戦争遂行計画は総司令官の死によって狂わせられ、しばらくの間ユスティニアヌスは代わりの人物を任命しなかった。しかしその一方でイリュリクム軍司令官で、義父ゲルマヌスの下で働くことになっていたウィタリアヌスの甥ヨハネスは義理の兄弟ユスティニアヌスと共にイタリアへと軍を率いて向うよう取り決められていた。ヨハネスは自らが有能な軍人であることをすでに証明しており、もし彼とベリサリウスが協調して作戦を行うことができれば、戦争の期間はぐっと短縮されていたことだろう。彼は他の将軍たちを服従させるのに必要な声望を持っていないと感じられたために彼は総司令の権限を委ねられていなかった。 ダルマティアに兵が集められた時にはその年も終わりになっており、すぐにヴェネツィアに進軍するよりもそこで越冬するのがより良いだろうと思われた。サロナには軍がアドリア海を越えられるだけの十分な船がなかった。 一方トティラはシチリアで復讐に興じていた。彼がシラクサを包囲していた時にリベリウスが到着し、リベリウスは自分には市を救援するほどの力はないと悟るとパノルムスへと航行していった。すでに見たようにリベリウスに代わって任命されていたアルタバネスは既に途上にあったが、彼の船団は嵐によってカラブリア沿岸を離れてギリシアへと漂流して戻られていた。ゴート軍は四つの要塞、おそらくは重要性では二次的な地点の占領にしか成功せず、そこに守備隊を置いて何カ月も島で過ごし、イタリアへと戦利品と物資を携えて戻った。 この年(五五〇年)の夏と秋の間、トティラがシチリアに出払っていることは積極的な司令官にとっては好機であったにもかかわらず、イタリアにいた帝国の将軍たちは動かなかった。それから皇帝がアルメニア人の宦官ナルセスを総司令官に任命したという知らせが届いた。その任用は例外なく歓迎された。寝室管理長官ナルセスはユスティニアヌスの宮廷で最も人気がある大臣の一人とみなされていた。彼は気前の良さで評判で、敵を作らず、彼の行動を見守る聖母自身が戦いに際しては好機を教えると信じられるほど敬虔さで評判だった。覚えているだろうが彼はヨハネスの友人であり、リミニ救援のためにベリサリウスに同行し、ヨハネスの一途な協力に関してナルセスは確信を持っていた。我々の推測であるが、彼の任用は相当にこの事実のおかげであったろう。ナルセスには司令官の素質があったが、軍事経験はなく、ヨハネスの助言がこの弱点を補った。 ヨハネスはサロナに新しい総司令官が到着するまで待機するよう命じられていたが、ナルセスはコトリグル・フン族の侵入のためにフィリッポポリスで旅程が遅れ、彼がダルマティアに到着したのはおそらく五五一年の後半であった。 それまでの四年間は運命がゴート族に味方していたのは確実だった。五四七年に帝国軍は中央イタリアではラヴェンナ、アンコナ、アリミヌム、スポレティウム、ペルシア、ポルトゥスとローマそのもの、ケントゥムケラエを、南部ではターラント、ブルッティイ州、そしてシチリアを領していた。五五一年に彼らが本土に保持していた重要地点はラヴェンナ、アンコナ、オトラント、そしてクロトンだけであり、一方でシチリアに彼らは四つの砦を保持していた。トティラはシチリアから戻るとアンコナを包囲すべく軍を送った。勝利の潮流が今や移り変わろうとしていた。 トティラは〔ポー川以北を〕獲得した後にポー川を渡って以来、戦争は主にその川の南岸で行われており、イタリア北部が呈していた状況は曖昧なものであった。第三勢力の介入によって状況は複雑になった。東ゴート族の全軍が南部での戦いに必要になったため、フランク族はイタリアへと軍を展開する好機を得た。戦争の推移を注目しながら追っていたテオデベルトはコッティア・アルプス州、リグリアの一部、そしてヴェネツィアの大部分を占領した。ゴート族が未だ維持していた重要都市はヴェローナとティキヌムだけだった。しばらくした後、フランク族とゴート族の間で協定が結ばれ、それによってトティラは既に奪われていた領地のフランク族による暫定的な占有を黙認し、戦争がゴート族の勝利で終わった場合に新たな永続的協定を結ぶことで両国は同意した。遠大な計画をテオデベルトは持っていた。彼はフランク族と彼らの臣下であったアラマンニ族が服属し、帝国の封臣であるということを含意していたユスティニアヌスの「フランキクス」と「アラマンニクス」の称号の装いに憤慨し、胸像と名前がついた金貨を発行して形式的な独立を表した。彼は商業上の観点からは危険であったこの刷新を敢行した最初のゲルマン人王であった。彼はランゴバルド族、ゲピド族と他の諸族のゲルマン諸族を糾合してイリュリア地方を踏破してコンスタンティノープルそのものを攻撃する計画を立てたと言われた。 我々のもとにはこの時代のフランク族のイタリア征服を記録した外交文書がある。皇帝はテオデベルトに彼の支配領域の拡大についての情報を求める手紙を書き、テオデベルトのそれに対する応答が残っており、その中で彼は彼が服属させた地方のうちパンノニアとイタリア北部を列挙した。 五四七年のローマ占領とその放棄の後、トティラは名前の分かっていないメロヴィング王の娘の一人に求婚したが、我々はそれはテオデベルトであると推測している。未だトティラはイタリアの制圧に成功していなかったためにその申し出は拒絶され、彼は重要な都をその手から滑り落して愚かさをさらけ出したと見て取られていた。この批判で東ゴート族はローマの重要性に目を開かせられた。翌年にテオデベルトが死んで息子のテオデバルドが後を襲った。ユスティニアヌスは彼に父の北イタリア侵入を非難し、諸都市の引き渡し、テオデベルトの約束の履行とイタリア戦争にあたっての共同作戦を求める使節を送った。テオデバルドは速やかにコンスタンティノープルに使節を送った。交渉の帰趨は分かっていないが、フランク族はイタリアを保持した。 |