ベリサリウスが出発した後の夏、ゴート王はローマの城壁の前に三度目にして姿を現した。彼は占領を決めたが、そこを破壊するという一度目の包囲の時に彼を動かしていた考えを完全に放棄していた。彼は帝国の将軍の手紙を気にとめていたし、ことによれば他の考えがこれを補強していたのかもしれない。彼はテオデリックとアラリックが悟ったようにローマの意味を悟っていた。 守備隊は勇敢で、指揮官のディオゲネスは来たる包囲戦への備えを怠っていなかった。今は守備隊の他に非常に少ない人口しかいなかったため、市にあった広大な荒れ地には穀物が植えられた。城壁を強襲するゴート軍の度重なる試みは守備兵の勇気によって失敗し、トティラは封鎖が長期化するという見通しを甘受することにした。新しい総司令官が指揮する解放軍が東から到着したのかどうかは確実ではないが、彼はポルトゥスを占領していたため、封鎖にあたっては三年前よりはましな状態だった。 封鎖は長期にわたったが、最終的に市は彼の手に落ちた。前の占領での状況が繰り返された。イサウリア兵の裏切りで再びローマはゴート軍の手に落ちた。市の南側、ポルタ・オスティエンシス――使徒パウロ教会からの現代の名称で既に知られている――を監視していた数人のイサウリア兵は年俸を受け取っていなかったために不満を持っており、トティラが同郷人に与えた多額の褒賞を思い出して門を開けることを申し出た。事前に決められた夜にテベレ川、おそらくポルタ・フラミニアの北に船が浮かべられた。彼らは船を漕いでできるだけ市に近づき、次いでそこに上陸したラッパ手が大きな音を鳴らした。警報が発せられて守備隊全隊が危機が迫る北西部分の城壁の防衛へと向った。その一方でゴート軍が聖パウロ門の正面に即座に集まった。イサウリア兵はその鍵をかけておらず、軍は中に入った(550年1月16日)。 逃亡に成功した守備隊の一部がローマの近隣で唯一皇帝軍の手に残っていた要塞であったケントゥムケラエに向かうと予測するのは簡単で、トティラは一部の部隊を西の道に配置して逃亡兵を取り押さえようとした。その用心は効果的なものであり、ディオゲネスを含む僅かな者しか待ち伏せを逃れられなかった。ローマ自体では大殺戮が起こったが、ベリサリウスの従者団に属していてディオゲネスの右腕だったパウルス率いる四〇〇騎の騎兵部隊がハドリアヌスの霊廟とアエリアヌス橋を占拠していた。ここで彼らは二日間持ち堪えた。飢餓によって彼らは投降するだろうと予想したトティラは東岸に兵を置き続けた。彼らは馬を食べようと考えたが、慣れない食料を食べる気にはなれなかった。二日目の夜に彼らは英雄的な死へと踏み切り、敵に突撃して討死しようと決定した。彼らは互いに抱き合って最後の別れを告げ、突撃の準備をした。彼らを見たトティラは彼らの心意気を見抜いた。彼は死に臨む決死の兵たちを相手にすれば軍では多くの死者が出ることを知っていた。したがって彼は、もし彼らが武器を置いてゴート軍とはもう戦わないという誓いを立てればコンスタンティノープルまで彼らが無事に出発するのを許すつもりであり、あるいは彼らが自分のために戦うならばゴート族と同等の待遇をすると申し出る使者を送った。その申し出は快く受け入れられた。最初は全員が帰国を選んだが、考え直して心変わりした。彼らは馬も武器もなしに長旅をすることはできず、その危険を恐れていたし、もし敵の側に身を投じることを躊躇しても、帝国の国庫は数年間の給与を出すまいと彼らは思い出したことだろう。パウルスともう一人だけが蛮族の誘惑に抵抗してビュザンティウムへと戻った。 トティラはもはやローマを破壊したりそこを無防備なままにしようとは考えなかった。彼の立場は三年前よりもずっと強く、彼は世界の目に帝国の都を領有する名誉を示すことにした。今や彼はそこを再建して人を再び住まわせることにした。彼はまだカンパニアの要塞で監視下にあった元老院議員と他のローマ人に手紙を送った。 彼はシチリアに戦争の舞台を移そうと計画していたが、まずは先のローマ占領の後にしたように新たな和平を提案した。この際、彼の使節はベリサリウスの後を襲う新たな総司令官を丁度任命したところの皇帝への謁見を許されなかった。皇帝は戦争の遂行を甥のゲルマヌスに委ねようと考えていたが心変わりし、四〇年前にテオダハドの使節として彼のところに来たローマの元老院議員だったリベリウスをまだ任にあったために選んだ。オドアケルとテオデリックの下で文官としての能力で働いてきたリベリウスは軍事的経験がなく、今や八〇代だったためにこれは興味深い任用である。彼の任命の根拠はイタリア人としての彼がイタリア人の信頼を喚起するだろうというものだったに違いない。 一方トティラは次なる遠征の準備をした。彼は最近敵から鹵獲した四〇〇隻の軍船といくつかの商船から成る艦隊を陸軍をシチリア海峡を越えさせるために集めた。おそらくは五月の終わり頃にマクシムス競技場での戦車競走を主催し、彼はローマを去った。南進の前に彼は今やディオゲネスの指揮下にあったケントゥムケラエを落とそうと期待して転進した。この勇敢な将官はコンスタンティノープルと連絡がつくまで降伏を拒んだが、指定した日までに援軍が着かなければゴート軍に市を明け渡すことに同意した。トティラは同意して人質交換がなされ、ゴート軍はレギウムに進軍しておそらく五月初頭に到着した。 |