一二節 フランク族・アラニ族の侵攻(五五三-五五四年)、カプアの戦い

 テイアスの盾は彼の民の破滅を避ける役に立たなかった。彼は最後の王となった。東ゴート王国はラクタリウス山での死闘をもって消滅した。しかしなおも戦いは起こった。この大敗はゴート族の守備隊の手に未だ掌握されていた要塞の即座の引き渡しをもたらさなかった。それはクマエであり、ケントゥムケラエであり、トスカナの、ポー川の向こうの北イタリアの多くの町であった。ナルセスは彼の前にある精力的な軍事的な仕事をより一層行った。彼は続く夏までに地域の制圧を完了させようと望んでいたのであろうが、彼の計画はその場面への新たな、そしてより野蛮な敵の出現によって頓挫させられた。
 テイアスはフランク族の支援を呼びかけていた。彼の使節団の請願に対する若きテオデバルド王の回答は好意的なものだった。フランク族には東ゴート族のための戦争へと乗り込む気はさらさらなく、彼らは自分たちのためにイタリアを欲しがってはいたが、当面の最善の施策は中立だと判断していた。しかし中立はあくまで公式なものでしかなかった。彼ら配下のアラマンニ族の二人の首長、レウタリスとブケリンの兄弟はイタリア侵攻計画を練った。テオデバルドは表向きはこの侵略行動に賛同してはいなかったが、それに待ったをかけようとはしなかった。この二人の冒険者はその中にはフランク人並びにアラマンニ人が含まれていた七五〇〇〇人の大軍を集め、ナルセスの軍事的能力について彼が宦官であり侍従であったためにこれ以上ないほどの軽蔑を公言しており、彼を打倒できるはずだという自信を持って五五三年の春にイタリアへと降りてきた。
 ナルセスはクマエの包囲に冬の数ヶ月を費やしたが、アリゲルンと小さな砦は頑強に持ち堪えた。攻撃と工夫の全てが失敗に終わると、彼は包囲のための小部隊を残してイタリア中部へと進み、そこでゴート軍の諸守備隊にはすでに協定を結ぶ準備があったことに気付いた。ケントゥムケラエは投降し、フロレンティア、ウォルテラエ、ピサそしてルーナといったトスカナの町々も同様だった。ルッカだけが延期の駆け引きをした。三〇日以内に救援が来ない場合には降伏が約束され、人質が差し出された。ルッカのゴート軍が当て込んでいた救援とはアルプスをすでに越えていたフランク族の到来であった。ナルセスの北進を決定づけたのはおそらく彼らの侵攻の緊急性であり、彼はヨハネスとウァレリアヌスの指揮下の軍の大部分をポー川の道を守るべく送り出した。
 三〇日が経過すると、ルッカの守備隊は合意の遵守を拒んだ。彼の将官の一部はこの信義を踏みにじった行為への義憤から人質の処刑を主張した。ナルセスはゴート人ではなかった。彼は罪もない人たちを処刑するという不正義に手を染めようとはしなかった。しかし彼は彼らを後ろ手に縛って頭を垂れさせて城壁から見えるところに行かせ、市が降伏しなければ彼らは殺されると宣言した。布切れを巻かれた細い木片が首から胴まで人質の背中に固定され、守備隊が投降の兆しを見せないでいると、見張りが歩を進めて剣を抜き、きちんと防護された首に剣を振り降ろした。無事だった犠牲者たちはあたかも首を刎ねられたかのように感じ、彼らの体は虐げられて死んだかのように歪んだ。人質は最も高貴な家柄に属する人たちだったために城壁から眺めていた者たちは唸り声を上げて泣きわめいた。母親と婚約中の花嫁たちは衣服を引き裂いて胸壁沿いに駆け寄った。ナルセスの血に飢えた残虐さの不面目ぶりに皆が涙した。
 ナルセスは彼らに宛てて使者を送った。「お前たちにこそ責任がある」と。そして彼は言った。「これは誓約をお前たちが恥知らずにも反故にしたためだ。しかしもしお前たちが自分たちのしでかしたことを今悟りさえすれば、それはお前たちにとって結構なことになるだろう。そうする者は再び元の暮らしに戻れるし、お前たちは危害を加えられない」。ゴート族は彼が彼を騙そうとしているのかを疑うことなく、彼が生きている人質を見せるならば、自分たちはすぐにでも降伏すると快く誓った。将軍の命令で全ての遺体が立ち上がって自分たちが無事で健在であることを不振と喜びの間で分かれていた友人たちに示した。しかし疑念が破れ、ナルセスは計算され尽くした寛大さでもって捕虜を解放し、無条件で町の人々のもとへと帰るのを許した。彼らは彼を声高に讃えながら戻ってきたが、ルッカは降伏しなかった。フランク族の快進撃による新しい希望で得意になったゴート族の眼には宣誓と真摯な約束は取るに足らないものと映った。
 ブケリンと彼のアラマンニ軍はパルマを手中に収め、勇敢だが向こう見ずな指揮官の下で奪回を試みたヘルリ族部隊を粉砕した。リグリアとアエミリアの両州のゴート軍は侵略者に対して再集結し、この軍は恐らくティキヌムそのもので指揮を執られていた。ナルセスは自身がルッカの包囲に取り組んでいる間にエトルリアで食い止めてくれるだろうと当てにしていたヨハネスとウァレリアヌスはファウェンティアへと退却していた。しかしルッカを彼は落とそうと決意しており、厳しい包囲を実行した。もしフランクの将官たちが町に乗り込んできて防衛の強化に成功していなければ、そこはすぐに降伏していたことだろう。しかしついに多数派の意志が勝つに至ってルッカ人は門を開き、真義を踏みにじった彼らを罰さないことに同意したナルセスの軍を受け入れた。
 包囲は三ヶ月に及んでおり、その時には秋の終わりになっていた。ナルセスは越冬に向けた部隊再編のためにラウェンナへと向かい、丁度この時、今まで持ち堪えていたクマエのゴート軍司令官アリゲルンがクラッシスに到着して町の鍵を渡し、アリゲルンは、フランク族には東ゴート族の勢力を回復させる意図などなく、彼らのイタリアの征服がうまくいこうがいくまいが関係なくその出来事にあっては自分がテイアスの王位を受け継ぐ機会はこれ以上ないほどに小さくなっていると結論付けていたのだ。したがって彼はもはや抵抗をやめて帝国の臣下になろうと決断した。
 ナルセスはローマで冬を過ごし、冬の間ラウェンナ地方に砦や町に分散していた彼の軍は春(五五四年)に集まってローマで再集結した。エトルリアとアドリア海沿岸諸州を敵に委ねることを意味する彼のこの撤退の理由は分からない。彼は強力な諸砦の守備隊には信を置いていたが、開けた地方と城壁のない町は侵略者の慈悲に委ねられた。
 ブケリンとレウタリスの大軍は略奪と破壊を繰り返しながら急ぐことなく南進した。ローマに着くと彼らは軍を二手に分け、そのうちブケリンの率いるより大きい方はローマそのものを避けてカンパニア、ルカニア、そしてブルッティイを通ってメッサナ海峡まで足を伸ばし、一方レウタリスは他方の軍勢をアプリアとカラブリアを経由してヒュドルントゥムあたりまで進めた。それらの州は念入りな略奪を受け、大量の戦利品が集められた。この略奪の作業と破壊活動ではフランク族とアラマンニ族部隊の間で違いが見られた。カトリックのキリスト教徒フランク族だったは教会への尊重を示したが、異教徒のアラマンニ族は教会の食器を運び去って聖なる建物の屋根を打ち壊すにあたって良心の咎めを受けなかった。
 カラブリアの境界に至ると、レウタリスは戦利品を山ほど積み、それらを楽しむべく帰国しようと決めた。彼には政治的野心はなく、彼のただ一つの考えは富を持って無事戻り、これ以上の危険を冒さないことだった。彼は岸沿いにファヌムあたりまで進んだが、ピサウルムのローマ軍守備隊の攻撃で兵に大損害を受けて戦利品の大部分を失った。沿岸を去ると彼はアペニン山脈に突き当たり、無事だが意気消沈してポー川に到着した。ケネタのヴェネツィア人の町で彼は兵を休ませていたところ、毒性の強い疫病が軍を襲ってレウタリス自身も犠牲になった。
 彼の兄弟ブケリンはより積極的で野心的だった。彼はゴート族に対しては彼らの王国の再興が自分の目的だと喧伝し、彼らの多くは疑うことなく南下中の彼の軍に味方した。彼は彼らの阿諛追従に影響され、もしナルセスをイタリアから追い出してくれれば彼を王と宣言するとゴート族は言った。そして彼は軍と一緒に最終的にこれまで避けようとしていた戦いのあらゆる危険を甘受するよう説き伏せられた。
 彼はカンパニアへと戻り、カシリヌムとカプアに近く、それらの数マイルのところにあるウルトゥルヌス川岸に野営した。カシリヌムは現在のカプアであり、昔のカプアは今日のサンタ・マリーア・カープア・ヴェーテレ村である。その川は一方の側で彼の野営地の防壁となり、他方の側に彼はしっかりと防備を施した。ヴェネツィアに到着した時に兵を送り返すと兄弟が約束していたため、彼は自軍はすぐに補強されるだろうという希望を幾分か持っていた。ブケリンがカプアのこの場所を占拠していると知るやすぐにナルセスはおよそ一八〇〇〇人の軍を率いてローマから進軍し、敵からほど遠からぬところに野営した。続いて起こった戦いはおそらくカプアを突っ切ってカシリヌムでその川を渡るアッピア街道を横切る形で戦われた。  戦いの経過は偶発的事件の影響を受けた。ヘルリ族の隊長の一人が家来を幾分かの怠慢のために殺したためにナルセスは彼を説明のために召喚し、ナルセスは主人には奴隷を生かすか死すか好きにする権力があり、彼は同じことを再びすることになるだろうと主張した。彼はナルセスの命で殺されてこれがヘルリ族を大いに憤らせ、彼らは野営地から脱走して自分たちは戦うつもりはないと述べた。ナルセスは彼ら抜きで戦列を組んだ。彼は騎兵部隊を両翼に、歩兵部隊の全てを中央に配置した。左翼あたりには林があり、その部隊を率いていたウァレリアヌスとアルタバネスは敵が攻撃をかけてくるまで林に兵の一部を隠すよう命じられた。ナルセスその人は右翼を指揮した。ヘルリ族部隊の指揮官で、戦意に燃えていたシンドゥアルは、自分が仲間を説得できるまで持ち場を取っておいて待ってくれるようナルセスに嘆願し、もし彼らが後に到着すれば彼らはそこに布陣することになった。したがって彼は歩兵部隊の真ん中に空き地を残しておいた。
 他方、二人のヘルリ人が敵に寝返り、ローマ軍はヘルリ族部隊の離脱に仰天しているから攻撃をかけるならばすぐにすべきだとブケリンを説き伏せた。ブケリンは全てが歩兵で構成されていた軍勢を、敵の戦列を楔のように突破する深い縦隊で出撃させた。この陣立てでフランク軍は投槍、剣、そして斧で武装し、最初の突撃で彼らの面前の者全てを一掃できるだろうという自信を持つに至った。彼らはヘルリ族によって占められたはずだった中央の空間を突破し、両側のローマ歩兵の外側の隊列を蹴散らした。ナルセスは両翼に彼らに向き直るよう命令を速やかに下し、敵はその全員が弓で武装していた騎兵の十字砲火を受けた。フランク軍は今や挟み撃ちに遭うに至った。右翼の弓兵は左翼側の歩兵と戦っていた者の背中を狙い、左翼の弓兵は右翼側と戦っていた者の背中を狙った。夷狄たちは何が起こっているのか分からなかった。彼らは自分たちが白兵戦を戦っている相手しか見ていなかったが、遙か背後から背中に矢の雨を降らせている敵が見えなかった。彼らの隊列は徐々に刈り取られていき、それからシンドゥアルと彼のヘルリ族部隊がその場に姿を現した。フランク軍の敗北はすでに確実であり、今や全滅に瀕していた。ブケリンは戦死しており、一掴みの者だけが激戦の戦場から逃げ延びた。ローマ軍の損害は僅かだった。ナルセスがトティラとの戦いで取ったのに似た作戦計画によってこの三度目の勝利を得たことに気付かれよう。
 イタリア人たちは北方の夷狄の野蛮な振る舞いに震え上がっており、彼らの全滅の知らせに狂喜した。ナルセスと思慮深い人たちはカプアの見事な勝利でその先の危機を晴らしたことになるとはほとんど期待していなかった。彼らは川岸にまき散らされたりウルトゥルヌス川を流された敵の死体はフランク族の人々のごく一部の者と彼らの手下であり、彼らのたどった運命は彼らを威嚇するよりはむしろ刺激することになるだろうと省みた。彼らは死者の復讐を行ってゲルマン族の威信を取り戻すべくさらなる大軍がすぐにやってくるだろうと予期した。テオデベルトがまだ生きていればそうなっていただろうが、彼らの危惧は現実のものとはならなかった。彼の弱々しい息子で、生まれつき病を患っていたテオデバルドは翌日に死んだ。ナルセスは平和の下でイタリアの安定化を完遂できるようになった。
 カプアの戦いに続く冬はアペニン山脈沿いの強固な地で、ラグナリス指導の下で七〇〇〇人のゴート軍が踏ん張っていたカンプサの包囲に費やされ、騙された彼はタレントゥムで残首された。カンプサはコンツァと同定され、ナポリからおよそ五〇マイルのところにある。その地は攻撃に抵抗してナルセスは封鎖線を敷いたが、大量の物資の蓄えがあった春(五五五年)の初めにラグナリスは自分たちは会談して協定を話し合うすべきだとナルセスに提案した。ナルセスは彼の提案に同意するのを拒んだが、激しい怒りは捨てた。ラグナリスが砦の城壁に近づいてその周りを回ると、隊列に戻りつつあった将軍に弓を構えて矢が狙い撃ちした。的を外しはしたが、ナルセスに同行していた護衛の一人がより確実に狙い、裏切り者のゴート人を貫いた。彼が死ぬや守備隊はすぐに降伏し、コンスタンティノープルに送られた。
 ポー川以南の全イタリアは今や帝国勢力に復帰した。ゴート軍とフランク軍が未だ手中に収めていたトランスパダナ属州の平定についての記録は我々に残されていない。それはゆっくりした仕事であり、ヴェローナとブリクシアは五六二年までに取り戻された。その年の一一月にナルセスはそれらの鍵をユスティニアヌスに送った。




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