ディオドロス『歴史叢書』11巻→12巻

1 前巻第一〇巻はクセルクセスのヨーロッパ入りのちょうど前年の出来事と、コリントスでギリシア人の一般総会におけるゲロンとギリシア人との同盟継続という公式の協議でもって終わっていた。本巻を我々はクセルクセスのギリシア人に対する遠征でもって始めて歴史のそれ以降の経過を示し、キモン指導下でのアテナイのキュプロス遠征の前の年で止めることにしよう(1)
 アテナイではカリアデスがアルコンで(2)、ローマ人はスプリウス・カシウスとプロクルス・ウェルギニウス・トリコストゥスを執政官とし(3)、エリス人が七五期目のオリュンピア紀を祝ってシュラクサイのアステュロスがスタディオン走で優勝した。この年に以下のような理由でクセルクセス王がギリシア遠征を行った。ペルシア人マルドニオスはクセルクセスの従兄弟で結婚によって彼の縁者となっており、ペルシア人から知恵と勇気のために大いに賞賛されていた。この男は自尊心と身体の強壮さから思い上がり、大軍の司令官になろうと熱望した。したがって彼はクセルクセスにこれまでペルシア人の敵であったギリシア人を隷属させるよう説き伏せた。そしてクセルクセスは彼に与して全てのギリシア人を彼らの母国から追い出そうと望み、カルタゴ人にその事業に加わるよう求める使節を送り、彼がギリシアで暮らすギリシア人に対する戦争を起こす一方でカルタゴ人は同時に大軍を集めてシケリアとイタリアに住むギリシア人を隷属させるという旨の合意をした。かくして協定に則ってカルタゴ人は大金を徴収してイタリアとリグリア、そしてまたガラティアとイベリア(4)からも傭兵を集め、それらの兵に加えてリビュアとカルタゴの全域から彼ら自身の人種から兵士を徴募した。そして最後に三年間を絶えず準備に費やした後、彼らは三〇万人の歩兵と二〇〇隻の軍船を集めるに至った。
2 クセルクセスはカルタゴ人と熱意を競い、彼の命令下にあった人々の多さでカルタゴ人を、そして全ての準備において彼らを上回った。彼は服属していた全ての沿岸の領地、エジプトとフェニキアとキュプロス島、キリキアとパンピュリアとピシディア、そしてリュキア、カリア、ミュシア、トロイアとヘレスポントス、ビテュニア、そしてポントス海沿いの諸都市で船の建造を開始した。カルタゴ人がしたように三年の年月を費やして彼は一二〇〇隻以上の軍船を揃えた。彼はこの点で死ぬ前に大軍の準備をしていた父ダレイオスから助けられた。それというのもダレイオスは、彼の将軍ダティスがマラトンでアテナイ軍に破れた後も戦いで勝利したアテナイ人に対する怒りをくすぶらせ続けていたからだ。しかしダレイオスはギリシア人に遠征しようとしていた矢先に死によって計画を停止させられており、それから父の計画と、我々が述べたようなマルドニオスの忠告との両方でその気になったクセルクセスはギリシア人との戦争に乗り気になった。
 今や遠征のための全ての準備が完了すると、クセルクセスは提督たちにキュメとポカイアに艦船を集めるよう命じ、自らは歩騎の兵力を全ての州から集めてスサから進軍した。サルデイスに到着した彼は全ての国に行ってギリシア人に水と土を要求するよう命じてギリシアへと使者を送った。それから彼は軍を分割して予めヘレスポントス海に橋を架けてケルソネソスの地峡のアトスを貫通する運河を掘るのに十分な兵力を送り、こうすることで軍の進路を安全で短くするのみならず(5)、ギリシア人を打倒するという偉業の壮大さによって到着する前に恐怖させることを期待していた。今や、あまりにも多くの人夫がこの仕事に協力したためにそれらの作業を準備するために送られていた兵たちは突貫工事でこれを終わらせられた。ギリシア人はペルシア軍が大規模であることを知ると、一〇〇〇〇人の重装歩兵をテンペの峠を押さえるために派遣した。シュネトスがラケダイモン軍を、テミストクレスがアテナイ軍を指揮した。指揮官たちは諸国へと使節を送ってその道の共同防衛に参加するよう求めた。それというのも彼らは、全てのギリシア人が防衛に与してペルシア人に対する戦争で一致団結することを熱望していたからだ。しかし彼らが到着した時には多くのテッサリア人とその峠の近くに住んでいた他のギリシア人が水と土をクセルクセスの使者に渡していたため、両将軍はテンペの防衛を絶望視して自国へと戻った。
3 今ここで夷狄の側に立つことを選んだギリシア人を区別することは有用であろう。それというのも、もし彼らが我々からの非難を被るならば彼らの例は彼らにもたらされた悪評によって将来共通の自由への裏切り者となる者を思いとどまらせるであろうから。アイニアニア人、ドロペス人、メリス人(6)、ペライビア人、そしてマグネシア人といった人々はテンペにまだ防衛軍がいた時ですら夷狄の側につき、その出発の後にプティアのアカイア人、ロクリス人、テッサリア人、そしてボイオティア人の大部分が夷狄に寝返った。しかしイストモス地峡で会議をしたギリシア人は、彼らが戦争で勝利を得た暁にはペルシア人の側に立つことを自分から選んだギリシア人には十分の一税を神々に捧げさせ、中立を決め込んだギリシア人には共通の自由のための戦いに参加するよう求める使節団を送るべしと票決した。後者の一部はもろ手を挙げて同盟に加わり、他方の者は自身の安全のみに執着して戦争の結果を心配しながら待って決定をかなりの期間延期した。しかしアルゴス人は一般総会に使節団を送り、総会が彼らに指揮権を分け与えるならば同盟に加わると約束した。代表者たちは彼らに対し、彼らが夷狄を主人とするよりも将軍を戴くギリシア人である方がより恐ろしいと考えるならば中立を維持するのがよいだろうが、ギリシア人の間での覇権を確保する野心を持っているならばまずこの覇権に相応しい振る舞いをし、それからそのような名誉を争うべきだときっぱりと明言した。それらの出来事の後、クセルクセスによってギリシアへと送られていた使節団が土と水を要求すると、自前の自由に対して感じていた熱意を全ての国が返答の中で明らかに示した。
 ヘレスポントスに橋が通されて運河がアトスを貫通して掘られたことを知ると、クセルクセスはサルデイスを発ってヘレスポントスへの道を進んだ。アビュドスに到着すると彼は橋を使って軍をヨーロッパへと率いていった。そしてトラキアを通って進軍した彼はトラキア人と近隣のギリシア人の両方から追加の軍を得た。ドリスコスと呼ばれる都市に到達すると彼はそこに来るよう艦隊に命じ、〔陸海の〕両軍が一カ所に集結することになった。そこでまた彼は全軍を数え上げ、陸軍は八〇万人以上、船の総数は一二〇〇隻に上り、そのうち三二〇隻はギリシア人が兵を提供して王が船を用意したものであった。残りの全ての船は夷狄として勘定された。エジプト人が二〇〇隻を、フェニキア人が三〇〇隻を、キリキア人が八〇隻を、パンピュリア人が四〇隻を、リュキア人がそれと同数を、またカリア人が八〇隻を、キュプロス人が一五〇隻を提供した。ギリシア人のうちでカリア近辺に住んでいたドリス人はロドス人とコス人と共同で四〇隻を送り、イオニア人はキオス人とサモス人と共同で一〇〇隻を、アイトリア人はレスボス人とテネドス人と共同で四〇隻を、ヘレスポントス地方の人々はポントス沿岸に住む人々と共同で八〇隻を、島嶼の住民は五〇隻を提供した。それというのも王はキュアネイア岩壁とトリオピオンとスニオン以内にあった島を自身の味方につけていたからだ(7)。三段櫂船は我々が挙げた規模であり、騎兵用の輸送船は八五〇隻を数え、三〇櫂船は三〇〇〇隻にのぼった。それからというもののクセルクセスはドリスコスで軍の数え上げに忙殺されることになった。
4 ペルシア軍が近くにいるという知らせが来ると、〔イストモスに〕集まっていたギリシア人はエウボイア島のアルテミシオンが敵と戦うのにうってつけだとみなしてこの地へと軍船を大急ぎで派遣し、断崖の最も狭い道を占領して夷狄の機先を制してギリシアへの侵入を防ぐべく重装歩兵の大部隊をテルモピュライへと送ることにした。それというのも彼らはギリシア人の大義を選んだ者のためにテルモピュライ内側に守りをつぎ込み、同盟者を救うために彼らのできることは熱意を持って何でも行ったからだ。全遠征艦隊の司令官はラケダイモン人エウリュビアデスで、テルモピュライへと送られた部隊の司令官はスパルタ人の王レオニダスで、彼は勇気と将軍らしさを重んじる人物だった。指名を受けたレオニダスは遠征で彼に同行するのは一〇〇〇人の兵士だけだと発表した。監督官たちは彼が大軍に向けて率いる兵が少なすぎると言ってより多数の兵を連れて行くよう彼に命じると、彼は密かに彼らにこう答えた。「夷狄どもが峠を抜けて来るのを防ぐにはこの兵力では少なかろうが、今投入される任務には多いくらいだ」この応答は謎に満ちて曖昧であったため、彼は自分が取るに足らない仕事のために兵士を率いると信じているのかと尋ねられた。そこで彼はこう答えた。「表向き私は彼らを峠の防衛のために率いてはいるが、実のところ彼ら全員を自由のために死なせるためだ。もし出征した一〇〇〇人が死ねばスパルタはさらに高名になるであろうが、もしラケダイモン人の全軍が出撃すればラケダイモンは完全に滅ぶ。それは彼らのうち一人も我が身可愛さのための逃亡をよしとしないためだ」それから〔遠征軍には〕一〇〇〇人のラケダイモン兵、並びに三〇〇人のスパルタ兵が充てられた一方で(8)、彼らと共にテルモピュライへと送られていた残りのギリシア人は三〇〇〇人であった。
 次いでレオニダスは四〇〇〇人の兵を連れてテルモピュライへと進撃した。しかしその道の近隣に住むロクリス人はペルシア人に土と水を献上しており、予めその道を奪取しておくと〔ペルシア側に〕約束していた。しかしレオニダスがテルモピュライに到着したことを知ると心変わりしてギリシア側に寝返った。テルモピュライには一〇〇〇人のロクリス兵、同数のメリス兵、そしてほぼ一〇〇〇人のポキス兵、そして〔ペルシア方についたのとは〕他の派のおよそ四〇〇人のテーバイ兵が集まることになった。それというのもテーバイの住民はペルシア人との同盟に関して二派に分裂していたからだ。今やレオニダスと共に戦いへと出征したギリシア人は我々が述べたような兵力でもってテルモピュライに留まると、ペルシア軍の到来を待ち構えた。
5 クセルクセスは戦力を数え上げた後に全軍と共に進発し、全艦隊は進軍する陸軍にアカントス市あたりまで同行し、そこから艦隊は運河が便利に他方の海(9)まで掘削された場所を無傷で通過した。しかしメリス湾に到着すると、クセルクセスは敵がすでに峠を占拠していたことを知った。したがってそこで軍勢を合流させるべく、彼は二〇万人を少し切るくらいいたヨーロッパからの同盟軍を呼び寄せた。かくして今や彼は海軍を除外すれば一〇〇万人を下らない兵力を有することになった。軍船で働いていた者と食料と武装全般を運んでいた者の総計は我々が述べた数を下らず、そのためにクセルクセスによって集められた男たちの大軍に関していつもはじき出される計算結果は驚きをもたらさずにはいなかった。それというのも人々は〔水の〕尽きることのない川は大軍の終わりのない流れのために干上がり、海は船の帆で隠されたと述べている。しかしながら、このクセルクセスにつき従った軍勢は歴史的記録が残されているうちで最大の軍勢であろう。
 ペルシア軍がスペルケイオス河畔に野営した後、クセルクセスは他のことの中でとりわけ、ギリシア軍がどのくらい本気で彼との戦争をする腹づもりであるのかを明らかにするためにテルモピュライへと使節団を送った。そして彼らに以下の宣言を行うよう命じた。「クセルクセス王は全ての者に武器を捨てて祖国へと無事退去し、ペルシア人の同盟者となるよう命じておられる。これをなす全てのギリシア人に王は今持っている以上の良い土地を与えるおつもりである」しかしレオニダスは使節たちの命を聞くとこう答えた。「我らが王の同盟者となれば、我らが武器を持ち続ける限りは〔同盟者として〕もっと役に立とつもりだし、我らが王と戦争すれば、我らは武器を持つ限り己が自由のためにより立派に戦うつもりだ。王が与えると約束する土地については、ギリシア人は土地を得るのは臆病によってではなく勇気によってであると父祖たちから学んでいる」
6 ギリシア人の答えを使節から聞くと王は祖国を追放されて逃げ込んでいたスパルタ人デマラトスを呼びにいかせ、この応答をからかいながらこのラコニア人に尋ねた。「ギリシア人は余の馬よりも早く走って逃げるのか? それともこれほどの軍勢に立ち向かおうというつもりなのか?」これにデマラトスはこう答えたと伝えられる。「陛下はギリシア兵を反乱を起こした夷狄との戦いでお使いになっておられるので、ご自身ギリシア人の勇敢さを知らぬわけではありますまい。さればこそ陛下の支配地のためにペルシア人よりも巧く戦う者が、自らの自由を守るために命の危険を冒してペルシア人と戦うならば、その勇気の程度が低いなどとは考えてはなりませぬぞ」しかしクセルクセスは馬鹿にしつつ、デマラトスにラケダイモン軍の逃走を目撃できるようにするために自らのそば近くにいるよう命じた。
 クセルクセスは軍勢を連れてテルモピュライのギリシア軍のもとへとやってきた。彼は全軍の前衛にメディア兵を配置したが、それは彼らをその勇気のために気に入っていたか、あるいは彼らを一挙に壊滅させようとしていたためであった。それというのもメディア人は未だに誇り高い精神を持ち続け、彼らの父祖が行使した覇権はつい最近覆されたばかりであったからだ。そしてまた彼は最大の怒りでもってギリシア人に復讐を行うだろうと信じてメディア兵と並んでマラトンで倒れた者たちの兄弟や息子たちも指名した。それからメディア兵は我々が述べたような具合で戦いへと向かい、テルモピュライの防衛軍を攻撃した。しかしレオニダスは周到な準備をして峠の最も狭い場所にギリシア軍を集中させた。
7 夷狄は王が彼らの勇気の証人となり、ギリシア軍は自由を胸に抱き続けてレオニダスの勇戦に励まされていたため、続いて起こった戦いは激烈で驚くべきものとなった。兵士たちは戦いでは盾を寄せあって立ち、弓が短距離で射られ、隊列は密集していたため、かなりの時間戦いは互角であった。しかしギリシア軍は勇気と盾の大きさで勝っていたため、メディア軍は多くの死者と少なからぬ負傷者を出して徐々に退いていった。戦いでのメディア軍の持ち場は、勇気のために選び抜かれて彼らを支援するために配置されていたキッシア人とサカイ人に引き継がれた。疲弊していた相手に対して新手が戦いに加わると、彼らは短時間戦いの危険に持ち堪えたがレオニダスの兵に殺され圧迫され、退却した。夷狄は丸かったり不規則な形をしていたりした小さい盾を使っていたためにより簡単に動けるので開けた原野では優位に立てるが、狭い場所では密集隊形を組んで大きな盾で全身を守る敵にそう簡単に傷を与えることができず、他方で軽装備のために苦戦し、幾度も負傷させられた。
 ついにクセルクセスはその道の周りの全域が死体で満ち溢れ、夷狄がギリシア軍の勇気に太刀打ちできていない様を見て取ると、全軍のうちで抜群の勇気で誉れ高い「不死隊」と呼ばれるペルシアの精鋭部隊を投入した。しかし彼らも短時間の抗戦の後に敗走した。ついに夜になって戦いをやめた時の夷狄の戦死者は夥しく、ギリシア軍の戦死者は僅かだった。
8 翌日、今や戦いが予想に反した展開を見せていたためにクセルクセスは軍の全ての者の中から卓越した勇気と果敢さで評判の兵士たちを選び出し、彼らを前にしてもし彼らが接近するための血路を切り開けば気前の良い褒美を与えるつもりだが、逃げれば死罪が待っていると熱の入った激励を戦いに先だって述べた。この男たちは一丸となって凄まじい突撃力でもってギリシア軍に向けて身を投げ出したが、レオニダスの兵たちはこの時、密集隊形を作って隊列を壁のようにして熱心に戦った。ギリシア軍は熱烈に前進して代わる代わる戦いを交えた戦列は一歩も退かず、断固として持ち堪えたために優位に立って選り抜きの夷狄を数多く殺した。古参兵は若者の生き生きとした力強さに挑み、若い兵は古参兵の経験と名声と渡り合ったため、その日の長い時間を彼らは戦いに費やして互いに競いあった。ついに選り抜きの夷狄が敗走に転じると、反対側に配置されていた夷狄は道を塞いで選抜兵に逃亡を許さなかった。このために彼らは反転して戦いを再開せざるを得なくなった。
 再び戦いへと向かう勇気を持つ者がいないのだろうと信じた王が失望しているところに、その地方の生まれでこの山岳地帯に精通していた或るトラキス人がやってきた。この男はクセルクセスの面前まで連れていかれ、ペルシア軍を狭く険しい道を使って先導すると請け負い、そうすれば同行した兵はレオニダス軍の背後に回り込んで彼らを包囲して易々と全滅させることができるだろうと述べた。王は喜んでこのトラキス人に贈り物を山ほど与えると、一二〇〇〇人の兵を彼と共に夜中に送り出した。しかしペルシア軍の中にキュメ生まれのテュラスティアダスという名誉に充ち、高潔な生き方をしていた男がおり、彼はペルシア軍の陣営を夜中に脱走し、このトラキス人の行いを知らなかったレオニダスにこれを知らせた。
9 ギリシア軍はこれを聞くと、真夜中に集まって自分たちに迫りつつある危機について相談した。何人かはその場所に留まれば生きては帰れないだろうと述べてすぐにその峠を放棄して同盟軍の方へ無事向かうべきだと主張したものの、ラケダイモン人の王レオニダスは自らとスパルタ人の双方に偉大な栄光の花冠を与えたいと熱望していたために残りのギリシア軍は続く戦いでギリシア人と一緒に夷狄と戦うために全員去って安全を確保するよう命令を下したが、ラケダイモン軍には留まれ、峠の防衛を放棄してはならぬ、それというのもヘラスの指導者たる者は栄誉への報償として毅然と死ぬのが相応しいからだと言った。それからすぐに残りの皆が退去したが、レオニダスは仲間の市民たちと共に英雄的にして驚くべき行動を成し遂げた。ラケダイモン軍は僅かしかおらず、彼が引き留めたのはテスピアイ軍だけだったので彼が率いていたのは全部で五〇〇人もいなかったものの、彼はヘラスのために死に向かう用意をした。
 この後、件のトラキス人が先導するペルシア軍は難路を通って迂回した後に突如としてレオニダスと彼の軍勢とぶつかり、ギリシア軍は自らの安泰を考えることを放棄して代わりに名声を選び取り、ペルシア軍が彼らの友軍が迂回したことを知る前に自分たちを敵へと率いてくれるよう司令官に一斉に頼んだ。そしてレオニダスは兵士たちの熱意を受け入れ、あの世で晩餐をとるために速やかに朝食の準備をするよう彼らに命じ、自らもこうすることで長時間力を保って戦いの労苦に耐えられると信じつつ、自分で下した命令に則って食事を採った。彼らが大急ぎで元気を回復させて全ての準備を整えると、彼は兵士たちに野営地を攻撃して道すがら出会う者を殺して王の大天幕を攻めるよう命じた。
10 それから兵士たちは下された命令に従って密集隊形を組んでペルシア軍の野営地に夜襲を仕掛け、レオニダスがこの攻撃を指揮した。夷狄は攻撃が予期せぬもので、その理由が分からなかったために大騒ぎをして混乱しながら天幕から飛び出て、トラキス人と一緒に出発していた兵士たちが壊滅してギリシア軍の全軍がやってきたものと思って恐慌状態に陥った。したがって多くの者がレオニダスの兵に殺され、敵との見分けがつかずに同士討ちで死んだ者はそれを上回った。夜が状況の真相の把握を妨げたために陣営全体に広がった混乱は、我々がよく信じているように、大量殺戮を引き起こした。彼らが同士討ちを続けてからというものの、一人の将軍からも合い言葉、概して〔この混乱の〕理由を見つけだすことを求める命令も出なかったために状況が詳細な吟味を許さなかった。なるほどもし王が王の大天幕に留まっていれば、彼もまた易々とギリシア軍に殺されて戦争全体が速やかな結末を迎えていたことだろう。しかしクセルクセスは混乱の巷へと大急ぎで向かっており、ギリシア軍は大天幕へと突入してそこで捕捉したほとんど全員を殺戮した。夜通し彼らはクセルクセスを陣営中探し回ったわけであるが、それは合理的な行動といえた。しかし夜が明けて状況の全てが明らかになると、ペルシア軍はギリシア軍が僅かな数であることを見て取ってこれを侮った。しかしペルシア軍は彼らの勇気を恐れて彼らと白兵戦を行わず、翼や背後に回り込み、方々から矢を射て投槍を放って一人残らず殺した。テルモピュライの峠を守っていたレオニダスの兵はこのようにして人生の終わりを迎えた。
11 これらの男たちの功業を思って驚嘆せぬ者がいようか? 彼らはギリシアが彼らに委ねた地位を一貫して捨てず、喜んで自らの命を全ギリシア人一般の救済のために捧げ、恥ずべき生より勇敢に死ぬことを選んだ。またペルシア軍が驚愕の念を感じていたことを疑うことができる者もいまい。夷狄の中で誰がこんなことが起こるかを考えることができたであろうか? たった五〇〇人の部隊が大軍勢に突撃を敢えて行うと誰が予期できたであろうか? 故に後世の者で、この極限状況を了解してその身は屈服しようとも精神では負けなかったこの戦士たちの勇気に倣おうとしない者がいようか? かくしてこの男たちは歴史が記録する全ての人たちの中で唯一、見事な勝利を得た他の全ての人たちに勝る偉大な名声をその敗北の中で得たのである。それというのもこの勇者たちの行いの結果ではなく、彼らの目的のために彼らを無視することを判断することなどあろうはずがない。場合によっては運命の女神が主人になるが、他の場合には目的が賛同を勝ち得るものとなる。敵の千分の一すらいなかったにもかかわらず信じられないほどの大軍に対して勇気で互角に渡り合ったこのスパルタ人らよりも勇敢な者がいると判断する者がいようか? 彼らにはこれほどの大軍を打ち破るいかなる希望もなかったが、彼らは勇気においてこれ以前の時代の全ての人たちを凌ぐことになるだろうと信じていた。彼らが戦うべき戦いは夷狄に対するものではあったものの、真の競争と彼らが求める勇気への褒美は、これまでに戦いで賞賛を勝ち得た全員との競い合うものとなると結論した。なるほど彼らは遠い昔から自身の命よりも国家の法を守ることを選んだと知られている唯一の人たちであり、彼らは自らを脅かす最大の危機に腹を立てることなく、この種の競争に加わる好機こそが勇気を行使する者が願う最大の恩恵だと決断した。そしてこの男たちの行いが心に呼び起こされると、ペルシア人は意気消沈した一方でギリシア人は似たような勇敢な行いへと掻き立てられたため、ギリシア人の共通の自由はクセルクセスとの戦いで後に勝利した人たちよりもこの男たちのおかげであることを信じることは正当化されるだろう。
 そして概して言えば、彼らの時代に至るまでギリシア人のうちでこの男たちだけが例外的な勇気のために不死に到達した。したがって歴史の著述者のみならず我々の詩人の多くもまた彼らの勇敢な行為を賞賛しており、その一人である叙情詩人シモニデスも彼らの勇気の価値を称えて以下の賛辞を書いた。
テルモピュライで倒れし者ども
栄光あるものは幸運、立派な死に尽きる
彼らの墓は祭壇となり、永久の記憶を得る
嘆きと彼らの運命の代わりに賛美の歌を。
かような死者の墓は
猛き時間といえど風化せぬ。
この勇者たちの墓は
埋葬されし者にヘラスでの立派な名声をもたらす。
目撃者は時のスパルタ王レオニダス
そは跡に残せし者
勇壮さと不死の名声の王冠を
12 今や我々は十分な長さでもってその男たちの勇気について語ったので、話の本筋に向かうべきであろう。クセルクセスは今し方我々が述べたようにしてその峠を奪取して勝利したのであるが、これは故事で言うところの「カドメイアの勝利」になり、少数の敵しか滅ぼせなかった一方で彼は部隊に大損害を被っていた。陸軍の力によって峠を制圧した後、彼は海戦を試みようと決意した。したがってすぐに艦隊司令官メガバテスを呼び寄せると、彼にギリシアの海上戦力に向けて航行し、全艦隊でもってこれと海戦を行うよう命じた。そしてメガバテスは王の命令に従ってマケドニアのピュドネから全艦隊を出航させ、マグネシアのセピアスという名の岬に停泊した。この場所で大嵐が起こって彼は三〇〇隻以上の軍船と騎兵の輸送船、その他の船舶を失った。嵐が収まると彼は碇を降ろし、マグネシアのアペタイに停泊した。そこから彼は指揮官たちに迂回路を取ってエウボイアを右に見ながら進んで敵を包囲するよう命じて二〇〇隻の三段櫂船を派遣した。
 ギリシア軍はエウボイア島のアルテミシオンに陣取り、全部で二八〇隻の三段櫂船があった。そのうち一四〇隻はアテナイ船で残りの船は他のギリシア人から提供されていたものだった。提督はスパルタ人エウリュビアデスで、アテナイ人テミストクレスが艦隊の諸事を統括した。というのも後者はその知謀と将軍としての技術のために艦隊中のギリシア人のみならずエウリュビアデスその人からも大変な好意を勝ち得ており、皆が彼を見ては彼の言うことに熱心に耳を傾けていたからだ。艦隊の指揮官たちの会議が戦いについて論じるために開催されると、残りの全員が前進する敵を邀撃する案を支持したが、テミストクレスだけは全艦隊を一列にして敵に向かって航行するのが有利であると示し、反対意見を表明した。というのも、こうすれば幾分か離れた多くの港を出発したために隊列がばらけて崩れているに違いない敵に対して一丸となった艦隊で攻撃をかけて優位に立てるからだと彼は明言した。結局ギリシア軍は当座の意見に従い、全艦隊で敵に向けて航行した。夷狄は多くの港から出港していたため、テミストクレスは最初に散らばっていたペルシア軍を叩き、少なからぬ船を沈めて敗走させて陸まで追撃した。しかしその後、全艦隊が集結して激しい戦いが起こると、両艦隊は戦列の局所で優位に立ったが、完全勝利を得ることはなく、夜が来ると戦いは終わった。
13 戦いの後、大嵐が起こって港の外に停泊していた〔ペルシア側の〕多数の船が破壊されたため、あたかも夷狄の大艦隊をすり減らすことでギリシア軍が互角で戦えるようにし、戦いを挑めるだけの戦力にするために神慮がギリシア人の側に立ったかのようであった。この結果、ギリシア軍は一層大胆になり、一方夷狄は戦いに臨む前より一層臆病になった。にもかかわらず、難破の後に態勢を立て直すと夷狄は全船で敵へと向かっていった。そしてギリシア軍は戦力に加わえた五〇隻のアッティカの三段櫂船でもって夷狄に立ち向かっていった。続いて起こった海戦はテルモピュライでの戦いそのものであった。ペルシア艦隊はエウリポス海峡を抜ける針路に陣取ったギリシア艦隊とその部隊を圧倒しようと決意し、一方ギリシア艦隊は隘路を塞いでエウボイア島の同盟国を保持するために戦った。激しい戦いが起こって双方で多くの船が失われ、夜の帳が落ちたためにそれぞれの港へ戻ることを余儀なくされた。この二つの戦いでの武功に価した者はギリシア人ではアテナイ人で、夷狄ではシドン人だったと伝えられる。
 この後、ギリシア軍はテルモピュライで起こった出来事の顛末を聞いてペルシア軍が陸路でアテナイへと進軍していることを知ると、意気消沈した。したがって彼らはサラミスへと航行してそこで待機した。アテナイ人はアテナイのあらゆる住民を脅かす危機を眺めると小舟に妻子と運べる限りのありとあらゆる家財を載せてサラミス島へと運んだ。そしてペルシアの提督は敵が撤退したことを知るとエウボイア島へと全艦隊を率いて向かい、ヒスティアイア人の都市を強襲で落として領地を略奪し、荒らした。
14 それらの出来事が起こっていた一方で、クセルクセスはテルモピュライを出発してポキス領を通り、その道中諸都市を略奪して郊外にある全ての資産を破壊した。ギリシア人の大義を選びはしたが、今や自分たちは歯が立たないことを理解したポキス人は全ての人が全ての都市を放棄して安全を求めてパルナッソス山あたりの岩がちな地域へと逃げた。それから王はドリス人の領地を通過したが、彼らはペルシア人の同盟者であったためにそこには何の害も及ぼさなかった。ここに彼は軍の一部を残し、デルポイに襲来してアポロンの神域を焼き払って奉納品を運び去るよう命令し、一方自身は残りの夷狄の軍勢を連れてボイオティアへと進んでそこに野営した。神託所の略奪のために派遣されていた部隊はアテナ・プロナイアの神殿あたりまで進んだが、その場所で突如として天から炸裂した絶えざる雷を伴った酷い雷雨に見舞われ、その嵐でねじり取られた巨岩が夷狄の軍勢へと降り注いだ。その結果、大勢のペルシア兵が死に、全軍が神の介入に意気消沈してその地域から逃げ去った。このようにしてデルポイの神託所は何らかの神慮の助けを得て略奪を免れた。そしてデルポイ人は神々の人々のもとへの顕現の不朽の記憶を後代の人たちに残そうと望んでアテナ・プロナイアの神殿の傍らに以下のエレゲイア詩を彫った記念碑を建てた。
戦の記念となすため、
迷い人らよ、勝利の証人として
我を建てしはデルポイ人、
市を略奪するメディア勢を追い返し
青銅の冠を冠せし神殿を守りし
ゼウスとポイボスに感謝せり。
 一方クセルクセスはボイオティアを抜けると、テスピアイ領を荒廃させて住民の去ったプラタイアを焼き討ちした。それらの都市の住民はペロポネソス半島へと一挙に逃げていた。この後に彼はアッティカに入って郊外を荒らし、それからアテナイを徹底的に破壊して神々の神殿に火を放った。王がそのことをしていた間、彼の艦隊は道すがらエウボイア島とアッティカの沿岸を荒らしながらエウボイア島からアッティカへと航行していた。
15 この間、六〇隻の三段櫂船を設えていたケルキュラ軍がペロポネソス沖に待機しており、彼らの主張するところではマレア岬を回ることができなかったため、しかし幾人かの歴史家の言うところではペルシア人が優勢になれば彼らに水と土を献上する一方でギリシア人が勝てば助けに向かおうとしたという信用を得るために戦争の帰趨を案じながら待っていた。しかしサラミスに待機していたアテナイ人はアッティカが焼き討ちされてアテナの聖域が荒らされているのを見ると酷く落ち込んだ。方々から追い出されてペロポネソス半島に閉じ込められていた他のギリシア人も同様に大変な恐怖に襲われた。したがって指揮を担う者が勢揃いして軍議を開き、海戦を戦うという彼らの目的に適う場所について論じるのが望ましいと彼らは考えた。ありとあらゆる多くの考えが表明された。ペロポネソス人は自分たちの安全しか考えていなかったために戦いはイストモス地峡でなされるべきだと唱えた。それというのもそこは城壁によって強固に防備を施されており、なればこそもし戦いで何かしらの逆転に見舞われたとしても敗者は安全を確保するにあたって最も適当な場所、即ちペロポネソス半島へと逃げ込むことができるであろう。だが救援が困難なサラミスの小島に封じ込められれば、危機に見舞われるであろうからだ。しかしテミストクレスはサラミスの海峡ならば数で勝る大艦隊との戦いにあっては少数の船に乗る者が優位に立つと信じていたため、船での戦いはサラミスでなされるべしと提議した。そして概して言えば、彼はイストモス地峡周辺の海域は海戦には全く適していないことを示した。それというのも開けた海で戦いが行われると、ペルシア軍は行動の余地があるために数の優位によって小勢の艦隊を簡単に打ちひしぐことになるからだ。そして似たようにして好都合な他の多くの事実を示すことによって彼は全員を自分が勧める計画への投票に賛成するよう説き伏せた。
16 最終的にサラミスで海戦を戦うという結論に全員が到達すると、ギリシア軍はペルシア軍との戦いでの危険に立ち向かうために必要な準備をした。したがってエウリュビアデスはテミストクレスを伴って乗組員の激励を行い、目前の戦いへと奮起させた。しかし乗組員は誰も彼もペルシア軍の強大さに落ち込んでいたために誰一人として司令官の言うことに耳を傾けず、誰もがサラミスからペロポネソス半島へと行きたがった。陸のギリシア陸軍は敵軍を少しも恐れてはおらず、彼らのうちでの最も顕著な戦士たちのテルモピュライでの敗北は彼らを意気阻喪させていなかっただけでなく、アッティカで彼らの面前で起こった災難はギリシア人を完全に絶望させてもいなかった。一方ギリシア軍の会議の参加者たちは大衆の不安と落胆が方々に蔓延していたことを見て取ると、イストモスを横切る壁を築くことを票決した。その作業はその仕事の参加者の熱意と数のために速やかに完了した。しかしペロポネソス人が四〇スタディオンに拡張されてレカイオンからケンクレアイまでになっていた城壁を強化していた一方で、サラミスに待機していた軍勢は全艦隊もろとも恐慌状態に陥ったためにもはや指揮官たちの命令に服さなくなっていた。
17 テミストクレスは提督エウリュビアデスが軍の雰囲気に打ち勝てなかったことを知ると、サラミスの狭い地形は勝利を得るために大いに助けになるであろうことをすでに認識していたために以下のような策略を企んだ。彼はある男をクセルクセスのところまで脱走させてサラミスの艦隊はその場所を離脱してイストモスに集結しようとしていると保証した。したがって王はその報告が尤もらしかったために彼を信じ、急いでギリシア海軍が陸の軍勢と連絡を取るのを妨げた。したがって彼はサラミスをメガリス領から分断する海峡を封鎖するよう命じてすぐにエジプト艦隊を派遣した。彼は敵と接触してそこでの戦いで決着をつけるよう命じて艦隊の本隊をサラミスへと送った。三段櫂船艦隊は次々に人種ごとに整列され、同じ言語を話してそれぞれの言う内容が分かっていたためにその各隊は迅速に互いを支援し合った。艦隊がこのようにして整列すると、右翼にはフェニキア艦隊が、左翼にはペルシア人に協力していたギリシア艦隊が陣取った。
 ペルシア艦隊内のイオニア人部隊の将軍たちはあるサモス人をギリシア人のところへと送り、王の決定とその部隊の戦闘配置を知らせ、戦いの最中に夷狄を見捨てようと思っていることを述べさせた。そしてそのサモス人は気付かれることなく泳いできてエウリュビアデスにこの計画を知らせ、テミストクレスは自分の策略が計画通りに進展していると思い、大喜びで乗組員たちを戦いへ向けて激励した。ギリシア軍はイオニア人の約束で大胆になり、状況は彼らを意に反して戦いを強いていたにもかかわらず、海戦の準備万端で一斉にサラミスから岸へと熱心に向かった。
18 ついにエウリュビアデスとテミストクレスが部隊配置を完了させると、アテナイ艦隊とラケダイモン艦隊が左翼を占めるという具合でフェニキア艦隊と対峙した。というのもフェニキア艦隊は数の多さと先祖代々の船乗りとしての経験で明らかに優越していたからだ。アイギナ艦隊とメガラ艦隊はアテナイ人に次ぐ最良の船乗りだと考えられており、ギリシア人の中で唯一逃げ場がなく(10)、戦いで逆転するしかないことを知っていたことから最高の精神を示すだろうと信じられていたために右翼を形成した。中央は残りのギリシア艦隊が占めた。
 以上のような戦闘隊形をとってギリシア艦隊は出航し、サラミスとヘラクレイオンとの間の海峡を占領した。王は提督に敵に向かって進むよう命令を下し、一方自らはサラミスの対岸の真正面の地点に下って戦いの推移を見物した。進み出たペルシア艦隊は広さが十分にあったために最初は戦列を維持していたが、隘路に来ると一部の船を戦列から後退させざるを得なくなって乱雑になった。戦列の先頭で統率して最初に戦いに入った提督は勇敢に戦った後に戦死した。彼の船が沈むと、命令を下す者が多かったものの各々は同じ命令を下すことがなかったために夷狄の艦隊は混乱に陥った。したがって彼らは前進を止めて船を後退させ、十分な余地のある場所へと退却を始めた。アテナイ艦隊は夷狄の無秩序ぶりを見ると敵に向けて進み出て、彼らの艦隊の一部は衝角で攻撃し、一方他のものは櫂の列を寸断した。そして漕ぎ手が役に立たなくなると多くのペルシアの三段櫂船は敵に対して横向きになり、何度も船の船首で重い損害を与えられた。かくしてそれらは前に進めなくなって船尾を反転させて大急ぎで逃げた。
19 フェニキアとキュプロスの艦隊がアテナイ艦隊に押されていた一方でキリキアとパンピュリア、それに加えて列をなしてそれらに続いていたリュキアの艦隊は最初は頑強に持ち堪えていたが、最強の艦隊が敗走しているのを見て取ると同様に逃げ出した。他方の翼では激戦が繰り広げられ、しばらくは戦いは拮抗していたが、フェニキアとキュプロスの艦隊を岸まで追撃していたアテナイ艦隊が引き返してくると、戻ってきたアテナイ艦隊に隊列を圧迫されて夷狄は向きを変え、大部分の船を失った。このようにしてギリシア艦隊は優位に立って夷狄に対して最も名高い海戦で勝利を得た。この戦いではギリシア艦隊では四〇隻が、乗組員もろとも拿捕された船を含まなければペルシア艦隊で二〇〇隻以上が失われた。
 王は敗北が予期せぬものであったために敗走の主たる責任者であったフェニキア人を処刑し、 残りの者に対してはそれ相応の罰が下されると脅した。そしてこの脅しに怯えたフェニキア兵はまずアッティカ沿岸に入港し、次いで夜になるとアジアへと向かった。しかし勝利の立役者であったために信用されていたテミストクレスは上述の計略に勝るとも劣らず賢明なもう一つの計略で敵を欺いた。ギリシア軍がペルシア軍の大軍を向こうに回して陸で戦うことを案じていた彼は以下のようにして多くのペルシア兵を減らした。彼はクセルクセスにギリシア軍は〔ヘレスポントスに架けられていた〕船橋を破壊すべく向かっていると知らせるために自身の息子の従僕を送った。したがって王はそれが尤もらしかったためにその報告を信じ、今や海はギリシア人が支配していた以上はアジアに戻る退路を断たれるのではないかと恐れ、マルドニオスを合計四〇万人を下らない選り抜きの騎兵と歩兵と一緒にギリシアに残してヨーロッパからアジアへと可及的速やかに渡ろうと決めた。したがってテミストクレスは二つの計略を用いることでギリシア人に目覚ましい優位をもたらした。
 この時のギリシアで起こった出来事は以上のようなものであった。
20 さて我々はヨーロッパでの出来事を十分長く論じたので、他の人たちの情勢に話を移すことにしよう。思い出してもらいたいが、カルタゴ人はシケリア島のギリシア人の隷属化についてペルシア人と合意し、軍需品の大規模な準備をしていた。あらゆる準備ができると、彼らはハミルカルを最高の声望を持った人として選び出し、将軍に選出した。彼は陸海の大軍の指揮権を振るい、三〇万人を下らない陸軍と、三〇〇〇隻以上の物資輸送船を含めなければ二〇〇隻以上もあった軍船の艦隊を率いてカルタゴを出航した。リビュア海を渡っていた時に彼は嵐に遭遇して馬と戦車を運んでいた船を失った。パノルモスの港からシケリアに入港すると、彼はもう戦争の決着はついたも同然だとうそぶいた。というのも彼は海がシケリア人を戦いの危険から救うのではないかと案じていたからだ。彼は三日間を兵の休息と嵐が船に与えた損傷の修理に使い、次いで大軍を率いてヒメラへと進軍し、艦隊は彼に沿って沿岸を進んだ。そして上記の都市の近くに着くと彼は一つは陸軍の、もう一つは海軍の、二つの野営地を設営した。彼は全ての軍船を陸まで曳いて深い壕と木の柵を巡らして軍の野営地を強化した。彼が設えた野営地はその都市の前に位置し、城壁のある地区にあったそれは海軍の野営地に沿い、その都市を見下ろす丘にまで延びることになった。概して言えば、輸送船から全ての物資を降ろしてすぐに穀物と他の物資をリビュアとサルディニアから運んで来るよう命令を与えて全ての小舟を去らした後に彼は〔その都市の〕西側全域を支配するに至った。そして最良の兵を連れて彼はその都市へと進軍し、出撃してきたヒメラ軍を敗走させてその多くを殺すと、その都市の住民を恐怖のどん底に突き落とした。したがってアクラガス人の支配者で、大軍を連れてヒメラ防衛のために留まっていたテロンは恐怖に駆られて急ぎシュラクサイへと手紙を送り、可及的速やかに援軍を向かわせるようゲロンに求めた。
21 同様に準備万端の軍を有していたゲロンはヒメラ人が自暴自棄になっていることを知ると、シュラクサイから大急ぎで出撃して歩兵五〇〇〇人と騎兵五〇〇騎を下らない軍を連れて向った。彼はかなりの距離を速やかに踏破し、ヒメラ人の都市の近くに来るとカルタゴ軍を前に意気消沈していた人たちの心に勇気を呼び起こした。市の近くの適当な場所に野営した後、彼は深い壕と柵でその地に防備を施しただけでなく、戦利品を探して郊外をうろついていた敵軍へ向けて全騎兵隊を派遣した。戦闘隊列を組まずに郊外へと散らばっていた兵士へと騎兵たちは出し抜けに接近し、追い立てることができただけの人数を捕虜にした。一〇〇〇〇人以上の捕虜がその都市へと送られてくると、ゲロンはそれを大いに賞賛しただけでなく、ヒメラ人は敵を侮るようになった。すでに彼が成し遂げたことに続き、テロンが恐怖によって以前に閉ざした全ての門が逆にゲロンによって敵への軽蔑によって開け放たれ、彼は差し迫って必要な場合に彼にとって有用であることが証明されることになる門をもう一つ追加で作りさえした。
 つまりゲロンは将軍としての技量と抜け目なさで秀でていたため、すぐにどうすれば危険を冒すことなく彼の軍で夷狄に勝ち、その戦力を壊滅させることができるかを発見したわけである。そして彼の非凡さは以下のような状況から起こったある偶発的事件によって大いに助けられた。彼は敵の船に火を放つことを決定していた。ハミルカルは海軍の野営地でポセイドンに壮麗な生贄を捧げる準備をしていた一方で、ゲロンのもとへと騎兵が郊外からやってきて、彼はセリヌスの人々から派遣されて手紙を運んでいた者を連れていた。その手紙にはセリヌス人はハミルカルが騎兵を送るようにと手紙で書いた所定の日に騎兵を送るつもりだと書かれていた。その日はハミルカルが生贄を捧げると計画していた日であった。その日にゲロンは自軍の騎兵を送った。彼らはまるでセリヌスからの同盟軍であるかのようにすぐ隣の国に沿って向かい、海軍の野営地に夜明けに突撃をかけ、木の柵の内側に入るやハミルカルを殺して船に火を放つよう命じられた。また彼は騎兵が城壁の内側にいるのを見るやすぐに信号を上げるよう命じて斥候を市を睥睨する丘へと送った。彼の方では夜明けに軍を整列させて斥候が上げる信号を待った。
22 その奇襲作戦で騎兵はカルタゴ海軍の野営地へと駆けて行き、彼らを認知した守備兵は同盟軍だと思い込んだ。すぐに彼らはハミルカルが犠牲を捧げている所へと駆けてこれを殺し、次いで船に火を放った。その上で斥候が合図を上げると、ゲロンはカルタゴ軍野営地へと戦列を組んだ全軍を率いて向かった。野営地のフェニキア軍の指揮官たちは最初はシケリア軍と戦うべく兵を動かし、密集陣で戦いに勝利した。同時に双方の野営地でラッパで戦いの合図が起こり、両軍から代わる代わる叫び声が上がり、各々は多くの激励の中で敵を打ちひしぐべく熱烈に戦った。凄まじい殺し合いが起こって戦いの帰趨は揺れ動いたが、突如として船から火の手が高く上がり、将軍は殺されたと諸々の人々が報告した。そしてギリシア軍は噂で勇気を出して魂を奮い立たせて勝利の希望でより大胆に夷狄を圧迫した一方で、カルタゴ軍は意気阻喪して勝利を絶望視し、敗走に転じた。
 ゲロンは捕虜を取るなと命令していたため、敗走の過程で敵兵の大殺戮が起こり、最終的に一五万人を下らない数の敵兵が殺された。戦いから逃げてまず強固な地点に逃げた全員は攻撃軍を食い止めたが、彼らが陣取った場所には水がなく、渇きのために勝者に降伏することを余儀なくされた。最も目覚ましい戦いで勝利して主として将軍としての技量のために成功を勝ち得たゲロンはシケリア人の間だけでなく他の全ての人にまで広く轟く名声を得た。これほど軍略を駆使し、一戦で夷狄をこれほど殺し、これほど多数の捕虜を得た者は前代未聞だった。
23 この事績のために多くの歴史家はこの戦いをプラタイアでギリシア軍が戦った戦いと、そしてゲロンの軍略をテミストクレスの非凡な謀略と比べ、かような非凡な功業が双方の人物によって示されたため、ある人たちは一方に、別の人たちは他方に第一等の地位を認めた。一方でギリシアの人々が、他方でシケリアの人々が夷狄の大軍勢を相手に戦うことになって狼狽していたところ、ゲロンの勝利の知らせがギリシアの人々を勇気づけた、というのがシケリアのギリシア人の勝利が上位になる理由である。そして双方の出来事で最高指揮権を持っていた人たちについては、ペルシア軍の場合は王が命を守るために逃げて無数の兵士がそれにつき従い、一方でカルタゴ人の場合は将軍が死んだだけでなく戦争に参加した誰もが殺されたと我々は知っているし、伝えられるところでは一兵たりともカルタゴまでその知らせを持って生きて帰ることはなかったという。その上、ギリシア人のうちで最も優れた指導者たちのうちでパウサニアスとテミストクレス、前者は権力と財貨への思い上がった貪欲のために同胞市民によって殺され、後者はギリシアの端々から追放されて自身の最大の敵であったクセルクセスのもとに逃げ込み、その厚遇の下で生涯を終えた。他方でゲロンは戦いの後に毎年シュラクサイ人からより一層大きな信任を受けて王座にあって年を重ね、臣民から尊敬されながら死に、市民たちが彼に感じた好意は王権がこの家系の三人の成員によって保たれたほどに強いものであった(11)
 しかし、名声を保ち続けたその人たちは彼らに相応しい賞賛もまた我々から受けたのであるからして、我々はその後に続く話へと進むことにしよう。
24 さて、ゲロンはレオニダスと彼の兵がクセルクセスとテルモピュライで戦ったのと同じ日に勝利を得て、それはあたかも神意が最も素晴らしい勝利と最も名誉ある敗北が同時に起こるように意図的に調整したかのようであった。ヒメラ市での戦いの後、二〇隻のカルタゴ船が戦いから逃げており、これらの船はハミルカルが定常任務のために沿岸に置いていなかった船だった。したがって戦闘員の残りの全員が実際のところ殺されたり捕虜にされたりしたにもかかわらず、その船団は気付かれる前に航行していったのだ。しかし彼らは多くの逃亡兵を集めたために積載量が重くなり、嵐に遭ってその全てを失った。一握りの生存者だけが無事カルタゴに生きて戻り、一隻の小舟が同胞市民に「シケリアに渡った全員が滅んだ」という短い知らせを届けた。
 希望とは裏腹に大打撃を被ったカルタゴ人は、ゲロンが全軍を率いてカルタゴ侵攻を決意するに違いないと信じて彼らの都市で寝ずの番をするほどの恐慌状態に陥った。損害の大きさのためにその都市は公式の喪に服し、私的には市民の家々は泣き叫んで哀悼した。ある者は息子たちの、他の者は兄弟の安否を尋ね続け、一方で父親を失った非常に多くの子供が世界で独りぼっちになり、自分を儲けた人の死を悲しみ、助けてくれる人の喪失を嘆いた。そしてカルタゴ人はゲロンが先手を取ってリビュアに渡って来るのではないかと恐れ、すぐに彼に向けて最も有能な弁論家と相談役を全権大使として派遣した。
25 ゲロンは勝利の後にハミルカルを殺した騎兵隊を贈り物で讃えただけでなく、軍内で役割を果たした他の全員に勇気への褒賞を授けた。シュラクサイを戦利品で飾ろうと望んだ彼は戦利品のうちで最も良いものの一部を取っておいた。残りの戦利品はその多くをヒメラの神殿の一番目立つ箇所に固定し、残りの戦利品を捕虜もろとも同盟軍に彼と共に働いた数に応じて分配した。諸都市は割り当てられた鎖に繋がれた捕虜を得て公共事業のために彼らを使った。アクラガス人が受け取った人数は非常に多く、彼らは彼らの都市と郊外を飾った。自由になる奴隷の数が余りにも多く、多くの市民が五〇〇人の捕虜を家に持つほどであった。非常に多くのアクラガス人が捕虜を得た理由となったのは戦いに多くの兵士が送られたからだけでなく、戦いが起こると多くの逃亡兵が内陸部、とりわけアクラガス人の領地に向い、アクラガス人によってことごとく捕らえられてその都市が捕虜で満杯になったからであった。そのほとんどが国の管理に委ねられ、彼らは採石場から石を切り出して神々の最大の神殿を作っただけでなく、その都市に水を通す下水道が建設された。その建築物は安価に建てられたとはそうそう思われるものではなく、大きくて一見の価値がある。それらの工事に当たったパイアクスという名の建設担当者はその下水道が彼の名から「パイアケス」という名がつくほどにその建築物によって名声を得た。アクラガス人もまた外周が七スタディオンで深さが一二ペキュスの高価な遊泳浴場を建てた。そこへは川と泉から水が流されて養魚池になり、皿を一杯にするほど非常に豊富な食用の魚を供給した。そして白鳥もまた非常に多くそこに住み着いたため、池は見る者を喜ばせた。しかし、後にその池は放置されて詰まってしまい、長い時間を経て駄目になってしまった。しかし肥沃だったその敷地全体に住民が葡萄の木と鬱蒼とした様々な木が植えたために彼らはそこから莫大な収益を得た。
 同盟軍を解散した後、ゲロンはシュラクサイの市民を率いて帰国し、彼の成功の大きさのために同胞市民だけでなくシケリア全土からも熱狂的に迎えられた。それというのも彼はあたかも島がリビュア全土を捕まえたかのように非常に多くの捕虜を引き連れていたからだ。
26 そして以前には彼と対立していた諸都市と支配者たちの両方から彼への使節がすぐにやってきて、過去の過ちを許するよう求め、今後は彼のあらゆる命令に従うと約束した。その全員を彼は公正に扱い、彼らのみならず彼の最大の敵であったカルタゴ人とさえ同盟を結び、人間としての幸運をもたらした。カルタゴから派遣されてきた使節団が彼のところへと来て涙ながらに人道的な扱いを懇願すると、彼は和平を認め、戦争に費やした費用、そして二〇〇〇タラントンの銀を徴発してさらに条文の複写を安置する二つの神殿を建てるよう求めた。予期せずして釈放されたカルタゴ人はこの全てに同意しただけでなく、その上ゲロンの妻ダマレテに黄金の冠を送るとも約束した。それは彼らの要望〔の受け入れ〕にあたってダマレテが和平条約の締結に大いに貢献したためであり、彼らから一〇〇タラントンの黄金の冠を受け取ると、彼女は彼女に由来するダマレテイオンという硬貨を鋳造した。これは一〇アッティカ・ドラクマの値打ちがあり、この重さのためにシケリアのギリシア人からペンテコンタリトロン(12)と呼ばれた。
 ゲロンは善意の行動によって全ての人を自分の味方にしようという動機からではなく、主として彼自身の気質のために全ての人を公正に扱った。例えば、彼はギリシアへと大軍を率いて赴いてペルシア人との戦争に参加する準備をしていた。彼がまさに海に漕ぎ出そうとしていた時、コリントスから送られてきた男がシュラクサイに入港し、ギリシア軍がサラミスの海戦で勝利してクセルクセスとその軍の一部がヨーロッパから撤退したという知らせを持ってきた。したがって彼が出発の準備を取りやめる一方で兵士は熱狂的に喜んだ。次いで彼は集会を召集して完全武装で現れるよう各々の兵士に指示した。彼自身は非武装どころか上着も付けず外套を羽織っただけで集会にやってきて、歩み出ると自身の全人生およびシュラクサイ人のために彼が行った全てのことについて説明した。群衆が彼が述べた行動のそれぞれへの賛同を叫び、とりわけ彼を殺したがっていた人たちの手に無防備で自らを投げ出したことに驚き、彼を僭主として復讐の犠牲にするよりはむしろ彼を恩恵者および救い主そして王と満場一致で呼んだ。この事件の後にゲロンはデメテルとコレのために戦利品を使って特筆に値する神殿を建設し、一六タラントンの値打ちの黄金製の三脚台を作ってアポロンへの感謝の印としてデルポイの聖域に寄贈した。後に彼はその地に神殿がなかったデメテルとコレのために神殿を建てようとしたが、完遂されることはなく、彼の命は運命によって中断された。
 抒情詩人のうちでピンダロスがこの時代の第一人者であった。さて、概してこの年に起こった大部分の注目に値する出来事は以上のようなものであった。
27 クサンティッポスがアテナイでアルコンだった時(13)、ローマ人はクィントゥス・ファビウス・シルウァヌスとセルウィウス・コルネリウス・トリコストゥスを執政官に選出した(14)。この時、サラミスの海戦での敗北後のペルシア艦隊はフェニキアの分遣隊を除いてキュメにいた。ここで冬を越し、夏が来るとサモス島へと向かい、その途上でイオニアを厳重に監視し続けるために沿岸航行した。そしてサモス島にいた船は全部で四〇〇隻にものぼった。この時、その艦隊は翻意を疑われていたイオニア人の諸都市を監視し続けた。
 サラミスの海戦の後、ギリシア中でアテナイ人が勝利の立役者であると遍く信じられたために彼らは得意になり、海の覇権をめぐるラケダイモン人の競争者たらんとしているということが全ての人にとって現実味を帯びてきた。したがってラケダイモン人は起こるであろうことを予測すると、アテナイ人の自負を挫くためにあらゆることを行った。かくして勇敢な行為で顕彰されるべき功労者を決める判断を下すことが提案され、彼らは獲得した支持の多さのために国ではアイギナを、個人では詩人アイスキュロスの兄弟でアテナイのアメイニアスを勲功第一位に決めた。というのもアメイニアスは一隻の三段櫂船を指揮していた時にペルシア軍の旗艦に最初に衝角攻撃をかけてそれを沈め、提督を殺したためであった。そしてアテナイ人がこの不当な辱めに腹を立てると、その結果に不満を持ったテミストクレスが自分たちと〔他の〕ギリシア人に対する多大な悪意を煽り立てるのではないかとラケダイモン人は恐れ、勇敢な行為で顕彰された人が受け取ったものの二倍の贈り物で彼を讃えた。そしてテミストクレスがその贈り物を受け取ると、アテナイ人は民会で彼から将軍職を剥奪してアリプロンの子クサンティッポスにその官職を授けた。
28 アテナイ人と他のギリシア人との間で起こった仲違いが広く喧伝されると、ペルシア人とギリシア人からアテナイへと使節が送られた。ペルシア人から派遣された人たちは、マルドニオス将軍としてはもしアテナイ人がペルシア人の言い分を選ぶならばギリシアのどの土地なり好きに与えるつもりでいるし、城壁と神殿を再建して都市に彼ら自身の法の下で暮らすことの許可を保証するつもりであるという手紙を持ってきた。しかしラケダイモン人から送られてきた人たちはアテナイ人に、夷狄の説得を容れず、同じ血が流れ同じ言葉を話すギリシア人への誠意を保つよう懇請した。夷狄に対してアテナイ人は、ペルシア人はアテナイ人がギリシア人を見捨てる見返りとして受け取るだけの十分豊かな土地も十分な冠も持っていないと答え、一方ラケダイモン人には彼ら自身としてはギリシアの繁栄に以前から持っていた感心を今後とも持ち続ける所存であると言い、ラケダイモン人に対しては全同盟軍を引き連れてアッティカへと急いでやってくることだけを求めた。アテナイ人がマルドニオスへの敵対を宣言した暁にはマルドニオスがアテナイに向けて軍を進めるであろうことは明らかだ、とアテナイ人は言い加えた。そしてこのことは現実のものとなった。全軍でボイオティアにいたマルドニオスは手始めにペロポネソスの諸都市を彼の側に寝返らせようとしてその指導者たちに金をばらまいたが、後になってアテナイ人が寄越した返答を知るや怒りに駆られてアッティカへと全軍を率いて向った。クセルクセスが与えた軍とは別に彼はトラキアとマケドニアと他の同盟諸都市から多くの兵士を集めており、それは二〇万人以上にものぼった。これほどに大規模な軍勢のアッティカへの進軍にあってアテナイ人はラケダイモン人に向けて手紙を運ぶ伝令を派遣して救援を求めた。ラケダイモン人は未だぐずぐずしており、夷狄がすでにアッティカの境界を渡っていたため、アテナイ人は意気阻喪して再び妻子並びに急いで運び出せるありとあらゆるものを持って故地を去り、これはサラミスへの二度目の退避となった。そしてマルドニオスは怒りのあまり郊外の全域を荒らし、都市を灰燼に帰し、まだ立っていた神殿を完全に破壊した。
29 マルドニオスと彼の軍がテーバイへと引き返すと、ギリシア軍は会議に集まってアテナイ人と共同戦線を張り、一丸となって自由のために戦いの決着をつけるべくプラタイアへと進軍し、またもし勝利すればギリシア人は自由の祭典を祝い、その日にプラタイアで祭典の競技祭を開くべく協力することを神々に誓うと宣言した。そしてギリシア人がイストモスに集まるとその全員が戦争を誓い、約定への忠誠を守って堂々と戦いの危険を冒し、そのために安泰を捨てることに同意した。誓いは以下のように述べられた。「私は自由より命を優先させず、生きようと死のうと指導者たちを見捨てず、戦いで倒れた全ての同盟者を埋葬する。そして戦争で夷狄に勝った暁には戦いに参加した都市のうち一つたりとも滅ぼさない。私は焼かれたり破壊されりした聖域のうち一つたりとも再建せずにおくことはないが、それらを夷狄の不敬虔な世代の形見として残しておく」宣誓を済ますと、彼らはボイオティアへとキタイロンの麓を通って進軍し、エリュトライ近くの丘あたりまで下ってそこで野営した。アテナイ軍の指揮権はアリステイデスが、最高指揮権はレオニダスの息子の後見人であったパウサニアスが掌握した。
30 敵軍がボイオティアの境界に進軍しつつあると知るとマルドニオスはテーバイから進撃し、アソポス川に着くと陣を張って深い壕で強化して木の柵で囲んだ。ギリシア軍は総勢一〇万人近くで、夷狄の全軍はおよそ五〇万人であった。戦いの口火を切ったのは夷狄で、彼らはギリシア軍に夜襲を仕掛けて野営地に全騎兵で攻撃をかけた。その時アテナイ軍が彼らを発見して自軍を戦闘隊形につかせて敢然と立ち向かい、激しい戦いが起こった。最終的にギリシア軍の残り全軍で彼らに対して隊列を組んできた夷狄を敗走させた。しかしメガラ軍だけは騎兵の指揮官とペルシア軍が保有していた最良の騎兵部隊と交戦したために戦いで圧迫され、持ち場を維持することができずに数人の兵士を使者としてアテナイ軍とラケダイモン軍に送って大急ぎで救援に来てくれるよう頼んだ。アリステイデスは速やかに自身の選り抜きの護衛隊であったアテナイ兵たちを派遣し、小部隊を編成させて夷狄を攻撃させ、メガラ軍を迫りくる危機から救い出し、騎兵指揮官と他の多くのペルシア軍を殺し、残りを敗走せしめた。
 今やある種の下稽古において勇気での優越を示したギリシア軍は、決定的な勝利への希望で元気付けられた。そしてこの遭遇戦の後、彼らは完全勝利のためにより都合が良い場所を占めるために陣を丘へと移動させた。右には高い丘が、左にはアソポス川がある中間の場所に陣を敷いたわけであり、そこは概して地形において天然の障害で守られていた。したがって賢明に計画の準備をしていたギリシア軍においては狭い場所が勝利の大きな助けとなり、ペルシア軍の戦列はあまり長く展開できなかった結果、事の成り行きが示した通り夷狄の大軍勢が無用の長物となったわけである。したがってパウサニアスとアリステイデスは彼らが占める場所に信頼を置いて戦いのために軍を動かし、有利な場所を占めるや敵に対して進軍した。
31 戦列の深さを増す羽目になったマルドニオスは有利と思うように部隊を編成し、鬨の声を上げてギリシア軍へと向かっていった。最良の兵士たちは彼に直接率いられてその傍におり、彼に対峙するラケダイモン軍と戦った。彼は見事な戦いぶりを示して多くのギリシア兵を殺した。しかしながら、ラケダイモン軍は彼と激しく戦って自ら進んで戦いのあらゆる危険に身を投じ、多くの夷狄を殺戮した。今やマルドニオスと彼の精鋭部隊は戦いの矢面に立つことになり、夷狄は高邁な精神で戦いの痛撃に耐えた。しかし勇戦していたマルドニオスが倒れると、精鋭部隊の一部は殺されて他は負傷し、意気を打ち砕かれた彼らは敗走を始めた。ギリシア軍が彼らを激しく追撃すると、夷狄の大部分は柵の中へと無事逃げ込んだが、残りの軍のうちマルドニオスにつき従っていたギリシア軍はテーバイへと撤退し、ペルシア人のうちで名声を馳せていた人物であるアルタバゾスが掌握していた四〇万人を超す残りの兵は反対方向へと逃げ、強行突破してポキスへと撤退した。
32 したがって夷狄が別々に逃げて〔三手に〕別れたため、ギリシア軍の部隊も同様に分かれた。アテナイ軍とプラタイア軍とテスピアイ軍はテーバイへと向かった者を追撃し、コリントス軍とシキュオン軍とプレイウス軍とその他幾らかはアルタバゾスと共に撤退した軍を追った。そしてラケダイモン軍は残りの者と共に柵内に逃げ込んだ兵士を意気盛んに追撃して徹底的に打ち負かした。テーバイ人は避難してきた者を受け入れて自分たちの軍に加え、次いで追撃してくるアテナイ軍に立ち向かった。城壁の前で激しい戦いが起こってテーバイ軍は勇敢に戦い、双方少なからぬ兵士が倒れたが、最終的にこの部隊はアテナイ軍に圧倒されてテーバイ市内へと再び逃げ込むことになった。
 この後アテナイ軍はラケダイモン軍の救援に向かうべく撤退して野営地に逃げ込んだペルシア軍に対して〔野営地を囲む〕壁への攻撃に加わった。双方激しく競い合い、夷狄は要塞化された場所から勇敢に戦い、ギリシア軍は木の壁を強襲し、多くの兵士が必死の戦いで負傷した。一方で大量の投擲兵器で少なからぬ者が殺され、勇敢に死んでいった。にもかかわらずギリシア軍の猛攻は夷狄が建てた壁と彼らの数の多さをもってしても食い止めることはできず、あらゆる抵抗は潰えた。第一位のギリシア人、即ち以前の勝利のために元気付けられて勇気の自信で支えられていたラケダイモン軍とアテナイ軍の間で競争心が起こっていた。最終的に夷狄は打倒され、捕虜にしてほしいと嘆願したにもかかわらず慈悲を得られなかった。ギリシア勢の将軍パウサニアスは夷狄が数でいかに勝っているのかを見て取り、夷狄はギリシア軍の何倍もの数であったことから生じる突発的な計算狂いを防ごうとあらゆる手を尽くした。したがって彼は捕虜を取らないよう命令を発し、直ちに死者の数は信じれらないほどになった。そして結局ギリシア軍は一〇万人以上の夷狄を殺すことになり、彼らはしぶしぶ敵を殺すのをやめた。
33 戦いが我々が述べたような形で終わった後、ギリシア軍は一〇〇〇〇人以上に上った死者を埋葬した。そして兵士の数に応じて戦利品を分配した後、彼らは勇敢さの判定をし、アリステイデスの主張に倣って都市としてはスパルタに、個人としてはラケダイモン人パウサニアスに褒賞を与えた。その間アルタバゾスは四〇万人のほとんどを連れて逃げてペルシア軍はポキスを通ってマケドニアへと向かい、最も早い道を使ったために彼はアジアへと兵を連れて安全に戻ることができた。
 ギリシア人は神々に勝利を感謝して戦利品の十分の一を黄金の三脚鼎にしてデルポイに安置したのであるが、これには以下のような対句が彫られた。
これは広きヘラスの救済者がここに掲げし贈り物、
そは憎き奴隷の枷から諸国を救い出したる者。
 それらの銘はテルモピュライで死んだラケダイモン人のためにも彫られ、その全体は以下のようなものである。
ここでかの時二〇〇万の敵軍と戦いし者たち、
その兵は数にしてペロプスの素晴らしき島の四〇〇〇人。
 そしてスパルタ人だけのために以下の銘がある。
おお異人よ、ラケダイモン人たちに言伝を伝えよ、
我々がこの地で如何に我々の法を信じ、これに誠実でありしかを
 似たような仕方でアテナイの市民団はペルシア戦争での戦没者の墓を飾った。彼らはまず追悼競技祭を開催し、これを第一回としてその折に選ばれた弁士による埋葬者への賛美演説を公費で行うとするという法を可決した。
 我々が述べたこれらの出来事の後、将軍パウサニアスはテーバイ人へと兵を進めてペルシア人とテーバイの同盟の責任者を処罰するよう要求した。そしてテーバイ人は敵の大軍と彼らの戦いでの勇気に非常に委縮していたため、ギリシア人からの離脱に最も責任がある人たちの身柄引き渡しに同意し、その全員がパウサニアスの手で処刑された。
34 イオニアでもギリシア軍はプラタイアでの戦いと同日にペルシア軍と大規模な戦いを戦った。我々はそれを述べようと思うので、その始点から説明することにしよう。ラケダイモン人レオテュキデスとアテナイ人クサンティッポスの両海軍司令官はサラミスの海戦の後、アイギナに艦隊を集めてそこで数日過ごした後に二五〇隻の三段櫂船を率いてデロス島へと航行した。彼らが投錨した時、サモスからの使節団がアシアのギリシア人の解放を求めて彼らのもとにやってきた。レオテュキデスは全指揮官と一緒にサモス人の言うことを聞いた後に協議し、諸都市の解放を決定して即座にデロス島から出航した。サモスにいたペルシアの提督たちはギリシア軍が自分たちに向けて航行しつつあることを知ると、艦隊は戦いを挑める状態にはないと見て取った。このために全艦隊をサモスから撤退させ、船を曳いてイオニアのミュカレの港に停泊し、木の柵を立てて深い壕を掘った。その防衛策にもかかわらず彼らはサルデイスと近隣諸都市から陸軍を呼び寄せて全部でおよそ一〇万人を集めた。その上、イオニア人も敵に回るだろうと信じた彼らは戦争に役立つ他の装備を準備した。レオテュキデスはミュカレの夷狄軍に対する作戦のために全艦隊を率いて進撃し、艦隊にいた全員の中で最も大きい声を出せる者を使者として乗せた一隻を先んじて派遣した。この男は敵のところまで航行して彼らに「ペルシア人を打ち破ったギリシア勢が今アシアのギリシア人諸都市を解放するために来たぞ」と大声で知らせるよう命じられた。これをレオテュキデスは夷狄軍内のギリシア人がペルシア人に反乱を起こして夷狄の陣営に大混乱を起こさせるために行い、実際その通りになった。使者は沿岸に曳かれた船に近づいてすぐに命令されたことを布告し、ペルシア人はギリシア人への信頼をなくしてギリシア人は反乱を支持し始めた。
35 レオテュキデス指揮下のギリシア軍はペルシア軍野営地のギリシア軍がこれをどのように受け取ったのかを知った後、軍を上陸させた。翌日、彼らが戦いの準備をすると、プラタイアでギリシア軍がペルシア軍に勝利を得たとの噂が流れた。この知らせが来るとレオテュキデスは集会を招集した後に兵に戦いを勧告し、戦いに向かう者たちをより大胆にするため、他の事柄の中でもとりわけプラタイアの勝利を芝居じみた仕方で知らせた。そして素晴らしい結果が生じた。同じ日に一方ではミュカレ、もう一方ではプラタイアでの二つの戦いが起こったことが知られることになった。したがってレオテュキデスは勝利を知らなかったものの、軍略としてわざと軍事的勝利をでっち上げた。非常に場所が離れているためにその知らせが届くのは不可能であったことは明白である。かくしてペルシア軍の指揮官たちは自軍にいるギリシア人を信用せず武装解除させ、その武器を自分たちに友好的だった人たちに与えた。次いで彼らは全軍を呼び集めてクセルクセスが今に自ら大軍を率いて助けに来るはずだと言って戦いの危険に臨む勇気を奮い起こさせた。
36 双方が兵を戦闘隊形にさせて互いに向けて前進させると、ペルシア軍は敵軍がいかに少ないかを見て取って彼らを侮り、多くの矢玉を放った。今やサモス軍とミレトス軍はギリシア人の大義の支援を行おうと予め満場一致で決めており、大急ぎでこぞって突き進んだ。イオニア軍がこれでギリシア軍が元気づけられるはずだと考えていたにもかかわらず、彼らの進軍がギリシア軍の眼に入ると結果は裏目に出てしまった。レオテュキデスの部隊はクセルクセスがサルデイスから軍を率いてきていると思って恐怖に駆られ、混乱と分裂が軍内で起こり、ある者は速やかに船に向かうべきだと、他の者は勇敢に戦列を維持すべきだと言った。彼らが未だ無秩序だっていた時にペルシア軍が現れ、彼らは恐怖を掻き立てるように雄叫びを上げながら向かってきた。ギリシア軍は協議の暇もなく夷狄軍の攻撃に耐えなければならなくなった。
 当初、双方は頑強に戦って戦いは拮抗し、両軍で多くの者が倒れた。しかしサモス軍とミレトス軍が現れると、ギリシア軍は勇気を奮い起こし、他方夷狄軍は恐怖に駆られて壊走した。大殺戮が起こり、レオテュキデスとクサンティッポスの兵は粉砕された夷狄を圧迫して野営地まで追撃した。既に帰趨が決した後にアシアの他の多くの人々のように、アイオリス人が戦いに参加して自由への抗しがたい欲求でアシアの諸都市の住民たちの心を燃え上がらせた。したがってほとんど彼らの全員が人質も宣誓も一顧だにせず、逃げる夷狄を殺すその他のギリシア軍に加わった。以上がペルシア軍が敗北を喫した顛末であり、彼らは四〇〇〇〇人以上が殺された一方、生き残りの一部は野営地に逃げ込んで他はサルデイスに退却した。プラタイアの敗北とミュカレでの自軍の敗退を知ると、クセルクセスは対ギリシア人戦争のためにサルデイスに軍の一部を残し、一方で自らは狼狽しながらエクバタナへと残りの軍を連れて向かった。
37 レオテュキデスとクサンティッポスはサモスへと戻ってイオニア人とアイオリス人を同盟者とし、彼らにアシアを放棄してヨーロッパに移住するよう説いた。レオテュキデスとクサンティッポスはイオニア人とアイオリス人に土地を与えるためにメディア人の考えを支持していた人々を追放すると約束した。概してもし彼らがアシアに留まるならば常に国境に甚だ軍事力で優る敵を抱え込むことになるが、その一方で海を越えれば折よく彼らを助けられるようになると説明した。それらの約束を聞くと、アイオリス人とイオニア人はギリシア人の忠告を容れることに決めてヨーロッパまで航行する準備をした。しかしアテナイ人は意見を翻し、もし他にギリシア人が助けに来なければアテナイ人が同族のよしみで自力で助けを送るつもりであると述べ、彼らにそこに留まるよう忠告した。彼らはもしイオニア人が共同でギリシア人から新たな母国を与えられれば、もはやアテナイが彼らの母都市ではなくなってしまうと考えたのであった。このためにイオニア人は心変わりしてアシアに留まることを決定した。
 それらの出来事の後にギリシア人の軍は分かれた。ラケダイモン軍はラコニアへと戻り、アテナイ軍はイオニア軍および島嶼の軍と共にセストスに碇を降した。そして将軍クサンティッポスは港に着くやすぐにセストスを強襲して落とし、守備隊をそこに置いた後に同盟軍を解散して同胞市民らと共にアテナイへと帰国した。
 今や所謂メディア戦争は二年間続いた後に我々が述べたような終結を見た。歴史家のヘロドトスはトロイア戦争の前から初めて九巻の歴史書で人が住む世界で起こった事実上全ての出来事の通史を書き、その話はミュカレでのギリシア人のペルシア人に対する戦いとセストスの包囲戦で完結した。
 イタリアではローマ人がウォルスキ人と戦争をし、戦いで彼らを破ってその多くを殺した。そして続く年の執政官だったスプリウス・カシウスは僭主制を目論んだ罪があると信じられたために処刑された。
 この年の出来事は以上のようなものであった。
38 ティモステネスがアテナイでアルコンだった時(15)、ローマではカエソ・ファビウスとルキウス・アエミリウス・マメルクスが執政官職に就任した(16)。この年にシケリア中にほぼ完全な平和が行き渡り、カルタゴ人は最終的に打ち負かされてゲロンはシケリアのギリシア人を情け深く統治して彼らの諸都市に高度に秩序だった政府と生存に十分なあらゆる必需品をもたらした。そしてシュラクサイ人は法によって高額の葬儀と死者のために被る多額の出費の慣例を廃止し、まことに質素な葬儀をするよう法によって定めた。ゲロン王は全ての事柄で人々の利益を慮ってそれを維持しようと望んだため、彼自身の場合にも元のまま法を守った。病に倒れて命への希望を捨てた彼は末弟のヒエロンを親戚に委ね、自らの葬式に関しては法が厳しく規定するような仕方で準備をするようにという命令を与えた。したがって彼の死にあって葬儀は彼の王位の後継者によってまさに彼が命じた通りに営まれた。彼の遺体は彼の妻の私有地の、その強固な建設物のために人を驚かす所謂「九つの塔」に埋葬された。その場所までは二〇〇スタディオンもの距離があったにもかかわらず、全民衆はこの都市から彼の遺体に付き添った。彼はそこに埋葬され、人々は素晴らしい墓を建てて英雄としての栄誉でゲロンを讃えた。しかし長い時代の間にシュラクサイとの戦争の過程でカルタゴ人によって破壊され、塔は嫉妬のためにアガトクレスによって倒された。にもかかわらず、カルタゴ人の憎悪も、アガトクレスの生まれの卑しさも、何人たりともゲロンから彼の勝利を奪い取ることができなかった。それというのも歴史の公正な証人は彼の素晴らしい名声を守り、絶えず鋭い声でそれを広めていたからだ。現に人間社会にとって歴史が権力ある地位にあった卑しい人間には呪いを積み重ね、情け深い支配者には不滅の記憶を与えることは公正であり有益である。というのもとりわけこの方法によって後世の多くの人は人類に共通の善を成すように駆り立てられるだろうし、そのことが見て取られるであろうから。
 さて、ゲロンは七年間君臨し、弟のヒエロンが彼の後を継いでシュラクサイ人を一一年と八カ月統治した。
39 ギリシアではプラタイアでの勝利の後にアテナイ人は妻子をトロイゼンとサラミスからアテナイへと戻し、すぐに市の要塞化作業を行い、安全を得るための他のあらゆる手段に目を向けた。しかしラケダイモン人はアテナイ人がその海軍によって成し遂げた行動によって大きな栄誉を得たのを見て取ると、彼らの勢力増大に猜疑の視線を向けてアテナイ人の城壁再建を邪魔しようと決めた。したがって彼らは表向きは今は市の守りを固めるのではなくギリシア人の全般的な関心事を優先すべきであると忠告する使節団をすぐにアテナイへと派遣した。もしクセルクセスが前より大きな軍勢を引き連れて戻ってくれば、彼はペロポネソス側の手が届かないように諸都市に壁を作るだろうし、そこを基地としてひいてはギリシア人を易々と隷属化するだろうと彼らは指摘した。そして彼らの忠告が相手にされないでいると、使節たちは城壁を建設している人たちに近づいてすぐに作業を止めるよう命令した。
 アテナイ人が何をすべきか途方に暮れていると、その時彼らのうちで最も支持を得ていたテミストクレスが彼らに何もしないようにと忠告した。というのも彼は、もしアテナイ人が軍備を持てば、ラケダイモン人はペロポネソス人と一緒に彼らに軍を差し向けて都市の防備を固めるのを易々と妨害するであろうと警告した。かくして彼は、ラケダイモン人に城壁について説明するために自分と所定の他の人たちをラケダイモンへと使節として向かわせてくれと評議会に言った。彼は、ラケダイモンからの使節団がアテナイへと来れば彼自身がラケダイモンから戻るまで引き留め、その間に全ての人を投入して市の要塞化の作業をするようアルコンたちに指示した。このようにして彼は目的を達するつもりだと彼らに宣言した。
40 アテナイ人がテミストクレスの計画を採用した後、彼と使節たちはスパルタへと向かい、アテナイ人は家も墓も手放すほどの非常な熱意で城壁の建設を始めた。そして皆が、子供も女も、外国人も奴隷もその作業に参加し、彼らのうちで熱意がなさそうな者はいなかった。多くの働き手と彼ら全員の熱意のために作業は驚くべき速さで遂行され、テミストクレスは行政長官たち(17)によって召喚されて城壁の建設を咎められた。しかし彼は建設を否定し、風説を信じずアテナイに信頼できる使節を送るべきだと行政長官たちに対して主張し、彼らが真実を知らせてくれるはずだと請け負った。そして彼らのための担保として彼は自身及び同行していた使節たちを差し出した。ラケダイモン人はテミストクレスの勧めに従って彼とその同僚を監視下に置き、自分たちの関心を刺激する問題を探るべく最も重要な人たちをアテナイへと送った。しかし時間がすでに経っていてアテナイ人はもうかなり建設を進めており、ラケダイモン人の使節団がアテナイに到着して弾劾と力づくでの脅しでもって彼らを非難すると、アテナイ人はラケダイモン人がテミストクレスに同行する使節を解放した場合に限り彼らと引き換えにラケダイモン人の使節団を解放すると言って彼らを監禁した。このようにしてラコニア人は裏をかかれて自国民を取り戻すためにアテナイの使節の解放を強いられた。そしてかくも抜け目ない策略によって迅速且つ危険を冒すことなく母国を要塞化したため、テミストクレスは同胞市民の間で支持を得た。
 上述の出来事が起こっていた一方、ローマ人と、アエクイ人並びにトゥスクルムの住民との間で戦争が起こり、ローマ人はアエクイ人を戦いで破って多くの敵を殺し、次いでトゥスクルムを包囲戦の後に落としてアエクイ人の都市を占領した。
41 この年が終わってアテナイのアルコンがアデイマントスだった時(18)、ローマではマルクス・ファビウス・ウィブラヌスとルキウス・ウァレリウス・プブリウスが執政官に選出された(19)。この時にテミストクレスは将軍としての技量と智謀のために同胞市民だけでなく全ギリシア人からも評判を得ていた。したがって彼は名声で得意になって母国の支配的な地位を向上させるのに資する他のより野心的な企てのための資源を得た。当時、所謂ペイライエウスはアテナイ人の港になっておらず、パレロンと呼ばれる非常に小さい湾を造船所として使っていたのであるが、ペイライエウスが簡単な工事だけでギリシア最良最大の港にできたためにテミストクレスはそこを港にする計画を立てた。またこの改修にアテナイ人がすでに有していたものを加えたならば、この都市は海覇上権を握ることができるだろうと彼は見通した。それというのもアテナイ人はその時多数の三段櫂船を有しており、その都市が戦った海戦での完全な勝利によって海戦の経験と名声を得ていたからだ。さらに彼は、アテナイ人はイオニア人を同族のよしみで味方につけることができるだろうし、彼らの助けを得てアテナイ人がアジアの他のギリシア人を解放すれば、彼らはアテナイ人に恩を感じて好意を向けるだろうし、島嶼の全ギリシア人がアテナイ人の海軍力の強大さに大いに感銘を受ければ、直ちに最大限の損害を与えつつ最大限の恩恵をもたらす力を持つ民と手を結ぶことになるだろうと考えた。なんとなればラケダイモン人は陸軍に限って言えば優れた実力を持っているものの、船上で戦う才能はないと彼は見て取っていたからだ。
42 今やテミストクレスはそれらの問題を検討し、ラケダイモン人がこれに待ったをかけようとすることは確実だと分かっていたため、自身の計画を公に告知するべきではないと結論した。そして彼は民会で市民たちに市のためになる重要事項を勧め、提議したいと知らせた。しかしその問題は国家の公にできるような利害関心事ではなく、少数の人がその遂行にあたって責任を持つのが適切であると言い加えた。したがって彼は一番信頼が置ける二人の人を問題の事業の遂行を委任するために選ぶよう人々に頼んだ。人々は彼の忠告を容れ、民会はアリステイデスとクサンティッポスの二人を、彼らの正直な性格のみでなく、実際のところ栄光と主導権をめぐるテミストクレスの競争者であるために彼と対立していると見なしていたために選び出した。それらの人たちは個人的にテミストクレスから計画について聞かされ、テミストクレスが彼らに打ち明けたことは大変重要であり国益にもなり、そして実現可能であると民会に対して宣言した。
 人々はその男を称賛すると同時に彼への疑いを抱き、かくも壮大で重要な計画を彼が着手しようとしたのは自らのために一種の僭主政を準備する目的ではないかと心配していたがゆえ、彼らは彼が決めたことを公に宣言するよう彼に強く勧めた。しかし彼は自身の意図は公にするような国の関心事ではないと答えた。その上で人々はその男の慧眼と心の雄大さに一層驚嘆して彼の考えを密かに評議会に打ち明けるようせかし、もし彼が言ったことが実現可能で有望だと結論づけられれば、彼らは彼の計画を完遂させるよう勧めるつもりだと保証した。したがって評議会が全ての詳細を聞いて彼が言ったことは国益になり、実現可能であると結論すると、人々は騒ぐことなく評議会に賛成し、テミストクレスは彼が望むことを何であれ遂行する権限を与えられた。そしてあらゆる人は民会でその男の高邁な性格への賞賛へと向かい、また計画の結果に魂を高揚させて期待した。
43 テミストクレスは実行の権限を受けて彼の企図の準備のためにあらゆる支援を得て、再び策略によってラケダイモン人を騙す方法を考えた。というのも、彼はラケダイモン人はすでに市の周りの城壁の建造の邪魔をしており、港についてのアテナイ人の計画も同様に遮るつもりでいると完全に確信していたためである。したがって彼は、一部のペルシア人が行うと予想される遠征を考慮するならば第一の港を持つことがいかにギリシア人の共通利害のためになるかをラケダイモン人に示すための使節団の派遣を決めた。彼はスパルタ人の邪魔をしてやろうという感情を幾分か和らげるにあたって自らその任に就き、皆が熱狂的に協力したために港の建設はすぐさま成し遂げられ、港は衆目を裏切って完成した。そしてテミストクレスはすでに持っていた艦隊に加えて二〇隻の三段櫂船を毎年建造し、雑多な多くの人々があらゆる地方から市内に流れ込んでアテナイ人は非常に多くの船舶のための労働力を易々と手に入れることができるはずであるために在留外国人と職人に税を免除するよう人々を説得した。彼は、それら両方の政策は市の海軍の建設にあたっては最も有用であると考えていた。かくしてアテナイ人は我々が述べたような事業に勤しんだ。
44 ラケダイモン人はプラタイアで指揮を執ったパウサニアスを艦隊提督に任命し、未だ夷狄の守備隊が占めていたギリシアの諸都市を解放するよう指示した。そしてペロポネソス半島からの五〇隻の三段櫂船を率い、アテナイ人からアリステイデス率いる三〇隻を呼び寄せ、パウサニアスは手始めにキュプロスへと航行して未だペルシアの守備隊がいた諸都市を解放した。この後に彼はヘレスポントスへと航行してペルシア人が掌握していたビュザンティオンを落とし、他の夷狄のうち一部を殺して他を追い出し、かくしてその都市を解放したが、多くのペルシアの要人がその都市で捕えられ、エレトリアのゴンギュロスにその護衛をさせた。建前上ゴンギュロスは罰のために彼らを拘留していたが、実際はクセルクセスのもとに逃がして助けた。それというのもパウサニアスはギリシアを裏切るという目的の下に密かに王と友好の約束をし、クセルクセスの娘を娶ることにしていたからだ。この案件で交渉者として動いたのはアルタバゾス将軍であり、彼はパウサニアスに彼らの目的に役立てるためにギリシア人の買収に使う多額の資金を素早く提供した。
 だがしかし、パウサニアスの計画は明るみに出て彼は以下のような罰を受けることになった。パウサニアスはペルシア人の贅沢な生活を真似してさながら僭主のように配下を扱い、かくして全員、とりわけ何かしらの指揮を割り当てられていたギリシア人たちは彼に憤慨した。したがって軍内で人と都市の両方ごとに混ざり合わされていた多くの人はパウサニアスの苛烈さを罵倒し、一部のペロポネソス人は彼を見限ってペロポネソス半島に戻り、スパルタに使節を派遣してパウサニアス弾劾を提議した。そしてアテナイ人のアリステイデスはこの機会をうまく利用し、諸国との会議の場での打ち解けた人柄によって彼らをアテナイ人の支持者にした。しかし以下の事実のため、さらなる役割が単なる偶然によってアテナイ人の手でなされた。
45 パウサニアスは自分から王への知らせを送る者たちが戻らず、〔この使者が〕密かな連絡の密告者にならぬよう取り計らった。配達人は手紙の受取人に殺されたため、誰一人として生きては戻らなかった。配達人の一人はこの事実から頭を働かせて手紙を開封し、彼の推理が正しく、手紙を送った全員が殺害されたことを見て取り、手紙を監督官たちに渡した。しかし監督官たちは手紙がすでに開封された状態で渡されたためにこれを信じようとはせず、いっそう確かな証拠を求めたため、その男は個人的にパウサニアスに事実を認めさせようとした。したがって彼はタイナロンに向ってポセイドンの神殿に嘆願者として座り込み、二つの場所に天幕を張って監督官と他のスパルタ人を隠した。パウサニアスが彼のところに来てなぜ嘆願者になっているのかを尋ねると、その男は自分を殺せと手紙で指示したことでパウサニアスを咎めた。パウサニアスは自分は申し訳ないと思っていると言って、過ちを許してくれるようにその男に頼んだ。彼はそのことを秘密にしてほしいと懇願して莫大な贈り物を約束し、二人は別れた。監督官ら並びに彼らと一緒にいた他の人たちは確かな真実を知りはしたがその時は平静を保ち、後の機会にラケダイモン人は監督官たちとその問題を再び取り上げた。パウサニアスは前もってこれを知ると先手を打って「真鍮の家」のアテナの神殿に身の安全のために逃げ込んだ。そしてラケダイモン人が今や嘆願者となっている彼を罰しようかどうか躊躇っていた時、パウサニアスの母が神殿にやってきて無言でレンガを一つ手に取って神殿の入り口に置き、家に戻ったと言われている。ラケダイモン人は母の決意に倣い、入り口を封鎖してパウサニアスを餓死させた。今や死体と化したその男は葬儀のために近親者に引き渡された。神意は嘆願者の神聖さの蹂躙への立腹を示し、すぐさまラケダイモン人は他の事柄に関してデルポイの神託に伺いを立て、神は返答の中でその女神に彼女の嘆願者を返すよう彼らに命じた。したがってスパルタ人は神託の命令は実行不可能だと考え、神の指示を実行できずに長らく困り果てていた。しかし、力の及ぶ範囲で事を行おうと決めた彼らはパウサニアスの青銅像を二つ作ってアテナ神殿に建てた。
46 我々としては、全歴史を通して良き人たちには我々が彼らに向ける賞賛の言葉で栄光を増大させるのが、悪しき人には彼らが死ぬと然るべき悪評を述べるのが常であり、我々はパウサニアスの非難すべき卑劣な行いと裏切りを無視せずにはおられない。ギリシアの恩人で、プラタイアの戦いで勝利し、賞賛を勝ち得た多くの行いをしたにもかかわらず、勝ち得た評判を守ろうとしないばかりかペルシア人の富と贅沢を愛好してすでに得た声望を不面目に転じたこの男の愚行に驚かぬ者がいようか? 現に、自身の成功に触発されて彼はラコニア風の生き方を嫌ってペルシア人の放蕩と贅沢を真似するようになったが、〔以前の〕彼は夷狄風の習俗を真似しようとは決して思わない人物だった。彼は他の人から夷狄風の習俗のことを知らされていなかったが、自らの現実の接触によって彼はそれらを試してみて、いかに徳性において彼の父祖の生き方がペルシア人の贅沢よりも大いに優れているのかに気付いた。
 そして現にパウサニアスは彼自身の卑劣さのために相応の罰を受けたのみならず、彼のために同国人は海上覇権を失うことになった。それとは対照的に、例えば同盟諸国の扱いにおいてアリステイデスは素晴らしい機転を働かせ、彼らがそのことに気を向けると、属国への彼の温和さと全般的な実直さのために彼らは皆アテナイ人の考えに靡いた。したがって同盟諸国はもはやスパルタから送られてきた指揮官たちなど無視してアリステイデスを支持し、万事において彼に熱烈に従い、かくして彼は海上での最高司令権を誰かと争うことなく受け取った。
47 そしてすぐにアリステイデスは全同盟国〔の代表者〕が大集会にいる時にデロス島を共同財産として指定して彼らから集めた金の全てをそこに置き、そしてペルシア人によって起こされると危惧される戦争のために財産に応じて全都市に税を課すよう忠告し、こうして集められた全資金は五六〇タラントンの額になった。そして税を割り当てる任を命じられると、彼は正確且つ公正に全ての都市が同意するような額を定めた。したがって彼は不可能なことを成し遂げたと見なされて正義のために非常な名声を博し、正義という徳における卓越のために彼は「正義の人」というあだ名を得た。したがって即座にして同時にパウサニアスの卑劣行為によって海上覇権が彼の同国人から奪い取られ、アリステイデスのあらゆる美徳は以前は持っていなかった主導権をアテナイにもたらした。
 この年の出来事は以上のようなものであった。
48 パイドンがアテナイでアルコンだった時(20)、七六期目のオリュンピア紀が祝われてミュティレネのスカマンドロスがスタディオン走で優勝し、ローマではカエソ・ファビウスとスプリウス・フリウス・メネラエウスが執政官であった(21)。この年にラケダイモン人の王レオテュキデスが二二年間の治世の後に死に、王位を継承したアルキダモスは四二年間支配した。そしてレギオンとザンクレの僭主アナクシラスもまた一八年間統治した後に死に、年端もいかぬアナクシラスの息子たちにやがて〔僭主の地位を〕返すと了解した上で委任を受けたミキュトスに僭主の地位が引き継がれた。そしてゲロンの死後シュラクサイの王であったヒエロンは自身の弟のポリュゼロスがいかにシュラクサイ人から人気を博しているのかを知り、ポリュゼロスは王権奪取の機を窺っているのではないかと信じ、周辺諸国の兵士を動員して個人的に傭兵から編成した部隊を集め、これらによって玉座の安全を得ようと考えた。そしてシュバリス人がクロトン軍に包囲されてヒエロンに助けを求めてくると、彼はクロトン軍に彼が殺されるであろうと算段し、軍に多くの兵士を動員して弟のポリュゼロスに指揮権を与えた。ポリュゼロスが上述したようなことを疑って遠征を拒むとヒエロンは弟に激怒し、ポリュゼロスがアクラガスの僭主テロンのもとに逃げ込むとテロンとの戦争を計画した。
 それらの出来事の後、テロンの息子のトラシュダイオスがヒメラ市を然るべき範囲を超えて厳しく統治した結果、ヒメラの民心は彼から離れていった。彼らは彼の父が公正な調停者になるとは思えなかったので彼のところへと行って告発を行うという考えを捨てたため、トラシュダイオスに対する彼らの主張を代弁する使節団をヒエロンに派遣し、ヒエロンにヒメラを引き渡してテロンに対する攻撃で彼に味方することを申し込んだ。しかし、ヒエロンはテロンと和平を結ぶ腹だったため、ヒメラ人を裏切って彼らの密かな計画を彼に打ち明けた。したがってテロンは報告された計画を吟味してそれが本当のことだと見て取った後、ヒエロンとポリュゼロスの反目を調停してポリュゼロスが依然享受していた好意を復活させ、次いでヒメラ人の中に多くいた敵対者を逮捕して処刑した。
49 ヒエロンはナクソスとカタネの人々をそれらの都市から退去させて自身が選んだ人たちを入植させ、そのためにペロポネソス半島から五〇〇〇人、シュラクサイから同数の人を集めた。そして彼はカタネの名をアイトナと改め、カタネの領地を分配し、一〇〇〇〇人の入植者に行き渡らせるためにそこだけでなく隣接する土地も〔分配地に〕加えた。これは、こうすれば彼は今後起こるであろう何らかの必要事のために十分な助けになる備えを持てるだけでなく、最近建設された一〇〇〇〇人の国から彼は英雄としての栄誉を受け取るであろうという欲望から発したものであった。故地から追い出されたナクソス人とカタネ人を彼はレオンティノイに移し、元々いた人々と一緒にその都市を彼らの母国とするよう命じた。そしてテロンはヒメラ人の殺戮の後に市が移住者を必要とするようになったと見て取ると、雑多な多くの人、ドリス人と他の希望者を市民として集めた。それらの市民はその国で良い条件で五八年間共に暮らしたが、この時代が終わるとその都市はカルタゴ人に征服されて灰燼に帰し、今日でもなお無人の野のままである。
50 アテナイでドロモクレイデスがアルコンだった時(22)、ローマ人はマルクス・ファビウスとグナエウス・マンリウスを執政官に選出した(23)。この年にラケダイモン人は海上覇権をこれといった理由もなく失ったことで憤慨し、彼らから離反したギリシア人を恨んで相応の罰で彼らを脅し続けた。そして長老会が招集され、彼らは海上覇権を取り返すためにアテナイ人との戦争を起こそうと考えた。同様に一般集会が招集され、若者とその他の多数派は覇権の復活に熱意を燃やし、もし彼らが覇権を確保できれば莫大な富を得ることとなり、概してスパルタはより強大化して私人としての市民はその地位を大いに向上させるだろうと信じた。彼らは神が自分たちの覇権を「不十分」なものにしないように心得るよう命じた古の神託を心に抱き続けており、彼らはそれが意味するのは今を措いてないと主張した。というのも二つの覇権を持つ彼らの支配が「不十分」になれば、彼らはそのうち一つを失うことになるはずだからだ。
 実際に全市民がその行動を熱烈に推進して長老会がそれらの問題を会議で検討していたため、他の方策を提案するほど向こう見ずな人がいるとは誰も予想しなかった。しかし長老会の成員のうちヘラクレスの直系でその性格のために市民の間で支持を得ていたヘトイマリダスという名の者が海の権利を主張することはスパルタの利にはならないからだと明言し、彼はアテナイ人に〔海上の〕覇権を預けるよう忠告した。彼は驚くべき提案を支える適切な議論を展開する才覚を持ち、かくして大方の予想に反して長老会と人々の両方を味方につけた。そして最終的にラケダイモン人はヘトイマリダスの意見が利になると結論して対アテナイ戦争への熱意を捨てた。アテナイ人の方はというと、当初彼らは海上覇権をめぐるラケダイモン人との大戦争を予想して追加の三段櫂船を建造し、多額の資金を集め、同盟諸国を丁重に扱っていた。しかしラケダイモン人の決定を知ると、戦争の恐怖から解放されて自らの都市の力の強化へと突き進んだ。
51 アケストリデスがアテナイでアルコンだった時(24)、ローマではカエソ・ファビウスとティトゥス・ウェルギニウスが執政官職を引き継いだ(25)。この年にシュラクサイ人の王ヒエロンのもとにイタリアのクマイ【★キュメ?】から使節団がやってきて、当時海上を支配していて彼らと戦争中だったテュレニア人との戦争での援助を要請すると、ヒエロンは相当数の三段櫂船を彼らの援助のために送った。クマイに到着した後にこの艦隊の指揮官はその地方の軍と合同でテュレニア人と海戦を戦い、その大海戦で多くの船を破壊し、テュレニア人を打ち負かしてクマイ人を恐怖から解放した後にシュラクサイへと戻った。
52 メノンがアテナイでアルコンだった時(26)、ローマ人はルキウス・アエミリウス・マメルクスとガイウス・コルネリウス・レントゥルスを執政官に選出し(27)、イタリアではタラス人とイアピュギア人との間で戦争が起こった。これらの人々は互いに国境地帯をめぐって争ったために数年間小競り合いと互いの領地への襲撃の応酬がなされ、彼らの間では争いが絶えず、頻繁に人死にが結果としてもたらされたため、ついに彼らは決戦に臨もうとした。今やイアピュギア人は自軍の準備をしただけでなく、二〇〇〇〇人以上の支援軍も加えた。タラス人は自分たちに対して集められた軍勢が大規模なものであることを知ると国の兵をかき集めた上、彼らの同盟者でより人数が多かったレギオン人も加えた。激しい戦いが起こって双方で多くの者が倒れたが、最終的にイアピュギア人が勝利した。敗軍は敗走時に二つの集団に別れ、一方はタラスに退却して他方はレギオンに逃げ、イアピュギア軍もまたこれに倣って別れた。タラス軍を追った者は短距離追撃してその多くを殺したが、レギオン軍を追った方は激しく追うあまり逃亡兵ともどもレギオンに突入し、市を占領するに至った。
53 翌年のアテナイではカレスがアルコンで(28)、ローマではティトゥス・メネニウスとガイウス・ホラティウス・プルウィルスが執政官に選出され(29)、エリス人が七七期目のオリュンピア紀を祝い、アルゴスのダンデスがスタディオン走で優勝した。この年にシケリアではアクラガスの独裁者テロンが一七年間の治世の後に死に、息子のトラシュダイオスが王位を継承した。さて、テロンは公正に職務を遂行していたために存命中は国民から大きな支持を得ており、死に際して彼は英雄相当の栄誉を贈られた。しかし彼の息子は父の存命中でさえ暴虐な殺人狂であり、父の死後は法を省みず僭主らしく彼の生まれた都市を支配した。したがって彼はすぐに臣民の信頼を失って絶えざる陰謀の対象となり、嫌悪すべき生を生きた。すぐに彼は無法さに相応しい死に方をすることになった。トラシュダイオスは父テロンの死後に傭兵を集め、またアクラガスとヒメラの市民を徴募し、かくして歩騎総勢一二〇〇〇人以上を集めた。彼がシュラクサイ人との戦争の準備をしたためにヒエロン王は恐るべき軍勢を準備してアクラガスへと進軍した。ギリシア人同士が戦ったために激戦が起こって非常に多くの者が倒れた。戦いではシュラクサイ人が勝利し、彼らは二〇〇〇人程度を失いつつ敵兵四〇〇〇人を殺した。そこで意気消沈したトラシュダイオスは地位を追われ、ニサイアのメガラまで逃げてそこで死を宣告されて生を終えた。そしてアクラガス人は今や民主政体を復活させてヒエロンに使節を送って平和を確立することとなった。
 イタリアではローマ人とウェイイ人との間で戦争が起こってケメラと呼ばれる場所で大会戦が起こった。ローマ軍が敗れて多くの死者を出し、幾人かの歴史家によればその中には同じファビウス氏族の成員で、ファビウスという一つの名の下に包含されていた者が三〇〇人いた。
 この年の出来事は以上のようなものであった。
54 プラクシゲロスがアテナイでアルコンだった時(30)、ローマ人はアウルス・ウェルギニウス・トリコストゥスとガイウス・セルウィリウス・ストルクトゥスを執政官に選出した(31)。この時に多くの小都市に住んでいたエリス人は合併してエリスとして知られる一国を形成した。そしてラケダイモン人はスパルタがパウサニアス将軍の反逆のために卑小な国になった一方でアテナイ人がその市民のうちに反逆の罪ありと見られる者が誰もいなかったために高い評価を得たことを見て取ると、アテナイを似たような不名誉な境遇に落とそうと熱意を燃やした。したがってテミストクレスがアテナイ人から非常に高く評価されて高邁な性格のために名声を馳せていたため、彼がパウサニアスの親しい友人であり、クセルクセスにギリシアを売り渡すことに賛同したと主張して彼らは反逆の廉で彼を告発した。また彼らはテミストクレスの敵と語らって彼の告訴を提出するよう焚き付け、金を渡した。そして彼らはパウサニアスがギリシア人を裏切ると決めた時にテミストクレスに計画を打ち明けてこれに参加するよう誘い、テミストクレスはその求めに応じることもなく、友人を告発することが自身の義務だとも結論しなかったと説明した。とにもかくにもテミストクレスに対する告訴がなされたが、その時の彼は反逆の罪があるとは見られていなかった。当初、彼は免責され、アテナイ人の意見の大勢は彼に味方した。というのも彼の同胞市民は彼の事績のために彼を特別視していたからだ。しかし後になって彼が享受していた声望を恐れた人たちおよび彼の栄光を妬んでいた他の人たちは彼の国家への奉仕を忘れて彼の勢力を減殺して彼の高慢の鼻をへし折ろうとし始めた。
55 さしあたり彼らは陶片追放と呼ばれる制度を使ってテミストクレスをアテナイから追放したわけであるが、この制度はペイシストラトスとその息子たちの僭主制の転覆の後にアテナイで採用されたもので、以下のような法律であった。各々の市民はオストラコン、つまり陶器の破片に民主制を破壊するほどの最強の勢力を持つと見なした者の名を書き、最多の陶器の破片を得た人が五年間母国から追放されるというものである。アテナイ人は悪事を罰するためではなく、過度な思い上がりを追放によって下げるためにこのような法を採っていた。今やテミストクレスは上述のような仕方で陶片追放を受け、生まれた都市からアルゴスへと亡命者として逃げた。しかしこれを知ったラケダイモン人は運命が自分たちにテミストクレスを攻撃する絶好の機会を与えたと考え、再びアテナイに使節団を派遣した。彼らはテミストクレスをパウサニアスの反逆の共犯者として告訴し、彼の罪は全ギリシアに及ぶものだから判決はアテナイ人の内々にではなく、慣習的にその時代に開催されていたギリシア人の総会の前で下されるべしとした。
 ラケダイモン人がアテナイの国家を誹謗して貶めようと決心しており、アテナイ人が自分たちへの非難を晴らしたいと思っていたのを看取したテミストクレスは総会に自分が引っ張り出されるだろうと考えた。この集まりは正義に依らずラケダイモン人への好意から決定を下したことを彼は知っていたし、勇気への栄誉を授与するにあたって他の行動からだけではなくアテナイが行ったことからもこのことを推測していた。例えばアテナイ人は戦いに参加した他の皆よりも多くの三段櫂船を提供して残りのギリシア人に劣らず戦ったにもかかわらず、投票を牛耳った者はアテナイ人への嫉妬を示した。それがテミストクレスがその会議の委員を信用しなかった理由である。さらにテミストクレスがアテナイで以前行った弁明演説をラケダイモン人は後になって弾劾の根拠とした。というのもその弁明でテミストクレスはパウサニアスが自分に裏切り行為に参加するよう誘う手紙を送ったことを認め、これを自分の〔影響力の〕最も強い証拠の一つとしており、彼の第一の要望をテミストクレスが妨げるのではないかと恐れていなければパウサニアスは自分を誘わなかっただろうと論じていたからだ。
56 上述のような理由でテミストクレスはアルゴスからモロシア人の王アドメトスのところまで逃げた。そしてアドメトスの暖炉に逃げ込んで嘆願者となった。最初、王は彼を懇ろにもてなして良い度胸をしていると言い、概して彼に身の安全を守るつもりだと保証した。しかし、ラケダイモン人が最も高名な数人のスパルタ人をアドメトスのところまで使節として送ってテミストクレスの身柄を処罰のために引き渡すよう求め、全ギリシア世界に対する裏切り者にして破壊者であると彼を非難した。さらにアドメトスが彼らの側につかなければ全ギリシア人と共同で彼に対して戦争を起こすと彼らが宣言すると、王はその脅しを恐れはしたものの、嘆願者への慈悲心をまだ持っていた。テミストクレスを引き渡す不名誉を避けようとして彼にラケダイモン人に気付かれずにすぐさま逃げるよう説得して逃走費用として多額の黄金を与えた。そしてあらゆる場所で追われていたテミストクレスは金を受け取って夜にモロシア人の領地から逃げ、王は四方八方手を尽くして彼の逃走を助けた。そして商人だったために道に詳しかったリュンケスティス生まれの二人の若者を見つけると、彼は彼らに逃走の協力をさせた。夜間のみに移動することで彼はラケダイモン人を避け、若者たちの善意と彼らが彼のためにした苦労によってアジアへと向かった。そこには非常に名声と富を持っているとされていたリュシテイデスという名のテミストクレスの個人的な友人がいて、彼のところへとテミストクレスは逃げ込んだ。
 リュシテイデスはクセルクセス王の友人で、王が小アジアを通過した折にはペルシアの全軍をもてなしていた。そういうわけで王と親しかった彼は慈悲心によってテミストクレスを助けたいと思い、ありとあらゆる手段を用いて彼に協力すると約束した。しかしテミストクレスがクセルクセスのもとまで連れて行ってくれるよう頼むと、当初の彼はテミストクレスにペルシア人への過去の所業のために罰せられることになるだろうと説明して反対した。しかし後になってそれが最良だと分かると彼は応じ、出し抜けに、そして無事に彼はペルシアへと彼を安全に向かわせた。妾を王のところへと連れて行く時には蓋を閉じた馬車に彼女を載せ、それに会う人は何人たりとも邪魔をしたり使者と会ったりしてはいけないというのがペルシア人の習慣であった。そしてリュシテイデスはこの仕組みを利用して計画を実行した。彼は馬車の支度をしてそれに高価な掛け布をかけた後にテミストクレスを乗せた。そして無事彼を届けるとリュシテイデスは王に謁見して慎重に話をした後、テミストクレスに危害を加えないという誓約を王から引き出した。次いでリュシテイデスが彼を王の面前へと導くと、王はテミストクレスに話すことを許して彼が王に危害を加えていないことを知り、王は彼を無罪放免とした。
57 しかしその命を敵によって予期せずして助けられたテミストクレスは以下のような理由で再び、今度はより大きな危機に陥った。マンダネはマゴス僧たちを殺したダレイオスの娘でクセルクセスの実妹であり、彼女はペルシア人の間で非常に声望高かった。彼女はテミストクレスがサラミスの海戦でペルシア艦隊を破った時に息子たちを失っており、その子供たちの死をひどく嘆いていたのでその不幸のために人々の同情を買っていた。テミストクレスがいることを知ると彼女は喪服を着て王宮へと向かって兄弟にテミストクレスへの復讐を果たすよう涙ながらに訴えた。王が彼女の言うことを無視すると、彼女は最も高貴なペルシア人たちのもとをその要望を持って順番に訪ね、概して言えばテミストクレスへの復讐を果たすよう人々に拍車をかけた。暴徒が王宮に殺到して大声を上げてテミストクレスを罰するよう要求すると、王は最も高貴なペルシア人の諮問団を結成してその評決の通りにすると応答した。この決定は皆に支持されて裁判準備に相当の時間が与えられたため、その間にテミストクレスはペルシア語を勉強し、これを弁明で用いることで無罪放免を勝ち取った。王はテミストクレスが助かると狂喜して莫大な贈り物を与えた。例えば彼は生まれが良く美しい上に美徳を称賛されたペルシア女と彼を結婚させ、多くの家内奴隷だけでなく安楽で贅沢な人生に丁度良いあらゆる種類の杯と他の家具〔を彼女は嫁資として持ってきた〕。さらに王は彼に扶養と悦楽に好都合な三つの都市を、すなわちパンのためにマイアンドロス河畔にあってアジアのどの都市よりも穀物を産するマグネシアを、肉のためにミュウス、葡萄酒のために魚がたくさんいる海に面していて広大な葡萄園を領有していたランプサコスを贈った。
58 テミストクレスはギリシア人のもとにいた時に感じていた恐怖から今や解放されたわけであるが、自らの施した恩恵によって最も利益を得た人たちによって予期せず追放された一方で彼の手によって最も悲惨な扱いを受けた人たちから利益を受けることになった。上述の諸都市で人生を過ごすことになって悦楽に資するあらゆる良いものをよく供給され、死に際してはマグネシアで立派な葬儀が挙げられ、その記念碑は今日にもなおそびえ立っている。幾人かの歴史家たちはクセルクセスはギリシアへの二度目の遠征軍を率いることを望んでテミストクレスに戦争の指揮を執るよう求め、テミストクレスはこれに同意して王の宣誓の下で自分抜きで王はギリシア人に向けて兵を進めないという確約を受けたと述べている。一頭の牛が犠牲に捧げられて宣誓がなされると、テミストクレスは杯にその血を充たして飲み、すぐに死んだ。このためにクセルクセスは計画を放棄し、テミストクレスは自害によって能う限り最良の守りを残してギリシアの全ての利害問題に関して良き市民として振る舞ったとこの歴史家たちは付け加えている。
 我々は最も偉大なギリシア人の一人の死にさしかかったわけであるが、はたして彼は自分の生まれた都市と他のギリシア人に悪事を働いたためにペルシア人のもとへと逃げたのか、はたまた逆に彼の都市と全てのギリシア人が彼の手によってもたらされた恩恵を享受した後に感謝を忘れて彼を不当にも全き危機へと陥れたのかについては多くの議論がある。しかし嫉妬を脇に置いてこの男の天性の才覚のみならずその事績もしっかりと評価したならば、どちらの説明であってもテミストクレスは我々が記録してきた全ての人たちのうちで第一の地位を占めると思われよう。したがってアテナイ人がこれほどの才人を自ら捨ててしまったことには驚かざるを得ない。
59 スパルタがまだ最強でスパルタ人エウリュビアデスが艦隊の最高指揮権を握っていた時に誰が他に独力でスパルタから栄光を奪うことができたというのだろうか? 我々が歴史から学ぶ人のうちで一度の行動によって全ての指揮官たちを凌駕し、彼の都市に他の全てのギリシア人の国を凌駕させ、ギリシア人に夷狄を凌駕させた人として他に誰がいるだろうか? 乏しい元手と危険を持ち合わせるという条件の下で誰が将軍としてより偉大になれたというのだろうか? 都市の住民が故郷を追われて未だ勝利を得ていない時に全アジアの大連合を向こうに回して誰が自らの都市の側に立ったというのだろうか? 彼と比肩できるほど平時に祖国を有力にした人がいただろうか? 大戦争が自分の国を包み込んだ時に国に安全をもたらし、橋についてのたった一つの計略(32)によって敵の陸軍を半分に減殺してギリシア軍がこれを楽々と倒せるようにした人がいただろうか? したがって我々が彼の事績を眺めてその一つ一つを吟味し、これほどの男が彼の都市の手で不名誉をもたらされた一方で彼の行いによって都市が強大になったことを見れば、我々には全ての都市のうちで知恵と公正さにおいて最高の評価を得たその都市が彼を非常に情け容赦なく扱ったと結論する尤もな理由があるというものである。
 さて、テミストクレスの高評価という主題に関して、我々がこの余談の主題を余りにも長く扱ったように見えたとしても、それは我々は彼の偉大な才能が記録されずにいるのは相応しからぬことだと信じたが故である。
 それらの出来事が起こっていた一方で、イタリアではレギオンとザンクレの支配者ミキュトスがピュクソス市を建設した。
60 デモティオンがアテナイでアルコンだった時(33)、ローマ人はプブリウス・ウァレリウス・プブリコラとガイウス・ナウティウス・ルフスを執政官に選出した(34)。この年にアテナイ人はミルティアデスの息子キモンを将軍に選出して強力な軍隊を授け、彼らと同盟を結んでいた諸都市を助けて未だペルシアの守備隊が陣取っていた諸都市を解放するためにアジアの沿岸部へと送った。そしてキモンはビュザンティオンにいた艦隊を連れてエイオンと呼ばれる都市に入港し、陣取っていたペルシア軍からそこを奪取してペルシア人とドロペス人が住んでいたスキュロスを占領した。彼はアテナイ人を植民団として送り込んで土地を分配した。この後、より偉大なことをしようと思い始めた彼はペイライエウスに入港して艦隊に更なる三段櫂船を加え、あらゆる物資を大量に乗せた後に二〇〇隻を率いて海に出た。その後イオニア人と他のあらゆる人たちから追加の船を供出させると、彼の手持ちの船は全部で三〇〇隻になった。それから全艦隊を率いてカリアへと航行した彼は、ギリシアから移住してきた沿岸諸都市をペルシアへの反乱へと踏み切らせるよう説得するのにすぐ成功したが、住民が二つの言語を話していてペルシアの守備隊がまだいた諸都市に対しては、武力に訴えて包囲を行った。次いでカリアの諸都市を味方につけた後に彼は同様にしてリュキアの諸都市も説得によって味方につけた。また、絶えず増え続けた同盟諸国から追加の船を得ることで彼は艦隊の規模をさらに増大させた。
 その時のペルシアの陸軍はペルシア人から構成されていたが、海軍はフェニキアとキュプロス島とキリキアから集めたもので、ペルシアの陸海両軍の司令官はクセルクセスの庶子ティトラウステスだった。そしてペルシア艦隊がキュプロス沖にいることを知ったキモンは夷狄へ向けて出航し、二五〇隻の船で三四〇隻〔の敵〕と戦った。激しい戦いが起こって両艦隊は勇敢に戦ったが、最終的にアテナイ艦隊が勝利を収め、多くの敵船を破壊して乗組員もろとも一〇〇隻以上を拿捕した。残りの船はキュプロス島へと逃げ、そこで乗組員は船を捨てて陸に上がり、守る者がいなくなった船は敵の手に落ちた。
61 したがってキモンはこの大勝利に満足することなく、すぐさま全艦隊を率いてエウリュメドン河畔に野営していたペルシアの陸軍目がけて航行した。計略によって夷狄を破ろうとした彼は拿捕したペルシア船に自軍の兵を乗り込ませ、彼らには頭にティアラをつけて概ねペルシア風の服を着させた。夷狄はその艦隊が近づいてくるや否やペルシアの船と服に騙され、自軍の三段櫂船だと思い込んだ。かくして彼らはアテナイ軍をまるで友軍であるかのように受け入れた。そして夜が来るとキモンは兵を上陸させ、ペルシア軍から友軍であるかのように受け入れられていた野営地に襲いかかった。ペルシア軍の間では大混乱が起こり、キモンの兵は進路にいる者を手当たり次第に斬り、夷狄軍の二人の将軍のうち一人で、王の甥であったペレダテスを捕らえてこれを殺した。彼らは残りのペルシア軍のうち一部を斬殺して他の者は負傷させ、その全員が攻撃が予期せぬものであったために敗走を強いられた。つまるところかような驚愕並びに困惑がペルシア軍のうちに広がったためにその大部分は誰が攻撃してきたのかすら見当がつかなかった。というのも彼らはギリシア軍には陸軍は全くいないと思い込んでいたためにギリシア軍が押し入ってくるなどとは夢にも思わず、攻撃をかけてきたのは近隣の領地に住んでいて彼らに敵対していたピシディア人だと思った。したがって敵の攻撃は内陸からのものだと考えたために彼らは船は味方の手の中にあると信じて船へと逃げた。月の出ていない暗い夜だったために彼らの困惑は増していき、それだけになおのこと誰も事の真相を把握できなかった。かくして夷狄の混乱のために起こった大殺戮の後に兵士が松明を点した。これは、兵士が散開して略奪に走れば目算が狂うことになるのではないかと案じたキモンがそれらの松明に向けて走ってくるよう前もって命令を下していたものであり、船のそばで信号が上がった。兵士たちが全員松明に集まって略奪を止めると、当面彼らは戦勝記念碑を建て、一つは陸での、もう一つは海での二つの勝利を得てキュプロス島ヘと戻った。同日に海と陸で戦った軍勢によるこれほどに珍しく重要な軍事行動の発生はこの日までついぞ歴史に記録されたことはなかった。
62 将軍としての技術と勇気によって大勝利を得た後、キモンの名声は同胞市民のみならず他の全てのギリシア人の間に普く響きわたった。というのも彼は三四〇隻の船を拿捕し、一二〇〇〇人以上の兵士を捕らえ、多額の資金を鹵獲したからだ。しかしペルシア人はアテナイ人の勢力増大を恐れ、かくも大きな逆転にあってもより多くの三段櫂船を他に建造した。というのもこの時代からアテナイの国家は著しい勢力増大を続け、十分な資金を国家から供給されて戦争での勇気と見事な指揮のために声望を得ていたからだ。そしてアテナイの人々は戦利品の十分の一と以下のような献辞が書かれた碑文を神に奉納した。
アジアからヨーロッパを海が分かたれし時より、
猛き神アレス、男らの都市には
大地に住みし死すべき者どものうちでのかくの如き偉業は伝わらず、
かくの如きを陸と海のいずれにて同時に成し遂げた。
キュプロスにてこの者どもは多くのメディア人を滅ぼし、
数にして一〇〇隻の軍船で海を征し、
フェニキア人で海を満たし、全アジアを悲嘆のどん底へと陥れ、
かくして両手で打ちのめし、戦の剛き力で打ち破れり。
63 この年の出来事は以上のようなものであった。パイドンがアテナイでアルコンだった時(35)、ローマではルキウス・フリウス・メディオラヌスとマルクス・マンリウス・ウァソが執政官職を引き継いだ(36)。この年(37)に信じられないような大災厄がラケダイモン人に降り懸かった。スパルタで大地震が起こり、その結果、家々は基礎から倒壊して一二〇〇〇人以上のラケダイモン人が死んだ。その都市の荒廃と家々の倒壊は何にも妨げられることなく長く続いたため、多くの人が城壁の崩壊に巻き込まれて潰され、少なからぬ家財が地震で失われた。この災害に見舞われたにもかかわらず、神のいずれかが彼らへの怒りをぶちまけたために以下のような理由で人間の手によるもう一つの危機が彼らに降り懸かった。ヘロットとメッセニア人はラケダイモン人の敵であったにもかかわらず、スパルタの卓越した地位と勢力を恐れてこの時代に至るまで大人しくしていた。しかし彼らの大部分が地震で死んだのを見て取ると彼らは僅かだった生存者を見くびるようになった。かくして彼らは協定を互いに交わして共同でラケダイモン人に対する戦争を始めた。ラケダイモン人の王アルキダモスは持ち前の先見性によって地震の時でさえ同胞市民の救済者となっただけでなく、戦争の過程でも侵略者に対して勇戦した。例えば恐ろしい地震がスパルタを襲った時に彼は真っ先に鎧を掴んで都市から郊外へと急いで向かい、他の市民に自分の例に倣うよう呼びかけた。スパルタ人は彼に従い、そのために地震を生き延びた者は救われてアルキダモス王は彼らを軍へと編成して反逆者への戦争の準備をした。
64 守る者のいないスパルタ市を落とせるだろうと思っていたヘロットは共同でまずスパルタ市へと進撃した、しかし生き残りがアルキダモス王と一丸となって整列して祖国のための戦いの用意をしていたのを見て取ると、彼らはこの計画を放棄してメッセニアのある砦を奪取して作戦基地とし、そこからラコニアを荒し回った。そしてスパルタ人はアテナイ人を頼って彼らからの軍を受け取った。そして彼らは残りの同盟軍からも兵を集めたため、同等の条件で敵と渡り合えるようになった。その結果、彼らは敵に対して大いに優勢になったが、後にアテナイ人がメッセニア人の側に寝返ろうとしているのではないかという疑惑が起こると、当面の戦いにあたっては他の同盟軍で十分だと理由を述べ、アテナイ人との同盟を解消した。アテナイ人は自分たちが侮辱を受けたと信じたものの、当面は撤退以上のことをしなかった。しかしラケダイモン人との関係が険悪になると、彼らは段々と憎悪の炎を煽るようになった。したがってアテナイ人はこの事件を二国の仲違いの最初の原因と見做すようになり、後に対立して大戦争を起こして全ギリシアを大変な惨禍で満たした。しかし我々はそれらの問題については適当な年代と関連する箇所で個別に説明することにしよう。問題の時代にラケダイモン人は同盟軍と共にイトメ山へと進撃して同地を包囲した。そして一丸となってラケダイモン人に反乱を起こしていたヘロットはメッセニア人に同盟者として加わり、ある時は勝利を得て他の時には敗れた。戦争の決着は一〇年間つかなかったため、彼らは長らく互いを傷つけるのをやめなかった。
65 翌年、アテナイではテアゲネイデスがアルコンであり(38)、ローマで執政官に選出されたのはルキウス・アエミリウス・マメルクスとルキウス・ユリウス・ユルスで(39)、七八期目のオリュンピア紀が祝われてスタディオン走でポセイドニアのパルメニデスが優勝した。この年にアルゴス人とミュケナイ人の戦争が以下のような理由で勃発した。ミュケナイ人は彼らの国の古の特権のため、アルゴリスの他の諸都市がしたようにはアルゴス人にへつらわず、独立を維持してアルゴス人の命令を受けなかった。ミュケナイ人はヘラの神殿をめぐってアルゴス人と論争し、自分たちはネメア祭を管理する権利を有していると主張し続けた。その上、アルゴス人が総指揮権を分け合わない限りはテルモピュライでの戦いに参加しないと評決した時、ミュケナイ人はアルゴリスの人々のうちでラケダイモン人に与して戦った人々だった。彼らの憎悪による争いの理由は以上のようなものであり、古くからアルゴス人は自分たちの都市〔の地位〕を向上させるのに熱心で、ラケダイモン人が弱体化してミュケナイ人の救援に赴くことができないと睨むと、今こそ好機であると考えた。したがってアルゴス人はアルゴスとその同盟諸都市から強力な軍勢を集めてミュケナイへと進め、彼らを戦いで破って城壁の中へと封じ込めた後にその都市の包囲に取りかかった。ミュケナイ人はしばらくの間は包囲軍に敢然と抵抗したが、やがて戦いで敗れ、戦争と地震の最中にあったラケダイモン人は降り懸かった災難のために援軍に来られず、さりとてミュケナイ人には他に同盟者がいなかったため、彼らは孤軍奮闘したものの攻め落とされた。アルゴス人はミュケナイ人を奴隷として売り払い、その〔戦利品〕十分の一を神に捧げ、ミュケナイを徹底的に破壊した。かくしてこの古より大いに繁栄を享受し、大きな人口を有し、信頼すべき記憶に値する事績を成してきた都市は終焉を迎え、我々の時代に至るまで無人のままになった。
 この年の出来事は以上のようなものであった。
66 リュシストラトスがアテナイでアルコンだった時(40)、ローマ人はルキウス・ピナリウス・マメルティヌスとプブリウス・フリウス・フィフロンを執政官に選出した(41)。この年にシュラクサイ王ヒエロンはザンクレの先代僭主アナクシラスの息子たちを召還し、彼らに贈り物を与えてゲロンが彼らの父に施した恩恵を思い出させ、彼らが今や成人した以上は後見人のミキュトスに引退を求めてザンクレで親政を執るよう勧めた。彼らがレギオンに戻って後見人に大臣職からの引退を求めると、公正な人物であったミキュトスはその子らの古くからの親友たちを集めて真摯な説明をしたため、その場全体が彼の正義と良き誠意の両方に対する賞賛で満たされた。そして子供たちは自分たちがしでかしたことを後悔し、行政に戻って父同然の権力と地位でもって事に当たってほしいとミキュトスに懇願した。しかしミキュトスはその要望を受け入れなかったものの彼らのために律儀に引継をし、自身の財産を船に乗せた後にレギオンを出航して人々の好意を受けた。そしてギリシアに到着すると、彼は余生をアルカディアのテゲアで過ごし、人々からの好感を享受した。そしてシュラクサイ人の王ヒエロンがカタネで死に、それこそ都市の建設者が受けるような、英雄相当の栄誉を受けた。彼は一一年間支配し、王国を弟のトラシュブロスに残し、彼はシュラクサイ人を一年間支配した。
67 リュサニアスがアテナイでアルコンだった時(42)、ローマ人はアッピウス・クラウディウスとティトゥス・クインクティウス・カピトリヌスを執政官に選出した(43)。この年の間にシュラクサイ人の王トラシュブロスが王位を追われたのであるが、我々はこの出来事を詳細に説明するために数年遡って話の全体をその始点から明らかにすべきであろう。
 デイノメネスの息子で、勇気と戦略において他の全ての人より遥かに優れ、カルタゴ人を打ちひしいだゲロンは、既に述べた通り大会戦でその夷狄を打ち破った。彼は従わせた人々を公正に扱い、概して近隣の人々に対しては人道的に振る舞い、シケリアのギリシア人から好意を向けられた。したがって穏健な支配のために全ての人々から愛されたゲロンは死ぬまでずっと平和の中で暮らした。しかし王位を継いだのは弟の中で次に年長だったヒエロンで、彼は兄とは同様の仕方では統治しなかった。というのも彼は貪欲で乱暴で、概して言えば実直さと人柄の高貴さとはほど遠い人物だった。したがって反乱を起こしたがっていた多くの良き人たちがいたが、彼らはゲロンの名声と彼が全てのシケリアのギリシア人たちに示してくれた善意のためにこの傾向を抑えていた。しかしヒエロン死後に王位に登ったのがトラシュブロスであり、これが先に王位にあった人より悪辣さにかけては輪をかけて酷い男ときたものである。本来的に乱暴者で殺し好きであった彼はでっち上げの罪状で多くの市民を不正に殺したり追放したりし、彼らの財産を没収して王室の公庫へと納めた。概して言えば、彼は自分が悪事を働いた人たちを憎んで彼らからも憎まれていたため、傭兵の大部隊を徴募して市民兵と対決するための軍勢の準備をした。彼は多くの人からの怒りを買い、他の人たちを処刑したおかげで市民の憎悪を受け続けたため、その犠牲者たちを反乱へと追い込んでしまった。したがってシュラクサイ人は指揮を執る人たちを選んで僭主制の破壊のために一丸となって邁進し、ひとたび指導者たちによって編成されると自由に断固として固執した。都市の全域が自分に対して武器を取ったことを見て取ると、トラシュブロスはまず説得によって反乱を止めようとしたが、シュラクサイ人の動きが止められないことを悟った後はヒエロンがカタネに住まわせた植民団と他の同盟者、そしてまた傭兵の大部隊を集め、かくしてその数はおよそ一五〇〇〇人にのぼった。それから要塞化されていたいわゆるアクラディネと島(44)を奪取してこれらを基地として使って反乱軍に対する戦争を開始した。
68 シュラクサイ人は手始めに市のテュケと呼ばれる一角を奪取してそこから作戦行動を開始し、ゲラ、アクラガス、セリヌス、ヒメラ及び〔シケリア〕島の内陸のシケロイ人の諸都市にも使節団を送り、大急ぎで来てシュラクサイ解放に加わるよう求めた。それら全ての都市がこの要望に熱烈に応じ、彼らの一部は歩兵と騎兵を、その他は作戦行動のための完全武装の軍艦をといった風に急いで来援を送ったため、短時間でシュラクサイ人を救援する大兵力が集結した。かくしてシュラクサイ人は艦隊の準備をして戦いへと陸軍を向かわせ、すでに海陸で戦いの決着をつけるつもりでいることを示した。今や同盟者から見捨てられて傭兵のみに希望をつなぐことになったトラシュブロスはアクラディネと〔オルテュギア〕島のみを支配していた一方で、都市の残りはシュラクサイ人の手中にあった。この後トラシュブロスは敵に向けて艦隊を率いていって多くの三段櫂船を失う敗北を喫した後、島へと残りの船と共に退却した。似たようにして彼はアクラディネから陸軍を率いて郊外での戦いへと向かわせたが、敗北を喫して大損害を被り、アクラディネへと逃げ帰らざるを得なくなった。ついに彼は僭主制を維持する望みを捨てて彼らと交渉して合意に達し、休戦の下でロクリスへと退去した。シュラクサイ人はこのようにして故郷の都市を開放すると、傭兵たちにシュラクサイからの退去を許し、僭主や守備隊の手中にあった他の諸都市を解放してそれらに民主制を樹立した。この時からその都市は平和を享受して大いに繁栄の度合いを増し、ディオニュシオスによって僭主制が打ち立てられる(45)までほぼ六〇年間民主制を維持した。しかしまことに公正な基礎の上に樹立されていた王位を受け継いだトラシュブロスは不名誉にも彼自身の悪辣さから王国を失ってロクリスへと逃げ、そこで余生を私人の地位で過ごす羽目になったというわけである。
 それらの出来事が起こっていた一方で、ローマではこの年に初めてガイウス・シキニウス、ルキウス・ヌミトリウス、マルクス・ドゥイリウス、そしてスプリウス・アキリウスの四人が軍務官職(46)に選ばれた。
69 この年の終わりにアテナイではリュシテオスがアルコンであり(47)、ローマで選出された執政官はルキウス・ウァレリウス・プブリコラとティトゥス・アエミリウス・マメルクスであった(48)。この年の間、アジアでは生まれにおいてはヒュルカニア人で、クセルクセス王の宮廷で最大の影響力を有する親衛隊長だったアルタバノスがクセルクセスを殺して王位を我が物にしようと決意した。彼は王の寝室管理官で絶大な信頼を寄せられており、そしてまたアルタバノスの親戚であると同時に友人でもあった宦官ミトリダテスと陰謀について連絡を取り、陰謀について合意に達した。そしてアルタバノスはミトリダテスによって夜に王の寝室へと招かれてクセルクセスを殺し、次いで王の息子たちを片づけた。この息子たちは三人おり、長男ダレイオスと〔次男の〕アルタクセルクセスはいずれも宮廷で暮らしており、三男のヒュスタスペスはバクトリア太守領を担当していたためにこの時は家を出払っていた。それからアルタバノスはまだ夜だった時にアルタクセルクセスのもとへとやってきて兄のダレイオスが父を殺して王位を自分のものにしようとしていると述べた。したがってアルタクセルクセスはアルタバノスと相談し、全くの無分別によって奴隷になるのではなくダレイオスが王位を掴む前に先手を打って父の殺害者を罰した後に王位に登るべきだと思った。そしてアルタバノスはこの企てに際しては王の親衛隊にアルタクセルクセスを支持させると約束した。アルタクセルクセスはその忠告を受けてすぐに親衛隊の助けを受けて兄ダレイオスを殺した。そして自分の計画にどれほどの見込みがあるかを見て取ると、アルタバノスは息子たちを自分のもとへと呼んで今こそ王位を得る時だと叫んでアルタクセルクセスを剣で刺した。アルタクセルクセスはその一撃で手傷を負っただけで重傷は負わなかったため、アルタバノスに防戦して致命的な一撃を食らわせてこれを殺した。したがってアルタクセルクセスはこの予期せぬ仕方で一命を取り留めて父の殺害者に復讐をした後、ペルシア人の王位を継承した。かくしてクセルクセスは二〇年以上ペルシア人の王であった後に我々が述べたような仕方で死に、アルタクセルクセスが王位を継いで四〇年間支配した。
70 アルケデミデスがアテナイでアルコンだった時(49)、ローマ人はアウルス・ウェルギニウスとティトゥス・ミヌキウスを執政官に選出し(50)、七九期目のオリュンピア紀が祝われてコリントスのクセノポンがスタディオン走で優勝した。この年にタソス人が炭鉱をめぐる争議のためにアテナイ人に反逆したが、アテナイ人に降伏して再びその支配に従属することを余儀なくされた。同様にアイギナ人が反乱を起こすと、アテナイ人は彼らを隷属させようとしてアイギナの包囲を行った。というのもこの国は海での戦いではしばしば勝利を得ていたために思い上がっており、資金と三段櫂船の両方をよく備えており、つまるところはアテナイ人と常に不仲であったからだ。したがって彼らはアイギナへと軍を送って領地を荒らし、それからアイギナを包囲して力攻めで落とそうと躍起になった。概して言えば、今や大いに勢力を増長させるに至っていたアテナイ人はもはや同盟者を以前のように公正には扱わず、苛烈且つ横柄に支配していた。かくして同盟者の大部分は彼らの過酷さに耐えきれずに互いに反乱を語らい、その一部は〔デロス同盟の〕一般総会の権威をはねつけて独立国家として振る舞った。
 それらの出来事が起こっていた間、当時は海の覇者だったアテナイ人は、その一部は自国の市民から、また他の一部は同盟諸国から集めた一〇〇〇〇人の植民団をアンピポリスへと送った。彼らは領地を分配して当面はトラキア人に対して優位に立ったが、その後トラキアへのさらなる進出の結果、その地方へと入った者全員がエドネス族として知られる人々に殺された。
71 トレポレモスがアテナイでアルコンだった時(51)、ローマ人はティトゥス・クインクトゥスとクイントゥス・セルウィリウス・ストルクトゥスを執政官に選出した(52)。この年にペルシア人の王で、王位を回復したばかりのアルタクセルクセスは手始めに父の殺害に関与した者たちを処罰し、次いで自分の利益に適うように王国の諸事を整理した。したがって在任中の太守のうち敵対的な者たちを解任して彼の友人の中から有能な者を選んで州を与えた。また彼は歳入と軍備にも意を砕き、王国全土に対する彼の統制は穏健であったためにかなりの程度ペルシア人の支持を得た。
 しかしエジプトの住民はクセルクセスの死と王位を巡る諸々の試み、そしてペルシア王国の混乱を知ると、自由のための戦いを決意した。そしてすぐに軍を集めた彼らはペルシア人に反旗を翻し、エジプトからの徴税を担うペルシア人を追い出した後にイナロスという名の男を王に盛り立てた。彼はまず土着のエジプト人から兵を徴募したが、後に他の民族からも傭兵を集めて大軍を集結させた。彼はアテナイ人に同盟を求める使節団を送り、エジプト人を解放してくれるならばアテナイ人に王国の〔利益の〕分け前を与えて既得の好意の何倍もの好意を寄せると約束した。アテナイ人はできる限りでペルシア人を打ち負かし、運命の予期せぬ転換に対する備えとしてエジプト人と密に手を結ぶのが自分たちの利になると結論すると、エジプト人救援のために三〇〇隻の三段櫂船を送ることを票決した。したがってアテナイ人は非常に熱心に遠征の準備を行った。アルタクセルクセスはというと、エジプト人の謀反と彼らの戦争準備を知ると、エジプト人を軍備の規模で圧倒するべきだと結論した。かくして彼はすぐに全ての州から兵を徴募し、船を建造し、他のありとあらゆる準備をした。
 アジアとエジプトでのこの年の出来事は以上のようなものであった。
72 シケリアはというと、シュラクサイの僭主政権が転覆されて島の全ての都市が解放されるや否や、シケリア全土は繁栄へと大きく歩むことになった。それというのもシケリアのギリシア人は平和な状態にあり、彼らが耕した島は肥沃だったため、十分な収穫物のおかげで彼らはすぐに財産を殖やして島を奴隷と家畜と繁栄の他のあらゆる付随物で満たすことができ、一方で収穫物は大きな歳入をもたらし、歳入が費やされるのが習わしだった戦争に費やされることはなかった。しかし後に彼らは以下のような理由で再び戦争と内戦へと飛び込むことになった。シュラクサイ人はトラシュブロスの僭主政権を覆した後に集会を開き、自分たちの民主制の樹立を考慮した後に解放者ゼウスの巨大な像を作って毎年生贄を捧げて解放の祭りを祝い、僭主を打倒して故郷の都市を解放した日に格別の競技祭を開催することを全会一致で票決した。そして彼らは競技祭に関連して四五〇頭の雄牛を神々への生贄に捧げて市民の宴会のためにそれらを用いること(53)を票決した。行政官の全員を一般市民に割り当てることが提案されたが、ゲロンの下で市民権を認められた外国人はこの権限を分け持つのに相応しいとは見られていなかった。それというのも彼らは僭主制の中で育って独裁者の下での戦争で働いていたため、革命を試みるのではないかと疑われていたためである。これは実際に起こった。それというのもゲロンは一〇〇〇〇人以上の外国人傭兵を市民として登録しており、問題の時期にはうち七〇〇〇人以上が残っていたからだ。
73 その外国人たちは権威からの締め出しに腹を立てて官庁に詰め寄り、一致団結してシュラクサイに反旗を翻し、市内のうちアクラディネと〔オルテュギア〕島の両方を奪取したわけであるが、それはいずれの場所も見事に要塞化されていたためである。再び混乱状態に投げ込まれはしたがシュラクサイ人は市の残りを保持した。そしてエピポライに面する地区を彼らは壁で封鎖して非常に安全な場所を作った。それというのもその人たちはこうして簡単に叛徒を郊外に続く道から切り離し、すぐに外国人たちを物資の欠乏へと追い込んだからだ。しかし傭兵たちは数においてはシュラクサイ人に劣っていたにもかかわらず、戦争の経験では遙かに勝っていた。したがって攻撃が町中のあちこちで起こって遭遇した者たちが孤立すると、傭兵たちは例によって戦いで優位に立ったが、郊外から遮断されていたために武器が不足して食料の欠乏に悩まされた。
 この年のシケリアでの出来事は以上のようなものであった。
74 コノン(54)がアテナイでアルコンだった時、ローマではクイントゥス・ファビウス・ウィブラヌスとティベリウス・アエミリウス・マメルクスが執政官職を占めた(55)。この年にペルシア人の王アルタクセルクセスはダレイオスの息子で自身の叔父でもあったアカイメネスを対エジプト人戦争の司令官に任命した。歩騎併せて三〇万人以上の兵を隷下に置くとアカイメネスはエジプト人を屈服させるべく彼らを率いていった。さてアカイメネスはエジプトに入るとナイル川の近くに陣を張り、それから進軍した後に軍を休ませ、戦いの準備をした。しかしエジプト人はリビュアとエジプトから軍を集め、アテナイ人の増援部隊を待った。アテナイ軍が二〇〇隻の船でもってエジプトに到着してエジプト人と共に隊列を組んでペルシア軍に対陣した後、激戦が起こった。数を頼んだペルシア軍が一時は優勢を維持したが、後にアテナイ軍が攻勢に立って対峙する軍勢を敗走させてその多数を殺し、残りの夷狄も一斉に敗走に転じた。敗走の過程で殺戮が起こり、最終的にペルシア軍は軍の大部分を失った後にいわゆる「白い砦」に逃げ込み、他方で自らの勇敢な行いのおかげで勝利を得たアテナイ軍は夷狄を上記の要塞まで追撃し、躊躇せずにそこを包囲した。
 アルタクセルクセスは自軍の敗北を知ると、手始めに多額の資金を持たせて数人の友人をラケダイモンに送ってアテナイ人との戦争を説いた。それはもしラケダイモン人が応じれば、エジプトで勝利したアテナイ軍は彼らの生まれた都市を守るためにアテナイへと出航するだろうという魂胆だった。しかしラケダイモン人が金を受け取らずペルシア軍の要望に耳を貸さないでいると、アルタクセルクセスはラケダイモン人からのいかなる援助も絶望視して他の軍勢の準備にかかった。その指揮に彼はきわめて有能だったアルタバゾスとメガビュゾスを据え、エジプト人との戦争へと送り出した。
75 エウティッポス(56)がアテナイでアルコンだった時、ローマ人はクイントゥス・セルウィリウスとスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスを執政官に選んだ(57)。この年の間、アジアではエジプト人との戦争のために送られたアルタバゾスとメガビュゾスが歩騎併せて三〇万人以上の兵と共にペルシアを発った。キリキアとフェニキアに到着すると、彼らは船旅後の陸軍を休ませてキュプロス人とフェニキア人とキリキア人に船舶の提供を命じた。三段櫂船が準備されると、彼らは最も有能な海兵と武器と投擲兵器、そして海戦の役に立つありとあらゆるものを載せた。かくしてその指揮官たちは準備と兵士の訓練と戦争の実践に皆を慣らすのに勤しみ、これにこの年のほとんど全てを費やした。他方でエジプトのアテナイ軍はメンピス近くの「白い砦」に逃げ込んだ兵の包囲を行っていたが、ペルシア軍が頑強な防戦を行ったためにその要塞を落とすことができずにその年を包囲戦に費やしてしまった。
76 シケリアではシュラクサイ人は反乱を起こした傭兵との戦争状態にあり、アクラディネと〔オルテュギア〕島の双方で攻撃を仕掛けた後に海戦で叛徒を破ったが、陸では二つの場所の堅固さのために市から追い出すことができなかった。しかしながら、陸で野戦が行われた後、双方の兵士は奮戦して最終的に両軍は少なからぬ犠牲者を出し、勝利はシュラクサイ人のものになった。そして戦いの後シュラクサイ人は勝利に貢献した六〇〇人の精鋭部隊をその勇気を褒賞で讃え、各人に銀一ムナを与えた。
 それらの出来事が起こっていた間、シケロイ人の指導者ドゥケティオスはカタネの住民がシケロイ人から土地を強奪していたことから彼らに対して恨みを抱き、彼らに向けて軍を率いた。シュラクサイ人も同様にカタネに軍を送ったため、彼らとシケロイ人は共同で土地を分配しあってシュラクサイの主人だった時のヒエロンによって送られていた住民(58)と戦争した。カタネ人は武器を取って彼らに対抗したが、一度の戦いで破れてカタネから追い出され、以前はイネッサと呼ばれていた今日のアイトナ山あたりの土地を占領した。そしてカタネの元の住民は長い年月の後に生まれた町へと戻った。
 それらの出来事の後、ヒエロンが王だった時に諸都市から追い出された人々は今や戦い(59)を支援し、父祖の地へと戻ってきて他人の住居を不当に占拠していた者を諸都市から追い出した。その人々(60)の中にはゲラ、アクラガス、そしてヒメラの住民がいた。似たようにしてレギオン人はザンクレ人と共同し、彼らを支配していたアナクシラスの息子たちを追い出して父祖の土地を解放した。後にカマリナの元々の住民だったゲラ人はその土地を分配した。そして実際のところ全ての都市が戦争を終わらせようと望んだために全面的な解決へと向かい、それによってその渦中にいた傭兵と協定を結んだ。そして彼らは亡命者を受け入れて元々の市民に都市を戻したが、以前の僭主制のために傭兵は他の人々のものであった諸都市を握っており、彼らは傭兵たちが財産を持ってメッセニアに移住することを許した。このようにしてシケリアの諸都市を包んでいた内戦と無秩序が終結し、諸都市は外国人が定めた政体を捨てた後に例外なく市民全員に土地を割り当てた。
77 プラシクレイデスがアテナイでアルコンだった時(61)に八〇期目のオリュンピア紀が祝われてテッサリア人のトリュラスがスタディオン走で優勝した。そしてローマ人はクィントゥス・ファビウスとティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌスを執政官に選出した(62)。この年、アジアではキリキアを通過したペルシアの将軍たちが完全武装の三〇〇隻の船団を準備し、次いで陸軍と共にシュリアとフェニキアを通って陸路で進撃した。そして陸軍に随行した海軍は岸沿いに進み、エジプトのメンピスに到着した。彼らは手始めに「白い砦」の包囲を破り、エジプト人とアテナイ人を恐怖させた。しかし後に彼らは聡明なやり方で正面衝突を避ける戦術を用いて戦争を終結させた。アッティカ艦隊がプロソピティスとして知られている島に停泊していると、彼らは島の周りを流れる川の流れを運河によって変え、かくして島を陸地の一部とした。こうして船は不意に渇いた陸に残され、不安になったエジプト軍はアテナイ軍を見捨ててペルシア人と協定を結んだ。アテナイ軍は今や同盟者もなく船も役に立たないと見て取ると、敵の手に落ちまいと船に火を放ち、そして自身らは自らが置かれた恐るべき窮地に狼狽することなく、過去に勝利した戦いに恥じぬ振る舞いをするよう勧告した。したがって、ギリシアの防衛においてテルモピュライで死んだ者たちの英雄的行為に勝る勇敢な行いを見せつけるため、彼らは打って出て敵と戦う準備をした。しかしペルシアの将軍アルタバゾスとメガビュゾスは敵の類稀な勇気を目の当たりにして自軍の大損害なしに全滅させることはできまいと考えると、〔アテナイ軍は〕エジプトから無事に去るものとする休戦条約をアテナイ軍と結んだ。かくしてアテナイ軍は勇気によって命を守ってエジプトを去り、リビュアを経由してキュレネへと安全に戻り、このような一つの奇跡によって母国へと戻ることとなった。
 それらの出来事が起こっていた一方で、アテナイではソポニデスの子で民衆指導者のエピアルテスがある評議会員に対する怒りを糾合し、アレイオパゴス会議の権限を減らし、父祖が従い、継続されていた習慣を破棄することを票決するよう民会を説得した。にもかかわらず、彼はそのような法律違反を企んだことによる刑罰を免れず、夜陰にまぎれて殺され、彼がどのように命を失ったのかを知る者はいなかった。
78 この年の終わりにアテナイではピロクレスがアルコンであり(63)、ローマではアウルス・ポストゥミウス・レグルスとスプリウス・フリウス・メディオラヌスが執政官職を引き継いだ(64)。この年にコリントス人と、一方ではエピダウロス人、他方ではアテナイ人との間で戦争が起こり、アテナイ人は彼らと激戦を演じて勝利した。大艦隊でもって彼らはハリエイスと呼ばれる場所に入港し、ペロポネソス半島に上陸して少なからぬ敵を殺した。しかしペロポネソス人は強力な軍を組織してケリュパレイアと呼ばれる場所の近くでアテナイ軍と戦い、アテナイ軍が再び勝利した。かような成功の後、アテナイ人はアイギナ人が以前の功業で増長しているだけでなく、アテナイへの敵意を燃え上がらせているのを見て取ると、戦争で彼らを懲らしめようと決定した。したがってアテナイ人は強力な艦隊を彼らに向けて派遣した。しかしながら海での戦いに非常に熟練していたことで大いに名声高いアイギナの住民はアテナイ人の優位に狼狽せず、相当数の三段櫂船を有していて新たな船の建造もしていたが、アテナイ人と戦って破れ、七〇隻の船を失った。そしてかくも大きな災厄のために彼らの心は折れ、アテナイ人に年貢を支払うという形での同盟を余儀なくされた。これはレオクラテス将軍率いるアテナイ軍によってなされたことであり、彼は全部で九ヵ月間アイギナ人と戦った。
 それらの出来事が起こっていた間、シケリアではシケロイ人の王で、有名な血族の出で当時大きな影響力を持っていたドゥケティオスがメナイノン市を建設して隣接する土地を移住者たちに分配し、強力なモルガンティネ市に対する遠征を行って味方の間で名声を得た。  かくして、シケリアの情勢は以上のようなものであった。
79 この年の終わりのアテナイではビオンがアルコンであり(65)、ローマではプブリウス・セルウィリウス・ストルクトゥスとルキウス・アエブティウス・アルバスが執政官職を受け継いだ(66)。この年、国境地帯をめぐるコリントス人とメガラ人の争いが起こり、それらの都市は戦争状態になった。まず彼らは互いの領土を襲撃して小競り合いをした。しかし戦いが増えたためにだんだん状況が悪化し、コリントス人を恐れたメガラ人はアテナイ人と同盟を結んだ。それらの都市が再び軍事力において同等になった結果、コリントス人はペロポネソス人と共に強力な軍を連れてメガラ人目がけて進撃し、アテナイ人はメガラ人を助けるために勇敢さで賞賛を受けていたミュロニデス指揮下の軍を送った。長く続いた激戦が起こって双方とも勇敢さでは互角であったが、最終的にアテナイ軍が勝利して多くの敵兵を殺傷した。数日後キモリアで今一度会戦が起こり、再びアテナイ軍が勝利して多数の敵兵を殺傷した。
 ラケダイモン人が由来する種族であり、パルナッソス山の麓にあるキュティニオン、ボイオンそしてエリネオスの三つの都市に住んでいたドリス人とポキス人が戦争に突入した。まずポキス人はドリス人を軍で制圧して彼らの諸都市を占領した。しかしこの後、友情のためにラケダイモン人がクレオメネスの子ニコメデスをドリス人の救援に送った。彼はラケダイモン兵一五〇〇人と残りのペロポネソス兵一〇〇〇〇人を率いた。まだ子供だったプレイストアナクス王の後見人だったニコメデスはこの大軍を連れてドリス人救援に向かい、ポキス人に勝利して占領された諸都市を取り戻した後、ポキス人とドリス人を講和させた。
80 ラケダイモン人がポキス人に対する戦争を終えて本国に帰ることを知ると、アテナイ人は進軍中のラケダイモン人を攻撃しようと決めた。したがってアテナイ人はラケダイモン軍に向けてアルゴス人とテッサリア人を含む軍を派遣し、五〇隻の船団と四〇〇〇人の兵士で彼らを攻撃しようと目論んでゲラネイア山の峠を占拠した。しかしラケダイモン軍はアテナイ人の計画を知り、ボイオティアのタナグラへと進路を取った。アテナイ軍はボイオティアへと進んで戦闘隊形を取り、激戦が繰り広げられた。戦いの最中テッサリア兵がラケダイモン側に寝返ったが、それにもかかわらずアテナイ軍とアルゴス軍は戦い抜いて双方少なからぬ戦死者を出し、夜になる前に戦いを終えた。この後、多数の補給部隊がアテナイ軍のためにアッティカから来ると、テッサリア軍はそれの攻撃を決め、すぐに夕食を済ませて夜にその補給部隊を取り押さえた。補給部隊を警護していたアテナイ兵はテッサリア軍が寝返ったことを知らずに彼らを友人として受け入れ、そのためにあらゆる種類の多くの衝突が護送隊の周りで起こった。というのも、まず敵だと知らずに迎えられたテッサリア兵は会う者全てを切り伏せ、組織立った部隊と混乱に突き落とされた兵士たちとが戦うことになり、〔テッサリア軍は〕多くの護送兵を殺した。しかし、野営地にいたアテナイ軍はテッサリア軍の攻撃を知ると全速で駆けつけて最初の攻撃でテッサリア軍を敗走させ、多くのテッサリア兵が殺傷された。しかし、ラケダイモン軍は戦闘隊形の軍でテッサリア軍の救援に赴き、両軍の間で激しい戦いが起こり、彼らの反目のために双方多数の死者を出した。最終的に戦いは引き分けに終わり、ラケダイモン軍とアテナイ軍は共に勝利を主張した。しかし夜によって〔更なる戦いが〕妨げられたために勝利は依然として議論の問題となり、各々は他方に使者を送って四ヶ月間の休戦を定めた。
81 その年が終わった時、アテナイではムネシテイデスがアルコンであり(67)、ローマではルキウス・ルクレティウスとティトゥス・ウェトゥリウス・キクリヌスが執政官に選出された(68)。この年、クセルクセスとの同盟のために見下されていたテーバイ人は、彼らの古の影響力と声望の両方を回復する方法を探していた。このように全ボイオティア人がテーバイ人を軽蔑してもはや彼らのことを歯牙にもかけなかったためにテーバイ人はラケダイモン人に全ボイオティアでの覇権を得るために助けてくれるよう頼んだ。彼らはこの援助の見返りとしてアテナイ人との戦争を起こすことを約束し、そうすれば最早スパルタ人はペロポネソスの国境を越えて兵士を率いていく必要がなくなるであろうとした。ラケダイモン人はその提案が自分たちの利になると判断し、そしてもしテーバイ人が力をつければアテナイ人の勢力増大のある種の枷になるだろうと信じ、それを受け入れた。したがって、その時タナグラに大軍がすでにいたため(69)、彼らはテーバイを囲む城壁を長くしてボイオティア諸都市をテーバイに服従させた。しかし、アテナイ人はラケダイモン人の計画を粉砕しようと躍起になり、大軍の準備をして将軍としてカリアスの子ミュロニデスを選んだ。彼は必要な数の市民を入隊させて彼らに命令を下し、市から出撃する予定日を発表した。そして期日が来ると兵士の一部は指定された集合場所に現れなかったが、彼は来た者たちを率いてボイオティアに進撃した。彼の部下と友人の中には遅れた者を待つべきだと言った人もいたが、賢明なだけでなくそれと同じ位に精力的だったミュロニデスはそうしないと答えた。それというのも彼自身の選んだ部下が集合に遅れるような連中ならば戦いでも浅ましく臆病な行いをするはずだから、祖国防衛の戦争の危険に耐えられないだろうし、その一方で指定された日に任務のための準備をした者は戦争において持ち場を放棄しない明らかな証拠を持っているのだと彼は明言した。このことは現に起こった。少数だったが勇気では最も優れていた兵士たちを率いた彼はボイオティアで大軍勢と遭遇して敵を完全に打ち破った。
82 私の意見では、この行動はこれ以前のアテナイ人によって戦われたどんな戦いにも決して劣ってはいなかった。マラトンでの勝利にもプラタイアでのペルシア人に対する成功も、アテナイ人による他の名高い偉業も、ミュロニデスがボイオティア人から得た勝利に勝るものではない。それら他の戦い〔での勝利〕の一部は夷狄に対して戦われ、その他の戦いは同盟者の助けを得たものだが、この勝利はアテナイ人単独の戦いで得たものであり、ギリシア人中で最も勇敢な戦士たちによって戦われたものである。危機への直面における堅実さと戦争での勇猛な戦いぶりにおいてボイオティア人の右に出る者はいないと普く信じられていた。いずれにせよ、この後にレウクトラとマンティネイアにおいてテーバイ人は誰の助けも借りずにラケダイモン人とその同盟者の全てに立ち向かい、勇気における最高の評価を勝ち得、予想を裏切って全ギリシアを指導する国になった。ミュロニデスの戦いは有名になったにもかかわらず、我々の歴史家たちの中の誰もそれがどのように戦われたのかも部隊の配置がどうだったのかも記録していない。目覚しい戦いでボイオティア人を破った後、ミュロニデスは彼の前の次代の最も高名な将軍たち、つまりテミストクレス、ミルティアデス、そしてキモンに匹敵する声望を得た。この勝利の後にミュロニデスはタナグラを包囲攻撃によって落としてそこの城壁を撤去し、そして荒らし破壊しながら全ボイオティアを通り抜け、兵士に戦利品を分配し、彼は大量の戦利品を彼ら全員の重荷にした。
83 土地の荒廃に憤慨したボイオティア人は大軍を編成し、一つの民族として挙兵した。ボイオティアのオイノピュタで戦いが起こり、戦闘に双方は頑強に耐えたためにその日一日が戦いに費やされた。しかし激しい戦いの後にアテナイ軍がボイオティア軍を敗走させ、ミュロニデスはテーバイを除くボイオティア全ての都市を支配下に置いた。この後、彼はボイオティアから出てオプンティア人として知られるロクリス人へと軍を進めた。彼は彼らを最初の攻撃で打ち破り、人質を取ってパルナシアへと入った。似たようにして彼はロクリス人を処理し、またポキス人も服従させて人質を取った後にテッサリアへと進軍し、テッサリア人を彼らの裏切り行為のために非難して亡命者を受け入れるよう命じた。そしてパルサロス人が彼に城門を開かなかったために彼はその都市を包囲した。しかし彼は武力でその都市を下すことができずパルサロス人は包囲に長期間堪えたため、テッサリアでの計画を諦めてアテナイに帰った。こうして短期間で偉大な事績を成し遂げたミュロニデスは仲間の市民たちの間で非常に賞賛された有名人になった。
 この年の出来事は以上のようなものであった。
84 アテナイでカリアスがアルコンだった間(70)にエリスで第八一期目のオリュンピア紀が祝われ、キュレネのポリュムナストスがスタディオン走で優勝し、ローマではセルウィウス・スルピキウスとプブリウス・ウォルムニウス・アメンティヌスが執政官だった(71)。この年、海軍の指揮を執り、名声と勇気でミュロニデスの競争者だったトルミデスは、目覚しい偉業を達成しようと欲した。したがってこれまで誰もラコニアを荒らしていなかったために彼はアテナイの人々にスパルタ人の領地を略奪することを主張した。彼は一一〇〇〇人の重装歩兵を三段櫂船に乗せて率いて行き、彼らと共にラコニアを荒らし回ってスパルタ人の名声を弱めることを約束した。アテナイ人は彼の要求を容れたので、彼は密かに重装歩兵の大軍を集めようと思い、以下のような巧妙な口実を設けた。市民たちは彼が最も若く肉体において力に満ちた若者たちを入隊させようとしていると考えていたが、しかしトルミデスは、定められた一〇〇〇人以上を遠征に連れて行こうと決めており、ずば抜けた大胆さを持った若者に近づき、君を入隊させるつもりだと言った。それはうまくいったが、彼は入隊によって奉仕するよう強制されたと考えられるよりはむしろ義勇軍として同行するようにと言い足した。この計画によって三〇〇〇人以上を自発的に入隊するよう説得した時、残りの若者がこれ以上は関心を示さないのを見ると、そこで残された全員から一〇〇〇人を選び入隊させた。
 遠征のための他の全ての準備が整った時、トルミデスは五〇隻の三段櫂船と四〇〇〇人の重装歩兵を率いて出航し、ラコニアのメトネに着くと同地を占領した。そしてラケダイモン人がそこの防衛のために来ると彼は退き、ラケダイモン人の外港であるギュテイオンへと沿岸伝いに巡航して占領し、その都市とラケダイモン人の造船所を焼き払い、その辺りを荒らしまわった。そこから彼は海に出てケパレニア島に属するザキュントス島へと航行した。彼はその島を占領してケパレニア島の全都市を味方につけ、対岸の本土へと渡ってナウパクトスに至った。この都市を同じように彼は最初の攻撃で占領し、ラケダイモン人が休戦の下で自由になることを許した優れたメッセニア人たちを住まわせた。これは以下のような次第である。この時にラケダイモン人は長期の戦争の末にヘロットとメッセニア人の両方に勝利し、我々が述べたようにメッセニア人は休戦の下でイトメから退去することを許されたのであるが、ヘロットのうち反乱の責任がある者は罰せられて残りは奴隷に落とされたのである。
85 ソシストラトスがアテナイでアルコンだった時(72)、ローマ人はプブリウス・ウァレリウス・プブリコラとガイウス・クロディウス・レギルスを執政官に選出した(73)。この年にトルミデスはボイオティアで任務についており、アテナイ人は貴族階級の男でクサンティッポスの子のペリクレスを将軍に選出し、五〇隻の三段櫂船と一〇〇〇人の重装歩兵を与えてペロポネソス半島へと送った。彼はペロポネソス半島の大部分を略奪し、アカルナニアへと渡ってオイニアダイを除く全ての都市をアテナイの側に引き入れた。こうしてこの年の間にアテナイ人は非常に多くの都市を支配下に置いて勇気と用兵の手腕によって大きな名声を得た。
86 アリストンがアテナイでアルコンだった時(74)、ローマ人はクィントゥス・ファビウス・ウィブラヌスとルキウス・コルネリウス・クリティヌスを執政官に選出した(75)。この年にアテナイ人とペロポネソス人はアテナイ人キモンの交渉によって五年間の休戦条約を締結した。
 シケリアではマザロス河畔の土地をめぐってエゲスタとリリュバイオンの人々の間で戦争が起こり、激しい戦いで双方の都市が大きな犠牲を払ったが、彼らの敵対心は収まらなかった。諸都市で〔亡命者の〕市民への編入と土地の再配分がなされた後、多数の人が無計画且つ行き当たりばったりに市民の名簿に追加されたため、諸都市は不衛生な状態になって再び市内の不和と無秩序に陥った。特にシュラクサイでこの悪弊が広がった。無分別で厚かましいテュンダリデスなる男が多くの貧者を自分のもとに集めて彼らを武装した一団に編成し始め、僭主制を樹立しようと試みてその下準備として彼らを私的な護衛にした。この後、彼が最高権力を握ろうとしていたことが明らかになり、裁判にかけられて死を宣告された。しかし彼が獄に繋がれると、彼が惜しみなく恩恵を施した者たちは彼の逮捕者たちに襲い掛かって捕まえた。都市は混乱に陥ったが、最も世間に認められていた市民たちは騒ぎに駆けつけて革命を起こそうとしている者たちを捕えてテュンダリデス共々処刑した。そしてこの種のことが何度も起きて僭主制をうち立てようと目論む者が現れ続けたため、人々はアテナイ人の真似をしてアテナイ人が陶片追放を定めた法に酷似した法を作った。
87 さて、アテナイ市民各々は陶器の破片に、同胞市民に対して最も僭主制を敷けそうな影響力がある者の名前を自らの意見で書く必要があった。しかしシュラクサイ人においては最も影響力のある市民はオリーブの葉に名前を書かれ、葉を数えた時に最も多い葉があった者は五年間亡命すべきことになっていた。こうすることによって彼らは二つの都市の最も勢力ある者の傲慢さをくじくことになろうと考えた。概して言えば、それらは法律の違反者に犯罪への罰を要求するものではなかったが、問題の人物の影響力と増長する権力を減少させることになった。さて、それが行われた方法から、アテナイ人はこの種の法律をオストラキスモスと読んだ一方で、シュラクサイ人はペタリスモスという名を使った。この法律はアテナイ人のうちで長らく効力を持っていたが、シュラクサイ人のうちでは以下のような理由ですぐに廃止された。影響力を持った人物の大部分が追放されたため、ほとんどの立派な市民たちと高潔な人柄の故に国家の事柄の多くの改革を行うだけの力を持つに至った人たちは公的な事柄に参加しようとはせず、その法への恐怖のために〔政治参加しないような〕私生活を絶えず続け、個人的な幸運に気を配って贅沢な生活を学ぶことに意を向けた。一方で最も卑しい市民たちと厚かましさにおいて勝っていた者たちは公的な事柄に参加して群集を混乱と革命へと鼓舞した。その結果、党派抗争が再び起こって民衆は争うようになったため、その都市は継続的で深刻な混乱に陥った。多くの民衆指導者とおべっか使いが台頭したおかげで若者たちの弁論と言葉の器用さが鍛えられ、多くの者は昔気質の分別のある生き方を浅ましい娯楽と交換した。富は平和のために増えたが、調和と誠実な振る舞いへの関心は少なかった。その結果シュラクサイ人は心変わりしてペタリスモスの法を廃止したわけで、それは短い期間しか用いられなかった。
 シケリアの情勢は以上のようなものであった。
88 リュシクラテスがアテナイでアルコンだった時(76)、ローマで選ばれた執政官はガイウス・ナウティウス・ルティルスとルキウス・ミヌキウス・カルティアヌスであった(77)。この年の間にアテナイの将軍ペリクレスはペロポネソス半島に上陸してシキュオン人の領地を荒らした。そしてシキュオン人が全軍で彼に向って来て戦いが起こると、ペリクレスが勝利して逃げたのと同じ位多くの敵兵を殺傷し、彼らを都市の中に閉じ込めて包囲に取り掛かった。しかし彼は城壁への強襲によってその都市を落とすことができず、さらにラケダイモン人が篭城軍へ援軍を送ったためにシキュオンから撤退した。次いで、彼はアカルナニアへと航行してオイニアダイ領を荒らし、多くの戦利品をせしめてアカルナニアを離れた。この後、彼はケロネソスに到着して一〇〇〇人の市民に土地を分配した。それらの出来事が起こっていた間、別の将軍トルミデスがエウボイア島へと向い、そことナクソス人の島を他の市民一〇〇〇人に分割した。
 シケリア島での出来事としては、テュレニア人が海で海賊行為を働いたためにシュラクサイ人はパウロスを提督に選んでテュレニアへと送った。彼はまずアイタレイアとして知られている島へと航行してそこを荒らしたが、密かにテュレニア人から賄賂を受け取って語るに値することをすることなくシケリアへと戻った。シュラクサイ人は彼を背信の罪ありと見なして追放し、別の将軍アペレスを選出してテュレニア人へと六〇隻の三段櫂船と共に差し向けた。彼はテュレニア沿岸を荒らし、次いでその時テュレニア人が有していたキュルノス島へと向かってこの島の多くの場所を略奪してアイタレイアを制圧した後、多くの捕虜と少なからぬその他の戦利品を携えてシュラクサイへと戻った。この後、シケロイ人の指導者ドゥケティオスはヒュブラを除く同族の全ての都市を糾合し、連合を組んだ。そして精力的な男だった彼は常に革新を企み、シケリア島での同盟から大軍を集めて彼の生まれ故郷のメナイ市へと移動させ、平野に植物を植えた。また、彼らがパリコイ神の聖域と呼ぶ地の近くに彼は重要な都市を建設し、ちょうど述べられたこの神々にならってパリケと名付けた。
89 我々はそれらの神々について述べたので、その神殿の古の信じられないような性質の事柄、言い換えれば「鉢」についての特異な現象について書き落とすべきではあるまい。この聖域は他の全てのものよりずっと古く、崇敬の念を寄せられ、多くの驚異が伝統的に記録されていると神話は述べている。全ての驚異のうち最初のものは大きさで優るもののない穴であるが、それらの穴には大嵐で水が言いえぬほどの深海から入り込み、強い火で熱せられて水を沸騰させる大鍋のような性質を持つに至った。今やその中に入った水は沸騰するほどの熱を持ったが、誰も敢えてそこに近づかなかったという事実のためにこのことは確実には知られていなかった。水の噴出が原因となったその現象への驚きはひとしおであったため、人々はその現象は神の力によるものだと信じた。水だけでなく硫黄の強い臭いも噴出し、噴出口は強く恐ろしい唸りを上げた。そしてこれよりもまださらに驚くべき事柄があって、それはその水は流れ出ず引きもせず、驚くべき高さまで吹き上がったその流れは力強い、という話である。このように神的な偉観が聖域を満たしたため、最も神聖な誓言がそこでなされ、不正な誓いをした者はすぐに天罰を受けた。かくして〔誓いを反故にした〕ある人々はその聖域を離れるや視力を失った。またこの神殿の神々への畏敬の念はひとしおであり、例えば要求を主張する人々が権勢家によって圧倒されでもすれば、その人の主張は、これらの神々の名にかけて行われた宣誓によって支えられた証言の事前審査に基づいたものとして裁定された。この聖域はしばらくの間神聖な場所として認められて残忍な主人の手に落ちた不運な奴隷たちへの大きな保護の源となった。というのも、もし彼らが主人から逃げてくれば主人は力づくで彼らを退去させる権能を持たず、そこで彼らは主人の危害から守られ続け、人間的な扱いを条件として双方が同意した誓約を行うならば〔奴隷は〕立ち退いた。歴史は奴隷にした誓約を反故した者の事例を一切記録しておらず、その神々に持たれていた畏敬の念のために誓いをした人たちは奴隷を信用するようになった。そしてその聖域は神に相応しい平地に広がっており、柱廊と他のあらゆる種類の広間で相応しく飾られていた。以上で我々が語ったことはこの主題に関して十分であるからして、我々の歴史叙述を中断していた地点へ話を戻そう。
90 ドゥケティオスはパリケを建設して強力な城壁で囲んだ後、近隣の土地を分配した。そしてこの都市は土地の肥沃さと殖民者の数のために間もなく発展することになった。しかしながら、長期間の繁栄は灰燼に帰され、我々の時代まで無人の野であり続けている。これに関しては我々は然るべき時に詳細の説明をするべきだろう。
 シケリアの情勢は以上のようなものであった。イタリアではクロトン人がシュバリスを滅ぼしてから五八年して一人のテッサリア人が残余のシュバリス人を集めてシュバリスを新たに建設した。その町はシュバリス川とクラティス川という二つの川に挟まれていた。そして移住者たちは肥沃な土地を持っていたためにすぐに財を成した。しかし彼らは僅かな年数しか都市を保持できず、再びシュバリスを追い出された。この出来事に関しては私は以下の巻において詳細な説明を行うつもりである。
91 アンティドトスがアテナイでアルコンだった時(78)、ローマ人はルキウス・ポストゥミウスとマルクス・ホラティウスを執政官に選出した(79)。この年の間、シケロイ人の指導的地位にあったドゥケティオスはアイトネ市を奪取して偽計をもってしてそこの指導者を殺し、次いで軍をアクラガス人の領地へと向けてアクラガス人の守備隊が駐留していたモテュオンの包囲に取り掛かった。アクラガス人とシュラクサイ人がその都市の救援にやってくると、彼は彼らと戦って勝利し、双方を陣営へと追い払った。しかし冬が来たために彼らは解散して母国へと戻った。シュラクサイ人は敗北の責任者であり、ドゥケティオスと密かによしみを通じていたボルコン将軍を裏切りの廉で処刑した。夏が始まると彼らは新しい将軍を任命し、ドゥケティオスを屈服させるべく強力な軍を授けた。この将軍は軍を動かしてノマイ近くに野営していたドゥケティオスのもとまでやってきた。激しい戦いが起こって双方で多くの者が倒れたが、やっとのことでシュラクサイ軍は優勢に立ってシケロイ軍を敗走させ、敗走の過程で多くの兵を殺した。戦いを生き延びた者の多くはシケロイ人の砦に難を逃れたが、少数の者はドゥケティオスと希望を分かち合うことを選んだ。それらのことが起こっていた間、アクラガス人はドゥケティオスと一緒に滞在していたシケロイ軍が保持していたモテュオンの砦に条件付降伏を強い、次いでアクラガス軍を既に勝利を得ていたシュラクサイ軍と合流させ、共同で陣を張った。ドゥケティオスはというと、敗北によって完全に粉砕され、兵の一部は脱走し、他の者が彼に対する陰謀を企むという有様だったために絶望のどん底にいた。
92 ついにドゥケティオスは残っていた友人たちが自分を捕えようとしているのを知ると、夜にこっそり脱出してシュラクサイへと向かうことで先手を打った。そしてシュラクサイ人のアゴラにまだ夜のうちに入った彼は祭壇に座ってその都市への嘆願者となり、自身の身柄と支配下に置いていた土地をシュラクサイ人に委ねた。多くの人が予期せぬ出来事に驚いてアゴラに殺到すると、行政官たちは集会を召集するよう呼びかけてドゥケティオスの処遇を話し合った。常々人々から支持を寄せられていた人たちは、彼を敵として罰して彼の愚挙に当然の罰を加えるよう提議した。しかしより公明正大だったり、年長だったりした市民たちはこの嘆願者を容赦して運命と神々の怒りへの考慮を示すべきであるという意見を申し出て述べた。 彼らが続けて言うには、人々はドゥケティオスではなく、シュラクサイ人がシュラクサイ人たるに相応しい行動をとらないことであると考えるべきである。度量の大きい人々に相応しい行いは嘆願者を放免することであって、運命の犠牲者を殺すことでも神々への復讐心を持ち続けることでもない、というわけである。人々は声を合わせて嘆願者の放免へと靡いた。したがってシュラクサイ人はドゥケティオスを罰から容赦して余生をコリントスで過ごすよう命じ、生活のための十分な手段を与えてその都市へと送った。
 我々は今アテナイ人キモン指導の下でのキュプロス遠征の直前の年にいるので、この巻の初めで示しておいた計画に則ってここで筆を置くことにしよう。




(1)紀元前480から451年までの期間。
(2)紀元前480/479年。
(3)紀元前486年。
(4)ガリアとヒスパニアを指す。
(5)ペルシア人には紀元前492年の遠征でペルシア艦隊がアトスの岬を回ろうとして難破したという苦い経験があった(N)。
(6)テッサリアのマリス(メリスとも)の住民(N)。
(7)キュアネイア岩壁は黒海の入り口、トリオピオンとスニオンはそれぞれカリアとアッティカの岬(N)。
(8)後者のスパルタ人はスパルタの完全市民、前者のラケダイモン人はそれ以外の住民も含めた名称。
(9)アトスの向こう側。
(10)既に領地がペルシア軍の手に落ちていたため。
(11)ゲロン(在位紀元前485-478年)の跡をその弟ヒエロン一世(在位紀元前478-467年)が襲った。そのまた弟のトラシュブロス(在位紀元前467-466年)が三代目の僭主の座についたが、市民の反乱に遭って権力を失った。トラシュブロスの失脚については一一巻六七、六八章を参照。
(12)「五〇リトラ」の意。リトラはシケリアで用いられた銀貨で、重さがドラクマの五分の一。
(13)紀元前479/478年。
(14)紀元前485年。
(15)紀元前478/477年。
(16)紀元前484年。
(17)スパルタの監督官のことであろうと推測されている(N)。
(18)紀元前477/476年。
(19)紀元前483年。
(20)紀元前476/475年。
(21)紀元前481年。
(22)紀元前475/474年。
(23)紀元前480年。
(24)紀元前474/473年。
(25)紀元前479年。
(26)紀元前473-/472年。
(27)紀元前478年。
(28)紀元前472/471年。
(29)紀元前477年。
(30)紀元前471/470年。
(31)紀元前476年。
(32)プルタルコスの記録する内容では、テミストクレスはヘレスポントスにかかる浮橋を破壊してペルシア軍の退路を断とうと提案したが、他の諸将の賛同が得られないでいると、クセルクセスに使者を送って他のギリシア人たちが浮橋の破壊を提案したが、ペルシア王のためを思ってテミストクレスが彼らを説得して止めさせたから早く帰国すべきであると伝えた。
(33)紀元前470/469年。
(34)紀元前475年。
(35)紀元前469/468年。
(36)紀元前474年。
(37)以下の出来事は正確には紀元前464年の出来事(N)。
(38)紀元前468/467年。
(39)紀元前473年。
(40)紀元前467/466年。
(41)紀元前472年。
(42)紀元前466/465年。
(43)紀元前471年。
(44)オルテュギア島。
(45)紀元前406年。
(46)迷いはしたが、ここでの「Tribunus」には「軍務官」をひとまずの訳として充てておく。別の表現では執政官権限付軍務官とも。この官職についてのあらましと歴史的な経緯は以下の通り。「執政官権限付軍務官(Tribuni militum cum consulari potestate)。紀元前445年にC・カヌレイウスが執政官職はどちらかの階級に限られるべきではないという法案を提出し(リウィウス. IV.1; ディオドロス, XI. 53)、貴族は、以前には執政官に結び付けられていた権限は今後は二つの新たな行政官、すなわち執政官権限付軍務官と監察官と分割されるという風に規約を変えることでこの試みを回避した。かくして紀元前444年に三人の執政官の権限を持った軍務官が任命され、この官職では平民が貴族と同じ資格であった(リウィウス. IV.7; ディオドロス, XI. 60)。しかし翌年に人々は元老院の提案を受けて選出されるのは古の慣習に通りに執政官でも、執政官権限付軍務官でも良いようにした。以降、長年にわたってある時には執政官が、またある時には執政官権限付軍務官が任命され、後者の数は三人から四人に変更され、紀元前405年までに六人に増員され、監督官が彼らの同僚と考えられているので我々はしばし八人の軍務官への言及を目にすることになる(リウィウス. IV.61, V.1; ディオドロス. XV.50; Liv. VI.27; ディオドロス. XV.51; Liv. VI.30)。しかし最終的に紀元前367年に軍務官の官職はリキニウス法によって廃止され、執政官職が復活した。執政官権限付軍務官は間違いなく執政官ほどきちんとした後援によらずにケントゥリア民会で選出されていた」(A Dictionary of Greek and Roman AntiquitiesのTribunusの項より抜粋)。
(47)紀元前465/464年。
(48)紀元前470年。
(49)紀元前464/463年。
(50)紀元前469年。
(51)紀元前463/462年。
(52)紀元前468年。
(53)生贄の儀式で殺して焼いかれた生贄の獣は儀式の後に参加者が食べる。
(54)紀元前462/461年。
(55)紀元前467年。
(56)紀元前461/460年。
(57)紀元前466年。
(58)カタネの元からいた市民。
(59)僭主や僭主が身辺警護のために置いた外国人傭兵と亡命者との戦いを指すのであろう。
(60)ヒエロンによって追い出されていた人々を指す。
(61)紀元前460/459年。
(62)紀元前465年。
(63)紀元前459/458年。
(64)紀元前464年。
(65)紀元前458/457年。
(66)紀元前463年。
(67)紀元前457/456年。
(68)紀元前462年。
(69)前章でアテナイ・アルゴス連合軍と戦った軍。
(70)紀元前456/455年。
(71)紀元前461年。
(72)紀元前455/454年。
(73)紀元前460年。
(74)紀元前454/453年。
(75)紀元前459年。
(76)紀元前453/452年。
(77)紀元前458年。
(78)紀元前451/450年。
(79)紀元前457年。




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