七節 計画されたゲルマヌスの遠征(五四九-五五〇年)

 ヒュドルントゥム、レギウム、タレントゥム、そしてクロトンといったイタリア南岸の重要地点のほとんどは未だ帝国の手にあった。ゴート軍は今やレギウムを包囲し、タレントゥムを占領した。レギウムが落ちるのを待たずトティラはメッシーナへと渡ったが、落とすことができなかった。しかし最終的に彼は胸中の最も重要な望みの一つを満たし、一五年前にベリサリウスを迎えたシチリア人への復讐を果たすことができた。彼の軍は無抵抗の島を荒らし回った。一方で物資が欠乏してきたレギウムは降伏した。
 それら驚異的な成功の知らせがコンスタンティノープルに与えた印象は最近のローマの占領以上だった。皇帝は以前の計画に立ち返ってゲルマヌスを総司令官として西方に送った。しかしゲルマヌスは戦争に決着をつけられるほど強力な軍を集め終わるまでは仕事を始めることができず、その一方でリベリウスがシチリア防衛のために送られた。あまりにも年を取りすぎ、無経験だったことが認識されるようになるより前に彼はほぼ出航せず、トラキア軍司令官に任命されたアルタバネスが彼と挿げ替えられるために送られた。
 さて、ゲルマヌスは帝位の有望な後継者と見なされていた。テオドラの死は皇帝がゲルマヌスの主張を支持するのを押さえていた反対派の影響力を取り除いた。彼はストツァスのムーア人反乱の鎮圧によって既に名声を確立しており、イタリアを回復してベリサリウスが失敗した状況を引き継ぐことで名声を高めようという野心を抱いた。家名が関係していたために皇帝はイタリアでの戦争遂行で以前に出していたほどけちけちすることなく金を投下する支度をした。ゲルマヌスはかなりの私有資産を持っており、それを兵を集めるために充てるのを躊躇わなかった。任務のための挙兵は軍を率いる司令官の職掌になった国境の防衛と無関係ではなかった。トラキアに配置されていたいくつかの騎兵部隊を割くことができたが、東方の常備軍は撤退させることができなかった。ゲルマヌスはユスティヌスとユスティニアヌスという息子たちと共にトラキアとイリュリクムの山岳地帯で義勇兵の徴募に勤しみ、ドナウ川沿岸地帯から蛮族部隊が彼の軍旗に参じた。ランゴバルド族の王は一〇〇〇人の重装備の戦士を約束した。多くの将軍の私的従者が声望で劣っていた主人のもとを去ってゲルマヌスの任務へと参じた。
 しかしゲルマヌスの計画には精力的な軍事的攻勢のための準備に加え、彼が理に適った理由でもって考え出した精神的な攻勢と呼ばれうるものも含んでいた。彼はゴート式の婚約をした。彼は王妃マタスンタを二人目の妻とした。意に反してウィティギスの配偶者となったために彼女は一旦ゴート族の女王となっていたが、テオデリック王の孫娘でありアタラリック王の姉妹としての彼女は彼らの忠誠と愛着を受けるにあたっては最強の資格を持っていた。もし彼女の母がローマ文明式に彼女を育てていれば、彼女は最も純粋なアマル王家の人物となっていたでろうし、ゲルマヌスが彼女を伴いつつの彼女の夫として到来すれば、おそらく多くのゴート族のトティラへの忠誠を損じるという結果になっていたことだろうし、あるいは少なくとも彼らの心を困惑させて彼らの軍事的勢力を減じることになるだろうと希望に彼は自信を持っていた。ゴート族は、自分たちが戦うのは単なるギリシア人ではなく、最も偉大な王の孫娘になると感じたことだろう。そして彼らはゲルマヌスがユスティニアヌスの死後に帝位を継承する予定になっている以上はマタスンタが今に皇妃になると考えたことだろう。
 結婚の知らせがイタリアに着くと予想された通りの効果を生んだようである。多くのゴート族は抵抗を続けることの是非について自問し始めた。そして戦争終結へ向けた帝国の準備についての報告が到着すると、ローマ側で働くのをやめてトティラの下で働いていた兵士は誘惑された。彼らはゲルマヌスがイタリアに上陸すればすぐに手紙を送って寝返り、彼らが見捨てた軍旗の下で再び戦ったことだろう。ケントゥムケラエを指定された日に引き渡すことに同意していたディオゲネスはゲルマヌスの到来のおかげで約定から免除されることになったと宣言した。
 しかしゲルマヌスは来なかった。彼はサルディカにおり、軍の準備は万端だった。時は五五〇年の秋。あと二日で出発すると宣言した時、彼は突如病に倒れ、その病は致命的であることが明らかになった。それは特にイタリア人とゴート族のイタリアでの世論を動揺させていた希望が消滅したことを意味する。




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