5節 ローマ再占領、ロッサーノ包囲、そしてベリサリウスの解任(547-549年)

 ベリサリウスを監視して彼がポルトゥスを発つのを邪魔するため、ローマから西へおよそ一八マイルのアルゲドンと呼ばれる場所にゴート軍の大部分が残された。残りの軍を率いてトティラは南進し、ヨハネスが塹壕を掘って固めていたオトラントとターラントを除くルカニア、アプリア、そしてカラブリアをすぐに回復した。次いで四〇〇人の分遣隊をアプリアとルカニアの境界にあるアケロンティアの丘の町に残し、彼は北進した。彼の計画は歴史家がほのめかしているようにラヴェンナを奇襲するというものだったのか、それとも皇帝軍の最近の成功によって脅かされていたフラミニア街道の支配権を再建するというものだったのだろうか? 彼らはスポレティウムを回復した。
 しかしローマからの深刻な知らせによって彼はその目的を延期させられた。彼はローマを無人なままにして城壁を部分的に破壊し、全ての門を取り払っていた。今や健康を回復したベリサリウスはこの寂れた町へと赴いてそこを占領し、防衛状態に置くことを決定した。その計画は正気の沙汰ではなかったが実行された。彼はポルトゥスからローマへ軍を移動させ、そこには豊かな市場を設えることができるようになってもはやシチリアからの食糧輸送の邪魔はなくなった。その市場は周辺地域の人々を引きつけて彼らはそこへ来て放棄された家に住むようになり、漆喰がなかったにもかかわらず四週間もかからずにゴート軍が破壊した城壁の一部が大体再建された。しかし大工がいなかったために新しい門はすぐにはできず、門のない要塞の前に現れたトティラは簡単にこれを占領できるだろうと踏んだ。ベリサリウスは入り口に勇気で際立っていた兵士を置いた。二日間をゴート軍は無益な攻撃に費やして大損害を出したが、門を抜くことはできなかった。負傷者を治療して武器を修理した数日の中断の後に彼らは攻撃を再開した。トティラの旗手が致命傷を負い、この遺体をめぐって激しい戦いが起こった。ゴート軍は軍旗を取り戻したが、間もなく全軍が算を乱して退却した。彼らは散り散りになるやすぐに勝者によってかなりの距離の追撃を受けた。その時はローマは守り抜かれた。ベリサリウスは新たな門を作って皇帝にその鍵を送った。
 これでトティラは初めて待ったをかけられるという経験をした。彼が戦いに勝利して諸都市を占領していた時には彼の仲間たちは彼を神のように思っていたが、今や敗れると彼が成し遂げた全てのことを忘れて過剰な批判をした。貴族たちは敵がローマを占領できるままにしてローマを去ったという大失敗をあげつらい、彼は完全にそこを破壊したり自らそこに陣取るかすべきであったと彼を厳しく非難した。しかしおおっぴらな不平にもかかわらず革命は考えられなかった。ミルウィウス橋を除くティベル川にかかる橋を破壊し、トティラは基地を設営して司令部を置いたティブールへと撤退した。
 夏の間に彼はペルシアの包囲に向かったが、そこでゴート兵がかつてより封鎖しており、今は食料の欠乏のために疲弊しきっていた〔第三章の末尾を参照〕。しかし彼の注意はすぐに南方へと転じられ、そこが冬期の戦争の主な作戦行動の舞台となった。彼はローマ占領後に連行した元老院議員とその家族をンパニアで埋葬した。アケロンティアを包囲していたヨハネス将軍はトティラが未だ北部に忙殺されている間に彼ら〔ペルシアのローマ兵〕を救出することを決定した。迅速に向かった彼はカプアでゴート族の騎兵隊を破り、シチリアの安全地帯に海路で即座に多くのローマ人捕虜を成功裏に届けた。トティラはその捕虜をこの先役に立つであろう人質として考えていたためにこれはトティラへの打撃となり、彼は急ぎ、そして密かにペルシアから、ヨハネスが一〇〇〇人の兵を連れて野営していたルカニアまで進撃した。それは完全な奇襲となり、彼は十対一で数で勝っていたために夜に野営地を攻撃するというへまをしなければ、敵は僅かしか逃げられなかっただろう。しかしヨハネスを含む約九〇〇人が夜陰に乗じて逃げおおせ、一〇〇人が殺された。捕虜は非常に少なかった。彼らの中にアルメニア人の将軍ギラクがおり、彼は自身の母語しか知らず、知っているギリシア語は「将軍」の意のストラテゴスだけだった。彼の捕獲者が彼から引き出した唯一明らかな答えはストラテゴス、ギラキオスだけであった。彼らは数日後に殺された。
 カラブリア保持の重要性はヨハネスによって実証され、ベリサリウスはその年(五四七年)の終わりまでの春の主作戦はその地方でのものになるだろうと予測した。ユスティニアヌスは彼の訴えに説得され、冬の初めに二〇〇〇人以上の援軍を送った。年の始めにベリサリウスはコノンにローマを任せて九〇〇人の兵とを連れてシチリアへと航行した。ブルッティイの東岸を進んだ彼は強い北風によって船旅を妨げられ、目指していたタレントゥムに向かう代わりに城壁がない町であったクロトンに上陸した。近隣は彼の軍に物資を提供できなかったため、隘路で騎兵が敵と会えば撃退できるだろうと予測して彼は略奪のために騎兵を北の山々へと送り出した。そこでトティラは軍を率いてヨハネスが守備隊を置いていたルスキアヌム――現代のロッサーノ――の丘の町の奪取へと転進した。数の不均等は甚だしく、少数の騎兵部隊がゴート軍の大軍に大勝し、ゴート軍は二〇〇人以上が倒れた。しかしゴート軍は素早い反撃を行った。ローマ軍は勝利で気が大きくなって夜景を怠って一か所に天幕を張らなかったため、トティラは彼らを奇襲してほとんど皆殺しにすることができた。その知らせを聞くとベリサリウス、彼の妻、そして歩兵は船に飛び乗って一日でメッシーナに到着した。トティラはロッサーノを包囲した(おそらく5月)。
 すぐ後におよそ二〇〇〇人の援軍の知らせが東からシチリアに届いた。トティラほどの資質を持った指導者に対してはさらに多くの軍が必要だった。ベリサリウスは戦争で疲れ果てており、局地的な成功を得てもそれらを十全に生かすほどの十分な戦力がなかった。そして彼はアントニナをコンスタンティノープルに返して皇后に彼女の全ての影響力を行使して状況が求めるだけの軍を送ってくれるよう請願することを決めた。彼らはオトラントへと共に向かい、後にテオドラが死んだと聞き知ることになったために無益さを証明されることになる旅へとそこから出発した。
 食料が逼迫していたロッサーノの守備隊は、期待していたベリサリウスからの救援が来なければ安全な退去を許すという条件で指定した日に降伏するとトティラと約束した。守備隊の指揮官はフン族のカラザルとトラキア人のグディラスだった。ベリサリウスとヨハネスの救援を送る試みは挫かれ、そこで彼らはどこか別の場所に注意を逸らすことでトティラに包囲を放棄させる計画を思い付いた。ベリサリウスはローマへと航行し、ヨハネスはウァレリアヌス――六ヶ月前にイタリアに送られた将軍――と共に敵軍が包囲していたピケヌムの要塞を救援するべく出発した。しかしトティラはブルッティイの要塞の占領に傾注し、ヨハネスの背後に二〇〇〇騎の騎兵を派遣するだけで甘んじた。
 ロッサーノの守備隊は救援が近づいていると信じて約束を守らず、指定された日が過ぎた。そして最早望みはないと知ると、彼らはトティラの慈悲に自らを投げ出した。彼はカラザルを除く全員を許し、手足を切断されて殺されるという恥辱を被った。自発的にゴート族の臣下になった兵士はその場にとどまり、残りの者は財産を奪われてクロトンへと向かった。
 ローマはベリサリウスの存在を必要としていた。少し前に守備隊が暴動を起こして彼らの指揮官であったコノンを殺していた。次いで彼らは条件が受け入れられなければゴート族に都市を明け渡すと脅しつつ、この殺人の全面的な容認と未払い給料の支払いを求めるべくコンスタンティノープルに数人の聖職者を送った。皇帝はそれを受け入れた。それからベリサリウスが到着した。その都市は再び包囲された場合のために十分な物資の蓄えが提供されたと見なした彼はおそらくを守備隊を取り去った。五四九年の初頭についに彼はイタリアを去り、ローマには彼の従者の一人でその知性と軍事的能力を信頼していたディオゲネス指揮下の三〇〇〇人の選り抜きの部隊が陣取った。
 アントニナは難なく夫の解任させた。テオドラの死はゲルマヌスに与していた党派の優勢を意味し、ベリサリウスの敵対者と批判者は今や影響力を行使できるようになった。この偉大な将軍が五年の間に何を成し遂げたのか? 彼は単にイタリア沿岸をうろつき、要塞へと避難した時以外は何の危険も冒さなかった。彼と戦うことほどトティラが望んだことはなかったが、彼は戦おうとしなかった。彼はローマを失い、あらゆるものを失った。彼はウィティギスのような凡将は打ち破れただろうが、トティラのような非常な才覚を持ち、不屈の活力を持った敵と事を構えるのは難しい話だった。ベリサリウスは自分の失敗の情状酌量について述べる資格があっただろうが、大まかな事実は彼が失敗をしたというものであった。自分の名声を取り戻すことができる援軍を受け取る見込みがないと知ると、彼は喜んでイタリアに別れを告げた。
 彼の出発の直後、四年間の包囲戦の後にペルシアが落ちた。




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