一三節 イタリアの安定

 そうこうするうちにナルセスはイタリア統治の遂行と諸州の生活と長い戦争で酷い被害を受けた諸都市を再建するという仕事を命じられ、それにあたることになった。形式上は軍事官職にありはしたものの、彼は総督として振る舞い、軍及び民政役人のうちでも最上位にあった。彼は自らの傍らに民政の長として長官のアンティオクスを置いたが、アンティオコスの称号は道長官ではなく、ただ単にイタリア長官であったことは明らかである。
 再組織化の一般方針は皇帝によって定められ、彼は五五四年八月にナルセスとアンティオクスに宛てた法律を勅令として記述した。イタリア人にとって最も重要だったのは帝国政府がゴート族支配者による措置、とりわけ財産についてのことをどれだけ承認するのかをすぐに知ることだった。この法は、帝国法の今後の立法は帝国の他の地方と同様にイタリアにも適用されるべしと定めた。アタラリック、アマラスンタ、そしてテオダハドによって個人や団体に承認された全てのことは有効であるが、僭主トティラによって承認された全てのことは無効とされた。戦争中に包囲された町でローマ人との間でなされた全ての取り決めは有効であり続けた。多くの場合、戦争とフランク族の侵攻の間に人々は故郷を追われ、彼らの財産は他の者に押収されていた。彼らの財産は返還されなければならないとも立法された。ローマの公的な建物を修繕し、ティベル川の川底をさらい、水道を修繕するのために資金を割り当てる昔の規定は全て認められ、昔通りの食料配給がローマの人々になされた。地方統治者に関する目覚ましい革新がなされた。彼らはもはや上から任命されず、それぞれの地方で主教と有力者によって現地の住民の中から選ばれるようになった。この変化はその支持如何においていくらかの議論があっただろうが、明らかに大土地所有者の利害が考慮され、地方の権力を増したに違いない。他の規定のうちで我々は帝国での必要事と両立すると思われる限りで納税義務を免除するという望みを見て取る。
 属州の境界と公僕の一般的体系は戦前のままになった。しかしシケリアはイタリアに含まれなかったということが見受けられる。そこはラヴェンナの帝国権力とそこの法廷とは独立した現地の法務官の下に置かれ続けられ、訴えはコンスタンティノープルの聖宮〔コンスタンティノープルにある大宮殿〕の財務官になされた。サルディニアとコルシカはアフリカ総督の下に置かれた。
 ナルセスはフランクの侵略軍の撃破の後一三年間イタリアを統治し、再建の仕事を主導した。ローマの城壁と門は再建され、当時の少ない記念碑の一つがサラリア街道の〔ローマ〕市までおよそ二マイルのところにあり、ゴート軍に破壊されたアニオ川に架かる橋の再建を記録している。このパトリキウスが処理のために呼ばれた最も困難な案件は五五三年のコンスタンティノープルでの公会議で起こった教会に関わる論争での危機かもしれない。会議の状況は他の章で述べることにしたい。意に反してその決定に署名させられた教皇ウィギリウスは五五五年七月七日にローマへの帰路で死に、彼の助祭長のペラギウスが皇帝の賛同の下で四月一三日に後継者に承認された。ペラギウスはイタリアでは不人気で、何らかの仕方でウィギリウスの死因を作ったと疑われていたため、彼に賛同する意志を見せたのはイタリアの僅か二人の主教だけだった。ナルセスは聖ペテロの儀式に出席し、ペラギウスが福音書を手に持って自分は無罪だと誓った。彼の誓いは人々の感情を和らげたが、彼がもし自分の思うとおりにしていればイタリアの教会で危機的な分裂をすぐに起こしていたことだろう。とりわけ北イタリアで主教たちの意見は最近の会議の決定と対立していた一方で、新たな教皇はそれらを強制し、それを受け入れるのを拒んだ者たちを聖職から追放することを決定した。彼は反抗的な主教たちに世俗の力を行使するようナルセスに要望、否むしろ要求する手紙を繰り返し書いた。ナルセスは賢明にも何をするにも丁寧に断り、平和を慮った帝国政府は会議の破門を保留する政策を採用し、論争がもたらす不和を癒す時間を用意した。我々が恐らくナルセスの忠告に帰するであろうこの非凡な中庸は成功した。もし問題解決が教皇次第となっていれば、和合と平和が無条件に必要だったこの時にイタリアの教会は二つに引き裂かれていただろう。
 沼地の人目につかない都市〔ラヴェンナ〕がユスティニアヌスと彼の後継者たちの下、イタリアが八世紀に帝国から失われるまでイタリア統治機構の所在地であり続けた。皇后プラキディアはそこを芸術の宝物庫とするにあたって惜しみなく資金を投じ、蛮族王テオデリックは彼女の例に倣った。軍による奪回の後、これを評判だけで知っていたユスティニアヌスとテオドラはラヴェンナの芸術運動に彼らの名を結びつけようと熱望した。
 アマラスンタの摂政政治の下でプラキディアの霊廟近くにある聖ウィタリスの八角形の教会の建設が計画されて建設が始まり、建設工事は戦争の間にもおそらく東ゴート族自身によって続けられた。しかしそれを彼ら自身の帝国の復活の記念碑に位置づけたユスティニアヌスとテオドラの後援の下でそれは完成されて装飾された。それは皇后が死ぬ前年の五四七年に大主教マクシミアヌスによって奉納され、後陣のモザイク装飾の最も目立つ画像は互いに対面して教会に贈り物を差し出す二人の支配者の画像だった。しかしそれは彼らが聖ウィタリスを流用した肖像だけではなかった。ユスティニアヌスはその描かれた聖書の諸場面の構図の中に自分の皇后を入れた。ラヴェンナの他の教会でのように、それらはただ単純に聖なる歴史を描こうと意図されたわけではない。その動機は神学的なもので、彼らはおそらく世界を揺るがした問題への正統派のキリストの二つの性質〔人としての性質と、神としての性質。その神学的な動機とやらはキリストに人としての性質しか認めない単性論への対抗である。〕を認める見解の理論を教え込もうと計画していた。結果は芳しかったが、それらのモザイク画はプラキディアの墓所の教会を飾る魅力を持つにはほど遠かった。
 戦時中にゴート族によって建設が始められて彼らの征服者にその完成の任が残された教会がもう一つあり、市内ではなくクラッシスの港にあったこの教会は二年後(五四九年)に聖アポリナリスに捧げられた。しかしこのバシリカの多くのモザイク画は後になって制作されたもので、その中にはユスティニアヌスの死の一〇〇年後に帝位に登った皇帝の肖像画がある。
 テオデリックによる聖マルティヌスのバシリカの装飾はユスティニアヌスの下で完成され、皇帝の上半身のモザイク表現が正面に置かれたが、後に屋内の礼拝堂に移動され、これは今もなお見ることができる。彼の時代にその教会はまだ聖マルティヌスのものであり、九世紀までにはラヴェンナの守護聖人であったりアポリナリスの遺物を受け取り、彼の名へと再び奉納された。
 後にアドリア海の女王となった島の都市〔ヴェネツィアを指す〕はまだ建設されていなかった。しかしユスティニアヌスの世のずっと前にヴェネツィア本土の住民がアラリックとアッティラの侵略の危機から逃れられる安全な退却先としてマラモッコとリアルトといった潟の島に住み着いたというのはありうる話である。我々は、ゴート族支配の下でこの人々はこの沿岸地方で数多くの船を持ち、イストリアからラヴェンナへのワインと油の運送業に従事していたことを見て取る。大臣のカシオドルスは真に迫った文書記述の中でこの任を遂行するよう彼らに呼びかけ、海鳥のようだと言っている。しかし西ゴート族とフン族の危機が潟の都市の興隆への道を準備したものの、ランゴバルド族がその土地に降りてた時にヴェネツィアの基礎として述べられるのが適切であろうその島々に大規模且つ永続的な移住がなされるまで、ユスティニアヌスの死後三年もかからなかった。




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