えようとしているかのようです。運命がもたらすところの幸運からすれば我々は彼を人間らしく扱い、同じ民族に対して野蛮な残虐さを示さないというが相応しいのではないでしょうか」

ギュリッポスの演説
28 以上がシュラクサイの人々に向けて演説したニコラオスによって用いられた議論であり、それが終わらないうちに彼は聴取者たちの共感を得た。しかしアテナイ人への執念深い敵意を持ち続けていたラコニア人ギュリッポスは演壇に上ってその議題についての彼の立論を始めた。「シュラクサイの諸君、あなた方があまりにも素早く、それらの諸行動によってあなた方が酷い犠牲を被った問題について口論によって心変わりをしたのを見て私は大いに驚いております。もしあなた方の市を荒廃から守るために、あなた方の国を破壊するためにやってきた者どもに対して立ち向かったあなた方が気を緩めるのなら、なぜ過ちを犯さなかった我々〔ラケダイモン人〕が力を尽くさなければならなかったのでしょうか? あなた方シュラクサイの諸君には私に全く率直に助言することを許していただきたい。私はスパルタ人であるので、スパルタ式の演説の方法をとる。そしてまず最初にニコラオスはどういうわけで『アテナイ人への情けを示せ』と言うことができるか、誰が彼から子供を奪い老年期を哀れにしたのか、そしてどういうわけで哀悼者の衣をまとって会議の前に来て、彼は嘆きながら彼自身の子供たちの殺害者への哀れみを示すべきだと言うのかを訊ねよう。その人はもはや公正な人ではないだろうし、彼の最も近い親戚の死んだ後には彼らのことを考えるのを止める人ではあり、彼の苦々しい敵の命を守ることを選ぶのだ。それではここにお集まりのあなた方のどれほど多くが戦死した息子を嘆き悲しんでいるのだろうか?」少なからず多くの聴衆は強い抗議の声をあげた。そしてギュリッポスはそれを遮り言った。「ニコラオスよ、彼らがこの抗議によって彼らの不幸を示しているということをあなたは分かっているのか? そしてあなたはどれほど多くの兄弟や親戚あるいは友人たちの命が無駄に失われたと思っているのか?」さらに多くの人が同意を叫んだ。ギュリッポスはさらに続けた。「あなたは分かっているのか、ニコラオス、アテナイ人のために犠牲になった多くの者のことを? その全員はアテナイ人に何の罪も犯していないのに彼らの最も近い親戚の男たちを奪われ、そして彼らが自身の親戚を愛したのと同じ位大いの大きさのアテナイ人への憎悪を植え付けられたのだ。
29 「シュラクサイの諸君、これは奇妙なことではないか? もし死者があなた方のために自ら死を選んだのならば、あなたが彼らのためあなた方の苦々しい敵にさえ罰を要求すべきではないとでもいうのか? そして国家の自由のために命を捧げた者たちをあなた方は賞賛しているにもかかわらず、あなた方は目下の大問題において彼らの栄誉を守るより殺害者の命を助けるというのか? あなた方は死者の墓前を公費で飾ろうと票決したではないか。彼らの殺害者の処罰よりも相応しい装飾でどんなものがあるのかあなた方は分かっているのではないか? ゼウスに誓って言うが、そうでなければ、あなた方の市民のうちに彼らを登録し、あなた方が死者の生ける戦勝塚を残そうと望むべきだ。しかし、彼らは敵の名を捨てて哀願者となったと言われるだろう。一体全体何を根拠に彼らは人道的な扱いが同意を得られると祈るというのだろうか? そのような問題を考慮して最初に我々の法令を定めた者たちは不運への寛容をあらかじめ決めたのであるが、全くの腐敗から非道を行った者たちへの罰はその限りではない。その範疇に今や我々は彼の捕虜たちを入れるべきだろうか? これは不運で括られる場合なのだろうか? 何ゆえに運命は彼ら、何ら被害を受けていない者たちをシュラクサイで戦争を行い、皆が賞賛した平和をかなぐり捨て、そしてあなた方の都市を破壊しようここまでやってくるように強いたのだろうか? したがって自分から好き好んで不正な戦争を選んだ者は勇気を以って辛い結果に耐えるものだし、そしてもし征服したならば、あなた方への無慈悲な残忍行為を続けるだろう。だから彼らの目的達成が妨げられたからには、哀願者の祈りによって人間的な優しさに訴えられても罰を免除するべきではない。そしてもし邪悪さと貪欲のために彼らが酷い敗北を被って有罪判決を下されたからには、運命のせいにすることも、救援を呼ぶために「嘆願」の名を持ち出すことも許してはならない。なんとなれば、心根が素直だが運命の薄情さを心得ている人たちはその言葉を使うのを差し控えるものだから。しかしながら、あらゆる悪事をその生涯に詰め込んだ人たちには世界のどこにも慈悲をかけられたり非難できるような場所はないのだ。
30 彼らは何ら全く恥ずべき行いを計画せず、最もひどい行いを行わなかったとでもいうのだろうか? 運命の贈り物に満足せず、遠方の他人の物をむやみに望むのは強欲の特徴である。そしてこれが彼の者たちのやったことだ。アテナイ人は全ギリシア人のうちで最も繁栄していたにもかかわらず、あたかもそれが重荷であるかのように幸福に満足せず、シケリアに殖民団を送り出し、住民を奴隷に売るために海のあまりもの広大さから彼らから彼らを引き離したのだ。戦争を始めるということは恐るべきことであり、彼らは最初は間違うことはなく、まだそうはしなかった。あなた方の友人であったにもかかわらず、事前の知らせなしにアテナイ人は突然かような強力な軍備でシュラクサイ人に対して包囲を行った。運命の決定を予知し、まだ征服を成し遂げていない人々への罰を明言するというのは尊大な人の特徴である。そしてこれを彼らはまだ成し遂げてもいなかったのだ。シケリアに足を踏み入れる前にアテナイ人はシュラクサイとセリヌスの市民を奴隷に売って残りのシケリア人には貢納金を払わせようと決めていた。同じ人々には貪欲さ、欺瞞、尊大さが見受けられているのであり、正しい心を持ったどんな人が憐憫を示すだろうか? そしてミュティネレ人をアテナイ人がどう扱ったのかをあなたはどう思うのか? 彼らを征服した後、ミュティレネ人は何も間違ったことをせず、自由を求めていただけであったにもかかわらず、彼らはそこの市民全員の処刑を票決した。それはなんと残忍で野蛮な行動ではなかろうか。彼らはギリシア人、同盟者、そしてしばしば恩恵を施していた者たちに対して罪を犯しすぎた。〔アテナイ人は〕かようなことで残りの人に今や何か言い立てるということはあるまい。彼らは自身に多様な罰を受けることになろう。一人の人が自分自身で他人に対して規定した法律に則り、四の五の言わずあらゆることを甘受すべきだというのはまったくもって正当なことである。彼らによって包囲戦で衰弱させられて若者から殺されたメロス人について、そして彼らの同胞であったにもかかわらず、メロス人と同じ運命を辿ったスキオネ人について私は何と言えばよいのだろうか? かくして、アッティカ人の逆鱗に触れたその二つの人民は死者の遺体に対する儀礼を果たす者〔生き残り〕さえ残されなかったのだ。かような行いをしたのはスキュタイ人などではなく、人間愛において優れていると称する人たちであり、彼らは彼らの判決でそれらの諸都市を完全に破壊したのだ。もしシュラクサイ人の都市を略奪した暁には彼らが何をしていたのか考えてもみたまえ。彼らは彼らの親戚を奴隷として扱い、血縁のない人々に対しては苛烈極まる罰を下したことだろう。
31 ゆえに、彼らは慈悲に値しないし、彼ら自身の災難の際の慈悲の用い方について言えば、彼らは〔他人に慈悲を示さなかったことで〕自らそれを破棄したのだ。彼らは安全のために逃げる時間を与えるのに値するだろうか? 神々よ、彼らはいったい誰から習慣的に認められている敬意を奪い取ることを選んだのでしょうか? 諸君、彼らは誰を奴隷化するためだけにやってきたのだろうか? デメテルとコレの聖なる島を荒らした彼らがそれらの女神とその秘儀に縋るとでもいうのか? ああ、アテナイ人の全員ではなく、遠征を提議したアルキビアデスにだけ責任があると言う人もいるだろう。しかしながら、ほとんどの場合提議者たちは民衆の希望にあらゆる注意を向け、かくして有権者というものは演説家たちに対して有権者自身の目的に適う台詞を思い起こさせるものだと我々は見て取るべきだろう。演説家は群集の主ではなく、実直な方法を採用することにより、民衆は最良のことを提案する弁論家を鍛えるものだ。もし我々が彼らの取り返しようのない不正行為の罪を許して彼らが提議者に責任を被せるならば、我々は簡単な弁明で邪悪な行為をもたらされてしまうことになってしまうではないか! 善行の場合には受取人の感謝を受けるのは提議者ではなく民衆である一方で、不正義の罰は演説家に帰せられる話ほどこの世に不正なことはないということは明白である。
 それ〔罰せられるべき者〕は我々が力を及ぼすことができず、まだ罰せられていないアルキビアデスであるが、我々は当然の罰を加えられている捕虜を解放すべきであり、したがってシュラクサイの人々は卑劣漢どもに正義の怒りを持っていないと世界に知らしめるべきであるという主張者の説得力はすでにある程度は失われた。しかしもし戦争の支持者たちが真にその原因であるとすれば、人々は演説家たちに彼らの欺瞞の結果の責任があるとするだろう。かくしてあなた方は正義に適い、あなた方が被った不正のためにかの人々を罰することであろう。そして概して言うならば、もし彼らがなすことの全てを知った上でその過ちに加担していれば、まさにその意図のために彼らは罰に値するが、彼らが考案された計画を知らずに戦争へと突き進んだのであれば、他の人の生命に影響する事柄に関してとっさの行動を〔適切に〕とる習慣を育てていなかったということのために放免されるべきでさえない。アテナイ人の無知がシュラクサイ人に破壊をもたらさんとし、あるいはその罪が癒しようがない場合に下手人が弁明の手段を保持するというのは正当ではない。
32 ゼウスに誓って、ニキアスは議論においてはシュラクサイ人の味方であり、戦争に反対した唯一の人であるという者もまだいるだろう。彼が言った事に関して我々は噂で知っているが、我々はここで彼がしたことをこの目で見たではないか。遠征に反対したこの人は軍の指揮官であり、議論においてシュラクサイ人に味方していた彼はあなた方の都市を壁で囲んだのだ。そして人道的にあなた方に接していた彼は、デモステネスと他の全ての人が包囲を解くことを望んだ時、ただ一人それを彼らに続行させたではないか。したがって私としてはこの言葉が彼の行いと〔我々が〕経験したことよりも、あるいは全ての人が目撃したことよりも見てないことの方が重要だとは到底信じられない。
 ゼウスに誓って、我々に永劫の敵対をもたらすことは良くないと言う者もいるだろう。そして悪人を罰した後あなた方は、それでもまだ怒っているならば、しかるべき方法で憎悪を鎮めることだろう。勝者となった時に捕虜を奴隷のように扱う人が、反対に敗れた時にさも彼らが間違ったことをしていないかのように慈悲の対象となることは正当ではない。そして尤もらしい嘆願によって彼らは彼らの好意への罰金の支払いから逃れたにもかかわらず、彼らは有利になるまでしか友情を覚えないことだろう。私はもしもあなた方がこの方策を取ったならば、他の人々のみならずあなた方のために戦争に参戦したばかりか助けを送りさえしたラケダイモン人に対して過ちを犯すことになるだろうという事実を述べないでおこう。彼らは平和を維持し、シケリアが荒らされた時にそれを傍観するのに甘んじていたことだろう。かくしてもしあなた方が捕虜を解放してアテナイと友好関係に入るならば、あなた方の同盟者からは裏切り者として見られることになるだろうし、共通の敵を弱くするという行いは水泡に帰し、かくも多くの兵士を解放することによってあなた方は再び恐るべき敵を得ることになるであろう。私は自身に関して言うならばアテナイ人がかくも苦々しい反目に身を置いた以上完全な友好関係を維持するというのを信じることができない。逆に、彼らは弱っている間は好意を持っているふりをするが、戦力を再建した暁には元の目的を完遂に移ることだろう。したがって私はあなた方皆にゼウスと全ての神々の名において、あなた方の敵を助命せず、同盟者を見捨てず、再びあなた方の国家を危機に陥れぬよう懇願するものである。シュラクサイの人士であられるあなた方がもし彼らを手放して次に悪があなた方に降りかかることになれば、まともな防衛などできないだろう」。

裁判の結果とディオクレスの末路
33 そのラケダイモン人がこの結論を話した後、大衆は突如として心変わりをしてディオクレスの提案に乗った。したがって将軍たち〔ニキアスとデモステネス〕と〔アテナイの〕同盟者たちは処刑されることと相成り、アテナイ人は採石場へと送られた。そして後々になって彼らのうちより良い教育を受けた人々は若者たちによってそこから救い出されて安全に去ったが、実際は残りの全員が哀れにもこの軟禁場所で苦難のうちに生涯を終えた。
 終戦の後ディオクレスはシュラクサイ人のために法を制定したのであるが、この人は運命の奇妙な変転を経験することになった。刑罰の規定において執念深く犯罪者追討に厳しくしたため、彼は市場に武器を携えて姿を現したる者は処刑さるべしと法律に明記し、無知ないし他の何かしらの境遇の者に対しても例外を定めなかった。そして敵が土地にいたうちはその文言は受け入れられ、彼は剣を持って出動した。しかし突然内戦が起こって市場が騒動に包まれると、彼は浅はかにも剣を持って市場に入った。普通の市民の一人がこれに気がついてあなたは自らの法を破り捨てていると言うと、彼は抗弁して「ゼウスに誓ってそうではない。私は法を守っている」と言った。そして彼は剣で自害した。
 この年の出来事はかくの如くである。

シケリア戦後のアテナイとシュラクサイ
34 カリアスがアテナイでアルコンだった時(16)、ローマ人は執政官の代わりに四人の軍務官、プブリウス・コルネリウス…〔欠落〕…ガイウス・ファビウスを選出し(17)、エリス人のうちで九二回目のオリュンピア祭が開催され、アクラガスのエクサイネトスがスタディオン走で優勝した。この年にアテナイ軍がシケリアで壊滅した後、彼らの覇権は軽蔑に変わった。すぐにキオス島、サモス島、ビュザンティオン、そして多くの同盟国がラケダイモン人の側に寝返った。したがって失望したアテナイ人は民主制を放棄することで一致し、四〇〇人を選んで彼らが国政を牛耳った。そしてこの寡頭制の指導者たちは多くの三段櫂船を建造した後、将軍たちと共にそのうち四〇隻を進発させた。彼らは互いに反目していたにもかかわらず、オロポスに敵の三段櫂船が投錨していたために同地へと航行した。続いて起こった戦いにおいてラケダイモン軍が勝利して二二隻の艦船を拿捕した(18)
 アテナイ人との戦争を終結させた後、シュラクサイ人は戦争で獲得した戦利品で以ってギュリッポス指揮下で彼らと共に戦ったらラケダイモン人を表敬し、シュラクサイ人はラケダイモン人と共にラケダイモンへとアテナイ人との戦争を援助するために彼らの最も高名な市民ヘルモクラテスが指揮する四五隻の同盟軍を送った。そして彼ら自身に関しては、戦争でもたらされた戦利品を集め、装飾品と敵から獲得した武器で彼らの神殿を飾り、しかるべき贈り物で奮戦した兵士を表敬した。この後、最も影響力のある人々の指導者のディオクレスは政体を変えるよう市民を説得し、かくして政権は籤で選ばれた行政官によって運営され、また政策を定めて新しい法の草案を私的に起草するための立法者も選挙で選ばれた。
35 したがってシュラクサイ人は市民の中から判断力に優れた者を立法者に選んだのであるが、その中で最も際立っていたのはディオクレスであった。彼は知性と信望において残りの人からあまりにも優れており、その規則の起草はそれら全ての人の共通の仕事であったにもかかわらず、それらは「ディオクレスの法」と呼ばれた。そしてシュラクサイ人はこの男が生きているうちは彼に賛同していたのみならず、彼が死んでも英雄たちに捧げたのと同じ栄誉を捧げて公費で彼を讃える神殿を建てた。それは後にディオニュシオスによって市の城壁が建造された時に取り壊された(19)。そしてこの人はシケリアの他のギリシア人からもまた非常な尊敬を受けた。現にその島の多くの都市はシケリアのギリシア人がローマ市民権を認められるまで彼の法律を主に使い続けた。したがって、後にティモレオンの時にケファロス(20)、ヒエロン〔二世〕王の時にポリュドロスによって法律が定められた時、それらの人はディオクレスの法を見た時に古い形で書かれていたために理解し難いものであった〔のを直した〕ため、彼らはそれらの人を「立法者」としてではなく「立法者の解釈者」と呼んだ。深い内省が彼の立法において示され、その立法者は自身が悪を憎む人間であることを示し、違反者の全てに他の法規よりも重い罰を科したため、どの先任者よりも最も正確に各々の人への罰は賞罰規定、実践と広い経験の両方に従って改善され、それによって彼はあらゆる告訴と争論、それが公的な事柄であろうと民事であろうと改善された罰に値するとして判決を下した。彼は文体において簡明でもあり、それはそれを見返す読者の中に残った。そして彼の劇的な死は彼の魂の公正さと厳格さの目撃者を生んだ。
 今ディオクレスの資質を私が非常に詳しく述べたのは歴史家の大部分が彼らの論考において彼をむしろ軽んじているという事実の故である。
36 シケリアでの軍の全滅を知るとアテナイ人はその災難の大きさに深く失望した。彼らの覇権への熱意は未だ少しも衰えておらず、さらなる船を建造して第一の地位への最後の望みのために戦うべく資金を集めた。四〇〇人を選び出して彼らは戦争遂行を指導する最高権限を与えた。というのも彼らは寡頭制がこのような危機的状況においては民主制よりも都合が良いと考えたからだ。しかし状況はその意見を抱いた者たちが判断した通りにならず、四〇〇人会は遥かに下手に戦争を行った。というのも、彼らは四〇隻の船を派遣したにもかかわらず、互いに反目する二人の将軍に指揮させて送り出したからだ。アテナイ人の情勢がこのようにゆっくりと退潮し、緊急事態が〔アテナイの市民の間で〕完全な協調を要していたにもかかわらず、その将軍たちは互いに争い続けた。最終的に彼らはオロポスへと準備なしに航行してペロポネソス軍と海戦を行った。しかし彼らは戦いの始めは惨めであり、匹夫のような戦いぶりを続けたため、二二隻の船を失ってエレトリアへと辛うじて逃げて安全を確保した。
 それらの出来事が起こった後、シケリアで蒙った敗北と指揮官の不仲のためにアテナイの同盟諸国はラケダイモン人に寝返った。そしてペルシア人の王ダレイオスはラケダイモン人の同盟者であったため、沿岸地方の軍事権限を持っていたファルナバゾスはラケダイモン人に資金を提供し、ファルナバゾスはラケダイモン人に援軍を派遣しようとしてフォイニキアから提供された三〇〇隻の三段櫂船を呼び寄せた。
37 アテナイ人は一度にそして同時にかくも深刻な苦境に陥ったため、その時誰もがアテナイ人には最早逆転の見込みがあるとは予想せず、誰もが戦争の決着はついたと思った。しかし、事態は衆目の一致したように終結せずにその逆に進展し、戦士の〔数的な〕優位が起こり、以下のような理由で全状況は変化した。
 アテナイから亡命していたアルキビアデスはラケダイモン人の側で一時的に戦っていて戦争では大いに力になっていた。というのも彼は最も有能な弁論家で豪胆さにおいて市民から抜きん出ており、さらに高貴な生まれとアテナイ人のうちでは一番の富を持っていたからだ。今やアルキビアデスは生まれた都市への帰国を許してもらおうと熱望し、彼がアテナイ人に何かしらの良い見返りをもたらせるような策謀を企んでいたのであるが、とりわけ重要な瞬間にアテナイ人は大敗を喫していた。したがって彼はダレイオスの太守ファルナバゾスと友誼を結び、彼がラケダイモン人の援助のために三〇〇隻の船団を送ろうとしていることを知ると、その試みを放棄するようファルナバゾスを説得した。アルキビアデスはファルナバゾスにラケダイモン人をあまりにも強大にするのは王のためにはならないことを示した。それはペルシア人のために言ったのではなかったが、可能な限り互角の戦いを続けさせるためにより良い政策は交戦国に対して彼らが互角である限りにおいて中立の態度を維持することであると彼は言った。かくしてファルナバゾスはアルキビアデスが良い忠告を与えてくれたと信じ、フォイニキアに艦隊を送り返した。この時これを機にアルキビアデスはラケダイモン人のかくも強大な同盟軍を奪い去ったのである。アテナイへの帰国を許されて軍の指揮権を与えられると、彼はラケダイモン軍を多くの戦いで破ってアテナイ人の沈んでいた運命を再び完全に浮上させた。しかし我々はその説明があらかじめ出来事の自然の順序に反することにならないようにするため、それらの事柄のさらなる詳細はしかるべき時に関連させて論じることにする。


アビュドス・セストス沖での海戦
38 その年が終わった後はテオポンポスがアテナイでアルコンとなり(21)、ローマ人は執政官職に四人の軍務官、ティベリウス・ポストゥミウス、ガイウス・コルネリウス、ガイウス・ウァレリウス、そしてカエソ・ファビウスを選出した(22)。この時アテナイ人は四〇〇人の寡頭制を解体して自由に市民の政府組織を組織した。その全ての変革の立役者は生き方において折り目正しく判断力において他の全ての人より優れていると評判の人物であったテラメネスであった。彼はアルキビアデスの追放からの復帰を勧めた唯一の人物であり、アテナイ人が正気に戻ってために彼は国益に関する他の多くの基準となる第一人者となり、彼ほど賞賛を受けた人物はいないという有様であった。
 しかしそれらの出来事が起こる少し前、戦争のためにアテナイ人はトラシュロスとトラシュブロスを将軍に任命しており、彼らはサモス島で艦隊を集めて兵士に海戦のための訓練を日夜施していた。しかしラケダイモンの提督ミンダロスはファルナバゾスが約束した援助を期待してミレトスでしばらくの間じっとしており、三〇〇隻の三段櫂船がフォイニキアから到着したと聞くと、彼はかくも強大な艦隊がいればアテナイ人の帝国を打破できると信じ、兵士たちを元気付けた。しかし少し後にファルナバゾスがアルキビアデスの側についてフォイニキアに艦隊を戻したことを様々な人々から聞くと、彼はファルナバゾスに持っていた希望を捨ててペロポネソス半島から送られた船と外国の同盟諸国から提供されていた船に防備を施した後、或るロドス人たちが反乱に団結していたのを知ったためにドリエウスをロドスへと一三隻の艦隊をつけて送った。我々が述べた艦隊〔ドリエウスの率いた艦隊〕はイタリアの或るギリシア人たちから少し前にラケダイモン人に同盟軍として送られたものである。そしてミンダロス自身は八三隻の他の全艦隊を率い、アテナイ艦隊がサモス島に留まっていたことを知るとヘレスポントスへと出発した。アテナイの将軍たちは彼らが航行していくのを知ると、六〇隻の船を率いて彼らに向けて海路で進んだ。しかしラケダイモン軍がキオス島にいた時、アテナイの将軍たちはレスボス島へと航行して敵が船の数で上回るということにならないようにするために同盟諸国から三段櫂船を集めようと決めた。
39 その時アテナイ軍は船をかき集めていた。しかしラケダイモンの提督ミンダロスは夜のうちに全艦隊を率いて出航し、ヘレスポントス方面へと急いで向って二日目にシゲイオンに到着した。その艦隊が自分たちの方向へと航行していることを知ると、アテナイ軍は同盟諸国の全ての三段櫂船を待つことはせず、三隻を加えただけでラケダイモン軍の追跡に向った。シゲイオンに到着すると、彼らはすでに敵艦隊が出発した後だと知ったが、後に残されていた三隻をすぐに捕えた。この後彼らはエレオスに投錨して海戦の準備をした。ラケダイモン軍は敵の戦闘稽古を知ると同様のことを行い、船の修理と乗組員の稽古に五日を費やした。次いで彼らは戦力八八隻の艦隊を戦いへと駆り出した。今やラケダイモン軍は海峡のアジア側に艦隊を配置し、一方数では劣るが練度では勝っていたアテナイ軍は彼らに向けてヨーロッパ側に布陣した。ラケダイモン軍は右翼にヘルモクラテスを指揮官とするシュラクサイ軍を配置し、ペロポネソス軍自体は総司令権を持つミンダロスと共に左翼の全てを成した。アテナイ軍ではトラシュロスが右翼に、トラシュブロスが左翼に陣取った。向い波がなかったために双方は持ち場で頑強に戦うことになった。したがって彼らは互いの周りを長い間回り続けて海峡を封鎖して有利な地点で戦おうした。アビュドスとセストスの間で戦いは起こったのであるが、海峡が近づいても少しも海流に妨げられることはなかった。しかし、アテナイ艦隊の操舵主たちは経験においてずっと勝っていたために勝利の立役者となった。
40 ペロポネソス軍は数と海兵の勇気で優っていたにもかかわらず、アテナイの舵手の技術は敵が抗することができないほどに優れていた。ペロポネソス軍が船を一丸として衝角攻撃のために高速で向って来る度に舵手たちは船を巧みに動かし、敵は衝角に衝角を向けることになって船首の他のどんな場所も攻撃できなかった。したがってミンダロスは衝角の威力が無力化されたと見て取ると、船団に小部隊なり一隻になるよう命令を下した。しかしこの動きがなされたところでアテナイの舵手の技量は無力化されなかった。逆に迫りくる船の衝角を巧みに避けて彼らは敵の側面に攻撃をかけて多くの船に損害を与えた。そしてかような対抗心が両軍に広がって衝角戦法に拘らず戦ったが、船と船は絡まって海兵同士が戦うことになった。波の強さで大勝利を勝ち取ることを邪魔されたにもかかわらず、彼らはかなりの間戦いをつづけ、どちらの側も勝利を得るには至らなかった。戦いが互角だった時、同盟諸国からアテナイ軍へと送られていた二五隻の船が岬の後ろに現れた。これによってペロポネソス軍は臆してアビュドスへと敗走に転じ、アテナイ軍は彼らに追いすがって激しく追撃した。
 戦いはこのようにして終わった。そしてアテナイ軍は八隻のキオス船、五隻のコリントス船、二隻のアンブラキア船、そしてシュラクサイ船とペレネ船とレウカス船をそれぞれ一隻ずつ拿捕し、一方で彼ら自身は五隻の船を失い、その全部が沈められた。この後トラシュブロスは戦勝記念碑をヘカベの記念碑が立つ岬に建てて勝利を知らせるべく伝令をアテナイに送り、自身はキュジコスへと全艦隊を率いて向った。というのも海戦の前この都市はダレイオスの将軍ファルナバゾスおよびラケダイモンの指揮官クレアルコスに寝返っていたからである。その都市が無防備であると分かるとアテナイ軍は易々と目的を達し、キュジコス人から資金を徴発した後セストスへと航行していった。

アルキビアデスの寝返り
41 ラケダイモンの提督ミンダロスは敗北した戦場からアビュドスへの逃げた後に損傷した船を修理し、またスパルタ人エピクレスをエウボイア島の三段櫂船を速やかに連れてくるよう命じて送った。エウボイア島に到着するとエピクレスは五〇隻の船を集めて急いで海へと漕ぎ出した。しかし三段櫂船はアトス山の下で大嵐にあって船と僅か一二人の生き残りを除いた乗組員の全てが失われた。その事実はエフォロスの言うところでは、コロネイアの神殿に立つ以下のような碑文の献辞に書かれている。
五〇隻の船の乗組員より災難から逃れし者、
アトスの鋭き崖に体を叩きつけられ、
一二人のみ、残りの皆は口を開けし海の底
激しき風に遭い、船と共に逝く。
 およそ同時にアルキビアデスが、サモス島にいてファルナバゾスが三〇〇隻の艦隊を率いてラケダイモン軍の援軍に来ないように彼が意図した通り説き伏せたことを既に聞き知っていたアテナイ軍のところまで一三隻の三段櫂船を引き連れて海路でやって来た。そしてサモスの部隊が彼を友好的に迎えたため、彼は亡命からの帰国について彼らに語り、祖国への多くの奉仕をするという約束を申し出た。同様にして敵によって祖国を代償に勇気の証明を与えることを強いられていたため、彼は自己の行いを弁明して自らの運命にぼろぼろと涙を流した。
42 兵士たちは熱狂的にアルキビアデスの申し出を受けてアテナイへとそのことについての手紙を送り、人々はアルキビアデスを放免して彼にも指揮権を分け与えることを票決した。彼らは彼の大胆さと彼がギリシア人の間で博していた名声を見て取り、尤もなことに彼らへの彼の支持は彼らの目的に少なからぬ重みを加えるだろうと思った。さらにその時の政府で指導権を持ち、賢明さで評判だったテラメネスはアルキビアデスを呼び戻すよう人々に勧めた。このことについての手紙がサモスへと伝えられると、アルキビアデスは手持ちの一三隻の船に九隻を加え、それらを率いてハリカルナッソスへと航行してその市から資金を徴発した。この後、彼はメロピスを荒らして多くの戦利品を携えてサモスへと戻った。多くの戦利品が山と積まれたため、彼はサモスの兵士と自身の手勢に戦利品を分配し、彼の恩恵を受けた人たちはすぐに彼に好意を持った。
 およそ同時期に、〔ペルシアの〕守備隊に牛耳られていたアンタンドロス人はラケダイモン人に守備隊を追い払って彼らの国を自由に暮らせる場所にするのを援助する兵士を送ってくれるよう送った。三〇〇隻の艦隊をフォイニキアに送り返したことでファルナバゾスを非難していたラケダイモン人はアンタンドロスの住民を援助した。
 歴史家のうちでトゥキュディデスは、九巻に分けている者もいるものの、八巻に二二年の歳月を収めた彼の歴史書を〔ここで〕終わらせ、トゥキュディデスが筆を折ったところからクセノフォンとテオポンポスが〔彼らの歴史書を〕始めた。クセノフォンは四八年間の年月を収め、テオポンポスは一七年間のギリシアの歴史の事実を書いてこの一二巻本をクニドスの海戦で説明を終えた。
 ギリシアとアジアの情勢は以上のようなものであった。ローマ人はアエクィ人と戦争をして強力な軍で以って彼らの領土に攻め込んだ。そしてボラエという名の都市を包囲して強襲によって落とした。

エゲスタによるカルタゴへの援軍要請、カルタゴ戦争の開始
43 この年の出来事が終わった時にはアテナイではグラウキッポスがアルコンで(23)、ローマではマルクス・コルネリウスとルキウス・フリウスが執政官に選出された(24)。この頃シケリアではシュラクサイ人に対抗してアテナイ人と同盟していたエゲスタ人は戦争の結末に非常に恐怖していた。というのも尤もな理由あることではあるが、彼らはシケリアのギリシア人から自分たちが彼らに犯した過ちのために罰を受けると予想していたからだ。さらにセリヌス人が土地問題で彼らとの戦争に踏み切ると、シュラクサイ人がこれを口実として戦争でセリヌス人と手を結んで彼らの国を完全に滅ぼす危険をもたらすのではないかと思い、彼らは自発的にそこから撤退した。しかしセリヌス人は領土問題とは別に隣国の領地の大部分を彼らで切り分けることを提案し、そのためエゲスタの住民はカルタゴに使節団を送って救援を求め、市をカルタゴ人に引き渡すことを申し出た。使節が到着して元老院の前に立って人々が彼らに与えた指示を述べると、カルタゴ人は少しの困惑も見せなかった。というのもその時の彼らは戦略上の要地に位置するその都市を欲しがっており、同時にアテナイの軍勢をシュラクサイ人が破ったことを丁度知っていたために彼らを恐れていたからだ。そして彼らの中の第一の市民であったハンニバルが彼らに市を獲得するよう忠告すると、彼らは使節に彼らを助け、戦争が起こった場合にはその事業を監督するために向かうと応答し、その時合法的に支配権を握っていたハンニバル(25)を将軍に選んだ。彼はゲロンとの戦争を戦ってヒメラで死んだハミルカルの孫で、父の敗北のために追放されてセリヌスで生涯を終えたゲスコンの息子であった。
 今やギリシア人を憎悪して同時に父祖が受けた不名誉を雪がんと望んでいたハンニバルは自国の利益のために情熱を燃やした。そこでセリヌス人が問題になっている土地の割譲に満足していないのを見て取ると、彼はエゲスタ人と共同でシュラクサイ人と問題の決着を論議すべく彼らに使節を派遣した。外見上彼は公正に行動するように見せかけていたが、実際はセリヌス人が調停案への賛成を拒否すればシュラクサイ人は同盟者として彼らの側にはつくまいと信じていた。セリヌス人は調停案を拒絶し、カルタゴ人とエゲスタ人の使節に詳細に応答するためにセリヌス人もまた使節を派遣したため、最終的にシュラクサイ人はセリヌス人との同盟とカルタゴ人との平和状態を維持することを票決した。
44 使節が戻った後、カルタゴ人はエゲスタ人へと五〇〇〇人のリビュア兵と八〇〇人のカンパニア兵を派遣した。その部隊はシュラクサイ人との戦争でアテナイ軍を助けるためにカルキディケ人に雇われており、破滅的な結末の後に彼らが帰国した時には雇い主がいなかったが、カルタゴ人が彼ら全員のために馬を買い、高給を払ってエゲスタへと送った。
 その頃繁栄していて都市人口が非常に多かったセリヌス人はエゲスタ人と争っていた。セリヌス軍は最初は戦列を展開して軍が優勢に立ったために国境地帯の土地を荒らしたが、この後に敵を見くびって方々に分散した。エゲスタ軍の将軍たちは好機到来と見るやカルタゴ軍とカンパニア軍の助力を受けて彼らを攻撃した。その攻撃は予期せぬものであったために彼らは容易くセリヌス軍を敗走させ、およそ一〇〇〇人の兵を殺して全ての戦利品を鹵獲した。その戦いの後、セリヌス人はシュラクサイ人に、エゲスタ人はカルタゴ人に援助を請うため直ちに使節を派遣した。両者は援助を約束し、かくしてカルタゴ戦争が始まった。カルタゴ人は戦争の規模を予測してハンニバルを将軍とし、軍備に関する責任を委任して熱狂的にあらゆる支援をした。ハンニバルは夏とそれに続く冬の間イベリアから大量の傭兵を徴募して市民の中から少なからぬ数の兵を集めた。また彼はリビュアに赴いてあらゆる都市から最も屈強な男たちを選び出し、船を準備して春の開始と共に軍を輸送しようと計画した。
 かくしてシケリアの情勢は以上のようなものであった。

ダルダノス沖の海戦
45 ギリシアではロドス人にて、イタリアからの三段櫂船の提督であったドリエウスはロドスでの騒擾を鎮圧した後、ミンダロスに合流しようとしてヘレスポントスへと航行した。というのも後者〔ミンダロス〕はアビュドスにあって方々からペロポネソスの同盟国の船を集めていたからだ。そしてドリエウスがトロイア地方のシゲイオン近くで準備をしていると、セストスのアテナイ軍は彼が沿岸沿いに航行してきているのを知って彼に向けて全部で七四隻の船団を進発させた。ドリエウスは一旦は何が起こったのかを知らずに針路を取っていたが、警戒していた敵の大艦隊を見て取るとダルダノスに投錨する以外に彼の軍を守る術はないと悟った。彼はそこに兵を上陸させて市の守備兵を接収し、次いで速やかに投擲兵器の大量の蓄えを集めて兵士を船の全部と陸の有利な地点に配置した。アテナイ軍は全速で航行し、海岸から離れて船を操作し、数の優位を頼んであらゆる方向から攻めて敵を疲弊させた。ペロポネソス軍の提督ミンダロスは状況を知ると速やかに全艦隊を率いてアビュドスを出港して八四隻の艦隊でもってドリエウスを救出すべくダルダノス海峡へと航行した。ファルナバゾスの陸軍もまたそこにおり、ラケダイモン軍を支援した。
 艦隊が互いに近づくと、双方は戦いのために三段櫂船を近づけた。九八隻の艦隊(26)を有していたミンダロスは左翼にシュラクサイ軍を配置し、自ら右翼を指揮した。アテナイ軍はトラシュブロスが右翼を、トラシュロスがもう一方を率いた。両軍がこのような態勢に入った後、その指揮官たちは戦いの合図をし、命令の合図を受けてラッパ手が攻撃の音を鳴らした。漕ぎ手に熱意は欠けておらず舵手は舵柄を巧みに操作し、起こった戦いは驚くべき壮観を呈した。三段櫂船はどこでも衝角攻撃をしようと動き、その度ごとに舵手は決定的な瞬間に船を効果的に転換させて衝撃を与えた。海兵は自分たちの船が敵の三段櫂船に側面を晒したと見て取れば生命に絶望して恐怖に駆られたが、舵手が巧みな操作をして攻撃をかわすと彼らは逆に狂喜して希望にいきり立った。
46 甲板にいた者で耐えることができず熱意を保ちえなかった者はいなかった。かくして一方である者は敵からかなりの距離まで弓の雨を降らし続けてその場はすぐに矢玉で一杯になり、他の者は彼らが近づく毎に槍を投げ、ある者は守る海兵を、またある者は敵の舵手を倒すために全力を尽くした。そして船が互いに接近すればどこあろうと彼らは槍で戦うだけでなく絶えず敵の三段櫂船に飛び移って剣で戦った。そして各々の背後では勝った者たちが鬨の声を上げて他の者は援護射撃をし、戦場は騒音でごった返した。
 双方の高ぶった非常な競争心のために長い間戦いは拮抗したが、やがてヘレスポントスへと偶然航行していたアルキビアデスが予期せずサモスから二〇隻の船と共に出現した。その艦隊がまだ遠くにいた時には双方は自分たちの方に援軍が来たと期待し、その希望でいきり立ってさらに勇敢に戦った。しかしその艦隊が近くに来てラケダイモン軍への信号が見られなかったものの、アテナイ人アルキビアデスが自身の船から申し合わせていた通りの信号であった紫の旗を掲げると、ラケダイモン軍は落胆して敗走に転じ、アテナイ軍は今や彼らが得た優位のために意気盛んになり、逃げようとする船を激しく追撃した。そして彼らは速やかに一〇隻の船を拿捕したが、暴風雨が起こってその結果追撃は妨げられた。というのも高波のために小舟は舵柄が効かなくなり、攻撃しようとすると船は後ろに戻ったために衝角攻撃の試みがうまくいかなくなったからだ。最終的にラケダイモン軍は岸にたどり着くとファルナバゾスの陸軍の方へと逃げ、アテナイ軍はまず浜から船を曳こうと試みて一か八かの戦いを敢行したが、ペルシア軍によって彼らの試みが阻まれたのを悟るとセストスへと航行していった。というのもファルナバゾスはラケダイモン軍から責められないように自己防衛をしようとしてアテナイ軍と一層激しく戦い、同時にフォイニキアへ三〇〇隻の三段櫂船を送ったことに関してはアラビア人の王とエジプト人の王がフォイニキアを狙っていたとの知らせを受け取ったために自分はそうしたのだと彼らに説明した。

エウボイア・ボイオティア間の架橋
47 上述のように海戦が終わるとアテナイ軍はその時にはすでに夜だったがセストスへと航行した。しかし日が昇ると彼らは損傷した船を集めて前の戦勝記念碑の近くにもう一つの戦勝記念碑を建てた。そしてミンダロスは夜の第一哨戒時にアビュドスへと出発してそこで損傷した船を修理してラケダイモン人に兵士と船の援軍を求める手紙を送った。というのも彼は艦隊を準備し、ファルナバゾスの軍と共同でアテナイ人と同盟を結んでいたアジアの諸都市を包囲しようと思っていたからだ。
 カルキスの人々とエウボイア島の残りの住民の大部分はアテナイ人に反旗を翻しており、したがって彼らが島で暮らしていこうとすれば、海の支配者であったアテナイ人に降伏する羽目になるのではないかと非常に心配していた。したがって彼らはボイオティア人と共同でエウリポスにかかり、エウボイア島とボイオティアを結ぶ土手を作るよう求めた。エウボイア島は他の者にとっては島であるが、彼らにとっては陸続きであることには特別な利点があったため、ボイオティア人はこれに賛成した。したがって全ての諸都市は土手の建設に熱心に取り組んで互いに競い合った。というのも命令は市民に一挙に通達されただけでなく居留外国人にも下され、かくして作業には多くの人が加わったために作業は速やかに完了した。土手はエウボイア側ではカルキス、ボイオティア側ではアウリスの近くに、それらの場所が最も狭い海峡になっていたために建設された。さて、以前にもその場所にはいつも海流があり、海は頻繁にその海流を変えており、問題の時には流れの強さは海が非常に狭い海峡に局限されていたためにずっと大きく、その道は一隻の船しか通れなかった。高い塔もまた両端に建設され、木の橋が海峡に架けられた。
 アテナイ人によって三〇隻の艦隊と共に派遣されていたテラメネスはまず労働者たちの邪魔をしようとしたが、強力な部隊が土手の建造者の側にいたために彼はこの計画を諦めて島々へと航海した。そして両市民とその同盟者を貢租(27)から解放しようと望んだため、彼は敵の領地を荒らして大量の戦利品を集めた。また彼は同盟諸都市に滞在し、政府の変革を支援したとしてそれぞれの住民から資金を徴発した。そしてパロス島に投錨して市が寡頭制下にあったことの見て取ると、彼は人々に自由を取り戻させて寡頭制に参加していた人々のものだった多額の資金を徴発した。

コルキュラの内戦
48 この時にコルキュラで深刻な内戦が勃発して大殺戮が起こった。その原因としては様々な原因が述べられているが、全ての原因の中の最たるものは住民相互の憎悪であった。どんな国でもついぞこのような市民の殺戮もこれほどに流血を極めた大きな論争もなかった。目下の内戦より前に同胞市民によって殺された人の数は一五〇〇人ほどであり、その全員が指導的な市民であった。そのような不運がすでに彼らに降りかかっていたにもかかわらず、運命の女神が彼らに二度目の災厄をもたらし、彼女は彼らの間に広がっていた不満をますます増大させた。最も高名なコルキュラ人たちは寡頭制を希望してラケダイモン人の考えを支持し、一方民主制を支持していた大衆はアテナイ人との同盟を望んだ。ギリシアの覇権を争っていた人々は互いに対立する主張に身を捧げ、例えばラケダイモン人は政府の権力を彼らの同盟国の主導的な市民の手に持たせる政策をとり、一方でアテナイ人は諸都市に民主政府をいつも打ち立てた。したがってコルキュラ人は彼らのうちで最も影響力のある市民たちが市をラケダイモン人に引き渡そうと計画しているのを知るとアテナイ人に市を守る軍を求める手紙を送った。アテナイ人の将軍コノンはコルキュラへと航行してこの市にナウパクトスのメッセニア兵(28)から六〇〇人の兵士を残し、一方自らは艦隊と共に航行してヘラの神域に錨を降ろした。その六〇〇人は市場が開いた時に大衆派の遊撃兵と共に不意にラケダイモン人の支持者に向けて進み出で、その一部を逮捕して他を殺し、国から一〇〇〇人以上を追放した。また彼らは亡命者の多さによる影響力を警戒して奴隷を解放して居住外国人に市民権を与えた。今や国から追放された人たちは対岸の本土へと逃げたが、亡命者の考えを支持していて数日後にもまだ市にいた一部の人たちは市場を占領して亡命者たちを呼び戻し、戦いの決着をつけようとした。夜が来て戦いが終わると彼らは互いに同意に至り、戦いを止めて祖国で共に暮らすことにした。
 コルキュラでの殺戮の結果は以上のようなものであった。

キュジコス近くでの陸海での戦い
49 マケドニア人の王アルケラオスはピュドナの人々が彼の命令に従わなかったため、大軍でその都市を包囲した。また、彼は艦隊を率いてきたテラメネスからの援軍を受けたが、包囲が長引いたためにテラメネスはトラキアへと航行し、そこで全艦隊の司令官であったトラシュブロスと合流した。その頃にアルケラオスはピュドナの包囲をより厳しく締め付け、そこを落とした後に海から二〇スタディオンの距離に市を移動させた。
 冬が終わるとミンダロスは同盟諸国並びにペロポネソス半島から多くの船が来ていたため、方々から三段櫂船を集めた。しかしセストスにいたアテナイの将軍たちは敵が集めつつある艦隊が大規模であることを知ると、彼らが全ての三段櫂船艦隊で攻撃をかけてくれば自分たちの船は拿捕されてしまうのではないかと非常に警戒した。したがって彼らの側にいた将軍たちは彼らがセストスに有していた船の針路を転じ、ケルソネソス半島を周航してカルディアに停泊させた。そして彼らはトラキアのトラシュブロスとテラメネスに可及的速やかに艦隊と共に駆けつけるよう要請すべく三段櫂船を送り、またレスボスからアルキビアデスを彼が有していた艦船もろとも召還した。全艦隊が一カ所に集まると将軍たちは決戦へと逸りたった。ラケダイモンの将軍ミンダロスはキュジコスへと航行して全軍を上陸させてその市を包囲した。ファルナバゾスもまた大軍を率いてミンダロスのキュジコス包囲を助け、ミンダロスはそこを強襲によって落とした。
 アテナイの将軍たちはキュジコスへと向かうことを決め、全船を率いて出港してケルソネソスを周航した。彼らは最初にエレオスに到着した。そしてその後、艦隊の数を敵に知られないようにするために用心して夜にアビュドス市を通過した。プロコンネソスに到着すると、彼らはそこでその夜と翌日を費やして彼らと共に船に乗っていた兵をキュジコス人の領地に上陸させてその指揮官カイレアスに市に向けて軍を率いてゆくよう命じた。
50 将軍たちは海軍を三隊に分け、アルキビアデスが一隊を、テラメネスがもう一隊を、そしてトラシュブロスが三つ目の隊を指揮した。今やアルキビアデスはラケダイモン人と一戦交えようと望んで自身の手勢と共に他の部隊よりずっと先を進み、一方テラメネスとトラシュブロスは敵の周りをぐるぐる回り、敵が出航したならば市への退路を絶とうと計画した。ミンダロスは数にして二〇隻のアルキビアデス艦隊の接近だけを知って他の艦隊を知らなかったため、彼らを見くびって市から八〇隻の艦隊を率いて彼を攻撃すべく出航した。そして彼がアルキビアデス艦隊の近くまで来ると、アテナイ軍は命令された通り逃げるふりをし、ペロポネソス艦隊は調子に乗って勝ったも同然だと信じて彼らを激しく追撃した。しかし市からかなりの距離まで彼らを引き付けるやアルキビアデスは信号を上げた。そしてこれがなされると同時にアルキビアデスは突然敵へと反転し、テラメネスとトラシュブロスが市の方へと航行してラケダイモン軍の退路を絶った。ミンダロスの兵は敵船が大規模で数で勝っていることを今や見て取ると、大変な恐怖に駆られた。最終的にアテナイ軍があらゆる方向から現れ、市への進路からペロポネソス軍のところまで来ると、ミンダロスは安全を求めてファルナバゾスが軍を置いていたクレロスと呼ばれる場所の近くに上陸せざるを得なくなった。アルキビアデスは彼を激しく追撃して数隻の船を沈め、他は損傷させて捕え、陸に停泊されていた大部分の船を拿捕して四つ爪の錨を投げてそれらを陸から曳こうとした。ファルナバゾスの歩兵はラケダイモン軍を助けに向かって大出血が起こり、アテナイ軍は勝ちに乗じていたために賢明さよりも非常な大胆さでもって戦い、一方でペロポネソス軍は数でずっと優っていた。ファルナバゾスの軍はラケダイモン軍を支援して陸のより安全な場所から戦った。しかしその歩兵が敵を援護しているのを見るやトラシュブロスはアルキビアデスと彼の兵士を助けようとして残りの海兵を陸に上げ、またテラメネスにカイレアスの陸上部隊に加わって陸戦へと全速で向かうよう求めた。
51 アテナイ軍がそのような行動をとっていた一方で、ラケダイモンの司令官ミンダロスは曳かれつつあった船を守るべくアルキビアデスと戦っており、彼はスパルタ人クレアルコスをペロポネソス軍の一部を付けてトラシュブロス隊の方へと派遣し、ファルナバゾス軍の傭兵部隊も送った。海兵と弓兵を率いていたトラシュブロスは最初は敵に対して頑強に持ち堪えて多くの敵を殺したものの、自軍もまた少なからぬ兵士が死んだのを見て取った。しかしファルナバゾスの傭兵部隊がアテナイ軍を包囲してあらゆる方向から大軍でもって殺到してきた時、テラメネスが麾下の部隊とカイレアスの歩兵部隊の両方を率いて現れた。トラシュブロスの部隊は疲弊して助かる希望を失っていたにもかかわらず、かくも強力な援軍が到来するや彼らの心はにわかに再び希望を抱いた。長時間に及んだ激しい戦いが起こったが、真っ先にファルナバゾスの傭兵部隊が撤退し始めて彼らの戦列はズタズタになり、最終的にクレアルコスとともに後置されていたペロポネソス軍が相当な打撃を被った後に退却した。
 今やペロポネソス軍が破れると、テラメネスの部隊はアルキビアデスの下で〔ミンダロスと〕戦っていた兵士を助けるべく突っ込んでいった。〔アテナイ〕軍が速やかに一か所に集結したものの、ミンダロスはテラメネスの攻撃で落ち込まず、ペロポネソス軍を分割して半分を敵方へと進ませてもう半分を自ら率い、まずそれぞれの兵士に立派なスパルタの名を辱めぬよう求め、次いで陸戦でアルキビアデスの部隊に対して戦列を組んだ。彼は全軍の先頭に立って船の周りで英雄的な戦いぶりを見せたが、多くの敵を殺したものの、祖国のために勇戦して最終的にアルキビアデスの兵たちに殺された。彼が倒れると、ペロポネソス軍と全同盟軍は恐慌状態に陥って雪崩を打って敗走した。アテナイ軍はある程度敵を追撃し、ファルナバゾスが強力な騎兵隊を率いて全速で向っていたことを知ると船へと戻り、市を占領した後に彼らは一つは所謂ポリュドロスの島での海戦、一つは最初に敵を敗走させた陸戦という二つの勝利のために二つの戦勝記念碑を建てた。その時に市内のペロポネソス軍と戦いから逃げてきた全ての逃亡兵がファルナバゾスの陣営へと逃げ込んできた。相当規模の二つの軍に対して同時に勝利を得たためにアテナイの将軍たちは全ての船を拿捕しただけでなく、多くの捕虜と夥しい量の戦利品もまた手にした。

和平会議とその決裂
52 勝利の知らせがアテナイに来ると、人々は以前の災難(29)の後に市へともたらされた予期せぬ幸運のことを思ってその勝利で意気盛んになり、大衆は総出で神々に犠牲を捧げてお祭り気分で集まった。そして今海上を支配しているため、彼らはラケダイモン人に加担してまだ罰を受けていない諸都市を荒らすべく戦争のために最も勇敢な重装歩兵一〇〇〇人と騎兵一〇〇騎を選び、彼らに加えて三〇隻の三段櫂船をアルキビアデスのところへと派遣した。他方でラケダイモン人はキュジコスで被った災難のことを聞くと、アテナイへとエンディオスを団長とした和平交渉のための使節団を派遣した。任務を与えられると、彼は起立してラコニア人式の言い方で簡潔に話をしたのであるが、このような理由で私は彼がした演説を省くまいと決めたのである。
「アテナイの皆様、我々は双方が今有している諸都市を保持し続け、他方の領地に守備隊を置き続けるのを止め、一人のラコニア人につき一人のアテナイ人で我々の捕虜を解放されるという講和を望んでおります。我々は戦争が我々の双方に有害であることを気にしていないわけではありませんが、あなた方の方に対しての方がずっと有害なのです。私の言葉で機嫌を悪くすることなく事実から学んでいただきたい。我々はペロポネソス全域を、あなた方はアッティカの一部だけを耕作しております(30)。戦争によって全ての同盟者がラコニア人の側へと移り、それによってアテナイ人の敵へともたらしたものと同じくらい多くの同盟者をアテナイ人から奪い取ることになりました。我々のためには人の住む世界で最も富裕な王(31)が、あなた方のためには人の住む世界で最もみすぼらしい人々が戦費を支払っております。したがって我々の兵は金払いの良さからして戦意が高く、一方であなた方の兵は彼ら自身の財布から戦争のための税金を払っているために困難と戦費の両方のために減っております。二つ目の点ですが、我々が海で戦えば、我々は国家の資源のうちで船体のみを危険に曝すことになるでしょうが、その一方であなた方は市民の大部分を乗組員として船に上げております。これが最も重要なことでありまして、よしんば海での作戦行動で敗れたとしても、スパルタの歩兵は逃げることの意味すら知らないので、我々は陸の支配権を文句なしにこれまで通り維持するでしょうが、もしあなた方が海で撃退されれば、陸の覇権のためではなく生きながらえるために戦うことになるのです。
 戦いにあたって我々がかくも大きな優位を持っているにもかかわらず、なぜ我々があなた方に平和を説くのかを示すという仕事が私にはまだ残っております。私はスパルタが戦争から利益を得ていることのみならず、アテナイ人よりも被る犠牲は少ないと断言するものであります。不幸になるまいとする力を持ちながら敵と不運を分け合うのに満足を感じるのは愚者だけです。といいますのも敵の破滅によっては人の苦しみから得たものに釣り合う喜びがもたらされることはありません。そして我々が協定を結びたいと思うのはそれらの理由だけのためではなく、我々の持つ父祖の慣習の故でもあります。戦争に付随する競争心から生じる多くの恐るべき災難を考えればこそ、我々は全ての神々と人々の視点からこれらのことについて全ての人に僅かなりとも責任を負っていることを明らかにすべきであると信じております」
53 このラコニア人がそれと似たような話をした後にアテナイ人のうちで最も道理を弁えた人たちの感情は講和へと傾いたが、個人的な利益のために戦争を扇動して妨害をしていた人たちは戦争を選んだ。この感情の支持者の一人はクレオフォンであり、彼はこの時に最も影響力のある民衆指導者であった。彼は起立して自派の事柄について長々と論じて数々の彼らの軍事的成功を引き合いに出し、まるで戦争での有利を今一方に、そして今他方にという風に宣言するのは運命の女神のすることではないかのように人々を元気付けた。したがってアテナイ人は無分別な相談をしてやがてそれが彼らにとって良からぬことになり、〔敗戦時には〕耳触りの良い言葉で騙されて今度こそ本当に挽回不可能な致命的大失態を犯したことを後悔した。しかし後に起こった出来事はしかるべき時代との関わりで述べられることになるであろうから、当座は我々はアテナイ人が成功で得意になり、アルキビアデスが彼らの軍の指導者であったために多くの大きな希望を抱き、すぐに覇権を取り戻せるだろうと考えたことを述べるつもりである。

カルタゴ軍によるセリヌスの包囲
54 この年の出来事が終わった時にアテナイではディオクレスが主要な地位にあり(32)、ローマではクィントゥス・ファビウスとガイウス・フリウスが執政官職にあった(33)。この時カルタゴ人の将軍ハンニバルはイベリアから集めた傭兵とリビュアから徴募した兵士、人員の乗り込んだ六〇隻の軍船を集結させ、一五〇〇隻の輸送船を揃えた。それらに彼は兵士、攻城兵器、投擲兵器、そして他全ての付帯物を乗せた。艦隊と共にリビュア海を渡った後に彼はリビュアに向かい合うリリュバイオンと呼ばれていた岬でシケリアに上陸したのであるが、丁度その時セリヌスの騎兵がその地域に滞在しており、上陸した艦隊が大規模であることを見て取ると速やかに同胞市民に敵の出現を知らせた。すぐにセリヌス人はシュラクサイ人へと手紙の配達員を送って救援を求めた。ハンニバルは軍を上陸させて野営し、この時ある井戸をリリュバイオンと名付け、その出来事の何年も後に都市がそこに建設されると、その井戸にちなんで市に〔リリュバイオンという〕名前が付けられた。ハンニバルの全軍はエフォロスの記録するところでは歩兵二〇万人と騎兵四〇〇〇騎と言われているが、ティマイオスの言うところでは一〇万人もいなかった。モテュエあたりの湾に彼は艦隊を陸揚げし、その誰もがシュラクサイ人に彼らと戦争をしたりシュラクサイへと海軍を率いて沿岸航行するために彼は来たのではないという印象を与えようと望んでいた。エゲスタ人と他の同盟者から提供された兵士を軍に加えた後、彼は陣を畳んでリリュバイオンからセリヌスへと向かった。マザロス川にさしかかると彼はその近くにあった交易所を攻撃し、市の前へと到着すると軍を二分した。市を囲んで攻城兵器を運んだ後、彼は大急ぎで攻撃をかけた。彼は異常な大きさの六つの塔を引き具し、城壁へと鉄板で覆われた同じ大きさの破城鎚を進ませた。さらに非常に大勢の弓兵と投石兵を使って彼は胸壁の戦闘員を打ち倒した。
55 長らく包囲戦を経験しておらず、カルタゴ人の側に立ってゲロンとの戦争を戦った唯一のシケリアのギリシア人であったセリヌス人は味方であった人たちによって自分たちがこのような恐るべき状況に陥るとは思ってもみなかった。しかし攻城兵器の大さと敵の大軍を知ると、彼らは恐怖して彼らに降りかかりつつある危険の大きさに意気消沈した。しかし彼らは救援の望みを完全には捨てておらず、シュラクサイ人とその他同盟者がすぐに来ると期待して全民衆が城壁から敵を退けようとした。現に若い盛りにあった全ての人は武装して必死に戦い、一方老人は彼らを支え、城壁を囲んで若者に彼らを敵の隷属下に置かないでくれと懇願した。婦人と少女たちは父祖の土地の防衛者のために料理と製粉をこなし、平時に大事にしていた慎ましさと恥の意識を顧みなかった。かようなまでの驚愕が広がったために重大な危機に際して女性の協力が求められたのである。
 兵士に市の略奪を約束していたハンニバルは攻城兵器を投入して最良の兵士で以って城壁を激しく攻撃した。ラッパ手は揃って一斉攻撃の信号を発してカルタゴ軍は鬨の声を上げて城壁を破城鎚の力で揺らし、一方塔の高さのために塔の上の戦闘員は多くのセリヌス人を殺した。長らく平和を享受していた彼らは城壁さえ放置しており、そして木の塔が高さで城壁よりずっと優っていたために城壁は簡単に破られた。城壁がカンパニア兵の手に落ちると、彼らは優れた功業を成し遂げるべく迅速に市内に入った。今や彼らは非常に数で少ない敵に初っ端から恐怖を振りまいたが、その後多くの者が防衛軍の救援に集まると彼らは多くの損害を受けて味方の方へと押し戻された。彼らが道を切り開いた時には城壁はまだ完全には修繕されておらず、彼らは攻撃に際して困難な土地にぶつかって易々と圧倒された。夜になるとカルタゴ軍は攻撃を停止した。
56 そう長くは敵の兵力に持ち堪えることができるはずもなかったため、セリヌス人は最良の騎兵を選び出してすぐさま可及的速やかな来援を求めるべくある者をアクラガスへ、他の者をゲラとシュラクサイへと夜に送り出した。さてアクラガス人とゲラ人はシュラクサイ人が一丸となってカルタゴ人に向けて自分たちの兵を率いてくれることを望んでいたために彼ら〔の応答〕を待った。シュラクサイ人は包囲に関する事実を知ると、まずカルキス人との戦争を中止し、次いで市は強襲によらず包囲によって降伏に追い込まれるだろうと考えて郊外から兵を集めて大層な準備をするのに幾ばくかの時間を費やした。
 夜が明けるとハンニバルは夜明けに四方八方からすでに倒壊していた城壁の部分に攻撃をかけ、次に攻城兵器によって裂け目を作った。そして彼は城壁の倒壊した地区を清掃して最良の兵に交代で攻撃をかけさせ、徐々にセリヌス軍を押し出した。しかし、まさに生死を賭けて戦う者を力づくで打ちひしぐことはできなかった。双方は大損害を被ったものの、カルタゴ軍が新手の兵を繰り出し続けた一方でセリヌス軍には支援に回る予備戦力がなかった。包囲戦はこれ以上ないほどに激しく九日もの間続き、カルタゴ軍は恐るべき数の負傷者を出した。イベリア兵が城壁の倒壊したところに上ると、屋根の上にいた女性が大声を上げたためセリヌス人は市が陥落しつつあると考えて狼狽し、城壁を捨ててこぞって狭い小道の入り口に集まり、通りに障害物を作って長い時間敵を食い止め続けた。カルタゴ軍が攻撃をかけたため、多くの女性と子供が屋根の上に避難してそこから石と煉瓦を敵の頭上に向かって投げた。長い時間カルタゴ軍の状況は家々の壁のために路地の兵士を包囲し、屋根から彼らに矢玉を放つ兵士のために互角の条件で戦うことになっていたために芳しくなかった。しかし、戦いが午後まで続いたために戦闘員が家々から放つ投擲兵器は使い果たされ、カルタゴ軍は重い損害を受けた部隊を絶えず交代させ、新たな条件で戦い続けた。最終的に城壁内の兵の数が着実に減っていったために敵は絶えず力を増しつつ市に突入し、セリヌス人は路地に追い詰められた。
57 かくして市が陥落すると、ギリシア人では悲嘆に暮れて嘆き悲しむ様が見られ、夷狄では歓声と様々なものが混ざった叫び声があがった。前者の目には彼らを取り囲んだ大惨事が映ったために恐怖でいっぱいになり、一方後者はその勝利で意気を上げて仲間に完膚なきまでに叩き潰すよう説いた。セリヌス人はアゴラに集まって全員がそこで戦いながら死んでいった。夷狄は市の全域に散らばって住居で見つけたもので価値がある物は何であれ略奪し、一方家の中で見つけた住民は家もろとも焼き殺し、街路で他の者が戦っていれば、性別年齢関係なく子供女であろうと老人であろうと斬り伏せ、一片の情けも見せなかった。彼らは習慣に従って死体の手足を切り、ある者は手の束を持ち出してそれらを投槍や槍に突き刺した。彼らは子供と一緒に神殿に逃げ込んでいたのが見つかった女性を殺さないように味方に呼びかけ、彼女らだけに生命を保証した。しかし彼らはこれを不幸な人たちへの慈悲心から行ったのではなく、その女性たちが捨て鉢になれば神殿に火を放つのではないかと恐れたためであり、そうなれば彼らは奉納品として彼らから逃れるかくも大きな富を戦利品とすることができなかったのである。これほどまでに夷狄は残虐性において他の全ての人を圧倒していたため、神への冒涜は行われないだろうと期待して聖域に逃げ込んだ人たちを残りの人類は助けるものの、カルタゴ人は逆に神々の神殿を略奪するために敵に手をつけないでおいたのだ。夜になるまで市は略奪され、一部の家は焼き払われ、他は徹底的に破壊され、全域が血と死体で満たされた。五〇〇〇人を超える捕虜を含まなければ、死んでいたのが見つかった住民の合計は一六〇〇〇人であった。
58 カルタゴ人の同盟者として奉仕するギリシア人は哀れなセリヌス人の人生の二の舞を考え、彼らの巡り合わせに哀れみを感じた。女性は今や享受していた甘ったれた人生を奪われて敵の好色の真っ直中で夜を過ごして酷い恥を晒し、ある者は結婚適齢期の娘がその年齢に相応しからぬ扱いを受けるのを見させられた。夷狄の野蛮さは自由人として生まれた若者にも娘にも夜を与えず、不幸な彼らを恐るべき災難に晒した。したがって婦人たちはリビュアに割り当てられた奴隷にされると同時に子供共々法的な権利のない状況に置かれて横柄な扱いに屈従して主人に従うよう強いられたのを見て、そしてその主人らが理解できない言葉を話して獣のような性格をしていたことに気付き、子供が死者のように生きていることを嘆き、虐待で身を切るような傷を魂に受け、苦しみによって発狂して激しく運命を悼んだ。一方で国で戦死した彼らの父と兄弟は彼らの勇気に相応しからぬ光景を見なくて済んだために幸運であった。虜囚の身から逃がれたセリヌス人は数にして二六〇〇人で、アクラガスに向かって安全を確保し、そこで可能な全ての親切を受けた。アクラガス人は公費で彼らに食料を与え、それを望む私人たちに生きていくのに必要なあらゆる物を彼らに提供するよう勧め、自分たちの国の民家に分配した。

ヒメラの戦い
59 それらの出来事が起こっていた一方でアクラガスに三〇〇〇人のシュラクサイからの選り抜きの兵士がやってきたのであるが、彼らはあらかじめ救援のために大急ぎで派遣されてきたのだ。セリヌスの陥落を知ると彼らはハンニバルに身代金支払いと引き替えに捕虜を解放し、神々の神殿を見逃すことを求める使節団を送った。ハンニバルは、セリヌス人は自らの自由を守る能力がないことを証明したために今は奴隷に落ちぶれたのであり、神々はその住民に立腹したためにセリヌスを見捨てたのだと応答した。しかし難民はエンペディオンを使節として送っており、エンペディオンは常にカルタゴ人の主義主張を支持して包囲の前には市民にカルタゴ人との戦争に踏み切らないよう忠告していたため、ハンニバルは彼に財産を返した。またハンニバルは彼に捕虜になっていた親族を丁重に送り返し、逃げたセリヌス人には市に住んでカルタゴ人への租税支払いのために土地を耕作する許可を与えた。
 今やこの都市は建設時から二四二年間人が住んだ後に陥落した。そしてハンニバルはセリヌスの城壁を破壊した後、全軍でもってヒメラへ向け、とりわけこの都市を灰燼に帰そうと決意して出発した。というのもこの都市は彼の父の亡命の原因であり、その城壁の前で彼の祖父ハミルカルはゲロンに打ち倒されて命を落とし、一五万人の兵士が彼と共に死んでそれに劣らぬ数の兵が捕虜となったからだ。これがハンニバルが罰を加えようと望んだ理由であり、四〇〇〇〇人の兵と共に彼は市からはそう遠くないいくつかの丘に陣を張り、一方全軍のうちの残りと共に市を包囲し、シケロイ人とシカノス人からの一二〇〇〇人の増援が加わった。攻城兵器を設置すると彼は城壁の一カ所を叩き、大兵力での兵士の波状攻撃で戦いを進めて彼の兵は勝利によって意気が上がっていたために籠城軍を疲弊させた。また彼は木の支えで支えて火をつけるやり方(34)で城壁の下を掘り崩し、すぐに城壁の多くの箇所が倒壊した。それから最も厳しい戦いが続き、一方は城壁の内側へ強行突入しようとして戦い、他方はセリヌス人の二の舞になるのではないかと恐れた。したがって守備兵は子供と親と父祖の土地のためにその全てを守るべく戦って夷狄は撃退され、城壁の一部は速やかに修繕された。また、アクラガスと他の同盟諸国から成る全部で四〇〇〇人のシュラクサイ軍が彼らの救援のためにやってきたのであるが、それを指揮していたのはシュラクサイ人のディオクレスであった。
60 その時点で夜が勝利のためのさらなる全ての奮闘を終わらせると、カルタゴ軍は攻撃を諦めた。そして日中になるとヒメラ人は籠城してセリヌス人のようにこの不名誉な仕方で包囲されまいと決意し、城壁に守備兵を置いて到着していた一〇〇〇〇人のほどの同盟軍と共に残りの兵を出撃させた。かくして彼らは敵に出し抜けに襲いかかることで同盟軍が包囲によって囲まれた彼らを助けるために来たと思いこんでいた夷狄の虚を突いた。ヒメラ軍は大胆さと技量でずっと優れており、そしてとりわけ身の安全という唯一の希望によって戦いで優勢になり、当初彼らは第一陣の敵を殺した。無秩序に押し寄せてきていた夷狄の大軍は籠城軍が果敢に出てくるとは予期していなかったために少なからず不利になった。八〇〇〇人の兵士が無秩序に一カ所に押し寄せてくると、その結果、夷狄は互いにぶつかって敵よりも味方によってより大きな損害を被った。ヒメラ軍は城壁から親と子供、親戚が見守っていたために命懸けで彼ら皆の隷属化〔の阻止〕のために戦った。彼らが勇戦したために夷狄はその果敢な行動と予期せぬ抵抗に肝を潰し、敗走に転じた。彼らは無秩序に丘の上の野営地まで逃げ、ヒメラ軍は一人たりとも捕虜にするなと叫びながら彼らに追いすがり、ティマイオスによれば六〇〇〇人以上、エフォロスの言うところでは一二〇〇〇人以上を殺した。しかしハンニバルは彼の兵が壊滅しつつあるのを見て取ると、丘で野営させていた兵を率いて打ち負かされた兵の援軍に向かい、ヒメラ軍が追撃のために無秩序になっていたことに気付いた。激しい戦いが起こってヒメラ軍の本隊は敗走に転じたが、カルタゴ軍に対抗しようとした三〇〇〇人がその優れた戦いぶりにもかかわらず最後の一兵に至るまで殺された。
61 以前ラケダイモン人を助けるために送られていたが、この時にはその遠征のために戻っていたシケリアのギリシア人からの二五隻の三段櫂船がヒメラに到着した時にはこの戦いはすでに終わっていた。シュラクサイ軍が同盟軍と共にヒメラ人の救援のために進軍していると、ハンニバルが選り抜きの兵をモテュエの三段櫂船に乗り込ませてシュラクサイへと向わせ、守備兵が出払っているその市を奪取しようと計画しているという報告がその市に入ってきた。したがってヒメラ軍を指揮していたディオクレスは外国で兵士が戦争を戦っているうちに市が強襲によって落とされないように艦隊の提督たちにシュラクサイへと速やかに向かうよう勧めた。したがって彼らは最良の方策はその市を放棄することであり、人員の半分を三段櫂船に乗り込ませて――ヒメラ領を越えるまで運ぶためである――もう半分で三段櫂船が戻るまで守備させることを決定した。ヒメラ人は憤慨してこの決定に反対したものの、他に取ることのできる方策がなかったために三段櫂船は急いで大勢の女子供と他の住民を混ぜて夜に乗せ、メッセネあたりまで航行していった。そしてディオクレスは兵士を連れて戦死者の遺体を後に残し、〔シュラクサイ〕本国への旅路についた。そして三段櫂船が全員を乗せることができなかった子供と妻を連れた多くのヒメラ人はディオクレスと共に出発した。
62 ヒメラに残された人は城壁で武器を持ったまま夜を過ごし、日が明けるとカルタゴ軍が市を囲んで繰り返し攻撃を仕掛けると、残ったヒメラ人は船の到着を期待して命のことなど考えずに戦った。したがって彼らはその日を持ち堪えはしたものの、翌日、三段櫂船がすでに眼下に収められさえした時に城壁は攻城兵器の打撃と市内へと殺到するイベリア兵を前に破られた。かくして夷狄のある者は来援にやってきたヒメラ人を近寄らせず、一方他の者は城壁を制圧したために味方が入り込むのを手助けした。今や市は強襲によって陥落したため、毫も情けを示すことなく夷狄は捕らえた者を誰であれ殺し続けた。しかしハンニバルが捕虜を取るよう命ずると、殺戮は止んだものの家屋の財産が略奪の対象となった。ハンニバルは神殿を略奪して安全を求めて逃げ込んだ嘆願者を引きずり出した後に神殿に火を放ち、彼は建設以来二四〇年経っていたその市を徹底的に破壊した。捕虜のうち女子供を彼は軍に分配して監視下に置いたが、捕らえたおよそ三〇〇〇人の男は祖父ハミルカルがゲロンに殺された場所まで行かせて皆殺しにした。この後、軍を解散して彼はシケリアの同盟軍を国に帰し、またその時には自分たちはカルタゴ人の成功の立役者であったにもかかわらず、受けた褒賞が割に合わないとしてカルタゴ人に非常に不平を訴えてカンパニア兵が離脱した。次いでハンニバルは軍を軍船と商船に乗せ、同盟諸国に必要な十分な兵を残してシケリアを発った。大量の戦利品を携えて彼がカルタゴに到着すると、市の全ての人が彼を一目見ようと出てきて、かくも短期間で以前のどの将軍よりも大きな偉業を成し遂げた人物として敬意と尊敬を向けた。

ヘルモクラテスの帰還の試み
63 シュラクサイ人ヘルモクラテスがシケリアに到着した。この男はアテナイ人との戦争で将軍職を勤めて国のために大いに貢献しており、シュラクサイ人のうちで大きな影響力を有していたが、後に三五隻の三段櫂船を指揮する提督としてラケダイモン人を助けるために送られると、政敵に陥れられて追放刑に処せられたためにペロポネソス艦隊を後任として送られた人に引き渡した。彼はペルシア人の太守ファルナバゾスと友誼を結んだために遠征の結果、彼から多額の資金を受け取り、メッセネに到着した後に五隻の三段櫂船を建造して一〇〇〇人の兵を雇い入れた。次いで母国を追われていたおよそ一〇〇〇人のヒメラ人も軍に加えると、彼は友人の助けを得てシュラクサイへの帰還を果たそうとした。しかし、この計画に失敗すると、彼は島の内陸部を通ってセリヌスを奪取して市の一部に城壁を築いてまだ生きていたセリヌス人を方々から自分のところへと呼び寄せた。また彼は他の多くの人もその地に受け入れ、かくして六〇〇〇人の精兵の軍勢を集めるに至った。セリヌスを基地として彼はまずモテュエの住民の領地を荒らし、市から彼に向けて出撃してきた彼らを戦いで破り、多くを殺して残りを市壁の内側まで追撃した。この後に彼はパノルモスの人々の領地を荒らし、住民が市の前でこぞって戦いを挑んでくると、そのうち五〇〇人を殺して残りを城壁の内側へと追い込んだ。似たようにしてカルタゴ人の側についていた残りの全ての人々の領地も荒らし、彼はシケリアのギリシア人の賞賛を勝ち得た。とりわけシュラクサイ人の大部分の人もまたヘルモクラテスがその勇気のためにあべこべに追放されてしまったのだと思い、彼への仕打ちを後悔した。したがって民会の会議で彼についての議論が行われた後に人々がその男を追放先から帰国させることを望んだことは当然であり、ヘルモクラテスはシュラクサイで最近あった自分についてのその話を聞くと、政敵たちが反対するだろうと知っていたために追放からの帰国についての慎重な計画を立てた。
 シケリアでの出来事は以上のような次第であった。

ヘレスポントス付近での戦い
64 ギリシアではアテナイ人によって三〇隻の艦隊と強力な重装歩兵部隊および騎兵一〇〇騎と共に送られていたトラシュブロス(35)がエフェソスに投錨した。兵を二つの地点から陸に揚げた後に彼は市を攻撃した。住民は彼らに対して市から出撃して激しい戦いが起こった。エフェソス人の全員が戦いに参加していたために四〇〇人のアテナイ兵が殺されてトラシュブロスは生き残りを船に乗せてレスボスへと去った。キュジコスの近隣にいたアテナイの将軍たちはカルケドンへと航行してクリュソポリスの砦を建設して十分な戦力をそこに残して去った。その任〔クリュソポリス防衛〕についた将官に彼らはポントスを航行する商船から〔通行料として金の〕十分の一を徴収するよう命じた。この後に彼らは軍を分けてテラメネスがカルケドンとビュザンティオン包囲のために五〇隻の船と共に残され、トラシュブロスがトラキアに送られ、彼はその地方の諸都市をアテナイ人の側につけた。アルキビアデスはトラシュブロスに三〇隻の艦隊と共に別の指揮権を授けた後、ファルナバゾスの領地へと航行し、彼らは連携してその領地の大部分を荒らすと、アテナイの人々の戦争遂行のための財産税を軽減しようと望んだために兵士たちに略奪をさせただけでなく戦利品を換金もさせた。
 アテナイ人の全戦力がヘレスポントス地方にあることを知ると、ラケダイモン人はメッセニア人が守備隊を置いて掌握していたピュロスへの遠征を試みた。海では彼らはそのうち五隻がシケリアからのもので、六隻が彼らの市民を乗り込ませたものであった一一隻の船を有しており、陸では十分な兵力を集め、砦を包囲した後に陸海から猛攻を加えた。これを知るやすぐにアテナイの人々は籠城軍救援のためにアンテミオンの息子アニュトス(36)を将軍とした三〇隻の艦隊を急派した。アニュトスは任務のために航行したが、嵐のためにマレア岬を回ることができずアテナイへと戻った。人々はこれに憤慨して彼を裏切りの廉で告訴して裁判に引き立てた。しかしアニュトスはこの重大な危機に陥ったために金を使って身の安全を得て、嫉妬を買収した最初のアテナイ人として評されるに至った。一方ピュロスのメッセニア人はアテナイからの救援を待ってしばらくは持ち堪えたが、敵が絶えず攻撃を掛け続けたために一部は怪我が元で死に、他の者は食糧不足のために酷い窮乏に陥り、講和条約の下でその土地を放棄した。かくしてラケダイモン人はピュロスの主となり、それはアテナイ人がそこを奪取してデモステネスが要塞化した一五年の後であった。
65 それらの出来事が起こっていた一方で、メガラ人はアテナイ人の手中にあったニサイアを奪取し、アテナイ人は彼らに向けてレオトロフィデスとティマルコスを重装歩兵一〇〇〇人と騎兵四〇〇騎と共に急派した。メガラ人は一丸となって武装して彼らを迎え撃ち、シケリアからの幾ばくかの兵を追加した後に「角」と呼ばれる丘の近くで会戦した。アテナイ軍は勇戦して数でずっと勝っていた敵を敗走させ、多くのメガラ兵だけでなく二〇人のラケダイモン兵も殺された。というのもそれはアテナイ軍がニサイアの奪取に憤慨していたためであり、怒りのあまりラケダイモン軍を追撃したのみならず多くのメガラ兵を殺していたのだ。
 ラケダイモン人はクラテシッピダスを提督に選んで二五隻の船に同盟諸国から提供された兵を乗り込ませ、彼らに同盟者を助けに向かうよう命じた。クラテシッピダスはイオニアの近くで幾ばくかの時間を述べるに足ることをすることなく浪費し、キオスの追放者を受け入れた後に彼らを祖国に復帰させてキオス人のアクロポリスを奪取した。帰国したキオス人追放者たちはおよそ六〇〇人におよぶ政敵と彼らの追放の責任者を追放した。そこで彼らは向かい側の本土にある自然的に極度に岩がちだったアタルネウスと呼ばれる場所を占領し、そこを基地としてキオスを掌握した敵との戦争を続けた。
66 それらの事柄が起こっていた一方でアルキビアデスとトラシュブロスはランプサコスを要塞化した後に強力な守備隊をその地に残し、七〇隻の艦隊と五〇〇〇人の兵を率いてカルケドンを荒らしていたテラメネスのところへと軍と共に航行した。軍が一カ所に集まると彼らは市の周りに海から海まで(37)木の柵を立てた。ラケダイモン人によって指揮官――ラコニア人言うところの「ハルモステス」――としてその都市に置かれていたヒッポクラテスは手勢と全カルケドン軍を彼らに向けて率いていった。激しい戦いが起こり、アルキビアデスの兵の奮戦のためにヒッポクラテスが倒れただけではなく残りの兵もいくらか殺され、他は負傷して戦えなくなって市へと逃げ込んだ。この後アルキビアデスは資金を徴発しようと目論んでヘレスポントスおよびケルソネソスへと航行し、テラメネスは以前通りの貢納をアテナイ人が受け取ることでカルケドン人と同意した。次いでそこからビュザンティオンへと兵を率いて向かうと、テラメネスはその都市を包囲して非常に速やかに壁で封じ込めた。金を集めた後にアルキビアデスは多くのトラキア人を彼の軍に合流するよう説き伏せて一緒にケルソネソスの住民へと向けた。次いで全軍を率いて彼はまずセリュンブリアを裏切りによって落として大金を徴発した後に守備隊を残し、ビュザンティオンのテラメネスのところへと迅速にやってきた。軍が合体すると指揮官たちは包囲の準備を開始した。というのも彼らは、非常に多くいたビュザンティオン人を数えなければ、ラケダイモン人ハルモステスのクレアルコスが多数のペロポネソス軍と傭兵部隊を市に置いていたために守備兵で満たされていた非常に富裕だったその都市を征服するためにやって来たのだ。かくして彼らは幾度も攻撃を続けることによっては守備側にさしたる犠牲を与えることができなかったものの、その支配者〔クレアルコス〕が資金を受け取るためにファルナバゾスと会うために市を離れると、或るビュザンティオン人たちが、クレアルコスが厳しい人物であったために市をアルキビアデスとその同僚に引き渡すことに同意した。
67 アテナイの将軍たちは包囲をやめてイオニアへと軍を進めるつもりであるかのように見せかけるため、午後に全艦隊で船出して軍をある程度離れた陸まで退かせた。しかし夜になると、彼らは再び引き返してきて真夜中頃に市の近くまで向かい、あたかも全軍がそこにいるかのように〔ビュザンティオン側の〕小舟を曳いて大きな音を出すように命じて三段櫂船を分遣し、一方彼ら自身は陸軍を城壁の前へで連れてきて市を引き渡す人たちと示し合わせていた信号を待った。三段櫂船の乗組員は命令を実行すると、衝角で数隻の小舟を粉砕し、他の小舟を引っかけ鉤で引っ張り、全員で非常に大きな雄叫びを上げ、市内のペロポネソス軍と詐術に気付かなかった皆が港へと救援に駆けつけた。そこで市の裏切り者たちは城壁から信号を上げてアルキビアデスの兵を梯子によって完全に無傷なままに招き入れたのであるが、それは多くの人が港に押し寄せていたためにできたことであった。何が起こったのかを知るとペロポネソス軍はまず半分の兵を港に残して残りの兵と共に占領された城壁を攻撃すべく速やかに戻っていった。アテナイ軍の全軍がすでに入り口を実質的に制圧していたにもかかわらず、彼らは狼狽えることなく長時間頑強に抵抗してビュザンティオン兵に助けられつつアテナイ軍と戦った。ついにアテナイ軍は市を戦闘によって征服することができず、アルキビアデスは好機を見て取るとビュザンティオン人に向けて彼らには害を及ぼさないという声明を出した。この言葉で市民はペロポネソス軍から寝返った。その上で彼らの大部分が勇敢に戦って殺されてしまっておよそ五〇〇人の生き残りは神殿の祭壇へと逃げ込んだ。アテナイ人はまずビュザンティオン人を同盟者とし、次いで祭壇の嘆願者と協定を結び、ビュザンティオン人に都市を返した。アテナイ軍は彼らを武装解除させてその身柄をアテナイへと輸送してアテナイの人々の裁定に委ねた。

アルキビアデスの帰国
68 その年の終わり(38)にアテナイ人はエウクテモンをアルコン職に任命し、ローマ人はマルクス・パピリウスとスプリウス・ナウティウスを執政官に選出し(39)、九三回目のオリュンピア祭が開催されてキュレネのエウバトスがスタディオン走で優勝した。およそこの頃にはアテナイの将軍たちはビュザンティオンを奪取しており、ヘレスポントスへと向かってアビュドス(40)を除くその地方の諸都市を制圧した。次いで彼らは十分な戦力を付けてディオドロスとマンティテオスを残し、祖国のための偉業を成し遂げ終えた彼ら自身はアテナイへと船と戦利品と共に航行した。彼らが市の近くに来ると、人々はこぞって彼らの成功を喜び、彼らに会おうとやってきて、多くの外国人が女子供と共にペイライエウスに集まってきた。二〇〇隻を下らない船、大量の捕虜、そして非常に多くの戦利品を持ってきていた将軍たちの帰国は驚愕をもたらした。そして自身の三段櫂船を彼らは鍍金を施された武器と花冠、さらには戦利品と全ての装飾で飾っていた。しかし大部分の人はアルキビアデスを一目見ようと港へと群がり、そのために市は完全に空っぽになって人々は競って奴隷を解放した。その時この人は称賛の的となったために指導的なアテナイ人たち〔寡頭派〕はついに公然と、そして敢然と自分たちは大衆に対抗できるだけの強力な人物を得たと考え、一方貧乏な人たちは無責任に市を混乱に投げ込み、窮状から救い出してくれる優れた支持者として彼を得たと思った。というのも大胆さにおいて彼は他の全ての人を圧倒的に凌駕しており、最も説得力ある雄弁家であり、将軍としての力量で彼の右に出る者はおらず、持ち前の果断さで最も成功していたからだ。その上、外見的には並外れた美男であり、その精神には才能が溢れ、偉大な壮挙を目論んでいた。つまるところ、ほとんど全ての人は彼については彼の亡命からの帰国と共に自分たちの企図における幸運が市へと再び舞い込んできた信じていた。さらにラケダイモン人は丁度彼が彼らの側で戦っていた時にうまくいっていたため、彼らはこの男を同盟者とすれば、自分たちは一転して再び繁栄するのではないかと期待していた。
69 かくして艦隊が上陸のために来ると、多くの者がアルキビアデスの船へと向ってきた。彼がそこから歩いてくると皆が彼を歓迎し、彼の勝利と亡命からの帰国を祝った。お返しに彼は群衆に親しげに挨拶をして集会を召集し、自らの行為への長い弁明を申し出て群衆に好意を吹き込み、彼に対してなされた布告の責任は市にこそあると全ての人が賛同した。したがって彼らは没収した財産を返還したのみならず、さらに彼に対してなされた文言と他の全ての行いが書かれた記念石柱を海に投じた。また彼らはエウモルポス家(41)は彼が秘儀を冒涜したと信じた際に彼に向けて述べた呪いを撤回すべしと票決した。そして仕上げとして彼らは彼を陸海の最高指揮権を有する将軍に任命して全戦力を彼の手中に置いた。また彼らは彼が望む他の人たち、つまりアデイマントスとトラシュブロスを将軍に選出した。
 アルキビアデスは一〇〇隻の船に人員を乗り込ませてアンドロス島へと航行してガウリオンを奪取し、城壁でそこの守りを固めた。アンドロス人が市を守っていたペロポネソス軍と共に大挙して彼へと向かってくると戦いが起こり、アテナイ軍が勝利した。市の住民の多くが殺され、逃げ延びた者は郊外に散り散りになって残りは城壁の内側で安全を確保した。アルキビアデスに関して言えば、彼は市に攻撃をかけ〔て落とし〕た後に占領した砦に十分な守備隊を残し、トラシュブロスをその指揮官に任命して自らは軍を連れて離れ、コス島とロドス島を荒らして兵士を養うための夥しい戦利品を集めた。

リュサンドロスの登場、ノティオンの海戦
70 ラケダイモン人は完全に海上戦力を喪失して指揮官のミンダロスをも失ったにもかかわらず、気落ちすることなく将軍としての他のあらゆる資質で優れていると信じられ、すでにあらゆる状況で大胆さを発揮していた男であったリュサンドロスを提督に選出した。指揮権を得るやすぐさまリュサンドロスはペロポネソス半島から十分な数の兵士を徴募して可能な限り多くの船に人員を乗り込ませた。ロドス島へと航行すると彼はロドス島の諸都市が有していた船を軍に加え、次いでエフェソスとミレトスへと航行していった。それらの都市で三段櫂船を武装させた後、彼はキオスから提供された船を呼び寄せ、かくして彼はおよそ七〇隻の艦隊をエフェソスに揃えることになった。ダレイオス王の息子キュロスが父によって戦争でラケダイモン人を支援するために派遣されたと聞くと、リュサンドロスはキュロスのいるサルディスに行ってその若者(42)にアテナイ人との戦争への熱意を喚起して即座に兵士への給与支払いのためのダレイコス金貨一〇〇〇〇枚を受け取った。後にキュロスはリュサンドロスに要望があれば遠慮なく言うに話したわけであるが、それというのもキュロスの言うところでは彼は父からラケダイモン人に彼らが望むものは何であれ提供するようにと命令を受けていたからだ。次いでリュサンドロスはエフェソスへと戻って諸都市の最も影響力のある人々を呼び寄せ、彼らと共に陰謀団を結成し、もしその試みが上手く行けば、市の支配権を各々の集団に与えると約束した。そしてその人たちは互いに嫉妬し合っていたために求められていた分よりも大きな援助を与え、リュサンドロスは迅速且つ驚くような仕方で戦争に役立つ全ての装備品の提供を受けた。
71 アルキビアデスはリュサンドロスがエフェソスで艦隊を艤装しているのを知ると全艦隊を率いてそこへと向かった。彼は港へと向かったが、誰も彼に挑みかかってこないと、彼の直々の船長だったアンティオコスに自分が現れるまでは戦いに応じてはならないと命じて指揮権を委ねてほとんどの船をノティオンへ投錨させ、一方自らは軍船を連れてクラゾメナイへと向かった。それというのもアテナイの同盟国であったこの都市は亡命者による襲撃を受けていたからだ。しかしせっかちな性分で自らの力で何か立派な行いを成し遂げようと熱望していたアンティオコスはアルキビアデスの命令を無視して最良の一〇隻の船に兵を乗り込ませて船長たちに戦いに応じる必要が出てくる場合のための他の準備をするよう命じ、敵へと戦いを挑むべく航行していった。しかし逃亡兵からアルキビアデスと彼の最良の兵士たちの出発を聞き知っていたリュサンドロスはスパルタの名に相応しい打撃を与える好機が到来したと結論した。したがって全船を攻撃のために海へと漕ぎ出させた彼は一〇隻の船のアンティオコスが攻撃のために乗っていた先頭の一隻と出会ってそれを沈め、残りを敗走させてアテナイの船長たちが残りの軍船に人員を乗り込ませて救援にまでやってくるまで追撃したが、〔救援にやってきたアテナイ船は〕全く戦闘隊形ではなかった。アテナイ軍の陸の陣地と遠からぬところで起こった全艦隊の海戦では混乱のために彼らは敗れて二二隻の船を失ったが、捕虜になった乗組員はごく少数で残りは陸へと無事泳ぎ着いた。アルキビアデスは何が起こったのかを知ると急いでノティオンへと引き返してきて全ての三段櫂船に人員を乗り込ませて敵に占拠されていた港へと向かった。リュサンドロスは敢えて彼と戦おうとはしなかったためにサモス島へと針路を取った。

アテナイ市近郊での戦い、アルキビアデスの亡命
72 それらの出来事が起こっていた一方でアテナイの将軍トラシュブロスは一五隻の艦隊を率いてタソスへと航行し、その市から出撃してきた部隊を戦いで破っておよそ二〇〇人を殺した。次いで市の包囲を行った彼はアテナイ人を支持していた亡命者と駐留軍の受け入れ、そしてアテナイ人の同盟者となることを強いた。この後アブデラへと航行して彼はその時代にトラキアで最強であったその都市をアテナイ人の味方に引き入れた。
 さて、以上がアテナイのその将軍たちがアテナイから航行して以来成し遂げたことである。しかしラケダイモン人の王アギスはその時デケレイアに軍と共におり、アテナイの最良の兵士たちがアルキビアデスと共に遠征に出ていたことを知ると、月のない夜に軍を率いて出撃した。彼は二八〇〇〇人の歩兵を有しており、その半分は精鋭の重装歩兵で他の半分は軽装歩兵であった。彼の軍には一二〇〇騎の騎兵もついており、そのうち九〇〇騎はボイテオィア人が提供し、残りはペロポネソス人が彼と共に送り出していたものであった。市に近づくと、彼は前哨部隊に気取られる前に彼らの方へと向っていった。彼は驚いた前哨部隊を易々と蹴散らし、その少数を殺して残りを城壁まで追撃した。事の次第を知ったアテナイ人は老人と丈夫な若者の全員に武器を持って出頭するよう命令を発した。彼らが迅速に呼びかけに答えたため、城壁の周りは共通の危機に立ち向かうべく参集した男たちで満たされた。そしてアテナイの将軍たちは朝に縦深が四列で長さが八スタディオンに展開していた敵軍を見やると、城壁のおよそ三分の二が敵に囲まれているのに気付いて最初、怖じ気付いた。しかしこの後に彼らは敵の騎兵にぶつけるべく数で敵とおよそ互角の騎兵を送り出し、その二つの部隊が市の前で騎兵戦を展開して激しい戦いがしばらく続いた。歩兵の戦列は城壁からは五スタディオンのところにいたが、騎兵は城壁のすぐ近くで戦っていた。独力で以前デリオンでアテナイ軍を撃破していたボイオティア軍は今や一度倒した軍に劣っていることが証明されればそれはとんでもないことだと考え、一方のアテナイ軍は城壁の上に立つ民衆を自分たちの勇気の観客とし、誰もがそのことを知っていたために勝利のためにあらゆる手を尽くした。最終的にアテナイ騎兵は敵を圧倒して多くの敵を殺して残りを歩兵の戦列まで追撃した。この後、歩兵が彼らに向けて進んでくると、彼らは市内へと撤退した。
73 アギスは当座は市の包囲に取りかかるまいと決めてアカデメイアに陣を張ったが、翌日にアテナイ人が戦勝記念碑を建てた後に彼は戦闘体形で軍を出撃させて市内の兵に戦勝記念碑を巡る戦いを挑んだ。アテナイ人は兵を出撃させて城壁に沿って配置し、最初ラケダイモン軍が戦いを挑むべく前進したが、非常にたくさんの投擲兵器が城壁から彼らに向けて投じられたために彼らは市から軍を引き離した。その後彼らはアッティカの残りを荒らし、次いでペロポネソス半島へと出発した。
 アルキビアデスはサモスからキュメへと全船を率いて向かい、キュメ人に対して彼らの領地を略奪する名目を得るために不当な非難を浴びせた。当初の彼は多くの捕虜を獲得して船へと連れていったが、その市の人々が大挙してその救援のためにやってきてアルキビアデスの兵に出し抜けに襲いかかった。一時は攻撃に耐えたが、後に市と郊外から多くのキュメ人の援軍が来るとアテナイ軍は捕虜の放棄を余儀なくされ、艦隊へと身の安全のために逃げた。アルキビアデスはその逆転を大いに悲しみ、重装歩兵をミテュレネから呼び寄せて市の前まで軍を向かわせてキュメ人に戦いを挑んだ。しかし誰も市からは出てこず、彼はその領地を荒らしてミテュレネへと航行していった。キュメ人はアテナイへと使節を送ってアルキビアデスを何ら害を及ぼしていない同盟都市への狼藉のために非難し、また彼に関する多くの罪状もまた寄せられ、彼と不仲であったサモスにいた兵士の一部はアテナイへと航行し、アルキビアデスは民会でラケダイモン人の考えを支持しており、戦争が終結すると同胞市民を支配しようと望んでファルナバゾスとの友情を結んでいるとして弾劾した。
74 大衆はすぐにそれらの告発を信じ始めたため、アルキビアデスの海戦(43)での敗北と彼がキュメ人になした不正のために彼のみならずアテナイ人の名声も傷つけられ、その男の大胆さを猜疑した彼らはコノン、リュシアス、ディオメドン、そしてペリクレス、さらにエラシニデス、アリストクラテス、アルケストラトス、プロトマコス、トラシュブロス(44)、そしてアリストゲネスを将軍に選出した。彼らはそのうちコノンに最初にその地位を与え、アルキビアデスから艦隊を引き継がせるためにすぐに彼を急派した。アルキビアデスはコノンに指揮権を委譲して軍を委ねた後、アテナイに帰るという考えを捨てて一隻の三段櫂船でトラキアのパクテュエへと退いたのであるが、彼は大衆の怒りとは別に彼に対してなされた法的な訴訟を憂慮していたのであった。というのも多くの人が彼がいかに憎まれているのかを見て取ると彼に対して多くの訴訟を出し、そのうち最も重要なものは八タラントンの値の馬に関するものであった。彼の友人の一人であったディオメデスはオリュンピアに彼が世話をしていた四頭組の馬を送り出し、アルキビアデスはいつもそこへと入ってはまるで自分のものであるかのようにその馬を〔オリュンピア祭の戦車競走に参加すると〕記載した。そして彼が四頭立ての戦車競争で優勝すると、アルキビアデスは優勝の栄光を自分のものにして彼に世話を委ねていたその人に馬を帰さなかった。彼はそれら全てのことについて思いをいたし、アテナイ人はしかるべき機会を掴めば彼が彼らに対して行った全ての悪事の罰を加えようとするのではないかと心配していた。したがって彼は自らを追放刑に処した。

ヘルモクラテスの死
75 二頭立ての戦車競争がこの同じオリュンピア祭(45)に追加されており(46)、ラケダイモン人で彼らの王であったプレイストアナクスが五〇年間の統治の後に死に、パウサニアスが王位を継承して一四年間統治した。またロドス島の住民はイエリュソス、リンドス、そしてカメイロスといった諸都市を去り、今はロドスと呼ばれる一つの都市に移住した。
 シュラクサイ人のヘルモクラテスはセリヌスから兵を出発させてヒメラに到着すると、廃墟となっていたその市の郊外に陣を張った。そしてシュラクサイ軍が抗戦していた場所を調べて死者の骨(47)を集め、荷馬車をこしらえてそれらに遺骨を載せて大枚をはたいて飾り立て、シュラクサイへと輸送した。その時ヘルモクラテス自身は、亡命者たちが法によってそこを超えて骨を持っていくのを禁じられていたシュラクサイ領の境界で停止したが、シュラクサイへと荷馬車を運ぶ一部の兵士を送った。ヘルモクラテスは彼の帰国に反対していて概して死者の埋葬を気に留めず、埋葬ができなかった責任があると信じられていたディオクレスが大衆と対立することになり、一方で自らは死者への優しい気遣いために以前享受していた大衆の好感を取り戻せるだろうと思い、このように行動したのであった。今や遺骨が市内へと運ばれるとディオクレスは埋葬に反対し、多数派は埋葬に賛成したために大衆の間で内紛起こった。最終的にシュラクサイ人は残りの死者を弔ったのみならず、総出で出席することで埋葬の行列にも栄誉を与えた。ディオクレスは追放されたものの、シュラクサイ人はその男〔ヘルモクラテス〕の大胆さを警戒してひとたび彼が権力の座に上れば自らを僭主と宣言するのではないかと恐れ、ヘルモクラテスを呼び戻すことさえしなかった。したがってヘルモクラテスは武力に訴える機が熟していないことを理解すると、再びセリヌスへと退いた。しかししばらくして彼の友人が〔シュラクサイから彼を呼び込むために〕彼へと送られてきて、彼は三〇〇〇人の兵と共に出発してゲラ領を通って夜に示し合わせた場所に到着した。兵士の全員が必ずしも彼についてこなかったにもかかわらず、ヘルモクラテスは少数の兵と共にアクラディネ門へと向かい、友人たちがすでにアクラディネ地区を占領したのを見て取ると後続の者を集めるために待機した。しかし事の次第を知るとシュラクサイ人は武装してアゴラに集まり、〔ヘルモクラテスに攻撃をかけた〕彼らは非常に大勢の兵を連れていたためにヘルモクラテスとその支持者の大部分、その両方を殺した。その戦いで殺されなかった者は裁判にかけられて追放刑を言い渡された。したがって、重傷を負った者の一部は大衆の怒りに引き渡されないようにするために親戚によって死んだものとして報告された。その中には後にシュラクサイの僭主となるディオニュシオスがいた。

ミテュレネでの戦い
76 この年の出来事が終わった時(48)、アテナイではアンティゲネスがアルコンの職を引き継ぎ、ローマ人はガイウス・マニウス・アエミリウスとガイウス・ウァレリウスを執政官に選出した(49)。この頃、アテナイの将軍コノンはサモスの軍を引き継いで自分の艦隊を敵艦隊にぶつけようと目論み、その地にあった船と同盟諸国から集めた船を艤装した。そしてスパルタ人はリュサンドロスの提督としての指揮権の任期が満了すると、カリクラティダスを後任として派遣した。カリクラティダスは非常に年若く、狡猾さのない剛直な性格で、未だ外国人のやり方〔奢侈や奸智〕に未経験であったためにスパルタ人のうちで一番の正義漢であった。指揮を執っていた間も彼は都市に対しても私人に対しても悪事を働かず、彼を金銭で堕落させようとしていた人たちに対しては即座に対処して罰していたという点では衆目が一致していた。彼はエフェソスに入港して艦隊を引き継ぎ、既に彼のもとには同盟諸国の船を送られていたため、彼が引き継いだ艦隊はリュサンドロスのものを含めて合計で一四〇隻にのぼった。アテナイ軍がキオス人の領地のデルフィニオンに陣取っていたため、彼は全艦隊を率いて彼らの方へと向かってそこを包囲しようとした。数にしておよそ五〇〇人のアテナイ軍は敵軍が大規模であったために意気阻喪し、その地を放棄して休戦協定の下で敵中を通って去っていった。カリクラティダスはその砦を手にしてそこを破壊して平地にし、次いでテオス人へ向けて航行して夜に市の城壁の内側へと忍び込んで略奪した。この後、彼はレスボス島へと航行して全軍でアテナイの守備隊が陣取っていたメテュムネを攻撃した。繰り返し攻撃をかけたにもかかわらず、彼は当初何もなし得なかった。しかし、その直後に市を裏切った男の助けを得て彼はその城壁の内側へと突入し、財産を略奪したものの住民の命は助けてメテュムネ人に市を返還した。それらの功業の後に彼はミテュレネへと向かってラケダイモン人トラクスに重装歩兵部隊を委ね、彼に陸から速やかに進軍するよう命じて自らは艦隊を率いてトラクスの後を航行した。
77 アテナイの将軍コノンは準備の仕方において他の誰よりも用心深い将軍であり、海での戦争のためのあらゆる必需品で艤装した七〇隻の船を有していた。彼はメテュムネ救援へと向かうべく全艦隊を率いて海へと出航した。しかしすでにそこが陥落したのを知ると、彼はいわゆる「一〇〇島諸島」の一つに野営し、夜明けに敵艦隊が自分の方へと向かっていることを知ると、二倍の数の三段櫂船とその地での交戦は危険だと結論して諸島の外側へと航行して戦いを避け、敵の三段櫂船の一部が彼の方へと向かってきた場合にはミテュレネ沖で戦おうと計画した。そのような戦術なら彼は勝った場合には回れ右して追撃することができ、負けた場合には安全に港へと撤退できるという具合だった。したがって船に兵士を乗せると、彼はペロポネソス艦隊をおびき寄せるためにゆっくりとした動作で櫂を使って航行した。そしてラケダイモン軍は接近すると最後尾の敵船を拿捕しようとして大急ぎでその艦隊を追撃した。コノンが退却するとペロポネソス軍の最良の船の指揮官たちは突進しては熱心に追撃し、漕ぐ作業の連続で漕ぎ手が疲れ果てて他の船との間が広くなった。コノンはこれに気付き、そしてミテュレネの近くに差し掛かると、三段櫂船の船長へ合図であった赤い旗を旗艦から掲げた。これによって彼の艦隊は敵が追いついてきたところで突然そして同時に反転し、乗組員は軍歌を歌ってラッパ手は攻撃を命じる音を出した。ペロポネソス軍は形勢逆転に肝を潰して大急ぎでその攻撃を撃退しようと船を動かそうとするも、方向転換のための時間がなく、後続の船はいつもの配置のままだったために大混乱に陥った。
78 機を活かす賢明さがあったコノンはすぐさま彼らを圧迫して隊列を作らせないようにし、一部の船を損傷させて他の船の櫂の列を剪断した。コノンは敵艦隊を敗走させたが、残余の敵艦隊は後続の船を待って逆漕し続けた。しかし左翼に陣取っていたアテナイ艦隊は敵を敗走させて熱烈に圧迫し、長距離追撃した。だがペロポネソス艦隊が全軍集結すると、コノンは敵の数の優越を恐れて追撃をやめてミテュレネへと四〇隻の船と共に離脱した。追撃に向かったアテナイ艦隊については、全ペロポネソス船がその周りに群がって彼らを恐怖に陥れ、市への退路を絶たれたために陸への逃亡を強いられた。そしてペロポネソス艦隊は全船でそれらへと殺到したため、アテナイ軍は他に助かる道はないと見て取って安全を求めて陸へと逃げて船を放棄してミテュレネへと逃げ込んだのであった。
 カリクラティダスは三〇隻の船の鹵獲によって敵の海上戦力は破壊されたことに悟ったが、陸での戦いがまだ残っていると見越していた。したがって彼は〔ミテュレネ〕市へと航行し、包囲戦を予期したコノンは到着するや港への入り口あたりで準備を始めた。港の死角に彼は石を詰めた小さい小舟をいくつか沈め、海底に石を積んだ商船を投錨させた。今やアテナイ軍と共に戦争のために原野から市内へとこぞって逃げ込んでいたミテュレネ人の群衆は急いで包囲戦の準備を完遂した。カリクラティダスは市の近くの岸に兵士を上陸させて陣を張り、次いで海戦の戦勝記念碑を建てた。そして翌日に自分の近くに選抜した船を配置して自ら乗る船から離れないよう命じた後に彼は海へと漕ぎ出し、港へと向かって敵が構築した傷害を壊そうとした。コノンは兵士の一部を船首を敵に向けた三段櫂船に乗せて一部を大型船に割り当て、一方で他の者を港のあらゆる方向を陸海から柵で囲むために港の防波堤へと送った。次いでコノン自身は障害物の間を船で満たし、三段櫂船と共に戦いに加わった。そして大型船に配置された兵士たちは桁端から敵船へと石を投げ、港の防波堤に向かった者は陸へと上陸しようとした者を寄せ付けなかった。
79 ペロポネソス軍は少しもアテナイ軍の見せた対抗によって打ち負かされなかった。一丸となった艦隊でもって甲板に整列した最良の兵士と共に進み、彼らは海戦でも歩兵同士の戦いをした。彼らは敵船を圧迫したため、一度破れた者はもう戦いを恐れるようになるだろうと信じて大胆にも船首に乗った。しかしアテナイ軍とミテュレネ軍は身の安全のための希望は勝利にしかないと理解すると持ち場を離れるよりはむしろ立派に死のうと決意した。かくしてこれ以上のものがないほどの争いが双方を満たし、大殺戮が起こって全ての参加者は危険など考えずに戦いの危険へとその身を投げ出した。甲板の兵士たちは彼らに雨霰と降り注いだ多くの投擲兵器で負傷し、そのうちある者は致命傷を負って海へと落ち、一方ある者は傷が真新しいうちはそれをそれと感じることなく戦った。しかしアテナイ軍が見晴らしの良い場所から大きな石を浴びせかけ続けたため、非常に多くの者が石が積まれた桁端から投じられた石の犠牲になった。それでもなお戦いは長時間続いて双方で多くの者が死ぬと、カリクラティダスは兵士に休憩を取らせようと彼らを呼び戻した。しばらくたって彼は再び兵士を乗船させて長時間戦いを続け、非常に骨折りつつも自分の艦隊の数の優勢と海兵の強さを頼んでアテナイ軍に猛攻をかけた。アテナイ軍が市内の港へと逃げ込むと、彼は障害を突破して自らの艦隊にミテュレネ人の都市の近くに碇を降ろさせた。それは彼らがその支配権を争っていた良港の入り口が市の外側にあったということを物語るだろう。というのも旧市街は小さい島で、後にそこに建設された都市はレスボス島の向かい側にあったからだ。その二つの都市の間は狭い海峡であり、それがその都市を堅牢にしていた。カリクラティダスは兵を上陸させて市を包囲して四方八方から攻撃をかけた。
 ミテュレネの状況は以上のようなものであった。
 シケリアではシュラクサイ人がカルタゴへと使節団を送って戦争の件で彼らを非難したのみならず将来に亘って敵意を捨てるよう求めた。彼らに対してカルタゴ人は野心的な回答を与え、その島の全ての都市を隷属化しようと望んでリビュアに大軍を集めようとした。しかしてシケリアへと軍を送る前に彼らは市民とリビュアの他の住民の中から義勇兵を募ってシケリアのある温泉の右にテルマと名付けた都市を建設した。

ハンニバルによる第二次シケリア遠征の準備、アクラガスの栄華
80 この年の出来事が終わった時、アテナイではカリアスがアルコン職を襲って(50)ローマではルキウス・フリウスとグナエウス・ポンペイウスが執政官に選ばれた(51)。この時カルタゴ人はシケリアでの成功で得意になって島全域の主たらんとして大軍の準備をした。そしてセリヌス人の都市とヒメラ人の都市を灰燼に帰したハンニバルを将軍に選出して戦争遂行の全権を委ねた。彼が高齢のために辞退を申し出ると、彼らはハンノの息子で同じ一族であったヒミルコンを彼と一緒にもう一人の将軍に任命した。二人は十分な相談の後にカルタゴ人のうちで名望高かった市民たちに多額の資金を持たせて可能な限り多くの傭兵を徴募するよう命じてある者はイベリアへ、他の者はバリアリデス諸島へと派遣した。そして彼ら自身はリビュアを回ってリビュア人とフォイニキア人、そして市民のうちで最も精強な者を兵士として徴募した。その上で彼らは同盟者であったマウルシア人と遊牧民とキュレネまでの地方に住んでいた人たちといった国人と王たちからも兵士を召集した。イタリアからも彼らはカンパニア兵を雇い入れてリビュアへと輸送した。というのも彼らはカンパニア兵の支援は大きな助けになり、シケリアの向こう側(52)にいたカンパニア人はカルタゴ人と反目していたためにシケリアのギリシア人の側に立って戦うだろうと知っていたからだ。そして最終的に軍勢がカルタゴに集結すると、集まった総兵力はティマイオスによれば騎兵を併せて一二万人、エフォロスによれば三〇万人を下らなかった。
 カルタゴ軍はシケリアに渡る準備をして全ての三段櫂船を艤装させて一〇〇〇隻以上の輸送船を集め、彼らがシケリアに四〇隻の船を前もって派遣するとシュラクサイ人は急いでエリュクス地区に同数の軍船を出した。長い海戦が起こって一五隻のフォイニキア船が破壊され、残りは夜が来ると公海へと安全を求めて逃げた。そして敗北の知らせがカルタゴにもたらされると、ハンニバル将軍はシュラクサイ人がその優位を活かすのを防ぎつつ、軍勢の上陸を安全にするために五〇隻の艦隊と共に出航した。
81 ハンニバルが連れてきつつある援軍の知らせはシケリア中に知れ渡り、誰もが彼の軍勢もすぐにやってくることだろうと予想した。そして大規模な準備を聞き知り、戦いが目前に迫ってくると諸都市はなす術もなく悩んだ。したがってシュラクサイ人はイタリアのギリシア人とラケダイモン人と同盟締結の交渉を行い、また共通の自由のために一丸となって戦うべく檄を飛ばすため、シケリアの諸都市への使節団の派遣も続けた。アクラガス人は彼らがカルタゴ人の帝国に最も近かったために何が起こるのか、そして戦争の重圧は真っ先に彼らに降り懸かるだろうと考えた。したがって彼らは郊外から穀物と他の作物のみならず全ての財産を城壁内に集めた。この時代のアクラガス人の都市と領地はかなりの繁栄を享受していたわけであるが、蓋しそれについてここで述べることはそう場違いでもあるまい。彼らの農園は広さといい美しさといい素晴らしいもので、その敷地の大部分にはオリーブの木が植えてあり、そこから彼らは十分な作物を得てカルタゴ人に販売していた。というのもその時代のリビュアには実の生る木がまだ植えられておらず、アクラガス領の住民は作物の交易でアクラガスの富を成し、その信じがたい規模の幸運を非難されていた。このことについては、簡潔に論じることが我々の目的とは縁がないわけではないような多くの証拠がある。
82 さて、彼らが建てた神聖な建物、とりわけゼウスの神殿は当時の人々の栄華をそれらを見る人に偲ばせるものとなっている。他の神聖な建物のうち一部はその都市が戦争をしていた長い歳月のために焼き払われて他は完全に破壊されたが、すでに屋根が取り付けられていたゼウスの神殿の完成は戦争によって中断された。そして戦後にはその都市が完全に破壊されてしまったため、その後アクラガス人はその建物を完成させることができなくなった。その神殿は長さが三四〇プース、幅が六〇プースであり、高さは基礎を含まなければ一二〇プースであった。それはシケリア最大の神殿であったために関連する限りでその建物の大きさをシケリア外の神殿と比較するというのは不当ではないだろう。たとえその計画が完遂されなかったとしても、判明している限りであろうと、どちらにせよその企図の規模は明らかである。他の全ての人は側面に築いた壁、列柱を神殿と一緒に建ててそれで聖域を囲んでいたが、この神殿はその両方の計画を合わせたものであった。というのも、円柱が城壁と一緒に建てられ、その一部は神殿の中に広がって神殿を四角形に囲んでいる。そして壁から延びている外側にある円柱の周りには人をかたどった二〇プースの溝彫りがあり、内側の円柱は一二プースである。柱廊玄関は巨大で高く、東側の切妻に彼らは大きさといい美しさといい素晴らしい神々と巨人との戦いの絵を、西側にはそれぞれの英雄たちがその役割に相応しく描かれているように見受けられるトロイア占領の絵を描いた。その時代、橋の外には外周が七スタディオンで深さが二〇ペキュスの人工池もあり、その中に彼らは水を入れて公的な祝宴のためにあらゆる種類の多くの魚を飼育しようと巧妙にも考えており、魚と一緒に白鳥や他のあらゆる種類の鳥もその時代にはおり、そのためにその池は見る人を大いに楽しませた。彼らが建てた記念碑の莫大な費用もまた住民の奢侈の証人であり、そのあるものには戦車競争の図柄が彫られ、他のものには家の中での少女と少年と彼らの愛玩する小鳥が彫られており、ティマイオスが生前にしかと見たと述べる記念碑もあった。我々が述べる一つ前のオリュンピア祭、つまりアクラガスのエクサイネトスがスタディオン走で優勝した九二回目のそれ(53)において、彼は戦車に乗って他のものは言うまでもなくアクラガス市民のものであった三〇〇台の戦車の行列で市へと送られた。つまるところ彼らは贅沢な生活ぶりへと若者を引きずり、過度な装飾の服と装飾品を身に着け、さらには銀や金でできた肌かき棒と油瓶を使うほどであった。
83 その時代のアクラガス人のうちでの最大の金持ちは多分テリアスである。彼の邸宅には多くの客間があり、彼は外国人は誰であれ客として招き入れるよう命令を与えて召使いを門の前につかせていた。また他にもこういったようなことをし、古い流儀で親切に他の人と付き合っていた多くのアクラガス人もおり、そのようなわけでエンペドクレスは彼らについてこのように述べている。
異人への慈悲持つ天は悪を知らず。
 現に一度ゲラから五〇〇騎の騎兵が冬の嵐の中やってきた時、ティマイオスが〔彼の歴史書の〕一五巻目で述べているようにテリアスはその全員を自腹を切ってもてなして倉庫から上着と下着を提供した。そしてポリュクレイトス(54)は彼の歴史書の中でまだ現存し、アクラガスに兵士としていた時にその目で見たというその家のブドウ酒の貯蔵庫のことを述べており、彼の言うところではそこには岩を切って作られた三〇〇個の大樽があってそれぞれはアンフォラ一〇〇個分の容量があり、それに加えて化粧漆喰が塗られてアンフォラ一〇〇個分が塗り込まれていたブドウ酒の桶があり、そこからブドウ酒が樽へと流れ込んでいた。我々はテリアスは素朴な外見をしていたが、その性格は驚くべきものであったことについて述べることにしよう。一度彼は使節としてケントリパの人々に向けて派遣されて民会の前で演説をしたことがあり、その時に大衆は彼が予想していたよりも背が低かったのを見て品のない笑い声をあげた。しかし彼は彼らを妨げることなく言った。「最も高名な都市にはアクラガス人のうちで一番の美男を、しかし重要ではなく取るに足らない都市にはそれ相応の人間を送るというアクラガス人の行いに驚かないでください」
84 それほどの富を占めていたのはテリアスのみではなく、彼の言うところでは他の多くのアクラガス人もまたそうであった。少なくとも、ロドスと呼ばれていたアンティステネスなる人は娘の結婚を祝った時、中庭で全ての市民のために宴を催してそこでその全員が楽しみ、八〇〇台以上の戦車が行列の中を花嫁の後に続いた。さらにその市からのみならず近隣諸都市からも馬の背に乗った男たちが婚儀に招かれて花嫁への付き添いに加わった。しかし言われるところでは全てのうちで最も群を抜いていたものはその灯の量であった。全ての神殿と市中の庭の祭壇に彼は木を積み上げ、店主たちに彼は薪とはけを与えてアクロポリスに火が灯されたら全員で同じようにするようにと命令した。そして彼らが命令した通りのことをすると花嫁は家へと連れられ、松明を持ったたくさんの人の列のために市は光で満ち、全ての住民は熱狂的にその男の素晴らしいやり方を真似たため、通りを行く行列のために大通りは同行する群衆が入りきらないほどであった。その時代、アクラガスの市民の人数は二〇〇〇〇人以上を数え、在住外国人を含めれば二〇万人を下らなかった。ある人は以下のような話を伝えている。人々は一度アンティステネスの息子が隣国の貧乏な農民と言い争いをしてその農民に小さな区画地を売るよう迫っているのを見たアンティステネスは息子だけを叱りつけたが、その息子の金銭欲がもっと激しくなると彼は息子に隣人を貧しくすることに全力を尽くさず、逆に富ませてやるようにと言った。というのも更なる土地を欲しがる者は今持っている土地を売ってくれる隣人から更なる土地を買うことはできないだろうというわけである。
 都市に行き渡った莫大な富のためにアクラガス人はかようなまでの贅沢暮らしをするようになり、少し後にその市が包囲された時に彼らは夜勤の衛兵について、誰も厚手の敷き布団を一つ、掛け布団を一つ、羊の毛皮を一つ、枕を二つ、それ以上の数を持っていってはならないという布告を出したほどだった。このように寝具の種類でかなり厳しくするとある人は彼らの生活に行き渡っていた贅沢の程〔の甚だしさ〕に気付いた。さて、より重要な出来事を記録し損なわないようにするために我々の望むことは終始このような話をすることでもこれ以上長くそんなことについて述べることでもない。

アクラガスの包囲戦
85 シケリアに軍を輸送した後にカルタゴ軍はアクラガス人の都市へ向けて進軍して二つの野営地を作り、一つは或る丘の上でそこにイベリア兵と一部のリビュア兵のおよそ四〇〇〇〇人を配置し、他方の野営地を彼らは市からそう離れていないところに設営して深い壕と柵で囲んだ。まず彼らはアクラガス人へ同盟国になるか、さもなくば中立を保ってカルタゴ人と友人となり、その上で平和を維持するよう求める使節団を送った。そしてその市の住民がそれらの条件を拒否すると包囲戦がすぐに始まった。かくしてアクラガス人は軍務に耐えうる年齢の者全員を武装させて戦闘隊形を組ませ、総出で城壁に配置させつつ疲弊した時のために交代の兵士を取っておいた。また彼らと共に戦うためにラケダイモン人デクシッポスが一五〇〇人の傭兵と共にゲラからそこへと最近到着しており、ティマイオスの言うところでは、その時デクシッポスはゲラに留まっており、生まれた都市のために非常に高い尊敬を得ていたという。したがってアクラガス人はできる限り多くの傭兵を徴募してアクラガスへ来るよう彼を招聘した。そして彼らの他に以前ハンニバルと共に戦っていたおよそ八〇〇人のカンパニア兵も雇い入れられた。それらの傭兵はアテナの丘と呼ばれていて、市の上に突き出ていたために戦略上の要地であった市の高台に陣取った。カルタゴの将軍ヒミルカルとハンニバルは城壁を眺めた後に市には一カ所攻め易い場所があることに気が付き、城壁に向けて二つの巨大な塔を進ませた。初日に彼らはそれらの塔で包囲の圧力をかけ、多くのカタパルトによって損害を与えた後に兵士を呼び戻した。しかし夜が来ると市の防衛軍は反撃をしかけて攻城兵器を焼き払った。
86 ハンニバルは攻める場所を増やしながら攻撃をかけようと思い、兵士に記念碑と墓を打ち壊して城壁へと延びる保累を作るよう命じた。しかし人手の多さのためにその作業がすぐに終わると、軍に迷信じみた深刻な恐怖が広まった。際だって大きかったテロン(55)の墓が雷の一閃で震えて壊れると、予言者たちは何が起こるのかを予言してそれ〔テロンの墓を壊すこと〕を禁じた。すぐに軍内に疫病が蔓延して少なからぬ者が悲惨な苦しみを味わい、多くの者が死んだ。死者の中にはハンニバル将軍もおり、そこへと送り出されていた歩哨のうちある者たちが夜にその死者の魂を見たと報告した。ヒミルカルは群衆がどれだけ迷信じみた恐怖に苛まれているのかを知ると、手始めに記念碑の破壊を中止し、次いで幼い少年をクロノスに、そして多数の牛を海へと投じることでポセイドンに捧げるというその人々の習慣に則った仕方で神々に嘆願した。しかし彼は包囲のための作業は怠らずに城壁あたりまで都市の傍らを流れていた川を埋めて全ての攻城兵器を城壁に向けて進ませて毎日攻撃をかけた。
 シュラクサイ人はアクラガスが包囲を受けているのを知って籠城者はセリヌス人とヒメラ人を襲ったのと同じ運命に遭うのではないかと恐れ、彼らに助けを送ろうと思ってそ折しも同盟軍がイタリアとメッセネから到着すると彼らはダフナイオスを将軍に任命した。軍を集めると彼らはカマリナとゲラからの兵士を道中加え、内陸部の人々から追加の部隊を呼び寄せてアクラガスを目指し、一方三〇隻の艦隊が彼らに沿って航行していた。その軍は全軍で歩兵三〇〇〇〇人以上と騎兵五〇〇〇騎を下らないものであった。
87 ヒミルコンは敵の接近を知ると、敵を迎え討たせるべくイベリア兵とカンパニア兵とその他四〇〇〇〇人以上の部隊を急派した。夷狄の軍と遭遇した時にシュラクサイ軍はすでにヒメラ川を渡っており、続いて長時間の戦いが起こってシュラクサイ軍が勝利して六〇〇〇人以上を殺した。彼らは全軍を完全に粉砕して市までの道を追撃したが、兵士たちが無秩序に追撃をしていたために将軍はヒミルカル(56)が残りの軍を連れて現れて敗北を取り戻すのではないかと案じた。というのも彼はヒメラ軍が同じ理由で壊滅させられたことを覚えていたからだ。しかし夷狄がアクラガスの前の野営地まで逃げると、市内の兵士はカルタゴ軍の敗北を知って敵の大軍を壊滅させる好機が到来したのだと言って将軍たちに自分たちを率いて出撃してくれと懇願した。しかし〔アクラガスの〕将軍たちは買収という噂が広まったように実際に買収されていたか、あるいはもし守備兵が出払ってしまえばヒミルコンが市を奪取するのではないかと恐れて人々の熱意を抑えた。かくして逃げていた兵士は無事に市の前の野営地まで逃げ仰せた。ダフナイオスは軍と共に夷狄が放棄した野営地に到着するとそこを接収した。すぐに市から出てきて彼の部隊と混ざった兵士とデクシッポスは合流し、大勢の人が集まって集会は騒然とした。夷狄を圧倒していたにもかかわらず好機を逸して彼らに然るべき罰を下さず、市内の将軍たちは攻撃のために彼らを率いて出撃して敵軍を撃滅することができたにもかかわらず、無数の兵士をまんまと逃げおおせるのを許したことに皆が苛立っていた。集会で大騒動が起こると、指揮権を与えられていたカマリナのメネスが進み出てアクラガスの将軍たちを弾劾して臨席の全ての人を興奮させた。被告は弁明を試み、彼らの発言が許されると群衆は石を投げ始めてそのうち四人を殺し、アルゲイオスという名の非常に年若かった五人目の将軍だけが容赦された。上述のラケダイモン人デクシッポスもまた指揮をする地位にあって戦争に無経験ではないという評判にもかかわらず、裏切りを働いたとして非難の的となった。
88 集会の後、ダフナイオスは軍を率いてカルタゴ軍の野営地を包囲しようとしたが、そこが多額の出費をかけて防備を施されていたのを知ると計画を諦めた。しかし、騎兵を道々に放って略奪された物を奪い取り、糧道を寸断することで彼らを苦境に陥れた。カルタゴ軍は敢えて戦おうとすることなく食料の欠乏で窮地に陥ってしまったため、長く続く大変な不運に見舞われることになった。多くの兵士が飢え死にしてカンパニア兵は他の傭兵と共にほとんど総出でヒミルカルの天幕へと押し入って相応の食料を要求し、食料を得られなければ敵に寝返ると脅した。しかしヒミルカルはシュラクサイ人が海路でアクラガスへの大量の穀物を運んでいると或る筋から知っていた。したがってそれが彼が救われる唯一の希望だったために彼はカルタゴ出身の兵士のものであった杯を与えると誓って兵士たちを数日の間待つよう説得した。そして彼はパノルモスとモテュエから四〇隻の三段櫂船を呼び寄せて物資を運ぶ船団の攻撃を計画した。シュラクサイ人はこの時までに夷狄が海から退却して冬がすでに来ていたためにカルタゴ人を侮り、カルタゴ人には今一度三段櫂船に人員を乗せようという勇気はないだろうと感じていた。したがって彼らが物資の輸送であまり警戒しなくなっていたため、ヒミルカルは四〇隻の三段櫂船でもってそれに気付いていない船団の方へと向かい、八隻の軍船を沈めて残りを岸まで追撃した。そして残りの全ての船を拿捕することで彼は双方の予想を裏切って形勢を逆転させ、アクラガス人のもとで軍務についていたカンパニア兵はギリシア人の側は見込みがないと思って一五タラントンを持ち出してカルタゴ軍に寝返った。
 当初アクラガス人はカルタゴ軍が劣勢にあった時には〔市内には〕豊富な穀物と他の物資があったので包囲はすぐに解かれるだろうと皆が予想していた。しかし夷狄が希望に胸を膨ませてかくも夥しい大軍が一つの市へと集まってくると、穀物は瞬く間に尽きた。そしてまたラケダイモン人デクシッポスが一五タラントンで買収されたという噂が立った。というのも彼は躊躇うことなくイタリアのギリシア人の将軍たちの問いかけにこう答えたからだ。「そうだ。我々の物資は不足しているのだから、戦争が余所で起こるのならばそっちの方が良いではないか」したがって将軍たちは遠征の好機は逸されたことを口実とし、部隊を〔メッセネ〕海峡へと率いていった。その部隊の出発の後、〔アクラガスの〕将軍たちは指揮官らと相談して市内の穀物の備蓄量を調べることを決定し、それが非常に乏しいことを知ると彼らは自分たちは市を放棄せざるを得なくなるだろうと悟った。そしてすぐに彼らは全員が翌日の夜に脱出すべしとの命令を発した。
89 男が集められて女子供が市を離れると、すぐに終わりのない悲嘆と涙で全ての家は満たされた。彼らが敵への恐怖から恐慌状態になっていた一方で、時を同じくしてその必要があったために彼らは急ぎ、そして夷狄に戦利品として彼らの幸福の基であった財産を後に残した。運命が彼らから慰めを奪い取ると、彼らは最低限生きるに足るものだけで満足すべきだと考えるようになった。そしてある人はこの事件はかくも富裕な市な財産のみならず、多くの人間の放棄であるとも理解した。病人は親族から無視され、誰もが自分の身の安全を考え、すでにかなり年を取っていた者は老齢故の弱さのために見捨てられた。そして多くの者は生まれた市を離れて死にも等しい有様になることに思いをいたしては先祖の住居で最期を遂げようとしてに自ら命を絶った。しかし、市に残された多くの人はゲラの兵士に護送され、ゲラ人の領地へと続く郊外の主要な道路とその全域は処女が混ざった女子供の群でごった返し、彼らは甘やかされた暮らしぶりを徒歩とこの上ない苦難による骨の折れる旅に馴染んだ暮らしへと変え、恐怖が彼らの魂に力を与えたためにこの境遇に最後まで持ち堪えた。その時に彼らはゲラへと無事向かい、それからシュラクサイ人が居住地として与えた都市レオンティノイを我が家とした。
90 ヒミルカルは夜明けに城壁内へと軍を率いて行って残されていた者をほとんど皆殺しにし、身の安全のために神殿逃げ込んだ者さえ引きずり出されて殺された。最も富裕な市民であり尊敬に値する人柄であったテリアスは彼の国の不幸から免れたと言われており、彼はカルタゴ軍は神々に対しては無法行為はすまいと考えてアテナの神殿に他の人たちと一緒に避難しようと決心したが、彼らの不敬虔ぶりを知ると彼は神殿に火を放ってその中にあった奉納品もろとも自ら焼死した。というのも、こうすれば彼は神々を不敬虔から、莫大な略奪品を敵から、そして最も大事な自分を身体への侮辱から守ることができると考えたからだ。しかしヒミルカルは神殿と建物を略奪して念入りに荒らし、二〇万人が住んでおり、建設以来荒らされたことがなく、当代のギリシア都市のうちでほとんど一番豊かであり、さらにその上そこの市民があらゆる種類の美術品を大金をはたいて収集し、美しいものへの愛情を示していたその都市が産すると予想できた程度の夥しい戦利品を集めた。現に最も関心を向けられていた多くの絵と素晴らしい技術によって作られたありとあらゆる多くの像が見つかった。したがってファラリスの雄牛を含む最も価値のある作品をヒミルカルはカルタゴに送り、残りの略奪品を彼は戦利品として売り払った。この雄牛についてはティマイオスが彼の歴史書の中でそんなものは存在していないと主張していたものの、彼は運命の女神から直々に反駁を受けることになった。というのもアクラガス占領から二六〇年ほどした後にスキピオがカルタゴを略奪した時(57)、彼はカルタゴ人の手元にまだあったその他の財物と件の雄牛を携えてアクラガス人のところへと戻ってきたからであり、そこは当史書が書かれた時代にはまだアクラガスに現存している。
 私は自分以前の歴史家を最も手厳しく批判して全く寛大さを示さなかったティマイオスが自ら正確さを公言していたまさにそのことに、〔彼の歴史書を〕間に合わせでこしらえたがために陥ってしまったため、このことについてむしろ多くのことを述べたのである。蓋し、歴史家たちは人間でしかなく、過ぎた時代の真実は見つけ辛いものであるため、彼らはその無知から来る過ちに対して寛大に扱われるべきであるが、誰か一人あるいは他の人への追従にせよ余りにも激しい憎悪から他の人を攻撃したり、彼らが真実から逸れていたりして意図的に正確な事実を提示しない歴史家は非難に晒されてしかるべきである。

ディオニュシオスの僭主制樹立
91 ヒミルカルは市を八ヶ月間包囲した後に冬至にならないうちに陥落させ、軍をそこの住居で冬を越させるためにすぐには市を破壊しはしなかった(58)。しかしアクラガスを襲った悲運が広く喧伝されると、島中が恐怖に覆われてシケリアのギリシア人の一部はシュラクサイへと退去し、他の者は妻子と全財産をイタリアに移した。捕虜となるのを免れたアクラガス人はシュラクサイに到着すると、彼らの将軍たちの裏切りのために国は滅んでしまったと主張して彼らを弾劾した。シュラクサイ人もまたシケリア全域を破滅の危機に陥れた不適格な将軍を選んでしまったとしてシケリアの残りのギリシア人から非難を浴びた。シュラクサイで民会が開催されて彼らは大変な恐怖に陥っていたにもかかわらず、誰も戦争に関して何らかの議論を提出しようとはしなかった。誰もが損失に肝を潰していた時にヘルモクラテスの息子(59)ディオニュシオスが口を開き、カルタゴ人のために裏切り行為を行った将軍たちを非難して彼らに刑罰を科すべしとの動議を集会に提出し、法が定めたぐずぐずとした手続きをとらずにすぐさま判断を下すよう求めた。彼は騒動を起こしたとしてアルコンたちが法律に則って罰金を課すと、大金持ちで後に歴史書を編んだフィリストスが罰金を〔肩代わりして〕支払い、ディオニュシオスに対しては彼が言うべきと思うことは何であれ言うように勧めた。フィリストスが彼らがディオニュシオスに罰金を課そうとするつもりならばいついかなる時であれ彼のために金を提供するつもりであると続けて言うと、ディオニュシオスへの全幅の信頼が群衆にわき起こって民会が混乱状態に陥ったたため、彼は危機に瀕していたアクラガス人の安全をもたらすために賄賂を受け取ったとして将軍たちを告発した。また彼は寡頭制に近しいとして最も評判高かった残りの市民も非難した。したがって彼は最も影響力のある市民ではなく、むしろ民衆に最も好感を持たれ、彼らに最も好意的な人たちを将軍として選ぶよう彼らに忠告した。というのも彼の主張するところでは、前者が独裁者のように市民を支配するようになれば、多くの人を軽蔑して国の不運を自らの収益の源泉であると考えるようになり、一方でより控えめな人たちは自らの弱点を恐れているためにそのようなことをしようとはしないであろうからだ。
92 ディオニュシオスは聴衆の嗜好と自らの計画にとって適切な言葉で熱弁を振るい、民会に少なからぬ怒りを巻き起こした。というのも人々は少し前から将軍たちが戦争で下手を打ったと考えて将軍たちを憎んでいて、丁度彼らに言われた言葉で拍車をかけられたためにすぐに将軍の一部を解任して他の者を選び、その中にはカルタゴ軍との戦いで戦いでずば抜けた勇気を示したとして名声を馳せ、全てのシュラクサイ人から称賛を受けていたディオニュシオスも含まれていた。したがって望み通り選出されると彼は国の僭主になろうとあらゆる試みを行った。例えば、任に就いた後に彼は将軍たちの会議には参加せず、何事にも協力しようとしなかった。そしてこのように振る舞いつつ彼は将軍たちが敵と交渉しようとしているという噂を広めた。こうすることで彼は最も効果的に彼らから権限を剥奪して将軍職を独り占めしようとした。
 ディオニュシオスがこのように振る舞っている一方で、最もまともだった市民たちは起こっていることに疑問を持ち、集まっては彼を見くびるようなことを言っていたが、一般大衆は彼の計画を知らずに彼に承認を与え、とうとう最も誠実な将軍であるとまで明言した。しかし、民会が戦争の準備を検討するために何度も何度も召集されると、ディオニュシオスは敵への恐怖がシュラクサイ人を狼狽させていることを悟って彼らに追放者たちを呼び戻すよう勧めた。というのも彼の言うところでは、イタリアとペロポネソスの他国人からの助けを求め、危機に面している時に仲間の市民、敵がその者との共同の軍事行動に対して莫大な報償を約束したにもかかわらず、母国に弓を引くよりはむしろ外国の土地で放浪者として死ぬことを選んだ市民から来た援軍を兵員名簿に記帳することを嫌がることは理屈に合わないことだからだ。そして事実、彼は目下追放されている人たちは市での過去の内戦の故に追放されたのであり、もし今この善行の受け手となれば、彼らはその恩人に感謝を示すべく熱心に戦うであろうと明言した。遡上に置かれたこの提案への多くの議論を喚起した後に彼はシュラクサイ人に彼の意見を票決させた。任にあった彼の同僚は、大衆の示した熱意、そして各々が自分だけが反感を買うことになることになるだろうと見ていたために誰もこの案件に関して敢えて反対しようとはせず、一方ディオニュシオスは彼から親切を受けた人たちから感謝されて大いに賞賛を博した。ディオニュシオスは思い通りに事を運んで追放者、つまり変革を望み、僭主制の樹立を支持するであろう人たちを自分の味方にした。というのも彼らにとっては敵の殺戮、財産の没収、そして彼らの財産の返還を目撃することは幸せなことであったからだ。最終的に追放者問題の結論が出ると、彼らはすぐに故郷に戻ってきた。
93 ゲラから増援派遣を求める手紙が来るとディオニュシオスは自らの目的を実現する格好の口実を手に入れた。二〇〇〇人の歩兵と四〇〇騎の騎兵と共に派遣されると、彼はその時シュラクサイ人からの委任を受けていたラケダイモン人デクシッポスの監視下にあったゲラ人の都市へと速やかに到着した。ディオニュシオスは到着して最も富裕な市民と大衆が内戦状態にあったのを見て取ると、集会でその金持ちたちを告発して糾弾し、その上で彼らを処刑して財産を没収した。こうして手に入れた金を彼はデクシッポス指揮下の市の守備兵への給与支払いに充て、シュラクサイから一緒に来ていた配下の兵士には市が定めた給料の二倍の額を支払うと約束した。このようにして彼はゲラの兵士のみならず彼と一緒にやってきた兵士の忠誠を獲得した。また彼はゲラの大衆の支持も得て、彼らは彼のことを解放の立役者だと信じた。というのも最も影響力ある市民への嫉妬のために彼らは財産において秀でていた人たちに独裁主義者の烙印を押していたからだ。したがって彼らは彼を賞賛して豊富な贈り物で彼を讃えるという布告を報告する使節団をシュラクサイへと送った。またディオニュシオスはデクシッポスを彼の計画に協力するように説得し、デクシッポスが荷担しないでいるとシュラクサイへと兵士もろとも送り返そうとした。しかしゲラ人はカルタゴ人が大軍でもってゲラを最初の標的として向かっていることを知ると、ディオニュシオスにそこに留まってアクラガス人と同じ運命を辿らないよう無為に過ごさないでくれと懇願した。ディオニュシオスは自分はより大規模な軍と共に急いで戻るために手勢を連れてゲラを発つつもりであると彼らに答えた。
94 ディオニュシオスが到着した時、シュラクサイでは劇が上演されていて人々は劇場にいた。群衆がこぞって彼へと殺到してカルタゴ軍について問いかけると、外敵よりもさらに危険な彼らの知らない敵がおり、それは公務に携わっている市内の人々であると彼は彼らには言った。しかしその時市民が信頼する当人、公的な祭典を開催していた彼らを信頼している人たちは公費を着服して給料を払わないまま兵士を送り出し、敵が戦争のための未曾有の規模の準備をしてシュラクサイに軍を進めようとしていたにもかかわらず、将軍たちはそれに対して何もしていなかったのであった〔というのがディオニュシオスの言い分であった〕。そのような所業の理由を彼は続けて述べ、それは彼が以前知っていたが、今やより詳しく知るに至ったことであったと述べた。というのもヒミルコンは表向きは捕虜についての協定を論じるため、実のところはディオニュシオスの同僚たちに対してこれから起こることの邪魔をしないように唆しておいたので、少なくとも敵対行為をしないよう勧めるための伝令をディオニュシオスに送ってきていたのであるが、ディオニュシオスは彼への荷担を選ばなかった。したがってディオニュシオスは続けて自分は将軍としてもう働くつもりはないが、シュラクサイに自らの職務を果たすために現れたのだと述べた。というのも彼は他の将軍たちが国を売り渡している時にたった一人でそのような市民と争いつつ、同時に後になって裏切りを見逃したと思われるよう運命付けられることに耐えられなかったからだ。
 大衆はディオニュシオスが述べた事柄と全軍のうちに広まっていた噂で奮い立ったものの、その時は不安で胸を一杯にしながら誰もがそれぞれの家へと赴いた。しかし翌日になると集会が召集されてそこでディオニュシオスは多くの行政官らを弾劾して人々に将軍たちへの反対や悪感情を持たせて少なからぬ支持を得ると、最終的に列席者の一部が彼を最高権限付きの将軍に任命して敵が彼らの城壁に襲いかかるのを待たないよう大声を上げた。というのも彼らは、この戦争の規模に対して必要なのは彼らの試みをうまくいかせることができるような指導力を持った一人の将軍であると訴えたからからだ。裏切り者に関しては目下の状況とは別の話であったために今一つの集会で論じられた。実際、以前三〇万人のカルタゴ軍をヒメラで破った時はゲロンが最高権限付きの将軍であった。
95 群衆はその常としてすぐに最悪の決定へと急変するものであり、ディオニュシオスが全権将軍に任命された。そして今や状況が意のままになると彼は傭兵の給与を倍にするという法令を提案した。というのも、もしそうすれば彼らは皆より熱心に戦うことになるだろうと言って彼は金を集めることは容易い仕事なので資金源については全然心配しないように言った。
 民会が休会された後、少なからぬシュラクサイ人があたかも目下の問題が自分たちの思う通りになっていないかのように非難を発した。というのも彼らは僭主権力が出現してしまうと想像して彼らの現状について考えを改めたからだ。自由を担保しようと望んでその人たちは今や知らず知らずのうちに国家に独裁制を樹立してしまい、他方でディオニュシオスは大衆の心変わりを予想し、もし認められれば簡単に僭主制を樹立できるようにするために彼の身辺警護を要求する方法を模索し続けていた。そしてすぐに彼は四〇歳までの軍務年齢の男全員は三〇日分の食料を自弁し、武装してレオンティノイに集まるよう命令を発した。この都市はその時代にはシュラクサイ人の前哨基地であり、外国人の亡命者たちが集まっていた。というのもこれによってディオニュシオスは政体を変えようとしてその人たち〔亡命者たち〕を自分の味方にするつもりであり、そしてシュラクサイ兵の大部分はレオンティノイに来もしないだろうと期待していたからだ。しかし郊外にて夜に野営していた時、彼は自分が陰謀の対象であるかのように見せかけて家来に騒動を起こさせた。これをした後にアクロポリスに逃げ込んでそこで夜を明かし、篝火を焚いて最も忠実な兵を呼び寄せた。そして夜が明けて民衆がレオンティノイに集まってくると、彼は今後の計画について適当な長い演説を行い、大衆に彼が選ぶ六〇〇人の兵士を護衛として彼に付けるよう説得した。ディオニュシオスはこれをアテナイ人のペイシストラトスに倣って行ったと言われており、というのも上述のように彼は自らを傷つけた後に民会の前で自分が陰謀の犠牲者であると訴えて市民の手から護衛を得てこうやって僭主制を樹立したからだ。この時ディオニュシオスはこれ〔ペイシストラトスの策略〕に似た計略によって大衆を騙し、その結果として僭主制を打ち立てたというわけである。
96 例えばディオニュシオスは数にして一〇〇〇人以上の財産を持っていないが大胆な精神を持っていた市民をすぐに選び出して高価な武器を与え、法外な約束で元気付けた。そして傭兵を自分のところへと呼び寄せて親切な語り口調で語りかけることで彼らをも味方につけた。また彼は軍事的な役職に変更を加え、彼らの指揮権を最も信頼する部下に与え、この男が好機を掴んでシュラクサイ人に自由を回復しないかと疑ってラケダイモン人デクシッポスをギリシアに帰らせた。彼はゲラの傭兵も呼び寄せ、その中から僭主制の最も強力な支持者を見つけようと望んで方々から亡命者と不敬虔な人々を集めた。しかし、一方でシュラクサイで彼は大っぴらに自らを僭主と宣言して海軍が占めていた土地を取り上げた。シュラクサイ人は不快感を感じてはいたものの、市は傭兵で満たされていただけでなく、人々は強力な戦力を持ったカルタゴ人への恐怖で一杯だったために今できることは何もなかったため、沈黙を余儀なくされた。今やディオニュシオスはすぐにアテナイ人への勝者ヘルモクラテスの娘と結婚し、自身の姉妹をヘルモクラテスの妻の兄弟であったポリュクセノスと結婚させた。これは僭主制を確固たるものとするためにその名家と親類になろうと望んのことであった。この後に彼は民会を召集して最も影響力のある敵対者ダフナイオスとデマルコスを殺した。
 さてディオニュシオスは一介の書記、一般市民の身からギリシア世界の最大の都市の僭主となって死ぬまで支配権を維持し、三八年間僭主として統治した(60)。しかし我々は彼の事績と支配の拡大については然るべき時に関連させて詳細な説明を与えるべきであろう。というのもこの男は歴史上記録される最も強力で最も長い僭主制を独力で樹立したからだ。
 カルタゴ軍は都市〔アクラガス〕の占領の後に奉納品と像と他のあらゆる最も価値のあるものをカルタゴへと輸送し、神殿を焼き払って都市を略奪するとそこで越冬した。春になると彼らはゲラ人の都市を手始めに包囲しようと計画してありとあらゆる攻城兵器と投擲兵器の準備をした。

アルギヌサイの海戦
97 それらの出来事が起こっていた一方、変転の連続を続けていたアテナイ人は在留外国人及び、自分たちと一緒に自発的に戦っていたその他の外国人に市民権を認めた。そして非常に多くの人が迅速に市民として登録されると、将軍たちは遠征のために条件の整った者全員をかき集め続けた。彼らは六〇隻の船を準備し、大枚を叩いてそれらを艤装した後にサモス島へと航行し、そこで八〇隻の三段櫂船を残りの島々から集めていた他の将軍たちと合流した。また彼らはサモス人に人員を乗り込ませて追加の一〇隻の三段櫂船を武装させるよう求め、全部で一五〇隻の船を率いて海へと漕ぎ出し、ミュティレネの包囲に取りかかろうとしてアルギヌサイ諸島に停泊した。ラケダイモン艦隊の提督カリクラティダスはその艦隊の接近を知るとエテオニコスを陸軍と共に〔ミュティレネの〕包囲のために残し、一方自らは一四〇隻の船に人員を乗り込ませて急いでアルギヌサイ諸島の他の側から海へと漕ぎ出した。その時に人が住んでいて、少数のアイオリス人が定住していたそれらの島々はミュティレネとキュメの間にあったが、本土〔小アジア〕とカニス岬からは非常に近い距離にあった。
 敵の接近を知るとすぐにアテナイ軍は非常に離れた所に錨を降ろし、強風のために戦いをやめて翌日の戦いに備えたため、双方の予言者が禁じたにもかかわらずラケダイモン軍もまた同様にした。ラケダイモン軍に関しては、波が打ち寄せてきて岸にあった犠牲獣の頭がなくなったために予言者は提督が戦死するだろうと予言した。言われるところではこの予言に際してカリクラティダスは「私が戦死したとしてもスパルタの栄誉が損なわれるわけではあるまい」と言った。アテナイ軍に関しては、その日の最高指揮権を持っていた将軍トラシュブロス(61)が以下のような予兆を夜に見た。彼は自分がアテナイにいて劇場が人で埋め尽くされ、彼と他の六人の将軍たちがエウリピデスの『フォイニキアの女たち』を演じていて彼らの対決者たちが『嘆願者』を演じ、「カドメイアの勝利」の結果、まさにテバイへの遠征をした者さながら彼らの全員が死ぬという夢を見た。これを聞くと予言者は七人の将軍たちが殺されるだろうと明らかにした。その予兆は勝利を示していたために将軍たちは自分たちの死について他の人に話すことを禁じたが、全軍にその予兆が示した勝利の知らせを公表した。
98 カリクラティダス提督は全軍を集めて適切な言葉で彼らを鼓舞して以下の言葉で演説を締めた。「予言者は犠牲になるのは諸君らの勝利ではなく私の死であると明言したものであるが、祖国のための戦いを私は望んでいるし、私は死ぬ覚悟ができている。そのようなわけだから司令官の死を知っても軍は混乱しないでほしい。私は自分が何かしらの災難に遭った場合、後任の提督として戦争において有能さを証明してきたクレアルコスを指名しておく」。このような言葉でカリクラティダスは少なからぬ人に自分の勇気を見習わせ、より戦いに専心させた。ラケダイモン軍は互いに励まし合って船に乗り込み、アテナイ軍は彼らを戦いへと鼓舞する将軍の激励を聞いて三段櫂船へと急いで乗り込んで全員が配置についた。トラシュブロスが右翼を指揮し、またペリクレスの息子で、その影響力の故に「オリュンピア人」とあだ名されたペリクレスがテラメネスに指揮権を与えて彼と共に右翼に陣取った。以前はしばしば軍の指揮を執ってはいたものの、その時のテラメネスは一市民として遠征に参加していた。残りの将軍を彼は前線列に沿って配置し、船列を可能な限り延ばそうとして目論んでいわゆるアルギヌサイ諸島を戦列で囲んだ。カリクラティダスは右翼に陣取って海へと漕ぎ出し、左翼をテバイ人トラソンダスが率いるボイオティア軍に任せた。そして彼は島々がかなりの場所を占めていたために自軍の戦列を敵の戦列と同じようにする〔一つながりの列にする〕ことができず、戦力を分割して二つの艦隊を構成してそれぞれの翼で別々に二つの戦いを戦った。したがって四つの艦隊が戦うことになって一カ所に集まった船は三〇〇隻を下らないものとなったために方々の目撃者たちは大いに驚いた。というのもこれはギリシア人同士の記録された海戦のうちで最大の海戦であったからだ。
99 まさにその瞬間に提督はラッパ手にそれぞれの方向で音を鳴らすよう命令を下し、全軍が次々と鬨の声を上げて身の毛もよだつような叫び声が上った。そして皆が熱狂的に波のように押し寄せ、互いに競い合ってあらゆる兵士が自分こそが一番槍を担おうとした。戦争が長く続いていたために大部分の者は戦いを経験しており、彼らは決戦のために集められた選り抜きの戦士であったために不撓不屈の情熱を示した。というのも全員がこの戦いでの勝者こそが戦争を終結させることになるだろうと見なしていたからだ。しかしとりわけカリクラティダスは予言者から自らを待ち受ける最期を聞いていたために死に物狂いで戦ってそれは最高の名声をもたらした。したがって彼はリュシアス将軍の船を撃退した最初の人となり、同行していた三段櫂船と共に最初の一撃を食らわせてそれを粉砕して沈めた。そして他の船に関しては、その一部に衝角攻撃をして航行不可能にし、他のものからは並んだ櫂を退き剥がして戦いの役に立たないようにした。その仕上げに彼はペリクレスの三段櫂船に衝角攻撃をして非常に重い一撃を食らわせ、その三段櫂船に大穴を空けた。次いで彼の船の舳先をその隙間に突っ込んで逃げられないようにしたたため、ペリクレスはカリクラティダスの船へと碇を投げつけ、それがしっかり固定されるとアテナイ兵はその船を囲んでそこへと飛び乗り、乗組員へと殺到してその全員を斬殺した。伝えられるところでは、カリクラティダスが天晴れな戦いぶりを見せて長い時間踏ん張った後に四方八方から敵の攻撃を受けて最終的に数に圧倒された。提督の敗北が明らかになるとすぐにペロポネソス軍は恐怖に襲われた。しかしペロポネソス軍の右翼が敗走したにもかかわらず、左翼に陣取っていたボイオティア軍はしばらくの間頑強に戦い続けていた。というのも彼らと彼らの側で戦っていたエウボイア軍、そして他の全てのギリシア人はいずれもアテナイ人から離反しており、もしアテナイ人が再び覇権に返り咲くならば離反を罰せられることになるだろうと恐れていたからだ。しかし彼らは自軍の船のほとんどが損害を受け、勝者の本隊が彼らへと向かってきているのを見ると、逃亡を余儀なくされた。ペロポネソス軍については、ある者はキオスで、またある者はキュメ〔へと逃げてそこ〕で安全を確保した。
100 アテナイ軍は破れた敵を相当の距離追撃し、戦場近海の海域の全域は死体と残骸で満たされた。この後、将軍のうち数人はアテナイの人たちは死者を埋葬しないままにしておく者に怒りを向けるだろうから戦死者を回収すべきだと考えたが、他の数人はミテュレネまで航行して速やかにそこを包囲すべきだと言った。しかしその時に大嵐が起こったために艦隊はかき乱されて兵士たちは彼らが戦いで被った困難と高波の両方のために死者の回収に反対した。最終的に嵐が勢いを増してきたために彼らはミテュレネへ行くこともせず死者を回収することもせず、アルギヌサイ諸島で嵐をやり過ごさざるを得なくなった。戦いではアテナイ船二五隻、ペロポネソス船七七隻が乗組員のほとんどと一緒に失われた。かくも多くの船とそれらに乗り込んでいた船員の喪失の結果、キュメ人とフォカイア人の領土の沿岸には死体と残骸が散らばることになった。
 ミテュレネを包囲していたエテオニコスはペロポネソス軍の敗北を何者かから聞き知ると、キオスへと艦隊を送って自らは陸軍と共に同盟国であったピュライア人の都市まで撤退した。というのも彼はアテナイ軍が彼の軍のところまで艦隊で航行してきて籠城軍が市から出撃してきでもすれば、全戦力を失う危機に陥るのではないかと恐れたからだ。アテナイ軍の将軍たちはミテュレネへと航行してコノンと彼の四〇隻の艦隊を回収した後、サモスに投錨してそこを基地として敵地を荒らしに出発した。この後アイオリスとイオニアとラケダイモン人の同盟者であった島々の住民はエフェソスに集まって相談し、スパルタ人にリュサンドロスを提督にするよう要請することに決めた。というのも艦隊の指揮を執っていた間のリュサンドロスは多くの成功を得て将軍としての技能で他の全ての人に勝っていたと信じられていたからだ。しかしラケダイモン人は同じ人物を二度〔提督に任じて〕送ってはならないという法律があって父祖の慣習を破りたくないと思っていたため、アラコスを提督として選出しつつ、リュサンドロスを一般市民として彼と共に送り出し、アラコスには何であれリュサンドロスの忠告に従うよう指示した。これら司令官は指揮権を受け取るために派遣され、可能な限り多くの三段櫂船をペロポネソスとその同盟諸国から集めに入った。

アルギヌサイ裁判
101 アテナイ人はアルギヌサイでの勝利を知ると将軍たちを勝利のゆえに賞賛したが、彼らが覇権を維持するために死んだ人たちを埋葬しないままにしていたことに憤慨した。テラメネスとトラシュブロスは他の人や将軍たちに先んじてアテナイへと退き、群衆を前に死者〔の取り扱い〕に関して告訴する側に立とうと考え、自分たちは死者を回収するよう命じた将軍であったと述べる手紙を人々に送った。しかしまさにこのことが彼ら〔他の将軍たち〕の破滅の主要因となった。彼らは裁判ではテラメネスと彼の仲間たちの助けを得ることができたにもかかわらず、有能な弁論家であり多くの友人を持っていて皆のうちで最も重要な人たちは戦いへの関与の度合いが比較的大きく、逆に彼らが敵対者であり苦々しい告発者となった。その手紙が人々の前で読み上げられると群衆はすぐにテラメネスと彼の同僚に憤慨したが、彼らの弁明が述べられると怒りは再び将軍たちへと向けられた。したがって人々は裁判を将軍たちに通知して〔海戦に参加しておらず〕責任を問われていなかったコノンに軍隊の指揮権を引き渡すよう命じ、一方で〔将軍とは別の〕他の人が速やかにアテナイに報告を持ってくるべしと布告した。将軍のうちアリストゲネスとプロトマコスは人々の怒りを恐れて身の安全のために逃亡しようとしたが、トラシュロスとカリアデス、彼らに加えてリュシアスとペリクレスとアリストクラテスは自分たちが数が多くて裁判で彼らを助けてくれるであろう乗組員を擁しているとの希望を持っていたために船団の大部分と共にアテナイへと帰国した。民会に集まると人々は起訴と彼らに心地よいことを言う人たちには耳を貸したが、弁明をする人を皆で罵声でもって迎えて発言を許さなかった。そして将軍たちを咎めようとしなかった人はほとんどおらず、喪服姿で民会に姿を現した死者の遺族たちは人々に国家のために欣然と死に臨んだ兵士を野晒しにするのを許した者たちを罰するよう懇願した。そして最終的に遺族の友人とテラメネスの党派がその数が多かったために優勢になり、将軍たちの死刑判決と財産の没収という結果となった。
102 この行動がなされた後に将軍たちは民衆によって死刑を宣告されそうになり、将軍の一人ディオメドンが人々の前で演説を始めたのであるが、この男は正義と他の美徳において全ての人より優れていたために戦争の実行と思考の両方で活動的な人物であった。 全ての人がまだ来ていなかった時に彼は言った。「アテナイの諸君、我々に関してなされた行いは国家のためにはなりましょう。しかし我々が勝利のためにした誓いに関して言えば、運命がその履行を阻むならば、あなた方がそれらの誓いに思いをいたすのは尤もなことであり、それらの誓いが救い主ゼウスとアポロン並びに聖なる女神たちに報いられるようにしていただきたい。というのも我々が敵を打ちひしぐ前に誓いをするのはその神々には尤もなことでしょうから」。不正な死に直面しつつあったその男は自らの運命には何も言わず、彼に不正を働こうとしている国家のためを思い、彼の誓いによって神々を畏れ、度量が大きく、そして彼に降り懸かりつつある運命に相応しからぬその男の行いを見ている神々に報いさせるよう求めた。次いでその人たちは、国家への反逆を働いたとは到底言えず、彼らがギリシア人同士で起こった中で最大の海戦で勝利を収め、他の戦いでも立派に戦い、彼らの個人的な勇敢な行いのために敵への勝利の戦勝記念碑を建てていたにもかかわらず、法に則って任命されていた一一人の官吏に彼らを処刑させた。かくもその時代の人々は我を忘れてまるでそれがその政治的指導者らのせいであかのように不正に腹を立て、罰ではなく、数多くの賞賛と冠こそが相応しい人たちに向けて憤激をぶちまけたのであった。
103 しかしすぐにこの行いを説いた人たちと説き伏せられた人たちはいずれも、まるで神が彼らに激怒したかのように後悔しだした。というのも騙された人たちはそう遠からぬうちに一人の独裁者ではなく三〇人の暴君の権勢下に陥ることで彼らの過ちの報いを受けたからだ。そして騙した者でその措置を提案してもいたカリクセノスは大衆が後悔し出すや否や人々への欺瞞の廉で裁判に引き立てられ、弁明を許されることなく鎖に繋がれて公営の牢獄へと投げ込まれた。そして他の人たちと一緒に密かに牢獄に穴を掘って脱獄してデケレイアの敵の許へと奔り、このようにして最終的に死を免れた彼はアテナイでのみならずギリシア中どこであれその卑劣さのために軽蔑されて後ろ指を指されて余生を送ることになった。
 さて、我々が述べたように、この年の出来事は以上のようなものであった。歴史家のうちでフィリストスは七巻で八〇〇年間を扱う彼の一つ目のシケリア史をこの年とそのアクラガスの占領で終え、一つ目が終わるここから四巻本で書かれた二つ目の歴史書を書き始めた。
 これと同時代にソフィロスの息子で悲劇作家であったソフォクレスが一八回優勝した後に九〇歳で死んだ。この男は最後の悲劇を発表して優勝し、彼の死因にもなった打ち勝ちがたいほどの歓声で満たされたと言われている。『年代記』を編纂したアポロドロスはエウリピデスもまた同年に死んだと述べているが、他の人たちは彼はマケドニア王アルケラオスの宮廷で暮らし、一度郷里に行った時に犬に襲われてこの時以前に細切れに噛み千切られたと述べている。

アイゴスポタモイの海戦とペロポネソス戦争の終戦
104 この年の終わり(62)にはアレクシアスがアテナイでアルコンであり、ローマではガイウス・ユリウス、プブリウス・コルネリウス、そしてガイウス・セルウィリウスが執政官の地位の代わりに三人の軍務官が選出された(63)。彼らが任についた時、アテナイ人は将軍たちの処刑の後にフィロクレスに指揮権を与えて艦隊を引き継がせ、共同で軍の指揮権を分け合うよう命じて彼をコノンのところへと送った。サモスでコノンと合流した後に彼は一七三隻の船の全てに人員を乗り込ませた。そのうち二〇隻をサモスに残すことが決定され、コノンとフィロクレス指揮の下で残りの全船がヘレスポントスへと向かった。
 ラケダイモン人の提督リュサンドロスは三五隻の船をペロポネソスの近隣同盟諸国から集めてエフェソスに投錨した。キオスからも艦隊を集めた後に彼は準備をした。また彼はダレイオス王の息子キュロスを訪ねて〔小アジアの〕内陸部へと赴き、彼から兵士を維持するための巨額の資金を受け取った。父からペルシアへと召還されていたためにキュロスは支配下の諸都市に対する権限をリュサンドロスに譲渡し、それらに彼に貢納を支払うように命じた。かくしてリュサンドロスは戦争を行うためのあらゆる手段を提供されると、エフェソスへと戻った。
 時を同じくしてミレトスで寡頭制を目指していた人たちがラケダイモン人の援助によって民衆の政府に引導を渡した。手始めにディオニュシア祭が開催された時に彼らは母国を制圧して主要な敵を追い出しておよそ四〇人を斬殺し、次いでアゴラが満員になると最も豊かな市民三〇〇人を選び出して殺した。大衆を支持していた人たちのうちで一〇〇〇人を下らない最も責任のある市民は彼らが置かれた状況を恐れて太守のファルナバゾスのところまで逃げ、彼は彼らを暖かく迎えてその各々にスタテル金貨一枚を与えてブラウダというリュディアにある砦に住まわせた。
 リュサンドロスは艦隊の大部分を率いてカリアのイアソスへと航行し、アテナイ人の同盟国であったその都市を強襲によって落とし、軍務適齢期の男八〇〇人を斬殺して女子供を戦利品として売り払い、都市を徹底的に破壊した。この後に彼はアッティカと他の多くの土地へと航行したが、記憶するに足ることは何も成し遂げなかった。それ故にそれらの出来事の説明の労を取ることはすまい。最終的にランプサコスを占領して彼はアテナイの守備隊を休戦の下で退去させたが、住民の財産を差し押さえて市を彼らに返した。
105 アテナイ軍の将軍たちはラケダイモン軍が全軍でランプラコスを包囲しているのを聞き知ると、方々から三段櫂船を集めて一八〇隻の艦隊と共に急いで向かった。しかしその都市がすでに落とされたことを知ると、彼らは艦隊をアイゴスポタモイに置いてそこから毎日敵に向けて漕ぎ出しては戦いを挑んだ。ペロポネソス軍が出てこないでいると、アテナイ軍は〔停泊した場所が町から離れているために〕彼らがいる所からかなり離れた所からでないと軍用の物資を見つけることができなかったためになす術がなくなった。その時アルキビアデスが彼らのところへとやってきてトラキア人の王メドコス〔一世〕とセウテス〔二世〕は自分の友人であり、彼がラケダイモン人との戦争に決着をつけたいと思えば大軍を彼に与えることに賛成するだろうと言ってきた。したがって彼は敵を戦いに引きずり出すか、トラキア人の援助によって陸で将軍たちを満足させるかの二つのうち一つの達成を約束して指揮権を分けてくれるよう頼んだ。この提案はアルキビアデスが自分の手柄で国のために何かしらの勝利を得てその恩義によってかつての人々の愛着を取り戻そうと望んでのことであった。しかしアテナイの将軍たちは負ければその責任は自分たちのものになり、勝てば皆がアルキビアデスの手柄と見るだろうと考えて即座に彼を帰して今後野営地に近づかせなかった。
106 海戦に受けて立つことを拒まれ、飢餓が軍内に起こっていたため、その日の指揮権を握ったフィロクレスは他の船長たちに三段櫂船に人員を乗せて自分の船に続くよう命じ、三〇隻の三段櫂船と共に先に出撃した。これを脱走兵から知ったリュサンドロスは全船でもって海へと漕ぎ出してフィロクレスを敗走させ、他の船まで彼を追撃した。アテナイ軍の三段櫂船にはまだ人員が乗り込んでおらず、敵の予期せぬ襲来のためにその全体に混乱が広がった。リュサンドロスは敵に混乱を引き起こすと速やかにエテオニコスと陸戦の訓練を積んでいた兵を沿岸に向かわせた。エテオニコスは迅速に機に乗じて野営地の一部を制圧し、一方リュサンドロスその人は戦闘装備のできた全三段櫂船と共に進み、浜に沿って停泊していた船に鉄の鍵爪を投げた後にそれを曳き始めた。アテナイ軍は予期せぬ出来事に混乱状態に陥り、船を離れて休憩中だったために陸から戦うべく打って出ることもできず、短時間持ち堪えただけで破られ、そしてすぐにある者は船を、他の者は陣地を捨て、安全を求めて各々方々へと逃げていった。一〇隻の三段櫂船のみが逃げ仰せた。〔その逃げた船を率いていた〕将軍の一人だったコノンは人々の怒りを恐れてアテナイへと戻ることを諦めたが、キュプロスを支配しており、友人関係にあったエウアゴラス〔一世〕の許に身を寄せた。兵士の大部分は陸路でセストスへと逃げてそこで安全を確保した。残りの船をリュサンドロスは拿捕し、フィロクレスを捕虜とするとランプサコスまで連行して処刑した。
 この後リュサンドロスは快速三段櫂船でラケダイモンへと勝利を報じる伝令を送り、手始めに船を最も高価な武器と戦利品で飾った。この後、セストスに逃げ込んだアテナイ軍へと向けて進軍すると彼はその市を落としたが、アテナイ兵に休戦条約の下で立ち去ることを許した。次いで彼はすぐにサモス島へと軍を率いて航行して自らその都市を包囲したが、小艦隊でもってシケリアのシュラクサイを助けて戦ったギュリッポスを戦利品と一五〇〇タラントンの銀を運ぶためにスパルタへと派遣した。その金は小さな袋に入れられており、そのそれぞれには金額を明記したスキュタレ(64)が入っていた。ギュリッポスはスキュタレのことを知らずに密かに袋を開けて三〇〇タラントンを取り出し、その記録によってギュリッポスのしたことは監督官に見抜かれ、彼は死を宣告されて国外へと逃亡した。似たようなことがギュリッポスの父クレアルコスにも起こっており、彼もまた以前、計画されていたアッティカ襲撃をしないという約束でペリクレスからの賄賂を受け取ったとして信じられて死を宣告されて国外逃亡し、イタリアのトゥリオイで亡命者として余生を過ごした。かくして他の全ての事柄では有能な人物と見られていた彼らはそのような行いによって余生を不名誉なものとしたのであった。
107 アテナイ人は軍の災難を知ると、海上覇権の計画を捨てはしたものの港を封鎖し、包囲された時に上手く機能するようにと期待して城壁に張り込んだ。というのもすぐにラケダイモン人の王アギスとパウサニアスが大軍を率いてアッティカに攻め込んできて城壁の前に野営し、リュサンドロスが二〇〇隻以上の艦隊に碇を下ろさせたからだ。その困難のなすがままになったにもかかわらず、アテナイ人はしばらくは市を問題なく守って持ち堪えた。包囲が難事に見えたためにペロポネソス軍はアッティカから撤兵し、住民に穀物が入ってこないようにするために距離をとって艦隊で封鎖することをを決めた。これがなされるとアテナイ人はあらゆるものがいつも海路で運び込まれていたためにとりわけ食料が逼迫してきた。日に日に損害が増えていったため、市は死者で満たされ、生き残りは使節団を送り、二つの長い城壁とペイライエウスの城壁を破壊し、軍船を一〇隻以上保有せず、全ての都市から撤退してラケダイモン人の覇権を認めるという条件でラケダイモン人と講和した。かくして我々が知っているように二七年もの間長引いて続いたペロポネソス戦争は上述のようにして終結した。

ゲラの戦い
108 講和からそう遠くないうちにアジアの王ダレイオス〔二世〕が一九年間君臨した後に死に、長子のアルタクセルクセス〔二世〕が王位を襲って四三年間君臨した。この時代にアテナイ人アポロドロスの言うところでは詩人のアンティマコスが活躍していたという。
 シケリアでは夏の始めにカルタゴ人の将軍ヒミルコンがアクラガス人の都市を徹底的に破壊し、火でも十分に破壊されなかったように見えた神殿で彼は像と素晴らしい職人芸のあらゆる作品を粉々にした。次いで彼はすぐに全軍を率いてゲラ人の領地へと攻め込んだ。ゲラとカマリナの全ての領地への攻撃で彼はありとあらゆる戦利品によって軍を金持ちにした。この後に彼はゲラへと進軍してその都市と同じ名前の川に沿って陣を張った。ゲラ人は市の外に巨大なアポロンの像を持っており、これをカルタゴ軍は戦利品として手に入れてテュロスに送った。ゲラ人は神の神託での応答に従ってその像を作り、テュロス人は後にマケドニアのアレクサンドロスに包囲された時(65)、その神が敵方で戦っていたためにその神をぞんざいに扱った(66)。しかしティマイオスの言うところではアレクサンドロスがその都市を落とした日に同じ名前の同じ時間にカルタゴ軍はゲラでアポロンを奪ったのであり、その神はギリシア人によって莫大な生け贄とそこ〔テュロス〕の占領の原因であるとして行列の行事でもって祀られることになった。異なった時期にそれらの出来事は起こってはいるが、我々は驚くべき本性のためにそれらが起こったと考えることは不適当なことではない。
 さてカルタゴ軍はディオニュシオスが強力な軍を連れて危機に晒された住民の来援にやってくるだろうと予想していたため、郊外の木々を切り倒して野営地の周りに塹壕を巡らした。まずゲラ人は予想される危険の大きさのために女子供をシュラクサイへと疎開させることを票決したが、女たちがアゴラの近くの祭壇へと逃げて自分にも男と運命を共にすさせるよう嘆願すると、彼女らに折れた。この後、非常に多くの分遣隊を編成して郊外へ次々とその部隊を送り出した。そして彼らは土地勘を生かして迷った敵の部隊に攻撃をかけ、毎日のように彼らを生け捕りにして少なからぬ数を殺した。カルタゴ軍が市に交代で攻撃をかけ続けて破城槌で城壁を突破したにもかかわらず、ゲラ人は勇敢に防戦した。というのも日中のうちに倒壊した城壁の部分を彼らは夜に再び立て直し、女子供がそれを助けたからだ。身体的強さが盛りにあった者は武器を取って絶えず戦い、残りの多くの者は防衛に参加して熱心に残りの仕事をするために待機した。つまるところ、彼らはカルタゴ軍の攻撃に頑強に対処したため、彼らの都市は天然の防御力が欠けていて同盟国がおらず、その上、城壁は多くの場所が崩れていたことが分かっていたにもかかわらず、彼らは彼らを脅かす危機に動じなかった。
109 シュラクサイの僭主ディオニュシオスはイタリアのギリシア人と他の同盟者からの援軍を呼び寄せた。また彼は軍務適齢期のシュラクサイ人の大部分を記帳して軍に傭兵を徴募した。彼は幾人かの伝えるところでは全部で一五〇〇〇人の兵士、ティマイオスによれば三〇〇〇〇人の歩兵、一〇〇〇騎の騎兵、五〇隻の甲板の付いた艦船を率いた。かような規模の軍と共に彼はゲラ人の救援へと向かい、市の近くにさしかかると海の近くに陣を張った。というのも彼は陸からの戦いと海からの戦いのために同じ基地を使うため、軍を分けるということを意図していなかったからだ。彼は軽装兵を使って敵と戦って敵に郊外から食料を集めることを許さず、一方で騎兵と艦隊を使ってカルタゴ軍が支配下の領地から持ってきた物資を奪った。今や二〇日の間カルタゴ軍は語るに足ることを何もしなかった。しかしこの後ディオニュシオスは歩兵を三つの部隊に分け、シケリアのギリシア人から編成した第一隊に塹壕を巡らせ、その左側に市がある敵の野営地へと進むよう命じた。同盟軍から編成した第二隊に彼は市の右側の岸に沿って進むよう命じ、彼自らは傭兵部隊を率いて市を抜けてカルタゴ軍の攻城兵器があった場所へと進んだ。彼は騎兵には歩兵が前進しているのを見るとすぐに川を渡って平地を制圧し、もし友軍が勝っているのを見れば戦いに参加し、負けていれば追いつめられている味方を受け入れるよう命令を与えた。そして船の兵士にはイタリアのギリシア軍が攻撃をかけるやすぐに敵の野営地へと向かうよう命じた。
110 艦隊は然るべき時に命令を実行に移し、カルタゴ軍は船から上陸していた攻撃者を退けようとしていた部署への救援に殺到した。事実、カルタゴ軍が拠っていた野営地は防備が施されておらず、その全域が岸に沿って面していた。これを眺めると海に沿って距離を取っていたイタリアのギリシア軍はカルタゴ軍の野営地を攻撃し、守備兵の大部分が艦隊に抗戦するために救援に出払っていたのを見て取ると、この場所に残されていた部隊を敗走させて野営地に押し入った。状況の逆転に際してカルタゴ軍は兵の大部分を反転させ、敗走を持ち堪えた後に塹壕の内側に彼らを押し込んでいた兵を苦労しながら追い払った。イタリアのギリシア軍は夷狄の大軍に破れて退却中に柵の鋭角にぶつかり、救援が彼らまで来なかった。シケリアのギリシア軍は平地を通って進軍していて到着が遅れ、ディオニュシオスと共にいた傭兵部隊は市の街路を通っている道中に困難に遭遇し、計画したように急いで向かうことができなかった。ゲラ軍は市からある程度の距離を前進し、彼らは城壁から守りを外すことを恐れていたために短い場所だけでイタリアのギリシア軍の救援にまわり、その結果、援軍に遅れてしまった。カルタゴ軍で働いていたイベリア兵とカンパニア兵はイタリアのギリシア軍を激しく圧迫して一〇〇〇人以上を殺した。しかし船の乗組員は追撃者を矢の雨で食い止めたため、彼らのうち残りは安全を求めて市へと退いていった。他の部署では対陣していたリビュア兵と戦っていたシケリアのギリシア軍は多くを殺して野営地まで追撃していた。しかしイベリア兵とカンパニア兵、その上カルタゴ兵がリビュア兵の救援にやってくると、およそ六〇〇〇人を失って市へと撤退した。騎兵部隊は友軍の敗北を知ると、敵の圧迫を受けたために同様に市へと撤退した。ディオニュシオスは辛うじて市へと集まって壁の内側へと退却した。
111 この後ディオニュシオスは友人たちを会議に招集して戦争について諮った。彼らの全員が彼の立場は敵との決戦には不都合だと言うと、彼は翌日に死者を回収する手はずを整えるために夜に使者を急派し、夜の第一哨戒時には多くの人々を市から出発させ、一方自身は軽装兵およそ二〇〇〇人を残して深夜に出発した。彼らはカルタゴ人に彼がまだ市内にいるよう信じさせるために夜通し篝火を焚き続け、騒ぐよう命じた。その部隊は日が昇り始めるとディオニュシオスと合流するために出発し、カルタゴ軍は事の次第を知ると市内に入って建物の中に残されていた物を略奪した。
 カマリナに到着するとディオニュシオスはその都市の住民を追い出して妻子と共にシュラクサイへと去らせた。恐怖が遅延を許さなかったために一部の人たちは金銀と簡単に持ち運べるあらゆる物を集め、一方他の者は貴重品のことなど考えずに両親と幼い子供だけを連れて逃げた。そしてカルタゴ人はすぐにでもやってくるだろうと予想されていたため、年を取っていたり病を患っていた者は親族や友人がいなかったために残された。セリヌスとヒメラとアクラガスを襲った運命を人々は恐れていたため、その皆があたかもカルタゴ人の残虐行為の目撃者であるかのように恐怖を感じていた。というのも彼らは捕虜を容赦せず、運命の犠牲者へは見境なく、ある者は残虐に扱われ、他の者は耐えられないような仕打ち受けたからだ。にもかかわらず今やそれらの二都市を人々は追放されていたため、郊外は概して女子供と人の群れで満たされた。兵士はその状況を目撃するとディオニュシオスに憤慨したが、大量の不運な犠牲者への慈悲心で一杯になった。というのも彼らは自由人として生まれた結婚適齢期の少年少女が時間に追われ、異人の前で示すような尊厳と尊敬を払いのけてその年齢に相応しからぬ仕方で大慌てで道を急いでいたのを見たからだ。似たように彼らは年寄りがその体力を越えて駆り立てられて命を第一に守ろうとしているのを見ると彼らにも同情した。

反ディオニュシオスの陰謀
112 そのような理由でディオニュシオスに対する憎悪が燃え上がり、人々は彼はカルタゴ人への恐怖を利用して危険を冒すことなくシケリアの諸都市を掌握したり保持したりするという明確な計画のためにそのようなことをしているのだと思った。というのも彼の傭兵が一人も死んでおらず、深刻な逆転を被ったわけでもないのに理由もなく撤退したという事実、そして全てのうちで最も重要なことはカルタゴ軍が一人たりとも彼らを追撃しなかったという事実によって彼らは彼が援軍派遣を遅らせているのだと考えるようになっていたからだ。したがってこれより前に反乱の好機を掴もうとしていた人たちにとっては、あたかも神々の予知によるかのように全てのことが僭主権力の打倒へと作用していた。
 今やイタリアのギリシア軍はディオニュシオスを見捨てて島の内陸部を通って帰国し、シュラクサイの騎兵は最初は道中の僭主を殺すことができるのではないかという希望を持っていたが、傭兵が彼を見捨てていなかったことを知ると一斉にシュラクサイへと去っていった。造船所(67)の警備兵がゲラでの出来事を知らないでいるのを知ると、彼らは何にも妨げられることなくそこへと入って金銀と他の高価な文物で満たされていたディオニュシオスの家を略奪し、彼の妻を捕らえてこのために僭主に終生の激しい怒りを持たせたほどに酷い虐待をしたわけであるが、彼らがディオニュシオスの妻に浴びせた復讐はを攻撃した各々の人々による彼への最も確かな報いであろう。そしてディオニュシオスは何が起こったのかを道中で推測すると最も信頼できる騎兵と歩兵を選抜し、彼らと共に市へと早さ以外を顧慮せず強行軍で向かった。というのも彼は素早い行動で騎兵の右に出るものはいないだろうと考えており、そのためにこのように行動したのであった。もし到着がさらに奇襲にさえなれば、彼は簡単に計画を達成できるだろうと期待していたし、事実そのようになった。〔ディオニュシオスの留守を襲った〕騎兵はそうすぐにディオニュシオスはシュラクサイに戻ってこないだろうし、軍を連れてもいまいと思っていた。したがって計画を実行に移させるために彼らは、彼はゲラを発ってカルタゴへと向かっているように見せかけていたと言ったのであるが、その一方で実のところ彼はシュラクサイへと向かっていた。
113 ディオニュシオスは四〇〇スタディオンの距離を踏破して深夜にアクラディネ門に騎兵一〇〇騎と歩兵三〇〇人と共に到着し、門が閉ざされているのを見て取るとそこに沼地から持ってきた化粧漆喰をくくるのに使う慣わしになっていた葦を積み重ねた。門が焼けてくると、彼は部隊に遅れていた兵士を集めた。火が門を焼き尽くすと、ディオニュシオスは部下を連れてアクラディネを通って入り、騎兵のうちで最も勇敢な兵士たちは何が起こったのかを聞くと、少人数であったにもかかわらず本隊を待つことなくすぐに抗戦の救援に駆けつけた。彼らはアゴラに集まり、そこで傭兵部隊に包囲されて最後の一兵まで射殺された。次いでディオニュシオスは市内を歩き回って出てきた者と抵抗する者を殺し、彼に敵対していた人たちの家に押し入ってその一部を殺して他の者を市から追放した。残りの騎兵の本隊は市から逃げ、今日アイトナと呼ばれているところを占領した。夜明けに傭兵とシケリアのギリシア軍の本隊がシュラクサイに到着したが、ディオニュシオスと不仲であったゲラ人とカマリナ人は彼の許を去ってレオンティノイへと脱走した。

シュラクサイ・カルタゴ間の講和(紀元前405年)
114 (68)……したがってヒミルカルはその状況に追いつめられてシュラクサイへと使者を遣わし、敗者が被るであろう困難について説いた。ディオニュシオスは喜んでそれに応じて以下のような条件の講和条約を締結した。カルタゴ人の元々の植民者並びにエリュモイ族とシカノス人はカルタゴ人の支配に属す。セリヌス、アクラガス、ヒメラの住民、そしてゲラ及びカマリナの住民は各々の都市に住み、それらは防備を施されてはならないが、カルタゴ人に貢納を支払いさえすればよい。レオンティノイとメッセネの住民とシケロイ人は各々の法律に則って暮らし、シュラクサイ人はディオニュシオスに従属し、捕らえられた捕虜と船は何であれそれをなくした者に返還されるべし。
 この協定が結ばれるやすぐにカルタゴ人は疫病で半分以上の兵を失いつつもリビュアへと去った。しかし疫病はリビュアでも猛威を振るい続けて多くのカルタゴ人とその同盟者が死んだ。
 しかし我々としては、ギリシアでのペロポネソス戦争、シケリアでのカルタゴ人とディオニュシオスとの最初の戦争、そして我々の予定していた務めが終わって丁度戦争の結果に到着したので、次に起こった出来事を次の巻に配置するべきであろうと考える次第である。



(1)紀元前1184年から紀元前415年まで(N)。
(2)紀元前415-414年。
(3)紀元前418年。
(4)12巻83章で約束した軍資金。
(5)アテナイの伝令用の快速船。
(6)紀元前418年。
(7)紀元前414-413年。
(8)紀元前417年。
(9)紀元前413-404年。このニキアスの和約の破棄でもって始まるペロポネソス戦争の後半戦はデケレイア戦争と呼ばれる。
(10)紀元前413-412年。
(11)紀元前416年。
(12)紀元前413年8月27日。
(13)12章でデモステネスは海路でアテナイまで撤退することを提案していた。目下の状況ではシュラクサイ艦隊は戦いで疲弊していたため、デモステネスは敵に攻撃を仕掛けて血路を切り開いて逃げることを主張している。
(14)これはこの神の祭壇がアテナイにあったため。
(15)エレウシスの秘儀を指す。
(16)紀元前412-411年。
(17)紀元前415年。
(18)この遠征については36章で詳述される。
(19)紀元前403年。
(20)紀元前339年。
(21)紀元前411-410年
(22)紀元前414年。
(23)紀元前410-409年
(24)紀元前413年。
(25)ハンニバルは行政官「スフェト」であり、この官職はローマの執政官のように毎年二人ずつ選ばれていた。
(26)直前の記述での八四隻より一四隻ほど増えている。途中で援軍を得たのだろうか。
(27)ラケダイモンとの戦争のための戦費をまかなうための租税(N)。
(28)紀元前464年にラケダイモン人に反乱を起こしたものの、敗れてメッセニアから退去したが、アテナイ人によってナウパクトスを住居として提供されていたメッセニア人(詳しくは11巻63、64、84章を参照)。
(29)シケリア遠征の失敗のこと。
(30)スパルタ軍がデケレイアを占領してアッティカの大部分を襲撃して回っているため(N)。
(31)ペルシア王を指す。
(32)紀元前409-408年。「主要な地位」はアルコンを指す。
(33)紀元前412年。

(34)掘っている時に倒壊しないように木の柱で支えながら坑道を掘り、坑道が完成すると一気に柱に火を放って倒壊させるという城壁崩しの方法。
(35)クセノフォンの『ギリシア史』ではこの地点およびこの後アルキビアデスと行動を共にしている将軍の名前はトラシュロスとなっている(N)。
(36)後のソクラテス裁判における原告の一人。
(37)ボスポロス海からプロポンティス海まで(N)。
(38)紀元前408-407年
(39)紀元前411年。
(40)アビュドスはその時ラケダイモン軍の基地だった。
(41)エレウシスの秘儀を取り仕切る神官の一族。
(42)当時のキュロスは17歳だった(N)。
(43)ノティオンでの海戦を指すものと思われるが、海戦が起こった時にアルキビアデスはその場にはいなかった。
(44)正しくはトラシュロス(N)。
(45)紀元前408年。
(46)パウサニアスによればそれは六五回目のオリュンピア祭のことで、この時まで戦車競走は四頭立てのものしかなかったという(N)。
(47)ヒメラでの敗北(409年)の際に遺棄された戦死者の遺体(13巻59-61章を参照)。
(48)紀元前407-406年。
(49)紀元前410年。
(50)紀元前406-405年。
(51)紀元前409年。ポンペイウスというのは間違いで、リウィウス(4. 54)ではグナエウス・コルネリウス。ポンペイウス家はプレブスの家系で、この当時執政官職はプレブスには開かれていなかった(N)。
(52)イタリア半島を指す。
(53)紀元前412年(13巻34章も参照)。
(54)ラリサの人で、アレクサンドロス大王の頃の人(N)。
(55)紀元前5世紀前半のアクラガスの僭主。
(56)この唐突に出てきたヒミルカルなる将軍はヒミルコンの誤記かもしれない。
(57)紀元前146年のプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌスによるカルタゴの落城。
(58)紀元前406年10月22日(N)。
(59)正確には息子ではなく娘婿。
(60)紀元前405年-紀元前367年。
(61)正しくはトラシュロス(N)。
(62)紀元前405-404年。
(63)紀元前408年。
(64)スパルタで用いられていた暗号道具。棒(同じ大きさのものが二本あり、一方はスパルタ本国にもう一方は遠征先の将軍の手にある)に斜めに巻いた紐や紙に文字を書き、ほどいた紐や紙だけを宛先に送り、受信側が棒に巻き付けて文字を読む。その紐や紙に書かれた文字はそれに対応する太さの棒に巻きつけないと読めなくなる。
(65)紀元前332年。
(66)「ある者は、アポロンが自分はこの町を去って行くつもりだと言ったという夢を見たと告げた。……一方テュロス人はすっかり迷信に囚われて、アポロンの像を金の鎖で台座に縛りつけ、こうすれば神が町から去るのを阻止できると考えた」(森谷公俊訳『歴史叢書』17巻41章より)。訳注によれば、このギリシア人がアポロンと同定している神はおおむねシュリアの雷神レシェフと考えられているという(N)。
(67)ディオニュシオスはここを住居として使っていた。
(68)欠損部分。「ここにはおそらくカルタゴ軍が見舞われた疫病の説明があった」(N)。




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