一四節 スペイン南部の征服

 治世の初期のユスティニアヌスがスペイン征服のために一定の計画を立てたかどうかについては何とも言えないが、それも彼の野望の一つであり、もしウィティギスの死がイタリアの回復を即座にもたらしたならば彼は東ゴート族に対して勝ち誇れる軍勢を差し向ける値打ちがあるものを探したことだろうと我々は確信できよう。しかし彼は東ゴート族の平定を完了する前にスペインへの介入を求められ、イタリアでの戦争の解決がまだ確実なものとは程遠かったにもかかわらずこの機を活かすことを躊躇しなかった。
 孫のアマラリックが幼い頃には西ゴート王国の摂政だったテオデリックは有能な将軍テウディスに事を任せ、テオデリックの死と摂政政治の終わりの後にはテウディスは有徳な支配者であり続けた。父の資質も祖父の資質も持たない若い王はフランクの王女と結婚し、この混血の結婚はそれが不運な結婚であることを証明することとなった。彼女がアリウス派信仰を持つのを拒んだためにアマラリックが彼女を乱暴に扱ったため、彼女に助けを求められた彼女の兄弟の王キルデベルトはナルボンヌへと攻め込んだ。アマラリックは彼のガリア領を守るべく出撃して戦いで敗れ、それから軍の反乱で殺された(五三一年)。王位はテウディスの手に落ちて彼は十七年間統治し、短い合間の統治の後にアギラが王位を継承した(五四九年)。しかしアギラは人々からあまねく受け入れられたわけではなく、内戦が勃発して五年間の戦いの後に対抗者アタナギルドに破れ、彼が王位に上った(五五四年)。
 この戦いでアタナギルドは皇帝の支援を求め、皇帝はスペイン南岸へと艦隊を送った。この遠征軍の司令官は八〇代のパトリキウスで、覚えてもらっていることだろうが、トティラに対するシチリア防衛のために送られ、より経験豊富な将軍がその地位に取って代わるべく送られる前に辛うじて島に到達したリベリウスだった。彼は五五一年の後半までにはコンスタンティノープルへは戻っていなかったようであり、彼は五五〇年に彼と共にシチリアへと向かった兵を連れて直接スペインに航行する命を受け取ったのかもしれない。それというのも彼の遠征の日にちはこの年より後ではあり得なかったからだ。小勢であったに違いないその軍勢は目覚ましい成功を得た。多くの沿海の都市と砦が占領された。それらは公然とアタナギルドの権威の下で占領されたが、アタナギルドの主張が〔アギラに対して〕勝利を得た時に皇帝派はそれらを引き渡すのを拒み、西ゴート族は彼らに強制することができなかった。アタナギルドは僅かな土地を取り戻したが、リベリウスはおよそ七〇年間コンスタンティノープルの支配に留まり続けることになる帝国領バエティカ属州を設置した。この政権の変化がヒスパニア系ローマ人によって歓迎されたことは疑いようがない。
 我々はこのスペインの属州の程度については実に僅かな詳細しか知らない。その属州はガデス海峡の西側並びに東側の地域と町を包含していた。その属州は新カルタゴ、コルドバ、そしてアッシオニアといった諸都市を含んでおり、ヒスパリスがどの時代に含まれていたのか我々には分からない。そこは軍司令官級の軍事統治者の下に置かれていたが、彼がアフリカの支配者から独立していたのかそれとも従属していたのか、我々には分からない。
 この時代のイタリアでのユスティニアヌスの軍の運命を物語ったプロコピウスとアガティアスという二人のよく知られた歴史家がローマ人の支配のこの遙か西方への拡大に付随的な言及すらしていないことは興味深い。しかしアガティアスは歴史家であるのと同じくらいに詩人であり、いかにしてユスティニアヌスが彼の帝国によって世界を取り囲んだかを述べる詩句で『歴史』の中で沈黙したこの征服を述べている。曰く、ローマ人の旅人よ、青き西方の海へのヘラクレスの歩みに続き、ヒスパニアの土で休め、これでもなおかの者は賢き皇帝の支配地の境界の中にいることだろう、と。




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