九節 セナ・ガリカの海戦(五五一年)

 今になって全力を挙げてイタリアでの東ゴート勢力の壊滅がなされようとしているのだとトティラは悟った。ナルセスの任用にはゲルマヌスの任用にほぼ劣らない意義があった。彼は彼の支配に対するイタリア人の支持の重要性を常々理解しており、今やローマ人に取り入るためにローマの緊急な再建を進めた。トティラの目下の軍事的目標は未だ帝国の手に残っていた二つの価値ある場所、すなわちアンコナとクロトンの占領であった。五五一年の秋、我々がすでに見たように彼の軍はアンコナ包囲を行っていたが、おそらくクロトンにはまだ軍を送っていなかった。同時に彼は艦隊を建造した。三〇〇隻の軍船がギリシア沿岸へと航行した。富裕なコルキュラ島、本土ではニコポリス、アンキアロス、そしてドドナ周辺の諸地方が略奪を受けた。ナルセス軍へと物資を送る輸送船が取り押さえられて拿捕された。
 アンコナの守備隊は陸海の封鎖を受けて窮地に立たされた。四七隻のゴート軍船が海路でのそこへの補給を妨げた。ラヴェンナに配置されており、救出に送るには不十分な戦力しかなかったウァレリアヌス将軍はサロナのヨハネスに状況の重大さを知らせる緊急の手紙を書いた。ヨハネスは即座に三八隻の軍船に熟練した兵士を乗せ、ダルマティア沿岸の上方にあるスカルドナで彼らはウァレリアヌスと一緒にラヴェンナから渡ってきた一二隻以上の船団と合流した。二人の将軍と彼らの艦隊はアンコナとは海路でおよそ一七マイルの距離のセナ・ガリカへと航行した。二つの艦隊は戦力でほとんど互角であり、ゴート軍の指揮官インドゥルフとギバルはすぐに海戦の危険を冒そうと決めてセナへと航行していった。
 戦いは陸戦でのように弓兵によって開始され、次いで艦船の一部が互いに接近して乗組員が剣と槍で戦った。しかしゴート軍には大きな不利があった。彼らは船の操縦ではギリシア人の生来の才覚を持っておらず、海戦の作戦の訓練が全く足りていなかった。彼らは戦いの興奮の中で船と船の間で適度な距離を保つことができなくなった。その一部は隣の船とあまりにも離れすぎて敵に沈められたが、大部分は余りにも近づきすぎて動きが取れなくなった。一方、その敵側は完全な体形を維持し、ゴート軍の失敗の全てに対して冷静に優位に立ち、最終的に疲弊して不自由になったゴート艦隊は戦いと逃避を諦めた。三六隻のゴート船が沈められてギバルは捕えられた。インドゥルフは一一隻の船と共に逃げ、上陸するやすぐに彼はそれらを焼き払ってアンコナの陣営に到着した。勝利した艦隊が到着すると、彼らは敵が陣を捨ててアウクシムムへと逃げ込んだのを見て取った。この圧勝はアンコナの安全を意味する以上にゴート族の勢力と声望への重い打撃となった。
 この後すぐシチリアに到着したアルタバネスはゴート軍が占領した四つの要塞を取り戻した。流れは明確に転換したかのようで、ゴート族は自分たちの状況の変化を痛いほどに自覚していた。彼らはもし強力な敵が来れば持ち堪えることができなくなるだろうと感じた。さらにトティラはコンスタンティノープルに講和を提案すべく使節を送り、シチリアとダルマティアへの要求を取り下げ、それらの諸州の中の借用地ではない私有地に法的義務をある分の税を支払うと申し出た。しかし皇帝は使節の嘆願に耳を貸さず拒絶した。彼は東ゴート族から余りにも苦しめられていたため、ローマ世界の地図から彼らの名を消し去ろうと決意していたのだ。
 おそらく非常に多くの犠牲を通してトティラによってさらに一つの成功がなされた。彼は一艦隊をコルシカとサルディニアへとローマ軍守備隊を破るのに十分な戦力と共に送った。その島々はアフリカ州に属していたため、アフリカの軍司令官ヨハネス〔・トログリタ〕によってそれらの防衛は進められ、彼はサルディニアに軍を送った(五五一年秋)。カリアリの近くでローマ軍は敗れ、春により強力な戦力で戻ってくるべくカルタゴへと戻った。トティラがその島々の占領によって得た声望は何であれほとんどイタリアの戦闘員の数の減少による不利とは釣り合っておらず、あらゆる男がナルセスの軍による来たるべき戦いのために必要とされていた。
 その春の間にクロトンはそこを封鎖していたゴート軍に窮地に立たされていた。速やかに救援に赴かなければ陥落は不可避だと知った皇帝がテルモピュライに配置されていた部隊にすぐに乗船してそちらへと航行するよう命じるまでその救援に赴く者はいなかった。援軍の港への出現だけで包囲軍は恐怖し、大急ぎで陣を畳んで逃げた。この無血の勝利の結果、タレントゥムとアケロンティアのゴート軍守備隊の指揮官が自らの安全が確保されるという条件でのそれらの場所の引き渡しを申し出た。彼らの提案は皇帝に宛てられたものだった。




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