2節 トティラの最初の成功(541-543年)

 エラリックの使節団は彼の暗殺の報とトティラの継承の知らせが到着した時には未だコンスタンティノープルにいたようである。ユスティニアヌスはエラリックの無能のために優位に立ったであろう彼の将軍たちの無関心な行動に憤慨し、彼の怒りの籠った手紙のおかげで最終的に彼らは共同作戦の計画を練ることになった。彼らはラヴェンナに集まってコンスタンティアヌスとアレクサンデルが一二〇〇〇人の兵を率いてヴェローナへ進軍することを決定した。ゴート族の見張りの一人が門を開けるよう買収されており、軍が市に近づくとアルメニア人アルタバゼスに率いられた精鋭部隊が夜のうちに入って市を占拠するべく送られた。アルタバゼスは役目を果たし、指揮官たちが期待される戦利品の分配に関する言い争いで夜を空費していなければヴェローナは占領されていただろう。結局、彼らが到着した時にはアルタバゼスの小部隊は逃げる他なくなり、城壁から飛び降りるはめになって落下でほとんどが死んだ。
 軍はポー川を渡ってファウェンティア近くのラモーネの小川の畔に野営した。 トティラは彼らに向けて五〇〇〇人の兵の先頭に立って進み、続いて起こった戦いで素晴らしい勝利を得て帝国軍の軍旗を手中に収めた。ヴェローナとファウェンティアは指揮権分割の悪弊を示した。
 トティラはこの成功に元気付けられてトスカナに攻勢をかけた。彼はフィレンツェに一部隊を送り、そこでは三年前に同地を占領したユスティヌスが指揮を執っていた。ヨハネス、ベサス、そしてキュプリアヌスはその救出のために急いで向かい、彼らの優勢な軍が現れるとゴート軍は包囲を解いてシエーヴェの谷へと動いた。この場所はムケリウムとして知られており、その名前はムジェロとして残っている。ローマ軍は彼らを追跡し、ヨハネスが選り抜きの部隊を連れて敵と戦うべく突撃した一方で残りの部隊はゆっくりと後に続いた。丘を占領していたゴート軍はヨハネス隊に襲いかかった。激戦が起こってヨハネスが死んだという誤報が広がり、ローマ軍は戦闘隊列になっていなかった本隊まで退却して簡単に恐慌状態に陥った。全軍が不名誉にも逃走し、ゴート軍は勢いに乗って追撃した。捕虜はトティラによって良い扱いを受け、彼らの軍旗の下で働くよう誘導された。敗将たちはさらなる共同作戦の考えの全てを捨て、ベサスはスポレティウムへ、キュプリアヌスはペルシアへ、ヨハネスはローマへと急いで退却した。
 しかしムジェロの勝利はトスカナの変節を招かず、ユスティヌスはフィレンツェを安全に確保した。トティラはウンブリアのいくつかの場所――チェゼーナとペトラ・ペルトゥサ――を占領したが、それからは彼の小規模な軍では歯が立たない帝国軍が強力な諸都市に集中していたイタリア中部の征服を着実に進める代わりに、半島南部に方向転換することを決定した。そこで彼の武器の成功は迅速且つ広範だった。ローマを避けた彼はベネウェントゥムへと進撃して易々と制圧し、城壁を破壊した。ルカニアとブルッティイ、アプリア、そしてカラブリアの諸州は彼の権威を認め、帝国兵の要求を満たしたのとは別に長らく滞納していた税を払った。一方でトティラはコノンが一〇〇〇人のイサウリア人守備隊と共に籠るナポリの包囲に取り掛かった。彼はかなりの財宝をクマエおよび近隣の他の砦に集め、それらの場所で見つけたローマの元老院議員に自由を許し、夫人と娘を丁寧に扱ったため好印象を得た。これはしばしば敵が予想して構えた以上に丁寧な扱いによって彼がイタリアでの共感を勝ち得ることになった施策の一例であり、我々は後に他の例に遭うだろう。
 ゴート勢力の回復とナポリの危機の知らせを皇帝は案じ、彼はその危機に対していくつかの手を講じたが、それらは全く十分ではなかった。経験豊富な将軍に最高指揮権を委ねる代わりに彼は文官のマクシミヌスをイタリアの道長官に任命して戦争遂行にあたっての全般的な監督の権限を与え、彼と共にトラキア人とアルメニア人の部隊及び少数のフン族部隊を送った。皇帝が選ぶことができたなかでも最悪の選択者の一人だったマクシミヌスはエピルスへと航行して何をするのかを決めることができないままそこで過ごした。すぐ後に以前ベリサリウスの下で働いていた将官のデメトリウスが西方へと送られてきた。彼は軍司令官の職を帯びていたようであったが、我々は彼がマクシミヌスの命令下で行動していることを見て取る。彼はシチリアへと真っ直ぐに航行してそこでいかにナポリが食料不足で苦しんでいるのかを知り、即座に救援を送る準備をした。彼は少数の兵士だけでなく、シチリアの港で見つけることができた限り多くの艦船を集め、それらに物資を載せれば敵はこれらが大軍を積んでいると信じるだろうと期待して出航した。もしこの大胆な計画が遂行されればゴート軍はナポリを撤退して市は救い出されていたと考えられる。しかし目的地に到着する前にデメトリウスは計画を修正してローマから何らかの援軍が得られるのではないかと期待してポルトゥスへと向かった。しかしローマ軍の守備隊は臆病風に吹かれ、危険に満ちているように見えた作戦には参加しなかった。そこでデメトリウスはナポリの入江へと航行した。一方トティラはそれらの事実を完全に知っていて、彼らが浜へと近づいていた時にはトティラが有していた多くの軍船は輸送船攻撃の準備万端の状態であった。ほとんどの乗組員が殺されるか捕えられるかし、デメトリウスは小舟で逃げおおせた少数の者の一人に成り下がった。
 もう一つのナポリ救出の試みはもう一つの失敗であった。マクシミヌスと彼に同行していた軍は結局のところエピルスを発ってシラクサに到着した。救援を求めるコノンの執拗な手紙に突き動かされ、今や真冬であったにもかかわらず彼はナポリにその軍を送ることに同意し、シチリアへの帰路にあったデメトリウスは二度目の作戦に参加した。それはナポリ湾に無事到着したが、そこで大嵐が起こってゴート軍の野営地近くの陸まで船は流された。乗組員は易々と殺されるなり捕えられるなりし、デメトリウスはトティラの手に落ちた。
 ナポリ人は飢えており、トティラは寛大な条件を提示した。「降伏せよ」彼は言った。「そして私はコノンと彼の全兵士に安全に退去し、全財産を持っていくことを許すつもりだ」助けが来るという希望をまだ持っていたコノンは三〇日目にその条件で降伏すると約束した。さらなる救出の機会はないと確信していたため、トティラは答えた。「私は貴下に三ヶ月を与えるし、その間に市を落とそうとはしない」しかし条件が満期になる前に憔悴した守備隊と市民は希望を捨てて門を開いた(五四三年四月ないし五月)。
 この時のトティラは歴史家プロコピウスが述べるところでは敵なり蛮族からは予想だにしなかったかなりの人道性を示した。すぐに豊富な食料が与えられれば、飢えた住民たちは暴食のあまり死んでしまうことを彼は知っていた。彼は門と港に見張りを付けて何人たりとも市を離れることを許さなかった。次いで彼は少ない量の配給をし、人々が力を回復するまで毎日徐々にその量を増やした。降伏の条件は誠実と言える以上に遵守された。コノンと彼の部下たちはローマへと航行することを決め、ゴート軍が彼らに提供した船に乗り込むと向かい風の邪魔を受けたが、トティラは馬、食料、道案内を提供して彼らは陸路で向かった。
 ナポリの要塞は部分的に破壊された。




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